作家でごはん!鍛練場
跳ね馬

最期の壁

「やっと終わった」

 市役所を出た時、サトミの口から塊のようなため息がこぼれた。入口に繋がるスロープの手すりに腰を預け、茜色が滲んでいく空を眺めながら、彼女は宙に薄れていくその言葉の意味を考える。それが離婚に要した手間を労うものではなく、西原サトミという物語に付けられた句読点みたいなものだと感じた時、自分はからっぽなんだと気づいた。
 それは新しい扉を開き、閉めて鍵をかけ、また次の扉を探しに行く……そういった、およそ普遍的な人生の節目ではなかった。まるで沖に流されたイカダみたいに、漂う孤独が、途方のない絶望感を引き寄せる。
 同時に、もう一つの気づきも──。
 ああ、自らの命を断つ人は、こうやって死んでいくのかもしれない。

 性が吉田から西原に戻ったサトミは、ぼんやりと路地を歩いた。いつも人気の無いスポーツ用品店、不幸とは無縁と盲信する学生が談笑する駅前、テナントの見つからない潰れたデパート……。
 結婚から6年暮らしたこの町には、何の新鮮さもなかった。それでいて、こうして興味と目的を持たずに眺める風景は、これまでとは違って見えた。ねずみ色が剥げた建物の壁、落ち葉の上で仰向けになったままの小虫、車道脇に転がる猫の死体……。視点が異なったのは、生きる場所が変わるからだと思わざるを得なかった。
 心がくたびれた人間は抜け殻になると耳にしていた彼女だが、その表現は自分には当てはめられなかった。魔法が切れたんだ、と小声で呟いては、すれ違った母子の背中にまぶたを下げ、確かな結論に打ちひしがれる──。
 やはり私は、そっちの世界では生きられなかった。

 川沿いの並木道を、サトミはとぼとぼと歩いていく。石畳にひっついた紅葉をつま先で剥がし、ぐちゃぐちゃにこする。何となく購入した出店のたこ焼きを、橋の手すりに肘をつきながら、機械のように口に運んだ。
 昨夜雨に晒された川は、あらゆるものを運んでいた。空のペットボトル、発泡スチロールの欠片、色を失くした落ち葉……ゆらゆらと水面にいざなわれていく一枚一枚を眺めながら、手のひらを下に向ける。中高と緑化委員だった彼女だが、たこ焼きの空箱を落ち葉に添えることに一抹の躊躇もなかった。
 ランドセルを背負った子どもたちが後ろを駆け抜けていく。鬼ごっこにでも興じるその背中に、サトミは自身のあの頃を重ねた。
 いつからだろうか、終わりが待ち遠しくなったのは。お皿洗い、義務教育、アルバイトに事務員の仕事、そして結婚生活……。
 どこか名残惜しい気持ちに駆られて、サトミはもう一度川を覗き込んだ。空箱はもう見えないところに流されている。そうだ、と彼女はひらめく。たこ焼きの容器と同じだ。"私も、からっぽになったきっかけがあるはずだ"。
 死ぬのはそれからでも遅くない、いや、それを知ってからでないと、"私は正しく死ねない気がする"。プカプカと浮かんだ死体が発見され、西原サトミ28歳と報じられるよりも、誰にも知られず、気づかれることのない深い深いところへ沈んでいくためには。
 サトミは深呼吸を繰り返した後、スマホの電話帳を開いた。「ま」の欄に唯一記入されたその名前を、すがるようにタップする。これは救難信号だ。繋がらなかったら、ブクブクに水ぶくれした体で化けて出てやる、と。
 待ち遠しかった男の声は、3コール目で聞こえてきた。
「おう」
 馴染みある声に安堵と懐かしさを覚えながら、サトミも昔の口調に戻る。
「生きてたか、犯罪者」
「今のところはな。なんか用か?」
「10年ぶりに電話してきた幼なじみに、なんか用かってひどくない?」
「困ってんのか?」
「違う世界を見てみたい」
 男は呆れたように、それでいてどこか待ち侘びていたかのように吹き出してから、こう言った。
「ようこそ、こちらの世界へ」


 ヒロヤの言葉に、サトミの虚ろな胸中で一粒の光が生まれたのを、私は見つけた。


──────────


 サトミがヒロヤとコンタクトをとったところで、私は『Another』の映像を停止し、支度を整えた。最近は毎朝彼らの様子を見届けるのが日課となっている。その動機に気づくのは、もう少し先のことになるのだが。
 私は西原サトミという女にひどく興味を抱いていた。自宅マンションを出て、無人タクシーの後部座席に腰を沈めた後も、ずっと彼女のことを考えていた。吉田サトミには一つの好感も持てなかったのは、きっと、彼女がまた自分を取り戻すために奔走するだろうと分かっていたからだ。
 大学が見えてくると、私は頭のスイッチを切り替えた。高々としたロートアイアン調の校門を抜けた時には、いたわりとかいつくしみというものを、可能な限り排除していた。
 人気の無い敷地内はまさに西欧式庭園だ。揃えられた芝、幾何形体にカットされた植物、芽の出始めた桜の木々、歪み一つない石畳み……どれも整然として、どれも無機質に見える。噴水のロータリーを回って赤レンガの校舎前に着くと、私は助手席の後ろに設置された支払いパネルに指を当て、タクシーを降りた。
 学内唯一の建物は相変わらずこじんまりとしていた。暖炉の中にでもいるかのような味気ないロビーで、マニュアルの化粧と身だしなみに固められたスーツ姿の受付嬢が、憎らしさすら覚えるいつもの愛嬌で出迎えてくれた。指紋と網膜認証、IDと14桁の学籍番号を告げた私は、持参した白衣を着てエレベーターに乗り込んだ。

 建築技術と耐震ガラスの進化と共に、地下施設はその内装を目まぐるしく変えていった。金属板に遮られるタコ部屋だったシェルターは、今では21世紀初頭のショッピングモールのような透明性と絢爛さを備え、ガラス張りのエレベーターからは施設のありさまが見渡せた。栽培・畜産フロアでは機械がせっせと麦を刈り乳を絞り、飲食・娯楽フロアでは、談笑に花を咲かせたりスカッシュで汗をかく学生たちがいた。
 居住フロアを占めるB12階で、サイモンが合流した。よれよれの白衣をまとい、鍛えられた胸板がワイシャツの上ボタンを開け、取ってつけたような紺色ネクタイはだらんと垂れている。前髪を立てた短い金髪から目立つ細い眉と、きりりとした一重の碧眼が、強気な性格を如実に示している。
 サイモンは歯並びの良さを見せつける笑顔と、くだけた言い回しで挨拶をしてきた。
「今日は遅刻しなかったんだな、お姫様。地上でまた核戦争でもおっ始まったのか?」
「そろそろ桜が咲きそうよ」と私は目を合わさずに答えた。
「桜ねえ……どこぞの島国ではあんなもん眺めて酒でも飲むのが文化だったらしいが、地下育ちの俺にはさっぱり理解できんね」
「そう」
「キミも相当変わってるよな。今時地上暮らしなんて」
「あいにく私の祖先にモグラはいないの」
「モグラの習性って、いまだに謎らしいぜ。クソどうでもいいけど」
「あなたと同様ね」

 様々な学部の研究室が並ぶB17階は、一昔前のホテルのような内装だ。壁床は白を基調としたモダンクラシックな造りで統一され、通路には赤の絨毯が隙間なく敷かれている。
 サイモンが気だるそうに口を開いた。
「この階も上と同じムービングウォークにしてほしいもんだな。かったるいし、何より前時代的だ。白は創造を促し、赤は活力を生み出すって話だが、その程度の心理効果に左右されるのはもっと低劣な遺伝子に限られると思わないか、お姫様?」
「筋力トレーニングは欠かさないのに、歩くのは苦手なのね」
「目的と手段の話さ。キミだって美術館から展示をお願いされそうなその美しいスタイルは維持したいけど、デートに汗だくで歩かされるのは御免被りたいだろ?」
 適当に答えていると研究室が見えてきた。入室の前に扉脇の認証機械で本人確認を行う。前を歩いていたサイモンが、ボウ・アンド・スクレープで順番を譲ってくれた。
 室内はそれぞれの管理者の趣味嗜好が反映されがちだが、私たちの研究室は比較的まともな部屋だ。スカッシュもできる程の広さの床にはグレーのカーペットが敷き詰められ、窓のない壁には中身の埋まった本棚がびっしりと並んでいる。奥にはワインレッド色をしたアンティーク調の教授の机があり、少し間隔を開けたところに、足を伸ばせる黒革のパーソナルチェアが3台置かれている。
 その1台に座っていた男が、ウェーブがかったミディアムの黒髪を耳にかけながら挨拶した。
「おはよう。キミが遅刻しないなんて珍しいね」
 南米出身のモタは学内でも有名な美男子だ。整った白衣姿や中性的な二重のタレ目、幼さを感じさせる褐色の顔立ちにときめく異性も少なくない。声も男性にしては高く、小柄でなよなよとして映るが、陸上競技ではいくつもの記録を持っている。粗雑で差別的なサイモンとも上手に付き合う柔軟性を備えながら、物怖じしない言動もしばしば見られる。
 掲げた腕をぶつけるお決まりの挨拶をした二人は、世間話から今日の話題へと移した。
「緊張してるか、モタ?」
「いいや。サイモンも相変わらずみたいだね」
「なんというか、実感わかねえんだよな。俺からすればこの研究室に入れた時点で満足っつーか」
「僕も気楽にやらせてもらうよ。といっても試験内容が不明だから、まだ身が入ってないだけなんだけど」
「毎年違うらしいから、まったく想像つかんね。それでなくてもあのじいさんは掴みどころがないからな」
 モタは本棚に目を向けながら言った。
「教授の嗜好からすると、文学性のある内容になりそうだけど」
 ハッ、とサイモンはバカにしたように片手を上げた。
「俺は文学性ってのが嫌いなんだよな。そんなの結局、前時代的な個人の感性だろ? てめえの気に入ったものを称賛するだけのために、大層な言葉をあてがうなって話よ。年寄りだから仕方ないんだろうが、あの人のそういうところは前から理解できねえな」
「サイモンは完全な理系だもんね。でもそういう愚痴は他で言ってくれない? 監視でもされてたら僕らの心証まで悪くなる」
「へいへい、失礼しやしたよ」
 男たちの他愛のない会話を聞いていると、唐突にチェア前方の空白が波打ち始めた。歪みはまもなく長方形の画面へと広がり、映像の鮮明と共に、ネクタイをきちんと締めた白衣姿の男が映った。
「ご機嫌いかがかな、諸君」
 銀がかった白髪をオールバックに整えた、その融和的な顔立ちを見せつけるのは、私たちの師事する遺伝学の教授だ。もうじき還暦を迎える歳だが、肌艶は良く、たるみや贅肉も見られない。
 簡単な挨拶を交わすと、教授はいつもの耳心地の良い声で本題に入った。
「さて、とうとうこの日がやってきたわけだが、準備は万端かな? うん、みんな顔色も良さそうで何よりだ。では試験概要を発表しよう。ログインしてくれたまえ」
 左目をつむりながら右目でまばたきを2回すると、眼前にパーソナル画面が現れる。私たちはIDとPASSを入力し、教授の映ったシェア画面にログインさせた。
 データのダウンロードが進む中、シェア画面が切り替わり、ある社会の日常が映し出された。きょとんとした顔をする二人の傍らで、私はたまらず息をのんだ。
 昼下りの風景だった。ガソリン車が激しく行き交う公道に、赤や黄の葉々を健気にそよがせる街路樹。ビルの建ち並ぶ街道と、そこを歩く人々の特徴から、モタは推測を口にした。
「21世紀初頭のアジアかな。中国、いや日本かな?」
「御明察、モタくん。これは100年前の日本国の映像だ」
 サイモンが前のめりになりながら、画面を覗き込んだ。
「これ『Another』スか?」
「うん。キミたちの試験は、この『Another』の舞台で行われる」
 画面は一人の男を追っていた。牛丼屋から職場までの道程を歩く、長身細身のスーツを着た平凡な二十代後半の彼を。
「試験期間は明日の午前9時から3日間。ちょうど72時間だ。もちろん再生速度は自由に変更してくれてかまわないが、『Another』内の時間期限は365日とさせてもらう」
「何をさせようってんです?」とサイモン。
「彼に人を殺させてもらう」
 二人とは異なる沈黙が、速まる心拍数を際立たせていた。
 画面右下に縮小された教授が、穏やかな声色そのままに試験内容を告げた。
「この試験の合格基準は、彼に殺人を犯させること。もちろん刑法上の定義でね。"干渉"内容によって上下する総合点で合否は決まるが、殺人は必須条件だ。詳細は送ったレジュメで確認してくれたまえ」
 パーソナル画面にダウンロード完了の文字が浮かぶと、教授は他意の見えない微笑を深めながらまとめた。
「アルファ遺伝博士号の取得は、諸君のキャリアアップを前進させる大きな要因となってくれるだろう。ああ、念を押しておくが『Another』へのアクセス権限は研究室内に限られている。B14階のバーでお洒落なジャズとカクテルを嗜みながら作戦を練るのは自由だが、試験概要と『Another』の情報漏洩および外部でのアクセスは刑法同様に厳禁とする。優秀なキミたちなら、ルールはきちんと守ってくれると信じているよ。前日伝えたとおり、この試験はチームで協力して行ってもらう。個別査定は無いので安心してほしい。試験開始と同時に外部からのアクセスも遮断されるので、次に顔を合わせるのはキミたちの成功報告を聞く時になるだろう。サイモンくんがいくら愚痴を漏らしても点数に影響はないから、好きなだけ論議を交わしてくれるといい。前時代的な年寄りからの忠言は以上だ。では幸運を祈るよ」
 シェア画面がフッと消滅する。サイモンが戸惑いを隠せなかったのは、陰口を聞かれていたことが理由ではなかった。
「……妙な試験だなこりゃ。『Another』の運用能力でも計るつもりか? 民間でも導入され始めたって聞くし」
 モタも同様の疑問を口にした。
「教授の意図が読めないのは今に始まったことじゃないけど、今回は特に顕著だね。これまで合格者がいなかったのも頷ける」
「元から博士号を取らせるつもりなんかないんじゃねーのかね、あの人。まあ、とりあえずやるだけやってみるか。まずは情報収集からだな。手分けしてやろうぜ」
 こちらを向いたモタが、いぶかしそうに口を開いた。
「何か気がかりでも?」
 なんでもない、と答えて、私も作業に取り掛かった。


 ここALPHA(アルファ)大学は、自然科学の最高峰だ。工学・理学・医学……それらで特に好成績を修めた者だけが、遺伝学の第一人者(オーソリティ)である教授の元で博士課程を履修することができる。
 『Another』とは、教授が設計構築したとされている仮想現実だ。『こっち』では実現困難な様々なファクターをシミュレートさせ、自然災害や感染被害、さらには軍事適用などの対策ツールとして政府や医療機関、そして民間の大企業などに提供されている。学習を建前に無料で利用できる私たちとは違い、おそらくは巨額の値段で。
 この時代では、遺伝子を精密に調査・審査できる科学力があり、生まれた子供はその優劣や傾向によってランク・ジャンル分けされる。この遺伝子適用主義が主流になると、人々はそれぞれに適したコミュニティの中で、快適に暮らし始めた──。
 一般的には、そういうことになっている。
 サイモンにお姫様と揶揄される由縁は、私が歴代でもトップクラスの遺伝子を持っているからだろう。
 そして、教授も……。


 立案と時代考察を一通り済ませた私たちは、揃って研究室を出た。モタはこのまま図書室で案の見直しを図り、サイモンは自室で着替えてからトレーニングルームに向かうようだ。
 通路からエレベーターまでの間、二人はこんな会話をしていた。
「──サイモンはもう就職先を決めたの?」
「旨い話はいくつかもらってるんだが、中東の企業に絞ろうかと思ってる。あそこは掘削開発の大御所だからな。お前は?」
「僕は西欧にするつもりだよ。宇宙開発部門の引き抜きが多発してるらしいし」
「ロケット大国が戦争おっ始めるって噂だろ? 需要と供給ってやつだな」
「利害というのは何よりも信憑性の高いものなのかもね」
「人間関係も、一言で言やあ利害さ」
 モタが私に話を振った。
「キミはもう決めたの?」
 サイモンもからかうように加わる。
「俺らと違って、お姫様は引く手数多だろうよ」
 私は適当にはぐらかして、エレベーターが来るのを待ち望んだ。

 自宅に戻ってからも、複雑な心境は変わらなかった。懸念を払拭できないまま簡単な夕食を済ませ、気を紛らわすように犯罪心理学の書籍をいくつか読んでみたが、まったく集中できなかった。欲求と現実的リスクの葛藤を経て、結局今晩も『Another』にアクセスすることにした。


──────────────────


 西原サトミは北関東の郊外で生まれ育った。両親と兄の4人家族で、中学2年生まで月4万円の借家に住んでいた。
 生来大人しい性格で、容姿も頭脳も平凡だったが、彼女にはストレスを独特に処理できる能力があった。両親の喧嘩もクラスメイトのからかいも、涼しい顔をしながら胸の内でこうやり過ごした。大丈夫、そのうち終わる、と。
 そんな哲学を身に付けたのは、共働きの両親に代わってやらされていた家事からだ。特に食後の後片付けは、その過程が目に見えてわかった。シンクに重ねられた食器が、一枚一枚綺麗になっていく様を見るのは好きだった。夏は水がありがたく、冬は手が痛いくらいにかじかんだが、終わりの後にはあたたかな安息があった。母に労いの保湿クリームを塗ってもらい、こたつにもぐりながら、自分とは違う、ここではないどこかの物語を描いては浸る。現実と夢の狭間でうとうとしながら布団に入っていくのが彼女の日常であり、ささやかな幸福でもあった。
 サトミが産まれる少し前、友人の保証人となった父親が借金したことを彼女は後になって知ったが、そのことが己の異質に影響したかという結論は大人になっても出せずにいた。
 もし物心ついた後にそうなっていたら、自分はどんな人間になっていただろう、と考える夜も時にはあったが、傲慢ですぐ他人のせいにする兄を見るたびに、これで良かったのだと納得できた。
 サトミが外界への逃避志向を抱き始めたのは、14歳の時に両親が離婚してからだ。再婚した母に引き取られた彼女は、2階建ての一軒家に引っ越し、毒にも薬にもならない義父との会話と家事から解放されたプライベートな時間の中で、たびたび疑問を感じるようになった。短大の進学で上京してからは、母親と会う機会はめっぽう減っていった。
 専業主婦となった母は、これまでの彼女とはまったく違う生き物に見えた。父といた時は己を偽っていたのではないかと思うほどに。
 自分はこたつの時間を安らぎに感じていたけれど、母はそうではなかったことを知った時、サトミは完全に分からなくなった。何が正しくて、何が間違ってるのかを──。

