妄想彼女
開け放たれた窓から、湿気をおびた風が吹き込んでくる。西からの陽をうけたカーテンが、眩しくはためく。木製の窓枠がカタカタと鳴った。
放課後、僕だけが居残る教室に、ヒグラシの声が響いている。窓の外には、グランドを駆ける生徒らが見える。ボールを追い、檄を飛ばし合う声が、微かに聞こえる。
校庭を囲う山は青々と茂り、その合間から海が覗く。島を浮かべた海面が、鏡面のように輝く。巨大な雲が、空の青を押し上げている。
遠い風景に目をやり、僕の手は止まる。課題のプリントの上を、ペンが転がる。
一人である。
誰にも、意識されることはない。
なにもかもが、遠く離れているような気がした。
自分だけ、現実から遊離していくように感じた。
廊下から、足音が聞こえてくる。シューズが床板を叩き、教室の前で摩擦音を立てて止まる。扉が勢いよく開かれ、戸当たりに打ち付けられた。
「ミツオ」
眼鏡の女子高生が、入り口から大声で呼ぶ。僕を見つけ、真っすぐな眼差しをこちらに向ける。
右手の中指で、眼鏡を直す。
黒板を横切り、窓際に立つ。背筋の伸びた凛とした姿からは、高潔さすら感じた。
僕に向き直ると、一騎打ちに挑む戦士のように近づいてくる。そして、おもむろに胸元に手を入れた。双丘の谷から封書を出し、目の前に突き付ける。
表書きには、「告白状」と書いてあった。
「好きだ」
手紙を机に叩き付け、メガネはよく通る声で言った。
「何、なんだよ、いきなり」
メガネは机に手をつき、僕に顔を寄せる。活火山のような胸が、前かがみの襟もとから覗く。
「付き合ってくれ」
張った声が、蝉しぐれを静まらせた。たじろいだ僕は、のけ反り、椅子の背もたれに手をつく。
「たのむから、頼むから落ち着いてくれよ」
揺れる水風船のような胸から視線を外せないまま、僕は狼狽していた。
メガネはやる瀬なく自分の胸をつかみ、唸り、ブラウスを引き千切ろうとする。
「おい、やめろやめろ」
慌てて僕はメガネの腕をつかみ、止めた。
メガネは瞳を潤ませ、僕の顔を見る。
「ミツオ」
急におとなしくなり、顔を赤らめる。
「いいから、座れ、な」
手を引いて、メガネを隣の席に座らせる。
「もう、大丈夫か」
猛獣を檻に入れるように、ゆっくりと手をはなす。
僕は自分の席に戻り、一度、天井を見上げた。何度か深呼吸をして、冷静さを取り戻そうとする。
誰かの悪ふざけか。
冗談なら、過ぎるだろう。
なんで女子がいるんだ。
ここは男子校だぞ。
考えても事の異常さは変わらず、あらためてメガネと向き合う。
すっかり大人しくなったメガネは、黙って僕をみつめている。一重まぶたの丸い顔立ちを、短く切ったおかっぱが艶やかに包んでいる。赤いフレームの眼鏡は、彼女を知的にみせていた。
「誰なんだよ。きみは」
僕が問うと、メガネは顔をよせる。
「私の名前を、決めてください」
真剣な眼差しで、言う。
とぼけているんだろうか。
「こっちが聞いてるんだ」、苛立って語気が強くなった。
メガネは表情をなくし、肩を落とした。
「ごめん」。彼女の様子に、僕は混乱した。
僕は、彼女をどこかで見たことがある気がしていた。否、良く知っている誰かであることに、間違いはなかった。しかし、それが誰なのか、思い出せない。
苛立ちは、そのせいだった。
「自分の女のことも忘れたのか、ミツオ」
後ろの扉が開き、男が姿を現した。
背は高く、肉付きは細い。黒い布をまとい、黒いボストンバッグを肩から下げている。せり上がった額が、つやの良い丸みを帯びる。
