作家でごはん!鍛練場
中小路昌宏

遠い記憶

遠い記憶

 何度も繰り返された空襲警報の不気味なサイレンの直後、轟音を響かせて福井市上空にやってきたのはB—29といわれた、当時のアメリカの主力爆撃機127機であった。
 昭和20年7月19日深夜の出来事だった。 約85,000名の市民が罹災し、福井市の約85%の住宅が焼き払われた。郊外へ疎開していたり、防空壕に避難した人もいたがそれでも死者数は1,500人を超えた。
 当時三才の安達浩介は母方の祖母・キネと、母よし子の妹である叔母・早苗との三人で家から30メートルほど離れた用水路に架かる橋の下で足を水に漬けて、我が家の焼け落ちるのを恐怖に震えながら見ていた。
 それまでの戦局の経緯から、この福井空襲が予想されなかったわけではないが、頻繁に繰り返された防火訓練も、この大規模な空爆に対してはなんの役にも立たなかった。
 浩介の家は彼のほかに両親と二才下の妹を含めた四人家族だったのだが、父浩一は前年春に出征し、母よし子と幼い妹はその後6月と9月に相次いで亡くなり、残された浩介一人が、よし子の看病のためにお手伝いに来ていたキネと早苗に育てられていたのだった。よし子たちの死因は結核とされていたが、医者も薬も食料も十分ではない時代に、浩一の不在中、生活力のないキネや早苗にはよし子を救うことは出来なかったのであろう。
 浩介には母の記憶というものが、まったく無い。彼がかすかに覚えているのは家の奥の部屋には絶対に行ってはいけない。そこは怖いところだ、というように聞かされていたことである。今思えばそこは、よし子と妹が寝かされていた部屋であり、浩介に病気を移させないようにという周囲の配慮であったのだろう。
 母たちの死が空爆によってではなく、その前年であり、畳の上での病死であったことを、息子の浩介としてはせめてもの慰みとすべきだという人もいるが、そういう気持には彼はなれない。
 幼児期の浩介の記憶は前後の区別のつかない断片的なものが多いが、いまも鮮明に思い出されるのは悲しい思い出ばかりである。
 そのひとつは父浩一との別れの記憶である。
 小さな家の狭い玄関先でゲートルを巻き、戦地へ向かおうとする父の姿を見たときには、幼い浩介にも父が遠くへ出かけるということが分ったのであろう。父を追おうとして泣き叫ぶ浩介をキネは抱きかかえて浩一の出て行くのを見送ったが、父が出て行った後もなかなか泣き止まない浩介を、福井駅まで連れて行った。
 当時の福井駅には小銭を入れると数分間揺れ動く電動の木馬があったようで、子供の浩介はそれに乗せられただけで機嫌を直し、泣き止んで、家に帰ってきた。

 家が焼け落ちた後、どこをどう逃げ歩いたのか、浩介は知らない。
彼の記憶にあるのはキネに背負われて火に追いかけられて早苗とともに町中を逃げる様子である。火は道路を川のように流れ、彼はただただ背中が熱かったことだけを覚えている。

 わずかな手荷物を持ち、着の身着のままで家を焼け出されたキネは無我夢中で郊外へ向かった。そこは市街地から数キロ離れていたため戦火を免れた西(にし)安居(あご)地区というところだったが、村人たちは逃げてきた人たちにお茶とおにぎりを配り、お寺での一夜を過ごせるよう世話をしてくれた。
 しかし、いつまでもそこにいるわけにはいかない。途方にくれたキネは一度だけ法事に行ったことがある京都の安藤という親戚の家を思い出してそこへ向かうことにした。とくに親しくしていたわけではなく、この戦争がなければ、すでに両親をなくしているキネが訪問することはなかったと思うが、ほかに心当たりもなく藁(わら)にも縋(すが)る思いだった。
 金閣寺のすぐ前にあったそこは、小さな家ではあったが幸いにも二階に空き部屋があり、落ち着き先が決まるまで、という約束で三人はそこに住むことになった。
 しかし、安藤家も決して余裕があるわけではなく、応対に出た息子からは、当然ながら食事の面倒まで見ることは出来ない、と言われ、この安藤家の妹が嫁いだ滋賀県甲賀村の大原という部落にある村田家なら、農家なので少しぐらいの古米を分けてもらえるかもしれない、ということになり、翌日早速、浩介を連れて電車で村田家を訪ねた。
 キネは必死であった。西安居地区でもらったおにぎりはすぐに食べつくし、前日は安藤家でもらった少々のさつま芋で飢えをしのいだが、その日からはまったく食事のあてが無いという状況だった。
 村田家では尋ねて行った安藤の妹はすでに亡くなり、息子の代になっていたが、キネのことはよく知っていて話を聞いて同情し、浩介に、おにぎりを作って食べさせてくれた。余程おなかがすいていたとみえて、小さな体で大きなおにぎりを二個、あっという間に平らげてしまった。

