作家でごはん!鍛練場

遠き潮騒(仮題)

序.
カラカラと北風に巻かれ、枯れ葉が足元にすがりつく。絶え間なくそそぐ波潮が細かな泡となり、微かに音をたてながら消えてゆく。
「あぁ……さぶい」
膝を抱えたくなる程の、凍てつく寒さが身に染みる。
山々をおおう雲の底辺が、朱色に染まり始めると、けあらしに霞む赤灯台の灯が、いつの間にやら落ちていた。
「今日も漁には出ないのか」
緩めかけたロープを縛り直す裕一を見ながら、泰三が声を掛ける。
「こごえちまうべや……」
裕一が、ボソリと呟く。
流氷は、遥か沖合いにあった。
「意気地のねえ野郎だな、そんなことだから……」
泰三はドカジャンの襟を立てながら、言い掛けた言葉をすんでのところで呑み込んだ。
「……今日はしけるべ、漁には出ん方がいい」
裕一が空を見上げる。
彼方に游ぐオオシロワシの体がぐらついた。先ほどよりも波頭が白い。乾いた風が潮のしぶきを遠くに飛ばし、泰三の横面を少しだけ濡らした。
「ふんっ……これしきの風なら大丈夫だべ!」
出る気のない裕一の背中に声を掛けながら、桟橋に視線を落とす。
弾ける波潮の傍らで、テトラポットにへばりついた消えずに残る薄汚れた泡の塊が、なんだかすこぶる哀れに思えた。
「今日はお前非番だべ、パトロールが終わったら帰って寝るのかえ」
縛り終えると裕一は泰三に尋ねる。
「ああ、『潮騒』で飯食ったら、帰って寝るだけだ」
非番の日には派出所からの道すがら、港の食堂で、遅い朝飯を済ませてから帰るのが常であった。
「潮騒か……」
裕一が視線を逸らす。
「なんでお前、諦めたんじゃ」
すかさず泰三は、うなだれる裕一に詰め寄った。
「ウニ漁もまともに出来んようになって、こんままじゃ、のたれ死んだって知らんからの!」
知床の、海のうねりが波打ち際に砕け散ると、怒号は無惨に泡となった。

一.
神奈川県 警察本部。
神奈川県を管轄区域とした54の警察署を有する大規模警察本部であり、警察官、一般職員合わせ1万7千人を統括する。本部所在地は横浜市中区海岸通。庁舎は20階建て91.8mの高層ビルである。
「凄い眺めね……横浜港、みなとみらい、富士山迄一望出来るのね」
県警本部20階地上83m。ガラス張りの展望ロビーからの眺望に、麻生 真由理は息を呑んだ。
「素敵な職場じゃない、新見くん」
「景観を楽しんでる余裕は無いよ、毎日が緊張の連続さ」
「通称、神奈川県警。本部長の階級は警視監。要職の階級にあっては警務部長が警視長、各署長の階級は、大規模署のうち12署が警視正、それら以外の各署は警視の者が就く。東京警視庁に次ぐ、警察及び公安の要ね、無理ないか」
「やけに詳しいな、推理小説でも書いているのかい」
「ううん、違うわ。わたしが描きたいのは純文学だもの」
真由理は新見から視線を逸らし、山下公園に目を落とすと、
「異人さんに連れられて……行っちゃった、か」
ぽそっと呟いた。
「新見くんは、ここから上を目指すのね」
「どうしても、行くのか」
「うん……。今夜でお別れ、かな」
「フランス語は大丈夫なのか」
(くだらないことを聞いてしまった……)「ふふっ、専攻はフランス文学だったからね~、パリは憧れだったもの」
新見の心中を察し、真由理は明るく返した。
「ニューグランドだ、19時にディナーの予約も取ってある」
「えっ、そんな高級なところ……」
「最後の夜だ」
「……うん、わかった。時間まで元町でも散策してる」
・・・・・ 
一ヶ月前……
静岡県警察 三島警察署刑事課
「署長室に呼ばれたって、新見主任は何をやらかしたんだ、神奈川に異動とは」
「いや、出向だよ。とは言えど、栄転のようなものだ。神奈川県警には居ても2年間くらいだろう」
「しかし、地方公務員が他県に、聞いたことがない」
「昇任試験に受かったようだ、ノンキャリア組では最短での警部補だ。警察庁も高く買っている」
「そこのふたり、驚く程のことではない。優秀な人材が全国に飛ぶのはよくある話だ。ふふっ、新見 啓一郎……。成るべくして成った、それだけのことさ」
川村 修は、溢れんばかりの笑みをうかべ、目を細めながら窓の外を眺めた。

「新見巡査部長、この度は警部補昇任おめでとう」
「署長、ありがとうございます」
「噂が広がるのは速い。早速で申し訳ないが、来月から神奈川県警に出向して貰いたい」
「神奈川に、出向ですか……」
「あぁそうだ。ここ10年来、神奈川県警管轄の署員による不祥事が後を絶たない。裏金問題、2003年から2008年までに、警察本部の会計担当者が、業者に預ける経理操作の手法で公金をプールし、総額11億余円が不正に流用されていた事が判明」
「存じあげております。公安調査庁調査第一部長を務める前本部長が減給、513人が訓戒、注意など、何らかの処分を受ける対象者は全部で531人に上る見込みだとか」
「そうだ、他にも不祥事は毎年のように発覚している。2006年鎌倉で、日本の警察史上初、制服を着た現職警察官による公務中の空き巣事件。2007年、厚木警察署刑事一課巡査部長の強制わいせつ罪。2009年、機動捜査隊の巡査部長が相模原市の民家に押し入り、住人を殴って逮捕される。2010年、厚木警察署の超過勤務強要が発覚……」
「2011年3月、逗子ストーカー殺人事件で、加害者に対し脅迫罪の逮捕状執行の際に、逮捕状に記載された被害女性の結婚後の名字や転居先住所などを2回読み上げた。これにより加害者がストーキング対象の女性の結婚後の名字や住所を知り、殺人事件につながった。11月、大和警察署の46歳の男性警部補が、署内の女子更衣室や女子トイレなどに侵入し、盗撮を繰り返していたとして書類送検」
「ほう……」
「2012年、川崎警察署の刑事第二課長が、本部捜査第二課在籍時に横浜市会議員から長年に渡り、金品を受領していた事が発覚。2013年2月、本部捜査第二課の警部補が、本部敷地内で酒酔い運転し、そのまま公道に出ようとしていた事が発覚。2014年5月、相模原警察署地域課の巡査部長が、覚せい剤取締法違反容疑で警視庁組織犯罪対策第五課に逮捕される。新宿歌舞伎町でパトカーの職務質問を受けた際に言動が不審だったため、尿検査を行なったところ発覚」
「その通り、流石だな。細かなものまで入れたら切りがない状態だ。そこで警察庁は大規模な人事刷新の一環として、近隣都県からの出向も視野に入れた。君に白羽の矢が立ったと言うわけだ」
「白羽の矢、ですか」
「そういう理由だ。神奈川県警本部長は私と同期でね、静岡県警を通し、この三島署からも優秀な人材を希望された。どうだね、行ってくれるかい」
「望月警視監ですね。警察学校で特別講義を拝聴したことがあります」
「君らにとっては雲の上の存在だろうがな、現場の若返りを図りたいそうだ」
「ご命令とあらば何処へでも。出向期間はどれ程でしょうか」
「2、3年になるだろうな」
「……承知しました」
(真由理……) 
・・・・・ 
ホテル・ニューグランド。
開業昭和2年、横浜山下公園前に建つ、日本のホテル史と共に歩んできた由緒あるホテルである。
「美味しかったわ。あっそうだ、これ、
さっき元町を歩いてたら見つけたの。新見くんに似合うと思うんだけど、サイズはいつもと一緒だから大丈夫。遅くなったけど栄転祝いということで、えへっ」
真由理は照れ隠しの舌を出しながら、紺色の紙袋を新見に手渡した。
「ミシンのロゴ……これは、信濃屋じゃないか。ありがとう」
「FRAY社のシャツをモディファイドした白の長袖よ。イタリア好きだものね。ふふっ、ドルチェビータとか」
「万年筆、オーロ。覚えていたのかい」
「うん、忘れないよ」
(出逢い。初めて男の人にときめいたもの)「あっそうだ、このあと山下公園を散歩しよ、水の守護神像を見てみたいのよ。噴水がライトアップされてるわ」
「あぁ、そうしよう」
真由理との出逢いは運命だったのかも知れない。思考の中に、常に彼女の存在がある、彼女の思念に導かれている。それは、もう一人の自分と言っても過言ではない。
もうこれで、終わりなのか…… 
・・・・・ 
麻生 真由理…… 
文学部出身で、三島市立図書館の受付をしながら、小説家を志していた彼女の洞察と聡明さに、憧れ以上の感情を抱いていた。
あの日から新見は、彼女の思念と照らし合わせることで、事件の「不条理な闇」ともいえる刹那を、平明に捉えることが出来るようになる。
大学卒業後警察学校を経て、派出所での勤務を1年勤めた新見は、2年目から静岡県警三島署の巡査長刑事として配属された。ノンキャリア組としては2年目で巡査長は異例である。新見のそれは、派出所時代の功労が大きく影響していた。
沼津駅前派出所に勤務して半年後、駅近くの仲見世商店街の居酒屋で事件が起こった。
酒に酔った中年男性客が隣席の若いカップルとトラブルを起こし、持っていた登山ナイフでカップルの男性を威嚇した。
110番を受けた派出所から急行すると、止めに入った店員の大腿部を刺し、出血を見て動転した男がナイフを他の客に向けている。
新見は瞬間的に「いかん!」と声を張り上げ中年男と客の間に入り、自らの左上腕を切りつけられながらも、ナイフを持った腕を掴み背負いで投げ倒した。倒れた男の片手に素早く手錠をかけ後ろ手にしてから、もう片方の手首にも手錠をし、男が身動き出来ないのを確認した後、刺された店員を仰向けにして大腿傷の状態を目視し、三和土にあった座布団を二つ折りにすると、止血の為店員の膝の下に当てた。
一瞬の出来事に、客達は身動ぎ出来ず、呆然と立ち尽くしている。
「店員さんタオルとビニール袋を速く!」
との呼び掛けに、ようやく周りが我に返った。
新見は中年男に睨みを利かせながら、負傷した店員の股下足のつけね部分をタオルできつく縛り、傷口に三つ折りにしたフェイスタオルを二枚重ねた後、感染防止の為ビニール袋で自身の手を覆うと、タオルの上から傷口を押さえ、出血具合を確認しながら近くに居た客に座布団を要求し、足を更に高く上げた。
他の客は不安な目で見守っている。
暫くして、救急車と所轄の刑事が現場に到着し、負傷者は処置後直ちに病院に搬送され、犯人は逮捕された。
自身の上腕の傷にタオルを当てながら肩口で頬の汗を拭った瞬間、客達は新見の背中に向かい一斉に拍手を贈った。
振り返り、その状況に唖然とする新見であったが、直ぐ様背筋を伸ばすと腰を折り、頭を深く下げた。
拍手は暫く鳴りやまなかった。
翌日の各社朝刊には事件の記事が一斉に載り、地元のメディアで大きく取り上げられ報道されると、新見は一躍『時の人』となった。 
三島署入署後間もなく、市立図書館に来館し真由理と出逢った。話し掛けたのは彼女からだ。
捜査に関わる資料を何冊か選別しカウンターに行くと、
「あなた新見さんでしょ、お巡りさんの」
と、貸出し担当の女性から声を掛けられた。
眼鏡をかけた賢そうな顔立ちだが、表情は無く冷たい感じを受けた。歳は新見よりも上か……まばたきをせず、口角が微かに動くような話し方が印象的である。
「知っていますよ、ご活躍はネットニュースで読みました。沼津には立派な図書館があるのにここで借りるんですか」
新見がまだ、一言も発していないのに話し続ける。
「あぁお住まいがこちらなの、今日は非番ですか。でも、スーツを着て……そうか、刑事さんになられたのね。三島署ですか」
「ぷっ……」
思わず吹き出してしまった。
「いや失礼。あなたこそ刑事のようだ」
新見の反応に満足したかのように、真由理の表情から初めて笑みが溢れた。
そのギャップに、「素敵な笑顔だ……」つい口を滑らすと、
「写真だと堅い印象を受けたけど、結構チャラいのか。ごめんなさい一方的に、麻生と言います」
真由理は、嫌みの無い笑顔を向けた。
「あらまぁ真由理ちゃん、笑うのね。仕事中に笑うの初めて見た。お知り合いなの」
隣で事務をしていた中年女性が、目を丸くしてこちらを見つめている。
「麻生 真由理さん、と仰るんですね」
笑いながら新見は、胸ポケットから万年筆を取り出すと、メモをとるジェスチャーをした。
「ドルチェビータですね。限定品のオーロですか、素敵な色だ」
イタリア製のお気に入りのオレンジを誉められ、真由理の笑顔にくぎ付けになった。
・・・・・
「水の守護神。朝も昼も、そして夜も……ずっと海を見つめているのね」
山下公園は1930年に関東大震災の復興事業として、震災の瓦礫などを使って海を埋め立てて開園したもので、日本で初めての臨海公園と言われる。噴水の中央に佇む像は、横浜の姉妹都市であるアメリカ、サンディエゴ市から寄贈された。
「なんだか、別世界に迷い込んだみたいね」
埠頭からの夜景に、真由理は感嘆した。
9月下旬の夜風は心なしか肌寒く感じられたが、透き通った空気は、湾岸沿いに散りばめられた宝石をより一層輝かせた。
「三本のマッチ、一本ずつ擦る、夜のなかで。はじめのはきみの顔を隈なく見るため、つぎのはきみの目をみるため、最後のはきみのくちびるを見るため……。ふふっ、もらってきちゃった」
「それは、ニューグランドのブックマッチじゃないか」
「この、フェニックスのロゴが可愛くて」
真由理はマッチを握りしめると胸に置き、
「残りのくらやみは今のすべてを想い出すため、きみを抱きしめながら」
と、ジャック・プレヴェールの続きの詩を詠み、新見に体をあずけた。
Des milliers et des milliers d’années 
Ne sauraient suffire 
Pour dire 
La petite seconde d’éternité 
Où tu m’as embrassé 
Où je t’ai embrassée 
Un matin dans la lumière de l’hiver 
Au parc Montsouris à Paris 
À Paris 
Sur la terre 
La terre qui est un astre.
「ん、フランス語は苦手なんだ。なんて意味だい」
「何千年でも、何万年でも、足りやしないだろう、あのほんの一瞬の永遠を語るためには。きみが僕にキスをして、僕がきみにキスをした、あの時、冬の光あふれる朝、パリのモンスーリ公園で。パリで、この地球上で。この地球、それは宇宙の一つの星……。この詩もプレヴェールの作品よ」
「ジャック・プレヴェールか、『枯葉』くらいしか知らないが。そうだ、元町のスリーマティーニにでも行くかい、雰囲気がいい。ここのドライマティーニは格別だ、洒落たジャズを聴きながらカクテルでも……んっ……」
真由理は新見を見つめ、そっと両頬に掌を添えると、言葉を遮るかのように、情熱的にキスをした。
「……ホテルに、戻りたいな」

