作家でごはん!鍛練場
京王J

ラプンツェル

深い森を抜けてなだらかな丘を越えると、大きな谷間がカンカンの目の前にあった。カンカンは盗賊のフリンライダーを追って来た。あの丘を越えるまで、カンカンにフリンライダーの背中が見えていた。谷間へ追いつめたはずだった。どこを見渡しても、フリンライダーはいなかった。
 地面に足跡があった。奴は谷間の奥まで逃げたらしい、と考えたカンカンは、足跡を辿っていた。谷間はだんだん狭くなってきた。馬では進んでいけない。カンカンは馬を降りて歩き出した。鎧が岩にぶつかる。……足跡は奴のものなのだろうか? 奴は馬に乗っていた。奴の馬が狭い谷間で立ち往生しているはずだ。奴の馬はどこにいる?
 それでもカンカンは進み続けた。顔まで迫ってくる岩肌に、不思議な安心感を覚えた。向かいから風が吹いてくる。狭い谷間その先に、何かあるような気がしていた。
 谷間を抜けると、広い空間があった。小さな川と、紫陽花が咲いていた。明らかに人が植えたものだった。 
 大きな影が川を真っ二つにしている。ここまで必死に岩を避けながらやってきたから、カンカンは下ばかり向いていた。だから気づくのが遅かった。 
 高い塔があった。奇妙な塔だった。入口がなく、小さな窓がひとつだけあって、登るための階段も梯子もなかった。
 塔の裏から音がした。カンカンは木の影に隠れた。黒いローブを来た老婆が、塔の裏から出てきた。手に持ったカゴに、チシャをたくさん詰めていた。
「ラプンツェル、ラプンツェル、髪を下ろしておくれ」
 老婆がそう言うと、塔の窓から金色の縄が降ろされた。あまりに長かったから、髪だとすぐにわからなかった。老婆が髪を掴むと、脂っこい感触がカンカンの手に伝わってきた。
 登り終えるのに老婆は十分はかかっていた。カンカンは知らず知らずのうちに、木の影から出ていた。塔の小さな窓をぼんやり見ていた。
 しばらくすると、窓から歌声が聞こえてきた。カンカンは塔の上にセイレーンがいると思った。……夜、霧の中から黒々とした大きな魚が自分の鼻先まで迫ってきた。カンカンは目が覚めた。膝から下が冷たくなっていた。カンカンは外套を羽織って家を出た。
 カンカンは街に住んでいた。街は城壁に囲まれていた。千年間、一度も破られたことのない城壁だった。北門の近くにさびれた宿があった。宿の主人に銀貨を一枚渡して、二階の一番奥の部屋へ入った。
「わたしのカンカン!」
 カンカンは伯爵夫人と抱き合った。たっぷり湿気を吸ったベッドで二人は愛し合った。あの金色の髪を思い出すと不安になった。金色の髪を必死に掴んで塔を登っていく老婆を忘れたく仕方なかった。
「カンカン、なんだか今日は変よ? 何かあったの?」
 カンカンは奇妙な塔のことを話した。
「わたしも見てみたいわ。今度連れて行ってよ」
「いやいや」カンカンは狼狽した。「あそこはひどく行きづらい場所にあるんだ。きみが行くようなところじゃないよ」
「どうしたの?」伯爵夫人はカンカンの髪を優しくなでた。「ますます行きたくなってきたわ。そのラプンツェルって子に、わたしが会ってあげる。どんな子が見てみたい」
 カンカンは伯爵夫人の唇にキスをした。息が苦しくなるくらい、強くキスをした。
「そんなことで誤魔化されませんよ」伯爵夫人はカンカンを引き離した。「明日、馬で遠乗りに出かけましょう。主人はまだ帰って来ないから。絶対行きましょう。あなたが恋するお姫さまを見てあげる」
 伯爵は海軍の提督として、隣国との戦争へ行っていた。生来病弱なカンカンは、戦地へ送られる代わりに、国に残って街の治安を守る役目に任じられた。カンカンにとって、鎧を身に纏い馬に乗る仕事は初めてだった。父親の男爵に反対されていた。「お前は身体が弱いのだから」と言われ、戦争が起こっても何もせず家で祈るように言いつけられていた。カンカンが子どもの頃からそうだった。
「ねえ、剣を見せてよ。あなたが剣を持ってる姿、見ていたいの」
 カンカンは起き上がって、椅子に立てかけた剣を手にした。鞘から剣を抜き、伯爵夫人に切っ先を向けた。
「かっこいいじゃない! わたしは塔に閉じ込められたお姫さまよ。凶暴なドラゴン、醜い野獣、意地悪な魔女に囚われているの。王子さま、わたしをお助けください!」
「からかわないでくれ」
「こっちに来て」伯爵夫人はくすくす笑った。「腕も太くなったんじゃない? でもあまり逞しくなりすぎないで。あなたの女の子みたいな顔が好きなの。……ねえ覚えてる? あなた女の子と間違えられたでしょう」