 福井から京都までどうやってたどり着いたのか、浩介は知らない。疲れ果てて祖母の背で寝ていたのであろう。安藤家は間口二間ほどの小さな工場兼住宅で、一階の奥には使われなくなった機織(はたおり)機が数台置いてあった。戦争が始まる前は西陣織の下請けの仕事をしていたようだった。
 京都での浩介たちの生活は悲惨なものであった。村田家からは少々の米を貰ってくることは出来たが、とても三人が長く暮らしていくほどの量ではなく、部屋のまん中に置かれた七輪で炊かれていたのは毎日少量のおかゆだけだった。それも茶碗の中には、いつも、ご飯つぶが数えられるくらいしか入っていない、お湯に近いような粥(かゆ)を朝晩、梅干を添えてすするだけのひもじい食事で三人は命をつないでいた。
 毎日が飢えとの戦いであった。キネも早苗も仕事もなく、毎日、食べ物のことばかり心配しながら空しく日が過ぎていった。
そして、やがて戦争は終わり、京都の町にも進駐軍のジープが走り回ってくるようになった。浩介たちは進駐軍に何をされるかも分らず、ただ怖くてジープの姿を見ると家に走りこんで震えていた。
 京都の生活は彼にはかなり長かったような気がしているが、実際には一~二ヶ月ぐらいだったのかもしれない。このままでは死を待つばかりだと判断したキネは、村田家へ無理やり浩介の養育を頼み込んだのであろう。キネや早苗と別れ、浩介一人だけが大原の村田家へ預けられ、田舎暮らしをすることになった。
 大原での食糧事情も貧しいものではあったが、田舎のことなので餓死するようなことはなく、彼はさつまいもの蔓が入ったお粥や、イナゴの蒸し焼きにしたようなものであれば、おなかいっぱい食べることが出来た。
 あるとき、玄関先に吊るし柿が干してあったのが目に付いた。浩介の背丈ではちょっと届かない高さだが、あまりに美味しそうに見えたので、思わずそこへ手を伸ばそうとしたとき、家の主人に見つかって、こっぴどく怒られたことがあった。
 怒られてしょんぼりした浩介の姿が余程みじめに見えたのだろう、その夜、飼っていた鶏を一羽つぶして囲炉裏で鶏汁を炊いて食べさせてくれた。ぶつぶつと油が浮いたその鍋は、一生忘れることが出来ない、生まれて初めての、おいしい食べ物だった。
 半年間ぐらいの短い期間ではあったが、そこでの彼は近くの同年輩の子供たちと一緒に近所を駆け回ったり、その子たちの家へ遊びに行って、みかんを貰って食べたりして平穏な子供時代を過ごしたのである。

