ガヤの居た風景
一つ弾けると次々に弾けてゆくシャボン玉のように夢は消え、見える景色はすっかり変わってしまった。あの浮かれた日々は夢だったのかと思う。
何もする気が起こらない。悔いなのか理不尽な何かに対する怒りなのか。それさえも分からない。苦しいのは、やはり自責の念。オレは無気力と言うシェルターに逃げ込むことしか出来なかった。起きた事にちゃんと向き合って考える気力が沸かなかった。
「何やってんだバカヤロウ。そんな態度でやってたら怪我するぞ」
トレーニング中、コーチから何度も怒鳴られた。
「すいません。気合い入れます」
一、二度は、そう答えて集中しようとした。だが、そう何度もそんな言い訳は通用しない。
「帰れ! バカ」
とうとうそう言われた。しかし、もう謝る気力もなくなっていた。黙って頭を下げ、そのまま部室を後にしてしまった。翌日トレーニングを休むと、田嶋と言うタメの部員が会いに来た。コーチの指示でオレを説得しに来たのだ。その時点では、まだ見放されてはいなかった。その後も説得されたり宥められたりしたが、結局オレは、レスリング部をやめてしまった。
オレは、インターハイ三位の実績を買われスポーツ推薦枠でその大学に入っていた。退部は即退学に繋がる。
親に黙って退学した。寮から出なければならないし、いつまで黙ったまま仕送りを受けている訳にも行かないとは思ったが、仕事を決めてから報告しようと思った。
ハローワークに行ってみた。もちろん、雇用保険の失業手当など受ける事は出来ない。大学中退はつまり高卒だから、大卒対象の仕事に応募することは出来なかった。仕方なく、ズラッと並んだ端末で、高卒対象の事務職の求人票を検索し、その中の一つをプリントアウトして、それを持って窓口に並んだ。
順番が来て、
「この仕事、応募できますか?」
と言って担当者に差し出すと、求人票を見た担当者が、一瞬困った顔をしたように見えた。後から知ったことだが、男女雇用機会均等法により、対象を『男』若しくは『女』だけと指定した求人は出来ないのだ。それで、記載内容に男女の指定は無い。だが、中小企業の事業主など、やはり拘りが強い人も多いようだ。そんな時は『二十代、三十代の女性を中心に活躍中』などと、求めている対象を匂わせるコメントを入れることが、広く行われているらしい。オレが持っていった求人票にはそんなコメントが書かれていたらしいのだが、オレは気付かなかった。
「何か資格はお持ちですか?」
と担当者は聞いてきた。女性希望の求人なんですよとは言えないのだ。
「運転免許だけです」
「プログラミングとかオフィスツールとかは? それと、ブラインドタッチは出来ますか?」
「いえ、ブラインドタッチまでは…… パソコンは検索と動画編集くらいしかやってませんので」
「そうですか。残念ですが、この会社が求めている条件には合致しないようですね」
そんな風に断られたので、仕方なく他の求人票を検索した。高卒事務職は、実質女性のみだ。介護関係の求人は多いが、一般に給与は安めだし、資格のない助手となると、とても許容できる給与金額では無かった。その上オレの心は、年寄や障害者に優しく接触出来るほど穏やかな状態では無かった。トラックの運転手の求人は面接まで漕ぎつけられたが、職歴無いのを承知の上で面接したのに、経験が無いとの理由で不採用となった。なんで面接したのだろうと思ったが、会社の方も、全く面接しないとハローワークの印象が悪くなるからと、求職者仲間が教えてくれた。一番期待したのは警備員だった。
「レスリングやってました。体力には自信が有ります」
そうアピールし、大丈夫だろうと思ったのだが、何故かこれも不採用だった。結局、ハローワークでの求職は上手く行かず、求人サイトから拾った会社に営業職として採用された。
面接の段階になっていくつか意外な条件に気付いた。営業とは言っても飛び込み営業であり、稼げるとアピールされていた給与も、インセンティブの部分が多くを占め、基本給は安いと言うことが分かったのだ。
「実力主義ですよ、今の時代。年功序列の固定給なんてどんどん減ってますよ。会社に来てれば給料貰えるなんて思ってる社員は、ハッキリ言ってウチは要りません。その代わり、やる気が有れば稼げます」