「あぁ、そうしよう」
・・・・・ 
夜明け…… 
カーテンから差し込む、優しげな朝陽に照らし出されるウェーブがかったつややかな髪。
指を絡ませ、真由理の安らかな寝顔を見つめながら、新見は時の儚さを愁いだ。
 
真由理は静かに目覚める。

「すまない、行かなければならない」

「…………」

「……事件だ」
 
二.
第一回捜査本部会議 横浜緑警察署。
横浜市緑区にある神奈川県警察が管轄する警察署の一つ。識別章所属表示はNH。 横浜市警察部隷下、第二方面に属する中規模警察署である。
「被害者は佐伯 孝35歳、男性独身。職業は横浜理工科大学、生物資源学部海洋生物学科の准教授をしております」
「発見現場は横浜市緑区、大型ショッピングセンター、ネクストバリューの第二駐車場。本人所有の車の後部座席で腹部及び、左背部を刺された状態で発見されております。発見時間、9月28日午前5時頃。近隣の住民が犬の散歩中、不審車両に気がつき……」
「おい、あの男は誰だ、吉川警部の隣に座っている男だよ」
会議に遅刻した所轄の山下 誠司巡査長は、訝しげな顔で望月に尋ねた。
「県警本部の新見警部補です。今回の人事で確か、静岡から出向して来た方ですね」
「出向の警部補、若いな。この事件は所轄の仕事だろ、なんで本部の人間が居るんだ、まさか……。お前、何か望月本部長から聞いてないか」
「いいえ、叔父からはなにも」
「まぁ、そうだろうな」
「おい! そこの二人、私語は慎め。山下遅れて来て、何か掴んで来たんだろうな」
所轄の吉川 実警部は眉間に皺を寄せ、
凄味を効かせる。
「えぇまあ、後ほど報告します」
「よしわかった……。では続けてくれ」
吉川は意味ありげににんまりと笑うと、鑑識課担当に目配せした。
山下は自分を見つめる新見に鋭い視線を送る。新見は左の口角を少し上げ、微笑してそれに応えた。
「…………」
「死因、左背部を刺されたことによる出血性ショック。司法解剖の結果、刺し傷は大動脈に達していました。凶器は刃渡り9cmの登山ナイフで、抜かずにそのままの状態でした」
「犯人は返り血を懸念したか」
山下はぼそっと呟いた。
「先ず犯人は腹部みぞおち部分を刺し、被害者が逃げようとして背中を向けたところを後ろから刺しています。後部左ドア取っ手に、被害者が掴んだ際に残されたであろう血痕と、被害者の指紋が検出されております」
「腹部を手で押さえた後に、逃げようとしたんですね」
望月の問いに、
「当たり前のことを聞くんじゃねえよ」
山下は吐き捨てるように答えた。
「死亡推定時刻、司法解剖の結果、前日27日23時から24時の一時間。胃の残留物及び直腸検査、死後硬直具合から判定されております……」
会議の途中、白腕章を付けた刑事数人がぞろぞろと会議室に入って来た。
「あれは、特別鑑識、それに麻薬捜査……鬼の安藤」
山下は怪訝な顔で新見に視線を移した。
新見は会議室入り口を見るや、瞬時に立ち上がり素早く敬礼をした。
「何事だ……」
山下の疑問は直ぐに解決される。
「等々力警務部長。て、ことは……」
県警本部ナンバー2の登場に、緑警察署長はじめ、捜査員全員が立ち上がり、一斉に敬礼をした。
「そこまでだ。只今この時間より、所轄から神奈川県警に捜査権限が移行した。被害者のアウディから麻薬が検出された」
全員が沈黙する。時間は午前11時を回っていた。
「今後は県警本部に特別合同捜査本部を設置する」
「合同捜査かよ、やりにくいな。ん、待てよ。この席に県警の警部補、新見と言ったか、奴が居たということは、端からそのつもりだったのか、野郎っ!」
山下は、声をおし殺し望月に言うと、固く握り拳をつくり、新見を凝視した。
「殺人事件の捜査に関しては、神奈川県警の木内警部が指揮を執る」
「なんだ奴はキャリア組か、黒縁眼鏡の陰気野郎、30前の若造じゃねえか、殺人事件に重きを置いてねえのか……てことは、麻薬捜査が主導かよ、益々やりにきぃ」
「山下さん、聞こえますよ」
望月が制した。
「尚、補佐をする新見警部補には、所轄を統括して貰うことになるので、皆よろしく頼む。合同捜査に移るにあたり、これ迄の捜査資料は全て、新見警部補に提供するようお願いする。以上だ」
等々力警視長は新見に目配せすると、そそくさと会議室を後にした。木内警部以下、腕章の捜査員達が後に続く、新見は敬礼をしながら見送った。
一行が退室すると、会議室内は俄かにざわめき立った。
「新見の野郎は太鼓持ちか……、キャリアの木内もそうだが、俺と歳は変わらねえ。まぁここは、お手並み拝見と行きますか。県警の警部補さんよ」
「…………」
新見に向けた山下の鋭い視線に、望月は絶句した。
「急ではあるが、先ほど警務部長が仰った様に、ここからは新見警部補に指揮を執ってもらいます」
捜査員達のざわつきの中、新見は緑署署長に一礼すると、促された中央の席に立つ。
疑心の眼差しは、容赦なく新見を蜂の巣にした。
「県警の新見 啓一郎と申します、よろしくお願い致します。では、続きの鑑識報告からお願いします」
ざわざわとした不穏な雑音は、新見の言葉を打ち消した。鑑識課には届いていないらしい。
「…………」
署長の杞憂に新見は笑顔で応え、暫く様子を見ようと椅子にゆっくり腰かける。
「野郎、動揺しねえのか。しかし、これでは会議になるまい」
山下は腕組みをしながら、高みの見物を決め込んだ。隣に座る望月はこの状況に顔を赤らめ、わなわなと震えている。
「おい、どうした望月よ」
山下の言葉を無視し、望月は咄嗟に立ち上がると、
「義を見てせざるは勇無きなり! 皆さん、会議に集中しましょう」
と、声を張り上げる。
(ふっ、やれやれ。優等生が) 
山下は後輩刑事の行動に、長髪の頭をかいて、苦笑いをした。
新見はその若者を見るや、
「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり!」
と、瞬時に返し「君の名は!」と問うた。
「所轄の望月 司巡査であります!」
「経歴は!」
「入署、2年であります!」
二人のやり取りに室内は静まりかえる。
捜査員の数名は、自身を省み下を向いている。
(一挙好転。へへ、やるじゃねえか……) 
山下は目を細め、新見を見ながら心で呟いた。
「ありがとう。では、鑑識課より続きの報告をお願いします」
「警部補、彼は望月警視監の甥だよ」
署長が新見に耳打ちをする。
「なるほど、そうでしたか」
望月は武者震いしながら、憧憬の眼差しでこちらを見つめていた。
「被害者アウディの室内には、犯人らしき指紋が多数検出されております。照合したところ、該当する人物は見つかっておりません。又、被害者の遺留品ですが財布がありませんでした。物取りの犯行も視野に入れ、捜査を進めております」
「次に目撃者情報」
「はい、駐車場での事件当夜の目撃情報ですが、店舗前の第一駐車場とは違い、第二駐車場は満車時の緊急時、また、関係者、業者用の駐車場として使われています。県道を渡った場所にあり、防犯カメラの設置はありません。近隣住民及びショッピングセンター従業員からの聞き込みでは、今のところ情報は上がっておりません」
「次に、被害者背景の報告を班長から」
「その前に質問いいっすか」
山下が手を挙げた。
「待て、先に全ての報告を聞いてからだ」
吉川警部がそれを制し、新見に目をやると、
「いいでしょう、確か、遅刻したかわりに何か掴んで来たと」
新見は山下をチラと見、許可を出した。
「山下巡査長、質問をどうぞ」
新見は長テーブルに両肘をつき、胸の前で手を組むと山下に促した。
(なぜ俺の階級を、吉川警部が教えたか。まぁいいが)
「……ありがとうございます、緑署の山下です。先ほど麻薬課、いや、マルボウの連中が何人かいたようですが、先ず麻薬の種類はなんなのか、また、組織犯罪も含め、殺人捜査と麻薬捜査、主導はどちらになるのでしょうか」
「なるほど、良い質問だ」
新見は、捜査員全員を見渡しながら話し始める。
「先ず麻薬の種類はコカイン、純度は60パーセントを越えている。どちらに重きを置くか、現段階ではこの殺人事件が麻薬絡みによるものか、否かにより別れる。その判断は今後の捜査次第だ」
「ん、そこまで解っていて、なぜはじめから合同捜査にしなかったんですか」
山下は落胆をあらわにし、怪訝な表情を新見にぶつけた。
「そこは微妙なところだ、麻薬の件は暫くはマスコミに伏せて進めるという、県警本部の意向もある。しかし、君も感じているように」
新見は一瞬、含みのある笑みを浮かべ、山下に視線を投げた。
「等々力警視長 直直に所轄の捜査本部に乗り込んだこと、又、刑事部組織犯罪対策本部より選抜された先ほどの顔ぶれから予測するに、麻薬絡みの殺人であれば、県警挙げての重要案件となることは確実だろう。広域的な捜査に拡大されることも範疇に入れ、ことに当たるべきだ。すでに厚生労働相及び、各都道府県本部には通達されているはずだ。神奈川県警にも麻薬捜査官が入るだろう……」
「……然るにここは、殺人事件の犯人を早急に逮捕し、全容を明らかにするしかない。……ですか」
「その通り、我々の責務は重大である。それを認識し、捜査して貰いたい」
山下はじめ捜査員全員が生唾を呑み込んだ。
(その指揮を執るこいつは、何者なんだ)
「では私からの質問だが、君は何を掴んで此処に来たのだ。被害者の詳細か」
「あ、はい。被害者の就業先である横浜理工科大学に行っていました。この後の捜査報告でも発表されると思いますが、被害者佐伯 孝35歳は、大学の生物資源学部ではかなり地味な存在でして、学生からの人気は皆無。大学の研究室とアパートをバスで行き来するだけの生活だったそうです」
「うん、それで」
「しかし学生の話では、ここ数ヵ月服装や髪型が以前よりも派手になり、通勤はバスを利用していますが、プライベートで使用するアウディは最近購入したそうだと。私は車好きですが、あのS6アバントは、大学の准教授に買える代物ではない」
「確かにそうだな。中古ならまだしも、新車であれば1000万は下らない」
「それとアパートの大家の話では、マンションを購入予定だから、来月で賃貸契約を終了するつもりだと……。以上です」
山下は、望月の熱い視線を感じつつ椅子に腰を下ろした。
「ありがとう、よく調べたな。では再度、班長より被害者の詳細の報告をお願いします」
新見は言った後で山下に目をやり、大きく頷いてみせた。
「山下さん、凄いじゃないですか」
望月が耳打ちをすると、
「うっせぇ、大したことじゃねぇよ」
山下は悪態をつくが、そんな彼を望月は憎めない。
「被害者住居は、横浜市神奈川区三ツ沢下町◯◯-3 コーポ旭。出身は北海道札幌市で、
最終学歴は青森弘前大学 食料資源学科の大学院。その後同大学の水産研究室の研究員を経て、5年前から現在の横浜理工科大学の准教授となっております。大学では、フコイダンの抽出と食品への添加をテーマにした研究をしています」
「フコイダンというと、コンブやワカメ、メカブなどの海藻にみられる滑り成分ですね。褐藻類の粘質物に含まれる多糖類……」
新見は顎に掌を当て、思考を巡らせた。