 戦争の悲劇は理屈では誰もが分っているものだが、その本当の苦しみは体験したものでないと決して身にしみて理解することはない、と浩介は思う。夫に赤紙がきて出征するのを、病気の自分は見送ることさえ出来ず、幼い息子を残したまま、もう一人のわが子とともに死んでいった27歳の母よし子の気持がどのようなものだったか、それは浩介の想像を超える苦しみであったと思う。
 そして父浩一もまた、生前多くを語ることはなかったが、病気で寝込んだままの妻と幼い2人のわが子を残したまま、生きて帰れるかどうかもわからない戦地へと向かわなければならなかった気持はどうだったであろうか。
戦地で妻たちの訃報を聞いたときには自分も死ぬつもりで、銃弾の飛んでくる中を立ち上がってふらふらと歩き回ったそうである
そしてキネもまた、自分の娘と孫が病魔に侵され、血を吐いて死んで行くのを見守り、その悲しみも癒(い)えぬうち、空襲で家を焼かれ、もう一人の娘早苗と孫の浩介を連れて戦火に追われながら、落ち着き先を探さなければならなかったキネの気持というのも大変なものだったのに違いない。
ずっと後になって浩介が妻から聞いた話によると、キネと浩介が京都にいた頃のある日、金閣寺まで散歩に行った時に、その池のほとりで、生活に疲れたキネがいきなり池に飛び込もうとしたそうである。そしてそれを一緒にいた幼い浩介が必死に止めようとした、とキネが述懐していたという話を早苗が妻に話したそうである。
浩介にはそんな記憶はなく、キネはもちろん、早苗も亡くなってしまった今となっては、真相を確かめるすべはない。
金閣寺の池というのは飛び込んで溺れ死ぬほどの深さはないと思うが、思いつめたキネにはそんなことを考える余裕もなく、発作的にそういう行動に出たのではないだろうか。
75年も昔のことではあるが、それぞれが抱えた深い苦しみを思うとき、次の時代の人々がこういう悲劇を繰り返すことがないよう、語り継ぐことが自分たちの務めではないかと浩介は思う。

大原の部落でひと冬を過ごした浩介は春の暖かい日の午後、駅前の広場で近所の友達と一緒に地面に炭で絵を書いて遊んでいた。
そこに着いた電車から降りてきたひとりの軍人さんが彼の名を呼び、それが父浩一だとわかったとき、浩介は嬉しくて飛び上がって喜び、父の先に立って、世話になっている村田家へ向かうときにも、元気な姿を父に見てもらいたくて宙を飛ぶようにして走りこんでいった。
げっそりと痩せ、ぼろぼろの軍服を着て、重いリュックを背負ったみすぼらしい父の姿を見たとき、子供心にも戦地での父の苦労を思ったものである。
その後、福井へ帰ってきた父と浩介はようやく貧しいながらも少しずつ安定した生活を取り戻していった。
福井駅に近い三の丸というところで浩一は金物店を開いた。店舗と畳の部屋がそれぞれ一坪半ほどの、これ以下は無いという、狭い店だった。そしてその狭い畳の部屋での浩介たちの生活が始まった。
浩一は戦地から持ち帰ったリュックを背負い、幼い浩介を連れて夜行列車で大阪へ出かけて行った。大阪市内の工場や問屋を回って焼け残った商品を仕入れ、それを背負ってまた夜行列車で帰ってきて、翌日リヤカーで近郊の小売店を回って売りさばき、残った商品は店に並べる、という繰り返しで少しずつ商いを増やしていった。
それからしばらくすると隣の小さな旅館で働いていた女中さんが彼らの家に住むようになった。父浩一の再婚相手であり、浩介の母となった亜希子である。
終戦後のモノの無い時代なので何でもがよく売れ、仕入れたものが売れ残るということはほとんどなかった。やがて一人、二人の店員も雇いいれ、一年後には店から2キロほど離れた足羽山(あすわやま)の麓の常盤木町(ときわぎちょう)というところに小さな古い家を買い、3人はそこに住み、浩一はそこから自転車で通うようになった。
まだ、人々の生活は戦後の混乱期を脱してはいなかった。油断をしていると、こそ泥に狙われることも多かった。ある日、浩一が店から帰り、玄関先で靴を脱いで、家の中に入り、一服していると、近所の人が、今、男の人が、お宅から靴を持って出てきて、自転車で走って行ったようだが、泥棒ではないだろうかと言って来た。見ると、今脱いだ靴が見当たらない。浩一はあわててすぐ、泥棒が逃げたという方向へ自転車を走らせたが、しばらくして、見当たらない、と言って帰ってきた。
田舎では家人の留守に入り込んだ泥棒に、他のものは盗られず、米びつの中にあったご飯だけを持って行かれた、という話をよく聞いた。そういう時代であった。
ときたま、進駐軍からの援助品として珍しいコーンビーフの缶詰などが配給になることがあった。アメリカと言う国の豊かさが感じられたが、何十年か後に日本もそういう国になるなどとは、そのころの浩介には想像だに出来なかった。