 伯爵夫人の部屋に忍び込んでいた時、深夜、急に伯爵が部屋へやってきた。伯爵が戦地へ行く三日目前のことだった。最後に妻と愛し合いたかったのだ。カンカンはベットの裏に隠れた。伯爵夫人が「今日は疲れているから」と言っても、伯爵は聞かなかった。いよいよ伯爵がベットに近づいてきて、カンカンはベットの裏に脱ぎ捨てられたドレスを着た。
「おや、そこにいるのは誰だ?」
「お友達よ、お友達」伯爵夫人は慌てて言った。「貿易商の娘さん。こないだ知り合ったの。あなたが戦争に行くと決まって、わたしが夜眠れないから、朝までおしゃべりに付き合ってくださるって」
 伯爵はつま先から頭のてっぺんまで、カンカンを舐め回すように見た。
「そうか、そうか。奥さん、妻のためにどうもありがとう。わたしは死なないよ。戦地に行くと言っても、前線に行くわけじゃないんだ。だから安心してほしい。わたしのような老兵は、若者を鼓舞するのが仕事だからね。必ず帰ってくるよ。夜遅いから早く帰りなさい。旦那が心配するだろう?」
 カンカンは笑いが込み上げてくるのを必死に堪えながら、伯爵にお辞儀した。 
「その通りね。ご主人が心配しているわ。早く帰ってあげて。わたしは大丈夫よ。今の話を聞いて、すっかり安心したわ。生きて帰ってくるなら、何より嬉しいもの。わたしはね、この人が手や足を失くしたとしても、一緒にいられるだけで幸せなのよ。本当に、本当にね」
「素敵だわ。ご主人を愛してらっしゃるね。本当に、本当にね」
 カンカンは声色を変えて、伯爵夫人の話し方を真似した。
「もう大丈夫よ。オクタビア、早く帰ってあげて」
 伯爵夫人はカンカンに目配せした。早く帰らないと、心臓を抉り出してやるというような目だった。
「お暇しますわ。末長くお幸せに」
 カンカンは伯爵夫人に深くお辞儀をして、部屋から堂々と出て行った。

「あの人ったら、あなたが私のドレス着てるのにも気づかなかったんだもの。妻のことなんてどうでもいいんだわ」
 伯爵夫人はカンカンの手を握った。
「伯爵はきみを愛している。愛してないのはきみのほうだ」
「わかったような口を聞くじゃない? 塔の中のお姫さまに恋する子どものくせに」伯爵夫人は笑った。「きっと裏に入口があるの。そこからこっそり中に入ってるのよ。……若い子はみんなラプンツェルみたいなものでしょう。そんな子、そこらへんにたくさんいるじゃない?」
「別にいいんだ。もう忘れたい」
 カンカンは伯爵夫人の胸を撫でた。ゆっくり優しく撫でた。そこから腹へと人差し指を落とした。
「あなたは自分ことをしか考えてないのね。でもいいの。わたしが好きで一緒にいるんだから」伯爵夫人はカンカンの人差し指をぎゅっと握った。「明日はラプンツェルお姫さまに会いに行きましょう。絶対にね」

