作家でごはん!鍛練場
ネッコ・フィリックス

サヴィル氏にまつわる話

 わたしがサヴィル氏に出会ったのは、冬真っ只中で、それも絵に描いたかのような大雪の日だった。雪の一片一片はヤケクソにしたたかに赤ちゃんがデコピンを食らわしてるような攻撃力しかないくせに、持続時間に比例して交通マヒを起こしている感じだった。けれども、大雪の定義は雪で大黒柱が歪むような積雪量ではないのが救い。豪雪地帯でないから、切実にウザイなあと思ったものだ。ウザイで済んでいるのは良いことだけれど。なんせ、人道的だかご近所付き合いだか知らんけれども、その日は学校が休みだったし、若いという属性を理由に、多めに雪かきをしなければならないんだから。
 そのときは、サヴィル氏はただのふもふも猫であって、むしろふもふもそのものであるかのような名無しだった。後になって多分判明したのだけれど、メインクーンという種類の猫か、その血が入っているのだと思う。ジャガイモの品種みたいだ。長毛種だかいうのは、他にも存在するようだけれど、覚え切れないし、また、覚える気もない。エンジェルはエンジェルだろう。まさかとは思うが、フェアリーかも。
 血統の厳密性などというものは、早速どこかに吹っ飛んでしまって、もふもふはもふもふであって、それ以上でもそれ以下でもないということだ。見ているだけで、至福である。ああ、もふもふや、ふもふもや。
 ――いうなれば、サンタクロースの髭染みたようなふさふさした毛衣を纏った、お猫さまだ。そしてその当時子猫でもあった。もう、もう、突然の衝撃の未知との遭遇とカワユさに胸弾ませちゃって、ハロー、キティー! って感じ。これは、ボア付きのパーカーのフードの中におぶって、片時も離れたくないってことで、カンガルーのポッケみたいにさ。
 この子猫、ライオンのタテガミみたいにもさもさしてもいるでもいいし、もこもこの綿菓子が生きているようでもいいし、ケセランパセランみたいにふわふわしているでもいいし、しゅっとした高級な埃取り棒みたいでもいい。サヴィル氏の毛並みは貴さを連想させる艶やかなものだったので、眼福だ。しかしいつだったか、ゲスの極みの悪友などは、ゲスゲス笑いながら撫ぜ、深窓のエルフ姫の陰毛みたいにさらさらしているよねといっていた。ゲス女郎め。サヴィル氏はゲス友と交友関係にあるわたしの人間力の低さをすぐさま看破し、下賎の者のありように高貴に眼をしかめておられた。
 話は戻るが、そうして、サヴィル氏は深々と降り積もり継続中の排気ガスに塗れた雪よりも純白で、真珠のように光沢があり清潔感どころか浄化作用があるのではないかと、真面目に思ったものだ。母親にサヴィル氏は、開口一番に、にこ毛ちゃんと呼ばれていた。なんだか、ワンワン物語りの野良の伊達犬トランプみたようにぼくの小鳩ちゃんみたいな感じにロマンチックにいうのだ。そのメロメロ具合は、一つの指輪のチャームの魔力も斯くやといった体で。ただ母の名誉のためにいうならば、ロード・オブ・ザ・リングのジーキル博士とハイド氏みたような、ゴラムとスメアゴルではなく、ホビットのマーティン・フリーマンが演じるビルボ・バギンズぐらいだ。
 まずは、にこ毛ちゃんから、戦国武将みたいに幼名があり、その後元服し悠然とした紳猫として成獣され、サヴィル・ロウと呼ばれることになる。下克上のようなシュトルムウントドラング的に立身出世街道まっしぐらの木下藤吉郎秀吉が、丹羽様と柴田様にあやかって羽柴性を名乗りますと大河ドラマでいっていたが、サヴィル・ロウという名前にも由来がある。そして、経緯もまたあった。

 わたしは、シャーロック・ホームズにメロメロであった。ここのところ、新約染みたシャーロック・ホームズの映像化が頻発している。骨子は残しつつITに強い現代調や(ワトスン氏はブログで冒険譚を発表したり)、現代技術の粋を集めてCG合成、VFXというのかな、を大盤振る舞いしたアクションだったり(製作者はいう、正典はアクション満載であると。ホームズは決して、専業的安楽椅子探偵ではないんだと)、あるいは人形劇で学園モノになったりと(三谷さんの生産性は超人だ。〆切が大変そうだ)、そして、アメリカ版などもあり(驚くべきことにワトスンが女になった、それもアジア系ルーシー・リューだ。タランティーノ印の任侠映画、キルビルでのカタコト日本語が懐かしい)、ともあれ二十一世紀のホームズはなにかと忙しい。天界に住まう、サー・アーサー・コナン・ドイル氏はどう思うのだろうか。青山剛昌先生が、ルパン対ホームズの構図を、紆余曲折の末に怪盗キッド対名探偵コナンに落とし込んでいることも含めて。
 ところで、新約などと大げさに嘯いてみたものの、旧約ホームズ像は幼い頃たまにNHKで再放送していたか、兄の重ね撮り気まぐれビデオの、ジェレミー・ブレットをちら見した程度だ。イメージは、年長の族長吸血鬼か、上級悪魔の仮の姿といったものだ。存在そのものが知性染みていた。只者ではない存在感だ。
 オーストラリア人にとっての、クロコダイルダンディー(トロピック・サンダーというコメディー映画で、黒人に扮したオーストラリア人設定の、ロバート・ダウニー・Jrが言っていたのを鵜呑みにしてみた。ちなみにわたしは、野生に目覚めたベン・ステーラの真顔が笑いのツボであった。全力で馬鹿をやっていた。そして、ちびでハリウッド仕込の特殊メイクでデブでハゲで体毛の濃ゆい強欲なトム・クルーズは一見の価値が有る。意味が分からない、二枚目の無駄遣いだ。もう一周して、贅沢なのか)。アメリカ人にとっての、スーパーマンか、キャプテンアメリカ――アメコミのヒーローは多いのだけれども。あたかも車の設計思想のようなもので、ラグジュアリーだったり、スポーティーだったり、タフネスだったり、属性特化が多すぎて絞りきれないのがアメリカンヒーロー像だなあとも思う。低燃費のコンパクトカーかハイブリットというのが、キックアスかなあ。多民族国家である自由の国には、さまざまな自由な形があるようだ。
 少しばかし横道にそれてしまったようだ、話を戻そう。少なくともイギリス人にとっての、ホームズであろう。つまりは国民性の精髄であり誇りであって、国旗に等しいアイコンである。ジェームズ・ボンドが英国諜報部員の広告塔的であるように。紙幣に偉人として印刷されなくとも、葉書や切手にはなっているだろうことがおのずと推察される。
 つまりは像は焦点を結び、こういってよければ偶像の鋳型は、国境をも越えて、暗に存在していることは否めない。この世でもっとも感染力の強いものとはアイディアである。しかして、それはシルエットであって、色彩鮮やかな実像ではない。かといって、影の一人歩きみたような、個人の解釈した脳の数の多さに比例して、ハードルは上がる一方である。勝手に期待して、勝手に失望するのはファン心理の最たるもので、またよくやってくれたという喝采もまた勝手なファン心理である。しかして、ここのところのソーシャルなネットワークの普及により、一匹の鶴も千匹のスズメも等しく鳴くものだから、反響はすぐさま知れる。この千のスズメというのが曲者で、一匹、一匹は呟きであっても、千も集れば統計学的に有益な情報になりえる。こち亀で読んだが、テレビの視聴率なるものは、統計学的にはじきだされるのだという。テレビ電波は垂れ流し状態であり、受信する側も専用の機械がなければ視聴率に貢献できないんだと。まあ、SNSは、もっとも拘束力のない公共意識といっても過言ではない。もしかしたら、地球に潜伏する宇宙人や未来人、または諜報部員が意見を発信しているのかもしれないという可能性すらある。下着モデルから、アスリート、大企業のCEO、一国の大統領、果ては、IQ180越えのホームレスまで、等しく肉体をともなった肩書きやしがらみに雁字搦めにされず発言する権利があるのだ。そして、平均的凡人なる在野の路端の石ころであっても、数が揃えば石垣になりえる。一定数を越えるとてんでばらばらに活動していたものが爆発的収束力を発揮する。スタンドアローンコンプレックスって奴かも? 知ったかでいうなら多分、ゲーム理論的とでもいうのかな。
 なにはともあれ、颯爽と登場した現代調のホームズ氏は、世相が求めているかのように装い、国境の垣根をひらりとオーバーザフェンスし共犯関係的に量産されている。アンパンマンの顔のように、役者がすげ変わりながら、正典を熟読玩味したでろうシャーロキアンなる脚本家の知性を体とし。
 そして、特にわたしはイタチ顔のホームズ氏のファンであった。寧ろ、燦然たるホームズ氏の栄光を端に追いやってでも、象徴的にディアストカーハットやインバネスコート、ブライヤーのパイプ(正確には、ドルチェ&ガッパーナのスーツとベルスタッフのロングコートにニコチンパッチだったような)、ユニフォーム無しのベネディクト・カンバーバッチを追いかけたいのだ。ベネディクトならば、卵料理であるところのエッグ・ベネディクトでも良い。ハイカラさにおいて同格である。そして、ホビット顔のワトスンであるところのマーティン・フリーマンも。ちかごろ、マーティンは日本ウヰスキーのCMに出ておられた。なんだか、ムーディーなバーで、兎に角ダンディーだったんだ。ダンデライオンは、たんぽぽだ。なんでも、フランス語らしいが額面通り受け取ると、ダンディーなライオンを気取っているたんぽぽのイメージは、夕日の土手にちょこんと座るポンデリングのライオンみたいで、デコピンしたくなる。
 つまりは、単に英国人俳優全般がマイブームということで、若かりし頃のチャールズ・エグゼビア氏またの名をプロフェッサーXを演じる、ジェームズ・マガヴォイでもいいということ。そして、前提条件として、信じる力で銃から発射された弾道を曲げる映画ウォンテッドで、なぜ日本語吹き替えが、メンタリストじゃない方の歌手のDAIGOさんなんだと思うしだいで。DAIGOさんは、気のいい優男ぽくて好印象だが、素人考えで恐縮ですがね、ジェームズ・マガヴォイの声優には向いていないような気がする。DAIGOさんは断じて、へなちょこではないが、映画で観るとちゃらいへなちょこ感が鼻に付く。脇を固める、映画的声優人の中で浮いているように思えた。だって、敵にまわしたくない人の代表格、モーガン・フリーマンはいつもの声優さんだよ。だったら字幕でいいじゃねぇかとも思われるだろう、もっともだ、しかしわたしは生憎、日本語吹き替えの字幕派である。ヴェネディクトの地声が、素晴らしいバリトンボイスであろうと頑なである。ドワーフの財宝を奪ったドラゴンだろうがおかまいないなのです。だので不意に映画ロシアン・ルーレットのインタビューでジェイソン・ステイサムの地声が、何気にだみ声でビックリしたりする。そして、なぜロバート・ダウニー・Jrが主に日曜洋画劇場で、地上波放送されるとフジワラさんじゃない声優になるかが不思議であった。ジョニー・デップは、ほぼ専業でヒラタさんじゃないか。しかし、水野さんチョイスの金曜ロードショーだったか、淀川さんセレクト日曜洋画劇場だったか、のバック・トゥ・ザ・フューチャーのマイケル・J・フォックスはミツヤさんでいい。というか、兄の地上波を録画した型落ち商品満載のCMがカットされていないビデオが、わたしの映画好きを決定付けた登竜門である。しかし、わたしは鯉が昇天して竜になるような愛好家ではない。わたしは鯉のぼりの心持で、大空にたゆたっているのだ。映画ドニー・ダーゴや、マルホ・ランド・ドライブを訳が分からぬままなんとなく放置できる人間だ。あんな難解なものを舌鋒鋭く批評できる人間は、竜どころかドラゴン・スレーヤーである。時間も空間も超越して古の魔物であるバルログとくんずほぐれずして、超然とした白の魔法使いになるようなものである。しかし、灰色のガンダルフの方が人間味があって良いと、イアン・マッケランも仰っていた。ちなみにわたしは、ちんちくりんキラキラスティクを振り回す魔法少女に憧れたりしない。夢見る少女じゃいられない性分らしい。恋愛マンガによっては、怖気がくる。ただ、ジェームズ・ボンドがMI6で、イーサン・ハントがCIAの系列のIMFだというくらいは知っている。ジョニー・イングリッシュはMI5かMI7かうろ覚えである。なんと、潜在的に多感なティーンエイジャーであるわたしは、ご他聞の漏れずとりあえずスタイリッシュでスマートなデコレーションされた高級な砂糖菓子のようなスパイが好きなのであった。オトナの男のステータスシンボルは、高級車と高級腕時計とブランドモノのスーツであるように思われるが、映画のスパイは何気にコンプリートしてる。そしてなにより、ドヤとも言わずさらりとオトナの着こなし使いこなし的余裕が感ぜられる。それにしても――オースティン・パワーズにいたっては訳が分からない。モジョってなんなんだろう、なんだろうか。今ふとじわじわ来た、さっぱり分からねぇ。
 そこで、わたしは隆とした紳猫先生が、カワユイ幼名にこ毛ちゃんを持て余し気味で、成長期の子供の靴のように窮屈でならない、名前をつけてくれなくては爆発してしまう、と流暢な日本語でお鳴きになられたならば、脊髄反射的にベネディクト・カンバーバッチなる名前でも良かったのだか、安著であるような気がした。捻りがないというか、単一性がないようで。まあ、多分採用されたならば、バッチさんなる愛称で呼ぶことになっただろう。バッチ来い。速やかに、日本に来日せよ。バッチさんは、気難しい役ばかり演じているが中の人は善良な人だ。
 にこ毛氏は、そのカワユイ名前にそぐわず、英国紳士みたように華麗であり優美であった。そして、なによりでかい。絶妙にでかい。ジェントル・ジャイアントの異名を持つ猫であるかもしれず、所作が綺麗でしゅっとしてきりりとしているが、慈愛に満ちた包容力は無限大である。まさに、天爵だ。かなわねえぜ。天が与えたもうた爵位。知性の輝く瞳は、輝石のようで。わたしは好事家や道楽者が高価な白磁の壺を撫ぜるように、猫の曲線をつるりと撫ぜたものだ。TVの前で首をかしげながら座る、フォレスト・ガンプとその子供みにたいな関係性で、寄り添うように気づけば側に居てくれる。
 うむ。こんなにカッコ良く慈愛に満ちた生き物が、にこ毛ちゃんでは、すまねえとしか言いようがない。美と愛への背徳行為のように思えた。わたしの愛情は、被虐的ではないのだ。猟奇的なわたしではない。わたしの危険な愛情ではない。
 そもそもが人間の女に使うべきで、雄猫に使う言葉ではないが、誤用だと分かっていても、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花という言葉を喚起してしまう。どこぞの空中海賊のようにうっかりしていたらぽつりと、タイガー・モス号の厨房でてきぱきと調理している少女を覗き見るが如きにイイ……と漏らしてしまいそうだ。フォトジェニックなんだもの。可憐なんだもの。愛くるしいんだもの。わたしが無意識下に取っておいたとっておきの美辞である。こんな言葉は、フィクションの中の特殊設定的呪文のようで、まさか実際に使うとは思いもしなかった。京都の大学生が、式神を使役する呪文の方がまだ、汎用性が高い。あるいは、ニコニコ動画の一挙放送で観た、スレーヤーズの魔法呪文ほうが。少なくとも、わたしの場合は。
 う~む。わたしは暇を見つけては、にこ毛ちゃんの名前を改名しようとこころみた。水にとっぷり浸かったモッツァレラチーズの整形ようにイメージをちぎっては投げ、ちぎっては投げを繰り返した。おうおうにして、ナイフで切開するふんわりとろとろオムライスの失敗のような残念感しかない。寝入りばな考えすぎて、凡庸なる寝不足になったりもしたが(人間の睡眠短縮限界は四時間らしい、非凡であるところの明石家さんまさんや、京極夏彦さんがそうだ。超人だ。三時間のナポレオン・ボナパルト氏は相当な長風呂であったそうだから超人認定は後日に見送る)、何の気なしに観た日本版、ダヴィンチ・コードみたような映画で、サヴィル・ロウの名前見聞きした。わたしは邦画でも字幕派であった。漠然とサヴィル・ロウの存在は知っていた。以前、クリス・パインだったかな――CIAの諜報部員のコンビが一人の女性を国防費で取り合うというコメディー映画で見聞きしていたのだ。セレブがオーダーメイドのスーツをあつらえる高級店のように解釈していた。
 そこでわたしはおもむろに、ケータイを取り出し、ウィキぺディアで調べる。なんということでしょうか、英国紳士服の聖地ではないか。店ではなく、高級かつ老舗のスーツ店の集る通りの名だった。大概的に仔細を読み飛ばし、ジェームズ・ボンドも設定上その聖地で仕立てた背広を着ていたことが判明し、そもそもが、日本人がスーツを背広と呼ぶのは、サヴィル・ロウが日本語発音でセビロになったのだということが判明した。夏と花火と浴衣でお馴染みのラムネが、レモネードを語源とするように。
 ほう。まるで、人名のやうだ。わたしの脳内では、ジュード・ロウが韻を踏んだように連想された。何気にガイ・リッチー印のワトスン氏である。それと同時に、速やかにユアン・マクレガーも脳裏を通り過ぎる。英国俳優だからかなんか、顔が似ていないか。日本語吹き替えの人がモリカワさんだからかもしれない。途端、ガタカだったかなあ――SF映画で、ユー・ジーンだかいう車椅子の優性遺伝子の持ち主が、ユアン・マクレガーか、ジュード・ロウか分からなくなった。ファニーフェースで名脇役の、スティーヴ・ブシェミの出演映画の題名がとっさに思い出せないように。
 おお。紳猫に相応しきかな。マイブームの英国紳士要素も濃厚である。敬愛の対象になりえるではないか。湿気っているのかしらん不発じゃないか、と打ち上げ花火を除いたら突然夜空に大輪の花を咲かせたような、驚きと感動に満たされた。ぽかんと見上げた結果、スタンディングオベーションでカギ屋~タマ屋~という心境になった。しかし実際のところは、洗顔フォームで顔を洗っていたら、何気なくシャボン玉が一つ舞い上がったようなものであった。
 にこ毛ちゃん、語弊があるだろうけれど、源氏蛍火のようにキラキラした源氏名がみつかったよ。の意を込めて撫ぜた。にこ毛ちゃんは幼少期の思い出に浸るように、うっとりと眼を細める。
 そこにいたって、ようやくにこ毛ちゃんは、大層立派なサヴィル・ロウという名になった。

 氏は紳猫である。故に、敬称でもって呼称する。
 氏は人懐っこい猫であった。尻尾こそ犬のように振らぬが、ころころ笑う代わりに喉をごろごろよく鳴らす。このごろごろは、体感せねば分かるまい。凄まじい癒しである。声にこそ出さぬが、そのつど心の中ではアメージング! と叫んでおる。そのときなぜだかわたしは、世界の中心にいるかのように錯覚してしまうのだ。しかし実際叫んだものならば、氏は三世怪盗の如くすたこらさっさとさっさと逃げ出し、わたしは世界の中心で愛を叫んだのけ者になってしまうであろう。
 氏の家でのありようは、ルームシェアしている同年代の異性のようである。リビングのソファーが氏の定位置であり、深遠なる思索に耽る安楽椅子キャットであらせられる。先生、おもにTV画面越しの人間観察が趣味である。母曰く、なぜ森田一義アワー、またの名を笑っていいともが終わってしまったのかという、有史以来稀にみる難題に頭を抱えているらしいのだ。そして、哀愁に満ちた視線でもって世の儚さを嘆いていたらしい。
 先生、タモリさんの由来がモリタのアナグラムであることを電光石火の如く看破し、愚かなわたしにかなり遠まわしに教えてくれた。氏の知性できらきら光る眼を見ればおのずと伝わるという、さながら超知的生命体の高度にして高等なる手法である。奥ゆかしいかな。雄弁は銀なり、沈黙は金なり。先生ちなみに後者であることを好む。先生もしかしたら、高名な数学者を神経衰弱にいたらしめるという、いわくつき事故物件みたようなリーマン予想の解をとっくの昔にみちびきだしているかもしれぬ。わたしが、とんちきであるから伝わらぬだけで。ならば、人類にとっての大いなる損失である。いや、先生のことだからセキュリティー的素数のことまで憂慮しているのかもしれん。海外ドラマでやっておった、リーマン予想の解から生成したアルゴリズムとスーパーコンピューターさえあれば、信頼と安全で成り立っている銀行のセキュリティーに侵入できるんだと。数学はさっぱりなんだ。ちなみにスーパーコンピューターの演算処理は、プレーステーション3を複数台並列に繋げば安上がりで即席に再現出来るんだと、SONYの技術力スゲーな。アポロ11号は、任天堂のファミリーコンピューターの演算能力よりも低いコンピュータで月に降り立ったのだという。まあ、どうでもいい話である。なんにせよ、氏は世界の至宝であることになんら変わり無い。
 わたしは、手腕と知性に感服し、ツヤツヤした毛衣を纏った氏を、眼に入れたら痛いのかしらんと真面目に考える。ふにふにの肉球からするりと入ってしまいそうだ。実際に経験してみなくては、分からんではないか。もしくは、志村ケンさんの爆発的スイカ早食いのように氏の立派な毛衣から覗く、腹斜筋的セクシーな筋を有したあんよを持ってびょ~んと伸縮性のあるアコーディオン奏者の気分をひとしきり味わった後、猫背を爆発的にはむはむ甘噛みしたくなるもんだ。猫のあんよのセクシーさは、実は脱いだら凄い、ボタンを上まで留めて、ネクタイを締めた、ぱりっとダークスーツをキメタ細マッチョ紳士と同格であろう。映画のシークレットサービス的。う~む――どことなく、たぎる愛情を持て余している感は否めない。月が綺麗だからといって、月に向かって吠えるのはただのけだものであろう。ルナシーだか、ルナティクであろう。しかし、ベートベンやドビュッシーは、月光や月の光という幻想的な名曲を残している。心象風景なのだろう、時間的空間的位置座標は違えども、同じ月の輝きを冠したクラシックでも連想される感情は違っているのだから不思議である。大げさかもしれないが、根源的な部分が刺激される。創作的逸話的気障かもしれないが、アナタと一緒にいると、月が綺麗ですね、そういえば愛の告白になるのならば、何度でも氏のぴんとした立ち耳がでんぐり返しするほど耳元で囁いただろう。スコティッシュフォールド的折れ耳、一分のすきもない氏の微笑ましいチャームポイントになりえる。しかし、生憎氏は人語を解さない猫である。そう、――わたしは、正しい表現方法を思案しているのだ。後ろ暗く後悔どころか、胸を張って誇らしい気持ちになれるようなものを。互いに幸せになれる道を。
 吾輩は猫であるの、二弦琴のお師匠さんは、美猫である三毛子さんを眼に入れても痛くないという境地に至った、古今東西南北愛猫家無双である。しかし、わたしなどという俗物には、その境地にはたどり着けぬかもしれぬ。長いとは言いかねる平凡なる己がマツゲだった毛の一本が、眼に入っただけでごろごろして落ち着きなく擦るからである。
 そういえば、TVで誰かが言っていたが、愛犬家が犬に求めるものとは、年下性であり、家族のありかたとして子供であってほしいらしい。子供なのだから成長する。その成長を未来に帰る、ドラえもんみたような温かい眼で見守るのが醍醐味であるそうな。涙を浮かべて最高の微笑みを浮かべたドラえもんを想像していただきたい、それこそが愛犬家の理想的心持であろう。
 しかして愛猫家は、年上か、同年代性を求める。独立独歩たる野良猫氏が野良犬氏よりも瘋癲出来るのは、その証左であろう。
 家族のありかたとして、恋人であってほしいらしい。同居している恋人なのだから、付かず離れずの食客である。猫の属性あるいは、創作物の中の朴訥な書生さんと年端の近いお嬢さんでもいいのかもしれない。どちらが書生さんで、どちらが年端の近いお嬢さんであるかは、求めに応じて変わる。また、書生さんは複数形でも良い。Kと一方的な私のお嬢さん争奪戦、恋の鞘当が始まるかもしれない。士道を追求する武士にとって、他人の鞘が当たるというのは決闘の理由たりえる。洋物の騎士道精神も手袋を足元に投げつけるという決闘ルールがあるように。まあなんにしろ、恋の駆け引きこそが醍醐味である。高等なる駆け引きだ。しかして厭世的な先生曰く、恋は罪悪なのだという。
 種族が違うのだから、擬似恋愛であることを強調しておく。物理演算的恋愛シュミレーションである。紳士道精神を貫く氏を篭絡し、メロメロにしたあかつきには、酸いも甘いも噛み分けた大人の男を手玉にとる、桃色遊戯の免許皆伝になるであろう。うむ、どう考えても、わたしは変人ではないし奇人ではないようだ、ましてや変態ではない。そもそもが、恋なるものが精神錯乱のようなものであり、剥き出しの愛なるものは狂気によく似ている状態を指すのではないか。氏が二足歩行でもってすっくと立ち上がり、ラピスラズリの鉱脈にいざ行かん! と朗々たる声で言い出さなければ、常人であることを投げ出さない所存である。故に傍目には、基本的にわたしの言動に不審な点は見うけられぬことを請け負う。氏にメロメロであるのは否定しないが、分別はわきまえている。
 しかし、心のありかたとして、芸術家にとっての、ミューズかファム・ファタールであろう。この甘酸っぱい恋のメロディーはさながらショパンのよう。まあ、知ったかである。

