作家でごはん!鍛練場
狐塚

笛を吹く女

助けてくれ。
男は、気も狂わんばかりの勢いで走っていた。背後に鬼が迫っているからだ。
じっとりと汗ばんだ着物が肌にまとわりついてくる。だが、今はそんなことを気にしている余裕はない。なんとか逃げなければ。男の頭にあるのは、ただそれだけであった。

大正の、春の夜のことである。
澄んだ月の光が一ノ瀬の屋敷を青白く照らし、その光に淡く縁取られた庭の桜が、まるで精霊かのごとく、ほんのりと闇にその姿を浮かび上がらせていた。
「今宵も良い眺めであるな。」
広間から幽玄とも言える景色を眺めながら、父が呟いた。
傍らには母、兄、そして十六になる娘、薫が一緒に座している。
艶のある黒髪を上品に結い、これまた上等な白い着物を美しく身に纏い、どこか清楚で落ち着いた雰囲気を薫は醸し出していた。
「今日でお前もいよいよ一人前の鬼狩りになったな。」
父が酒の入った盃を手にしながら、娘に話しかける。
「はい、お父様。」
そう返事をしながら、薫のなめらかな白い頬に、さっと椿のような赤みがさした。
楚々とした物静かな雰囲気に、緊張が加わる。
元来鬼は人々にとって途方もなく恐ろしい存在であった。彼らは人を取って喰うだけではなく、少しでも噛む事で人を鬼に変えてしまうこともあった。
そんな鬼から人々を守るため、薫はこれまで懸命に修行に励んできた。が、一人前と言われても正直なところ、不安が胸に残る。そんな娘の胸の内を察してか、父は更に言葉を続けた。
「これからお前はひとりの鬼狩りとして、幾度となく命掛けで闘うこととなる。その度に困難が立ちはだかるであろう。だがお前は独りではない。ここにいる全員がお前の味方だ。困ったことがあれば遠慮なく相談しなさい。私達は家族なのだから。」
「はい。」
父の言葉がありがたかった。
一枚、また一枚と桜の花びらが舞い落ちる。
その木の下にいつの間にか女が一人静かに佇んでいた。年の頃は三十前後であろうか。長い黒髪をひとつに束ね、質素な白い着物を身に付けていた。
一見どこにでもいるごく普通の女に見える。だがその一方で、どこか浮世離れした不思議な印象を、見る者に与えてもいた。
「なんだ、夕凪ではないか」
父が女に気付くと声をかけた。
「また鬼が出たんだな。」
「いえ、今宵はまだ鬼は出てはおりませぬ。ですが、四辻町の方で一昨日からたて続けに人が襲われたとの情報がございます。」
「ふむ、それでは今宵はそこへ誰かが赴かなければならないな。とりあえず報告ご苦労であった。」
父が労いの言葉をかけた途端、ふっと女は姿を消した。代わりに、女がいたその場所に、一枚の紙切れがひらりと地面に舞い落ちる。
女は一ノ瀬家の扱う式神であった。
「さて、今宵は誰が四辻町へと向かうかな。」
再び家族の方へと向き直ると、父は言った。
だが、彼は先日鬼との闘いで負傷しており、今は動けそうにもない。母は他所から嫁いで来た身であり、鬼と闘う術は身に付けていない。兄は、今夜は別の場所へと向かわねばならなかった。
「薫、悪いが一人で行ってきてはくれまいか。」
こうして薫は初めて一人で鬼に立ち向かうこととなった。
薫は夕凪を懐にしまい、横笛を手に持つと屋敷をあとにした。夜とはいえ、ここら辺りはまだ鬼が出るとの情報はない。
月の照らす青白い夜空を背景に、影絵のように建ち並ぶ家々からは明かりが漏れ、時折人々の笑いさざめく声も響いてくる。
しかしその全てが、自分とは関係のないどこか遠い場所にあるかのようにも思われた。
まだ明かりの灯るお店の前を通りすぎながら、薫は自然と親友の明里のことを頭に思い浮かべていた。物静かで目立つことの少ない薫とは対照的に、明るく勝ち気な明里ではあるが、二人は不思議とよく気があった。
半年ほど前のことである。薫は明里と二人で近所の秋祭りへと繰り出していた。二人にとって久々のお出掛けである。
綿菓子、金魚、飴細工。笛や太鼓が賑やかに鳴り響き、人々が行き交うなかを、二人はあちらの店、こちらの店へと気の向くままに覗いていった。
最後に二人は髪飾りを売る店で、綺麗な簪を買った。
「わあ、明里よく似合ってる。」
「薫も綺麗だよ。」
そう言って互いに褒めあった。
不吉な報せが届いたのはその日の夜である。
ちょうど薫が家族と共に食卓を囲もうとしていた頃であった。突然夕凪が現れて言うには、明里の家の付近で鬼が出たとのことである。元々一ノ瀬家は鬼狩りを生業とする家系である。薫も幼い頃から鬼が出たという話はいやというほど聞いて育った。だが、その日ばかりは嫌な予感が拭えなかった。
高鳴る心臓を押さえつつ屋敷を飛び出す。明里の住む家の付近まで来ると、やはり身の毛もよだつような恐ろしい顔をした巨大な鬼がそこにいた。そして鬼狩り部隊の隊士だろうか。黒い襟詰めの隊服に紺の羽織を身につけた一人の青年が、刀でもって鬼と対峙していた。
明里-。薫がかけつけると明里が鬼のそばでうずくまって何かをしているのが見えた。
向こうを向いているため何をしているかは見えない。でも良かった、とりあえず無事だったのだ。ほっとしつつ明里に近づいていったその時である。
「そこで何をしている!」
突然背後から男の怒声が聞こえてきた。
薫が振り替えると、鬼狩りの青年がこちらを睨み付けるようにして立っている。年の頃は薫より三つほど上であろうか、端正な顔立ちをしているが、その表情は険しく、厳しい目を向けてくる。鬼はこの青年が倒したのであろうか、手に持つ刀は血で濡れ、死体が地面に転がっていた。
「明里が、私の親友が鬼に襲われたかも知れず、こうして急いでまいったのでございます。」
「それが、お前の親友か。」
青年は薫の背後に目を向けながら言った。
「ならば一足遅かったようだな。」
薫はその言葉に振り返る。と、そこに一人の鬼がいた。明里の着物を着た鬼である。人を喰ったのであろうか、むき出しの牙には鮮血がついており、手には子供のものと思われる小さな足が握られていた。
明里もまた爛々と光る眼でこちらを見てくる。
が、一言も言葉を発しない。薫を見てもなんの反応もない。人間だった頃の記憶をなくしたのか。簪の飾りが虚しく揺れた。
「こいつはもうお前の親友ではない。一度鬼になってはもう元には戻らない。抹殺するより他はないから覚悟しろ。」
全てが止まった時の世界で、青年の声だけが響いてきた。
青年は逃げようとする明里を捉え、その頚を刀でばっさりと切り落とした。

