俺流小説の書き方
俺流小説の書き方
1.さて小説でも書いてみようかな、と思った時、はじめにやること
全くのはじめての方や、そこまで書く気でやったこともないという人は、まず心を入れ替えなければならないでしょう。とは言っても難しいことではなく、毎日ご飯を作ってくれるお母さんと、食卓につけばちゃんと食べ物が並んでいる我々の立場を入れ替えるといったことでしかありません。
お母さんをPCだのテレビだのの前に転がし、まずは食材を仕入れに行きましょう。
ここで問題なのは、何を作るのか、ということです。
お母さんくらいの達人になれば冷蔵庫の中身であれこれ作れてしまうでしょうが、我々ではちょっと無理です。まずメニューを決めてから分量をコケッコパッドとかで調べて適切な量を買ってくるのが一番合理的です。スーパーに行きましょう。
麗らかな春の日を浴びて、エコバックを片手にあなたは気分よく家路につきます。
多少重くて、引っかけている手が痛くはなるけれど、まあ我慢できるでしょう。
まだまだ韓流ドラマに夢中なお母さんに、安売りされていたせんぺいなんかを渡し、いい子を演出したら、食材をしまい込みます。冷凍食品は速攻で冷蔵庫に入れないと溶けちゃいますし、牛乳なんかもさっさと冷やします。レタスなんかは冷たい水につけておけばパリパリのサラダになります。
買い物の始末を終えて、いよいよ調理です。タブレットを台所に設置し、ケッコウパッドを開きます。なるほど、キュウリはこうやって切るのかーとか思いながら、指を切らないように慎重に調理します。ガスを焚きます。フライパンはどこ? とお母さんに聞きます。みりんが切れていたので砂糖でいいか、とテヘペロします。おもったよりずっと熱い調理台で汗を流しながら煮炊きして、やっと完成です。
皿を用意します、お父さん用の箸を探します、無いです。お母さんに聞きます、知らないよと言われます。箸立ての裏に転がっていたのを見つけます。盛り付け盛り付け三人分。同じことを三回繰り返します。シンクは汚れた調理器具で一杯、洗うの憂鬱だなと思います。盛り付けた料理をテーブルに運びます運びます運びます。
やっと、自分がいつも目にする段階までやってきました。
皆を呼びます、いただきます。
「ちょっと味噌汁味が薄いね」
「マーボー豆腐はまあまあかな?」
「ちょっとこのお漬物酸っぱくなってきちゃったね」
色々言われてイラっとします。お前らやってねえからわからねえんだよ、このぉ!
まずはこの 作る側と味わうだけの側 というものの大いなる差を認識するべきです。
言うのは簡単、やるのは大変、なんていう簡単な言葉でその実態は言い表せません。
しかも、ここでは多くの人は「お母さん」の立場なのです。作るのが嫌になったら丸投げして作ってもらう立場の人に、お父さんに接するような態度は取れませんね。
このように、あなたは、まず何を作るのかを決め食材を仕入れるところから始めなければなりません。読者と作者の立ち位置はある意味逆なのです。本を沢山読んで来た経験は大事ですが、その本を作る立場になって読まないのであれば、執筆にはあまりプラスにはなりません。
料理を作ることの全貌、小説をかくということの全貌をまず知らなければなりません。
2.小説を書くということはどういうことなのか
では、小説と書くということはなんなのか。
小学校からずっと習っている「日本語」を書き連ねれば分量は誰でも確保できます。日記でもいいし、気分が乗ったら詩を入れてもいいし、実体験した恋愛を詳しく書き込んでもいいし、昨日見たアニメのストーリーを拝借したっていい。
でもそれは多分面白くない。そんなことで面白いならこの世は小説家で溢れてしまう。
子供の頃、キャンプとか行った時に怪談を話したりした経験は多くの人にあるでしょう。
ノリノリで話しているのになにかおもしろくなくて怖くもない奴。何言ってんだかわからない、デカい声だけで驚かせようとする奴。あ、それ知ってる!と思いつつも話し方が上手くて面白い奴。共通の知人や場所を持ってきて、完全に創作された、身近で控え目な内容を鬼気迫る迫力で語り続け、集団狂気にまで至らせる最悪な奴。
