作家でごはん!鍛練場
キヨシ

有馬奇譚

               始 章

   ──目覚め──


────ふと、目が覚めた。
 そこは見覚えのない部屋で、よくわからない場所だった。でも知っている。ふとそう思った。だって、このにおいは少し覚えがあるからだ。おそらくここは、病院という場所なのだろう。

 すずしい風が開けっぱなしの窓からふきこんで、カーテンがゆれる。その風は、ベッドで横たわっている少年の頬に触れる。空はまっさおで、雲が一つもない快晴だ。

 それはそれで気になることがあるのだ。
 なんでこんなところにいるんだろう?

 窓に向けていた視線を、真正面の壁にかかっている時計にうつす。時間は朝の九時すぎ。なんだかこんな心地いい朝はひさしぶりな気がする。

「え……」

 白い服を着た女性が、なにかを落として驚いている。左手を口にあてて、目をおおきく開いている。それから女性は数秒間なにも話さないでいた。だから少年は一応、話しかけてみた。けど、すぐに「先生……!」とあわててどこかへ行ってしまった。

 それから一、二分あと。少年は空を眺めていた。そしたら汗をかいて、息をはぁはぁとさせてきた白衣の若い男性が少年を見てくる。その若い男性の姿は極めて日本人らしくない。外国人のようにも見えるけど、顔は日本人のような作りであった。正直、怖かった。だから逃げたかったけど、男性はすぐに作り笑いを浮かべて言った。

「──ごめんね。怖がらせてしまったね。私は先生。それはわかるね?」
「……ん」

 少年は首を小さく縦に振った。

「よかった。……それじゃ、自分のお名前はわかるかな?」
「……ぁりま──しず、き……?」

 上手く言葉に出せなかったが、一瞬で思い出した自分の名前を言った。
 何となくだったから合っているかはわからない。もしかしたら知らないだれかの名前かもしれない。

 けど、なぜかその名前には違和感が感じられた。

「……あ、ああ。うん。そ、そうだね。有馬静希、それが君のお名前。それじゃ自分が何歳かもわかるかな? ゆっくりでいい」
 「……じゅ……ぁい」
 
 けれど少年の発する声はひどく弱々しく、よどみあるものだった。医者は、静希の言ったことが何なのかがわからなくて、しばらくその体を硬直させていた。

 医者は静希が「十歳」と言ったのだと、数秒おいてから理解した。

「十歳。そうだね。でもね、もう君は十一歳だ」

 最初に二回うなずいてから、医者は静希にそう告げた。
 静希が〝事故〟に遭ってからすでに一年が経過しているのだ。

 それから医者は静希の胸になにやら冷たいものを押しつけてきたり、ライトで静希の目に光を当てたり、注射で血液摂取もした。なんでだろう、注射はすごく嫌いなはずなのに、痛くはなかった。まるで苦手がなくなったみたいな感じだ。

 そして医者は「ちょっと待っててね」と静希に言って、病室のドアの近くであの女性──看護師と話していた。

「──奇跡だ。まさか成功するなんて、思いもしなかったが……とりあえず全く以って正常だ。心拍数もいたって平均的だし、血液摂取もしたが、まあとりあえずは異常なし。──ただ、いくらなんでもこんなことは……」
「まあ、そうですよね。でもよかったじゃないですか、生き返ったんですから」
「そう、だな」

 そのあとも何かを話していたけど、黒髪の少年はずっと空を見ていた。きれいで、晴れ晴れとしていて、静希は、こんな夏の空が好きだ、と感動していた。でも、なぜだろう。あの空を見ると、どうしてか赤いものを思い出す。なんなのかわからないけど、人の血みたいな濃い赤。気が狂いそうになるのが解った。

 そこはどこだろう。
 どこかの部屋。けれどなんだろう。少年はその場所をよく知っている気がするのだ。何度も何度も遊びにきた記憶がある。たしか──静希の部屋だ。

 目の前には少年の友達がうずくまっている。苦しそうに、だれかに助けを求めているかのようだ。だから近づいた。どうしたの、と心配して声をかけた。

 その次は、よく覚えていない。なにがあったのか、覚えていない。
 でも、そのときの景色が見えるのだ。
 すごく鮮やかな赤だった。その色についのみこまれてしまうのではないか、と思うくらい。
 それは近いようで、遠い夏の記憶。
 夏休み最後の、想い出だった──。

 「ん─っ」

 ひどくなつかしい夢をみていた。
 そんな気はするけど、よく覚えていないのがいらつく。
 そして起きてから二時間経ったあとで、医者は昨日と同じように静希の体を調べて、ついでに血も摂っていた。どうしても注射の痛さは慣れないものだ。

 それから三か月が経った。
 言葉を話すことさえままならなかった静希にリハビリをほどこした。それを続けて三か月で、やっと人との会話がまともにできるようになった。声もはっきり出せる。

「静希くん、君には病気やケガは見られない。きっと体が丈夫なんだろうね。だから静希くんは明日には退院できるよ。……ああ、退院っていうのは自分のおうちに帰れるということだよ」

 その言葉を聞いてうれしい、と思うべきなのだろうか。
 家族のところへ帰れる。それは普通の子どもにとってはいい知らせなのかもしれない。けど静希にとっては、どうもそのいいおしらせには聞こえなかった。あんなさむいところ、つめたいところには帰りたくなかった。

 静希の家族は目がさめてから一度も見舞いに来ていない。先生にきいてみれば、気まずく「……いや、来ていなかったね」と言っていた。

「やだ、帰りたくない。先生、おれまだここにいたいよ」

 ひさしぶりに自分の気持ちを言葉にした。
 すると先生は顔をかたむけて、「うん?」と声をもらす。

「だって、すごくさむいんだ。いたいんだよ。それにこわいんだ、ほんとうに。あの家は……家はまるで──」

 まるで、化け物みたいだ。
 そう思えて仕方がなかった。
 たしかな記憶はない。けれど、静希の本能がそう感じとっていた。

「それは勘違いだ。忘れなさい」
 先生は色を失ったみたいな目を少年に向けて、そう言った。さっきまでの安心する笑顔と逆転したみたいに、その顔は静希の心にふりかかる雪のようだった。
「まあ、長い間帰れなかったからね。きっと緊張しているんだと思うよ」
「……うん」
 静希はうなずいた。
「じゃあ、僕はもどるよ」先生は少年に背中を向けて、つめたい顔でこう小さく言っていた。「──こんな子供に、なんてことを……」
 その言葉が静希には理解できなかった。
 
 昼の十二時ちょうどにだれかが来た。
 きれいな人だった。母はよく化粧をしているけど、その女性は化粧なんてものはしていなくて、それでもきれいだった。美しい姫、そう言っても過言じゃないことは誰よりも静希がわかっていた。

 その美しい女性は、まぎれもない静希の姉だからだ。
 やっと自分のところに来てくれた。それがすごくうれしくて、静希の表情はほころんでいた。

「静希ちゃん、元気してる──」

 元気してる? と言いかけたところで姉は動きを止めてこちらを見ていた。しばらくだまり続けてばかりで少年は不安になった。

「……そう、なんだ」姉はやっと口を開ける。「……やっぱり、ね」
「?」

 静希は顔を右にかたむけた。その言葉がよくわからないものだったからだ。今日は本当に静希にとってよくわからない言葉ばかりが飛び交う。いい加減、自分にちゃんと説明してほしいものだ。

「静希、元気してる?」
「え、ああ、うん」

 それからの姉からはつめたい何かを感じていたけど、話をしていてとても楽しかったし、あたたかいとも感じていた。

「静希。あなたは何か訳のわからないものに対して、いらいらすることはない?」

 姉が通っている学校での、面白おかしい友達との話の途中だった。とつぜん、姉は本当にわけのわからない質問をしてきたのだ。

 わけのわからないもの。かすかに胸に感じる、なにかに対する怒りがある。けどそれはきっと、姉や先生が口にした言葉、がその何かの正体なのではないか。静希はそう思っている。

「ううん、違う。それじゃない。わたしが求めてるものはあなた自身が抱く、恨みや憎しみよ」

 静希は顔をかたむけて、「ん?」と声をもらした。
 そう言うと、姉はあきらめたような顔をしてため息を吐く。

「ごめんね。今のは忘れて。──うん、ちゃんとわたしが対処するわ」

 わからないことが多すぎて、どう答えればわからなくなる。どう答えようか、と悩んでいたら姉はすっと立ち上がった。

「明日にはうちに戻ってくるんだよね?」
「うん」
「じゃ、また明日ね」

 そう言って姉は背中を少年に向けて、この部屋からでていってしまった。
 その背中に、静希は寒気を感じた。

 夜。少年は目がさめてしまった。
 まくらは汗でぬれていて、すごく気持ち悪い。こんなところで寝ていられるか、と少年は思って、ベッドからすぐに出た。部屋からも出て、ろうかを歩き続ける。
 あかりが少なくて、目の前がまっくらだ。その先はどんなに目を細めて見ても見えない。なぜか、見ちゃいけないものがあると思った。でも、少年は歩いた。もう少しはやく歩いて、その先をもっと近くで視たかった。
 おでこから汗がふきでて、すごく気分が悪い。ついでに吐き気もするから、ベッドで休みたかった。でも、好奇心には勝てなかった。
 自動販売機。そのあかりが周りをてらしていた。そこには白い服を着た、だれかがいた。そのひとはしゃがんで、くるしそうにしている。いたそうだ。少年はそれに近づいて、「大丈夫?」と声をかけたかった。けど、めまいというのだろうか。目の前がゆれて、まるでそこが現実世界じゃないみたいだった。
 そこで少年は崩れおちた。最後に見たのは、そのだれかの前にもう一匹、だれかが赤い目でこちらを見つめていたことぐらいだった。


 有馬静希は目覚めてから三日目にて、退院となった。朝起きてから、すぐに迎えに来るということで、静希は朝早くから準備をしていた。
 昨夜、なにか危険物に触れてしまったような感覚を覚えている。決して近づいてはいけない、なにか。しかし静希とてまだ幼い少年。その正体に好奇心と抱きつつも、恐怖心もあった。だから思い出すことをやめて、家に帰ることだけを考えた。
 だが……せっかくの退院だというのに、少年を担当していた医者は所要により休んでいた。仕事だから仕方ない、と看護師は言っていたが、なぜこのタイミングでと思った。
 少年はここ三日で、医者とは多少仲良くなれた。それこそ会ったときに笑顔であいさつし合えるぐらいには。だからぜひ、退院の日には彼に感謝と別れの言葉を告げてからにしたかったのだが、それが叶うことはなくなった。
「それじゃ、元気でね」
 少年の目覚めを第一に見たあの女性。話す機会はおそらく医者である彼よりもこの女性のほうが多かった。だからある程度には仲が良かった。

 雲がかかった青空のもと、看護師である人たちとやっと解放される少年とその迎えの者が入口の前に立っている。

 迎えの者は女性であった。これはまた昔ながらの西洋の給仕《メイド》服を着て、静希を迎えに来ていた。黒塗りのいかにも高級然とした自動車を道に停めて。

「うん、さようなら」

 まるで感情を失った人形のような口調だったけど、少年なりに情をこめていた。すこしだけさみしい。ときおり、奇妙な夢を見て怖かったけれど、優しい人たちだったから、ふつうに過ごせたと思う。

 それからのことはあまり印象がうすく、覚えていない。車に乗って、豪邸と言っても差しつかえないぐらいの自宅に帰り、ロビーで家族が待っていた、ということだけ。……強いて言うなら。

「お帰りなさい」

 そんな、人間とは思えない薄い声で少年を迎えた、この洋館のつめたさぐらいなものだ。

           第 一 章

            探 偵


「んぅ……ぅ」

 朝。午前七時半ほど。本来ならば、このベッドでうたたねしている少年が学生として学校に通うころだ。しかし、昨夜に少年は今日の午前二時ぐらいまで眠っていなかった。そのせいで、このいつもの起床時間、だいたい午前六時に起きることはなくなった。

 少年は朝が苦手だ。それは少年自身もわかっている。ならば目覚まし時計や携帯のタイマーを使って、朝起きれるよう努力すべきだろう。しかし少年にとってはその必要はないのだ。

 少年──有馬という名家の子息の一人。有馬が持つ財力はそこらの金持ちどもと比べなくとも、圧倒的だと理解できるほどだ。そんな名家が主人を奉仕する給仕《きゅうじ》、俗物に感じるが、いわゆるメイドという者がいても、なんら不思議はないだろう。

 そう、少年が転がっているベッドのかたわらにはそれらしい、西洋のメイド服を着た若い少女がいぶかしげに見つめている。理由はごく当然のこと。いくら少年をゆすっても目を覚ましてはくれないからだ。一回ほど、ためらいつつも豪快に少年のほおを手のひらで叩きつけた。が、少年はそのほおは赤く腫れあがらせているにまるで起きる気配がない。ここまで来たら、さすがの少女も疲れるばかりだ。

 しかし、最後の希望とふんばることにした。

「静希さま、静希さま。朝ですよ、そろそろ目覚めていただきませんと、学校に遅れてしまいます」

 午前六時に静希を起こそうとして、ずっと言っていた言葉だ。同じ言葉を繰り返すとなると、この言葉自体が嫌いになりそうだ。

「……ぅ」

 だめね、と少女はがっくりと肩を落とす。
 そして少女はいさぎよく、これ以上ストレスを溜めたくない、とため息を吐きながら少年に背をむけた。その背中はまるで目覚めぬ眠りの姫をおいていく、外道王子のような、はかなく冷たいものだった。
 しかし非があるのは紛れもなく少年である。


/1 午前八時二十分 有馬邸
    〝有馬静希〟
「……」
 俺は呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。なぜかと問われると、腹が痛いことこの上ない。その答えは自分にとって恥さらしでしかないからだ。
 おそらく俺の瞳は色という色を失っているだろう。
 しかしこの事態は初めてのことだ。今までいくらか、これに似たことはあったが、最終的にはくぐりぬけていた。ギリギリだった。

 つまり今の俺にとって、これはある種のとどめであった。残り少なかった命を確実に絶つ、まさにとどめの一撃。今までそれを喰らうまでの攻撃をいくつも受けていたが、とどめの一撃は奇跡的に避けてこられた。しかし、出会ったそうそうにとどめをくらってしまった。

「何かの冗談、だよな?」
 現実を直視できない自分があまりにも滲めすぎて、辛い。
「きっと、幻覚だよな?」

 幻覚とさえ思ってしまっている。知らず知らず違法薬物を体内に入れてしまったのか? そんなふうに思うぐらい気が狂っている。

「ええ……」

 ようやくたった今、俺は自分におかれている状況を理解した。

「はぁ……」

 大げさなまでに、大きなため息をつく。
 まぶたを閉じて、あともう一度、状況整理をした。

 壁にかざってある時計の針はどう見ても午前八時十三分を指していた。さきほどは目の錯覚かもしれないと近くに寄って確かめてみたが、結果として間違いのない事実だった。

 学校の門がしまるのは、午前八時十分。もう三分も遅れている。今の状況で言うなら十分《じゅっぷん》も遅れている。
 目の錯覚でもなし、幻覚でもなし、夢でもなし。これは紛れもない事実であると再確認したところで──、

「くそぉ!」

 俺は学校にむけて準備をすることにした。

 クローゼットを勢いよく開けて、カッターシャツとズボン、ベルトとジャケットを取り出す。それらを着ること二分。それからは部屋を抜け出し、赤い絨毯《じゅうたん》の踏み心地をかすかに感じながら、廊下を走る。そのとき、誰かが曲がり角で俺の体と当たりそうになった。その人は誰だっただろう。その誰かさんが、構わず走り続ける俺を怒鳴っている。

 俺の部屋は二階の東館におかれている。そこからロビーまで出るのに一分ほどはかかる。歩いていけば五十秒。走っていけば二十秒ほどで出られる。一軒家やアパートが多く建てられている住宅街で、明らかに場違いすぎる洋館が一つ。それが有馬家《うち》の屋敷である。この洋館の作りは外観の印象ほど複雑ではない。そこらへんを歩いていればすぐに屋敷の全体構造を理解できる。ただ奥行きがけっこうあるせいで、奥に部屋がある人にとっては無駄に時間がかかるだけだ。たぶん、歩いて五分なんて人もいるのだろう。

 こういうところだけは幸運といえる。正確には不幸中の幸いというべきだろう。

 ロビーにたどりついて、広々とした中央階段を同じ調子で駆け降りていく。そのとき、一階の西館を横目に玄関に向かった。そこには食堂がある。できれば食事をとりたい俺だが……。
 飯を食っている場合じゃない。今すぐにでも行かなければならないのだ。

 普通の家よりも少しばかり大きい扉を開けて、庭に出る。部屋から持ってきた通学鞄を脇にはさんで、不意に吹いてきた秋の風にのるように、全力疾走で白い彼岸花に包まれた庭を駆け抜けていく。

 俺の通う学校はどこにでもあるような進学校だ。この町の市民のほとんどが通う普通の学校。よく勘違いされるけれど、俺はたしかに有馬家の子息。本来なら俺が次期当主となる、はずだった。

 俺は七年前──十歳のころ──即死してもおかしくないと思われた交通事故から生き延びたらしい。らしい、というのは俺自身、あまりその時の記憶を覚えていない。事故以前の記憶と、事故に遭って一年後に目覚めたあとの六年の記憶しかない。いや──ない、というよりは俺が勝手になかったことにしている。
 
 事故以前の記憶を掘り起こそうとすると、唐突な頭痛に襲われる。入院当時、それに悩んでいた。だからそれ以降、あまりその記憶には触れないようにしていたのだ。
 
 つまり事故の瞬間を覚えていないのだ。脳には異常はないと言っていたが、本当なのだろうか。

 それで昏睡状態だった俺を見た父──現当主である有馬誠《ありままこと》は俺が死んだと勘違いしたらしい。それも無理はないだろう。なにせ一年だ。それぐらいの時間が経ちながらも目覚めないとなれば、その体が生命活動を続けていたとしても、「死んだ」と判断せざるおえないだろう。

 そして長い眠りから覚めたとき。
 俺が数日して帰ってくると、少し環境は変わっていた。もともと俺たちの母は事故死していったらしいのだ。これは姉に聞かされていたことである。しかし父のとなりには、もうすでに新しい人が立っていた。

 着物姿の、綺麗な人だった。なんとなく見覚えがあった。だからまた無意識に思い出そうとして、頭痛がした。

 名前を直子という人らしい。その名前に関しても、頭痛を恐れて触れないでいた。

 でも最も驚いたのが、その顔だった。
 人形みたいに綺麗で、色白で、小顔で、はっきりとした女性の完成形ともいえる輪郭。まるで、華のようだった。

 そう、そんな特徴を持った顔を俺はもう一つ知っている。
 姉──有馬冬子と、あまりに似ていた。

 ちなみに当主となるのは男性と決まっているらしい。俺には二歳離れた弟と姉がいる。だから弟である有馬直紀《ありまなおき》が当主となるのは必然だった。

 それから直紀は父から英才教育をほどこされているらしく、これは恨まれても文句は言えないな、と参っていた。

 姉の有馬冬子《ありまふゆこ》と直紀は同じ名門学校に通っている。そこはどうやら名家の子どもたちが次期当主となるための教育を受ける場所らしく、俺も以前はそこに通っていたらしい。だが、事故に遭ったあと俺は普通の学校に転入することになった。俺の存在に関してはどうしても隠したい、と父が言っていたからだ。具体的に言うと、死亡したとなると父の〝お友達〟に示しがつかない──だから父は俺は落ちこぼれだった、ということにして普通の学校に通わせた。次期当主に関しては直紀に譲っているので、そこは問題なかった。

 まあ、そんなことを考えているうちに学校にたどりついた。

 門は閉まっている……と思いきや、開けられていた。──しかし、そこに俺にとっての天敵が立っていた。

「よう、静希。ずいぶんとえらく遅いご登場じゃないか」

 体育教師兼生徒指導の先生である五里田《ごりた》先生。
 いつもお世話になっているゆえ、どうも目をつけられて面倒だったのだが……どうやら俺の寿命もここまでらしい。

 この瞬間、俺は初めて「死」というものを感じ取った。けれど、その時点で手遅れであったことも感じ取っていた。

「あーあ」

 やっちまった。


/2  午前九時五分 有馬邸にて
     〝藍沢雅臣〟

「藍沢様ですね、お話は伺っております。いま当主さまは執務室で用を済ませている途中ですので、居間にご案内いたします。そこでぜひお茶でも」

 美しいことこの上ないお嬢さんが現れ、僕を迎えてくれた。
 有馬一族。この地では有名な資産家であり、現当主である有馬誠殿の下には多くの会社がある。そのほとんどをあの男が成功へと導いているのが恐ろしい。

 その次期当主であるという子供も将来有望と太鼓判《たいこばん》をおされるほどの実力の持ち主だと聞いた。

 しかし、この娘は何者だろうか。彼女が着ているのは清潔感漂う白いワンピースだ。給仕らしい服は着ていないし、名家のお嬢さんらしい派手な服を着こなしているわけでもない。

「ああ、ちなみにわたくしは有馬冬子と申します」
「え?」

 僕は一瞬、反応に困ってしまった。
 彼女はそんな僕の様子を見て、くすくすと手を口にそえて微笑する。仕草こそは、純然たる淑女《しゅくじょ》そのものである。

「ふふ、驚かせて申し訳ございません。まあ、たしかにこのようななりでは有馬家の娘には見えないでしょうけど」

 有馬冬子と名乗った少女は背中を向けて僕を案内してくれている。
 歩き方も不思議と見入ってしまうぐらいに綺麗なものだった。活力あふれる切れの良さ、けれど女性としての礼儀をあらかじめ備えつけられたような。そんなものだった。

 そう思ったあとで、いかんいかんと顔を横に振った。
 悪癖というか、性分というか。僕は初対面の人間をじっくりと観察するというもはや呪いのようなクセがあるのだ。

「こちらでございます」

 少女は振り返る。扉の横には『談話室』と書かれた札がある。

「ああ、どうもありがとう……ございます」
「そんな無理に敬語を使わなくても構いませんよ。わたくしはあくまで案内役なのだから」
「とはいえ、あなたはこの有馬家の……」

 娘なのだから、と言いかけたとき冬子嬢がその言葉をさえぎるようにして話した。

「いえ、いいんです。でも有馬家の娘というのはどうも苦手でして。自己実際、紹介のときにしか言わないんです」
「ああ、そうか。それはすまなかった」

 少し気まずい空気になったところで、談話室につながる扉を開けて入る。そこはよく整えられた部屋だった。もう一つの言い方で言えば、殺風景だった。

 そこにあるのはテーブルに、それをはさむように設置されたソファ。それ以外しか目立ったインテリアはない。余計なものは一切受け付けない、といったものだった。

 だが談話室とは思えないぐらいに広々としている。こういった本格的な豪邸に入る機会は人生に一度あるか、一度もないかだろう。その前者である僕は幸運の持ち主といってもいい。

 よし今度助手に自慢してやろう。

「では、しばしお待ちを」と冬子嬢は扉を閉めて、誠殿のもとへと行ったのだった。

 今日──十月九日。僕はある依頼を受ける。その依頼の概要はある程度、誠殿の電話から聞いたのだが、誠殿から「詳細は十月九日、屋敷に来てもらえれば説明しましょう」と告げて、電話を切られた。

 正直、面倒な話だと思った。
 手間のかかる仕事はそこまで好んで手をつけるような主義ではないため、電話を切られたあとは事務所にあるソファに自分の意識と共に体を沈めた。

 逃げ出したかったし、あまり会いたくないとも思っていたが、仕方なかったと言える。
 
 誠殿とは七年前に〝お世話〟になった。この有馬家とも縁があるともいえる。それほど深い縁ではないのかもしれないが。

 それから十分《じゅっぷん》ほどで誠殿が談話室に来た。

 途中、水川澪《みずかわみお》と名乗る給仕にアールグレイ(あまり好きな茶ではないが)をもらい、すすっていたところ、突然扉が開く音がして、扉のほうを向くと想像通り厳格な雰囲気をまとわせた男がそこにいた。

 黒を基調とした配色の背広。
 この話が終わったら、おそらく仕事に行くのだろうがフルスーツと来た。沈んでいきそうなぐらい深い黒シャツに少し明るい赤のネクタイ。漆黒そのものと言える黒スーツベスト、黒スーツジャケット、黒パンツ。

 しかし一番困ったことが、奇跡的なまでにそれが彼に似合っているということだ。

 僕はソファから立ち上がって、その人に頭を下げつつ、挨拶をした。

「どうも、お久しぶりです誠殿」
「ああ、先日はすみません。突然電話をおかけして、あのような無茶ぶりを」

 その姿勢の弱さにひょうし抜けする自分がいた。噂で聞いていた通りの姿、それこそ声でしかその人物像をとらえることしかできなかったが、少なくとも電話のときは噂通りの人物を演じていたと思う。厳しく、強引で、独裁者じみたことをぬかす頑固者。それが彼、有馬誠殿の人物像である。

「みな、驚かれます。私はどうも噂では厳しく、強引で、独裁者じみた頑固者らしいのですが。はは、これでは逆にこちらが恐ろしいものですよ。こういった根も葉もないうわさは感染するように広がっていくのですから」

 それはそれとして、僕が気になったのは誠殿のとなりで佇んでいる着物姿の女性だった。さきほどの冬子嬢と顔がひどく似ているが、着ていた服が違う。

「あの……そちらの女性は?」
「ああ。私の妻だ。一応、あいさつは済ませておいたほうがいいと思ってね。もちろん依頼の話のときには私のきみの二人にする」

 さあ、と誠殿は自己紹介を妻にうながす。

「本日は遠いところからわざわざ足を運んでいただき、感謝申し上げます。私は有馬誠の妻で、有馬直子と申します。どうかよろしくお願いいたします」

 直子夫人はなめらかな動きで頭を下げる。しばらく僕は彼女のその姿勢に見とれていた。

「綺麗でしょう」
「はい、たしかに」

 ガラス細工のように繊細な茶色の瞳。かんざしで結われている黒髪。太陽に照らされているせいか、その流麗な黒髪は光を帯びているように見えた。そしてこの洋館には似合わないようで似合う、赤い花の柄の着物を着ている。

 彼女が幻想で、この世界が現実なのか。はたまたその逆なのか。
 そんな不毛な考えが浮かんでくるほど、僕はその女性の外見に魅入られていた。

 いや違う。
 もっと惹かれていたのは、彼女から感じる何かだった。
 どこか弱弱しくて、その瞳を見ているだけで心臓を鷲掴みしてくるほどの強い何か。

 すでに何もかもを失い、自害した醜い生物が、自己再生をくりかえしてデタラメに繋ぎあわせられ、奇跡的に美に到達できたような。

 その彼女の姿を重ね合わせたのが二人いる。
 一人はさっきも会った。だがこの場合、外見のみの問題である。
 もう一人は──僕が昔、愛していた人だ。彼女と初めて会ったときも、このような迷路にような感覚に陥った。
 
「直子。もう戻りなさい」

 そう言われて、直子夫人はもう一度礼をして、離れていった。その立ち去っていくときのたたずまいも、どこか華を感じさせる。

「しかしまあ、さきほど聞いた話だが……そこまで厳しいように見えるかね」

 誠殿は笑顔を浮かべる。その笑顔は誠殿に対する印象を一気にひっくり返すものだった。固い印象だったのが、柔らかい印象に変わる。

「ああ、それは申し訳ございません。別に誠殿を恐れていたわけではなく、聞いていた噂とはまるで違うな、と」

 言った直後、僕は自分の発言に、相手への侮辱もふくまれているということに気づいて、はっと口を手でおさえた。

「はは、どうやら正解だったらしい」
「はい?」僕はその発言を疑問に思い、首をかたむける。
「君は正直者だ。最近は正直者が馬鹿を見る、などと言われるらしいがね。正直者はそこで一瞬馬鹿を見ることになったとしても、そののちの人生が報われ、明るくなるものだと思うのだよ。君は、そう思わないかい?」
「はい。よく師が正直者になれ、と言っていたので。僕もその考えに同意いたします」

 僕の師は嘘とよばれるもの自体を嫌悪していて、それを平然と口にする者をこの世の汚物のように思っていた。さすがに大げさだと僕も思っていたが、そう言うと師は怒鳴る。だから僕はそう思っていても、口にすることはなかった。

「良い師だな。会えたならきっといい酒が飲めるだろうな」
「ああ、はい」

 師と呼んでいた人はすでに四年前に亡くなっている。だが僕はその空気を壊さないため、口にはしなかった。

「しかし。君は外国人との混血であったりするのかい?」
「はい。話によると、僕はフランスと日本のハーフだったりするらしいのですが。……やはり、髪の色でございますか?」

