作家でごはん!鍛練場
風のみた夢

妄想彼女

 開け放たれた窓から、湿気をおびた風が吹き込んでくる。西からの陽をうけたカーテンが、眩しくはためく。木製の窓枠がカタカタと鳴った。
 放課後、僕だけが居残る教室に、ヒグラシの声が響いている。窓の外には、グランドを駆ける生徒らが見える。ボールを追い、檄を飛ばし合う声が、微かに聞こえる。
 校庭を囲う山は青々と茂り、その合間から海が覗く。島を浮かべた海面が、鏡面のように輝く。巨大な雲が、空の青を押し上げている。
 遠い風景に目をやり、僕の手は止まる。課題のプリントの上を、ペンが転がる。
 一人である。
 誰にも、意識されることはない。
 なにもかもが、遠く離れているような気がした。
 自分だけ、現実から遊離していくように感じた。

 廊下から、足音が聞こえてくる。シューズが床板を叩き、教室の前で摩擦音を立てて止まる。扉が勢いよく開かれ、戸当たりに打ち付けられた。
「ミツオ」
眼鏡の女子高生が、入り口から大声で呼ぶ。僕を見つけ、真っすぐな眼差しをこちらに向ける。
 右手の中指で、眼鏡を直す。
 黒板を横切り、窓際に立つ。背筋の伸びた凛とした姿からは、高潔さすら感じた。
 僕に向き直ると、一騎打ちに挑む戦士のように近づいてくる。そして、おもむろに胸元に手を入れた。双丘の谷から封書を出し、目の前に突き付ける。
 表書きには、「告白状」と書いてあった。
「好きだ」
手紙を机に叩き付け、メガネはよく通る声で言った。
「何、なんだよ、いきなり」
メガネは机に手をつき、僕に顔を寄せる。活火山のような胸が、前かがみの襟もとから覗く。
「付き合ってくれ」
張った声が、蝉しぐれを静まらせた。たじろいだ僕は、のけ反り、椅子の背もたれに手をつく。
「たのむから、頼むから落ち着いてくれよ」
揺れる水風船のような胸から視線を外せないまま、僕は狼狽していた。
 メガネはやる瀬なく自分の胸をつかみ、唸り、ブラウスを引き千切ろうとする。
「おい、やめろやめろ」
慌てて僕はメガネの腕をつかみ、止めた。
 メガネは瞳を潤ませ、僕の顔を見る。
「ミツオ」
急におとなしくなり、顔を赤らめる。
「いいから、座れ、な」
手を引いて、メガネを隣の席に座らせる。
「もう、大丈夫か」
猛獣を檻に入れるように、ゆっくりと手をはなす。
 僕は自分の席に戻り、一度、天井を見上げた。何度か深呼吸をして、冷静さを取り戻そうとする。
 誰かの悪ふざけか。
 冗談なら、過ぎるだろう。
 なんで女子がいるんだ。
 ここは男子校だぞ。
 考えても事の異常さは変わらず、あらためてメガネと向き合う。
 すっかり大人しくなったメガネは、黙って僕をみつめている。一重まぶたの丸い顔立ちを、短く切ったおかっぱが艶やかに包んでいる。赤いフレームの眼鏡は、彼女を知的にみせていた。
「誰なんだよ。きみは」
僕が問うと、メガネは顔をよせる。
「私の名前を、決めてください」
真剣な眼差しで、言う。
 とぼけているんだろうか。
「こっちが聞いてるんだ」、苛立って語気が強くなった。
 メガネは表情をなくし、肩を落とした。
「ごめん」。彼女の様子に、僕は混乱した。
 僕は、彼女をどこかで見たことがある気がしていた。否、良く知っている誰かであることに、間違いはなかった。しかし、それが誰なのか、思い出せない。
 苛立ちは、そのせいだった。

