作家でごはん!鍛練場
5150

ゾアーリの夏が終わるころには

 ダブルベッドのシーツはここしばらく替えられないままになっていた。洗わなくてはいけないというよりも、半年前まであったものが消えてゆくように感じられて洗うことができないのだった。
 怠惰さに身を任せて、寝ていようとすればいつまででも寝ていられたのだと思う、ほんとうに。そんな私でも、仕事としてシーツを洗って乾かしてアイロンがけまでをしなくてはいけない。しかも全部を自分一人で。以前利用していたシーツのレンタル屋が休業になったから。
 シーツを替えると口でいうのは簡単だが、それが実際どんなに大変なことか、十年近く『海の見える宿』 というB&Bを営んできたというのに、今ごろになって知った。私はB&B(ベッド&ブレックファースト:簡易宿)で生計を立てていて、従業員は女の私一人しかいない。
『海の見える宿』は、ゾアーリ(Zoagli)という街の海近くにある。薄赤色やクリーム色だったり微妙なグラデーションが特有の小綺麗な街並みで、観光として見るものは何もない。あるのはどこまでも続くリグーリアの蒼穹な海と、強い日差しのからっとした太陽があるだけ。それでも三月くらいからぽつぽつと予約が埋まり出し、それが九月いっぱいまで続く。
『海の見える宿』の中庭には、陽光をたっぷり受けた無地のシーツが、さしずめ鯉のぼりのように、無地の白いシーツが風になびいている。地中海の太陽を受けて乾いたシーツは手触りが違う。均等に二分しワイヤーにかけて洗濯バサミで留める。かける前に手で十分に引っ張っておかないと、乾いてから妙な跡が残ってしまう。
「日本人はフトンで寝るからベットのことは知らないんだよな」と、夫のカルロに言われたときのことを思い出す。彼はベッドを神聖な場所としてとらえ、几帳面に扱うのを見て、当初は不思議に思ったものだ。彼はおおらかな性格なのだが、ことベッドにかけてはうるさかった。
「うちの家ではそうやって育てられた。皺ができると嫌なんだ。ベッドに入るときにしわくちゃだと眠りたくても眠れない」
 イタリア人の夫カルロと出会い結婚して十二年がたった。祖父の家だったのをカルロが気に入ってB&Bを始めた。ゾアーリはカルロの地元ではなかったが、彼は昔から海が大好きで、バカンスのときは必ずどこかの海に行っていた。「イタリアに来ていっしょにB&Bをやらないか」と、出会ったタイのビーチでそんなふうに言われ、気がつけば彼と結婚し、ゾアーリに住みついていた。
 それから私の世界には、カルロしかいなくなっていた。
 ゾアーリの海と、カルロと、私だけの──。
 でも十周年を迎えようというときになって夫の癌が再発し、五十二歳であの世にいってしまった。
 ゾアーリの海に私一人を残したまま……。

 ゾアーリのような場所に好んでやってくるお客には、どこか癖のある人たちが多い。
 以前からの常連で、夫の知り合いでもあった一人のシニョーラ(ご婦人)がいる。ミラノ在住の典型的なミラネーゼ(ミラノ人)の、五十三才。シモーナ。鼻が高くて、服装のセンスが悪い。
 ふらりといつも一人で週末にやってきた。突然に短い電話が入る。空きがあるかなど訊かない。Come stai(どうしてる)なんてことは言わずに、いつも日にちとチェックインの時間だけ告げる。自分は『海の見える宿』の常連客だから来たいときに来ることができる、と心の中では思っているはず。彼女のような客は苦手だった。
「ユキエ、バスルームに髪の毛があったわ。他人の髪の毛を見つけて、嫌な気持ちにならない客はいないと思うわよ。言われなくてもわかると思うけど」
 と、シモーナが泊まりにきたとき、廊下ですれ違いざまにそう言われた。
「あ、どうも大変失礼しました」
 私は思わずお辞儀をしてしまうほどに動揺していた。なぜ彼女のような客のときに限ってミスをしてしまったのだろう。悔しかった。
 ただでさえシモーナは他人を見下したような態度と口調だ。嫌ならもう来なければいいのに、という言葉が出そうになるのをこらえる。唇をぎゅっと噛みしめた。
 私は、彼女がカルロを当てに来ている客だとばかり思っていたけれど、夫が死んでからすでに半年が経とうとしている。でもシモーナは、いまだに『海の見える宿』に泊まりにきてくれている。しかも以前より泊まる頻度が増えている。
 夫の死後、いろいろな気持ちから私は、『海の見える宿』を近いうちに閉めようと思っていた。でも本格的な夏シーズンを迎え、すでに予約が入っているお客に対して申し訳ない、そういう気持ちだけでここまでずるずると引き延ばしてきた。
「たぶん、いろんなことの決断を下すにはもう少し時間が必要だと思うわ、ユキエさん」
 夫の死後、どういうわけか偶然出会ったある日本人女性のつてで、寂しい夜でも電話のできる相手を見つけることができた。ユリさん。二人の子供はすでに大きくて、自分の時間がある。母国語の日本語で話すことができると、とても穏やかな気持ちになれた。
「そうかしら。私、考えたくても何も考えられないのよ」
 いろいろ言ってくれるのは嬉しいが、しかしそうそう他人に甘えてばかりはいられない。とは思ってみたものの、ただシーツに包まれたいのが本音だ。眠るために仕事をしているようなものだ。虚しく広いダブルベッドにはいまだに慣れることができない。だから目をつぶるのだ。ずっとずっと、朝まで。