守りたかった。でも、守れなかった。
明里は多少気の強いところがあるとはいえ、ごく普通の女の子だ。だから自分が早く一人前の鬼狩りとなって明里を守るつもりでいた。 なのにどうして大事なときにそばにいなかったのだろう。 薫の目に涙がじんわりと浮かんだ。

しばらくすると四辻町へと辿り着いた。
鬼が出るとの噂を聞いての事であろうか。
人々は家々の扉をかたく閉ざし、普段は窓から漏れてくる明かりもなく、辺りはしんと静まり返っていた。
青白い月の光が、人気のない通りを照らしているのみであった。


その静寂のただ中に四、五歳位の幼い男児が一人で泣きじゃくっていた。どうしたの、と声をかけると両親とはぐれて家へ帰れなくなったのだという。
只でさえ鬼が出るかもというのに放ってはおけない。
薫は一緒に家へ帰ろうと優しく話しかけた。
ちょうどその時だった。
「そこで何をしている!」
突然背後から声がかかった。振りかえるとそこに一人の青年がいた。黒い襟詰めの服に紺の羽織。端正な顔立ちだが、その眼には厳しいものが浮かんでいた。
あの時と同じ鬼狩りの青年に違いなかった。
「この付近で鬼が出るとの噂は聞いてはおらぬのか。家はどこだ。早く帰りたまえ。」
青年は薫をじっと見つめながら、問い詰める。
「そのような訳には参りませぬわ。」