「ヨコタマ!」
横田正彦、通称ヨコタマ。同じクラスの彼は、僕とゲームの貸し借りをする仲だった。異常性癖の持ち主で、下ネタしりとりでは僕が三勝七敗と負け越している。
「お前、いつから聞いていたんだ」
僕の問いには答えず、ヨコタマは低い声で言う。
「こっちへ来い、ソヨカゼ」
ヨコタマの言葉に、メガネは神妙な面持ちになる。
「はい、マスター」
子が親に従うように、立ち上がる。
ソヨカゼ。
その名を、僕はよく知っていた。
「名前を決めてください」。ゲームの設定画面で、女性キャラクターにはいつも「ソヨカゼ」と名付けていた。
メガネをかけたソヨカゼは、ヨコタマに駆け寄る。
ヨコタマが肩を抱くと、ソヨカゼは親しげに身体を預けた。頬を寄せ、上目づかいでヨコタマを見る。
ヨコタマは、勝ち誇るような顔をした。
「どういうことだ、ヨコタマ」
彼女を盗られたような腹立たしさに、声が大きくなる。
「この女は、俺が創り出した」
言うと、ヨコタマはボストンバッグから黒いヘルメットを取り出した。見覚えのあるフルフェイスヘルメットだ。
「お前の妄想からな」
一ヶ月ほど前、ヨコタマは僕の家に来た。
「こないだ借りた『生徒ピンピン物語』返しに来たぞ」
インターホン越しに、ヨコタマが言う。さいわいリビングには母親がいなかったので、聞かれずにすんだ。
僕は急いで玄関を開ける。
「声、でかいよ」
言いながら口に人差し指を当てると、ヨコタマは面白そうに笑う。
「おじゃましまーす」
家中に響く声でヨコタマが挨拶すると、物干し場から母親が「いらっしゃい」と返事をした。
僕は面倒にならないよう、急いでヨコタマを自分の部屋に連れて行く。入るなり、ヨコタマはベッドに腰掛けた。
「相変わらず、いい部屋っすね」
本棚とゲームソフト、そしてフィギュアをながめながら言う。
「いいからあれ返せよ」
ほれ、とヨコタマは持ってきたボストンバッグを僕に放り投げた。ドッジボールのように受け止め、開けてみる。
貸したときより汚れた状態のゲームソフトが入っていた。
「なんで汚すんだよ」
言いながら取り出すと、その奥に黒いヘルメットが見える。
その表面には、配線やネジ止めされたボックス、発光ダイオード、排気用のファンなどが取り付けられていた。
「なんだ、これ」
ヨコタマはその質問を待っていたかのように、腕組みをして僕に頷く。
「よくぞ聞いてくれた。それはな、我が科学部で作った妄想ヘルムだ。それをかぶって寝ると、必ず夢精できる。モテない男子校生にとって、天からの救いに等しいアイテムだ」
ヨコタマは変態でありながら、物理学に長け、電子工作を趣味とし、科学部の部長を務めている。身にまとう黒い布は、たび重なる実験の失敗で焼け焦げた白衣であった。
「お前のために作った。ぜひ試してみてくれ」
言ってニヤニヤと笑った。
「いらねえよ。持って帰れ」
僕はヨコタマにバッグを突き返す。
「待て待て。子どもの使いじゃないんだから、手ぶらで帰るわけにはいかん。今日はどれを借りようかな」
そう言って、部屋を物色しはじめた。
本棚のマンガを開き、ゲームソフトの並んだ棚をながめ、クローゼットまで開く。
「あら、横田君。また背が伸びたんじゃない」
母親が氷の入ったカルピスを持って、入ってきた。
「ちょ、入ってくるなって言ってるだろ!」
ベッドの上にはまだ「生徒ピンピン物語」が置いたままだ。
「お母さん、いつもお世話になっております。今日も、お奇麗ですね」
