作家でごはん!鍛練場
大丘 忍

奇病

 昔は、つまり私が医学部の学生だった昭和の中頃のことだが、医学部の最終学年になると内科学臨床講義があった。入院中の患者の中から、教材に適当な患者を選び、講義室で当番に当たった学生が診察し、次に教授が診察してこの患者の疾患について講義する。
 私立P医大の上坂教授は、有名国立大学医学部の教授を定年退官してP医大に招かれた看板教授である。上坂教授の名声は国内に轟きわたっており、耄碌したのではないかと噂されている今でも学会のボスとして君臨している。医学部における教授の権威は絶対的であり、そのなかでも上坂教授は恐いことで有名であった。医局員は日光権現様だと陰口を言っている。

 患者を丁寧に診察したあとで、
「で、君の診断はなにかね」
 と老教授は担当の学生に訊ねた。
「症状と診察所見からすると慢性気管支炎かと思います」
「ふーん、鑑別すべき疾患は?」
「肺炎、肺結核、肺癌、気管支喘息ですが、発熱がないので、肺炎は除外して良いかと思います。また、喘鳴がないので気管支喘息も除外します」
「では、鑑別に必要な検査は?」
「まず、胸部レントゲン写真を撮ることです」
「よろしい。では胸部レントゲン写真を撮りましょう」
 看護婦に連れられて患者は講義室から出ていった。
 その間に老教授はレントゲン所見が情報としていかに重要であるかを講義した。
「レントゲン所見こそ、この疾患の決め手になる」
 十分ほどして患者が大きい袋を持って帰ってきた。助手が袋からフイルムを出して、講義室のシャアカステンにかけた。
 老教授は一目見て怪訝な顔をした。フイルム左上の名前ラベルを確認するために老眼鏡をかけて目を近づけたり遠ざけたりしている。しばらく写真を眺めて考えたのち、大きくうなずいた。
「君はこの写真の所見をどう考えるかね」
 学生は顔を真っ赤にして口ごもった。
「えーと、頭が写っています」
 楕円形の白い影は頭蓋骨としか思えない。
「その通り。で、君はこの所見をどう解釈するかね」
 頭蓋骨が写っているとすれば決まっている。
「多分、撮影する場所を間違えたと思います」
「どうして撮影する場所を間違えたと考えるのかね。君は撮影するところを見たのか?」
「見ていません」
 学生は直立不動で答えた。
「見ていないのに想像で断定してしまってはいかん」
「でも、胸に頭が写る筈がありません」
 誰が考えたって当然のことだ。
「筈がないという言い方には君の独断と偏見が含まれている。医師はもっと科学的な考え方をしなければならない」
 老教授は患者に質問した。
「あなたはどこを写して貰いましたか?」
「胸です」
 患者は自分の胸を指差した。
 老教授は学生の方を向いた。
「聞いた通り、胸を写したのに頭が写っている。この事実をどう考えるかじゃ」
 老教授は声をはずませた。
「でも、患者の頭はちゃんと頭の場所にあるように見えますが」
 学生がおそるおそる言った。
「君、人間の感覚ほどあてにならないものはないのじゃ。医師たるもの、しっかりした証拠に基づいて診断を下さなければならない。胸部を写してそこに頭が写っている。これは何よりの証拠ではないか」
「では、頭が胸にあるということですか?」
「その通り」
「でもフィルムをほかの患者と取り違えたという可能性がありますが」
 老教授は膝をパタリと叩いた。
「自分に都合の悪い情報を間違いだと決めつけるのは科学的ではないね。どんなに不合理に見えても、それをも包含する理論を考えるのが科学なのじゃ」
 老教授は噛んで含めるように、証拠による診断という日頃の持論を説いた。
「いいかね。胸を写したことは患者の言葉で証明されている。しかるに写っているのは頭である。このことは胸に頭があるという推理を支持している」
 学生の間からくすくす笑う声が洩れた。
 老教授は声の方を振り向いた。
「いま笑ったのは誰じゃ」
「ぼ、僕です」
 老教授はいきなり右のシャツをまくりあげて、曲げた肘を笑った学生に突きつけた。
「これを何だと思うか?」
 曲げた肘の皺の端が光っている。三里というお灸のツボの場所である。
「お灸の痕です」
「君はわしがお灸するのを見たのかね」
「いいえ、見ていません」
「見ていないのにどうしてお灸だとわかる?」
「そのように見えましたので」
「だから一見しただけの情報はあてにならんと言っているんじゃ。これはお灸の痕ではない」
 老教授は一歩踏み出した。
「これはわしが若い頃喧嘩してナイフで刺された痕じゃ」
 笑った学生はうつむいてしまった。
「医師が診断を下すためには、証拠となる情報、つまりエビデンスが必要なんじゃ。これをエビデンス・ベイスド・メディシン(EBM)という。戦後の、これからの医学はEBMでなければならない」
 そこで老教授は医学における証拠、つまりエビデンスの大切さをとくとくと述べたてた。
「人間の目でみると胸のように見える。しかしレントゲン写真という確かな証拠を見るとこれは頭なんじゃ。エビデンスを尊重すれば、これは頭であると考えなければならない。つまり、頭が胸にあることは間違いない事実じゃ」
「はあ、でもそんな病気は聞いたこともありません」
「そりゃあそうじゃろう。これは世界で初めて発見された奇病じゃ。わしは頭胸転位症と名づけて学会に報告しようと思う。これでわしは一層有名になるじゃろう」
 学生達はしーんと静まり返った。
「人間の体が形成される過程において、何かのミスが起こり得る。よく見られるのは、内臓転位症で、内臓が左右反対になっている奇形じゃ」
 老教授は内臓転位症について話しはじめた。
「それと同じように、頭胸転位症があっても不思議はない」
 老教授の言葉は熱気を帯びてきた。
 そこへ大きい袋を持った放射線技師がやってきて老教授に囁いた。袋から出したフイルムを見る老教授の目が大きく見開かれ、困ったように唇を歪めた。老教授の顔は赤くなり、次に青くなった。学生達は笑いを堪える為に拳を力いっぱい握りしめなければならなかった。 
 この結末をどうつけるのだろう。学生達の興味はそこに集中していた。皆は老教授が自分の間違いを認めて兜を脱ぐことを予想した。
 老教授はおもむろに口を開いた。
「さて、この頭胸転位症の原因じゃが……」
 その真面目な顔には学会第一人者としての威厳と貫禄が取り戻されていた。
「この病気は、レントゲンの名前ラベルの貼り間違えによって起こるきわめて稀な疾患である……」
 そして部屋を出ようとした放射線技師の後ろ姿に向かって、駄々っ子のように叫んだ。
「ばっきゃろー」
                 了