「何!?」
「今宵、その鬼に会いに参ったのでございます。私はこう見えても鬼狩りの端くれでございます。」
青年はまじまじと薫を見つめた。

年の頃は十五、六だろうか、気品のある顔立ちにどこか可愛らしさが感じられた。
裕福な家の出身なのだろうか、上等な白い着物を品良く着こなしている。
だが、それだけであった。
丈夫な隊服を身に付けている訳でもなければ、鬼狩りに必要な刀を持つわけでもない。
何より彼女自身が華奢で、闇に散りゆく白い桜を思い起こさせるような、そんな儚い幻のような風情を感じさせた。




とても鬼と闘うような強靭さを持ち合わせているようには見えない。
第一鬼と闘う者は皆鬼狩部隊に所属しているものだが、この女はどう見ても違う。
青年は半ば呆気にとられながら尚も薫を観察し続けた。
と、小さな右手に竹で出来た横笛が握られているのが目に入った。
笛―。
記憶の中で何かがひっかかる。
「お前、名はなんと言う。」
「一ノ瀬 薫と申します。」
一ノ瀬―。
聞いたことのある名である。
「俺の名は片桐だ。見ての通り鬼狩り部隊に所属している。鬼狩りを名乗るならもう好きにしろ。
だが、俺はお前を別に信用した訳ではない。
いざとなったら子供を連れてとっとと失せろ。鬼とは俺一人で闘う。民間人を死なせたとなっては鬼狩りとして失格だからな。」
青年はやや高慢な口調で言った。
「少なくとも邪魔は致しませぬわ。」
薫はきっぱりと返事をした。

しんしんと夜が更けていく。と、春の風に乗って前方からひどく醜悪な気配が漂ってきた。まるで美しい絵画を汚すひとつの黒い染みのようである。
鬼。間違いなく鬼の気配である。
鬼はゆっくりと、だが確実にこちらへと近づいて来ているようであった。
二人は暗闇の中、じっと目を凝らす。
急に薫は心臓が激しく高鳴るのを感じた。それは自身の、鬼狩りとしての未熟さから来るものであった。
と、同時に再び明里のことが頭に浮かんくる。
守りたかった、でも守れなかったー。
ここで私が怯んでどうすると言うのだろう。
逃げてはいけない。ぐっと覚悟を決める。それでも鼓動は止まらない。
「片桐様。」
震える声で片桐に呼びかける。
「他にも鬼が出るやも知れませぬ。ここは私におまかせ下さい。」
だが、片桐は微動だにせず薫を黙って見つめている。先程の言葉通り、やはり信用していないのだ。
しかし、今は緊張でそんなことを気にしている余裕はない。
震えながらも人差し指と中指を唇の前で真っ直ぐ立てると、呪文を唱え始める。
これで少なくとも片桐と子供は鬼の眼からは見えなくなるはずだ。今の薫の実力ではそれが精一杯であった。
明里の顔が頭から離れない。笑顔の明里。
鬼になった明里―。
守りたかった、でも守れなかった。
心臓が早鐘のように鳴る。
逃げては駄目。守るのよー。
震える手をぐっと握る。

その途端、息がふっと漏れた。

そして早鐘のように脈打つ鼓動が、ぴたりと鎮まった。
胸のうちに平常心が戻る。

薫は手に持っていた横笛をそっと唇に当てた。
いつも通りー。

深く、美しい音色が伸びやかに春の宵の中へと消えていく。薫は月明かりの中、静かに笛を吹き続ける。それはまるで、春の夜の夢のような光景であった。

やがて一人の鬼が闇の中から姿を現した。
般若のような顔をした、女の鬼である。
鬼は薫を見るとニヤリと嗤った。
薫は慌てず静かに笛を吹くのを止める。
般若の鬼はゆっくりと薫に近付くこう言った。
「おや、ここには人間が三人いるかと思ったが、小娘一人だけだったか。
まあいい、どのみち今日は人を喰うのは止めた。おかしな音色が聞こえてきたと思ったらなぜか急に喰う気が失せてきての。
小娘、運良く助かったな。だが、次に会うた時にはお前の命はないと思え。」
そう言うと薫の方を見ながら、小馬鹿にしたように嗤い、通り過ぎていった。
薫は尚も落ち着き払って、じっと前を向く。
一歩、二歩、三歩と鬼が薫の背後から遠ざかっていく。
四歩目を踏み出した時だった。
突然鬼が恐ろしい形相で薫を振り返った。
「お前、何をした!?」