 次の日、カンカンは伯爵夫人の屋敷へ行った。ちょうどお昼の三時だった。正面玄関から、執事に伯爵夫人へ取り次いでもらった。居間に通されると、今度は伯爵夫人の侍女が入ってくる。侍女はカンカンに挨拶すると、伯爵夫人を呼びに行った。
「カンカン、ちゃんと来たのね。何か食べる?」
「いえ、食べてきましたから」
「緊張してるの?」伯爵夫人はクスクス笑った。「バカねえ。戦争に行くわけじゃないのよ。塔の上のお姫さまに見に行くだけじゃないの」
「伯爵夫人に何かあると大変なので……」
 カンカンは落ち着かなかった。伯爵夫人の後ろに控える侍女と、紅茶を注ぐ執事が気になって仕方なかった。今までそんなことはなかった。屋敷に来た時は、伯爵夫人のことばかり見ていた。今日は誰かと一緒がよかった。
「今日はソフィーも一緒に来てもらったらいかがです? 心地よい風の吹く草原があります。お菓子をバスケットに詰めて、ピクニックにしましょう」
 カンカンは侍女を指差した。
「ソフィーは馬に乗れないのよ」
「ぼくの馬にソフィーを乗せます」
「どうしてなの? 今日は二人きっきりで行きたいわ。それにソフィーは塔の上のお姫さまに興味はないの。ね?」
「奥さま、わたくしは遠慮します。お二人の冒険にわたくしは邪魔ですわ」
 ソフィーは下を向いたまま、小さな声で言った。
「ソフィーはね」伯爵夫人は紅茶を置いて、微笑を浮かべた。「結婚するのよ。田舎に恋人がいるの。村で一番大きな畑を持ってるのよね」
「はい、奥さま」
「何の畑だったかしら?」
「チシャの畑です」
「そうそう、チシャだった!」伯爵夫人は大袈裟に両手を広げた。「こーんなね、大きなチシャが取れるのよ。人間の赤ちゃん三つくらいのね」
 カンカンは老婆のカゴに入っていたチシャを思い出した。老婆はチシャを愛おしそうに撫でていた。まるで赤ん坊の頭を撫でるようだった。……ひんやりとしたチシャの葉が、カンカンの頬を撫でた。身体がぶるっと大きく震えた。カンカンは紅茶をこぼしてしまった。
「あなた変よ? そんなに行きたくなの?」
「そんなことない」カンカンはハンカチでテーブルを拭いた。「早く出かけよう。日が暮れるまでに帰りたいから」

 街の北門を出て、二人は森へ向かった。カンカンは道を覚えていなかった。あの時は夢中でフリンライダーを追いかけていたから、自分がどこの木を曲ったか、どこの川を越えてたのか、まったく思い出せなかった。
