作家でごはん!鍛練場
浅井えむ

恋のマチエール

ゲオルグ・バーゼリッツ という絵描きがいる。

彼は「逆さまの絵画」で有名らしい。

そこで考えている。絵画も文学とある意味同じだ。絵画は文学よりは即座に何が描いてあるかわかるようにはなっているのだが、わかるということは、そこに描いてある、例えばロングコートのチワワであるとか、あるいは一糸纏わぬ裸婦であるとかに縛られてしまう。文学はその最たるもので言葉にはすべて意味があるので、この小説の意味はなんなんだろうと思ってしまう。

絵画も、思考はロングコートのチワワで停止して、可愛いという感情が湧き起こったり、一糸纏わぬ裸婦の豊満な乳房や臀部から太腿にかけてのえもいわれぬ曲線やら、デリケートな部分の草むらに視線は釘付けなって、劣情したりする。

つまり、描かれているモノ、そのモノに大きく影響され、そこから生まれる感情やら連想やらに囚われてしまう。

妻をモデルにして描いた彼は、その事に気づいたのではないか。


例えば小説でもその意味性に囚われることなく、文学ならその文字の字面の、悪い意味ではない表層を楽しむであったり、コンテキストから何かを読み取らなければいけない、ではなく、敢えてゲシュタルト崩壊させて、そのビジュアルを楽しむ、であったり、純粋に美しい言葉の響きを感じたり、絵画でもそのモチーフやら事柄ではなく絵の具の物質性や色やコンポジションを味わうみたいな、楽しみ方があっていい。


解釈を拒否するみたいな、つまり仔猫が描かれていたら、普通はその可愛さに引っ張られてしまうが、絵画を逆さまにすることによって仔猫の可愛さを消して、つまり、意味性を消すことによって、逆に純粋に芸術そのものに近づけていくという、ことなのかもしれない。

彼は自分の日常やら生活、つまり自分の人生を絵画に持ち込むことは決してないと言っているらしいが、 初期の逆さまの肖像画の多くのモデルは妻のelkeのようにも見える。

もしかしたら、自分の伴侶をモデルにして描いていたからこそ、逆さまの絵画が生まれのではないだろうか。

自分の人生を絵画に持ち込まない、モチーフから連想される意味や解釈から絵画を解放し、絵画としての抽象的なコンポジションの性質を強調したのは、鑑賞者のためなどではなく、はじめは自分のためだったのではないか。

彼の妻や、彼の人生を知っているのは彼自身だけなのであり、鑑賞者はそんなシガラミを一切知らないのだから、虚心で絵に向き合うわけである。

なので、はじめから絵画の純粋性云々により考え出された「逆さまの絵画」ではなく、逆さまにすることによって当たり前の解釈を拒否し、それにより一段止揚したところへと行けると、ある時気づいたのではないのだろうか。


本当に何が描いてあるのかわからない、たとえば線が縦横無尽めちゃくちゃに走っているだけであるとか、ただキャンバスが単色で塗りつぶされているだけであるとか、はじめから上下がないような、或いは上下を認識出来ないものが所謂アブストラクトなのであるから、バーゼリッツの「逆さま」は、対象物が具体的に何が描かれてあるかわかるものを敢えて描いて、鑑賞者に逆さまであることを認識させることにより、異和効果が発揮されることにも、彼は抜け目なく気づいているのではないか。

アーティストや作家は雁字搦めになった現実から自分を解放するために絵を描く、小説を書く、楽曲をかく、のだろうし、鑑賞者も読者も視聴者も、それらアーティストの世界へと現実から自分を解放し、楽しむのだろう。