 僕の髪の色は一見白髪で気味が悪く、肌も白いものだから怪人にしか見えないらしい。探偵のなりではないな、と悩んでもいる。実際のところ、僕は銀髪だというのに。

「ああ、すまない。だが綺麗な髪をしている。複数の女性から好意を持たれているのではないか?」

 誠殿は笑いながら言う。冗談でもそういうことは言うものじゃない、と僕は思った。女性と酒を飲む際には、いつもおびえられていたものだ。
────まったく、苦い。
 それから誠殿は僕と相対するように、テーブルの向こう側にある席に腰をかけた。
 僕もそれに合わせるように席に座ることにした。

「それで早速本題なのだが──」

 そう言って、視線を僕とあわせる。僕はうん、とうなずいて、話を続けさせた。

「私の一族は特殊でね。あまり公言したくはないし、しかし公言したところで誰も信じてはくれないだろう」

 僕は再びうなずく。

「私たちのような特殊な一族はほかにもいた。だが、そのほとんどが絶滅の一途をたどっている。私以外に残っているそのたぐいの一族は指で数えられるほどしかおらん」

 有馬一族以外で、そういったたぐいの一族の名がほかにも浮かんだ。
 八神《やがみ》、京極《きょうごく》、龍源寺《りゅうげんじ》、それぞれ関東に住む名家どもだ。ほかにもいるらしいが、代表的なのがその御三家《ごさんけ》である。

────まあもっとも、その特殊性は失われていることが多い。
 それは、この前の八神との一件でわかったことだ。

「それと、ここ最近で起こっている連続殺人事件のことを知っているかい?」
「ええ、もちろん」

 主にこの地域で起こっている猟奇殺人事件だ。猟奇的な部分でいえば、四肢の断裂、失血、それと──まるで獣が殺したかのような嚙みちぎった跡。
 しかしこの地域で野生の肉食動物を目撃したなどという情報はないのだ。それも全く、であった。

「あの事件の犯人の情報は知っているかい?」
「いえ、あまり詳しくは……」
「細く華奢《きゃしゃ》な身体を持った、ヒトの姿をしている、と」

 ほう、と僕はあごを右手の人差し指と親指ではさんだ。

「それはつまり人の姿を模した──」
「──化け物、と呼ばれるものやもしれぬ」

 誠殿は間違いなく、そう言ったのだ。
 それが比喩でもなんでもない、全くの純正を保った事実であるということを僕は本題に入る前から知っていた。

「少し、違う話をしましょう」

 僕はそう言い、本題の話から逸らした。

「これはあくまで僕の戯言《ざれごと》だということを前提として聞いてください」

 僕がそう言うと、彼はただ静かにうなずいた。

「心霊、というのはご存じでしょう。怪奇小説を山ほど読まなくとも、誰もが知っている存在です。しかし、それは実在するのでしょうか。結論を述べますと、そこに在りはしません。しかし、ある事実を前提として再びこの質問をすれば、答えはまったく異なるものとなります」

 誠殿は腕を組み、僕の話を一生懸命に聞いていた。僕の戯言《ざれごと》に真面目に付き合ってくれたのは、この人か師ぐらいなものだ。

「その事実とは。その心霊というものが、超常的な現象ではなく、科学的な現象である、というものです。ええ、もちろんわかっています。心霊など超常現象の代表じゃないか、とおっしゃるでしょう。ですが待ってください。心霊というのは、どこにその存在を置くと思いますか?」
「それは……やはり、地縛霊であればその土地に縛られるものだし、恨みをもってこの世に魂だけを残しているのならば、誰かに憑くものじゃないか?」
「ええ、そうでしょう。ですがあくまで科学で証明できる現象、という事実をお忘れにならないように。それと、いい言葉が出ましたね。魂……ええ、そうです。魂が形となったものが霊とよばれる概念です。ですが、憑くのではありません。憑かる、のです」
「浸かる?」
「ベースとなる人間が、その呪いに浸かる──そう、憑かるのです」
「馬鹿な。言葉遊びをしているわけじゃないのだぞ」

 まさしくその通りだ。僕は言葉遊びをするために、この話をしているんじゃない。

「つまりは幻覚。視覚によるバグなのです。負の感情に揺さぶられ、それが視覚に表れるという現象。言ってしまえばただの見間違いにすぎません。もっと正確に言えば、人が抱く負の感情──魂が住みつく場所は人の意識、感覚、人が抱く、心の痛みなのです」
「ほう……それで憑かる、というわけか」

 納得していただいたようで安心した。しかし正直に言えば、こんな話を聞かなくとも、本題には一切関係がないため、理解しなくても支障はないのだ。


/3 午後十三時十五分 学校
     〝有馬静希〟

 午前の授業を終えて、食堂で昼食をとったところだ。それからは生徒各自で休憩をとる。昼休みだ。

 俺は庭のベンチである男と雑談をしていた。その男は俺がこの高校に上がったころの友人であり、それほど深い溝があるわけでもない。だが、まるで諸学校からの付き合いのように、仲がいい。はたから見れば、俺たちはそう見えるのだそうだ。べつだん、否定するわけではないけれど、その比喩はさすがに大げさだろうに。

「でさぁ、この前の日曜日にはるかちゃんと水族館でばったり会っちゃってさ」
「……」

 俺は黙りこむ。俺はただこの男の話を聞くだけに専念する。いや、もはや専念する必要性さえ感じなくなっていた。

「そしたらはるかちゃんにみずきちゃんとの関係を迫られてなぁ。……はぁ、まじ大変だったぜ?」

 この男が何を語りたいのか、なんて考える必要ない。
 俺は聞くだけに専念するのだ。

「ほかにもよ、みずきちゃんとはるかちゃんが対面して、イルカショーが修羅場になってるときにさ、そこでれいなちゃんに会っちゃったわけ。れいなちゃんもオレのところに駆けつけてさ。そしたらどうなったと思う? 睨みあってたみずきちゃんとはるかちゃんが、ぎょっと目を大きく開いて、オレとれいなちゃんを見比べてたんだ。……正直、あの顔は怖かったな」
「……くず」

 俺は聞こえないようにつぶやく。

「そしたられいなちゃんもその二人と睨みあってさ、しかもこっちをちらちら見てくるんだぜ? 次の瞬間にはイルカショーにとどまらず、水族館全体が修羅場と化したんだぜ」
「というか、よくそんなことがあった後で学校に来れるな。うちの生徒だろ、その子ら」
「いや、それぞれ他校の女の子だよ」
「それってつまり、その女の子ひとりひとり違う学校の生徒なのか?」
「ああ。万全を期して、ってやつだよ。あるいは備えあれば憂いなし、とも言うぜ」
「万全も何も、すっかり爆死してるじゃないか」

 はは、と軽快に笑ってみせる友人。

「大輔、お前ってやつは」

 大輔。俺の友人ではあるのだが、こいつに対して友人としての信用を失ってきているから、正直友人と言っていいのか、分からない。

 だが、この男にだって良いところはあると思っている。

 ときおり、俺が風邪をひいたりして学校を休むと、その日には必ず見舞いに来てくれたりするし、そのあとの看護もしてくれたりする。他には俺が家の鍵を失くすと、一緒に探してくれるし、しかも結果的に見つけてくれたのだ。

 だからこそ、俺はそんな優しいところが好ましいと思っていたのだが、しかしこの男はどうも女癖の悪さが目立つ。見間違えるくらいにこの男は女子に対して雑なのだ。

 この男が出した三人の女子はみな、俺に恋愛相談をしてきた子たちだ。大輔が好きなのだけれど、近づきにくい、など言って、なぜ俺なのかと理由を問うと、大輔と一番仲がいいから、と言っていた。三人とも同様に、だ。

 もてる男と友達って、辛いもんだぜ。

 大輔がもてることは最初に会ったときからわかっていた。そもそも彼は誰が見ても、そういった女を引き寄せる雰囲気をまとわせていたから、よほど鈍感でない限りはわかるはず。

 もちろん、彼がもてるのには理由がある。まず印象を決定づける見た目。清潔感あり、おしゃれな茶髪のパーマ、制服も着こなしているし、スタイルも女性顔負けの細い体をしている。

 そして性格はさきほど述べたように、仏のように優しいのだから、完全無欠と言っても過言ではない。あとは女癖が治れば、十分尊敬できる相手なのだが、その癖が周りの信頼を失っていることにいつごろ気がつくのだろうか、この男は。

 しかし周りとは言えど、あくまで彼と直接的関係をもつ者のことではない。俺をのぞく、彼のガール・フレンドたちは彼に夢中で、盲目となっているため、正しい道に進むことができないのだ。

 まったく哀れである。

「なんだよ、青春だろ青春」
「青春、なんて生易しいもんじゃないよ」

 それは青春の一言で片づけられるほどの濃度じゃないだろうに。彼の人間関係はあまりにどろどろとしている。その人間関係の複雑さを知らないのかわからないが、彼への評判を一切下げていないことに驚きだ。

「ところで話変わるけどさ。アレ、もう四人目らしいぜ」
「四人目って?」
「今朝のテレビ見てないのかよ」

 今朝を寝過ごした俺には知るよしもない話だ。

「ああ、そっか。お前、遅刻してたよな」

 そう言って、あははと豪快に馬鹿にするように笑う。馬鹿にされる原因を作ったのは俺だけれど、それでもやはり気分が落ちるので、そういったことはやめてもらいたい。

「ほら、あれだよ。最近話題になってるだろ、連続バラバラ殺人事件だよ」

 それを聞いて、心臓が飛び跳ねた錯覚を覚えた。

「へえ、どんな?」
「どんなって。一度くらいは聞いたことあるだろ? 路地裏でさ、必ず一人が獣に襲われたみたいに四肢や頭や腹を食いちぎられてて。だから野生動物がやったんじゃないか、なんて言われてたけど、状況から考えて人がやったとしか思えないんだ」

 そうだった。
 犯人は必ず路地裏で人を殺していて、しかも一人だけ。現場に遺された体を見れば、それはもう野生の肉食動物がやったとしか思えないのだが、状況から考えると野性的な生物がやれることじゃない。

「ま、それでよ。オレ、今日さ、仲間とナンパしに出掛けるんだけどよ、お前もどうよ?」
「今の話をしたあとで誘うか、普通?」

 大輔はへへ、と小僧らしく笑ってみせて、すぐにその笑顔を崩した。

「しっかし、何考えてんだろうな」
「誰が?」
「そりゃあ犯人だよ。なんで人を喰うなんてこと、考えんだろうなぁ」

 それは、たぶん────。

「食人衝動を抱えてるんじゃないか。その体自体が特殊になったなら、突発的な行動原理ともいえる衝動も特殊になる。体と心は一つだ。片方が変異すれば、片方も変異する。そういうもんだろう」

 それはまるで、俺の声じゃないみたいだ。冷たく、低く、俺じゃない誰かが代わりに話しているような気分。そのとき、俺のなかには知らない知識がふっとうするようにわいてくる。その感覚は、おせじにも心地いいものじゃなかった。

 それに……この事件の内容を聴いているとき、脳内にふと、誰かが「いいなあ」と羨んでいた。

 そんな自分に次第、気持ち悪くなってくる。

「どうしたんだよ、お前、なんか顔白くなってるし、唇も紫に──」
「……え、あ、ああ。大丈夫だよ」

 そうか、と大輔は言って、やはり心配そうな眼差しで俺の横顔を見る。

「えっとじゃあ、とりあえず心配だから保健室行ってくるよ」
「ああ、そうしたほうが身のためってもんだ」

 俺が立ち上がると、同時に大輔は立ち上がって、そのあとは俺が保健室に行くまで大輔が付き添ってくれた。保健室へ歩いていくと、しだいに気分が悪くなって、吐き気をも感じてきた。

 なんで、こんな──。

 俺にはとても不思議でたまらなかった。

 そのような人殺しの話をされると、心が騒がしくなる。
 まるで羨ましいと思っているような。
 自分が侵食されていくようだ。

 俺は……何を考えているんだ?
 なぜ俺が羨ましいと感じるのだろうか。
 なぜこんなにも、まぶたの裏に同じ景色が浮かぶのだろうか。

 ──それは真っ赤な景色。

 赤い赤いトマトがつぶれて、紅い紅い口紅で塗りつぶされていく。
 白かったその部屋は赤くなる。血、のように。

『しず、き──?」

 声が聞こえる。
 俺の名前を、呼ぶ声が。


/4  午後十三時五十五分 有馬邸
            
     〝藍沢雅臣〟


「というわけなのだが」

 ──その本題、依頼の詳細を聞いて僕はうなずいた。

「まあ、とりあえず使用人として僕がここで働けばいいというわけなんですね」
「ああ、手間をわずわらせてすまないが頼む」
「謝る必要はないですよ」

 僕はそう言った。
 すると、誠殿は僕の後ろにいた使用人──水川澪さんを呼んだ。しかし誠殿の近くに寄る様子はなく、逆に僕のほうに寄ってきた。

「それでは、給仕服の着付けを行いますので、お部屋までご案内いたします」
「あ、ああ、はい」

 どうやらこれから僕は使用人として、身なりを整えるらしい。まあ、こんな黒ずくめの背広では使用人には見えないだろう。第一、この見た目だ。

一見白髪と思われる銀髪、人とは思えないぐらいの肌の白さ、きっと誰もが見ても怪人と思わざるおえないのだろう。

子供のころも、よくこの見た目を馬鹿にされ、石を投げられた時期もあった。それとよく、この見た目で医師として働けたと思う。診る人が高齢者で、心の広い人たちが多い。

もちろん騒ぐ人もいたにはいたけれど、大半は綺麗な髪ねぇ、と言ってにこやかに笑ってくれた。あのときの労働環境には本当に感謝している。

「こちらです」

 と、澪さん──澪先輩は東館の奥の部屋まで案内された。
 澪先輩にうながされるままに僕はその部屋に入った。
 そこは物置のような場所だったけれど、荷物の置き場所は整えられていてちゃんと人が通れるようになっていて、ほこりなど切許さない、みたいな勢いでよく掃除されていた。

「すごい綺麗ですね」
「ええ。この館のほとんどに清掃がいきとどいていますから」
「ほとんど? 綺麗にされてないところでもあるんですか?」
「二階の西館、はもうかれこれ何十年も掃除されていないらしいのですが、あまり気にしなくても支障はないかと」

 そうか、と僕はつぶやいた。澪先輩は少し向こうに行くと、なにやら男性用の洋服を持ってきた。むろん、それが給仕服である。まっさらなシャツに黒のベスト、黒のズボン、そして黒のネクタイ。黒を基調とした、定番の服装である。イメージとしては執事のほうが近いだろうか。

「というか、今さらなんですが、男性用の服はあったんですね」
「どういうことでしょう?」
「いや、ここの屋敷に訪れてしばらく時間が経ったけど、見かけた給仕の人って女性の方だけでしたから。実は男性の方もいらっしゃったりするんですか?」
「いえ、おっしゃる通り、ここにいる給仕は女性だけです。男性はあなたが初めてでした」
「僕、だけ。しかし、それはまたなぜ?」
「……」

 急に黙り込み、顔をうつむく澪先輩。
 どうしたのだろう、と心配になり、一回澪先輩と名前を呼んだ。すると、呆れたような悲しんでいるような、そんな複雑なものを絡めた表情で、淡々とただ一言、つぶやいた。

「当主さまの、ご趣味です……」
「……」

 なるほど、と胸中でうなずいた。


 僕はさっそく、給仕服に着替え、今鏡の前に立ち、自分の姿を観賞しているところだった。

 別に僕は異常な自己愛があるわけじゃないけれど、目の前の自分を見て、おお、と少しだけ感心したのだ。見事に似合っている、と自分は思った。とはいえ、助手に見られたらまず大笑い、続いて携帯を取り出し、ふざけて僕の写真を撮って、それをネットに上げるのだろう。……いまさらながら、彼の恐ろしさを再確認した僕。さっさと助手のことは忘れて、仕事のことを考えた。
 
 実際、僕に残された時間は少ない。
 誠殿は早期の解決を望んでいる。だからこそ僕は情報を集め、解決をしなければならない。

────ただ、忘れないで欲しい。

 誠殿は本題のだいたいを話し終えたとき、そういった。

────犯人は私たちの中にいる。

 僕はそれを聞いて、ひどく驚いたものだ。瞼を大きく、開けて、僕と誠殿の間にある机に身を乗り出して、「わかって、いる?」とその言葉を繰り返した。

────そして私が望んでいるのは、その犯人が本当にやっているのか、という裏付けと、

 つまり今のところ証拠を集めきれないので、まだ確信は持てない。だけど、自ら動くと自分が殺される。だから誠殿は
僕を呼んだ。そういうことだ。

────その犯人の、排除だ。

 それは訳せずとも、わかるものだった。だが、理解しがたいものだった。犯人の確保、であれば何も文句はない。だが排除とこの男は言った。──探偵、というただその事件の真相を探るだけの役である僕に、間違いなく、低く、重苦しい声色で、そう言った。

 僕にその犯人を、殺せと命じた。

 僕はそのとき、もちろん「冗談じゃない!」と言った。それは僕の役目ではない。それでは殺しになる。それでは僕が殺人犯となる。本末転倒というものだろう、と誠殿に怒鳴った。すると誠殿はしばらく沈黙して、こう口にした。

────案ずることはない。殺したとしても『事故』として処理される。

 そういうことじゃない。
 たとえその罪が公にはならないとしても殺人は、一生、自分を苦しめるものだ。どうしても拭い去れない大罪であることを、なぜあの人は理解できないのか。

 もう、そのことさえ理解できないぐらい偉大になれたからだろうか?
 そんなのは偉大なんかじゃない。
 矮小《わいしょう》で汚い人間だ。

「どうしました、そんなくるしそうな顔をなさって?」

 澪先輩は僕の顔をのぞきこんで、そういった。

「ああ、いえ。なんでもありませんよ」

 僕は笑ってごまかした。

「ところでなんですが」
「はい?」
「車の免許は、お持ちですか?」
「はい、一応、持ってはいますが」

 そもそも、ここの屋敷には車で来たので、免許は持っていて当然だった。

 僕は車の免許をとったのは大学四年生の春ごろだ。一回、大学二年生ぐらいにとろうと思っていた。それでいざ試験を受けてみると、結果は惨敗という形だった。それから免許のことは諦めていた。先に原付の免許をとっていたし、移動手段には困っていない、と強がっていた。

 けれど、そのときに恋人──のちに妻となる人ができて、車を使って、どこか遠いところへ連れていきたいと思い、再び勉強を始めて、試験を受けたらなんと合格できた。そのあとはすぐに彼女を誘ったぐらい、自分はとても喜んでいた。

「それでは、迎えにいってほしい方がいるのですが、よろしいです?」
「ええ、よろしいです」
「近くに進学校があるでしょう。校門前に待機していてください。本人には連絡しておきますので、きっと来られるかと思います」
「了解しました」

 ということで、僕はすぐに自分の車へ向かうことに──

「お待ちください」
「はい、何かまだあるんですか?」
「失礼かとは存じますけれど。もしかして、自分の車で迎えに行こうとなどと思っていますか?」
「え? はい、そうですけど」
「あれでは他の者に示しがつきません。有馬家の給仕ともなれば、高級車で迎えいれるのが当然」

 それはたしかに、とは思う。少し傷つきはするが──たしかに少々ぼろい部分がある。だが、僕は高級車など持っていない。

「なくても構いません。当家の車の使用は許されています」
「わかりました」

 しかし。
 おとなしそうな見た目に似合わず、意外と強気なところがあるのだな、と僕はなぜか感心していた。 


/5  午後十五時二十二分 学校 

     〝有馬静希〟

 どうやら俺は今まで保健室で眠っていたらしい。すごく寝心地がよかった。感想を述べるとしたらそんなところだ。

 窓の向こうに映る景色のほうに視線を移した。
 空は若干、雲がかかっている。太陽はもう沈みかけていて、周りは太陽に照らされ、オレンジ色に染まっていた。

「あ、ちょうど目覚めましたので、お電話お代わりしますね」
 保健室にいた中年女性の先生は、そう言って俺に電話を差し出してきた。
「誰からですか?」

 俺が出した声はあからさまに寝起きなのだと思わせるような、のらりくらいとしたものだった。

「水川澪さんって人よ」
 俺専属の使用人の名前だ。
「ああ」

 俺は察して、電話を耳に近付けて、「もしもし?」と相手に言った。
 今どき、あまり「もしもし?」なんて言わないらしいけれど。

「静希さま、お体の調子はいかがですか」

 少しだけ、心配そうな声を出していた。いつも感情を表に出さない性格とは裏腹に、彼女は俺を心配してくれていると、その声からはっきりと理解できた。そういう優しいところが、彼女の第一の長所だと俺は思う。

「大丈夫だよ。だいぶ調子はよくなってきた。ま、いつものことだしね。体が弱いのは知っているだろう、澪も」
「……だからこそ、心配しているんです」

 今度は少し、怒ったような声。
 あれ。意外と澪って、わかりやすいな。
 そんなふうに思えてきてしまった。

 そういえば彼女と初めて会ったのは俺が退院したあとのことだった。俺と同い年くらいの子で、学校には通ってはいないが能力自体は優れているらしい。

 あのときはもっとわかりやすかったし、そういうところは俺は好きだったのか、ついからかっては彼女に怒られてきた。

 やはり根は変わらないものなんだな、と俺は苦笑しながら思った。
 
「そういうものなのかな」
「そういうものです。ですからもう少し、自分の体を大事なさってください」
「まあまあ。で、わざわざ電話をかけてきたってことは他にも何かあるんだろ?」

 俺への心配だけで電話をかけてくることはないだろうから、そう問いかけた。

「はい。そちらに迎えの車が来ているので、帰りはお車にしてください。……ただでさえ、いつ死ぬのかわからないのですから」

 死ぬ?
 澪ってそんな冗談を口にする人だったか? 

「死ぬ、なんて縁起の悪いこと言うなよ。この歳で死ぬのは早すぎるって」
「冗談で言っているんですか?」

 どうやら相手からすれば、今の自分の発言こそ冗談に聞こえるものらしい。不可解だ。
 電話の向こうから、はぁ、とため息が聞こえた。

「いえ、もうなんでもございません。とにかく、そちらに迎えが来ますので。それでは」
 と、電話を切られた。なんで怒るんだろう、と不思議に思い、自然と首をかしげていた。
 
 そのあと俺は、保健室から出て、靴箱に向かった。靴をとりだして、外に出る。おそらく校門前にいるだろうから、そこに向かった。

 すると案の定、そこに名家らしい黒塗りの高級車が来ていた。まったく。もう慣れてしまったのだから仕方ないのだけれど、こういういかにも名家然とした雰囲気はあまり好きじゃない。もうすこし庶民らしくしてもいいじゃないか。

「……はぁ」

 小さくため息をつく。

 運転手のほうに目を向けると、見たことのない人だった。以前は三十代の、よく言えば成熟した女性が運転手だったはずだが、今度は男だった。初めてだ。うちの使用人には女性しかいなかったはずなのだが。

 運転手がこちらに気がついて、ドアを開けて、その姿を現した。その動きは、なんというか、すごく気持ちの悪いかもしれないけれど、きれいだと感じた。

 しかし。
 その姿は、なにか不吉な雰囲気をまとっていた。まるで何者かにつかれてでもいるかのような、あるいは誰かを殺してきたかのような。実際、不吉であるものならなんでもよかった。俺が思ったことは、その人間は、この世のあらゆる不吉と結びつけても、なんら違和感を感じさせない、「不吉」な男であるということなのだ。

「お待ちしておりました」

 色っぽい低めの声で男はそう言った。
 うしろで結っている長い銀の髪を風になびかせて。
 目をつむり、それは芸術と言われてもおかしくないほどに、綺麗に頭を下げる。

「私《わたくし》は本日より有馬家の給仕を務めさせていただきます藍沢雅臣《あいざわまさおみ》と申します」

 頭を上げて、男はこちらをじっと見据えてそういった。
 その双眸《そうぼう》はどこか冷たくて、懐かしくて、謎に満ちたものだった。
 身長は百八十ほど。平均の日本人男性よりもずっと高く、髪色も銀なので、外国人かと思った。しかし、その藍沢雅臣と名乗った男の顔はどちらかといえば日本人よりの作りをしていた。どちらにせよ、おそらくその人は日本人と何かのハーフなのだということは何となくわかった。

「初めまして。僕は有馬静希と言います」
「あなた様のことはご当主さまからうかがっております」

 それと、やはりこの気持ちはぬぐいされない。
 この男に対して、「なつかしい」と思うこの気持ちだけは、どうも合点がいかない。

 初対面のはずだ。初めて会った人で、初めて話した人のはずだ。だというのに、俺はなぜか、この人とは話しなれたような気がしてならないのだ。

「あの」
「はい?」
「どこかで、会いませんでしたか」
 俺はおそるおそる、そう訊いてみた。初対面でこんなことを口にするのはおかしいのかもしれないが。
「……いえ、今回が初対面でございます。もしや街で私《わたし》のお顔をごらんになられたのではありませんか?」

 そうなのだろうか。
 しかし、街中を歩いているとき、この男の顔を見たおぼえがない。
 いや見たのか? 見たんだっけ?