三.
海の碧を背景に、エゾスカシユリのオレンジが鮮やかに映える頃、羅臼昆布の「かぎおろし」が例年通り始まると、知床の短い夏もようやく活気付く。
天然昆布漁はウニ漁と同じく、たったひとりで「箱めがね」を口にくわえ、足で櫂をあやつり、カギでひっかけてすくいあげる漁法だ。
「今年も良い出来だ」
初日の漁を終えた漁師仲間と共に、水崎裕一が『潮騒』で酒を呑む。
いつもは午後2時に終う港の食堂は、短い夏のあいだだけ漁師の為にと開けていた。競り場から、せいろが干された細い路地を行った突き当たり。傾いた赤提灯は、昭和の時代から変わらない優しい灯りをともしていた。
明日も朝一番には船を出すので控えるつもりでいたが、どういう訳だか酒を盛る手が止まらない。カウンターには、客達に酌をする進藤彩美が居た。
「裕ちゃん久しぶりだね~」
「あぁ、久しぶり。いつこっちに帰ったんだ」
幼なじみの彩美から酌を受けながら、自身の言葉に後悔し、一口でコップ酒を呷った。
最果ての小さな町での噂は、一晩で流氷が辿り着くよりも速く、裕一の耳にも届いていた。
(誰も、知らんわけないべさ……) 
彩美は一瞬、冷めた目で裕一を見た後に、
「そんなことはいいから、飲みんさい」
と、何も無かったように、空いたコップに酒を注いだ。
「もう、15年ね」
高校卒業後、逃げるように羅臼を捨て札幌に出て行った田舎娘は、見違えるほどあか抜けていた。
「裕ちゃんは結婚したの?」
「あん、まだだ。こげな田舎の漁師に嫁さんなんかこねぇべ」
「あら、そうぉ」
くるんと丸まったまつ毛の奥の瞳が潤んでいる。子供を生んだとは思えないほど、体のラインは美しかった。
(やべえ、やべぇ)
知らずと、酒のペースが速くなる。
札幌での彩美の生活はよくは知らないが、10年ほど前に結婚し子供が生まれたと、風の噂で聞いていた。
出戻った彩美に、連れ子はなかった。
「夏の間だけ雇われ店長、夜だけね。はい裕ちゃん、もう一杯」
「い、いや、もうやめとく。明日も早いべな」
掌でコップに蓋をすると、彩美は少し寂しそうな顔をした。
「ああ今度、泰三でも連れてくんべ、そんときまたゆっくりと」
場を取り繕おうと、つい、泰三の名前を出してしまった。
「泰三……小林、泰三……、泰ちゃんか、こっちにいるんだ」
「交番で、お巡りしとるよ」
「……そうなんだ」
一瞬、彩美の横顔が凍りついたのを裕一は見逃さなかった。
「そこの港派出所だ。俺と一緒でまだ一人もんだで、こんどゆっくりな」
「いいね! 楽しみ~」
はしゃいだ言葉の語尾が少しだけ震えたか、と裕一は思った。
なぜだか彩美に、泰三を会わせてはいけない気がした。
「……じゃ、今度な」
外に出ると夜風が気持ち良かった。
いつもの潮の香りがいとおしい。降って来そうな満天の星空に、下弦の月が輝いていた。
疑念はすっかり忘れていた。

天然羅臼昆布漁は、午前6時に一斉に始まり、終了は、午前11時までと決められている。正味5時間の内に、2回から3回ほど船を出し、ぶっ通しで昆布採りに集中する。
終了とともに急いで帰り、洗いが終わると「干し」の工程に移る。3回ほど干す作業があり、それぞれ「生昆布干し」「湿り干し」「日入れ干し」と呼ぶ。「生昆布干し」とは、字のごとく、採りたての生の状態の昆布を天日にあてて乾燥させる作業で、これにより、昆布の旨味が一気に増す。次に「湿り干し」という作業が待っている。日中に天日干しされ乾いた昆布を、夕方、日が落ちてから干しなおす。一度乾いた昆布を夜露や霧に晒し、湿らせるという作業である。柔らかくし「巻き・のばし」をした後に、最後の昆布干し作業となる「日入れ干し」に移る。これは二度目の天日干しで、湿らせた昆布をまた天日でカラカラに乾かすものである。
裕一は、子供の頃から祖父に連れられ漁に出た。父親は海で死んだ。代わりに育ててくれた祖父の背中が裕一の誇りであった。母親も祖母も海女をしていた。
8月迄の昆布漁が終わると、「乾燥」「ひれ刈り」「選別」などの手が掛かる作業は、家族総出でやっつける。
11月。市場の倉庫には、白箱に納められた天然の羅臼昆布が高くそびえ立ち、正月用にと瞬く間に売れて行く。
年が明けるとウニ漁が始まる。ウニ漁は一般に夏が旬のイメージがあるが、知床羅臼のウニは冬から初夏までである。流氷の間を縫って1月から始まる。贅沢にも、知床羅臼昆布を食べて育った、最高級品といわれるエゾバフンウニだ。棘が短く、やや平べったいまんじゅう型の殻の形から名付けられた。濃厚なうま味が特徴で、利尻、礼文と共に道内での人気は群を抜いている。
「ちっ、今日もかい。これで3日目だ」
今にも一雨来そうな曇天を睨み付けながら、
裕一が地団駄を踏む。
「おーい、裕一あぎらめろ。今日はこっちさ手伝えや」
「あん、今行くさ」
「おめんとこは、昔っから天日だからの」
「おう、いつもすまんのう」
「いいさ。持ちつ持たれつ。舫いじゃ、もやい!」
(ありがてぇこった) 
裕一は、仲間の底引き船に乗り込んだ。
天日にこだわる裕一に、乾燥工程を機械に頼る漁師達は皆、一目置いていた。
裕一の作る天日干し羅臼昆布は旨味が抜群に良い。価格は機械ものに比べ倍の高値で取引きされ、上等な客がつく。それに肖り、市場が活気付き、全体の相場が上昇するのだ。
雨天で漁に出られない日は、漁師仲間の手伝いをし、日銭を稼がせて貰っていた。
底引き漁を一仕事終え、漁港に向かう船の中で、漁師仲間の治夫から妙な話を耳にした。
「裕一よおまえ、ここんとこ『潮騒』さ入り浸ってるべ」
「いや、そんなこともねぇべさ」
「そうけ、いやな、彩美のことなんだがよ」
「ん、彩美がどうかしたか」
「ウトロに嫁さ行った妹の涼子から聞いたんだが」
「おぅ涼子ちゃんけ、懐かしいのぅ元気にしとるか」
「涼子は今、グランドホテルに勤めとるんじゃがな、先週そこで彩美を見たと」
羅臼からウトロ町へは路線バスが出ている。
阿寒バス羅臼営業所を出発し、終点のウトロ温泉バスターミナル迄は約一時間の行程だ。羅臼温泉から羅臼湖を通過し峠を目指す。知床峠を越え知床自然センターを過ぎると、グランドホテル北こぶし迄は50分程で着く。
一般に言われる山コースであるが、それとは別に知床半島の海岸線を走る海コースもある。どちらも、知床夏観光の担い手だ。
「それがな、ホテルのロビーでな、男と一緒だったとよ」
「へぇ」
「涼子はフロントの拭き掃除をしながら見ていたそうだがな、ふたりして、エレベーターに乗って男の泊まる部屋に行ったらしいと」
「そうなんだ……」
「前の旦那かのぅ、彩美の顔つきからして、相当訳ありな感じがしたそうじゃ」
「…………」
「なんじゃお前、黙っちまって。彩美に惚れたんけ」
「バカこくでねぇよ、そんなことあるけ」
「札幌じゃ、けっこう派手な暮らしをしとったそうじゃがな。旦那はこれもんらしいがじゃ」
治夫は頬に当てた指先を、すっと下に落とした。
「あまり、関わらんほうがええぞ」
「そんなんじゃねえ!」
治夫の首を抱え、軽く捻る。
「おう、おう悪かった。勘弁してけろ」
「はははぁ、わかったけ」
裕一は笑って腕を解きながら、前方に迫る漁港を見詰めた。『潮騒』……どういう訳だか、あの日の彩美の表情が目に浮かぶ。
横殴りの雨は、夜半過ぎまで止まなかった。
 