『それで嫌なら、どうぞお引取り下さい』と言われているようなものだ。求職の困難さを感じていたし、寮の退去期限も迫っていたので、条件を了承して雇用契約を結んだ。
しかし、三ヶ月経っても営業成績は上がらなかった。また一つ、苦痛のタネが増えてしまった。あの輝いていた日々はもう永久に戻って来ない。呑気に楽しげに笑っていられる日々は、もう戻って来ないのだと思った。練習は厳しくとも夢が有ったから辛くは無かった。
雑然と散らかった部屋。ビールや飲料の空き缶空き瓶がそこら中に転がっているし、不要な紙類も散乱している。缶ビールを飲みながら、オレはまた、スマホに残されたガヤの写真を見つめている。これでもかと思えるほどのどアップで、ガヤが明るく屈託なく笑っている。横に開いた唇の間から形の良い白い歯が見え、左端には小さな八重歯。大きく見開かれた目には、オレに向けた親しみが溢れているように感じられる。親指と人差し指でピンチアウトすると、ガヤの瞳の中にスマホを構えたオレが居る。ピンチインして元のサイズに戻して見直す。今にも小鼻がピクピクと動きそうなアクティブな写真だ。
『何故、気が付いてやれなかったのか? オレが殺したようなものではないか?』
またしても、そんな事を考えている。それが、すっかり習慣化されてしまっていた。ただ酔っていたかった。明日また会社に行かなければならないのかと思うと苦痛だった。
程ケ谷(ほどがや)由紀。オレもみんなも“ガヤ”と呼んでいた。自己紹介のとき、高校の頃からガヤと呼ばれていたと自分から言ったらしい。そして、その呼ばれ方は嫌では無かったと言ったので、そのまま呼び名がガヤとなってしまったという。
ガヤは一個下で、オレがガヤを初めて見たのは新入生歓迎会の日だった。デニムの上下に刈り上げたショートの黒い髪。ひょろっとした華奢な体型。後ろ姿ながら、目立っていると言うより、明らかに周りから浮いていた。
振り向いた時、悪戯っぽい目が印象的だった。『えっ、女か?』と思った。眉毛まで隠すような前髪は無い。それだけに大きな目が目立つ。それがガヤの第一印象だった。
よく見れば、クロップド丈のフレアデニムにボックスシルエットのデニムジャケットを合わせたコーデ。それほど悪くも無い。
部活やサークルの勧誘ブースが並んでいる辺りをもうひとりの子と話しながら歩いていた。
オレの居た大学は、特にスポーツで売っている大学と言う訳ではないのだが、理事長が昔やっていたことが理由なのか、レスリングには力を入れている。数少ないレスリング部の有る高校には毎年スカウトが派遣される。オレも特待生の一人として、その大学の学生となった。
そんな訳で、レスリング部に入って来るのは、高校推薦や大学がピックアップした者が殆ど。オレは割とヒマだったので、文化部のブースの辺りをぶらついていたのだ。
変な奴が居るなと思って見ていたのだが、振り向いたガヤの笑顔がスクリーンショットのようにオレの脳に焼き付けられてしまった。マスクをしているので表情は目だけでしか分からない。それなのに、運命に導かれたかのように、その笑顔が可愛いと思ってしまった。そんな馬鹿なと思われるだろうが、確かにそうなのだ。ガヤは思いっきりの笑顔で、オレの中に飛び込んで来た。
それから気になり出して、学生の群れの中からガヤを探し出し、目で追うようになった。話し掛けたいと思ったが、切っ掛けが無い。レスリング部にスカウトしたいと言うのは不自然過ぎるしなと思った。とてもそんな風に思えるような体型ではない。学食ではよく見かけるのだが、いつも仲間たちと一緒で近付く切っ掛けを作れなかった。
ガヤが演劇部に入ったとの噂が耳に入った。それを聞いて“日野原”の名前が頭に浮かんだ。友達の一人だが、奴は演劇部なのだ。オレは意識して日野原に話し掛けるようになった。友達の一人ではあるが、特に親しいと言う訳でもなかったオレが急に接近して来たことを、奴はどう思っているだろうかとは思ったが、大して気にしなかった。
日野原は気付いていた。
「お前、ガヤに興味あるんだろう」
と突然言われ、認めた。
「なんで分かった?」
と聞き返すと、