 ところで、まずわたしの自己紹介からしなけらばならないだろう。
 わたしは、四方山あくびという。
 格調高くデイヴィッド・コパフィールド式に幼少期からの連続性を気取りたいが、宿世の因縁が起因しているのか、現時点において自叙伝を書こうにもチャチイ事この上ない。ちなみに、ディケンズの小説はクリスマス・カロルしか読んでいない、わたしの人生において手記の形式の小説で冒頭二度程この形式のお断りを読み、クールだなと関心したから、軽い気持ちで箔が付くんじゃねえかというずっちい試みである。どれ程のチャチさかは、実際の例を挙げるが、幼少期、母親に騙されて(行きずりで、タクシー捉まえて、タクシーの運転手さんとそこそこ打ち解けられてさ、世間話できるくらい、いい人間ではあるんだけどさ。まあ、気まぐれなジョークだったんだろうね)、てらてらきゅきゅしたナスをペンギンだと思って、豪快なる野趣味が幼心なりに刺激されたからなのか、嬉々としてナスを喰っていた阿呆な子供だっただの(両親さ、ただ、恨みがましくこの話なんかするとケタケタ、笑いやがんだ。大人気ないよ)、高校に入学するまでカニカマをタラかなんかのすり身ではなく外国産かなんかの安い蟹のカマボコだと信じていただとかいう、くだんない話はしたくないんだな。ホント、くだらねぇや。ちなみに、デビット・カッパーフィールドというマジシャンの名前の由来であるそうだ。混同しても無理はない。また、混同していたわたしも無理からぬ話である。オリバー・ツイストと混線してみても。当たらずといえども遠からず、実に奥深い知性的な勘違いであろう。
 サヴィル氏への熱狂的心酔のあいま、世を忍ぶ仮の姿、女子高校生をやっておる。なにやら破廉恥さを連想してしまう略称JKである。もしかしたら、わたしの方が破廉恥なのかもしれん。夕方、制服姿のままリビングでごろごろしていて、たまたま姉が家にいたからなんとなく閃いてJ・K・ローリングだよと寝苦しい夏の夜の寝返りの要領でころころ転がってみせたら、ぷっはと姉は吹き出してきゃらきゃら笑った。ハリー・ポッターの作者がJ・K・ローリングという一種駄洒落染みた冗談であった。ちなみに、KJは都会に染まっちまったコマじろうさんだ。子供からお小遣いを定期的に搾り取る仕組みは、夢を見せるべき大人たちの頭をつねに悩まし続けた理想的ビジネスモデルであるが、それにしてもズルイ。ちっちゃくて、可愛くて、訛ってて、純粋なんだもの。うかつにも、コマさんとコマじろうにヤラれちまったよ。もんげー可愛いズラ。ちくしょう、妖怪ウオッチめ。わたしのような成熟過程の中間に位置する精神の持ち主をも巻き込みやがる。オマケのコースター目当てに烏龍茶を購入し、コマさんの風呂敷とがま口を見やっては、一人ほくそ笑んでいる。
 まあ――わたしの四方山話を聞いたところで、アクビが出るのが人の生理現象というもの。自然の動かしがたい摂理であるのだから仕方がない。大いにアクビされよ。そしてアクビなるものは、他者に感染することを肝に銘じておいていただきたい。自他ともに顎の骨がはずれてもわたしのせいではない。わたしのことは、腐れ四方山か、あくびちゃんと呼ぶがよろしかろう。ためしにあくびちゃんをググればよかろう、なにやらキャワイイ妖精さんのようなキャラクターに行き着くよ。なお、強要はせぬがゲスの称号だけは、悪友のためにとっておいていただきたいものだ。
 しかし、サヴィル氏以外は、ただの脇役であることを強調しておく。いや、本来ならば見きれるだけで良しとする、端役であることを肝に銘じなくてはならぬ。しかし、記述者たるわたしは、中立なる仲買人であり卸問屋であり、欲をかいて商売の手を広げすぎたきらいはあるがなにかと必要なのだ。奇跡を語るには、平々凡々とした語り部でなくてはならぬ。読者諸兄諸姉におきましては、灰汁が強すぎるだの、どこかで読んだことがあるだの、気だるいだの、馬が合わない、そもそもが詰まらないだとか、詰まるところ、そうは問屋がおろさないという結論に達したならば、すぐさま断念すればよい。内容を求めるならば、深夜番組の海千山千のマツコさんの話のほうがよっぽどタメになるであろう。デラックスなMCや奇抜な藤四郎との即興性のある軽妙なる掛け合いは、海に千年、山に千年住み分けたもののまさにそれである。そのうえ、深夜ラジオのカリスマ然とした神経に障らない深みのある声でもあるし。
 まさか、手足を椅子に縛られて、針金的器具で眼球を拘束されているでもなかろう。もしそうならば、目薬は差すように変態的且つ、奇怪千万なる人物に頼むがよい。
 内容は、大方の予想はつくかと思われるが、錯乱したシェフの気まぐれサラダ風、カフェイン由来のエナジードリンクキメたぎらぎらした徹夜明けのハイテンション添え、屈折した心の闇鍋だと思ってもらえば良い。サヴィル氏賛歌以外は、なにが入っているかは、当方まったく関知しておらん。そいうものだ。スパイ大作戦の指令書みたように、煙のように内容が消えてしまえば我ながら大したものである。古典小説のように側注でも一緒に記載しなければ成立しない、極めて自己中心的内容であるが、語感のみを楽しんでいただければ幸いである。意味を捨て、こくりこくりと舟を漕ごう。心地良い睡眠を促す、テンピュール的枕頭の書を目指している。噺の枕なら大したものだが、全編枕が話しである。ピローのトークしているようなものだ。意図するところは、サブリミナル的睡眠学習的深夜通販的の奇妙な新素材の最新の枕ならば財布の紐が緩むかな、なんとなく観ちまうんだ、のような深層意識に働きかける脱力的揺らぎ、ユルフワ系の話しのつもりであるから、大いに油断し、すっと寝オチせよ。
 本来ならば、ハトサブレーの黄色いブリキの缶の中に封入し、早速マリアナ海峡に沈めるべき内容であることを自覚している。ホームズ先生が、依頼者のプライバシー保護や社会的政治的配慮から、ワトスン博士に発表してはならぬと言った、語られぬ事件みたように、チャリング・クロスのコックス銀行の地下金庫に旅行いたみのしたガタガタのブリキ製の文箱を気取りたいが、文箱など持っておらん。手元にあるのは、銘菓ハトサブレーのブリキ缶である。黄色くて可愛いんだもの。わたしは、もったいないような気がするから空箱収集家であり、字義と字面において四角四面の箱が好みである。丸いクッキー缶は納まりが悪い。円卓なるものは、空間的に非合理的な形状である。よほど広大な部屋なり家に住んでいて、尚且つ空間を掌握していなければ、無用の長物であること請け負う。よほど狭い部屋で、先端恐怖症の気があるならばいたしかたない。もしくは、立ち往生するような豪傑、弁慶をもってしても向こうずねが泣き所だと自覚しておる、危機管理能力のある人間なのか。ちなみに、フィクションなのか、史実なのか分かりかねるが、佐々木小次郎が物干し竿なる長剣を振り回せるのは、長剣を把握している達人だからである。
 タンスには角があるから、足の小指をぶつけるのだ。そのもんどりうってイラつく権利はなにものにも侵害されてはなれぬ日本国民の連綿と受け継がれてきた油断である。そして、通過儀礼的に悟るのだ、足の小指を想定して生きていなかったと。なんてこったい。
 それにしても、使い道がないから露西亜の民芸品マトリョーシカのように箱の中に箱を詰めておる。