 次の日は快晴だった。朝食の時間が過ぎてひと段落する前に、シーツをかけることにしていた。午後になるとシーツをかけるのがなぜか鬱陶しく感じる。私は朝の海が好きなのだが、太陽も同じに午前中のが好きだ。
 背が低いためか、シーツをかけるのは思うより大変だ。ひと休みする。玄関先にあるベンチに腰かけて、海岸へと続く道をぼっーと眺めた。通りゆく人は皆軽装で、すぐ目と鼻の先にある海岸へと歩いてゆく。往来があるとほっとする。ここで夏の間だけ顔を見る人はみな海が好きで来ているのだ。私や、カルロがそうであったように。
「あっ、ユキエさん、ちょっといい」
「はい、どうぞ。なんでしょうか」と、振り向くと、そこにはミラネーゼの彼女が立っていた。
「ここにはもう来ないと決めたのよ」と、シモーナは唐突に切り出した。「だから、これまでよくしてくれたお礼をいおうと思って……」
 意表を突いた、まるでらしくないシモーナの言い方に、私はきょとんとしていた。
「でもね、早々に気変わりしてしまったの、あなたがシーツを干している姿を見ていたら、ふとそう思ったのよ。あなたはあなたのやり方を模索している。あなたはカルロではないのですもの、当たり前よね。そんなにきゃしゃな身体しているくせに、日本人ってのは案外、芯が強くてしっかりしているんだもの。感心しちゃうわ」
 