ヨコタマはカルピスを受け取り、飲みながら世辞を言う。
僕は母親を部屋から追い返し「もう、入ってくるなよ」と言って戸を閉めた。振り返ると、ヨコタマは買ったばかりの新作ゲームをカバンに入れている。
「あ、おい、それまだ僕もやってないのに」
ヨコタマは満足した顔でボストンバッグを閉め、左肩にかける。
「じゃ、またな」
手をあげて、部屋を出る。
「お母さん、ごちそうになりました」
玄関でまた叫ぶと、にやにやしながら自転車にまたがり、額で夕日を反射させながら帰っていった。
面倒が去り一息つくと、僕は部屋に戻る。クローゼットを開けると、妄想ヘルムが鎮座していた。
「あいつ、ゴミを置いて行きやがった」
その日の夜、ラジオを聞きながら、数学の宿題をしていた。
赤坂孝彦のビリオンナイツが終わり、欠伸をする。時計の針が十二を向き、僕の思考はぬかるみはじめていた。
ふと、視界のすみに黒いヘルメットが映る。
――必ず夢精をする――
「そんなバカな話があるか」
ヨコタマの言葉が浮かび、それを振り払おうとする。
だが、好奇心にやられ、妄想ヘルムに手を伸ばしてしまう。
――求めよ、さらば与えられん――
漆黒のヘルムが、そう言った気がした。
僕は、両手で持ち上げ、頭に乗せる。首を入れると、ぶうん、と低く静かな音が響いた。
視界はなく、目を開いても、閉じているのと同じ暗黒が見える。
ベッドに横になり、眠ろうとしてみた。けれど頭にかぶったヘルメットの違和感に、なかなか寝付けない。
目を閉じても、開けているのと同じ風景が見える。
暗い視界に、残像のような青白い光が浮かんでくる。
まどろみの中で、曖昧なイメージがふつりと湧いてくる。
おぼろな光が、ぼやけた像を描きはじめる。
明るい窓、整然と並んだ机。
美しく消された緑の黒板、涼しい風になびくカーテン、教室には女子たちの楽し気な笑い声が響いていた。
「ミツオ」
メガネをかけた、胸の大きな女生徒が、前の席に腰掛ける。
「弁当、作りすぎたんだよ」
言いながら、僕の机に肘を回す。
「お前も食うよな」
ピンクの風呂敷包みを、ドンと僕の前に置いた。
「ありがとう。腹、減ってた」
手を合わせ、感謝をしめす。
彼女は嬉し気にふろしきを開き、弁当箱のふたを取った。
ご飯には海苔で「大好き」と書かれている。
「僕も君のことが大好きだ、ソヨカゼ」
僕はヘルメットのなかで、呟いていた。
翌日、自転車のカゴに妄想ヘルムを入れて学校に向かう。
「どうだ、夢精したか」
信号で停まっていると、ヨコタマがにやけながら黒い電動自転車を寄せてきた。
「するわけねえだろ」
僕は妄想ヘルムに手を伸ばし、放り投げる。
「おっと」
ヨコタマは腕を伸ばし、自転車を傾けながらキャッチした。
「かぶってはみたんだな」
そう言って、満足気に笑う。そして、抱いたヘルメットを愛おしそうにボストンバッグに入れた。
信号が青になると「じゃ、またな」と手をあげ、黒い白衣をはためかせて去っていった。
放課後の教室、ヨコタマは右腕にソヨカゼを抱き、左手に妄想ヘルムを持っている。
「妄想ヘルムで、ソヨカゼを生み出した」
僕は、現状についての推論をぶつけてみる。あり得ないことだが、あり得ないことが起こっていた。
「その通りだ」
ヨコタマはソヨカゼの顔に頬を寄せながら、僕を一瞥する。
「妄想ヘルムは、かぶったものの脳波を三次元的に観測し、記録する。
そして、次に装着した者に、記録された脳波の逆写像を投射するのだ」
自らに陶酔するように、妄想ヘルムを頭上に掲げる。