 頭の中を巡る疑問はどうしても消え去ってはくれないものだから、とりあえず頭の隅に置いておくことにした。

「さ、お車に」

 男──藍沢さんにうながされて、俺は車の後部座席に乗った。

 わざわざ後部座席に座ったのは、大した理由はないのだけれど、あの人のとなりに座るとなるとやはり緊張してしまう。なにせ初対面の相手こそ、俺が苦手とするものなのだから。

 藍沢さんも俺が乗ると、運転席に座り、エンジンをかけた。しばらくして車は動き出していた。そのとき俺は窓のむこうの景色を見ていた。

 夕陽の彩《いろ》に染められた住宅街。もう今となっては人数が数えられるほどしかいない下校中の生徒。

 その生徒たちは、みんな同様に俺が乗っているこの車に注目していて、こちらとしては恥ずかしい気持ちになった。

 やっぱり俺には庶民らしいものが似合う。俺自身、そこまで高級感のあるところは好きじゃない。退院してからずっと思っていたことだが、あの洋館はどうしても慣れない。今になっても、たまに迷子になることがある。それでは他の家に示しがつかない、と父に怒られたことはあるけど、いつも思うのだ。

 どこか父は冷たいと思うのだ。

 それは別に思春期特有の悩みでもなんでもない。ただ単に、俺ばかりが冷たいということに少しばかり疑問を抱いているだけなのだ。

 姉や弟がなにかしたら、それこそ鬼の形相で約一時間ほど時間をかけて𠮟りつける。その場面には俺も何度か、出くわしている。

 姉が怒られるところは今まで数回しか見たことがなかったが、弟の直紀に関しては週に四、五回ほど。

 入院以前はどうなっていたのかは触れたくない。たぶん俺は何度も怒られたのだろう。
 そしておそらく直紀がそこまで怒られるようになったのは、やはり次期当主としての座に直紀がつくことになったからだろう。

 ……正直、複雑な気持ちだ。

 交通事故とはいえ、俺の身勝手が直紀に苦しみを与えたのだ。
 だから責められても文句は言えない。

 「なにやら浮かないお顔をなさっていますが、どうかなされたのですか?」

 藍沢さんはミラーを通して、俺を見ていたらしい。

「いえ、別になんでも」
「なんでもない、というお顔のようには見えませんが?」

 お見通し、ということだろうか。

「……少し、弟のことが気になって」

 俺は諦めて、藍沢さんに話すことにした。

「ほう」

 それらしく、相槌をうつ藍沢さん。

「父は弟ばかりに怒ってて。それも全部、俺のせいなんだなと」
「なぜ、あなたが?」
「俺、交通事故に遭ったことがあったらしいんです。けど、それが原因で次期当主の座から俺は外されました。その座についたのは弟になったんです。退院後、弟ばかりがきつく叱られることが多々あって」

 なるほど、と藍沢さんはうなずいた。

「姉はどうなんですか?」
「姉さんは、怒られるところなんて数回しか。まあ自由なとこはありますけど」

 姉。有馬冬子《ありまふゆこ》はまさにお嬢様然とした雰囲気を漂わせている。それでいて、大人の女性らしい魅惑も持ち合わせている。

 あの人と結婚できる人はきっと幸せなんだろうな、と思うほどだ。

 けれど、俺はある本を読んでそうでもないのかな、と思い始めた。別にそれは姉を侮辱しているわけではない。

 ただ──なにもかもが完璧なだけに──どこか人間性を失っていることもありえる。そんな記述がされていた本を読んだ。著者は有名大学で心理学を専攻していた芸能人だった。だからといってその人が書いたことの何もかもを信用していい、なんてことにはならないが。

「そうですね。……失礼、これは別に冬子お嬢様を侮辱するわけではありませんので。ある本で気になったことがありまして、それが『人間として完璧なだけに、人間らしさをひどく欠落している人間』というものなんですが」
「それ、俺も読んだことがあります」

 それは奇遇ですね、と藍沢さんは言う。
 そのあと、今の話を続けた。

「知識、技能、性格、上品さ、容姿、言葉遣い、人が持つ能力はすべて挙げるときりがありませんが、一般的に評価される能力はこれらでしょう。評価はお嬢様に関して言えば、文句なしの満点でしょう。完璧な人間、という本来ならば存在しえないものを、見事に演じてみせたのですから」
「演じてみせた?」

 この男は姉の能力を演技だというのか。
 俺は少し、その言葉にひっかかった。

「ですから言ったでしょう。別に他意はありません、と。続きをお話しますが、実際にお嬢様は完璧な人間です。しかしそれはある条件のうえでの評価です。それは、あくまで能力値にしぼって評価した場合。もし、人間性──言い換えれば人間らしさという観点が増えたら、どうなると思います?」
「人間らしさ?」
「ええ。人間らしさです。誰もが持つ、人間たらしめる要素の集合。誰かのためになりたい、誰かを切り捨ててでも自分が一番になりたい、などその大半が欲です。人には欲求がたくさんあります。そのなかで大きく三つに区分したのが、三大欲求と呼ばれるものなのです」

 人を人たらしめる要素の大半、それが欲望だと、この男は言った。
 たしかに、と思う。人間というのは感情が豊富だ。それゆえにその何かを手にしたい、という野生の記憶《ほんのう》。

「なるほど」
「あらゆる能力が完璧で、かつ人間性を優れている人物を『完璧な人間』というのであれば、やはりこの世にはそのような代物はない、ということですよ。たしかに彼女は人間として優れている。とくに知識や技能といった部分がね。だが、彼女は大事なものを忘れたのだろう。知識や技能を最大限にまで育てあげることだけに集中しすぎてしまったがために、ほかに必要なものを置き忘れてきたんだ」

 なんだろう。藍沢さんの声は優しいけれど、何かを悲しんでいるような、弱々しいものだった。

 俺はその声色の変化に気になって、その男の顔をミラーで見てみた。すると、やっぱり予想通りだった。──この人は、俺の姉について語っているようで、そうじゃない。そうじゃないんだ。

「誰のことを言っているんですか、それ」
「……勘がいいね。まあ、実を言うと君の姉とひどく似た人を思い出してね。そしたらいつの間にか、その人のことを語っていたらしい」

 途中で、「お嬢様」から「彼女」に変わっていた。それには何か深い意味があるのだろうか。

「……まったく。僕は変わらないね」

 人間観察なんぞ嫌なんだが、と藍沢さんはつぶやいた。
 何のことなのか分からないので、あえてその言葉を追及するのはやめにした。

 そしてそのあと、俺たちの間に会話はなかった。ただただ沈黙に徹するばかり──いや、沈黙せざるおえなかった、というのが正しいのだろう。場の雰囲気、というやつだ。初対面だから、とは関係なくて、これ以上話すことはないだろうとお互い察してのものだった。

 車で帰るのは久しぶりだ。それは、こういう送り迎えをしてもらったことはないからである。

 もっとも、送りますとか迎えに来ますとか言われても断っていたのは、まぎれもない俺なのだが。理由を述べるなら、ただ普通でありたいからなのである。いたって普遍的で、日常的なものを求めている。目立ちたくないのもそうだし、そういった高級な風に吹かれるのは俺らしくない。別に自分らしさを求めてるわけじゃない。けれどせめて普通の自分で過ごしたい、というのが俺のなかでずっと変わらない、小さな願いだ。

 それと──車で帰るとなると、いつもの近道(細道)を通れない。だからいつもの帰り道とは違っていた。俺はその帰り道に、いつの間にか消極的でいた。あるいは否定、拒絶していた。その道を避けるために、車も通れないような細道を使っていたのに、こうなってしまってはもうどうしようもできない。

 なぜ俺がその道に消極的でいたのか。それは、その帰り道の途中である公園があるからだ。名前は東公園なんていう、どこにでもある公園だ。ブランコや滑り台、鉄棒、砂場。公園の定番とされる遊具がそろってある、大きくも小さくもない公園。ここに来る人はなぜか少なかったので、俺にとってはぴったりの穴場──逃げ場だった。

 ある記憶を振り返った。

 有馬静希という少年は幼いころ、有馬家の厳しさに苛立《いらだ》ちを覚えていた。

 そう、俺はただただ厳しいだけの規則にうんざりしていた。

 そして俺は、ときおり屋敷から抜け出して、例の公園を逃げ場として利用していた。そこで俺はたくさんの遊びを学んだ。

 当時、俺は屋敷に閉じこもってばかりだった。学校にも行っていなかった。あの事故以来、俺は次期当主の座から外れた。つまりそれまではずっとそのための教育を受けていた。そう、その教育から逃げたのだ。

────頭が、痛い。

 それに外で遊ぶ時間はあっても、いつも庭で遊んでいた。そもそも屋敷から出ること自体、禁止されていた。なんてこった、こんなの監禁だろう、なんて毒づいていたけれど、今となってはそんな不満も解消された。

────頭痛がする。

 それから俺は、あの公園で普通の遊びを学び、そして普通の人間と会った。俺のような上流階級にいる人間ではなく──大金を見慣れたせいで、心が腐ってしまった人間ではなく。普通のお金で、普通の家庭環境で、普通に教育を受けてきた、ただの少年に──俺は出会った。

────ズキズキと音が鳴る。

 俺は、その少年の自分を飾らない姿勢に憧れた。俺はいつも、自分の優遇さを利用していた。しかもそれに感謝せず、ずっとそれを当たり前だと思い込んでいた。

 少年は俺に言った。

────きっと、きみもおれといっしょになれる。

 その言葉は、俺がずっとほしかったものだった。
 ずっと、ほしくて、ほしくてたまらなかったものだ。

 その言葉はやがて、俺の涙へと変わっていって。その涙もやがて、地べたへ俺の肌をつたい落ちていった。
 そのときの記憶《おもいで》を、鮮明に覚えている。

 そういえば。
 その少年の名前は──いったい、どんなものだったか。
 なんだろう。彼に関する情報は、この想い出だけで、名前や顔など、あらゆる情報が欠如していた。

「──着きましたよ?」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「静希さま、どこか体調が優れないのですか?」
「え? あ、いや──いえ、大丈夫です」

 突然、藍沢さんに呼びかけられた。どうやら俺は想い出に浸っていたらしく、それ以外の情報を完全に遮断していたようだった。

 浸っている途中、やはりひどい頭痛に襲われた。

「ああ、はい。ありがとうございます」
「いえいえ」

 俺はドアを開けて、玄関前に立つ。
 玄関を開けて、俺は今朝ぶりにその光景を目にした。いつまでも慣れることのできない、いつもの光景。

 ──そして、そんな自分に違和感をおぼえた。そう、それはまるで記憶を失ったよう。『お前は誰なんだ?』という問いかけに他ならない。



/5 午後十五時三十五分 有馬邸 

     〝有馬誠〟

 有馬誠は執務室で、ただぼうっと天井を見上げながら考え事をしていた。
 ただ独り、そこでこれから起きる未来のことについて、思考を深めていたのだ。
 先日、誠は危惧し、探偵に調査を依頼した。
 誰かのいたずらだったかもしれない──謎の置手紙。
 誠が仕事から帰り、自室に入ると、自分の机の上に適当に二つ折りにした紙があったのだ。
 その内容は達筆な日本語で書かれていた。

『有馬の血は途絶える。いずれ貴方たちは、喰われた肉片と化す』

 ただそれだけだ。
 しかし誠にとってみれば、それは警告と言ってもいい。
 今までにもこういった手紙が送られることがあった。現当主である誠の横暴な性格は敵を作りやすい。そういった意味では、このような手紙はたまに送られてきた。
 だが、その手紙を書いた主はその後消息不明という結果で終わっている。そうして一つ一つ邪魔なものは握りつぶしてきた男だ。

 そう、確実に一つ一つ潰してきた。
 だからこそ誠は恐怖していた。
 もう敵はいないと確信を持っていたところに、このような手紙は立て続けにきている。
 誰からだ、と思っていたが、実際にこのような内容の手紙は今までにはなかった。
 殺害予告にしても、有馬誠のみを狙ったものだ。しかしこのような、有馬一族自体を憎み、呪うような文章はなかった。
 それに恐怖した。
 何度も何度も送りつけられてくるのだ。それにこれが誰のものかを調べても正体は現さない。少なくとも誠の抱えている会社の者からの手紙ではなかった。
 ならば、いったい誰からなのか。
 これはあくまで推測でしかないが、一つの可能性として『内部』からのものではないかと思った。それで誠は腕のいい探偵に調査を頼んだ。
 それと──最後の文章。あれはおそらく連日起きている殺人事件と関連性があるのではと思ったのだ。その事件の調査をすることで、もしかしたらこの手紙を送りつけた犯人が見つかるやもしれない、と。
 探偵からの調査報告を待つ。誠が起こす行動はただそれだけでいい。だが不安という虫が胸のなかにつのるばかりで、まともに待つことさえままならない。なんなら苛立《いらだ》ってくるものだ。
 だが、ここはやはり我慢するべきなのだろう──。


 /縲ィ繧ァ九励a薙縲ァ繧縺ィ  
     
   〝級励a薙繧ァ縺ィ〟
 
 夜。夜。夜。
 バグだらけの夜を噛み砕くかのように目を覚ます殺人鬼。
 殺人鬼はその瞳を光らせる。その場の空気が血濡れた鋭利な刃と化す。そう、そこはまるで異界のようだった。いや、そもそも殺人鬼がいる場所というもの自体、異界そのものなのかもしれない。つまり、その存在自体が異質。
 殺人鬼の姿は、少年のようにも少女のようにも見える細い体。しかし、暗闇でその姿は明かされることはなかった。意識が朦朧《もうろう》とする患者のように、おぼつかない足取りで廊下を歩く。やがて階段にたどりついて、降りていく。
 その相貌《そうぼう》は、まるで血肉を喰らう鬼のようだった。
 ロビー。玄関。赤い彼岸花が咲く、庭。門を抜ける。
 足はずっと不安定なまま。今にも転びそう。けれど転ばない。そんな予測不能な動き。怪物、怪人。怪しい動きをする、人間。もしくはもうそれは人間ではないのかもしれない。
 街へ向かう。今の時間帯、もう人はあまり通らない。いるのは社会不適合か、酔っ払いか、残業で遅くなった会社員。
「────」
 誰かに話しかけられた、殺人鬼。
 いや、そもそも殺人鬼がその男の肩にぶつかったのだ。
 それで男は怒っている。しかもその後ろには殺人鬼をにらむ失敗した若者《まけいぬ》ども。
 殺人鬼は奇妙に唇をつりあげる。その動作に男ともどもさらに頭を沸騰させて、殺人鬼の腹に一発、拳をめりこませた。殺人鬼は吐しゃ物を吐く。それではしゃぎにはしゃぎまくる、どうしようもない若者たち。殺人鬼は吐いたあと、倒れた。
 それから、どこかもわからない場所に連れてこられた殺人鬼。
 路地裏みたいだ。そこにいるのは殺人鬼と、さきほどの若者ども。若者どもは何やら殺人鬼に暴力をしようとしていたみたいだが、目覚めたことに気づき、その動作を止めた。
「────!」
 若者どもはいまだに怒っている。いや、また怒りを抱かせた、というのが正しい。殺人鬼が目覚めたことで、できることもできなくなってしまった。
 そこで若者のリーダーらしい男がバットを持って、殺人鬼の背中にフルスイングした。
 今度は真っ赤な血を吐く。それが地面に撒き散らかせて、若者どもは笑う。
 けれど、殺人鬼はその痛みに叫ばなかった。激しい痛みに耐えかねて、助けて、と叫ぶようなことはしなかった。ただひたすらに黙りつづけていた。その様子に、バットを持っている男は顔を歪ませた。おそらく気味が悪い、とでも思ったのだろう。
 その瞬間が、ねらい目だった。
 殺人鬼はその男の肩に噛みついた。狂犬らしく、獣らしく、あるいは鬼らしく、その肩に歯という刃を刺しこんで、ちぎって、えぐった。断末魔を叫びながら、男は必死に抵抗する。他の若者どもは、その様子に驚いたあまり、動いていない。
 殺人鬼はその肩にかぶりついて、その肉を喰った。

────視界が赤くなる。

 まるで鬼にでもなったように、その瞳を赤くさせた。
 殺人鬼が喰らいつづけた結果、その肩はほぼなくなった。そこに人間らしいマナーや上品さなどなく、粗削りで破天荒な、獣性だけに特化した喰い口だった。
 男はすでに死んでいた。殺人鬼はそれでも喰らう。
 それで、ようやく我に返った若者の一人がナイフを持って殺人鬼の背中を刺そうとした。────瞬間、ナイフの切先はすでに赤く血濡れた手でにぎられていた。殺人鬼はその右手で、ナイフの刃をぎゅっと握りしめていた。どんなに若者が力をいれても、殺人鬼は手に傷を作りながらも、それを強く握りしめていた。

 そして殺人鬼はそのナイフを強引に奪い取り、その若者の眼球の端を、ななめに刺した。断末魔と血が飛ぶ。若者は必死に抵抗する。殺人鬼の胸を手で押す。けれど、その反動でナイフが動いて、余計に眼球が痛んだ。
 殺人鬼はそこでななめに刺したナイフで、ぐりぐりと動かした。それはまるで、何かをえぐっているかのようだった。否、殺人鬼は眼球をえぐっていた。十秒ほどでえぐりとれた眼球は、すぐに殺人鬼の口内に入った。
 食感はうずらの卵みたいだった。それよりも少し硬かったけれど、奥歯で眼球を噛み砕いて、そのなかの苦みのある味を口内にあふれさせた。苦みはどんどん強くなってくる。それを殺人鬼は──おいしい──と感じていた。

 加速していく殺人鬼の衝動。
 殺人と食人の欲求が殺人鬼の体をうずかせた。切り裂きたい、嚙み砕きたい、むさぼりたい、人間としてありえない欲があふれるばかりで、まるで言うことがきかない心。けれど、それはいずれ体をも侵食していった。侵食され、本来の自分がいなくなったのだから、仕方がないことだろう。そう、仕方のないことなのだ。それぐらいは、許してくれてもいいものだろう。
 殺人鬼にわずかに残っていた人間性は、白からすでに黒に切り替わろうとしていた。
 反転。自分と自分が入れ替わる。ありえない衝動が、本来の自分を呼び覚ます。

 殺人鬼はつぎつぎに若者を殺していく。
 血、肉、骨、すべてをたいらげる。おかしな幻覚《ゆめ》でも見ているかのようだった。この高揚感は日常ではなかなか味わえない。恐ろしいものだ。

 最後の若者に、殺人鬼は殺人鬼なりのやさしさを見せた。
 若者は恐ろしいあまり失禁している。股のあたりが濡れていて、尿の匂いが鼻腔《びこう》を狂わせる。
 その若者の前に、そいつの仲間の肉やら目玉やら指やらを投げつけた。殺人鬼は一言──「喰え」と言った。
 これは殺人鬼なりの優しさだった。最期の晩餐、というものを提供したのだ。けれどメニューが最悪だ。気が狂ってカニバリズムに目覚めた人間ならまだしも、今まで悪行をしてきたけれど、人間としてまっとうである若者にとって、これはとても口にできない。
 目《ま》の当たりにすることすら嫌だった。しかし、精神が圧迫されていたのだろう。若者の思考はすでに「生きたい」という願いでいっぱいだった。
「こ……これで、見逃してくれるのか……!?」
 殺人鬼はうなずいた。
 嘘かもしれない。喰ったあとで殺されるかもしれない。そんなことはもちろん若者も予想していた。けれど、切羽詰まった状況のなかで若者が考えることはただ生きたい、というものである。感覚はとうに狂っている。
 若者は試しに肉を口に入れた。味は豚と牛の間のような感じで、食感は普通の肉よりも少々硬い。それを奥歯で噛み続けて、ごくりと飲み込む。数秒すると、吐きそうになったが、それはどうしてもこらえる必要があった。吐いてしまえば、殺されてしまう、と思ったからだ。
 次に指。誰のかもわからない、親指とおぼしきもの。爪はない。殺人鬼は食べやすくするために、爪は先に剝いでおいたのだ。しかし若者にとっては、さらに吐き気を誘うものでしかなかった。それでも若者は必死に耐え、その指を口に入れた。骨があって、なかなか噛み砕けない。骨は捨ててしまおう、とも思ったが、もしそれで殺されてしまったら──と考えてしまった。それから若者は奥歯が欠けて、血が出てしまったが、その骨を見事に噛み砕いて、飲み込んだ。
 次に、最後に残しておいた眼球。もはや誰のかもわからないものだ。一番食べにくく、自然と避けてしまっていた。遅かれ早かれ、いずれ食べてしまうというのに。
 若者はその眼球を口にいれて──その頭蓋が割れた。
 殺人鬼はバットを隠し持っていた。その金属バットで若者の頭蓋をかち割ってみせた。その際に割った本人まで鈍痛を覚えそうな、鈍く、乾いた音が聞こえた。眼球が飛び出そうな勢いで隆起し、血の涙を流していた。
 
────夜に咲く、彼岸花のように赤い鬼。

 殺人鬼は腹を満たしたのか、何個か肉片と血痕を残して、その場を去った。
 蜃気楼《しんきろう》のように、たやすく消えていった。


 /6 午前八時三十五分  有馬邸

     〝有馬静希〟


 ふと、目が覚めた。
 カーテンで閉めていたはずの窓から白い日差しが俺のベッドを照らしていた。その光のあまりのまぶしさで、俺も自然と目が覚めた、というわけだ。
「んぅ……あれ、今、何時?」
「十一時三十五分でございます、静希さま」
「ああ、そう……って、えぇ!?」
 水川澪──俺専属のメイドこと澪が放った言葉は、俺の脳髄を刺激するほどの威力を持っているように思えた。
「やべぇ、準備しないと」
 誰よりも速く、光速をイメージしてベッドから跳ね起きる。すると部屋にあるクローゼットを開けて、俺は制服を取り出そうとした。
「あれ、制服は?」
 しかし、そのなかになかった。どこにも。
「洗濯を終えて、お外で干しております」
「な、ななな」
 なんで、と言いかけたとき澪の口が開いた。
「静希さま、なにをあわててらっしゃるのですか」澪は不思議そうに首をかたむけた。「今日は学校お休みですよ?」
 澪の放ったその言葉は、暴走しかけた脳を鎮める、いわば鎮静効果があるように思えた……。


「今日は、創立記念日、だったのか」
「はい」
 俺としたことが、祝日であったことを忘れるなんて……失態だ。そういう祝日は先月には把握《はあく》しておく俺が忘れる。よほど疲れていたのだろう。
「そっか。じゃあとりあえず今日は朝ごはんを食べてから、適当に外に出てこようかな」
「それは、なりません」澪は言った。「起きたばかりですからニュースをご覧になっていないのは承知ですが、昨夜、また例の殺人の被害者が増えたそうです」
「は? 冗談だろ、もう五件目だぞ」
「数でいえば八人目です。四人が失踪して、学校近くの路地裏でその遺体が見つかったそうです」
「警察は何をして──」
 俺が言葉をいいかけたとき、澪は「しかも、その一人は学校の生徒である、と」なんて言った。
 体が震えあがるのがわかった。
 たしか、昨日の夜に誰かが出かけると言っていた。ある親友だった。その言葉と、今わかった事実との辻褄《つじつま》が合って、突然、頭が白くなった。
 頭が白いまま、机に置いてある携帯に手を伸ばす。そして手にとり、その親友の連絡先に電話をかけた。
 一コール目が鳴って、そのあと、二、三、四、五……と続いていく。出ない。出なかった。
 くそ。どうして出ない。いつもならお前、ワンコールで出てくれるだろ。だってのに、どうして今出てくれねえんだよ。
「もっかい……!」
 もう一回、さきほどの連絡先に電話をかける。
「次こそ……」
 出てくれるはず、と信じて待った。
 一、二、三、四……と待っても、出てはくれない。
 しかし、一向に出ない。
 俺は急いで部屋をとびだした。「あ、静希さま!」と俺を呼ぶ澪の声がしたけど、それよりも親友の存命を確かめたかった。俺はまっさきに居間にとりつけあるテレビをつけた。一番最初に映ったのは望んでいたニュース番組。場面はなにやら何かの事件現場のそばでの撮影のようだ。一人の背広姿の男性がマイクをもって現場の現状を話している。

────そして、すぐに。

 場面は切り替わる。
 失踪した四人の写真と、名前や素性が明かされていた。右からその顔を見ていく。一人目、違う。二人目、違う。三人目、違う。四人目……ああ。
 どくん、と心臓が高く跳ね上がったのがわかった。そのどこか小僧っけのある顔、太い眉、若干高い鼻、細長い輪郭《りんかく》、そんな見覚えのありすぎる人の顔。その下に、

「中村……だい、すけ……」

 俺が親しみをもって呼んでいた「大輔」という文字が、そこに映っている。一文字も誤字なんてない。その苗字だって知っている。それにこの顔は、昨日の昼に馬鹿な話をしていたときの、まぎれもないあいつの顔──なんだ。

 崩れおちるように膝をつく。床に両手をついて、嗚咽《おえつ》をもらした。胸が熱くなるし、まぶたの裏は熱くなるし、しまいには涙が出ている。大粒だ。鼻水も出てきた。
 長いようで、短い付き合いだった。
 中学からの付き合いだった。クラスメイトになって、きっかけもなにも、肩がぶつかってお互いに言い合って、そのあとに和解した、なんていうくだらないもの。
 けれど、そのあとの思い出は数えきれない。
 そういえば。
 俺が中学に入って、あいつに出会うまでは、こんなに明るくなかった。沈んでいた自分を起こさせてくれたのは、紛れもないあいつだった。

────ばかやろう。

 自分に叱った。
 それに対してお礼も言っていなかった。いつか言おうと思っていた言葉を、俺は言えずにいた。たんに恥ずかしかった。ただそれだけだった。でも、どんな理由であろうと、俺はあいつに礼を言えずにいたことは罪なのだろう。

────なんで、死ぬんだ。

 なんで。
 俺と話して、ばかやって、笑いあって、喧嘩しあった奴は死んでしまうんだろう。
 また、だ。
 また俺は失った。
 あいつも、かつての親友も、なんで狙ったように親友が死んでしまうんだろう。


────記憶の函《はこ》が、開かれた。


 鮮血が目の前に広がっている。
 オレはたしかにそこにいて、ある少年は、赤い血を被って倒れていた。
 脳髄にうったけえかけるような鈍痛。まるで鈍器が頭にぶつかったみたいだ。

────視界が赤い。

 オレはというと、その少年の首を、両手でおおって、相手はもう意識も、命さえも失っているというのに、ずっとその首を狂ったように締め付けていた。
 少年の唇から泡があふれ出している。
 瞳もとっくに逝ってる。
 死んでいる。脳はそれを理解していた。完璧なまでに。
 だっていうのにオレは狂人じみたことをしていた。

────殺せ。

 誰かがそう言った。
 誰かがそう言って、オレはそれに従っただけ。
 だからオレは悪くない。その一心で相手が死してもなお、殺し続けた。

────そして、少年は。

 完膚なきまでに、オレに殺された。
 

「はぁ……!」

 俺はいつの間にか、ベッドの上にいた。
 脂汗《あぶらあせ》をかいていたようで、ベッドはびしょびしょに濡れている。それに背中もびっしょりだ。気持ちが悪い。もちろん背中だけじゃない。ほぼ全身から汗が噴き出していた。

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 心臓の動悸が走ったあとみたいに早い。
 体温が異常に上昇している。体が弱いのは事実だ。けれどこんなことは初めてだ。濡れるほどの汗の量。壊れそうなぐらいに高鳴る心臓音。こうやって自分の体を改めることが精一杯。今となって話すことすらままならないだろう。
「静希!」
「……え……」
 誰かが俺を呼んでいた。俺は自然と声をもらしていた。
 見てみると姉だった。血相を変えて、ぶつかってきそうな勢いで駆けつけてきた。
「よかった、目覚めたのね」
 横に溶けかけの小さい氷が入った水と、それに浸した布があった。おそらく俺を看病してくれたのは姉なのだろう。
「──なん、で……」
 喉を絞りだすようにして、俺は声を出した。声は枯れている。まるで九十代の爺さんみたいな声。その声を自分で聞いて、不安が胸につのるばかりだった。
「……聞いたわ。友達が、殺された……のでしょう?」
 姉は少し葛藤《かっとう》したようにして言った。数秒ほど沈黙して、俺から目をそらしてから、姉は言ったのだ。
 友達。俺の、友達。その人の名前を思い出す。──大輔。それが俺の中学からの友達で、親友で、くだらない男だけれど面白い男だった。そいつの思い出はどれほどあっただろう。それを一つ一つ、花弁《はなびら》を大事にとるように、俺は思い出していた。
「あぁ……うあぁ……っく」
 胸が熱くなった。
 まぶたの裏が熱くなった。
 ぽろぽろ、涙が出てくる。殺して奴に対する憎しみよりも先に、悲しみや寂しさが胸にしみた。
 涙が真っ白の布団にしみを作る。その量は異常だった。
 そう。こんなことがさっきあった気がする。
 
 俺はあのニュースを知り、涙を流しながら過呼吸に陥った。もともと体が弱いゆえか、異常に動悸《どうき》が早くなったからだ。
 そこは談話室だった。そこには普段、俺以外に誰かが来ることはなかった。けれど今日は特別だったようで、珍しく姉が談話室に来た。そして、過呼吸を起こして倒れている俺を見て、ベッドの運び、看病をしていた、というのが姉が話してくれたいきさつだった。

「あいつは、すっごくくだらないけど、すっごく面白くてさ。たまに喧嘩することもあって、三日ぐらい口をきかなかったことがあったよ」そんな過去を、俺は熱にうかされたみたいに話していた。「でも、三日でそんなのはどうでもよくなって。結果的にまた遊んだんだ」
「三日坊主、なのね」姉ことは言った。「でも、すごくいい意味での三日坊主ね」
「ああ」
 俺は深くうなずく。
「でも、いなくなったんだよね……」
「──」
 姉は黙ってくれた。
 俺はというと、また泣きそうになった。胸やけを感じていた。

「そうか……そっか、そうなのか」

 自分に納得をさせるつもりで、そうか、と繰り返した。けれど納得できない自分が、後ろにいる。なんで、早く納得してくれないんだろう。そうやって、自分を痛みつけていた。

「静希」姉は強く言った。「たしかに受け入れなくちゃいけないことよ。いつまでも受け入れられないのは、子供だからね。でも大事な人が死んだことに関しては例外よ。いつまでも受け入れられないことだってある。それこそゆっくり時間をかけなくちゃいけない。でもやっぱり、いつかどこかでくじけて、泣いて、泣きまくって、終わってしまうことだってある。パターンはいくつもあるの。──私だって、そうだから」
「え?」
「でもね。だからって、何かものにぶつかったり、諦めて誰かを責めたりするのはだめ。受け入れられない、受け入れられる、の問題じゃない。これだけ……これだけは、どうか忘れないで」
 
 その言葉は、救いの手そのものに見えた。
 祈りのような、願いのような、そんな言葉。まるで自分に対しても言っているようだった。

「お願い、よ」
「うん、わかったよ、姉ちゃん」

 姉はそのあと、俺の部屋から出ていった。最初は俺の看病を続ける気がいたらしいのだが、さすがに相手に迷惑だ、と思い、俺は断った。それで、嫌々だったけれど姉はやっと俺に背を向けてくれた。
 姉を部屋から追い出したのは、別に姉が嫌だったからではない。俺自身、しばらく一人で考えていたかった。ただ体を微動だにせず、顔をうつむかせながら、何かを考えていたかった。
 親友のこと。犯人のこと。過去のこと。とりあえず、今回の事件のことを考えたかった。

 考えれば考えるだけ、大輔を殺したそいつに対する憎しみが音をたてて、膨張《ぼうちょう》してくるだけだった。無駄なことかもしれないが、本気で殺したくなる。
「──なあ」
 一切人気のない俺の部屋で──静寂に満ちた空間で──反響する自身への問いかけ。
「──どうしても憎いとき、どうする?」
 あるいは、自身への試験だったのかもしれない。
「このままベッドの上で大人しくするか──」
 それは人として正しくないかもしれない。
 非道とは言わずとも、無謀なのかもしれない。
「それとも」
 覚悟なんて、お高いもんじゃない。
 ただ、大切なものを壊された少年が抱いた破壊衝動。
 なら、
「そいつを、歩けないぐらい、日常生活に支障がでるくらい」
 大人ならわかるだろ? 俺の、この気持ちが。どうしても抑えられない憎悪以上にたちの悪い衝動が。
「やってやるか」
 結論を言おう。
 俺はただ、親友の敵討ちをしたい。それだけだ。


/7 昨夜 午前二時十五分  
      路地裏 

    〝藍沢雅臣〟


「はぁ……はぁ……」
 路地裏にやってきた。
 たまたま見回り役として屋敷をうろついていたら、窓から門を抜けて屋敷から出ていく誰かの姿が見えたのだ。暗闇で誰が歩いているのかはわからなかった。そもそも性別さえ不明のままだ。
 それを見かけて、誠殿の言葉を思い出したのだ。