家の裏手はすぐ足羽山となっていたので、浩介達の遊び場は当然、山が中心となった。家からは山に向かって右五軒ほど行ったところに黒龍(くろたつ)神社、左十軒ほどのところからは長い階段を登った先に藤島神社があった。近所の友達と一緒に、黒龍神社横の獣道(けものみち)を登って行き、ぐみや山栗などを取って食べたり、蝶やトンボを追いかけたりした。藤島神社では階段横の長い溝を、草を束ねてお尻の下に敷き、滑り降りるという遊びを誰かが考案して、危険だとして親から止められるまで、浩介たちはしばらくそれに夢中になった。
当時の浩介は子供ながらすでにいろいろな困難を経験していたので、人よりは、ませていてもいいと思うが、実際はそうでなく、まだ人の職業というものがよく理解できていなかった。
あるとき、近所の年長の子供が、家の前を自転車で通る人を見て、あれは先生だ、といっているのを聞き、先生というのは動物の一種かと思い、それにしてはなんと人間によく似た動物なのかと思っていたのだが、翌年足羽小学校へ入学して、初めて、先生というのが人の職業だということを理解することが出来た。
一年生となった浩介たちの授業は若い先生と年配の先生とによって交互に行われていた。
ある日、年配の先生の授業で時計の見方についての話があった。
9時50分を指したものを示し、これは何時ですか、と聞かれたので、手を上げた浩介は家でいつも言っているように、十時十分前です、と答えた。
すると意外にも先生は、違います、といい、他に誰も手を上げなかったので、正解としてこれは9時50分です、と言った。浩介の答えについて、ただ、違います、と言っただけでなにもコメントしなかったので、家に帰って母に不満を言ったところ、あの人は代用教員なので融通がきかないのだろうという話だった。
当時まだ教員の数は十分ではなく、浩介たちの授業は正規の資格をもった若い先生と、年配の代用教員とが二人で受け持っていたのである。

 足羽小学校は浩介の家から足羽山を二キロほど回り込んだところにあり、近所の友達と一緒に田んぼ道を抜けて通(かよ)った。秋になると、遠くの景色が見えなくなるくらいにイナゴの大群が田んぼを覆っていた。今はトンネルが出来ていてたんぼ道を通らず、三分の一ぐらいの距離で学校まで行けるようになっている。
 一年生になった年の六月のある日の午後、浩介は近所の材木置き場で友達と遊んでいた。すると突然、地面が大きく揺れて、積んであった材木が崩れてきた。びっくりして家に飛んで帰ってくると、隣の家は壁が崩れ、地面のコンクリートにはひびが入ったり、向いの家は柱が傾いたりしていた。
 母も近所の人々も皆、家の前に飛び出して不安そうに我が家を眺めているだけだった。昭和23年6月28日午後4時13分に起きたマグニチュード7・1の福井地震であった。
 浩介たちの自宅付近は足羽山のふもとで地盤が固いため全壊するような家はなかったが、一時間ほど後に自転車で帰ってきた父の話によると、町の中心部では多くの家がつぶれ、駅前では福井市のシンボル的なビルであった大和百貨店が今にも倒れんばかりに傾いているということであった。
 記録では死者、行方不明3,700余名、全壊家屋3万6千戸余りとなっている。
 福井空襲で焼け落ちたあと、やっとの思いで建てた粗末なバラック住宅が多かったこともあり、空襲の三年後にして町は再び壊滅状態となった。
 地震の後、余震が続き、いつ家が倒壊するかも分らない、ということで、数日間は隣家の前の畑に茣蓙を敷いて食事をし、蚊帳を吊って寝た。初夏だったので寒くはなく、幸い、雨も降らなかった。蚊帳や炊事用具を家から持ち出すときは、いつ余震が来るかも分らず、急いで最小限の荷物だけを持ち出してきた。浩介たち子供には、そういう暮らしが珍しく、楽しかった事を憶えている。