「あの日、お前は妄想ヘルムをかぶりソヨカゼを思い描いた。
肌のやわらかさ、髪のつや、耳のひだ、唇のまるみ、胸のふくらみ、強気な瞳、恥じらう心。
実に見事なイメージだったぞ。お前の想像力は、人外だな。
その光景を、妄想ヘルムは俺の脳に再生したのだ」
言いながら、ヨコタマは妄想ヘルムをかぶってみせる。
頭頂部に付けられたLEDランプが緑色に点灯した。内部からぼんやりと光が漏れる。
ヨコタマは妄想ヘルムを動作させながら、その性能を説明しているようだった。しかし声は内部にこもり、何を喋っているのかさっぱり分からない。
僕は足音を忍ばせて二人に近づく。ソヨカゼは不安そうに僕を見ていた。
僕はヨコタマの腕をつかみ、ソヨカゼから引きはがす。そのまま腕を引っ張りまわした。
「うわあ」
ひょろ長い体は、ジェンガを抜き損ねたみたいに態勢を崩す。尻もちをつき、ひっくり返った拍子に妄想ヘルムが脱げ落ちた。
ソヨカゼは心配そうにヨコタマの顔を覗く。
「ソヨカゼ」
僕はソヨカゼの手を握る。細い腕を引くと、ソヨカゼの体の重みが伝わる。
「来い」
ソヨカゼはきゅっと手を握り返した。僕らは二人、教室を走り出た。
「あ、待て。まだ説明が済んでない」
床にへたり込んだヨコタマの弱弱しい声が、背後で聞こえる。
校内のスピーカーからは、十七時を知らせるチャイムが響いていた。
教室を出て階段を降り、一階の下駄箱まで走る。
「これから、どうするの」
靴をはき替える僕に、ソヨカゼは言った。
「とりあえず、学校を、出よう」
いくらか走っただけで息が切れぎれて、喘ぎながら僕は答える。
校舎を出て駐輪場まで走ると、わき腹がきりと痛んだ。腹に手を当て、二度、三度と大きく呼吸をする。
ソヨカゼは涼しい顔をして、玄関を振り返っている。
呼吸に上下するブラウスのふくらみ、襟から耳元へと伸びる首筋のライン、顎のゆるやかな曲線、白くなめらかな頬、すこし突き出す唇。
その姿に見惚れてしまう。
「大丈夫かな、マスター」
呟くソヨカゼに「心配するな、あんな奴」と僕は言い捨てた。
「あ、出てきた」
玄関をみると、ヨコタマがふら付きながら出てくるのが見えた。
「おーい、マスター」
ソヨカゼは手を振ってみせる。
「相手にするなって」
語気に苛立ちが混じる。
僕は自転車のワイヤーロックを外し、スタンドを倒してサドルにまたがった。
「乗って」
自転車を出し、ソヨカゼを荷台に座らせる。
腹部にまわる右腕のくすぐったい感触と、背中にふれる柔らかなぬくもりに、僕はのぼせそうになった。
「へへ。青春みたいだな」
僕の後ろで、ソヨカゼは嬉しそうに笑う。
「行くぞ」
顔面に血がのぼるのを隠し、僕は自転車をこぎ始めた。
二人乗りなどしたことのなかった僕は、何度か足をつきながら、どうにか校門を抜ける。
真っすぐに自転車を走らせようとするが、バランスのとり方が分からず、ハンドルは小刻みに振れた。
「あ、マスターが来た」
後ろでソヨカゼが言った。
チェーンとチェーンリングの噛み合う音が勢いを増して、近づいてくる。
「ミツオ、しっかり」
ソヨカゼの応援にこたえようと脚に力を入れるが、スピードは上がらない。
黒い自転車が、突風のように僕らを追い越していった。すれ違いざま、ヨコタマは白い歯を見せ、額の前で二本指をそろえて敬礼してみせる。
僕は止まることもできず、重いペダルを漕ぎ続けた。
「お前、電動自転車は卑怯だからな」。ヨコタマの後ろから、僕は文句を言う。