────犯人は私たちの中にいる。

 あの門を抜けていったアレこそ、犯人なのだろう。僕はそう思いいたった。
 そこからアレを尾行した。なるべく見つからないように、暗闇にまぎれてだ。だがアレのほうが上手《うわて》だったと言える。アレは僕に気づいていたのか、それともアレ自体の習性なのかなのだろうが、ほとんど外灯がないところを通っていた。
 それで最終的な場所が、この路地裏だった。街中に来たので、ようやく姿が見れると思ったら、男性の四人衆になぐられていたのだ。と言っても、一人、見るからに若い男性が暴力をふるっていた三人を引き留めようとしていた。けれど、しつこい、と言ったふうに彼をもなぐっていた。それでも引き下がっていなかったようで、三人のなかの一人の足をつかんで、止めていた。しかし、彼もそこまでだった。その一人に顔を何度か蹴られて、そこで彼は意識を失ったようだった。顔はもうあざだらけで、大量の血を流している。おそらく死んだのだろう。
 
 それで、アレは倒れて、自由にされるがままに彼らに乱暴に運ばれ、路地裏へ。
 僕はなるべくアレや彼らに見つからないように、建物の壁を遮蔽物にして、その路地裏の様子を遠くからのぞいていた。

 結果は、無惨だった。
 アレが起き上がって、彼らの一人を組み伏せて、捕食。激しい血しぶきが見えた。まるでクジラの潮吹きのようだった。そこからおびえていたほかの二人を見事に殺してみせた。
 しかし、誤算だった。
 死亡していたと思われた彼が起き上がって、路地裏のほうへ駆けつけていったのだ。死んでなんかいなかった。彼は気絶していただけだったのだ。僕はそこで、「逃げろ!」と思わず叫んだ。
 だが、もう遅かった。
 彼はその惨状を目にして、腰をぬかした。それをアレに見つかった。アレは何かを持って、彼の前に差し出した。それがなんなのかはわからなかったが、彼はそれを口にしていた。ずっと彼は何かを食べ続けていたけれど、突如、鮮血が噴き出した。
 金属バットを持って、彼の頭蓋を割ったのだろう。不意打ちというものだった。
 事を終えた殺人鬼は、何事もなかったかのように平然と歩いて、奥の道へ進んでいった。

 僕はその惨状を間近で見ようとして、おそるおそる歩きながら近くに行った。

「……く」

 錆びた鉄のような異臭が漂っていた。まるでそこだけが別の世界であるかのように異質で、僕たち人間が踏み入っていいような領域ではなかった。
 それは。それは、なんだろう。うまく言葉にできない。僕たちが持つ言語では表せない。いや、世界中の言語を用いてもとても表現することのできないもの。
 そう、強いて言うなら。

「……ソニー、ビーン」

 それは昔の実在する事件だ。
 ソニービーン一族。それらは伝説の食人一家と呼ばれるものだ。家はなく、洞窟で暮らしていた。近親相姦《きんしんそうかん》を繰り返して、家族を増やした。
 最初こそソニービーンが洞窟近くにいる旅人や商人などを襲って、金銭を奪い、食べ物などを買っていた。けれど、やがて洞窟近くに来る者はいなくなった。当然だ。何回も繰り返して襲っていたのだから、噂がたったのだ。あの場所に近づいてはいけない、と。
 だから金銭や資源を奪うことができなくなり、残ったの襲った旅人や商人の死体ども。
 ソニービーンは考えた。とんでもない、人間《みち》を外れたことを。
 それらを、つまりその死体どもを食料にした。

「……本当、なのか」

 有馬一族が昔、食人一家であったことは──。


 /0  ある夏の日。


「久しぶりだね、姉さんと直紀で出かけるのは。どういう風の吹き回しなのかな?」
 いきなり「出かけよ!」なんてのは、少しばかり目を見開いたものだ。そして(半ば強引ではあったが)弟をも引き込むとは思わなかったので、驚くのを通り越して「現実なのか」と目を疑った。
「まあ、弟たちとやっぱり親交は深めるべきだと思って」
 姉こと有馬冬子《ありまふゆこ》は微笑んでそう言った。
「だからって、なんでオレまで……」
 やはり不服な俺の弟こと有馬直紀。だが直紀もこうしてついてきているのは、心のどこかではまんざらでもない直紀がいるということなのだろうか。
 俺が帰ってきてから劇的に冷たくなった氷の王子(勝手に名付けた)こと直紀と話す機会はなかなかにない。少しでも仲を深めよう。
「で? 姉ちゃん、いったいオレらをどこに連れまわすの?」
「……」
「姉ちゃん?」
「ごめん、考えてないわ」
「はあ?」直紀は眉間にしわを刻んで言った。「ならオレ帰っていい?」
「なによう、今から考えるのよ」
 そして姉は当然のように俺に目を向けた。おそらく「どこにする?」ということなのだろう。そんなの、俺にふられても困るというか……。
 そう思った瞬間、俺の脳内で何かが光った。言わば、ひらめいたというやつである。
「デパート行かない? ほら、姉弟三人で何回か行ってたところ。あそこ最近になってリニューアルしたんだって」
「ああ、あそこね。確かに昔はそろって行ってたよねえ。あのころは本当に自由で楽しかったわ」
 その〝自由〟という単語に引っかかった。有馬家《うち》は当然、子供にはそこらの家庭より何倍も厳しい。勉強や習い事を強いられることが山ほどあった。けれど、今と比べればそこまで苦ではなかった。落ちこぼれの俺が言っても説得力はないが、この二人にとってみれば、昔ははるかに自由だったのだろう。
「ホントに楽しかった……」
「……?」
 姉さんの様子が変わった。楽しかった、ただその一言とはまるで正反対に、その表情は曇り空のようで、儚く、どこか悲しそうなものだった。
「……んなことより、早く行こうぜ、デパート」
 直紀が言った。
「そうだな、行こうか」
 俺も便乗して言う。すると姉はさきほどは打って変わって、満面の笑みで「うん!」と言った。姉のその気変わりの早さは、誰であっても勝てない。昔からそうだった。いつも俺たちの先頭に立ち、俺と直紀を導き、一緒に遊んでくれた。庭を走り回り、屋敷を探検したり、それで父に怒られたり、色々な思い出が重なり、楽しい日々だったと素直に思えるのだ。

 そうしてデパートへ足を運んで、その間かかった時間は三十分ほど。街に入り、しばらく歩くとすぐに着く。
「へえ、けっこう変わったわね」
 デパートがリニューアルしたという情報は大輔から聞いていたけど、外観までもがらりと変わっているとまでは思っていなかった。
 そういえばあいつ、ここで浮気がバレたとも言ってたな。いったいいつになったら、あいつの女癖の悪さも治るんだろうか……?
「……なんか、まるで違うから少し……」
 直紀が言う。
「緊張するのか?」
「ば、ばか。ちげえよ」
 ぷい、と赤い顔を振る直紀。
 おそらく緊張とも同時にわくわくしている様子でもある。すっかり冷たくなり、俺なんかより大人っぽい直紀だけれど、こういう童心はまだあるんだなと、兄貴ながら勝手に安心してしまっていた。
「じゃ、行きましょうか」
「うん、ってうおっ!」
「ちょ、姉ちゃんっ!」
 姉は俺と直紀の手を引いて、入口のその先へと向かった。こういうのはやはり、どうも昔を思い出してしまう。
「おお!」
 入口を抜けると、姉はふと足を止めて感嘆の息をもらしていた。でも、そのような気持ちを抱いていたのは姉だけではない。俺もだ。きらびやかに彩られた一寸先の景色。大勢の人々や、多種多様な色や形を持つ服や確かな輝きを持った宝石や装飾。それらの景色を絶景と思えるのは、俺……いや俺たちだけだろう。
 そう、単純な言葉ではとても飾り切れない。
 長年、ここに訪れていなかった俺たちにとって、それはあまりに綺麗だった。でもあえて、変わったなあとか、すごいなあとか、わくわくするなあとか、そんな単純な言葉こそふさわしいのだと思う。
「もう私、幸せね」
 姉の言葉は大げさではあるものの、共感できるものでもある。
「大げさだろ」
 どうやら姉の言葉に対して直紀も俺と同じことを思っていたらしい。でも、その言葉とは裏腹に直紀の顔は姉と同じ──心を揺り動かされた顔だった。大きく目を開いて、その瞳は左右に揺れ、輝いているようだった。
「もう我慢できないわ。ほら、早く行くわよ!」
「ちょ、姉ちゃん! わざわざ手を引かなくても自分で行けるって!」
「でも遅いでしょ!」
「ったく」
 そう悪態をつく直紀。でも、直紀らしくない──いや、ある意味直紀らしく、その口の形を変えて、微笑んでいた。
 俺も、その気持ちには同感である。
 この時間がすごく楽しい。あまりこうやって三人で遊ぶことはなかったけれど、こうして再び、この三人で遊べることが幸せなのだ。


「はぁ……はぁ……はぁ……」
 前言撤回。やべえ、すっげえ疲れる。
 俺も歳ということなのだろうか。昔みたいに一時間精一杯遊んでも、そこまで疲れてなかったのに。
 同じ一時間でもう疲れてしまった。それでこうしてベンチで途切れ途切れの息を整えようとベンチに腰を下ろしている。
「あら静希、疲れるの早くない?」
 姉に言われて、かちんと来た。どうもその言葉は気遣っているようだが、どうしてもこちらを煽っているように聞こえたからだ。
「姉さんが異常なんだよ。あちこち早足で歩き回ってさ、そんなハイペースに余裕でついてこれる人いないって」
「ええ、そうなの? でも……」姉はにやりと笑って、そいつに視線を移した。「直紀は全然疲れてなさそうだけど?」
「え?」俺も直紀を見た。
「兄さん体力なさすぎ」
 お前……くそ、なんだよ。俺だけか。もしかして、異常なのって俺だけ……? ええ、そんなのってないぜぇ……。
「うそうそ。冗談よ。まあたしかにハイペースだったわ、ごめんね」
「……うん」
 姉に手を差し出され、俺はそれを手に取りベンチから立ち上がった。
「オレは平気だけどね。やっぱ兄さん体力不足でしょ」
「ええ……」
「こら直紀。静希傷ついているじゃない。ホントのことでも、傷つかないように嘘で取り繕うものよ、今は」
「えええ……」
 嘘だろ。姉さんなら味方になってくれるって信じてたのに。
「仮にも俺、体弱いほうなんだ。仕方ないだろ。まあ、そんな俺を誘ってくれたんだからめっちゃありがたいけどさ」
「……」
「……」
 あれ? 俺、なんかまずいこと言ったかな……?
 二人とも顔をうつむかせている。そして俺から顔を背けているようにも思える。まるで俺の顔を見ないように。そういえば、この一時間、いやこれまでもこの二人は俺の顔を見るとなると、どこか視線を顔からずらしているように思える。避けているのだろうか、と一時期不安になったが、今は気のせいだ、と考えている。
「姉さん? 直紀? どうしたんだよ? え、ええっと。ごめん。俺、なんか気に障るようなこと、言ったかな?」
 もし言っていたとしたら、そんなことに気づけない自分が愚かしい。こうして何年も姉弟という関係を続けているのに、言ってはいけないことの区別すらできないなんて。
「い、いやなんでもないのよ。うん、別にあなたに非があるとか、そういうわけじゃないの。ただ私たちが勝手に落ち込んでいるだけだから……」
「え、いやなんでそこで落ち込む必要があるんだよ?」
「いえ、なんでもないの。大丈夫よ。あなたが気にすることではないわ。ささ、お洋服とかも買いましょう?」
「う、うん」
 別に脅してきたわけじゃない。ただなぜか、姉から謎の圧がかかってきた。「気にするな」と、「それに踏み込む必要はない」というような。それは、俺の杞憂なのだろうか。いやむしろ杞憂であってほしい。
「実はね。貯金が目標金額まで行ったの。ほら、私の財布こんなにぱんぱんになってるのよ」
「貯金って……」
 貯金なんてしなくてもお金なんていくらでもあるだろう。まあでも、そういう姉の「金持ち」という肩書に頼らない点は俺も憧れている。
「じゃ、どこに行きましょうか?」
 姉がそう言うと、
「だいたいのところは行ったんだし、もう帰らない?」
 と、直紀が言った。すると姉は眉間にしわを作り、目を細めて、心底嫌そうな顔をする。
「あのねえ、せっかく来たのになんでそうすぐ帰ろうとするのよ?」
「もしかして楽しくないのか、直紀?」
「別に……ただ、はずい……っていうか……」
「……」姉は沈黙した。
「……」俺も口を開かせたまま、沈黙した。
「おい、なんでそこで黙るんだ」
「俺も恥ずかしくなったんだ」
「私もよ」
「もうやだ帰る」
 俺はそう言って背中を向ける直紀の手をつかんだ。
「……なに?」
「とりあえずさ、あそこのアイスクリーム屋さんでなんか買わないか?」
 俺はデパートのなかの広場にあるアイスクリーム屋「サーティン」に指差す。
「アイス……クリーム」
 直紀はごくりと喉を鳴らして、その瞳は輝いている。
 そう、直紀は昔から甘いものは好きなのだ。俺が昔、アイスクリームやクレープ、などといったスイーツを手に持っていると、食べ物をねだる犬みたいな目をして、こっちを見ていたことがある。最初こそ俺はしぶっていたが、そのうち、なんだかかわいそうに思えてきて、結局直紀に譲るはめになった。それに、そんな出来事が起きたのはたった一度ではないから、余計にたちが悪いというもの。
「何がいい? バニラ?」
「え、あ……うん」
「姉さんは?」
「私もバニラかな。白色好きだし」
 独特の理由だな……。


「すみません。バニラ二つとチョコ一つください」
 バニラは姉と直紀のぶん。
 チョコは俺だ。俺は正直、バニラよりもチョコのほうが好きだ。だが昔からではない。昔は姉や直紀と同じようにバニラが好きだった。たしか初めてチョコを食べたいと言い出したのは、退院直後、車の後部座席に座り、右の窓の向こうを見ていたら、アイスクリーム屋を見かけた。そこで俺は運転手の人に言ったんだ。「チョコのアイスを食べたい」と。
「変な話だよな……」
 店員がアイスを用意しているなか、俺は一人、そうつぶやいた。
「はい、お待たせしました!」
 店員が笑顔でバニラ二個とチョコ一個を差し出してくる。俺はそれを受け取って、姉と直紀のもとへ歩み寄った。
「はい、バニラ二つ」
「あ……ありがとう」直紀が照れるようにして言った。
「ありがとうね」姉も笑顔だった。
「そんじゃ、いただきますか」
 俺はそう言って、チョコにかぶりついた。それでもなるべく口を
汚さないよう、注意をしながら食べていた。
「あそこのアイス、おいしいわよね」
 姉は満足そうにバニラを食べている。
「直紀、おいしいか?」
「あ、ああ……」
 声はいつも通り、不機嫌そうな低めのものだったが、その裏でかすかな喜びがあるように思えた。
「────」
 俺は視線を感じて、右となりを見る。となりには姉が座っていて、そのとなりが直紀だった。そしてこの視線の正体は姉のものだった。
「どうしたの?」
「──あなたは何も知らなくていいなと思ってね」
「え?」
「有馬って、どういう一族だと思う?」
 いきなり、だった。
 このような姉はあまり見たことがない。そんな姉は俺にとって、「よくわからない」ものだった。
「ひどい人たち? いい人たち?」
 姉の瞳は俺を捉えている。けれど、「有馬静希」という人間を見つめているのではないように見えた。もっと別の、違う誰かを見ているようだった。
「それともバカな人たち? 賢い人たち?」
「よく、わからないよ」
「そうね、私もよくわからない。でもね、実のところあなたはわかっているはずなのよ。だってあなたの『よくわからない』という言葉は、理解できないという意味じゃない。自分が中立でいるための決まり文句よ。避けているのよ。理解しようとしたら、いつだってできるけれど、でも理解したら最後、それは自分にとっての障害になる。そういうことでしょう?」
「い、いったいどうしたんだよ、姉さん」
「……ごめんなさい。少し、たかぶってしまったわ」
 姉の言葉はずっしりとした重みがあって、とても抗えきれないぐらいの危うさがあって、それでいて俺の真理をついてくるものだ。
 それに。その言葉は予想以上に俺を苛立たせた。
「にしても、本当に久しぶりよね。こうして三人で集まって遊ぶのは」
 ああ。本当に久しぶりだった。
 でもなんだろう。俺にとってはあまりうれしくない。
 だってその想い出は、自分のものとはとても思えないから。
 ああイラつく。最近、こういうことが多く起こる。記憶が混乱して、自分というやつが本当に自分なのかだとか、お前は誰なんだと自問自答することがある。でもたしか、こういう異常は病院で意識が目覚めたあとでもあったな。
「……三人か……」
 直紀がつぶやいている。俺は直紀に視線を移した。
「……うそつき」
「あら、直紀。うそつきって何?」
「……」
 直紀は黙りこくっている。
「うそなんて誰が言ったのかしら。うそつき? 誰のこと? うそつきなんて、ここにはいないわよ」
「……」
 直紀は姉の言葉なんかこれっぽっちも聞くつもりはないらしい。「じゃあ、帰りましょうか」
 姉はいつも通りのやわらかい笑顔で、言った。




      上・了 


     第 二 章

      憧 れ

/0 午後十二時二分 有馬邸 

     〝有馬誠〟


 有馬誠は、終始苛立ってばかりだった。
 もともとそこまで我慢できるような大人しい人柄ではない。
 それにしてもここまで報告がこないということはいったいどういうことなのだろうか。とくにまだ目立つようなことはわかっていない、ということなのだろうが、このままでは殺されてしまうのではないのかと身はじっとしていられないのだ。
 しかし──ここで下手に動けば、誠は確実に殺されてしまうだろう。
 おそらく犯人は給仕として迎えた藍沢雅臣のことを警戒しているだろう。
 つまり、誠のたくらみに少しずつ気がついてきたころかもしれない。
 もしや、今朝、情報番組で報道されていた連続殺人事件は、誠に対する脅しなのかもしれない。
 少しずつ、少しずつ男の胸中は警戒心で埋めつくされてしまう。余裕がなくなり、息は絶え絶え。切羽つまった状況にすっかりはまってしまっている

 有馬一族を恨む者。
 それが内部にいるとなると、給仕か……?
 しかしそれほど恨まれるようなことはしていないし、彼女らの個人に干渉したことなど一切ない。

 ならば、やはり有馬家のなかにいるというのか。
 未だに信じられないが、どう考えてもそうとしか思えない。


 思えば──我々は元来、間違いを犯してきた一族であった。
 同類であるはずの生き物たちを、我々はそれを善《よ》しとし、喰らった。そしてそれを習慣づけてしまった。
 近親相姦を繰り返し、未だその異常性を引き継いでしまったがためにあんな──。
 誠はその血を利用したわけだ。
 そうすることで有馬家の存続と私欲を満たすことができたからだ。

 それを憎まれた──と考えれば、おかしくはない。三流ではあるが、筋が通ったシナリオだ。
 血、というのは厄介なものだ……。
 誠は本棚から有馬家の歴史が手書きで書かれていた、古書を流し読みしていた。そうして、誠はそれを再び本棚に戻し、席についた。
 木製のデスクの引き出しから、手帳を前に出す。
 そこに遺書めいた文章を書きつづっていた──。


 /1 午後十三時十五分 有馬邸

      〝有馬静希〟


 俺は部屋で携帯をいじっていた。
 携帯の検索サイトで、今回の連続殺人事件の検索をしていたのだ。予想以上に、この事件をとりあえげている記事は多かった。
 見てみると、今まで被害者にあった人たち同士で、なにか関連性があったわけじゃないらしい。連続殺人と呼ばれるのは被害者ともどもバラバラにされて、食い荒らされていたからに他ならない。そこにしか連続性はないんだとか。
 つまり、無差別にこのような行為をしている。そういうことだろう。
 しかし、なにか関連性があったほうがこちらとしては助かる。それがわかれば、次のターゲットが判明するかもしれなかった。けれど、犯人はあくまで「おなかすいた」と言ったふうに人を無差別に襲ってきた。
 だが、これまで被害者は一人だけだった。けれど今回は複数。数にも制限はないらしい。──これで九人目だったのが十三人目だ。
 さきほど、学校から連絡がまわってきた。それが「明日以降一か月休校」という内容だった。俺としては都合がいい。しかしその理由を考えると、とてもつらかった。

「兄さん」
「ん?」

 ベッドで横にしていた体を起こす。そして扉のほうを見ると、そこには弟──有馬直紀がいた。
「お、どうした直紀」
「昼ごはん」
「そっか、わざわざ伝えに来てくれてありがとな」
「……」
 直紀は黙って部屋から出ていった。
 直紀は中学生だ。いろいろと難しい年ごろなのだろう。
「昼ごはん食べるか」
 俺は部屋から出て、食堂へ向かった。そこには俺と姉がいた。直紀はいなかった。おそらく未だに勉強をしているか、何かの習い事をしているのだろう。
 そうやって、まともな時間にご飯を食べなくなったのは俺のせいでもある。
 退院後、父は「おまえのような不出来な息子に当主など任せられん」ときつく言われた。つまり当主としての座を俺から直紀へ譲りわたされた。そんな直紀からうとまれることは俺もわかっていたし、覚悟していたことだ。だけど、思った以上にしんどいものだった。

 たしか、直紀は俺に憧れていたんだっけ。
 もう今となってはそんなことは過去のことで、取り戻しようもないことだけれど。
 俺が当主として──つまりは今と逆の立場であったときの話。俺が小さくて、毎日の教育に耐えかねてとげとげしい態度であったときのころ。そんな状態であった俺の後ろを目を星のようにきらきらさせて、つけてきていた少年。
 それが、直紀だ。
 そのことを、少し微笑ましく思いながら、まぶたの裏で描いていた。
 これは──俺の勝手な勘違いというか、妄想でしかないんだけど、今の直紀はもしかして、昔の俺をまねているのではなかろうか。
 
 俺がテーブルの座席につくころには、もう目前に料理が並んでいた。朝、昼、晩の食事のなかだと、昼の食事のほうが少し見栄えがないのかもしれない。それでも、一般家庭の食事や学食のメニューに比べれば、目が飛び出るほどの豪勢さはある。
「いただきます」
「いただきます」
 俺と姉は手を合わせて言った。
 食事中、家族同士で談話することはほとんどない。それは温厚な姉が相手でも例外ではない。父である有馬誠はそういった礼儀には厳しく、「食事中に談話など言語道断!」などと本気で叫ぶ人だ。俺にはどうしても不便で仕方がない。食事中でしかまともに談話する機会はないのだから、こういう時こそ、何かお互いのことを話したりするべきなのではないだろうか。
「なんか、顔色悪いよ? まだ気持ち悪い?」
 姉は動かしていたフォークとナイフの手を止めて、俺の顔をじっと見ながら、そう言った。
 俺はあわてて言った。
「いや、別に大丈夫だよ」
 けれどそう言うと、姉は「そう」と落ち着くどころか「は?」と俺をにらんできた。
 ……後ろからもなにか冷たい視線を感じるのはどうしてか。たしか俺の後ろにいるのは澪だったような。
「あなたの大丈夫は信用ならない」
「全く以ってその通りでございます」
 姉は絞め殺してきそうな目で俺を見てくる。それで俺の背中をちくちくと何かが刺さってくる……。
「ほんとうに大丈夫だって。そこまで心配する必要ないじゃないか」
 念を押すようにして言うと、姉と澪は二人して黙りこくってしまった。
 そのあとの食事はあまりいいものじゃなかった。料理はおいしかったけれど、空気が気まずくて、錯覚だろうけれど味がなくなったように思えた。
「──無力が、嫌だったんだ」
 自然と口が開いた。誰かに聞いてほしかったわけじゃなかったけれど、姉にはちゃんと伝えないといけないのかもしれない。
「え……」
「俺は、知っていたんだ。あいつがあの夜、出かけることを。でも止めなかった。止めようなんて、思っていなかった」
 そう、止めればよかった。
 止めていれば、あいつは死ななかったかもしれない。せめて物騒だからやめとけ、ぐらいは言ってよかったのかもしれない。そうするべきだったんだ。

「でも、それはあなたのせいじゃ……」
「違うんだ、姉さん。これは罪とか、責任とかの問題じゃないんだよ。たしかに俺はこの件には一切関係ないし、ただただあいつとは親友だっただけだ」

────でも、もはやこれは罪の独白だったのかもしれない。

「割り切ってしまえば、そうなんだよ。だから姉さんやほかの人が気にすることない、って言うのはわかるんだ」

 姉は彼の顔すら知らない。だから死んだとしても、きっとどうでもよかった。自分の命には関係のないものだから。

「だからさ、姉さんはもう気にしないでいいんだ」

 気にしなくていい。だから、もう関わらないでいい。

「俺は、俺なりの恩返しをしたいんだよ、あいつに」

 恩返し、というにはあまりに大きすぎて、命にかかわるものかもしれないけれど。

「どんな形であれ、俺は礼を言いたい」

 俺が言い終わると、姉さんは口をつぐんでしまっていた。俺が何をしようとしているのか、わかっているのだろう。けれど制止するべきかを迷っている。

「そ、そんなのはダ──」
「ダメです」

 姉さんが言うと思ったところで、そこにはさんできた言葉は、後ろにいた澪のものだった。

「あなたは資産家のご子息という立場をお忘れなのですか。たしかに次期当主の座は直紀さまにおろされました。しかしあなたは自分の命を捨てようとしている。それがどういう意味はお分かりなのですか。あなたの命が、あなただけのものであれば私は何も文句はありません。ですが、あなたの命はあなただけのものじゃありません」

「──ああ、わかっている」
 俺は立ちあがった。料理はすべてたいらげてしまっている。
「俺の命は俺以外のものでもあることは、わかっているんだ、澪。俺が死ぬことは許されないっていうんなら──終着点は俺が決めちゃいけないって言うんなら──この命の使い道ぐらいはさ、俺に決めさせてくれないか」
 それだけを言い捨てて、俺は澪に背を向けた。


 /2 午後十八時二十五分 街中


    〝藍沢雅臣〟


 僕は街中にある公衆電話の中にいた。携帯自体は持ってはいるが、仕事中の所持は不可とされているため、もちろん持っていない。
 今、僕は買い出しに行っていた。
 今月分の食料確保、ということだ。
 それで僕は報告をしていた。相手は助手。僕がここに出張してから、彼に事務所を任せていた。最初は彼もここに来ることは決まっていたのだが、もう一つ、大事な依頼が入ったことにより、僕と助手で分担することにしたのだ。
「そっちの依頼はどうですか?」
 助手が自分の状況を報告し終わったあとで、問いかけてきた。
「ああ。昨日、偶然現場を見た」
「え、見たんすか?」
「本当に人の肉を食べていたよ。腹がたまったのか、何個か肉片を残してね」
 助手は想像力が高い。僕が言ったことを綿密《めんみつ》に想像したせいで、助手は少し気持ち悪そうに「まじですか……」と言っていた。
「これは依頼主が言っていたことだが、その犯人は間違いなく有馬家のなかにいるらしい。まあいまだに僕はそれを裏付けるような証拠を見つけていないわけだがね」
「でも、けっこう早く終わりそうじゃないですか。もうどの範囲に犯人がいるのか、っていうのはわかってるんですから」
「そうだね。たしかに犯人がどこに潜んでいるのかはわかったよ。けど、問題は僕が殺人鬼に叶うか、なんだ」
「え、でも先生は合気道とかかじっていますし、いざとなれば銃だって使えるでしょう?」
「残念ながら銃は持っていないがね」
 僕は皮肉らしく笑いながら言う。
「あ、あとこっちでわかったことなんですがね」
「うん?」
「有馬建設っていう会社、あるでしょう?」
 ああ、と僕はうなずいた。
 その会社こそ、有馬家の象徴だろう。
「こちらの龍源寺のご主人の弟さまなんですが……別に家に入り婿することになり、そして有馬建設で働いていたらしいんですが──」
「ほう」
「失踪したそうです。もう何年も前の話ですよ。死体とかはそれらしい痕跡は遺っていない。捜索願を出したにもかかわらず、警察もあまり動いてはくれない。新聞やニュースにも載りはしない。本当に何もなかったようにしてるらしいです。そして彼らは同様にまるで何かにおびえているようだ、と」
 それは──いったい。
「あ、もう行かないといけませんから、切りますね──」
 助手が言葉を言い切ったあとで、時間切れになったのだろう、ちょうどそこで電話は切れた。
 さきほど、助手が言っていた事実。
 となると──有馬誠には何か裏があるのか。普通の失踪事件ならばニュースで報道されることはあるだろうし、捜索願を出されれば警察だってそれなりには動くはずなのだ。それと何かに怯えているかのように、という言葉をひっかかった。
 これは、もう少し思考をひねるべきだ。