 だからなのか、と彼女は電車席の窓縁に肘をかけて頬杖をつきながら、ヒロヤのことを思い出していた。見慣れた風景が映るにつれ、浮かれにも似た鼓動の高鳴りを感じていた。
 身なりはバッグ一つの軽装だった。小ぶりな胸のラインが映える白ニットに、丈の長いベージュ色のチェスターコートを羽織り、ブルーのスキニーデニムに歩きやすい黒ショートブーツを重ねた。
 キャメル色のボストンバッグには、ありきたりなトラベルキットと一日ぶんの着替えだけを詰めた。処分を免れた家具や衣類の残りは、昨日のうちにトランクルームにすべて置いてきた。
 他に持参した物は、一冊の文庫本だけ。彼女が中学二年生の頃から事あるごとに読み返した本だ。
 内容は陳腐なオカルトものだった。死後の世界を探求する博士に、その協力者となる若い女、そして彼女に想いを寄せる男……。
 物憂げな女子中学生が心惹かれた箇所は、終盤の博士のセリフだった。彼の理屈では、人には生と死を隔てる最期の扉が備わっており、あらゆる苦痛、絶望に打ちひしがれた心が、もういいや、と現状をありのままに受け入れたその時、自らの意思でその扉を押し、肉体を死に向かわせていくのだという。
 そんな経緯にもたらされたゴールは、暗闇でしかなかった。過去も今も未来もすべてが黒に呑まれ、ゼロとなる。その闇を切り開き、結末に新たな数字を生み出していくには、揺るぎない意志と明確なビジョンが不可欠なのだと……。
 物語は、博士の思想を信じた女が、己の命と覚悟をもって実証を試みたところで終わっている。
 読み親しんだその内容に、今のサトミはくたびれたように眉を曲げた。いつからだろう、この結末がとてつもなく悲しく感じるようになったのは……そんな苦しさに胸を締めつけられながらも、到着駅アナウンスを聞いてはページを閉じ、そのまま本を座席に残して電車を降りた。

 十年ぶりの故郷は色違いの別世界に見えた。多くの建物が外観はそのままに、名称だけを変えていた。ラーメン屋は不動産屋に、本屋はスーパーに、おもちゃ屋は塾に。インフラ整備に着手された近年のまちづくりが道幅を広げ、駅前とデパートを隔てる交差点にはバリアフリーの歩道橋が建っていた。
 サトミは特に感慨もなく、ロータリーでタクシーを拾った。
「間瀬内科クリニックまで」
 運転手の世間話から逃れるために窓を開けると、嗅ぎ慣れた風が飛び込んできた。古い家屋の大半が大手メーカーの賃貸住宅になっても、町の匂いは変わらないんだな、とサトミは自嘲気味に鼻を鳴らした。昼下がりの公道は車が少なく、まばらな通行人はどれも生き急いでいるみたいにせっせと足を動かしていた。
 数分も走ると建物がだんだんと少なくなり、開発の及んでいない細道や農道、田畑の向こうには山林が見えてきた。自分とどこか似た境遇にいたヒロヤと、昔よく時間を潰したいくつかの景色を眺めるや、期待に不安と緊張が差し挟まれていく。まるでミルフィーユの層みたいな感情の起伏に、これは罪悪感なのかな、とサトミは思った。
 ヒロヤとの関係を、今でも幼なじみと呼んでいいのか、サトミは自信がなかった。引越し前の家が近く、何度か同じクラスになったものの、十代が好んで読みそうな恋愛漫画のような間柄とは別物だったから。
 ヒロヤとの時間には、いつも、あてのない葛藤にささやかな悲憤、そして抱えきれない疑問と手放せないおぞましさがあった。大人になった今でも、あの時間をどう表現していいのかサトミには分からない。分かっていたのは、彼はこの世界に順応し、自分はできなかったということだけだ。


 間瀬ヒロヤは医師の次男として生まれた。開業医と大学の非常勤講師である父母の教育は、どこの裕福な家庭がそうであるように、主に学業に費やされた。
 問題は、どの家庭でも珍しくない、兄弟の扱いの違いにあった。
 幼少から体の弱かった兄を、両親は溺愛し、彼に何かあった時の保険として、ヒロヤがつくられた。だが次第に兄の健康が確立され、その独善的な自我が顕になるにつれ、次男の立場は、保険からサンドバッグに変わっていった。
 どれだけ正当な反抗をしても、彼の味方になってくれる家族はいなかった。そのストレスは、眉目秀麗かつ成績優秀な彼を僻む同級生らのからかいを、真正面に受け止め弾き返してしまう引き金になることもあった。母親が学校に呼ばれるたびに、ますます彼の立場は困難なものになっていった。 
 そんなある日、張り詰めた糸が切れたみたいに、彼は変わった。まるで娘の誕生日プレゼントに選ばれた精巧なお人形のごとく、敵意の感じさせない微笑を絶やさず、優等生であり続けた。
 それは、男子中学生が環境に順応し、擬態した姿だった。
 その後兄が受験に失敗し、部屋に引きこもるようになると、両親は保険があったことを思い出した。次男は言われるがままに医学部へ進学し、卒業後はいくつかの大学病院で研鑽を積んでから、実家の内科クリニックで働き始めた。
 ヒロヤは今も、猫をかぶり続けている。その本性を知っているのは、今も昔も、いやおそらくこの世界においては、サトミだけなのだろう。
 多くの人間がヒロヤのヴェールに惹かれていったが、サトミは真逆だった。興味を失くした、というよりも取り残された気分に駆られ、母の再婚による引っ越しを堺にだんだんと距離を置くようになった。だが短大卒業を迎えた頃、彼の生き方が普遍的かつ社会的便宜性に適したものだと気づいた時、彼女もまたそれに倣うことになる。
 ただヒロヤと大きく違ったのは、サトミはそこに、まぶしい願望を抱いたことだ。世の女たちが当たり前のように歩むレールの上を、脇道に逸れていたことに気づいた彼女は、合流するなり一目散に駆けた。順応に努め、成就に向かって奔走した。けれどダメだった。彼女の本質は、その道に適してはいなかったのだから。

 タクシーの後部座席から母校の小学校が見えてくると、サトミは思い出の蓋を少しだけ開けた。
 中学に上がるまでの幼なじみは、よく虫を殺していた。立場を誇示するかのように踏み潰すのではなく、一匹一匹丁寧に解体し、中身を確かめていた。サトミは否定も同調もなく、作業を進めるヒロヤを傍らでただじっと眺めていた。昆虫のフォルムに一抹の嫌悪はあった彼女だが、彼の行為自体には何の抵抗も感じなかった自分が、ひどく不思議で、それでいてありのままに感じていた。
 サトミはその目で見たことはないが、彼が昆虫以外の動物も殺していることは、何となく気づいていた。前にネコが好きだと言った自分に、配慮して見せないでくれているのだと勝手に解釈していた。実際、その通りだった。
 お互い日常から逃げるようにつるんだ、12歳のある夏休みの日。木漏れ日注ぐ山林の沢で、岩の上から裸足で水面をぴちゃぴちゃ蹴っていたサトミは、真剣な顔でトンボをむしる彼にこんな質問を投げかけた。
「なにを探してるの?」
 ヒロヤは目を丸くして聞き返した。
「探してるって、わかるの?」
「何となく」
 ヒロヤは匿名的な空白を見つめながら、言葉を選ぶみたいに、区切りながら言った。
「たまに、浮かんでくるんだ。変な、モヤみたいなものが」
「モヤって、なに?」
「煙みたいな、ごわごわとした、色のついた空気みたいな感じ。でも、小さな生き物からは、一つも浮かんでこないんだ」
「それって、心、とか?」
「……心──」
 そうか、とヒロヤはきらめいた瞳の上で長いまつげを揺らした。そして夏休みが明けた2週間後、彼は初めて人を殴った。

 きっかけは、あの時だったのだろうか。いずれにせよ、彼は一足先に変わって、自分は変われなかった。それは能力の違いというよりは、生まれ持った性質によるものだと、サトミは考えていた。自分は月を映せる水面に焦がれた泥水で、彼は質の良い粘土なのだと。だから、この手で掬い上げようとしても、手からこぼれてしまう。何も、残らない。
 普遍的という名の雨に流されて、人並みになろうと努力するも、結局徒労に終わった自分。
 社会に順応してみせるも、己の芯だけは変えず、隠し、守り続けてきたヒロヤ……。

 "もし行き場を失くしたら、遠慮なく頼ってこい"

 上京する時、別れ際にぽつりとくれたその一言にすがる自分が、情けなく、卑怯に感じた。なんて虫のいい話だろう、とサトミは眉をひそめて笑う。自分が彼の造り上げてきた世界を脅かしてしまう存在になるかもしれないなんて、こっちに戻って来るまで気がつきもしなかった。
 何よりも嫌悪したのは、夫には求められなかったことを、ヒロヤになら簡単にできてしまう己の一面にだった。


 間瀬ヒロヤと約束があると聞かされた受付の看護師は、敵意に近い眼差しで、同年代の訪問者のつま先から頭までをジロリと見回した。やがてどこか勝ち誇った顔で鼻息を漏らしながら「ご案内します」とサトミを誘導した。
 院長室を兼ねた応接室は、窓を背中に執務机が、中央にはセンターテーブルを挟むようにストレートソファーが設置されていた。隅には液晶テレビが、腰壁に接した棚上には賞用の盾が並び、腰上の白い壁には額縁に収められた賞状と、濃い緑と紫で描かれた樹木の抽象画が飾られていた。
「おう」
 ソファーに腰掛けてまもなく、ノーネクタイの白シャツに白衣を着た男が現れた。サイドを短めにしたストレートの黒髮で、顎先にささやかなヒゲが整えられている。首や四肢の長い体躯は程よく引き締まり、ぴたりと着こなされた黒のスラックスが清潔感と気品を感じさせる。愛嬌を引き出していた右目の泣きほくろは、大人になると官能的に主張されて見えた。
 対面のソファーに腰を沈めたヒロヤは、組んだばかりの足をほどき、膝に頬杖をつきながらサトミの顔を覗き込んだ。
「あんまり変わってないな」
「もうすぐおばさんだよ」
「なら俺もおじさんか」
 ハハハと渇いた声を出しながら、ヒロヤはサトミの薬指に視線を向けた。
「離婚したのか」
「うん」
「十年ぶりの帰省はそれが原因か?」
「この町にはもう何の関心もない。あんたに会いに来ただけ」
「そうだったな」
 ドアがノックされた。先程の看護師が、先程とは打って変わった笑顔で紅茶を持ってきた。間瀬先生になりきったヒロヤも、口角を上げ明るい声色で応対する。
「ありがとうございます。伝達していた通り、午後は空けるんでよろしくお願いします。それとハシモトさんからインフルエンザ検査キットの件で電話があったと、午後診察の前に院長にお伝えいただけますか」
「了解しました間瀬先生。お任せください」
 女の入退室と共に顔を入れ替える彼に、幼なじみはどこかホッとしたように口元を和らげた。
「相変わらずモテモテみたいね」
 カップを傾けたヒロヤは、ため息混じりに言った。
「くだらない女だ。てめえの価値を上げるのに他者が欠かせない生き物なんて、昆虫以下だよ」
「今も解剖してるの?」
「いや、虫はしてない」
 一呼吸ぶんの閉口の中で、二人は探るように目を合わせた。
 フッ、と鼻を鳴らしたヒロヤが先に沈黙を破る。
「これより先の話題は、お前の社会的立場に大きなリスクを与えるが?」
「かまわない」
 目元を鋭くしたヒロヤは、刺すような声色を使った。
「言っておくが、今の俺がやっているのは仕事だ。俺も仲間も、特別な感情は排除したプロ精神でやってる。責務や使命、ましてや正義だなんてものとは縁遠い」
「その辺りのポリシーは別にどうでもいい。私は、あんたのやっていることが見たいだけ。そうすれば、あんたの視えているものを理解できるかもしれないから」
「理解してどうなる?」
「私という人間を、知れるチャンスかもしれないから」
「この道に折返しはないぞ。一度踏み入れたが最後、死んでも戻れない」
「それ、人の生と何の違いがあるの?」
 今度の笑い声には、素直な感情を乗せた。
「そういう女だったな、お前は」
 そう言いながらも、彼は頭を斜めに傾けながら、幼なじみの顔から目を離せずにいた。信用していないというよりは、彼女への協力を不本意に感じ、できることなら自分とは関わらせたくない、という親切心から来る眼差しだった。
 だからヒロヤは、こう切り出した。
「見せてやってもいい。だが条件がある」
「この世にタダなんてものは無いものね」
「お前にも手伝ってもらう。文字通り、手を汚す仕事を。人間、口だけなら何とでも言えるからな」
「共犯にしちゃったほうが、リスクが減るもんね」
 ヒロヤの親切心に気づいていたからこそ、サトミは目一杯笑ってみせた。

 私も、試しに鏡の前で口角を持ち上げてみた。


────────────────


 午前9時になると同時に、私たちは『Another』にアクセスした。120インチ程に広げたシェア画面に、21世紀初頭の日本国の映像が映し出される。
 事前に制作しておいた、観測や干渉に最適なアプリケーションをそれぞれのパーソナル画面からインストールさせようとした時、私たちはその変化に気づいた。普段の『Another』の画面上に見られるはずの数列は欠落し、インストールも遮断されている。
 そんな試験用の設定に、サイモンたちはぼやかずにはいられなかった。
「予想はしてたが、やっぱりデフォルト設定か。感情値が見えなくなってやがる」
「バイタル表示も消されてる。これで判断材料は画面上の事実だけになるから、洞察力や共感力を求められるね。現実でも他人をコントロールする能力を計られてるのかもしれない」
「プログラミングも一から作り上げなきゃか。しっかし最高権威の博士号の試験が、まさかの心理学の実践応用とはな。まあ、あの人のことだからそれだけじゃないんだろうが」
 私たちは『Another』の運用プログラミングの構築を進めながら、当時の社会情勢の照査、そして彼の行動パターンに固定視点画面を設けていった。
 翻訳・追跡ソフトの照準を合わせながら、サイモンは不透明な見通しに、改めて息をついた。
「それにしても普段の仕様に慣れてると、なかなか難儀だなこりゃ。感情値が見えないだけでぐっと難易度が増す。なんてったっけ、あの理論」
 モタは『Another』を映したシェア画面を、彼の追跡と行動ルートに数分割させながら説明した。
「15年前に確立されたハートネット理論。その感情可視化システムを導入したことで、『Another』の商品価値は飛躍的に上昇したとか。便宜的に数値化・数式化したものが、まさかメロディに音符が付けられたのと同等以上の功績となるなんて誰が予想しただろうね。人類の発展という書籍(タイトル)のページには、欠かせない名となったわけだ」
「彼は正体不明なんだっけか」
「彼女、かもしれないね。業績は他にもあるのに、表舞台にはまったく出てこない人らしい」
「案外教授だったりしてな。いくつも名前持ってそうだよ、あのタヌキじじい」

 普段の仕様に近い観測・干渉システムを完了させた時には、試験開始から1時間が経過していた。これはとても早いタイムだ。軽口を叩いていた二人だが、やはり能力と集中力には優れたものがある。博士号がもたらすステイタスの大きさも、無下にはできないといったところだろうか。
 私が一服を提案すると、日頃から休憩の重要性を説いてきたサイモンが快く腕まくりしながら「いつの時代も雑用は下位の仕事だ」と率先してお茶と茶請けの用意をしてくれた。室内備え付けのドリンクメイカーで私好みに配分されたミルクティーに口をつけ、甘さ控えめのクッキーを儀礼的に一ついただいた。モタは持参したサイコロ状のブドウ糖を口に入れ、熱々のブラックを涼しい顔で流し込んだ。
 猫舌のサイモンは、低脂質クリームを注いだコーヒーをちょびちょびすすりながら、いくつにも分割された画面を見回していた。彼の職場に通勤経路、自宅アパートの外観や室内に、最寄りの小売店などなど。
 彼の行動ルートとは別に、当時の社会実情をよく窺える画面もいくつか配置していた。公共放送のチャンネルに、大手ネットニュース。新聞を始めとした刊行物や民放ワイドショー、ネット掲示板にSNS。それから公共機関の様態や陽の届かない路地裏の視点などなど、状況に応じて多角的な情報を取得・検索できるようインプットしてある。
 改めて眺める当時の社会インフラは、当然ながら、と言うべきか。現代人の視点からは褒められたものではなかった。
「──過剰な紫外線にCO2排出……よくまあこんな掃き溜めみたいな環境で暮らせるもんだな。そのくせ免疫力は低いってんだから、救いようがねえ」
「この頃は薬物による外圧の遮断しか方法が無いんだよね。日本で免疫力向上志向が本格的に着手されたのは21世紀末葉からみたいだし。気の毒というか、愚かというか」
 日本国の政治経済、それらの根幹となる施設を確認した二人は、苛立ちと同情を含ませたため息を所々に挟んだ。
「真面目な奴ほどクルだろうな、これ。今まで見たどんな映画よりもホラーに感じるぜ」
「残酷だよね。まるで絵の具を溶かしたバケツみたいに、様々なタイプがゴチャ混ぜにされてる。通信機器の無い時代ならまだしも、実態が普遍的に発信され続けてるせいで、格差が文字通り目に見える社会構造になってる。まあ最も問題なのは、自浄作用が全く見られない行政機関や教育機関だけど」
 モタはとある教室の日常をピックアップした。足の不自由な女児が、排他的な男子児童たちにからかわれている光景を、彼は物憂げに細めた目で眺めた。
「……この子も、ある分野では優れた功績を残せる遺伝子を持ってるのかもしれないのにね。原因と結果とはよく言ったものだよ。この環境じゃ宝の持ち腐れだ」
「害悪遺伝子所持者(アホ)と同じ教室で学ばなきゃならんとか、拷問もいいところだな。このご様子だと教員の採用査定も甘そうだ。人格形成なんて思春期が終わる頃にはもう大概済んじまうってのに、こんな腐った教育体系じゃ、どれだけ優秀な遺伝子でもクズに汚染されちまわあ」
「環境に適応しちゃう遺伝子が周りの構造を造り変えちゃう危険性すら一般的ではないんだものね。まあ、もしかしたら統治や管理の便宜上、あえてそうしていたのかもしれない。応用力のない無能な為政者が考えそうなことだけど」
「だいたい21世紀にもなって、生まれた地域で幼少の教育機関が決まっちまうなんて悲劇以外の何物でもねえわ。遺伝子を開花させるに欠かせないのは、まっとうな教育環境だっつーのに」
「日本のGDPが安定した上昇傾向に入ったのは、遺伝子適用主義を導入してからみたいだね」
「それも後進国(カメ)なみの鈍さでな。みみっちい島国だから、世界情勢についていくことすら難しい民族性なんだろ。なんたってハラキリしてた国だぜ? はは、笑える。てめえはいったい何のために生まれてきたんだって話よ」
「自殺者も20世紀後半から年々増加してる。これは僕らにとっても好ましくない傾向だね」
「彼に自殺でもされちゃ、その時点でゲームオーバーだもんな」