僕らを振り返り、ヨコタマはソヨカゼにキスを投げる。不愉快さを覚えながら、しかし僕の足は疲弊していく。
ヨコタマから離れるため、僕は次の角でハンドルを左に切った。
「あ」
角を行き過ぎたヨコタマは、住宅のブロック塀に見えなくなる。
この先は下り坂になっている。
眼前にはコンクリートの擁壁がそびえる。
ハンドルをきり、角を曲がる。
遠心力で、車輪がアスファルトの上を滑る。
「きゃっ」
ソヨカゼが振り回され、小さな悲鳴を上げる。
体重を傾け、足で地面を掻きながら、姿勢を立て直す。
自転車はスピードをあげていった。
石垣に沿ってカーブが続く。
ハンドルを小さく切り、垣の内側をえぐるように曲がる。
向こうから軽自動車が現れた。
「うわあ」
左脇にかわす。
クラクションとともに車が行きすぎる。
その先に駅の踏み切りが見える。
遠くに遮断機の音が鳴っている。
両手でブレーキを握る。
車輪が金切り声を上げた。
しかし速度は一向に落ちない。
赤いランプが点滅しはじめた。
警戒色のポールが傾きはじめる。
「ソヨカゼ、しっかりつかまってて」
僕は悲鳴のように叫んだ。
ソヨカゼが、かたく抱き着いてくる。
「わああああ」
恐怖だか興奮だか分からない感情が沸き上がる。
ペダルを踏み立ち漕ぎをする。
「ぬおりゃああぁぁああ」
人ならざる声を吐いた。
前にのめり、あらん限りの力で自転車を走らせる。
警報器の鳴らす音のなかに突っ込む。
傾いた遮断機をくぐる。
車輪が二本のレールを踏み越える。
上体をハンドルに伏せる。
ソヨカゼが体を寄せてしがみつく。
反対側の遮断棒が頭頂部をかすめる。
棒に背を撫ぜられながら、僕らは踏切を抜けた。
踏切を越えると、道はなだらかな上り坂になっており、自転車は減速する。ブレーキを握り、キイィと甲高く停車させた。
天を仰ぎ、息をつく。
青白い空を、鳥が横切ってゆく。斜陽に照らされた雲が、黄桃色に染まっている。カナカナの鳴き声が、途切れとぎれに響いていた。
自分の呼吸と、ソヨカゼの胸の動きが、共鳴していくような気がした。
「死ぬかと、思った」
言いながら、後ろを見る。
「面白かったな」
ソヨカゼは僕にしがみついたまま、笑う。
僕らは自転車を降り、近くのコンビニまで押して歩いた。
「なにか飲み物、買おう」
言って、僕はソヨカゼを連れ、店に入る。
ドリンクのショーケースを開くと、冷たい風が体を包んだ。
「涼しい」
思わず、その冷気に顔を寄せる。サイダーを取り、ソヨカゼの頬に当てる。
「冷たっ」
ソヨカゼは眉間にしわを寄せて、首をすくめた。手渡すと、ペットボトルを首筋に当て、目を閉じる。
汗ばんだブラウスが、肌を透けさせていた。
「ソヨカゼ」と僕は言った。
「何」と彼女は言った。
僕らはただ、笑い合っていた。
店を出て、東側の陰で僕はサイダーのキャップを開ける。
「いる?」と聞くと、ソヨカゼは微笑んで受け取る。
一口飲んで、「ありがと」と僕に返した。
「おう」。受け取り僕が飲むと「間接キスだな」とソヨカゼは笑った。
照れて目をそらし、僕はサイダーを飲み干した。
空のボトルをゴミ箱に捨て、この後のことを考える。自転車に二人で乗るのは懲りたし、歩いてどこかに行くには暑すぎた。
「電車に乗ろう」と僕が言うと、ソヨカゼは黙ってうなずく。
自転車を押して踏切まで戻り、駅の駐輪場に停めた。
切符を買い、時刻表を見る。次の電車が、まもなく到着する頃だった。
ベンチに腰かけ、暮れ始める空をながめる。
「ミツオ」とソヨカゼは言った。