「もしかして、迷ったの?」
 伯爵夫人は不安げな目でカンカンを見た。
「いいや。もっと奥まで行くんだ」
「あなたは迷っているのよ」伯爵夫人はため息をついた。「本当はそんな塔なんてないんでしょう。正直に言いなさい。怒らないから」
「本当にあったんだよ」
「悪い子ね」
 伯爵夫人は馬から降りた。
「なんで降りるんだ?」カンカンは狼狽した。「この先に必ずあるから」
「あなたも降りて。一緒に森を歩きましょう」
 カンカンは馬を降りた。小鳥の鳴き声だけが森に響いていた。木々の葉は繁り、日の光が遮られ、緑のベールにすっぽり包まれていた。
 カンカンは伯爵夫人と並んで歩いた。静かな場所に二人でいると、何を話していいかわからなくなった。今まで伯爵夫人と何を話していたか考えてみても、どうしても話題が出てこない。伯爵夫人はカンカンを気にせずに、どんどん一人で歩いて行った。カンカンはだんだん並んで歩くのが辛くなり、伯爵夫人の後ろを歩いていた。
「なんで後ろにいるの?」
 伯爵夫人は急に振り返って言った。カンカンは我に返った。
「きみがひとりで先に行くから」
「あなたが後ろを歩いているのよ。並んで歩きましょう」
「ねえ、何か話してよ」
 カンカンは泣きそうになっていた。
「あなたが何か話して」
「怒ってるの?」
「勝手に怒ってることにしないでくれる? わたしは楽しく森をお散歩したかっただけなのにーー」
「ごめん、ごめん」
 カンカンは慌てて伯爵夫人の手を握った。
「もういいわ。今日は帰りましょう」
 伯爵夫人はカンカンの手を振り切り、踵を返した。カンカンは伯爵夫人の後ろを歩き始めた。
 馬を繋いだところまで戻った時、茂みの向こうから物音が聞こえた。
「こっちへ!」
 カンカンは伯爵夫人の腕を掴んで、木の影に隠れた。
「どうしたの?」
「あの時の婆さんだよ」
「本当?」
「黒いローブに、チシャの籠……間違いないよ。跡をつけていけばいい」
 二人は息を殺して、茂みの中に隠れていた。老婆は繋がれた馬に気づいた。馬のそばに来て、チシャの葉を剥がし、馬の口元へ差し出した。馬はチシャの葉を食べた。ゆっくり噛んでいた。
「いい人そうじゃない。なんで隠れるの?」
「あんな変な塔に住んでいるんだ。きっと頭のおかしい奴さ」
「それって決めつけじゃなくて? どんなところに住んでいても、人柄と関係はないでしょう」
「じゃあ、話してかけてきなよ」
「絶対、嫌よ」