「自分の女のことも忘れたのか、ミツオ」
後ろの扉が開き、男が姿を現した。
 背は高く、肉付きは細い。黒い布をまとい、黒いボストンバッグを肩から下げている。せり上がった額が、つやの良い丸みを帯びる。
「ヨコタマ!」
 横田正彦、通称ヨコタマ。同じクラスの彼は、僕とゲームの貸し借りをする仲だった。異常性癖の持ち主で、下ネタしりとりでは僕が三勝七敗と負け越している。
「お前、いつから聞いていたんだ」
僕の問いには答えず、ヨコタマは低い声で言う。
「こっちへ来い、ソヨカゼ」
ヨコタマの言葉に、メガネは神妙な面持ちになる。
「はい、マスター」
子が親に従うように、立ち上がる。
 ソヨカゼ。
 その名を、僕はよく知っていた。
「名前を決めてください」。ゲームの設定画面で、女性キャラクターにはいつも「ソヨカゼ」と名付けていた。
 メガネをかけたソヨカゼは、ヨコタマに駆け寄る。
 ヨコタマが肩を抱くと、ソヨカゼは親しげに身体を預けた。頬を寄せ、上目づかいでヨコタマを見る。
 ヨコタマは、勝ち誇るような顔をした。
「どういうことだ、ヨコタマ」
彼女を盗られたような腹立たしさに、声が大きくなる。
「この女は、俺が創り出した」
言うと、ヨコタマはボストンバッグから黒いヘルメットを取り出した。見覚えのあるフルフェイスヘルメットだ。
「お前の妄想からな」

 一ヶ月ほど前、ヨコタマは僕の家に来た。
「こないだ借りた『生徒ピンピン物語』返しに来たぞ」
インターホン越しに、ヨコタマが言う。さいわいリビングには母親がいなかったので、聞かれずにすんだ。
 僕は急いで玄関を開ける。
「声、でかいよ」
言いながら口に人差し指を当てると、ヨコタマは面白そうに笑う。
「おじゃましまーす」
家中に響く声でヨコタマが挨拶すると、物干し場から母親が「いらっしゃい」と返事をした。
 僕は面倒にならないよう、急いでヨコタマを自分の部屋に連れて行く。入るなり、ヨコタマはベッドに腰掛けた。
「相変わらず、いい部屋っすね」
本棚とゲームソフト、そしてフィギュアをながめながら言う。
「いいからあれ返せよ」
ほれ、とヨコタマは持ってきたボストンバッグを僕に放り投げた。ドッジボールのように受け止め、開けてみる。
 貸したときより汚れた状態のゲームソフトが入っていた。
「なんで汚すんだよ」
言いながら取り出すと、その奥に黒いヘルメットが見える。
 その表面には、配線やネジ止めされたボックス、発光ダイオード、排気用のファンなどが取り付けられていた。
「なんだ、これ」
ヨコタマはその質問を待っていたかのように、腕組みをして僕に頷く。
「よくぞ聞いてくれた。それはな、我が科学部で作った妄想ヘルムだ。それをかぶって寝ると、必ず夢精できる。モテない男子校生にとって、天からの救いに等しいアイテムだ」
ヨコタマは変態でありながら、物理学に長け、電子工作を趣味とし、科学部の部長を務めている。身にまとう黒い布は、たび重なる実験の失敗で焼け焦げた白衣であった。
「お前のために作った。ぜひ試してみてくれ」
言ってニヤニヤと笑った。
「いらねえよ。持って帰れ」
僕はヨコタマにバッグを突き返す。
「待て待て。子どもの使いじゃないんだから、手ぶらで帰るわけにはいかん。今日はどれを借りようかな」
そう言って、部屋を物色しはじめた。
 本棚のマンガを開き、ゲームソフトの並んだ棚をながめ、クローゼットまで開く。
「あら、横田君。また背が伸びたんじゃない」
母親が氷の入ったカルピスを持って、入ってきた。
「ちょ、入ってくるなって言ってるだろ!」
ベッドの上にはまだ「生徒ピンピン物語」が置いたままだ。
「お母さん、いつもお世話になっております。今日も、お奇麗ですね」
ヨコタマはカルピスを受け取り、飲みながら世辞を言う。
 僕は母親を部屋から追い返し「もう、入ってくるなよ」と言って戸を閉めた。振り返ると、ヨコタマは買ったばかりの新作ゲームをカバンに入れている。
「あ、おい、それまだ僕もやってないのに」
ヨコタマは満足した顔でボストンバッグを閉め、左肩にかける。
「じゃ、またな」
手をあげて、部屋を出る。
「お母さん、ごちそうになりました」
玄関でまた叫ぶと、にやにやしながら自転車にまたがり、額で夕日を反射させながら帰っていった。
 面倒が去り一息つくと、僕は部屋に戻る。クローゼットを開けると、妄想ヘルムが鎮座していた。
「あいつ、ゴミを置いて行きやがった」