「お前みたいに単純な奴の考えてることくらい、分からない訳ないだろう」
そう言って、日野原は笑っている。日野原に言わせるとガヤは『なんで、この程度のレベルの大学に居るんだろう』と思えるくらい頭が切れると言う。他にもそんな学生は居るが、大抵は、某有名大学に受かっていたのだが、或いは受かると言われていたのだが、事情が有ってこの大学を選んだのだと盛んにアピールする。しかし、ガヤはそんな事は全くしないと言う。
「何を聞いても、的外れの答をしたことが無い。読書量は半端無いと思うんだけど、自分からそれをアピールするようなこともしない。例えば、知ったか振りの誰かが、みんなが知らないだろうと思える事に付いて講釈垂れたとする。内容に付いて聞かれた時、突然振られても、ガヤは的確な答を返したりするんだ。三年生たちがスタニスラフスキーシステムに付いて議論してたことがあったんだけど」
「スタニラニラ…… スキーシステム? なにそれ?」
と、話の途中だがオレは口を挟んだ。
「有名な演劇理論だ。演劇やってる人間は、それについて良く議論する。大抵は知ったか振りの受け売りだけどな。熱心に側で聞いていたガヤに、先輩がどう思うかと聞いたんだ。その答が余りに整然としていてしかもユニークだったんで、先輩たちも舌を巻いたって訳だ。言葉を整理する能力で頭の良さは分かると俺は思っている。ガヤは理路整然と短く説明出来るんだ」
「ふーん。……で、どんな意見だったんだ?」
すかさずオレは聞いた。日野原は少し笑った。
「お前に言っても分からんだろう」
と返され。
「……ま、それはそうだな」
と答えるしかなかった。
「でも喜べ。ガヤはインテリ振った奴には興味なさそうなんだ。案外、お前みたいな筋肉馬鹿、いや、気にするな。つまり、スポーツマンタイプが好きかも知れない」
日野原と言うのは、こんな風に口の悪い皮肉屋なのだが、悪い奴では無い。
「絞め落としてやろうか。フワッとして気持ちいいぞ」
腹を立てた訳では無い。奴の口の悪さには、オレはいつも、怒った振りをしてこんな風に答える。
「悪い、悪い。つい本音が出てしまって」
「余計悪いわ」
「怒るな。…… 良かったら紹介してやろうか」
そう言われて、オレはつい、
「ほんとか?」
と言ってしまった。
「……ほんとお前は……」
と、日野原は吹き出すのを堪えている。
「筋肉馬鹿ってか?」
オレが自分からそう言ったので、二人で大笑いとなった。
「ただし、会わせるだけで後の面倒は見ない。上手く行かなかったからって、オレを恨むなよな」
「分かってるって。感謝するよ」
と言って日野原とは別れたが、期待が膨らむと共に、不安も湧いて来た。
『日野原はああ言ってくれたが、やっぱり、話が合う演劇部の同期生や先輩たちと付き合う可能性は否定出来ないな』と心配になった。会った時、どう話を合わせたら良いのか分からないのだ。つまらない奴と思われたら終わりだと思った。
日野原はちゃんと約束を守ってくれた。或日、キャンパス近くのパーラーに呼び出された。とにかく来いと言うから行ってみた。
ビルの二階に有るパーラーで、道路に面した南側全面がガラス張りとなっている明るい店だ。新型コロナに対する規制が連休前に緩んだせいか、八割ほどの席が埋まっている。この間までは、四人掛けの四つの椅子の内、対角線上の二つの席にバツ印の紙が貼ってあったのだが、その自主規制は解除されて全ての席が使えるようになっていた。ただ、テーブルの上のアクリル板の仕切りはそのまま残っている。
飲食時以外はマスクをしたままの人が殆どだが、中には、外したまま大声で会話しているグループもある。トラブルになるのは嫌だから誰も何も言わないが、恐らく不快に思っている人も居るに違い無い。かと言って、規制緩和策が出されている以上、自粛警察みたいな行為もやり難い。尚も自粛するべきと思っている人と、外国並みに解除すべきと言う人とで世論は二分されているが、外見的に見る限り、殆どの人が自粛派にしか見えないのは日本の特徴なのだろう。
窓際の席に、日野原と奴の彼女の栞、そして、何とガヤが居た。一瞬、どうしようと迷って足が止まった。ガヤが居たことは嬉しかったのだが、心の準備をしていなかったので、どう振る舞って良いのか分からなかったのだ。