 カンカンと伯爵夫人は、老婆の跡をつけて行った。森の奥深くまで老婆は進んでいく。急な流れの川も、老婆は岩の間を飛び跳ねて、どんどん進んでいく。二人は着いていくのがやっとだった。森を抜けると、なだらかだな丘を越えて、やっと谷間まで着いた。
「……まだなの?」
 伯爵夫人は息を切らした。 
「あと少しだ。あそこの狭い隙間を通れば、あの塔があるんだ」
「こんなに大変だなんて……」
「言っただろう? きみが来るような場所じゃないって」
「意地悪ね」伯爵夫人はカンカンの背中を叩いた。「でも楽しいわ。あとちょっと頑張りましょう」
 老婆は狭い隙間へ入って行った。
「あそこはとても狭いんだ。気をつけて、岩が顔まで迫ってくるから」
 老婆が入ってしばらくしてから、二人は隙間の中へ入って行った。
「あのババアはいないね」
「まあ、カンカン!」伯爵夫人は声を上げた。「ババアだなんて、下品よ」
「母親みたいなこと言わないでくれ」カンカンは笑った。「きみはぼくの恋人なんだから」
 カンカンが先を歩き、伯爵夫人が後に続いた。伯爵夫人が着いて来れるように、カンカンはゆっくり進んでいく。
「あのお婆さん、毎日、こんなところ通ってるのかしら? あなたの言う通り、変な人ねえ」
 カンカンは返事をしなかった。前へ進むことに夢中になっていた。ゆっくり進むほうが、集中力が必要だった。
「ねえ、聞いてるの?」
 なんとか二人は岩の隙間を抜けた。広い空間に出た。紫陽花の咲いた野原と、小川が塔の前を流れている。
「ラプンツェル、ラプンツェル、髪を下ろしておくれ」
 塔の窓から金色の長い髪が下ろされた。老婆は髪を掴んで、高い塔を登って行った。
「本当だったのねえ。すごいわ。するする登って……あんなに高いのに」
 老婆が登り終えると、塔の窓から歌声が聞こえてきた。
「きれいな声だろ?」
 カンカンはうっとりした顔で言った。
「そうかしら? そんなにきれいな声だと思わないけど」
 二人は塔の周りを回った。何度も回って、塔の壁を念入りに調べてみたが、入口らしきものはなかった。
「ほらな。髪を下ろしてもらって、あの窓から入るしかないんだよ」
「あんな髪は見たことないわ。あれは本物の、きれいな髪だったわ……」
 しばらく二人は塔の窓から聞こえる歌声を聞いていた。すると窓からまた髪が下ろされ、老婆が降りてきた。
 二人は木の影に隠れて、老婆を見ていた。老婆は空のカゴを持って、岩の隙間へ入って行った。
 老婆が行ったのを見届けてから、二人は木の影から出てきた。
「わたしが会ってくるわ。下から呼びかければいいのよね?」
「ぼくが先に会ってくるよ」
「いいえ。わたしが先に行きます。あなたは世間知らずの坊やでしょう。こんなところでお姫さまごっこしているような子なんだから、先に会ってきて、わたしが見極めてあげる」
「いったい、何を見極めるんだ?」
 カンカンは不機嫌になった。
「本物、かどうかよ」
「本物、なわけないだろ」
「あなたの考えているようなことじゃないわ。わたしを先に行かせないなら、別れましょう」
「こんなことで別れるの?」
「先に行くわね」
 伯爵夫人は塔の下へ行き、窓へ呼びかけた。
「ラプンツェル、ラプンツェル、髪を下ろしておくれ」
 すると金色の髪がするすると下ろされた。伯爵夫人は髪をしっかり掴んで、塔を登って行った。
「ラプンツェル、ラプンツェル、今日はあたしゃ、腰が痛いのさ。引き上げておくれ」
 伯爵夫人がそう言うと、窓のカーテンから白い手が出てきた。白い手は髪を掴んで、引っ張り始めた。
 磁石のように、伯爵夫人は窓へ引き寄せられて行った。そしてあっという間に、伯爵夫人はカーテンの中へ消えた。
 カンカンは、木にもたれながら、窓を見ていた。いったい何を話しているのか、カンカンには見当がつかなかった。
 夕暮れが近づいてきた。小川がオレンジ色に染まった。塔の影が長く伸びてくる。急に疲れを感じた。伯爵夫人と歩いて来たからだ。帰りも歩いて帰らないといけない。少し休もうと、カンカンは思った。木の根に頭をもたげて、眠り始めた。ファラオが金色の蛇を手にしていた。手枷をつけられたカンカンの前に、ファラオが金色の蛇をカンカンの顔に近づけた。金色の蛇が大きな口を開ける。口の中からさらに金色の蛇が何匹も何匹も出てきた。何千匹もの蛇、がカンカンの顔にかぶりついた……。
「カンカン、起きて」
 伯爵夫人が揺り起こした。
「もう暗くなったわ。早く帰りましょう」