小説を書くとなれば、出来れば最後の最悪君になりたいと思いますけれど、私は人生で一人しかこのような奴に会ったことはありません。こいつのせいで中学一年のキャンプが中止になりましたw
場所や雰囲気、時間帯といった様々な助けとなる要素があったとはいえ、これはもう才能としか言いようのないものでしょう。小学生に毛が生えたような年齢の子供が、自分の語りだけで、学校行事を中止に追い込むなんてw
では、そんな生まれつきの才能がなければ小説書きにはなれないのか、と言われれば、現実として、活躍されている作家先生の人数が多すぎる気がします。つまり、後天的な努力でも大丈夫だという結論になるし、実際多くの作家先生がそのような努力で階段を登られたのだと思われます。
そしてその努力とは、自由な発想、新しいカタチ、無限の想像力、とかいうふわふわした言葉を唱えるだけではなく、料理の例のような、体力と勉強と我慢を重ねる現実的なものだったはずです。
3.では読める小説とはなんなのか
「つまんなすぎで読めませんでした」
ここでよくある感想ですねw こういう事態は回避したいものです。
まず自分が読んで(書いた後、読み直して)面白い、素晴らしい、他人に伝えたい、と思えるものであることが大前提です。書くという行為そのものがもはや面白いと感じてしまう人は、自覚していないかもしれないが、結構多いと思います。その場合内容がどうであれ書いている最中は面白いと感じ続けている可能性がある。多くの人がこういう場所を使いたいと思うこと自体、自分で自分の書いたものが面白いかどうか、自作を自分で読むことでは判断ができないと思っている証拠のような気がします。
それでも無理やり読み返して、自作が自分の手元にあるうちに一様の決着をつけてみることは無駄だとは思いません。
テストを返されてその点数と直面した時のメンタルの状態と、その後残念に思いながらも先生の解説を聞いて答え合わせをしている時の納得感は別物であるからです。
こういった正常で有益な経験を積むことで、最終的には書いているその瞬間に冷静で的確な判断が出来るようになり、作品の制作速度や長編へのチャレンジのしやすさ、多作になることで結果的に良い作品を作る可能性が上がるだろう期待にも繋がります。
そういう意味で、このようなサイトがあること自体、非常に有意義なのだろうと思います。
さて、読み返しても面白い、と思える作品が出来たとして、もう一つ重要な問題は「他人に伝わるかどうか」です。
映画などでは、当然最初から映像が映ります。
晴天、海の上に架かる橋、車がそこを走っています。高級車のマークが見え、身なりの良さそうな男が窓の向こうで運転しています。雰囲気からアメリカっぽく感じられ、男の表情が硬いのがわかります。荘厳でちょっと怖いBGM、行く手には大都会が映りこみ、男がそこへ向かっているのがわかります。
たった5秒の映像で、溢れんばかりの情報が目から入り込み、状況を理解し、これからのお話の流れも大体わかってしまいます。
でも、それを全部小説の文字で起こすのは無理で無駄です。
ここでチョイスが発生し、そこでセンスが問われることになってしまいます。
でも、それは、ただ単に書き手側のセンスだけで処理できる問題ではありません。受け手との共同作業であることをしっかり認識しなければなりません。
同じ映像を元に書き起こした同じ文を、1920年の日本人と、情報が溢れる今の日本人に見せたとしたら全く理解度が違うでしょう。今の人であっても、大人と子供では違うし、車に興味のある人旅行好き地理好きファッショに詳しい詳しくない…様々な読み手が居ます。
そして、最も重要なのが「書き手自身も、その多様性の中の、ある位置を占める人間」だということです。俺が知っているから書かなくてもわかる、という理屈は通用しない。当然、特に筆者が良く知っている物事に関してこれは顕著になります。そして、どうしても筆者が良く知っている世界を中心に物語を書きたくなるのですから、かなり大問題ということになっていまいます。
他人に伝えるために、何をどうするべきなのか、という問題は根本になるでしょう。
4.よく伝わる文章とは
では自分と別人たる「読者」諸君に対して意思を伝えるには何が大切でしょうか?