 その日の夜、ラジオを聞きながら、数学の宿題をしていた。
 赤坂孝彦のビリオンナイツが終わり、欠伸をする。時計の針が十二を向き、僕の思考はぬかるみはじめていた。
 ふと、視界のすみに黒いヘルメットが映る。
――必ず夢精をする――
「そんなバカな話があるか」
ヨコタマの言葉が浮かび、それを振り払おうとする。
 だが、好奇心にやられ、妄想ヘルムに手を伸ばしてしまう。
――求めよ、さらば与えられん――
 漆黒のヘルムが、そう言った気がした。
 僕は、両手で持ち上げ、頭に乗せる。首を入れると、ぶうん、と低く静かな音が響いた。
 視界はなく、目を開いても、閉じているのと同じ暗黒が見える。
 ベッドに横になり、眠ろうとしてみた。けれど頭にかぶったヘルメットの違和感に、なかなか寝付けない。
 目を閉じても、開けているのと同じ風景が見える。
 暗い視界に、残像のような青白い光が浮かんでくる。
 まどろみの中で、曖昧なイメージがふつりと湧いてくる。
 おぼろな光が、ぼやけた像を描きはじめる。
 明るい窓、整然と並んだ机。
 美しく消された緑の黒板、涼しい風になびくカーテン、教室には女子たちの楽し気な笑い声が響いていた。
「ミツオ」
メガネをかけた、胸の大きな女生徒が、前の席に腰掛ける。
「弁当、作りすぎたんだよ」
言いながら、僕の机に肘を回す。
「お前も食うよな」
ピンクの風呂敷包みを、ドンと僕の前に置いた。
「ありがとう。腹、減ってた」
手を合わせ、感謝をしめす。
 彼女は嬉し気にふろしきを開き、弁当箱のふたを取った。
 ご飯には海苔で「大好き」と書かれている。
「僕も君のことが大好きだ、ソヨカゼ」
僕はヘルメットのなかで、呟いていた。

 翌日、自転車のカゴに妄想ヘルムを入れて学校に向かう。
「どうだ、夢精したか」
信号で停まっていると、ヨコタマがにやけながら黒い電動自転車を寄せてきた。
「するわけねえだろ」
僕は妄想ヘルムに手を伸ばし、放り投げる。
「おっと」
ヨコタマは腕を伸ばし、自転車を傾けながらキャッチした。
「かぶってはみたんだな」
そう言って、満足気に笑う。そして、抱いたヘルメットを愛おしそうにボストンバッグに入れた。
 信号が青になると「じゃ、またな」と手をあげ、黒い白衣をはためかせて去っていった。

 放課後の教室、ヨコタマは右腕にソヨカゼを抱き、左手に妄想ヘルムを持っている。
「妄想ヘルムで、ソヨカゼを生み出した」
僕は、現状についての推論をぶつけてみる。あり得ないことだが、あり得ないことが起こっていた。
「その通りだ」
ヨコタマはソヨカゼの顔に頬を寄せながら、僕を一瞥する。
「妄想ヘルムは、かぶったものの脳波を三次元的に観測し、記録する。
 そして、次に装着した者に、記録された脳波の逆写像を投射するのだ」
自らに陶酔するように、妄想ヘルムを頭上に掲げる。
「あの日、お前は妄想ヘルムをかぶりソヨカゼを思い描いた。
 肌のやわらかさ、髪のつや、耳のひだ、唇のまるみ、胸のふくらみ、強気な瞳、恥じらう心。
 実に見事なイメージだったぞ。お前の想像力は、人外だな。
 その光景を、妄想ヘルムは俺の脳に再生したのだ」
言いながら、ヨコタマは妄想ヘルムをかぶってみせる。
 頭頂部に付けられたLEDランプが緑色に点灯した。内部からぼんやりと光が漏れる。
 ヨコタマは妄想ヘルムを動作させながら、その性能を説明しているようだった。しかし声は内部にこもり、何を喋っているのかさっぱり分からない。
 僕は足音を忍ばせて二人に近づく。ソヨカゼは不安そうに僕を見ていた。
 僕はヨコタマの腕をつかみ、ソヨカゼから引きはがす。そのまま腕を引っ張りまわした。
「うわあ」
ひょろ長い体は、ジェンガを抜き損ねたみたいに態勢を崩す。尻もちをつき、ひっくり返った拍子に妄想ヘルムが脱げ落ちた。
 ソヨカゼは心配そうにヨコタマの顔を覗く。
「ソヨカゼ」
僕はソヨカゼの手を握る。細い腕を引くと、ソヨカゼの体の重みが伝わる。
「来い」
ソヨカゼはきゅっと手を握り返した。僕らは二人、教室を走り出た。
「あ、待て。まだ説明が済んでない」
床にへたり込んだヨコタマの弱弱しい声が、背後で聞こえる。
 校内のスピーカーからは、十七時を知らせるチャイムが響いていた。