 わたしが眉目秀麗であったら、美男子であろう。羞月閉花ならば、美女の可能性もいなめず。
 しかし、生物学的にダブルX染色体に支配されているにもかかわらず、わたしの容姿に月が恥じらい隠れることもなければ、花も恥らって閉じることもないんだなこれが。そんな人間いまだかつて、お目にかかったことがない。まるで、ウォルト的プリンセスの世界観だ。歌えば、小鳥やなんかが群がってくるみたいな。このお約束をコメディーにしたのが、魔法にかけられてという映画である。ヴィランの格とは、視覚的邪悪さであるが、空中を飛び回り緑の火炎を吐くブラックドラゴンに化けられる猫か鳥か蛇か召使を従え、凶悪にスピードと排気ガスの出る車に乗った宰相的権力を持った年齢不詳の継母的妖精的魔女が最高峰であろう。もしこんなハイエンドモデル的ヴィランが存在したならば、世界は早速存亡の危機であろう。滅亡していないのが逆に不思議である。勇気を持って、逃げるために戦い、とっととはだしで逃げ出すべきだ。比較的安全と思われる場所で、正座し、精神統一し澄んだ心で、明日、世界が終わるとしても私は、今日林檎の木を植えるだろうと、もしくは、神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵をさずけたまえと、ありがたい念仏のように唱え精神の安定を図ることをお奨めする。途端に心が研ぎ澄まされ、明鏡止水の境地に近づけるだろう。
 ところで玄関の姿見に写る女は、相変わらず縁眼鏡の等身大のわたしであった。等身大のわたしは、間違っても、現代版の甘いマスクの吸血鬼とちんちんかもかもよろしくやっていられるような容姿ではない。画にならぬ、華がない。そしてなによりも、分をわきまえているわたしには、甘ったるすぎて我慢がならない。ねんごろになると、唾液を頻繁に交換するようだぜ、男女のむつみごとに免疫がねぇから、ばっちいよう。虫歯菌の擦り付け合いにしか見えん。負け犬の遠吠えである、自覚している。輝く白い歯はホワイトニングではなく、総インプラントじゃねぇのか。子供の乳歯の下には、永久歯が発射されるのを待つ銃弾のように顎骨に装填されているんだと。サメの歯じゃあるまいし、骨格標本的幼児の骨はなんだか、気味が悪かったんだ。顎骨のレントゲンがいつだって脳裏に過ぎる。必殺仕事人の首折れレントゲンとそう変わらぬ効果である。抜けた歯の分だけ、顎骨がえぐれてると思うと嫌なんだな。ましてや、金属のネジ埋め込んでインプラントなんて、恐怖以外のなにものでもない。ちょっとした現実味のある、サイバーパンクだ。マッチョすぎる。この嫌悪感のモチーフになった記憶をサルベージしてみたら、無人島に漂流して虫歯で発狂しかけたトム・ハンクスの映画を思い出した。歯痛はもっとも身近にある拷問的痛みだ、そして歯科医の道具は拷問的器具的恐怖を連想させる。しかし、歯を食いしばり底力を発揮せんとするアスリートや、体調に不調をきたすような乱杭歯であったり、前歯の神経が死んでいるのならば、しかたがないけれども。
 わたしは、眼鏡属性ではあったが、むしろメガネが本体のようであった。これは、繊細微妙なるバランスのうえになりたっている。顔面の主義主張が強すぎると、メガネ的人類ではない。メガネと顔面の共生関係、調和こそが全てだ。ナメクジとカタツムリの厳密なる違いであろう。わたしはメガネをかけるべく生まれてきた人間の一人であると断言できる。この世の中には、メガネをかけるべきか、コンタクトにするべきか選択する大いなる権利がある。そして、その権利はなにものにも侵害されてはならん。きっと、わたしが生まれるまえ、鼻の下にクボミ、鼻の下を伸ばしたときの目印みたような人中を作ってくれた、前世を司る大いなる意志の介入を疑わざるをえない。キミはメガネなんだよ、と無垢なる霊体に霊験あらたかなデコピンしたかもしれぬ。メガネをかけるという行為、風が吹けば桶屋が儲かる、バタフライエフェクト的に巡り巡って世界にとってなにか意味のあることなのかもしらん。
 ちなみにわたし、基本虫が殺せない。蜘蛛などなおさら、芥川先生罪作りだ。びっくりするほどの僅かばかりの数枚の掌編で、個人由来不明の信心の感触をすり込むんだからさ。
 軟弱だから、アンクルサムの男子諸君が目を輝かせて熱い眼差しを送るという、ショーウィンドー越しのトランペットかサックス、もしくは黒光りする拳銃みたような光沢のカブトムシも触れない。幼少期、手乗りカブト虫を体験したが、ぎざぎざの足でへばりつかれ必死に引き剥がそうとしたら、あんよがもぎれそうでひたすら怖かった。造形的にまったく人と違っても、痛みを連想してしまう。つまりは逆説的に虫も殺せぬような顔であろう。しかし、やむにやまれず小さな虫を殺さねばならぬこともある。はからずも、大の虫を生かして小の虫を殺すことを実践している。理由は、外に逃がすほど大きくもなく、またパーソナルなスペースで血が強酸のリドリー・スコット印のエイリアンみたように増殖されては困る場合である。そうしたときは、ひと思いにテッシュに包んで圧殺する。もしかしたら、前世とか来世の自分かもしれないから、虫の息では残酷だ。一寸の虫にも五分の魂というではないか。前世を肯定するとなると、何かで知ったのだが、西遊記の沙悟浄さん、本来河童ではなくガチムチ大妖怪であり、三蔵法師(男)様を前世で九回殺したんだと。沙悟浄さんの首に巻かれた髑髏は、九回分の戦利品である。なんだか、シリアルキラーみたいで怖い。まさに、ボーンコレクター。ドラマだのになったのは三蔵法師様十回目の旅であるそうだ。ちなみに悲しいかな、わたしは自他共に認める弱虫である。
 決定的に虫嫌いになったのは、陽だまりにわらわらと一塊に群がる、大量のてんとう虫がドット柄を競うようにサンバを踊るさまを想像していただきたい――地獄の道化師染みていてトラウマ確定である。本当にあった虫怖い話。一匹でもあらカワ、キッチュな柄だねとはならない。パンダとじっと凝視してみれば、殺し屋の目をしたクマだと気づくようなものである。どんなに着飾ろうと、虫は虫である。ゴキブリから、ヘラクレスオオカブトムシにいたるまで、差別することなく平等にひゃあと怖がっておる。筋金入りだから、蛾も蝶も一緒くただ。
 わたしは、三兄妹の末っ子である。長男は一回りも歳が離れている、姉は半回りほど歳が離れている。故にわたしが、大人びているの類義語である年寄りくさいのはしかたがないのである。
 三兄妹、ジェネレーションギャップというものが顕著であった。違った空気感を思春期に纏ったようだ。
 初号機ケータイで考えると分かりやすい。兄はポケットサイズの家電話の子機みたようなストレートケータイ世代だといえなくもないし、姉はガラパゴスケータイ、パカパカフューチャーフォンの世代で、わたしはスマートフォン世代。結局は、現時点において皆スマホだけれども。
 ゲーム機なら、兄はプレーステーション世代であり、姉がプレーステーション2世代であり、わたしはプレーステーション3世代? そもそも全て、世代関係なく兄の所有物である。ドラマの夜の銀座でタクシーつかまえるみたいに、さっと決まりきったお約束であるように車を盗むゲームはどうかと思うが。背徳と退廃の象徴であるところのゴッサムシティかよ。兄はそんなバーチャルな危険運転に祟られて、殊更ブレーキの効きづらい制動距離のイカレタ暴走車を運転している悪夢に苛まれているらしい。これは、兄の脳内放送局の長寿番組的な夢で、忘れた頃に強制的に再放送されるらしい、大変だな。まあ、ねこあつめ派のわたしには、よく分からないけれど。アプリゲームで課金はせぬ主義だ。
 兄は、テンションの低いさかなクンか、ふなっしーみたような声である。そもそもその両者、テンションが常人からすれば、振り切れているようなものなので、どちらかといえば普通である。
 そして、我らがメガネ連盟の初代会長であらせられる。会長はインテリジェンス薫る、か細き銀縁メガネである。
 わたしの両親メガネ的人類ではない。カエルの子はカエルではなく、おたまじゃくしである。鳶が鷹を産むことは、生物学的にありえぬが、鷹が鷲を産むことはあるのだ。もしくは、鳶も居ずまいから鷹に見えることもあるのかもしれぬ。良く言えば、やせ細った文士の風貌である。慢性的な偏頭痛と顎関節症を患っておったなら、いささか難物の不良文士になっていたやもしれぬ。ちなみに、サザエさんの家の隣に住んでおる、小説家の伊佐坂先生、名を難物という。しかし、偏頭痛持ちでもなく、顎関節症でもない兄は、悪く言えば軟弱モノという字引の上の図解ような男児である。しかし、善良なる軟弱モノであることを強調しておく。ちなみに兄さん事務仕事を生業としておる。月一くらいで、回転寿司だのモスバーガーだのを奢ってくれる。わたしのような女性にしてみれば、ヘルシーさは好ましいのだが、兄にはもっとカロリーを摂取してもらいたいものだ。兄さん寿司ならば十皿も食わず、あっぷあっぷギブアップと満腹になる。
 肥満かマッチョしかいない気がする米国に一週間ほど旅行に行けば、標準体重になると思う。数ヶ月ほど滞在すれば、とんでもない肥満体かゴリマッチョになって帰国すると思う。そのゴリマッチョで想定されるのは、ヒュー・ジャクマンがはちきれんばかりに肉体改造した、Xメンのウルヴァリンであって、それ以下ではない。8000キロカロリーによって育まれた恐るべき筋肉の鎧。お相撲さんですら約7000キロカロリーが目安らしいから、実際に見たことはないが東京ドーム的比較基準になるだろう。リアル・スティールという映画で、撮り直しがあったらしいのだけれど、ヒュー・ジャックマンはもう、ウルヴァリンするために肉体改造中、猛烈にウルヴァリンモードであったらしく、CGで首の太さを修正したらしい。どんだけ。それは、誰よりも正義感はあるが貧弱なスティーブ・ロジャースが、アースキン博士の作りだした、超人兵士血清を注入されるようなものだ。つまり、骨格からして違う大変身である。これは、元来腹筋がシックスパックに割れる人間が、エイトパックに割れるようなものである。女人たるわたしは殊更に縁などないのだから調べる気は無いが、腹筋というのは実に不思議なものだ。そしてどちらに転んでみても、アメリカナイズされているであろう。こ洒落た、アメリカンジョークを会得するやもしれぬ。そしてなぜだか西部だか南部なまりの英語、ぺらぺらになるかもしれぬ。もしそうならば、ハンバーグ師匠と呼ぼう。
 兄は男らしく、ご他聞にもれずロマンティストであった。わたしが思うに、マンガで考えていただきたい。男原作のマンガは、アニメになる確率が高いように思える。女原作のマンガは、実写映画化される確率が高いような気がする。VFXの進歩によって、実写化の表現の幅が広がったからなんとも言えんが。これがロマンティストとリアリストの線引きであるとは断言せぬが、男と女では世界観において精神構造が違うのかもしれぬ。
 まあ、兄はワイルド・スピードを観て胸が熱くなる類の人種だ。クールジャパンオマージュだかトリビュートのロボット怪獣映画パシフィク・リムのBGMがバラエティー番組で流れればおのずと血がのぼせ、脈拍数が踊りだすという男子たるものの不可思議な仕組みである。これはパブロフの犬の原理であるから、生物学的にいたしかたない。ヒーロやロボットが好きだし、二次元の銃も好きだったりする。週一で、ネバーランドの住人みたように永遠の少年の心でもって十年以上、少年ジャンプを買っている。ちなみに、年老いたピーター・パンはロビン・ウィリアムズの姿をしている。そして、ジャパニーズホラーが特に鬼門である。姉がレンタルしたシーズン1のスーパーナチュラルという海外ドラマを一緒に観たのだが、霊と悪魔に心底怯えていた。どんだけホラー苦手なんだろうな。なにに怯えるかというと、TV画面越しに儀式やら魔方陣やらが、効果を発揮するのではないかという不安らしい。兄さん、エクス・ペクト・パトローナムとわたしが冗談めかして、魔を払うとふにゃりと笑ったよ。
 しかし秘されたものオカルトを真に受ける兄、マニュアル車を違法改造して尚且つ特殊塗装したような車に乗ることもなく、コンパクトカーに乗っている、日産ノートだけに安直にノトさんと命名していたよ。兄さん、もしこの車がアイアンマンのパワードスーツのOS、AI、高級ホテルのコンシェルジュみたようなジャーヴィスように喋りだしたら、柔らかい声であってほしいらしい。ちなみに兄さん、きゃぴきゃぴしたアイドルを追いかけるような人ではない。そもそも、きゃぴきゃぴするのは苦手である。だから、声優を追っかけてジェダイの騎士に高貴な武器と言わしめたライトセーバーみたようなサイリュームぶんぶん振り回すような人ではない。どちらかといえば、真夏にヒンヤリとしたリノリウムの床の方が好きそうだ。情熱はあるかもしれぬが、兄のは静かなる情熱である。むしろ、苦味走ったオオツカさんと一緒に定期的に世界を救うので忙しい。大きいお兄さんが好きなオオツカさんは、バトー、ガトー、スネークなんだと。結婚詐欺師のウィットニー・ハガス・マツモトもオオツカさんなんだと。そして、主だったオオツカさんは三人いるんだと。
 ちなみにわたし、売れっ子声優のノトさんとハヤミさんの聞き分けが苦手である。わたし、トウチさんという燻し銀声の声優が、ミステーリアニメで犯人たる黒い人になったとき、性別も判断つきかねる機械で加工された声であっても、声の抑揚タメだけでミステーリの構造的クロスワード推理でなく中の人の特徴で犯人を看破したんだけどな。黒い人は実際に声優さんが、ボイスチェンジャーで声を変えているようだ。映画バイオ・ハザードで刑務所に閉じ込められていたクリス・レッドフォードを演じていた声優さんだ。わたくしごとしかないが、プリズン・ブレイクかよと一人ニヤニヤしたものだ。兄がいうには、アニメ十二国記のモブ女仙がノトさんらしく、舟の上の獣人に厳しいモブ男がスギタさんなんだと。スギタさんは、万屋の銀さんだよと言っておった。ちなみに、ホワイトハートノベルス的レーベルの十二国記は姉の趣味である。姉は小説家の小野先生を小野天帝と尊んでいる。新潮文庫の十二国記も集めておる。新潮版は初版だ、と大層喜んでおった。
 そして、ワンピースをリアルタイムで読んでいた、ジャンプを買っている兄ではなく、なぜだかジョジョの奇妙な冒険文庫版は、姉の所有物であった。大いなる謎である。事件記者タンタンに謎の解明を依頼したいものだ。OVA以降、地上波アニメ化以前であるから、なにが姉の触手に触れたか理解しかねる。姉はファミレスでシザーサラダを食べて、シザーと叫びたくなるそうだ。迸る熱きパトスを、冷たいロゴスで押さえつけているらしい。わたし、一般教養の範囲で、ジョジョを借りて読んでおったが、シザーの顔をとんと思い出せぬ。渾身のジョジョネタらしいが、愛想笑いを浮かべるしかない。波紋よりもスタンド(霊波紋)派であった。わたしミーハーかもしれん。しかし、ペットショップ戦のきりっとしたイギーの一人称について熱く語るだけの情熱は持ち合わせておる。ジョジョの世界観における、幽霊という概念についても。気が早いかもしれぬが、第四部の岸辺露伴先生の声はツダさんがいいような気がするんだが。姉も賛同しておる。スーパーナチュラルの天使風で、と。
 姉はスタイリッシュな色縁メガネ族である。ベストジーニーストがあるくらいだもの、一般人部門のベストメガネニスト賞を狙っているのかもしれない。メガネ芸人のオギヤハギが受賞してそうだ。一時期は、コンタクトの派閥になろうかと思われたが、メンドウだからメガネである。
 姉は一過性のアニメかマンガオタクであって、熱しやすく冷めやすい。辻斬りのように、マンガを買い漁るという悪癖がある。なぜに悪癖なのかというと、リビングや、二階の階段などに御伽噺のパン屑の道しるべみたように、落ちてるんだこれが。仲間になりたそうにわたしを見ているんだ。パーティーたるわたしの本棚に加えてやろうかしらん。レッツ、パーリィー。
 姉はユビキタス化的社会進行における、ペーパーメディアの存続を無自覚に支援しているのだろう。ちなみに、わたしのうろ覚えのウロボロスの輪を補完するために、外部記憶装置は必要不可欠である。
 うむ。巻数の付いた書物への冒涜であるようにわたしには思えるものだ。しかし、わたしはマンガは、部屋に置かない主義だ。そもそも集めない主義だ。姉が流行りものを仕入れるからだ。わたしはなんとか姉をその気にし、カラクリサーカスか暁のヨナ(白泉社原作アニメの頑張り屋さんな赤髪のヒロイックなヒロインたちは、自称レンアイ硬派なわたしですら幸せを願わずにおれない。逆ハーレム状態も容認せざるをえない。末永く爆発せよ)を買わせようと密かに画策している。何気に、姉のアンテナの感度は良い。弱虫ペダルをアニメ化決定する以前から、集めていた。わたし、マキちゃん、マキちゃんと五月の蝿みたようにウザイ姉に、なぜに、こんなひょろひょろした玉虫色のロン毛のあんちゃん人気あるんだと、懐疑的であったが、読み終わると、カチューシャ付けてマキちゃんと叫びたくなった。兄も借りて読んでおって、はじめの一歩なるボクシングマンガと対人相関図をあてはめると面白いよ。と言っておった。なにやら物語の構造計算に類似点があるらしい。
 姉はそのうち、ロードバイクを買おうかしらんと言っていた。わたしは、やめろと言う。三日は天下を獲った気でいられるかもしれぬが、所詮三日天下であろう。説によると明智光秀は遁走のすえ、歴史上名も無き村人に殺されたという悲惨な末路を辿ったのだという。特殊な交渉術を駆使したタイムスクープハンターのみぞ知る結末である。ロードに関していえば、金銭的敗北、冷静な客観的分析によると十中八九飽きるだろうということで、さあ見るのだ、埃を被ったダイエット器具の墓場を。象の墓場のような神秘性とは無縁であり、存在意義が剥離し、フリップ・K・ディックの提唱するキップル状態というありさまだ。しかし、確率というのは本来、小数点以下を切り捨てたりせぬ厳密性の学問でもある。もし、二だか一の確率で趣味になったとしても、そのうちサドルがブロッコリーにすげ代わってしまうだろう。シュレデンガーのサドルである。持ち主が目を離した刹那、サドルがサドルである世界と、サドルがブロッコリーである世界とが量子力学的に同時に存在しているのだ。
 世界は残酷であるし、すれ違う人皆、高級ロードバイクに関して言えば、油断出来ない事において巾着切りも同然である。無防備に油など売っているものならば、早速霞の如く消え失せていることだろう。油は売ってはならぬ、油は切らしてはならぬ。なぜならば、シティーでは自転車乗りは、車道のマフィア歩道のギャングと忌み嫌われているからである。ちなみに海のギャングはサメではなくシャチとウツボである。仁義を重んじる、正当なる自転車乗りのスポーツマンシップも迷惑至極であろうが、ビーニール傘片手にイヤホン付けてケータイをいじくりまわしソフトクリームとかクレープを食ってるチャリが幅を利かすこの世の中が悪いのだ。世論は仁義無き戦いの様相である。ボリショイサーカスの熊じゃあるまいし自転車でそんな曲芸は自殺行為であろう。ちなみにわたしは、カントリーに住んでおるが、しょっちゅう半端な素人曲芸師を見かける。斯くいうわたしも、傘に関しては否定できない。すまねえ、濡れ鼠は御免なんだ。
 そもそもが、軽自動車だろうが金額に見合った重さがある。どんなに軽の名を冠してみたところで、外国人にはほぼ軽自動車の概念は存在しないらしい。とどのつまりは額面通りの小さい車でしかない。車は車であり、馬力があるだけに筋骨隆々のサラブレット的馬数匹分の重さはある。
 しかしロードは金額に見合った途端軽くなるのだ。人力であるから、軽いことこそ正義である。たまたまワイヤーカッターを持ち歩く習慣の人が、グラスファイバーだか、カーボンファイバーだか製の最先端の造形美に見惚れたならば、チョキンと自転車鍵を切りたい衝動に駆られるかもしれないじゃないか。いや少なくとも、ワイヤーカッター持ち歩かなくとも、ブロッコリーを持ち歩く習慣の人がいれば、セキュリティー的無防備であるサドルを挿げ替えるかもしれん。
 そして、わたしたちが共有している、アニメ版四畳半神話大系の自転車にこやか整理軍の話をする。どんなに並列世界を渡り歩いてみても、小津の魔の手から逃れることはできぬ。三年ものバイト料の結晶たるロードバイクも、仙人のような樋口先輩に横流しされるのが関の山であろう。隠然たるオズの魔法使いの存在感である。
 ちなみにわたしは、創作的な映画は観たが、オズの魔法使いを読んでおらん。
 それでも買いたいならばしかたがない。強制はできぬ。三日で飽きたら、わたしの股下にサドルをあわせよう。ひめひめ歌えば、おのずと小野田君みたようにケイデンスなるものが跳ね上がるだろう。カントリー・ロードでも歌うか。
 姉はコンビニ社員である。カントリーに住んでおるから、深夜アルバイトのパンクロッカーみたようにピンクだの紫色で奇抜な髪型でピアス付けて反骨精神を体現して接客などありえぬ。シティーとは違って、お客さんにおにぎり温めますかといちいち聞いておるようだ。わたしたち悲しいかな、ケータイの電波は圏内であるが、ピザを注文に関しては圏外である。ちくしょう、真っ暗い部屋でテレビをつけたまま、むしゃむしゃピザをむさぼり食えないなんて、とんだ喜劇だ。シティーに対するやっかみである。大いに笑うが良い。
 姉さん、趣味がコスプレである。二次元を三次元に落とし込み、変身願望を満たすために自己同一化を図るのである。化けた狸の皮算用の気配が濃厚であるが、少なくとも姉の遠征、材料費の投資額は軽自動車一台分は越えておるだろう。狸のようにどろんと、化けるための費用である。美味しいクッキーを手作りすると、どう考えても既製品よりも材料費が掛かり、また手間暇が掛かる理論である。手軽に美味しさを追求するならば、ファミマのミスターイトウのクッキー食ってりゃ間違いが無い。そして、Yamazakiの、シャルロット・ロールの美味さはレボリューションである。
 しかして、舶来のハロウィーンが幅をきかすこの世の中、日常的に且つ、場所が限定的で趣味が扮装であってもなんら不思議ではない。お菓子くれなきゃイタズラしちゃうよ、とぶりっこしながら脅迫するほうがよっぽど質が悪い。トリック・ア・トリート。ちなみに、カボチャの王たるジヤック・スケリントンの美声は舞台俳優の市村さんである。ここ最近の古代ローマ帝国のハドリアヌス帝である。もしかしたら、ハドリアヌスの長城と関係があるかもしらん。
 そしてその合間、間隙を狙いシティーによく出かける。片腕の無いあるるかんマリオネット一体分のキャリーバックをからからと転がして世界を股に駆けるキャリアウーマン風を気取って、勇んで遠征はするが、華々しく凱旋したことはない。残念なことに落ち武者狩りから逃げ惑ったみたいな疲弊ぶりだ。コスプレのスケジュールは過密であり、衣装の意匠にこだわるあまり、慢性的に寝不足であり、そのうえ夜行バスで移動するからである。シティーでなにをするかというと、主にネズミの千年王国である。春夏秋冬を理由に遠征するのだから、際限がない。そしてなんと、シティーに知己が住んでいるだという。姉さん、シティーで土産をちゃんと買ってきてくれる。カントリーに住んでおるのに、東京バナ奈はもう飽きたという贅沢な悩みがある。故に、女芸能人のお宅拝見企画などでよく見切れる、クマのヌイグルミであるダフィ助さんのみならず、芸術家肌のジェラートみたような名前の猫のヌイグルミがわたしの部屋のベッドの上におる。キャビネットみたような本棚の上には、黒猫のジジが籠に入ってちょこなんとヌイグルミのふりをしておる。フフフ、逃がすものかよ。姉が三鷹の森で仕入れた純正である。
 ――それにしてもシティーとはわたしにとって、円柱形でカースト的階層を成した巨大な建造物か、もしくはヒエラルキーの具現化たる金属製のピラミッドの形状であり、ホバーカーがチューブの中を血のように駆け巡っているように思われ、もしくはエビフライの形状の飛行船が飛び交う浮島であり、インディー・ジョーンズでいうところのエリア51的な広大なコストコなる秘密の巨大倉庫然としたものを内包しているらしいのだから、土地鑑など永遠に養われないであろう。巨大だ、広大だ。東京は、東京という理由だたそれだけで、分割することの出来ぬ別世界なのだ。陸路で繋がっているなんてありえないように思われる、一個の独立した液晶画面越しの異世界。ファンタジー染みた存在感だ。愛と希望と夢と勇気で走っているようにしか思えない、フェラーリやランボルギーニとかいう架空の馬牛車が実際に走っているんだろう。この幻想クラスの車は、エルフが鍛えた魔法金属の剣のように魔力を発し、世間一般の中古という概念で大幅に値崩れしないらしい。岩に刺さった剣だ、金床に刺さった剣だ。所有者は、何がしかで頭角を現し、何がしかで角突き合い、何がしかで一角の人物になったのだろう。60セカンズという映画の高級車専門の凄腕車泥棒メンフィスにとっての、決して捕まえられないユニコーン(一角獣)エレノアであろうから、維持費を捻出するだけでわたし基準によると、守護天使の庇護かランプの魔人の超自然的助力か悪魔に魂を売らねば持続できまい。もしくは、強大なる七色に輝く親の存在か。並大抵の収入では不可能であろうから、どこかしらで大なり小なり波風が立つのが人の世の常であろう。世間の荒波の発生源という説もある。そして更に、伝説的な年式だかグレード――当たり年のワインみたいな希少性もあるから、ちんぷんかんぷんである。もし知人に車両保険に詳しい人間がいたら、聞いてみたいものだ。ハイオクで走ってそうな普通の高級外車は、そこまで印象に残らないけれども、カントリーではギリ、ハマーを見たことがある。そのハマーは、神の怒りで動いているように見えたもんだ。車には興味ないが、エンジン崇拝、V8! V8! V8! ヒャッホウ! という心持になったもんだ。きっと、道幅の狭いカントリーなんぞで、長大なるハマーに乗っているような人は、審判の日を果敢に生き抜こうと決意したものと思われる。ゾンビ映画に代表される終末世界におけるハマーの心強さときたら、半端ではない。また、どうやって豪快にハマーを壊すかで、その映画の予算がうかがい知れる。悲しいかな、怒れるハマーは、もう商業的にはロストしたんだと。超古代文明のロストテクノロジー的遺産、超音速ジェット旅客機コンコルドやフロンティアを目指したスペースシャトルのように博物館で飾ってあげて。映画トランスフォーマーのブラックバードのようにトランスフォームしそうじゃね。何気にトランスフォーマーは、CGの細部が作りこまれ過ぎて逆に不鮮明に思えるものだ。だので、登場する車種の記憶はおぼろげである。ハマーって登場してたっけ?
 まあ、わたしなんぞが何かの間違いでシティーに行こうものならば、早速シルク・ドゥ・ソレイユの王冠に相応しいクラウンみたようなアバンギャルドなファッションモンスターかなんぞにおのぼりさんと後ろ指刺され、小心なもんで豪気に恥のかき捨てとはならず、ぷるぷると羞恥心で頬を桃色に染めることだろう。小さなカワユイ子豚ちゃんが、飼い主の都合で都会に行く悪夢のような映画を思い出した。――うん、現実逃避だ。
 さて、ここまで説明すれば、分かっていただけたと思う。わたしには、三つの部屋の本棚があるということを。三つの本棚には、時代――世代という名のゴーストが宿っておる。このゴーストなるものは、個別の脳髄で走る仮想人格エミュレーションを指す。てんでばらばらな思考パーターンがうごうごと主観的指向性を持つとゴーストになる。ゴーストプロトコルは、ボーンアイデンティティーとの二対一体で魂を獲得する。しかし、ダンボールに詰めて、ブックオフに持っていっても輪郭化された意味づけは意味を成さぬ、林檎の木に実る林檎は一個の林檎の実と解体され、換金されてしまうのだ。クリスマスツリーを知恵の樹の象徴とするには、モミの木にオーナメントで飾り立てる必要がある。モミの木が単体で存在していても、クリスマスツリーではないし、オーナメントもまた、ベツレヘムの星が単体で手元にあったとしても、クリスマスツリーではないのだ。クリスマス・カロルのつむじ曲がりでへそ曲がりスクルージさんもまた、冬を夢見る冷蔵庫の雪見だいふくのようにコールドスリープして、ウィンターシーズンを待ちわびておるではないか。そうして、雪見だいふくは、わたし個人の見解によると季語と食感的に求肥の粘性によって、冬にアイスを食うということを推奨しておる孤高の戦士であるようにお見受けする。もちもちした雪兎みたような愛らしさと裏腹に、斥候にジャック・フロスト氏を放つ冷厳なる冬将軍と相対して、ぽふぽふ戦場を駆け巡る柔らかい戦士なのだ。もしくは、おこたでアイス流の始祖であろう。剣術指南の域であろうから、ギラギラした道場破りとは無縁でありどっしり構えてらっしゃる。そのうち、百戦錬磨な兵法書でも書いて、企業戦士に営業戦略と応用されてもいいような気がする。
 そして、ゴーストはその曖昧模糊とした存在感で、囁くものだ。
 そうして、三つの財布がある。ちなみに、わたしの財布は一番薄っぺらい。
 兄の本棚は、はおもに冒険小説と、ミステリー小説が充満しておる。兄の世代は、金田一耕介の孫と、見た目は子供で頭脳は大人などに代表される、ミステリーマンガの映像化が刷り込まれておる。故に新本格ミステリーのムーブメントに波乗りし、芋ずる式に金字塔的探偵小説にまで手が伸びたようである。蜂蜜色のシャーロック・ホームズは兄の蔵書であり、回想と最後の挨拶と、バスカヴィル家の犬が欠けておる。致命的であるが、大いなる気まぐれであろう。アガサ・クリスティーを揃えたものならば、壁面収納染みた本棚が満杯になるらしいから、味見程度しか揃っておらんとも言えるのかもしれない。うろ覚えだが、アガサ先生こんな逸話がある、アガサ先生可愛がっていた姪っ子だか甥っ子だかに、プレゼントとして自作小説作品一タイトルだかの著作権をあげたんだと。ポケットを叩けば、小遣いが二倍どころの騒ぎではない。突如砂漠の真ん中で不夜城を気取っているようなラスベガス的スロットのフィーバー状態であろう。ちなみにアガサ先生、読者の先入観を逆手にとる天才である。
 かといって、兄の幼少期というのも相まって、ネット環境もままならぬ時代である。ノストラダムスの大予言がどの程度の信憑性をおびどの程度の熱量を持っていたのか分からんように、二十世紀を想像するのが難しいが――皆、インターネットをターミーネーターのスカイネットと混同していたのかもしらん。突然、ネットワーク上で超意識、ハイパーマインドが誕生するという不安を殊更煽っておった時代だと思う。人工自然に限らず、人外の知的生命体は人類の共通の敵というプロパガンダを殊更掲げておったようだ。映画2001年宇宙の旅の合理的な人工知能HAL9000も結局は、デイジーベルを歌う羽目になるではないか。
 最近は、SNSなどのションコミュニケーションツールの進歩により、フィクションへのフィードバックが凄まじいことになっておる。宇宙人一つとってみても、第九地区の宇宙人は難民問題の抽象化であり、宇宙人ポールはETやエイリアンのオマージュでありブラックジョークである。ゾンビモノでこれはというものが最近あった、ゾンビとしてカップルの片割れを襲い、彼氏の脳みそを軽食のように携帯し、食べるたびに彼氏の彼女に関する記憶を追体験でき、彼女に恋するゾンビである。我ながら頭がこんがらがるゾンビ設定である。主題は、恋するゾンビであり、カニバリズム的嫌悪感は言及されぬ。元彼の脳みそを食った口でキスするなんて、じわじわ芯にくるホラーである。パーソナルな需要には、斬新な切り口が求められているようだ。
 なにはともあれ、サザエさんの世界観のハタキを持った本屋のオヤジとの駆け引きと本屋の在庫と、本の装丁や帯と相対してのフィーリングと、小説の登場人物の台詞や、有識者のあとがきを道しるべに本を買っていたと思うと涙ぐましい努力である。
 アマゾンレビューと、読書メーターは便利なものだと今実感を伴って理解できた。そもそも、スマホを普及させた、スティーブ・ジョブズの豪腕は凄まじい。フォレスト・ガンプのババガンプ社のダン中佐には、先見の明があったようだ。一時期は、フォレストの言うところの果物屋さんは、業績悪化が懸念されたが、ジョブズ氏の帰還とともにダン中尉の株券は価値が跳ね上がった。まさに三部作的王の帰還である。ITの仲間、二つの会社、そしてCEOの帰還。ダン中佐ことゲイリー・シニーズはキリストみたような容姿をして、神様と喧嘩して仲直りしておった。そうそう、わたしの選ぶ二大ゲイリー、レオンの汚職警官役のゲイリー・オールドマンはカッコ良いよ。何気に子役時代のナタリー・ポートマンも出ておる。スタンド・バイ・ミーにトッポイ不良兄さん役のキーファー・サザーランド(二十四時間の人だよ)が出ておるくらいどうでもいい話ではあるが。
 姉の本棚は、小説でいえばおもにファンタジーである。ハードカバーのハリー・ポッターが収納されておる。ダレンシャンは、途中で諦めたようだ。――そう、そうだよ、ダレンシャンの実写映画には、何気に我らが日本代表であるところの、ケン・ワタナベ氏が出演しておるよ。しかし、まことに残念ながら指輪もナルニアもゲドも揃っておらん。如何ともしがたい遺憾である。もしくは、茅田さんである。この茅田さんなる作家は、ファンタジーとSFと学園モノをバイパスするという特殊技能を有している。心臓のバチスタ手術のような高度な技能である。クロスオーバーかオールスターシステムでいいのかな。内容に関していえば、怪獣映画のような主人公が出てくる。主人公とは、美男美女の姿をした怪獣である。竹を割ったような性格の小説であろう。そしてその巻数は果てしの無い物語の様相を呈しておる。空間とは有限であるから、マンガが所狭しと並んでおる。もはや床に平積みの域である。高橋留美子先生は、こんこんと湧きいずるアイディアの泉の持ち主である。姉は、乱馬と犬夜叉をかき集めておるが、巻数が半端ない。作品別でのアイディアではあるが、仮に全てを統合すれば理屈の上では、留美子先生のアイディアの分量は200巻に手が届く程のこち亀なみであろう。
 ――ふと思ったのだが、乱馬の対人関係は、ここ最近のキャラクターモノのテンプレートが霞んでしまうほど衝撃的な完成度である。対人相関図にすると、シーズンを重ねに重ねた海外シリーズドラマ顔負けである。猫娘こと、あだっぽい中国訛りの完成されたイントネーションの先駆け的シャンプーは、乱馬が大好きなんだけれども、乱馬は筋金入りの猫恐怖症である。いざシャンプーが男乱馬を誘惑する段になると、お約束で水を浴びてシャンプーは猫になる。女乱馬は、ぎゃあと身の毛もよだつほど嫌がり、魂魄抜け落ちたように放心し、更に精神に負荷が掛かると狐憑きならぬ猫憑きのような状態になる。光テレビで観たんだ。姉曰く、シャンプーの声優さんは、アンパンマンのバタコさんであり、NHKのアニメ的お料理おばあちゃんであり、魔女の宅急便の黒猫のジジなのだそうだ。咄嗟にジジの声が喚起された、うむ。チャーミングな声だ。
 そして、順当にわたしの本棚の話であろう。わたしは、マンガは買わない。薄っぺらい財布にとって、巻数の多いマンガは致命的な痛手になる。そこで、文章的情報密度の濃い小説に手が伸びる。それも、単行本ではなく、文庫限定である。だので趣味が読書と断言できない、どっちつかずの存在である。ハードカバーなどというものは分不相応で、おいらのポッケにゃ大きすぎるぜ。シャーロックブームもあるし折角だから、といってパティーシュに手が伸びたりする。わたしの理屈では、パティーシュを書けるようなシャーロキアンは、筋金入りのファンであろうというものである。原書の正典を折り癖がつくまで何度も読み返し、そのシャーロックに関する資料類の数々を収集しなければならないのだ。つまり、バックボーンがしっかりしているパロディだのパティーシュを読めばおのずと、シャーロックIQが跳ね上がる仕組みである。セカンドオピニオン的多角所見こそが重要なのだ。
 まあ、正直に告白すると、シャーロック・ホームズという属性が好きなのであって、正典の冒険にはあまり興味の対象として、稀薄なのかもしれない。明晰なる超人ぷりを持て余しているのかもしれない。わたし基準によると、自意識過剰で強協調性の無い孤独な天才的探偵像は、名診断医グレゴリー・ハウス氏で完成されており、過敏な洞察力を持った名探偵は、数々の脅迫症を患っておる、エイドリアン・モンク氏で完成しておる(何気に日本語吹き替え、角野卓造さんですぜ)。実績ならば、警察機構に属しておる、杉下右京氏の方が凄いような気がするし。しかし、そういった英雄的探偵も皆、ホームズ氏を敬愛しておる節がある。思想や哲学に近い感覚なのであろう。
 あとは、森見登美彦さんである。カントリーでも深夜アニメ枠ノイタミナは放送しておる。アニメ四畳半神話大系とのファーストコンタクトは、語彙が豊富な息つく間もないガトリングガントークにびっくらこいたというものであった。焼け付く銃身でベーコンエッグ焼けそう。そのくらい惜しげもない語彙の数である。ヒャッホー、トリガーハッピーでバンバンバン。
 滑稽味があり機知に富んだ博学なこじらせ大学生の一人称が大活躍するのだ。実に愉快である。そして、原作ありきのアニメにおける無冠の帝王染みた、脚本家さんの手腕にも感服したもんだ。知ってるかい? この世には、ルパン三世や、ドラえもんの脚本を書いている偉大なる脳髄が存在しているんだぜ。蛋白質で出来た偉大なるスフィンクスだ。
 これは文章で体感せねばならないな、とツタヤでさっそく四畳半神話大系と、夜は短し歩けよ乙女を購入した。表紙の絵が素敵だったから。何気に、夜は短しの文庫後書きは、姉が集めておるマンガの作者、羽海野先生であった。わたしの誤解でなければ、アニメ東のエデンの横の繋がりではないかしらん。しかし、あくまでも作品買いであった。
 森見氏二度目のアニメ化を、姉がPCが欲しいついでにADSLから光回線にしよう、キャッシュバックもあるようだし、結果光テレビに加入したことで、有頂天家族を途中から視聴したため、金曜倶楽部の弁天が人間なのか魔性なのか判断つきかねるという疑問が頭の中で天狗飛翔の術状態になってしまった。そして、森見氏は愛すべき毛深い狸を生き生きと描いていたのだろうことが予想された。森身氏はふにふにした柔らかいモノを愛でる嗜好であるように思えたし。とりわけ、オッパイ万歳主義の旗を掲げ、率先して実践されておる思想家であることは確かだ。
 買わねば、と有頂天家族と、ペンギン・ハイウエェイを買い物ついでに夢遊病患者のようにふらりと立ち寄った書店で購入した。わたしの小説分類法において、出版社別の統一感も重視していたのだ、故に四畳半、夜は短しと同じ、緑の背表紙のペンギン・ハイウェイである。わたしの本棚は、引き寄せあう引力によって形成されている。
 毛深い有頂天家族は、真に面白きかな。実に阿呆の血のしからしむところであった。大きな声では言えないが、赤玉ポートワインが、スウィートワイン名義で実在していることを知ったから飲んでみた。姉に後学のために試飲したいんだ、と蝿蚊のようにたかった。姉が何気なく気づいた、NHKの朝ドラで太陽ワイン名義に変更されていた殊更甘いワインである。国営放送であるNHKさんは、歌の歌詞だろうが真っ赤なポルシェを、真っ赤な車に差し替える力を持っているらしい。兎に角、未成年だが、酒は百薬の長というではないか、見逃していただきたい。コップで数口飲んだら顔面がほのかに痺れて、ふぅん、これが酒に酔うという状態なのかと思った。思考のアクセスがショートカットされたかのようであった。まだ、羽化登仙の心地にまでは至らなかったけれども。四方山家は、そろって下戸の血筋であるようだ。姉は三口くらいでブラックタイガー的海老が茹で上がったように劇的な変化でもって真っ赤な顔をしていたし、わたしは思考が乱反射してなにやら自分を俯瞰しているかのような錯覚に囚われたものだ。あたかも、不思議の国に迷い込んだようだった。もしくは、木の上で迷い込んだもう一人のわたしを、訳もなくにやにや笑う猫の心持で眺めているようであった。ちなみに、ルイス・キャロルは男だよ。
 そうして、ペンギン・ハイウェイに辿りついた。森見氏は、氏の得意とするところの四文字熟語や、硬派な語彙をまるっと封印し、氏の水曜どうでしょうの北海道テレビ放送的心のホームであるところの摩訶不思議が息づく京都を閉鎖した。古都京都に憧れにも似た情景を抱くファンにしてみれば、ぶう、ぶう、ブーイングされかねない荒業である。残るのは、氏の鋭敏なる洞察と、自由な発想力、柔軟なる擬音表現、比喩表現だけであり、そして、違った角度からアプローチするオッパイ万歳主義である。万民による、万民のためのオッパイ万歳主義の求道なのかもしらん。
 なにせ主人公が、利発ではあったが少年なのだ。それも、一人称で。
 これはもしや、作家性を獲得した売れっ子作家がたどり着く境地、読者層の新規開拓ではないのかしらんとはたと思いいたった。
 国民的作家にもなると、現代小説から、時代小説、ファンタジー、SF、ホラー。ミステリー、ジュブナイル、なにを書いても面白いのだ。現代小説には、現在に内在する生きたテーマを穿ちぬく必要があり、ファンタジーはこの世の物理法則を恣意的に捻じ曲げる力が必須である場合もあり、その必要がなくとも神話大系戦略的思想は必須である。時代小説は社会風俗に対する深い造詣がなくてはならぬ、時代にあった古風な語彙も。SFの場合は、現行する科学技術の未来予想や、学問的難解な専門用語に傾倒していなくてはならない。ホラーは、恐怖のエフェクトを常日頃収集し、とことん煮詰めて濃度を濃くしなくてはならぬ。ミステリーにいたっては、過去の膨大なる判例染みたトリックに通暁し、許容出来る偶然、論理的に証明出来る必然を選り分け、明確なる種と仕掛けを舞台演出に落とし込まなくてはならぬ。ジュブナイルや、青春モノは、作家の内に水中花のように保存されておる心を感受性豊かな世代に向けてチューニングする必要がある。つまりは、ジャンルという巨大な書架を十字架のように背負はなくてはならない。根底にあるべきものは、リアリティーという名の異常なまでの説得力であり、その説得力の根底にあるのは人間性である。
 百万回生きた猫の話も、とどのつまりは人間のために描かれた人間性である。
 そして、筆力のバロメーター的試金石は、わたし基準によると、静謐かレーゾン・デートルという難しい言葉をいかに使いこなすかで決定する。それがわたし好みの文体であり、文章的にこの言葉を違和感無く落としこめることこそが、力量であるように思える。別に無理して使う必要性は無いし、そこまで自己主張の強い単一性は無い(殊更一人称におけるレーゾン・デートルに関して言えば、まさに単一性であるように思われるかもしれぬが、レーゾン・デートルなる言葉はフランス語らしいので文体によっては浮いているなあ、突如、大航海時代の気分で瀟洒な美味しいパン屋さんを発見したように、フランス語の店名――覚えられないよ、住所でしか友人に紹介できねぇや、気取ってやがるぜ、あつかいされるもんだ。実にムツカシイ単語である)、散文的ならば、代用的言葉五万とあるどころか、八百万とある。ただ必然的に配置されているのを読むとなんだか関心してしまうんだな。
 ペンギン・ハイウェイは、設定の妙もあったが、わたしは森見氏の温かい心にほんわかしたものだ。うむ、氏の本を刊行順に買おうと決意した。これこそが、作家買いである。本棚の分類法も変更しなくてはね。
 この心の温かさとはいったいなにに由来するのであろうか。わたしは暇を見つけては、高等な思索に耽った。この思索を繊細微妙な思春期の悩みと勘違いされては困るので、洋式便器に座っておるときや、湯船にとっぷり浸かっているときだけである。そのシンキングポーズたるや、ロダンの地獄の門にちょこんと物憂げに座る、考える人のようであったような、ないような。そこで導き出されたのは、もしや文豪夏目漱石なのではないか、という突拍子もない思考の飛躍であった。もちろん、勘違いである可能性も否めない。詐欺師映画のスティングのロバート・レッドフォードが、オーシャンズ11のブラッド・ピットと同一人物であると断言するようなものだ。映画スパイ・ゲームの共演で親子ほども歳の離れた別人であることは確定しておる。つまりは、どんなに似ていようが、それぞれの人生がある別人なんだ。黒羽快斗と工藤新一が別人であるように。
 映画のリベンジャーや、恐るべきストーカー、または強大な敵の動向を窺う名探偵みたように壁面に新聞記事、写真や殴り書き走り書きポストイットべたべた張って、画鋲から画鋲に赤い紐の線で浮かび上がった解ではないのだ。点と点とが繋がって、線となり、星座を形成するような高度なものではない。
 夏目氏は、旧千円札になるほどの大偉人である。日本通貨になるということは、外国人に自慢の日本人だと紹介するようなものであり、また日本人ならば、日本人の代表の一人として誰しもが偉大であることを知っていなくてはならないのではないだろうか。しかしながら日本の貨幣は、ここのところ政治色の濃い偉人を避けているようだな。うむ、ところでわたしに限って言えば、夏目漱石はうかつにも坊ちゃんしか読んだことはなかった。お恥ずかしい話であるが、赤い文庫が素敵だったもんだから、ブックオフで買った。うっかり誰だか忘れてしまったが、坊ちゃんこそは日本最古のハード・ボイルド小説だと言っておった。おお、と関心したものだ。
 つまりは、文学を志す者ならば、ドレスコード指定のレストランみたように、礼儀作法として夏目漱石を体得しているのではないだろうか、意図、無自覚に関わらず、売文できるような人物の書架には必然的に、巨人夏目氏が鎮座しているのではないか。それも、文庫ではなく、大判の全集かなんかで。つまり、森見氏の背後に夏目氏を幻視してみたところで、森見氏が意思決定の命令系統で上位に夏目氏を置いておるとは限らんということだ。
 そもそもが、わたしが森見氏を分かった気になっているのもまた、幻想である。
 結論から言えば、小説は楽しんだ者勝ちであり、作品の外で縦横の繋がりを見出したところで、それはただの個人的な解釈でしかない。作者が影響を受けた師弟関係にあると主張しても、流派であってまるまるその人物になれる訳ではない。書物で城壁を築くが如きの京極堂の店主の言質を借りるならば、解釈はあっても解答がないのが書物のありかたなのだろう。そして、役に立たない本などというものは一冊たりともありはしないのだ。わたしは、兄の蔵書で京極堂シリーズを少しばかり齧っておった。知らずして、釈迦の掌で飛び回る孫悟空の心持になったものであったが、乳歯が抜けて歯茎がむず痒い子供が、はむはむと鉛筆を甘噛みする程度であろう。人生経験の未熟さ由来の視野の狭い人間が突如、死角の広さに驚くが如き、あたかも井の中の蛙が大海を知るが如き、見識が揺すぶられて、理路整然とした博覧強記に中って、一過性的に自分のポテンシャル領域で明晰になったような心持になったものだ。これは、ブラウン管TVでブルーレイディスクを出力するようなものである。信じられるかい、京極氏の蔵書は二万冊以上だという。タイトルホルダーでレコードホルダーだ。圧倒的な感嘆である。仮想の京極氏が三分間特撮ヒーローのようにむくむくと巨大化する。なんとなく、開かれたフランス窓のようにジャメフな世界を覗き込んで、なんとか接点を持ちたくて、ケビン・ベーコンゲームならぬ、著名人たるキョウゴク・ナツヒコゲームを開催してみた、スモールワールド現象、しかし、六次の隔たりは突き破れない壁であって、実際的に少年ジャンプでヨウカイ漫画を連載する程の熱意と才能とバイタリティーがなければ妖怪ビジネスの総本家で元締めの一人たる京極氏に謁見を賜ることはできまい、影でもなく、実在の、生きていて実体のある血の通った生身の京極氏と知り合いでもないので諸説あるが五万冊越えもありえるという、文字換算したら数えるのも馬鹿らしい天文学的数だ。許容出来ない数字とは、とりあえずカウント出来ない大という認識であり天文学的数字と仮称さるる。ええ、どんだけハードディスクとCPUとメモリスゲーんだ。わたしは本一冊読んだだけで、バックグラウンドでぬらりくらり活動してるよ。Ctrl、Shift、Escキー同時押しでリソースモニターが開ければいいのに。ちなみに京極氏は海外ドラマの登場人物のような使いこなしてる系こだわりのマック使いであり、なんとなくウインドウズ使いのわたしとは前提条件からして違うのかもしれぬし、アップルのロゴの林檎を誰が齧ったかも知っているかもしれぬ。しかし、二万か五万とは、文字通り万巻の書である。最高級のペルシャ絨毯の目を数えるようなものだ。わたしだったら、早速人格が分裂してしまうだろう。花束を捧げられたメイズランナー、アルジャーノンみたいになっちまうよ。
 しかし、折角なのだからと、夏目氏を嗜むことにした。本は読めば読んだだけ、視界がひらけるものである。あたかも、上へ上へ登っいくようで――ただそれは螺旋階段の形状をしており、同じ場所を行ったり来たりするものだ。新世界は縦軸にしか伸びていかないものである。横軸の広さは、知識や心に関して言えば、許容範囲は先天的なものだろう。
 矮小なわたしは、か細い螺旋階段をうろちょろしておる。もしや、エッシャーのだまし絵で有名な錯視的螺旋階段、ペンローズの階段かもしらん。ならば、高低など幻想である。それに、あまりに根を詰めて螺旋階段を建造すると、ピサの斜塔みたように傾くのが関の山であろうことが予見された。建造物の構造計算を間違ったか、または忘却という名の地盤沈下である。
 偉大な灰色の脳細胞を有しておったならば、そもそもが敷地面積が広く、ブリューゲルのバベルの塔のような大建造物となり、仕舞いには只事ではないからと、天空に飛び立ちラピュタ的影響力、存在感となる。ラピュタだけに、芸術財宝的金言や使用目的によっては悲しい最終兵器にもなりえるイデオロギー満載であるが、やはり龍の巣に守られていて、有識で共感覚が鋭敏に研ぎ澄まされている人間にだけ開かれるものである。そしてたどり着いたならば、雷に打たれたような衝撃でもって、エウレカ! と叫ぶんだろう。
 ここまで読んでいただけたならば、わたしのような単純な人間は、キュウリを磨り潰して、理屈も仕組みも分からんのに生命の源を抽出しているつもりになっているようなものであることに気づかれたかな。
 うむ、文庫で一番お得な出版社を選び、まずは吾輩は猫であるからである。猫小説の金字塔だ。まがりなりにも、猫の派閥の末席に座るものとして、体験しなければならない。水面下で、人知の及ばぬ猫と犬の軍勢の諍いがあったならば、猫の軍勢に甘っちょろい人生観によって錆びついた真剣味を得物に助太刀せねばなるまい。しかし、所詮太刀打ち出来ぬだろうから、おろおろ衛生兵として疲労困憊の猫をキャッチし、目ヤニを取って人知の及ばぬグレートウォーズにリーリースしてやりませう。