 モタに歩行・知的障害の妹がいることを、私は知っている。他に身内のいない彼にとって、彼女がどれだけ大切な存在なのかも。
 生来優秀な遺伝子を備えるモタがここに入学したのは、これまでの学費を免除してくれてきた母校と大学のパイプを繋げるという利害の他に、妹の将来が起因していた。彼は最新の遺伝学的見地から彼女の遺伝情報を見直し、秘められた才能を見出すことに成功し、美術の道を推奨しては花を咲かせた。卒業後の就職先で一緒に暮らすことになっているらしい。
 サイモンが時に自虐的にふるまうのも、彼の生い立ちが要因なのだろう。優秀な家系に生まれた彼だが、その先天的な遺伝子は平凡そのものだった。物心ついた頃には親元から全寮制へと移され、そこでレベルに相応しい教育を受けた。
 そういった子供は少なくない。だが彼は、彼の遺伝子ではおよそ不可能と言っていいくらい、めきめきと成績を伸ばしていった。不思議に思った大人たちが、学年が上がるたび検査してみるも、先天的な遺伝子には何の変化も見られなかった。ただ後天的……彼が前述したような、環境によって影響を受ける部分は著しく発達し、それが検証不可能な階層で相乗効果をもたらしているのでは、と学界に大きな衝撃を与えた。
 遺伝子史上主義のサイモンは、同時に可能性を信じることのできる人間だった。見方を変えれば、現代ではあまり重要視されることのない、ポジティブを維持できる優秀な遺伝子が先天的に備わっていたのかもしれない。彼は、どうしたって変えることのできない先天性に運命を委ねるのではなく、環境や己の奮励によって変化が期待できる後天性に、より価値を置ける人間だった。現に彼は誕生時の査定をことごとく覆し、持ち前の積極性とたゆまぬ努力によって、ALPHA大学への入学を果たし、この研究室にも入ることができた。
 私たち三人に共通するのは、可能性の探求なのだろう。現代の価値観から言ってしまえば、そういった思想を抱く要因の大半も、遺伝子によるもの、となってしまうのだが。
 私は、先天的な遺伝子から現実的な選択肢を増やしていったモタと、後天的な遺伝子の可能性に賭けたサイモンそのどちらにも、ひそやかに敬意を抱いていた。
 なぜなら私には、二人のような努力や必要性を求められた経験が、一度も無かったから。人は私を優秀というが、私から見た私は、なにかが欠落した人間としか思えなかった。
 そんなシンパシーを、もしかしたらサトミに抱いていたのかもしれない。


 休憩を終えた私たちは、所々で倍速を挟みつつ、彼の日常生活を追った。立案のマニュアルを最大限生かすには、生の情報が不可欠だ。
 コミュニケーション時には、なるべく再生速度を通常に戻し、観察に意識を傾けた。個人の人間性は、他者との関わりに私的行動内容、そして双方の調和や関係性によって導き出される。意思疎通における所作、声色、話し方、視線の動きから、彼の大まかなヒューマニティを取得していく。
 彼は誠実な人柄だった。会計事務所に務め、役職がほぼ横並びの7名の同僚と事務員をしていた。人当たりの良い振る舞いと丁寧な仕事ぶりが、素朴な顔立ちに魅力を与え、職場でも好感に等しい信頼度を得ていた。
 それでもパーソナルスペースはきちんと維持する人間だった。交友関係は学生時代の友人が数名だけで、広く浅い付き合いは好んでいなかった。彼以外は皆配偶者がいるせいか、休日前に集まって酒を飲むという機会も少なかった。
 勤務を終えた夕方、彼は通勤経路にあるカラオケ店に一人で入った。店員がウーロン茶を持ってきた後、休憩を挟むことなく一時間歌い続けた。
 ジャンルはポップにロックにアニメソングと様々だが、それらの歌詞には共通して啓発的なものが多かった。端的に言えば、柔軟性に重きを置き、多様性への寛大さを持とうといったものばかりだ。
 このままでいいんだ、ありのままの自分を愛そう……そんなフレーズを、自分に語りかけるように歌う彼に、サイモンは鼻をほじりそうな顔で呟いた。
「カラオケって一人でやるもんだっけか?」
「僕も一人で歌いたい派かな。この方面の娯楽に関しては、日本は最先端だよね」
「お姫様はどんな曲が好きなんだ?」
「ラヴェルとかドビュッシー」と私は答えた。
「ふーん、ってそれクラシックじゃねーか」

 歌唱後、彼はスーパーを経由して酒と惣菜を購入し、帰路についた。
 職場から徒歩20分のアパートは、バス・トイレが別の洋風ワンルームで、最近越したばかりといった模様をしていた。家具はホームセンターで購入されたベッドとテーブルと本棚だけで、茶色のカーペットに座布団が一人ぶんだけ敷いてあった。
 本棚には、二,三十代が好みそうな漫画と、税理士試験の過去問題集が並んでいた。年号を確認すると、最後に購入されたのが去年のもので、今年発売のものは勉強の形跡同様、部屋のどこにもなかった。購入して三ヶ月のパソコンからは特別な情報は得られず、履歴も移住や農業といった単語が多かった。
 パソコンと同時期に買い替えたスマートフォンでも、匿名で憂さ晴らしするという当時では類型的な操作などは見られず、Iターンしてのどかな農ライフをしているSNSをよく閲覧していた。
 アパートで一人晩酌をしている彼は、小雨をしくしくと受け入れる、細い樹木のようだった。仮面を脱いだその素顔は、疲れて、すり減って、それでいてどことなくホッとした面持ちに見えた。孤独の寂しさを感じ、それでもその中に楽しみとは違う、ある種の意義を見出し、ひそやかに味わってるみたいだった。今日も何とかやりきった……そんな胸の内のねぎらいが、私には聴こえた気がした。
 大きな失敗も、不意な事故もなかった一日をビールで清算する……そこに浮かんだいくつもの気泡に目を細めた彼は、職場で冗談を言い合う時と同じように、眉をひそめて静かに笑った。
 現状に大きな不満は無いものの、願望めいたものを捨てきれず、かといって高望みをするでもなく、己の価値や人生に見合う適切な環境に身を置いておきたい……そんな印象をくれた彼を、サイモンはばっさりとこう評した。
「地味な男だ。だが試験対象としては最適なのかもな」
「……鳥の苦労は、芋虫には分からない。その逆もしかり」
 私が無意識にそう呟くと、モタは画面を見つめたまま「文学的だね」と口にした。対してサイモンは「可能性に蓋をしてる野郎だ」と吐き捨てるようにまとめ、モタはそこに「良くも悪くもね」と静かに補足した。

 『Another』内で一週間が経過した。秋晴れに紅葉が色めく昼下り、午前の業務を終えた彼は、最寄りの店へ昼食に出ていた。彼がカウンターでラーメンをすすっている間、私たちはモタが役所をハッキングして得た経歴に、サイモンが洗い出してくれた小中高の卒業アルバムや文集などを、画面上の事実と照らし合わせた。
 写真は職場の彼同様、どれも一様だった。まるで写真用の仮面でもつけているかのごとく、どれも決まった微笑に彩られていた。
 文集はどの学年でも、ありきたりな学生の抱負と、教員や同級生への感謝の意がメインに書かれていた。端的に表せば、やはり誠実がしっくりくるのだろうが、文系に精通していないサイモンは、現在の彼の様子とを見比べながら「無味透明の水みたいな男だな」とつまらなそうに評した。
 一方、モタはこう推察した。
「独特な適応能力を持っているように、僕には映るね。行動や文面はどれも凡庸で当たり障りのないものだけれど、その行間からは葛藤のような、どこか諦観したところが伝わってくると感じるのは、笑う時によく眉をひそめるクセが起因しているのかな? とにかく、こういうタイプは公共の場ではまず本音を出さないだろうね」
 それにはサイモンも同意した。
「ストレスを上手に処理している、というよりかは、彼の遺伝子がストレスと認識していないといった印象を受けるな。たしか事故で両親を亡くしてるんだろ? 突発的被害が原因で遺伝子にダメージを負っちまうのは、現代人でも珍しくない。それにこの時代は自律神経に難を抱えてる連中が多そうだ。どいつもこいつも姿勢の悪い奴らばかりだしな」
 食後、彼の歩く人通りの多い街道を眺めながら、サイモンはぼやくように言った。
「しっかし、型にはめられた連中ばかりだな。ここ、ホントに21世紀なのか? 犯罪心理学のマニュアルに沿ってやっていくのが最も無難だと勘違いさせられそうだぜ」
「イレギュラーはどこにでもあるわ」と私は口を挟んだ。
「仰るとおりだ。人の遺伝子は、いつどこで後天的に変化するか分かったもんじゃねえ。それは重々承知してるよ」
 モタが人種の特徴を指摘した。
「この時代は多様化が認められてきたばかりの頃だけど、同調圧力に屈しやすい民族性は随所に名残が見られるね。そこを突いたらどうだろう?」
「同僚を操作してハブらせるか? でも意識干渉は得点に響くんだったよな」
 モタは試験概要の一項を読み上げた。
「完全な減点法だからね。大雑把にしか記載されてないけど、物理干渉<空間干渉<意識干渉の順に振り分けられてる。干渉物の種類や内容の度合いによってもだろうけど、別干渉を同時に行った場合、乗算的に減点される可能性も考えられるよ」
「教授の性格からすると妥当な推測だな。要するに、銃を与えて人を撃たせるなんてのは、物理干渉と意識干渉の両方を使用してるとみなされるんだろ?」
「彼本人への干渉は禁止されてる。ただ、こちらも曖昧なんだけど、彼の意識外での干渉はその限りではないみたい」
「つまり、家に帰ってきたら物が増えたり無くなってた、なんて干渉はできるってことだな」
「一度整理してみようか」

 試験概要は、彼に殺人を起こさせること。残り約69時間。
 私たちが干渉できるのは、彼の意識外のみ。
 干渉内容が得点に直結するため、ファクターを最小限にとどめるよう頭を働かせなくてはならない。

 サイモンは大きく息をついた。
「改めて見ると、こりゃ手間がかかりそうだな。就職の手土産にと進めてる、将来的地底開拓展望の論文構想も全部忘れちまいそうだぜ」
「彼自身の意思をもって殺人を犯させるところが、この試験の醍醐味だろうからね。車に干渉してブレーキを破壊しただけではダメってところが難関だよ」
 感情値もバイタルも見えない観察では、多少なりとも印象に差異はあるものの、見解は三人共に一致していた。これは困難な相手だと。
 日常のストレスや孤独感、そして何とも言い難い葛藤は、彼の気づかぬところで少しずつ、確実に彼を蝕んでいたが、痛みを和らげ目立たなくさせる処理能力、その基盤となる独特な思想や価値観を、彼は持っていた。
 厄介だな、とサイモンが真面目な顔で言った。
「こういうタイプは、ヤケになって殺すのなら他者じゃなく自分を選ぶ」
「同感」とモタも頷いた。
「この時代にはまだ安楽死制度が無いんだっけか」
 モタは十数年後の社会制度を読み上げた。
「21世紀中頃に導入された日本国の安楽死制度では、扶養家族や疾患・障害を持たない壮年男性の場合、申請後の累計所得税400万円到達が条件。期間内に違法行為や自己破産などをした者は除外とされてる。この時代はまだ思想家がちらほらと提唱してる段階だね」
「自殺と殺人はメンタル観点では同等だからな。とにかく安楽死が無いのは追い風か」
 サイモンはもう一度、彼をじっと眺めてから発言した。
「昔は悲劇のヒロインなんて言葉があったらしいが、それに類似するところもいくつか見受けられる。突発的被害における一例ではあるが、こういう人種は被虐性愛者(マゾヒスト)や自己陶酔系(ナルシスト)みたいに、不遇を都合よく解釈しちまうケースも考えられる。もちろんその逆もな。どうだ?」
「妥当だね」とモタ。
 私は、そこに一つ付け加えた。
「突発的被害への耐性として構築された一面かもしれない」
「妥当だなお姫様。いずれにせよ、こういうタイプは一朝一夕では考え方が変わらないだろうよ。さて、どうするか」
 モタが冗談半分に言った。
「昔はサブリミナルで犯罪志向を上昇させたって話を、前に聞いたことがあったなあ」
「はは、小説か映画の話か? 空間干渉は得点に響く、もっとクールにやろうぜ。キミはどう思う?」
 私は、客観的視点を口述してみた。
「犯罪者の傾向には、先天的と後天的なものとに分けられる。刑罰が無ければ人は必ず人を殺すというリーガル・モラリズムを別にすれば、彼を形成する様々な要素に犯罪志向となる先天性は見られない」
「妥当だな」とサイモン。
「妥当だね」とモタ。
「後天性に働きかけるなら、やっぱり不遇を与えるのが効果的。原因と結果という、宇宙の理にもっとも準じているから」
「同感だ。さて、まずはどう働きかける?」
 私は画面を操作して、彼のアパートの駐車場を拡大した。
「ここには車がズラリと並んでる」
「郊外住まいは必需なんだろ。で?」
「鳥に干渉して、彼の車だけに糞をさせる」
「……は?」
「小動物への干渉は減点が少ないはず。継続性は慢性的ストレスに起因するし、特別性をもたせれば孤立感を与えることもできる」
 サイモンはゆっくりとしたまばたきを重ねながら「なんつーか……さすがだな」と私を見た。
 モタはうんうん頷いて「慢性的ストレスの危険性と犯罪傾向の因果関係は証明されてるしね。妥当な初手だと思う」と補足してくれた。
 おしっ、と手を叩いたサイモンが方針を提案した。
「基本的な戦略として、持続的な小干渉と突発的な中干渉を組み合わせてくってことになるんかな」
 モタは同意した。
「得点に響く干渉内容は施行前に確認するとして、基本路線はそれでいいと思うよ」

 明け方、この試験初の干渉が行われた。スズメたちはこれでもかと言わんばかりに、彼の車だけに糞を落としていった。白の乗用車だと、余計にその凄惨さが目立つ。
 通勤にアパートを出てきた彼は、絵に描いたように二度見した。「ええ……?」と安直な反応を見せた彼に、二人はたまらず吹き出していた。
 しばらくその場で苦笑いしていた彼だが、やがて諦めた顔で職場へと歩いていった。

 ここから堰を切ったように干渉が行われていく。それぞれの提案した内容を多角的に考察し、所々に改良を加え、全員の同意を得られたもののみを実行していった。
 私たちはまず、彼に性的好意を寄せる同僚を探すことにした。サイモン曰く、いつの時代も男女のもつれが関係紛糾の大きな要因となるらしい。
 数十分後、私たちは満場一致で、隣のデスクの女を選んだ。大卒3年目の彼女は、仕事覚えが早く、洗剤のCMに出れるくらいの愛嬌と気配り上手なところがウリだった。
 サイモンは彼女をこんな風に評した。
「八方美人な感じがプンプンするところが使えそうだ。服装を見る限り、流行にも敏感そうだしな」
 モタも同意した。
「彼のそれとは似て非なるものに僕には映るね。彼はトラブルを避けるためにそうしているフシがあるけど、彼女の場合は目的のための手段といった感じ」
「自分をどう見られるかに尽力してるんだろうよ。俺にはまったく理解できないが、この時代のこの国の女にとっちゃ、こういった戦い方が主流なんだろうさ。結婚は早いもの勝ちだったらしいからな」
「一言で言うと?」
「反吐が出るね。無愛想なお姫様の魅力に改めて気付かされるよ」
 私をオチに使うなと言いたくなったが、話を広げられても面倒だったので、黙ってニコニコしてみることにした。すると、気づいたサイモンがたちまち青い顔で「す、すまん。ものの弾みとはいえ出過ぎた発言だった。勘弁してくれ」と平謝りしたので、私は何とも言えない気持ちになった。
 それはさておき、彼自身もそんな彼女に好感を抱いているように見えた。だがその付き合いは、恋愛対象とは一線を画するものだった。それは彼に離婚経験があったこととは別に、その人間性に起因するものだと、私たちは考えていた。
 田口という姓の彼女は、たびたび性的アピールを駆使して接近を試みていたが、彼は決してプライベートに引き入れようとはしなかった。メッセージアプリの返信も、なるべく相手を傷つかせないよう断りを入れた。それでも気を落とすどころかますます意欲をみなぎらせていく彼女に、私たちの選択は正しかったのだと励まされた。
 これなら意識干渉をするまでもないと考えた私たちは、事前準備として、彼のスマホをハッキングし、彼女への通信がこちらに切り換えられるように仕掛けていた。
 並行して、職場内での物理干渉も行った。事務作業のほとんどはパソコンで行われていたが、一部にはまだ前時代的なシステムが残っていた。企業依頼にはデータ送信だけでなく印刷した紙書類も郵送し、その資料や領収書コピーは所内に数年間保管されるようだ。
 私たちは、手始めに領収書ファイルを紛失させた。当事務所では事務処理の際には必ずチェックシートに担当した者の名前を記述するシステムになっているので、捏造はいくらでも容易だった。
 紛失に気づいた狭い所内はちょっとした騒ぎになったが、その重要性の高低もあり、大事には発展しなかった。まったく見に覚えのない彼自身も、一度目は平謝りするだけだった。
 頻繁に行うと事件性を疑われるので、あくまで個人のミスの範疇におさめるペースを保った。これまで何の失態なく献身的に働いてきた彼に、最初は大目に見ていた所長や同僚も、次第に不審の目を向けずにはいられなかった。
 それでも、田口はまだ彼に好意を寄せているようだった。入社してから何度も彼に助けられてきた彼女は、自分がそうされてきたのと同じように彼を励ました。
 彼の方はというと、何がなんだか分からないといった顔をしていた。無理はない。なにせまったく見に覚えがないのだ。この時の彼はまだ、それが他者による悪意であるとは考えていなかったと思う。
 ここでサイモンが目を光らせた。
「頃合いだろ」
「だね」とモタ。
「やりましょう」と私も賛同した。
 彼が昼休憩中に近辺の公園ベンチでパンを元気なくかじっている時に、私たちは田口を装って彼にメッセージを送った。内容は以下のとおりだ。
『最近疲れてませんか? 心配です。私に何かできることありませんか? 先輩のために何かしたいです。他の人には気づかれたくないんで、18時に駅前で待ちあわせしませんか?』
 了承を示す返事が、私たちの画面に送られてきた。その後帰社した彼は、彼女の普段の愛嬌にホッと笑顔で応えては、気を持ち直して仕事に取り組んだ。
 サイモンがニヤニヤしながら言った。
「いいねえ。彼にはこの女が唯一の味方に映ってるだろうよ」
「でも来ないんだよね」
 モタの言うとおり、彼女は来なかった。そもそも彼女は知らないのだから無理もない。
 しばらくじっと待っていた彼だが、19時になったところで連絡を入れてきた。
『まだ? 何かあった?』
『ごめんなさい。もうすぐ着くから』
 30分後。
『本当に大丈夫? 日を改めようか』
『大丈夫ですごめんなさい! もうすぐ着きます!』
 それから1時間後。彼は文句の一つでも言いたくなった顔をしたが、何度か深呼吸を挟んで、今度はスマホを耳に当てた。研究室内に着信音が鳴った。私たちは3コール目で着信を切った。
 最後に送られた『大丈夫? 何かあったんなら教えて』というメッセージは無視した。

