脣
一日を過ごした人は、見たり触れたり感じたりしたものごとのほとんどを、忘れてしまう。
だれかが発した聞きなれない単語、鼻をかすめていった非日常的な匂い、目に飛び込んできた色、めずらしい形。あるいはもっと些細なこと。例えばチャイムが鳴る直前に起こる、授業中のあの、音のないざわつきのような。
記憶が定着するしないは、そのメカニズムを知り尽くしていないわれわれにとって、今でも謎に満ちた領域といえるだろうか。ある人はこの忘却をありのまま引き受け、あるいは主だった出来事を日記帳に書き留めようとする。人が集まったなら、記憶と忘却とは人の能力を測る拠りどころのひとつとなる。個々の人々はしかし、この忘却の厚みこそが人間なのだと、心のどこかで思っている。
ミルクが注がれたコップは、視野の端でとらえられたままだ。父親の視線は左手に持ったスマートフォンの画面から、まだしばらくは離れそうにない。それでも右手は卒なくコップをつかみ、男にしてはきれいな口許にはこぶ。
有機野菜のプレートとスモークチキンの厚切りハム、気泡のおおきなサワードウ、脂肪燃焼のサプリメント。ナイフかフォークが皿にあたる音。朝食のあいだ会話は聞こえない。それでもなんどか始まりそうなタイミングは訪れる。父親が一瞬だけ目線を母親とこどもに向けるのだ。しかし母親が気がついた時にはすでに、彼の視線はスマホ画面にもどっている。あっという間だった。すでに眉間には二本の深い皺がある。一パック千円弱のミニトマトをこわい顔で咀嚼している。ここで話かけたところで目の前にいる男の機嫌をそこねるだけだろう。貴金属や商品先物、仮想通過の値動き、経済指標、部下や取引先からのメール、不愉快なニュース。彼には彼だけの世界があって、そこは他人がこじ開けて入れる場所ではない。そう易々と入れるものであれば、自分たちにはまた違った現在が訪れていただろう。
出逢った頃はこうではなかった、と彼女は思う。頼みもしていないのになんでも手伝ってくれたし、他愛のない話にだって真剣に耳を傾けてくれた。遊園地のゲート傍で風船をもらってきた、ガス入りのふわふわ浮く風船。やさしい眸。初めてのセックス。仔猫のように震えていた長い指。
ねえ、という彼女の呼びかけに不満の表情で応じたのは、約束した食費の額を超過した結婚後すぐの時期だった。二千円弱の使い過ぎ。彼女はそこで話し合わなかったから、根気強く聞き出そうとしなかったから、もしかすると理由はほかにあったかもしれないが。いや、おそらくあったのだろう。所得の多寡と精神的安定との複雑きわまる関係は、ジョルダン曲線などで表せる類のものでないはずだ。
母親はできることならこのダイニングで会話がしたい。こどものためにも。保育園の先生から、あのショートカットが似合う先生から夫婦の交わす会話がこどもの言語習得に役立つといわれた。まだ焦らなくていいですよ、とも。父親はその話をもっともだと聞いていた。そう、もっともだと。
この後、彼らは空港の国際ターミナルに向かう。行き先は父親の留学先だったハンブルク。二個のスーツケースの上にコートとバッグが載っている。彼らの娘は喃語とも奇声ともつかない声でアンパンマンのおうたを歌った後、イチゴを食べたきり椅子にぐったりしている。手脚をバタバタさせて疲れたらしい。
うわの空でパスポートをぱらぱらとめくる女の人。借り物なのかオーバーサイズのロングコート。ウールのマフラーは毛羽立っている。女の人はトートバッグひとつを片手で抱え持ち、通路傍のシートに浅く腰かけている。