「別に何も。私はただ笛を吹いていただけでございます。」
「だから、その笛だよ!貴様が吹いていたその笛のせいでわらわの体がー」
見えない音色の糸に絡まれて鬼の体は半分以上消えかかっていた。
「お前、まさかー。」
鬼は今さら驚いたように眼を大きく見開く。
「そのまさか、でございますわね。
私はこう見えても鬼狩りでございます。」

鬼は言葉も出ないのか、ただただ大きく眼を見開いたまま、やがて闇の中へ溶けるようにして消えていった。

薫はほっと胸をなでおろした。初めて一人で闘い、見事勝ったのだ。
片桐と子供の方を見ると、二人とも薫の方を見守っていた。
子供は鬼がいる間は片桐にしがみつくようにして立っていたが、いなくなるとそっと手を離していた。
片桐はどういわけか相変わらず、厳しい目で薫を見つめていた。
「お前の実力はその程度か。」
片桐が口を開いた。
え!?
「もう一人お前の背後に鬼がいるぞ。」
言われて振り向くと民家の屋根の上に黒い人影がいるのが分かった。
黒い布をぴたりと身に纏い、眼だけを覗かせるその姿はまるで忍びを思わせた。鬼には見えないが、その気配は鬼そのものである。
しかしいつ頃からそこにいたのか、薫には皆目見当がつかなかった。
「へえ、笛を吹いて鬼退治、ねぇ。なかなか面白い物を見させてもらったなあ。」
若い男の声が上から降ってくる。
「おまけに妙な術を使って人の姿を見えなくするとか、さぁ。鬼狩り供といやあ馬鹿のひとつ覚えみたいに刀しか使わないもんだと思ってたけどなあ。あんたみたいなのもいるんだ、ふぅん。」
忍の鬼はまるでどこか他人事のようにゆったりとしゃべった。
「でもさぁ、俺にはそんなのどうやら効かないみたいなんだよね。」
鬼がしゃべったかと思うと次の瞬間にはもう薫の首をつかんでいた。
「見えるぞ。くくく、そこにお前の他にもう二人人間がいるだろう。残念だったなあ、術が効かなくてさあ。お前のあとに喰ってやるから、そこは安心しな。」
そういって忍びのようなその鬼は低く嗤い声をもらしながら、薫の首を掴むと体を片手で持ち上げた。鬼は素早く、薫は逃げることができなかった。
やはり力では鬼には敵わない。鬼は人よりずっと強い。この状況では笛を吹くのは不可能だった。
夕凪―。
薫は懐の中にいる式神によびかける。夕凪は薫の呼び掛けで懐から出ようとした。
しかしそれより早く片桐が鬼の腕を刀でばっさりと切り落とした。
鬼は薫を離し、残った腕で片桐を捉えようとする。疾風の如く素早い動きであった。
だが、片桐は表情ひとつ変えず、やすやすとその鬼を捉えた。本来強いはずのその鬼はどうしたことか片桐の腕に捕らわれ、身動きが取れない。そうするうちに片桐は刀であっさりと鬼を斬り倒した。鬼の遺体が夜の道に転がり、やがて消えてなくなった。

「鬼狩りを標榜するならせめて人に言われる前に鬼に気付いたらどうだ。
一人の鬼だけにかまけるな。
今の鬼に負ければ、これまでの勝利も水の泡。子供の命も、そしてお前の命もなかっただろうな。」
片桐の言う通りであった。般若の鬼に気をとられ、もう一体の鬼に気付けなかった。
本来なら般若の鬼と同時にこの鬼も倒さなければならなかったのだ。
もし、自分が般若に立ち向かってる間に子供に襲いかかって来てたらー。
その場合片桐がいなければ、子供は忍びの鬼に喰われていただろう。
鬼に意識を向けてなければ術は効かないのだ。