 翌朝、何も知らない田口から普段と同じように挨拶された時、彼は黒い想像を止めることはできなかっただろう。
 その後もさまざまな干渉が続く。その一つのきっかけは、サイモンのこの提案だった。
「──調べたんだがな、この時代は騒音問題が多発してたらしい。それ以前はご近所付き合いなんてものが存在していたようだが、こっち同様、今じゃ隣人の顔すら分からない住居者も少なくないみたいだ」
「プライベートを阻害されるのは、今も昔も苦痛だよね」とモタ。
 私も口を挟んでみた。
「因果を含ませるとより効果的よ」
「具体的には?」とサイモン。
「原因と結果。ただ壁を鳴らすのではなく、彼の行動に伴って騒音を与えるの。本来なら他者の迷惑にあたらない言動に対しても、過敏に。おそらく、最初は自分に非があったのではと考えるはず。でも外に出て気づく。自分だけが非難されてる疎外感を与えることができる」
 二人はうんうんと頷いた。
「つまりは、隣にヤバい奴がいるって設定にすることか」
「ノイローゼは伝染しやすいからね。妥当だと思うよ」
 実行する前に、サイモンがもじもじと頭をかきながら問いかけてきた。
「あのよ……お姫様ってドSなんか?」
「ご想像にお任せするわ」
「はは……その冷たい横顔ホンっとたまんねえわ……あ、これ褒めてんだかんな」

 効果は絶大だった。彼の生活音に合わせてドンッと壁を鳴らすと、その怯えはありありと顔に表れた。程なくして、物音を立てない生活スタイルへと変わる。息遣いや眼球運動から、交感神経が働きすぎているのは明白だった。
 安らげる場であるはずの自宅で、副交感神経を優位に保てない状況は心身に多大なストレスを与える。彼の顔つきは日に日に変わっていった。寝不足が騒音の恐怖をだんだんと怒りに置き換え、目の下の隈が人相を悪くした。
 毎日続いた糞にも神経質な反応を見せるようになった。ある朝、彼は汚れた車に気づくや、タイヤのゴムの部分を何度か足蹴にし、それから車内から握りとったティッシュで糞を乱暴に払い落とした。
「お、すげえ怒ってんじゃんか」とサイモンは楽しそうに笑った。
「落とした後に、他車に目を向けたところはポイント高いね。地味だけどかなり効いてる。いや、地味だから効いてるのか」
 通勤中、彼は道に転がった空き缶などをよく蹴り飛ばすようになった。干渉して物的損害を与えることも検討したが、不確定要素が多分にあったので、この時は見送ることにした。
 職場でも笑みを失い、挨拶の時すら目を合わせず、他人のミスを強く非難するようになった。同僚の不信感は日増しに高まり、それが嫌悪に変わるまで時間はかからなかった。

 干渉を始めて2ヶ月が経過した。所内での世間話はぐっと減り、田口も彼に笑いかけることはなくなった。端から見ていると、爪弾きにされているのは明らかだった。
 彼の反応も過敏なものに変わっていた。これまでは気にも止めなかった同僚のひそひそ話も、今の彼には自分への陰口にしか見えてならなかったのだろう。しきりに睨んでは、さらに印象を悪くしていた。
 そんな彼を、モタはこう診断した。
「だんだん統合失調症の症状が見られ始めてきたね」
「でもこれに関しては妥当な反応だよな。なんたって認識できないだけで、実際にめちゃくちゃされてんだから」
「サイモンは聞いたことある? 遺伝性を持つ統合失調症の起源は、第一次大戦時に行われた、ある国家の心理実験による副産物だっていう主張。どんな命令をも忠実にこなせる強靭な兵士に育てるために、数々の心理効果を見境なく与え続けた結果、発症してしまったんだとか」
「それたしか、陰謀論者で有名な研究者の論文だろ? オカルト好きには楽しめる内容なんだろうが、根拠と論理性が非現実的で誰にも相手にされてなかったろ」
「僕も鼻で笑ってたんだけどね。ただ、今の彼を見ていると、あながち笑い話にもできなくなる」
「そりゃある意味、俺たちも教授にコントロールされてる立場だからだろうな」
 はたしてそれだけなのだろうか。
 口を堅くつぐんだモタの横顔が、そう言っているように私には見えた。

 干渉開始から3ヶ月。最初は心配そうにしていた所長も苛立ちを隠せずにいた。それでも経営者たる節度は保った言動で、彼にやんわりと休養を勧めた。
「少し休んだらどうかな?」
「……いえ、大丈夫です」
「なだらかな登山や農道サイクリングはいいリフレッシュになるよ。自然環境での有酸素運動、これとっても大事」
「お気遣いありがとうございます。でも──」
「休みなさい。来月になったらまた元気な顔見せにおいで」
「……はい」
 事務所を後にした彼はそのまま家電量販店を回り、録画カメラのサイズをしきりに聞いて回っていたが、購入することはなかった。
「所内にしかけようとしたんかな」とサイモン。
「いい傾向だね」とモタ。
「まさか証拠として提示する間際に動画が改竄されるなんて、夢にも思わないだろうな」

 彼が初めて感情を爆発させたのは数日後。いつもの騒音をとうとう腹に据えかねた彼は、隣室へ抗議に出向いた。だが何度ドアを叩きインターホンを鳴らしても応答はない。それもそのはずだ。騒音はいつも、隣人が不在の時に行っているのだから。
「いるんだろ!? 開けろ! ふざけるなよ毎日毎日ドンドンドンドン! 警察呼ぶぞ、出てこい!」
 諦めて自室に戻った彼に、私たちはすかさず騒音を与えた。耳栓を詰めた彼は、しばらく布団にくるまっていたが、次の音で遂に一線を越えた。
「いいんだな! 俺もやっていいんだな!?」
 自分で騒音を撒き散らすと、された時よりも呼吸が荒く、神経が高ぶっていた。それがさらに彼を苦しめた。
 翌日、彼のスマホに管理会社から騒音の苦情が届いた。
「──俺じゃないよ! 俺も困ってるんですよ!」
「はあ。ひとまず他の居住者の方々に確認をとってみますね」
「だから俺じゃないって言ってるだろ! 被害者なんだよこっちは!」
 それでも止まない騒音に彼は叫声をもって応酬した。その数時間後、通報を受けた警察官二人が彼の部屋をノックした。
「──ここの皆さん困ってますよ。あなたの騒音に」
「だから俺じゃないんだよ!」
「失礼ですが、お仕事は?」
「休暇中ですよ、でも全然疲れとれないよこんなんじゃ!」
 彼の様子を観察していた相棒に耳打ちされた警察官は、警棒に片手を添えながらこう問いかけた。
「ちょっと室内見せてもらえますか?」
「はあ? 何でですか!」
「一応、確認をね」
「何の確認だよ! 被害者はこっちだって言ってるだろ!」
「まあ任意なんで断っても結構ですが、拒否したという事実は残りますんで」
「ふざけるなよ! 警察はちゃんと調べてくださいよ! 俺じゃないんだって!」
「はあ。とにかく一度注意しましたから。次は警告じゃすみませんよ」

 その夜、彼は泣いた。どうして、なぜ、何が原因でこうなってしまったのか……。
 このままじゃダメだ。そんな独り言を、日に何度も聞くようになった。
 数日後、彼はカウンセリングを受診することにした。ここで私たちの意見は議論を待つことなく一致した。
「ここは攻めるべきだろ」とサイモン。
「同感」とモタ。
「お姫様もいいな?」
「ええ」
 私たちは初めて意識干渉を行った。相手は彼を担当する、精神科医の資格を持つカウンセラー。彼より10歳年上で、医師の夫とピアノ教室に通う小学生の娘と暮らす、ふくよかで人当たりの良い女性だ。専門サイトのレビューでは聞き上手で安心感を与えてくれると高評価を得ていた彼女だが、ここではデタラメな診察をしてもらうことになる。
 彼には明らかに精神疾患の症状が現れていたが、私たちに操作された彼女はもっぱら健康を主張した。取り越し苦労です、あなたは考えすぎなんですよ、という言葉を何度も強調させた。
 とうてい納得できなかった彼に、さらに無神経な言葉を与える。
「ほら、病は気からって言葉があるでしょ?」
「何言ってんだよ!? ちゃんと診てくれよ!」
 今にも飛びかかりそうなくらい睨みつける彼の頭の中が、目に見えるようだった。何だこいつは、何を言ってる? カウンセラーって、こういう人間ばかりなのか? それとも、俺だけ? こいつも俺にだけこうしてくるのか? 
 診察後、彼は処方されたサプリメントを購入することなく病院を去った。意識干渉を遮断する際、サイモンは意のままに動いてくれた彼女を見つめながら、こんなことを言った。
「それにしても、いったいどういう原理なんだろうな、意識干渉って。バーチャルと言っちまえばそれまでだが」
 モタも言われてみればという顔をしながら相槌を打った。
「一度教授に聞いてみたいね。遺伝子に働きかける仕組みにしているのかな。集合的無意識の遺伝的解釈に通じてるのかも」

 帰り道、フラフラと公園のベンチに座り込んだ彼は、別のカウンセリングを検索した。それからネットバンクの口座を確認し、嘆くように頭を抱えたところに、一匹の小虫が近寄ってきた。
 付近を飛び回るその緑青色をした昆虫に気づいた彼は、ハッとした顔でスマートフォンを操作した。そして文面を追った後、どこかすがるような眼差しで、遠くに離れていく飛翔を眺めた。
「何を調べた……カナブン? 今さっき飛んでた虫か?」
 サイモンの疑問に、モタが検索文を読み上げた。
「スピリチュアルだね。カナブンは幸運の象徴とされているから。少しでもポジティブな情報を得たがってる」
「だいぶこたえてるな。順調だ」
 背骨を失ったみたいにとぼとぼと帰路につく容態から、私は干渉の中断を提案した。
「この辺りにしておきましょう」
「妥当だな。これ以上やったら、いつ首をくくられるか分かったもんじゃねえ」
「だいぶいい感じに進んでるね。今月中に退職させられればまずまずかな」
 それから仕事復帰までの数日間。久々に静かになった自室に彼は引きこもり続けていた。四六時中ゴロゴロしながら、酒に逃げ、ゴミを溜め、生まれて初めてタバコも吸ってみたが、現状打開とはならなかった。動いていないのに体はくたびれ、それ以上に疲弊した精神が、あらゆる意欲を失くしてしまったようだった。
 3日ぶりの入浴の際、彼は鏡の前で固まった。これは、こいつは、誰だ? 知らない男が、俺の部屋の鏡の中にいる……悄然と声を呑んだその顔が、そんな悲嘆に追いやられているように見えてならなかった。

 休憩中、私たちはモタが掘り下げてくれていた、彼の背景を見直していた。以下は、自治体・病院・銀行のデータなどから推察された彼の経歴だ。
 小学3年生の時に交通事故で両親を亡くした彼は、親族の一人であった母方の祖母に育てられた。小中高の文集や干渉前の彼を鑑みれば、祖母は彼にとって本当の、唯一の味方だったのだろう。
 彼名義の預金通帳には、毎年決まった額の定期金賠償が入金されていた。数字が増えなくなったのは、彼が高校生になったばかりの頃。賠償金支払いが音沙汰もなく止まり、加害者家族も消息を絶った。
 時を同じくして、祖母が脳梗塞で倒れた。発見が早く一命は取り止めるも、左半身に麻痺が残り、清掃員の仕事も辞職せざるをえなくなった。たびたび介護が必要になった生活は、次第に家の中と彼の将来に、暗雲を立ち込めていく。
 そんなある日、祖母の兄を名乗る男が家に押しかけてきた。彼が初めて目にした親戚は、何かと世話を焼きながら、少年の信頼を少しずつ得ていったようだ。祖母の介護疲れ、そして自身の将来に不安を抱いていたであろう彼が、男に頼るしかなかったのは想像に難くない。だがこれが決定的な間違いとなったのは、通帳の名義変更履歴が確たる証拠として示していた。
 モタたちは改めて彼をこう評した。
「自分の中で物事を処理するタイプだとは感じてたけど、こういう背景も影響していたんだろうね。好意を寄せる異性に一線を引いていたことも、誰にも相談できなかったできなかったことも頷ける」
「根っこのところで他人を信用できないんだろうな」
 私にも、彼の思想はその頃に形成されたように思えてならなかった。無慈悲な現実、はかりごと、そして人間の尊厳が徐々に失われていく老いというゴールに、憎悪にも似たむなしさを覚えたのかもしれない。
 見通しの立たない日本の将来……そこに明るい展望を持つことが、彼にはどうしてもできなかったのだろう。自分一人なら首でもくくればいいだろうが、もし、自分と同等以上の存在がいたとするなら、その逃げ道すらも断たれてしまう。
 ここは地獄だ。いつしか彼は、一人きりの夜にそんな言葉を吐くようになった。
 ならば、と彼はその結論に至る。愛するものをこの世に生み出すことは、果たして、正しいことなのだろうか……と、これに関してはあくまで私の推察によるものだが、大きく的は外れていないと思う──。
 私には、その確信があった。
 それをここで二人に打ち明けられたら、もしかしたらこの試験の結末は変わっていたのかもしれない。けれど私は喋らなかったし、話すつもりもなかった。

 彼の休暇は私たちにとって追い風だった。警察沙汰もそうだが、職場内の干渉をぴたりとやめることで、同僚にさらなる不信感を植え付けることができたからだ。
 そして職場復帰と共に、また干渉を再開する。とうとう我慢ならなくなった所長が、皆の前で彼を怒鳴り上げた。
「いい加減にしろ!」
「私ではありません!」
 彼は所内に悲鳴じみた怒りをぶちまけた。
「誰だ! いったい誰なんだよ!? もうやめてください! 俺に何の恨みがあるんですか!? 言ってくれなきゃわからないよ!」
「キミが来ない間は、こんなこと一度も無かったんだよ!」
「俺じゃない! 俺は何にもしてない!」
 サイテー、という言葉がどこからか聞こえた。すると彼は声の主を確かめる前に、田口にずかずかと歩み寄った。
「お前だろ」
「はあ?」
「お前が逆恨みで俺に嫌がらせしてるんだろ?」
 田口は蔑んだ目で彼を見つめながら、ため息まじりに口を開いた。
「ねえ」
「……あ?」
「今のあなた、キモくて超ダサい」
 太もも隣の握り拳が、わなわなと震えていた。込み上げる暴力的欲求に理性が抗っているのは一目瞭然だった。
 モタが満足そうに言った。
「彼女を選んだのは正解だったね」
「こういう熱しやすく冷めやすい女は使い勝手がいいよな」

 この1週間後、欠勤を挟んだ彼は退職届を提出した。せいせいしたと言わんばかりの顔を見合わせる同僚らと同じように、私も二人のハイタッチに儀礼的に参加した。だが成果を喜ぶ彼らとは違い、私はひどく複雑だった。
 そんな私の胸の内に気づかないサイモンが、ここまでを満足げに総括した。
「これでざっとスキームの半分は進捗できたな。チュートリアルは及第点と言ったところか。本番はここからだな」
「この虚無感や屈辱感を、どうやって殺意にもっていくかが重要だね」
「あの女を狙わせるか?」
「それも有りだね。ただ一本筋なプランを立てるよりも、複合的戦略の延長上にその結果を配置した方が、選択肢はぐっと増える。ここでの一番の問題は、暴力的な感情を彼自身に向けさせないこと」
 私は同意を示した上で、モタの意見に補足した。
「程度をわきまえた範疇なら、多少の自己否定や自傷欲求は効果的よ」
「うん、仰るとおり。ただ、そのバランスが最も難易度が高そうなんだよね。感情値が見えれば簡単なんだけど」
 サイモンが陽気にお手上げしながら言った。
「俺にはそこらへんの細かなさじ加減は無理だぜ。得意分野じゃないし自信もない。こっからはお姫様に任せるのが最善だと思うが、モタはどうだ?」
「異論は無いよ。僕も同感だ」
「それじゃ、今日はここまでにするか。十分休養をとって、明日も同じ時間に始めようぜ。残り48時間だ。遅刻するなよ、お姫様」
 上機嫌な二人とは違い、私は気が重かった。この時はまだ分かっていなかったが、なにか、そう……物事の歯車みたいなものが、だんだんとズレてきている気がして……。