 浩介は昭和16年に生まれ、三年後の昭和19年には父と別れ、母と妹にも先立たれ、翌20年には空襲とともに家を無くし、遠い親戚宅を移り住み、飢餓体験をし、その後父の帰還、金物店の開店、再婚、住宅購入、小学校入学、そして地震、と、わずか七年ほどの間に、普通なら数十年に一回しか経験しないようなことを目まぐるしく体験した。
 不幸な幼年時代ではあったが、子供の彼にはそれを不幸と認識することはなく、ありのままに受け入れただけであって、むしろそういう不幸を幼年時代に経験したことによって、今日、衣食住にはなんの不自由もなく、安全な生活環境で、カーナビ付きの乗用車に乗り、テレビやパソコン、スマートフォンなども操作し、時には海外旅行に出かけるなど、平和な毎日を過ごしているとき、自分はなんという幸福な、そして贅沢な人生を送っているのだろうかと思わざるを得ない。

     了

遠い記憶

執筆の狙い

作者 中小路昌宏
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 ウクライナの戦争は今もまだ、終わりが見えません。遠い国のことなので、時間が経つにつれ人々の関心は薄れつつあります。
 77年前には日本も同じ悲劇に見舞われていたのですが、その記憶を持つ人は年々少なくなってきています。

 これは、私が実際に経験したことで、人名を変えて、主人公を3人称で書いた以外は一つも間違っていません。ですが、幼児期の記憶なので不確かな部分もあり、そこは想像で辻褄を合わせていますが、嘘や誇張はありません。
 ですから小説というより随筆というべきかと思いますが、この悲劇を語り継ぐことは私たち戦中派の責任と思っています。
 作品としての評価はともかく、多くの若い人たちに読んで頂きたいと思い、投稿させて頂きました。

コメント

上松 煌
207.140.150.119.ap.yournet.ne.jp

中小路昌宏さま、こんばんは

 拝見しました。
あなたの貴重な体験をよくぞ書き残してくださいました。
感情を排した事実のみの記述で、出征して行く父の姿に、万葉集の「防人の歌」を彷彿とし、人間とはなんと、今も昔も進歩のない愚行を繰り返す生き物であり、庶民とはいつになってもそうした悲しみ苦しみを繰り返さなければならない宿命を持つのか、と暗澹たる気持ちになりました。

 おれにとっては先の大戦は曽祖父母・祖父母の時代で、東京都中野区にあったおれの家も昭和20年5月の東京大空襲で、中野駅で積み出すばかりになっていた家財道具と一緒に焼け落ちたそうです。
その後、疎開して帰ってきたのですが、駅に近い中野坂上にあった300坪の自宅跡地は朝鮮人どもに不法占拠されていました。
同じことは他にもたくさんあって、中にはなんとか取り戻そうとして、密かに朝鮮人に殺されてしまった人もけっこういて、おれの家は結局、泣き寝入りになったと言います。
敗戦の混乱で、区役所も登記所も焼け落ちて証拠書類もなく、集団での暴挙(愚連隊)を取り締まることすら出来ない時代でした。
今現在、駅前に朝鮮人の住居や飲食店、パチンコ屋などが多いのはそのためだと言われています。
また、後の朝鮮戦争のときに、朝鮮人どもが大挙して日本国に不法入国しましたが、弱小海上保安庁しかなかった日本はそれを取り締まることが出来なかったようです。
おれが非常に業腹に思うのは、不法入国の朝鮮人に対し、日本人が
「同じように戦争の惨禍に遭っている朝鮮人がかわいそうだ。日本人も苦労したもの」
と同情する気持ちがあったということで、そんな甘い気持ちでいるからを庇を貸して母屋を取られるのだと、はらわたが煮えくり返ります。


   >>小説というより随筆というべきかと思いますが、この悲劇を語り継ぐことは私たち戦中派の責任と思っています<<
      ↑
 ありがたいことです。
誇張や創作のない事実のみの事象こそ、我々、次代を次ぐ者が目にし、心して肝に銘じ、伝えていかなければならないでしょう。
その上で、今回の一連のウクライナ侵攻で、ウクライナ人たちが、
「国家の自立を守るために戦う」
とした愛国心および自主独立の精神を美しいものとし、学び、日本国も国防に力を入れていかなければならないでしょう。

