痴漢魔
持ち主のわからぬ掌が私の尻を弄んでいる。断罪する気も失せるほどに退屈な愛撫であった。
もちろん今すぐにその手首を引っ捕らえて、卑劣な行為を白日の元に晒し制裁を加えてもよかったのだけれど、目的地まではあと一駅で、あいにくその代償として支払う時間に余裕がなかった。
痴漢魔というのはある働きに欠けている。模範的な男というのは性欲を原動力にし、よく働き、相手を敬い、認められた上で尻を触る。だから罪悪感を持たずさっぱりとしている。一方で痴漢魔といえば面と向かっては女と口も聞けぬくせして、心中では相手を見下し、恐る恐る尻を触る。女は尻を触られたから嫌うのではない、その陰湿な精神を嫌うのである。
私は多少なり予定に遅れてでもそんな男が罰を受ける姿を見たくなった。
しかし考えれば私の方にも隙があったのではないかと思えてきた。これだけ人が乗っていれば尻などいくらでもぶら下がっているのにも関わらず私が標的になったのはなぜだろうか。私の尻は魅惑と言うほど豊かでもなければ、容姿も十人並みであるのだから素直に性欲に従うのであればもっと良い尻があるだろう、もっとも一番近かったので手当たり次第に、と言ってしまえばそれまでだが。
私はしばし考え込んだ。意図せず、うーむと、声が漏れた。すると愛撫の手が止まり、離れたのである。その手つきからはまるで十字架を突きつけられた吸血鬼のような怯えが感ぜられた。
痴漢魔は私を今までオブジェクト、つまり物として見ていたに違いない。それが声を上げたのだから痴漢魔は驚く。社会的失墜も恐ろしいだろうが、何より意志を持った女というのは痴漢魔の天敵であり、性欲の対象から外れるのだろう。
駅に着き扉が開くと若い頑強そうな若者が、ひょろりとした醜い禿頭のサラリーマンらしき男に詰め寄り、連れ出そうとしていた。若者はなにやら私を呼び止めていたが、ここで止まってしまっては耐えた意味がなくなってしまうので振り返らずにその場を後にした。
執筆の狙い
友人の話を元に痴漢の哀れさ、情けなさを考えました。