奇病

執筆の狙い

作者 大丘 忍
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 一応、ショートショートなのですが。昭和三十年台中ごろ、私の学生時代を舞台としております。CTとかMRIとかない頃で、もちろん、これは作り話ですが、ポリクリという授業はありました。

コメント

中小路昌宏
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 今はそんな先生はほとんどいないと思いますが、昔は、怖い、そしていじわるな先生も、ときどき、いたように思います。
 こちらがなにか質問すると、子供だと思ってか、馬鹿にしたように叱られた覚えがあります。

 私は前立腺肥大なので、ずうっとノコギリヤシを飲んでいました。
 ところがだんだん、それが効かなくなったので、半年ほど前に泌尿器科を受診し、初めて会った先生に、前立腺肥大です、と言ったところ、それが気に入らなかったようで、散々、いろいろ検査をした上で、改めて、前立腺肥大ですと、診断されました。

 いままでノコギリヤシを飲んでいたという事も、診察前に自分で病名を言ったことも気に入らなかったのではないかと思います。

 同窓会などで医者をしているクラスメイトに会って話をする時は、例え相手が医科大の偉い教授であっても、二人の関係は子供時代のままですが、医者と患者という立場になると、何故か互いの目線が合わないような気がします。

大丘 忍
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読んでいただきありがとうございます。ここに取り上げた話は実在の話ではありませんが、ポリクリという授業の雰囲気は出せたと思います。
男性の場合、高年になると大なり小なり前立腺肥大になって尿が出にくくなりますね。これは私も体験しております。ノコギリヤシがどれだけ効くのかわかりませんが私も飲んでおります。まあ、気休めかもしれませんが。
皆さんががかかっているドクターにもいろいろありますね。気軽にいろいろ相談に乗ってくれる先生、こちらからいろいろ言うのが怖い先生。私は皆からいろいろ気軽に相談を受ける医者業を楽しんでおります。90歳を超えた高齢でもお歳暮やお中元を下さる患者さんがおられて恐縮しております。ありがたいですねえ。

夜の雨
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「奇病」読みました。

これは面白い作品ですね。
タイトルを「誤診」とせずに「奇病」としているところに主人公の権威がある医師の頑固さがあらわれているようです。
「奇病」というタイトルには作者の大丘さんのセンスを感じます。

