作家でごはん!鍛練場

送るまたは受け取る

 スカスカになった棚から大学時代に好きだったバンドのCDを取り出し、手に取ってみると二十歳くらいの頃の淡い思い出がフラッシュバックした。あれは確か二回生の春季のテスト勉強をしていた頃だ。ファミレスにこもってよくこのCDを聴いていた。懐かしい。けれどそれも数秒の話で、次の瞬間にはもう私の頭はそれを売ることだけを考えていた。
 良い角度でパッケージの写真を撮る。プラスチックのケースだと光が反射してしまったり、撮影している自分が写り込んでしまったりしてしまうことがあるので撮影ポイントが難しいのだが、このCDは紙ジャケットなのでそういった心配は無く簡単に良い写真が撮れた。続いてジャケットを開き中面の写真も撮る。きちんと帯が有ることをアピールする。気にする人にとってはこの帯の有り無しも購入の重要な判断基準となり得るのだ。ディスクを外して裏面を見てみる。オーケー、傷は無い。念のためパソコンに入れて再生確認をする。問題無し。最後にパッケージの裏面も写真に収め、トリバイの出品画面へと急ぐ。トリバイというのは最近話題のフリマアプリのことで、アカウント登録さえしておけば誰でも自由に商品を売ったり買ったりすることができるサービスだ。ここ数年で急速に利用者数も伸びていて、今や一千万人以上の人がこのフリマアプリに登録をしている。
 改めて、撮った写真を見返す。うん、保管年数の割には綺麗だ。私の基準では美品と言ってしまっても良いレベルだと思う。しかし情報入力の画面上、商品状態の項目では「やや傷汚れ有り」を選択する。世の中にはいろいろな人がいるのだ。私の基準では美品でも、万人が同じように思ってくれるとは限らない。そこに対してのリスクヘッジなのである。しかし上手く売るために、商品が綺麗なことはやはり伝えたい。それで私は商品紹介の自由記述欄を使う。
「一度パソコンにインポートしたきり、そのまま棚にしまっていました。傷もなく比較的綺麗だと思うのですが、あくまで素人保管なので神経質な方はご遠慮ください」
 謙虚ながらも綺麗なことをそれとなくアピールする。このCDは確か数量限定で販売されたものだったはずだ。検索画面で他の出品者が同じCDをいくらで売っているかを調べる。四千円、三千円、五百円、三千五百円、三千円、五千円。売れているものはだいたい三千円代前半のものが多い。それ以下のものは破れや日焼けが酷く状態の良くないもので、それ以上のものはフィルムに包まれたまま未開封のものが多かった。自分の商品の状態や写真のクオリティから見て、三千円代後半でも売れそうな気がした。最悪売れなかったら段階的に値下げしようという気持ちで三千八百円で「出品する」の確定ボタンを押す。そこまでやってスマホをテーブルに置いた時、自分が仕事から帰ってきたままの格好で、コートも脱いでいないことに気付いた。
 シャワーを浴びてリビングに戻ると、さっき出品したCDにさっそくコメントが一件付いていた。「はじめまして。購入を考えています。三千円に値下げは難しいでしょうか? 可能であれば即決いたします!」と、アカウント名ゆきっちさん。おそらく女性だろう。何となく同年代のような気がした。文面を見て、直感的にとりあえずの値下げ要求ではないかと思った。三千八百円で購入してもいいが、ダメ元で値下げ要求をしてみようという感じだ。そういう人はけっこう多い。でもこれはあくまでただの直感で、完全な自信は無い。私は一度スマホを置いて、もう十年近く使っているティファールに水を注ぎスイッチを入れる。夕飯はストックしていたカップヌードルで済まそうと用意をしている時も、頭の中はゆきっちさんのコメントに対する返信のことでいっぱいだった。「まだ出品したばかりなので現状値下げは考えていません」と躱すのも良し、「三千五百円でいかがでしょうか」と刻むのも良し。しかし一方では、値下げして売ってしまっても良いかなとも思っていた。
 フタを半分開けたカップヌードルにお湯を注ぎながら、もう一度まだ売れていない商品に限定して他の出品者のページを見てみる。写真、価格、あといいね! の数。このいいね! というのは要はブックマークで、商品にいいね! を付けておくと、その商品の価格が変更されたり、他の人がコメントを付けたりしたら通知が飛ぶようになっているのだ。つまりはいいね! が多くついている商品ほど関心度が高いということである。他の出品者の商品ページを開いては写真を全部スワイプしてチェックし、いいね! の数、ついでにそれがいつ出品されたのかも確認する。カップヌードルを作る三分はあっという間だった。スマホでセットしていたアラームが無機質な音で鳴り、付属のテープで閉じていたフタを開ける。かき混ぜて啜ると期待を裏切らないインスタントの油っぽい味が口の中に広がった。私は右手で箸を持ち、左手でスマホを繰ってそのまま調査を続ける。結局、今まだ売れていないライバル商品の情報は全て見た。思い出のCDジャケットも、こうも立て続けに見るとただの記号のように思えた。いや、違う。そもそも私は写真をスワイプしてCDジャケットを見ていたのではない。私はそこに付く破れや日焼け、つまりは「CDジャケット」ではなく「CDジャケットの品質」を見ていたのだ。
 結論、私はゆきっちさんの要望通り三千円で売ることにした。他の商品の売れ行きから考えて、悪い金額ではないと判断したのだ。「返信が遅くなってしまい申し訳ございません。三千円で構いませんよ」と、返信。遅くなってしまい、何て言ってはいるがコメントから返信まで時間にしてまだ二十分くらいしか経っていない。ほとんど枕詞になっていた。それに対するゆきっちさんの返信は早かった。「ありがとうございます! 専用に変更していただけますか?」私は即座に「はい!」と返信して、早速商品情報を変更する。ゆきっちさんの言う「専用」とはつまりは出品した商品を誰かの専用のものに変更するということだ。価格交渉が着地した時になど使われるやり方で、商品名に「〇〇様専用」と付け足すことで、他の人に横から買われないようにするのだ。価格を三千円に変更し、品名に「ゆきっち様専用」と付け足して確定すると、ものの三十秒くらいで「SOLD」マークが付いて、ゆきっちさんから「お値引きありがとうございます! 短い間ですがよろしくお願いします!」と取引メッセージが届いた。この「短い間ですがよろしくお願いします」を言う人がけっこういる。でもそれは間違っていると私は思う。本当の意味で、私とゆきっちさんは繋がらない。短い間も何も無い。ゆきっちさんが繋がるのは私ではなく私が売った商品だ。私ではない。でもそんなことにいちいち突っ込むわけもなく、「こちらこそよろしくお願いします」と手短に返信する。

「藤田はさぁ、いわゆるミニマリストってやつなんじゃないの?」
 花見さんにそう言われたのは去年の最終出勤日のことで、今から三ヶ月ほど前だ。濃密だった冬季講習が終わって、少し高揚していたのか、私は夏頃から始めていたトリバイのことを初めて人に話した。すると花見さんはそんなことを言った。
「ミニマリストって何ですか?」
 私達は年末年始の休み前、教室の戸締りの最終確認をしていた。生徒達はとっくに帰った後で、暖房の温もりもほぼ無くなっていて寒かったのだが、ウダウダと話しながら二人で教室を回っていた。
 花見さんは私の勤める予備校の先輩講師だ。歳は三つ上で、私が新卒で入った頃から何かと面倒を見てもらっていた。この予備校で花見さんは英語を教えていて、私は数学を教えていた。
 花見さんは学生の頃ずっと野球(本人曰く、補欠だが甲子園に行ったことがあるらしい)をやっていたからか妙に筋肉質で一見大きく見えるのだが、実は身長は低く、女性の平均身長くらいの私とそう変わらない。その何とも言えないアンバランスさに愛嬌があり、持ち前の明るい性格も相まって生徒からの人気も高かった。
「つまりあれだよ。自分の持っているものを極限まで少なくして、それで研ぎ澄まされた生活を送ろうっていう」
 よく分からなかった。話しぶりからして花見さんもそれほど詳しくはないのだろう。私はスマホを取り出して「ミニマリスト」で検索してみた。
 で、出てきたのが、不要な持ちものを減らして自分に必要な最小限のものだけで暮らす人のこと。
「これですか?」
 と、スマホの画面を見せる。
「あ、そう。それ」
 花見さんは少し離れた窓のカーテンを閉めながら目を大きく開いて私のスマホの画面を見て言った。
「トリバイで身の回りの要らないものどんどん売ってるんでしょ?」
「でも最小限のもので暮らしたいとか、そんな動機ではないですよ」
「じゃ、何なのさ」
「最初は単純に欲しいものがあって要らないものを売ってたんですけどね」
 ネスカフェのコーヒーメーカー。もはや懐かしかった。オシャレなデザインに惹かれて買ったけど、いまいち使いこなせなくて結局数回使っただけでこれも売ってしまった。
「何というか、売ること自体が楽しいんです」
「売ること自体が?」
「生きてるって感じがして」
「よく分からないけど、それで今いくらくらい売り上げたの?」
「まぁ、数万円くらいですよ」
「へぇ、いい小遣い稼ぎじゃん」
 嘘だった。本当はもうその時点で数十万円は売り上げていたのだが、引かれるかなと思い少なめな金額を言ったのだ。
 不要なものを削ぎ落とす、という意味では私もそのミニマリストと同じだ。不要なものは不要で、いつまでも持っている意味なんてない。でも私が重きを置いているのは「売った後の身軽になった生活」ではなく、「売る」ことそのものなのだ。自分の生活の一部分を切りとって送る、そしてそれを必要とする誰かが受け取りその人の血肉になりまた生きる。理に適った行動だと思う。私はひたすら適正な価格で適正な人に商品を「売る」ことでその正しいサイクルを回して、生きている実感を感じていた。

 思い出のパッケージが緩衝材に包まれてぼやけていく。
 緩衝材は発送時の必須アイテムなので、幼稚園児くらいの大きさの業務用のロールを買って部屋の端に立て掛けていた。角二の無地の茶封筒(これも業務用のものを大量に買い溜めていた)に商品を入れて半分に折り、ガムテープで三方を留める。CD一枚であれば緩衝材の厚みを計算に入れても一番安い送料百七十円のトリバイ便ライトで送ることができる。これで発送準備はできた。発送は基本的に購入から二十四時間以内が良しとされている。なので明日出勤する時でも何の問題もない。だけど私は早く売りたくて、二十二時半、シャワーを浴びて化粧も落としているのにユニクロのパーカーを羽織り茶封筒を片手に家を出る。
 マンションの階段を降りようとした時に雨が降っていることに気付き、傘を取りに戻る。仕事から帰ってきた時は降っていなかったのに。そういえば週間天気予報で週の半ばから雨になると言っていたような気がする。しかし、そんなことでは私の売りたい意欲は削がれない。雨の跳ねるアスファルトに躊躇なく踏み出す。透明のビニール傘を広げて夜道を行くと、自分がくらげになったような気持ちになった。桜並木、満開の夜桜だった。雨はそこまで強くはないが割と風があって、欠けていくように花びらが散っていく。春はまた、じきに終わるのだろう。
 コンビニに入るとピンポンピンポンと聞き慣れたアラーム音が私を出迎えた。夜のコンビニは何だか温かい。ここまで来れば大丈夫だと思える安心感がある。レジまで歩く間にスマホの画面上で発送受付を行うためのQRコードをトリバイのアプリ上で出しておく。このQRコードをレジで読みとってもらい、発送伝票を出力するのだ。スマホの画面を差し出すと店員さんは無言でそれを読み取り、屈んでレジ下の棚からトリバイ便用の発送ラベルを取り出した。店員さん、名前は下橋さん。もちろん話したことは無い。名札を見て名前を知っているだけだ。下橋さんは多分大学生なのだろう、茶髪にしっかりめのパーマをあてていた。背が高くて、コンビニの制服の下から覗く私服もなんだかお洒落。イケメンと言ってもいい部類だろう。このコンビニは家から一番近く、よく利用するので向こうだって私の顔くらいは覚えていると思う(だから何というわけでもないのだけど。そもそも私はイケメンが好きではない)。おそらくよく物を送りにくる人だと思っているだろう。
 レジから大きなQRコードが印字された長いレシートが流れ出て、下橋さんがそれを千切って私に渡す。
 トリバイ便のラベルは特殊な形をしている。ビニールのポケットが付いていて、そこにレシートを入れるのだ。この作業は店員さんでなく、自分でやらなければならない。おそらくちゃんとラベルが入っていなかっただとか、ラベルを貼り忘れただとかの発送トラブルを避ける為だろう。この作業に最初のうちは意外と手こずった。ポケットの入り口が狭くレシートを入れにくいし、レシートのどの面を表にするのかの説明も特に無い。でも私はもう慣れた。剥がしたラベルの台紙が静電気で手に纏わりつくのも余裕で躱せる。
 発送ラベルを貼った封筒を下橋さんに渡す。個人情報保護のため、トリバイ便はお互い本名や住所を明かさずに取引ができるようになっている。なのでラベルにはQRコードや管理ナンバーしか印字されておらず、私の名前もゆきっちさんの名前も無い。あるのは「商品」、そしてそれを「売る」ということ「買う」ということ。需要と供給の成り立ち。
 さて、これでいよいよ本当にお別れだ。下橋さんにとっては何でもない夜のただの宅配便の荷受けなのだが、私としては「売る」という行為の大切な仕上げ段階なのだ。
 発送者控えを下橋さんから受け取りコンビニを出る。雨は先程より少し強くなっていた。


 意外なことに商品到着後に購入者からメッセージが来ることはあまりない。
 私としては、欲しかったものが届いたのだから何か一言くらいあってもいいんじゃないかと思う。まぁ、受領確認の通知はちゃんと送られてくるので受け取っていることは確認できるから別にいいと言えばいいのだが。
 もちろんメッセージをくれる人もたまにいる。お礼の言葉とか、商品の状態を褒めてくれたりとか、そういうちょっとした一言はけっこう嬉しかったりする。こちらとしても売った甲斐がある。
 ただ、あかねさんからのメッセージには驚いた。肝を冷やした。
「届いたマグカップ、取手のところが割れてるんですけどーw」
 その日、最後の授業終わり、私は手癖で開いたトリバイのアプリでそのメッセージを見て固まった。
 アカウント名、あかねさん。
 誰かの結婚式の引出物のカタログギフトでもらったピーターラビットのマグカップを売った人だ。
 割れていた?
 私は動揺して無意識のうちに手で口元を覆う。送った時のことを思い出してみる。手落ちがあったか? いや、ちゃんと注意して発送した。はっきりと覚えている。割れないように緩衝材で厳重に包んでダンボールに入れて送ったはずだ。では運送中の事故なのか? とにかく受け取った本人が割れていると言っているのだからおそらく割れているのだろう。
 唯一救いだったのは私がこのマグカップをもう一つ持っていたこと。いや、厳密には若干デザインが違うのだが。引出物は二つで一セットのもので、私はそれを一つ一つバラ売りで出品していたのだ。そしてもう一方ははまだ売れていなかった。すぐにもう一方の出品を停止してあかねさんにメッセージを返信する。
「大変失礼いたしました。もう一つ同じマグカップ(若干デザインは違うのですが)があるので、それと取り替えさていただきたいのですが、よろしいでしょうか? 申し訳ございません。」
 それだけ送ったところで「あの、藤田先生」と、顔は見たことのある女子生徒二人に後ろから声を掛けられた。「どうしたの?」と振り返り、何かと思えば教室に教科書の忘れ物があったらしく、名前も書いていないので誰のものか分からずとりあえず届けたとのこと。「あぁ、ありがとう」忘れ物は記録簿に情報を記録したうえで事務所で保管しなければならない。できれば事務員の人に言ってほしかったが、仕方ない。私は二人から教科書が忘れられていた場所を聞き、日付や時間と合わせて記録簿に記入する。その間も私の頭の中はピーターラビットのマグカップのことでいっぱいで、マグカップマグカップと、危うく記録簿にマグカップと書いてしまうところだった。二人にお礼を言って別れると即座にスマホを見た。メッセージあり。あかねさんからだった。私が返信した一分後にはもう返信されていた。「デザイン違くても構わないよ」その一言にとりあえず私はほっとした。「申し訳ございません。今夜中に発送いたします」返信はやはり早かった。「別にいいよ、そんな急がなくて。近いんだし明日にでも散歩がてら持ってきてよ~」
 近い?
 一瞬思考が止まった。何故この人は私の住所を知っているのだ?
 と、思ったが次の瞬間分かった。簡単なことで、私はこのマグカップをトリバイが推奨するトリバイ便ではなく一般の宅配便で送っていたのだ。トリバイ便は商品のサイズや形状によっては他の配送サービスよりも割高になってしまうこともあり、そういう時は一般の宅配便や郵便で送ることもできるのだ。ただ、そうすると互いに本名や住所を明かすこととなる。マグカップを梱包したダンボールはトリバイ便ライトの規定値を若干超えていた。一つ上のトリバイ便プラスで送ることも考えたが、計算すると一般の宅配便で送る方が半額近く送料が安かったのだ。
 マグカップの取引ページに行き、発送先情報に記されたあかねさんの住所を見てみる。確かに私の家のすぐ近くだった。おそらく自転車で五分くらいだろう。商品はちゃんと届いているから私は間違いなく送り状にこの住所を書き入れているはずなのだが、売ることに夢中になっていたのかその時はまったく気が付かなかった。宛名に本名も表示されている。田村誠。誠、まこと。もしかして男の人? でもアカウント名は「あかね」だし、話し方も女の人っぽい。
 考えていたらまたあかねさんからメッセージが来る。「あ、ごめん。明日十五時くらいにしてくれない?」もう私が商品を持参することは決まっているような言い方だった。一応トリバイでは商品の持参の強要を規約で違反行為と定めている。だから私もそれを盾にして断ることはできた。しかしそれはそれでどうなのかと思うところもある。例え運送中の事故だとしても商品が望む形であかねさん、誠さん? の手元まで届かなかったのは事実だ。私は商品が届くまでは売った側の責任の範疇だと思っている。だからこそあんなにも厳重に緩衝材を巻きつけるのであって、割れていたのであれば私が悪い。近いのだから持参くらいして誠意を見せるべきだとも思う。「十五時~十七時半くらいがベストかなー。夜は仕事だから☆」とさらにメッセージが来る。
 私は観念して「十五時に伺います」と返信した。