明里を失って泣いてたのは他でもない自分だったのではないか。
幼い頃から鬼に襲われた人間の事を見聞きし、その度にもう誰も死なせたくない、と修行に励んできたのではなかったか。
それなのに私は今何をやってるのだろう。
薫は返す言葉もなく、押し黙った。

片桐は一人で歩いていた。
結局あの後薫とは何も話さず別れた。
突然別の場所から悲鳴が聞こえたからだ。
大方迷子の子供を家へ送り届けに行ったのだろう、薫は自分にはついては来なかった。

一ノ瀬家―。
薫からこの苗字を聞いたとき、はっきりとある出来事が頭に甦った。
去年の事だった。片桐は任務を終え、近くの食堂へと入っていった。
隣の席には男の客が二人向かい合って座っている。
「なあ、お前、聞いたことあるか。」
一人が相方に突然声をかけた。
客の入りが少なく静かな食堂である。聞くとはなしに男の声が片桐の耳に入ってきた。
「何をだい?」
「笛を吹く鬼狩りの話をだよ。」
「笛?鬼狩りといやあ刀だろ。笛で鬼を倒せるのかい?俺は聞いたことないな。」
「それが見たって言うんだよ。俺の親父が昔子供の頃にさ。」
時は明治の頃にさかのぼる。
助けてくれー。
少年は夜中男の声で目が覚めた。
声は外から聞こえてくる。
少年は好奇心にかられてそっと扉を開けた。
すると、左の方から一人の見知らぬ男がこちらへ気も狂わんばかりの勢いで走ってくるのが目に入った。
よく目をこらして見ると、男の背後に鬼が近づいて来ているのが見えた。
まだ距離はある。しかし逃げなければやがて追い付かれてしまう。
少年は思わず息を殺した。自然と拳を握りしめる。

と、少年の家の前に突然、もう一人別の男が現れた。まだ若いようだが、暗がりで顔ははっきりとは見えない。しかし彼が鬼狩り部隊でない事だけはわかった。身に付けているのはごく普通の着物である。逃げてくる男はそれでもいいと思ったのかなんなのか、その目の前にいる若い男の足元にすがり付いてこう言った。
「た、助けてくれ。旦那。後ろにお、鬼が。」
はあはあと息を吐きながら声を振り絞る。
若い男は慌てる様子もなく、静かに唇に指を当てた。足元にすがりつく男に対して静かにするように言ってるようである。
それから唇の前に指を二本立てたまま、まっすぐ前方にいる鬼の方を見やった。
何が始まるんだろうー。
少年は恐怖を感じていたが、それでも目が離せない。
やがて若い男は静かに笛を取り出し、そっと唇に当てた。
笛―!?鬼が迫ってるのにー!?
逃げてきた男も呆気に取られた様子で若い男をぽかんと、見上げた。
月の明るい晩である。
若い男はまるで何事もないかのように静かに笛を吹きはじめた。
澄みきった美しい音色が闇夜に消えていく。
そのあまりの光景に、逃げてきた男も少年も、鬼の事など忘れてただ見入っていた。
やがて鬼がやって来たが、どうしたことか二人の姿が見えないらしく、人を襲うことなく消えていき、その後若い男も静かに立ち去って行ったという。
どこから来たのか、名前はなんと言うのか、どこでその不思議な術を身に付けたのか、全ては謎のままであった。
後に残ったのは必死に逃げ延びた男、ただ一人であった。
「ほう、そいつはなんとも不思議な話だね。まるで夢の中の出来事みたいだな。」
相方は話を聞き終わると言った。
「ところが、親父ははっきりとこの目で見たって言うんだよ。若い男がいなくなったあと、しばらくして同じように笛を吹く者が現れたらしい。何でもその者たちは名を一ノ瀬と名乗っているのだとか。」
「ふぅん、一ノ瀬ね。俺はとにかくそんな
人達は知らないね。だいたい本当にいたとしてそいつらは人間なのかい?まるで手品でも使ってるようにしか聞こえないんだが。
こういうのもなんだが、やっぱりお前の親父さんは寝ぼけてたんじゃないのかい?」
「いや、本当にこの目で見たって言ってたよ。」
「じゃあ狐にでも化かされたんだろうよ。
一ノ瀬とかいう連中は正体は狐で、人間をからかっているんだ。」
「しっ、あんまり悪口を言うとあの家の者にとり殺されるぞ。」
「ハハ、そいつは怖いな。」
二人の客はそれっきりその話題には触れなかった。