 教室を出て階段を降り、一階の下駄箱まで走る。
「これから、どうするの」
靴をはき替える僕に、ソヨカゼは言った。
「とりあえず、学校を、出よう」
いくらか走っただけで息が切れぎれて、喘ぎながら僕は答える。
 校舎を出て駐輪場まで走ると、わき腹がきりと痛んだ。腹に手を当て、二度、三度と大きく呼吸をする。
 ソヨカゼは涼しい顔をして、玄関を振り返っている。
 呼吸に上下するブラウスのふくらみ、襟から耳元へと伸びる首筋のライン、顎のゆるやかな曲線、白くなめらかな頬、すこし突き出す唇。
 その姿に見惚れてしまう。
「大丈夫かな、マスター」
呟くソヨカゼに「心配するな、あんな奴」と僕は言い捨てた。
「あ、出てきた」
玄関をみると、ヨコタマがふら付きながら出てくるのが見えた。
「おーい、マスター」
ソヨカゼは手を振ってみせる。
「相手にするなって」
語気に苛立ちが混じる。
 僕は自転車のワイヤーロックを外し、スタンドを倒してサドルにまたがった。
「乗って」
自転車を出し、ソヨカゼを荷台に座らせる。
 腹部にまわる右腕のくすぐったい感触と、背中にふれる柔らかなぬくもりに、僕はのぼせそうになった。
「へへ。青春みたいだな」
僕の後ろで、ソヨカゼは嬉しそうに笑う。
「行くぞ」
顔面に血がのぼるのを隠し、僕は自転車をこぎ始めた。

 二人乗りなどしたことのなかった僕は、何度か足をつきながら、どうにか校門を抜ける。
真っすぐに自転車を走らせようとするが、バランスのとり方が分からず、ハンドルは小刻みに振れた。
「あ、マスターが来た」
後ろでソヨカゼが言った。
 チェーンとチェーンリングの噛み合う音が勢いを増して、近づいてくる。
「ミツオ、しっかり」
ソヨカゼの応援にこたえようと脚に力を入れるが、スピードは上がらない。
 黒い自転車が、突風のように僕らを追い越していった。すれ違いざま、ヨコタマは白い歯を見せ、額の前で二本指をそろえて敬礼してみせる。
 僕は止まることもできず、重いペダルを漕ぎ続けた。
「お前、電動自転車は卑怯だからな」。ヨコタマの後ろから、僕は文句を言う。
 僕らを振り返り、ヨコタマはソヨカゼにキスを投げる。不愉快さを覚えながら、しかし僕の足は疲弊していく。
 ヨコタマから離れるため、僕は次の角でハンドルを左に切った。
「あ」
角を行き過ぎたヨコタマは、住宅のブロック塀に見えなくなる。
 この先は下り坂になっている。
 眼前にはコンクリートの擁壁がそびえる。
 ハンドルをきり、角を曲がる。
 遠心力で、車輪がアスファルトの上を滑る。
「きゃっ」
ソヨカゼが振り回され、小さな悲鳴を上げる。
 体重を傾け、足で地面を掻きながら、姿勢を立て直す。
 自転車はスピードをあげていった。
 石垣に沿ってカーブが続く。
 ハンドルを小さく切り、垣の内側をえぐるように曲がる。
 向こうから軽自動車が現れた。
「うわあ」
左脇にかわす。
 クラクションとともに車が行きすぎる。
 その先に駅の踏み切りが見える。
 遠くに遮断機の音が鳴っている。
 両手でブレーキを握る。
 車輪が金切り声を上げた。
 しかし速度は一向に落ちない。
 赤いランプが点滅しはじめた。
 警戒色のポールが傾きはじめる。
「ソヨカゼ、しっかりつかまってて」
僕は悲鳴のように叫んだ。
 ソヨカゼが、かたく抱き着いてくる。
「わああああ」
恐怖だか興奮だか分からない感情が沸き上がる。
 ペダルを踏み立ち漕ぎをする。
「ぬおりゃああぁぁああ」
人ならざる声を吐いた。
 前にのめり、あらん限りの力で自転車を走らせる。
 警報器の鳴らす音のなかに突っ込む。
 傾いた遮断機をくぐる。
 車輪が二本のレールを踏み越える。
 上体をハンドルに伏せる。
 ソヨカゼが体を寄せてしがみつく。
 反対側の遮断棒が頭頂部をかすめる。
 棒に背を撫ぜられながら、僕らは踏切を抜けた。

