モノモノ
マーガリン塗ったコッペパンは一口も口をつけられず、まもなくほかの廃棄物と、ゴミ袋の中で雑ってコッペパンだったきつね色のふわふわしてたものも、黄色っぽいがでも黄色ではないマーガリンもそうなった時には誰も敢えてそんなふうにはよばない廃棄物になる。ぼくは昼食のトレイを片付けて、ベッドまで戻ると頭髪のぜんぶ白く、惨めなほどまだらな地肌の露出した、叔母のあたまを、撫でて、やさしく訊いた。
「あなたは今のいままで独身を貫いてきて、この一生で、なにをしたの?」
叔母は、女は、ぼくでなく白い天井をカーテンレールのないあたり見つめて、いった。
「なにもしてなかったわ」
「そうはいってもふつう恋をしたり、友達とケンカしたり、スポーツかなにかに没頭したり、するだろう?」
「恋ですって?」
「ああ、恋人がいたりしただろう。ふたりで映画観たり、車の中でサザン聴いたり、暑い夏に祭りに出かけたり」
「恋人ですって?」
「そうさ、恋人さ。叔母さんが好きでたまらない男が、いただろう? あるいはあなたのことが好きな男」
「そんな男いるわけないじゃない」
「片想いは、した?」
「したことないわ」
叔母はため息をついた。歳とった女の、ため息だ。こんな会話やりきれないと、いいたそうだ。
「なら友達は?」
「友達?」
「そう、友達さ。悩み事を打ち明けたり、気晴らしに一緒に旅行したりする、いわば仲間さ」
「そんな、友達なんて、ひとりもいなかったわ」
「嘘だろ? 学生の頃、学校帰りに友達とカップアイスとかドーナツとかを食べたり、しなかった?」
年寄りの女は、誤解なきよう控えめにいって忌々しげな目つきでそんな記憶は、ないわと示した。
ジャコーン! コッペパンに用意されたマーガリンの透明な袋を開けた、瞬間のぼくのおどろきは、女が一生でなにもなかったといいきったことの、あの他愛無いおどろきなど比でなかった。アイツは、いやぼくははじめ、彼女がふざけているとおもった。叔母の、朝食を手伝ってた。
「痛いッ」
袋が声をあげたのだった。たしかに声は、ハスキーで、叔母のものとはまったく別の声。
「なにすんのよ、まったくもう!」
ぼくは女の、口を見た。ぜんぜん動いてない。
それに叔母は聞こえてないみたい。エサを待つ仔犬のよう、ずっと口開けてコッペパンちぎってくれるの、待っている。
「今、なにかいった?」
「わたしが?」
「うん、痛いとかなにすんのとか」
「あんた頭どうかしたの?」
「いや、どうもしない」
その時だった。ああ、もう傷モノにされてしまったわという声が、さっきのハスキーな声が耳に届いた。ぼくはなんだか腹が立ってきた。胸がムカムカして焼け爛れそうだ。どうしてマーガリンの袋がぼくに文句をいうのだ。一体そんな権利がマーガリンの袋にはあるのか?
「こんな傷があっては、もう誰もあたしを、相手してくれないわ。ぎゅーって、乱暴に中身を出されて、ゴミ箱行き。終わりなのよ」
たしかにその通りです。ぼくは手にしているマーガリンの袋に心の中で話しかけた。でもあなたまだ中にマーガリンがたっぷり入ってますよ。ほら、こうして指先であなたを摘むとふにふにしてます。わかりますか?
「結局のところ、わたしはこうして生きているけれども、その実中身は空っぽなのよ。生まれた時はそうじゃない。赤ん坊は中身が詰まってるわ。このなんでもない人生を生きることで、わたしは日々空っぽになっていくのよ」
叔母がマーガリンの袋と、同じ話題にふれた。なんという偶然。ぼくのなまくらな猜疑心はこの話題を否定することに、動き出した。
「空っぽだなんてそんな大袈裟な」
「大袈裟なんかじゃないわ!」
「そんなに大きな声でいわなくてもいいだろ」
(規定により引き分け。入院患者の昼食を、のせたプラスチック製のトレイがアイツの、手で運び出された)
ぼくは助手席に。運転席に、叔母がいた。なにが夢でなにが現実か、あるいはなにが現実的なのか、わからない。まったく。高速道路なのか片側三車線、このまっすぐの道は見覚えのない、どこなのか。夕暮れ。おそらく行き過ぎた等間隔。両側に高圧ナトリウム灯の暖色。
「五人が黄色だとおもってたのが、ある日一人が出し抜けにほんとはコレ、正確には黄色じゃないとおもってるなんていいだしたら、その後ほかの四人は黄色についてどう考えるとおもう?」
ぼくはこの叔母のような女がどう答えるかよりもずっとずっと、考えるかどーかが見たかった。だってこの女は恋をしていたのにしてないなどとウソをつくんだから。ぼくは叔母が考えるようだったら、あのことを打ち明けるつもりでいる。それはぼくは、ほんとは誰にもいうつもりなんてなかったこと。
きゃあッとかん高い声。叔母がハンドルを左に、切った。ポンコツの軽自動車は時速八十キロ弱の、スピードをエンジンから搾りとるよーに出したまま、つまりぼくらはこの直後横転した車内で、死ぬ。どう死ぬかはああ神様仏様、チキンなアイツちょっと細部までは想像できない、たぶんきっと首を、いや頭部を打ちつけるかして、即死。車はアクション映画ような気持ちいいくらいにゴロンゴロン転がって逆さまなって、ガードレールにぶつかって跳ね返って、手持ちの花火みたいな火花がチチッ、また走行車線に戻るだろう。ガコーッ。内部では免許更新の際パイプ椅子とカラー刷りの冊子、あの教則ビデオで再三見た肌色の人形よろしくぼくらは宙を舞い、車外に放りだされることがなければ頭頂部を天井にゴツン、ガクン、まさにあのビデオの再現なのだ。そうして後続車が避けてくれるか踏みつけていくかして、でも叔母もアイツもその時点で死んでるからどうなったって、問題ないといいたいが処理をするひとがいるだろうからそのひとたちには、面倒はかけたくない、できれば。
タヌキを、避けた。叔母は空っぽだから、高速道路に迷い込んだ母タヌキ(タヌキは赤ちゃんを孕っていた)を庇って、死ぬ。ぼくを巻き込んで。あのまま病院で、死んでいたらぼくはまだ生きることができた。そうしてタヌキはもしかすると別なトラックかなにかに、はねられて死んだかもしれないし運次第で、死ななかったかもしれない。
マーガリンを包んでいたあの袋は、今頃マーガリンとともに燃えて、あの時あった像(かたち)がすっかり失われてしまったとしたら、ここにすでにいないアイツは迷った末にどっちを、惜しむのか。レースのカーテンを開けて結露したガラス窓。ポケットの中に小銭。指先には銅のにおい。病室は冷えた朝がやってくる。
執筆の狙い
初心者なのでお見苦しい点ばかりかもしれませんが、ドストエフスキーの『虐げられた人々』を読んでいたら突如こんなくだらないものが一瀉千里に汗
読者みなさまの目線では最後まで読む価値などないのでしょうけれど、みなさまが白けたのがどの箇所か、知りたいです。また自由な感想を求めてもいます。
何卒よろしくお願いします。