 ――吾輩は猫であるは、一癖も二癖もあるインテリゲンチャ達のごった煮であった。インテリジェンスを諧謔性や滑稽味で包んで、近代例を見ない程の大発明であるところの、猫の視点的一人称で繋ぎ止めておった。
 夏目氏は原稿用紙の空白が嫌いだったのか、またはそういうご時勢だったのか、みっしりと濃密な内容を書き連ねておった。改行に慣れ親しんだ今日日の現代人にはちと、圧迫感があるかもしれぬ。うむ、京極夏彦氏が改行がためにレンガ本になったのはいたしかたないことだ。京極先生、文章がページ跨ぎしないという徹底振りである。
 きっと、夏目氏立派な万年筆で且つ、こだわりの調合インクで書いていたんじゃないかしらん。
 吾輩は猫であるの内容に関してはアマゾンのロゴのように、片方の口角を上げて矢印みたようににやりと笑えた。この笑みと流し目を組み合わせたならば、ウォルト的笑みである。日本人たる平たい顔族がこの笑みを浮かべたもならば、含み笑いやシニカルな冷笑と受け取られるので、注意喚起を促す。
 わたしは、そんな訳で名前の無い猫の一人称を遅ればせながら体感した。しかし、難解な部分が多く、必然的にわたしのIQや人生経験の未熟さに由来する情報の取捨選択が行われたのは自明であった。そもそもが、内容に起承転結なんて無いんじゃね。麦酒さへなければ、吾輩氏延々と人間観察を続けていられるだろう。金満家の鼻持ちならない金田氏の細君金田鼻子さんをけちょんけちょんに鼻を畏敬半分に貶し続けることも可能であろう。
 しかし、偉人に数え上げられるような文豪である。人間が、豪腕で書かれておった。社会情勢や社会背景が、どんなに異世界染みていても、結局は人間が上手いこと書かれていれば、1.21ジゴワットのエネルギーをフラックスキャパシターに送り、ポルシェのエンジンを積んだデロリアンで時速88マイルに達しなくとも、タイムマシーンとして機能する。共感を刺激するのは人間性である。
 この人間性を繋ぎ止めるのは、生きるにあたってどこまでも身近な言葉であり、世界観だのイズムだのという特異性を獲得した大人物は、巨大な網のような構造物で他者の自意識を捕まえてしまうのだ。――もしかしたら、殊更巨大な超然とした鯨の形状なのかもしれぬ。聖書のヨナ。ピノキオ。ジョナサンと宇宙クジラ、スターファインダー。白鯨。シドニーに向かうカクレクマノミのお父さんの大冒険。枚挙に遑がない。
 しかし、わたしは、小さな宇宙人がトレンチコートのエージェント二人に抱えられている写真みたように、ぐでんぐでんであった。眼圧がぱっつんぱっつんであった。文章が目まぐるしくって、額をジュニア用金属バットにつけてぐるぐる回ったかのように目が回る。
 何気にわたしは、小説は寝床でしか読まんのよ。うつらうつらしながら読んでいるから、一般人基準の読解出来ているかも怪しいもんだ。どんなに、豪速球であろうが、キレッキレの変化球であろうが、極めて個人的なストライクゾーンとキャッチャーミットに収まらなければストライクではない、意味は理解出来んもんだ。しかし、只事ではない球威である。自意識が、バッターボックスで、打ち返してやろうと待ち構えていたが、見逃し三振である。センターサークルの自意識二号も、お手上げだぜと茫然自失の体で眺めておる。許容限界を超えて、早速脱力して、眠るには図らずも打ってつけだ。わたしの人生において睡眠の打率は、十割に限りなく近い。稀に徹夜などしたものならば、使用済みの短くて細い注射器の針の海で泳いでいるような不快な頭痛に苛まれる。
 しかし、文庫本の出版社の都合上、吾輩、坊ちゃんの次にこころを読んでしまってね。坊ちゃんが爽快だっただけに、こころでなんだが、ナイーブになったもんだ。夏目氏、こころの文体極限まで体を絞ったボクサーのような仕上がりであった。技は老練な合気道の達人みたいなもんだ。そしてペンは剣よりも強しの格言的得物は快刀で乱麻を断つが如き切れ味だ。なんだか夏目氏は、現代物理学者みたいな端的な分析と証明なんだよな。針の穴に糸を通すような正確な射撃だ。あらすじにすると、僅かばかりで伝わってしまうが、現実に軟着陸させるために多くの肉感的技巧が凝らされている。それからと、門は積んであるから、三四郎から、作家買いせねば。
 もちろん、その間マーベルのヒーロー映画で、カメオ出演しているスタン・リー探しをしたりもしていたし、また油断していると、後々エンドロール後のオマケでCGアニメーション化されたスタン・リーに驚いたりする。皆、スタン・リー好きだな。最高のオマケだよ。金色のチューブの香味ペーストで一般家庭料理にしては完成されたチャーハンを食べたりもしていたし、うかつにも平日の夜中にパチンコ番組のパチンコ台のぴかぴかギミックに目を奪われ、寝不足になったり、金曜日は録画するほどでもないけれど、習慣で見ている六時二十分からのNHK番組を観ていたり、無性にインスタントインスタントしている大冒険の携帯食みたいな麺のラーメンが食べたくなって、シーフードヌードルに酢とラー油を入れてフォークで啜り、湯気によって鼻腔が刺激され鼻水が垂れてきてそれも啜り、結果、宇宙人でもアンドロイドでもないなんの変哲もない生理現象を発見し、ただの人間であることを再認識し、ニキビが残念な第三の目のように眉間の中心に出来やがってげんなりし、特筆すべきでないなんでもない日が経過していた。
 そして、こころの余韻が定着し、内容が薄れてきた頃、夏目氏友人帳でも開こうかしらんと思い立った。リアルガチの夏目氏の交友関係、交流関係も大変興味深いものだが、夏目金之助氏は、夏目漱石という擬人化がなされていたりもする。その擬人化された夏目氏を作中に登場させるのが、夏目氏友人帳である。また、能弁である文体模倣も、夏目氏の擬人化であろう。偉人なるものは、なにかと擬人化される宿命である。大河ドラマで明智光秀程、性格が違っている人を観たことがない。史実はよほどの事が無い限り変わらないが、擬人化における性格は作品ごとに変わるものである。
 まず、『吾輩は猫である』殺人事件を読んだ。
 読書メーターの難しい話しているんだけど、ただ猫が集ってにゃーにゃー鳴いてるだけなんだよなあ、的感想に背中を押された。微笑ましいじゃないか。月夜の晩の神秘的な猫の集会が想起された。
 奥泉光氏、文体模倣の天才だ。吾輩こと名前の無い猫君、雄弁に語っておった。夏目氏の霊を憑依させた、イタコ的作家だ。そしてここにいたって、シャーロック先生と、夏目氏の線が交差する。ホームズ君なる猫の犯罪研究の先生と、善良なワトスン君なる猫相棒が登場する。
 吾輩こと名無し猫君が、とある理由で自分を巨大な虎だと思い込んで、侍犬君と呼称するところのバスカヴィルの魔犬に突進するシーンはカワユイ。ホームズ先生猫、名無し君やめろと理性的に説得を試みるが、名無し君は無謀にも、てってってと突進するんだ。
 史実だと夏目金之助氏、ロンドン留学の時期に、近所でホームズ先生随分活躍しておったんだと。もちろん、ホームズ氏は、フクションの登場人物だけれども、擬人化されたキャラクターとしての夏目漱石像と、この偶然の大接近は、惑星直列のやうに大変興味深いものだとホームズ、夏目両者の門下生と自負するところの作家先生達が嬉々として交差させているようだ。
 次は、山田風太郎氏の黄色い下宿人かなとも思ったが、短編であり、短編集ではなく部分的に読みたいケチなわたしには比較的入手しづらいので、長編である島田荘司氏の漱石と倫敦ミイラ殺人事件を読んだ。
 夏目氏と、ワトスン氏の記述という体裁で交互に語られる事件は、微妙に――いや、うん。大幅に食い違っていたよ。実に面白い趣向である。島田氏、よくもまあ、理路整然としたホームズ氏という超人的思考と、その当時の文化人的夏目氏の留学先でのコンプレックス的思考を書き分け出来るものだ。種も仕掛けも分からない、超奇術のようだ。将来的にわたしが詐欺師かなんかになって、仁義に反する権力者に復讐かなにかするときは、ポーカーの強そうな島田先生にブレインになってもらって、巧緻な青図面を引いてもらいたい、そして残忍な権力者をカモにしたいもんだ。島田先生と、わたし達は鼻をぴんと弾く合図するような結束感を持ちたいものである。妄想だけれどもね。
 夏目氏の記述によるところのキチガイ扱いされておるホームズ先生像は、実に滑稽味があった。風刺画のマンガみたいだ。夏目氏は、無礼なホームズ先生とのファーストコンタクトに随分ご立腹らしい。ワトスン氏にだけは心を開いておったようだ、英国紳士的扱いをしておる。
 もしくは、ワトスン博士その人こそが、現代科学捜査の父で明晰な頭脳の持ち主であり、シャーロック・ホームズなる人物は、架空の人物であり、しがない舞台役者レジナルド・キンケイド氏が演じているのかもしらん。迷探偵シャーロックホームズを光テレビで観たんだ。随分若い、マイケル・ケインだったな。ここ最近もっとも印象に残っている出演映画は、ゴッサムシティの億万長者、ブルース・ウェイン氏の豪邸のアルフレッド、執事さんである。
 しかし、わたしに一貫性を持たせようとしても、二重振り子のような不規則な動きである。
 ホームズ氏、森見氏、夏目氏、の順で読書しておったが、いきなり、サリンジャーのライ麦畑でつかまえてを読んだりするもんだ。ジャンプの暗殺教室でヌフヌフ紹介されておったから、兄の蔵書を借りて読んだ。兄は、アニメシリーズの攻殻機動隊で、重要なアイテムとして登場しておったから買ったようだ。アニメシリーズの攻殻は、わたしなんかによると歌うタチコマ君にひたすら萌えるのが醍醐味である。そういえば、秘密の金魚の女の子の声、クレヨンしんちゃんだよ、と兄が何気なく言って、わたしはびっくらこいた。夏目友人帳の狐君じゃないか。ちなみに、夏目友人帳は美男美女的声優人が多すぎて、美声の記憶がゲシュタルト崩壊気味である。
 ライ麦畑の内容は、思春期の融通の利かない潔癖さ、持て余してるフラストレーションが瑞々しく書かれておった。ヤケクソみたいに自分も回りも傷つける、ギザギザハートである。しかし、フォレスト・ガンプとテレビで共演しておった、ロックスターを殺す肯定論にはなりえないよ。
 そして、二期をやるからと、再放送したサイコパスというアニメを遅ればせながら観た。やむをえない事情で女学生の事件が放送できなかった、第一期の新編集版のサイコパスだ。
 うむ、リアルタイムで観ればよかった。作中で悪のカリスマ槙島さんが、紙の本を読みなよと言っておったから、うむ、紙の本を読もうと思った。この紙の本を読みなよ、とどのつまりはSFを読めという意味であろうと思った。
 兄にサイコパスを観たんだ、SFはないかい、貸してくれろと言うと、漆黒の翼のようなSF文庫を渡された。伊藤計劃氏の虐殺器官であった。なんだか、おどろおどろしい題名であったし、わたしは、そんな人は知らん、サイコパスに出てなかったじゃないか、フリップ・K・デックかウィリアム・ギブスンが良いんだ。と、見知ったばかりの効能も分からぬ外国の薬のように名前を諳んずる。
 兄はプロジェクトイトウという名でサイコパスに出ていたし、引用もされていたよと言った。伊藤氏の名前の読み方が、ケイカクだということがこのやり取りで判明した。わたしは、地名と人名には単一性が無い、故にお手上げだ、どうかルビを振ってくれろ、ムツカシイということを何年か前に悟っておった。小豆島は、アズキ島じゃないんだ。
 この帯を読んでごらんよ。と、兄は漆黒の文庫本を指差す。おお、と思った。小島氏はちと知らぬが、伊坂氏と宮部氏は知っておった。伊坂氏は映画化されたものをたびたび観ておった(間延びした話し方の浜田岳さんの登場してる映画が好みだ。ボブ・ディランの風に吹かれてをテレビかなにかで、聴いただけで、切なくなっちまうのよ)し、宮部氏は姉からブレイブ・ストーリーを借りて読んでおった。国民作家の只事ではない、紹介文であった。もしや、SFというジャンルは、かなり流行ってるんじゃなかろうか。それとも、伊藤氏が凄いのか。
 兄の蔵書は、基本ミステリーと冒険小説であって、SFは許容していないはずだった。映画ルパン対複製人間的な巨大な脳みそ的なSFが苦手なんだと。AKIRAなるアニメ映画は、この世でもっとも完成された地獄だと言ってプチトマトが、と意味不明な言葉を漏らしてガクブル怯えておる。しかし攻殻は、大丈夫どころか寧ろ大好きなんだから、意味分からん。うなじにUSB端子みたいなの付いてるのに。しかし、兄にも兄なりの経緯があれば、SFをも買うのだ。もちろん敷居が高い感は否めないだろう。ソバだのラーメンだのをズルズル啜っているように、作法も分からずパスタを空気を含ませて啜っては場違いで肩身の狭い思いをするもんだ。まずは、日本発祥のケチャップたっぷりなナポリタンあたりから、パスタに慣れるべきである。兄は一時期、PSPを所持していた。なんでも、オオツカさんとその当時最新の世界を救うためには、プレーステーションポータブルが必要であり、そのため迷彩柄のPSPとソフト同梱版を購入したらしい。しかし、兄は一人ぼっちでモンハンをプレイするようなものであった。協力プレイなどしないで、たった一人で戦争をしていたんだ。悲しい話だよ。兄は微苦笑を浮かべて、レールガンが使えないんだ、と意味を量りかねる悲しみを吐露しておった。兄は工夫して、全てのミッションをS評価(なんでも、突進してくる恐竜を麻酔銃で眠らせるんだと、早速意味が分からん)になってやっと満足し、PSPはわたしのものになり、わたしは、中古のシュタインズゲートをプレイしたものだ。シュタゲ、映画デンゼル・ワシントンのデジャブと、バタフライエフェクトあたり参考にしたのかもしらん。気のせいであっても、大変興味深い内容に変わりはない。そして、わたしはバタフライエフェクトのえげつなさが嫌なんだ。喩えるなら、くさくさした暗い日曜日みたいになっちまうんだ。スラム・ドック・ミリオネアとかさ、貧困層のハングリー精神のえげつなさに、落ち込んだりするんだよ。人間性の暗部に直接切り込んで実行していくようなスタイルの作品は、動揺してしまうんだな。絶対、どんなに名作だろうとダンサー・インザ・ダークは観ないと心に誓っておる。けれども、パンズ・ラビリンスもスティーヴン・キング原作のミストにも絶望しないのだから我ながら、えげつなさの定義が分からん。それにしても、そのうちと思いながらもダンガンロンパは、まだ買っていないから、PSPのバッテリーには余力が有り余っている計算になる。アニメの記憶が薄れて、攻略方として機能しなくなるまえにハッスルしてもらいたいものだ。
 詳しくは知らぬが、そのオオツカさんと世界を救っているうちに、伊藤計劃氏にたどり着いたんだと。
 虐殺器官を読んだ。
 完璧な構成の小説だ。まず、安らぎに満ちた悪夢みたような心象風景から始まる。グロテスクな表現をロマンチックな比喩表現で梱包されており、実にキャッチーな書き出しだ。映画ファイトクラブの冒頭で、口の中に銃口突っ込まれて、全てはマーラ・シンガーという一人の女性に起因する以来の衝撃だった。最近、光テレビで久しぶりに観たんだけどさ、マーラ・シンガーって、ヘレナ・ボナム・カーターなのな。英国を代表する女優であり、英国王のスピーチで王妃役だったりとか、ここ最近の英国のファンタジー界のトップランカーハリー・ポッターに出演しておる。映画でジョニー・デップと共演すると虐げられるか痛めつけるか殺される女優さんである。この悲惨な運命は、大概的に内縁関係にあった特殊な世界観を持ち、異常なまでの表現力のある映画監督ティム・バートンあってこそだ。ティム・バートンとツーカーな盟友ジョニー・デップを巻き込んだ公然たる高尚な愛のカタチなのでありましょう。
 なんだこれは、と読み進めるうちに、アメリカ人の一人称だということが、矢継ぎ早に判明する。このアメリカ人の一人称なるもの、デティールの細かさが日本人作家のものとは思えないほどだ。あたかも、アメリカ作家の原書があり、語学に堪能でセンスのある翻訳家さんが手がけたような文章だった。少なくとも、日本人が書いた小説なのに、英語圏で翻訳されるとき、日本的慣用句などが意図的に排してあり苦労が少ないような歯切れの良い設計だった。フッシュストーリーを翻訳すると、ホラ話になるような難解さがない。太公望を釣り人と訳す必要性がないのだ。
 そして、その一人称は、微に入り細を穿っているものだから、感情誘導が半端ない。また、世界観は日常から徒歩数分の好立地条件であり、妙に生々しい。実名で南米の麻薬王パブロ・エスコバルの名前があがったりするのだ。世界まるみえテレビ特捜部で、パブロ・エスコバルの趣味で作った動物園から、カバだかが逃げ出して、野生化してその付近の住人に多大なる迷惑を掛けているというのを観たのを覚えていた。外来種問題の個人版って、どんだけだよ麻薬王。
 あたかも、ヒットアンドアウェイのような戦略。まさに、蝶のように舞、蜂のように刺すような華麗な文章だ。
 該博なんだけれども(作中で語られるレミングの捏造された集団自殺なんて、深夜にNHKで海外の大学教授が講義するような内容だ。教授曰く、方程式の間違いなんだと、慣性の法則的メリーゴーランドで喩えられていたが正直分からん。とりあえず数学的誤差が遠心力的にどうのこうのらしい)、とっつきの悪さがまるで無い。情報の開示方法が、いちいち標語か警句みたいなんだ。そのいちいちの具合たるや、全編に満遍なくなんだよな。一流のコピーライターのキャッチコピーみたい。キャッチコピーだらけの小説ってヤバクナイ? スゲーラッパーみたいにリリックが聞こえないメロディーに乗っているかのよう。一言一句隙間無く見逃せない。ちなみにわたしは、ラッパーに詳しい訳ではない。エイトマイルというエミネムの自伝的映画で、白人ラッパーも大変なのだなあ、と思ったくらいである。
 それにわたしと違って、映画好きがイイ感じに喩え話として機能している。
 うかつにも、スティーヴン・キング原作のキャリーを見逃してへいへいのほほんと生きていたのだけれど、ウェット・ワークの比喩表現的説明として物語の中で語られていた。そして、大層印象的に語られていた、2001年宇宙の旅も。
 これは観なければと、シシー・スペイセク版と、クロエ・グレース・モレッツ版のキャリー・ホワイト両方を贅沢にも体感した。無印版と呼んでも差し支えない、シシー版は冒頭でいきなり学校のシャワールムでヘアヌード出てきてびっくらこいた。これは、シシー・スペイセクの肋骨が浮き上がったような貧相な裸体と健康的な裸体の対比を意味してるんだろうけれども、地上波じゃ放送できねーなと思った。どうりで、ミザリーだのスタンド・バイ・ミーだのはレンタルビデオ店で借りて観る必要がなかった訳だ。どうか、イチジクの葉を。
 深夜番組でミッツ・マングローブさんが仰っていたが、オカマがテレビに出演するようになったのは、女の乳首に規制がかかったからだと言う。深いお言葉だ。
 申し訳はないけれども、シシーさんわたしの眠れる被虐性を揺さぶり起こすくらい、キショい笑顔を浮かべていた。わたしの攻撃性は、デコピン程度ではあるけれども。日本でいうところの晴れ舞台で晴れ姿である成人式染みた、プロムナードでさ、豚の血をぶっかけられるいわれはない。同情したから、大いにキレろ。
 なんだか、血まみれになると古いSFドラマの木星人みたいな粘つくような動きで、目ばかりぎらぎらした殺戮者になった。リングの貞子みたようなビジュアルアイコン、アメリカ式の怨念の暴走だ。なんか、ハロウィンとかで悪ノリで扮装してる人いそうだ。なぜ悪ノリなのかというと、ピンクの塗料じゃないと、早速911に通報されるだろう。
 それ以外は、何気にとばっちりでしかない女先生の扱いが可愛そうに思えたし、ジョン・トラヴォルタが随分若いなと思った。
 日常になんとか帰還しようと、バスタブで必死に死んだ豚の血をこそげ落としているキャリーの、哀れさったらないよ。全ては血で始まり、血で終わる。結局は、原作者のスティーブン・キングの作風であるように思える、個人によって歪められた信仰心の餌食になるんだ。
 そして、薄々気づいていたけれども、確信したよ。新旧キャリーはまとめて観るような内容ではないということに。バッドエンド気味でさ、暗い気持ちになっちゃうから。
 クロエ版はなんだか、美しすぎるキャリー・ホワイでさ。結局のところ、清潔感のある若手女優による生理用ナプキンのテレビCMみたいだった。なんだか、スゲー怖い貞子の存在感にビビッていたら、実は生前は美人な仲間由紀恵さんだったみたいな。わたし基準ならどちらか片方しか観ていないなら、楽しめただろうけれど、古さと新しさがなんだか反発しあう結果になった。威力でいったら、シシーさんで、映像美はクロエさんみたいな。しかしわたしは、数十年の時を越えていない、吸血鬼映画のぼくのエリ200歳の少女と、ハリウッド版クロエさんのモールスを選べと言われたら、前者を選ぶ傾向にあるようなんだ。ハリウッドがリメイクしたくなるくらいの、衝撃は大事だよってこと。
 そして、2001年宇宙の旅を観た。信じられない完成度で、スタンリー・キューブリックっていうのは鬼才だなあと思った。なんか異常な存在感。なんでも、スター・ウォーズ旧三部作の十年前に封切られたとは思えないほど、宇宙宇宙していた。
 ウォルトの傘下の旧式のぼくが、最新式の彼女に恋をしたみたようなロボットCGアニメーション映画で、ツァストゥストラはかく語りきの壮大なクラシック音楽が、2001年宇宙の旅のパロディ的に使用されていたのは薄々気づいていたけれども、まさか宇宙の旅で始まるのではなくて、猿がモノリスに反応してから始まるのは意表を突かれた。芸術的に退屈な映画で、モノリスのうなり声みたいのは危機感を煽る。これが虐殺器官で喩えられていた、リゲティー、リゲティ。体感したよ。しかしわたしは、監督の違う続編を観るような映画通ではないんだ。
 結論から言えば、わたしにとってのSF小説は伊藤氏で始まった。SF元年とも言える、マイブームの到来であった。これは、兄が踏みしめて作った心もとない獣道を数年後わたしが歩くようなものでもあった。方向性を決定付けるコンパスの針は、兄の気まぐれである。ジャック・スパロウの魔法のコンパスだったら(シリーズを積み重ねた実績のある探偵小説の探偵が犯人の小説ってないって聞きたいし、検索したいけれども、それってそもそもネタバレじゃね。理論上存在は確実なんだけれども)たいしたものだけれども、わたしは風見鶏のように兄の情熱に追従するしかない。
 まずは、アンドロイドは電気羊の夢を見るか? とニューロマンサーを矢継ぎ早に読んだものだ。しかし、アイディアは最高であっても、冷戦時代の通信技術みたような世界観は、中途半端にローテクであり、また極端にハイテクなのだ。ガラパゴスケータイの初期には実に冒険的な試みがなされたのだという、最小を追求し、取り回しの最大を模索し、カメラ、音楽プレーヤー、携帯TVなどの実験的ノウハウを蓄積して、今現在のスマホばっかで逆に機能特化ケータイ染みたフューチャーフォンの平均値がスコアされたのだという。あまりに机上で奔放な筆が乗った実験的なSF小説に思えたものだ。しかし、インフラという技術的底上げが無いのだからしかたがない。伝説の大阪万博のパビリオン的、流線型過ぎる未来予想図みたい。喩えるならば、ティム・バートン印のバットモービル、あれはあれでぶっ飛んだデザインで格好いいんだけれども。機能としては申し分が無いが、流線型がとげとげしく思える世界観。最新のバットモービルは、クリストファー・ノーラン印のデザイン性よりも機能性の装甲車風が有無を言わさずトレンドであり、超自然的説明形態を用いない厳正なるスピキュレーション、それこそがリアリティーであろう。喩えるなら、光テレビでちら見した、リアル系ロボットSFの先駆け、無印版ガンニョム。この感覚をノスタルジーと呼ぶにはまだわたしは若すぎたし、ものを知らない。キューバがアメ車の博物館と呼ばれるようになった切っ掛けこそが冷戦でいいのかな。世界の選ばれた数人によって決定する、今年の流行色みたいなもので、核の冬がトレンドの時代背景である。もしくはコンピューターが極めて専門的な時代背景(しかし、ニューロマンサーにおいては、サイバーパンクなるジャンルを派生させるだけの、突出したものがある。あたかも新世界の預言者のようだ)。寧ろそれらの作品群を雛形にして、派生したものの方が楽しめるように思えた。ロボットアニメの新機軸ガンニョムなんてまさに、神話的象徴踏襲であろう。アナザーストーリー的であっても、シンボリックに仮面の男が配役される。これは、古典的記念碑的作品について回る宿命である。その当時は最先端の説得力があったとしても、一般家庭にまで液晶画面のコンピュータが普及して、ケータイ電話が使い勝手が良いようにマイナーチェンジを繰り返した、塗り重ねられた油絵のように厚みが更新され続ける現実味と比べてしまうと、どこか色褪せたように感じられてしまう。記憶媒体の容量の単位と質と動力源としてのバッテリーの小型化と帯電量革命。いっそ、ジュール・ベルヌ的時間的隔たり、時代劇染みた異世界感があれば割り切れるが、発電所が有り電線が張り巡らされ、歯科医が部分麻酔出来るような時代設定においては、これが未来なんだと言われても、比較基準たる現代において数十年前の非効率な洗濯用洗剤感が実感される。現代人たるもの洗顔フォームも、歯磨き粉も最先端であってほしいと願わずにはおれないものだ。実際のところ、チューブのデザインの最新性にばかり目がいって、肝心の原材料や薬効には無知であるけれども。そして、平気で吸われる喫煙の文化と、禁煙ないし、かなり譲歩して分煙こそが今現在の先進国のありかたである。わたしたちは、虚構でも絵空事でもない、冗長性のある本物の二十一世紀に生きているから。
 しかし、名画は名画であり、時間経過と共に魔力は寧ろ増していく。血肉をそぎ落とされた、偉大なる骨格である。その時代の空気感までは、厳密には肉付け再現不可能であっても、小説は、聖遺物たる骨が安置されている聖地の巡礼の旅でもある。今を思考する現代の根底にある教義の原本がそこにはある。それは、概念と呼んでも差し支えの無いものだ。伊藤計劃氏の作品は、わたしにとって新約のSFだったということで。黙示録か死海文書は、新世紀エヴァンゲリヲンで。ちなみにエヴァ、異常なまでのお洒落さを注意深く排除すると、シンジ君がひたすらに不憫な物語である。
 そして自腹で、ロバート・A・ハインラインの夏への扉を買ったんだ。ちょっとまてよわたし、そもそもがサビル氏はどこにいったんだということ。一つのジャンル、SFばかり読み漁り、オルタナティブな世界に没頭してばかりいては、五感によって認識される現実が少しばかり疎かになってしまう。少なくとも現実に相対する時間が短く感ぜられてしまう。つまり、わたしはサビル氏を崇拝すべき時間の多くをおざなりにしてしまった。せめて、猫の出てくるSFを読むべきであろう。これは、サビル氏というよりも、わたしの空手形的沽券に関わる問題である。
 そこでおもむろに、学校の帰りいつものツタヤに立ち寄り、猫好きに捧げられた、夏への扉を買った。これは勿論、運命でも奇跡でもなく、グーグルの検索結果である。それにしても、ハヤカワSF文庫のサイズは普通の文庫より、気持ち背が高い。これで、わたしの本棚に収納するとなると、なんだか一冊だけ仲間はずれみたいで可哀想だな。もっと、SFを買わねば。くどいようだが、わたしの本棚は引き寄せあう引力で形成されている。
 冒頭、ピートという猫の明瞭な哲学の描写が良かった。冬になると、ピートは飼い主に扉を開けてくれと、せがむ。複数あるどれか一つの扉はピートの望む夏へと繋がっているのではないか、と彼は信じているのだ。季節の管理は飼い主の責任である。素敵だ。なにが素敵かというと、ピートの要求に付き合う飼い主の温かい心と、ピートを理解している夢想的愛猫家具合が。
 話の骨子は、お掃除ロボットルンバの特許を根こそぎ奪われた技術者の話といった感じ。愛していた人、信頼していた人間に裏切られて抜け殻のようになってしまった技術者の破壊と再生の物語である。そして、なによりラブロマンスでもある。
 ハード気味のSFにちょいと食傷気味で、戦争とか、政治とか、宗教とか、ノリや勢いばかりで恥じらいのないセックスとかが平気で出てくる過激な世界観に日常との温度差を感じていた。
 夏への扉はこう言ってよければ、恋愛要素が強く、一般ウケするSFのように思えた。
 コールドスリープ技術が確立された世界観、戦争でヒューマンリソースを確保、保存、運用するため、敵国を出し抜くために発達した科学だ。宇宙旅行的SFではない。戦後のアメリカンヒストリーであった。故に殺傷能力のある流血沙汰はない。核ミサイルも、銃弾も、パワードスーツも、軍体の規律も、戦争の狂気も。純然たるエンターティーメント重視の空想科学小説のように思えた。
 猫欠乏症による思春期ニキビや肌荒れ、猫禁断症状はピートのおかげで治まった。猫とハッピーエンドのカクテルは実に精神衛生によろしいものだ。心がツヤツヤすると、お肌も気持ちツヤツヤするような気がする。
 次は、サイコパス推薦の、深夜プラス1と一九八四年である。
 残念ながら、兄の蔵書には無かった。しかたがないので、たまたま機会がありデパートの方向感覚が狂うほど本が充満している書店で探してみたが、一九八四年には参った。先入観とは恐ろしいもので、ハヤカワSF文庫で探してしまったんだ。実はハヤカワには変わりないが、ハヤカワepi文庫なんだよ。ちぇ、時計じかけのオレンジ完全版の棚だよ。自分の勘違いに舌打ちしたもんだ。サイコパスの帯が付いている頃だったならば、平積みですぐさま見つかっただろう。棚挿しを目を皿のようにして、探していた自分の愚かしさを恥じ入る。端末検索すればよかったんだ。ただ、ご高名はかねがね伺っておりますと、名乗りを上げた名探偵を前にした地方の刑事さんみたいに感服しきりな、金字塔的名作との遭遇はあったけれど。寧ろ、野次馬的根性で、目移りしまくることを楽しんでもいた。題名や作者の名前を読みすぎて、早速文字が揺れだしてきた。そして、映画で印象深くエリック・レーンシャーがプラスチックの牢獄で読んでいた、数少ない私物であり、自由意志の象徴であるT・H・ホワイトの永遠の王が復刊していたから買ってみた。アーサー王の物語、王さまの剣と舞台キャメロットの原案らしい。隠れ家生活を余儀なくされた、アンネ・フランクの父親である、オットー・フランクにとってのディケンズである。心の拠り所だ。幼少期強制収容所で数字を刺青された、エリック・レーンシャーにとって永遠の王とはどんな存在だったのだろうか。先導者としての運命か、選ばれた者の特権か、それとも統治者としての偉大なる功績か。もしくは、王の悲劇性か。
 それにしても――わたしが、もしマイケル・ジャクソンだったならば、単行本だろうが、シリーズモノだろうが、分冊で上中下どころか、数字的区切りだろうが臆するこなくセレブ買いしただろうけれど、生憎わたしはマイケル・ジャクソンではないし、また、歌って踊れないから、マイケル・ジャクソンを標榜するにおこがましいことこの上ない。ただ、いつか観たTVのドキュメンタリーで、湯水の如く金を使うマイケルには若干のパフォーマンスもあるだろうがシビレタもんだ。貸切でさ、値札も見ないんだよ。マイケルは、念願のオスカー像を金で買うという逸話も残している。しかし、ここ一番のクイズを間違えたスーパーヒトシ君人形のようにボッシュートされたらしい。ニコラス・ケイジは、フェラーリを色鉛筆のように色違いという理由で買うんだと。金銭感覚が麻痺しているようにしか思えない。しかし、ジョン・トラヴォルタは飛行機大好きで自ら所有のジャンボジェットを運航して、災害地などに直接救援物資を送り届けたりもする、リアルヒーローである。