 ゾアーリの街全体が活気づくのは九月中ごろまでだ。学校が始まる時期になると急に静かになり出し、十月になると海辺の水着姿は消えている。夜には肌寒い風が吹くようになる。
 十月十五日が私の誕生日。ちょうどシーズンの終わりと重なる。『海の見える宿』は寒い期間は閉鎖して、カルロと二人で冬を南国の安アパートで過ごした。
 その日、私は誰か宿泊客が入ることを願っていた。料金などいらないから誰か泊まりにきて欲しかった。でも客はいない。冬のことを考えると気が滅入った。私は一人で南国になんて行きたくなかった。カルロのいない南国だなんて……。
 誕生日の日がきた。すっかり人のいなくなった海岸にビーチチェアを置く。グラスを持ってきた。誰もいない砂浜に向けて、スプマンテ(発泡ワイン)で乾杯をする。
 そうしているとシモーナが電話をかけてきた。あれ以来、シモーナは以前とは急に変わった。部屋に泊まりに来ては、合間を見つけて、私と世間話をするようになったのだ。シモーナは自分のことを誰かに聞いてもらいたがっているのが、私には手にとるようにわかった。不思議なことに彼女への苦手意識はもうなくなっていた。
「ようやく彼が出ていったわ──」
 スマホから聞こえてくる声は重いどころか、とても軽やかであった。それから数時間後には、私のいる砂浜で話の続きをしていた。グラスが二つになった。
「私はこんなにも執着していたんだわ、と気がついたの。だから夫に女がいるとわかってからというもの、ずっと夫にしがみついていたんだと思う。悔しかったから。これまでの長い時間を無駄にしてしまったと思うとやりきれなくなる。慣れって恐ろしいわね。習慣になっていた生活や欲しいものが買えない自由が脅かされると感じるとき、人はとことんしがみつくものなのね。そんなことをしている自分がとっても愚かに思えたの」
 シモーナは最近はよく、スリムなジーンズや胸が空いた女らしいものを着るようになっていた。これまでは色気のないワンピースやシャツをきちんと首あたりで閉める窮屈なタイプのものを好んでいた。シンプルな着こなしになり、見た目がずっと若々しく見え、余裕ある表情に変わってきた。
「他の女がいる夫に嫉妬しているわけじゃないと悟ったとき、私は自由になれたわ。そう気がつかせてくれたのは、もしかしたらあなたのおかげかもしれないわ、ユキエ。私がこの家に来ていたのは、そうすることで夫が私のことを顧みてくれるかも、と期待してのことだった。私のことを愛していないのはわかっていたけど、今の生活を手放すのが嫌だった。私にも誰か浮気相手がいるんではないかと思わせ、夫に気にかけて欲しかったんだと思う。愚かよね。私は夫をずっと愛しているんだと思い込んでいた。でもそうじゃなかったもの」
 どうしてだろう、私はシモーナの姿を見ているうちに、夫とこの土地にきた当初のことを思い出していた。
 ──自由。
 確かに、あの頃の私たちは自由だったと思う。タイにごまんと訪れるバックパッカーの若者のように、将来に怯えることなく、お金がないことに不安を抱きもしない。怖いものなど一つもなかった。
 お金も何も持っていなかったあの頃の方が、もしかしたらいろいろなものを持っていたようにさえ思う。でも、人は誰かと出会い社会で暮らしてゆく中で、どんどんと見えないものを背負い込んでゆく。年を重ねるにつれて体重が少しずつ増えてゆき、やがて簡単には痩せられなくなってしまうように。

「ねえ、海に行ってみましょう」と、私は思わず口にしていた。

 二人とも素足になって、波が寄せるところまで進む。冷んやりした海水にくるぶしまで浸かった。
「ああ、海って何て気持ちいいのかしら」と、思わず私はいった。
「あなたはいいわね、こうして綺麗な海にいつも囲まれて暮らしていられるんだもの。私の住む都会のミラノとは大違い」
 彼女は少女に戻ったように、きゃっと奇声を上げた。こんなにもリラックスした表情の彼女を見たのは初めてだった。
「もう夏は終わったのね」と、シモーナが言った。

 私は目をつむる。
 陽光はまだ肌をじりじりと照らすほどには強い。まだ同じ場所にいるような気がした。カルロと過ごしたゾアーリの夏の海。タイの海にもカルロは私といっしょにいたのだ。目を開けると、そこには濡れた髪と焼けた肌の彼がいるような錯覚に襲われるのだった。
 ……カルロは、どこにもいない。
 それでも、カルロと過ごした海はいつもと変わらないように見えた。
 同じ場所に立っていても、昨日とは違った陽光が差し込み、海の水は日に日に冷たくなっているのだ。太陽は照っていても、もう夏のそれではない。私の知らないところで季節は着実に変化しているのだ。
 スマホにはユリさんからの伝言が入っていた。
「ちょっと遅れたけど、ユキエさん、誕生日おめでとう! 今度、みんなでお祝いパーティーしましょうね」
 私は今年の冬はゾアーリにいても悪くないかなと、ふと思った。
 もしかしたら、ほんとうにそれほど悪くないのかもしれない。
 私にとって初めてのイタリアで過ごす冬だった。
 何か見つかるだろうか。
 ──新しい何かが。
 そんなふうに思えたのが意外だった。

ゾアーリの夏が終わるころには

執筆の狙い

作者 5150
5.102.5.218

以前こちらで投稿していた者です。よろしくお願いします。

コメント

中小路昌宏
softbank126243063110.bbtec.net

 読みました。

 これと良く似た場所を舞台にした映画を見たような気がします。風景描写も良く、登場人物の心情も良く描けていると感じました。

 読み終わってみると、なにか寂しい、物足りないような気がしますが、それがこの作品の狙いなのかな?