それは共通項でしょう。
我々は少なくとも日本語を使えます。これが突破する鍵です。誰もが知っているこくごのじかんに習ったひらがなカタカナ漢字を、一般的に知られている文法で書くのが日本語の根幹です。これはゆるぎない共通項として日本人に備え付けられた財産です。これを使わない手はない。
巧いか下手かはさておき、よく知られた日本語の形、よく知られた小説の形式様式をまずは基本とするべき、とよく言われるのは、裏に誰も語らない「じゃないと素晴らしい小説の内容がより多くの人に伝わらない可能性があるぞ」という意味、理由があるからです。
もう一つ重要なのが無駄を省くということです。
状況を詳しく説明すると長くなる。頭に浮かんだことを次々と書いてしまうと長くなる。知らずしらず同じことをくり返してしまう。不必要な作者自身の自分語りをうっかり入れてしまう。少し書けるようになると陥る問題です。
こういった文の、内容の不味さが致命的というよりは、読み手の生物学的な問題を考慮に入れてないことのほうが問題です。
基本、人間は長時間集中できないのだし、早く結末を知ってしまいたい生き物です。
自分でその文章はなにを書いているのかということを、しっかり認識し、不必要なことを書いていないかどうかを、その都度チェックする必要があるのは、やはり読み手に物語を伝えるうえで重要だと思います。
5.じゃあ、皆に読んでもらえて喜んでもらえ、なんなら出版される小説の書き方とは
わかりませんw
はっきり言って、他人に何かを言われて気がついたり、なおして結果が見えることなんて初歩の初歩の段階だけだと思います。公募で言ったら一次に受かるかどうか、なろうみたいなところでは、二人だった読者が十人に増えるかどうか、くらいなところが上限でしょう。
最終選考まで行きました、とかいう投稿もあったように思いますが、一線のプロですら意見が分かれるようなものを書いたということは、これすなわち、プロにも良いか悪いかわからんすごいのを書いてしまったということに他なりません。
じゃあこの世で誰が良し悪しを言えるのでしょう?
精々自分が面白かったかそうでも無かったか表明するくらいしかできません。
結局自分が書いたものが本になるかどうかなんていうのは、最終的には人との出会いとか、タイミングの計り方とか、そんなこんなを含めた運みたいなものでしかないと思わざるを得ません。
面白い+小説=できた! なんて数学じみた回答はないでしょうw
あなたの頭で、精一杯考えうる、あなたの作品で勝負しなければならない領域は確実にあり、そこからが小説を書くという行為の神髄です。
目標が、有名小説家になることでも、なろうで15人に面白いと言ってもらえることであっても、そういう不確定な領域に足を突っ込むことであるということは頭に入れておいたほうが良いでしょう。そして、その領域に入れば、本屋で表紙にみる有名作家が、あなたを遠くから銃で狙うようになりますwあなたも撃ち返さなければやられます。面白い小説というのは、そういうところにあるのです。素人ながらまあまあ上手いね、なんていう甘っちょろいところにはありません。
皆さんが皆さんなりの努力を重ね、エレベーターで行ける領域まではなるべくスムーズにいけることをお祈りします。そこから先の険しい登山コースは私にはわかりません。
せめて遭難だの滑落だの大事故に見舞われないことを、重ねてお祈りいたしますw
執筆の狙い
まあ自分への戒めでしょうねw
意見が異なる! と思う方が居ればコメント歓迎いたします。