が、そんなことは兎も角。

私は、2013年にオーストリアに移住した。現在の妻と一緒にザルツブルクの古城に引っ越したのだ。

何もかもが順調だった。

女癖の悪い私は、日本でのすべての女性たちとの諸々を清算し、世界で最も美しい湖畔の街と謳われるハルシュタットに建つ古城を手に入れた。

そして、オーストリアの地で電撃的にある美しい女優と結婚したのだ。

それから何もかもが順調だった。

朝、あるいは夕方にものんびりと散歩に出かけ、行きつけのカフェで美しい湖畔を眺めながら、お茶を心ゆくまで楽しんだ。

人生を満喫していたと言っても過言ではないだろう。

広々としたアトリエで毎日絵を描き、描いた絵は飛ぶように売れた。

若い妻は、ほんとうに美しく、誰もが振り返ってみるほどで、未だに日本の週刊誌やら何やらの記者から、インタビューのオファーが絶えなかった。

しかし。

またぞろ、私の悪い病気が出てしまったのだ。自分でもどうしようもなかった。

日本にいた時のような、同じ過ちを繰り返さないように、女性と接する機会にはことさら気を使っていたにもかかわらずにである。

しかし、マルセル・ベアリュの短編のようなことがほんとうに起こるとは夢にも思わなかったから、油断していたことは否めない。

あのマルセル・ベアリュの『水蜘蛛』は、ほんとうに美しくも哀しい一編で、私ははらはらと涙しながら読み終えたことを未だによく憶えている。


そこから、誰もが羨む人生から一気に奈落の底へと転落し、底無しの地獄の日々が私を待っていた。

そこで、女好きの世の男性諸氏に、敢えて苦言を呈したい。

たかが、水蜘蛛などと侮るなかれ。水蜘蛛は、貴方好みの女性にメタモルフォーゼして、貴方の魂と股間を鷲掴みにする。




くれぐれもご用心、ご用心。

恋のマチエール

執筆の狙い

作者 浅井えむ
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マルセル・ベアリュの水蜘蛛、未読ならばおすすめです!

コメント

南の風
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読ませていただきました。
妻のelkeと現在の妻が同一人物なのかそうではないのか、がはっきりせず最後まであいまいなままでした。
逆さまな絵と水蜘蛛は、私の感覚では同じ匂いのするグループと思えるのです。
ですから前段と後段の話に、白と黒、善と悪のコントラストの差が少ないように思いました。
もっと白は白、黒は黒とはっきりした方がよいのではないかと思いました。

浅井えむ
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南の風さま。

ご感想ありがとうございます。

前段と後段、同じ匂いがするというのはなかなかのご慧眼。

おっしゃる通りわかりやすく対比させることによってクローズアップするという手もあるのでしょうが、ここでは対比を意識していません。

「逆さまの絵画」は、例えば描かれてあるものが猫であるとの認識がある上で、猫の可愛いらしさに引きずられることなく、つまり、描かれているモチーフにより個人的に生じてくる感情やら連想をなるべく排除して本質的な芸術に向き合う、という狙いがあります。

主人公は絵画を生業にしているようですが、オーストリアに移り住んで、美しい妻と何不自由なく人生を満喫していたのですが、そこにある水蜘蛛が現れた。

主人公には水蜘蛛であるとの認識があるのですが、その水蜘蛛はただのつまらぬ蜘蛛などではなく、ヒトに変身できる蜘蛛だった。

その水蜘蛛は主人公に恋をしてしまい、自らをメタモルフォーゼしていく。

そして、主人公の前に美しいひとりの女性として立ち現れ、ふたりは恋に落ちていくわけなのですが、主人公には、不意にどこからともなく現われた美女が、水蜘蛛であるとの認識があるのです。

つまり、女癖の悪い主人公は、美しい妻を娶ったからには、もう他の女性とは親密な関係にならないように常に気を配っていたのですが、水蜘蛛の化身であるという認識が逆にあだとなってしまうわけです。

主人公には水蜘蛛の化身なんだから、という気の緩みがあったわけです。そしてまたさらに、美女の向こうにヒトではない水蜘蛛が見えながらも、偏見を超えて自分への愛情を強く感じることが出来たというわけです。


猫であるという認識はありながらも、逆さまであることからそのモチーフに引きずられることなく、絵画(芸術)そのものに向き合う。

水蜘蛛であるという認識はありながらも、その醜いといってもいいかもしれない外見に引きずられることなく、水蜘蛛の愛そのものに向き合う。

そんなコンポジションだったのですが、自由気ままで女たらしのアホな絵描きの話として、楽しんでいただけたなら幸いです。

ありがとうこざいました。

ショコラ
h175-177-040-043.catv02.itscom.jp

浅井えむさま
 おなつかしゅう。

 前半は作り手の立場として、自分の人生を作品に持ち込まないように、抽象化を目指さんとする。現実から自分を解放するために。
 一転して後半は鑑賞者の立場として、心を動かされた作品に引きずられるてしまい、作品が人生に持ち込まれて、現実が狂わされてしまう。
 ボバリー夫人が想起されました。

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