 良かったです。次の作品を期待しています。

すももりんご
61-21-188-205.rev.home.ne.jp

5150様お久しぶりです。復活、したのですね。嬉しくなりながら読みました。
 ユキエは暖かい南の海が好きだ。タイに旅行した時、海が好きなイタリヤ人カルロと出会う。
 海が好きという共通の思いが一致して将来を共に過ごすことになる。しかし二人は国籍が違うので生活習慣が異なる。
 夫婦になって一番に大事なものは夜寝るベットであります。イタリアの夫婦はほとんでダブルベットで寝る。
 夫になるカルロはダブルベッドのシーツに特にこだわる。
 日本人は蒲団という寝具がある。日本に来る海外の旅行者は日本文化を体験するため日本式ホテル、つまり旅館に好んで泊る。
 畳という床に布団を敷く。そして浴衣を着て寝る。外国人には驚く生活習慣だ。ダブルベットシーツのこだわりもない。
 実際の普通の生活では旅館と違いベット寝ることがほとんどだ。でもダブルベットで寝るのは二割くらいだと思う。
 シングルベットをくっつけることはある。嫌ならいつでも離せる。
 わたしもそうです。あ!ごめん。見栄だった。
 旦那なんかはいない。寂しくはないけどベットの横に大きな鏡を置いてある。もう一人寝てるような錯覚がおきる。
 話が外れて申しわけない。
 カルロの国へ行き、小さな宿B&Bを経営することになる。
 ここが少し分からないことがあります。
 イタリアのゾアーリで祖父の古い家を改造して宿泊施設B&Bをつくった。そしてユキエとタイで出会い経営を誘った。
 宿泊施設のB&Bは十二年後か。直ぐか?
 最初はユキエを単なる従業員で誘ったか?
 日本人は軽いが旅先で見知らぬ男に誘われてイタリアの有名でない地で小さな宿泊施設の従業員になるかなあ?疑問です。
 まあ、結婚の時期、従業員だった時期を想像できるけど分かりやすく書いてくれるとありがたいです。
 経営は順調に進み、有名な観光地でないので近隣の人達が実家のように利用すのもわかります。
 常連客の気難しい小姑のようなシモーナの存在。
 ここから生活の変化。
 頼りにしている夫は癌が再発して死亡。日本流で言えば大黒柱がなくなる。のしかかる不安。同時に事実を認められない残影と部屋に残る夫の匂い。夫がこだわっていたシーツを洗う事ができなかった。
 それを変えたのがシモーナの優し姉ような変わりよう。
そしてユキエは夫からの呪縛が外れて自由になる。新しい期待を持つ。いつもながら人間の心理を描き追求してますね。見事です。ありがとうございました。

アン・カルネ
219-100-30-64.osa.wi-gate.net

良かったです。小説らしい小説を読んだなあって読後感。

ただ、読み終えて、ふと気になった事。出会って12年の夫婦。カルロは52歳で他界。とすると出会った時、彼は40歳?
そして10月15日でユキエは何歳になるんだろう、と。
それがふと気になったのは「 ──自由。確かに、あの頃の私たちは自由だったと思う。タイにごまんと訪れるバックパッカーの若者のように、将来に怯えることなく、お金がないことに不安を抱きもしない。怖いものなど一つもなかった」と出てくるから。
40歳になるまでのカルロの人生と、もしユキエはもっとずっと若い女性であるなら40歳の男性と結婚する気になったきっかけはちょっと知りたいかなあ。あるいはもしユキエもそこそこいい年の女性だったとしたら、その歳までのバックボーン的なものがさらりとあると良かったかなあ、と。個人的にはユキエもカルロと大差ない歳だったらちょっと良いかなあって気はするんですけどね。というのはラストの2行がとても良かったから。この2行を読む時、頭の中にあるイメージはやっぱり50歳? ぐらいの女性だと、なんか読んでいて、ぐっとくるんですよね。これから初老にさしかかる女性が「──新しい何かが」と思い、でも「そんなふうに思えたのが意外だった。」と思う、この「意外だった」がとても効いてくるって感じなんですよね。ここ、若い女の子がそういうのは、こちらも「いや、それ、アナタ若いんだから、意外もへったくれも無いわ、とっとと新しい何かを始めて頂戴よ」となるんだけど、中高年の女性がそう思う、「新しい何か」と、そして「意外」、ここに自分を一歩引いて見られる引きの目と、でも自分の中の若い息吹みたいなのと、両方がうまく表現されていて、ぐっとこさせられるというか。
喪失と再生、ラストに希望、それが押しつけがましくなくしっとりと描かれていて、とても良かったです。
あと、枝葉末節な事では、もう少し、ゾアーリの季節の風景描写が入ってると良いのかな? と思いました。誰もがご存じの場所でもないと思うので。