今、思い出したように細い目を見開いて、外を気にしはじめた。あの高い天井まで続く、おおきな、とてもおおきな、壁を兼ねた何枚ものガラス。今日まで沢山の人がこのガラスを通して外の景色を眺めたことだろう。なにもかもがよく見える。たとえば果てしなく続く雨雲の濃淡。こちらに迫ってくるかのような旅客機の丸々とした機体。周辺を行き交う小人のような整備員たち。
ぶどう色だった。通りがかりの幼い女の子が父親に抱えられた高さから、外を眺めている女の人の脣がぶどうのように蒼ざめているのを、目にとめた。あれは口紅なのか。ホクロや痣より色素は薄いものの、だとしてもしかし、不自然な蒼さだ。蒼は空気に触れている粘膜のほとんどを覆い、そして不規則にはみ出している。彼女は短い人生のなかでこんな脣を見たことがないし、これからだっておそらくはないだろう。見慣れないものが恐怖にむすびついたか、ドキンちゃんを象ったちいさなリュックを背負ったこどもは、それ以上なにもできずにいる。あとすこしばかり成長していたなら、声に出して両親につたえていただろうか。そこで彼らがチアノーゼの疑いをもつなりすれば、すみやかに対処に動き、事なきを得たか。
それにしても女の人の身になにが起こっているというのか。あるいはもしかすると、こどもが目にした脣は、光の拡散や屈折によって実際のものとは別様に見えたのだろうか。チョウやミツバチや一部の人に見える紫外線の影響だったというのか。でも実際に、そんなことが起こりうるか。女の人が白いフェイスマスクのヒモを耳にかけた。
女の子はあの口許をのぞいた彼女のことを、明日の朝、どれくらい覚えているだろうか。眸の色、目と鼻の形、目尻の皺、顔の輪郭、髪型、体型。おそらくはなにひとつとして覚えていないだろう。脣の記憶にせよこれからゆるやかに薄らいで、あるいは形を歪めながら忘れてゆくに違いない。でもいつか、この子がすっかり年老いて、石に似た手触りをもって死を意識しだした頃、ふと思い出すことがあるのだろうか。その時彼女はなにをしている? 押し入れの整理にとりかかっていて、使わなくなった広口の花瓶を手にしたところか。インクの滲んだ絵葉書を目にしたか、探していた老眼鏡をようやく見つけたところか。朝からだれとも口をきいていない日曜日、湯気のたつサツマイモの皮を、指先のいちばん爪にちかい部分で剥いている。老いて爪が硬くなってから前ほどの頻度では切らなくなった。めんどうなのだ。めんどうはほかにもある。動かなくなった洗濯機の前で、この白い塊をどうするか迷っている。修理にだすか、買い替えを安いものですませるか、中古をあたってみるか。寄りかかって電子レンジの音を待ちながら、夕食をあと何べんひとりで摂るのかという疑問が、ふとあたまを過ぎる。思いがけず具体的な数字が降ってくる。想像というか、期待していたのよりも多い。受け入れがたい数ではない。だが素直に受け入れる気にはなれない。いやだという。白づくめの診察室で、あくまでも検査するための入院ですからと大学病院の若い医師。
それとも思い出す機会なんて、一度もないのか。
柔らかい脂肪につつまれたこどもの身体は、父親の肉が盛りあがった腕にだっこされて、搭乗口に向かってゆく。そしてこの瞬間、オートウォークにずっしりと、父親のおおきなスニーカーが乗った。
執筆の狙い
はばひろい大人の読者を対象に書いたつもりです。ですがまだ書き切った実感はなく、おそらく今後膨らませてゆくのではないかと思います。その際思い切った書き直しが必要だろうと。そういったわけで、書き手の目を離れた状態を見ておきたく、投稿いたします。
自他ともにみとめる下手の横好きなので、感想やご指摘はすべてぼくなりに真剣に受け止め、検討材料にさせていただきます。一歩でも二歩でも成長したい。
ほかにも「どこまで読めた」という栞のような一言だけでも残していただけると大変ありがたいです。よろしくお願いします。