 力がないことは悪です。
力がなければ相手のどのような悪意も暴挙も理不尽も受け入れなくてはならなくなる。
国民を守るためには国家は強くなければいけない。
このハイテクの世の中、日本国はアメリカをもしのぐ防衛力を持たなければならない。
AIをあやつり、ドローンなどの近代機器を駆使し、電子的防衛網を張る。
近代戦は生身の兵士が戦わなくてすむ、バーチャル・ウォーを実現できるのです。


   >> 作品としての評価はともかく、多くの若い人たちに読んで頂きたいと思い、投稿させて頂きました<<
      ↑
 いえいえ、体験こそ万書に勝るのです。  
あなたは素晴らしい一書を残してくださいました。
心より感謝いたします。

中小路昌宏
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 上松さま 

 大変丁寧なご講評をいただき、有難うございます。
 上松さんはもう少し年配の人だと思っていました。

 朝鮮人に対する考え方、国防に関する考え方にはさまざまな意見もありますが、私が言いたいのは、決して、二度と戦争をしてはならないという事です。
 
 これからの政治を司る人たちは戦争を知らない人が中心になるでしょうが、この、戦争をしないという大原則だけは守って貰わなければいけないし、そういう人に投票して頂きたいと、切に思っています。

南の風
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読ませて頂きました。
最近では戦争の小説を読む人が少なくなりました。例えばレマルク『西部戦線異状なし』は当時の皇室の人たちまでが読んだと記憶しています。ヘミングウェイの『武器よさらば』の最後のシーンにも感動しました。なかにし礼の『赤い月』のイメージも鮮明に残っています。
逆に、逢坂冬馬の『同志少女よ、敵を撃て』は表紙が目を引くので手にとって読みましたが、私はあまり評価しません。
実は私も世界のことをもっと知ってもらいたくて、このサイトで小説を書いています。現在では正義漢ヅラをしている欧米(日本も含めて)が世界中で何をしてきたのかを知ってもらい、私の考える理想も織り交ぜながら短文を書いています。つまり、政治や経済ではなく文化を伝えることが必要だと思っています。
一場面を切り取って10枚から15枚ぐらいの作品にされたらいかがでしょうか。みんなが読むと思います 。SNS にもアップしてみたら良いかもしれません。今後ともよろしくお願い致します

中小路昌宏
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 南の風さん
 お読み頂き、有難うございます。

 今回の1文については、これまでに書いたものとはちょっと目的が違います。文学作品として書いたものではなく、人々がウクライナの惨禍を、以前ほど真剣に受け止めようとしなくなってきているように感じたため、改めて戦争の悲惨さを訴え、ああいう事が再び日本で起きることが無いよう、少しでも反戦意識を高めてもらいたくて書いたものです。

 もう、私の存命中には日本で戦争は起きないでしょうが、子や孫の代には分かりません。そんな時、身をもって体験した者であれば、決して戦争を容認することは無いでしょう。そういう気持ちを、出来るだけ多くの人に共有して頂きたいと思っております。

ドリーム
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拝読させていただきました。

この作品にお目にかかるのは初めてかな?

戦後77年ですか、早いような長いような月日の流れと共に忘れ去られようとしています。
なにせ戦後生まれの私には想像のつかない世界。
ただ未だに東南アジア諸国は日本の侵略に対して決して忘れ慣れない出来事。
日本の特徴は良くも悪くも過ぎ去った事に振り向かない志向があります。
アメリカに原爆を落とされても恨む事もない。これも過ぎ去った事にしていまうのかな。

私が幼少の頃は国民は貧困の時代。私もそれが当たり前だと思って居ました。
娯楽と言えばラジオ放送を聞けること。それから次々と電化製品に出て豊かになりました。
子供の頃の夢は自家用車を買う事。家を建てる事。世の中の景気の波に乗り達成する事が出来ました。
今やネットとスマホの時代。なんと幸せな時代になったことか。
ただ先人の困難と苦労と努力の恩を忘れてはならないと思いました。

歴史的小説に感銘しました。

ラピス
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リアルな胸くるしさが伝わります。
少し整理されて構成を考えたら、とも思いましたが、下手に作ったらフィクションになりそうだし、、、。
もう戦中・戦後を語る人も少なくなってます。どんどん書いて下さい。話を伺いたいです。