青井水脈
om126204248065.3.openmobile.ne.jp

私も読ませていただきました、お久しぶりですね。5051さんはわりと色んなジャンルを書かれていましたが、今作は珍しい感じがしますね。寡婦となった女性の一人称視点に、異国の風景が重なって。鍛練場でもあまり見かけませんし、投稿されてなんだか空気感が変わりますね。

>ダブルベッドのシーツはここしばらく替えられないままになっていた。洗わなくてはいけないというよりも、半年前まであったものが消えてゆくように感じられて洗うことができないのだった。

「洗わなくてはいけないというよりも」を削って
>半年前まであったものが消えてゆくように感じられ、洗えないでいるのだった。
3段落目、4段落目で語り手のことや場所がわかりますが、それまでに削れるところは削った方がいいでしょうね。読者を退屈させないように。

>私はB&B(ベッド&ブレックファースト:簡易宿)で生計を立てていて、従業員は女の私一人しかいない。

>私は女手一つで、B&B(ベッド&ブレックファースト:簡易宿)を切り盛りしている。
前の文に出てくる「営んできた」と、「生計を立てて」「従業員は女の私一人」意味が被るので。

お話には、ちょくちょくシーツが出てきますよね。ユキエとカルロの思い出が詰まっていたり、宿には欠かせない物だったり、シモーナはシーツを干すユキエを見て気が変わったり。それが印象的でした。

ラピス
sp49-96-29-86.mse.spmode.ne.jp

お久しぶりです。ご健在で何より。
途中で閉じることなく、するすると最後まで読めました。

異国の海辺で簡易宿を営む主人公が羨ましい限りです。しかも亡きご主人は旅好きなイタリア人。
(ただ、カルロの良さが今ひとつ伝わらなかったような)

物思いをシーツで表現されているのが、上手いなあと感じました。
(しかし、ベッドが神聖ならベッドメイクまで書いて欲しかったです。きちんと角をとって、ぴしりとさせるのが案外難しいんですよ)

文句つけましたが、、、汗。
どこか物哀しい、どこか物足りなさが夏の終わりを感じさせて、美しい短編映画を観た気分です。
(海、好きですよね? 私もです)

夜の雨
ai203060.d.west.v6connect.net

「ゾアーリの夏が終わるころには」読みました。

御作は一見うまく描かれているように思うのですが、登場人物の表面をなぞっただけのような気がします。
どうも、さらりと書かれていて、奥行きがない。

これは現在進行形で描かれているのではなくて、過去を思い出したりして、それでお話が進んでいるからかも。
とくに主人公とその夫であるカルロとのことが過去形。
済んでしまったことを思い出して書いているので、面白みが半減している。

「シモーナ」についても。
夫に女ができていて、別れるうんぬんのお話が、過去形の説明だけになっている。
現在進行形でエピソードを語ると物語に厚みが出るのではないかな。

ゾアーリの海と、カルロと、私(主人公)、それにシモーナ、これらをうまく物語に取り込んで書けば、面白くなると思います。

内容はわかるのですが、ストーリーが伝わればよいというものでもない。
小説なので、読んでいて人生の重みみたいなものが伝われば成功。

アイデアはよいのですが。
ゾアーリの海を背景にして、それぞれの生き方(人生)があるので。
このあたりはエピソードの積み重ねで克服できると思います。

結局、小説にしても映画やドラマにしてもそれなりのエピソードがなければ、ストーリーがわかるだけ。
それで「深み」は、表面をなぞっているだけなので、伝わらなかった。読み手が、そこから、どこまで膨らますのかという事になります。