「内科学臨床講義」で、教材に適当な入院中の患者を選び、講義室で当番に当たった学生が診察し、次に教授が診察してこの患者の疾患について講義するという事ですが、エピソードとしてよい設定です。
ここに権威があるがゆえに、間違いから「奇病」を創りあげて学生に無理強いするところに老医師のキャラクターがドラマを盛り上げていると思いました。

老医師と学生とのやり取りも面白かったです。

導入部ですが、上坂教授が自宅で妻や息子(または孫)たちからストレスを与えられたという設定のところから始めると、「内科学臨床講義」で無理やり「奇病」を発見するというエピソードが自然になるのではないかと思います。


お疲れさまでした。

ひでぶ! アベ死!
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僕の場合、頭をレントゲン撮影されたら股間が写ってました。医者からチン(珍)病と診断されました。

大丘 忍
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夜の雨様。読んでいただき感想をありがとうございます。
まあ、これは実際にはあり得ない話を持ってきたわけですが、老教授の頑固さをいかに見せるかでしょうね。実際にはあり得ない話ですが、こんなに怖い教授は実際にはいましたね。

南の風
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面白く読ませていただきました。

「こんなことはないな」と思っても専門用語が並ぶと「本当かな?」と思うようになるから不思議です。物語を書くときに「きちんと調べてしっかり書く」ことの大事さを教えてもらいました。先生の作品はいつも「あいまいさがない」ので、読みやすいし分かりやすいです。

まずは「万人が読んで意味が分かる」ということはとても大事なことなのでしょう。特に昨今のように画面で読むことが多くなるとなおさらだと思います。「行間を読むように書く」ではなく「読者が誤解しないようにしっかり書く」ことが大事なのでしょう。また素敵な作品を読ませてください。

私の書いたものは外国が舞台です。今回提出したのはスリランカが舞台です。今書いているものもアフリカのジンバブエが舞台です。ぜひご一読ください。

大丘 忍
p0197167-vcngn.oska.nt.ngn2.ppp.ocn.ne.jp

南の風様
読んでいただきありがとうございます。私の文章はいわゆる美文ではなく、わかりやすいことを心がけております。よく美文調の文章をだらだら並べたような投稿を見ますが、読んでもわからなければ意味ありませんね。そんなことで、わかりやすい文章を第一に心がけておりますので、よろしくお願いいたします。

通りすがり
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上手ですね。
文系の方が(こういう風だろう)と読書、資料あたり、
取材をしたのではなく、本当に医療を職業になさっている方だなと
思ったら、やはりそうでおられましたか。
その分野ではありがちだけど、知らないと初耳、へーっ、って
こと膨大にありますよね。
引き出しが多く、深く、高く、広そうでうらやましいです。
「ブラックジャック」みたいな短編集にも、長いお話にしても
よさそうですね。
奇病とか大発見があったとき、弟子から手柄の横取りとか
あるのでしょうかね。そういう切り口でパニック・ホラーとか、
療法や新薬を求めてとか、どの方向にも転がせそうです。
「怖い」ボスの怖さ、怖いもの見たさでもっと知りたいです。
最初から新人に「君、生意気だね」とはっきり宣戦布告する
タイプとか、良きセンパイ、上司見せて、実は裏工作とか。
機材や製薬会社との駆け引きとかも読ませていただきたいです。
最初は、休憩は食堂なのか、外に食べにいくとか、
世間話とか始めて、だんだん専門ぽい話にしていくほうが
低年齢の読者もつかめると思います。

大丘 忍
p0197167-vcngn.oska.nt.ngn2.ppp.ocn.ne.jp

通りすがり様。読んでいただき感想をありがとうございます。ポリクリという授業は当時はありましたが、最近もあるのかどうかは知りません。
当時、私の大学では非常に怖い内科教授がいて、その日に当てられた学生は戦々恐々としていました。その時の雰囲気を思い出しながら書きましたが、なにしろ60年以上の昔のことです。
しかし、厳しい教授のほうが勉強になるとは思いますね。

通りすがり
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早速のお返事ありがとうございます。
目上の方に、ずいぶん生意気なことを
書き連ねてしまいました。ご容赦を。

独り立ちしてから勤務する年月が長く、責任が大きい職業ほど、
「鬼の~」と言われるような師を持つほうがいいと思います。
戦前に医学の道へ進んだ方だったら、人生経験も深く、
今よりも深刻な貧困や戦争で、勉学や意志も、命さえも
道半ばで終えてしまった先輩や仲間もたくさんいらした
でしょうね。

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