 そして、僕はひとりになった。

 街中だからだろう。
 夜のわりににぎわっている。いや夜の街だからこそ、こうして喧騒が鳴りやまないのだろう。
「まずは目星をつけよう」
 僕は公衆電話ボックスのなかで、そう独りつぶやいた。
 せまい空間だから、僕の声は反響していた。
「まずは……」
 有馬静希、彼だろう。
 彼は大きな謎に満ちている。僕は彼に関することを何も知らない。──そう、何も知らない。
 彼は普通の人間だ。有馬という姓をもって生まれる者は等しく優秀なのだが、彼だけは違う。彼は凡庸で、平凡な人間でどこかほかの有馬家の者とでは、月とすっぽんのようだ。──格が違う。雰囲気や言動そのものが違う。
 有馬家のようなところで、異質なもの。だがそれが本当に、あの殺人鬼につながるのだろうか? いくら彼が普遍的な人間であったとしても、それがあの家にとっては異質だったとしても、それがここ連日の事件につながることがあるのだろうか。
「ああ、そう……」
 訂正しよう。
 別に彼のことを知らないのではないのかもしれない。いまだに思い出せないけれど、彼を、僕は少し知っている気がする。ただ、それを思い出すには──また別の大切な人を思い出さなければならない。それはつまり、僕が触れたくないと箱に詰めこんだ記憶《トラウマ》に──触れなければならないのだから。

 まずはそろそろ有馬邸に戻らなければならない。
 誠殿が言っていたことが本当だということが解った。一目瞭然《いちもくりょうぜん》であった。とりあえず屋敷にいる誰かが犯行をしていることはこの目で見た。だから誠殿が望んでいた一つの、犯行の裏付けはクリアだ。
 あとは犯人の正体を確かめること。それと、そいつの排除。

 あと少しだ。あと少しでばらまかれたピースはそろう。そしてそろったならば、それが二度とそろわないよう、粉々に砕くだけだ。それで、この仕事は終わる。

 あの家が、恐ろしい。
 恐ろしい、という言葉では言い表せない。
 有馬静希という存在を作り上げたという業は、永遠に消えないもののはずだ。だというのに、彼らは普通の人間として暮らしている。
 
 あと、あの家には大きな裏があるように思えて、仕方がない。
 一つの大きな影が、あの館のところどころに影を覆っているように思える。
 これはあくまで僕の勘でしかない。でも、でも──どうしてもそう思ってしまう。
 推論でしかないけれど、あの家にはもしや大きな存在が暗躍しているのではないか。今回の殺人事件の元凶であり、そして有馬家の現状を作り上げたさらなる黒幕。
 その存在自体、あの家にいないことを、僕は願っていた。



/3 午後十八時二十五分 有馬邸

      〝有馬静希〟

 食堂から出て、ずいぶんの時間が経ったと思う。あれからいったん、自分の部屋に戻ったあと、しばらくしてむずがゆい気分になり、こうして出てきた。今の状況はそういうわけである。
 ただ、さきほどの件もあって、澪と姉に顔を会わせるのは避けておきたかった。だから、食堂辺りには近づきたくなかった。だからせめて、庭に出て、外の空気を吸おうというそれらしい理由で、俺は玄関を抜けた。
 そうして、右を見ると白い花畑があり、左を見ても白い花畑があった。そしてその間に、門へとつづく道ができている。いかんせん、その光景は少々、異常ともいえるが、誰もが感動するであろう絶景には間違いない。

 俺は左の花畑のほうにつま先を向けた。花畑には小路があって、そこをたどっていたのである。
 ちなみにその白い花、というのは『彼岸花』と呼ばれるものだ。この花の名前を言われて、脳裏にうかぶのは赤色の種類だろう。でも赤色以外にも、黄色や白色があるのだ。
 それと、たしかにこの一面の彼岸花を目にして、心を揺り動かさないわけがないだろう。でも俺には、なぜこの花にだけ執着するのだろうとばかり思っていた。執着、という言葉にはもちろん他意はない。単純に気になってしまうのだ。
 でも、たしか──ここの花畑を管理しているのは──。

「あら、静希じゃない」
「え?」

 ああ、そうだった。
 たしか姉である有馬冬子だった。
「────」

 姉──有馬冬子は、夜空にかかっている月の光を当たっていた。一瞬、風が吹き、姉の長い黒髪がなびく。その姿は視界いっぱいに広がる花畑
 俺はずっと黙りこくっているばかりだった。澪よりはまだマシとはいえ、姉とも顔をあわせたくなかったのだが、とんでもない失態である。

「……さっきのことは、気にしなくていいわよ。私も気にしてないもの」

 俺の顔を見て、そう察したのだろうか。

「いや、でも──」

 そう言葉を切ると、しばらく風が吹いた。ひどく冷たい風が、俺の頬に当たり、そして通り過ぎていく。

「そう。ほんとに気にしなくていいのに」姉は残念そうに眉を下げつつも、少し微笑んでそう言った。「ここ、なんで彼岸花ばかりなのか、離したことなかったわよね」
「え、ああ、うん」

 突然、違う話題を出してきたものだから返事にとまどってしまった。
 俺は姉の声が少々、聞きとりにくかったため距離をつめた。

「父方の祖父──おじいちゃんがね、すごく花が好きな、やさしい人だったの。小さかった私はあまり花に興味を示さなかったんだけれど、あるきっかけで大好きになったの。おじいちゃんがあるときね、『庭に散歩をしにいこう』って言ってきたの。そのころからおじいちゃんっ子だったから、喜んでついていったわ」

 たしかに──幸せそうだ。
 頬を赤くさせて、空を見上げながら、誰かを思いやっているようなやさしい表情。これは大げさかもしれないけれど、そういう姉の顔は初めて見たような気がした。

「しばらく歩いているとね、そこに小さな花があったわ。まだ立派に咲いていない、半人前のお花。さっきも言ったけど、私、そこまで花に関心はなかったのよ。でもそのときだけは例外だった」

 姉の横顔をじっと見つめている自分がいる。見とれているのかどうかは知らないが、人間というのはこういう風に幸せというのを表すんだろうか、と感動はしていた。

「その花はね、この庭ほとんどに咲いている彼岸花よ。それぐらい、その花に見とれていたし興味も持っていた。でもね、一つ違うところがあるの。まあけっこう大きな違いなのだけれどね」
「違い?」俺は首をかしげるようにして言った。
「そう。──それはね、色よ。当時見た彼岸花は赤色だったわ」
「へえ、赤だったんだ。じゃあなんで、ここには白ばっかりなの?」

 俺は少々気になってきて、連続で相手に問いかけた。

「そうねえ。実際、あまりそれらしい理由ではないと思うんだけどね」姉の言うそれらしい理由というのは、単純に好きな色嫌いな色云々のことだろう。「その花はね、お墓に咲いていたの。まあそこに咲いていたことはおかしくはないんだけどね。あれは、まあ墓というほどのものではないわね。単純に、スズメの墓だったらしいわ」

「スズメ?」

 ──突然、頭痛がした。

「ええ。おじいちゃんの話によると、ひどい大けがだったらしいのよ。見てるだけで痛々しくなって、せめて安らかに眠れるようにってお墓を──」

 ──まずい。

 そんな単語が何度か、俺の頭のなかをよぎった。冷たい風が吹いた。その風が全身を突き刺す鋭い刃のように思えてしまった。変な錯覚だ。

「そのスズメを、誰が殺したんだ?」

 俺の口から、勝手にそんな言葉がこぼれていた。そう問おうと思って言ったわけじゃない。そのときはまるで違う誰かに乗っ取られたかのような感覚になった。

 ──そんなこと、あり得ないのに。
 そう、あり得ないはずなのだ。
 俺が? そうなのか?
 そんなわけ、あることが……。

「殺し、た? なにを言っているの?」

「違う……! 俺は殺してない……オレは……殺してねえ……!」

 頭をぶんぶんと左右に激しく振って、そんなみっともない怒鳴り声をとなりの姉に浴びせていた。

「し、静希……! しっかりして? ね?」
 
 姉は俺の前に来て、肩をつかむ。
 その瞬間──、

「触るんじゃねえよ……!」

 肩に乗せてきた姉の手を、オレは振り払った。
 そうして俺ははっと我に返った。そのとき、最初に視界を占領していたのは姉の人形のように美しい顔と、うるんだ瞳だった。
 
「ち、違う……ごめん。ごめん姉さん。違うんだよ、今の俺じゃな……」
 
 俺が誤解を解こうとするときにはもう、姉は揺れていたその眼から一粒、また一粒と涙を流していた。

「ううん、大丈夫。ぜんぜん気にしてないよ」

 姉はいったん目を伏せて、流れ出る涙を指で拭きとっていた。そのあとでまた顔を上げる。笑顔だった。涙が通った筋はてらてらとしているけれど、笑顔だった。もうこんなことは慣れているとでも言わんばかりに。

「だから、赤い彼岸花を見るとね、白色のものよりもすごく綺麗だって俄然感動するし、同時にいたたまれない、痛々しいというような気持ちになってしまうの。だからおじいちゃんには『白い花でお花畑を作りたい』と、言ったの」

 そうして、俺のとなりに移動して話を続けた。同じ笑顔で。まったく表情を動かさないでいる。

 これは気にしないでいいのだろうか。
 姉は、せっかくさきほどの非日常からいつもの日常へと繋いでくれた。気にしたらまた、壊れるだろう。

 だから俺は姉に便乗、話を続けることにした。

「てことは、この庭の花畑は全部──」
「そう、おじいちゃんがしてくれたわ。ああ、もちろん私も手伝ったわよ、さすがに」

 言い訳するようにして姉は言った。

「すごく痛いことかもしれないけどね。すごく、変なことを言うけどね。このお花たちは私にとっては唯一の友達であり、救いなのよ。自分の心をいやしてくれる、そんな存在」
「──やっぱり、食堂でのこと……気にしてたんだよね」
「──うん」

 それから楽しく話していたはずの姉は顔をうつむかせて、じっと立ち尽くしていた。俺と姉の間には微妙な距離感がうまれ、同時に低くも大きい壁が隔たっていた。そして、沈黙がその場の空気という空気を重くさせていた。

「ごめん、姉さん」
「え?」

 しばらくして、俺の言葉がその静寂《せいじゃく》を破った。

「俺はさ、どうしても大輔の仇を討ちたいんだ」
「どうしても……?」
「うん」
「──そう──」

 悲しそう、だ。
 姉の横顔は食堂で見たときとひどく似ていた。
 もう、そんな顔は見たくなくて、顔を背けてしまった。

「じゃあ、俺、部屋もどるよ」
「……」

 それから姉はしきりに黙りつづけていた

 単純でありながら豪勢な花畑を抜けて、俺は玄関を通り、館のなかに入った。そこでは二階に俺の父と藍沢雅臣が話していた。俺はそんなのは無視して、自分の部屋へ直行した。
 そのときの自分はひどくのらりくらりとしていたと思う。
 少し、わからなくなってきたよ、俺。


/4 午後十九時一分  有馬邸

    〝藍沢雅臣〟

「事件の調査については、どうなっているのかな?」
 買い物から帰ってきて、ロビーに入ったとたん、当主であり依頼人である有馬誠殿が僕を呼んでそう問いかけてきた。やはり依頼人たるもの、そういう過程は気になるものなのだろう。
「順調に進んでおります」
 白状すると順調、というほどではないけれど。
「犯人はもうわかったのか! その証拠は! どこにある!?」
 すると突然、誠殿が額に汗を浮かべて、ロビー内に怒号を響かせた。いきなりなものだから僕の肩は少しびくっと震えてしまった。
「順調とは申なぜだ!たが、その段階まではまだ達してはおりません」
「なぜだ! この有馬家にいるのはわかっているはずだろう。あとは簡単なことじゃないか!」
 たしかに、犯人捜しだけなもっと早く済ませられるかもしれない。だが──
「しかし誠殿。犯人捜しだけであれば私はもう少し早く仕事を進めますが、最終的な依頼達成条件が『犯人殺し』であるなら、もっと時間をかける必要があります。それこそただの犯人捜しよりも正確に、です」
「くっ……! と、とにかく頼むぞ」
 そう誠殿が言い終えた瞬間に、玄関が大きく音をたてて開いた。そこには、暗い雲のようなものを顔に浮かべた少年──有馬静希であった。少年は僕たちのほうを少し見つめて、とくに表情に揺らぎはなく、ただその暗い顔で自分の部屋へ行ってしまった。
 それを誠殿は見ていたが、最後には、
「ふん」
 と鼻を鳴らして、そのまま少年と同様に自分の部屋に戻っていった。
 ああいう性格だからおそらく、仕事上で敵を作っているのではなかろうか。
「はあ……」
 ため息を大きく吐いて、疲労という重荷を感じ取っていた。
 そして僕も、まず食材のつまった買い物袋をどうにかしようと食堂へ向かった。

 それと、以前電話で聞いた有馬建設の裏のことも気になる。
 なぜ龍源寺の主人の弟が失踪してしまったのか。
 その失踪事件に対して怯えを感じていた人たちのことも怪しい。
 これほど謎が増えることがあるだろうか──。


/5 午後十九時五十五分  有馬邸

      〝有馬静希〟


 あれから俺は部屋にこもっていた。理由はもちろん、澪や姉に顔をあわせづらいからだ。なにせあんな自分勝手なことを言ったんだ。きっと怒っているに違いない。なにより澪には怒られた。彼女なりに心配して怒っていたんだろう。でもごめん。俺はそれでも、せめて犯人の顔にあざ一つ作ってみせたいんだ。

 ちく、たく。壁にかざってある時計の秒針の音が、静寂というすき間に入りこむようにして反響する。まるで海で漂流しているみたいだ。けれど、別に嫌というわけでもない。むしろ、こんな無意味な時間が俺は好きなのだ。
 有馬の者は無駄や無謀、無価値や無意味を嫌う。そういった傾向があるように見える。だからどんな卑怯で人道に反した行動であっても、それに何かが『有』れば、善《よ》しとする。それは……もしや俺もなのだろうか。
 いや、こんなことを考えても仕方がないだろう。
 犯人捜しが先だ。
「……でも、捜すったってなぁ……」
 どうすればいいのか、さっぱりわからない。
 夜に街中を歩けばいいのだろうか。おそらくそうするしかないのだろう。目星がつけられない以上、当たりを見つけるまで耐久戦と行くしかない。
「ふぁぁ……ん」
 あくび。眠気が思考を侵食してくる。門限は十時まで。それ以降に出て、十二時には帰るようにしたい。
 まあ……しばらくの気休めには……なる、だろう──。


 独り、だった。
 俺は砂場にいた。遠い記憶。夏の音の残響が耳に届く。
 それはいつのことだっただろう。まだ幼かった日のことだろうか。正確なものは覚えていない。どれもが曖昧で、不確かなものばかり。けれど、それは俺にとって大切なもの。

「ねえ、君」

 砂場で遊んでいた俺に、背後から話しかける人がいた。
 振り返る。少年だ。見た目は幼い。当時の俺と同じくらいだと思う。
「一人? もし、そうならさ。おれと遊ぼうよ」
 そう言って、俺を、普通という名の輪へ誘った。その輪の内側は、外側の景色と違っていて、すごくきれいなものだった。ずっと、俺が欲しかったもの。ずっと、俺が居たかった場所。
 その場所に俺は、魅入られた。
 それから俺は少年とよく遊ぶようになった。たまに──親には内緒で少年の家で遊んだり、俺の屋敷に招いたりしたこともある。
 当時の俺においては、初めての友達であり──初めて親友と呼べる存在だった。同時に人間として憧れてもいた。

────そうか。俺は……俺はずっと、普通《とくべつ》がほしかったんだ。

 俺がずっとほしかったもの。
 誕生日、ほしいものというものがわからなかった自分。
 クリスマスの日、白いひげの人に何がほしいのかを、手紙に書けなかった自分。
 でも。これでやっとわかったんだっけ。こうやって、少年と出会うことで、自分がずっとほしかったものが、わかったんだ。

────あれ、ここはどこだろう?

 場所が変わった。一瞬にして。そこは誰かの部屋のようだった。幸せな気分でいたのに、そこは絶望という、血のように真っ赤な色彩で乱暴に染まっていた。喜びをかみしめていた自分の体は、恐怖や怯えによる震えで、小刻みに動く。

 目前。少年がいた。想い出の少年。俺が憧れていた人。親友。友達。そう呼べる唯一の人。周りは赤色のペイントでぬりたくられている。赤色。血の彩《いろ》。見るだけで気が狂ってしまう。
 血の匂い。錆びた鉄のような異臭。ガスのようにこの部屋を漂い、広がっていく。気持ち悪い。吐きたくなる。
 早くここから出よう、と少年に呼びかける。ぬちゃぬちゃ。応答してくれる様子はない。ただぬちゃぬちゃと生々しい音だけが少年のほうから鳴る。
 早く! と叫んだ。さすがに気づいたらしい。ゆっくりと少年は振り返る。

「だれだ、おまえ?」

 俺はそう言った。
 だって、べつの、誰かだった。
 後ろ姿はどこか似ていた。けれど、顔は違った。まったく違う、誰か。前とは違う。あのときよりは少し鮮明な記憶だ。

────ああ、なんだろう。

 踏み込んではいけない領域だ。

────その顔はひどく、

 でも、その境界線を俺はまたごうとしている。

────今の俺の顔に、似ていた。

 ひどくなつかしい。
 それこそ別の記憶を思い起こさせるような──ああ、だめだ。そんなのは思い出しちゃいけない。だめだ。そこは踏み込むな。踏み込んでいい場所じゃない。

 そして次の場面。
 俺はいつの間にか、そいつの首をしめていた。

 そこから暗闇のような場所に訪れて、意識は底にひらりひらりと落ち葉のように墜ちていった。




  /6 街中

 殺人鬼はのらりくらりとしながら、街中を歩いていた。
 夜の街。人が絶えず存在している。それらを見るだけで興奮気味になる狂気性は、殺人鬼の血からくるもの。
 誰かに憧れて、そうなりたいとその人の背中を追って。
 その結果、自分という存在がわからなくなってしまった。
 いよいよその時には、自分の支えであった憧れも憎悪の対象となってしまった。
 だって、その憧れの者が余計なことさえしなければよかった。
 そうすれば、自分がこんな化け物に変わることなど、なかったはずなのだ。

 殺人鬼は後悔を謳った。
 殺人鬼に残る人間らしい感情はいずれゴミクズとなる。完全な化け物は人間性なんていう不完全性は捨てなければならない。それこそ化け物、という正体以外に人間なんて正体はいらない。
 殺人鬼はそう教えられた。
 夢を失くし、憧れであった道しるべさえも遠い場所へ行ってしまった殺人鬼には、そんな余計な『自分』を排除する方法を教えられた。
 これはかつて──憧れの者にも教えられていたことらしい。あくまで義務的な、そういった仕事上での事情なので仕方がなかったことらしい。
 殺人鬼の製造方法なんて、そんなものなんだと呆れていた。

 殺人鬼はおぼつかさない足の動きのまま、視線はあちらこちらに向く。自分に合った獲物を見つけるために──。
 いや違うか。殺人鬼はただ、別の憧れを探しているんだ。あるいはその憧れの対象が、自分であればいいというもの。おそらく自己暗示に似たことをしている。
 殺人鬼はもう二度と裏切られたくない。
 憧れから、拒絶されたくない。
 だから、自分を拒絶することを絶対にしない人物を探している。その結果、殺人鬼自身だけだった。複数のうち、もっともむなしい一つの正解。

──ああ。

 殺人鬼はとうとう獲物を決めた。
 自分の肩にぶつかり、こちらをにらみつける中年男性。外見は柄物のシャツの上に黒いスーツジャケット。目つきの悪い、髭面。
 殺人鬼はなぐられる。頬に傷がつく。殺人鬼は立ち上がり、その男性をにらみつける。すると思った通り、にらみつけられた男性は喧嘩を売られていると思い、こちらに迫ってくる。
 そうして殺人鬼が逃げる。それに追いかけていく男性。
 殺人鬼が目指す場所は路地裏。
 そして路地裏につき、男性は息を乱して殺人鬼に迫る。そうすると殺人鬼は隠し持っていたナイフで男性の首を切る。
 それからはただの作業。駆け引きもクソもない。ただの単純作業なのだ。
 いつも通り、解体するだけだ。

 この時間は、本当につまらない──。



/7 午後二十二時十五分 有馬邸

     “有馬静希”



 俺は決めていた時間の、およそ十五分ほど遅れて目覚めた。それほどいい目覚めではない。できることなら。このまま朝方まで眠っていたいものだけれど、俺の身勝手な復讐を、必ず成し遂げなければならない。
 そもそもの話。なぜ俺はそこまでやっきになって復讐しようと考えているのか。親友が死んだから、だろうか? いや、それ以外に理由はない。

「そう、それ以外に理由は──」

 俺はつぶやいて、部屋をあとにした。
 屋敷のなかはもちろん、暗い。暗くてよく見えない。それと、もう人影はないはずだ。そう、そのはずだ。

「……っち」

 軽く舌打ちをする。
 相手と視線が合う。
 俺に気づいて、相手は近寄ってきた。黒を基調とした背広。こんな時間になっても、そんな姿でいる。それはきっと、自分が給仕であるという証明に他ならない。
「静希さま、どうなされました?」
 藍沢雅臣。
 昨日、有馬家の給仕として勤めることになった男だ。車のなかで話した結果の印象としては、少し見た目が不気味だが、それほどつまらないやつじゃないってことだ。
「いや、別に」
「別に、というわけではないでしょう? なにか必要なものがあれば、私が持ってゆきますが?」
 しつこい。今の俺は、どうも怒りっぽくなっている。寝起きだからだろうか。おそらくそうなのだろう。
「いいですよ、別に。ただトイレに行くだけですし」
「ついていきましょうか?」
「なに言ってるんですか……」
 そう言って、奇妙に唇をつりあげて笑ってみせる藍沢さん。まったく俺のどこがおかしいのか。
──すこし、苦手かもしれないな。
「それより静希さま」
「ん? いや、悪いんですけど。俺、ちょっと今急いでるんでいいですか」
「ならば一言だけ」
 俺はその言葉に耳を傾けた。
「死に急ぐ必要はございませんよ」
 その言葉は、どういう意味なのだろうか。とにかくその場で考えるより、とにかく移動したかった。そんな俺を、あの人は止めようともしなかった。見逃してくれた。けれどそれは情けのようには思えない。不思議と、俺を試してるような、たぶんそんなもの。


 庭を通って、屋敷の門を抜けていく。セキュリティは万全だが、一応俺はこの門を開くためのセキュリティカードを持っている。それはつまり、両親の管理下に俺はおかれてはいないということを揶揄《やゆ》している。
 静寂《せいじゃく》で満ち足りた、夜の世界。
 初めてだろう。こんな景色を見たのは。天上の薄黒い空には、星なんて見えないけれど。それでも、そこには我々をスポットライトのように照らしている半月が、浮かんでいた。あるいは、その空にくっついていた、のかもしれない。
 数秒止まって、そっと息を吐きながら俺はそんな景色を尊いと感じていた。そしてすぐさま走った。歩いているひまなんてないと思ったからだ。
 雨でも降っていたのだろうか。地面が少し濡れている。それに走っていると、ところどころに水たまりを作っている。けっこう大きな雨だったのだろう。これは俺が眠っている間に降っていた、ということか。
 しばらく走ったあと、ようやく街の光が見えた。この住宅街から街までは実際、遠くはない。こうやって徒歩で来れるほど近いともいえる。街に近いところに住んでいて幸いだ、と初めて思った。

 街といえる領域に踏みこむまで、およそ十五分。途中途中で歩いて休憩をはさみながら走ってやってきた。
 それでも息は絶え絶え。ひざに手をついて、しばらく息を整えようとした。
 だが──。

「……え」

 それは、紛れもない俺の声。驚きというより、そこにいるはずがないという、目の前の出来事に信じきれないようなもの。
 ああ、そこにいるはずがない。いるはずなんて、ないんだ。その言葉を裏付ける証明など俺は一切持ちあわせてはいないけれど。とにかく、そう信じたかっただけ。
 血。血なのかはまだ確信が持てない。けれど、その左手には赤色のペイントが大胆に滲《にじ》んでいるように思えた。月明かりだから、よく見える。
 そしてなにより、いまだに幼さやあどけなさといったものが抜けきれない、その中性的な顔。あまり話したことのないやつだけれど、それでも俺にとっては大事な人。
 愛情を、なんてのは気持ち悪いが。親愛のようなものは抱いている。そんな感情を向ける相手は、家族に対してだけ、と俺は認識している。
 家族。そう、家族だ。俺と同じ有馬という姓を持っていて、俺が住む有馬邸に同じく住んでいて。

────なにより。有馬という一族を担う予定のはずだ。

 有馬家次期当主。そう呼ばれるのは、一人しかいない。

「おい、直紀──!」

 俺はとっさに呼びかけた。その名前を叫んだ。その場にいたほかの人たちはほぼ全員、俺のほうに視線をよせる。たとえ視線が集まったところで俺はお構いなしに弟の名を呼んだ。

「おい、直紀! 聞いているのか、直紀!」

 はたから見たらただの変人としか思えない。
 それでも叫び続ける。
 けれど、幾度も発した叫びに弟は振り向くことさえなかった。
「くそ──!」
 俺は直紀を追いかけた。
 呼んでも答えないのなら、その体ごと捕まえて屋敷に連れ戻す気でいた。
 これは俺が言えることではないけれど。こんな物騒な時期に出歩くのは、あまりに危なっかしくて放っておけない。
「……はぁ……はぁ……!」
 街に向かったときとは違い、俺は全力疾走だった。目前に人混みが現れても、容赦なく俺はその群れを迫る自身の体ではらいのけた。謝罪ではすまないかもしれないが、心のなかで俺は『ごめんなさい』と謝った。

 限界を知らず走り続ける自身。けれど体にいたってはすでに限界値まで達してしまっている。
「くっ……!」
 苦悶《くもん》の声のようなものがもれる。
 だが、おかしい。
 目前に弟──有馬直紀の背中が、たしかにある。ちょっとでも走ればすぐに追いつき、手の届く範囲だ。だというのに、俺の体は、俺の手は、一ミリたりとも彼に近づいてさえいない。そんなことに、いまさら気づいた。
 そして走り続ける俺の意志を跳び越すようにして、自分の体は限界を迎えていった。つまり追いたいという意思より全力疾走の反動による疲労が勝った、というわけだ。

────あたまが、いたい。

 頭痛だ。すごく頭が痛い。吐き気もだ。予想以上に反動が大きすぎた。無理に走ったせいだ。

 視界が曖昧になっていく。
 目の前に広がる現実という現実がうすれて、歪んで、まるで違う居場所にいるみたい。

 そんな揺れ動く視界がかすかにとらえたのは、彼の姿だった。路地裏に入っていくのが見えた。それが幻覚や見間違いでないことを祈りつつ、俺は自分の体にむち打って、そこへ向かった。

 路地裏に進める角を曲がって、真っすぐ歩を進める。
 おぼつかない足。
 ゆらゆらと左右に揺れる身体。
 頭蓋《ずがい》をことごとく破壊し尽くす鈍痛。

 空地にたどりついた。そこまで長くない道のり。けれどここまで着くのに長い時間を要していたのではないか、とそう感じていた。
「……あぁ……」
 そっと息を吐いて、姿勢を整える。
「なお、き……」
 俺がずっと追っていた弟の名前を呼ぶ。
「どこ、だ……」
 直紀は、どこだ。
 空地を見渡す。視界は少しずつ鮮明になっていく。薄暗い。たった一つだけ光が灯されている。
 空地のはじ。気を抜けばうっかり見逃してしまうかもしれない。そこには何か大きなものが置いてある。それは断片的だった。大きなものと小さなものに分かれて、そこに散乱している。
 それがなんなのか、わからなかった。そこに光は当たっていたなかった。だから俺はポケットから携帯を取り出して、カメラを使って、明かりをつけることにした。