 踏切を越えると、道はなだらかな上り坂になっており、自転車は減速する。ブレーキを握り、キイィと甲高く停車させた。
 天を仰ぎ、息をつく。
 青白い空を、鳥が横切ってゆく。斜陽に照らされた雲が、黄桃色に染まっている。カナカナの鳴き声が、途切れとぎれに響いていた。
 自分の呼吸と、ソヨカゼの胸の動きが、共鳴していくような気がした。
「死ぬかと、思った」
言いながら、後ろを見る。
「面白かったな」
ソヨカゼは僕にしがみついたまま、笑う。
 僕らは自転車を降り、近くのコンビニまで押して歩いた。
「なにか飲み物、買おう」
言って、僕はソヨカゼを連れ、店に入る。
 ドリンクのショーケースを開くと、冷たい風が体を包んだ。
「涼しい」
思わず、その冷気に顔を寄せる。サイダーを取り、ソヨカゼの頬に当てる。
「冷たっ」
ソヨカゼは眉間にしわを寄せて、首をすくめた。手渡すと、ペットボトルを首筋に当て、目を閉じる。
 汗ばんだブラウスが、肌を透けさせていた。
「ソヨカゼ」と僕は言った。
「何」と彼女は言った。
 僕らはただ、笑い合っていた。
 店を出て、東側の陰で僕はサイダーのキャップを開ける。
「いる?」と聞くと、ソヨカゼは微笑んで受け取る。
 一口飲んで、「ありがと」と僕に返した。
「おう」。受け取り僕が飲むと「間接キスだな」とソヨカゼは笑った。
 照れて目をそらし、僕はサイダーを飲み干した。

 空のボトルをゴミ箱に捨て、この後のことを考える。自転車に二人で乗るのは懲りたし、歩いてどこかに行くには暑すぎた。
「電車に乗ろう」と僕が言うと、ソヨカゼは黙ってうなずく。
 自転車を押して踏切まで戻り、駅の駐輪場に停めた。
 切符を買い、時刻表を見る。次の電車が、まもなく到着する頃だった。
 ベンチに腰かけ、暮れ始める空をながめる。
「ミツオ」とソヨカゼは言った。
「何」。僕はソヨカゼの顔を見て、聞き返す。
「今日は、楽しかったぞ」。茜色の陽をうけたソヨカゼが、真面目な顔で言う。
「ああ。僕も」言いかけたとき、電車の到着を告げるアナウンスが鳴った。
 僕は立ち上がり、ソヨカゼに手を伸ばす。ソヨカゼは手を取り、ふたりで乗車位置に並んだ。
 二両編成の電車が、ゆっくり近づいてきた。ブレーキに揺れ、ホームに停車する。扉が開き、群衆が降りる。行き過ぎる人々をやり過ごし、客を吐き出し終わった扉に乗り込んだ。
 車内には数人の乗客が残るだけだ。並んで椅子に腰かける。
 発車を告げるアナウンスが流れ、空気音とともに扉が閉まった。モーターが音程をあげていく。

 線路は道路沿いを走る。外を眺めていると、黒い布を羽織り、黒い自転車を漕いでいる男が見えた。
「ヨコタマだ」
僕が言うと、ソヨカゼは向かいの窓を開けた。
「おーい、マスター」
言いながら手を振る。ヨコタマは僕らに気が付いた様子で、自転車を漕ぐスピードを上げた。電車を追いかけてくる。
 けれど線路は緩やかなカーブを描き、ヨコタマは後方に見えなくなった。
 僕らは席に戻る。住宅の合間から覗く夕日が、真っすぐに僕らを照らす。
「眩しい」
ソヨカゼは視線をおとし、僕の膝に手を乗せた。その上に、僕も手のひらを重ねる。
 カタンカタン。
 同じリズムを刻む走行音に、ソヨカゼの頭がこっくり、こっくりと揺れる。僕が肩を寄せると、ソヨカゼは僕に頭を預けた。そのまま身体を寄せ、しずかな寝息を立てはじめる。
 電車がトンネルに入る。暗がりを、等間隔にライトが走っていく。
 このまま、僕らはどこに向かうんだろう。
 ぼんやりと揺れるつり革を見ながら、僕は思った。