 翌日、自転車で行くのは止めておいた。万が一途中で転んだりしてもう一方のマグカップまで割ってしまったら目も当てられないから。
 徒歩でも十分くらいであかねさんの住むマンションに着いた。それは「散歩がてら」という言葉にぴったりの距離だった。あかねさんの家はそこにあることは知っていた綺麗な新しいマンションだった。入り口の強固な二重のオートロックドアに感動した。中を覗き込むとロビーにはソファーとテーブルが何組か置いてある。あれはいったい誰が何に使うのか。しかしまぁ、年代ものの銀色のポストが昭和っぽく並ぶ私のマンションの入り口とは大違いだ。こんなところは家賃も高いのではないかと思いながら発送情報に書いてある部屋番号をインターホンに入力する。十五時ちょうどだった。
「はーい」
 女性の声だった。
「あの。私、トリバイの。ピーターラビットのマグカップをお届けに伺いました」
 彼女の声はやたらとはっきり通って、対する私の声は何だかかすかすな声だった。
「あ、もしかしてマチさん?」
 私のアカウント名だ。そうです、と答えると「どうぞー」と魔法の扉のように自動ドアが開く。
 乗り込んだエレベーターはするすると静かに上昇して、これも私のマンションには無い設備だった。あかねさんの部屋は三階だった。偶然にも私の部屋も三階である。普段、階段の登り降りをそこまで苦痛に感じることは無いのだが、エレベーターがあるとやはり楽だった。
 ドア横のインターホンを押すとパタパタと軽い足音がこちらに近づいてくる。ひょっこりとドアの隙間から顔を出したのはやはり女の人だった。彼女は、女の人というより女の子という感じ。目が大きく、桜のようなピンク色の髪。セサミストリートのワッペンの付いたパーカーを着ていた。もしかするともう女の子って歳ではないのかもしれないし、背丈も私と同じくらいなのだけれど、とにかく「女の子」という言葉がぴたりと合う人だった。
「どうぞ、入ってよ」
 と彼女はドアを開き私を中に誘う。本当はマグカップを渡してすぐに帰るつもりだった。しかしどこか有無を言わさぬといった感じの彼女の雰囲気に流されて、つい中に入ってしまった。
 左にキッチン、右にはおそらくトイレと洗面所ではないかと思われるドアがある廊下を抜け、リビングに出た。そして驚いた。
 四方八方、部屋中を埋め尽くす物、物、物。
 ぬいぐるみや人形、マグカップや食器類、そして服、靴、鞄、時計、漫画、雑誌類。それらが部屋の中心に置かれた木製のテーブルを囲んでいくつもの棚に並んでいた。ベッドの上はぬいぐるみとクッションでいっぱい。どうやって寝るのか想像がつかない。壁には所狭しとキャラクターもののポスターやジグソーパズルが貼られていて、驚くことに天井すらも埋め尽くされていた。広い部屋なのに物が多すぎて動ける場所が少ない。ベランダに繋がる大きな窓があるが、棚に塞がれて外に出るのは困難そうだった。しかし、陽の光はよく入ってきて、やや色の付いた自然光が大量の物達を美しく照らしていた。
 何だ、これは。
 私は言葉を失い、無意識のうちに部屋中を見渡していた。
「ごめんねぇ、散らかってて」
 と、彼女はけらけらと笑う。トリバイのメッセージ文面と彼女の発する言葉が一致する。間違いなくこの人があかねさんだ。
「ここ座って」
 そう言ってあかねさんはキキララのイラストが描かれたクッションを私の足元に置いてくれた。薄っぺらいが不思議なくらいふかふかする。コーヒーでいい? と聞かれ、反射的に「はい」と返す。私は少し緊張していた。でもそれは初対面の人だからとか異常なほど物が多い部屋だからとかではなく、単純にあかねさんが美人だったから(もちろん物の量に対する戸惑いはあったが)。私はどうも美人という人種が昔から苦手だった。どこまでが本当でどこからが嘘なのかがよく分からないから。
 テーブルの上も漫画や雑誌で埋め尽くされていて、その上や隙間にキーホルダーやら指人形やらの小物がバラバラと置いてあった。あかねさんはそれらを避けてコーヒーを入れたマグカップを置いてくれた。そっと湯気が昇っていて、まるで人形の街の煙突から煙が上がっているようだった。それぞれ、私のマグカップにはムーミン、あかねさんのマグカップにはミイが描かれていた。砂糖とミルクも出してくれたが、二人ともブラックのまま飲んだ。
「マグカップ、割れていたなんて。大変失礼しました」
 と、私は頭を下げてピーターラビットのマグカップの入った紙袋をあかねさんに渡した。あかねさんは「あぁ」と言って紙袋を受け取り、そのまま中から緩衝材にぐるぐるに巻かれたマグカップを取り出す。全然怒っている様子は無くて、何となくだが、私がここにマグカップを持ってきたという事実だけでもう満足しているような感じに見えた。
「なかなか可愛いマグカップ」
 あかねさんは緩衝材を外しマグカップの側面を一周ぐるりと眺めて言った。私は何と言っていいのか分からず、とりあえず「ありがとうございます」と言った。別に私が絵を描いたわけでも作ったわけでもないが私の売った商品だ。だから「ありがとうございます」という反応も間違ってはいない。あかねさんは私が売ったマグカップを部屋のマグカップが大量に置いてある棚に置こうとしたが、いっぱいで場所がなくて諦めてテーブルの上に置いた。
「マチさん。マチって何から取った名前なの? もしかしてハンターハンター? 幻影旅団?」
「いえ、ただの本名で。実っていう字に千で実千です」
「あぁ、そうなんだ。そうよね、確かにハンターハンターだとマチっていうよりシズクって感じよね」
 そう言ってあかねさんは煙草に火をつけて笑う。私はハンターハンターを読んだことがなかったので何と言っていいのか分からなかった。
「あかねさんは何であかねさんなんですか? 本名は全然違うのに」
「あぁ、誠って男じゃないかって思ったでしょ?」
「まぁ、確かにちょっと」
 失礼にならないよう言葉を選んで言ったらひどくもじもじした言い方になってしまった。
「私、生まれる直前まで男の子だって言われてたのよ。臍の緒がいい感じに見えてて。それで親が考えてた名前が誠で、生まれて来たのは女の子だったけど、まぁいいかって感じでそのまま誠にしちゃったのよね。音的には別に女の子でも変じゃないじゃない? まこと。真実の真に楽器の琴とかで真琴とか、いるじゃない?」
 私は頷く。
「でも、まぁ、本当はもっと可愛い名前が良かったのよ。私としては。誠って、何か武士みたいだし。新撰組とかさぁ。女の子だからね。だから私、他の名前はどれもぐっと女の子らしい可愛い名前にしてんのよ。あかねもその一つ」
「他の名前?」
「うん。私、たくさん名前持ってんの」
 例えばさ、と言ってあかねさんはスマホを開いて画面を見せてきた。Ques♡と太字のサインペンで走り書きしたみたいなロゴの前で女の子が六人、色違いの制服を着て各々ポーズを取っている(何となくセーラームーンっぽい)。アイドルグループのホームページ? 私はアイドルグループには詳しくない。というよりほとんど何も知らないと言っていいくらいだ。だからこのグループが有名なのかそうでないのかも分からなかった。
「キューズ?」
「うん。ほらこれ」
 そう言ってあかねさんは左端でポーズを取っている女の子を指差した。ピンクの髪、それは紛れもなくあかねさんだった。
「アイドルなんですか?」
「そうそう」
 画面上のあかねさんをタップすると個人のプロフィールページに飛んだ。桜町未来と書いてある。可愛い名前だと思った。
「これは事務所が考えた名前なんだけど、なかなか可愛いでしょ?」
「うん」
 私は目の前のあかねさんと画面上の桜町未来のプロフィールを見比べる。二十五歳、十月十日生まれ、趣味はショッピングと漫画、東京都出身、歌とダンスの切り込み隊長☆。下の方にはスリーサイズまで書いてある。そんなの、私は死んでも公表したくない。でもアイドルなら当たり前なのか。
「まぁ、本当は二十九なんだけどね。スリーサイズもちょっと盛り気味」
 と、言ってあかねさんは悪戯っぽく煙を吐く。スヌーピーの灰皿に灰を落とす。
「私と同い年」
 アイドルがプロフィールを偽証していることよりも目の前の彼女が自分と同い年なことの方が驚いた。何なら二十五よりも若く見える。
「わ、マジか。マチちゃんは何やってる人なの?」
「私は予備校の講師をしています」
 同い年と分かり、さっきから驚きで半々になっていた敬語を完全にやめてみようと思っていたのについて出た言葉は敬語だった。
「うわぁ、ぽいわ」
 そう言ってあかねさんは笑う。私はそんなに予備校講師っぽい顔をしているのだろうか? 予備校講師顔、今でしょの人の顔しか浮かんでこない。
 あかねさんの笑いがおさまると部屋の中は静かになり、変な間が生まれた。たくさんの物に囲まれている中で、沈黙は奇妙なものだった。あかねさんはその間を丁寧に埋めるようにもう一本煙草に火をつける。そして私は「何でこんなにいっぱい物があるんですか?」と部屋に入った時からずっと聞きたかった質問をぶつけた。あかねさんは一瞬意外なことを聞かれたような顔をしたが、すぐにまた笑って「そりゃ、好きだからよ」と言って煙を吐き、「好きだからどんどん買っちゃうの」と付け足した。
「それはつまり、買い物依存症のようなものなのでしょうか?」
 そう言った後、少し踏み込み過ぎたと後悔した。依存症だなんて初対面の人に対して使う言葉ではない。でもあかねさんは怒った様子も無く、「依存症かどうかは分からないけどね」と言ってマグカップのコーヒーを飲み干す。
「欲しい物があったら買っちゃうのは普通じゃない? もちろんそこにお金は必要だけど」
「要らなくなる物とか無いんですか?」
「無いよ。そんなの一つも無い」
 あかねさんは驚いたように目を見開いて言った。
「逆にマチちゃんは要らなくなる物とかあるの?」
 要らなくなる物もあるし、理由をつけて要らない物にしてしまう物もある。でも何だか言えなかった。「いや、まぁ」と歯切れの悪い感じで誤魔化す。するとあかねさんは立ち上がり、ベッドに置いてあったミッキーマウスのぬいぐるみを手に取った。ミッキーマウスはいつもの赤いズボンではなく、水色のお洒落なタキシードを着ていた。限定品か何かなのだろうか。「高く売れそう」だなんて考えが無意識のうちに私の頭をよぎる。
「例えばこのミッキー。これはある意味私の一部なのよ」
 あかねさんの言いたいことが私にはよく分からなかった。その感じはあかねさんにも伝わったようで「分からない?」と聞かれ、「すみません」と謝る。
「例えばさぁ、今マチちゃんが着てるそのシャツ。それ、ラルフローレンよね?」
「そうですけど」
 私は白のラルフローレンのシャツを着ていた。
「着てるってことはマチちゃんがそのラルフローレンのシャツを選んだってことよね? まぁ、もし自分で買ったんじゃなくて人から貰ったものだったとしても、最終的にそれを着ようと決めたのは自分の意志よね? そうするとそれはつまり、マチちゃん自身がラルフローレンを認めて今身に付けてるってことになる。対するそれを見た他人も、あぁ、この人はラルフローレンを選ぶ人なんだなぁ、って思うわけじゃない? 印象だよね。そうなるとさ、もうラルフローレンもマチちゃんの一部なのよ。ラルフローレンのシャツ込みでマチちゃんなのよ。分かる? 何が言いたいって、つまり自分の持ち物が自分を形成するってことよ」
「物が、自分を形成する」
 私はあかねさんの言葉を反復する。それであかねさんは満足したようにうんうん頷き、持っていたミッキーのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「私はミッキー好きだし、ぬいぐるみも好き。マグカップも好きだしジグソーパズルも好きだし漫画も好きだし雑誌も好き。そんないろいろを好きな私でいたいし私で見られたい。物が要らなくなるっていうのはその物を自分から削ぎ落とそうとすることよ。今私が持っているものこそ今の私。だから何一つ要らないものなんてないのよ」
 あかねさんは私の目を見てはっきりと言った。
 私は頷く。言いたいことは分かった。でもだからと言ってこの量は、と思いもう一度部屋の中を見渡す。たくさんの物達が四方から私を見ていた。あかねさんの理論から言うと、これらは全てあかねさんの一部なのだ。ぬいぐるみもマグカップも漫画も、目や口や腕と同じようにあかねさんの一部。そう思うと急に目の前に座るあかねさんの色がぐっと濃くなったような気がした。

 予備校講師という職業を選んだのはお父さんの影響が大きい。
 とは言っても別にお父さんが予備校講師だったわけではなく、うちが教員家庭だったというわけでもない。さらに言うとそこに強い意志があったわけではなく、結果的に落ち着くところに落ち着いたという感じではある。
 お祖父ちゃんの後を継ぎ自営業で型枠大工をやっていたお父さんの口癖は「そんなんじゃサバンナでは生きていけないぞ」だった。幼い頃アスファルトの道で転び膝小僧から血を流して泣いた時も、中学の時お気に入りだった服に盛大にお味噌汁を零して絶望した時も、私が何かに悲しんだり落ち込んだりする時、いつも父はこの言葉を言った。
 当たり前だが、お父さんはサバンナになんて行ったこともないし何の関係もない。まぁ、つまりは強く生きろということが言いたかったのだ。サバンナの野生生物は生まれた時からサバイバルが始まってるんだからお前もそんなことでメソメソするなと、つまりはそういうことだ。
 サバンナでは生きていけない。やや強引な言い回しではあるが分からなくはない。私は涙を流しながらもつまづいた時はその言葉を支えにその都度立ち上がってここまで歩いてきたような気がする。

 将来は普通の企業の普通のOLには絶対になりたくない、と中学に入る頃にはもう思っていた。
 もちろんそういう仕事をしている人達を見下しているわけではないし、社会の中、そういう人達も必要だということはよく理解していた。ただ私は父の言葉の影響か(間違いなくそうだ)、与えられたことを効率よくこなすような仕事ではなく、身を守る能力を持ちどんな場所でも生きていけるようなタイプの仕事をしたい、というよりもするべきだと思っていた。サバンナで、とまではいかなくとも「生きる力」が必要だということが私の中の根本にあった。
 しかし、では自分に何ができる? 身を守る能力。芸は身を助けるとも言う。普通は、中学そこそこの年齢であれば芸能人だとかスポーツ選手だとかそういった華やかな職業に憧れ目指しそうな気もするが、私にそういった考えは一切なかった。はなから諦めていた。よく言えば地に足がついていたのだが、自分は普通の公立中学に通う普通の女の子で、そんな自分に世間を驚かすような特別な才能があるとはどうしても思えなかったのだ。その考えは、今思っても正しい。
 ではどうする? と考えた時、手っ取り早いのは資格で、資格があればできる仕事、逆に言うと資格が無いとできない仕事というものがこの世には存在する。これは私の理想に近かった。資格があればそれを使う場所ならば職には困らない。かと言って芸能人になるような特別な才能が無くとも頑張れば手に入る手軽さもある。
 私は数学が得意だった。中学の頃から成績が良くて、高校に進学しても高い水準をキープしていた。これを何かに使えないかと思った。数学が使える資格。私は放課後、職員室にいる担任の先生(数学の先生、いつも白衣を着た若い女の先生だった)を訪ね、相談した。そうねぇ、と少し考えるような顔をした先生から一番最初に勧められたのは公認会計士だった。でも父の会社に来る会計士を私は知っていたのだがどこか頼りない感じの男の人で、父も酔うとよく彼の悪口を言っていて、会計士自体にあまり良い印象がなく遠慮した(もちろん会計士が誰も彼もその人みたいなわけではないのだけど)。他にもいくつか資格を挙げられたが、どれもピンと来ないでいると「いっそ数学教師にでもなったら?」と言われた。先生は自分も数学教師なので、冗談半分で言ったようだったが、私としてはそれが一番ピンと来た。
 数学には必ず答えがある。様々な捉え方や考え方のある国語や英語とは違う。問題を挙げ、それを決まった方程式に則って解いていき、答えを導き出す。正しい答えは確実にあり、それを解くためのやり方を教える。知識さえあれば実に楽な仕事だと思った。それで私は数学教師になることを志した。
 大学は教育大学に進学した。夏頃から模試の判定もだいたいAかBで安定し、難なく現役で合格できた。実家から大学まで通うのは遠かったので大学の近くのアパートで一人暮らしを始めた。四年間、人並みにアルバイトをしたりはしていたが、羽目を外して遊ぶ(そういう人も多かった)こともなく基本的には勉強中心で、この大学生活を抜けると取得できる教員免許に思いを馳せて過ごしていた。私は高校の数学教師になろうと思っていた。できるだけ高いレベルの知識を伝える方がより専門的なニーズが高まると考えたからだ。大学生活に取り立てて問題はなかった。定期試験も無難にパスしていたし、気持ち程度の趣味も持ち、友達だってできた。気がつくと四回目の桜が咲き、私は四回生になっていた。