「え────」

 目の前に散らかっているものを、俺は信じたくなかった。現実のようには思えない。普通に過ごしてきた人間にとってみれば、信じがたい惨状だ。

────赤い、血。

 その、円状に広がっていた深い赤の液体。

────でたらめな、肉片。

 その、でたらめにちぎられている肉片ども。

────血をみるたびに沸き起こる。

 あのころの、記憶が。
 少年だったころの記憶が。
 まだ、人でいられた記憶が。

「兄さん」
「……」
 背後。俺をそう呼ぶやつは、間違いなくあいつだ。あいつしか、ありえない。
「これ、お前がやったの?」
 苛立《いらだ》ちが少しこもった声で、そう問いかけた。
「ああ、そうだよ、兄さん」
 俺はその死体をずっと見ているままだ。
「──そう。ならさ、今回が……初めて?」
「いや。むしろ、慣れてしまったよ」
 そう、淡々と行われる一問一答。そこに兄弟の間にあるはずのお決まりの情は、すでに撤去されていた。
「いつから?」
「ずいぶんと前の話だよ。今ではニュースにもなってるぜ」
「そうだな。お前、すっかり有名人じゃないか」
 己に湧く苛立ちは、際限《さいげん》なく、音をたてて膨張《ぼうちょう》していく。
「なあ、なんでこんなことしたんだ?」
「そうだねぇ。いやさ、単純にすっごく楽しかったんだ」直紀の声もすごく楽しそうだった。「この遊びを教えてもらったとき、そりゃ最初は怖かったけどさ。それでも、やってみりゃすごくハマるんだぜ、これ」
「──」
 言葉を、失っていた。
「殺って、喰って、殺って、喰って、そんな繰り返しさ」俺の背中の向こうで、奴はどんな表情をしているんだろう。「ま、兄さんにはわからねえだろうさ。当然だよね」そんな、意味不明なことを当たり前のように言ってみせた直紀。
「じゃあ、姉さんや父さんにはわかるっていうのか、お前は」
 どうしても、その発言だけは気がかりだった。
「──さあ、ね」
「ごまかすな」
「ごまかしてなんかいないよ。本当にわからないんだってば」
「……へえ。お前さ、本当はそんなおしゃべりだったんだな」
「……」
 有馬直紀という生物が、ついには黙ってしまった。
 俺が煽《あお》ったからだろうか。だが、こうやって煽り気味な口調で話しているけれど、すべて自分を抑制するためのものでしかない。そう、こう見えて内心は、恐怖や怯《おび》えといったものがたまっている。
 本当はもうここから逃げ出してしまいたい。この化け物を煽《あお》っているひまがあるのなら、今すぐにでも────。

「ところでで兄さん。それを見たってことは、あんたはこの事件の目撃者ってことになる。それに、犯人にも会っている」

 空気が凍るような冷たい声色。
 その空気を吸うことで、俺の肺も凍ったかのようになる。満足に息を吸うことさえ、許さないような。

「そのあと、その目撃者はどうなる? 犯人にも会っているなら、そいつは結果としてどうなると思う?」

 ……俺は黙るまま。

「オレに殺されるんだよ」

 そう言って、直紀という怪物は俺に近づいてきた。
 かつかつ、と足音が大きく、そして早く鳴る。

 俺はその場で立ち上がって、逃げようとした。けれど、そのまま俺はその怪物に押し倒された。

「ぐっ……!」

 奴の冷えきった手が、俺の首を覆《おお》う。そしてだんだんとその手は力を強くしていって、俺の首を絞《し》めつけた。
 息が止まる。けれど体が酸素を求めている。そのため息を吸おうと必死になるけれど、馬鹿なことに、そうすればそうするほど、苦しみというものは大きくなっていく。
 眠気のようなものが、脳の機能を低下させる。

「──こに、いったんだよ───」

 耳が遠くなっている。奴が何かを言っているけれど、俺には一部分しか聞き取れなかった。
 そして空白。視界は一瞬、何かを消すように真っ白になった。

「──いちゃんは──こに、いったん──」

 聞こえない。
 聞こえないものを聴こうとすることは、無駄だ。
 俺は何かないか、と辺りを探る。手を動かすと、奴の手の力は強くなった。まだ意識があることに驚いて、早く殺さなくちゃと必死になているのだろう。俺はどうやらタフらしい。

 おそらく、服のようなものに触れた。やわらかい、なめらかとした感触だ。それからポケットのような、手を入れられるすき間があった。その部分が、妙にふくらんでいる。俺はそのすき間に手をを入れて、そいつを抜き取った。

 薄れていく意識。
 視界はもう揺れている。けれど、かすかに見えるのは瞳を大きくさせて、唇を開けて歯を見せる、まさに怪物のような顔。それと、右はじに見える、刃物のようなものと、それを握っている俺の手、だった。

「──兄ちゃんは、オレたちの兄ちゃんは、どこにいったんだよ!」

 減少していく力。俺は残りわずかな生命《ちから》を振り絞《しぼ》って、その刃物の切先を、奴の首に突き刺した。
 首から血しぶき。俺の手がそのしぶきによって、赤く染まっていく。
 怪物の手はだんだんと力をゆるめていって、最終的には俺の首から離した。
 怪物は首にささったものを抜き取ろうとして、必死になる。あえいで、その瞳から涙を流しながら、唇から血を流しながら。
 あまりに、無様《ぶざま》だ──。


 俺がまだ次期当主として、この屋敷にいたころ。
 いつも、俺の後ろについてきていた少年がいた。いつもきらきらと目を光らせて、俺を見つめていた。
 最初はそりゃ、うっとおしいと思っていた。俺はもちろんのこと、忙しいのだし、弟と遊んでいるひまなどこちらにはないのだから。
 でも、弟は俺がなにかをするたびに、

「兄ちゃんすごい!」

 なんて、馬鹿げたことを言っていた。それは俺にとってみれば、嫌味なのか、と思っていた。でも、だんだんとわかってきた。それは単純な、俺への憧れだったのだと。

「直紀」
「うん、なに?」
「お前、いつもなんで後ろついてくるんだよ?」
「兄ちゃんが好きだから!」
「っ……! あのなぁ、それももうやめろ。おれは忙しいの。お前なんかに構ってるひまなんてないんだからな?」
「……」
「あ、いや、別にな、直紀が嫌いとかそういうわけじゃなくって。あぁ、もうどうすれば……!」
「……かっけぇ」
「は?」

 本当に、今となってはくすっと笑えてしまうようなものだった。

「だってそれって、兄ちゃんの──えっと、とうしゅさま、のそんげんってやつなんでしょ!」
「はぁ?」
「うん、すっごくかっこいい! ぼく、兄ちゃんみたいになりたい!」

 そのころ、少年はだいたい小学一年生ぐらいだった。だから純粋なのはわかるけれども、ここまで正直に兄に対して憧れを表すのは珍しいことじゃないか、と思った。
 でも、正直嬉しかったんだ。
 両親からの期待というやつは厳しくて、冷たいものだったけれど。
 その期待というのは、あまりにも歪で、血生臭いものだったけれど。
 弟からの期待と──憧れというやつは、暖かいものだった。
 だから、正直に言えば。こんな血の臭いがする俺の後ろをついてくる、うっとおしい少年のことを、俺はかわいく思っていた。


       幕間

/0  午後二十三時五分 路地裏

      〝藍沢雅臣〟


「藍沢くん、ちょっといいかな」
 見回り役として屋敷をさまよっていたが、当主である有馬誠殿に呼ばれた。薄暗い廊下なので、姿はよく見えない。僕は彼に近づいて、「なんでしょう?」と言った。
「静希がいないんだ。少し、捜してもらっていいだろうか」
「静希さまが、ですか」
 誠殿はうなずいた。
 有馬静希は、たしか一時間前に見かけた。見かけて、話しかけたのだ。僕はその時点で彼の事情を知っていた。澪先輩に教えられて。
 澪先輩は無謀だのなんだのと愚痴《ぐち》を言っていたけれど、あの時の彼はもう覚悟を決めている、というような顔をしていた。だから僕はその覚悟を信じて、あえて見逃したのだ。
「わかりました、捜してきます」
 僕はそう言うと、誠殿は、
「ったく、あの出来損ないめが」
 そう、彼を侮辱《ぶじょく》していた。
「……」
 僕はそれを黙殺《もくさつ》することしかできなかった。

 僕は屋敷の外に出る。
 少し急ぎ足で街のほうへ行った。彼が犯人を捜すというのなら、街のほうだろう。
 あっという間に僕は街についていた。それから少し歩いていると、なにやらサイレンを鳴らしながらパトカーが一台、路地裏の入り口辺りにやってきていた。すでにそこにはパトカーが三台ほど集まっていて、それに一台加わっていた。パトカーだけではない。救急車も来ていた。
 立ち入り禁止のテープが貼られて、入口の向こうには行けなかった。
 そしてそこには前には人が何人か集まっていて、その集団の前に警官が二人、立っていた。そのテープを間にはさんで。
「何があったんですか?」
 僕は近くにいた背広姿の中年の男性に話しかけた。顔が赤い。どうやらよっぱらっているみたいだ。
「いや、ねぇ。俺が見つけたんだけどさ、なんかバラバラの死体が転がってて……うぷ……!」
 男性は第一目撃者らしく、そのときの惨状を思い出したのか、その場で吐いてしまった。僕はその前にあとずさった。

「……まさか」

 その死体というのは、彼ではないか、と僕は最悪のパターンを思いついてしまった。
 そして僕はすぐ立ち入り禁止のテープをくぐり抜けていこうとした。
「ちょっとお兄さん。ここから先は立ち入り禁止だ」
「あ、いえ僕は……」
 つい勢いあまって突入しようとしてしまった。どうする。僕がここで何を言っても通してはくれないだろう。僕はただの私立探偵だ。探偵、と言ったところで無駄だろう。
「春日くん、そいつは通してやってくれ」
 現場からこちらに来て、その男は言った。
「いや、でも……」
「そいつは俺の知り合いだ。探偵だ。こないだの事件でも世話になった。春日くん、君も見たことがあるだろう?」
「え、ああ。藍沢さん、でしたっけ。すみません。いやでも、本当に通してもいいんですか?」
「ああ。上には俺から言っておく」
「ああはい、わかりました」

「よう。藍沢。久しぶりじゃねえか。久しぶりっていうと、こないだの八神の件以来だよなあ」
「ああ、助かったよ永井刑事」
 永井刑事。本名も永井啓二《ながいけいじ》なものだから、僕なんかはいじることが多い。僕が探偵稼業を始めたころからの付き合いだ。かれこれもう五年になるか。
「それ、どっちで言ってんだ? 刑事? それとも名前の啓二か?」
「どっちもいいだろ、そんなことは」
 いやよくねえ、と言う永井。
「にしても、どうしてここが?」
 僕はテープをくぐって、現場のほうへと歩いていった。
「いや、ここに知り合いがね」
「ほう。どっちのほうだ? 可愛い顔した男か、普通の顔の男か」
「普通のほう」
 僕はその現場を見て、胸のなかがざわついた。
「両方ともまだ身元わかっちゃいねえ。お前、わかるだろ? っておい!」
 僕はすぐさま駆けつける。
 死体のほう。有馬直紀だ。首からの出血がひどい。
 そしてその直紀の近くで、壁に背中を預け、気絶している少年。静希だ。静希のほうにゆっくりと歩み寄る。
「右手に凶器。短刀か。こんなもの、どこから……?」
 そうつぶやいて、すぐに僕は右の遺体に目をつけた。
 バラバラだが、胴体はそのままだ。スーツに代紋をつけている。
「ヤクザか。となるとこの短刀《ドス》はこの男性からか」
 ふむ、と僕は顎を指でなでる。
「うん?」
 少年の唇。粉状のものが何粒か付着している。
「なあ、藍沢。いったいどうしたんだ?」
「永井。唇を見てくれ」
「あん? どれどれ? ん? なんだこれ。粉?」
「ああ。今すぐこれを調べてくれないか」
「おう。わかった」 



 /0  赤い夏の終わり

「なあ先生。息子はどうなんだ?」

 父親であるその男は言った。

「……手術は失敗です」
「なんだと? あの時は成功したと言ったじゃないか」
「いえ、そうではありません。表面上は成功いたしました」

 白衣を着た医師は低めの声で淡々と口にした。

「表面上は……?」 

 どういうことだ、と医師にかぶりつくように質問する。

「はい。命は取り戻しました。意識も無事、目覚めました」
「ああ。一年も時間をかけてな」
 その一年という時間を嫌悪するように、男は舌打ちした。
「心拍数や血液も正常。これといった問題はありません。ですが記憶の混濁が見られます。精神も安定していないようで、十分おきに自問自答を繰り返すんです」
「……そうか。やはり無理があったか」
「器が小さすぎるんです。だいたい移植なんて馬鹿げてる。なんで……なんで、そんなことするんですか」
「黙れ。お前に何がわかる?」
「子供なんですよ? あんな小さな子にそんな人生……あんまりだ……それに」
「それに?」
 医師は言いにくそうに黙る。
「言ってみたまえ」
「……大きな、リスクが彼の課せられました。今こそ異常ありませんが、思いがけぬ速度で体は衰弱し、やがて二十五年で……」

 そう言ったあと、男と医師の間に言葉は交わされなかった。やはり男もショックだったのだろうか。
 多少は息子に対する愛情はあったらしい──、

「はあ……まあいい。どうせ次期当主は直紀なのだ。今この場で死ななければそれで良い」

 そんなもの、この男には一切なかったらしい。

「いいかい? 君の仕事はな、白衣を着て人の体をいじることだ。そして患者と患者の要望に応えることだ」
「……もういいです。話が通じませんから」
 医師は顔をうつむかせて、そう吐き捨て、その男から逃げるようにして去っていった。
「なんで……これだから名家は嫌いなんだ」

 医師にも思うところがあったのだろう。
 心の底からそれらの存在を嫌悪していた。

「くそっ……!」

 医師はそのまま病院から抜けだし、出入り口のすぐ近くにあるベンチに座っていた。

 自分の考えが通じない。自分の思いを誰も聞いてくれない。自分の意見に誰も耳を傾けようとしない。

 悩むばかりで決断できない自分。
 不甲斐ない。たった一人の子供の未来さえ、守りきれない。

「あ、きみ。この病院を案内してくれるかな?」

 突然、女性に声をかけられた。医師は顔をあげ、その女性を見た。男のような人だった。髪型はショートカットで顔は女性らしい肌の白さはあるものの、顔の輪郭は男性のような、がっちりとしたものだ。

 黒いコートの下に白シャツ、その下は黒のスーツパンツというシンプルな格好だ。

「あなたは……?」

 おそるおそる、訊いてみた。少し、怖かった。目の前の大きな存在に対して、自分はなんて小さな存在なのだろうと怖くなったのだ。

 だが医師はなぜかその女性に親近感が湧いていた。どこも共通点があるわけでもないのに。親しみ、というものを持ってしまった。

「ああ。私は藍沢鮮花。探偵なんだが、どうやら依頼人はこの病院のなかにいるみたいでね」

 切れのある声で女性はそう言った。
 かっこいい、なんてありきたりなことを、つい思ってしまった。
 
「探偵……?」
「ああ。かっこいいだろう? でもあんま稼げないから転職するのはやめとけ。医者のほうが何十倍も安定するからな」
「はは……」
 たしかにそうだ。
 探偵よりも医師のほうが稼ぎやすい。
 でも、探偵《そっち》のほうが断然、楽しそうだ。
「君は?」
 不意にそう問われた。
「え?」
「私は名乗ったんだ。なら君もだろ?」
 少し間をおいた。女性が諦めて立ち去っていこうとしたとき、医師はこう名乗った。
「僕は……亜門です。亜門──雅臣」


    * * *


「と言ったふうに僕はその人に出会ったんです」

 買い物の帰り道での雑談だった。僕は自分の過去の話を澪先輩に話していた。どうやって、この話題になったかというと。最初は僕が彼女に兄弟などはいないのか、と訊ねたのだ。すると彼女は、

「そうですね。姉がいます。水川有紗っていう人なんです。けっこうずぼらな人ですけど」

 僕はその名前を聞いて、どきっとした。その名前に憶えがあったからだ。うすうす気づいてはいたが、やはり姉妹《しまい》だったらしい。
 それから色々姉との思い出を話し始めて、僕も話す流れになって──で、今に至る。

「医師だったんですね」

 一応、相手が有馬だっていうことは伏せている。ただ僕は、これまであまりやったことがない手術に参加することになって、ちょっと失敗しちゃった、とそれだけである。

「はい、そうですね。……まあ、探偵になってからわかるんですが、やっぱり医者に戻りたいですね」

 苦笑しつつ僕はそう言った。

「やっぱり、そのときのほうが楽しかったんですか?」

 楽しい、か。
 僕は一度、空を見上げた。

「いや、単純に稼げるから……」

 あえて僕は嘘をつくことにした。
 白状すれば確かに楽しい。でも、本来の目的を忘れてはならないと思うのだ。

 そう思いつつ、僕は上にいっていた視線を再び澪先輩にうつした。

「予想通り」
「いやそれだけじゃないですよ。妻がその病院に入院していて、時間が空けば、すぐに会えるから。それも理由ですね」

 言い訳のように見えるので、少し苦しいかもしれないが、これもちゃんとした一つの理由なのだ。

「そんなに奥さん好きなんですか?」
「ええ。とてもきれいで、可愛くて。僕にはもったいないくらいです」

 そう言ったあと、顔が熱くなるのを明確に感じとっていた。やはり、人前でこういうことを言うものじゃない。

「幸せですね、その奥さん。この仕事が終わったら、どこか旅行とかいいじゃないんですか?」
「……そう、ですね」

 でも、妻はもう死んでいる。もう僕は、彼女と話すことさえできない。だから旅行なんてとても無理な話だ。

「澪先輩はいないんですか?」
「はい?」
 澪は首をかしげて、つぶやいた。
「好きな人、とか」
 そう言うと澪先輩は顔を伏せて、そっとつぶやいた。
「……いませんね」
「その様子だといますね」
「なっ……」

 澪先輩は伏せていた顔をばっと素早くこちらに向けてきた。図星なのか、顔を赤らめている。
 なんとも典型的な人なんだろう。こういうわかりやすく照れる人は漫画やアニメの世界だけかと思った。

「静希くんとか?」
 試しに思い当たる名前を言ってみた。
「……」

 ──なるほど。

「予想通り」
「ぬぅ……」

 小動物みたいだ。

 でも──もし彼女が本当に彼を好きなのだとしたら。
 どちらのほうなのだろうか。
 どちらにせよ、僕は少し喜んでいた。彼を、純粋に好きになってくれる人がここにいる。彼という、今の有馬家にとって異物でしかないものを、純粋な気持ちで好きになれる人がいるなら。おそらくそれは、彼にとっては暗闇のなかでわずかに光る、星なのだろう。







     二章・了

      中・了


       終 章
       愛 憎

/0 午前七時五十三分 有馬邸 

     〝有馬誠〟

 誠は無力なまま、ただその部屋でうずくまっていた。執務室。自分が自分でいられる数少ない居場所。だが、そこもすでに地獄へと変わり果てていた。

「ゆ、ゆるしてくれ……私は、ただ……!」

 愚かだ。あまりに愚かで、虚しく、目を向けることさえ躊躇《ちゅうちょ》しかけるほどの無様な姿。それが有馬家当主たる者のあるべき姿だというのか。自分でも思い、罵《ののし》る。
「ただ? あら、続きは言わないの、貴方?」
 その女性の光が灯されていない瞳は、腰が抜け、崩れかけの精神状態の男に向けられていた。
「ふうん。なんか臭うと思ったら──あなた、失禁してらっしゃるわねえ? ふふ、本当に無様」
 笑う。嘲《あざけ》る。その艶やかな顔は妖しい魔女そのもの。それはまさに、男の一番恐れていたものだった。
「別に貴方を追い詰めるつもりではなくてよ? 私、そのようなはしたないものは好ましくはありませんので。でもね、貴方。少しお話したいの。貴方なら、聞いてくれるよね?」
「ひ、ひぃい……!」
「もう。またこんなに出して……汚いわ」
 そう言って彼女は男の顔を蹴りつけた。右頬をめがけて、彼女の左足のつま先が衝突する。その瞬間に男の顔は勢いよく左に向いて、その口から軽く血が噴き出していた。それと一本ほど歯が飛んでいた。今の蹴りで歯が取れてしまったのだろう。
「お……おまえ、なんで、こんなことを……!」
「なんでだと思いますか?」
「お、おれが……なにをしたっていうんだよ……!」
「禁忌よ」
 そう、禁忌。罪より重いもの。罰することだけでは済まされない、忌まわしいもの。
「きん、き?」
「あなたのやったことはほぼ蘇生に近い。死んだものを生き返らせる、なんて。追放どころじゃ済まさないわ」
 その言葉を聞いて、誠ははっとした。
「アレは、お前たちのことを思って!」
「うれしくないわ。でも、どうせ嘘でしょう? 本当のところは、自己弁護でしかない。当主たる自分の立場を守るため。だってもし、次期当主の座が空いてしまったら、誰だって不審に思うわ。いざとなれば調べて、事件の真相をつかみ、それを利用してあなたを手中に陥れることも可能なのだから」
「……」
「私はね、この有馬の血が許せない。滅ぼしたい。消したい。そういう想いでいっぱいなの。予定よりは少し早かったけど、直紀もいなくなった。あとは残りは……わかるでしょう?」


/1  午前八時一分 有馬邸

    〝有馬静希〟

 夢を、見た。
 誰かの記憶みたいだった。

 何者でもない自分の記憶でもあり、自分の親友の記憶でもあった。

「静希……人ひとり殺すこともできないのか」

 脳内で木霊《こだま》する、呪いの言葉。

「静希……これはな、家族のためなんだ」

 ──結局、俺はその言葉に呪われてしまった。

 命令されて、目の前で涙を流してよだれを垂らして、命が惜しくて俺みたいな子供に「ごめんなさい」とか「なんでもします」と言っている。

 あぁ……人間というのは、なんて弱い生き物なんだろう。

 泣いている。泣いているということは、悲しいんだろうなぁ。

 おじさん、と肩をたたく。すると後ろへ下がろうとするけど、そこはもう壁だった。

 ごめんね、とつぶやいて俺は悲しさに囚われた人間を解放してあげた。

「そうだ、静希……偉いぞ、お父さんが撫でてやる」

 そう言われて、撫でてもらうのが嬉しかった。

 〝だからね、お父さん。〟

 〝ぼく、もっともっとがんばるよ。〟
 〝もっと、お父さんにほめてもらうために──あたまをなでてもらうために、もっとがんばるんだ。〟

 〝だから近くでみててね。〟
 〝ぜったいだよ?〟

 〝ねえ。お父さん。〟
 〝なんで……そんなにこわい顔するの?〟
 〝なんで、なでたあとにすぐにそんな顔をするの?〟

 やめろ。
 俺にはもう過ぎたものだ。
 
 くそ……頭痛がする……イタい……。

 ああ、やっと思い出した。
 親父、オマエの仕業だったのか。

 オマエが有馬静希《あいつ》を、こんな無様な殺人鬼にしたのか。
 許さない。オマエを絶対に許さない。
 
 有馬静希《あいつ》を、こんな不幸な目に遭わせたオマエを、絶対に許さない。

 あいつに日常《ふつう》を与えず、あいつに非日常《とくべつ》を与えたオマエを許さない。



     * * *

 

「……ぁ」

 声をもらして目覚めた。
 ゆうべはなにか、悪い夢を見ていたのだろうか。血生臭い、薄暗い夜の夢。いや、何で俺はこんな鮮明に覚えているのだろうか。
 俺はなぜか直紀を殺していた。首に刃物を刺していた。その感触を、手がよく覚えていた。感覚でさえも覚えている、なんて奇妙なことがこの世にあるんだろうか。
「おはよう、静希」
 部屋の中には姉がいた。
「うわぁ!?」
「そんな驚かなくていいじゃない」
 驚かないわけがない。
 どうやら俺が目覚めた前からこの部屋にいたらしく、ぎりぎり視界のうつらないところ、つまりは右に姉がイスに座っていた。
 まあ、たぶん姉は俺を看病してくれていたのだろう。
「ごめん。なんかさ、俺、悪い夢を見てたみたいだ」
「いきなりどうしたのよ?」
 少し笑いつつも、心配したふうに姉は言った。
「言いにくいなぁ。なかなかグロいぜ?」
「いいわよ、別に。そういうの気にしないから」
 少しは気にしたほうがいいのだろうに。
 俺は姉の言葉に甘えて話した。
「弟の直紀が実は連日の殺人事件の犯人でさ。それで俺は押し倒されて、首を絞められるんだけど。近くに死体があってさ。たぶんヤクザだったのかもしれないけど、そいつのポケットに刃物があってさ」
「……へえ」
「それをとって、それで……まあ、その、直紀の首に刺して、終わったんだけどさ」
「それね」
 俺が話し終わったと同時に、姉は言った。
「夢じゃないわ」
 それで、冗談じみたことを言ってみせた。笑うわけでもなく、怖がるわけでもなく、うつろな双眸《そうぼう》で、微動だにしない顔で、言ってみせた。
「いや、夢だって。こんなこと、夢じゃなきゃありえないだろ?」
「本当よ。直紀はあの事件の犯人なの」
「は?」
 本当に、意味がわからない。そんなこと、ありえるわけがないだろ。
「夢じゃない。まぎれもない現実」姉は冷酷そうに言った。「もともとね、うちの一族は食人一族だったの。そうだったんだけれど、今となってはそんな特殊性は失われているはずだった。でも、不幸なことに弟である直紀が、その血を濃く受け継いでいた」

 頭に衝撃がくる。そんなのは錯覚だった。でも、目の前の言葉は紛れもない現実。あの夢も、夢であってはくれなかった。

「でもよかった。あんな食人鬼は、正直、消えてほしかったから」

 そのとき、姉はしばらく固まっていた表情を変えて、弟をあざ笑うかのようにして、その唇をつりあげた。奇妙な、魍魎《もうりょう》のようだった。

「……黙っていたのか」
「いえ、あの子が犯人だったことは昨夜、初めて知ったわ」
「そもそも、なんで知ってるんだ」
「藍沢さまが見つけてくださったの。あなたを探すつもりだったのだけれど、そこに直紀の死体があった。それで藍沢さまはお父様を呼んだ。で、お父様から教えられた」
「そんな、馬鹿げたこと……」
 ありえるわけが──
「ありえるのよ。そろそろ現実をごらんなさいな。くどいわ」
 姉は、そんな俺の現実逃避《ことば》を、ことごとく粉砕した。
「でもよかったじゃない。これであなたは晴れて当主の座につけて、親友の仇もうてた。十分でしょう?」
「……っ! あんたはなんでそんな平気なんだよ!? 弟が死んだんだぞ? 少しは悲しんだり悔やんだりしねえのかよ!」
「殺したあなたが言えるセリフかしら、それ?」
「っ……!」
 そうだ。たしかに俺が殺した。俺が──ころ、したんだ……。
「私はそろそろ行くわね。あなたをいじめるひまなんてないもの」
 変貌《へんぼう》した。有馬冬子は、冷たいものに変わっていた。その冷たさに、多少覚えがあった。そんな気がした。

 あと一つ、気がかりなことがある。
 俺は弟に対して、明確な殺意を持って殺していた。ああ、たしかに弟のことはきっと許されることじゃない。直紀の犯した罪は、決して許されることではないと、そう理解はしている。
 ただ──あの時、俺はそんなの関係なしにあいつを殺したがっていた。そして結果的になんの迷いもなく、なんの情けもなく、俺は実の弟を殺してしまったのだ。
 なぜ、なのだ。
 少しは迷いがあってもいいものだろう。
 少しは情けがあってもいいものだろう。
 それなのに、俺は──容赦なくあいつの首に刃物を突き刺した。
 普通なら、あんな冷静な判断ができるわけがない。苦しんで、もがいて、結局は死ぬのが大半だろう。たとえその大半のうちに入っていなくとも、あいつを殺すことを、まっさきに考えるわけがない。
 ならこれは──有馬静希という人間の一つの異常だというのか。
 

 そういえば、昔は母によく𠮟られていた。
 俺はハエやアリといった虫を殺すことを、躊躇なく行っていた。純粋な笑顔で、だ。たしかにそのころは、小さかったからかもしれない。
 でも……そんなの、今もあったじゃないか。
 昨夜。そうなんだと、俺自身が証明してみせた。

「──、ああ」

 なんて、ことだろう。
 本当に──自分の正体がわからなくなってきてしまった。


 それからしばらく時間が経った。
 俺はベッドで横たわっていた。真っ白な天井。ひどく綺麗な天井が見えるのだが、どうも俺のまぶたの裏にはもっと綺麗で、汚い光景が描かれていた。
 ……そう、直紀のことを思い出していた。直紀との会話、遊んだこと、そんなものを思い出していた。俺が退院したあとはなぜか嫌っていたことも。
 そしてもちろん。俺が殺してしまったことを。
「あぁ……」
 もう、崩れそうだ。
 自分の正体が何なのか。
 なぜ、直紀があのように人を殺し、喰らうようになったのか。