 トンネルを抜けると、海が広がっていた。水平線の上で、太陽が赤く耀いている。
「次は海辺駅」。車掌のアナウンスが流れる。
「降りよう」
僕はソヨカゼの手を揺さぶった。
「うん」
メガネを直しながら、ソヨカゼは応える。

 群青の空を、紅くやける雲が浮かぶ。おだやかな波が、くり返し砂浜に打ち寄せる。沈みゆく夕日は、海に光の帯を描いていた。
 僕らは波打ち際を歩いた。
 眩しくさざめく光のなか、ソヨカゼが透き通って見える。身体の向こう側の煌めきが、茜に染まるブラウスを透過していた。
「ソヨカゼ」
「うん」
なにもかも分かってるふうに、ソヨカゼは頷く。
「座っていい」と聞かれ、僕はうん、と頷いた。
 ふたり、砂浜に座る。
 もう何も喋ることもなくて、ソヨカゼはただ微笑んでいた。
 砂浜についたソヨカゼの手に、僕は手を重ねる。僕らの影が、砂浜に長く伸びる。肩を寄せ、影を一つに重ねる。
 唇を寄せると、風がひとつ、吹き過ぎた。
 もう、ソヨカゼはいなくなっていた。

 僕は膝を抱いて、海を見ていた。
 水平線の茜が、暗くあせていく。夜が背中から、辺りを紺に染めていった。
 防波堤の向こうから、自転車を漕ぐ音が聞こえてくる。海辺の駐車場に、黒い服の男が自転車を停めた。砂を踏んで、ヨコタマが歩いてくる。
「妄想は妄想、ただの夢っすよ」
砂浜にうずくまる僕に、ヨコタマは言った。
「ミツオの夢を、俺も一緒に見ただけっす」
隣に立ち、暮れる海を見やる。
「他人の夢を一緒に見られたら、それは現実と変わりないっしょ」
膝を抱えたまま、僕はうなずいた。
「こんどは俺の夢を、現実にする番っすよ!」
言って、ヨコタマは僕に妄想ヘルムをかぶせた。

妄想彼女

執筆の狙い

作者 風のみた夢
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精神病院の待合室で思い浮かべたお話を文章にしました。小説を書くのは難しいなあと思いました。

コメント

金木犀
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面白かったです!!!

風のみた夢
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金木犀様
ありがとうございます。

タンブリンマン
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>「他人の夢を一緒に見られたら、それは現実と変わりないっしょ」

名言デスネ。思ヒ出シタノハ、二十年前ニナリマスガ笑、当時ツキアツテオツタ彼女ト、
デヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」トイフ映画ヲ観ニ行キマシタ。アマリニモ悪夢スギテ
気ガ狂ウヤウナ内容ナノデスガ、私ト異ナリ、賢ヒ其ノ娘ハイヒマシタ。

「他人の夢を視ているみたい」

アト、コンナ好キナセリフガアリマス。

「俺は醒めない夢を視ていただけ」

一人一人ガオナシ夢ヲ視ル。其レスナワチ「共同幻想」デスヨネ(吉本隆明)。
アリガトウゴザヒマシタ。夢ツテ面白ヒデスヨネ。ケレド夢オチ、ハ、小説デハ厳禁デスガw w w。

タンブリンマン
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「人は自由でない限り、夜毎に夢を視るだろう」 ポール・二ザン

風のみた夢
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タンブリンマン様
読んでいただき、感想もいただいて、ありがとうございます。
自分の思い描いたことを、言葉にして、誰かに読んでもらうのって、自分の夢を他人に見せるみたいです。
可愛いけど子供みたいなソヨカゼと、身勝手だけど友人として近くにいてくれるヨコタマ。
そんな架空の存在を、ちゃんと思い描けるのか。
それを言葉にし、読んでくれた人にイメージしてもらえるのか。
なかなか難しいなと思いつつ、読んでくれた人がいて嬉しいなと感じてます。

浮離
KD111239130178.au-net.ne.jp

“妄想彼女“っていうタイトルにあって、この筋なり結末はどうなんだろう?