片桐自身もそのような噂話を信じた訳ではなかった。念のために、鬼狩り部隊の仲間にも確認して回ったが、誰も一ノ瀬のことは知らないという。やがてこの話は記憶の隅へと追いやられていった。

だから今夜目の当たりにした一連の出来事には、内心ただただ驚くばかりであった。
闇の中、散りゆく白い桜を思わせるような雰囲気を持つ若い女。
月明かりの元、静かに笛を吹くその姿。
深く心に染みわたるような音色。
そして消えゆく鬼―。
本当にいたのだ。鬼の目を眩まし、笛を操る不思議な一族が。

その全てが暗い現実の合間に現れた、美しい泡沫のようにも思われた。
だがしかし、いくら信じられないような出来事であっても、現実にあの女は存在したのだ。
まだまだ未熟そうではあっても、女の持つ不思議な術に、同じ鬼狩りとして興味がない訳ではない。
それにー。
片桐は月を見上げながら尚も、薫の笛を吹く姿を頭に思い浮かべていた。
般若の鬼を前にして震えてはいたが、それでも凛として立ち向かうあの姿勢。
また会いたいー。
そう思った。

薫が屋敷へと帰りついたのは明け方近くのことだった。
片桐と別れた後、迷子の男児を家へと送り届け、その後も引き続き鬼がいないか捜索したが、結局一人も現れなかった。
屋敷へ近づくと、白み始めた空を背景に、門の前に若い男が一人立っているのが見えた。
千才茶色の着物の上に黒い羽織を羽織って、その男は薫が帰宅するのを待っていた。胸の位置まで上げた右腕には、一羽の鷹が止まっており、何やらその鷹と会話でもしているようだった。
「夕べはご苦労だったね、薫。千鳥から色々と話は聞かせてもらったよ。」
男は薫の二つ違いの兄であった。
「千鳥、もういいよ。」
鷹に声をかけると、すっとその鳥は姿を消し、代わりに一枚の紙切れがひらひらと地面に落ちた。
千鳥は兄の扱う式神であった。
「お兄様。」
薫は意気消沈した様子で口を開いた。
「昨日はっきりと分かったことがございます。
私は鬼狩りとして、まだまだ未熟者でございます。」
兄はそんな薫の目を真っ直ぐ見つめてこう言った。
「ならばもう少し精進したらどうだ。」
道はそれしかないのだから。
薫はこくりと頷いた。
「もうすぐあさげの時間だ。はよ、家の中へ戻るぞ。」
兄はそう言うと、くるりと踵を返して門の方へと向かった。後を一枚の紙切れがまるで意思を持つかのように、ひらひらとついていく。
こうして二人は屋敷の中へと入っていった。
完了

笛を吹く女

執筆の狙い

作者 狐塚
133.106.51.45

初めて小説を書いてみました。他人が読んだらどんな風に思うのかな、と気になり投稿しました。皆様感想をどうかよろしくお願いします。

コメント

南の風
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読ませていただきました。面白かったです。

細かいことですが、気になったことは「思わせぶりなこと」が多いことです。結局、笛とか、友達とか、紙とか、そのようなものがたくさん出てくるのですが、どれかひとつに絞ってそのアイテムの出現頻度を上げたら読者の意識もそこに集中すると思います。それが最後の締めの部分の「あいまいさ」につながっているのかもしれません。幽玄の雰囲気はいいのですが、対比する現実(?)がないので、読んでいてふわふわしたままで終わってしまいました。

でも、素敵な作品でした。有難うございました。

狐塚
133.106.51.52

南の風様。
お読みいただき、ありがとうございます。沢山アイテムが出てきて、思わせぶりが多いとのこと。
後出しになってしまい、申し訳ないですが、この作品は長編の中の一話目として書かせていただきました。なので、これくらいのは問題ないかなと思った次第です。きちんと長編だということを、初めに書いておくべきでしたね。
すみませんでした。
最後に、素敵な作品とおっしゃっていただき、嬉しいです。ありがとうございます。