翌日からは晴れ日が続いた。
「こうでなくちゃいかん」
裕一は、今までの収穫の遅れを取り戻そうと漁に精をだす。治夫の話を聞いた後、『潮騒』からは足が遠退いていた。
午後の照りつける日差しの中、ひとり乾いた昆布を倉庫に納めていると、港の方から、
麦わら帽子を被り、白地のワンピースを着た女が歩いて来るのが見えた。
(彩美じゃないか……) 
穏やかな潮風に、後ろ髪が緩やかになびいていた。高いサンダルの紐を結んだ足首はキュッと引き締まり、サワサワとワンピースの裾が風に踊ると、時折 膝頭が顔をのぞかせる。ノースリーブの肩からのびるしなやかな腕。白くつややかな顔肌は、遠目からでもきらきらと輝いていた。
暫く裕一は、仕事の手を止め彼女を見詰めた。見詰めると言うよりは、見惚れていた。
(俺に用事か……) 
目が合うと彩美は、裕一を凝視したまま少し歩幅を広げ、早歩きで砂利道を一直線にこちらに向かって来た。彩美のむくれ顔に気付いた裕一は、ハッとして空を仰ぐ。
ジリジリと照りつける日差しのせいか、額から垂れ落ちた汗が目に染みる。慌てて瞼を閉じ首のタオルで汗を拭っていると、抑揚の無い低い声で、「裕ちゃん」と、背中に声を掛けられた。
片目にタオルを当てたままチラと見る。
「おぉ、彩美か……」
頬を膨らませ、咎めるような視線を投げる彩美と目が合うと、無意識に裕一は、地面に顔を逸らした。
額の汗が止まらない。ふと渇いた砂に巣食う、蟻地獄が見えた気がした。
(勘弁してけろや……) 
裕一は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
・・・・・
『思えばあの人の、素朴な優しさ、暖かさにすがっていたのかも知れません』 
・・・・・
「裕ちゃんあんた、何か聞いたんでしょう」
顔を上げると、仁王立ちの彩美がそこにいた。
「あること、ないこと聞かされて、だから『潮騒』に来てくれないのよね」
裕一は、彩美の剣幕に圧倒され一歩たじろいだ。
「どうなのよ」
「は、治夫からは何も聞いてねえよ。……あっ」
慌てて両手で口をふさいだ。
「ぷっ……ハハッ」
しまったという顔をする裕一に、彩美は思わず吹き出してしまった。
「ハハッハハハ……」
「そんなに笑うことねぇべや……」
彩美はひとしきり笑った後に、
「なんだか、怒ってたこと忘れちゃったよ。何を聞いたかなんてどうでもいいわ」
遠くを見つめ呟いた。
根室海峡の先には、蒼天を背にした国後島の爺爺(ちゃちゃ)岳が、いつになく鮮やかに見えていた。
「とにかく、今夜は店に来てちょうだいね」
「あ、あぁ、わかったよ。湿り干しさ終わったら寄らせてもらうべ」
「うん、ありがとう。待ってるよ」
彩美の上目遣いの頬に、少し赤みが差していた。
(なんも、心配する事ないべさ) 
午後の作業は、思いのほか捗った。
・・・・・
『凍えるほどの寒さと言うものは、温度計で計るものとはまた、違った意味をもつのだと、札幌の地で思い知らされたのでございます』 
・・・・・
「遅くなった。もう終いか」
裕一が、すまなそうにのれんをくぐると、
「いらっしゃい。大丈夫よ」
彩美はにこっと笑顔を向けた。
「ここに、かけて」
見るとカウンターには、コップとお通しが用意されている。
「裕ちゃんお疲れ様。はい、どうぞ」
「熱熱だのう、ありがとう」
手渡されたおしぼりを広げ、パンパンと軽くはたいた後、おもむろに顔を拭う。
「今日はごめんね、おしかけたりして」
ビールをつぎながら彩美が舌を出す。
「あぁええよ、気にしとらん」
「出戻り女の噂話。尾ひれがいっぱい付いちゃったみたい」
彩美はそう言った後、邪念を払うかのように首を左右に振り笑い掛けた。
「お詫びに今日は私のおごり。どんどんやってちょうだいね」
ぽーんぽーん…… 
座敷に掛かった古びた手巻きの柱時計が、優しく棒鈴を鳴らした。
午後8時、港の夜は退けるのが早い。店内に二人きりだと気が付くと、裕一は少し緊張した。
「おごりだなんて気を遣わんでもいいよ。俺だってすまんかったと思ってる」
「ううん、今日は私に。一緒に飲みたい気分なの」
昔話に花が咲き、暫くは楽しいひとときが過ぎて行った。彩美も裕一もよく喋り、よく笑った。
「彩美んとこの父ちゃんと母ちゃん、この前、道の駅で見かけたが、二人とも仲がええのう」
両親の話が出た途端、彩美は真顔になった。
「……うちの親ね、赦してくれんのよ」
「んっ……」
「こんな田舎じゃ離婚を『失敗』としてしか見てくれないのね。身内ほど真実を容赦なく追求する、あの厳しさ」
裕一はコップを置き、静かに聞いた。
「ふとしたことで、意見や価値観の違いを感じてしまう。あっ、ごめんね。こんな話、裕ちゃんにしか聞いて貰えないのよ」
「いやいいさ、はきだしちまえば」
「ありがとう。ふふ、今まで勝手してきた罰ね。いちど戸籍を離れてしまったもの同士は、肉親といえども思い知ったよ」
「いろいろ、辛かったんだな」
「出戻りか……」
裕一に注いでいたビールの先が、傾けたコップの縁をカチカチと鳴らした。溢れ出た泡が、煤けたカウンターにぽたりと丸い染みをつくる。
見ると、彩美は泣いていた。
・・・・・
『本当は離婚したからといって、実家に戻るのではなく、新しい生活を築くのが、一番よい方法なのでしょうが』 
・・・・・
「どして、我慢出来なかったんだろう、ばかだよねぇ。子供をとられたあげく、男にも捨てられてさ」
「生きてりゃいろいろあるべ、悪いことばかりではねえべさ」
「ふふ、優しいんだね」
彩美の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「そっちへ行っていい?」
彩美はゆっくりと裕一の隣に座った。
裕一は黙って彩美に酌をする。
彩美は背中を向け、人差し指で涙を掬いながら、
「この前ね、グランドホテルに行って来たの」
と、静かに話し始めた。
(あの日の治夫の話か) 
裕一は煙草に火をつける。
「着の身着のままこっちに来ちゃったもんだから、別れた亭主が、私の荷物を持ってきてくれたのよ」
「そうだったんけ」
「それと最後に、娘に会わせてくれた」
「そうか……」
煙草の煙をゆっくり吐き出す。
「亭主はね、強面だけど仕事一筋の真面目な人だった。泰ちゃんと一緒で警察官。刑事よ」
「えっ……」
泰三の話をした時の表情を思い出した。
噂話に尾ひれがついたか、と、裕一は思った。
「別れた理由は、私の浮気なの」
「…………」
吸いかけの煙草をもみ消し、手酌で自分のコップにビールを注いだ。
・・・・・
『ふと、羅臼の懐かしい海が目に浮かび、気が付くと、夜行バスに飛び乗っていたのです』 
・・・・・
「私も仕事をしていて、いつの間にやらすれ違いの夫婦生活。寂しかったのね」
「子供はどうしてたんだい」
「義理の両親がみていてくれてた。住まいは亭主の実家なのよ。お義母さんともうまくいかなくて、魔が差したのね。相手は仕事先の私の上司、三つ年上のね」
「その男とも、別れたのけ」
「私が夢中になってしまったの。その人も同じ気持ちでいると、勘違いをしてしまった」
「まだ……忘れられんのか」
裕一はビールを呷った後、天井を見上げたまま、ボソッと尋ねた。
「…………」
彩美はその問いには答えず、煙草に火を点け深く吸い込んでから、細い煙の行方を、目で追うかのようにゆっくりとはき出す。
「この話はもう止めにしよ。こんなしめぼったい話をするつもりはなかったの」
視線を落とし、ため息まじりに呟いた。
「おぅ、わかった。終いにしよう」
「それより裕ちゃん今度、羅臼湖に連れてってくれない」
・・・・・
『ふるさとは遠きにありて思ふもの、とは、よく言ったものでございますね』 
・・・・・
「あぁええよ。いつにする」
「嬉しい! そうねぇ、いつにしようかしら」
頬を伝った涙の跡を拭いながら、上目遣いで微笑んだ。
「でも裕ちゃん、8月中は漁で忙しいでしょ」
「そうだな」
「じゃあ9月だね。都合のよい日を教えて、裕ちゃんに合わせるよ」
彩美はたおやかに笑ってみせた。
・・・・・
『羅臼湖の初夏の湿地を彩るミズバショウやワタスゲ。冬に降り積もる雪の重みで地を這うように、クネクネとうねりながら広がるダケカンバやハイマツは、秋の紅葉ではしっとりと色付いて』 
・・・・・
「わかったよ。なんだか明日からもまた、
頑張れそうだ」
「ありがとう」
ぽーんぽーん…… 
彩美が座敷に視線を移す。
裕一は心の中で静かに棒鈴の数をかぞえた。
「もうこんな時間か……」
10回鳴った鐘の音が、裕一の、張りつめていた胸懐を解いた気がした。
彩美の肩を抱き、優しく引き寄せる。
潤んだ瞳に吸い込まれるかのように祐一は、そっと唇を重ねた。

四.
第一回合同捜査本部会議 神奈川県警本部。「緑区准教授殺人事件で、被害者 佐伯 孝は同区内、大型ショッピングセンターの駐車場で発見されているが、なぜそんな所で殺されたんだ」
県警木内警部が新見に問う。
「現在調査中ですが、ショッピングセンターの営業終了時刻が22時、殺害時刻が23時から24時の一時間。そのことからも、ショッピングセンター関係者が何らかのかたちで関わっていたのではないかと推測されます」
新見は一旦言葉を切り、150余名の捜査員に体を向けると、用意した資料を掲げながら話を続けた。
「お手元のレジュメをご覧下さい。3頁目に記載しておきましたが、ネクストバリュー店内は、食料品販売を中心とした直営店の他に30のテナントで構成されています」
資料には各テナント名と、テナント毎の主力販売商品が明記されている。
「これまでの聞き取り調査の中で、捜査線上にあがった店舗は、こちらに記載した、
北海道産食料品専門のアンテナショップ『道産子うまいもの市』。ここで被害者の購入履歴が確認されております」
「被害者はいつ、どんなものを購入していたのだ」
「はい、ショップ店員の話から、3ヶ月程前に来店し道南産のがごめ昆布と、羅臼産の根昆布を大量に購入しております」
「昆布を大量に……」
「被害者は大学で、昆布からフコイダン……レジュメの5頁です……の抽出をし、食品添加に活かす研究をしております」
「フコイダンとは、なんなんだ」
「簡単には、もずくや昆布、ワカメなどの滑り成分。大学で研究されているのは低分子化フコイダンというものですが、これは免疫効果に優れ、健康食品として、また、がん治療と併用する事で大きな力を発揮すると」
「がごめと根こんぶ……?」
「はい。昆布の中でもフコイダンの元となる滑り成分は、この種に多く含まれます」
「そうなのか……」
木内はレジュメに記載された、大学での研究内容に目を移す。
「その日、研究室に宅配されるはずの昆布が、宅配業者の事故により未着となり、急遽アンテナショップ、道産子うまいもの市で大量購入したようです」
「確かに、すごい量だな」
木内は、添付されたレシートのコピーを確認しながら言った。
「尚、これ以降の店舗での購入はありませんが、被害者が札幌にある本社との接触が無かったかを現在調査中です」
「ん、それはどういう事だ?」
木内は首を傾げながら新見に問う。
「能無しかよ」
後方の席で山下が呟く。
「駄目ですよ山下さん、聞こえちゃいますって」
隣で望月が耳打ちをした。
「大量購入となれば、現地から直接昆布を手配した方が安くあがりますから」
新見は顔色ひとつ変えず木内に答えた。
「あぁ、そうだな」
「駄目だこりゃ。望月よ、新見の旦那は苦労するぜ、警部は頭でっかちのすっとこどっこいだ」
「ふふふっ、だからぁ、聞こえますって」 
望月は笑みを抑えながら山下を制した。
「大学教授の話では、この研究に関しては被害者 佐伯を中心としたプロジェクトであることから、詳細に関しては把握はしていないと。また、その後の購入に関しては、事故で遅れていた昆布が、後日搬入された為、
次に購入するタイミングとしては9月下旬頃だろうと」
「だから……」
「……そのタイミングでの価格交渉となるかと」
「さすがに警部補も、顔に出ちゃいましたね」
望月が山下に耳打ちする。
「おい、お前は、俺に似る必要はない」
「えっ……」
寂然と眉を潜める山下の横顔が、あの日の刹那の表情を思い起こさせる。
(あの苦悩……。故に僕はこの人を憎めない) 
その想いは、望月の眉尻を凛と上げた。
「よし分かった。他に調査中の案件は」
「はい、凶器の刃渡り9cmの登山ナイフについてですが、ハンドル部門にアイヌ模様を施された鹿皮が装飾されております。民芸品ということからも、犯人は北海道と何らかの繋がりがあると念頭に置いて、ネットでの購入も視野に入れ、出所を捜査中です」