 カンカンと伯爵夫人は、岩の隙間を抜けて、なだらかな丘を越えた。流れの急な川は迂回した。二人とも疲れ切っていたから、岩の間を飛び跳ねるのはできなかった。
 馬のところへたどり着いた時には、日が暮れてしまった。
 カンカンは伯爵夫人とラプンツェルがどんな話をしたか気になって仕方なかった。何度も聞こうと思ったが、伯爵夫人の疲れた顔を見ると、聞くことができなかった。明日聞けばいい。早くベットでゆっくり眠りたい、とカンカンは思っていた。
 伯爵夫人の屋敷へ着いた。伯爵夫人は馬から降りて、馬丁に預けた。カンカンは馬に乗ったままだった。このまま帰ろうとしていたのだ。
「カンカン、どうして馬から降りないの? 夕食を一緒に食べましょう」
「今日は疲れたから帰るよ」
「ラプンツェルちゃんの話、聞きたくないの?」
「聞きたいけどさ……」
「夕食の後、話してあげるわ」伯爵夫人は微笑を浮かべた。「それに今日は……叔父さまが来ているから」
「だからぼくにいてほしいんだね?」
「あなたがいなきゃ面白くないわ」

 屋敷に入ると、侍女のソフィーがまっさきに飛んできた。
「奥さま、男爵さまがいらしています」
「カンカン、わたしは着替えてくるから、居間へ行って叔父さまの相手をして」
「嫌だよ。きみがいないと無理だ」
「子どもみたいなこと言わないで。すぐ行くから、言われた通りにしてちょうだい――」
 カンカンはしぶしぶ居間へ行った。男爵が居間で歩き回っていた。男爵は長い時間待たされていたせいで、ひどく苛ついていた。
「誰だ?」
「男爵、わたしです」
「ああ、きみか!」男爵の顔がたちまち明るくなった。「会えて嬉しいよ。我が従姉妹のラマン。美しい青年をわたしも愛したいよ」
「わたしも男爵とお会いできて光栄です」
 カンカンが男爵と会うのは二度目だった。最初に会ったときもこの屋敷だった。男爵は伯爵夫人の従兄弟にあたる。伯爵と仲が悪かったから、最初に会ったときも伯爵がいないないときだった。男爵の姪に良い結婚相手がいないか、と言って伯爵夫人を訪ねてきた。
 カンカンは初めて男爵を見たとき、奇抜で派手な格好に驚いた。ベルベットのマントを羽織り、メノウの指輪を小指にはめ、黒い髪は腰まで伸ばしている。象牙のステッキも持っていた。
 カンカンが嫌悪したのは、男爵の趣味と、その右足だった。
「ほらジョゼ、子爵に紅茶を入れて差し上げなさい」
 男爵の後ろに控えていた少年が、おずおずとカンカンの側にやって来た。
「早くしなさい」
 男爵はジュゼッペの尻を象牙のステッキで叩いた。
「はい、旦那さま」
 ジョゼは紅茶を注いた。
「この子は顔も身体も美しいんだが、器量が悪いんだ。立派なドン・ファンにするために仕込んでいるのに」
 ジョゼは男爵の手を取った。男爵は生まれつき右足が悪かった。右足を引きずって歩いている。右足と、派手な格好とのコントラストが、カンカンには耐えられなかった。
「あの子は……この前はいませんでしたね」
 ジョゼの隣に、褐色の肌の少女が立っていた。赤みかかった瞳に、黒い髪を緑のリボンで結んでいる。じっとカンカンを見つめていた。
「あれはローズと言うんだ。本当の名前じゃないがね。まあ本当の名前があればの話だが。……ローズはね、キャラバンの商人から買ったんだ。かなりふっかけられたよ。砂漠の国の異教徒だ。異教徒を見るのは初めてかい?」
「ええ」
「ローズ、回ってごらん」
 ローズはよろよろと回ってみせた。身体が右に傾いているようだった。
「右足が、悪いんですか」
「生まれつきみたいだ」
「偶然、ですね」
「ああ、偶然、偶然……」
 カンカンは男爵の持っている象牙のステッキを見ていた。
「おまたせしました」
 伯爵夫人が居間に入ってきた。
「ああ、愛しい我が従姉妹! やっと会えた」
 ジョゼの手を借りて、男爵は椅子から立ち上がり、伯爵夫人の手にキスをした。
「わたしも会いたかったですわ。叔父さま!」
「今日はおまえに話があるんだ」
「夕食をご一緒にしましょう」
「おまえは優しいね。お言葉に甘えて、ご馳走になろう」
 