────この遊びを教えてもらったとき……。

 いや待て。
 あのとき、直紀はなんて言っていた?
 この遊び──つまりは人を殺して、喰うこと。そんな人として外れた行為を、教えてもらった?
 誰に? 誰だ?
 わからないままだ。
 こんこん。扉からそんな音が鳴った。誰かが来たのだろう。でも、誰とも会いたくなかった。俺は「悪い。帰ってくれ」と扉の向こうにいる人に突き放すように言った。
「いいえ、そういうわけにもございません」
「え?」
 その声は昨夜、聞いた声。藍沢さんだ。
「失礼します」などと言って、俺の部屋に入ってきた。「体調はいかがでしょうか?」
「あのなぁ、勝手に入って──いや、なんでもない」入ってこないでくれ、と言おうとしたけれど、やめた。「そんなことより、何の用ですか?」
「昨夜の出来事は覚えてらっしゃいますか?」
「──ああ。そういうことですか。そういえば藍沢さんが俺を探しに来てくれたんですよね」
「ええ。たしかにそうですが、なぜ知っているのですか?」
「姉さんに教えてもらったんだですよ」
「ところで、直紀さまとは接触いたしましたか?」
「……さあ」
「直紀さまが殺害なされた件、ご存じですか?」
 知ってるに決まってる。
「ああ……今、その話はしたくないんです」
「お気持ちは理解できます。ですがあの現場には凶器が残されていました。短刀でした。刃物には見事、直紀さまのものと思われるk津駅が付着していました。そして柄の部分。これに、静希さまの指紋が確認されました。警察の調査で判明したことです」
「……それを、なんで藍沢さんが?」
「一身上の都合と申しますか、仕事柄仕方ないと言いますか、まあそんなところです」
 この人はいったい、何を隠しているんだ?
「とにかく、もう嫌なんだ。もう結論は出ているんですよね? ならさっさと俺を逮捕でもしてください」
 そうでもしてくれないと、俺は耐えられない。
 この罪はあまりにも重すぎるんだ。
「いえ、誠さまが何とか抑えてくれています。ですがそれも時間の問題。できることはたった一つ。自首してください。そうすればきっと罪は軽くなります。そのあとの刑期も短くなるでしょう」
 自首、か。そのほうがいい。俺もずっと、そうしたかったんだ。なら望んで行かせてもらおう。
「わかりました。じゃあ俺、すぐに行って──」
「あのことがわかるまで、こう言おうとしてました」
「え?」
「質問します。強烈な眠気などを感じた覚えはありますか?」
「いや、そんなことは──」
 あった。直紀に首を絞められている途中、脳を覆うような眠気が襲いかかってきたこと。
「ありますね。私が現場に駆けつけたとき、たしかにあなたは倒れていて、そして唇に粉状のものがいくつか。それで調べてもらった結果、睡眠薬だということがわかりました」
「睡眠薬?」
 待て。俺はそんなものを口に入れた覚えはない。
「どうやら自分で投与したわけではないということですね。なら、他者によって投与された。投与された睡眠薬は効果が出るまで三十分ほどなんですが」
 たしか俺があの路地裏に到着したときには、二十二時三十分をまわっていたと思う。それで俺が起きた時間は二十二時十五分。ちょっとした誤差があったとしても、その時間はたしか、俺がちょうど寝ていた時間ではなかったか。
「あの。たぶんなんですけど、俺、外に出る前に寝てたんです」
「つまり、そのときに?」
「はい」
「なるほど。ならあなたはまったくの無実である可能性が高い。いやほぼ確定と言ってもいい」
「でも……」
「でも?」
「本当に、違う誰かが? 俺じゃないんですか。もし俺があの瞬間、眠ってしまったとしても、あのあとの場面はなんだったんですか」
「あのあとの場面?」
「俺、たしかに殺したんです。この手で。そのときの感覚がちゃんと残っている」
「それは……私にはわかりかねます。ですが睡眠薬の副作用と言いますか、デメリットとして悪夢を見るものもございます。おそらくそれは、そういった類いのものではないのでしょうか」
 数秒、数十秒と続く沈黙。鉄のように重い沈黙であった。まるでその沈黙自体が俺の頭上にのっているようで、少し、気分が悪くなった。
「では、ここで失礼させていただきます」
「あ……はい」
 俺は床に視線を落として、じっとしていた。
 藍沢さんが立ち去っていく。
 足音が遠くなっていくのを感じたとたん、俺の視界に一枚の長方形の小さな紙が落ちてきた。
 俺はそれを拾う。見てみると、そこには「藍沢探偵事務所 所長藍沢雅臣」と書いてあった。ほかにも電話番号や住所なども書いてあった。
「あの、これ」
「はい? あ」
「藍沢さん、探偵だったんですか」
「……違うね」
「書いてます」
 ちゃんと藍沢雅臣という名前が。
「とにかく違う」
「書いてます」
「……はぁ」
 藍沢さんはあからさまな呆れた態度でため息をはいた。いったい何に呆れているのだろう、と質問するのが恐ろしい。
「わかりました。私の事情をお話しします」

「探偵、だったんですか?」
 ある程度の事情を聴いた。その間は黙っていたのだけれど。
「はい、そうです」
 目をつむり、何かを考え込むような神妙《しんみょう》な顔で言った。
 しかし驚きである。まさか彼が探偵だったとは。
 でも、一番の驚きは、
「それで──有馬家から、殺人鬼がいる、と?」
 その言葉を受け入れたくなくて、俺はゆっくりとその言葉を口にした。
「ええ、そうです」
 連続猟奇殺人事件の犯人……でも、それは直紀だった。俺がそれを言うと、眉《まゆ》を少しはねて、表情を固くさせながら話を続けた。
「だが、直紀くんが犯人だったとはね。まあ、なんであれ依頼は完了だな」
 彼の口調はいつものとは違っていた。話した以上、隠すことはない、という意思なのだろう。
「待ってください。まだ、こっちも話していないことがあるんです」
 立ち上がろうと腰をあげようとした藍沢さんを俺は呼び止めた。藍沢さんは一瞬腰を上げた状態でとどまって、すぐに腰を下げて座った。
「直紀。あいつ、言ってたんです。この遊びを教えてもらったとき、って。なら、この発言通りに考えるなら。直紀に、殺人と──人喰いをうながした奴がいるんじゃないですか」
「……ほう。なるほど。貴重な情報を教えてもらったよ、ありがとう」
 そう言って、今度こそ藍沢さんは席を立って、背中を見せた。たぶん真犯人が見つかるまで、残ってくれるのだろう。それで藍沢さんは扉を抜けて、ゆっくりと閉めた。
 足音が扉の向こうから聞こえる。少しずつ小さくなって、やがて消え入るようになくなった。
「はぁ……」
 大きくため息をついた。
 疲れはもうとれている。体が弱いくせに、回復力や生命力は高いらしい。矛盾しているかのようだ。

……直紀を、殺した。
 でも、俺が殺したわけじゃない。
 悪夢によって植え付けられた罪の意識。けれど、それは虚構だと伝えられた。
 彼は俺に憧れていた。俺をしたってくれた。たぶん俺は、入院前に直紀にその憧れを踏みにじるようなことをしたのだろう。これだけは、たしかな事実だ。
 頭痛。まただ。パターンも解ってきた気がする。走ったり運動したり、つまり過度に体を動かしたとき。それと、入院前の記憶──例を挙げれば、俺の憧れであり、親友であった少年のこと。それを思い出すと、頭が痛くなる。まるで、その先は立ち入り禁止で、踏み込んじゃいけないときつく注意されているかのように。
「ふぅ」
 気晴らしに部屋の外に出よう。
 俺はベッドから起き上がって、扉の向こうに行った。
 赤いカーペット。見たくない。なるべくちょっと上に顔を上げよう。このカーペットを見ると、昨日のことを思い出す。
 廊下の窓。そこから庭が見える。庭は花畑。たくさんの花が咲いて、それはもう一つの芸術作品だ。
 白い彼岸花。やたらと彼岸花が咲いていた。たしか庭の花を植えているのは姉だったっけ。
 目を細める。庭の花畑の中心に姉が立っている。風が吹いているのか、姉の白いワンピースと長い髪がなびいている。
「ほんと、花好きだよなぁ」
 後ろ姿しか見えないので、彼女の顔は見えないけれど、きっと微笑んでいるのだと思う。
 俺は窓から視線を外して、また顔を上げながら歩いた。
 そこでロビーに着いた。俺は二階の東館に部屋を置いている。姉と直紀は一回の東館に部屋がある。一回の西館は食堂や執務室、両親の寝室や図書室など、たくさんの部屋がある。
 それで、二階の西館。俺は行ったことがない。父からは行ってはいけない、ときつく言われている。それにここには誰も入ったことがないらしい。姉や弟、両親──給仕《メイド》でさえ入ったことがないらしい。ということは、掃除が行き届いていないので、ほこりがたくさんなのだろう。
「まあ、ちょっとぐらいいいよな」
 別に怒られるぐらい、なんともない。
 俺は西館の廊下に踏み込み、その先へ進んだ。灯りがないので、携帯のカメラを起動して明かりをつける。廊下にカーペットはない。一歩一歩進んでいくと、床がぼろいせいか、床がきしむような音がする。
 左右に携帯の明かりを向けると扉がある。それも、数えきれないほどに。しかもよく見てみると、扉のドアノブに南京錠《なんきんじょう》がかかっている。立ち入ってはいけない、ということだろうか。
 俺は奥へ進んだ。恐怖心や怯えはあるものの、足はまだ快活に進めている。奥へ、奥へ、奥へ。ただただ野心を燃やすかのように、俺は奥へ進んでいったのだ。

 そして──一つだけ、南京錠のかかっていない扉があった。右にも左にも、鍵がかかっていない扉があった。奥だから、あまり検閲《けんえつ》が済んでいないのだろうか。
 俺は、その扉の薄汚れたドアノブに手をかける。……異常に冷たくて、一瞬手を離したけれど、俺はそのあとは迷わずドアノブを回した。

「そこで何をしているの?」

 言われて、俺は右を向いた。でも結局、その姿を確認できなかった。理由は単純に、そのときにはもう俺の視界は黒く染まっていた。


  /2 九時二分 有馬邸


     〝藍沢雅臣〟


 僕が彼──有馬静希の部屋で情報を聞いてから、もう一時間ほど経っていた。


 あの少年の姿は、まやかしだ。
 僕もその時とやらを覚えている。あまり思い出したくないが、有馬静希という人間はもういない。ならば眼前にいる、顔色のいい少年は何なのか。それも、僕がこの少年の担当医であったことまでさかのぼる。

──あの少年は今でも、有馬静希を演じ続けている。

 演じ続けなければいけないという使命を、本人は知らず知らずに受け入れている。あの生き様はまるで道化師のようで、彼の姿を前にすると吐き気がするのだ。

「思い出さないよう、努力していたつもりなのだがな……」

 ほんとう、迷惑な話だ。
 あの日、けたたましく鳴り続ける固定電話なんて無視しとけばよかった。まあ、そうしたところで助手が出ていただろうけど。
 有馬という苗字を聞いて、僕は少し震えていた。背中を百足が這っているような、そんな感覚が伝わってきたせいだ。
「さて、次は」
 執務室。今、僕は屋敷全体の掃除に取り組んでいた。義務だから仕方ないが、毎日やっていると、習慣になってしまい、そのおかげでこうして掃除をしていないと落ち着けない性格になってしまった。

「また小言を言われるかなあ」

 こっちはこっちできちんと探偵業を進めているというのに、有馬誠という中年は僕に会うたびに小言を言ってくる。そこで何か言ってしまったら怒鳴られるので、結局は黙るしかないのだが、どちらにせよ地獄のようだ。

 そうしているうちに執務室の前に到着してしまった。
 その瞬間、嫌な予感というものがいくつもの鋭利な刃物となって、背中を刺してくる。
 それと、鼻腔《びこう》をつく異臭がわずか。木製のドアのすき間を通じてきているのがわかる。

 僕は深呼吸をして、勢いでそのドアを開けた。

 目の前に広がるのは──惨状だ。ああ、案の定だ。本当に嫌な予感というものは当たるらしい。

 デスクの前で血を流してしんでいる有馬誠。僕はそれに歩み寄って、その死体を観察する。

 見事に心臓の当たりにナイフが刺さっている。あと他には顔や腕などに暴行を受けたような傷あとがある。他にも切り傷も。おそらく、すぐに殺されたというわけじゃない。

「ん?」

 それに、この凶器。果物ナイフか。ということは食堂から持ってきたものらしい。

「つまり、犯人は有馬誠を殺害することを計画していた」

 衝動による殺害ではない、ということがわかった。
 あとこのナイフの柄に血痕のようなものがある。

「犯人は手に傷を負っていた……?」

 部屋は若干、荒れている。イスや机なども横転してしまっている。争った形跡だ。

「争っていた?」

 一方的に暴行を受けていた、ということだけではないらしい。有馬誠も抵抗はしていたのだろう。

「ん?」

 死体のそば。足元に一本の長い毛があることに気が付いた。それを手に取ってみる。色は黒。つやのある髪の毛だ。

「犯人は女性ということか」

 断定はできないが、おそらくその可能性は高い。
 犯人が女性。もし、そうだとするならば。そしてもし、有馬誠が本当に有馬家《ないぶ》から狙われいたとするなら。犯人はあの人しかいない。

 僕は死体から離れて、デスクのほうを見た。引き出しが開いている。そこには何か手紙のようなものと、ナイフのさやがあった。

「ん、どういうことだ?」

 ナイフのさや。あの胸に刺さっていた果物ナイフのものか? つまりナイフの所持者は有馬誠だった、ということか?

 あと、この手紙。
 重なっている、いくつもの手紙。僕はその一番の上の手紙を手に取って、中身を読んだ。

「翌日、あなたに会いに行きます」

 たったこの一文のみ。他は何も書いていない。
 他の手紙も手に取って読んでみた。
 それは有馬誠に対する中傷や皮肉などを含んだ警告文のようなものだった。

「いや、これは……」

 警告は警告だが、子供のいたずらではない。
 一緒に同封されていたリスト表のようなものがある。なんだろう、と思いながら読んでみると、名前のようなものがずらりと綴られている。そしてその名前に赤いペンでバツが記されている。

 手紙の文章によれば、誠の持つ会社員の名前が書かれていて、しかも全員行方不明だという。

「つまりこれ……」

 このリストに載っている人たちは、有馬誠によって消された、ということか?

 手紙を戻した。見つけたものがあったからだ。デスクの上に手帳のようなものがある。

 その手帳を開いてみると、ページ一枚だけでももう文字が詰められている。
 さらりと読んでいくと、気になる文章があった。

『〝奴〟はもう、私の何もかもをつかんでいる。私は静希に邪魔な奴らを消すよう命じたのも、脳移植のことも、何から何まで知っている。あの探偵も高い金を払っているというのに、全く動かん。役立たずだ。そして、その〝奴〟からまた手紙が届いた。内容は私を殺しにくるというもの。もう限界だ。いずれ襲いに来るというのなら、迎え撃ってやる。』

 このページは他のページと比べてみると文字がやたらと汚い。おそらく相当焦って書きなぐっているからだろう。

 ──この文章に心当たりのある単語が存在する。

 脳移植。
 父・有馬誠から寄付してもらった多額の資金による、医療技術の二十段先にまで駆け上ることを意味する、大規模な発展。

 極秘で行われた手術は表面上、成功という形で終えた。だがその後、有馬静希には記憶の混濁、不安定な精神状態など、多くの問題が発生した。そのため、結局のところ手術成功の正式発表もキャンセルされ、この事実を知る者は一部のみとなった。

 つまり、だ。
 有馬静希は有馬誠にとって邪魔なものを消すための道具でしかなかった。だが、ある事件が起こり、静希は死亡。だが現場にいたもう一人の少年──彼にまだ活きていた静希の脳を移植し、静希という人物の存続に成功した。しかしそれを全て知っている者がいて、有馬誠に対して憎悪を抱いているものが、その情報を利用して誠を追い込んだ。

 その犯人が、彼女ということか。
 消去法で考えれば、彼女としか考えられない。


  /0  ある、夏の想い出


 少年は、公園に来ていた。
 学校から帰って、帰宅し、何もすることがないから来た、という単純な理由。
 その公園はいわば行きつけの場所で、少年にとっては暇つぶしの場所でしかないのだ。
 少年は公園の砂場で泥だんごや川を作るのが常であった。だから今回、一人でそれらを作ろうと思い、公園におもむいたのだ。が、しかし砂場を占拠している者が、一人、いた。
 なにやらただ砂をいじっているだけ。砂場で遊ぶ道具なども持っていない。ただうつろな瞳で、砂をじっと見つめながら、手を動かしていじっているだけだった。
 少年は不思議そうに首をかしげたあとで、遠慮なく、彼に話しかけた。

「砂をいじってるだけじゃ、つまんないよ」

 少年の声に驚きもせず、彼は振り返った。すると彼は少年をにらむように見つめていた。しかし少年はそんなものを一切気にせず、彼の横に並ぶ。

「砂場はさ、こういう道具を使ってさ、泥だんごとか山とか川とかを作って遊ぶんだよ」

 少年は袋からスコップなどの砂場用の道具を取り出し、実際に掘ってみせた。彼はいまだに少年をにらんでいたが、だんだんその視線は動くスコップに移っていった。

「……これは、なに」

 彼は初めて少年に話しかけた。

「あ、これ? これはねぇ、バケツっていうんだよ」

 彼は不思議そうに見つめていた。

「見たことねぇの、バケツ?」

 彼はうなずいた。

「変なやつ」

 少年はそう言って笑ってみせた。彼にはなぜ笑っているのか、わからなかった。
 少年は彼と一緒に川を作ってみせた。交代でスコップとバケツを使った。そのあとはバケツに水を入れて、彼と少年は両手を砂や泥で汚しながら、泥だんごを作った。

 そしてもう夕方の五時になるころ、少年と彼は別れた。二人は別れ際に名前を聞いた。

「へえ、有馬静希くんって言うんだ。よろしくね、シズキ」

 いきなり呼び捨てで呼ぶものだから、少し慣れなかった彼。

「よ……よ、よろしく」

 照れながら、彼はそう言った。

 それから彼と少年はいつもの公園の、いつもの砂場で遊んでいた。ときどき、ほかの遊具の遊び方を教えたり、少年がボールを持ってきてボール遊びを教えてあげたりしていた。

「へえ。親、厳しいんだな」

 もうすぐで五時になるころ。彼は少年に自身の悩みや家庭事情を話していた。いわば彼にとって、少年は憧れの存在だ。なにか助けてくれるのではないかと思ったのだ。

「それならさ、うち来いよ」
「え?」
「いやまあ、泊めてもらえるかわかんねえけどさ。それでも、イッパンカテイってやつを体験すればいいんじゃないかな──」
「いいの!?」
「え、あ、ああ。そりゃいいに決まってるだろ」

 それから少年の家にたびたびお邪魔することになった彼。思った通り、少年の家族は優しかった。暖かい人たちばかりだった。だから彼は初めて家に来て、遊んで、帰るころ、大泣きをした。少年は母から何かしたの、と問いつめられ、困っていたが。

 そして彼と少年が知り合って、半年を過ぎるころ。
 彼は初めて、少年を自分の屋敷に誘った。
 少年は驚いていた。屋敷の華やかさに驚くばかりだった。少年はどれを見ても、「これ何!」と言うだけで、彼は喜んでいた。
 しかしいつも誘うときは、彼の両親や姉がいないときだ。彼の弟だけはいたけれど、弟はあっさり少年を認めてくれた。
 屋敷で高級菓子を口にしながら、屋敷のなかを探索していた。
 けれど、二階の西館に行こうとすると、彼が不自然に少年を止めた。

「もっと、別のところ行こう? ここより面白い場所があるぜ」
「……あ、ああ」

 彼の額に脂汗《あぶらあせ》が流れているのが見えた。
 少し心配になったが、少年は見なかったことにした。
 それが、まずかったのだろうか。


 いつの日か、公園に彼は来なくなった。
 だからある日、少年は彼の屋敷へ訪ねた。そのとき、父らしき人が迎えてくれた。優しい笑顔だった。でも、なんだろう。その人の瞳は、どこか少年を嫌っているような、陰《かげ》りのある瞳だったように少年は思っていた。

 少年は彼の部屋に訪れた。

────え?

 少年は、その光景に対する言葉を吐露《とろ》した。
 うまく、言葉にできない様子でいた。それこそ、「え?」という言葉ぐらいしか浮かばなかった。

 彼はナイフを持って、女性を殺している。
 機械的に。あくまで、機械的に。
 彼は右手のナイフをその肉片に刺しこんだり、あるいはえぐったり切り裂いたり。子供のおもちゃみたいだ。


────ああ。

 なんだ、これは。少年はそんな言葉が思い浮かぶばかり。

────ああぁぁ。

 少年のなかの語彙力が急速に低下していく。

────あ、あぁぁ。

 少年の体はいつの間にか、動いていた。

────あぁ。

 少年には彼の瞳は血で染まって、赤く光っているように見えた。
 実際、彼の視界は赤い。
 彼は少年にナイフの切先を突き立てて、迫ってくる。

 少年は走るようにして、彼に迫る。
 彼は倒れる。少年はその首をおさえる。
 あくまでこれは、少年にとって自信を守るための──いわば自衛本能だ。

 だって、仕方なかった。

 だから、仕方なかった。

 そうだ、仕方なかった。

 そうするべきだったんだから。
 そうすることで自分という人間は生きながらえる。
 なら、こうすることが正しい。絶対に、だ。

 少年はそんな言葉を延々と自分に唱え続けていた。

 そのせいだろう。
 少年は、背後の脅威《きょうい》に気がつかなかった。
 少年の後頭部が鈍い音を立てて砕けた。おそらく、脳にまでダメージは来ている。

 父だった。
 父はなにやら苛立っている。
 父は彼が少年を殺すことを望んでいた。彼が、少年によって毒されていくことを恐れたからだ。だが失敗した。だから父は少年を殺した。


 それが、この事件のきっかけであり、原点。
 そして、その元凶を思い出せ。



 /3   午前午後九時二分

     〝有馬静希〟

 今の夢はなんだったのだろうか。
 思い出そうとすると、軽い頭痛がする。けれど思い出せないわけではなかった。
 あれが、俺の昔の記憶なのだろうか。
 俺の正体は──有馬静希ではない?
 だって、俺が見ていたものは有馬静希という彼《おれ》の記憶ではない。彼《おれ》の憧れであり、彼《おれ》の親友の記憶。容姿も、まさに俺の昔のころの姿であるような気がして、仕方がないほどだった。
 じゃあ、俺は誰だ? 
 有馬静希なのか?
 それとも、あの少年なのか?
 そもそも、なんで俺は少年の名前を覚えていないのだろう。俺にとっての憧れなら、親友なら、名前ぐらい覚えているだろう。
 それに、俺はこの時まで、この記憶さえ正確に思い出せていなかった。それはなぜだ? 
 まるで封印されていたかのようだ。それで長い時間が経ち、その記憶を縛っていた鎖がそっと解かれたような。
 結論はどうなる。
 もし俺が少年だとしたならば、なぜここにいる。
 なぜ俺が彼として生き、彼として当たり前の日常を送っている?
 だんだん、複雑な糸にからまれて、見えそうなものが見えなくなる。そんな感覚が身に染みて、気持ち悪い気分になる。

 そして、俺はずっと閉じていたまぶたを開けた。

 そこは一切、光というものを遮断した場所だった。じめじめと湿っていて、その空気を吸うだけでも胃液がこみ上げてきそうな場所。
 イスに座っているらしい。それで俺の両手は後ろで拘束されている。

「あら、目覚めたのかしら?」

 女性の声。よく知っている声で、聞いていると落ち着く声だ。そう、この声は姉の──有馬冬子《ありまふゆこ》の声だった。
「──!」
 俺は助けて、と言おうとした。無駄だった。口もふさがれてしまっている。
「うーん、それじゃ会話ができないわね。仕方ないわ、そのガムテープ外してあげる。ま、その前に電気をつけなくちゃね」
 真っ黒だった視界が、多少薄暗いという段に変わっただけ。だが姉と言う人間の形を認知できるほどには明るい。

 俺の目の前に現れた姉は、ゆっくり足音をかつかつ鳴らして近寄ってくる。姉は右手を俺の口元に伸ばして、口をふさいでいたガムテープを勢いよくはがした。一瞬、電流がほとばしるような感覚を覚えて、それが痛みなのだと理解したのはテープをはがされ、二秒経ったあとのことだった。

「ここ、どこだかわかる?」

 姉はそう言って、俺の背中を向けた。
「いや……」
 わからない。
「まずそうね。あなた、ここで目覚める前の出来事は覚えているかしら」
「……たしか、二階の西館を歩きまわってて……」
 俺はひどくか細い声で答えた。
 それより、この部屋は臭いもひどい。錆びた鉄のような臭いと腐敗した魚のような臭いがまざった、まさに異臭というものが俺の花を狂わせる。
「そう。そのあとは?」
「そのあと……いや、覚えてない」
「……そう。ほら、西館はほとんどのドアが立ち入り禁止になっているじゃない。でも、あえてロックしていない部屋もあるのよ。そこはね、私が望んでいたものがそろってる」
 望んでいたもの?
 何を言っているんだ、姉は。
 さっぱり理解できない。いったいどういう話なのかを、俺は把握できずにいる。これじゃ置いてけぼりじゃないか。
「姉さん。あんた、何を言って……」
「ここにはね、証拠が残っている。決定的なものよ。それこそあの男が失禁するほどのね」
 あの男、とは誰だろう。あまり不可解な話だ。
 姉は俺に何を伝えたいのかがわからない。そもそも、なんで俺はここで拘束されているのだろう。
「でも、誰にも知られたくなかった。見られたくなかった。この部屋の存在を知ってほしくなかったの」
 姉はこちらをまた振り向いてきた。背筋が凍った。そのとき、姉は不気味なまで唇を歪に曲げていたからだ。悪魔の笑み。いや、人間だからこそ表現できるもの。
「だからね。あなたがこの部屋の前に立っていたのを見て、すぐにそこにあった壊れたイスで殴ったのは、仕方のないことだってことを理解してほしいの」
 殴られた? 俺が? 姉に?
 姉に殴られ気絶し、こんなところまで運ばれイスに固定され、俺は身動きさえ取れずにいるのか。
「……教えてくれよ。ここはどういう場所なんだよ」
「父の裏よ。有馬誠の裏。あの人がどういうことをしていたのか、教えてあげましょうか?」
 姉はそう言って、こちらを嘲るような笑みを浮かべてつづけた。
「有馬誠はね。あなたを使って、自分にとって都合の悪い者をすべて消していたの。殺していたのよ。次期当主たる静希ちゃんを殺人鬼した。でも、本当に都合の悪いことが起きた。静希ちゃんは普通を望むようになった。だから殺人を拒むようになったの。その要因が、静希ちゃんの唯一の友達であった少年。父はその少年をひどく恨んだわ。だから殺すことにした。静希ちゃんの本性を見せ、絶望のままに殺してやろうってね」
 姉は微笑むまま。その笑顔は、最高に気持ち悪い。
「でも結果は静希ちゃんは死んでしまったのよ。少年に殺されてしまった。そんな光景を見て、あいつはどう思うのかしら。まあ、焦ってしまって、考えなしに少年をうしろから鈍器で殴りつける、といったところかしら。そうして結果、少年も死亡」
 話の途中で一瞬、笑顔が消えた。その瞬間、俺のなかで何かが凍てつくような、そんな感覚を覚えた。
「少年は脳に大きな損傷を受けた。静希ちゃんは身体の生命活動を終えた。普通ならここで終わり。でもあいつはこう考えた。少年は器として、静希ちゃんは中身として。それぞれ活きている部分があるなら、それぞれの欠陥部分を埋め合わせてしまえばいいと。そうするための手段として用いたのが、脳移植」
 待て、どういうことだ、それは。
 知らない。そんなことは知らない。
 よく、わからないんだ。
「それであなたが生まれた。新たな有馬静希として。ふふ、まるで道化ね」
「何を……言って……」
「事実よ。それにね。趣味の悪いことにその亡骸もきちんと残っているのよ。前世の有馬静希よ。少しサマが悪いけれど、見る?」
「見るわけないだろ、そんなもの……! 何がしたい? 仮に俺が本当の有馬静希じゃなかったとしても、なんだってんだっ!」
「私には、許せなかった。私の大切な人を、そんなことに使ってしまうなんて許せなかった。だから復讐してやる。そう決意していたのよ」
「な……」
「大好きだった……可愛くて、守ってやりたいと思わせるくらいちっぽけな存在で……。なのに、このような異物になってしまった。偽物なのよ」
 姉は額をおさえて続けた。
「そもそも、有馬一族の起源って知ってるかしら。殺人を繰り返し、平気で人を喰う化け物。化け物にふさわしいぐらい、冷酷だったと聞くわ。その血が父にも弟にも、もちろんあなたにもある。父が憎い私にとってはおぞましいものでしかない。これはね、有馬家の解放でもあるの。大きな欠陥《のろい》を持った者たちが解放されるにはね、この方法をとるしかない」



  /4  午前九時十四分

     〝藍沢雅臣〟

 執務室。有馬誠が死を遂げた場所だ。
 調べた結果、たしかに有馬誠に多くの罪があることが判明した。自業自得と言ってもいい。おそらく、死んでもいいと言える存在なのだろう。
 だが、僕にはそう思えない。
 たしかに彼は非道な男であった。そんな男に金をもらったのだと思うと、あまり良い気分ではない。
 だとしても、この世に殺されていい理由など存在しない。それが正義のよる悪への断罪だったとしても、そんな自己中心的な正義など正義とは言えない。単なる私怨だ。
 だから、それは受け付けられない。
 誠殿、あなたはたしか、僕にこう言った。犯人を捜しあて、そいつを殺せと。だけど、それは藍沢の信条に反する。
 だから僕は殺さない。

 僕はそう決心して、部屋から出た。
 まずは警察に電話だろうか。
 そして僕が部屋から出ると、白い彼岸花のように美しい女性が、そこにいた。

「あら、藍沢さん。父の部屋にいたのですね。あ、それよりお父様は……?」
「……お嬢様。大変図々しいとは存じております。ですが、どうしても頼みたいことがあるんです」
「はい? どうしたんですか? そんなに堅くならなくていいんですよ」
「では遠慮なく。警察に電話していただけますか。ここで殺人があったと」
「殺人……!? な、なにを……」
「お願いします! 今、頼れるのはあなただけなんです!」
 僕は頭を下げて言った。今までにないくらいキリがいいものであったと自負できるほど。
「それじゃ父は……?」
 僕はそこでは何も言わなかった。その沈黙を正しく受け取ってもらえたようで、姉の有馬冬子は「わかりました」と言った。
「それでも質問したいことがあります」
「はい」
「いったい、誰が……?」
 僕は顔を上げて、彼女の瞳のなかをじっと見つめるようにして言った。
「有馬直子。彼女しかいませんよ。あなたに成り代われる人なんて」
「……それなら、わかります」
 彼女もある程度の事情を理解していた、ということか。
「それと私からも一つ。静希さまの行方はご存じですか」
「さっき部屋に行ったんですけど、いなくて。どうしてですか?」
「まずい……! とりあえず電話よろしく頼みます!」
 危機感。それが頭部から噴き出す冷や汗となっていくの感じた。その瞬間にはもう、全速力で有馬冬子から離れていた。背後から声が聞こえるが、悪いがそんなのは無視。
 屋敷のロビーにたどり着く。狭い間隔で鳴り響く足音。赤を基調とした内装は、なぜか見るだけで急がないといけないという思いが強まっていく。

 どこにいるだろう。
 有馬冬子が言うには、静希は自分の部屋にはいない。
 もし僕が犯人だとしたら、どこに隠す? 屋敷の全体構造が頭に浮かぶ。
 条件としては部屋の数が多く、通常鍵を閉められている場所。

「藍沢さん?」
「澪先輩?」
 東館から出てきたメイドのその子は、この屋敷の全体構造をきちんと捉えているはず。なら聞いてみたほうがいいだろう。
「澪先輩!」
「は、はい?」
 僕は彼女に迫った。急ぎたい一心だったからか、彼女を少し怖がらせるまで距離を詰めてしまった。僕は自分が冷静さに欠けていることに気づいて、少し離れる。
「ど、どうしたんですか?」
「一番部屋の数が多い場所ってどこですか。それと、通常は鍵が閉められている場所」
「え、えっと……それなら二階の西館……だと思うんですけど」
 わかりました、と僕は言った。
「あ、あそこは立ち入り禁止で……!」
「今だけは許して!」
 僕は彼女に背中を向けて言った。
 階段を昇り、僕は二階の西館に入った。異質な空間だ。異常なまでに怪しい雰囲気が漂う場所だった。

「暗いな」

 僕は最初から持っていたペンに懐中電灯の機能がついたその道具を胸ポケットから手に取り、目の前を照らす。

『焦りは罪だが、急ぐのは善行だ。それと常に冷静さは保て』

 ふと教えられた言葉を思い出す。僕は幾度もその言葉を咀嚼して突き進んだ。

 どの扉も南京錠で閉められている。ピッキングぐらいは可能だが、針金は一本しか持ち得ていない。だから開けるとしても一発勝負。あまりにも上等すぎる勝負だ。

 どうすれば区別できる。
 どうすれば静希と犯人が入っている場所を特定できる。

 何か、決定的な足跡が一つでもあればいい。それを決して見逃すな。見逃したらそこで終わりだ。

 どこにある……! 
 頼む、何か手がかりを……!

