頭痛
この小説は面白くなるとは思えない。これは、はじめに断っておく。
それから、なるべく短くまとめるつもりでいる。これは昨日から引きずっている頭痛のためでもあるし、そもそも、いま、無計画に書き始めたせいでもある。
頭が痛くては、机に向かっているだけでも大変苦痛だ。とてもじゃないが、面白い話、長い話などを用意して、ささっと作品として仕上げることなど出来ない。薬でぼやかしたところで、痛みの種というか、なんとなく硬くて黒いイメージを抱かせる何かが、まだこの右目の奥に、確かに存在しているのがわかる。そう、カエルの卵だ。本物を見た、という人はあまりいないかもしれないが、いきものの図鑑に写真が載っていた、カエルの卵の印象に、まあ、似た感覚。こうして例えながら、うまく伝わる気などまるで起こらないのが残念だが、とにかく、あのぼやっとした、半透明の、とりとめのない存在。そんなぼやけた痛みの中に、黒く、小さい、病弱な心臓を想像する。それが、まだ目と脳の間で悶々としているわけだ。
それなら痛みがひいてから書けばいいだろうと思う方もいるかもしれない。確かにそうなのだが、別に頭痛が引いたところで、真面目に机に向かうかと言われたら、これが実に疑わしい。
書きたいものはある。書こうと思う気持ちもある。でも、いざ書くとなると、まるで別人の心が降りてきたかのようになって、冷めてしまう。退屈な二度目のセックス。消極的な積極性とでも言えるだろうか。まあ、そのようなものが決まって僕を机から遠ざける。
愚痴ばかりになってしまったが、まあ、頭痛が治ったところで真面目になれないのなら、今、頭が痛い時にしか書けないものでも書いてみようという気になったというわけだ。
こうでもしなければ永遠に何も書けない。それは、申し訳ないというか、つまらないというか。このままではいけないという、道徳的な焦りに裏打ちされた危機感かも知れない。これをこころに放置し続けることは、少なくとも、こんな僕でも確かにはらい続けている敬意に、小説というものに対して抱いている、犯しがたい感謝の念に、僅かとはいえ傷をつけることになる。それは避けたい。だから、今、寝転びながら、iPhoneでWordを開いている。便利になったなと思う。行儀は悪いが、気持ちは真面目だ。
ところで、先月友人が死んだ。部屋で首を吊ったのだ。遺された婦人は泣いていた。僕は彼女に声をかけることができなかった。かける言葉が用意できなかったわけではない。むしろ言葉だけはあった。というより、伝えるべき事柄はある程度の重さをもって、それこそこの鈍い頭痛のような形態をとって、僕の頭の中にあった。僕は彼の死を意外だとは思わなかった。一見して、突然の稲妻のように皆の日常を貫いた彼の死は、僕からすれば、かねてから何とない予報の先にあったからだ。
「孝介くんは、もうやることがなくなったんですよ」
彼の死の為に、無闇に自分を責め続ける彼女に向かって、だからあなたは何も悪くないのですと、そう言えたらよかったとは、当然思う。しかし、僕は今の今まで、彼女に対してこの真相を打ち明けてはいない。真相、というと大袈裟だが、遺書などが見つかるまでは、それに値する事実だと思う。そう、彼は、自身のドッペルゲンガーを見たのだ。
今、悲しみと絶望に苛まれている彼女にこの話をするわけにはいかない。いくら不真面目な人間とはいえ、そしていくら頭痛にぼやかされているとはいえ、それくらいは僕にだって判断できた。ドッペルゲンガー。自分と全くおなじ人間。顔かたち、人となり、暮らし向きまで同じ、もう一人の自分。幽霊ではない。ただ、妖怪じみたものは感じる。孝介は恐らく、孝介を見たのだ。
彼は一度、僕に世界の傾斜について語ったことがあった。美味い寿司を出す居酒屋に行った時だ。酒も入っていた。彼は病を告白するかのように、それについて語り始めたことを覚えている。
彼は僕に、君は左のない、右しかない世界を想像できるかと聞いた。僕は深く考えず、できると答えた。右しかない、つまりは右折しかない窮屈な世界、もしくは、政治的な意図を覆った上での表現、そんなものを即席に想像したからだ。