日野原がオレに気付いて、笑顔で手招きした。ちょっと硬く見えたに違い無い笑顔を見せて、オレは覚悟を決めて日野原たちの席に向かった。
「おう」と日野原に言って「栞ちゃん、しばらくだね」と奴の彼女に言う。
マスクの下で微笑んだように見える栞は、閉じたチョキのように指二本を立てて、顔の横で小さく振った。オレ、ガヤにはぎごちなくちょっと頭を下げた。そして席に着く。
日野原と栞が並んでいて、栞の向かい側にガヤが座っていたので、必然的に、オレはガヤの隣に座ることになった。
「友達の神谷。顔知ってるよね」
日野原がガヤに言った。左手で右耳に掛けたマスクの紐を持って外し、ジュースのストローを咥えて飲んでいたが、ストローから口を離し、マスクをを付けてから、
「高三のときに、インターハイで三位になった人ですよね」
と言った。ジュースを飲むとき、チラッと鼻と口元が見えたが、今はもうマスクに隠されている。ジュースを飲むほんの僅かな間だけ見えた、鼻筋の通った高過ぎない鼻、薄く形の良い唇が、映像としてオレの脳裏に残った。その後ガヤは、ストローの先をつまみ、ジュースの氷をカラカラと掻き回していた。
「えっ? なんで知ってるの」
瞬間、チラッと見えたガヤの口元に気を取られていたが、ガヤがオレを知っていることが意外だったので、思わず聞いた。
「大学のホームページに載ってましたから」
ガヤはそう言って少し笑った。
『そうだ。そう言えば、小さく載ってたんだっけ』そう思い出した。
日野原だけでなく栞も心得ているらしく上手く話題を盛り上げてくれる。二人共演劇部なので『さすが役者だな』と、オレは妙なところで感心し、二人に感謝した。
ガヤはレスリングに関心を持って、色々と聞いて来た。きっと好奇心旺盛で、レスリングに限らず何にでも興味を持つ性格なのだろうと思った。
「吉田沙保里さんの片足高速タックル。あれやってみたい。教えてくれます?」
マスクを付けたまま、いたずらっぽい目でそう聞いてきた。ガヤがどの程度本気で言っているのか分からなかったが、オレは嬉しくなって説明を始めてしまった。
「うーん。体技って大体そうなんだけど、まず大事なのは、自分の正面で技を掛けること。相手が斜めとか横を向くように崩すことが必要なんだ」
ガヤは上体を横に向けてオレを見ている。
「それで、相手の足をまたぐようなイメージで自分の両足の間に来るようにするんだ。相手の足元まで踏み込んで膝上に腕を巻きつけるイメージ。素早く、素早くだ」
そこまで言ってオレは、ガヤの反応を探った。
「口で言っても分かんないよね」
つい本気で説明してしまいそうになった自分に気付いてオレは笑った。後輩に指導しているときなら、この後『顔を相手の足の付け根に押し付けるイメージで股関節を固定するんだ』と言うところだ。まさか、それを説明する分けには行かない。それに気付いたんだ。
「それより何より一番大事なのは、一瞬相手の視野から消えること。それが出来ないと逃げられてしまうから」
代わりにそう付け加えた。
「消える魔球か?」
日野原が、そう言って茶化した。
「野球じやねーよ。だけど原理は同じだ。フォークはバッターの視界から消えるから空振りするんだし、ボクシングでも剣道でも、死角から攻撃されると当ってしまうんだろうな。大事なのはスピードと死角に入ること」
「ガヤ、こんな話退屈じやないの? 私、正直退屈なんだけど」
栞がそう混ぜっ返した。
「いえ、やってみたいです。イッヒッヒ」
とガヤは無邪気に笑う。
『イッヒッヒ』と書くと魔法使いの婆さんの笑い方のように思えるかも知れないが、これが、いたずらっぽくて可愛いのだ。
「口で説明されても分からんだろうから、後で実際組んで教えて貰ったら」と日野原がガヤに言った。
『いきなり何言い出しやがるんだ』と、オレは内心焦った。
「そーですねぇ」とガヤは、何の拘りも無く言う。
「尤も、こいつとやったら、その細い体じゃ、骨がバラバラになっちゃうかもな」
日野原がそう言って笑った。『本気でやるわけ無いだろう』と言おうとしたが、ガヤと組み合った情景を想像してしまい、オレはついエロい事を考えてしまった。勝手にバツが悪くなってしまい、何か言うのをやめた。