横浜理工科大学 海洋生物学科研究室。
「乾燥昆布を粉砕して、粉末状に加工したものからフコイダンを抽出します。25倍の水で練り込み、それを攪拌式熱水抽出機に……」
「ち、ちょっと待って下さい、ちんぷんかんぷんで」
望月は片手をかざし、研究室学生の説明を遮ると、メモを諦め、スマホの録音アプリを起動させた。
「抽出機に適量の水を加えてから80から90℃で60から120分間、攪拌しながら煮沸し、アルコール抽出タンクに移してアルコールを除去し、濾過抽出された原液を超高速遠心分離機にて分離精製した後、濃縮機にて4から8倍に濃縮するとフコイダン含有濃縮液が完成します」
「はぁ~、手間がかかるものなんですね」
「これだけの設備だ、3分クッキングとはいかねえや」
山下が研究室を見回しながら口を出した。
「粉砕する前の工程も手間が掛かるんですよ。今回は先生が『下ごしらえ』を自宅でしてくれましたがね」
「うっ…………」
(洒落の効いた学生だぜ、ちとウザいが)「すると佐伯准教授は、宅配業者から届いた昆布を、一度自宅に持ち帰ったということですか」
望月が尋ねる。
「はい、何箱かを……これらの昆布は、マンニットが付きすぎているから綺麗にしてくると」
「えっ、マンニット、それはなんですか?」
「昆布の表面に浮き出る旨味成分ですよ、糖アルコールマンニトールといいます。純粋なフコイダンを抽出する際には邪魔になるものですから」
「なるほど」
「いつもは、研究室内で布巾で落とした後に水洗いして使用するのですが、ああ、これですよ。時間が経つとこんな感じで出てきます」
学生は、保管されていた昆布の切れ端をガラス瓶から取り出すと望月に見せた。
「これですか。カビのように見えますが、この白いのはうまみ成分なんですね」
「えぇ本来、料理で使う場合は喜ばれるものなのですがね」
「へぇ、そうなんですか。あれ、山下さんどうかしましたか」
乾燥昆布を見つめたまま、微動だにしない山下に望月が声をかける。
「白い粉、これは……」
・・・
「被害者の自宅アパート浴室排水口から、微量のコカイン反応があったようだ」
刑事部組織犯罪対策本部の安藤 淳一警部は木内に報告し、新見に向き直ると「お手柄だったな」と労い、山下、望月両人の肩を叩き会議室を出て行った。
「水に溶かしたコカインを、昆布に噴霧して乾燥させ、付着したものをマンニットに見せかける……手の込んだことをやりやがる。宅配業者に確認したところ、事故により配達されなかった昆布は佐伯により全てキャンセルされていて、後日研究室に届いたものは別の宅配業者からでした」
山下が新見に報告をする。
「宅配業者は個人事業者を名乗っていたそうですが、詳細は不明です。組織犯罪の可能性が大きいですね」
「ご苦労様、すでに北海道警察本部を通じ、道内各署に通達したそうだ。道産子うまいもの市には札幌警察本部より捜査の手が入った。山下と望月は明日札幌に飛んでくれ、向こうの担当刑事は宮川巡査部長だ」
「私で、良いのですか」
望月が不安げに山下に問う。
「勿論だ、俺の相棒はお前をおいて他にいない」
山下は即座に答えた。
「……山下さん」
「ではふたりとも、よろしく頼みます」
「はい!承知しました」
新見の言葉に、ふたりは異口同音で答え、背筋を正した。

「あの、新見警部補」
会議終了後、望月が廊下で声を掛ける。
「少しお時間を頂けますか、お話したいことが……」
「山下巡査長のことか」
「はい、でもどうしてそれを」
「彼が私を疎ましく思っているのは知っている。彼の言動は正直だ」
新見は後ろ手を組み、意味ありげに苦笑しながら望月に背を向けると、窓の外に目をやった。
「いえ、違うんです。最初はそうでしたが、あっ失礼しました。でも、今ではその逆で。あの人は、そういう人なんです、二年前のあの日から……」
望月の話を聞きながら後ろ手を解き、面と向かうと新見は静かに話した。
「出身は新潟県下越地方の東蒲原郡 阿賀町。2005年に津川町、鹿瀬町、三川村、上川村の4町村が新設合併し発足した自然豊かな町だ、学生の頃に旅したことがある。彼は温泉宿の次男坊、神奈川文理大学在籍中に結婚し婿養子に入った」
「……警部補」
「吉川警部から聞いている、緑署きっての優秀な刑事だとな。巡査二年後、緑署署長の推薦で巡査長となり、嘱望されたが、二年前巡査部長昇任試験の日、愛妻の交通事故で試験を断念した。その半年後、奥さんは帰らぬ人となり、彼はその日から昇任には無気力となる。悪ぶってはいるが、今でも刑事としてのセンスはピカ一だ。愛娘は小学三年生……、ん、望月……何を泣いている」
「いいえ……、嬉しいんです。警部補は山下さんを理解してくれている。だから……、ただ嬉しくて……。山下さんは、時々吉川警部にも挑戦的な態度をとったりします。たまに、見ているこっちがハラハラしたりして。
でも、警部補に対しては違う気がするんです」
「そうか、望月巡査わかった、よくわかったよ、私も彼に歩み寄るつもりだ。彼の能力に期待している」
「ありがとう、ございます」
望月は深々と頭を下げる。
新見は、この若き刑事の一途なさまに口元を緩めた。
「明日は早い、遅れるなよ。山下にしっかり学んでこい」
「はい!、承知しました」
・・・・・・・
「パリに行くわ……芸術の都で本を書いてみたいの。新見くんも居なくなっちゃうし」
「なにを、異動と言っても神奈川だ」
「ううん、もう決めたの。向こうに大学時代の友人が居るから、彼女を頼るつもり」
「……決めたのか」
「ごめんね、強くないのよ。会えなくて辛い日々を過ごすくらいならいっそ、空しさを諦められるくらい、遠い方がいい」
「行かないでくれ、と言ったら」
「だめよ。新見くんはもっと上を目指さなきゃ、それが出来る人だから。それに、わたしにも夢がある。お互いにとって良いタイミングね」
絹のガウンを肩に羽織るとベッドから降り、ソファーにゆっくりと腰を落とした。ガウンのはためきがパヒュームを巻き込みながら、ひんやりと乾いた風を彼の胸もとに送り込む。
「行かないでくれ」
背中に、彼の声が切なく響いた……
・・・ 
最後の朝
「すまない、事件だ」
「…………」
「行かなくてはならない」
「えっ……」
思わずシーツを掴んだ。
彼は、泣きそうな顔をしていた。
「うん、わかった……」
なんとか、笑顔で見送ることが出来た。
彼の背中は、ずっとふるえていた……
~麻生真由理 回想より~ 
・・・・・・・ 
警察公社に着くと、常駐の管理職員に呼び止められた。
「新見警部補さんですよね、ご苦労様です。今しがたEMS、エアメール速達が届きました。フランスのパリからです」
「パリから……、ありがとうございます」
真由理からの手紙であった。
(速達とは、何かあったか) 
新見はハサミを借りると、その場で封を開けた。
『EMSなんてと、驚いている顔が目に浮かぶわ、ふふっごめんなさいね』
(おいっ……)
『あの日、ちゃんとお別れの言葉が言えなかったものだから……パリに着いて3日目、早速モンスーリ公園を訪れています。先ずはここに来たかったんだ、ジャック・プレヴェールが詩を詠んだ場所、覚えてる? ここで手紙を書いています。衝動買いしたウォーターマンでね』
(あぁ、覚えているとも)
『ここは、多様な種類の草木であふれ、様々な鳥たちが生息するとても豊かな公園です。今は午前10時、日光浴をする人々や散歩をする人であふれてる。湖や、昔使われていたというトンネル跡があったり、思わず都心にいることを忘れてしまう空間、空気も澄んでいて、ほんとうに気持がいいんです。昨晩はパリの町をひとりで歩いてみたんだ。ルームメイトは、女性ひとりでは危ないよなんて止めたけど、歩いてみたかったの。素敵だったな、定番のシャンゼリゼ通りから凱旋門。直線に沿って並ぶ200本もの街路樹に、ほんのりイルミネーションが灯っていて、とても幻想的な雰囲気を作り上げていた。眺めながら歩いていると、時間が経つのを忘れてしまった……パリは想像以上に素晴らしいところです。思いきって来た甲斐がある、良いものが描けそうな気がします。ごめんなさい、ちょっと浮かれているかも(笑)』
(そうか、行って良かったか)
『新見くんも新しい環境で頑張って下さいね。あなたならきっと素晴らしい警察官になれる筈。わたしにはわかります。そしてまた、何処かでお会い出来る日が来たら、その時はまた笑顔でお話ししましょ。沢山の思い出をありがとう。どうかお元気……』
(彼女は夢に向かい前進を始めた、お互いの為にはこれが最善だったか……)
「んっ」
新見はふと妙に、手紙の最後の文字に丸く滲む、薄いインクの跡が気になった。
「これは……」
咄嗟に公社の外に出ると、夕闇に包まれゆく空を仰いだ。
(真由理……) 
西には灰色の薄い雲の間から、ぼんやりとした光を放つ金星が顔を覗かせていた。
・・・・・・・ 
なぜだろう 
この歌が頭の中を流れてる 
あの日から ずっと……
小学生のころ大好きだったアイドルの 
そう よく歌ってたな
詞の意味もわからずに

「難破船」
作詞 加藤登紀子 
たかが恋なんて 忘れればいい 
泣きたいだけ 泣いたら 
目の前に違う愛が 
見えてくるかも知れないと 
そんな強がりを 言ってみせるのは 
あなたを忘れるため 
さびしすぎて 壊れそうなの 
わたしは愛の難破船 
折れた翼 広げたまま 
あなたの上に 落ちてゆきたい 
海の底へ 沈んだなら 
泣きたいだけ抱いてほしい 
そんな一言で 振り向きもせず 
別れたあの朝には 
このさびしさ 知りもしない 
愚かだよと 笑われても 
あなたを追いかけ抱き締めたい 
つむじ風に身をまかせて 
あなたを海に沈めたい 
あなたに会えない この町を 
今夜ひとり歩いた 
誰もかれも しらんぷりで 
無口なまま 通り過ぎる 
たかが恋人を 無くしただけで 
何もかもが消えたわ 
ひとりぼっち 誰もいない 
わたしは……愛の難破船 

~麻生真由理 手記より 
「パリ モンスーリ公園にて」~ 
・・・・・・・ 

五.
9月も十日を過ぎると、高い空を鱗雲が覆うようになり、時折ひんやりとした風が吹く。
すでに大雪山には、例年より早い初雪が降った。
「ほれ、泥濘(ぬかるみ)があるから」
後ろを歩く彩美に裕一が左手を伸ばす。
足下には、ダケカンバの黄色く色づいた葉が落ち、見渡す景色の彩りからも、秋が近づいてきたことを感じる。
「うん、ありがとう」
彩美はしっかりと右手で掴んだ。
「着いたぞ、三の沼だ。今日は羅臼岳がきれいに映っとる」
「ほんとだきれいねぇ、涙が出そうなほどに」
知床五湖を代表する三の沼にもそのうち、色に染まった羅臼岳が映ることになる。
標高700m以上の、雲上に位置する羅臼湖はといえば、ほんのり秋色に変わり、エゾリンドウが点々と咲く中を、遊歩道ではすでに草紅葉が見頃を向かえていた。
知床は、秋本番へと着実に足を進めている。
「裕ちゃん今日は、ありがとね」
「いや、もうちっと早く来たかったんだけどな。仕事が溜まっちまって、すまんかった」
「ううん、嬉しいよ」
彩美は笑いながら、両手で掴んだ裕一の腕に胸元をぎゅうと押し付けた。
(おいおい……)
「今日はちと、あれだな、蒸し暑いかの」
裕一が顔を赤らめ呟く。
彩美は聞こえていないかのように、すれ違う観光客に挨拶をしながら裕一に歩調を合わせた。
あの夜からふたりは、深い仲になっていた。
「裕ちゃん焼けたね、昆布の収穫はどうだったの」
椅子に座ると、半袖から伸びる浅黒い腕に体を預けながら彩美が尋ねた。
「例年通りかの」
「それは良かったね。今年は雨が続いたから、ちょっと心配してたんだ」
「おぉありがとな。それよりも、ひねもの の根昆布が片付いてくれたのにはほっとしとるよ。倉庫が空いて作業が捗っとる」
「ひねものって、去年の残りでしょ」
「残りものではないよ、それなりに需要がある。袋詰めにして、一年かけて売んのさ、結構手間のかかる作業での。そいつがな、7月の終り頃にまとめて買われてさ」
「どうりで、それで裕ちゃん羽振りがよかったのね。8月は1日置きにお店に来てくれてたもんね」
「い、いや。会いたかったからさ」
「裕ちゃん……」
「今日はこれからウトロさ下りて、旅館に泊まるべ、明日は海岸線さ走ってさ」
「いいねぇ。あーっ、でも裕ちゃん」
「なによ」
「日帰りのつもりで、明日着る服がないよ」
「そりゃ、どっかに寄って買えばいいだけのはなしさ、俺が出してやる」
「裕ちゃん、いいの」
「あぁ、ええよ。実はの、その客から予約注文も受けての。また根昆布が欲しいとさ、
それと一緒に赤葉も買うとさ」
「あかはってなぁに」
「赤葉昆布と言っての。日入れ干しが終わった後にひれ刈り、ほれ、昆布をハサミで整形するじゃろ、その時に出る半端もんじゃ。だしとりで使われる。だいぶ値を叩かれたがの」
「凄いじゃない。昆布は捨てるところがないのね。さすがに天日干しは人気がある!」
「ばか言うでないよ。俺がつくるからさ」
「はいはい、そうでした。ふふっ」
「はっはー。そうだ彩美、今度ひれ刈りを手伝ってくれんかのぅ。婆っちゃんの目がよう見えんようになっての、人手が足らん」
「えっ、わたしでいいの」
「ああ、しっかり教えるから」
ふたりは南陽でキラキラと輝く羅臼湖を、笑いながら見つめた。
 