 誤算が生じたのは教育実習だった。私は特に深い考えもなく教員免許を取るための授業の一貫というくらいの意識で臨んだのだが、そこで現実を見た。
 とは言っても、授業自体には何の問題もなかった。受け持ったのは高二のクラスだった。初めて本物の教壇に立ち、生徒(私の母校の後輩だ)や教室の一番後ろで私の授業をチェックする在校生の頃からいた顔に見覚えのある先生の視線を一挙に浴びても私はまったく動じなかった。
 だって方程式は頭の中にちゃんとあるから、あとはそれを黒板に書き、要所要所を声に出して読むだけだから。私は私の知っていることをただただ発信した。
 問題が起きたのは七日目の放課後で、私は生徒に混じって教室の外の廊下の掃除をしていた。
 箒は最近買い換えたのか綺麗で、穂先がピンと立っていて掃きやすかった。対する床は昔よりも少し汚れているような気がして、私は念入りに細かいゴミを掃いた。その時、教室の中からがしゃーんとものすごい音がした。何事かと驚き中に入ると私の担当クラスの奄美君が教室の端に倒れていて、同じクラスの結城君がその倒れている奄美君に何か怒号を浴びせていた。
 いくつかの机が倒れていて、教室全体が時間が止まったかのように凍りついていた。「ちょっと、どうしたの?」と、私は怖かったのだが、実習生とはいえ教員という立場から放っておくわけにはいかず声をかけた。「うるせえな」と結城君は低い声で私にまで凄む。彼は体格が良く、確か柔道部だと聞いていた。何にそこまで怒っているのか知らないが、結城君はぐったりしている奄美君の首元を掴み無理矢理起こす。奄美君は意識はあるようだが、軽い脳震盪を起こしているのか焦点の合わない目で結城君を見ていた。よくみると少しだが頭から血が流れていた。「やめなさい!」と私が結城君の腕を掴むと、「あんたには関係ねぇだろ!」と結城君は私にまで怒鳴る。恐怖で頭が真っ白になった。その時、「何をやってるんだ!」と、おそらく誰かが呼んだのだろう男の先生が数人教室に入ってきた。結城君は興奮していてそれからもしばらく駆けつけた男の先生と怒鳴り合っていた。奄美君はまだぐったりしていて何人かの生徒が手を貸して保健室へ連れて行った。私はその様子をただ立ち尽くして見ていた。
 その日の夜に学年主任の先生、生活指導の先生、担任の先生、そして目撃者の私で今回の件について話し合いの場が設けられた。
 懐かしい進路相談室に小ぢんまりと四人集まる。あれから、結城君は少ししたらさすがに落ち着き、生活指導の先生と話をして一時間ほど前に帰っていった。奄美君は頭を打っていたので念のため病院に連れて行った。検査の結果、異常はなかったと付き添った保健室の先生から先程連絡が入った。
「最初は悪ふざけだったみたいです」
 生活指導の先生がゆっくり話し出す。彼は結城君と話して全ての真相を知っていた。
 事の発端は奄美君で、彼はちょっとお調子ものなところがあるのだが、先週行われた柔道部の校内試合で結城君が一年生に負けたことをからかったらしい。結城君も最初のうちは冗談にしようと笑っていたらしいのだが、実際一年生に負けたことはかなり悔しかったらしく結果的にキレて奄美君を投げ飛ばした、というそんな話だった。
 ばかばかしい、と私は心から思った。言ってはいけないことのラインも見定められずに冗談を言う方も言う方だし、みんながいる放課後の教室で人の迷惑も考えずになりふり構わずキレる方もキレる方だと思った。「困ったものですねぇ」と、担任の先生が頭を抱えて、そこからが長かった。これから二人をどうフォローしていくかとか、騒ぎを起こした処罰をどうするかとか、ああでもないこうでもないの話が行ったり来たりして永遠に続いた。壁にかけられた時計の針が二十時を回る。お腹が空いた。それと同じくらい腹が立った。何だ、これは。いったい何の話をしているのだ。私の仕事は数学を教えることで、つまらない喧嘩の仲裁やフォローをすることではない。教育実習のために買ったスーツのスカートの裾をぎゅっと握る。苛々が止まらなかった。
「あの、そろそろ帰らせてもらっていいですか?」
 そう声に出して言ったのは二十一時過ぎ。私の言葉に進路相談室は水を打ったように静まり返った。こんなに大胆なことを言ったのは生まれて初めてだった。それくらい私は我慢の限界だったのだ。
「あ、そうだよね。教育実習生を残業させちゃいけないよね。ごめんごめん」
 と、学年主任の先生が謝る。この人は私が在校時から学校にいるが、今日まで直接の関わりはなかった。「お疲れ様です」と鞄を手に進路相談室を出る。背中にもう一度、「残業させちゃってごめんね」と声をかけられたが、誰の声かは分からなかった。私は何も言わずにその場を後にした。
 校舎の外に出ると辺りが真っ暗になっていて驚いたが、よく考えてみると時間的に当たり前のことだった。在校生の時にこんな時間まで学校にいたことは一度もなかった。私は部活もやっていなかったし、授業が終わるとすぐに家に帰っていた。校門を出て校舎の方を振り返ってみると、職員室と進路相談室にだけ明かりがついていた。これは仕事なんだという実感が湧いた。
 違う、と思った。
 何かが違う。私はあんなどうしようもない問題を解決するために教師になりたいのではない。しかし、ああいった問題が学校には溢れていることも、教師である以上それを紐解かなければならないことも理解はできる。嫌だ。私はそんなことをしたくない。そう思うといろいろと嫌なことが思い浮かんできた。私は修学旅行になど付き添いたくない。運動会の運営などやりたくない。文化祭も嫌だ。私はただ、純粋に私の持っている数学の知識を教え、伝えたいだけなのだ。
 その事件で私の中の何か、情熱や熱意のようなものが完全に切れてしまって、残りの教育実習は正直言って消化試合だった。
 最終日のホームルーム、私は教壇に立ち教育実習に対するそれらしい感謝の意を伝え、生徒達は皆黙って私の話を聞いていた。教室に結城君はいなかった。例の喧嘩が原因で二週間の停学処分になったのだ。奄美君はいた。でもあれ以来気まずい気持ちがあるのかどこかよそよそしくなってしまい、以前とは別人のようだった。同情の余地はないと思った。調子に乗って馬鹿なことを言うからこんなことになるのだ。と言うよりも私は奄美君も停学処分にするべきだと思っていた。確かに奄美君は怪我をさせられた方だし、一見被害者ではあるのだが、元を正せば奄美君の言動が原因でこんなことになったのだ。結城君だって、怪我はしていないが心は傷んだはずだ。だからキレたのだから。ただ、もちろん結城君を擁護するわけではない。彼も悪い。二人とも悪い。私の純粋な知識の伝達を邪魔をするような生徒は皆処分すればいいと思った。だって、生徒達は皆授業を受けて何かを知りたい、覚えたいから学校に来るのであって、そこに雑念を入れる必要など一パーセントもないのだから。教室に響き渡る乾いた拍手とともに私の教育実習は終わった。それで私は高校の数学教師になることをやめた。
 とはいえ教育実習を終えた時点で卒業まで残すところあと半年ちょっとで、現実的に卒業後何をするかを早急に決める必要があった。私は大学受験時から一貫して高校の数学教師になることしか考えておらず、急にそれが途絶えて路頭に迷った。いっそ、普通の企業に就職してしまおうかとも思った。でもその考えはすぐに打ち消した。あくまで私はサバンナで生きていかなければならないのだ。そして答えは案外近くにあった。それは予備校講師。予備校の講師ならば私が望んだ通り、純粋に私の数学の知識を伝えるだけでいい。さすがに塾まで来て喧嘩をする生徒もいないだろうし、修学旅行も運動会も文化祭もない。私の望んでいた環境である。
「せっかく教員免許取ったのに勿体ないよ」
 と、就職支援の事務の人に言われた。それは考え方の一つではあると思う。確かに予備校講師になるために、苦労して取得した教員免許は必須ではない。持っていた方が就職に有利だと言われることもあるが真偽は定かではない。私としても苦労して取得した教員免許という資格が使えないことは不本意だ。しかしそれでもなお私は予備校講師という職業に魅力を感じていた。私はもう二度とあんなトラブルに巻き込まれるのはごめんだ。それに資格は使わずとも、私の頭の中にある蓄積された数学の知識をフルに使う。それは立派な専門性である。身を守る能力である。
 そうして私は予備校講師という仕事を選んだ。就職活動自体はまったく問題がなかった。教員免許を持っていることが効いたのかどうかは分からないが、希望をする予備校からすぐに内定が出た。それから七年間私は予備校講師として教壇に立っている。

 そして、これは最近気づいたのだが、予備校講師という仕事も結局は「売る」と「買う」の関係の上にあるのだ。私は私が持っている数学の知識を「売る」。生徒達はそれが欲しいからお金を出して予備校に通って「買う」。私の知識は無形物で、売ったところで無くならないから何度でも売れる。そこだけは違うが、基本的には欲しがっている人に欲しい物を売るということは、トリバイにも通じるところがある。


 授業が終わったのが二十一時半で、何だかんだと翌日の授業の準備をしていたらいつの間にか二十二時半を回っていた。溜息をついて周りを見渡すと、気がつかないうちに最後の一人になっていたようで、私のデスクの一角以外は全て電気が消えていた。これは別に珍しいことではない。一番遅い時間の授業がある時はだいたい私が最後になる。
 私は授業の準備をやり過ぎるくらいにやる。他の講師がちゃんとやっていないとは言わないが、私ほど時間をかけて準備をしている人はおそらくいないだろう。覚えておかないといけない重要ポイントをまとめる、分かりにくいであろう部分の補足説明を考える。これくらいは当たり前で、さらに予備校が用意した教材を超えて重要ポイントを抑えるための例題を自分でたくさん作る、その解き方の詳細説明を記した解答例も作成する、それを人数分プリントしてホチキスで留める。ここまでやっていたら自ずと時間もかかる。なぜここまでやるのか。それは結局、私の数学の知識をちゃんと売りたいからだ。伝わらないのも嫌だし、間違った伝わり方をするのも嫌だ。そのための準備である。これはトリバイで物を売る時、緩衝材をぐるぐると巻いたり隙間に新聞紙を詰めたりする作業と似ている。
 自分で言うのも何だが、私の数学の知識は講師の中でも群を抜いている。「だって藤田は教育大出てんだもんなぁ」なんて先輩講師達は頭を掻く。もちろんそれもある。が、基本的には積み重ねの結果だ。私は「売る」ための準備をずっと昔から怠らなかった。
 三年目の時に難関国立大学受験数学Sクラスの担当になった。それは予備校内の数学の最高峰クラスで、通称難国Sと呼ばれ、この授業を任されるということは講師(または商品)として認められた証だった。
 最後の戸締りをして外に出た頃にはもう二十三時前だった。いつの間にか肌寒い春は過ぎ去って、この時間でもちょうどいい気温になっていた。これはまた、うかうかしていたらすぐに暑くなる。いやその前に雨の季節か。
 事務所からエレベーターで下に降りるとビルの出入り口の階段のところに男が一人座り込んでいるのが見えた。予備校の入るビル前には駅前ロータリーがある。彼は、そこに停まってはまたすぐに人を乗せて走り去って行くタクシー達(またはその流れのようなもの)をぼんやりと見つめていた。時間も時間だし少し気味が悪かったのだが、よく見ると何度か予備校で見たことのある生徒のような気がした。声をかけるべきかどうか迷ってしばらくエレベーターの前に立ち尽くしていたら、背中に気配を感じたのか彼は振り返り私を見つけて「あ」と驚いた。間違いない。うちの予備校に通う生徒だった。
「こんな時間まで何をしているの?」
 首だけ後ろを振り向いて私を見上げる彼を、少し高いところから見下ろして私は言う。
「先生こそ、もう二十三時だよ」
「私は明日の授業の準備をしていたのよ」
「真面目なんだ」
 と、彼は少し笑って言った。何で笑ったのか私には分からなかった。真面目で笑われる筋合いなど何一つない。私はさらりと「早く帰りなさいよ」と言って横を通り抜ける。今日中に発送しておきたい商品が一つあったので早く帰りたかった。
「ねぇ、ご飯食べた?」
 後ろから、彼の声が聞こえた。振り返り「今の、私に言ったの?」と聞くと、「他に誰もいないでしょ」とまた彼は笑う。
「食べてないけど」
「じゃ、何か食べに行こうよ」
「何で?」
「何でって、何も食べてないんでしょ? 俺も食べてないし。お腹空いたから」
「そういう意味じゃなくて、何で私とあなたが?」
「いや、だってご飯食べてないんでしょ?」
 そう言って彼はニコニコと笑う。話が通じない。そしてそんなやり取りをしていると不思議と本当にお腹が空いてきた。さっきまでは食べなくてもいいと思っていたくらいだったのに。私がまた溜息をつくと、彼は「じゃ、行こうか」と立ち上がった。思っていたより背が高くて少し驚いた。
 二十四時間営業のファミレス、四人席で向かい合って座る。このファミレスは予備校から自転車で五分くらいのところにあるのだが、来るのは初めてだった。店内はあまり賑わっておらず、仕事帰りのサラリーマンや大学生のカップルが少しいるだけだった。
「藤田実千先生だよね?」
 メニューを一冊私に渡して彼は言った。フルネームを覚えていることに少し驚いた。
「よく覚えてたね」
「だって、先生の冬季講習受けてたから」
「あぁ、そっか」
「先生は俺の名前覚えてないだろ」
 そう言われて思い出そうとはしてみたもののまったく名前が浮かんでこなかった。彼の、というよりも私は自分の生徒の名前を誰一人として思い出せなかった。
「確か春から高三よね」
 私の冬季講習を受けていたのならばおそらくそうだ。
「小野糸、山西高校の三年」
「山西なんだ」
 山西高校というと、この辺りの学区では一番の公立高校だ。そして小野糸という名前にも聞き覚えがあった。確か春の校内模試でトップ成績だった生徒だ。以前、彼に英語を教えていた花見さんが「小野はすごいよ」と言っていた。続けて「とにかく理解が早いんだ」と、花見さんは唸る。その時私は彼の顔も名前もはっきり認識していなくて、「あぁ、そうなんですか」と、単にそういう生徒がいるんだな、くらいにしか思っていなかったのだが、今ファミレスで向かい合っている彼がその小野糸なのだ。
 二人とも目玉焼きの乗ったハンバーグとライスを注文した。出てきた時にはけっこうボリュームがあるように見え、これは食べきれないかな、と思ったのだが意外とあっさり完食した。対する小野君はハンバーグとライスをそれぞれ三分の一くらいずつ残していた。
 小野君は不思議な雰囲気を持つ男の子だった。
 針金のように線が細くて背が高い。髪は天然かもしれないが少しパーマっぽくて、何だかとろんと眠そうな目をしていた。口元は常に微笑しているように緩んでいて、イケメンというよりは美男子という印象だった。私はイケメンは美人と同じで、どこまでが本当でどこからが嘘なのか分からないので苦手なのだが、彼の場合はもはやすべてが嘘のようで、逆に苦手意識は芽生えなかった。
 特に話が盛り上がったわけではないのだが、食後のコーヒーを飲み終わる頃にはもう0時を超えていた。高校生がウロついていていい時間ではない。
「そろそろ帰りなさい」
 と、私は教育者のような物言いをした。小野君は最初のうちは誤魔化すようなことを言ったり頷くだけ頷いたりしていたのだが、やがてぽつりと「家になんて帰りたくないんだよ」と言った。
「何で?」
「だから授業が終わったあと、ずっとあそこに座ってたんだ」
「帰りなさいよ。小野君はまだ高校生なんだから」
 そう私が言うと小野君は欠伸を噛み殺しながらちらっと私を見て、「ねぇ、ちょっと外歩こうよ」と言った。
 ファミレスを出ると深夜の街は空気が澄んでいて、良い季節の良い夜だった。静かで、国道を走る車も少ない。街灯がアスファルトをぽつぽつとオレンジ色に照らす道。小野君は私の少し前を歩き、私は自転車を押してその少し後ろを歩く。
「つまり、家出したってこと?」
 私は彼の背中に問いかける。
「まぁ、そうなのかな」
「何が嫌なの? 両親と上手くいっていないとか?」
「別に、そういうわけじゃない。両親は優しいし二人とも良い人だよ。あと、姉が一人いるんだけど、姉とも仲は良い。たまに一緒に出掛けたりする」
 国道を逸れてそのまま住宅街の中を歩く。誰か予備校の関係者に見られたらどうしようという思いはあった。一応、講師と生徒の立場上、良からぬ想像をする人もいるだろう。でも夜の住宅街には驚くほど誰もいなくて、誰かに見られる心配はなさそうだった。
 暗がりの公園に出る。カラフルな滑り台やら階段やら屋根やらが付いた大きめの複合遊具が暗闇にその色をぼうっと浮かばせていた。小野君は下から滑り台を駆け上がって遊具の上に登った。
「それなら何で帰りたくないのよ?」
 私は遊具の上にいる小野君を見上げて言う。
 小野君は軽く伸びをして「先生、俺大学なんて別に行きたくないんだ」と言った。その言葉に私は驚く。「えっ」と声が漏れる。
「じゃ、何で予備校に通ってるのよ?」
 それでは「売る」と「買う」の需要と供給がマッチしない。
「親がそれを求めてるから」
 と、小野君が言って、あぁ、まぁ確かにそういうパターンはあるなと思った。私は少し安心して頷く。
「先生、俺こう見えて何でも持ってるんだよ」
 小野君は少し寂しそうに言った。
「家が割と金持ちっていうのもあるけど、幼い頃から何でも手に入った。それに、なぜだかだいたいのことはできるんだよ。モテたし。皆が俺に期待をして、それで何となくそれに応えることができて、その繰り返し。気付いたらとりあえずいろいろなものを持ってた」
 他の誰かが同じことを言ったら嫌味に聞こえたかもしれない。でも小野君が言うとそんなふうには聞こえなくて、それは純粋な少年の悩みとして私の中に入ってきた。
「大学受験だって同じで、親は俺に有名な国立大学に入ってほしいと思ってる。で、多分俺は受かる。分かるんだ。いつも通り手に入る。だけどさ、それは別に自分が本当に欲しいものでもなんでもないんだよ。大学に行ってやりたいことなんて何も無いし、行くことが必要な理由も分からない。でも手に入る。俺はそんな、別に欲しくもないものばかりを持ってるんだ。それでずっと悩んでた。今は、何かを求められるのもそれに応えるのもちょっとしんどい」
 月明かりに照らされた小野君の顔はどう見ても十八歳の少年だった。それ以上でも以下でもない十八歳の少年だった。
「要らないものばかりがある家になんて、帰りたいと思わないでしょ?」
 そう言われても私には分からなかった。要らないものなんて、私はもうとっくに売ってしまったから。風が、私達の間を吹く。