それでは頑張ってください。


お疲れさまでした。

5150
5.102.5.218

中小路昌宏さん、ありがとうございます。

似たような場所を舞台とした映画のタイトルが気になりますね。寂しい、物足りない、というのは夏とリンクしている心情です。小説の舞台の場所での夏は楽しいし賑やかですが、冬は逆に寒くて厳しいです。でも、どうして夏の終わりって一般的に言って、寂しくなってしまうのでしょうか。東京とかだと、去ってくれてせいせいするという感じなのでしょうけど笑。

5150
5.102.5.218

すももりんごさん、ありがとうございます。

お久しぶりです。感想を書いてくださってとても嬉しいです。以前とりかかっていた長編の方は進んでいますでしょうか。気になります。

プロットというか、あらすじを丁寧に書いてもらって、とても興味深く読みました。こうして別の方が要約されているのを読むと、なんだか自分で書いたような気がしませんね。不思議なものです。

やっぱり、主人公とカルロとの現在までの時間の経過と関係性が、ちょっと曖昧でわかりにくかったですね。よく考えていなかったのがバレてしまいますね笑。

5150
5.102.5.218

アン・カルネさん、ありがとうございます。

>この2行を読む時、頭の中にあるイメージはやっぱり50歳? ぐらいの女性だと、なんか読んでいて、ぐっとくるんですよね。

やっぱり笑。読んでいるとわかってしまうものなのでしょうか。作者の頭の中では50歳くらいでした。やっぱり12年くらいだとまだまだで、そういう境地にはならないんですよね。この宿は10年でいいとして、その前に二人が暮らした年月としてあと最低10年いや15年くらいはないといけないですよね。やっぱり今の感覚だと、50歳くらいって、一つの節目のような気がしますし。

>中高年の女性がそう思う、「新しい何か」と、そして「意外」、ここに自分を一歩引いて見られる引きの目と、でも自分の中の若い息吹みたいなのと、両方がうまく表現されていて、ぐっとこさせられるというか。

このあたりの読み方には、作者自身、感銘を受けました。こんなふうに書かれると確かにそうなっていますね笑。

5150
5.102.5.218

青井水脈さん、お久しぶりになります。ありがとうございます。

>削れるところは削った方がいいでしょうね。読者を退屈させないように。

「洗わなくてはいけないというよりも」は確かに削った方がいいですね。また、二重の意味の文を入れてしまうことも、ついやってしまうのですよね。日本語って、削ることはほんと大事ですよね。

>お話には、ちょくちょくシーツが出てきますよね。ユキエとカルロの思い出が詰まっていたり、宿には欠かせない物だったり、シモーナはシーツを干すユキエを見て気が変わったり。それが印象的でした。

話になりそうっていうまだ着想の段階でも、なぜかシーツのことが頭にあったので、それをもとにして作ったらこうなりました。

5150
5.102.5.218

ラピスさん、ありがとうございます。相変わらず執筆をコツコツされておられるのでしょうね。感想をいただけて嬉しいです。

>しかも亡きご主人は旅好きなイタリア人。
(ただ、カルロの良さが今ひとつ伝わらなかったような)

うん、カルロについては、ただそういう人がいた、って感じでしか書いてないのですよね。

>しかし、ベッドが神聖ならベッドメイクまで書いて欲しかったです。きちんと角をとって、ぴしりとさせるのが案外難しいんですよ

100%賛成します。推敲するときはちゃんとベッドメイキングのことまで書いておきます。

>どこか物哀しい、どこか物足りなさが夏の終わりを感じさせて、美しい短編映画を観た気分です。
(海、好きですよね? 私もです)

こんなふうな感想いただけて嬉しいです。海が好きだからこそ、夏の終わりがほろ苦いのかもしれませんね。海、大好きです!