夕食後、温泉でひと風呂浴び部屋に戻ると、床の準備が出来ていた。一足早く戻った彩美が、テーブルでビールの支度をして待っている。
「いいお風呂だったね」
「おお、でも今夜は、ちぃとばかり冷えるのぅ」
「そぅ、出たばかりだっていうのに寒がりね」
笑いながら裕一のコップにビールを傾けた。
「この時期寒いと、今期は暖冬かも知れん。流氷も遅れるべな」
「へぇ、そういうもんなんだ。でも、流氷が着いたら、知床羅臼にほんとの冬が来るね」
「あぁ、そしたら本格的にウニ漁が始まる」
「ねぇ裕ちゃん」
「ん、なんだ」
「流氷が来たら海岸で火を焚いて、裕ちゃんと一晩中、ずっと見てたいなぁ」
「ばかこくでねぇ、こごえちまうべや」
「もぅ、漁師のくせに寒がりで」
「…………」
注がれたビールを一口で呷った。
「ふふっ、裕ちゃんこっち来て」
「なに?」
「……暖めてあげる」
・・・・
「裕ちゃんとこにお邪魔するのは小学校以来ね。わたしに、出来るかしら」
昆布倉庫の前に立ち、彩美は少し不安な顔で裕一に尋ねる。
「大丈夫だよ」
「……うん」
裕一の日焼け顔からこぼれる白い歯が、なんだかやたらと頼もしく思えた。
「昆布の見栄えを良くする為に、形を整えていくのさ」
言いながら裕一は、二畳程ある鉄製の引き戸を両手でガラガラと開けた。
「こんなにたくさん出るんだ!」
彩美は、倉庫の隅にうず高く積まれた赤葉の山に驚きの声を上げる。
「あれ、誰かいるね」
昆布山の横でダンボール詰めをしている老婆が、目を細め、怪訝な表情でこちらを見ているのに気が付いた。
「ふふっ……」
視線はこちらにあるのに、手は休めず、せっせと作業を続ける姿に愛嬌がある。
「婆っちゃんだ」
裕一は彩美の手をひき老婆の傍まで行くと、耳元に少し大きめな声で、
「ひれ刈りをしてくれる進藤 彩美さんじゃ、よう教えてやってけろ」
と、彼女を紹介した。
「んっなに、裕一よ、嫁っこさ連れてきたのけ」
「何を……違うよ婆っちゃん、幼なじみの彩美だよ。今日は仕事を手伝ってくれるのよ」
「進藤とこの彩美です。お婆ちゃんお久しぶり」
きょとんとする老婆に、少し照れた様子で優しく話し掛けた。

「昆布の頭から尾までの両側全体についてる実の薄い箇所、ヒレのように見えるじゃろ、
ここを耳と言うんじゃが、これをハサミで切り落としていくんじゃ」
「こうですか……」
「おうそうじゃ、あんた筋がええのう。嫁っこさ来たらええのに、ワシが手取り足取り教えちゃる」
「まだそれを言うか」
裕一は彩美と顔を合わせると苦笑いをした。彩美は口に掌を置き、「ぷふっ」と笑顔で応える。
「このひれ刈り作業の良し悪しで、製品の等級にも大きな違いが出てくるのさ。ベテラン昆布漁師でもこの作業は慎重に行うんだよ」
「…………」
裕一は驚いた様子で振り返る。
「おお、母さん……いつ入ってきたのさ、気が付かんかった。ほれ、彩美じゃ、知っとるじゃろ」
「おばちゃんご無沙汰しています」
咄嗟に立ち上がると、無表情でそっぽを向く母親に緊張しながら挨拶をした。母親は彼女をチラと見、
「彩美ちゃんね、知子ちゃんからは聞いてるわ、戻ったんだってね」
嫌み混じりに含みを持たせながら、彩美の母の名を口にした。
「…………」
「ま、まぁ、そんなことはええから」
下を向いたまま少し肩を震わす彩美の前に割って入る。母親は、裕一の肩越しにうつ向く彩美に目をやり、ふんと鼻を鳴らしながらきびすを返すと、そのまま倉庫の出口に向かった。
「おばちゃん、わたしのこと嫌いみたい……」
消沈する彩美に、出口を見ながら老婆がボソリ言う。
「そんなこともねえべさ」
グオオオオ…… 
突然倉庫の高い屋根から低い音が鳴り響いた。見ると換気の為の大きな扇が回り始めている。
「ファンも回さないで、こんじゃ熱中症になっちまうよ。出荷までの日取りに先が詰まってるんだ、のんびりやられたらたまったもんじゃないよ」
そう言い放つとスイッチから手を離し、そそくさと出て行った。
「ほらな、海女っ娘は言葉が足りんと、しょうがなか」
老婆は皺だらけの顔を、よりいっそうしわくちゃにして笑った。
彩美はほっとし、泣き笑いしながら裕一の太い腕を掴んだ。
「作業はもちろん早さも大事だが、それ以上に正確さが大切だ、焦ることはねえべさ」
「お婆ちゃん……」
「よかよか!」
裕一は笑顔で彩美の肩を抱きしめた。
「赤葉のダシ昆布は、大量に使う飲食店などでは重宝されているんじゃ。今日は午後に出荷があるから母さん気が立ってるようじゃ」
「うん、わかった。頑張るね」
彩美は、精一杯の笑顔を裕一に向けた。
 
六.
「宅配便でーす、こちらにサインをお願いします」
「おお、来たか、こっちじゃ、ここに置いてけろ」
老婆は伝票にサインをすると、折り畳まれた白箱の束を、昆布倉庫奥の作業場に運ぶよう宅配業者に指示を出す。二間のスチール棚は、上から下まで白箱で埋め尽くされた。
「お婆ちゃん、この箱は?」
「これに整形した羅臼昆布を入れるのよ。白箱はな、天然天日干しの証しなのさ。一等級のものは11月の競りに出す」
「そうなんですか、それにしても凄い数ね」
「うちの昆布はの、毎年、年末商材の目玉じゃて、こんなもん、あっと言う間に売れちまう。今年は彩美さんが来てくれて助かっちょる、ありがとさん」
「お婆ちゃん……」
しわくちゃに目を細めて笑う老婆に、彩美は頬をすり寄せた。
「婆っちゃーん、彩美さーん、お昼ご飯が出来たから、こっちさ来て食べてけろー」
倉庫の入り口から母親が二人に声を掛ける。
「おばちゃんありがとう、今行きますー」
外で仲買と打ち合わせをしていた裕一は、彩美の、母親とのやり取りに笑みを浮かべた。
「おばちゃんいつもすみません、ご馳走になるばっかりで」
「いいさ、こっちもほんと助かっちょるよ」
二人は話しながら家に向かう。
老婆は二人の後ろから裕一に向かい、ニヤニヤしながら意味ありげに目配せをした。
(ちっ、婆っちゃんめ……) 
裕一は右手を挙げ、「はよ行け、はよ行け」と笑顔で応える。
「あぁ、すみませんね、話の途中で。それで納期なんですが……ん、どうかしたかね」
口を開けたまま彩美の後ろ姿を見つめる仲買の男に、裕一は眉をひそめた。
(なんじゃこいつは、彩美に見とれおって)
「……あっ、いやいやなんでもない。そう、納期だが、25日の朝一番に取りに来る。
配達はしなくてもいいよ」 
男の、少しあたふたとした話し方に、裕一は疑念を深めた。
「それで良いかな……」
男は裕一の目を見ず問うた。
「ああええよ、粗方はもう段ボールに積めてある。なんなら今日でも良いがの……」
「いや……、現金の持ち合せがない。それにあの車では積めんし」
背にした裏路地に止まる、黒塗りの普通車に親指を向けて言う。
「明後日に送金しとくので、こちらで手配した宅配業者に渡してくれ。口座は前回と一緒で良かったかな」
「あぁ、それでよか」
「では、よろしく頼みます」
「あんた、出来ばえを確認せんと良いんか、それで来たんじゃろ。まぁ、問題はないが」
「あぁ……それは、いい、前回のひねものを見ればわかる。……それにあなたの噂も聞いている、仕事に妥協がないとな」
「へへっ、そうかいな」
仲買の言葉に裕一は少し気を良くした。
「そうだ、昼飯時だであんたも食っていくかね。今日は漁師仲間からいい秋鮭が3本手に入っての、捕りたてじゃ、刺身は嫌いか」
「いや……あぁ今日はこれから、寄るところがあるから遠慮しとくよ」
「用があるなら仕方がない、そうじゃ、配達業者にスモークでも渡すんべ、食べてけろ」
「ありがとう、楽しみにしてるよ……」
男は礼を言うと、そそくさと帰って行った。
「……忙しない奴じゃ……」
・・・
「ほいよ」
彩美を送る軽トラを運転しながら、裕一はおもむろにポケットから白封筒を差し出した。
「えっ、なに……」
「一週間分の手当てじゃ、ようやってくれとる」
「何よ裕ちゃん、そんなつもりは無いのに」
「いや、俺からの気持ちだよ」
裕一は、遠慮する彩美の太腿の上に封筒を置き、その上から優しく力を込めた。
「裕ちゃん、ありがとう」
裕一の手の甲を両掌で包み込む。
「アパート住まいにしてから何かと金も要るじゃろ、こん先うちも忙しくなるで、パートとして働かんか」
「ありがとう、でも……」
「母さんはもう大丈夫だ、彩美の仕事っぷりに感心しとったよ」
「そう、嬉しいな。でもね裕ちゃん……こんな田舎だから、いろいろ噂されるよ」
「そんなんは気にせん。どうこう言う輩がおったら、おれがしばいちゃる、ハッハー」
笑ったあと裕一は神妙な顔付きで、「考えといてくれ」と、ぼそっと言った。
「うん、わかった」
彩美は、両掌に力を入れながら窓の外に視線を移すと、消え入りそうな声で、
「裕ちゃん、アパート寄ってく」
と尋ねた。
「いや、それはやめとく……俺のケジメだ。それだけは言っちゃなんねえ、歯止めが効かんようになる」
「そう……」
彩美はいったん言葉を切ると、裕一の肩に、優しく掌を乗せ、
「じゃあ……、海岸さ行って」
と、耳元に囁く。
「んっ……」
「星が、見たいな」
空には顔を出したばかりの十六夜が、
少し赤みを帯びながら輝いていた。
・・・・・
『今ならわかる気がします、羅臼の海は暖かかった。あの人の緩やかなうねりが、わたしを自由に泳がせてくれていた。だから、気がつかなかったのだと』 
・・・・・
「裕ちゃん、そんなに気にしないで」
ジーンズを上げながら、彩美が笑った。
「いや、すまん……。外でするのは初めてだったもんでな、つい興奮しちまった」
「いいのよわたしは、裕ちゃんがよかったのなら。でも、ふふっ、裕ちゃんのケジメが、仇になったのね」
「いや、しかし……」
顔を赤らめ、口をとがらせながらベルトを締める。
「わたしはそんなこと、どうでも良かったのにな~」
彩美は笑顔で夜空を仰いだ後に、水面に揺れる赤い月を見ながら、
「女はね、満月を見ると抑えが効かないの。十六夜だって一緒……」
と、真顔で呟いた。
ビチャッピチャッ…… 
彩美の視界に、波打ち際を苦しそうに跳ねる魚が映った。
「えっ、なに……」
見るとその傍らでは、3、4尾の魚が息絶えている。
「死滅回遊じゃ」
「しめつ、かいゆう……」
「あぁ、暖流に乗って、本来生息できない地域へと回遊してしまった魚が、季節が変わり水温が変化すると対応できずに死んでしまうのさ。羅臼の海はな、夏と冬の水温差が20度以上もある。こんな海は世界でも稀じゃ」
「いやだ、なんだか怖い」
言い知れぬ悪寒が、彩美の全身に走った。
「どした……、こんなに震えちまって」
祐一は彼女の肩を引き寄せ、両腕で強く抱き締めた。
・・・・・
『わけですか、苦しみから逃れる為、過去を忘れたかったから……、確かに最初はそうだったのかも知れませんね。あの人が教えてくれた羅臼の海……。知らずと気が付いたら、そこにおりました。暖かくて、嬉しくて、ただ幸せで……、そう、あの日までは。あの夜、水面に揺れる赤い月は、血の色をしていました』 
・・・・・
「彩美さんは休んでるのかい……、裕一よお前、様子を見てきてやったらどうじゃ、これで二日目じゃろ、連絡入れてみろ」
「あぁ婆っちゃん、朝に彩美から携帯で電話があったきり、こっちからかけても繋がらんのじゃ……まぁ、これまで頑張ってくれたからの、初めてのこって、疲れが出たんじゃろ」
「そんなこと言ったって……独り身じゃて心配なこった。仕事さ終わったら、見に行ってやれ」
「あぁ、そのつもりだ」
ひれ刈りの手を休め、裕一は暫し考えてみる。
(彩美の体力的な部分で、特に気になる事はない。何があったんじゃ……まてよ……) 
ただあの日、宅配業者が予約の昆布を取りに来た25日。業者とのやり取りを倉庫の窓から見つめる彩美の顔付きが、いつもと違う印象を受けたのを思い出した。
(一瞬じゃったが、幽霊でも見たような顔をしとったな……ほんの一瞬……しかしその後は、いつもと変わらず元気にしておった) 