 結局その夜は小野君を私の家に泊めることにした。彼の悩みは本当のようで、理解できないわけでもない。今夜は多分何をどう言っても家には帰らないだろうと思った。
 正直言ってそこまでする必要が私にあるのかとも思ったのだが、立場上放って帰るわけにもいかなかった。もちろんだがいかがわしい気持ちはまったく無い。それはおそらく小野君の方も。
「先生の家、全然物が無いね」
 小野君は私の部屋を見て少し驚いた。
「そう?」
 近年私は誰の家にも行かないし誰かを自分の家に招くこともない。だから私の家が他の人の家と比べてどうなのかということなど考えたこともなかった(唯一、この前あかねさんの家には行ったがあの家は少し特別な家だと思う)。確かにここ半年の間にトリバイでいろいろな物を売った。でも物が全然無いなんて感覚はまったくなかった。
「シャワー浴びたかったら浴びてもいいよ。着替えたかったら服も貸す。ちょっと小さいかもだけどね。それで、小野君がベッドで寝て。私は床で寝るから」
 私がそう言うと小野君はきょとんとしたような顔をした。
「いいよ。悪いから先生がベッドで寝なよ」
「大丈夫、気にしないで」
 私はそう言うとさっさと床の上で毛布に包まり頑なな姿勢を見せる。
「先生はシャワー浴びないの?」
「明日の朝浴びる」
 小野君は「そっか」と言ってベッドに腰を下ろした。私の言い方はちょっとぶっきらぼう過ぎたかもしれない。
「じゃ、悪いけどベッド使わせてもらうよ」
「どうぞ」
 それでさっさと電気も消した。真っ暗になった部屋の中、横になった頭の側に置いていた目覚まし時計の針の蛍光塗料が蛍みたいに光っている。もう深夜一時半だった。目が慣れてくると部屋の隅にダンボールケースが置いてあるのが見えた。昨日売れて、送るために梱包していたワイングラスのセットだ。しまった。今日発送しようと思っていたのにけっきょく行けていない。今すぐコンビニまで発送しに行きたいと思った。でもさすがの私も疲れていた。
「先生ってちょっと変わってるよね」
 暗闇の中から小野君の声がした。声の位置からして彼もベッドに横になっているようだった。
「何で?」
「いや何か、普通の先生だったらさ、生徒の悩みを聞いたら一般的な通説を正解みたいにして押し付けてくるでしょ。ありきたりな事を当然っぽく言うというか。大学受験も、しないと後々後悔するとか、先の事を考えたら絶対にしておいた方がいいとか、そういう普通のこと言いそうじゃない? でも先生はそうじゃなくて特に何も言わないし、そもそも聞いてるのか聞いてないのかも曖昧な感じだし」
「それは厳密に言うと私が先生じゃなくて数学の知識を伝えるだけの講師だからよ」
「先生は先生でしょ」
「全然違うって」
 私はそう言って寝返りを打ち、小野君に背を向ける。顔は見えなくても小野君が私の言ったことを納得していないことは何となく分かった。
「明日は家に帰りなよ」
「正直、嫌だ」
「売ればいいじゃない」
「売る?」
「小野君の家にある要らないもの、腹が立つもの、とにかく帰りたくないって思わせるような物は全部。何もかも売ったらいいと思うよ」
「売る、かぁ。考えたこともなかった」
「多分すっきりすると思うよ」
 私がそう言うと小野君はふっと笑った。それは乾いてはいたが、本物の笑いだった。
「先生って、やっぱ変わってるね」
「そうかな」
 変わっていると言われてもそれが私の本音だった。小野君の話を聞いて本気でそう思ったのだ。
 おやすみ、と言って毛布を頭から被った。眠かった。おやすみ、と小野君が返した頃にはもう身体の半分はあたたかい眠りの泥の中にいた。


 週末のショッピングモールは人でいっぱいだった。一時期は新型のウイルスがどうこうだとかで潰れてしまうのではないかというくらいガラガラだったのに、感染拡大が少し収まった最近はまた少し活気が戻ってきていた。
 私は休日はだいたいいつも自転車で自宅から三十分くらいのところにあるこのショッピングモールまで来て、数学の参考書をフードコートで解く(もちろん解き終わった参考書はトリバイですぐに売る)。これはつまりはメンテナンスである。「私の知識」という商品の状態を良好に保つためのメンテナンス。
 机の上に置いていたジュースは氷がほとんど溶けて味が薄くなっていた。スマホとブルートゥースで繋いだワイヤレスイヤホンからは一昔前のロックバンドの音楽が流れる。ルーズリーフには私(私の知識)が導き出した数式が書き連ねられ、小指側の側面がシャープペンシルのせいで黒く汚れていた。私はそれを携帯していたウェットティッシュで拭き取る。すると、誰かが私の前の席に座った。真っ黒な服を着ていて一瞬誰だか分からなかったのだが、ピンクの髪を見て気付く。あかねさんだった。
「何読んでるの?」
 まるで待ち合わせをしていたのかのように自然と会話が始まる。私が参考書の表紙を見せたら、「そんなの読んで楽しい?」と、あかねさんは顔を顰めた。
「楽しいとか楽しくないじゃなくて、ただのメンテナンスです」
「メンテナンス? 何か、難しいね」
 そう言ってあかねさんは少し笑う。小野君といい、あかねさんといい、最近私はよく笑われる気がする。あかねさんは鞄(これまた真っ黒の)からスマホを取り出しいじり始める。それはすごく自然な動作で、側から見たらどう見ても「約束の時間に遅れてきた友達」だった。
 今日のあかねさんはロリータ全開の真っ黒な服を着ていて、この前部屋で会った時とも、その時見せてもらったアイドルグループのプロフィール写真ともだいぶ印象が違っていた。髪色が奇抜でなければ同一人物だと気付かないのではないかと思えるくらいだった。そして、あかねさんの細い腕には紙袋が三つ掛かっていた。おそらくまた何か買ったのだろうな、と私は思った。
「ねぇ、トリバイってどういう意味なんだろうね」
 あかねさんはスマホに視線を落としたまま突然そんなことを聞いてくる。
「多分、取り引きと売買から来てるんじゃないかと思いますけど」
 私がそう言うとあかねさんは目を丸くして私を見た。
「あ、なるほど。確かにそうだ。すごいね、マチちゃん。そんなことよく分かるね」
 あかねさんは感動して言った。私はそんなに感動されるようなことを言ったとは思っていなかったので少し戸惑った。「さすが予備校講師してるだけあるわぁ」なんてやたらと褒めてくるのでだんだん気まずくなり(私は褒められることに慣れていないのだ)「普段はそういうファッションなんですか?」と、話題を変えた。
「いや、これはバイト用の服よ」
「バイト?」
 私は驚いた。
「そうよ。みんなこういう服着てるガールズバーでね。いわゆるロリータバーっていうの? バイトしてるのよ。今日は夕方からのシフトで、その前にちょっと買い物に寄ったっていうわけ」
「えっと、と言うかアイドルなんじゃないんですか?」
「あぁ、それはそれよ」
 あかねさんはあっさりと言った。アイドルがガールズバーと掛け持ちをするなんて、私のような素人の感覚でも「それはそれ」で済まされることではないと分かる。
「アイドルの収入だけじゃ欲しい物が買いきれないのよ。だから掛け持ち。ロリータの格好も好きだしね」
「はぁ」
「それはそうと、また私が好きそうな物出品する時は先に言ってね。きっと買うから」
 あかねさんはにっこりと笑って言う。相変わらずどこか有無を言わせぬ感じがあり私は頷くしかなかった。その時、唐突にスマホの着信音が鳴る。最初はあかねさんのスマホが鳴っているのだと思った。何せ、アラーム以外で私のスマホが鳴ることなんて滅多にないから。でも鳴っているのは私のスマホだった。見ると、小野君からの電話だった。この前家に泊めた時に連絡先を教えていたのだ。
「彼氏? 出なよ。気にしないで」
「そんなんじゃないです」
 と言った私の声は怪しいくらいに強い口調だった。あかねさんは「照れなくてもいいって」というような感じで笑う。少しイラっとした。出ると電話の向こうの小野君は「あ、今電話大丈夫?」とまるで友達のような話し方だった。
 あの夜、もちろん私達の間には何もなかった。普通にそれぞれ寝て、朝になったら朝食だけ食べさせてさっさと帰した。そういえば、あれから少し経つが予備校でも一度も小野君と顔を合わせることがなかった。その後ちゃんと家に帰っているのだろうか。
「どうしたの?」
「この前先生に教えてもらったフリマアプリでいろいろ売りに出してるんだけど、やっと一つ売れた。これって何で送るのが一番良いの?」
「何が売れたの?」
「英語の参考書だけど」
 受験が終わる前に売る物ではないな、と思ったが何も言わなかった。要らない物は何もかも売ったらいいと言ったのは他でもない私だし、それに頭の中ではもう「参考書」ではなく、その縦横高さのだいたいのサイズ感、物体としての「参考書」の情報の計算を始めていた。
「やっぱりトリバイ便ライトが一番いいんじゃない? 参考書くらいのサイズなら多分収まるだろうし。匿名発送で履歴も追えるから」
「あぁ、なるほどね」
「送料は後で売上から引かれるよ」
「ありがとう。これ、なかなか思うように売れないね」
「最初のうちは私もそうだった。もっと写真の写し方とかこだわってみたら? あと、ハッシュタグを付けてみるとか。検索に引っかかる可能性が上がるから」
「分かった。やってみる」
 それで電話を切った。小野君は参考書の他にどんな物を売っているのだろう。やはり気が進まない受験関係の物が中心なのだろうか。彼がその十八年の人生で手に入れてきた要らない物達、それがどんな物なのか少し興味が湧いた。アカウントを聞いておけば良かったなと思った。そこで、向かいに座るあかねさんが私を見てニヤニヤと笑っているのに気付く。「あ、彼氏じゃないですよ」と、私は再度否定した。


 電車とバスを乗り継いで二時間弱。私は半年ぶりに帰省していた。実家の最寄りのバス停は路線の終点で、私が乗ってきたバスは寂れたロータリーでぐるりと旋回し再び駅の方向へ戻って行った。緑の匂い。ここまで来ると実家はもう目と鼻の先である。
 私の実家。最寄り駅の駅前はそれなりに栄えているのだが、そこからバスでさらに二十分くらい行ったところにあり、そうなるともう「田舎」と言っても良いような光景になる。住宅と畑が三対七くらいの比率であり、辺りは山や川に囲まれている。「となりのトトロ」ほどとまではいかないが、雰囲気的には近いものはあった。良く言えば緑がたくさん、悪く言えば何もない。それは人それぞれの捉え方である。ただ、バスで二十分行けば街に出られるのでそこまでの生活の不自由は無く、普通にここから働きに出ている人もたくさんいて、少し田舎なベッドタウンという感じだった。
 インターホンを鳴らすも何故か返事は無くて、勝手に玄関の引き戸を開けるとお母さんと鉢合わせた。ちょうど向こうも戸を開けようとしていたところだったようだ。お母さんに会うのは半年ぶりだったが見た感じ何も変わっていなかった。それは多分お互い様なのだが。
「どうしたのよ? お正月以外に実千が帰ってくるなんて珍しい」
「まぁ、ちょっとね」
 靴を脱いで玄関を上がると懐かしい実家の匂いがした。それは古い木造住宅の匂い。もう何十年もそこに敷かれている絨毯の足の裏の感触だとか、実家はその全てが安心感に満ちていた。
「今日は泊まっていくんでしょ?」
「うん。明日帰るつもり」
 襖が開いたままの居間でお父さんが横になってテレビを観ているのが廊下から見えた。休みの日に家にいるなんて珍しい。相変わらずの大きな身体。横になったその様子は冬眠から明け切らない熊のようだった。「よぉ」と言われて何となく隣に座る。「元気なの?」と、私はとりあえず定型文みたいな挨拶をした。「まぁ、まぁ、だな。最近腰がちょっと痛いけど」とお父さんは欠伸をして言う。
「それはゴルフのやり過ぎよ」
 お父さんは私が学生の頃から仕事関係プライベート関係を問わず年中ゴルフにばかり行っていた。今日家にいるのが奇跡的なくらいだった。
「お前は仕事は順調なのか?」
「まぁ、順調だよ」
 すぐに「まぁ」なんて言って言葉の輪郭をぼやかすのが私の癖だということに最近気付いた。本当は昨年度の大学合格率もまずまずで、仕事の調子は良かった。でもそれをストレートに言ってしまうのはどこか照れ臭さがあった。
「良いことだ。教師なんてのも最近は大変な仕事だろ。親も変な奴が多いし、生徒に手でも上げたらすぐに大問題だ」
「うん。でも、お父さん。私前にも何度も言ったけど、教師じゃなくて予備校講師ね。だから基本的にそんなややこしい問題は無いよ。ただ数学を教えるだけの仕事だから」
「とはいえ教師は教師だろ」
 この前、小野君ともこんな話をしたことを思い出して溜息をつく。どうもみんな理解してくれない。
 二階に上がり自分の部屋のドアを開けると久々の主の帰省に驚いたかのように封じ込められていた空気がもわっと溢れ出した。畳の匂い、とりあえず窓を開ける。それで私は早速物色を始めた。
 今回の帰省の理由は実はここにあった。私は何か「売る物」を探すためにわざわざ実家まで帰ってきたのだ。自分の家にある要らないものはもう大方売ってしまった。でも何かを売りたいという熱は依然として冷めず、しかし売るために何かを探して買うような間違ったことはしたくなかったので、そうなると実家で眠っている物を発掘して売るという選択肢しかなかったのだ。
 勉強机の引き出しを開ける。予想はしていたが大したものは入っていなかった。半分くらいの長さになった鉛筆、色褪せた高校の行事日程のプリント、自分でも引いてしまうくらい付箋が貼られた参考書。どう頑張っても売れそうにない。さらに別の引き出しを開ける。ぼろぼろの布製の筆箱(中身は分度器とかコンパスとか、人生のある特定の時期を共に色濃く過ごしたアイテム達が入っていたのだが)のチャックに付いた懐かしいストラップを見つけた。それは中学生の頃に流行ったお菓子のキャラクターのストラップだった。確かこのストラップは期間限定のおまけだったはず。調べてみるといくつか同じ物が出品されていて、数千円で売れている商品もあった。私はすぐにそれを筆箱から外して畳の上の日当たりの良い場所に置き、写真を撮った。這いつくばって古いストラップの写真を様々な角度から撮る私は、側から見ると変な人だろうか。どう映るだろうか。だが今、私が気にしているのは写真のクオリティだけだった。何度撮ってもどうしてもストラップの布部分の変色が目立つ。古い物だしけっこう長い期間使用していたから仕方ないと言えば仕方ないのだが。しかし一応今となれば手に入りづらい物であることは確かなので、とりあえず千円で出品してみることにした。布部分の変色のことはちゃんと商品紹介に書いた。問題部分のアップの写真も撮って載せた。
 勉強机からはそれ以外にもいくつか売れそうな物が見つかった。私はその都度畳に這いつくばり写真を撮ってトリバイに出品した。次は戸棚だった。基本的には本がメインだったが何か掘り出し物が見つかるかもしれない(本は古本屋もあるし、送料のことを考えるとあまり売りやすい物ではなかった)。その時、戸棚の右端三分の一くらいに見覚えのない箱が積まれていることに気付いた。見るとそれはガンダムのプラモデルの箱だった。そもそもここに何を置いていたのか覚えていないが、とりあえずこれは私の物ではない。お兄ちゃんの物だ。
 兄、裕一は私の二歳上なのだが、ガンダムだとかエヴァンゲリオンだとか、よく知らないがそういう類のロボットものが大好きなのだ。学生の頃から熱心にプラモデルを集めていて、それは三十を過ぎた今もまだ続いている。いや、続いているというより、この様子を見ると年々過熱しているのかもしれない。おそらく自分の部屋に置き切れなくなり、誰もいないのをいいことに私の部屋を使い出したのだろう。お兄ちゃんは未だ独身で実家暮らし(独身なことについては人のことを言えないのだが)。今もおそらく隣の部屋にいるのだと思う。
 夕飯は出前のお寿司だった。私としては久しぶりにお母さんの手料理を食べたい気持ちもあったのだが、これはこれでお母さんとしては私に気を遣っているのだ。
「またどうせカップ麺ばかり食べてるんでしょう」
 お母さんは出前とは別に作ったシーザーサラダを私の前に置いて言った。
「最近はそうでもないよ」
 嘘だった。仕事のある日はほぼ百パーセントでカップ麺かコンビニ弁当の二択だった。昔から私の中で「食べる」という行為はかなり重要度が低い。
 食卓は整ったというのにお兄ちゃんはまだ部屋から出てこない。しびれを切らしたお母さんが二階に向かってお兄ちゃんを呼ぶ。やがてお兄ちゃんが降りてきて、食卓に私がいるのを見つけると「うおっ、実千じゃん」と驚きの声を上げた。お兄ちゃんはガンダムの絵がプリントされた白いティーシャツにアディダスのジャージのズボン姿。どう見てもオタクの部屋着なのだが、お兄ちゃんが着るとそこまで酷いものには見えなかった。
 厄介なことに私のお兄ちゃんはかなり整った顔立ちをしている。背も高く、学生の頃はよく目立ってモテていた。バレンタインの時は大きな袋に大量のチョコレートを入れて持って帰ってきたし、ラブレター的なものが実家のポストに直接投函されていたことも何度もあった。私達は高校は違ったが、中学までは同じ学校に通っていて、その頃はよく「藤田先輩の妹」と言われたものだった。興味本位で教室までわざわざ私を見に来る人達もいた。「藤田先輩の妹なのに何か普通」みたいなことを言われた時はさすがに少し腹が立った。
「お兄ちゃん、私の部屋にプラモデル置いてるでしょ」
 私はサーモンのお寿司を食べながら言った。
「あ、バレた?」
「そんなのバレるに決まってるじゃない。勝手に人の部屋に置かないでよ」
「いいじゃん。実千全然家にいないんだから」
「そういう問題じゃないでしょ。自分の部屋に置いてよ」
 するとお母さんが「もういっぱいよ。この人の部屋」と口を挟んだ。私は溜息をつく。私の部屋にまで置いているということはおそらくそういうことなのだろうと予想はしていたが、少しは注意するべきではないかと思う。お父さんもお母さんもお兄ちゃんのプラモデル趣味のことにあまり干渉しない。私が高校生の頃、一度お兄ちゃんの部屋の中を覗いたことがあるのだが、信じられないくらいのプラモデル達がいろいろなポーズで並べられていて引いた。箱の量もすごかった。その頃のお兄ちゃんは大学生で、休みの日はだいたい部屋に閉じこもってプラモデルを作っていた。
 私はお父さんに「お兄ちゃんはあんなんでいいの? あれでサバンナで生きていけるの?」と聞いたことがある。お父さんは苦笑いで「あれはあれで生きていけそうだよなぁ」と言った。何となく言いたいことは分かったが、私としてはあまり納得がいかなかった。
「最近はさぁ、復刻版も出るし新しいのも出るしでいろいろ大変なんだよ」
 と、お兄ちゃんは笑う。私は少しも笑えずに淡々とハマチを口に運ぶ。
 お兄ちゃんは、モデルとか俳優とかそういう人になればいいと私は思っていた。
 あんなに学校中の憧れの的だったのだ。今からでも遅くない。きっと売れると思う。しかしあのプラモデル達がそれを邪魔するのだ。憎らしい。というか間違っている。お兄ちゃんが三十を過ぎてもモデルや俳優どころか結婚しないのも家を出ようとしないのも全てはプラモデルのせいだ。
 売りたい、と思った。お兄ちゃんをダメにするプラモデルを全て売りたいと思った。そうするべきだと思った。「お兄ちゃんの持ってるプラモデル、全部売ったらそれなりにいい値段になるんじゃない?」と私は言ってみた。
「お、何だ。実千も興味あるのか?」
「いや、別に興味はないよ。でも売ったら高そうだなって思っただけ」
「そりゃ物によるけど、高いやつは高いよ」
「私が売ろうか? 家にあるもの全部」
「何言ってんだよ」
 お兄ちゃんは笑う。冗談だと思っている。そういう感じでマグロを頬張っている。でももちろん私は冗談で言っていない。そういう感じでお兄ちゃんを見る。
「分かったよ。自分の部屋に戻すからそんなに怒るなよ」
 お兄ちゃんは溜息をついて言った。違う。私は別にお兄ちゃんに怒っているわけではない。私はただ、間違った物であればそれはもう売ってしまう方が正しいと思っただけだ。それだけなのだ。憎らしいのはお兄ちゃんではなくプラモデルなのだ。でもこれ以上言うと今度はお兄ちゃんの方が怒り出しそうだったので何も言わなかった。
 お風呂上がりにスマホを見ると今日出品したストラップが売れていた。売れそうな額を考えて設定したのに、値引きもなく出品した額そのままで即日売れたとなるともう少し値段を上げておいてもよかったのではないかと思ってしまう。私は階段を降りて台所で新聞を読むお母さんに声をかける。
「ねぇ、緩衝材って家に無い?」
「何よ緩衝材って」
「ほら、プチプチの。商品を包んだりするやつ」
「そんなのすぐに捨てちゃうわよ」
 なんて勿体ない、と私は心の中で呟く。例えストラップ一本だとしでも緩衝材無しで商品を送るのは抵抗があった。いつの間にかそれが私の最低ラインのマナーになっていた。私は今夜中にストラップを送ることを諦めた。ストラップの購入者、夜うさぎさんに「購入ありがとうございます。明日発送いたします」とメッセージを送る。
 部屋に戻るとお兄ちゃんのプラモデルの箱は変わらず同じ場所に置かれていた。私が帰った後に自室に戻すつもりなのだろうか。それともこのまま有耶無耶にしてここに置きっぱなしにするつもりなのだろうか。
 私はプラモデルの箱を戸棚から出して畳の上に並べる。全部で四箱だった。這いつくばり、良い感じの角度から写真を撮る。テープ留めが無く箱を開けられるものは中身の写真も撮った。それで心の中で商品紹介を考える。
「新品、未使用、買ったまま未組み立ての状態です。陽の当たらない場所で保管していました。箱にも目立った傷汚れはありません」
 箱に書いてある商品名をトリバイで検索してみる。同じロボットでも物によって値段がまちまちだった。そういえば夕飯の時お兄ちゃんが復刻版がどうこうと言っていた。よく分からないがおそらくいろいろと細かな種類があるのだろう。同じパッケージの商品からだいたいの売値を考える。導き出した価格は四箱合計で一万二千円。うん。悪くない。本気で売ってやろうかと思った。このプラモデルを本当に手にすべき正しい人達へ正しく商品を送る。それはどう考えても間違ったことではない。
 しかしけっきょく出品しなかった。いくら正しいこととは言え、このプラモデルはお兄ちゃんがお金を出して買った物なのだ。それを私が勝手に売ることは間違っている。撮った写真はスマホに残しておいた。次もし会った時はただじゃ済まないぞ、と脅しをかけるような気持ちだった。
 次の朝、昼前のバスに乗って自宅へ帰った。すぐにストラップを緩衝材に包み送る。普通郵便で八十四円だった。


