優しい雨
優しい雨が降る。音もなく降り続け、草花や髪の毛の表面を濡らす。
一面の田んぼには、波紋だけが広がり、音はしない。道土は少し濡れ、シューズの底面の足跡を残す。
僕と有希は並びながら歩く。僕は何かを喋ろうとして、それを悲しいものだと心が止める。ここまで来て、この雨に対し、どんな言葉を残せるか、全く分からない。
両手一杯でも抱えきれないシラサギが、面倒そうに緩やかに、地面から飛び立ち、僕たちを避ける。さっきまで優雅に鋭く空を駆け、飛行訓練をしていたツバメの姿は今、何処にもない。それを有希と僕、お互いに首を空に傾けながら見ていて。それは暇つぶしなのか、いや、これは暇つぶしというには大きすぎたのだが、そんなことも今は出来ない。
歩いていく。生活排水で汚れきった小さな川にかかった歩行者専用の狭い橋を渡る。川の表面には、ぽつぽつ小石をゆっくりとまぶしたような波紋が立っている。川の周りには雨粒越しに、まだ力強く咲いている菜の花が映る。水面のぎりぎりまで本当に一生懸命に咲いている。その視界の前についている雨粒は、僕の眼鏡についた水滴だ。指で拭うが、じんわりと水膜になって視界を滲ませる。
「少し、冷えてきたな」
独り言のように、何とはなしに空に呟く。有希は答えない。それを冷淡な無視ではなく、彼女なりの敬意ある同意であることを僕は知っている。だから僕は続ける。
「思えばずっと温かい場所にいた気がする」
雪の日も霜の日もぬるい暖房の部屋の中で。太陽がいじめる日は中途半端な風を届ける扇風機の前で。多分、生まれる前は母の温かな胎内で。生まれた後も、もしかすると似たような。
そんなことを喋りたくなったが、言葉にはならなかった。多分、言葉にはならない、あやふやな気分をこそ、言いたかったのだろうが、それこそ脳と舌と心臓は、それを掴むことすら出来ない。だから黙っていることになる。
何も口にしていないのに、有希には伝わっている気がするのは、僕がまだ温かい場所にぬくぬく居るような錯覚なのだろうか。
雨は直に止むかと思っていたが、このまま降り続いている。少しずつシャツの肩口を濡らし始めた。ただ、べっとり張り付くほどには強くならなそうだ。二人、黙ったまま、土道を二本の平行線のように歩く。靴は汚れていないかと思ったが、確かめる必要もなかった。靴はもともと汚れていた。少し脱色したような霞んだ色合いをしている。でも履き慣れたせいか、それは僕の足先に妙に馴染む。小指の先の僅かな力加減も捉えるかのように、僕の元で忠実に働く。
少し目線をずらして、有希の足元を見る。僕たち二人が付き合いだしたときのような、大げさなハイヒールにも似た踵の高い靴や、本当に足が入っているのか分からないようなぺたぺたした靴ではなく。僕と似たようなスニーカーが彼女の足には履かれている。それを倦怠期の怠慢とは思わない。少しでも自然体に同じ道を長く行きたい意思表示だと思う。それに何よりもこの靴は、僕と彼女、二人で地元の長細い靴屋であれこれ睨みながら買ったものじゃないか。その時の彼女の足の小ささ、24,5という数字と一緒に覚えている。
「ありがとう」
なんとはなしに呟いてしまった言葉に、有希が久し振りに口を開く。
「なに?」
「ううん、なんでもない」
緑の田んぼ一面の道を行く。急に不安になる。何か言葉を忘れてないか。こぼしてないか。「ううん、なんでもない」その一言で多くのことばの代わりの心を伝えあって来た二人のはずだ。これ以上は野暮ったい。無駄なゴテゴテの言葉のコーディングのはずだ。だけど、妙に不安になる。だから付け足した。
「ありがとう。僕といてくれて」
「どういたしまして」
あれだけ悩んで、勇気をふり絞った言葉に、有希はそっけなく答える。
雨は優しく降り続けている。世界中がこのような季節に包まれたなら、きっと地球は幸せな気分に満たされるなと僕は思った。地中海のオリーブ畑も、サハラ砂漠のラクダも、スラム街のバスケットゴールも、アマゾンのピラニアも。