なんて、いきなりの総括みたいな言い方は多分適切ではないのだろうなあ、とは思いつつ。

この前あたしは“時間軸に沿って“みたいなお節介を伝えた気がするんですけど、この度も同じ轍を踏んでることに自覚的なものなのかどうか、答えを聞きたいとは思わないしむしろその答えを読ませてもらったはずなので、うーむ、人の感覚というものはままならんものかよ、などとむしろこっちこ学ばされた気がしてます。
とはいえ、ダメですけどねこの書き筋はやっぱ。


>妄想彼女

のシュッとして意志薄弱なキャラ造形はつまり例えばおクスリちゃん的なテイストで、そんな妄想がまさに妄想のまま、カラクリのなさが全編に渡ってふわっふわしてるんですよね。
それがいけないって言いたいんじゃなくて、その自覚はなさそうだな、ってことなんです伝わればいいんだけど。


企画は聞いてたから、ソヨカゼったら素っ裸一発で台無しにしちゃうんじゃなかろうか、って序盤からよくわかんない緊張に晒されましたよ。

淫乱家庭教師ばりのチラ見せ風丸出しテロだとか大味手口な上で所詮ヨコタマの手先だとかって奴隷感こそまあまあ。
あたしがミツオなら妄想彼女犯されたショックとかとんまな失意暴走させてとりあえずヨコタマぶん殴ってソヨカゼちゃんには「このクソビッチがみまかれ妄想粗悪品がっ」なんてクソ吐きながらで所詮勿体無いこそ暴走して一応おっぱいぎゅくらいはしちゃうのかな、“くっそやっぱ最高かよあたしの妄想極上かよっ“なんて後ろ髪引く肖像権だか著作権だかよくわからない主張か怨念か振り切りたくて馬並みに唸りながら教室逃亡しますよね泣きながら。

ソヨカゼちゃんたら、所詮粗悪妄想サイコパスですもん。

「待ってー」なんてちゃんと追っかけてきてくれて。
待ってほしい理由はわからんみたいな平坦な呼びかけと共にあたしを追走、あたしも馬鹿だから“ラッキーやっぱあたしかよ、あたしなのかよ可愛いじゃんソヨカゼっ“くらいの期待復活はもちろんアリで、でもバレたくなくて本気で走ったらソヨカゼちゃんったらさすがのサイコパス急ブレーキ。
「セックス、せんのかい」
ってさ。
あたしはそんなもん聞き逃すはずはまあなくて、止まるのも面倒な勢いですっ転びますよね。
そしたらソヨカゼ(もはや呼び捨て)、仁王立ちで見下ろすからの馬乗りでさらに
「欲しがったのキミじゃん。なんで逃げんの?」って首締めにかかる無敵感。
そのまま落とされたいくらいにはあたしはいろいろイキそう寸前で、
「逃げたんじゃないよ、嫉妬だよきもいでしょ」
って苦し紛れでもなく案外素直に、でもソヨカゼにはそんなピュアな話、通じないんだな。
ん? なんて悪気も興味もないアイドルみたいな笑顔浮かべちゃって、最高の角度とタイミングで首傾げちゃって。
「きもいの好きだよ」
「嘘でしょ」
「好き」
「だって、きもいんだよ?」
「あはは」
「……あはは?」
「だって」
「……うん」
「面白いって、マスターが」
ぎゃーってあたしは速攻ソヨカゼぶん殴って馬乗りから無事脱出、ソヨカゼは鼻血なんて出ないし傷つきもしないから気にすんなヨコタマまじでぶっ殺す、の覚悟でぶん殴ったんだけど振り返ったらソヨカゼったらしおらしく横座りでオヨヨな感じ、ちゃんと鼻血垂れてて慌てて駆け寄るとか。
「ごめん。どうしたらいい」
「わかんない」
「なんで、あたしが欲しがったんでしょ」
「わかんない」
「なんなの。じゃあ、おっぱい触っていい?」
「いいよ。キミのじゃん」
「嘘でしょ」
あたしは多分脳だけでもイっちゃうくらいには発情してるんだけど触れない。所詮ヨコタマにバレんだなってやっぱ、ソヨカゼはメスですらない妄想サイコパスなんだ騙されんな、って失恋の如く振り切って正面から鼻ぶん殴って今度こそ逃亡。とんまな号泣込みで。