 あの夜以来、初めて小野君を予備校で見た。私の授業を受けていたわけではなく、廊下でちらっと見かけただけだったが。その時は声もかけなかった。
 私は少し安心した。とりあえず予備校に来ているということは受験勉強を完全に止めたわけではないのだろう。予備校講師の勧めで参考書やらをトリバイで売って受験勉強を止めたなんてことになると、これは少し問題になりそうな話である(ただし私は間違ったことを言ったとは思ってはいない。需要と供給のバランスが崩れるくらいなら物事を正しい方向へ進めるべきだと思う)。
 春は思っていた通りすぐに終わり、街は例年よりもずっと早く梅雨入りした。何だか少し損をしたような気持ちになった。今の御時世、どこに出掛けるということもないけれど、もう少しちょうど良い季節を与えてくれてもいいのにと思った。私は暑いのも寒いのも好きではない。二十一時半、雨が降っていると思い傘を片手に予備校を出る。でも雨は降っておらず、小野君があの日あの時とまったく同じ位置に座っていた。
「まさかまた家出?」
 声をかけると「遅いよ」と言われた。遅いも何も約束をした覚えがない。
「またご飯行こうよ」
「あのねぇ」
「できれば居酒屋に行きたいな」
「この時間じゃどこも開いてないよ」
「え、そうなの?」
 また新型のウイルスの感染者数が増えていて、最近は二十一時にはだいたいの飲食店が閉まる。確かお酒の提供も規制されているはずだ。
「だいたいなんで居酒屋なのよ。あなたまだ未成年でしょ」
「お酒は飲めないけどさ、なんて言うか、あの独特の雰囲気を味わってみたいって思ったんだよ」
「私もお酒はあんまり飲めないよ」
「ね、一応本当に開いてないか駅の反対側まで見に行ってみようよ」
 駅の反対側には居酒屋が幾つか集まる区間があった。開いていないとは思うが、普段は全然行かない辺りなので絶対に閉まっているとも言い切れなかった。それで反対側まで歩いてみる。予想通り居酒屋はどこも閉まっていた。マクドナルドでさえも店内での飲食を中止していた。この感じだとおそらくこの前小野君と行ったファミレスも閉まっているだろう。感染が広がっている中、今は仕方がないのだが、シャッターの閉まった街並みを歩くのは少し気が滅入る。世界はこれからどうなってしまうのだろうなんて考えてしまう。「本当にどこも開いてないなぁ」と小野君は残念そうに言った。
「そこのコンビニでコーヒーくらい買ってあげるよ。今日はそれで帰りなさい」
 小野君は不服そうではあったがそれしか選択肢が無いのも事実で、仕方なく頷いた。私が缶のブラックコーヒーを選ぶと小野君も同じ物を選んだ。しかしいざ飲んでみると「ブラックってこんな苦いんだ」と綺麗な顔をくしゃっとしかめて言った。
「何でブラックにしたのよ」
「飲んだことなかったから試してみようと思って」
「それで結果合わなかったと」
 小野君は苦笑いで頷く。
「まぁ、これは自分なりの模索だね。俺、この前何でも手に入ったって言ってたでしょ? でももちろん持ってない物もたくさんあるんだよ。それはけっきょく自分も周りも特に望んでこなかった物なんだけどね。今はそういう物、物だけじゃなくて経験もそうだけど、少しでも興味を持てたらとにかくチャレンジしてみようと思って。そうすれば自分が本当に欲しい物が見えてくるかなってね」
「良い心がけだと思うよ。チャレンジしてみて自分に合わない物はまた売ればいいんだから。コーヒーは飲んだらなくなっちゃうけど」
 小野君は頷き、ブラックコーヒーをぐびっと飲んだ。無理をしている感じだった。
「受験はどうする気なの?」
「どうしよう。正直迷ってる。親にはまだ何も言ってないけど」
「それは早く言った方がいいと思うよ。急に受験するのを止めるなんて言ったら多分驚くと思うから」
「うん。ただ、持ってた参考書類はもう全部売っちゃったけどね」
「そんなの必要になればまた買えばいいのよ。今要らないと思うなら売って正解だったと思うよ」
 そう言うと小野君は「やっぱり先生はちょっと変わってるよ」と笑った。心外だった。私は別に変なことを言っていない。要る物は要る、要らない物は要らない。ただそれだけの話だ。
 ポケットでスマホが震えたので見てみると、思っていた通り先日売ったストラップの受領通知だった。購入者が商品を確認したらトリバイから出品者に受領通知のメールが届く仕組みになっていた。これで売上が出品者に入り取引終了となるのだ。ストラップを発送した日から考えて、そろそろ来る頃合いだと思っていた。
「何にやにやしてるの。もしかして彼氏からの連絡?」
「違う。トリバイの受領通知。彼氏なんていないよ」
「なんだ」
「ねぇ、私、そんなににやにやしてた?」
「してたよ。何か、嬉しそうな顔だった」
 小野君はそう言って私の顔をじっと見た。私は目を逸らして「ふぅん」と流してみたものの少し恥ずかしかった。その時、ピンクの髪が私達の横を通り過ぎ、コンビニに入る手前でピタっと足を止めてこちらを振り返った。
「マチちゃん?」
 あかねさんだった。
「あぁ、どうも」
 と、急なあかねさんの登場に私の声はかなり戸惑い気味だった。あかねさんは私の隣にいる小野君を見て「あ、この前の彼氏?」と嬉しそうに言った。今日のあかねさんは髪を後ろで束ねて青のワンピースを着ていた。大人っぽい感じで、私はまたも今までに会ったあかねさんとは違う印象を受けた。この人はいったいどれだけの自分を持っているのか。
「違います。私、彼氏なんていません」
 と、数分前も同じことを言ったような気がする。あかねさんは構わず小野君に「どうも」と会釈し、小野君もそれに返す。客観的に二人を見ると美男美女で、何だか私だけが場違いのように思えた。気を取り直して「予備校の生徒ですよ」と説明する。
「へぇ、受験生なんだ」
「まぁ一応。ギリギリですけどね」
「何よ、ギリギリって。ウケる」
 と、あかねさんは笑う。何となくこの二人は気が合いそうだなと思った。「じゃあ、私商品の受け取りがあるから」と、あかねさんは手を振ってコンビニの中に入って行った。私がコンビニで商品を送るのと同じようにコンビニで商品を受け取る人もいるのだな、と当たり前のことなのだがそんなことを改めて思った。
「先生の友達?」
「友達ってほどじゃないけど。そうだ、小野君、キューズってアイドルグループ知ってる?」
「いや、知らない。俺そういうのあんまり詳しくないから」
「そっか」
 コンビニの中を覗き込むとレジに立つあかねさんが見えた。コンビニ受け取り用のサービス「トリバイ便スタイル」専用の発送用ダンボールを三つも受け取っている。受領のサインをするあかねさんはにやにやした笑みを浮かべていた。受領通知を確認していた時、私もこんな顔をしていたのだろうか。


 深夜、私が出品していたヴァレンティノのイヤリング(実家に帰った時、要らないからとお母さんにもらったものだ)にコメントが付いた。
「すみません。三千五百円への値下げは厳しいですかー? 即決いたします」
 五千円からいきなり三千五百円への値下げ要請。ちょっと図々しくもあるが、出品してからもう一週間が経ち、いいね! もあまり付いていなかったのでまったく飲めない話ではなかった。コメントを付けてきたシルクスキーさん、そのアカウント名には見覚えがあった。アクセサリー関係をよく出品している人だ。
「転売目的のために値切るのはやめてください」
 と、私が対応を考えていたら別の人がまたコメントを付けてきた。鋭いコメント。自分が言われたわけでもないのに緊張した。アカウント名、KSKさん。アイコンは名前は知らないがどこかで見たことのあるアニメのキャラクターだった。
「あのー、別にKSKさんには関係ないですよね?」
 と、シルクスキーさんの返信は早かった。
「関係ないかもしれないけど見ていて気分が悪いんです。あなた、どうせ転売するために買うんでしょ?」
「転売転売って、そんなに悪いですか? 別に買った物を無駄にするわけでもないですし、ちゃんと誰かに売るんですよ? 失礼ですけど、私の方がマチさんよりフォロワー数も多いから商品も売れやすいですし、物とそれを欲しい人の間に誰かが入ることはそんなに悪ですか」
 トリバイでは、何かを出品したら自動的にその人をフォローしているフォロワーに通知が届く仕組みになっていた。だからフォロワー数が多い方が商品が売れやすいというのは事実だ。見てみると、シルクスキーさんのフォロワー数は確かに私よりもはるかに多かった。
 ただ、露骨な転売行為はトリバイ上では禁止されている。運営が一つ一つの取引をチェックできているわけではなくアラートレベルではあるが、販売行為はあくまで「自分が使用するつもりだったもの」「自分が使用しなくなったもの」に対してでなければならない。そもそも細かい話、正当に転売を行うためには古物商許可が必要だ(物によっては転売そのものが禁止されている場合があるが)。多分、シルクスキーさんはそのことを知らないで話している。
「綺麗事言わないでください。それでマージンを取って儲けているくせに」
「手間がかかることにマージンが発生するのは当たり前でしょ」
「じゃあそんな手間がかかることはやめたらいいじゃないですか。あなたの行為は商品を汚しているだけです」
「は? 意味分からないんだけど。汚してるって何? 転売だろうとなんだろうと、綺麗な商品は綺麗なまま届くよ。何が問題なの? 全然分からない」
「転売目的で商品を購入することはいわば奴隷の人身売買と同じです。ただ売られるのを待つためだけにあなたみたいな人に保有されるわけなんだから。どうせ買ったって一度も使わないんでしょ? だって、あなたが欲しいのはヴァレンティノのイヤリングじゃなくて売上のマージンなんですものね。私はそのための物の売買が正しい取引だとはどうしても思えません」
「ほんとウザいんだけど。最終的にはちゃんと欲しい人に欲しい物を届けるんだから別に文句無いでしょ。売れないでずっと残ってるより全然いいじゃない」
「自惚れないでください。あなたみたいな人がいなくても、いつかちゃんとそれを欲しがる人が現れますよ」
「もういいよ。あんたみたいなのと言い合ったってマジで時間の無駄。そんなに転売が気に食わないならそもそもフリマアプリになんか来ないで実際のお店で買ったら? 言っておくけど、実際のお店だって別のどこかから仕入れた物を売っているんだからね。それは良くて転売はダメって考え方もよく分からないんだけど、もういいわ。マジで腹立つ。別にこのままの値段でいいから買うわ」
 シルクスキーさんがそうコメントした次の瞬間、KSKさんが私のヴァレンティノのイヤリングを購入した。購入済みの商品にはそれ以上はコメントできない。それで二人の会話は唐突に終わった。
 KSKさんから「よろしくお願いします」とシンプルな取引メッセージが来た。さっきの一連のやり取りを見ていたから何だか怖かった。「コメント欄を荒らしてしまい申し訳ありません。あの人、前から気になってたんです」と、続いてメッセージが来る。「ああいう人がいると正当な取引ができなくなってしまうので困ります。しかも転売が悪いって自覚全然なかったんですね。頭が悪いとしか思えないです。さっきのコメントがあの人の転売行為の証拠になると思うので、運営にも報告しておきますね」と、ぽんぽんとKSKさんからのコメントが続く。「報告しておきますね」と言われても、嬉しくも何ともなかった。これは、私のために報告しておくという意味なのだろうか? だとしたら私は別にそんなことを望んでいない。
 二人の一連のやり取りを見て、私はどちらかというとKSKさんの方に嫌悪感を抱いていた。
 もちろん転売行為を繰り返すシルクスキーさんは良くない。意見としてはKSKさんの言っていることの方が正しいと思う。転売なんかしなくてもいずれ商品はそれを望む人のところに届くはずだ。だから悪戯に値段を上げる転売行為は止めるべきだという気持ちも分かる。だがしかし、私の商品を購入したことに対しては納得がいかなかった。
 転売目的で商品を購入することは奴隷の人身売買と同じだとKSKさんは言った。しかし、転売だろうが何だろうが、例えそれを人身売買と呼ぼうが、物の売買、需要と供給という意味では、その取引は正しい方向へ進んでいる。私は単純に物を、それを欲しがっている誰かに売るという行為に対しての考え方としてはシルクスキーさんの言っていることが間違っているとは思わなかった。ルール違反を咎めたい気持ちは分かる。それを防ぎたいのも分かる。ただ、大事なことは商品がそれを必要としている人の手元にちゃんと届くことである。そこがブレたら全ての話がおかしくなる。強引に購入した私の商品をKSKさんはどうするつもりなのだろうか? 一度も使わないのはKSKさんも同じではないのだろうか? いずれもったいなくなってリサイクルショップなんかに売るのであろうか? であれば、それはある意味シルクスキーさんの転売よりも間違った行為だと私には思えた。
 私は初めて「売る」ことを躊躇した。この取引はどう考えても間違っている。私は納得できないことを納得するのが苦手だ。どんな方向から考えてみても納得できないことはやはり納得できない。
 迷ったが、私は商品の破損を発見したと嘘をつき、KSKさんに取引の中止をお願いした。取引の中止は双方が合意したうえで初めて成立する。KSKさんとしてもやはり特別欲しかった物ではなかったのだろう。あっさり取引の中止に応じた。
 私は出品中の商品からヴァレンティノのイヤリングを削除して、ベッドの上、頭から布団をかぶった。