 食堂には、伯爵の肖像画が飾られていた。食事をする者を見下ろしていた。
 伯爵夫人は男爵が隣に座り、カンカンは向かいに座った。ジョゼとローズは、男爵の後ろに控えていた。
 執事が料理を運んでくる。ジョゼとローズはうつむいていた。並べられた料理を、見ないようにしているのだった。
「あの二人はいくつなんですの?」
「ジョゼが9歳で、ローズが7歳かな。まあそれも本当かどうかわからんがね。小さくて、美しければ何でもいいんだ」
「ローズちゃん、かわいいわねえ。わたしもあんな女の子がほしいですわ」
「ほしいのならあげるよ」
「違いますわ」伯爵夫人は笑った。「自分の子がほしいんです」
「なるほど、なるほど。もうそんな歳か……」
 カンカンは二人の会話を黙って聞いていた。相づちを打つフリをしながら、うずらのスープをすすっていた。腹がとても減っていたことに気づいた。腹いっぱい食べないといけない、夜は長くなりそうだから……カンカンはそう思っていた。
「ねえ、カンカン。あの塔のこと、叔父さまに話して差し上げたら」
「ああ……ごめん。お腹が減っていて」
「さっきからはしたないわよ、カンカン」伯爵夫人はシャンパングラスを手に取った。「黙って食べるばかりで、叔父さまに失礼よ」
「いいんだ、いいんだ。カンカンくんは美しい。特権があるんだよ。食べているだけでいいさ。無理して、紳士を演じなくていい。あ、ごめん、ごめん。悪い意味で言ってるわけじゃないんだ。わたしが言いたのはね、社交界なんてくだらないってことなんだ。あいつらは偽善者だよ。どんなやつでも戦争に行けば、これまでのみっともない行いが許されると思っているんだから。戦争のおかげで、やっと安心して暮らせる。カンカンくん、わたしたちのような男は幸運だよ」
 男爵がそう言うと、カンカンは子牛のステーキを切り分けていたナイフを置いた。
「失礼ながら、わたしとあなたは違います。わたしは街の守備隊長を任されたのです。立派な男の仕事です。あなたのように遊んでいるだけの貴族とは違います」
「なんてこと言うの!」
 伯爵夫人は叫んだ。
「はははは! 街の守備隊長か。名誉ある仕事だ。貴族らしい。カンカンくんは騎士だ! ぜひカンカンくんにお願いしたいなあ」
 男爵の高笑いに、カンカンは怯えた。それを悟られないように、必死に笑顔をつくった。
「はははは……。いったい、何をです?」
「銀の薔薇を、届けてほしいんだよね」
「もしかして、エルザが結婚するんですの?」呆然としていた伯爵夫人が口を開いた。「素敵ですわ」

ラプンツェル

執筆の狙い

作者 京王J
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グリム童話のラプンツェルを下敷きにしています。若い男と年上の女との恋愛を表現しました。2分割で投稿させていただきます。お読みいただければ幸いです。

コメント

BOSE
128.14.65.174

あなた女の子と間違えられたでしょう」までは興味をもって読み進められました。

古典の設定は改めて面白いのだと再確認させてくれる試みでした。

序盤から過去に飛ばす手法は悪手だと思っています。
カンカンに対して興味を少し抱けたところで、タイミングとしてはよかったのですが、伯爵夫人目線から語られるであろうエピソードは私には興味が失せてしまいました。
恐らく伯爵夫人に対する好感度が高くないためだと思われます。どうでもいい人の語りほど耳を切り取りたい程に退屈なことはないですからね。

最序盤のラプンツェルの塔のくだり終盤で、夢オチのように場面転換するのは、物語自体のオチへの布石かもしれませんが、読み続ける力を阻害する方へ働く、大きな岩としか作用していないように感じました。
流れや展開は今のままで別にいいとは思いますが、もう少し描写か、書式? なにか工夫が必要に思います。

カンカンが病弱設定で不倫中であるのはとてもいい設定だと思いました。話として広げやすそうな設定ですよね。

以上です。失礼します。

[脱字]
>老婆を忘れたく仕方なかった。

京王J
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BOSE 様

お読みいただきありがとうございます。

ご感想たいへん嬉しいです。

ご指摘はおっしゃる通りです。
率直なご意見に感謝します。

飼い猫ちゃりりん
123-1-120-7.area1b.commufa.jp

京王J様
 グリム童話が本当に下敷きになってました。
 グリム童話をよく知っている人にとっては、とても素晴らしい作品なんだと思います。

京王J
p1165143-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

飼い猫 様

お読みいただきありがとうございます。

ご感想嬉しく思います。

あまり良くなかったようですね。
もっと精進いたします。

マルコ吉馴・ムヤ
softbank126243046079.bbtec.net

グリム童話のラプンツェルも知らないし、恋愛小説にも興味がないので、読むのが辛いです。申し訳ないです。綺麗なお姉さんが怪物になるというような話なら読むと思います。

京王J
sp49-98-17-223.msb.spmode.ne.jp

マルコ 様

お読みいただきありがとうございます。

ご感想嬉しいです。

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