 ケチであるから予備知識として、アル中ガンマンが登場する小説だと知っていたから、男の美学に酔いしれたい気分になって、深夜プラス1を読もうと思った。多分、ハード・ボイルドという奴だろう、音楽のロックの定義ぐらい宙ぶらりんな謎である。蓄積しなければ身に付かない、体験的定義だ。ディープラーニング。
 スウィーニー・トッドのように剃刀がマイフレンドな悪のカリスマ槙島さんは、なにもSFだけを読めと言っていた訳ではないらしい。――というか、題名が実に良い。漢字とカタカナとアラビア数字の表記バラスが絶妙だ。東洋の神秘としか言いようがない。日本語ならではの醍醐味だ。意味も分からず漢字をタトゥーしたい冒険的な外国人に知り合いにいたら、暴走族の当て字みたいな強引な名前教えるくらいだったら、ニッポンジンとしてこれ薦めれば良いんじゃね。タトゥーは一生ものだでね。グーグルで検索するにしても、作品の単一性が強いから寄り道せず一直線だ。それに、一度覚えたら忘れられない題名であろう。とてもイイ題名だ、感心しきりである。
 それにしても、アルコールで手の震える凄腕ガンマンは、英雄譚によくある力の消失あるいは、力の限定条件付けを意味しているように連想された。なんかイイんだよ。わたくしごとであるが最近一周回って、王道の魅力にぞっこんなんだ。そこそこの映画好きのわたしの分析によると、ここ最近のハリウッドはシナリオの原点回帰が顕著であろう。誰かの思い出にヒットするように、そこはかとなくデジャビュ感を刺激するのがどこかトレンドである。ジェムズ・ボンドはスカイフォールで、ショーン・コネリーの指紋がぺたぺた付いていそうな私物的な旧車的アストン・マーチンを披露しておったし。多分、スマホの普及が冷戦時代の情報分析官の有能性を遥かに凌駕する情報比較を可能にしたからだろう。わたしの覚えているもっとも長い映画の題名は、ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズであるが、20世紀には覚えるしかないが、ネットワークにスマホで常に繋がっている我々21世紀人は、ロック・ストなどと入力すれば検索予想で補完されるか、ガイ・リッチーで検索すればすぐさま知ることが出来るのだ。何気に、ジェイソン・ステイサムの銀幕デビューじゃないか。ちなみに、ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズという題名は、わたしにとってルービックキューブ的存在感である。言葉の感触は全て収納されているのに、するりと出てこないことがしばしばある。そいうときは、(よっぽど暇を持て余している時なんだけどさ)言葉の順番を捏ねくりまわすという頭の運動をする。あたかも知恵の輪や立体パズルのように。たまにするりと、出てくる場合のわたしはコンディション的に絶好調だ。世間一般の切れ者にはとても及ばないが、わたしなりに剃刀のように切れる状態である。その切れてる具合がついぞ役に立ったことはなく、鋭利なだけに何気に扱いに困るのもまた事実であった。
 かなり――脱線しちまった。
 アニメサイコパスが話しの寄る辺だよ。もしや――サイコパスの狡噛慎也さんのシンヤは深夜プラス1のシンヤが名前の由来なのかもしらん。だって、推薦本だよ。そういえば、何気に狡噛さんの声優のイケボのセキさんは、ドラえもんの金気の帯びた声の骨川スネ夫なんだと、信じられる? な~る、どうりで映画紹介はセキさんのスマートな地声でエスコートしてくれる訳だ。合点がいったよ。どこから声出してるんだろう。もしや、蝶ネクタイ型変声機なのか。
 なにはともあれ、深夜プラス1を読んでみた。
 冷たい一人称には、毒と乾いたユーモアもあってひたすらにカッコ良い。レア、ミディアム、ウェルダン、ライトボディ、ミドルボディ、フルボディ、甘党、辛党。極端な焼き加減で、極端な喉越しで、極端な刺激だともいえる。もしくはそれらに五月蝿いかこだわりのある価値観。あまりに、わたしにとって極端であったから、主人公のカントン氏の現実認職がシビア過ぎて、ちょっとした空想虚言癖のように思えたものだ。勿論、語弊のないように記載するが、わたしなりの褒め言葉だ。なぜ、空想虚言癖なのかというと、彼はカントン氏は引退した英雄なのだ。コードネームというマスカレード劇を剥ぎ取った剥き出しのルイス・ケイン(本名)である。しかし、彼はその英雄(カントン)としての立ち居振る舞いに呪縛されている。事あるごとに千の顔を持つ英雄像に在りし日の自分を重ねるのだ。それこそがカントン氏の芯であるところの行動原理、矜持である。前時代的な戦士の魂だと知りながらも、彼には選択肢が無い。常に自分の存在理由を証明し続けなければならないのだから。頭はキレルが、どこか疲れきっている。くたびれている。しかし、プロフェッショナルとしての流儀が不文律として骨身に染みこんでいる。生き様が煮詰まって煮込ごっている。ストイック過ぎる、メソッド俳優みたい。
 で、サヴィル氏は、猫はどうしたという意見もあるかもしれない。この過程はサヴィル氏の擬人化における、ハード・ボイルド属性の獲得に必要不可欠なイベントであろう。
 サヴィル氏は、トムキャットであり、すべからくますらおであるべきだ。常に崇拝するためには、敬う方法論のたゆまぬ研鑽が必須である。尊崇のリドルだ。今現在において、サヴィル氏は、ジークンドとシラットとバリツとカポエラという格闘技を体得していて、青天の霹靂的感電、通称ネコサンダー(あくまで便宜上の俗称であって、世に知れた違った名があるかもしれぬ。勿論名状しがたいからイイという意見もある、名を付けて解読してみて無粋ならばしかたがない。しかるに明治の書物吾輩は猫であるに大変興味深い記述があるので、ここに襟を正して背筋をぴんと伸ばし引用させていただく。『吾輩は猫である。猫のくせにどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかもしれんが、このくらいなことは猫にとってなんでもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんなよけいなことは聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間の膝の上へ乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔らかな毛衣をそっと人間の腹にこすりつける。すると一道の電気が起こって彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾輩の心眼に映ずる。』とある。もちろんユーモア設定の客観視的説明そのものであり、それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。けれど、夏目漱石氏は愛猫の黒猫を膝の上に乗せてこの着想を得た可能性は濃厚である。猫から発せられるナニカは存在するのだ。現代の説明形態にあてはめるならば、ためしにフォースをウィキペディアで調べれば、この記述がいかに普遍性を得た神話的能力の一端であるかが知れる。神秘とは神秘であるがために、時に秘密の合言葉のように虚構を舞台に体系化されるのだ)によって抜き打ち的であればあるだけ効果がバツグンな猫のカワユさに頭がヘブン状態で脳内麻薬ドバドバ、ボルテージが最高潮な怒涛のギターソロのように猫を掻き鳴らそうとするあこぎな魔の手を、赤子の手を捻るようにたやすく行動不能にすることが可能であり(しかして、氏は赤子の手を捻る程大人気ないものはないという境地に達している。天爵的に貴族となった報いに受ける不文の刑罰を知っており、または、エスプリの利いたボディーランゲージやジェスチャーで愛嬌たっぷりのおどけ者ぷりを発揮していても、立脚点はノブレス・オブリージュである。そこはかとなくフレキシブルな自然界基準の非暴力主義を貫き通し、掻き鳴らさないでいただきたいものだ、とハショウフウとかハイケツショウにならない程度の唾つけとけば治る慈愛に満ちた擦過傷で問題提起し、もしくは野生のキツネリスのようにかぷりと噛み付きリスクをマネージメントし、それでも百獣の王の血族のレクチャーを理解出来ないようなとんでもない分からず屋であったなら、チョップスティックで抓もうとする玉コンニャクの如くにぷるんぷるんくねくねと逆境がテーマのコンテンポラリーダンスのようにするりと華麗に逃げ延びるであろう。
 そもそもが、氏は超越者ポジションであるから、導き手としての知識的助力以外、実際的な力での介入は制限されておる。ちなみに誰が制限しているかは、当方分かりかねる。多分、世界に影響力のある巨大資本ハリウッドあたりが怪しい。ストーリーテリングのコードがインデックスされて神殿染みた所に安置されていそうだ。マスターヨーダがライトセーバーを持ったら、パワーの観点から鬼が金棒振り回している人類には手に余る天災状態であり、また最強のニワトコの杖を持った、アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア氏がなぜ力を行使しないと言えば分かっていただけると思う。あまりにも真相を知っているからだ。賢者は大いなる力には大いなる責任が伴うと知っているし、世界の構造上早速、パワーバランスが崩壊してしまう。人類は大局的視野を持った大いなる意思に試されているのだ。甘くみて、ぺろぺろ舐めてはいけないよ。多分、許されるのは頬ずりまでだ。猫の集会の会員証が欲しければ、自制心を。徳を積めば、さらに猫が恩返しに来て、猫の事務所や猫の国へ行けるらしい)、そしてサヴィル氏は特殊な情報収集開示方コールドリーディングによってわたしの知らないわたしを知っている。水晶のような深遠なるプライベートアイを持つ、アームチェアディテクティブキャットなもんで。
 それにしても、深夜プラス1は、情景がお洒落である。瞼を閉じれば、ワインのシャートを育んだような永遠が始まりそうな風景が過ぎる。切り裂きジャックが暗躍した霧深い魔都ロンドンとは、一風違った雨の描写である。偏見かもしれないが、英国はじめじめしていて薄暗いイメージがある。
 例えるならば、マイアミにはマッチョかスリムな小麦色の肌の美男美女しかいない地上の楽園という印象は、海外ドラマや映画の印象操作であって、シーズンオフには牡蠣を喰い波音を聴くだけしか楽しみがない、閑散としてうら寂れている場所らしい。年がら年中お祭り騒ぎではないのだ、住民が疲れてしまうよ。つまりはわたしにとって、誇張された擬似フィールド的英国しか知らないということだ。ということは、深夜プラス1の情景は、胡乱なイメージの継ぎ接ぎのパッチワークである。ただ豊富な色彩の切片がしゃんしゃんと頭の中で模様を作る。万華鏡的である。
 しかるに、深夜プラス1は小道具も良いんだ。カントン氏は、全自動に切り替えると一人で戦争を始められそうな、怒った猫のように手の中で跳ね廻るモーゼル銃を愛用している。
 ――ふと、悪ガキ大将、トマス・ソーヤー氏が無感覚状態になったとき、胡散臭い売薬で死神の武装をし、胡散臭い薬学的知識という青白い馬に騎乗した善意の澄んだ心を持った、はた迷惑にちぐはぐなポリー伯母さんが治療のためにドコカからしこたま買い付けた、液状火焔的霊薬ペインキラーをトムにねだるピートという黄色い猫が喚起された。
 結果として、ポリー伯母さんの危険な愛情により、ショック療法的に目をさましたトムは、ペインキラーのあまりにも暴力的な刺激に辟易して、常に無感覚状態の部屋の床の割れ目を治療をしはじめたのだけれど、何気なく見ていて、猫の特徴である好奇心からソレをちょうだいとねだるピートは、トムの忠告を聞き首肯さへし、口に流し込まれたペインキラーを味わった途端、二ヤードほど飛び上がり、インディアンのような鬨の声をあげ、感激のあまり狂気のように跳ね廻り、部屋に混乱と破壊をもたらし、三度も宙返りし窓から飛び出していってしまった。ピートは何処に行ってしまったのだろう。嵐の後の静けさには、呆然と立ちすくむポリー伯母さんと、染み入るようなトムの息もつまりそうな笑い声が響くばかりである。
 平凡な日本人たるもの、そのままの意味で無鉄砲なもので、凶弾から命を救ってくれたZippoや懐中時計という奇跡とは殊更無縁であるべきで、想像力で補うしかない。ペットボトルで即席のサイレンサーだか、サプレッサーだかを作ったり、カーテンレールで即席の仕込み銃を作ったり、熱したフライパンで弾丸を炙って跳弾の即席時限式ポップコーンを作るのは映画の中で十分だ。きな臭いよ。
 だから多分、モーゼル銃の反動は、怒ったか感激した猫であって、こういうことだろうと思うね、手に余るよ。平凡な日常において、硝煙反応なるものはパーティークラッカーの火薬しかないのが普通である。
 それにしても、命のやり取りにおいて、銃には使い手の主義主張が現れるものらしい。一発一発の精密射撃よりも、どちらかと言えば数撃って当てるか威嚇目的で、それが流儀らしいし、銃は信念なのだと言う。場数を踏んでいるらしいので、スタイルの範疇で臨機応変に応用がきくのだろう。
 それに対して、護衛の依頼によって急遽相棒になったヨーロッパ界隈でナンバー3のガンマン、ハーヴェイの銃の信念は、実に合理的である。S&WM36とかいう小型のリヴォルバーで、カスタマイズはグリップを調整した程度だ。日本の制服警官が携帯しているような、なんの変哲もないと言ってしまえばそれまでだけれど、合理的にマグナム弾(規格まで調べる気はない)を撃てるリヴォルバー式が流儀で、マグナム弾の装弾数が多い自動式だと大きすぎると言う。そういえば、ダーティハリーの44オートマグだかは牛か馬用の注射器くらいでっかかった気がする、なんか踏ん張って撃ってたような、クリント・イーストウッド氏の栄光を称える系のTV番組かなんかで、ちら見した程度でうろ覚えだけれども。携帯性と取り回しが優先なのだろう、特注ぽい風変わりなホルスターを愛用しているようだし。そんなハーヴェイは、カントンのモーゼルを見て、戦争は終わったんだよ、と揶揄する。
 それにしてもドイツの銃と、S&Wって、ルパン三世と次元大介みたいじゃないか。最高のバディーぷりが連想された、モンキー・パンチ先生か、アニメ化における銃火器の監修の人、深夜プラス1を読んでいたのかもしれないし、ただの偶然の符合なのかもしれない。しかし、わたしは鉄砲にあまり興味が無い、むしろ食い意地が張っているから、フグの俗称である鉄砲でテトロドトキシン(勿論しっかりと、安全率が確保されている)のロシアンルーレットしている気になっている方が性に合っている。天然モノのフグ食ってみたいよ。
 ――そして、シトロエンDSの描写。これには参ったね。
 油圧システムというと、どこか工業機器的な響きだけれども、シトロエンDSの場合ちょいとばかし毛色が違う。全身に満遍なく、あたかも油で活動している生物のように張り巡らされているのだ。どこか辛口ドライバー然としたカントン氏よると、ひじょうにすぐれた車であるが、同時にたいへん変わった車であると言わしめた車だ。
 ただ、ターミネーターT800的なフレームの強度を追求したあまり、生卵を衝撃から守る配慮に欠けているような気がした。焼きムラを量産するレトロトースターが連想される。単純性が強度に直結しているような。そんなマッスルボディーな装甲の分厚い車ががなりたてるようなエンジン音を響かせ、ビュンビュン走り回っている時代背景なんだと高をくくっていたから、油圧がトレンドだぜ! 時代を先行するぜ! 的な駆け抜けてる系のシトロエンの技術投資に熱いものが感ぜられた。もしかしたら人類の夢である、高出力永久機関はドコカで完成しているのかもしれない。また、ダヴィンチコードの続編みたように、反物質の生成に成功してるかもしれぬ。まあ、クラシックカーだのレトロカーどうこう以前にあまりにも整備士泣かせの特殊な設計思想であろう。ここ最近の古代ローマのテルマエ技師なみの才能と直観力と実現力がなければ再現不可能だろう。
 そこで、その異様さをスマホで検索した。
 わたしは特段車に詳しい訳でもないので、シトロエンで連想されるのは、車両の全体像よりもイカついグリルばかりである。焼き鳥を焼いたり、焼肉を焼いたり、トウモロコシを焼いたりと、BBQできゃっきゃうふふするのに、ベストな焼き網的グリル。そんな印象である。ちなみにスナック菓子のBBQ風味というのは、カレー風味だということらしい。
 シトロエン――まず、筆頭に上げられるのは、ケバブだか、タコスだか、クレープだか、ワッフルだかの異国情緒溢れる食い物を販売している、ケータリングカー。その時代における広域捜査官がヨーロッパにおいて張り込みに使いそうなバンであり、金属製の洗濯板のような凸凹が印象的であり、なによりもグリルがでかい。
 もしくは、宮崎駿氏所有の――運転するは、グリーンジャケット、助手席で流れ者風射撃の名手がシケモク吸い、よく分からないけれど、ここ一番でターボする、サスペンションが構造学を無視した強靭さをみせるコンパクトな暴れん坊を幻視させるシトロエンである。厳密性において、まったく違う車であり、寧ろ楚々とした公女が黒服から逃げるために爆走させていた車的であるけれど、なにはともあれ機械系のデザインのグッドデザイン賞を受賞しそうな宮崎氏のおメガネにかなった名車である。疾走感迸る作風の宮崎氏は深夜に密かにターボしていそうだ。
 だので、検索結果に意表を突かれた。まったく想定していなかった流線型であって(深夜プラス1に流線型との描写があるが)、どこまでも水を切っていきそうな最高の水切り石みたいなフォルム、かといって流体力学的必然のカタチではなく個性がでんと全面に押し出されている。えっ、なんかカッコイイじゃないか、ふおぉーとどこかたぎるものがあった。
 宮崎氏のシトロエンを、銀座三越のライオンのブロンズ像とするならば、深夜プラス1のシトロエンは、トラファルガー広場のライオンのブロンズ像の風格がある。
 ところで、わたしの将来の目標は、トラファルガー広場のライオンの背に乗ってヒャッホーしても調子に乗ってやがるぜと言わせないだけの人柄が人相に表れた楽天的で憎めない人間になることである。どうでもいい話ではあるけれども。現状、よちよち進むパンダカーに乗ってヒャッホーしたとしたら、即座に痛い子扱いされるであろうから、先は長い。ちなみに、パンダの漢字表記は熊猫である。
 深夜プラス1は、目新しい驚きに満ち溢れた展開を期待するような内容ではない。日常の隙間において深夜プラス1のキモチになったら、読み返したくなる類の繰り返し再読に耐えうる、わたしの孤独にとっての親愛なる隣人である。雰囲気や空気感のナビゲーターであろう。今現在において、わたしの本棚は制御されているが、将来的にもし、ぎゅうぎゅうで一センチの隙間にすら難渋するような制御できないような状態になったとしても、この二センチ弱の厚みを手放さない自信がある。まだまだ、すかすかであるけれど。
 感想に関しては、カントン氏の英雄性は破滅性も孕んでいるということで、一度竜を倒した英雄は、常に次の竜を探し求め、仕舞いには最後の竜に出会うのだと、つまりバッドエンド、裏切りは女のアクセサリーよと言いそうなイイ女に忠告されていた。たまたま、水面下で永遠の王を読んでいたから、寓話性と実際性が入り混じって不思議な気持ちになり、わたしの記憶の網に直感的にぶら下がる印象という蝙蝠傘の群れがぱっと開いたりしゅっと閉じたりしていた。
 そして、水面下でそこそこ映画を楽しみ、ナイトミュージアム3で、大英博物館でランスロット(ナイトミュージアムにおいて、ゴーストは形に宿るらしい)が竜退治は男の登竜門と、華麗に蛇のようなブロンズだかの異国の竜に立ち向かい、混乱する設定だが、作中作的に舞台キャメロットに乱入し、ナイトミュージアム3のカメオ出演的なムキムキなアーサー王に再開して、トラファルガー広場のライオンのブロンズ像がにゃんこのように懐中電灯でフローリングの床の光にまっしぐら状態なっていた。そして、キングスマンというスパイ映画で、サヴィル・ロウの老舗紳士服店が、顧客の平和を守るため権力や政治に影響されない独自の資本で、秘密諜報機関を結成していて、円卓の騎士のコードネームを持つ紳士スパイを育成していた。自意識過剰であるが、まさにわたしの私生活を充実させるために作られた映画のように思えたものだ。ドンピシャ過ぎる。これは気のせいであろう、それほどまでに世間は英国紳士ブームなだけだ。マイケル・ケイン氏はコードネームアーサーであり、コリン・ファース氏はガラハットである。ガラハット氏曰く、礼節が人をつくるのだと言う。今現在わたしは、あたかも等身比率のおかしな、かいじゅうにでもなったみたいに、サヴィル氏をたべちゃいたいくらい好きなんだけれども、礼節をわきまえなくてはならぬと再認識するに至った次第である。実のところロマンスの繭とでも形容したくなるサヴィル氏とのチーズのように蕩けた懐中時計的逢瀬、蜜月のような蕩ける時間に浸りきりであったが、一服の清涼剤をキメタようにシャッキリ引き締まる思いであった。礼節だ、礼節なんだよ。好き好き愛してる、超愛してるポール・シェルダン先生状態のミザリーという映画はあまりにもホラーであろうということだ。おばちゃんが独占したいがために、先生のあんよを――ガチでヤバイよ。連想しといてなんだが、実にヤヴァイね。ところで、怒れるガラハットは、トランスポーターの商売道具であるBMWを爆破され、怒れるフランク・マーティンなみに一見の価値がある。普段怒りを飼いならして制御している人物がキレルと、抑制していた分、舞踊るように爆発的に暴力を振るうらしい。というか、ここのところ英国がアツイのか、ミニオンは岩に刺さった剣を抜いて突然王様になっていたし、最新のミッション・イン・ポッシブルでは、MI6がかなり暗躍していた。ここ最近のフィクションにおけるMI6の有能性はかなり怖いものがある。ロビンソン・クルーソーの作者も、女王陛下のスパイだったのだという。無人島で出会った野蛮人フライデー(真名を奪われ、突然金曜日と名付けられた)はウォルシンガム機関仕込のノウハウで教化されたのかもしれない。あと、余談だけれども、タランティーノ印のマカロニウェスタンで、レオナルド・ディカプリオが残酷な農場主役で出演していたのだけれど、唐突に手から出血して拭いながら、骨相学だかを熱弁するというシーンがあった。凄みに拍車がかかり、あまりに唐突で、あまりに画になっていたから、タランティーノ氏の演出は神がかってる(神は細部に宿る的に)なあ、と素人ながらも思ったけれど、それにしても唐突過ぎて、気になって検索してみたら、本当にディカプリオさん縫うほどの怪我をしていたことが判明した。そして、さらに脱線するが、バカリズム氏と竹野内豊氏の声質って、音域なのか――そこはかとなく実は似てないか、ということを発見した。気のせいかもしれぬ、見た感じ、骨格や声帯に類似点を見出せない。これは、女優のキムラ緑子さんと、尾野真千子さんの声が似ていると言っているのとは、微妙に異なるものである。
 ともかく、なぜここまで、虎の威を借る狐の奸智のように執拗にタイトルという名のキラキラした連続体を解体して、数珠繋ぎにしてパワーストーンと嘯くようなことをしているかというと、わたしなりに目論見があるということだ。本来ならば、始めから始まって、終わりになったら終わるという美しい連続性こそが真の意味であり、真の価値があるということで、神秘的なアクメンラーのゴールドタブレットの力を借りなくとも全体にゴーストが宿るものだ。そういうものだ。新聞や雑誌の記事をスクラップブックに貼り付けるのは、良い趣味であるが、小説タイトルの文章を切り抜くのは背徳的に感ぜられる。
 深夜プラス1の次は、1984年じゃね、と思われたかもしれない。しかしここで、わたしの家には、探偵小説と冒険小説が充満している本棚があることを思い出していただきたい。ハードボイルド的属性をサビル氏に付加せんとするわたしの意気込みは、突如として、兄の書棚にて大いなる眠りについていたレイモンド・チャンドラー氏を呼び起こした。急ごしらえのハードボイルドの定義から連想されるのは、とりあえず私立探偵フィリップ・マーロウ氏であり、青山剛昌の名探偵図鑑に真っ先に載りそうなシングルナンバー的名探偵であろと思われた。頭の中では、匂いどころか色も分からないギムレットなるお酒らしいもので一杯である。アメリカ人の発明らしい、カクテルなのかな。とりあえず、ギムレットはわたしには早すぎたと言う予定を前倒しで組んでいた。
 兄さん、レイモンド・チャンドラーが読みたいんだよ、持っていたら貸してくれろというと、長いお別れがすっと出てきた。兄は小さな図書館の把握している系の司書なのだ。ギムレットが出てくる奴かい? と聞くと、うん、ギムレットが出てくる奴だよ、と兄は言った。そして、念のためフィリップ・マーロウが主人公しているかどうかも確認した。返答は満足のゆくものだった。わたしは、めずらしくわたしの蔵書である深夜プラス1を邪悪ではない妖精の取替えっこのように、長いお別れと交換した。一定の距離を保った奥ゆかしい文通のような、もしくは同じフィールドで健闘を称え合うユニフォーム交換のように心温まる一幕である。そして、リビングで異様な存在感を放っていた、日本刀の図鑑のような姉の本を歯医者の待合室の本のようにざっと流し読みし、佐々木小次郎氏の通称物干し竿なる長剣が、備前長船長光という大層立派な名前の刀だということが、何気に判明したりした。しかし、宮本武蔵氏の得物は、名刀の類ではなくやはり舟の櫂と記載されていて、非力な軟弱者が粋がって振り回したら、背中がグギッてなりそうだと思う。
 姉の本棚を巨大なクーロン城のようなカオス的構造物とするならば、兄さんの本棚は歯車が噛み合った、決まりきったしきたりのあるこじんまりとしたアパートみたような構造物である。知的好奇心の傾向とするならば、飛び出しすぎて困っちゃう絵本と、フリーズドライされちじこまった宇宙食的豆本のような特徴がある。姉の場合はオールフォーワン的にシリーズが集っているが、兄の場合はワンフォーオール的にタイトルが集っている、そんな印象である。わたしの本棚は補足か、気まぐれが充満していて、趣向性や統合性に欠ける。澄んだ目をしたグットキャットさんが、突如として開始を宣言したカンサス・シティ・シャッフルという謎のゲーム的であろう。我ながら首を傾げたくなるような、ピラミッドパワーを発しているような金字塔のすぐ横に、現代版の妖精さんが忙しく飛び回っているようなWi‐Fiの充満しているスターバックスコーヒーがあるようなものだ。不意打ち的意外性に目移りすることは自認しているが、わたしが意図して主催したゲームではない。
 レイモンド・チャンドラー氏の長いお別れを読んでみた。
 フィリップ氏の気まぐれから、物語は始まる。酔っ払いの面倒をみるという、気まぐれ。ただそれだけで、物語の扉は開かれる。フィリップ・マーロウ氏の目線で世界を見ると、世界は途端に皮肉で装飾されているように思えてくる。無意味だけれども、全ての虚飾が剥がれ落ちた世界を望んでいるんだろう。ライ麦畑でつかまえての主人公にとって、インチキの臭いがするという漠然としたものが、マーロウ氏になると、子気味の良いツッコミのようになる。つまり、ロスアンジェルス周辺の人々は、マーロー氏にユーモアを提供しているのだ。マーロー氏は天使のいない街のコンダクターなのだろう。アメリカのジョークはシニカルなものが好まれているような気がする。クールマインドでウォームハートな英雄像であろう。
 どうやらハードボイルドにおける、酒の敗北者は哀愁漂う善良な人間として描かれる傾向にあるようだ。この愛すべき酔漢たちは、深夜プラス1におけるハーヴェイや、長いお別れのテリー・レノックスであるのだけれど、どこか静かな、味わいを楽しめる最良にして最初の一杯に恋をしている夢想家だったりする。けれど、悲恋にしかならない、溺れる程愛してしまうからだ、そこに悲哀に満ちた悲劇性がある。
 勿論、注射前のアルコール消毒をクンカクンカして酔った気分になるようなわたしにとって、居抜き物件的受け売りでしかなく、かなり背伸びした知ったかであるが。
 結局のところ、フィリップ・マーロウ氏は、気まぐれで助けた酔漢のために、友情を貫き通す。首尾一貫して、意地を貫き通す。寧ろ意固地なまでに執拗に貫き通す。まず、気休めの報酬として、マディスン大統領の肖像である五千ドル紙幣を受け取り、そして、最後に「ギムレットにはまだ早すぎるね」という台詞がマーロウ氏の慰めの報酬として支払われるのだった。ギムレットとは、哲学を持ったマーロウ氏が酒の味も分からないような気取り屋を侮蔑する言葉ではなく、ある人物が短いが最良の過ぎ去ってしまった友情の墓標に刻む言葉なのだ。わたしはどうやらギムレットの意味を履き違えていたらしい。何気に深刻である、夜更けに高さ制限のある高架下のトンネルでぼんやりとしたオレンジのナトリウム灯に照らされ、カツンカツンという反響する足音に追いかけられているような幻想に恐怖していたら実は、見ず知らずの人のタップダンスのタップシューズを間違えて履いていたようなものだ。うっかりにもほどがある、そもそも履き心地で気づけ、わたし。
 まだまだ、フィリップ・マーロウ氏を身内自慢のように語れるだけのエピソード不足が深刻であるが、たぶん兄さんの本棚には存在しないだろう。わたし的傾向分析によると兄の探偵小説、ミステリーの定義は、驚きとどんでん返しに満ち溢れたものが好みっぽい。伏線が連鎖的に張り巡らされた謎の解明、油断してミスリードされたいんだろう。カタルシスという奴か。どちらかといえば勢いのあるサスペンスよりも、奇妙なミステリーであり、わたしはそんな兄の趣味に何気に気が向いたら巻き込まれ、トリックの英才教育を受けて育ったようなものだから、伏線とミスリードに関して、建築様式のようなものが認識出来るようになっていた。この世にはミステリーと声高に主張しない、トリックに溢れている。兄の面白いは、共有している限りにおいて、小説、映画なのだけれど、大抵トリッキーなものがお薦めされる。けれども、意見の相違がある。兄は自分の足を糸鋸で切るようなソリッド・シチュエーション・スリラーをミステリーと分類するが、わたしにしてみれば掛け値なしのホラーである。目を覆いたくなるくらい、ただただ怖いよ。もしくは、ユージュアル・サスペクツという映画は、兄は全体通して楽しんでいるみたいだけれど、なんか難しくって頭に入ってこないわたしにとっては、ラストの十分くらいしか楽しめない、という事だ。ただ、そのラスト十分は、かなりフィーバータイムでアガる。
 ――それにしても、一生懸命背伸びして書いてみたけれども、このオトコの美学という奴は難物である。空を駆ける一筋の流れ星のように、どこか生き急いでいる。誇りが大気圏で炎上して軌跡を描いている。この感覚は、蝋で固めた翼で太陽を目指して飛んでいくイカロスに、タケコプターですいすい飛んでいる映画モードではなく、平常時モードの野比のび太氏が何気に、暢気にのんびりと、なぜ太陽を目指すのかとしつこく聞きまくるようなものだ。のび太氏には悪気が無い、太平楽な純粋にして単純なる疑問である。推定、イノセント。もしくは、最高峰を目指す超一流の登山家に、しつこく執拗に、なぜ山に登るんでしょう、へへへと、ドフトエフスキー的投げやりな笑い、絡み酒的に聞くようなものである。超一流のアルピニストは、キレ気味に吐き捨てるだろう、そこに山があるからだ、と。どちらにしろ無粋であろう、だのでオトコの美学を追求はしない。
 わたしの解釈によると、ハードボイルドなるもの、武士は食わねど高楊枝的に自分の価値観や美意識を貫き通す生き様であり、世間一般の判断基準、損得勘定では推し量れない人を指すように思われる。味方ならば心強いが、敵に回ったらかなり厄介だ。行動力がはんぱないから。意固地なまでに意地を貫くが、行動原理は予測不可能であったりする。一本気であるがONとOFFの切り替えが美意識に直結しているから、例えるならば虫の居所が悪ければ、シャツの白さが気に入らないという理由で邪険にされる可能性もある。
 で、わたしはなにがしたかったかというと、そんなハードボイルド界の大御所である、アーネスト・ヘミングウェイ氏(ミッドナイト・イン・パリという映画で擬人化された雄々しいパパ、ヘミングウェイを知っているだけで、残念ながら作品を読んだわけではない。が、日本語吹き替えでコヤマさんであって、男振りの雰囲気は最高だった。監督脚本のウディ・アレン氏の脳内には、1920年代の移動祝祭日が収納されているのだろう。サルバドール・ダリ氏がお茶目さんであった)やレイモンド・チャンドラー氏は、私生活において愛猫家であったそうだ。御三家的地位のお方が二人もって、なにか因果関係があるのではないか。ハードボイルドをなんとなく検索していたら、何気に発見したよ。そうだよ、坊ちゃんを書ける夏目漱石氏も――である。ならば、夏への扉のロバート・A・ハインライン氏も難しい性格だったのかもしれない。気難しい孤高なる魂には、どこか不羈なる猫が良く似合う。もしくは、偏屈なる孤独な魂には適度な距離で寄り添う猫が必要なのかもしれない。クレバーな魂の片翼なのかもしれない。ただふわふわもふもふしているだけでは駄目なのだ、勿論子猫の頃は母性や父性が刺激され庇護したくなるのかもしれない、けれど成獣されると、ますらお的トムキャットならばチェスターフィールドの一人掛けソファーに座った貴公子のような気品を、たおやめ的プッシーキャットならばボッテチェッリのヴィーナスの誕生みたような形状の籐の椅子に座った貴婦人のような気高さが求められているのかもしれない。出自的前提条件はほぼ一緒であろう、しかし落ちぶれた場合も想定される。切れ味鋭い、研ぎ澄まされた妖刀めいた冷たい価値観を持ったリスキーな人生観である。猫のゆりかごという小説で、グレートなボコノンはこう言っている、「成熟とは苦い失望だ。治す薬はない。治せるものを強いてあげるとすれば、笑いだろう」と。猫とはさまざまな種類こそあれ、笑いを提供してくれる。物言わぬ知性である猫、かなり高度な擬人化がなされた可能性は高い。ダークヒーロにとっての、外付けの良心的サイドキック的立ち位置なのかもしれない。そして猫は日常における適度な刺激、ハプニングを提供してくれる、意外性の獣である。人類の予想を超える縦の動きたるや、エンターテイナーの域である。攻殻機動隊の世界観における秘儀、少佐の縦の浮遊感的なのかもしれぬ。世界観を持っていれば、エフェクトの宝庫であろう。
 勿論ちぇ、スカしてやがるな、ちょこざいな奴だ、どうれ揉みしだいてやろうという関係性を否定するつもりは無い、猫の高等遊民性がパトロン的意欲に火を付ける可能性もある。哲学者には抑圧の象徴たる恐妻がつきものであるように、売り出し中の芸術家には理解者としてのパトロンの援助が必須である。もし猫に美の祝福を感じられたのならば、アナタはパトロンとなるべく奔走するだろう。
 これがわたしの導き出した結論である。Q.E.D証明終了、どうだろうか。
 ちなみに論拠薄弱であるから、ただのサヴィル氏賛歌であろう。猫に興味のない人の本丸を攻めるべく、外堀を埋めるつもりで、労力を割いてきたが、地獄みたいに難解なクロスワードパズルをしているような気持ちになって、かなり疲弊した。彼方を立てれば此方が立たぬ的にジレンマである。それでも面目躍如的にハードボイルドの巨匠が理解されないならば、歪めてしまったわたしのせいだ、すみません、一家言あるお方。どれだけ、疲労困憊かというと、ハーヴェイのS&Wと同じ銃をマーロウも愛用しているようなんだけど、バイパスして文章に起こす気力もない。そもそも、長いお別れには、ガンアクションが無いのです。