 授業終わりに室長から面談室に呼び出されたのは、今の生徒達の状況を聞くだとか、夏期講習に向けた個別の相談だとか、そういう理由でだと思った。だから、難国Sの担当を外れてほしいと言われた時は耳を疑った。すぐに理解ができなかった。
「何でなんですか?」
 絞り出された言葉が声になる。今自分がどんな顔をしているのか想像がつかなかった。
 自惚れているわけではないが、私ほど上手に数学の知識を売れる講師はこの予備校にはいない。その私が一番難しい授業を受け持つのは当然で、理にかなったことだと思う。それ以外に選択肢が無いと言ってもいいくらいだ。
「いや、別に完全に外れてくれと言っているわけじゃないんだよ」
 室長はそう言って頭を掻く。室長の大原さん。身体つきがいいのか太っているのか判断しづらい体型で、とりあえずいつも半袖のカッターシャツがぱつんぱつんになっている。以前、私と干支が同じだと言っていたのでおそらく今四十一歳だ。この教室の室長になったのは二年前で、その頃と比べると少し髪が薄くなったような気がする。確かこの春から娘さんが中学に上がったと言っていた。
「完全に、とは?」
「藤田先生の作る独自の教材は分かりやすいって評判だし、そこは今まで通り作成をお願いしたいんだよ。でも、教壇に立って教えるところだけは豊橋先生に代わってもらおうかと思ってて」
 言っている意味が分からなかった。教壇に立って教えるだけ、なんて言うが、それこそが予備校講師のメインの仕事ではないのか。正しくは教材を作成するだけ、を私に任せたいという話ではないのか、と思った時に初めて自分が気を遣われているのだということに気付いた。
 豊橋先生は室長と同じくらいの年齢の男の人で。丸い眼鏡とカーディガンがトレードマークの先輩講師だ。物腰も柔らかく面倒見もいい人だが、こと数学の知識に関して言えば私の方が数段上だ。
「なぜそんなことをするんですか? 私が授業をすることが何か問題ですか?」
「いや、問題というか」
 と、言って室長は言葉を切る。私は納得がいかなかった。私が作る教材はあくまで私の知識を上手く生徒達に伝えるためのツールであり、他の誰かの知識伝達の助けをするものでは断じてない。不穏な空気が面談室に流れる。やがて室長は観念したかのように話し出した。
「ちょっとね、藤田先生にクレームが入ってるんだよ」
「クレーム?」
 突拍子もない言葉に驚いた。
「あ、授業自体は何も問題無いんだよ。成果も出てるし、僕としてもありがたいくらいなんだ」
「だったら何のクレームがあるんですか?」
「ほら、藤田先生って、進路相談に来た生徒に対してけっこう冷たいとこあるじゃない」
 そう言われて私は狐につままれたような気持ちになった。進路相談。それがいったいどうしたというのだ。
「どこの学部がおすすめかとか、今の自分の学力だったらどこを受けたらいいかとか。生徒のそういう相談に藤田先生はいつも自分で考えなさいって答えるでしょ? 僕もね、それはちょっとどうかと思ってたんだ」
「お言葉ですが、室長。私達の仕事はそれぞれの特化した教科の知識を生徒に伝えることであって、それをもってどこの大学を受けるかという話は生徒側の問題ではないですか?」
「いや、まぁ藤田先生の言うことも分かるんだけどね。受験生としてはやっぱりそういうところの相談にも乗ってほしいんだよ。みんな不安を抱えてるわけだからさ。僕等としてもちゃんと後悔のない大学を選んで受かってほしいじゃない? だからそのための相談にはちゃんと乗らないとね」
 私は溜息をついてしまいそうだったが、我慢して「はぁ」と答えた。結果、溜息とあまり変わらないような声だった。
「進路相談に対して藤田先生にそういう対応をされたってクレームが予備校に何件か入ってるんだよ。中にはけっこう怒ってる人もいて、それはちょっとややこしい親御さんなんだけど、予備校側としても何らかの対応を求められていて、納得できない気持ちも分かるんだけどとりあえず一度担当を外れてほしい。申し訳ないんだけど、少なくとも教壇に立つ部分は」
 そこまではっきりと言われてしまうともう引き下がらざるを得ない。納得はできていない。だけど、もうどうしようもないことなのだということは理解できた。豊橋先生に担当を代わるのは来月からとのこと。今月いっぱいはまだ私が教壇に立つ。
 そんな話を聞いた後でも、私はいつも通り次の授業の準備をした。生徒達に知識を伝えるための資料を作った。二十三時、退勤して外に出ると真っ暗だが梅雨の中休みの雲一つない六月の空がどこまでも広がっていた。気持ちの良い夜だったのだが、心のもやもやは消えない。私は思った以上にショックを受けていた。
 飲めないが、お酒を飲みたいと思った。こんなことは生まれて初めてだった。コンビニで銀色の缶ビールを二本買って帰った。玄関のドアを開け、真っ暗な部屋の電気をつける。生命力を取り戻したかのようにLEDは光り輝いたが、逆に私はどっと疲れた。力なく床に座り込み、缶ビールの一本目を一気に半分くらいまで飲んだ。ビールを飲むのは入社した時の新人歓迎の飲み会以来で、思えば七年ぶりだった。相変わらず美味しくない。こんなものを好んで飲む人の気が知れなかった。なんとか無理をして一本は飲んだが、もう一本飲む気にはなれずそのまま冷蔵庫に入れた。
 少し気分が悪くてフローリングの床に横になる。担当を外されたことについて、未だに納得はできず悔しいのだが、それよりも今はなぜか教育実習の記憶が蘇った。結城君と奄美君。未だに顔も名前もちゃんと覚えている。私はまたあの壁にぶつかったのだ。
 なぜ、何をどうしても変なところで足を引っ張られてしまうのか。数学の知識を売りたい。ただそれだけなのになぜそれだけではいさせてくれないのか。喧嘩の仲裁? 進路相談? そんなものは私の仕事ではない。私の売るものではない。頼むから集中させてくれ。混じり気の無い需要と供給の中でパフォーマンスをさせてくれ。ただただ送るからそれをただただ受け取ってくれ。それ以外のことを私に要求しないでくれ。横になったままの視線の高さで冷蔵庫が見えた。「売りたい」と思った。
 私は起き上がり冷蔵庫の中身を全て取り出した(とは言ってもほとんど何も入っていなかったが)。外見も中の様子も写真に撮りまくる。無音の部屋に乾いたシャッター音だけが響き続けた。必死だった。とにかく何かを売って自分を証明したかった。
「シャープ製です。三年前に購入しました。動作確認済みです。問題なく動きます。目立った傷、汚れはありません」
 大型商品となるので、調べたら送料が八千円もかかった。私はこんな大きな物を売るのは初めてだった。送料込み二万五千円で出品すると、意外にも三十分で売れた。
 時計を見るといつの間にかもう深夜一時過ぎだった。さすがにこの時間から冷蔵庫を発送する気力は残っていなかった。コンセントを抜き、ダメになりそうな物だけ捨てた。そのまま冷たいフローリングの上で眠った。


 次の休みの日、私としては珍しく昼前まで寝過ごしてしまった。
 特別な予定があったわけでもないのだが、何となく損をした気持ちになった。いつもなら今くらいの時間にはもうショッピングモールのフードコートで参考書を開いているのに、と思った瞬間、難国Sの担当を外されたことを思い出して心臓がきゅっと締めつけられた。
 別にあの授業を外されたからといって私の商品価値がゼロになったわけではない。もちろん今でも知識のメンテナンスは必要で、ちゃんと行うべきなのだが、寝坊をしたのも相まってか今日はどうしても参考書を開く気になれなかった。
 花見さんからメッセージが来ていた。「担当交代のこと聞いたよ。俺もちょっとどうかと思うとこあるよ。藤田、大丈夫か?」と、花見さんが本気で心配してくれているのは分かるのだが、私としては正直言って傷口に塩を塗られた気分だった。悪いとは思いつつそのまま既読スルーした。
 水道水をコップに注いで飲む。冷蔵庫がなくなってから数日が経つ。ぬるい水を飲むのにも慣れてきた。天気が良かったので洗濯を回すことにした。バサっとまとめて洗濯物を洗濯機に放り込み、洗剤と柔軟剤を入れてスイッチを押す。それでやることがなくなった。思えばショッピングモールに行かない休日なんて何年ぶりだろう。
 仕事の時も含め普段この時間に家にいることがほとんどないので、明るい部屋はなんだか自分の部屋ではないどこか違う場所のように思えた。ベランダに続く大きな窓から透明な陽の光が部屋の中に差し込む。フローリングの茶色が私の知っている夜のそれとは違った。そういえば私はそもそも陽当たりが良いところが気に入ってこの部屋に決めたのだった。そんなこともうずっと忘れていた。
 やがて洗濯が終わりベランダに洗濯物を干す。風も適度に吹いていて、この分だと夕方には十分乾くだろうと思った。洗濯物を干して部屋に戻るとまたやることがなかった。部屋の中は世界中の空白を詰め込んだかのように無音だった。今週、私は冷蔵庫に続きテレビも売った。だから今部屋の中で音を発することのできる物はスマホとパソコンくらいである。それとあと私か。その三つが何も言わない限りこの部屋はずっと無音だ。
 パソコン。
 そうだ、いっそもうパソコンも売ろうか。インターネットはスマホで見ることができるし、CDのインポートだって最近はしていない。仕事は予備校のパソコンでやる。じゃあもう要らないではないか、と一度頭によぎるとそこからは早かった。私はカシャカシャとパソコンを全方位から写真に撮る。鋭いシャッター音を浴びたパソコンは急に襲われた小動物みたく怯えているように見えた。だが許してほしい。これがサバンナのやり方なのだ。そして私はサバンナで生きていける人間だ。あなたを売ってそれをまた証明したいのだ。
 パソコンを出品してスマホをテーブルに置きトイレに立つ。すぐにテーブルの上でスマホが震える音が聞こえた。まさかもう売れたのか、と思い急いで見に行ってみるとトリバイの通知ではなく普通のメッセージの受信だった。小野君からだった。まさか小野君も私の担当交代のことを知っているのか? と一瞬思ったがおそらくそれはないだろう。普段、担当講師の交代を事前に生徒に告知することはないし、そもそも小野君は私の授業を受講していない。
 メッセージの内容は意外なものだった。「先生のこの前の友達、キューズってアイドルの人、なんか大変なことになってるよ」という文面の下にURLのリンクが貼られていた。いったい何の話だ? と思いリンク先に飛んでみると、「Quesの桜町未来、ロリータコスチュームでガールズバー勤務報道。所属事務所は桜町未来のグループ脱退、解雇を発表」という衝撃的な見出しが目に入った。非日常的な鋭い単語達に一瞬頭が追いつかず、私は「脱退」「解雇」と口に出して事の重大さを確認する。記事を読み進めると、どういう店で、いつから勤務していただとか、接客されたお客さんの声だとか(そこにはできる限りのいやらしい言葉が散りばめられていた)、そんなことが書かれていた。私は少なからずあかねさんを知っているので、記事に書かれていることは本人の悪気の有無は別にしておそらく全て事実だろうと思った。こういう芸能記事なんてだいたいは嘘や噂話だと思っていたのだが、ちゃんと本当のことを書いていることもあるのだ。記事の最後は「グループは来月に配信限定のシングル発売を予定している。現状このシングルの発売の可否について所属事務所は何も言及していないが、最悪発売中止の可能性もある。違約金の問題もあるが、グループとしてもこれからだという時にこの不祥事はあまりにも痛い」という言葉で締め括られていた。
 私は記事のページを消してスマホをテーブルの上に置いた。いつかこんなことになるということはあかねさんだって心のどこかで分かっていたはずだ。
 人が売れる物の絶対量に限界があるように、人が買える物の絶対量にも限界があると私は思っている。欲張っていろいろな物を買い込んで、結果全てを失ってしまうだなんてあまりにも馬鹿らしい。正直言ってあかねさんに同情の余地はないと思った。溜息をつく。小野君に「大変みたいだね」とだけメッセージを返し、トリバイで先程出品したパソコンのページをチェックする。いいね! はまだ一つも付いていなかった。
 しかし夕方、やはり少なからずあかねさんのことが気になって、迷った挙句電話をかけてみた。意外? なことにあかねさんはすぐに出た。「もしもーし」なんて明るい声だった。
「報道見て、いろいろ大変なのかなって思って」
「へへ、無職だよ」
 と、あかねさんは笑った。それは無理して笑っているというような感じではなく本心からの笑いに聞こえた。なぜ笑えるのか私には分からなかった。
「大丈夫ですか?」
「うーん。とりあえずお腹が空いたわね。今事務所の人に外出するなって言われてて、コンビニにも行けないのよね」
「食べるもの何もないんですか?」
「ないね。事務所の人が買ってくるとは言ってくれてたけど、癪だからいらないって言っちゃった」
「私、何か買って行きましょうか?」
「本当に? それは助かるわぁ。ありがとう」
 それで私はスマホだけを手に家を出た。今日は自転車であかねさんのマンションを目指す。陽の長くなった夕方は夕方という感じがまったくしなかった。昼のようだった。それでも午後の暑さは霧が晴れるように少しずつ消え、夜にはきっと窓を開けて寝ると寒くなる程度にはなるのだろう。
 覚悟はしていたが、あかねさんの部屋は相変わらず物で溢れていた。この前と同じ位置に通され、同じクッション。そしてこの前と同じようにコーヒーを勧められた。「あの、これ」と言って私はコンビニで買ってきたミックス弁当とパックの野菜ジュースが入ったレジ袋をあかねさんにわたす。何を買って行けばよいのか分からなかったので一番オーソドックスなものを選んだつもりだった。
「ありがとう。お腹空いて死にそうだったぁ。てか、マチちゃんはもう夕飯食べたの? コーヒー淹れちゃったんだけど」
「食べてないですけど大丈夫です。あまりお腹も空いてないんで。気にしないで食べてください」
「あ、そうなんだ」
 別に気を遣わせないために嘘をついた訳ではない。本当にお腹が空いていなかったのだ。それにやはりあかねさんを前にすると少し緊張してしまう。
 あかねさんは早速お弁当を電子レンジで温めて私の前で蓋を開く。食べ物の匂いがふわっと部屋の中に広がった。律儀にいただきます、と手を合わせたところで「あ、そうだ。お金まだだったね」とあかねさんは手を止める。私は別にいいですよと言ったのだが、あかねさんは譲らず、千円札を私に握らせた。
「本当に助かったわ」
 あかねさんはよっぽどお腹が空いていたのか、それなりにボリュームのあったミックス弁当をあっという間に平らげてしまった。私は何と言えばいいのか分からず頷いてコーヒーを飲んだ。
「私、一応あのグループに五年属してたんだけどさぁ、終わるのは本当に一瞬だったわ」
 そう言ってあかねさんは煙草に火をつけてくすくすと笑う。
「小さなネット記事よ。大々的に週刊文春とかフライデーみたいなメジャーな週刊誌にすっぱ抜かれたわけでもなくて。そもそも私そこまで知名度ないしね。そりゃあ、まぁ、若干ツイッターのトレンドには入ったけど、それもほんの一瞬の話で、流れ星みたいなものよ。だけど事務所的にはその流れ星を見た人が多いか少ないかってところじゃなくて、一人でも『いる』ってことが許せないのよね。まぁ、記事は残るからさ、分からなくはないけど。あの記事が出るって連絡が発信元から事務所に入ったのが午前十時で、午後一に呼び出されて、夕方にはもう脱退も解雇も決まってたからね。笑えるわよ。けっきょくメンバーにも一回も会ってないのよ。五年も一緒にやってきたのに」
 あかねさんは誰か他の人の話をして笑っているかのように見えた。でも違う。それは紛れもなくあかねさん自身の話なのだ。
「何で笑ってるんですか?」
 私は耐えきれずに聞いてしまった。
「え、だって笑えるくない?」
「笑えないですよ。あかねさん、今まで積み上げてきた物を全部失ったんですよ」
 アイドルとしての商品価値を失ったんですよ、とまではさすがに言えなかった。でもそうなのだ。アイドルグループの一員としての商品、桜町未来はもういない。
「別に、そんなことはないよ」
「だって脱退で解雇なんですよね?」
「それはそうなんだけど、ほら、見てよこの部屋」
 あかねさんはそう言って指でくるりと部屋の中をなぞった。見渡すとそこにはたくさんの物達が並んでいて、部屋の中心に座る私とあかねさんを囲んでいた。
「ね、脱退させられても解雇させられても皆変わらずここにいるでしょ。これらの物は全部、私。確かにキューズの桜町未来はもういない。それはもちろん私だって残念なのよ。でもあくまでそれは私の一部分の話。全部を失ったわけじゃない。私は私で今ここにちゃんといるし、空っぽになったわけでもなく、密度だって高いと思うよ」
 あかねさんはそう言ってまた煙草に火をつけた。確かにこうして話していてもあかねさんはあかねさんで何も変わっていない。受ける印象としては、髪を切った後のような、爪の色を変えた後のような、そんなくらいの変化に近い。持っていた色を失っても本質は変わらずここにいる。
「何か一つの物に固執するなんて馬鹿馬鹿しいじゃない」
 この前と同じ灰皿がテーブルの上には置いてあって、あかねさんはその上に灰を落とした。本当に何も変わっていない。
 私は「明日は仕事なので今日は帰ります」と言って早々にあかねさんの部屋を出た。帰り道、自分とは思えないくらいの速度で自転車を飛ばす。遠くから誰かが誰がを咎めるクラクションの音が聞こえる。それは私に対してではない。でも無意識のにちに舌打ちをしていた。辺りはもうすっかり暗くて、私はとにかく一秒でも早く自分の部屋に帰り着きたかった。
 扉を開くとそこには出掛ける前と同じままの私の部屋があった。あかねさんの部屋とは比べものにならないくらい物が無い。それはつまりあかねさんの理論で言うと私は空っぽな人間だということになるのか? 本当にここにある物達こそが私だと言うのか? 私は部屋の中を見回す。フローリングの上に直で置かれた電子レンジが目についた。これは三年前に家電量販店の決算セールで買った物だ。ではこの電子レンジは私自身か? いや、違う。これはただの電子レンジだ。それ以上でも以下でもない。ましてや私ではない。私であるはずがない。では私は、私とは、何だ。何なのだ。簡単だ。私は予備校講師で、数学の知識を生徒に伝える人。それが私だ。私はそれをひたすら売り続けることで証明してきた。トリバイにしても同じだ。「売る」ことこそ私が私である証明だった。物を買うことで自分を証明するなんて絶対に間違っている。
 私は難国Sクラスの担当を外された。そしてあかねさんはアイドルグループを脱退処分になったうえに事務所まで解雇された。規模の大小はあれど、二人とも何かを失ったのは同じだ。なのになぜ、あかねさんはあんなふうに笑っていられるのか? 私は正直に言って、室長に担当交代を告げられた日からずっと苦しくて仕方がなかった。私は自分が何も売れなくなることが一番怖い。「何か一つの物に固執するなんて馬鹿馬鹿しいじゃない」とあかねさんは言っていた。私だ。それは私だ。私は「売る」ためにずっと自分を尖らせてきた(それはやはりいつか花見さんが言っていたミニマリストとは違う)。それ以外の私なんて私は知らない。何も売れない私は死んだも同然だ。死ぬ。サバンナでは生きていけない。喉が乾いて水道水を飲む。私は初めて泣いた。