「プロレスやったらいいんじゃないですか。リングネームは『ボーンクラッシャー神谷』とか。ねえ、センパイ」
と、ガヤは無邪気に日野原に同意を求める。
『卑猥な想像を一切していないから、こんな反応ができるのだろうな』とオレは思った。本当は、トレーニングのこととか試合の予定とか聞いて欲しかったのだが、
「アマレスとプロレス、全然違うんで……」
と、つい間抜けなことを言ってしまった。
「分かってるわーい!」
ガヤは、叩くように空中で手を振り、オレの方を見て笑った。
「劇団に入りたいって言ってたけど、ヨシモトの方が向いてんじゃないの? ガヤ」
ガヤに突っ込んだのは栞だった。
「ヒヒヒッ」
とガヤが笑う。『この子、本当に頭がいいのか?』とオレは疑ってしまった。似ていると言うことではないんだけど、何故かきゃりーぱみゅぱみゅのイメージが重なる。
『このキャラで女芸人てのもアリかな』とそのときオレは思った。井森とかファーストサマー・ウイカとか、友近とか、あと、ラランドのサーヤとか、黙ってりゃ美人って女芸人結構いるもんな。アレッ、井森って芸人じゃなかったっけ? そんな下らないことを考えてしまった。
オレたちは急速に親しさを増して行った。だけど、それでトレーニングに身が入らなくなるようなことは無かった。三位じゃ駄目だ。優勝してガヤに格好いいところを見せたい。そんな想いでオレはトレーニングに挑み、練習に励んだ。二人とも講義を取っていないコマが週に二度ほど有ったので、そこをデートに当てた。尤も、オレの本音は、練習はサボれないが、講義の方はガヤ次第でいつでもサボるつもりではいた。もし、急に会いたいと言ってくれば、オレはいつでもOKしていたろう。
そんな俺がガヤの為に、仮病を使って練習を休む事にしたんだ。
「なんか、ドライブに行きたい気分」
ガヤのその一言で、あっさりオレは崩れた。その分頑張って、後で取り返せばいい。そう自分を納得させた。
レンタカーを借りて、駅前で待ち合わせた。朝早いので知り合いと顔を会わせる心配は少ない。
ガヤだが、今日こそは少しはおしゃれして来るのかと思ったら、いつものデニム姿でロータリーに立っていた。
『表面を飾った女の子たちにみんな目を奪われるけど、ガヤの可愛さに気付く奴はそんなに多くはないだろう』それは、オレに取っては一つの安心材料だった。
ガヤの前に車を止め、一応降りて助手席のドアを開けてやろうかなと思う間も無く、ガヤは自分でドアを開けて乗り込んで来た。
「お疲れさんでーす」
ガヤがそう言って乗り込むと、オレはバッグを受け取って後ろのシートの足元に置く。ブランド品でもなんでも無く、普通にショッピングセンターか何かで売っているようなバッグだ。
「マスク外していいですか?」
ガヤがそう聞いて来た。
「ああ、もちろん」
とオレは答えた。
「なんか、マスクしてると息苦しくて、駄目なんですよね。でも、やたら外したら変な目で見られそうで」
明るくそう言う。その時オレは、単にマスクが鬱陶しいと感じているだけかと思った。
「オレも外していい?」
と聞く。
「もちろんです。この狭い車の中に何時間も一緒にいるんだから、もしどっちか陽性だったら、マスクしてても移るでしょ」
「だよな」
そう答えたが、何か、ガヤと特別な関係になれたような気になって、嬉しかった。しかし、ガヤから移されるのは仕方ないが、オレから移したくはないなと思った。ガヤはマスクを外して「イッヒー」と笑った。横に唇を開いて白い歯が見える。左の端に小さな八重歯が一つ有る。パーラーでお茶を飲んだ時には見ているし、初めて見た訳でも無いのに、裸を見たかのように一瞬ドキリとした。やはり、鼻も唇も美しい。親しさを表す表現として、マスクを取って話せる仲と言う表現が成り立つんじゃないかとオレは思った。オレもマスクを外し、ダッシュボードにそれを置いた。
目的地は、安房白浜の野島崎灯台。その途中、フラワーラインで花を眺めよう。そんな話に落ち着いた。カーナビをセットする。