 自宅のソファーに腰を沈めた時、私はひどく疲弊していることに気づいた。肉体的な疲れではない。私の中の、どう呼ぶのが最適かいまだに分からない部分が、寄せては返す波のように、ざあざあと感情を揺らしていた。
 そういう時、私はひどく、孤独を感じる。
 だからこの日も、法規的リスクを意に介さずに『Another』にアクセスすることにした。


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 シミュレーションに用いられる仮想現実。下位互換のものなら何十年も前からあったが、この『Another』は遥かに精巧だった。難点を挙げるとするなら、プログラミング上の都合で巻き戻し機能を備えられないところだが、私はこの仕様に疑問を拭えずにはいられなかった──。
 私には、それほど難しい技術構築には思えなかったからだ。
 とにかく、私はできるだけ頭をクリアにして『Another』を観察した。
 
 ライトを点けなくても辺りを見渡せる、満月の夜だった。田畑の広がる高架下、監視カメラなど見当たらないスペースに2台の車が止まっている。どちらも十分な荷を詰め込められる黒塗りのバンで、後席以降の窓にはスモークフィルムが貼られている。
 そこにヒロヤの運転する白の国産クロスカントリー車がやって来た。助手席にはサトミが座っている。
 ヒロヤの下車に伴い、バンの運転席から男たちが降りてきた。どうやら仕事前の顔合わせのようだ。ヒロヤがサトミを端的に二人に紹介する。元ラグビー選手のような体つきの坂口と、小柄でメガネをかけた斎藤。どちらも同年代で、それらの瞳は何色にも染まらない黒を強く映していた。
 坂口は見たとおり、主に力仕事を担当し、斎藤はサイバー系の情報担当。契約者への接近や交渉も行うらしい。そして決定権と実行権を持つリーダーがヒロヤ、という3人の組織だった。
 それらの単語の意味をまだ理解できていないサトミを差し置いて、ヒロヤは二人にこう告げた。
「事前に伝えたとおりだ。不満はもちろん受け入れるし、お前たちの意見を優先的に支持する」
「問題ない」と坂口は短くまとめた。
 斎藤も、涼しい顔でこう言った。
「間瀬が決めたことなら、俺も文句はないよ。確認はそれだけ?」
「ああ」
「なら、今回もいつも通りやろう。冷静に、粛々と」
 ヒロヤの車を先頭に、3台が同じ方角へ走っていく。行き先も仕事内容もまるで見通しの立たないサトミだったが、安易な前情報を嫌ったのか、質問はしなかった。
 そんな彼女の心情に気づいたのかは定かではないが、ヒロヤはこう念を押した。
「分かってると思うが、これから見聞きするすべてが口外無用だ。基本的に俺の指示には従ってもらうが、拒否は認める。ただし指示の対照的となる言動は許さない」
「破ったら私を殺す?」
「さあ、どうだろうな。その辺りのルールはきちんと決めていないから」
「どうして? 一番重要なことでしょう」
「俺もあいつらも、分別はつけてる。カッコよく言えば、腹をくくってるってとこか。あいつらが今に至った経緯には絶望が欠かせなかったし、俺は元から狂ってた。ありていに言えば、ろくな死に方はできないと自覚してるんだよ」
「だから、裏切りや情報漏洩にも寛容になるってわけ?」
「やれるだけのことはするさ。こう見えても、毎日神経すり減らして生きてるんだぜ? お前もそのうち分かる」
「英雄の条件とは、戦場で高揚できる者だってフレーズを聞いたことがある」
「へえ」
「あんたは、昔のどのあんたよりも、生き生きして見える」
 少し考える素振りを見せたあと、ヒロヤはこんな話をした。
「ある種の人間に共通する幸福に、待ちわびる時間というものがある。ラーメン屋の長蛇の列に並んだり、新作ゲーム購入のためにせっせと小遣いを貯めるガキってのには、いずれ来るであろう満足、それまでの時間を楽しめる性質があるらしい……ま、今のガキはゲーム屋に並ぶなんてことは無いだろうがな」
「意味わかんない」
「それが正常だよ」
 車は昔二人でよくつるんだ山林に入っていった。
「ここ、車で登るのは初めてね。勝手に入って大丈夫なの?」
「問題ない。買ったから」
「は?」
「この山林全部、俺の所有物だ」
「そんなに思い入れあったの?」
「色々と便利だからな。手入れに大変なのが玉にキズだが」
 車は開けた山頂へと向かっていた。
「ねえ」
「なんだ?」
「あの人たち、本名?」
「ああ」
「コードネームとか付けてるものだと思ってた」
 ヒロヤは鼻で笑った。
「上京してから映画鑑賞の趣味でもできたのか? 信頼関係で成り立ってる組織で本名を使わない奴なんて、真っ先に外される」
「あんたは、私を信頼してる?」
「さあ……どうかな。疑っていないのは本当だが、もっと適切な言葉がある気がするよ」
 初めて目にするその横顔に、サトミは聞くつもりのないことを口走っていた。
「病院の、あの受付の人」
「あれがどうかしたか?」
「もう抱いたの?」
「知りたいか?」
「やっぱりいい」



 山頂に着くや、息を合わせた男たちが手慣れた様子で機材を立て掛けていった。光の飛び散らない照明(ビデオライト)を向けた地面にブルーシートを敷き、コンデンサーマイクを配置し、webカメラを取り付けたノートパソコンをサトミの目の高さに設置した。
 手持ち無沙汰で眺めていたサトミにも、これから何をするのかはだんだん読めてきた。
「撮影するの?」
「中継だよ。見たい奴に見せる」
 サトミがパソコン画面を覗こうとした時、指を差したヒロヤにキツく制止された。
「お前は映るな。カメラの後ろにいろ」
 サトミは黙って従った。程なくして中継環境が整うと、坂口は自分が運転してきたバンに向かい、ハッチバックドアを開けた。間瀬は別のパソコンで音声や明るさなどの調節、録画作業、そして山林の隅々に配置した監視カメラの確認に専念するため、カメラに映るのはヒロヤだけになった。
 幼なじみは間瀬ヒロヤとも素の彼とも違う顔つきになると、淡々とした、だがそれでいておごそかな声色で口火を切った。
「こんばんわ。映像、音声、明暗、どれも異常はありませんか?」
「はい、大丈夫です」
 ヒロヤ側の画面に映っていたのは、60代ぐらいの女だった。後で調べて分かったことだが、実年齢は48歳だった。
 ヒロヤは女を甲様と呼んだ。
「それでは甲様、契約書を画面に映るように掲げてください」
 女は文字がはっきり映るように書類を掲げた。
「結構です。では、契約内容の音読をお願いいたします」
 女は契約書をすべて読み上げた。内容は機密保持の誓約に、それを破棄した際の罰則。そして後金の支払い手段などなど。端的に言えば、口外や情報を漏洩させた場合、依頼主の安全は保証されないといった文面だ。
「結構です。改めて確認させていただきますが、貴殿の行為は殺人教唆および幇助に該当されます。ご口頭された契約内容に同意なら、今一度、その意思を明確にご提示お願いいたします」
「同意します」と女は即答した。
「結構です。それではこれより、実行に移ります」
 坂口のバンから男のうめき声が聞こえてきた。まもなく彼が襟ぐりを引っ張って連れてきたのは、二十代前半の、反社会な風貌をした男。縛られた手足は筋弛緩剤でも投与されたのか、抵抗することなく土を削っている。
 ブルーシートに放り転がされ、猿轡に結んだタオルがほどかれると、男はわけの分からぬ恐怖と困惑に、怒りと虚勢で抗った。
「ここどこだよ!? てめえら何なんだ!? 何してるのか分かってんのか! 冗談じゃすまねえぞ!?」
「気が合うな。俺も冗談は好きじゃない──」
 ヒロヤは涼しい顔で男の太ももにナイフを突き立てた。
「清算の時間だ。お前たちの人生のな」

 百聞は一見にしかずを体現するかのように、サトミの顔が見るからに曇っていく。覚悟はしてきたはずなのに、男のリアルな怒号と、いざ目の前で行われる凄惨な行為には、言いようのない恐怖で足がすくんだ。
 だがヒロヤの口から彼の悪歴が述べられていくと、今にも逃げ出しそうだったサトミの顔が、青から赤へと、生気(いかり)を滲ませていく。
 男は女子高生強姦殺人の容疑者メンバーのリーダーだった。政治家である父親の傘の下で、似たような余罪をいくつか抱えていた。
 それを聞いたサトミに、私は目が離せなかった。

 罪人と英雄の違いは、そこに義務が生じるかである。
 幼少の頃愛読していた冒険小説に、そんなフレーズがあったのを、私は思い出していた。戦や刑で人を殺す、軍人や執行人……そこには大義名分がある。
 サトミもまた、大義名分という紅潮を頬に浮かべているように、私には見えた。彼女の怒りが、敵意が、嫌悪が、男の存在を明らかに拒絶していた。それはこの時代の人類に植え付けられた、ありきたりな感情推移と言えるだろう。
 だが彼女は、いわゆる普遍的な人間ではなかった。
 私が根拠を見つけられぬままに目を引かれた女であることを証明するかのように、頬の赤みに、怒りや憎しみ、はたまた罪悪感とも別種の……いわば彼女の"芯"が、拒むように肌を波打ち、苦渋の表情へと変えた。
 彼女の心情を覗くことなく、私には、みえた。
 人が生来抱くもの……積み重ねられた遺伝子がもたらす感情、どうしたって逃れられないその鎖から、必死に抗い、西原サトミという"個"を、守り抜こうとしていることを。
 答え合わせをするように、私はサトミの中身を覗き見た。

 そこには、いくつもの葛藤と諦めを根底に、さまざまな嫌悪と絶望、みるみるとあふれてくる怒り、そしていくばくかの期待が、泥の滲んだ水底の色に挟まれていた──。
 それが、ぐるぐる、ぐちゃぐちゃと、かき混ぜられている。
 いま、死を目の前にした男よりも、私はサトミの心の激流に気圧されていた。そこにはまるで走馬灯のように、彼女のこれまでが凝縮されているようだった。あの頃感じていたこと、忘れられなかったこと、忘れてしまっていたこと、傷跡のように心に刻まれたこと、そして、別れた夫のこと……洗濯機の中にでも放り込まれたみたいに、私は彼女の渦に取り込まれそうになった。

 ヒロヤは淡々と作業を行っていた。医師である彼が理解する、人がもっとも苦痛を覚える拷問を、男がどれだけ泣きわめいても、すました顔で躊躇なく続けた。
「──なんでだよ……なんでこんなことすんだよ……」
「ご息女の受けた何倍もの苦しみを与えてくれと頼まれている」
 男はそこで初めてパソコン画面に目を向けた。今にもくたびれそうに疲れきった女が、指を組みながら、彼を憎悪に満ちた眼で睨みつけている。
「はあ……? 意味分かんねえよ……答えになってねえよ。ふざけやがって……殺してやる。絶対殺してやるからな!」
「お前、想像力が乏しいって通知表に書かれたことないか? ここで依頼人を挑発して何が変わる。イキったぶんだけ痛い思いをするってことくらい、自分を中心に地球が回ってると勘違いしていても学習しておけ」
「なんでなんだよ、何で俺なんだよ!」
「安心しろ。お仲間はとっくに溶けて下水に混じってる」
 さらなる激痛に、男の語調も弱まり、会話もちぐはぐなものに変わっていく。
「意味わかんねえ……人間じゃねえよお前ら」
「人間しかやらないだろ、こういうことは」
「地獄だあ……お前ら全員地獄行きだよ……俺を誰だと思ってんだ? こんな、めちゃくちゃなことやりやがって……地獄に落ちないわけねえだろうがよお……」
「そういう、子供の頃にとった100点の答案を後生大事に抱えてそうなセリフじゃなく、もっと悪人らしいセリフを吐いてくれないと。こっちもお決まりのセリフを言えなくなるだろ。まあ仕方ない、いつも以上に気が進まないが依頼人の溜飲を下げるために言ってやる。因果応報ってやつだ、受け入れろ」
「俺とあいつらは違うんだよ! 生まれた時から何もかも! 一緒にすんじゃねえ!」
「同じだよ。理科室の人体模型を見たことないのか? 炭素に酸素に水素に窒素、それからリンとカリウムとカルシウム原子の集合体が、水で動いてる。それがお前たちだよ」
「意味分かんねえよ……不公平なんてどこにでもあんだろうか。それが現実だろうがよお」
「違う。"これ"が、現実だ──」
 それは、ヒロヤが今までに獲得してきた疑問への答えに他ならなかった。
「お前は、いま、ようやく気づいたんだ。死が、終わりではないことに」
 みるみると顔を歪ませた男は、この時、生まれて初めて恐怖を感じたのだろう。そんな彼に、ヒロヤは囁く口調で、けれどはっきりと伝わる音量で言った。
「死んだら終わりだ、何もかもが消えてなくなる、なら、好き勝手生きた方が絶対特に決まってる……なんて、思っていただろう。でも"お前たち"は、もう気づいてる。己の間違いに。だから汗がねばついて、声を震わせてる。舌を噛みそうな言い回しをして、息を上げてる。お前たちの体が証明してる。そうではないんだと、お前たちの心が体にあらがってる」
 ヒロヤは特定の人種の呼称に、お前たち、をよく用いる。
「どうして人は葬式を挙げると思う? 世間への見栄? 死者への建前? どうして人は老いると、形而上的なものにすがるのだろうか。死への恐怖? これまで散々現世のものだけを重視し、触れ得る物だけに囚われてきたのに?
 俺が思うに、お前たちは皆、悟るんだよ。死に近づいた時、真理を垣間見るんだ。この生が終わっても、この魂は消えないって気づくんだ。だからどんなクソ野郎も、最期は神にすがるんだ。怖いからだけじゃない。自分がどれだけ間違っていたかに気づいて、赦しを請うんだ。なあ、思い出してみろよ。お前たちがこれまで目にしてきた人間の中で、経済的な理由や表沙汰にしたくない死を除いたら、ほとんどが葬式をしていただろう? わけの分からないお経を聞かされて、見向きもしなかった神父の声を聞いて、クソ面倒だ早く帰りてえと思いながらも、その形式には倣ってきただろう? 棄てられないんだろうさ、それは。どんな善人も、どんなクズも、お前たちは最期にはそれにすがらざるをえないんだ。なあ、それこそお前たちの言う"現実"ってやつなんじゃないのか? なあ、まだ分からないのか? これでも目をそらすのか? 現実から目をそらしてるのはお前たちのほうじゃないのか?」

 ヒロヤは男のすべてを否定していく。
 男の眼球から決して目を離さないヒロヤにだけは、視えていたのだろう。感情可視化システムを通してみても見ることのできない、なにかが。
 やがて男は、観念したといった顔で、その扉を開いた。肉体がどんどん冷たくなっていく中、自分のすべてを否定され、間違っていたと諭され、もうどうにもならないことに気づいたその時、自らの意思で、そっと……。
 男は色を失った顔で依頼主をじっと見つめた後、ヒロヤの方を向いて、力無く、それでもどこか懇願するような声で、こう言った。
「殺してくれ」
「わかった」
 月影に黒い華が咲くのを、サトミは目をそらさず見届けていた。
 ヒロヤは、息絶えた男の頭上にしばらく目を凝らしていた。
「出ない……か──」
 どっちが幸福なんだろな。
 ぽつりと呟かれたその言葉を耳にしていたのは、おそらく私だけだった。

 依頼主は何度も頭を下げていた。号泣し、組んだ指を額に掲げて、ねぎらいの言葉を繰り返しながら、何度も何度も。
 中継が遮断され、斎藤が機材の片付けに取り掛かる。坂口は男ごとブルーシートを畳んではダクトテープを巻き付け、肩に抱えてバンに乗せた。
 一人夜空を仰ぐヒロヤに、サトミは問いかけた。
「何がみえたの?」
 ヒロヤは自分の瞳を指差しながら言った。
「人は恐怖に支配されると、瞳の色が変わる。これは比喩ではなく、ホントに俺にはそう見えるんだ。そして死と同時に、その瞳から赤黒い靄みたいなものが宙へと漂う。それは水をかけられた焚き火の煙みたいに、一瞬だけ舞って、フッと消えちまう。ただ、出ないやつもいる。俺は病院で数え切れない患者の最期を見てきたが、その法則性はいまだに分かっていない」
 撤収作業が終わると、斎藤が一足先に下山していった。この10分後、坂口も私の知らないどこかへと車を走らせていく。
 その前に、坂口は後部座席のドアを開けた。
 ヒロヤは幼なじみの顔に戻してから、サトミにこう告げた。
「ここからはお前の仕事だ」
 坂口の車から自らの足で降りてきたのは、サトミと同い年の女だった。


────────────


「──よし、ちゃんと外部受信がオフラインになってるな」
 教授に陰口がバレていたことを知ってからのサイモンは、室内の通信状態を毎朝チェックしていたが、今日は特に念入りだった。
 もしかしたら、彼の潜在意識が無意識に警報を上げていたのかもしれない。
 残り48時間。これから私は、この研究室にバス・トイレが備え付けてあることを心底憎むことになる。結論から言うと、試験終了まで私は自宅に帰れなかった。いや、正確には、帰らなかった。