 俺、やっぱ予備校辞めるわ、と小野君から電話がかかってきたのはちょうど授業終わりの自動販売機の前、紙コップにコーヒーが注がれるのを待っている時だった。
「どうしたのよ、急に」
「ん、まぁ、ちょっと親とゴタゴタがあって」
「受験したくないって言ったの?」
「うん。そしたら両親ともに血相変えて大変だった」
 血相を変えた、か。親としては正しいリアクションだと思う。まぁ、小野君は成績も良かったし期待をしていたのだろう。この流れで私も難国Sの担当を外されたことを言おうかと思ったがそれはやめておいた。
「参考書をトリバイで売ったこととかも全部話したよ」
「あぁ、そう。怒ってたでしょ?」
「怒ってた。そりゃそうだよね」
「まぁね。で、それで予備校辞めることになったの? なったっていうかそれって多分小野君の意思よね」
「うん。親が正式に認めたわけじゃないけど、俺はもう行くつもりはない」
「そう。それでこれからどうするつもりなの?」
「分からないけど、とりあえず高校はちゃんと卒業するつもり」
 そう言われて初めて小野君はまだ高校生なのだということを思い出した。じゃあ何だと思っていたのだという話なのだが。
 電話を切り、もうひと頑張り次の授業の準備(担当交代を告げられた後も私は変わらず授業に取り組んでいた)をして帰ろうと思っていたらまた電話がかかってきた。今度はあかねさんからだった。
「マチちゃーん。お疲れ様。まだ仕事中?」
 相変わらずの明るい声だった。外からの電話のようで、後ろで車が走る音が聞こえた。
「授業は終わりましたけど、まだ職場です。どうしたんですか?」
「実は家追い出されちゃってさぁ。あのマンション、事務所の契約だったのよね。で、解雇されたからいられなくなっちゃって」
「はぁ」
「とりあえず今マチちゃんの家向かってるんだけどさぁ。何時くらいに帰ってくる?」
「え、二十二時半くらいには帰れると思いますけど」
「そっか。じゃとりあえず家の前で待ってるわ。仕事頑張ってー」
 それだけ言ってあかねさんは電話を切った。私の家の前で待つ? わけが分からない。
 とりあえずやろうと思っていた授業の準備をしようと思ったのだが、あかねさんのことが気になって上手く仕事に集中できなかった。けっきょく、三十分頑張ったが私は仕事を諦めた。急いで家に帰ると私の部屋のドアの前に大きなスーツケースが置いてあった。近づいてみるとそれは二つあって、その間にあかねさんが座り込んでいた。「お疲れ様」と私を見て笑う。少し疲れているように見えた。
「大丈夫ですか?」
「うん。まぁ、とりあえずさ、ご飯食べない?」
 そう言ってあかねさんはコンビニのレジ袋に入ったお弁当を私に差し出した。私は戸惑いながらもそれを受け取る。中には唐揚げ弁当が二つとこの前私が買ってきたものと同じ野菜ジュースが二つ入っていた。
「え、ここに住んでるの?」
 私の部屋に入ったあかねさんは悲鳴に近い驚きの声を上げた。
「そうですよ」
「だって、冷蔵庫は?」
「無いです。その都度食べる物買って食べるんで保存しておく必要ないですし」
「でもテレビとか」
「無いですよ。見ないですから」
「いったいどんな暮らししてんのよ」
 あかねさんは驚きで口が開いたままになっていた。でもお互い様だ。私もあかねさんの家に初めて行った時は相当驚いた。電子レンジも売ってしまっていたので、私達はお弁当を温めずにそのまま食べた。あかねさんの持ってきた二つのスーツケースは部屋の隅に置いていた。その大きさは異様な威圧感があって、まるであかねさんのボディーガードが二人部屋の隅に立っているようで落ち着かなかった。
「単刀直入に言うけど、しばらくここに置いてもらいたいのよ」
 あかねさんがそう言ったのは二人ともお弁当を食べ終わり一息ついた時だった。
「ここにですか」
 と、言いつつ何となくそんな予感はしていた。
「そう、ここに。お願い。次に住む場所が決まるまででいいから」
「でも、狭いですよ」
 なぜか最初にそんな言葉が出た。もっと他に言うべきことがあるような気がするのだが。
「別に私はそんなこと気にしない」
「そうですか。で、あれば、まぁ」
 と私が言うと、あかねさんは「わあ、ありがとう」と言ってテーブルの上を乗り出して私を抱きしめた。いい匂いがして、頭が一瞬くらっとした。今日からよろしくね、と耳元であかねさんの声がして私は壊れた人形のようにこくこくと頷いた。
 ただ、私としてはいろいろと現実的な心配もあった。何せ私の家には物がない。最低限(おそらくあかねさんにとっては最低限の基準よりもはるか下)の物しかない。別にそこに対して何の文句を言われる筋合いも無いし、別に言わないと思うのだが、現実的にベッドは一つしかないし、今やコップだって一つしかない。そのことをあかねさんに伝えると、「あぁ、心配しないで」と言って部屋の隅からスーツケースを持ってきてその中から毛布やらマグカップやらを取り出してテーブルの上に置いた。「とりあえず必需品は持ってきたから」と言って笑うのだが、その量がまた尋常じゃない。毛布はキティちゃんとキキララが一枚ずつで計二枚、マグカップなんて一つあれば事足りるのに不思議の国のアリスの五つセットのものをまるまる持ってきていた。
 あかねさんはそのままの勢いでスーツケースの中身をどんどんテーブルに出していく。机の上はあっという間に物でいっぱいになってしまったのだが、それでもまだ一つ目のスーツケースの半分程度の量だった。
「スーツケースに入りきらなかった物はいったん貸倉庫に預けてるのよ」
 その言葉を聞いて私は嫌な予感がしたのだが、その予感は見事に的中してしまう。

 次の日から毎日あかねさんはスーツケースを使ってその貸倉庫から私の部屋に物を運んできた。
 仕事から帰ると朝と比べて明らかに部屋の中の物が増えている。「おかえり」と明るい声で出迎えてくれるあかねさん。その日によってご飯を作ってくれていたり買ってきてくれていたりした。昨日までは無かった冷蔵庫から冷たいジュースを取り出して、初めて見るガラスのコップに注いでくれた。「揚げ物はレンジで温めるよりオーブンでやる方がカリッとしていいよ」とスーパーのお惣菜の唐揚げをレンジではなくオーブンで温める。ついこの間までそんなものはどちらもなかった。
 気付いたら三百六十度どこを見てもぬいぐるみに囲まれていた。壁にはポスターが貼られ、フローリングの床には肌触りの良いカーペットが敷かれている。洗面所には大量の化粧品が所狭しと並べられ、まるで映画の中の世界のようだった。タオル掛けにはいかにも性能の良さそうな大きなドライヤーが掛けられていて、私の元々持っていた小さなドライヤーは端っこに追いやられていた。不憫だった。一週間も経たないうちに私の部屋はあかねさん色に染まっていた。
「わ、どしたのこれ?」
 と、日曜日の午後にふらっと遊びに来た小野君は部屋を見て驚いた。
 驚くのも無理はない。前に小野君が見た私の部屋とはギャップがあり過ぎる。その時、私達はあかねさんが午前中に貸倉庫から持ち帰った荷物の荷解きをしていた(私は別にこの状況を受け入れていたわけではないのだが、目まぐるしく搬入される物達に頭が付いていけなくて、あかねさんに言われるがままに物を指定される場所に並べていた)。
「あ、いつかの受験生」
 あかねさんは髪を頭の上で括り、白ティーシャツ、下はアディダスのハーフパンツというラフな格好だった。
「確か、あの、キューズの……」
「もうクビになったけどね。あなたも手伝いなさい」
 と、言われなぜか小野君まで巻き込まれる。
 ドンマイ、小野君と思っていたのだが、意外と小野君は楽しそうだった。
「これ、懐かしいね」
 と、小野君はポムポムプリンのぬいぐるみを見て笑う。
「若いのにそんなの知ってるんだ」
「うん。小さい頃テレビで見てた」
「うそ。テレビでやってたんだ」
 と、なんだか二人は楽しそう。考えてみれば、小野君は今いろいろな物に触れていろいろなことを知りたい時期で、一方のあかねさんは尋常じゃないくらいたくさんの物を持っている。ぴったりではないか。
 その日以来、小野君も頻繁に私の家に来るようになった。毎日仕事から帰ると、二人してたくさんの物に囲まれて笑っていた。「おかえり」と二人は言ってくれるものの、もはや私の部屋は私の部屋であって私の部屋ではなくなっていた。
 部屋の中は宇宙のようだった。私は寝ても覚めても小惑星に囲まれて宇宙空間を漂っているような感じがして、気持ちがまったく休まらなかった。
「マチちゃんて、本当に仕事大変なのね」
 と、言ってあかねさんは二十三時に帰ってきた私に自作の野菜炒めを出してくれた。あかねさんの料理は意外と美味しい(失礼な言い方だけど)。塩と胡椒しかなかった台所にも今や様々な種類の調味料が置いてあって、おそらくあれを上手く組み合わせて料理をしているのだろう。ご飯だって美味しい。私は長年パックのご飯かコンビニ弁当のご飯しか食べていなかったのだが、炊飯器(しかも釜炊き)で炊くご飯がこんなに美味しいものだとは思わなかった。
「そんなに頑張って身体壊さないの?」
 と、二十三時にもかかわらずまだ小野君もいる。ポチャッコのぬいぐるみを手で遊んでいた。普通に考えて高校生がフラついていていい時間ではないのだが、二人があまりに楽しそうなので私は注意することができなかった。
「大丈夫。何とかやってますよ」
 私はそう言って野菜炒めを食べる。やっぱり美味しい。カップ麺やコンビニ弁当より格段に美味しい。
「あんまり無理しちゃダメよ」
「そうそう。身体が資本だからね」
 なんて二人は毎日帰りの遅い私の身体を心配してくれる。確かに担当交代まであと二週間で、私は以前にも増して授業の準備に力を入れていた。
 深夜一時、小野君がそろそろ帰るよ、と言って立ち上がり、同時にあかねさんもコンビニで荷物を受け取って来るね、と言って、二人揃って部屋から出て行った。それで一気に部屋の中が静かになる。でもうるさかった。見渡すといろいろな物がある。私は何だか、自分があかねさんの身体の中にいるような感覚を覚えた。私もあかねさんの一部になったよう感覚。実際、もうすでにそうなのかもしれない。こうやって黙って座っていると私もぬいぐるみ達も何も違いがない。そんなことを思った。少し疲れていた。


 その二日後、二人の心配は現実のものとなってしまう。私は高熱を出して倒れてしまった。
 授業がある日の朝、いつも通りの時間に起きたのだが、どうも身体がだるい。食欲もまったくなくて、額に手を当てると熱かった。悪いとは思ったのだが、まだ眠っているあかねさんを起こして体温計を持っていないかを聞いた。思っていた通りあかねさんは体温計を持っていて(セーラームーンの柄だだった)、測ってみると三十九度も熱があった。
「うわー、言わんこっちゃない」
 と、あかねさんは顔を顰めた。私は体温計に表示された数字を見てドッとしんどさが増し、何も言い返すことができなかった。
 最近は新型ウイルスのことがあるので熱があるのであれば職場に行ってはいけないことになっている。さらに解熱後一週間は自宅待機をしなければならないことになっていた。担当交代まで授業数も残り少ない。無念ではあったのだが、ルールはルールなので私は泣く泣く室長に欠勤の連絡を入れた。
 私は本当に泣いていた。商品を送る準備は完璧なのに、発送ができないというのは悔しいことだ。室長は無理するなよ、と優しい言葉をかけてくれたが、念のためPCR検査だけは受けておいてくれ、と現実的なことも言っていた。PCR検査か、それは確かにそうである。
「病院、行かないと」
 私は絞り出すような声であかねさんに言った。
「ちょっと、フラフラじゃない。大丈夫なの? 付いて行くよ」
「いや、大丈夫です。うつしたら悪いですし。タクシーだけ呼んでもらえますか?」
「えー。本当に大丈夫?」
 あかねさんがそんなに言うのだから私は相当しんどそうに見えるのだろう、と少し客観的なことを考えられるくらいの思考的余裕はあったものの、身体は本当に重く、生暖かい固まりとなってベッドに沈んでいた。その後もあかねさんは何度も付いて行くと言ってくれたのだが、けっきょく私はそれを断って一人でタクシーに乗り、最寄りの病院に行った。行ってみて分かったのだが、今は風邪症状の診察の場合、事前の連絡が必要らしかった。私は病院の外で待たされ、同居者に同様の症状を持つ人がいないかや、この二~四週間の間に渡航歴がないか等、形式的な質問を受けた。その間、私の具合はどんどん悪くなっていた。唯一救いだったのがその病院が検査実施可能な機関だったこと。私は少し待たされた後、無事その病院でPCR検査を受けることができた(検査実施をしていない病院だったら違う病院を案内させられるようで、考えただけでもゾッとする)。結果が出るまで二~三日かかるらしい。それまでは自宅で安静にしておくように言われたが、家にはあかねさんがいる。
 それで私は、数駅先にあるビジネスホテルの予約を取った。重い身体を引きずり、もう一度タクシーに乗る。後部座席に沈み目を瞑った。これは多分、新型のウイルスなんかじゃない。何故だか確信的なところがあった。
 おそらく私は物に酔ったのだ。いきなりあまりにも大量の物に囲まれて身体がそれに追いつかなかったのだ。だから発熱してしまったのだろう。
 ビジネスホテルにチェックインをして、とりあえずあかねさんに連絡を入れた。
「大丈夫? どうだった?」
「無事検査は受けられました」
「あぁ、良かった。結果はすぐには出ないの?」
「数日かかるみたいです。なのでしばらくはホテルで自主隔離します」
「ホテル?」
 あかねさんは驚いた声で言った。
「ホテルです。まぁ、安いビジネスホテルですよ」
「え、それなら私が出るからマチちゃんは家でゆっくりしなよ」
「いえ、大丈夫です。もうチェックインしましたから」
 あの部屋に戻ってもおそらくゆっくりなんてできない。私はまた連絡します、と言って電話を切った。掛け布団がピチッと固定されたシングルベッドに腰掛けて部屋の中を見回してみる。小さなテレビと冷蔵庫、一人用の机と椅子。それだけだった。当たり前だが、ここにはぬいぐるみもマグカップもない。でもその何もなさが久しぶりで懐かしかった。


 二日後には熱も平熱まで下がり、身体のだるい感じもかなり抜けた。二日間、汗をたくさんかいた。着替えは近くにあったユニクロで買って、毎日浴室で洗濯をした。食欲もだんだん出てきて、ビジネスホテルの下にあるコンビニでお弁当やカップ麺を買って部屋で食べた。買い物に出る僅かな時間を除いて、私はほとんどの時間をホテルの部屋で一人で過ごした。それは何も無い部屋で何もしない、ただただ空白なだけの時間だった。
 PCR検査の結果は陰性で、思っていた通り私の体調不良は新型ウイルスによるものではなかった。違うとは思っていたが、正式に結果が出て安心した。万が一陽性だったら大事になっていた。そして、この場所にきて順調に回復しているところを見ると、ほぼ間違いなく原因は「物酔い」だと私は確信した。
 シングルベッドに横たわりくすんだ天井を見上げる。とりあえず熱が下がって良かったと思った。出勤が許されるのは解熱から一週間後なので、この分だとギリギリ担当交代前の最後の授業には間に合う。
 陰性なことが分かり熱も下がった今、もはやこのビジネスホテルに留まる意味はない。でも私はどうしてもここを出て自分の部屋に戻る気にはならなかった。あかねさんも小野君も度々連絡をくれて、「まだ帰ってこないの?」と聞かれたが、その都度私は「まだちょっと調子が悪くて」と言って誤魔化した。
 ここは何もないから落ち着く。あかねさんの来る前のかつての私の部屋と似ていた。
 私は、やはり人生は引き算だなと思った。自分の持っている物を売って、売って、それで自分という存在が浮かび上がる。トリバイで持っている物を売る、予備校で私の数学の知識を売る(ただし、数学の知識は無形物なのでいくら売って引かれ続けようとも無くならない。それは、私の中に海のようにあるから)、それの繰り返しこそが人生だ。そうやって自分の存在意義が生まれるのだ。そう考えると、部屋がシンプルになるのは当たり前のことだと思う。
 足し算こそが人生だなんて考えはやはり間違っている。どんなに物を買って積み重ねても、それはただ積み重ねただけで、結局はそんなものは形に過ぎない。大事なのは売ること、送ること。シングルベッドの上、固いシーツに包まりなぜだか笑えた。久しぶりに私が私になれたような気がした。


「そんなんじゃサバンナで生きていけないぞ」
 アスファルトの小石のとげとげの上にうずくまった私の斜め上からお父さんのあの言葉が聞こえる。「痛いよぉ」と弱々しい言葉を吐くのは小二の私。秋の日だった。
 お父さんは「まったく」とつぶやいてそんな私を背中におぶった。お父さんの腰から私の二本の足がにゅっと伸びていた。膝から血が出ているのが見えた。
「血、出てる」
「これくらい大丈夫だ」
 お父さんはそう言ってゆっくりと歩き出した。夕暮れ時、どこからか夕飯の、胡麻油の匂いがかすかにした。一歩一歩と歩みを進める度に身体が上下に揺れる。心地よいが、お父さんのシャツに血が付いてしまわないか気になった。
「お父さん、サバンナってどんなところなの?」
「そりゃあ厳しいところだよ。実千、弱肉強食って言葉を知ってるか?」
「ううん。知らない」
「まぁ、つまりは弱い動物は強い動物に食べられてしまうということだよ」
「ふぅん。じゃあ、サバンナには強い動物しかいないの?」
「いや、それはそういうわけじゃない。ちゃんと弱い動物だっている」
「え、何で。だって弱いと食べられちゃうんでしょ」
「まともにいくとな。でも弱い動物だってただ黙って食べられるわけじゃない。ちゃんと考えて、どうやったら強い動物に食べられずに生きていけるかを考えるんだ。弱肉強食ってのはそんなに単純なものじゃない。弱くても賢い動物はちゃんと生き残れる。だからそう考えると、弱くても賢かったら強いんだよ、ある意味。要は生きるために何を身につけるかということなんだよな」
 と、お父さんは自分で言って自分で納得していた。その時の私はお父さんの言葉を半分くらいしか理解できていなかった。
「同じだよ。サバンナも、実千が生きていくこの場所も。厳しいのは一緒だ。だから転んでも立ち上がって、次はどうしたら転ばないかを考えればいい。それはけっきょく、どうやったら生きていけるのかを考えるのと同じだから。生きればいいんだよ必要な物を必要なだけ身に付けて」
 その話をした時、お父さんはいったいどんな顔をしていたのだろう。私は背中に顔を埋めていたから分からなかった。深い深い、そして遠い記憶。