「妄想ヘルムがバグった」
沈みかけの夕日に染まる失意の浜辺で、バッテリー切れのアシストチャリ引きずりながら現れたヨコタマがぼそりと。
「うるさいわ窃盗レイプ犯。人の純情弄びやがって」
「まさか。夢にも勝る最高のアシストだ」
俺はソヨカゼを一ミリも犯してはいない。
なんてヨコタマは潔白を証明させられるのも面倒だ、みたいな言い草で、でもあたしはそういう思い遣られ方にこそ一番恥辱を浴びせられるタイプだから、
「絶交じゃんっ、絶交っ。妄想横取りマスターとかどんな痛ぶりかよ恥ずかし責めか極悪マッドサイエンティストがレズなめやがって舌噛んで詫びろそのチャリよこせバカこのお節介詐欺っ」
なんてまあまあアタマ悪さ全開で叫んだりするんですけど、殴ったら負けみたいでむしろ悔しすぎるからこっちこそ舌噛んで目の前で死んでやろうかとか考えながらだからそんなアタマ悪いみたいなことくらいしか口走れないんですよねっていうか所詮そっちが本音らしい馬鹿さ加減だとか。
「ワン、って」
「は?」
「ソヨカゼ」
「あ?」
「殴ったべ、おまえ」
なにを言っても「ワン」って答えるだけの人犬にバグったソヨカゼはシャットダウンも効かなくて、とりあえず学校近くの公園のブランコに縛り付けてあるだとかなんとか、
「通報される前に迎え行ってもう一回被って妄想ぶっこいてみてくんねつまりリブート、ソヨカゼのOSはおまえじゃん」
なんて言い方された瞬間、あたしはなんだか恋っぽい心持ちみたいなことを思うのかもしれないんですよ。
それはヨコタマに対してのはずはなくて、ソヨカゼリベンジみたいなまぬけさそのものでつまり先走る妄想の再稼働、ヨコタマ以外に妄想反射させる真っ白キャンバスみたいなやつ探さなくちゃとかさっさと考え始めて、そろそろボケ始めたらしい三軒茶屋のばあちゃんとかどうだろ? なんて卑怯なことまんまと思いつく懲りなさだとか。







……感想でもなんでもないですねすみません。

あたしは勝手に思うんですけど、このお話の不適切さは行間のなさってことだと思うんですね。

>小説を書くのは難しいなあと思いました

というのはとても率直で、確かに“小説“に踏み込むに足る身勝手さを楽しめていないというか、“妄想ヘルム“というロジックは立派、でもこれはソヨカゼっていうミツオの話のはずだから、あたしは物足りなかった。


舞台は物語の裏なりその隣を走る別のこと


あたしは案外そういう派で、上にパクった筋は多分“きもいでしょ“が性格になる別のことを並列に走らせるだけの何かで、それを“妄想“っていう恥ずかしさとして規定しないと成り立たないことに化かして恥じらいこそ嘯きたいつもりかなんかのはずなんですよね即興なりに。

ソヨカゼにもサイダー買ったげて、はさておき、チャリで坂降る場面とか難しかったでしょ?
それって、“なに書くべき?“っていう難しさだし、行間とも違わない“作為の観察“ってことだと思うんですよね。

同じことを、別の書き方で書いてみる。
そういう観察をしてみてほしいんですよ。

浮離
KD111239130178.au-net.ne.jp

>妄想の再稼働


じゃなくて、“妄想の再起動“でしょそこは、って悲しみ。

風のみた夢
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浮離様
おもしろいです。三軒茶屋のおばあちゃんでソヨカゼ作ってみたいです。
浮離さんのミツオとソヨカゼ、ヨコタマは、内的な葛藤と他者に対する羞恥、みたいな構造で引き込まれました。
僕は内なる欲望を出し切る度胸もなかったし、支離滅裂になりそうな妄想を書ききる根性もなかったなあ、と反省しました。
坂道のくだり、もっと書きやすい内容で、同じようなものを表現する。
そういう試行錯誤も必要ですね。
「時間軸」の件は、きちんとできてないみたいで、すみません。
また書きながら勉強します。
いつも、ありがとうございます。
読んでもらえて嬉しかったです。

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