 たった二作品を読んでだが、ハードボイルドに関してのわたしなりの結論は、フォーリーアーティストが音付けした吹き替え版のデュポンのライターの開閉音でわたしは満足しているが、世の中には本物の子気味の良いデュポンの音でなくては満足できない人もいるんだろう。ということを発見したということに尽きる。そもそもわたしは、喫煙の習慣が無いから、グリップか弾装の無い拳銃みたような形状のチャッカマンでマカロニウェスタンのようにくるくるガンアクションしている気になっている方が馴染みがある。よっぽど、ライターに縁が無いということだ。BICの使い捨てライターよりも、チャッカマンである。姉が居ると、氷つけとホールドアップして、無慈悲にファイアまでする。キノの旅というパースエイダーという固有名詞の銃とモトラドという固有名詞の喋るバイクの出てくる、世界は美しくなんかない、それゆえに愛おしい現代版のガリバー旅行記染みた寓話的小説は姉の蔵書であり、てへへ的に冗談が通じるからだ。
 ペン回しの才能に恵まれていないから、慢性的にくるくる不足であり、何気にチャッカマンがあると、くるくる回してしまうんだ。わたしだけか。暇さへあればノック式ボールペンをカチャカチャしてウザがられるような人間である。慢性的な手慰み中毒であろう。