オレは房総半島の南端は館山かと思っていたんだが、野島崎が最南端だった。連休明けの平日。大した渋滞も無く快適に走れた。『フラワーライン』と言う名前に惹かれて走ってみたが、長い道路全体をそう呼ぶのかと思ったら、館山から洲崎に向かう湾曲部分だけらしい。春には菜の花、今頃はマリーゴールドが咲いているらしいのだが、何故かオレはそれを見逃してしまったらしい。カーナビが勝手にパスしてしまったのか? どこでスルーしたのか分からず、停車してナビを見ながら「もう一度戻って探そうか」と提案してみた。
「いい、野島崎行こう」
あいみょんの『マリーゴールド』を口ずさんでいたので、きっと楽しみにしていたはずなんだよな。「ゴメン」とオレは言ったが、「モンダイないでーす」とガヤは手を横に振った。道は国道四百十号線と合流して海沿いを進む。既に太平洋側となっているはずなんだけど、意外に波は静かに見える。むしろ、休憩を取って浜辺から見た内房の方が潮騒の響きに迫力あったような気がした。
途中喫茶店風レストランで食事を摂った。席に着くとガヤはラインやメールを一応チェックするが、ずっと見続けたりはしない。オレの姉貴なら、きっと、コスメグッズやファッションサイトを見まくっていて、ちゃんと話も聞いていないだろうと思った。
野島崎に着き、灯台に向かう。近くには大きなホテルが三つほど、民宿も有る。
海岸沿いに町の設置した駐車スペースが確保されていてなんと無料だ。有名観光地になると、高い駐車料金の民間駐車場が並んでいて呼び込みが煩かったりするんだが、鉄道の駅が無くバスも本数が少なくて不便なためか、安房白浜町は観光客の誘致に力を入れているように見える。灯台に続く半島も芝生の広場が有ったり、散策のための小路が整備されていたりするんだな。
灯台に向かう道は小砂利の上に薄くアスファルトを掛けて、その上からブルーの塗料で着色したようななだらかな坂道だ。その坂道と並行するように、小ぶりな松の林に囲まれた神社に向かう参道が有る。『厳島神社』と言う表示が有った。
『へぇー。厳島神社って広島だけに有る訳じゃないんだ』とオレは思った。
「ね、寄ってから灯台行こう」
とガヤに誘われたので、参拝とかには日頃関心の無いオレなんだけど、賛成した。
安房の名工武田石翁が十九歳の時の作品と言う七福神の像が置かれていて、その中の弁財天、つまり弁天様だけが社内に祀られているんだと言う。男神六人は雨ざらし。
「逆差別、セクハラじゃねぇ?」
とトボけた調子で。、オレはガヤに言った。
「日本って、本来そう言う国だったのよ。天照大神の時代から……」
「神話だろう」
「女性を崇拝していたから、そう言う神話が生まれたんじゃないですか。卑弥呼みたいな女性が居て、みんな従ってたの」
「そうかな。うん、今は女性は天皇になれないらしいけど、昔は女帝何人も居たものね」
「『日の本は女ならでは夜の明けぬ国』って言うでしょう」
「ああ、天岩戸《あまのいわと》ね」
「神谷くん知ってるーぅ」
深田恭子の口調を真似てガヤが言った。
「あの、一応オレ国文科なんだけど。文学部レスリング科って無いから……」
「そうだったの? 知らなかったぁ」
とガヤの目が動く。
「絞め落とすぞ」と言って、オレがガヤの首に腕を回すと、ガヤはその指先を握った。呼び名が『センパイ』とか『神谷さん』では無く『神谷くん』に突然変わったことがオレには嬉しかった。ガヤは背が高い。男同士みたいに肩を組んで、オレたちは灯台に向かった。
灯台の入口には券売所が有って『設備維持のためにご協力ください』と謙虚なコメントが書いてある。入場料三百円を払ってまずは資料館を見る。「江戸条約」によって建設することを約束した八ヶ所の灯台の中の一つなのだそうだ。
資料館を出ていよいよ灯台に昇る。段差の低い螺旋状の黄色い階段が続く。十段ごとに側面に数字が書かれている。ぐるぐると回りながら進む快感につい魅せられてオレの足は速くなっていたようだ。気が付くとガヤが遅れている。
「大丈夫?」と声を掛けると「大丈夫、大丈夫」と笑って答が帰ってきて来た。追い着くまで少し待った。浅い螺旋階段が七十七段。辿り着いたフロアーからは梯子のように急な鉄製の階段が天井に開いた穴に向かって突き立っている。昇り切るとそのフロアーからももう一つ鉄の階段が伸びている。鉄の階段は十二段づつ二つで、合計二十四段有った。