 深夜に唐突に目が覚めた時、「ここは私の部屋ではない」ということを強烈に感じた。
 スマホを見るとまだ午前三時で、当然あたりは真っ暗だった。明日は職場復帰の日だ。担当交代前の最後の授業がある。
 もう一度眠ろうと思って布団を被ったのだが上手く眠れなかった。寝返りを打った時に自分がびっしょりと汗をかいていることに気づいた。そして、どうにも消せない「ここは私の部屋ではない」という強い感覚。窓の外、遠くから差す月明かりに無機質な部屋が照らされていた。違う。ここは私の部屋ではない。簡素で、物がなくて、かつての私の部屋によく似ている。でも違うのだ。ここにある物は何一つ私の物ではない。売りたい。でも売れない。私はここにある物を売ってはいけない。ここには私が私を証明できる物は何一つなかった。
 私はこんなところで何をしているのだ? と思った。こんな気持ちの悪い部屋に閉じこもって何をするつもりだったのだ? 私は、どんなに辛くとも自分の部屋に戻るべきだったと後悔した。熱が出たせいでもう一週間も授業をしていない。それに明日の授業をもって難国Sの担当も外される。トリバイにしてもそうだ。あかねさんが来てからは何かとばたばたしていて最近は何も出品できていなかった。私はしばらく自分が何も売らずに生活していたことに気づきゾッとした。
 よろよろとベッドから立ち上がる。何かを売りたい。しかし何もなかった。売れる物など何もなかった。悔しくて涙が出てきた。
 私は苦肉の策でスマホからスマホケースを外してその写真を撮った。「二年前に購入した物です。多少傷があります」と、苦しい商品紹介しか浮かばなかった。実際のところ私が使っていたスマホケースは特に珍しい物でもなく、購入以来ずっと使っていたから綺麗でもない完全な中古品だった。自分でもこれが誰かに売れるとは思えなかった。それでも送料もあるので八百円で出品をしたのだが、思っていた通りまったく反応は無かった。売れ筋の商品ならば、たとえ深夜であろうと出品するとすぐに閲覧数が伸び、いいね! が付いて場合によっては売れる。しかし私のスマホケースはいいね! はおろか、閲覧数も3で止まっていた。気持ちが落ち着かなかった。それどころか心の中はさらに混沌として、吐いてしまいそうなくらい気持ちが悪かった。
 私は着ていたパジャマを脱いで布団を外したベッドの上に並べた。このパジャマはここで生活するにあたり近隣のユニクロで買った物だ。人型に並べたパジャマはどう見ても私の抜け殻で、下着姿になって写真を撮っているとまるで脱皮したかのような気持ちになった。「購入後、数回しか使用していません。特に目立った汚れはありません」こちらも八百円で出品したがスマホケースと同様に反応は無かった。もうこれ以上売れる物はなく、私はカーペットの床に座り込んでしまった。
 売れないことがこんなに辛いと思ったのは初めてだった。売れない物に価値は無い、とすると今の私には価値が無いということになる。必死に身につけてきた数学の能力も、トリバイのテクニックも、売れないのならば何も意味がない。では私とは何だ。存在意義の無い私が今ここに存在しているとはどういうことなのだ。肉体は、ある。確かにある。冷蔵庫から水を取り出して一口飲んだ。冷たい水はやはり美味しかった。もう一度ぬるい水道水に戻るのは少し難しいことなのかもしれない。そんなことを考えながら写真を撮るためにつけていた部屋の明かりを消すと、月明かりが優しく私を照らす。それは嫌味なくらいに優しい光だった。部屋の壁に付けられた全身鏡に下着姿の私が映っていた。情けない顔、情けない身体だった。私はブラジャーを外しパンツも脱いで裸になる。生まれたままの姿の私がそこにあった。
 いや、違う。生まれたままでは決してない。微弱ながらも私の胸はかつてはこんなふうに膨らんではいなかった。陰毛なんてものは子供の頃には無かった。学生時代の頃と比べると少し痩せた。髪がだいぶ伸びた。思えば忙しくてしばらく切りに行っていなかった。そしてこの身体の中には私が苦労して手に入れた数学の知識が詰まっている。トリバイのテクニックもだ。生まれたままだなんてとんでもない。多くの足し算と引き算が繰り返されたうえで今の私が成り立っているのだ。気が遠くなるほどに膨大な計算式の果て。導き出される私という値。思えば、それはどう考えても引き算だけでは成り立たない値だ。そしてそれはまだ計算の途中なのだ。
 そっと鏡の中の自分に触れてみる。
「もう一度サバンナへ帰ろう」
 私は鏡の中の私に向けて小さくつぶやいた。


 けっきょくその晩はそれから一睡もできなかった。私は午前十時にビジネスホテルをチェックアウトした。外の世界にちゃんと出るのは九日ぶりだった。ホテルから直接予備校へ向かおうと思い、仕事用の服を昨日あらかじめユニクロで買っていた。コットン生地の柔らかいビジネスシャツ。太陽の光を吸って白く輝く。肌触りが良かった。
 予備校までは電車で二駅だった。私は久しぶりに電車に乗った。普段はずっと自転車行動なので、電車に乗るなどいつぶりか分からないくらいだった。昼間の電車は意外と混んでいた。噂には聞いていたが皆マスクを付けていて、換気のために開けた窓から風が入ってきてバサバサとうるさい。
 悪気はなかったのだか、横に立つお爺ちゃんのスマホの中のメール文面が見えてしまった。「きゅうりは五本買ったので買わなくていいよ」。大丈夫、ちゃんと世界は平和だ。何人家族なのかは分からないが、五本もあればきゅうりはこれ以上買わなくてもいいと私も思う。
 予備校の下で偶然花見さんと鉢合わせた。
「もう体調は大丈夫なのか?」
「ええ、もうすっかり」
「その割にはなんか目の下のクマすごいぞ」
「昨日ちょっと眠れなくて」
 私は泣き腫らした顔を見られるのが嫌で、誤魔化すように目を逸らした。エレベーターが私達の前で開く。
「あんまり無理すんなよ」
「はい。あ、今日で最後なんですよ難国S」
「おう。そうだよな。何だ、もっとヘコんでるのかと思ってた。藤田、けっこうプライドあるじゃん。数学に関しては」
「そりゃあヘコみましたよ」
 確かに私はヘコんでいた。今はなんだかそれを素直に認められる。
「何か、ふっきれたみたいだな」
「ですかね?」
 事務所にいたほとんどの人が大丈夫だった? 検査ってどんななの? と私に声をかけてきた。身体が丈夫な人が多い予備校なのか、ウイルス騒ぎになってからのこの一年、生徒も教師も誰一人体調を崩す人はいなかった(少なくとも騒ぎになるような人は)。なのでみんな物珍しかったのだろう。私は笑顔でそれらの言葉を躱した。頭はもう完全に数学モードだった。久しぶりに数式に触れる。アドレナリンがあたたかい源泉のように脳内で湧き出る。私は数学が好きなのだ。売るとか、それ以前にまず好きなのだ。そんなことを思うのは初めてだった。

 その日の授業は完璧だった。多分、今までの講師人生の中で最高の出来だった。説明のリズムも良かったし声も出ていた。至福の時間だった。これが、これこそが私のやりたかったことなのだなと思いながら授業をしていた。良いところで質問が飛び、上手い具合に詳細説明をしたかった部分へと繋がる。私が作った別途資料で知識の補足を行い、授業の最後に行った理解度を測る小テスト(これも私が作った)で、自分の知識が上手に生徒達に伝わったことをちゃんと確認できた。
 売れた。感無量だった。
 授業終わり、気がつくと生徒達が皆私を見ていた。生徒達も素晴らしい授業に感動してくれているのかと思ったが、違う。私は「売れた」という事実にホッとして、チャイムが鳴ったのに授業の終わりを宣言していなかったのだ。だから皆、終わっていいのかどうか分からず私を見ていたのだ。
 正直言って授業を終わらせたくなかった。このままずっと続けていたかった。でもそういうわけにもいかず、とりあえず生徒達は皆私の一言を待っているので、私が何かを言わなければならなかった。
「えー、お疲れ様です。あの、私は今日でこの予備校を辞めます」
 私の言葉に生徒達はざわついた。私自身も自分の言葉に驚いた。そんな思いで今日、教壇に立ったわけではなかった。しかし、まぁ、それも悪くないかなとも思った。それくらい今日の授業の出来には満足がいっていた。やり切った思いがあった。
 そんな簡単に捨ててしまっていいのか? と思うところもあったが、口に出してしまったものは仕方がない。こうなったらもう、今思っていることを全て正直に言ってしまおうと思った。
「とにかく、私は今日でこの難国Sを受け持つのは最後です。来週からは豊橋先生が授業をします。これは、えーと、私としては非常に不本意なことでした。あ、でもだからと言って辞めると言ったわけではないです。そこは別にネガティブな思いからではないので、あの、大丈夫というのもおかしいですが、大丈夫です。話を元に戻すと、多分単純な数学の知識だけでいうと私の方が豊橋先生より上だと思います。別に豊橋先生がダメだと言っているわけではないですよ。豊橋先生は良い先生です。ただ、数学では私の方が上だという話です。じゃあ何で私は担当を外されるのか、それは授業とは全然別の話で、まぁ、中にはご存知の方、というか現に私のそういうところが気に食わないと予備校に訴えられた方もいると思うので分かると思いますが、要は授業外での振る舞いです。あ、別に告発した人を責めているわけではないですよ。間違っているとは思いませんし、私だって本当は分かっています。そりゃあ授業外でも相談に乗ってくれる講師の方がいいですよね、どう考えても。でも、私にそれはできなかった。やりたくもなかった」
 生徒達は皆、シーンとして私の話を聞いていた。意外なことに誰一人として私を笑わなかった。私は続ける。
「今になっても、私はどうしてもあなた達の進路になんて興味を持てない。別に、誰がどんな大学に行こうと正直言ってどうだっていいです。もちろん受かってほしいとは思っています。でも、基本的に私が考えていることは需要と供給の成り立ちだけです。分かります? あなた達は大学に受かりたい、そのために試験に必要な数学の知識が欲しい、そして私はそれを持っている、あなた達に供給することができる、だから売る、あなた達はお金を出して買う。これが需要と供給の成り立ちです。あなた達がどんな大学に受かってどうなりたいかなんてことは関係ない、でも欲しいのなら売ります。私は精一杯、全身全霊をかけて売ります」
 私の熱弁に生徒達は皆ポカンとしていて、誰も席を立たなかった。
「何にかは知りませんが、各自、私が売った知識を上手く使ってください。行きたい大学に合格して、なりたい自分になってください。そして要らなくなったらどうぞ捨ててくださっても構いません。脳のメモリーは限られていると思うので不要な知識となるのであれば忘れてください。まぁ、物は今や簡単に売れますけどね。それは参考書とか、教材的なのは。そういう物は捨てるくらいならトリバイで売ったらいいですよ。これは余談ですけど。あの、もちろん、大学受験が終わっても、私が売った知識を使ってくださるのであればそれに越したことはありません。この中に、科学者になりたい方はいらっしゃいますか? お医者さんとか、別に経理でも、私みたいな数学教師でもいいです。私が売った知識を使って、今度はあなた達が何かを売ってくだされば、それはとても素敵なことだと思います。人生は、何かを買って何かを売ることの連続です。恐れずにどんどん買って買って、売って売って、自分を形成していってください。その結果、割と理想に近いはずの『あなた』という人間が出来上がるはずです。お互い頑張りましょう。ありがとうございました。またサバンナでお会いしましょう」
 私はそう言ってそのまま教室を出た。途中、室長とすれ違い、何か私に言いたいことがあるかのような顔をしていたが無視してそのまま通り過ぎた。事務所に戻り、自分の鞄を持ってそのまま教室を後にした。エレベーターを降りて外に出ると、気持ちの良い夜の風が吹いていた。
「あ、やっと出て来た」
 聞いたことのある声だと思い見てみると、ロータリーにあかねさんがいた。小野君も一緒だった。なぜか二人は車に乗っていた。見たこともない車だった。
「何してるんですか?」
「何してるじゃないわよ。マチちゃん、昨日から連絡途絶えてたから心配したのよ」
「すみません」
 そういえばメッセージも電話ももらっていたのに返していなかった。
「今も何回も電話してたんだよ」
 と、小野君が言って、スマホを見ると確かに二人から大量の着信が入っていた。「まぁ、とりあえず乗りなよ」と、運転席のあかねさんが言う。私は言われるがままに後部座席のドアを開けてギョッとした。後部座席には座席はもちろん、床までびっしりとむちむちした植物が並べられていて、詳しくは知らないが「熱帯雨林」という言葉が頭によぎった。
「なんですかこれ」
「何って、多肉植物よ。ホームセンター行ったらたまたま多肉植物の特売してて。一目惚れして買っちゃたの」
「一目惚れって」
 またすごい量だ。
「あ、てかゴメン座るとこないね」
 と言ってあかねさんは運転席から降り、いくつかの多肉植物を後部座席からトランクに移して私の座る場所をギリギリ作ってくれた。
「この車はあかねさんの車なんですか?」
 私は動き出した車の中で尋ねる。
「いや、うちの姉貴の車」
 と、助手席に座る小野君が言う。
「そんなの使っちゃっていいの?」
「いいの、いいの。姉貴、たまにしか乗らないし」
 そういう問題なのか? と思ったが言わなかった。
「どこを目指して走ってるんですか?」
「回転寿司でも食べようかなぁ、って二人で話してて」
「回転寿司ですか」
 私がいない一週間で二人はまた、より仲良くなっているようだった。回転寿司は、少し食べたい。
「そういえば私、予備校を辞めました」
 言ってみた。「うそ、何で?」と、小野君は驚いていたが、あかねさんは別に驚いた様子はなく、深くも聞かなかった。
 まぁ、しかし冷静になって考えてみると、正式な退職の手続きを何も踏んでいない。あんなふうに言ってしまったが、本当に辞められるのだろうか? でも今更引くのはカッコ悪い。
「長い人生そんなこともある。大丈夫よ。マチちゃんはマチちゃんなんだから。こうして私達もいるんだから」
 と、あかねさんは交差点、ハンドルを右に切りながら言った。ゆっくりと車が曲がる。確かに私は私なのだ。予備校講師でなくともちゃんと私だ。
「退職祝いにその中から一つ、好きなのを選んでいいよ。あげる」
 と、言ってあかねさんは前を見たまま後部座席の多肉植物を指差した。それで私はたくさんの多肉植物の中からアロエを一つ手に取った。ムチムチしていて可愛いアロエだった。膝に置いてじっくりと見てみる。
「あかねさん、これ買います。いくらでした?」
「え、いいよ。あげるよ。退職祝いだって言ったじゃん」
「買いたいんです。今は気分的に」
「何よそれ」
 と、あかねさんは笑う。
 車はやがて回転寿司の駐車場に入り、私はちゃんとあかねさんにアロエの分のお金を払った。あかねさんは不本意そうな顔をしていたが、しぶしぶそれを受け取った。必要と差し迫られている物意外で何かを買うのは随分久しぶりのことだった。
 さぁ、食べようか、と言ってあかねさんが車を降り、私と小野君もそれに続く。夜の闇に回転寿司の看板が明るかった。

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執筆の狙い

作者
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一時期メルカリにハマって、そこからの発想でした。すばるダメでした。

コメント

真夜中
72.13.31.150.dy.iij4u.or.jp

こんにちは。

>私の知識は無形物で、売ったところで無くならないから何度でも売れる。そこだけは違うが、基本的には欲しがっている人に欲しい物を売るということは、トリバイにも通じるところがある。<

まで、いったん、拝読しました。
かなり以前にヤフ○ク!を利用していた者としては、なかなかに感じ入らさせて頂きました。

読み出しの頃は、説明調が続くのでちょっと疲れちゃったのですが、割れていたマグカップのあたりから、物語調になってきて入れるようになりました。

実は、視点の方を男性かと思い込んでいて、店員さんなどの描写があれと思うことが多かったのです。でも、スリーサイズのくだりでやっと、女性かと気が付きました……。

私だけかなあ……そうだったら、ごめんなさいね。
いったん、ここまでにさせて頂きます。またのぞいた時はよろしくお願いいたしますね!

ではでは。かしこ

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真夜中様

コメントありがとうございます。
確かに最初は説明の描写が続きますね…性別のこと、自分はずっと女の気持ちで書いていたので気づかなかったです。ありがとうございます。

ラピス
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途中まで読んで、ギブアップしました。
そんなんで感想書いて、すみません。

とても整った文章で、かつ丁寧に事象を追ってあり、非常に好感が持てます。
ですが、その丁寧さがアダになっているというか、冒頭に書きつらねてある内容が既知のもので、ほぉ〜と感心できる気づきがなくて、退屈なんです。

物語の動きに乏しい代わりに、登場人物が印象的ならいいのですが、そうでもない。

読み続ければ面白くなるかもしれませんが、そこまで我慢できませんでした。

人があまり知らぬ蘊蓄をさりげなく挿むとか、心理描写が鮮烈であるとか、何かパンチが必要なのでは、、、


と思いつつ、最近目にした文学賞受賞作たちも何故これが選ばれた?と疑問に思う退屈な内容だったので、私の意見は素人の読み方でしかないのかも知れません。

ただ、恐らく受賞作は全編を通じて、選考者に訴える力があるのだろうと推察します。

全部読まずに物申して何ですが、この話の中で、これがいいたい!という強い意志はおありですか?

あるならば、選ばれなかったのは「運」が悪かっただけだと思います。

pw126166079080.31.panda-world.ne.jp

ラピス様

ご感想ありがとうございます。

冒頭部分は確かに書きすぎてしまいました。反省です。

売ると買う、自分に足すと削るの関係性について書いてみようと思っただけで、これを伝えたい! という強い意志は確かに無かったですね…

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