仕事が終わると彩美に連絡を入れる。携帯の呼び鈴を10回聞いたところで裕一は電話を切った。
(どうしちまったんだ……) 
直ぐ様軽トラに乗り込み、彩美のアパートに向かった。
ドンドンドンーーーー
「彩美、居るんじゃろ!」
インターホンを鳴らしても反応が無いことに半ば苛立ちを隠せず、つい大きな声を出してしまった。
「なぁ彩美、何があったんじゃ、開けてけろ!」
「あのぅ……、進藤さんならお留守みたいですよ」
隣の部屋の中年女性がドアから顔を出し、裕一を見ながら、おじおじと話し掛けてきた。
「すみません、大きな声を出しちまって。それで彩美は……進藤さんは、いつから居ないんじゃろ」
「……おとといの夜だったかしらね、29日の。男が訪ねて来たみたいでね、部屋で大きな声でやりやってたもんだから……」
「おとこが……」
「何事かと思ってね。うちの亭主が文句言ったらおさまったけど……翌朝には、居なかったわね」
「男と一緒だったのか、一緒に出たのか!」
「ひえぇぇ……そこまでは知らないわよぅ」
裕一の鬼の形相に女は悲鳴を上げると、バタンとドアを閉めた。
裕一はドアを見つめたまま腰を折り、握り拳を作ると、あての無い怒りにも似た不安を、自身の太股に擦り付けた。
(男と……何処へ行っちまったんだ!)
「裕ちゃん……」
わなわなと震える背中に、消え入りそうな声がした。ハッとして裕一は振り返る。
「彩美……」
2mほど後ろに立つ彩美を目にとめると、裕一の瞳から熱いものがこみ上げた。
「……ごめんね裕ちゃん、隣の奥さんに聞いたみたいね。向こうから見えてて……」
そう言うと彩美は、表通りの電柱に目を移した。
「言い訳は、無理みたいね……実はね……」
「何も言わんでいい!」
裕一は咄嗟に駆け寄り抱き締める。軋んだ彩美の体は震えていた。
「帰ってきたんじゃろ……帰って来てくれたんじゃろ!」
「……うん、……裕ちゃん……、泣いてるの……」
咽ぶ裕一の背中に、彩美はそっと両手を回した。
「ならいい、なったら何も言わんでいい……」
「……でもね裕ちゃん、これだけは信じて」
彩美の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
「……何も、無かったよ」

七.
北海道警察本部 ……
札幌中央警察署 薬物銃器対策課。
「先ず、例の依頼された登山ナイフだが、ハンドル部分に施されたアイヌ模様の鹿皮細工はハンドメイドだった。美幌町の民芸品専門店でネット販売された商品だ」
担当の宮川巡査部長は、自己紹介を済ませると直ぐに本題に入った。山下は、緊張を隠しきれない望月の代わりにメモをとりながら聞く。
「購入したのは札幌市内在住、湯山 和彦36歳無職独身、昨晩判明した。今朝の捜査で、驚いたことに、2ヶ月前に米山商事を退職している」
(早い、たった2日で辿り着いたか...流石に道内警察の中枢だ)
「……と言うと、『道産子うまいもの市』親会社の社員だったという訳ですか。それで、身柄の確保は」
山下は、無表情で淡々と話す宮川に問う。
「それはまだだ、行方を眩ましている。居住先のワンルームマンションはもぬけの殻だった。現在捜査員が張り込んでいる」
(逃亡か……)
「……それで、湯山の住居内の指紋と、被害者佐伯の、アウディから出た指紋とは一致したのですか」
「現在照合中だ。先程これ迄の経緯を神奈川県警に報告したよ、指紋が合えば全国に指名手配だ」
「指名手配……」
「無駄足だったな。君たちはこのままとんぼ返りと言うわけだ」
二人に宮川は厳然と言い切った。望月は釈然としない山下の顔色を見つめている。
(指紋が一致すれば物的証拠は完璧だ、しかし)
「……湯山の詳細は、それと、2ヶ月前に退職した理由は何ですか」
「詳細は現在捜査中だ。退職の理由は会社に確認したが、自己都合だそうだ」
「それだけ、ですか……」
山下は宮川の答えに、あからさまに嫌悪をぶつけた。
「それだけも何も、逮捕されれば全てが明らかになる」
「……何を呑気な!組織犯罪と仮定すれば、湯山の身の危険も考慮すべきではないのですか」
「それは……」
宮川は目を瞑り沈黙した。
すかさず山下は言い放つ。
「私どもで、その辺は捜査させていただきます。これで解決した訳ではない、そもそも主導を採るのはこちらなのだから。これ迄の捜査資料を確認させて頂きます」
宮川は渋々捜査ファイルを手渡した。

「山下さん、さっきは凄い迫力でした」
「あれくらい言ってやらなきゃな、俺らは端からナメられているようだ、しかし、何かがおかしい」
「え、どういうことですか」
「いや、わからない、しかし何かが……」
山下は助手席に深々と腰を沈めると、腕を組み、暫し先程のやり取りを思い起こす。望月は初めての県外捜査に未だ心の抑揚が押さえられず、ハンドルを掴む掌の汗をズボンの腰で拭った。
「とにかく新見警部補からは、得心いくまでとことん捜査するようにとのことです。あの人は山下さんを高く評価なさっていますよ」
「ん、そうか……いや、そんなことはどうでも良い、俺たちは職務を全うするまでだ」
山下の脳裏に、所轄の捜査会議で見せた、新見の左の口角を少しあげて微笑する顔が浮かんだ。
「この辺りですかねぇ、あっありました米山商事カッコ株、随分と立派な建物ですね。駐車場は、えっとこっちか」
車は会社建物奥手にある駐車場に入った。

米山商事(株)人事部。
「今朝がたも、刑事さんに同じ質問をされましたが……」
人事担当の職員は、不快な顔つきで望月の問いに応じる。
「3ヶ月前に本人から退職届けが出されています。有給休暇の消化後の7月末が正式な退職日ですが」
「そうですか、湯山さんはここではどんな業務に携わっていたのでしょうか」
「商品開発部で係長をしておりました。バイヤーも兼ねていて、うまいもの市で販売する商品の開拓が主な仕事でした。道内を飛び回って、魅力的な食料品や食材を探しだし、価格交渉、導入までの一環した仕事をほぼ毎日、ただ……」
「ん、ただ、なんですか」
「今年の5月に会社から急遽、道産子うまいもの市への出向人事がありまして」
「出向、何か仕事で失敗でもしたのですか」
「いいえ、そのようなことは。突然の辞令で、理由は上層部しか知らないですね」
(佐伯が昆布を購入した時は、うまいもの市の出向社員だったわけか)
「……其処での仕事内容は」
「はい、アンテナショップは横浜の他に全国に50店舗ありますが、湯山は主要都市4都府県、東京、神奈川、名古屋、大阪の統括部エリアマネージャーの職に就いておりました」
「エリアマネージャー、大した仕事をされていたんですね」
「ええ、いえ。肩書きは立派なように聞こえますが、実態は各店舗での販売応援です。商品開発をしていた時とは仕事内容に雲泥の差がある。それに耐えられず、辞表を出したのではないですかね」
「出向の理由を、社長さんに直接お伺いすることは出来ますか、或いは他の役員に」
山下が話の間に入る。
「社長は現在、他の役員と共に海外に出張しておりまして」
「海外に出張ですか、役員総出で……、それでどちらに」
「ええ、何ヵ国かを。と言いますのも、札幌市には5つの姉妹友好都市がありまして、アメリカポートランド市、ドイツのミュンヘン、中国瀋陽市、ロシアはノボシビルスク市、韓国の大田広域市。弊社は来年その姉妹都市に、北海道の食文化を提案するイベントを予定しております。今回の出張は、その都市の視察でして」
「ほう、食文化を世界に……。会社の命運を懸けたビッグプロジェクトになりそうだ」
「はい、社長はじめ全社員がこの企画に向け邁進しています。もし、出向の詳しい内容であれば、開発部の部長に確認されたら如何でしょうか」
「人事部長であるあなたが知らない事を、開発部の部長さんが知っていますかね」
「一応肩書きは取締役部長でして、社長の息子さんなんですよ」
「……なるほどそうですか、わかりました。あっそれと、湯山 和彦の履歴書のコピーを頂けますか」

米山商事(株)商品開発部。
「仕事はできる男でしたよ。鼻が効くというのかな、これだと思った物には粘り強く食らい付いて。ヒット商品をいくつも出していましたね」
「出向の理由なんですが、部長さんならご存知でしょう。それだけの人材であれば、上層部の決定だと言っても、あなたが……、おいそれと手放すわけがない」
「…………」
山下の問いに、開発部部長は沈黙した。
「殺人事件の重要参考人なんですよ、被疑者である確率が高い。知ってる事は全てお話し下さい」
山下は声を荒げ詰め寄る。
「……横領ですよ。出張費もそうですが、会社に内緒で、産地生産者からバックマージンを上乗せし請求していた。会社《うち》のショップに出展すれば商品の知名度が上がる……」
部長は蚊の鳴くような声で話した。
「そうか、生産者の心情につけ込んだ訳ですね。業務上横領、優位的地位の濫用による詐欺罪、本来ならば刑事事件だ。しかし、被害申告しなかった」
「…………」
部長は山下から顔を逸らし、うつ向いたまま額の汗を手で拭う。
「表沙汰になれば、あなたの部長としての責任が問われる、全社あげてのビッグプロジェクトにも影響が出る。お父様がもみ消した……という事ですね」
山下は鋭い眼光で、シュンとうつむく顔を覗き込む。
「しかし、それだけでは事は収まらんでしょう。部署の経理はどう処理したのですか」
「……それは……」
「それは!」
「……部門内経理担当の職員に、退職してもらいました」
「口封じ……」

(ここまでの捜査内容が宮川巡査部長の報告書には記載されていない、どういう事だ……そこまで捜査しなかったのか、あまりにも杜撰だ)
車中山下は思考を巡らした。
(本来ならばあり得ない事だ。麻薬捜査に躍起になる余り見落としたか……いや、しかし)
「山下さん、なんだか事件の核心に近づいている感じですね」
運転しながら望月は、神妙な面持ちで話し掛けた。
「あぁ、そうだな」
山下は人事部から渡された湯山の履歴書を読みながら答える。
(高卒での入社か、んっ……)
履歴書に記載された、最終学歴の高校名に見覚えがあった。
「北海道札幌東高等学校、これは被害者佐伯と同じ高校ではないか」
「えっ、山下さんそうなんですか……。同級生なんですかね」
(佐伯は早生れの35歳)
「……たぶん、そうなのだろう」
「ここでも二人が繋がりましたね」
望月はハンドルを握る手で、トトトンとリズムをとった後、山下に目配せした。
「へへっ、一つひとつ潰して行けば真実が明らかになるものなのですね」
「浮かれるな、捜査はまだ始まったばかりだ」
山下は真顔で窘めた。