手を差し伸べて引いてやると、登って来たガヤの息が上がっていた。オレは笑いながら「本当に大丈夫か?」と聞いたが、ガヤもピースサインをして目で笑った。まだ肩で息をしていたのだが、その時オレは、何も感じていなかった。
車を下りるときは、当然二人ともマスクを付ける。他の観光客とすれ違う可能性が有るので、階段を上る時もマスクは外さない。呼吸が乱れたのはマスクのせいだとそのときオレは思っていた。
『痩せてるから、肺活量少ないんだろう』と思っただけだった。スポーツをやっている人間の肺とそうでない人の肺は違うことが分かっていたので、それ以上の心配はしなかった。
灯台から下りて芝生の有る広場に戻り、自然のままカンナを掛けていない木製のベンチで、オレたちは休んだ。
海猫ではなく、たくさんのトンビが舞っている。風を捉えてグライダーのように優雅に滑空するものもいれば、翼一つ動かさず、かなりのスピードで一直線に飛んで行くものも居る。上から下に、右から左に互いに行き違いながら戯れているかのようだ。
立ち上がって周りを見回していたガヤが「面白ーい」と言った。何かと思ってオレはガヤを見た。
「あそこにも、あそこにも、ほらあそこにも、ちゃんと一羽づつ止まってる」
オレの肩の辺りを掴んで、見ることを促すようにガヤは興奮している。そう言えば、飛び回っている数が減ったなとは思っていた。見ると、広場の周りに点々と有る食堂や土産物屋の屋根に、トンビは律儀に一羽づつ止まってるのだ。
「うわっ、スッゲェ。縄張りでもあんのかな」
とオレも声を上げた。
「ほら、あそこだけ二羽止まってる」
と一軒の食堂の屋根をガヤは指差しながら、今度はオレの背を何度も叩いて来る。
「ホントだ。でも、両脇に離れて止まってるよ。ソーシャルディスタンス保ってるのかな」
「そうだったら面白ーい」
とガヤは、イッヒッヒではなく普通に笑った。
しばらくそうしていたけど、
「房総半島最南端の碑、見に行こう」
とガヤが言ったので、オレたちは散歩道を辿って半島の先端に向かって歩いた。
「ね、二人で撮ろう」
とガヤが言ったが、
「いや、オレはガヤが撮りたーい!」
と叫んで、照れるガヤを碑と灯台がほぼ一直線に入る位置に立たせた。
「マスク取って」
と言うオレの要望にガヤはすぐに答えてくれた。角度を変えながら、オレはスマホで、何枚も何枚もガヤの写真を撮った。そして、だんだん近付いて行って、更にアップにしてガヤの顔を撮ろうとした。殆ど顔しか入らないくらいの距離だ。
「もぅ、ヤダー」
そう言ってガヤは笑いながら遂に逃げ出した。その光景だけが、今も鮮やかにオレの脳裏に焼き付いている。そして、離れない。画面いっぱいのガヤの笑顔だけしか浮かばない。それ以外の景色の記憶は霧が掛かったようにおぼろげだ。
体調を崩したとのコメントを残して、ガヤが神戸の実家に帰ったのは、それから一週間後の事だった。
『まさかコロナでは…… もしオレが感染していてカヤに移したとしたら』そう思ってすぐにPCR検査を受けた。幸いオレは陰性だった。
妹と一緒に撮った写真がラインで送られてきた。
「へへっ。コロナじゃないよーっ」
そうコメントが付いてる。安心した。
後から知ったところでは、その翌日入院したそうだ。二週間後、容態が急変して命を落としたという報告がガヤの妹から届いた。誰も彼も新型コロナに心を奪われていて、健康そうに見える人間が、コロナ以外の理由で突然死ぬことが有るなんて考えもしなくなっていた。案じていたのはコロナだけだった。
ガヤは、子供の頃から病気がちで、小児喘息が大人になっても治っていなかったという。
まだ解約していないガヤのスマホを通して、オレはガヤの妹と何度かやり取りをした。小さい頃から入退院を繰り返していたため、ガヤは本を読むことで辛さを耐えて居たと言う。ガヤのノートを写した写真も送られて来た。詩がびっしりと書き込まれている。オレには良く分からないが、辛いことも多かったろうに、優しい詩だ。
『「演劇部」って腹式呼吸で発声練習とかやるんでしょう。練習、苦しくなかったのかな』