大丘 忍
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 私は昭和八年生まれで、戦中、戦後の日本の情勢を知っておりますので、懐かしく思いながら読ませて頂きました。
 とは言うものの、幸いなことに、私は空襲に逢った経験はありませんし、身近な家族で戦死したものも居りませんので、当時の日本人としては極めて幸運であったと思っております。
 それだけに戦災に逢われた方の苦しみは理解できると思っております。
戦後も遠く昔に遠ざかりつつある現在、このような戦争体験は貴重な資料になると思いますので、これからも若い読者のために書き残してください。

中小路昌宏
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ドリームさん いつも有難うございます。

 今回、本当は別の作品を投稿する予定でしたが、急に思い立って変更しました。
 ここへ投稿される若い人たちは平和な時代に生まれて、それが当然だと思っている人が多いと思います。しかし少し前には日本にも今のウクライナのような悲劇があり、2度とあのような愚かな戦争を繰り返してはならないとの思いから、これを書きました。

 若い人たちの中には、何をグタグタと年寄りが言っているのか・・・・と思う人もいるかもしれません。
 それでも書かずにはいられなかったのです。

中小路昌宏
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 ラピスさん お読みいただき、有難うございます。
  
 確かに、文学作品としてはつまらない、不要な部分もあると思います。例えば、靴を盗まれた話やごはんを持って行かれた話は不必要か?とも思いましたが、当時の世相を理解して貰うために書き添えました。

 一人でも多くの人たち、特に若い人たちに、戦争の悲惨さを分かって頂きたいと思っています。しかし、そんな話ばかりしていると、うざい‼ と言われそうで、これからも折々、少しずつ、それに触れて行きたいと思っています。
 

中小路昌宏
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 大丘先生 お読み頂き、有難うございます。

 父や母、および祖母については、当時大変な苦しみを経験したと思っています。しかし子供だった私自身は、不幸であったという自覚はありません。

 ただ、栄養失調を経験したためか、小学校時代は身体が弱く、身長は中ぐらいなのにガリガリに痩せていて、走っても跳んでも投げても組んでも何をしても、体操の時間はいつもクラスのどん尻でした。ですからとても長生きできるとは思っていなかったのですが、今まで生き伸びて、特に持病も無く、平和に暮らしていて、自分は幸せ者だなあといつも思っています。

 両親や祖母の不幸についても、それを強く思うようになったのは成人してからで、子供時代にはあまり真剣に考えることは無く、そのため父や叔母からもっと詳しく当時の状況を聞いておけばよかったと、最近になってから思うようになりました。

 この文章の中では、私の記憶している事だけを書きましたが、実際にはもっとたくさん、取り上げるべきエピソードがあったのではないかと思っています。

 

夜の雨
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「遠い記憶」読みました。

小説とはちょっと違い、「記録文学」とかの種類ですかね。
しっかりと戦中から戦後の庶民の生活などが、幼い子供の立場から描かれていました。
当時三才の「安達浩介」から始まっていて、母方の祖母・キネと、母よし子の妹である叔母・早苗との三人の苦しく悲惨な戦争体験から始まっているわけですが、すでに浩介の母と妹は結核にむしばまれており、父の父浩一は前年春に出征し、母よし子と幼い妹はその後6月と9月に亡くなった。
そのあたりから戦争の悲惨さと当時の日本人がどんな生活をしていたのだろうかということが、伝わってくる作品ではないかと思いました。

そのあと親戚を頼りに京都での生活も貧苦をなめ、大原の村田家へ預けられ、田舎暮らしをすることになった。
大原の駅前にいたところ電車から降りてきたひとりの軍人さんが彼の名を呼び、それが父浩一との再会で、一緒に生活ができるようになる。

あと、父が商売をすることになり、その苦労話やら昭和23年6月28日の福井地震のこと。
と、大変な時代を生き抜いた幼い安達浩介の記録文学ですが、それを現在の食べ物がたっぷりとある飽和と平和の時代から、考えているところのお話だと思いました。

