仕事ながらの修行法
K君はたぶん辞めるだろう。K君と僕は同期で、去年一緒に正社員試験を受けたが、僕は受かってK君は落ちた。以来K君は僕とあからさまに距離を取るようになった。といっても、営業所の上司がひらいてくれた正社員試験の勉強会にK君はまったく参加しなかった。一方の僕は全日勉強会に参加して、帰りの電車の中や家でも勉強と面接の練習をたくさんした。だから僕が受かってK君が落ちるのは当然だった。そもそもK君は本気で正社員になろうとしていたわけではない。でも彼は正社員試験を受けた。これでもしK君が受かっていたら、僕のほうが彼をよく思えなくなっていたかもしれない。
K君はとてもマジメに仕事をする。実際、K君が清掃したあとの現場は僕に負けじと綺麗で評判がいい。が、K君は素行が悪い。特に口が悪い。自分と同レベルに仕事ができない人たちをみんなの前で口汚く罵る。確かに、みんな同じ給料をもらっているのに、それぞれの仕事量が違いすぎることは問題だろう。会社として、それぞれの仕事内容なり、もっと仕組みを考え直す必要はある。といっても、どこの会社組織もマジメに仕事をする人間は全体の三割がせいぜいだろう。もっと大きくいえば、人類や世界のことについて本気で考えている芸術家や宗教家や哲学的な人間も、人類全体のせいぜい三割だろう。自分がその集団の「犠牲」になっていると考えるか、「礎」になっていると考えるかでは、事態はまったく同じでも、自分や周囲を取り巻く空気や環境は相当違ってくる。
その日K君は、朝の朝礼の場で、とある人を、みんなに聞こえるくらい大きい声で罵った。「オメーは普段仕事しねーんだからそのくらいやれよ、バーカ!」と。みんなはいつものように顔をしかめて、その場にいる上司も「まあまあ」みたいに苦笑いをして流そうとした。僕はでも我慢できなかった。ていうか、風紀を乱しすぎだろ。上司の野郎どもにしても、なぜちゃんと然るべき対応を取ろうとしない?こんなガキにビビるな。そう、僕は「目には目を」のつもりで、K君を叩き潰すようにみんなの前でこう言った。「コラオメー、朝礼の場だぞ。自分が何いってるかわかってんのか?もっと慎めよ、このクソガキ。つーか、テメーもう口開くな。もうしゃべるな。わかった⁉」
以来、K君は仕事を休んでいる。今月中に退職するかの判断をすると上司には言っているらしい。ていうか、もう辞めるしかないだろう。こんなに乱暴にやり返した僕を「よくやった!」とむしろ称賛するくらい、K君はみんなに嫌われている。僕はでも実は、二人で飲みに行っていたくらいK君とは仲がよかった。K君は40歳目前の独身一人暮らし。バイトのままだから手取り月収は去年までの僕と同じ13万。副業をしながらなんとか最低限の生活をしているらしいが、一般的に考えて未来はほぼ絶望的だろう。
一方の僕は正社員になったし、家に帰れば家族(妻)もいる。そういう諸々への嫉妬もあって、K君が僕と距離を取ろうとしていたことを、僕は気に入らなかった。でも、諸々恵まれている僕のほうこそ我慢しないといけないと思った。少しずつK君の嫉妬心をほぐしていくつもりだった。が、自分勝手な怒りが先走ってしまった僕は、だからK君にあそこまで乱暴に言ってしまった。K君が悪かったにしても、僕はやり過ぎた。やっつけたいという自分の中の「敵意」を満たすためにK君の心をへし折ってしまった。
ただ、結果として、転職や将来を考え直すいいきっかけにはなったと思う。もともと僕はK君に話すつもりだった。あと二年後、今の営業所の仕事は夜勤が中心になる。K君はどうしても夜勤ができないから、そうなると転職しなければならない。2年後の40歳になってから転職するより、40歳前の今転職したほうが良いに決まっている。芸術や何かに本気で打ち込んでいるとか親の介護的な家庭の事情があるわけでもないなら、収入が安定しない(正社員の見込みがない)会社にダラダラいても仕方ないだろう。
とはいえ、どんな仕事も、どこの職場も組織も、所詮みんな同じだ。どの集団の個性や成功性も所詮は一過性。一見あるように見える個性や成功性も、限定的か有限で、無限ではない。さらにいえば、無職やニートだろうと、「人間の集団に関わる(属する)必要」は必ずあって、それこそが個人の辛苦の大本であると同時に、個人が生存し続ける条件でもある。
人間関係の極意は、人間を愛することだ。人間とは、自分を含めた他者全員だ。「隣人を愛する心」「敵を許す心」のレベルに応じて、人間関係は勝手に上手くいく。人間関係のためにアレコレ周りに気を回すのは愚の骨頂。純粋に目の前の相手を愛し許すための努力をする。目の前の相手の孤独や喜びを如何に自己の内に投影し落とし込むことができるか?これがすべてだ。これ以上の真理はない。
僕は今回、K君に対して、愛より敵意を優先してしまった。愛と許しの心が欠如してしまった。だからK君は僕から離れてしまった。悪いのは僕である。朝礼の場でK君が暴言をはいたのはまったく別の話だ。僕はそれを理由に、というか「待ってました!」とばかり、K君をやっつけて満足した。そう、僕はまだまだゴミ虫。いや、死ぬまで僕はゴミ虫のままかもしれない。まあでも、自分がゴミ虫なことをこうしてその都度キチンと分析して思い知れば、愛と許しの心はレベルアップしていくだろう。そう、これが社会活動(仕事)を通じての僕の修業の仕方だ。
執筆の狙い
語彙の足らなさや文法の妙を意識しながら書くのは「うわさのベーコン」という小説の影響が大きいです。興味があれば読んでみてください。