コメントを送り、妹にそう聞いてみた。
『毎朝一回、医者から処方されたスピリーバと言う吸入薬を吸っていたんです。結構効く薬で、それをやっておくと、特に激しい運動でもしない限り、呼吸が苦しいと言うことはないんです。演劇の発声練習は腹式呼吸だから、腹筋や横隔膜が鍛えられて、逆に肺の負担を減らしてくれるって言ってました。まさか、悪化してるなんて思ってもいませんでした』
妹とのやり取りは数回だったが、事情を知って、やはり悔いが増幅された。
ガヤの死に対する罪悪感、仕事の行き詰まり。出口の無い闇の中でオレは数ヶ月の間もがいていた。
家飲みの缶ビールの本数は増えていった。空き缶は見る見る増えて行き、ベッドにも入らずそのまま寝てしまう日々が続いた。仕事に行かなければと言う義務感のようなものだけは残っていたので、目覚ましはセットしてある。そのアラーム音を、覚めきらない頭が拒否し『止めてこのまま眠り続けたい』と言う意識が勝ってしまいそうになる。なんとか『起きなけりゃ駄目だ』と言う意思を絞り出してようやく起き上がる。
身支度をしながらも、『嫌だ、行きたくない』と言う意識が纏わり付いて離れない。
営業仲間たちは、自虐気味に『今日も鶏小屋に向けて出発だな』などと言う。つまり、ケッコウ、ケッコウ、コケッコウと断られ続ける状況を皮肉っているのだ。
断られ続け、もう殆どなんとかして話を聞いてもらおうと言う意識も無く、機械的に足を運び、機械的にインターフォンのボタンを押す。待っても返事が無いと、どこかでほっとする自分が居る。留守なんだから仕方が無い。そう自分に言い聞かせる。しかし、そんな自分への言い訳が上司に通用する訳も無い。
『留守だったら良いなと思いながら行くから留守なんだよ。能力無いんなら数で補えよ。体力有るだろう。一食くらい抜いたからって死なないだろう。なんでそのくらいのやる気見せられないんだよ』
嫌味と恫喝。そして、一番嫌で下らないと思える『反省文』を書かされる毎日。
レスリングをやっていた頃は期待されていたし、同級生や後輩には尊敬もされていた。トレーニングの肉体的な苦痛も快感でさえあった。ところが今は、叱咤と軽蔑の眼差しを浴び、それに耐えなければならない毎日。こんなことを何時まで続けなければならないのかと思った。
毎日、辞めたいと思った。しかし、辞めてどうするとも考える。レスリングからも逃げ、やっとありついた仕事からも逃げたら、本当に駄目になってしまう。そんな想いだけで、オレは踏み留まっていた。
そして、ある日突然思ったのだ。トレーニングは毎日の積み重ねで、日々の結果がはっきりと見える訳ではないが、一定の期間続ければ必ず結果が表れる。営業は毎日結果が出るが、例え売れてもその時だけのもの、日が変わり月が変われば、またゼロからのスタートとなる。
やればやっただけの結果が確実に出る事の方が自分には向いているのではないか。そう思った。
日々の暮らしが有る。いつまでうだうだしていても仕方ないと考えた。失ってしまったものに心を遺してばかりはいられない。そう思った。
長い間、レスリングをやっていて、強くなる為のトレーニングを続けて来た。キツかったが、目標が有ったから続けられた。必死に練習すれば、少しづつでも必ず結果となって表れる。それが確認出来たから続けられた。
職人なら、やればやっただけ必ず技術を向上させることが出来るだろう。今やっている営業のようにどうして良いか分からないなどと言う事は無いはずだ。何れガヤの墓参りをしたいが、今のオレが行ってもガヤは喜ばないだろうと思った。体力には自信が有る。
『明日、工事部への異動を願い出よう』
飲もうとしていた三本目のビールの、五百ミリリットル缶を冷蔵庫に戻し、スマホの中のガヤの笑顔に、オレは『おやすみ』を告げた。
執筆の狙い
上松様申し訳有りません。運営様のちょっとした操作の間違いで、拙作が消えてしまいました。うざいものが消えてスッキリしたのですが、頂いたコメントも一緒に消えてしまいました。申し訳有りません。
再掲載の確認了承は取っておりますので、一部の人が言っている、二週間に三回掲載しているなどと言うことが言い掛かりであることは確認しています。