5150
5.102.5.218

夜の雨さん、ありがとうございます。

>登場人物の表面をなぞっただけのような気がします。
どうも、さらりと書かれていて、奥行きがない。

さすが。あまり実感を込めては書いていませんでしたので、そのあたりを感じ取ったのでしょうか。

>現在進行形でエピソードを語ると物語に厚みが出るのではないかな。
>ゾアーリの海と、カルロと、私(主人公)、それにシモーナ、これらをうまく物語に取り込んで書けば、面白くなると思います。

尺の問題もあったかな、と思います。というのも、字数制限がある中で書いたものであり、第一稿目は書き込んでしまったので、かなり削って短くしました。

それは別としても、この物語はもっとゆっくりと登場人物に沿ってじっくり書いてゆく方がいいように思います。そうするには枚数がぜんぜん足りていませんでした。

青井水脈
om126204253073.3.openmobile.ne.jp

再訪失礼します。
はじめに読んだとき、本当になんとなくですが、冒頭1行目から2行目以降の繋がり?がスッと行かない気がしてて💦

>ダブルベッドのシーツはここしばらく替えられないままになっていた。

というのも、ここだけ抜き取ると、第三者の目線から見た様子を説明しているように映るからでしょうか。
これ以降は、「そんな私でも〜」「シーツを替えるのがどんなに〜」と、主人公の主観的な文が続くので。

>>ダブルベッドのシーツはここしばらく替えられないままになっていた。

>ダブルベッドのシーツをここしばらく替えられないままでいた。
かなり細かいですが、推敲の参考になればと。これだと最初から、主人公の心情が入るかと。

作中では確かに、カルロもシモーナの実は破綻していた結婚生活など、あくまで過去のこととして語られていますよね。でもテーマの一つに再生や希望がありますし、ユキエが少し前向きになる変化は現在形で描かれていると思います。

アン・カルネ
219-100-28-240.osa.wi-gate.net

私もちょっとまた来てしまいました。
>やっぱり12年くらいだとまだまだで、そういう境地にはならないんですよね。
いえいえ、そこは人それぞれだから。カルロとユキエのふたりで過ごした年月が12年なら、それはそれでいいと思うんです。
ただ…。なんて言えばいいのかな、例えばですね、バックボーンの設定として、カルロ40歳、ユキエ38歳、タイのビーチで出会う。であれば、カルロは40歳になるまでにどんな人生を送って来たのだろう、とかユキエは38歳になるまでどんな人生を送って来たのだろう、というところを作者は作っておくと良いんだよなってことです。
簡単で良いんですよ。バツイチ同士がタイのビーチで出会ったとか、方やバツイチ、方や未婚、とか。
>「 ──自由。確かに、あの頃の私たちは自由だったと思う。タイにごまんと訪れるバックパッカーの若者のように、将来に怯えることなく、お金がないことに不安を抱きもしない。怖いものなど一つもなかった」
これだと大学生くらいの年齢同士で出会ったような印象になってしまうのでね。
で、20代のふたりが出会って、恋に落ちて、でも52歳で夫とは死別っていうと、もうそれはある種の文脈を踏襲してラストのカタルシスへ向かうよね、になってしまうので。それだと今の作品の持っている小説らしさが失われるように思うのです。
むしろ40歳と38歳の男女が若い子達が溢れるタイのビーチで出会って、自分達にもまだまだ若者のようになれるものが身の内にあるのかも、と第二の人生をスタートさせた、はずだった、ということだったんだろうね、と“想像させられる”方がぐっとくるので(笑)。
今回の5150さんの作品には“字面を読んだまんま”じゃない、描かれた状況や登場人物たちが語る中に想像させるものがある、そこが小説らしいと私が思った所以なので。
そこは残して欲しいかなってこと。
だから、
>その前に二人が暮らした年月としてあと最低10年いや15年くらいはないといけないですよね。
ということではありません…。

5150
5.102.5.218

青井水脈さん、ありがとうございます。

たしかに、たしかに。気がつきませんでした。

5150
5.102.5.218

アン・カルネさん、ありがとうございます。

曖昧さと、想像の余地、の違い(境?)と解釈しました。

自分は特に短編なんかだと、読んでいて想像させるぐらい余白がある方が楽しいのです。けど、人によっては解釈は異なるにしても、曖昧さ、説明不足になって、読み進めるのに支障が出るという人もいると思うのですよね。自分は読んでいて、説明不足なくらいでも平気なタイプなので、なんとも言えませんが。

曖昧さと想像の余地の境目はどこだ、と考えても答えは出るわけないので、このまま疑問を胸の奥で寝かせて熟成させて待つことにします。

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