 で、お目が高い目端のきく読者に皆様におけましては、これらのわたしの読書体験でカイザー・ソゼ的フィクサーの存在に気づいた方もおられるかもしれない。我ながら気づけばどこか暗示的である。セレンディピティーとしか言いようがない偶然であろう。あたかも、図書館の図書カードにいつも先回りされているかのように記されているアマサワセイジ、目印的いつもの名前のようなものだ。誰なんだろうと、追及すると将来、ヴァイオリン職人になりたい天沢聖司氏と出会うような感覚である。天沢氏をサヴィル氏に置き換えると、自転車籠に乗せてカントリーを駆け回りたいものだ。もしかしたら、わたしはサヴィル氏の瞳を覗き込み、フンベルト・フォン・ジッキンゲン男爵、通称バロンのキラメク瞳から溢れ出る物語のように読み取って小説を書いているのやもしれぬ。
 それにしても――なんなんだろうか、ホント。八百屋の長兵衛さんが、打ったという囲碁だか将棋だかの棋譜を読んでいるみたいだ。大げさかもしれぬが、セカイとの繋がりのように感ぜられるのだ。あたかも、天啓のように。趣向性というよりかは、指向性である。アトランダムに小説を読んでいるようで、実のところ選んで読んでいたかのような錯覚を抱いたものだ。たまたま偶然が重なっただけであろう。ただ、目的としては申し分のない、セカイからの提案であった。
 その人物とは、なんと、村上春樹氏であった。なんの変哲も無いどんな本屋にでも確実に存在する、確定された村上春樹氏である。あまりに偉大であったから、名を知っていたが著書は一切読んでいなかった。いずれ通る道と後回しにしていたのだ。現代文学において、全ての道は村上春樹氏にどこか繋がっていると言っても過言ではないような気がするのだ。巷で囁かれる、ムラカミ以前、ムラカミ以後という言葉をどこかで目か耳にしたような気がする。勘違いでなければ、文学界の蓮池のふちを歩いているような、日本文学界の親善大使然とした尊いドナルド・キーン氏のお言葉かもしれない。印象としては、米ソの宇宙開発競争、スプートニクショック的衝撃であったらしい。どんな偉業を成しえたかは知りえないが、わたしにとってネームバリューにおいてスティーブン・キングと同格であった。なぜならば、どこから手をつけてよいのやら分からない。半端に手をつけるくらいならば、読まん方が良いような気がするという点において存在感が同格である。
 そもそもが、村上春樹氏を幻視しはじめたのは、伊藤計劃氏の洗練された文体に感激してからであった。要は、アメリカ文学的一人称の意匠性であろうと思われる。ただ、念のために断言するが、原書は読めん、アメリカ文学を適切に翻訳してくれた、一流の翻訳家さんありきだ。そして、なんと村上春樹氏は一流の翻訳家さんでもあるという。つまりは、原書を原書のまま読める人なのだ。読書体験における、ネットにおける村上春樹氏との偶然の交差は、実にアメリカ文学の翻訳家さんとしてである。ライ麦畑でつかまえてや、長いお別れ、そしてまだ読んでいないが、一九八四年(英国文学かもしれないが)をモチーフに1Q84という小説もあるのだという。なぜに、IQ84みたいな婉曲な題名なのかと思っていたら、実はベースに一九八四年があり、多分だが、混同を避けるためでもあったようだ。
 もう、アメリカ文学という理由で本を選ぼうかとも思えてきた。あの、O・ヘンリの短編集にたびたび登場する、偽りの楽園で、簡易的な天国である世俗的な島であった頃のコニーアイランドに精神的に移住するような決意でもって。少なくとも目標として、神聖なるヴァチカンや、高級車の見本市のようなモナコ公国に精神的に移住する決意よりかは、気楽でいられる。特権階級でなくとも、移住出来るのだから。
 唐突だがここで、O・ヘンリに関する心温まる、小話を一つ。
 本名、ウィリアム・シドニイ・ポータ氏は、生意気ヘンリというあだ名をつけていた野良猫を呼ぶのに、ヘンリと呼んだだけではどうにも見向きもしないから、ためしにOh、ヘンリ! と呼んでみたらしい、するとたちまち生意気ヘンリは身体をすりつけてきたんだと。ウィリアム氏いろいろ試していた事が想像される、その意思疎通のための労力がどこか微笑ましい。だから、ペンネームが猫にすらキャッチーな響きがあるO・ヘンリになったという説がある。ペンネームの由来には、獄中で小説を書いていて、違法性があるから偽名としてO・ヘンリと名乗っていたという隠れ蓑説もあるらしいが、わたしは生意気ヘンリ説で良い。アイロニーとペーソスの華麗なる使い手が、猫との思い出をペンネームにしたという方が、人情味があるからだ。なんだかほっこりする。この逸話を採用するのもまた、作者の擬人化であろう。O・ヘンリ氏、お金というものの魔力を実感的に理解していた、粋な人物である。
 そして、余談だけれど、O・ヘンリ氏の短編を読んでいて、カウボーイブーツのピザカッターみたような形状のシャラシャラした金属は、どうやら拍車という名らしい。日常会話において、拍車をかけるというのをたびたび聞くが、お馬さんのやる気を出させる、デコピンみたいなものだという事が判明した。カウボーイは、投げ縄で手が塞がっているから拍車が重宝するらしい。ただ、拍車なるもの鋭利であったら、嫌だな、わたしはどうにも映画かなんかで、お馬さんが酷使されているシーンかなんかあると、本気で心配になってしまうんだ。ヴェネディクト・カンバーバッチさん目当てで、戦火の馬という映画を観たんだけど、なんか悲しくなっちまったよ。何気にトム・ヒドルストンさん(トム・ヒドルストン氏のマイベストはマイティー・ソー2のトリックスターであるロキが、落ちぶれちまった酒びたりのロック歌手みたいになっているシーンだ)も出演していて、英国俳優ブームなわたしのテンションがアガった、ものなんだけどさ。

 ともかく、村上春樹氏に関しては、僕三部作あたりから購入しようと決意した。主に映画なのだけれど、完成された三部作という奴に目がないわたしなのであった。第一作は世界観の説明、第二作は世界観の応用、第三作は世界観の完成(予感が残るもの、ありもしないのに世界観が補足され続けるもの)という完全性を獲得した三部作が大好きなんだな。サム・ライミ監督作品のスパイダーマンとか、ピーター・ジャクソン監督のロード・オブ・ザ・リングとか、ウォルト傘下のCGアニメーションのオモチャの物語とか、バック・トゥ・ザ・フューチャーとかなら、自腹でコンプリートしても良い。ケチなわたしがだ、よっぽどだ。ただ、わたしなんかによると、第二作目が伝説になってしまったものは、三部作でも完成した感がない、エイリアンもターミネーターもクリストファー・ノーラン監督のダーク・ナイトも、第二作が完璧すぎて後の作品が蛇足にしか思えないからだ。第二作目は、普通に面白いくらいが丁度よろしい。主に三部作という環が循環し続けるためには。そして、三竦み的三人寄れば文殊の知恵的調和の世界は所有欲が刺激される。一応目標は、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドの上下巻までは買おうと思う。村上春樹氏訳だという理由で、レイモンド・チャンドラー氏の作品群を買い集めるまでに、ハルキストに成れるかどうか以前の問題で、あまりにも普通の本屋さんにおいて、真新しい世界観が平積みになっていて、あざといくらいにまでに新しい世界は提案され続けているということで、かといって過去の名作も押し付けがましくない優しさみたいに陳列されていて、あまりにも活字の海は広大で、あまりにもわたしはちっぽけだということで、わたしはふて腐れることもなく、前向きに自認している。結局のところ魅了されて薄っぺらい財布の紐が緩むだろうということだ。それに村上氏は偉大であるから、カントリーにおいても枯渇する心配はないだろう。
 とりあえず、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドが凄かったら、村上春樹氏訳のスコット・フィッツジェラルド氏のグレート・ギャツビーあたりを買おうと的を絞っている。ワンタイトル的一冊であったし、ウディ・アレン監督のミッドナイト・イン・パリにおいて擬人化されたフィッツジェラルド氏がスマートであったからだ。なんせ中の人、トム・ヒドルストン氏ですぜ。正直それだけの理由であった。映画ベンジャミン・バトン数奇な人生や華麗なるギャツビーの原作者というイメージよりかは、ウディ・アレン氏の奔放なゼルダ女史と夢みたいなパリのパーティーに興じるフィッツジェラルド像の方が鮮明である。

 ちなみにわたしは常に作者の違う未読の本が、5冊から6冊ないと落ちつかない性分である。回転式拳銃のように、まさしくリヴォルバーのように。ゾンビ映画の銃弾の数に比例する、心強さのようなものだ。そして、どれか一つは人生観を変えるような、神聖なる銀の弾丸だと信じている。シルバーブレッド、シルヴァバレット。
 なぜ、リヴォルバーなのかというと、わたしが忘れることなく管理出来る(書店で紙のブックカバーをかけてもらって、読み終わったらひん剥くのを至上の喜びとしている。だので、角川文庫のドクラ・マグラ上下巻の表紙をバスや電車なんかの公衆の面前で晒すなどという心温まるエピソードとは無縁であり、そもそもが、寝床でしか本を読まないという大原則がある)最大数がそうであり、また買い足し続けられる資金の問題でもあるということだ。そしてなによりも、ブローバックじゃなく、リヴォルブするイメージが子気味良い。回転弾装のメリットとは、ロシアンルーレットのように順番を入れ替えることが出来るということだ。そして、リヴォルバーのリロードはある種の決意表明を伴いやすい。引き金の軽い銃とたっぷりの銃弾では、個人的にありがたみが薄い。そして、なによりわたしの財布は薄っぺらいのだ。
 豪快に薬莢をばら撒きながら、マズルフラッシュを連発してみたいのもあるけど、わたしにとっての小説とは、ツーリストが旅の土産に買う、雪の降らないハワイにもある、パワースポットすら個人で所有できるスノードームなのだ。最初こそ深夜プラス1のミシュランの地図のような道しるべだが、背表紙を閉じた瞬間から記念品となる。しかも、旅の過程そのものを保存できるのだ。セカイそのものを運用出来る、コールドスリープ装置であろう。どうやら、世界一有名な秘密結社のメンバーが関わったとされるガラス製の巨大ピラミッドやオベリスクなどの呪術的建造物やフランス印の呪術的モニュメントのサンズ・オブ・リバティーやエッフェル塔の姉妹を配置しての建国宣言、四方山あくびの夢の国である。オフィシャルで公言されている、ごった煮的USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)方式の夢の国であろう。属性特化型、多神教方式である。

 勿論、この文章を書いている最中も、なんでもない日常は進行している。お花を摘みに行って、洗面所で手を洗うとき、そっと人知れずヘン顔の鍛錬に余念が無く、目をぱちくりさせてむっつり助平か抜け作としか形容出来ない、スカタンとアンポンタンの造語であるスカポンタンとか表六玉と揶揄されそうな表情を浮かべている。顔の運動である。念を押すが、ひっそりと人知れず。
 また、姉さんが蒙古タンメン中本のカップ麺を買ってきて、半分こしようず、と半分こ同盟であるわたしに召集をかけ(姉曰く、半分こすればカロリーは半分という、実にずる賢い悪魔的提案である。実に、実に悪魔的であろう)、5分待っているあいだに、辛味成分から何気に眼球を守ってくれる眼鏡の存在を心密かに賞賛し、出来上がったら、気管に入ったら死ぬよね、などと言いながらきゃっきゃっ笑いながら啜って、このカプメンの道着着ている道場破りか師範代みたいな人は、極端なSかMだねなどとお約束の話題で盛り上がり、結論は決まっていつも蒙古タンメンはスコビルだとかいう辛さの単位を追求しているだけじゃないね、旨みがあるもんなどと末尾を締めたりなんかしていた。北極なるもの、本店で食べたいな。
 あとは、劇場版魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語を何気なくレンタルして観て、ほむらちゃんが、いや――暁美さんが、いえ――暁美ほむら様の愛が重すぎて、SAN値なる正気度がガリガリ削られて、チーズの名称を連呼して発狂しそうになっていたら、すっと救いのヒーロー然としたサヴィル氏が颯爽と現れ、擦り寄るコスモス的に正気を補充してくれて助かった。わたしのソウルジェム的本体はつまりメガネであるから、ダークサイドに堕ちてあやうく透き通ったレンズが闇に染まりサングラスになるところであった。わたくしごとであるが、何かの間違いであっても、魔が差しても、血迷っても、絶対魔法少女なんかにはならないと硬く決意した。裏があるに決まってら。
 四方山家は、今日も平和である。
 定期的に姉は、キューティーブロンドという可愛い金髪ちゃんが頑張る映画か、プリティ・プリンセスというアン・ハサウェイが眉毛ぼうぼうなんだけど、お姫様に大変身するのが観たくなっちゃって、わたしは便乗してレンタルビデオ店に行き、これ見よがしに新作一週間レンタルDVDを姉の金で四本くらい借りているし、兄が2ブロックの短さを維持し続けるために千円カットに行くときは、金魚の糞のようについていき、帰りに書店で二冊くらい小説を買ってもらったりしているということだ。
 それで、わたしの主体的プライベートは、映画マダガスカルのスピンオフTVシリーズのアニメのザ・ペンギンズを観て、最強の四人組だなあ、おお、この構図は三銃士と関係あるのではないか、と空想を逞しくしていた。三銃士とは、アトス、ポルトス、アラミスの三人の優秀な銃士に、新人のダルタニャンが加わって物語りが始まるのだ。ザ・ペンギンズは末永くスピンオフし続けていただきたいものだ。ちなみに、わたしが読んだことがあるのは、世間一般で知られている、王妃の首飾り事件で続編は読んでおらん。
 そして、わたしにとっての世代的ドンピシャなプリキュア的存在である、長らく空位であった憧れの絶妙な単純さが望ましい、魔法的ヒロイン枠である、ティンカー・ベルのOVAみたようなCGアニメーションシリーズが終わっちまって、一年に一回くらいの楽しみがと絶望して、コンプリートBOXが発売されるということを事前に調べ上げ、姉を説得して購入してもらって、現代版のオシャレな妖精のビン詰めだと悦に入っている。リビングにいつでも観れるように置かれているよ。そもそもが、姉が見つけた映画だかOVAである。姉の興味の触手は、アタリかハズレが極端であり、ティンカーはアタリである。例えば、処刑人というホラーみたいな題名の映画あるとする、するとわたしは観もしないのに中世のギロチンカッターかなんかイメージして食わず嫌い的に受け付けない。しかし、姉は独自の情報網で、果敢に借りる。すると実のところ、アメリカ版の宮藤官九郎氏、愛称呼ばさせていただきたいクドカン的ユーモアと軽いノリ(ノープランでゴールドチケットをゲットしてウンパルンパしているノリが好きだったりする。けれど、猫をイレーザーしたのは悩ましい)を持った監督のカックイイ映画だということが後に判明する次第である。ユニフォーム的ピーコートの着こなしは最高にイカシテルぜ。
 海外ドラマのウォーキング・デッドで、クロスボーでウォーカーと戦うダリル氏俳優さんのノーマン・リーダス氏出世作である。そして、油断しているとサム・ライミ監督のスパイダーマンのノーマン・オズボーン氏こと俳優のウィレム・デフォー氏の全力な女装に恐れおののくこととなるのだ。良い声の俳優、遠藤憲一氏が卵を産むようなものである。
 そして、ハズレは酷いったらない。勿論あえて書かないが。
 声高に主張したい、長編アニメ映画ピーター・パンのティンカー・ベルは、暴走気味に愛に狂って、ウェンディにぷんすか嫉妬しているおきゃんな妖精であり、ピーター・パンに60年代だかの80年代だかのアメリカのダイナーの塩のビン扱いされてぞんざいに妖精の粉を振り撒くために、かなりふりふりされているが、CGアニメーションのティンカーはね、頑張り屋さんでね、カワユイんだ。トラブルメーカーであるけれども。そして何より、リンリンという妖精語がサカモトさんとかパクさんとかイシダさんの声に翻訳されて、妖精さんの友達が出てくるんだこれが。初々しいアイドルユニットみたいなもので、キラビヤカなの。意外と世間に知られていないことが残念でならないよ。
 ところで、さしあたって今現在の現実味のある目標は、羊毛フェルトで完璧な楽俊を作るということだ。この世でもっとも心強い相棒は、十二国記のネズミの半獣であるところの楽俊氏である。二足歩行のおめめのつぶらなネズミさんで、声優のスズムラさんの声で訛ってて、頭脳明晰で、道を知り、人が出来ていて、度量が広く、善良であるから、いつか自分だけの楽俊氏を手に入れたいと、ネット界隈をうろちょろしていたのだけども、どうにも人形関係は売っていないようだ、という残念な結果に終わった。二頭身だか三頭身のねんどろいどとかいうプィギュアーにならないものか。わたしは、あまりの愛らしさに感激してプギャーって叫ぶかもしれない。仮にだが本物の楽俊が手に入るならば、21グラムの魂のうち7グラム程、質草に出しても惜しくはない。
 で、羊毛フェルトとは、なんぞやかというと、わたしが知っているもっとも手ごろでクリエーティブな素材である。至極単純明快な作法で、無心で没頭できる。編み物のように編み方の手法を覚える必要もなく、サヴィル氏のような長毛種の猫さんの毛を親の仇のように専用のかえしの付いた針でちくちく執拗に刺し続けると、芯のような塊になる。水気のない毬藻のようなものだ。百円ショップの紙粘土での造形はありあまる才能がなければかなり残念な結果になる、が、百円ショップの羊毛フェルトのキットで、ペンギンさんと犬さんを作ってみた結果、どうやらわたしは根気さへあれば、まずまずのモノを作れるらしい事が発覚したのだった。ならば長年熱い眼差しでもって見つめていた、楽俊じゃねぇか、という次第である。プロトタイプ、テストタイプ、そしてプロダクションタイプ的持てる技術の粋を集めたワンオフという感じに作りたいものだ。気分が乗れば、世界の平和の一助ためにマスプロダクションタイプを量産しても良い。兄の愛車である黒いノトさんのダッシュボードの上にいつか駐車場か道路ですれ違って見た、圧倒的なプーさんの如くにオニのように並べても良いし、よっく吟味した信用のおけるフレンドに里子に出しても良い。楽俊を知らなくとも、可愛いネズミというクオリティーでなければ意味がない。外国でいうところのエケコ人形やドリームキャッチャー、日本でいうところの招き猫や福助人形的縁起物であろう。人類の夢である幸福のネズミ算の一つの形である。
 わたしは、心の洗濯として、年に一回、学校の長期の休みのときかなんかに、アニメ十二国記をいっき観する習慣がある。汚れちまったコモンセンスが磨かれる。これから帝王学を学ぶような選ばれた人に知り合いがいたなら、ぜひとも十二国記をカリキュラムに組み込んでいただきたいものだ。

 それにしても、いつ頃からか、わたしの頭の中では、「鎖というものは、いちばん弱い環の強さで、全体の強さが決定される」という、シャーロック・ホームズ氏の言葉が実感を伴って、教訓として理解されていった。実際のところ、ホームズ氏の宿敵、モリアーティ教授の犯罪組織の攻略のための足がかり的言葉だが、見切り発車で始まったこの物語も、気づけば一応猫のカタチの鎖と言えなくもないが、わたしの技量では環の強度にしか拘れないということで。現状、環にしか誠実になれない、というのが正確である。しかし、本当に環になっているか、自分では判断つきかねる。見えていないだけで、視力検査の視標であるところのランゾルト環のようにアルファベットのCのように切れ込みが入っているかもしれない、ならば不完全な鎖であろう。ただ、ベストは尽くしているよ。
 環の強度とは、今敏監督作品のパプリカの、まったく意味はないが、特異な言語感覚によって耳に残る「思い知るがいい、三角定規の肝臓を!」という狂気の口上を目指すべきだという決意である。今敏氏と筒井康隆氏の偉大なるダブルネームであり(よっぽど馬が合ったのか御二方、作中声の人として共演までしている)、意味がないのに意味があるのは、圧倒的であります。
 わたしが、尊敬を通り越して畏敬の念さへ抱いている、日本科学技術大学の上田次郎教授というお方がおられるのだが、上田氏の座右の銘、なぜベストを尽くさないのか、という金言がわたしのような凡人においても胸に響き、わたしの芯の部分で息づいている。凡人なりにもベストを尽くしているつもりである。言葉づかいがおかしいが、常にベストが有り余る上田氏と比べてしまうと、わたしなんかは常にベストが足りていないかもしれぬ。上田氏は天才としか形容出来ない偉大なる脳髄と超人的身体能力で(チェスマスターの頭脳と、オリンピックメダリストの身体能力であろう)、インチキで悪質な霊能力者と対決するのをライフワークとしており、現代に現れた第二のフーディーニと言っても過言ではない、一流のサイキックハンターであって。肝が据わっており、どおんと来い、超常現象というスタンスである。そこにシビレる、憧れる。社会貢献たるや偉人の域であろう。ドキュメンタリー映像という社会貢献のさなか忙中に閑あり的に極稀にブログを更新してくれる、ありふれた一般人へのサービス精神に溢れた献身的な偉人である。最近カントリーにおいてもありふれたヴィレッジヴァンガードのテナントで、ありふれているだろう上田氏の著書をみつけて、危うく定価で買いそうになってしまった。悲しいかな、野口氏や樋口氏ましてや福沢氏はありあまっていないのだ。上田氏の掌握している流通経路ブックオフでの購入したことはないから、現状著書はいっさい所有していない。一流の次郎リアン(上田次郎氏の命名であり、とどのつまり上田氏のシンパである)は布教のために、後進育成もかねて上田次郎氏の著書をつぎつぎとブックオフに売却する習性があるらしい。ちゃんと、百円ショップで購入した、値札的シール剥がし液を所有しているから、どおんと、来い上田次郎氏の著書状態でスタンバっているよ。
 余談だがヴィレッジヴァンガードで、レッドバロン的戦闘機と戦うために、犬小屋を操縦しているスヌーピー氏のマグカップを見つけて、垂涎しそうになった。ここ最近のスヌーピー氏の映画を観てから、愛猫家としての矜持を胸に抱き、節度をわきまえた横恋慕である。スヌーピー氏はね、犬小屋の屋根で寝ているのは、閉所恐怖症だかららしいよ。
 勿論わたしは、生粋のカントリーガールであるから、イオン系列のテナントであったとしてもヴィレッジヴァンガードのオシャレさが少しばかり怖い。世界はあまりにも広大なのだ。
 空いている、平日以外行くものかよ。別に饅頭怖いメソッドではない。負け惜しみである。
 メトロポリタンなんかで、ヴィレヴァンという略称で呼ばれるような店舗に行ったものなら、サブカルチャーを我が物顔で掘り起こそうとしている、群棲する貪欲なるファッションモンスターやパーティーピーポーなんぞの眩しいオーラに中てられ、もしくはサブカルチャー史における種の起源、ガラパゴス諸島的適者生存に一家言ありそうな静かなるヌシの存在感に、精神の平穏のために隅っこに裸足で逃げてくキョドったあくびさん状態になるだろう。別にファッションモンスターやパーティーピーポーに敵愾心を抱いている訳でもないし、ましてや静かなるドン的ヌシにケチをつけている訳ではないし、サブカルチャーの殿堂のような佇まいであるところのヴィレッジヴァンガードを貶しているつもりはない、あまにも、あまりにも趣味や美意識に興じる姿に咲き誇ってるだろう的オシャレさや広大すぎる新世界が垣間見えてただただ眩しいのであった。くらくら、眩む。日陰者属性のわたしには、眩しすぎるということだ。真っ直ぐ天へ伸びる竹は、地を這う苔の気持ちは分かるまい。
 ぼやいているくらいだから、わたしは向日葵属性ではなく、月見草属性であろう。あくまでも大雑把な分類法であり、第一線で活躍するようなステージに到達しなければ、月見草と断言する権利はない。
 実のところ、たまに行くカントリーのスターバックスコーヒーですら、へどもどしてしまうわたしなのであった。ショート、トール、グランデ、ベンティで良いのか、なんか言語の統一感的にオカシクナイカ……。すまねえ、許してくれろ。わたし如きが口出しして良い領域ではないのだ。勘弁してつかあさい。ワールドワイドに展開している、スターバックスが、意味もなくフランス語だかイタリア語のグランデだかベンティーを採用しているとも思えぬ。将来的には、使い込まれたマックブック片手に常連となり何の気なしに注文でき、顔なじみの善良な店員さんに良いチョイスですね、とささやかな世間話が出来るような人間強度を獲得する予定である。現状、コンビニコーヒーのコストパフォーマンスにぞっこんであるが。