 『Another』内の季節は冬が明けようとしていた。振込みの止まった通帳は、とうとう移住資金を崩し始めた。
 それでも彼は滅多にアパートの部屋を出なかった。灯りも暖房もろくにつけず、布団にくるまりながら、時折思い出したように酒を口に運ぶ。その様は地縛霊か何かにしか見えなかった。けれど薄闇にきらめくおぞましい眼光だけは、日に日に研ぎ澄まされているようだった。
 ここからの干渉は慎重を期したものになった。怒りと落胆の比重を偏らせないよう、何もしない日もあれば、彼が気晴らしに出かけたドライブで信号をすべて赤に変えたりもした。
 この頃から、干渉時には彼の言動に暴力性が見られるようになった。握りこぶしをトンカチに見立ててハンドルを叩き、時には叫びながらクラクションを鳴らす日もあった。
「あー、知ってるよ。お前らわざとやってんだろ、いっつもこうだよ!」
 いつからか彼は、お前ら、という単語をよく口にした。
「分かってんだよ……お前らは俺を殺したいんだろ? 分かってんだよ! お前らの目論見はお見通しなんだよ!」
 それでも晴れた日には生来の生真面目さが起因したのか、何とか現状を打開しようとすることも少なくなかった。そんな時は静観し、立ち直りかけた頃にまた干渉を再開する。何をやっても上手くいかない苛立ちや不安を、他者へと向けさせるよう仕向けるためだ。徐々にバランスを崩し、実行へと促す。それが私たちの狙いだった。
 その、予定だった。

 残り45時間を切った頃から、サイモンがたびたび私のやり方に疑問を投げかけ始めた。
「なんかヌルくねーか?」
 モタも「少しペースを上げよう」と言ったので、私はあまり気が進まなかったが、干渉をより暴力的なものにしていった。
 試験開始から40時間が経過した。残り32時間。昨日までならすでに帰宅していた時間帯だったが、二人は半ば命じるように徹夜を主張した。
「時間は無限じゃないんだぜ、お姫様」
「頑張り時だよね、ここは」
 この時は、焦りが二人をはやらせていたのだとばかり思っていた。だがそうではなかった。
 それは残り15時間を切ったところで分かった。季節はまた秋がやってきていた。『Another』内の期限も、残り30日と迫っていた。
 この頃の彼はすでにアパートを退去し、隣県の公園沿いに停めた車で車中泊をしていた。何日も洗ってない上下のスウェットに、フケだらけの長髪に白の混じった髭の手入れも怠った身なりは、心身共にボロボロであることを物語っていた。一日中車から出ない日も珍しくなく、たまに降りては汚れたペットボトルの中身をトイレに流し、ごくごくと水道水を頭から浴びた。
 食事はいつもスーパーの惣菜だった。半額シールが貼られるまでじっとそこに立ち尽くしているものだから、近隣では悪い意味で存在を知られていた。
 町中での行動時、彼は自分には無いものを持っている人間に対して何度も同じ呟きを繰り返した。
「地獄に落ちろ。地獄に落ちろ。地獄に落ちろ」
 それは、最終的には次のように変わった。
「地獄行きだ。お前ら全員地獄行き。地獄行き確定だよ。お前らが地獄行かなかったら誰が行くんだよ」
 ずっと観測者としての立場を保っていたサイモンが、初めて顔をしかめながら舌打ちした。
「胸糞悪い野郎だな。てめえの人生くらいてめえでどうにかしろってんだ」
「不遇には同情するけど、あまりに見苦しいね」とモタも不快感を言葉に代えた。
「てめえが持ってないものはてめえが獲得できなかったものだろうに。周りのせいにする前に腹でも斬れよ」
 私は、複雑な感情を必死に抑えていた。彼をこんな風に変えてしまったのは私たちだ。それなのに、二人には罪悪感などなく、むしろ嫌悪すら抱き始めたのだ。
 その後も人道に反した干渉が続く。尻込みする私に、二人はよく批判をぶつけるようになった。
「だからヌルいっつってんだよ、お姫様!」
「減点を気にするのは分かるけど、リスクを恐れず攻めるケースもあるよ」
 何かが、狂い始めていた。どんどん過激になっていく干渉を、私は銃撃の何倍も残酷な所業に感じてならなかった。

 大戦を契機に多くの人類は地上を放棄し、地下を開拓した。失ったものは数知れなかったが、獲得したものも少なくなかった。
 だけどこれは……いったい何を得られるというのだろうか。博士号? トップ・ステイタス? 違う。少なくとも今の二人の原動力は、そんな生易しい功績などではない。看守と囚人の事例のようで、それでいてまったく異なる理屈や動機が、二人を豹変させている。
 何が、二人を突き動かしているのか。二人を操っているのは、何か──。
 今、私たちは、なんの研究室にいるのか。
 それを改めて知った時、私は自分の中にあるすべてに、疑念と恐怖を向けずにはいられなくなった。

 ノイローゼは伝染しやすいとモタは言った。私は、人が壊れていく経過は、見ている者をも壊していくのだと、思わずにはいられなかった。
 いつしか二人の視線は、まるでモルモットとなるネズミでも眺めているかのようだった。いや……もしかしたら、最初からそうだったのかもしれない。それとも、私だけだろうか。私だけが途中で、普遍の波から弾かれてしまったのだろうか。
 私に二人を非難する権利などあるはずもないが、ただただ込み上げるこの感情を、上手く確かめることができず、じっと口をつぐむしかできなかった。
 二人の干渉は、さらにエスカレートしていった。もはや試験の合否よりも、彼に殺人を犯させることだけを目標にしているみたいだった。
 見かねた私は、たまらず口を挟んだ。
「相当減点されるわよ」
 二人はこちらを見るともなく、また許可すら待たずに干渉を進めた。
「それがどうした。殺せないよりはマシだろ」
「キミらしくないね。結果が出なきゃ、どんな過程も無意味でしょ」
 二人は彼の車内に物理干渉として銃を置こうとしていた。
「やめなさい」
 異性には紳士的であるはずのサイモンに、初めて腕を乱暴に振り払らわれた。
「なんだ? 今さら偽善ぶるのか? 自分は違うとでも言いたいのか? この試験に参加した時点で、お前も俺らと同類だろうが」
 モタも止めるどころか、サイモンに加担した。その顔に、美男子の面影は見当たらなかった。
「前にスピリチュアルを気にしていたよね。ここからは形而上的な角度から切り込んだ方がいい」
 モタは車の助手席に、銃と共にこんな文面を添えた。
『お前を苦しめているのは、この世のすべて。己の感情に従え。心を解き放て』
 贈り物に愕然とする彼に、二人はまた騒音を再開させた。力士の突っ張りさながらの音と振動が、車体の上下左右から延々と繰り返された。
 頭を抱えた彼の悲鳴が止まらない。いつしか規則性に則った干渉に、彼はひどく時間に怯えるようになった。1時になればあの干渉、2時になればこの干渉と、彼を休みなく追い込んだ。

 残り10時間を切った時には、私は試験に参加していなかった。二人を咎めることも抑止することもなく、黙ってチェアに座り、じっと結末までを見届けていた。
 タイムリミットまで3時間。虫も寝静まった深夜、彼は何かに掻き立てられたようにエンジンをかけ、アクセルをベタ踏みした。干渉された信号の色など意に介さず、法定速度を何十kmも違反して。
 すかさず二人は110番通報した。車の登録番号標を告げ、暴走の証拠となる録画映像を送信した。
 隣町に入ったところで、パトカーのサイレンが鳴った。その台数は次第に増え、夜が明ける頃には10台が彼を追っていた。
 手頃な場所を見つけた二人は、彼の車に干渉して標識に左前方をぶつけさせた。スピンした車はそのままガードレールを突き破り、道沿いの田畑を荒らしながら停止した。彼はアクセルを踏み続けたが、まもなくボンネットから上がった煙が車内に立ち込めると、咳き込みながら下車し、車体の陰に身を隠した。
 その時、彼はいずれかの運命を享受せざるをえなくなった。助手席のグローブボックスにしまったはずの銃が、干渉によってスウェットのポケットに入れられていたからだ。
 停車したパトカーから次々と警官が集まってくる。
 サイモンたちがアイコンタクトを交わす。
「警官が銃や警棒を構えたら消すぞ」
「了解」
 何かにとり憑かれたように、彼が震える指をトリガーにかける。
 モタが呪文のごとく動詞を繰り返す。
「撃て。撃て。撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃て」
 業を煮やしたサイモンが、画面に向かって叫んだ。
「黄色い猿でも撃ち方ぐらい分かんだろ! 撃てや!」
 残り1時間。彼の退路はすでに、一つしか残っていなかった。だが私と彼には分かっていた。その一つの道をどう捉えるかで、行く先が分かれていくことを。
 彼は眼前の銃と声を、痛切に震わせた。
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。殺したくない。死にたくない。でも死ななきゃ。早く死ななきゃ。死にたくない。許せない。憎みたくない。でも誰も殺せない」
 警官が集まってくる。サイモンが狂ったように叫んでいる。
「俺は、何のために生まれたの? 意味はあったの? なかったの? ばあちゃんは幸せだったの? あの子は、俺と離れて幸せになれた?」
 殺人をけしかけるサイモンの怒声が、たびたび彼の言葉を遮っていた。
「人生って何のためにあるの? みんな消えるのに。死んだら全部無くなるのに。ただ、そこにあっただけ? 意味はないの? 最初からなかったの? そこらに転がってる、路傍の小石と同じ? なら、どうして、心なんてものがあるの? 誰が、どうして、なんでそんなものをつくったんだよ!」
 回り込んでいた警官が、彼の銃に気づいては指示を出した。2台のパトカーが盾となるように前方へと移動していく。
「あるはずなんだ、意味は……無いなら作ればいい。そうだ。そうだよ! ばあちゃん言ってたよね!? つまらなかったら楽しめばいい。欲しいものがあったら作ればいいんだって……そっか──」
 人生は、その先を、つくるために、あるんだ。
「だからお前らは地獄行きなんだ! そうだよ! わかった、全部わかったよ! つくれるんだ! 俺だけがつくれるんだよ!」
 彼が上空に向かって銃を撃ち出すと、警官たちは慌ててパトカーを盾に隠れた。辺りはしんとし、小鳥が向こうの空へと飛んでいた。その鳥たちが見えなくなるまでの18秒の間に、試験は終わった。
 聞き取れないいくつもの言葉が、煙のように薄れては消えていった。彼の顔から判断するには、それは、何故とか、助けてという類いのものだったと、思う。
 サイモンとモタが取り乱す。画面に向かって大声を放つ。銃口は、いま、彼の顎にぴたりとつけられている。
 最期に彼の頭の中を占めたのは、何だったのだろう。誰、だったのだろう。
 私だけが、見当がついていた。
「ごめんね……幸せにできなくて……」



 ピッピッピー、と試験終了のタイマーが室内に鳴り響いた。獰猛な獣のごとく頬を震わせながら怒声を上げたサイモンは、何度か床に踵を叩きつけた後、スラングを二,三語まくしたてながら退室した。
 対照的に、モタは頭を抱えていた。まるで、悪い夢から覚めたとでも言わんばかりに、息を整えながら冷ややかな汗を流していた。そして、あちこち彷徨わせた瞳を私に向けて、確認するような、それでいて霧の中にでも手を伸ばすかのように、こう問いかけた。
「これは、いったい、何の試験?」
 私には、何も言えなかった。

 モタが退室して数分後、眼前の空白が波打った。通信制限を解除すると、現れた長方形の画面の中で、教授が満足そうに微笑んでいた。


────────────


 この時の私は、まだ試験の結果を知らなかった。もし知っていたら、サトミの行う次の行為が、もっと別のものに映っていたのかもしれない。

「──意思は変わらないか?」
 ヒロヤの確認に、彼女はこくりと頷いた。今しがた、男がむごたらしく殺されたのを車内から見ていたにも関わらず、痩けた顔に恐怖は見られず、また生気もなかった。
 女は難病の長期患者だった。10代前半に発症し、一般人が獲得するであろうとりどりの喜びに、手を伸ばすことすら許されなかった。子供の頃はまだおぼろげな期待を抱いていたが、大人になるにつれ獲得よりも喪失の多さに気付かされると、これまで堰き止めていた心がついに不安の波に追いやられ、それはさまざまな合併症となって彼女を苦しめた。
「ここに座ってくれ」
 坂口が敷いた毛布に彼女は腰を下ろすと、ヒロヤやサトミに注射器を手渡した。中身はバルビツール酸などを調合した化学物質。一言で言えば、安楽死の薬剤だ。
「断罪は俺がやる。お前は救済をやれ」
 サトミは拒絶するように答えた。
「違いが私には分からない」
「結果は同じに思えるだろうが、その過程はまるで違う。つまりはまったく別のものだ」
 注射器を掴んだ手の震えが止まらない。血を吸う害虫を殺すのとは訳が違う、まるで別種の死を与えるという行為に、サトミは恐怖を隠せなかった。
 そんな彼女に、女は気遣うように声をかけた。
「ごめんなさい。私も同じ立場だったら、躊躇すると思う」
 どうして……。そこまで言いかけて、サトミは口をつぐんだ。痩せ細って、今にも折れそうなこの人が、自分と似たタイプなのだと思えてならなかった。
 そんな人にあれこれ言えるほど、サトミはバカではなかった。だがいくら深呼吸を繰り返しても、震えが止まらない。そんな幼なじみを、ヒロヤはどこか安堵した様子で眺めていた。
「それでいい──」
 硬い仮面をポロポロと崩していくように微笑んだヒロヤは、そっと注射器を取り上げると、女の背中をサトミに預け、あたたかみのある声で言った。
「手を汚すのは俺がやる。お前は、この子の支えになってやってくれ」
 ヒロヤに袖をまくられ前腕が剥き出しになると、女はたまらず恐怖を思い出した。長い苦しみの末に構築した決意をあやふやにしていく未知が、喉を渇かせ、唇を震わせる。
 このままじゃダメだ、とサトミは感じた。この子も、そして私自身も。
 サトミは座椅子のように彼女を支えながら呼びかけた。
「ねえ」
「うん」
「何か、お話して。あなたのこと、何でもいいから、聞かせて」
 意外そうに浮かせた唇が、まもなくその震えを止める。ヒロヤは坂口に、車内から彼女の上着を持ってくるよう頼んだ。

「──テレビのドキュメンタリーで、芸人さんが苦労話を語ってたの。ずっと上手く行かず、何度も挫けそうになったけど、たくさんの人に支えてもらって成功できたと。その話を聞いた時、私は、もういいやと思った。私には、支えてくれた人なんて一人もいなかった。私は……そっちに行けなかった」
 脈絡のない語り口でも、サトミには痛いくらい伝わっていた。 
「みんな、残された者の気持ちは、何て言う。じゃあ、私の気持ちは? お前たちの言ってることは、救いのないこの世界で、死ぬまで苦しんでいろと言ってるのと同じことだ」
 これまで誰にも話せなかったんだろう、とサトミは感じた。どうしてこの世に教誨師という職業があるのか、この時初めて理解できた気がした。人が猫の言葉を理解できないように、男と女が別の生き物であるように、枠外に弾かれた者には、一人の理解者もいないのだ。
 だけど、せめて誰かに聞いてほしい。
 分かってもらえなくとも、自分の想いを……そんな生があったのだということを……。
「──子供の頃から、ずっと、締め付けられてきた……背骨の辺りに、何とも言えない心地良さを残して、それはやがて、すーっと消えていくの。それは……だんだんと起こらなくなって……」
 一粒の涙とともに、想いがこぼれ落ちるように口にされた。
「きっとあれは……私の一番大事なものだったんだろうな……」

 からっぽになったきっかけを、ずっと探していた。
 どんなに努力しても、叶わない事が多すぎたこと。
 そして、彼女の望むほとんどのものが、そんな理不尽の中にあったこと。
 それらの終わりに、こたつのぬくもりのような、あたたかな安らぎがなかったこと。
 この子は、そんな空洞の中に、いくつもの憎悪や絶望を詰め込んでいるのだろう。いったい、どちらが適切で正常なのだろう、とサトミは胸を痛める。分かっていたのは、自分もこの子も、このまま終わったら悲しすぎる、ということだけだった。
 だからサトミは、彼女の手を取らずにはいられなかった。唇の裏で歯を食いしばりながら、強がるように笑いかけた。
 人は皆、あらゆる線の中で生きている。望む望まぬに関わらず、誰もが、皆。
 ほんのちょっとの差なんだ、とサトミは優しく、力を込める。手を引かれるか、払われるか、握ってもらえるか、突き飛ばされるか……そんな、ほんの些細なことで、手を伸ばせば届きそうな線の向こうに行けない人たちがいる。

 適当な加減が、サトミにはできなかった。
 物事を0か100で判断する短絡的な人間ではないが、こと自分の言動に関しては、意思と肉体の疎通を欠かせなかった。物心ついた頃からやると決めたら全力でやるし、やりたくないことには体が中々ついてこなかった。それでも俯瞰的に自分を見れる彼女は、結局無理をして、すり減っていった。
 今もまた、彼女はすり減っている。けれどそれは悲観でも、流されてきた諦観によるものでもない。
 彼女は自ら己を削る。それが生きることなのだと、信じながら。
「楽しいことを考えて」
 自分の言動に関しては、意思と肉体の疎通が欠かせなかった。だから、その言葉を伝えるためには、ヒロヤの代わりに注射器を押す必要があった。
「好きな食べ物でも、行きたいところでも、着たかった服でも何でもいい。あなたの好きなもの、楽しいこと、欲しい物を思い浮かべて。それがきっと、あなたを形成するものだと思うから。あなたを支えてきたものだと……あなたのために……あったものだと、思うから──」
 次の言葉を、サトミは自身の心に言い聞かせた。
「人は、最後の最期だけは、苦しみで終わっちゃいけないんだ」

 私が彼女に目をつけたのは、一目惚れに似て非なるものなのかもしれない。
 人には理解者が必要だと、誰かが言っていた。理解に至らなくとも、共に歩んでくれるパートナーや、自分が自分でいられる居場所は、人には必要なものだと思う。
 私も彼女も、その存在を必要としていたのだろう。

「──もう、大丈夫」
 女の返事といくらか晴れた笑みを確認し、サトミはヒロヤの指示を仰ぎながら、針を静脈に入れた。
「背負わせてしまって、ごめんなさい」
「謝らないで。謝られたら、私は自分を繋ぎ止めていられなくなる」
「うん……わかった──」
 女はサトミの頬に手を当て、想いを伝えた。
「ありがとう」