夜の雨
ai192228.d.west.v6connect.net

「笛を吹く女」読みました。

初めて小説を書いたという事ですが、なかなかうまいですね。
楽しく読み終えることができました。
構成とかキャラクターとかテーマとか小説を書く上での基本部分はできているのではないかと。

気になったのはオリジナルティですかね。
『鬼滅の刃』という漫画からアニメへがすでにあるので、どうしても御作は影が薄くなります。
こちらの作品も大正時代が舞台となっています。
御作が鍛練場で評判がよいので、このまま公募とかの規定に合わせて書いたとしても選考を進むことは難しいだろうと思います。
時代が求めているものは、オリジナルな作品です。

すでに小説を書く上ではかなりのレベルだと思いますので、狐塚さん自身のオリジナルな作品を研究して創作することをお勧めします。

それでは頑張ってください。


お疲れさまでした。

狐塚
133.106.51.52

夜の雨様。
感想いただきありがとうございます。
沢山誉めていただき、嬉しいです。
自分のオリジナリティーを出せるように今後とも頑張っていこうと思います。

ネッコ・フィリックス
p2954005-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

 読ませていただきました。

 初めてとは思えないほど、綺麗な文章を書きますね。ぼくの場合は、もっとめちゃくちゃでした、今も克服出来ていない課題なんですが。

 やはり、鬼滅の刃の印象は拭えませんが、文章力はあると思います。
 
 文体に没入感があり、世界に浸りたい人にはうってつけかと思われます。裏方に徹しきる胆力があるのでしょう。
 画数なのは、使用頻度なのか、判断つきかねますが、幽玄という言葉が浮いて見えないのが、御作の強みだと思います。今日日、幽玄っていう言葉は、使いたくても使えない言葉です、語弊があるのは百も承知ですが、死語というか、絶滅危惧種的言葉ですから、かなり目立ちます。悪目立ちの域かもしれません。

 ぼくの個人的な文体の好みの試金石は、静謐と、レーゾンデートルなんですが、御作は前者の言葉を違和感なく使いこなせる文体だと思います。一作品につき、一単語あるかどうかの言葉なので、興味があれば注目してみてください。

 時代設定の強みもあるにはあるのですが、文章のバランスを保っているから、違和感を感じないのだと思います。
 これは、明確なイメージがなければ成立しません。一端、絵を思い浮かべたら、文字で繋ぎ止める技術があるのでしょう。

 内容ではなく、抽象的な感想で申し訳ありません。
 次回作、期待しています。

狐塚
133.106.60.34

ネッコ・フィリックス様
丁寧な感想ありがとうございます。あまり自信はなかったのですが、文章を誉めていただき嬉しいです。
幽玄という形容詞を使うからには、それに相応しいだけの描写が必要なのかな、とあなた様の感想を読んで思いました。
言葉を使うことの重みを考えさせられた次第です。ありがとうございました。

通りすがり
119-173-139-201.rev.home.ne.jp

上手ですねえ。かなりの読書家であられるなと。
最初の逃げる場面、もう少し読みたかったです。
すぐに、別の宴会に切り替わって、残念。
もう少々スピードと緊迫感があってもいいかなと
思いました。着物が汗で肌にはりついている、で
十分で、それを気にしている余裕はない、は
書きすぎかなと。つかまったら、何をされるのかと
読者の興味を惹きつつ、ひたすら逃げまくらせて、
コケたり、履物が脱げたり、怪我をしたり、いかがでしょうか。
出血でもしたら、追っているモノの態度は変わりますか?

宴会の場面、典雅で素敵ですね。
「鬼狩りデビューおめ」を言うのが早すぎて
もったいないような。
なんのお祝い? いつもこんな規模でできる財力?
誕生日、それともお見合い、婚約とか、ひっぱりつつ
キャラの紹介、心情描写をしていけると思いました。
偉そうでごめんなさい。続き、完結が楽しみです。
長編を書きあげて、賞をとれますように!!!