気になったところ。

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大原の部落でひと冬を過ごした浩介は春の暖かい日の午後、駅前の広場で近所の友達と一緒に地面に炭で絵を書いて遊んでいた。
そこに着いた電車から降りてきたひとりの軍人さんが彼の名を呼び、それが父浩一だとわかったとき、浩介は嬉しくて飛び上がって喜び、父の先に立って、世話になっている村田家へ向かうときにも、元気な姿を父に見てもらいたくて宙を飛ぶようにして走りこんでいった。
ー-----------------------------
この父と再会する場面ですが、待ち合わせもしていないのに、父親は幼い自分の子供をわかるものですかね。
預けられている村田家へあいさつに行った先での子供との再会なら、お話は分かりますが。


まあ、なにわともあれ、記録文学として読めば素晴らしい作品でした。

ちなみに「戦艦武蔵のさいご」渡辺清 著という「ノンフィクション」を以前読んだことがあるのですが、凄いリアルティでした。
この渡辺清という方は、1925年生まれで1941年には海軍に志願し水兵になり1942年に武蔵に乗り込んでいます。
マリアナ、レイテ沖海戦に参加して武蔵が撃沈され、遭難して救助されました。
1945年復員。
このあたりのことが書かれていて、少年ながら戦争の第一線におかれた人物の様子が詳しく、感動ものでした。
出撃前に分隊長の命令で、それぞれ内地の肉親にあてて遺書を書かされたとありました。
最後の別れになるかもしれないので、遺書の中にはかならず「髪の毛と手のつめ」を同封するように。といわれた。
そういわれると、あらためて出撃だという思いが、ジーンと胸をこみあげてくる。
というような遺書のシーンでした。
そのあと遺書の内容が便箋4枚にわたり、書かれていました。

なんというか、御作のなかにも戦争の悲惨さが描かれていましたが、時代を越えて、こういった戦争の記録文学を読めば、現在はなんと平和な時代と思いはせますが、世界ではいまも自己都合で侵略戦争が行われています。
その影響が物価高とかにつながっていて、こう思うと日本も他人事ではないですね。
また北方領土もロシアに占領されたままですし、いつ、再び戦争の足音が身近で起こるやらわかりません。

今回御作を読んでみて、いろいろなことが頭をよぎりました。

以上です、また、作品を読ませてください。

それでは頑張ってください。


お疲れさまでした。

中小路昌宏
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夜の雨さん いつも有難うございます。

《そこに着いた電車から降りてきたひとりの軍人さんが彼の名を呼び、それが父浩一だとわかったとき》
《この父と再会する場面ですが、待ち合わせもしていないのに、父親は幼い自分の子供をわかるものですかね。》

 最初に書いたとおり、ここには嘘や誇張は一切ありません。

 父はこの村に2年前に別れた幼いわが子がいる事を聞いて、訪ねた来たわけですから、その年頃の子供たちを見たら、その中に自分の子供がいるかも知れないと思って一人一人の顔を良く見たのは当然だと思います。2年経っていても自分の子供の顔を忘れる筈はありません。だから、もしやと思って聞いて見たら、間違いなかったという事です。
 私もその場面ははっきり覚えています。一瞬で、その人が長い間待っていた自分の父親だとわかりました。

 なお、今もその部落の佇まいは昔と大きくは変わっていません。5〜6年前に行って見ました、駅を中心に戸数僅か20軒ほどの小さな部落で、丘陵地になっていました。ただし、自分が世話になっていた家はもう無くなっていて、近くの大きな川だと思っていたのが実際は幅10メートルぐらいだったことを覚えています。

夜の雨
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下記の説明を読んで、なるほどと思ったので、こういった内容を作中に書き込んでおいたほうが、リアルに伝わりますね。
父がいかに幼い息子に逢いたかったかが伝わると思いますが。
元の御作だと、伝わりにくいです。
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父はこの村に2年前に別れた幼いわが子がいる事を聞いて、訪ねた来たわけですから、その年頃の子供たちを見たら、その中に自分の子供がいるかも知れないと思って一人一人の顔を良く見たのは当然だと思います。2年経っていても自分の子供の顔を忘れる筈はありません。だから、もしやと思って聞いて見たら、間違いなかったという事です。
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返信ありがとうございました。

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