 武士が腹を斬るように。カゲロウの産卵のように。
 それは不遇に抗うものではなく、苦しい物語を受け入れた上での、後腐れのない句読点のようだった。
 目尻からそっとこぼれた、肌にすがりつくように垂れていくその一筋を、サトミは指の腹で優しくすくいとる。見返りも何も求めない女の言葉は、暗闇を受け入れようとしている女の胸にこびりついた永年の濁りを、なめらかに濾過していく。
 生き方を選べなかった者が、せめて、最後だけは自分で選択し、せめて最期だけは、すがすがしく終わりたいがために……。
 それは右向け右の羊と化した信者の在り方ではなかった。彼女たちは、目をそらさず、耳をふさがず、あるがままの自分のままで、終わりを迎えるのだ。
 女は死にかすかな希望を抱きながら。
 サトミは絶望を振り払うために、生にしがみつきながら……。


 坂口が無言で彼女を仰向けに抱きかかえる。後部座席に寝かせるその様は、いつくしみに満ちたものだった。
 サトミは坂口のバンが見えなくなっても、しばらく彼女を目で追っていた。そして排気音が聞こえなくなった頃、ようやく重いまぶたをおろし、その熱をしみじみと感じた。
 死はその人のすべてが消えるものだと思っていた。それは揺らぎこそすれど、今でも変えられない結論だった。
 それでも……と星空を仰ぐ瞳は、渇いて消えていくだけの涙に包まれながらも、うかがい知ることのできないその先を、思い描いた。サトミは知った。死者だけがその後をつくるのではない。遺された者も、こうやって、いなくなった人のために祈ることができる。望むことができる──。
 ああ、これが、命の繋がりなのかと思った。
「──初めて見たな……」とヒロヤは夜空を仰いだ。
「あの子は、どんな色をしてた?」
 ヒロヤは口にした言葉と同じ声色で答えた。
「あったかかったよ」


────────────


「──やあ、お疲れ様。ご機嫌いかがかな?」
「……良いように見えますか?」
「ふふん」
 すべては思い通りに進んでいる……そんな顔で鼻を鳴らした彼に、私は険のある物言いを止められなかった。
「教授は、私たちを観察するのが目的だったのですね」
「事実的根拠を採集するに最もな方法はご存知だろう。感情移入だ。それには第三者的な視点が不可欠でね。観測者という立場の被検体は実に理に適っている。過去には注目された作品そのものよりも、それについて書かれたレビューに着目し、その時代の流行や嗜好を観測したと言われているしね」
 戯言を……、と私は胸の中で吐き捨てた。
「同時に、これは試験でもあるのだよ。アルファ遺伝博士号はトップ・ステイタスだ。いつの時代もどの分野でも、第一線での活躍を求められる者というのは、一つのものにとらわれてはならない。固執した時点で、主観が客観性を上回り、論理的な思考判断を阻害してしまうから」
「詭弁に聞こえますね」
「キミならそう言ってくれると思ったよ」
 どこか嬉しそうに鼻を鳴らした教授に不快感をあらわにしながら、私は問いかけた。
「もっと他のやり方があったでしょう」
「ふふん──」
 彼はそれには答えず、こう切り返した。
「キミがもっと主導的に、そしていじわるになっていれば、彼に殺人を犯させることは可能だったんじゃないかな?」
 いくらか含みを持たせた言い回しに、私は沈黙をもって応えた。
 案の定、教授は決定的な名詞を口にした。
「西原サトミ。間瀬ヒロヤ」
 声を呑んだ私に、彼は感情を掻き立てるような口調で言葉を継いでいった。
「キミが私的に『Another』を観測しているのは、調べがついている」
「……脅しですか?」
「友好的な取引き、と思ってくれるとありがたい。キミにはキミの思うところがあって、法規的リスクを承知であの世界を観測しているのだろう?。それについては心配こそすれ、咎めるつもりはないよ。私も研究者の端くれだからね」
「回りくどいですね」
 教授は咳払いを一つ挟んで、私の目を真摯に見つめた。
「今回の試験、合格者は無しとするつもりだ。ただそれは、あくまでキャリアで大いにメリットとなる学歴での話だ。私はキミに、私の後釜になってほしいんだよ」
「叶うなら、その因果と利害を教えてほしいものです」
 教授は、獲物を狙う昆虫みたいに目の色をなくしてから、静かに口を開いた。
 私には、それが彼の素顔に見えてならなかった。
「キミは……世界の成り立ちについて考えたことはないかい? なぜこの宇宙には、いくつもの世界が存在するのか……私はこう思うんだ。人は……いや、おそらく創造主に値する者たちが、飢えているのだと」
「飢える……?」
「物語に、だよ。私がキミに興味を惹かれたように、キミが『Another』の二人に関心を抱いたように……サイモンくんの価値観を借りれば、我々は、新たな種と言えるだろうね。人より能力が優れている部分ではない。最もな違いは、人とは異なる視点でものをみることができるというところ。目の付け所というやつだ。これは文明の発展と共に失われてきた、異分子と呼ばれるべきものだろうか。いいや違うと私は思う。この星の地底のように、人の脳や遺伝子はもう隅々まで堀り進められてきたが、実際のところ、まだまだ不十分だということなのだろうね。もしかしたら、過去の人類と同様に、我々の科学では想像もつかないような世界が、掘ってかき分けた土くれの中に溜まっているのかもしれない」
 彼の語りの終着点が、この時の私にはまだ見えていなかった。
 教授もそれに気づいているかのように、私の質問に答えた。
「そうそう、他のやり方だったね。大変恐縮だが、私としては最適な環境を提供したつもりだよ。ニンジンもぶら下げたしね。それはひとえに、キミの反応が見たかったからだ。実は二人のパーソナル画面にちょっとしたウイルスを仕込んでいてね。そのおかげで彼らの目を通してその場を観察できた。キミ自身にハッキングしなかったのは、敬意と信用の表れだと思ってほしい」
「……何のために──」
「キミはやはり優れていた。最初に彼を見た時こそ心拍数や感情値に大きな高ぶりが見られたが、その後は極めて冷静さを維持していた」
「なぜ?」
「キミが『Another』を観測してることと同じかな。単純な興味だよ。おっと、性的関心や親心などとは一線を画すものだから安心してくれたまえ」
 彼の手のひらの上で踊らされている気分が、私をより苛立たせた。その反応がさらに彼を喜ばせていることに気づいたので、しばらく口を閉じることにした。
「キミもいずれきっと気づく。下位の遺伝子体にモノを教える虚しさにね。動物に人語を学ばせる労力のほうが遥かに建設的だと感じるほどに」
 ため息混じりの教授の言葉は、私にはこれまでのどれよりも本音に聞こえた。
「毎年毎年、向上心の高い学生がこの大学の門戸を叩きにくる。その中で最もマシな人間を選ばなければならない、作業感、徒労感、退屈……これまで私の食指を動かしてくれる者はいなかった。だがようやく、キミのような学生が来てくれた。私はね、ずっとキミに、キミだけに、関心を抱いていたんだよ。なぜならキミは、私と並ぶ遺伝子を持っているから」
 誰かと同類にみなされることをこんなに嫌悪したのは初めてだった。
「学内選抜査定では基準値を満たしたものの、私個人の視点からすれば、あの二人はこの室内に入れる器ではない。正確に言えば、歴代においてもキミ以外の学生は、だがね。彼らを受け入れたのは、キミにどう影響を及ぼすかに興味があったからだ。良くも悪くもね。もっとも、いや、やはりと言うべきかな。目立った成果は得られなかった。モグラが土の中で生きるように、鳥が空を翔けるように、やはり生物には、それぞれに適した環境が必要なのだと改めて思い知らされる結果となった。非常につまらない、非生産的な試みだった。だが無駄ではなかった。そこに価値を見出すことこそが、研究者の矜恃だろうね」
「……なぜ──」
「なぜその必要があったか、だね? 端的に言うなら、時間が無いからの一言に尽きるだろう。物理的な意味でも観念的な意味でもね。永続的に特効薬とイタチごっこしてくる病原菌との戦いに打ち勝つには、抗体を構築する遺伝子を備えるしかないという結論に至ったように、我々も今、まさに、大いなる選択を迫られているように思えてならないんだよ、私は」
 彼が何を言ってるのか、私は次第に分からなくなっていた。
「キミは誰もが羨む遺伝子と、何不自由なく目的を達成できる能力を持ちながらも、心だけは満たされなかった。流されるように順風満帆な人生を歩みつつも、心のどこかでいつも不安に駆られていた。このままでいいのか、と……違うかい?」
 沈黙は金という言葉が、昔はあったらしい。後に、そんなものは無能者の戯言、まさに負け犬の遠吠えだ、という主張の波に飲まれた経緯を、私は思い出していた。
 とにかく、私は何も言えなかった。
「だがキミは、ひどく優秀だった。無気力になることなく、テロリストになることもなく、独裁者を目指す手始めに宗教団体の設立を始めることもなかった。キミは、私と同じくらい、悲しいほどに優秀だ。だからこそキミは『Another』に惹かれたんだよ」
 何も言えない私に、教授は、無視できない言葉を発した。
「だからこそ、私にはキミに伝えておかなければならないことがある」
 穏やかな面持ちは保ちながらも、その口調は一転してこわばっていた。
「『Another』は、私が一から構築したものではない」
 その時、私の中の何かが、プツリと切れた気がした。
「そこに息づく生命は、元々、そこにあったものだ」
 脳がぐるぐる回ってる気分だった。
「わかったかい?」
 教授にはどんな顔に見えていたのだろう。とにかく彼は、事を起こす際の性犯罪者みたいに微笑みながら、こう口にした。
「『Another』とは、ここではない、実在する別の世界だ」

 腹の底から、泥でも煮込んだ熱さが込み上げた。たまらず前屈みになって、口元を押さえる。脇が湿り、額に脂汗が滲み、息の吸い方が分からなくなった。教授に向いたこの肉体は、まるで別の生き物になったかのごとく、おぞましい業火に囚われた。
 それは、生まれて初めての、感情だった。

「──そう気に病むことはない。彼らに我々は認識できないのだから」
 彼の言葉が再び耳に届くようになると、その言い回しはさらに喋喋しく聞こえた。
「皮肉だとは思わないかい? かつて人々は無知を非存在とみなしていたが、その存在を知った途端に、やれ正義だとか救いだとか、さも自らが神にでもなったかのごとく弱者救済へと奔走した。だがその格差が縮まり、貧困の危機が自らに襲いかかってくると、恩着せがましく助けろとわめき宣いた。愚劣の極みとはまさにこのことだね」
 その顔は、貞操を捨てた若者と言わんばかりのみずみずしさに満ちていた。
「キミにとって、彼らは単なる観察対象でしかなかった。モルモットでしかなかった。それが、遠く離れた世界に息づくという面はあったとしても、実際に心持つ生命体だとリアルに感じ取ってしまった時、生まれてしまうんだね、罪悪感ってやつが──」
 それが重要なんだよ、と教授は狂喜を感じさせるほどに語気を強めた。
「私には無いものなんだ。いや、それは"キミを除いた大半の有能者"には、備わっていない感情なんだ。私はこの事実に大いなる疑問と関心を禁じ得なくてね。人類の歴史は、言ってみればいくつもの資源と思想の奪い合いだったが、英知の前進と共に、人はより合理的に進化してきた。度重なる悲劇や一時的に訪れた豊穣により脇道に逸れた時代もあるが、再び進化のベクトルに乗った今、それはより顕著になった。答えのあやふやなものに左右される感受性といったものよりも、効率の重視性により重きを置ける造りの脳へと変わってきた。それは人の進む脈絡として正しい道筋なのだと、私は思う。だが誰よりも優れた遺伝子を持つキミには、我々が失ってきた情味が備わっている。はっはっは、神の悪戯とはまさにこのことかもね。それはまるで、かつてサーブ&ボレーヤーとグラウンドストローカーが交互に覇権を握っていたテニス史のように、人間が備えるべき優位性もとい、必要性というものが、いまだ定まってはいないという根拠となるのではないだろうか」
 教授が何を言っているのか……私にはもう、すんなり呑み込めなくなっていた。
 手応えを欲した彼は、もう一度、噛み砕いて言った。
「キミに再び、その感受性が宿されたという事実は、遺伝子の導きが、再び人類に干渉しているということではないだろうか」
「何の……ために……?」
「物語さ。この世界はいつの時代も、平穏を突如破壊しようとする者が現れる。独裁者だったり天災だったり、ウイルスだったりね……」
「……あまりに作為的だ」
「そう、それなんだよ! 私にはね、キミがそういった性質で生まれてきたことはとても理に適っているように思えるんだ……どうだい?」
 不意に背中が、スッ……と冷たくなった気がした。
「ここまで言えば、もう、分かるだろう?」
 たまらず私は振り返った──。

 そこには空白と、本で埋め尽くされた棚しかなかった。

 頭が真っ白になっていた私に、教授は、どこか慰めるような声で言った。
「なぜこの100年間の人類史が、より遺伝子の優劣に左右されてきたと思う? 優れた能力者ほど、情勢をコントロールできる立場に収まるから? それもあるだろうが、私の有力説としては、遺伝子の導きによるものだと思う。まあこれを提唱したのは私だけではないがね」
 饒舌に語る男に、私は恐怖を隠せなかった。
「動物も昆虫も、誰に聞かれたわけでもないのに、己のやるべきことを理解してるかのように生きている。そう、そこに答えはあるんだよ。文字も書けなかった古代人ですら、家畜の選抜育種をやっていた……知性の乏しい生物ほど本能に従順になると言うが、これこそまさに遺伝子の導きなのではないだろうか。ならば、最も優れた我々の遺伝子が視るもの、感じるもの、求めるものこそが、進化のベクトルにおいて正しい方向性となるはずだ」
 うぬぼれよりも、強欲という言葉が適切だと私は感じた。
 そこには悪も正義もないように見えた。彼は、ただひたすらに、己の道を突き進む昆虫みたいに思えてならなかった。
 電灯にぶつかり落ちて死ぬのならそれでもいい。だが昆虫と違うのは、彼には能力があることだ。この世に比肩する者が限られる程の知性と、それを実現させてきた力と意欲が、この初老の男からはありありとあふれている。
「なぜ……」
 口が上手く回らなかった私の代わりに、彼は穏やかに言葉を継いだ。
「なぜ、平行世界の存在と発見を、公表しなかったか?」
「……ええ」
 目尻を菩薩のように、それでいて子供が描いた悪魔みたいに歪めながら、彼は豁然たる声色で答えた。
「キミは気づいているはずだ。言い方を換えようか。キミがもし私の立場なら、無能な連中に共有させたいと思うかい?」
「……あなたはすでに政府や医療機関、そして民間企業に『Another』のアクセス権を譲渡してる」
「一部さ。広大な海面を手のひらで掬った、ほんの僅かな部分しか、私は分け与えていない。いや、そもそも私自身ですら『Another』の全容を解明できたわけではない」
 画面にいくつもの数列が流れていく。教授はあらゆる科学的データを提示しながら続けた。
「きっかけは、まったくの偶然だった。まさに生命が突然変異して陸に上がってきたみたいにね。数学、化学、物理学、宇宙科学……それら様々な観点を一から見直し、それこそ新たな資源を生み出すかのごとくランダムに掛け合わせていた時、偶然に発見できた次元の割れ目だった。幸運だったのは、その隙間が完全に閉じるわずかな時間に、ありきたりな材料と無我夢中のひらめきで、双方の世界を繋ぐ回路を作れたことだった。私だから、作れたんだ。こんな表現はあまり好きではないが、私は運命を感じずにはいられなかったよ。資源の正しい組み合わせが新たな資源を生むように、鳶が鷹を生む場合もある……キミのようにね」
 この男は『Another』にとって紛れもない災厄だ、と私は思った。
「遺伝子とは、本当に未知だ。だが、それは果たして未だ解明されていないからだけなのだろうか? キミが平凡な両親から優秀な遺伝子をもってこの世に生まれてきたのは、もしかしたら、無知とはまるで別の、いわば使命や運命によってもたらされたものなのではないだろうか」
「……見たの?」
「ふふん」
 教授は昔の自分でも眺めるかのように鼻を鳴らした。
「キミの杞憂は分かる。だが宇宙はまだ広い。こちら側のみに干渉を許された、言わば下位互換である『Another』に、我々は存在していなかった」
 私はまた、霧の中に閉じ込められた気がした。
「これでも年甲斐もなくワクワクして、いくつもの時間軸から何度も時を進めたよ。もう一人の自分がいたら、是が非でもこの次元の道を教えてやりたい欲求に突き動かされてね……でも、ダメだった。"いないんだよ、私たちは"。我々だけではない。サイモンくんもモタくんも。彼や西原サトミや間瀬ヒロヤが、こちらの世界には存在しなかったという事実と同じようにね」
「……は?」
「私はその事実を確認するまで、ずっと『Another』を並行世界だと認識していた。違うと気づいた時にはいささかの落胆を覚えたが、それを遥かに凌ぐ規模の謎が、たちまちモチベーションを与えてくれたよ。宇宙は、まだまだ広い。分からないことだらけだ。どうだい、ワクワクしてこないかい?」
 言葉を継げない私にではなく、自らに言い聞かせている口調だった。
「『Another』とは、我々の知り得ない存在が思い描いた、夢なのかもしれない。もしかすれば、この世界も……惜しむらくは、人には時間が限られているということだろう。だからキミに引き継いでほしいんだ。私の夢を」
「私が……快諾するとでも……?」
「くっくっく」
 新しいおもちゃを前にした子供みたいに、教授は笑った。
「だから私は、キミに惹かれたんだよ。私はね、この世界は、神が人類に課した及第の場だと考えているんだ」
「……きゅうだい?」
「資源と資源を選ばれた比率で組み合わせると、新たな資源が生まれる。その発見は、まさに進化のベクトルを歩んでいると言っても過言ではない。問題は、そのレールが果たして人類自ら発見したものなのか、はたまた、誰かに敷かれたものを右向け右の羊さながらに辿っているだけなのかどうか……人類を高尚な生き物と思えない私からすれば、後者としか考えられなくてね。世界の謎を解いて、我々の目線まで来てみろと、神に命じられている気分に駆られて仕方ないんだよ」
「……教授がロマンチストだったとは寝耳に水ですね」
「ふっ、知性ある男は皆そうさ。程度や表面化の差はあれどね。思い出してごらん? 初めて数式を解いた日、挑戦したパズルが完成した日、美しいメロディに琴線を震わされた日、キミも少なからず高揚したはずだ──」
 わかるかい? と教授は得意げに自らのこめかみを指した。
「我々の遺伝子に組み込まれているのだよ。謎を解くことが、最高の快感だと。神に近づくことこそが、人類に与えられた使命なのだとね」
「近づいて……あなたは何をするつもり……?」
「答え合わせ、さ。キミも科学者なら、きっと理解できるはずだ。その瞬間が、我々のもっとも幸福な時間だとね」
 嘘だ、と私は思った。
 彼は気づいていたのだろう。わざとらしく笑ってから、静かに、囁くように語りだした。
「……私の中にもね、それは間違いなく、あるんだよ。野蛮で、狡猾で、人類が進化と共に置き去りにしてきた、黒々とした感情……言うなれば、復讐心というものが」
「復讐……誰に……?」
「決まってるじゃないか──」
 私が恐ろしく感じたのは、それを告げた教授の顔が、恍惚とゆがんでいたことにだった。
「この世界に干渉しているであろう、どこかの、誰かに。ふっふっふ、大海を知ったノブナガ・オダの気分だよ」
 私とこの男は、絶対に違う。そうでなければならない、と叫びたかった。
「遅かれ早かれ、キミも越えたくなるだろう。理(ことわり)の壁を。楽しみだね。その時は是非とも本名を名乗ってくれることを期待するよ、ハートネットくん」
 私はこの時、昆虫が感情を持たずに誕生してきたわけが、少しだけ分かった気がした。