狐塚
133.106.48.172

通りすがり様。
本作をお読みいただきありがとうございます。通りすがり様のコメント大変参考になりました。冒頭の部分、もう少し長く色々と書いた方が良かったですかね。
出血でもしたら、追っているモノの態度は変わりますか?
鬼は人を襲うことが目的な為、別に人が怪我をしていようがあまり関係ありません。
勿体ないと思われる部分も教えていただき、勉強になりました。
ありがとうございました。

京王J
p1165143-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

読みました。

鬼滅の刃の二次創作として読みました。
申し訳ないですが、鬼滅の刃のことを考えずにこの作品を読むのは無理です笑。

笛の小道具は鬼滅の刃には出てこないので、そこはよかったと思います。

こういうものを書きたくなる気持ちはわかるのですが、発想の元ネタが鬼滅の刃にかなりよってしまっています。(失礼ですが、普通の人にはいわゆる「パクリ」にしか見えません)
舞台を変えるなり、参照する作品の数を増やしたりしたらいいのではないかと……

たとえば舞台を現代や外国に変えるだけでも、鬼滅の刃ぽっく見えなくなります。

しかし、推測ですが、作者様は「鬼滅の刃ぽっいオリジナル作品」を書きたかったようですから、ご自身が楽しめればそれでいいんだと思います。
(この作品は、読者よりも作者様が自分だけで楽しむタイプの作品だと思います。)
そういう点では、作品未満のものだと思います。すみません。

余計なお世話ですが、もっと読まれたいと思うなら、鬼滅の刃の二次創作作品として書き直し、鬼滅の刃の世界に「一ノ瀬薫」を登場させれば、鬼滅の刃のファンの人たちが読んでくれると思います。

とはいえ、素敵な作品です。

狐塚
133.106.48.158

京王J様
コメントを書いてくださりありがとうございます。仰る通り、この作品は鬼滅の刃から着想を得て書きました。
あの漫画の世界にこんな登場人物いたらな、という思いが止まらず、つい書いてしまった次第です。
倒すのが鬼ではなく、鬼を含めた魔物全般、時代が大正ではなく明治等もう少し設定を変えれば鬼滅っぽくなくなりますかね。二次創作だと鬼滅の刃のファンに読ませるにはあの作品の登場人物を出さないと面白くないと思われる可能性があるので。今のところ鬼滅の刃の登場人物がこの作品に登場する予定はない為、もう少し設定を変えて一次創作として書いても良かったかな、と思った次第です。
読んでいただきありがとうございました。

狐塚
133.106.50.179

京王J様
それから再度すみません。書き忘れていましたが、この作品は読者よりも作者が自分で楽しむタイプとのことですが、それでも実際面白いとおっしゃって下さる方は、自分の周りにも上のコメント欄にもいるので、今回それはそれで良かったかな、と自分では思っています。
せっかく小説を書くのなら他人を楽しませるだけでなく、自分も楽しみたいなと。

京王J
sp1-75-244-224.msb.spmode.ne.jp

再訪です。

そんなに拗ねないでください笑
いくら拗ねても反論しても、作者様の実力が上がるわけではありません。
それに私は、誰よりも素晴らしい作品だと思っています。

>>書き忘れていましたが、この作品は読者よりも作者が自分で楽しむタイプとのことですが、それでも実際面白いとおっしゃって下さる方は、自分の周りにも上のコメント欄にもいるので、今回それはそれで良かったかな、と自分では思っています。

おそらく「書き忘れて」はいないと思いますが、
ご自身がそう思いたいならそう思えばいいとしか、申し上げられません。

私のコメントにご不満のようでしたら、深くお詫び申し上げます。

ひでぶ! アベ死!
softbank126243001062.bbtec.net

鬼滅の刃のアニメはテレビかネットで第一話だけ見たことがあります。でも、進撃の巨人とかワンピースとか、(題名、合ってるのかな?)僕はほとんど興味ないです。僕は現代の流行の外にいる人間らしいです。文章は達者だと思います。ついでに、前前前世の歌も、これが主題歌になっているアニメも、嫌いです。アニメは見てませんが。

狐塚
133.106.48.45

ひでぶ! アベ死!様
コメントいただきありがとうございます。そうですね、私も鬼滅は好きなのですが、進撃の巨人、ワンピース等は途中で読むのを止めてしまいました。
でもこれらの漫画は結構人気ですよね。
やはり人それぞれの感性や好みがあるし、あって当たり前だと思っています。
文章は達者だといっていただき、嬉しく思います。
ありがとうございました。

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