 僕はそこで、何かを見落としていたような気がして立ち止まった。ドアの前。なにか破片のようなものがある。

「ガラスの破片……?」

 小さなガラスの破片。それと光が当たっていた壁には薄いけれど、血痕が残されている。

 一か八かになる。それでもいいのか。

「上等。やってやる」

 僕は左ポケットから針金を手にした。冷たい感触。全身から噴き出す汗。体温は見事に上昇している。でも、それでも指先だけは冷たいままだった。



 /5  午前九時二十分
 
     〝有馬静希〟

 頭が……痛い。
 ひどい頭痛だ。

「頭が痛いのかしら?」
「……っ!」
「あら、ごめんなさいね。加減はしたつもりだったのだけれど、ガラス瓶で殴ってしまったせいね」
 ガラス瓶……か。
 そりゃ痛いわけだ。
 そういえば時間はどれくらい経ったのだろう。軽く一時間は言っているじゃないかと思うが、実際のところ、そこまで経ってはいないだろう。
 俺に関して言えば姉の話ばかり聞かされて、もううんざりと言ったところだ。

「まあどっちにせよ、殺すつもりだったしね。死んでもよかったのだけれど」
「……なあ」
「なにかしら?」
「こっちから質問しても、いいかな?」
「ええ、どうぞ」
 俺は姉から視線を外して、目を伏せた。じりじりと体が焼かれていくような感覚。まあ、こんな状況になれば誰だって緊張する。
「直紀にお遊びを教えたのは、あんたなのか」
「ええ、そうね。もともと直紀は私が直接手を下さないようにするために育てたものだから。それが暴走して連続殺人なんて起こすものだからたまげたわ」
「……あんたは誰だ?」
「────」
「ずっと、思ってたんだ。俺があの西館へ来るとき、廊下の窓から姉が見えたんだ。白い彼岸花の咲く、あの庭にいた。俺はその直後、
西館のほうへ行った。けっこう奥まで行ったんだよ。だっていうのに、すぐあんたは現れた。本当はつけていたんだろ、俺のこと」
「……ふうん。まあ、好きに言ってればいいじゃない」
 図星、か。
 じゃあこの人は誰なんだ。
 それを考えると、背筋がぞくりとした。恐怖というものだった。

「ごめんね。やっぱり、黙ってて」

 唐突にそう言われ、口を再びガムテープで塞がれた。彼女の声はどこか焦っているような様子が見られた。


/6  午前九時三十分 有馬邸

       〝藍沢雅臣〟

「よし……!」

 ピッキングは成功。だが針金は壊れてしまった。
 だが鍵が開いたと思った瞬間、音は鳴った。それはおそらく向こうにも聞こえているのだろう。
 心臓は大きく高鳴る。破裂してしまうんじゃないかと思うぐらいだった。脂汗が額から噴き出して、右目に染みる。痛覚は健在。だが目の前のことが大きすぎて、痛いという感覚すら忘れてしまった。

 覚悟を決めよう。
 もしかしたら待ち構えているかもしれない。

 僕はドアノブを握りしめ、大きく音を立て、そのドアを素早く開けた。

 ……誰も、来なかった。

 てっきり犯人が襲いに来るのかと思ったが、来なかった。
 間違いだったのか、なんてことを考えた。でも、まだそんなことはわからない。

 おそるおそるその一歩を踏み出した。
 今のところ部屋に存在しているのは静寂と────一つの人影だった。それに光を当てる。

 額に血がついている。頭部を殴られたのだろうか。それ以外に外傷はないようだった。

「っ……! 静希くん!」

「────!」

 静希くんは僕を見つけては、目を大きく開けて、驚いていた。首をバカみたいに横に振って、静希くんは僕に何かを伝えようとしているのがわかった。

 僕はその口をふさいでいるガムテープをはがした。

「後ろッ!」

 ただ一言、部屋に響き渡るぐらいに大きな声でそう言った。

「あ……」

 背中。本来、入ってはいけない異物がずぶりと入ってくる。その瞬間、背中はどんなものよりも熱くなった。直接火をつけられたのか、と思ったぐらいだ。
 だが、違う。
 刺されたんだ。僕は有馬直子に刺された。

 やばい。やばい。やばい。
 目の前が揺らぐ。歪曲した空間。まるで異世界だ。

 意識は朦朧《もうろう》となり、目の前の空間が転がる。いや空間が転がったんじゃない。単純に……僕の体が……たおれ、ただけ……。


 /7 午前九時三十五分 有馬邸

     〝有馬静希〟


「藍沢さんッ!」

 声が上ずってしまうほど、それは大きな叫びだったと思う。

「ふふ……幸運だったわ。これで鼻の利く邪魔者はいなくなった。残念ね。唯一、あなたを助けてくれる人がいなくなったわ」

 右手を口にそえて、笑いをこらえようとしている。けれど、彼女はとうとうネジが外れたのか、こちらの頭のなかまで響いてきそうなほど大きな高笑いをした。

 肩を揺らせて、人を殺して、それがどうもおかしくて笑っている。しかしそのよく見ると、彼女の指先は小刻みに震えている。

 なるほど。直接手を下したのは、この瞬間のみらしい。

「てめぇ……!」

 憎い。にくい。ニクイ。
 俺は殺人鬼を睨みつけた。このまま呪い殺せたならいいのに、と静希《オレ》が願っている。

「そんなこと言ったって、しょせん縛られている身。あなたは何もできないわ。こうして私に殺されるだけなの」

 ぎしりと歯が軋む。
 そのとき、歯にひびが入ったのがわかった。血が出ているのだろう、鉄のような味が舌に染みる。

 冷静になろうにも、歯ぎしりが止まらない。
 歯茎に電流が走ったように感じているのに、目の前の存在が憎くてどうしようもなかった。

「……でも、わかって? これも全て、息子のためなのよ。あなたのお友達のためなの」

 高笑いがやがて止んだころ。
 女は真正面にこちらを向いて、そう言っている。けれどその唇は醜いまでに引きつっている。

「……」

 もう──言い返すことすら馬鹿馬鹿しく感じた。

「──大切なものを奪われた。なら奪い返す。わたしにできることなんて、それぐらいしかないのよ」
「……!」

 彼女に向けられていた視線を横にずらす。
 彼女の肩。その先に、見えないはずのものがある。俺はその見えないものを信じて、行動に移すことを決心した。 

「息子を救うためなのよ。仕方ないことなの。こんな、汚れた血にさらに汚された息子を解放するためなの」
「ああ……だけど、少年《おれ》は今生きていることにすごく感謝している。たとえ贋物《にせもの》でも、人間によって作られたものでも──静希として生きることになっても。俺は、有馬静希は──日常《これから》を生きたいんだよ……!」

 俺はそう口にして、足で強く地面を蹴る。片足で蹴って、飛ぶような勢いで前へ進んだ。そう、ちょうどその女に当たるようにして。

「きゃっ!?」

 いきなり突進してきた俺に驚いて、たじろぐ女。すぐさまそいつは俺と衝突して倒れる。もちろん俺もそのまま流れるようにして、イスと一緒に地面と倒れこんだ。

 すると予想通り、反抗してきた俺に意識が集中する。女はおそらく鬼のような形相で、俺の腹を何度も何度も蹴り上げる。それは一つの呪いのようだった。

 胃液がのどまでせり上がる。これ以上殴られたら、血が混じった吐しゃ物がぶちまけられることだろう。

「このっ……このっ……このォ!」

 怒りで精いっぱいだ。
 これで作戦成功。もうこれで俺にできることはない。

「……そこまでだ」
「え……!」

 右手で相手の右腕をつかんで、足で相手の姿勢を崩す。そして相手の右腕をうしろに回して、左手で背中を抑える。

 息は絶え絶えで、弱り果てた男はそれでもなお、全身にわずかに残っていた力を振り絞り、相手を拘束した。

「……すまないな、静希くん。長い間、きみを苦しめてしまった」
「……よか、った」

 少しぐらい話したかったけど、何度も蹴られたせいだろうか、もう限界がそこまで来てしまっている。

 /8 午前九時三十八分 有馬邸

「離して……! 離してよ!」
「悪いが、それはできない。このまま警察と一緒に行ってもらうよ」
 藍沢雅臣は有馬直子をきつく拘束し、動けないようにしていた。しかし雅臣自身も限界だ。背中には未だにナイフが突き刺さっている。背中の異常な熱度もまだ下がってはくれない。
「藍沢!」
 そこに雅臣の友人──同時に刑事でもある永井啓二が来たことにより、犯人の確保に成功した。そのあとすぐに救急車が呼ばれ、静希と雅臣は運ばれた。

 次々に来た刑事によって直子はパトカーの後部座席へと案内された。これにて、有馬直子という女性の犯行は止められた。


 翌日。
 雅臣は目覚めた。そこは近くの総合病院の病室だった。
「あれ、ここは……?」
「せ、先生……!」
「了くん……なぜここに?」
 雅臣が目覚めたベッドの横に、イスに座って涙目を浮かべている助手がいることに気が付いた。
「よかった……よかったぁ……!」
 ついには涙を流してしまう助手──京極了。
「……そうか。生きていたんだな、僕は」
「びっくりしたんですからね、こっちは。先生が病院に運ばれたって、永井刑事から電話で教えられて……」
 ああ、そういうことかと雅臣は納得する。
 しかし、そんなことよりも有馬静希がどうなったのかを聞きたかった。何度も腹を蹴られたため、おそらくあそこで気絶したのだと思うのだが……。
「なあ了。有馬静希っていう子がどこか、知ってるか?」
「いえ、知りませんね。てか誰ですか、その人」
 了がそう言うと、病室のドアが開いた。そこから現れたのはスーツ姿の有馬冬子だった。それが一瞬、有馬直子に見えてしまって身構えてしまったけれど。
「こんにちは」彼女はそう言って、雅臣のもとへ近づいた。「まず謝罪からですね。このようなことに巻き込んでしまい、申し訳ございませんでした」
「いや、そんなことは……」
 これでも有馬誠に金をもらい、正式に依頼を請けた身だ。巻き込まれた、などという意識はない。
「誰ですかこの美人」
 了が食い入るように質問してきた。
「相変わらずだな……きみ」
「初めまして。有馬家長女の有馬冬子と申します」
「はい、よろしくお願いします!」
 了はあまりにも的外れな返事をした。しかし優しいのか、天然なのか不明だが、有馬冬子は首をかしげた。そうしたあとで雅臣の顔を見て、続けた。
「それとお礼です。弟を、いえ有馬家を助けていただき、ありがとうございました」
 そう言って、冬子は右手に持っていたケースをこちらに差し出してきた。冬子はケースを開けて、中身を見せた。それは──一千万はいくほどの大金であった。
 雅臣と了は呼吸を止めて、目の前の紙幣の塊がどういうものなのかも、すぐに認識することができなかった。
 そういった時間が五秒ほど。
 それで雅臣と了は顔を見合わせて、こくりと頷いた。
「じゃあ遠慮なく──」
「いりません」
「え……先生……?」
「ど、どうしてですか? もしかして、もっと──ですか?」
「いえ、そういうことではなく。もうお金はもらっていますし、これは仕事です。必要以上に報酬をもらうのはズルってものですよ」
「……そうですか。わかりました」
 冬子はそっと微笑んで、そう言った。
「あと伝えたいことが……」
「はい?」
「今朝、彼女と面会してきました」
 彼女──有馬直子のことだろう。
「それで、なんと?」
「はい。全てを話してくれました。まず先に伝えておくことがあります。実の母はもう、死んでいるんです。だからあの人は私たちとは血のつながらない母だったんです」
「それは……」
「弟の──静希の、えっと……体のほうの母親だったんです」
「……」
 つまり、有馬誠によって殺された少年の母親、ということなのだろう。
「当然、私たちを恨みました。生き返らせるなんてこともして……憎しみであふれているのも、うなずけました。それで彼女、父と結婚にこぎつけたんです。何もかもをお金にして、自分の身も父に売って。不運なことに自分の姿までも変えて……」
「整形、ということですか?」
「父が結婚の条件として提示したのが、整形なんです。せめて見た目だけでも見合う存在になれ、と。それで父に渡された写真が、私の写真で……」
 有馬誠という男はどこまで非道なのか。
「それで彼女はその姿を利用して、計画を立てた。有馬一族を全て消すためにです。私になりすまして、静希をだまして……病院の見舞いに行ったのも、私じゃなくて彼女なんです」
 有馬冬子の姿へと変えた彼女は、その姿を利用し、有馬静希をだましていた。
 有馬直子は息子を奪われた一人の被害者であり、有馬家をおびやかした加害者でもあった。
「そうですか……」
 そこでしばらく沈黙が続いた。
「申し訳ございませんでした」
「え、いやなんであなたが謝るんですか……?」
「僕は、以前医師でした。静希くんの手術をしたのは僕なんです。このことを、ずっと明かせずにいました。本当に、申し訳ございませんでした」
「そう、だったんですか」冬子はそう言われても、怒らず微笑みながら言った。「静希を、二人を助けてくれてありがとうございました」
 予想外だった。
 礼を言われることではない。普通ならば責められる立場のはずだ。だというのに彼女は雅臣を許し、感謝を述べた。
「お礼なんてとんでもない。僕は……してはいけないことをした。僕も加害者の一人なんです」
「違いますよ。あなたはただ人を助けただけなんです。それがどんな形であれ、二人はまた新たな人生を踏み出すことができたんですから」
 雅臣はそのとき、まぶたの裏が熱くなるのを感じた。視界が揺らぐ。雅臣の目は涙でうるんでいた。
「ありがとう……ございます」
「こちらこそ、改めてありがとうございます」
「この言葉は怪我が治ったら静希くんにも──そして、直子さんにも必ず伝えます」
「はい。ぜひ、そうしてください」


「美人でしたねえ」
 有馬冬子はケースを持って、病室をあとにした。
「そればっかりだね、了くん」
「ま、そういう性分ですから。じゃ俺、仕事戻りますわ」
 了は席から立ち上がり、背を向けようとしていたが、雅臣に呼び止められた。
「そういえば了くん。そっちの仕事はどうだったの?」
 雅臣はふと思いついて言った。あの電話以降、了とはまったく連絡をとっていなかった。だから了が請けていた仕事はどうなっているのか、把握できていないのだ。
「事件は無事、解決しました。雅臣さんに引けを取らないぐらい、観察力や推理力が優れている人が、俺を助けてくれました」
 そうか、と雅臣は安堵するように胸をなでおろす。別に京極了という人間の実力を過小評価していたわけではない。むしろ優秀だと思っている。しかしやはり心配だったので、結果を聞いて安心したのだ。
「でも……大切な人が一人、亡くなりました」
「……それは」
 そのあとに続けるはずの言葉が、思い浮かばなかった。どう言葉をかければいいのか、わからなかったからだ。
「綺麗な死に顔でしたよ。本当に、生きていたときと同じぐらい、活き活きとした顔だった」
「────」
 ついには言葉を失ってしまった。
 かけるべき言葉を探そうとしても、見つからない。今の彼の心境に最適な大事な言葉が見つからない、だなんて。
「失礼します。一応、明日も来ますね」
 そう言って、了は病室の扉を開けて出ていってしまった。
 きっと彼なら、明日にはもう元気になっていることだろう。けろっとすっかり忘れて、へらへらと含んだような笑みを浮かべて、相変わらずの女好きっぷりを晒して。
 だが、それは単純に強がりなんだということは、了という人間を見つけたときから分かっていたことなのに。

 これで、有馬家での事件は収束したのだろう。
 雅臣にしてみれば、あまりに長かった。そしてあまりに普通で、異常な愛を見てしまった。それが果たして正しいものなのか、間違ったものなのか、それはわからない。
 たしかに彼女は罪を犯した。それを許すことなど、できない。
 だがそれも、息子に対する親愛あってこそのものだと思うと、やはり報われないのではなかろうか。

   
      終章・了


      最終章

 一か月後。


────ふと、目覚めた。

 有馬静希は屋敷の自室で目覚めた。
 事件後、病院に運ばれ数日ほど意識を失っていたが、やがて目覚め、その翌日にはすぐに退院した。退院する前、静希は藍沢雅臣に礼を言おうとして、会いに行った。
 けれど、いなかった。
 退院したというわけでもなく、ただ散歩に行っていたということらしい。待つことだってできたが、静希は拒んだ。そこには静希なりに思うことがあった。会ったところで、お互いまだ口を開けないだろう、という。

「んーっ」
 体を伸ばす。すると自然とあくびをしてしまう。
 時計を見れば、朝の八時。そして日曜日。学校は休みだ。
「さて」
 静希はベッドから出て、クローゼットを開け、着替えた。衣擦れの音がしながら、パジャマから私服に着替えていく。
 そうして静希は部屋から出て、食堂へ向かう。ロビーに出て、中央階段を降りて、一階の西館へ向かった。その途中で、二階の西館への入り口には立ち入り禁止のテープが貼られている。今度、あそこは改修工事をするらしい。

「おはようございます」
 静希が食堂に入ると、そこには水川澪がいた。
「ごめんね、澪。たぶん起こしてくれたんだろうけど、俺、なかなか起きなかっただろ」
「いえ、私は全然」
 どうやらあまり気にしていないらしい。
 次からちゃんと起きよう、と静希は思った。
「静希、おはよう」
「ああ、姉さん。おはよう」
 食堂ですでに席に座って、料理を待っている有馬冬子が静希にあいさつを投げかけた。それに合わせて、静希も言う。
 静希は言ったあとで、冬子と相対するようにしてテーブルにつく。その直後、何人かの使用人によって料理が運ばれた。
「こうしてみると、姉さんとはこれまであまり話していなかったね」
 あの事件解決まで、静希は姉ではない人を姉と勘違いして話していた。おそらく、姉と話したのはたったの一回か二回ではないだろうか。
「そうね。わたしも、あまり静希とは話していなかったわ」
「……やっぱり俺が」
「あのね、いつまで気にしてるの。自分が偽物の弟だとか本物だとか、そういう話はわたし嫌いよ?」
 あの事件以降、静希はずっとそのことを気にしている。自分がこの有馬家にとって異物でしかない。今までずっと、有馬静希という人間を演じていたんだ。そんなふうに自分を責め続けている。
「でも……」
「でもも何もないわ。あなたはこの有馬家唯一の男性で、現当主なんだから」
 次期当主であった有馬直紀が亡くなって以降、次期当主の座は空いてしまった。今まで有馬家は男性が当主を務めていたため、当然その座には静希が座ることとなる。そして事件解決のころには有馬誠がついていた現当主の座は空いてしまったので、もちろんそれを静希がつくこととなる。
 つまり今、有馬家当主を務めているのは有馬静希なのだ。
「ごめん。朝から弱音吐いた」
「大丈夫よ。でも、気にしてしまうのは仕方ないわ。でもね、これだけはたしかなの」
「ん?」
「今のあなたの姿はね、あのころの静希にとっては願いが形になったようなものなのよ。あなたは今、普通でいられてる。誠による呪縛に縛られず、自由に生きていられる」
「……そっか」
 静希は冬子に微笑んでみせた。
「なら、よかった」
 ──だって、それは。
「親友《おれ》にとっても、うれしい」
 そう、まるで救われたかのような声で言った。

「あと、今日墓参りしなきゃ」
「そうね」
 静希は週に一度、事件で巻き込まれた大輔や、直紀と誠の墓へ行っているのだ。
「でも、その前にお客さんが来るから、いつもの時間よりは遅くなるわ」
「お客さん? 誰だろう」
「あなたにとっても、わたしにとっても、大事なお客よ」
 そう言われても、静希には首をかしげることしかできない。誰なのか、と訊いてみても冬子はなかなか答えてはくれない。サプライズか何かか? と思っていた。

 それから静希と冬子は朝食を終え、だいたい午前九時になったころだろうか。静希は冬子に連れられて、同じ西館にある談話室に行った。
「お迎えしなくていいのかな」
「いいのよ。澪が迎えに行ってくれるから」


 ロビーには澪がいた。
 澪は玄関扉の前で待ち続けている。それで九時五分をまわったころに、扉はノックされた。
 そして澪は扉を開ける。
 そこには、顔を見るのはあまりに久しぶりな……色白で、銀髪で、長髪で後ろで結んでいる……その人は、

「澪先輩。久しぶりです」

 セリフの内容とは相反するような、澪が毎日聞いていた声でそう言った。


 談話室で待つ二人は、無言のまま待っていた。
 そうしていると、たった五分でも十分に感じてしまう。

「あ、足音」
「来たわね」

 談話室の扉の向こうから足音が聞こえる。
 静希は誰なのだろう、と思いながら扉が開くのを待っていた。
 数秒して扉はノックされた。
「静希さま。冬子さま。お客さまです」
 扉の向こう。澪はそう言って、扉を開けた。
 そこに現れたのは、
「久しぶりです」
 藍沢雅臣だった。
 雅臣は二人と相対するようにして席にソファに座って、改まった様子で頭を下げる。
「藍沢さん……」
「ごめんね。少し、時間が空いてしまったようだ」
「いえ、全然。だけど、今日はいったいどのような用で?」
「ずっと、話せなかったことがあってね」
 雅臣はその話を昨日、ある一人の女性にもしてきた。そのあとで有馬家に電話をかけ、冬子に明日来ると伝えていたのだ。
「静希くん。これは君に関わる話なんだ。そして聞いてしまったら……君は僕を嫌うかもしれない。それでも構わないけれど、僕は最後まで話すよ」
「……わかりました」
 静希はおそるおそるうなずいた。
「そっか。ありがとう」
 雅臣は目を伏せて、そう言った。
 そして顔をあげる。
「僕はね。昔は医者だったんだ──」


    有馬奇譚・了



































 












 







 



















 
 

有馬奇譚

執筆の狙い

作者 キヨシ
124-150-224-222.ppp.bbiq.jp

ミステリーを一度書いてみたいと思い、この作品を執筆しました。
今まではファンタジー作品ばかり書いていましたが、どれもキャラが薄かったので、今回はなるべく薄くならないよう書いてみました。

コメント

一陽来復
n219100086103.nct9.ne.jp

すいません、読んでないです。

タイトル見るなり・画面開ける前から「嫌な予感」がしてて、
開けて1秒でそれが的中(確認された)んで、書いてますが、


タイトル変えた方がいいです。

タイトル変えないことには、「ガッカリ」後「ムカッとする」人続出で、
反感買いまくる・・と思うから〜。

作者自身のためにも、
タイトル変えた方がいいです。



このタイトルだと、

どうしたって
【一年の締めくくり・特別なビッグイベント:有馬記念で、奇跡のような鮮やかなことが起きる、素敵なストーリー】
を読者は期待しちゃって、、、


それを裏切るばっか・・だと思うんデステニー。



読んでないから、レスはいらない。

一陽来復
n219100086103.nct9.ne.jp

「世の中、競馬してる人ばっかじゃない!」
「有馬は、有馬稲子って女優もいたし、有馬温泉もあるだろう!」


作者は異を唱える・・んだ・・ろう。


けど、でも、いまの世間では『馬娘プリティーダービー』が流行中! だもんで、
(↑ ゲーム一切やらない人間なのと、馬娘のアニメ化は見たことないので、その現物は知らないが〜)

競馬やってない人らの間でもちょっと妙な競馬ブームと盛り上がり・・なんだと思うし、
(JRAの売り上げが過去最高更新とか言ってた気がする……)


「いま」は新春で、
ついこないだ「有馬」があってから いくらも日が経過していないので、
《いま、このタイミングでここにコレを上げる》だと、まあどうしたって、そういう感想になる・・かなー
(苦笑)

ナメクジ
M014013068096.v4.enabler.ne.jp

(爆)
ごめんなさい。私も題名につられて、主人公の少年は、てっきり馬だと思ってしまいました。でも、違うみたいなので、休憩です。後できます^^;

ナメクジ
M014013068096.v4.enabler.ne.jp

後で来ます、といいましたが、きっと3分の1あたり、その辺まで読んで、あまりにも自分の世界と違うことに気づいて挫折しました。私は地べたを這いまわってじたばたする話を基本にしているので、ごめんなさい、後はダメでした。謎解きはディナーの後で、とか、北村薫の覆面作家とかを思いながら読んでいたのですが、あっちにあったキャラの楽しさとか、あまり感じませんでした。
文章とかは悪く無いのですが、起章の目線、視点かな、なんかがどこに視座があるのかわからずに、少年が子供なのか、大人なのか、悩む箇所がありました。10歳とわかるまで、ちょっと混乱しました。
 窓に向けていた視線を・・に移す、とか、ここも子供っぽい語りでよかったのじゃないかと思ったりしました。
 でも、兄や姉とのごちゃごちゃ、ゴシックロマン風で、最後まで読めばきっと面白いと思うのですが、なんせ、私の苦手な設定で、お騒がせしました。どうも、すみません。

キヨシ
124-150-224-222.ppp.bbiq.jp

ナメクジさま

私の作品を読んでいただき、その上、アドバイスもありがとうございました。

このアドバイスをもとに作品を修正していきたいと思います。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内