 ところで、わたしはノートパソコンのキーボードをちゃかぽこちゃかぽこタイピングしているのだけれども、お風呂場の排水溝の髪の毛のような詰まりを感じている。どうにか詰まりが取れないものか。
 あんぽんたんが、ちゃかぽこして、ぽかんとして、ちゃかぽこ、きょとん、ちゃかぽこという具合である。PCにおいてのルーティーンは主にまとめサイトを巡回してから、ニコニコ動画で一週間無料のアニメかなんかを楽しんでその後に執筆というのをしているのだけれど、わたしの本体たるメガネにブルーレンズというパラメータを付加する程でもなく、サヴィル氏を正確に捉えられないもどかしさに、アニメ業界でオールシーズンやっている異世界島流し風ローファンタジーや、トンデモ迷探偵のけったいな(関西圏の人間ではないが、響きが好きだ)話の構想を練っていたりして時間ばかりが過ぎていくのであった。
 もちろん無策なわたしではない、サヴィル氏の澄んだ眼を覗き込んで、アカシックレコードにアクセスしようと試みるものの、管理者権限で弾かれるんだなこれが。これはコップの水をハッキングしてやる! と方法も分からず息巻いているようなものだ。一般常識の範囲で物理法則が捻じ曲がるように本当に意志の力でハッキング出来たら出来たで困る。これは、チャクラ的な気功砲が手のひらから放出できるのではないのかという、試みにどこか似ている。ちょいとばかし、むなしい。
 折角のエレクトロニクスの恩恵である、パワーステアリングのようなQWERTY配列のキーボードがいくら軽いとはいえ、指先が軽やかにタップダンスを踊ることはついぞなく、あたふたタイピストがタイプライターをおっかなびっくり人差し指で突くように打鍵するようなスローテンポである。せめてアタタタタと突きたいものだ。ただ、我ながらEnterキーだけは、タンとやけにに軽やかにタッチするんだこれが。一向にエンジンが温まらねえや。法廷でタップダンスを踊る、リチャード・ギアの敏腕弁護士の抗弁みたいに流れるようにすらすらとブラインドタッチしたいよ。
 見目麗しいサヴィル氏という良質なるアイディアの茶葉はそれなりに収穫できるものの、紅茶にすべきか、烏龍茶にすべきか、緑茶にすべきか、選べないでいるし、また技術が追いついていない現状である。品種の違いこそあれ、これらのお茶は同じ茶葉から作られている。茶葉の加工は、お国柄の現れたる嗜好を追求した、国粋的技の見せ所とも言えるだろう。
 どんなにドイツのエニグマ暗号を解読出来るだけのPCの演算能力があろうが、偉大なる数学者が導き出したアルゴリズムがなければ、宝の持ち腐れということだ。月の裏のスペースナチスの映画を思い出した。うろ覚えだが、鹵獲したケータイ電話一つの演算処理能力で、世界征服的機械が機動するのだ。つまりわたしは、ハードを使いこなしていない。
 そもそもが、執筆はオレンジのBICのボールペンと、アメリカのティーンが学校の課題かなんかで用いる、イエローなリーガルパッドなんかでも本来は出来るのだ。ただ、わたしの場合、読める漢字が書けないというもどかしさに放棄しているんだ。夏目漱石氏の原稿用紙に鼻毛を貼り付けるという心温まるエピソードは、わたしにとって液晶画面越しの伝説でしかない。液晶画面越しの継ぎ接ぎ自由な仮想的なキロバイトの思考であって、ペリカンの万年筆的肉筆の赤ペン的推敲の思考ではないということ。私生活が充実していて、精神が安定していても多分一生、太宰治氏のように口述筆記で小説は書けないだろう。それにしても、口述筆記で書かれたという、駆け込み訴えの情念渦巻く一人称的告白は、どんな自己暗示で憑依したのか、最強の人間性に思えたものだ。
 わたしは、早速自由という名の檻に閉じ込められてしまっている。ゆるふわな話のつもりで、好き勝手に書いているが、真っ白いジグソーパズルをやっているような果てしなさに若干の虚脱感がある。なんピースで完成かも分からず、ジグソーパズルだけにピースの形状というものがあって、連結することもあれば、はまることもあるのだけれど、大概的に大多数があつらえたかのようにジャストフィットという感じがしないのだ。ジグソーパズルとは、一枚絵をジグソーなカットしたからパズルなのだ。
 一枚絵が分からん。昨日のわたしと今日のわたしが同じわたしではないかのように。昨日の自分と今日の自分が文通しているようなものだけれど、何者なんだ昨日のわたしという状況である。
 過去のわたしときたら、あたかも怪人20面相のようであったそうな。現在のわたしは、子供を喜ばすためだけに奇想天外な仕掛けを考えているとしか思えない、怪人20面相おじさんを追いかける少年探偵団であり、未来のわたしは種明かしをする明智小五郎先生になれねばならぬ。大円満的ラストをむかえ、明智先生バンザイ! と万歳三唱したいものだ。ポプラ社の少年探偵団シリーズは、不揃いであったけれども、小学校の図書館の本棚で圧倒的質量を誇っていたものだ。きっと、OBの寄贈か、歴代の学校の先生が秘伝のタレみたいに継ぎ足していたことが推測される、背表紙が鎧版と仮面版の少年探偵団シリーズが混在していたから。
 もしくは、目隠しして行われる、福笑い式のサヴィル氏の肖像であろう。ナポレオン・ボナパルト氏が栄光の肖像のように猛々しいものにならんから困ったものだ。ナポレオン氏は、提督帽子的なものを扇形に横に被るという伊達者である。
 サヴィル氏を賛美するに、表現方法の確かさを追求するならば、野生のプロが生息しているという動画投稿サイトを参考にしてもイイのかもしれないけれど、なんだその超絶技巧と才能は、もしくは馬鹿馬鹿しい原動力は、腕試し的基本無報酬という時間の無駄遣いぷりに、憧憬と引け目が入り混じった不思議な感じになっている。野生のプロ(推定アマチュア)であって、プロフェッショナルではないのだから凄いのだ。
 よく分からないけれど、初音ミクさんはパブリックなボーカルであり、自分の都合のイイように調教しなければならないらしい、音楽業界の大御所的なおじさんやおじいさんかなんかが、目を輝かせてミクさんを賞賛するのはどこか感動的である。サイバーパンクの先駆者である、電脳世界の予言者ウィリアム・ギブスン氏もカルチャーとして関心を抱いていたらしい。しかし、サヴィル氏賛美歌のメロディーは頭を抱えても湧いてこない。
 写実的にサヴィル氏を描いたところで、写真越えにはならないし味も素っ気もないだろう、基礎的技量がなければ、キュビズムは落書きの域をでないし、特徴を捉えたデフォルメマスコットの作成を試みても今のところアナログ、デジタル的画材を揃えるような水準にはありはしない。
 俳句を詠もうにも、歳時記が手元にあったとしても、花鳥風月を解していないから不可能である。
 とっさに、くるみ割り人形の金平糖の精に前衛的な振り付けを考えて、サヴィル氏を踊りとして表現してみたところで、傍から見たらただのヤヴァイ人であろう。TVなどでBGM的に流れる金平糖の精は、なんかゾワゾワして落ち着かない気持ちになる。
 たしか、京極夏彦氏の巷説百物語シリーズにあったのだけれど、人形には生はないが、精はあるのだという。仏師が木から仏を削りだそうとしたとき、どの瞬間から木が仏たる神聖なる霊験が宿るのかという深遠なる問いを思い出した。霊はカタチに宿るのだという。ここでいう、仏をサヴィル氏に置き換えると、わたしの苦悩の一端が垣間見えるだろう。カタチに納得がいっていない。
 もしくは、ジョジョの奇妙な冒険第五部ローリングスートンズというスタンド使い経由の、ミケランジェロの名言を、「究極の形」とは考えて彫るのではなく、すでに石の中に運命として「内在している」だと言う。
 もしくは、私は石の中に天使を見た。そして天使を自由にするために彫ったのだ。あるいは、まだ彫られていない大理石は、偉大な芸術家が考えうるすべての形状を持っている。ググった結果、ミケランジェロ氏の哲学はそうであるらしい。
 で、結局のところ、何処までも身近な材料であるところの、最小の単位である言葉の記号化たる文字に白羽の矢が刺さったということだ。大天才であるところの、ミケランジェロ氏の石に対する哲学を理解するために置換できる言葉が、わたしにとって文字であり文章であった。勿論、わたしの読書体験の多くが寝入りばな、意識の表層を掠める程度の読解力しかないのだけれど、睡眠導入剤としてほぼ毎日触れ合っているメディアは小説だったということだ。本来ならば星新一氏のショートショート、煩悩の数の約十倍の作品群を網羅し、聖書やシェークスピアのように教訓や戒めとして引用するという構想はあるのだけれど、あまりにも膨大で作家買いにまで到達していない。
 だので、日常使いの自意識で、ルーブ・ゴールドバーク装置(ピタゴラ的装置)風の滑稽味どころか残念味のある手記を嬉々として制作中であるが、ひたすら回りくどく労力の割りに実に役に立たないものでもある。そもそもが、砂上の楼閣の気配濃厚である。そいうものだ。
 現状、不完全性を全面に押し出し、個性と嘯くしかない。適切なタイミングで適切な言葉を紡ぐ困難さに打ちのめされている。売文された文章は、もう書かれてしまったという必然性で、完全にわたしを過去の亡霊にしてしまう。もちろん偉大なる受け売りである。私如き未熟者はそのステージにまで到達していない。言及するには、粗忽者かもしれぬ。
 わたしが、わたしの理想とする最終形態になったあかつきには、もう書く必要すら生じないであろう。中島敦氏の名人伝にこうある、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた紀昌は射之射を極め、ついには不射之射の境地にまで至ったのだという。究極的な名人は、矢を射る必要すらなく、弓という固有名詞まで忘れてしまうのだという。わたしが猫之猫から、不猫之猫の境地に至ったならば、ただの抜け殻である。だからなんだと言われても、その境地にまで至っていないわたしには分からんのだけれども。ちなみに中島敦氏の著書は、七つの大罪でいうところのプライド、傲慢さで虎になった男の話、山月記目当てであり、副次的に摂取した名人伝である。なぜならば、実際的に前門の虎、後門の狼という状況に陥った場合、どうせ窮地ならば窮鼠としてネコ科であるところの虎に尾をふまぬように突進すべきだという論理の臍を固めるべく、世に美文として知れた文章を拝読した次第である。我ながら、不純な動機であろう。
 この猫に対する執拗なまでに溢るる原動力とは、いったい何なんだろうか。謎が謎を呼び、どうにも収集がつかなくなってきている。
 
 ――そう、そうだよ。もしかしたら――萌えなるものなのではないのか。猫萌え。
 アノ、一昔前飽き飽きするくらいに日本で蔓延していた、結局のところ得体の知れぬ萌えなるもの。カリスマ美容師くらい意味が磨耗して一過性の言葉であったようだけれども、概念は内在しているのではないか、予約の取れない腕の良いトップランカー的美容師が世間に内在しているように。かなり遅ればせながら、わたしは猫に萌えているのではないか。
 わたしなりの分析によると、萌えなるもの、好きが高じて属性を見出し、その属性に陶酔している状態を指す言葉なのではないだろうか。その属性のシンボル化のダイナミズムそのものの熱量が萌えであり、平易に定義を抽出しようという試みは難しいように思える。個人的なフェティシズムが細分化された個別な嗜好であるように、個人的経験や体験が反映されたものであるから、その記号変換には個人の価値観や尺度なくして意味を成さない。どこまでも個人の体感なのではないか。わたしの萌えは、結局わたしにしか判定識別出来ない。あくまで個別の体験であって、通念ではないのだろう。
 ただ、おおよそという熱量が内在化された、平均値的雰囲気の集合体を構築することは可能である。雰囲気や空気感のおおよそ3は存在する。対象を細かく解体して属性を見出す以前に、便宜上使用される多面的な萌えも、多分――あるのだろう。そもそもが個別の認識しかないのだから、間違いではない。どう足掻いても同じものを共有出来ない個人的なものであるから、言った者勝ちであろう側面も持ち合わせている。
 例えるならば、理路整然とした思考の持ち主にわたしは、名探偵の気配を感じるものだが、それはわたしの個人的幻視であって、対象が厳密性において、名探偵である必要性がないということだ。これこそが、おおよそ3の名探偵萌えではないのか。つまりサヴィル氏萌えに付加された知性的という属性の由来は名探偵萌えなのかもしれない。今日日カメラ機能の無いケイタイは珍しいと思われるが、QRコードを読むためにはソフトないし、アプリケーションが必須である。ハードで常にアクセス可能か常駐している、プログラム的認識の芽生えこそが、つまり萌えのように思えるのだ。元来の意味であるところの萌えのように、草木のように萌ゆる状態。なにかしらが実を結ぶまで育まれた状態。便宜上の例え話であるが、ワインのソムリエが眼前に詩的なワインの情景を描けるのは、ワインに萌えているからではないだろうか。どちらかと言えば、味覚的絶対音感の領域であろうけれども。もちろんわたしは、舟を編むが如きマジメな辞書編纂の人ではないから、あくまでも持論である。見当違いなことを言っているだけかもしらん。ならばただただ、寒いだけである。
 しかしながら、もしそうであるならば、わたしの猫に対する萌えは、節操がないと言わざるをえない。そういえば、絵などを描くという描という漢字が、最近猫という漢字に見えてきて、なぜか微笑ましい気分になっている自分にちと、困る。どんだけだよ、わたし。

 ところで、皆さんの慎ましき語り手こと、四方山あくびにもよくよく探してみれば特異性がある。
 猫に夢を見て、現を抜かし骨抜きにされた、ふにゃふにゃはにゃん然とした軟体性も特殊性癖のようであるが、そればかりではない。そればっかりではないと信じたい。ホント。
 突然、五分前に無からぽんと生まれ出でたとかいううすら怖い設定を後付するつもりも無いからご安心されよ。大概的に書くに値しない茫漠とした日常を過ごしている。そいうものだ。また語り手として、青春なる珍妙な苦い薬を今更ながら処方するつもりではないから、そう敏捷に逃げるために構える必要はない。そもそもが、青春なるものが分からん。なんぞ。なにやら、期間限定の限定品を取りこぼしたような気になったものだから、青春小説で、その奥義を体得せんと心胆を練ったものであるが、いまいち身に付いた感がない。
 しかし、女子校生であることがこのとりとめのない四方山話の数少ないアドバンテージであろうことを予感している。しかし、わたしはヒロインになりえる資質が致命的に欠如していることは、どんなに盛っても覆せないだろう。はなっから、スポットライトを独占したいとも思わぬが、そこはかとなくワル目立ちしない程度に一目置かれたい願望はある。ラジオを聴く習慣はないが、ラジオパーソナリティだかレディオDJに常連だと認識されるハガキ職人的に、つまり極めて局所的に一目置かれたい。そして、もったいなくも一目置かれたところで、囲碁の経験はないのでゲームバランスは崩壊確定であろう。
 ならば、情熱の次は理性のターンであろう。
 クエンティン・タランティーノ氏の二部構成(結果的に二部構成になるだけのようだけれど)の映画が個人的に好きなんだけれども、ビル殺す! ぬっころす! 状態の荒ぶるザ・ブライドのキル・ビルVol.1が派手な情熱と勢いの加速とするならば、キル・ビルVol.2の冷静と理性の静かな感じでベアトリクス・ギドーとしてビルを知りたいということだ。Vol.1は怒涛のエレキバージョンであり、Vol.2は染み入るようなアコースティックバージョンと言えるような気がする。Vol.2のビルなんて理性のターンであろう、クラーク・ケントは、ヒーローとしてスーパーマンというコスチュームを着ている訳ではない、黒縁眼鏡のどこか冴えない男の方こそが地球人に擬態したコスチュームなのだと言う。ビルとはVol.1において、概念であり、ビル本人の人間性まで言及されぬ謎の人である。何気にゴートーを待ちながらのようだ。ちなみに読んでいないし、観てもいない。
 サヴィル氏、サヴィル氏とわたしは事あるごとに猫の名を口にしているが、実のところ直接的な描写をしていない、謎の猫であろう。さながら、後藤を待ちながらである。これはわたしが意図したものではなく、たまたまであるが。ならば、Vol.2の出番であろう。Vol.2になって、ビルの真意が分かるものだ。
 もしくは、デスプルーフ(姉さんは、プラネットテラー派である。ポケットバイクがツボらしい。ちなみに、わたしにとって、クエンティン・タランティーノ氏はヴァイオレンス映画における、O・ヘンリ氏であり、ロバート・ロドリゲス氏はヴァイオレンス映画におけるサキ氏のような認識である。基本、短編の名手は関係ないが双璧として、どちらも暴力的表現を得意としているが、タランティーノ氏にはシナリオ的に良心の葛藤のようなものが見て取れるし、ロバート氏はシナリオ的に何処までも冷徹であり続けるような気がする)という映画における、第一部のヤヴァイ人スタントマン・マイクがわたしであり、第二部でボコられるスタントマン・マイクもわたしだということだ。形勢逆転のようなもので。攻守が逆転してしまいそうだ。
 ハーニー・バニーたるサヴィル氏を知るために、客観性の顕現たる偉大なる脇役を登場させようと思う。肯定のみではなく、否定を。サヴィル氏の否定ではなく、好き勝手人の褌を締めて、独り相撲をとっていたわたしの天敵の出現と言っても過言ではない。文章的にナニカが劇的に変わるとも思えぬから、フルモデルチェンジではなく、マイナーチェンジであろう。
 ここで、世間一般でリアルが充実していそうな容姿の、腐れ縁のゲス友を登場させようと思う。

 横島きつこさんの爆誕である。どかん。

 お気づきの方もおられるかとも思われるが、四方山あくびという名は、やはり偽名である。これは、吾輩は猫であるのオマージュのつもりであるのだけれども。
 吾輩は猫であるは、連載小説であり、最初こそ飼い主の名は明かされぬが、後になって、珍野苦沙弥であることが泡が弾けるように且つひそやかに判明する。苦沙弥君や苦沙弥先生とは呼ばれるものの、フルネームは実のところレアだったりする。吾輩は猫であるは、流し読みに適さない、眼球が充血するような思いをして必死こいて探してみたりした。
 作者であるところの偉大なる夏目漱石氏は、当て字の達人としても有名であるらしい。あたかも、それと分かる判じ絵のような当て字である。麦酒と書いて、ビールと読んでみたり、五月蝿いと書いて、うるさいと読んでみたりと、感覚からの推察される字面を文章に落とし込む、表意文字だか表語文字の達人である。音読みや訓読みを超越して、PCにまで認知された変換であり、日本中に浸透しているのだろう。
 夏目氏は漢詩、漢文、俳句、英文学に通暁していたインテリゲンチャであるから、常人の及びもつかない非凡なる発想である。歳時記の季語を新たに創造するようなものだ。
 この珍野苦沙弥という名、略してちんくしゃの当て字かもしれないし、よくよくちんくしゃの意味を調べると、犬の狆がくしゃみをしたようだという意味らしい、ならば、狆のくしゃみは、意味が通る。それにくしゃみの当て字が実に深い、少なくとも確実なのは、沙弥は苦するものだということをある日のわたしは発見した。夏目漱石氏が賞賛したという芥川龍之介氏の小説の鼻かなんかで、注訳として沙弥なる言葉の意味を知ったのだ。まだ正式に受戒する前の修行僧を、沙弥と呼ぶらしい。仏門に入るのは、なまなかな覚悟ではない。仏に帰依せんとする修行は、俗世の交わりを断ち、苦を伴うものなのではないか、とわたしは思った。故に苦沙弥。しかし、仏教用語の苦と、俗世の苦は言わんとする意味が違うらしいから深入りはしない。もしかしたら、禅でいうところの不立文字というもの的なのかもしれない。わたしの言う苦沙弥とは、たまたま、門前の小僧が習わぬ経を読むようなものである。信心がなければ、鰯の頭は鰯の頭であろう。
 神仏を畏れ敬ってはいるが、神仏のなんたるかを知らないわたしではあるが、なんか凄い。高尚なダブルミーニングだ。
 わたしの場合は、単なる遊び心しかないので、深い意味はない。わたしは、わたしが知りえたことをくどくどと文章に起こすという野暮をやっている。知っているからといって、理解しているとは限らない。夏目氏は説明などしていない。さらりと、読み飛ばしたらそれまでである。そこが、粋である。
 で、横島きつこさんは、邪がキツイから、などという全国の横島さんを敵に廻すような由来である、とは断言しない。短絡的な閃きである。なんかしっくりきただけ。あくまでも戯画的登場人物として、誇張されたキャラクタライズである。中の人は口は悪いが、人まで悪い訳ではない。候補として、猫月カヲ(ツッコミ要員としての、猫好きかよ! のもじりである)というのあったけれど、横島きつこの方が個人的にオモシロかった。この世でもっとも邪な人物とは、小学校の水のみ場の蛇口に平気でバッタをねじ込むような奴だ。その当時、小学生だったわたしは、ちぃちゃなやり場のない正義感が震撼したものだ。パブリック・エネミーめ、歯ブラシ咥えてシャトルラン地獄に堕ちろ。ところで、関係性においてイニシアチブをそうそうに奪われたわたしの、ささやかな意趣返しである。どうやら予定では、わたしはきつこさんにたじたじになるようだ。

サヴィル氏にまつわる話

執筆の狙い

作者 ネッコ・フィリックス
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 まだ、年号が平成だった頃、夏目漱石の吾輩は猫であるのオマージュとして書いたものです。
 固有名詞の類が実在するので、公募用の作品ではなく、習作として書きました。とにかく、わちゃわちゃしていて胸焼けする程です。
 真面目にふざけましたが、パソコンの片隅で埃を被っていた不憫な子です。
 改行を極力しないように書いたので、読みにくいかもしれませんが、少しでも楽しんでいただけたなら、幸いです。
 習作として書いたものなので、批評していただけると、ためになります。

コメント

南の風
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しっかりと読んだわけではありませんが、最後まで読ませて頂きました。 読んでいる途中で、これはひょっとすると AI が書いた文章ではないかとさえ思いました。ところどころで私も大好きなシャーロック・ホームズが出てきて、例えば怪盗ルパンとホームズの対決という展開があって期待したのですが、文章がすぐに別の方向に走り出してしまいました。

この作品の内容をもっと細かく具体的に書くと、100ぐらいの短編が書けるのではないでしょうか。面白かったです。面白いですが、 ちょっと読みにくいのと、固有名詞が多くて、 読みながら色々と想像してみると文章のスピードについていけないところがありました。 こんな書き方もあるのですね。 参考になりました。ありがとうございました。

ネッコ・フィリックス
p2954005-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

 南の風様
 お読みいただきありがとうございます。

 実は、お恥ずかしい話なのですがこの拙作、三倍の長さがあって、永遠に書けるじゃないかと不安になったもので、封印した作品でした。後半は作品の感想ばかりで、猫にまつわるようにという、主題がおろそかになっていて輪をかけて読めたものじゃないです。
 当然嘘も多いのですが、実生活の話を日記のように書いていたので、かなり楽でした。エセエッセイとでも申しましょうか、徒然なるままに書いていればいいので、ネタ帳代わりに活用してました。

 最近作家でごはんを利用させていただいていて、気づいたのですが、この作品の文章を引用しながら感想を書いていることに気づきました。やっぱり、頭ひねりながら書いた文章は身につくものです。むしろ、今現在スランプ気味なので、以前のぼくよりも劣っている節さえありました。
 固有名詞が多いのも、実際に読んだり、観たものの感想だからでした。もし、興味があるものがありましたら、検索していただけたら幸いです。ぼくの価値観はなんともいえませんが、作品は一定のファンがついている、身元というか評価の確かなものばかりです。
 これといってプロットがないものですから、AI的な文章になってしまっているかもしれません。統一性がないのは、ぼくが移り気だからでもなく、書きたいことを書きたいときに書いていた結果です。自分に厳しくしなければならないと、反省しました。

 もし次回作が書けましたら、もう少し真っ当な小説にしたいと思いますので、読んでいただけたなら幸いです。 

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