彼は、そんな僕に対して、いや、想像できていないよと言った。僕はビールを眺めながら、この調子で飲むと、また机に向かう時間を潰すことになるなと、まるで他人事のように考えていた。
孝介は次に、数字だけの世界を想像できるかと言った。僕は、そういう世界もあるのではないかと言った。すると彼は、記号のない、式のない、数字だけ世界なんだが、想像できないかと念を押した。
僕はその時、気のない返事をしたと思う。孝介は僕に向かって、君は全然想像できていないと言った。その証拠に、君は生きていると言った。お前だって今まさに生きていて、僕と喋っているじゃないかと言いたくなったが、その時の彼の眼差し、薄らと失望を滲ませた、厭世的な姿勢に、僕は何となく取り合う気をなくした。
彼は、それらの偏った世界を、幻肢痛だと言った。世界の傾斜は行き着くところで、治りようのない、原因のない、それこそ脳から独立した頭痛となってゆくのだと言った。僕は新鮮な、注ぎたてのビールが恋しくなって、すいませんと大きな声を出して注文をした。
その時だった。
「俺はこの頃、もう一人の俺を見るんだよ」
孝介は心細いといった感情を遠慮なく表情に出して、僕にそう言った。
それから約一年後、つまり先月に首を吊るまで、彼は僕に対して二度とこの話をしなかった。無論、僕からもそれについて彼に尋ねることもなかった。ただ、それからは口癖のように、俺にはまだやることがある、といったようなことを口にするようになった。
とはいえ、その口調には、今思い返しても、自らの命を断ってしまう程の切迫はなかったように思う。少なくとも、死を前にしてやり残したことを語るといった、感傷的な様子ではなかった。僕はむしろ、この時の孝介の口調に、何か、互いにどうしようもない、巨大な自然の歯車の力が働いているように感じた。これは言葉にできないものと諦めて記すが、彼はそのやること全てが、何がどうあっても確定的になされるというところに立って、その巨大な歯車の上に立って話していた。僕は、孝介の訃報を受けた時、真っ先にこの歯車の力を、死の予報として結びつけた。
とはいえ、その時々に彼の言うやること、というのが、内容的には甚だ瑣末なことだったということも、記しておかなくてはならない。
それは例えば、買うだけ買ってそのままにしてある本をすべて読まなくては、といったことや、買うつもりでまだ買っていない辞書があるとか、他にも同様の理屈で割り切れることに過ぎなかった。何も世界平和のためだとか、戦争根絶のためだとか、そういった命を注ぐべき大事業というわけではない。
僕はこの時、彼の言う、そうした生活に根ざしたささやかな罪悪感と焦り、言ってみれば僕が机に向かなわければと思う度に感じる、自責の念に共通するものに対して、漫然と、そうだねと言う他なかった。
そして孝介は、やることを、やったはずだ。本を全て読んだはずだ。辞書も買っただろう。そして、ここからは僕の憶測でしかないのだが、彼は、世界の傾斜従って、どうしようもなく滑り落ちるように、やることを済ませていったはずだ。その先にあったのは、彼の言うように、頭痛。ぼんやりした不安とでも言おうか。右しかない世界。数字だけの世界。赤によってしか赤を語れない世界。痛みによってしか、痛みを捉えられない世界。自分によってしか、自分を感じることのできない世界。確定的な、自然の力。それら全てが、孝介に、もう一人の孝介として迫った。彼はそこで、ドッペルゲンガーを見ることになったのだと、僕は思う。
お気づきの方もいるかもしれないが、ここまで書いて、薬が効いてきた。痛みは蒸発したかのように、捉えられないものとなって、その名残だけを感じられる。支離滅裂の感があるのは、僕のせいではなく、頭痛の時に書くものは、痛みが消えてゆくと共に、把握出来ないものとなるようだから仕方がない。
というわけで、そろそろ書くのをやめようと思う。目も疲れた。やはり、頭が痛くては、面白い話など書けはしないのだとわかった。もう寝転んでWordを開くことはないと信じたい。頭痛でもないのに、ドッペルゲンガーが見えては困る。
了
執筆の狙い
たぶん全然面白くないです。芥川が好きな人は、あーって思うかも知れません。
ロキソニンって飲みすぎたら胃に悪いんですかね。
頭痛によい食べ物とかあったら教えてください。