「何」。僕はソヨカゼの顔を見て、聞き返す。
「今日は、楽しかったぞ」。茜色の陽をうけたソヨカゼが、真面目な顔で言う。
「ああ。僕も」言いかけたとき、電車の到着を告げるアナウンスが鳴った。
僕は立ち上がり、ソヨカゼに手を伸ばす。ソヨカゼは手を取り、ふたりで乗車位置に並んだ。
二両編成の電車が、ゆっくり近づいてきた。ブレーキに揺れ、ホームに停車する。扉が開き、群衆が降りる。行き過ぎる人々をやり過ごし、客を吐き出し終わった扉に乗り込んだ。
車内には数人の乗客が残るだけだ。並んで椅子に腰かける。
発車を告げるアナウンスが流れ、空気音とともに扉が閉まった。モーターが音程をあげていく。
線路は道路沿いを走る。外を眺めていると、黒い布を羽織り、黒い自転車を漕いでいる男が見えた。
「ヨコタマだ」
僕が言うと、ソヨカゼは向かいの窓を開けた。
「おーい、マスター」
言いながら手を振る。ヨコタマは僕らに気が付いた様子で、自転車を漕ぐスピードを上げた。電車を追いかけてくる。
けれど線路は緩やかなカーブを描き、ヨコタマは後方に見えなくなった。
僕らは席に戻る。住宅の合間から覗く夕日が、真っすぐに僕らを照らす。
「眩しい」
ソヨカゼは視線をおとし、僕の膝に手を乗せた。その上に、僕も手のひらを重ねる。
カタンカタン。
同じリズムを刻む走行音に、ソヨカゼの頭がこっくり、こっくりと揺れる。僕が肩を寄せると、ソヨカゼは僕に頭を預けた。そのまま身体を寄せ、しずかな寝息を立てはじめる。
電車がトンネルに入る。暗がりを、等間隔にライトが走っていく。
このまま、僕らはどこに向かうんだろう。
ぼんやりと揺れるつり革を見ながら、僕は思った。
トンネルを抜けると、海が広がっていた。水平線の上で、太陽が赤く耀いている。
「次は海辺駅」。車掌のアナウンスが流れる。
「降りよう」
僕はソヨカゼの手を揺さぶった。
「うん」
メガネを直しながら、ソヨカゼは応える。
群青の空を、紅くやける雲が浮かぶ。おだやかな波が、くり返し砂浜に打ち寄せる。沈みゆく夕日は、海に光の帯を描いていた。
僕らは波打ち際を歩いた。
眩しくさざめく光のなか、ソヨカゼが透き通って見える。身体の向こう側の煌めきが、茜に染まるブラウスを透過していた。
「ソヨカゼ」
「うん」
なにもかも分かってるふうに、ソヨカゼは頷く。
「座っていい」と聞かれ、僕はうん、と頷いた。
ふたり、砂浜に座る。
もう何も喋ることもなくて、ソヨカゼはただ微笑んでいた。
砂浜についたソヨカゼの手に、僕は手を重ねる。僕らの影が、砂浜に長く伸びる。肩を寄せ、影を一つに重ねる。
唇を寄せると、風がひとつ、吹き過ぎた。
もう、ソヨカゼはいなくなっていた。
僕は膝を抱いて、海を見ていた。
水平線の茜が、暗くあせていく。夜が背中から、辺りを紺に染めていった。
防波堤の向こうから、自転車を漕ぐ音が聞こえてくる。海辺の駐車場に、黒い服の男が自転車を停めた。砂を踏んで、ヨコタマが歩いてくる。
「妄想は妄想、ただの夢っすよ」
砂浜にうずくまる僕に、ヨコタマは言った。
「ミツオの夢を、俺も一緒に見ただけっす」
隣に立ち、暮れる海を見やる。
「他人の夢を一緒に見られたら、それは現実と変わりないっしょ」
膝を抱えたまま、僕はうなずいた。
「こんどは俺の夢を、現実にする番っすよ!」
言って、ヨコタマは僕に妄想ヘルムをかぶせた。
執筆の狙い
精神病院の待合室で思い浮かべたお話を文章にしました。小説を書くのは難しいなあと思いました。