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 どうやって帰路についたのかも分からないまま、ソファに寝転んだ私は、そのまま『Another』にアクセスした。心を落ち着かせるように、まるで逃避するかのように……。
 二人はまるで付き合いたてのカップルみたいに、冷える夜風に寄り添いながら、星空を見上げていた。辺りからリンリンとスズムシの鳴き声がし、何かを願うような獣の咆哮が聞こえた。
「──何で離婚したんだ?」
「方向性の違いかな」
「聞き方を変えるか。何で結婚したんだ?」
「キミはそのままでいいって、言ってくれたから」
 物憂げに目を落としたサトミは、左手の薬指にあったものを思い浮かべているようだった。
「変わることが生きることだと、他人は言うけど、本質を変えられる人間なんてどれだけいるんだろう。私には、私がしてきたような徒労を、都合の良い時だけ変化と呼んでいる気がする」

 サトミは静かに語った。夫は、折り曲げられた画用紙みたいな人だった。誠実で、純粋で、誰よりも優しくて……ただ一部だけ、人とは違う風に曲がっていた。
 それは、ほんのちょっとした、ボタンの掛け違いだった。たまたま彼が疲れていて、彼女も仕事で嫌なことがあった夜、一緒に嫌なニュースを見ていた時だった。まるでバッドエンドを好む作家が、バラエティ番組でもながら見しながら書き殴った拙作小説みたいに、様々な要素が積もりに積もって、互いに大切な何かを見失ってしまった。
「子供を作るのは、やめないか?」
 彼は偽りなく本音を語った。俺たちにとって最も大切な存在になる子を、このふざけた世界に生み出してしまう責任を、自分は持つ自信が無いと。こんな残酷な世の中で生を強いることなんて、自分にはできないと──。
「私には、わかった、としか言えなかった。その時、目の前の梯子を降ろされた気分になった。そしてどんどんどんどん落下し、ついには明かりの見えない暗闇の底にいることに気づいた。どこにも行けない怖さに包まれて、実際、今日までどこにも行けなかった。世界は私から遠ざかり、居場所はどこにも無いんだって思うしかなかった。でも──」
 思い出すのはいつも、眉をひそめて笑う彼の横顔……。
「だけど今は違う。私がもっと寄り添っていたら、彼は考え直してくれたんじゃないかって……ううん……そうか……あの人も、ずっと苦しんでたのかもしれない……。あんたに置いていかれた、あの頃の私みたいに……」
 サトミは星々に問いかけるように言った。
「救いって、何なのだろう」
「人それぞれとしか言えないが、俺たちに依頼してくる人間には、それがひどく限られてる。そして、人のできることもな」

 二人は、己のアイデンティティを守るために生きていた。きっと人は、そうするべきに生きるのだと、私は思う。
 でも悲劇なことに、文明社会ではその手段を強制されてしまう。さまざまな資質が、あらゆる感情に阻害されながら、秩序というレールに乗せられる。かたちを整えられ、細長い棒となって、流れるままに進まされていく。歪みを矯正できなかった者は弾かれ、孤立し、やがて路傍の小石さながらに蹴飛ばされていく。
 ヒロヤは、確かに流れの中にいた。しかし彼は自己の歪みをそのままに、はたまた群衆に紛れて密かに膨張させ、力の確立と共にスッと抜け出た。自らの意志で。
 サトミは流れるままに生きていた。終わりだけを求め、誰の障害になることなく。けれども彼女を形成する何かが、それを良しとはしてくれなかった。憧れを抱き、打ちのめされ、心を許した異性と完全に離れた今、これまでの生き方をやめ、別の、いわば未知の荒野を進んでいくことになる。

 いくつもの星々に、サトミは言いようのない不安を重ねているようだった。
「私たちは、これから何様になるんだろう」
「何でもない。どこまでいっても人間様さ。この世で一番薄汚い生き物の、な」
 ヒロヤは生まれて初めて、己の哲学を打ち明けた。
「死は結局、死でしかない。頭のヌルい人間ほど、他人の死に優劣をつけたがる。頭の異常な人間ほど、遺された者が苦しむなんてクソみたいな言葉を吐きやがる。そんなものは所詮、そいつを傷つけてきた、見てみぬふりをしてきた連中のエゴだ。この世に生まれた生命にはすべて、生きる権利も死ぬ権利もあるんだ」
 ヒロヤの言葉には、私が否定できるものは何一つなかった。
「物事は常に流動的で、世界は常に進み続けている。それが前なのか後ろなのかは断言できないが、はっきり言えるのは、生命の営みというものは、円環ではなく螺旋だということ。時計の針と違ってな。てめえの出した糞尿がどこに行くのかも知らず、牛や豚の肉がスーパーの厨房で生み出されてると勘違いしてるバカ共には初耳だろうが、いつの時代も、社会は汚いものを掃除する人間がいて初めて成り立っている。これからどんどん増えていくだろうさ、俺たちのような仕事がな」
「それは、正しいことなのかな」
「個人的には気に食わない言い回しだが、神のみぞ知るとしか言えないな。善悪を決めるのはいつだって、外から気ままに覗いてる部外者だ」

 ドクンと、蹴られたような鼓動に身を引いた。私は、大いなる選択を問われている衝動に襲われていたのだ。

「──前から聞きたかったんだけど」
「なんだ?」
「どうして私に親切にしてくれるの? 幼なじみだから?」
 ヒロヤは照れくさそうに鼻を鳴らしてから答えた。
「小学校の同級生で寿司屋の隣に住んでた子がいただろ。上京した下宿先の隣アパートに、そいつも部屋を借りていた。それがきっかけでたまに食事をしてたりしたんだが、何かと鬱陶しい女だった」
「あんたに気があったのね」
「ガキの頃からと言っていたが、どうだかな。耳にタコができるくらい幼なじみを強調してきやがったから、何も言わずに引っ越したよ。それからは一度も会ってない」
「抱いたの?」
「聞きたいか?」
 少し考えたサトミだが、やがて子供みたいに首を振った。
 ヒロヤは楽しそうに笑ってから続けた。
「俺の感覚では幼なじみとは呼べなかったし、仮に幼なじみの定義に則していたとしても、関心は持てなかったよ。お前に親切にする理由だったな。別に親切にしてるつもりはない。俺はただ、あの時の借りをお前に返してるだけだ」
「……借り?」
「お前が教えてくれたんだよ。心だ、って」
 あれから少年は、ずっとそれを探してきたのだと、サトミは悟った。
「他人には理解されないだろうが、あの時の俺には、その言葉で道が開けた気がした。それだけで十分だろ」
 二人はまるで、あの頃の時間を取り戻そうとするみたいに語り明かした。
「自分がなにかの容れ物なんじゃないかって思うことはある?」
「しょっちゅうだよ。ガキの頃からな」
「もしかしたら皆、からっぽなのかもしれない」
「人はそこに、都合の良いものを詰め込む。夢とか希望とか、愛や正義なんて小綺麗なものをな。それらが単なる粘膜の触れ合いや本能の渇望だってことを知った時、初めて気づくんだ。自分たちは、なにか、大きなものに動かされているって」
「……それって、神とか?」
「神も人によって価値観が異なる。現実的解釈とされているのは遺伝子説だな。ユングの唱えた集合的無意識に近いものかもしれない。見た目が∞(無限大)のマークに似てるところも、オカルトファンの興味をくすぐるんだろう……もし──」
 ヒロヤは瞳に強い光を浮かべた。
「仮にもし、人が遺伝子によって操作されているのだとしたら、俺はそこから抜け出したい。この、苦しみの螺旋から」
 苦しみの螺旋。
 そのワードに感情の線を震わされたのは、サトミだけではなかった。
「そこら中に転がってるフィクションみたいに、神が目に見えたらどんなに楽だろうな。でも、人にはみえないんだ。だったら、人が何とかするしかない」
「変わったね」
「かもな。でも俺の願いはガキの頃から変わらない。宇宙の謎を解きたい、それだけだ」

 私は、以前の教授の言葉を思い出していた。

 "キミが感情可視化システムを発明したのは、キミ自身に、人の心を知りたいという欲求があったからではないのかい?"

 どうして作ろうと思ったか、なんて、今ではよく思い出せない。一度覚えたものは忘れられないこの記憶力が蘇らせてくれないのは、たぶん、思い出したくないからなのだろう。
 ハートネット……その名詞を見聞きするたびに、私は脳裏によぎる両親を消すことができなくなる。いつからだったろう……二人が私に、まるで別の生き物でも見るかのような顔を向け始めたのは。

 私がこの世に生み出されたのは、教授を止めるという、観念的な因果とでも言うのだろうか。
 それとも、あの男と結託し、干渉を止めてみろという、誰かからの挑発なのだろうか。
 バカバカしい、と誰かに叫べたらどんなに楽だろう。寄りかかる相手のいるサトミが、無性に羨ましく見えて仕方なかった。
 私は今日も、逃げて逃げて『Another』を観察している。優秀な遺伝子? 笑わせる。私は、特別になんかなりたくなかった。普通に食べて、話して、お日様の陽を浴びて、夜になったら誰かの腕の中で眠る……そんな生き方をしたかっただけ。
 けれど今ではもう、人体を破壊する紫外線を浴びたがる者も、それに生身で耐えられる者もほとんどいない。この気持ちを共有してくれる相手も……それが事実で、事実はいつだって、答えだった──。

「誰か、私を、みつけて」



 私は干渉して、二人に刺客を差し向けた。私という人間を、知りたいがために。それが建前だと気づかないままに。
 まるで紙にペンを走らせるみたいに、すらすらと、新たな物語が始まっていく。
 私は、ただそれを眺めている。
 時に干渉し、時に一喜一憂し、二人の物語を追う。
 終末に辿り着くまで。
 二人が、私に気づいてくれるまで。
 私の知らない世界の誰かが、私を罰してくれるまで。




 END

最期の壁

執筆の狙い

作者 跳ね馬
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 行き場を失くしたサトミ。己の世界に没頭するヒロヤ。10年ぶりに再会した二人を通し、虚無と虚構の狭間で見つけていくものとは……。

 約55,000文字。当作品はフィクションです。主人公の背景はあえて掘り下げないように描写しました。

コメント

金木犀
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や、面白かったです。

しっかりとした世界観に、ちゃんとした文章力とが合致してました。

ストーリーとしては、少々複雑ですね。
最初、主人公とヒロインはサトミとヒロヤだと思っていたので、感情移入する相手だとのめり込んで見てました。
実はこの作品の語り手である主人公が観察しているアナザーワールドの世界だと提示されるので、そこで感情移入する相手ではないと突き放されたような感覚になりました。2つの世界の話だと提示され、それから主人公がいる世界とアナザー世界の中の2つの話が同時並行して描かれるので、それに読者がついていけるか、はわりとポイントになるかな、と思いました。

ショッキングな展開があるわけじゃないので、ドラマとしては退屈なとこがあるかもです。

しかし、読み味は独特です。

この作品を読んだあと、まるで読んだ私達がいわば主人公を観察する側だと言われているようでした。


狙い通りなら、ちゃんと書けていると思いました。

神という不確かなものをSFに落とし込めていたと私は思います。


執筆お疲れ様でした。

跳ね馬
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金木犀さん、ご感想ありがとうございます。面白く感じていただけたのなら何よりです。

冒頭は意図的に三人称を思わせる書き出しにしました。章末から完全に一人称が露呈し、読み進めていくにつれ「あ、語り手が主人公だったのか」という気づきを与えたかったのですが、ご指摘のとおり、読者の方々の好みが分かれてしまう手法かもしれません。

僕は作品を書く時は必ずいくつかのテーマをもって取り組むのですが、この作品のテーマの一つ「理解者の必要性」を、中盤から終盤にかけて客観性と主観性両方の視点からだんだんと伝わってくれるよう、複雑ではありますがこのような構成にさせていただきました。

仰るとおり、主人公側の人間からすれば我々が観測者になりますね。そういった面からも何かを感じていただけたら幸いです。

作品の意図を汲み取っていただき嬉しい限りです。このところ(他所で)作品を投稿しても読者の反応が無かったので、救われた気分になりました。

金木犀
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 余計なお世話を言います。
 作者様も、頭ではわかっていらっしゃることかもしれません。
 しかし、あえて言わせていただきますね。
 反応がなかったり、読まれなかったりするのは、必ずしも作者様に実力が足りなかったり、面白いものを書けていないからじゃないと思います。(もちろん、実力が足りなかったり、面白くないからという理由も多々あります)

 
 どんなにこの作品が面白かろうが、前提として世の中の読者は暇ではないということです。
 いろんな事をする中、読書をするとき、多くの読者はランキングだったり、過去読まれてきた本を読もうとするものです。
 埋もれた作品を読むひまが単純にないのです。
 中には発掘するのが好きという読者もいますが、その発掘者がインフルエンサーでもなければ埋もれた作品が表に出ることはないでしょう。
 
 小説の場合ただでさえ読む手間があります。竜頭蛇尾と言われますが、基本的に読者は、最初に読んですぐに面白いと思わないと、読んでもらえないし、仮に読んでもらえてもほんの些細な好みで、あるいは偏見で読まなくなるものです。

 なので「最後まで読まないと面白さの是非がわからない」というような内容だとめちゃくちゃ不利なんですよね。
 この作品はそういうタイプだと思いました。

 でも、それって、小説の本当の面白さとは違って、「多くの人に読まれるためには」っていう但し書きがつくのですよね。多くの人に読まれなくても、わずかな一部であっても心の奥深くまで突き刺すことのできる面白い作品は当然ながらあるわけです。
 だから「読まれない=面白くない」ということでは、私はないと思います。
 有名な新人賞で最終までいって、落ちた作品の星が一桁とか、今の時代、ざらです。
 ざらですが、最終まで行くことがどれほどすごいか、新人賞に挑戦した人ならだれでも知っているでしょう?
 編集者の見る目がないから、誰も読まないのでしょうか。
 そういう場合もあるかもですが、多くの場合、みんなひまじゃないからです。
 ほかに読みたいと思う本がいっぱいあるのです。

 もちろん、展開に凹凸があれば、とか、読者をもっと楽しませる要素を、というところで、この作品もまだまだ考える余地のあるものもあると思います。
 でも、根本は、変わらないのでは、と思うのです。
 


 結局のところ、作者がどうしたいか、なんだと思うんですよね。
 読者に読まれたかったら需要やランキングを意識しなきゃいけないと思います。いわば立地や看板や宣伝をしないと、どんなにおいしい料理を出す店もお客が入らない(おいしいという評判が立てば広がるが、広がらない場合もある)ですよね。
 なので、そのためなら、何でもするべきだともいます。
 読まれる努力をする、というのですかね。
 
 面白く書くのは、前提ですけど、読まれないと面白いもつまらないもわからないですよね。


 でも、単純に、「これを書きたいから書くんだ!」という場合は、貫くしかないです。総スカンも覚悟して書かなきゃいけないと思います。間を取ろうとするのも一つの手ですが、読者にこびず、書きたいと思っているなら、創作といううんこをしたと割り切って、トイレに流されることを覚悟しなきゃいけないと思うんですよね。

 で、それが化石として残るか残らないかは後の時代にならないとわからない。大半は化石にはならず形も残らないけど、あるいは誰かの一部にはなっていたりするかもしれません。

 作者様がどうしたいかは、わかりませんが、読者が読みたいと思うものを書いた方が化石になりやすいかもしれませんし、ある程度需要を意識されているなら、ある程度ランキングだったり、新人賞だったりを見据えて書くべきだと思います。

 そうでないなら、創作という名のオナニーを存分に楽しむべきだと思います。読者なんか眼中にないぜ! 俺の美学を貫くぜ! みたいな覚悟ですね。
 あまりおすすめしない覚悟ですが笑笑

 とにかく、世の中にはたくさん面白い作品はすでに存在しているため、つまらないから読まれないという時代ではなくなっていることをみんな覚えておくべきだと思うんですよね。
 つまらないから読まれないんだ、という意識よりは、
 面白いけど読まれないんだ、くらいの意識で投稿サイトを利用した方がいいと思います。

 面白いけど、じゃあ、なぜ読まれないのか、っていうと、単純に読まれる努力をしていないことの方が多い気がします。

 長々と失礼しました。
 これからも良き執筆ライフを!

跳ね馬
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金木犀さん、お返事ありがとうございます。

記載してくださったご意見には、全面的に同意せざるをえません。書くのは個人の自由の範疇ですが、それを投稿するというのはたくさんの人に読んでもらいたいからですもんね。

これまでの自分は、良いものを書きたいという一方向のみに傾倒していたのは言うまでもありません。

今後は執筆活動と並行して、積極的に(いくらか厚かましく映るくらいに)読んでいただける努力も行っていこうと思います。

その手始めに、下記の投稿サイトでの掲載・コンテスト応募にも挑戦しました。もしよろしければ、お越しいただき感想やコメント、拡散、高評価をポチってくだされば嬉しい限りです |д゜)チラッ


ステキブンゲイ
https://sutekibungei.com/novels/010f533c-e75f-40c4-98b3-e50c3a601a39

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