そんな思いは口にしなかった。束の間、隣を歩いてくれるだけで、嬉しかった。それだけでいい。この一人の人間がくれる嬉しさだけで世界中の人に幸せを祈れる。それもまた素晴らしい発見だったが、口にしなくてもいい。
雨は降り続ける。誰にも等しく、まるで世界を包んでいるように。
「この近くの喫茶店に行こうか……行こ?」
気付いたら、有希から僕に話しかけていた。
「こんにちは」
丸い人の良さそうなおばさんが声をかける。「いらっしゃいませ」ではなく、「こんにちは」はそのおばさんのらしい人柄に思えた。でも、それだけでは無いんじゃないだろうか。たぶん有希がここに通っている、常連かどうかは分からないが、顔を覚えられるほどの馴染みにはなっているから見せた表情。だと思う。
僕を見て。
「あら?」
とおばさんは楽しそうな顔をして、でも有希の返事をもっと楽しそうに待っていた。有希は素っ気なく。
「今日は、二人で。わたしの彼氏」
「うん、いい人なのね」
「どうも……はじめまして」
僕はなんとなく「彼氏」という言葉を「いい人」に変えて、アゲハチョウを見つけたような嬉しそうな顔をする、おばさんを優しい人だと思った。
喫茶店の店内は、木目のはっきりした木造で、木の暖炉がついている。今の季節だから火は灯っていないが、冬でもそれはないだろう。実用というよりもインテリアのような、こじんまりとしたものだ。教会のモザイク画のステンドグラスのような、大きめのランプがテーブルに置いてあって、そのフレームの根元にはカエルがちょこんと乗っている。
「ケーキとコーヒーのセットが落ち着くのよ」
「コーヒーはアイス? ホット?」
我ながら無粋な質問だと思った。でも、今日はそれに悩む日だったのだ。最近は温かかったが、今日は雲が覆って日がささない。少し冷たくなっているが、何処となく蒸す。店は冷房をつけているのか、暖房をつけているのか、さり気なさ過ぎて判断に困る。
「ホットにしましょう、雨に濡れてきたから。風邪をひかないように」
「そうだね、うん」
それから、彼女は少し口を尖らせたような、これは仕草ではなくて、あくまでも雰囲気だが、そんな表情を見せた。僕がついさっき、言葉が足りないと思い込んで、悩んだ時のような。僕は少し笑いながら。
「それで?」
「うん。ここのコーヒー、とても美味しいの。温かい方が好みだわ。香りがちゃんとするし。飲ませたくてさ、君にも」
「うん、ありがとう」
二人でコーヒーとケーキセットを頼んだ。お得なバリュープライスで600円ということもあったが、こんな雨の日はこれくらいで丁度いいような、ランチになると重くなりすぎて、コーヒーだけだと軽くなりすぎて、これが丁度、重しになるようなそんな感じがした。ケーキは何種類かから選べるのだが、そこまで彼女に聞くのは恥ずかしいというか、そこは僕が決めて欲しいような彼女の横顔だったので、ベイクドチーズケーキを選んだ。すると有希は季節限定のオレンジのシフォンケーキを選んだ。間違ったかな、と思った。
「ここのシフォンケーキって美味しいのよ」
「そっか、間違ったかな」
思ったことをつい喋ってしまった。雨から離れ、柔らかな樹のような店内に油断し過ぎたのか。
「また、ね」
いや、間違っていない。
「うん、また今度。次はそっちを選ぼう」
ケーキが運ばれてきた。彼女のケーキはフワフワとしたシフォンに、オレンジの鮮やかなソースが映えて、綺麗、というよりも快活で可愛い感じだった。僕のベイクドチーズケーキは、少し地味で、でもほっとする暖色のクリーム色で、ケーキには温度がないがほんのりとした熱が伝わって来そうだった。
コーヒーを飲みながら、チーズケーキに手をつける。そしてそれが心に染みた味を伝えようと、僕の心は眠りごこちの優しい雨に半分を浸され、半分は彼女の元へと覚めていく。
執筆の狙い
こんばんわんこそば。
よろしくおねがいします。