八.
神奈川県警合同捜査本部。
「アウディに残された指紋と、湯山のマンションから出たそれが一致したそうだ。札幌中央本部を通じ、道内を中心に全国への指名手配が決定した」
新見をデスクに呼び出すと、木内は椅子に深々と座り、捜査の経緯を言い渡した。
「では、主導がマルボウに移るということですか」
「そうだ、ご苦労だったな。君の仕事は此処までだ、今後は麻薬捜査を中心に安藤警部が指揮を執る」
「そうですか。組織犯罪を考慮し、最悪湯山が殺されていた場合でも、権限が移行するという訳ですね」
新見は顔色ひとつ変えず、木内に確認した。
「その通りだ。札幌に飛んだ二人も直ぐに呼び戻してくれ、いやな、むこうの本部から二人の行動が問題となっていて、やりづらいとクレームを貰ったそうだ」
「承知しました。合点がいかぬところが少々ありますが、命令とあらば二人を直ぐに戻しましょう」
「ん、合点がいかぬ……それはどういう意味だ」
木内は眉をひそめて新見に問う。
「いえ、昨日の、山下からの捜査報告を聞いての私の個人的な見解です。どうぞお気になさらずに」
 新見は木内の目を見て、きっぱりと話す。
「……そうか、ではそれは良い。いやな、先程二人には、広報を通じ戻るように伝えたのだが、どうもそれを無視して捜査を進めているようでなぁ」
木内は困窮した面持ちで、新見の顔色を伺った。
「それは私から、得心いくまで捜査せよと指令を出したせいかと思われます。私から二人に伝えます」
「そうか、それならば、君から言って貰えれば二人も納得するだろう。これ迄の君の捜査報告書は完璧だ、時間も空いた。なんなら君が札幌に飛んで二人を連れ戻しても良いが、君も言った手前その方がいいだろう」
(事の収拾は、この人では無理か)
「……恐れ入ります。この件で、警部にご迷惑を掛けているのならそうしましょう。今後の捜査に、差し支えるのであれば」
「あぁそうしてくれ、なんなら今からでも構わんよ」
(警部にとって山下は、目の上の瘤なのだろう)
「……解りました。そうしましょう」

……緑区殺人事件から1週間。山下の捜査に抜かりはない、湯山は麻薬密売組織と関わりがある。出向先のアンテナショップで、旧友である佐伯に出会った、或いは、大量購入した客にアポイントを取った先が佐伯だと知り、話を持ち掛けた。しかし、なぜ彼を殺したのだ……生活が派手になった佐伯に警戒心を抱いたか、それとも何か他の理由か……佐伯がへまをやらかした? いや、今の段階ではわからない……
16時、羽田空港国内線第二ターミナルは心なしか空いていた。新千歳空港行きのアナウンスがされると、新見は搭乗口に向かう。
……宅配業者を装っていたのは湯山なのか……配達されたのは8月初旬、ここでもやはり、アンテナショップで購入したものと同様、羅臼産の根昆布と道南産のがごめ昆布が配達されている。しかし生産者は、道産子うまいもの市の取引業者ではない。湯山独自で開拓したものなのか……
座席に腰を掛け、山下からの報告をもとに湯山の背景を検証していると、胸ポケットのスマホが振動した。望月からのメールである。
 お疲れ様です。
 急ぎ報告します。
 釧路港で湯山らしき死体が上がりました。
 只今山下さんと現場に急行しております。
 詳細についてはまた連絡させて頂きます。
「なんだって!」
激しい勢いで立ち上がる。周りの客達は怪訝な顔で新見を見上げた。
「お客様、離陸前です。おかけになってシートベルトをお締め下さい」客室乗務員が声を掛けた。
「……いや、すみません」
(組織犯罪、やはり消されたか……)
新見はベルトをすると、神奈川県警本部に確認をする、間違いはなかった。電話を切ると直ぐに望月に返信をした。
 承知した。
 現在羽田空港、今からそちらに向かう。
 捜査に介入しないよう山下に伝えるべし。
……釧路……湯山とどの様な関係がある土地なのだ。昆布の生産はあるが、道南ではない。道南産のがごめ昆布であれば、函館近海の物が主流であろう……。羅臼昆布の輸送路と考えるのであれば、札幌まで遠回りすることになる……。山下は、何処まで踏み込んだのか、彼はその情報を掴んでいるのか……
・・・・・
「山下さん、新見警部補は捜査に介入するなと言ってきましたが、どうします、引き返しますか」
山下はそれを無視し、ハンドルを握る手に力を込める。
「山下……さん」
その形相に望月は絶句した。
「……警部補は、こっちに向かってますよ」
望月の消え入りそうな言葉に、ようやく山下の口元が緩んだ。
「そうか、旦那が来るか。へへっ、木内の野郎が泣きを入れたな」
「山下さん、札幌に戻りましょう。警部補に迷惑が」
「それはどうかな……。捜査員とのメールのやり取りは本部の記録に残る、こいつは旦那の狂言だ」
(へへっ、そういやぁ、こんな風に笑ったっけな)
山下は、新見のように左の口角を上げ微笑し、自身の顔をバックミラーで確認した。
「ふふっ、あの伊達男の様にはいかぬか」
「何を言ってるんですか」
「いや望月、捜査は続ける。旦那もそれを望んでいるさ」
「……な、何を根拠に」
「いいか俺たちは、佐伯の死の真相を究明しているのだ。その線上に麻薬があった、しかも犯人である湯山が殺された。おいそれと投げるわけには行かないんだよ」
「ふたりの、死の真相……」
「佐伯の死は、麻薬絡みの組織とのトラブルだったのだろう。しかし、今回の湯山の死はどこか合点がいかぬのだ……。新見警部補もそれを見抜いているさ」
 ・・・・・
夕暮れのフライトは幻想的だ。
翼下から受ける陽が、白い機体と近景の雲を紅に染め上げ、翼上から叙々に、墨を落としたような漆黒に支配されてゆく。
新見はふと、あの日見た宵の明星を思い出した。
(真由理……)
解っている、この想いは当分続くのであろう。己れの弱さを何度も自身で罵倒した。しかし、置き去りにした心の疼きを抑えることが出来ない。
「女々しいぞ」
いっそ彼女からその言葉が聞けたなら、少しは楽になれるだろうか……
暗闇の窓に目を移す。
眼下には、感傷に浸る暇など無いと言わんばかりに、函館の細く括れた灯が燃えていた。
・・・・・
新千歳空港に到着後、望月の携帯に電話を入れたが繋がらなかった。仕方なくメールにメッセージを残すと、レンタカーで札幌捜査本部を目指す。時間は18時を回っていた。

19時本部に着くと、直ぐ様薬物銃器対策課担当警部の元に行き、今回の二人の件を謝罪する。
「いやぁ新見警部補、神奈川からわざわざ恐縮です。二人は釧路の現場に向かったようですが、こちらからも連絡がとれずにいるんですよ。特に迷惑を被《こうむ》っているわけではないが、現場からクレームが上がってしまいましてね。まぁ、こちらに指揮権が移行した訳ですから、すみませんが後はよろしく頼みます」
担当警部は寛大に笑って見せる。
「恐れ入ります。直ちに現場に急行し、二人を戻します」
新見は頭を下げ、遺体発見場所の詳細を聞いた後に、山下の報告に基づいた何点かの疑問を警部に確認した。

釧路港内北側、新釧路川の河口に近い北埠頭岸壁。19時、南には大小の貨物船が停舶し、港湾都市釧路らしい夜景を見せている。
「刺し傷は全部で12ヵ所、鑑識からの報告では死後1日から2日、只今、司法解剖に回しております」
(じゅうにかしょの傷口……)
到着すると直ぐに山下は、所轄の制服警官に状況を確認した。
「後ろ手に縛られ、口には異物を押し込まれてガムテープでぐるぐる巻き……」
(喋れなくしてから、殺ったのか)
「最後に左胸を刺してから、出刃包丁をそのままに、海に放り込んだようです」
(絶命したか、まだ息があったか……それにしてもひでぇ殺し様だ)
「そこ、何をやっている!」
(誰だ……むむっ)
ライトアップされた逆光に目を細めながら、山下は声の主を確認する。宮川であった。
「彼らにこれ以上話す必要はない」
「し、失礼しました」
ドスの効いた宮川の声に制服警官はたじろぎ、頭を下げると沈黙した。
「君たちは、神奈川に帰ったのではなかったのかな」
山下、望月両人を睨みつけながら話す。
「……それは」
望月は言葉に詰まり山下の顔を見つめた。
(マルボウだけに、やけに迫力がありやがる、本職はどっちだい……しかし、ここは)
山下は宮川に対峙し、一歩踏み込むと、
「未だ仕事が片付いて無いもんでしてね」
と、180cmを越える長身を見上げ、鼻先で言い切った。
「こいつ……」
宮川は歯ぎしりしながら更に睨みを効かせる。
「宮川主任、パトカーに警電です。札幌本部からです」
「……わかった、今行く」
一触即発の緊張は、若い私服刑事の呼び掛けにより回避された。
「山下さん、どうなることかとヒヤヒヤしましたよ」
望月は胸を撫で下ろす。
「情報が欲しいんだ、新見の旦那が到着する前に、何としてでもな」
 山下はそう言い放つと、湯山の遺体が発見された桟橋に向かい歩いて行く。望月は後に続いた。
「ここが刺された現場か、血痕はあまり残されていない。致命傷以外の刺し傷はそれほど深くなかったのか」
近くで作業中の鑑識に山下が声を掛ける。
「そのようですね、衣服に血液が染み込んだこともありますが、傷口から見てもさほど深いものではありませんでした。刺したり、引いたり、嬲られたような傷で、これでは拷問だ」
「ごうもん……他に何か、変わった点はありますか」
「そうですね、あと、口に押し込まれていたのはエルメスの大判スカーフでした。調べたら『Esprit Ainou 』アイヌの心と題された、アイヌ模様をデザインしたシルク製でかなりの高級品ですね」
「アイヌの心……エルメスのスカーフ」
山下は直ぐ様スマホでネット検索する。
(綺麗な柄だ。ここでも登山ナイフ同様、アイヌ模様か……いや待てよ、こいつはもしかして)
「司法解剖が行われている病院は何処ですか」
スマホを閉じると鑑識員に尋ねた。
「所轄の釧路総合病院ですが」
「ありがとう」
二人は一礼すると車に乗り込んだ。

釧路総合病院 遺体安置室。
「それにしても、ひどい面だ。こんなに口を開けて……」
「大判のスカーフを丸めて、無理やり口に詰めたのでしょう、顎が外れています。喉奥まで達していたので、呻き声も出せなかったでしょうね」
「顎を外したか……」
解剖医の説明を聞きながら山下が腕を組む。
「うっ……」
望月は両手で自身の口を塞ぐと、膝を折り床を見つめた。山下はそんな望月を横目でやり過ごし、遺体の頭からつま先までを隈無くチェックする。
「打撲、擦過傷が数ヶ所……。確かに左胸を刺したもの以外に、深い傷はない……。ナイフでは両足に4ヵ所、両腕に4ヵ所、腹に2ヵ所、右胸、そして左胸……」
(組織犯罪の殺しにしては、やはりおかしい……殺しを楽しんでいるようだ)
「12ヵ所の刺し傷、なんだか『オリエント急行殺人事件』のようですね……怨恨……ですかね」
気を取り直した望月が、山下の顔色を伺いながら尋ねる。
「ああ、その線も考えられるな……ん、何をニヤニヤしてやがる」
「いえ、バカなことを言うなとか、怒られるかと思って。僕が何か言うといつもそうですから……」
「……そうだったか、それはすまなかったな」
「えっ……」
山下の言葉に一瞬、胸が詰まった。
(12人の陪審員……)
「……では、複数人の犯行と言うわけですか」
望月は鼻を膨らませ、期待を以て尋ねる。
「そこまでは言ってねえよ。殺人動機に、恨み、つらみの可能性があるってことだ。しかも……手、足、腹、胸共に、それぞれ左右対象に刺されている。何かしらの意味を込めて殺ったのだろう」
「……なるほど……」
「ところでエルメスのスカーフですが、見せて頂けますか」
「いえ、こちらには……。取り出してから所轄の鑑識が証拠として回収しました。スカーフに刺繍がしてあったんですよ」
「刺繍が……どんなものでしたか」
「はい、有縁千里来相会、と」
(縁あれば千里……たとえ千里離れていても縁さえあれば出会い、結ばれる……そして、十二の傷……これは……)
「縁起の法は我が所作に非ず。また余人の作にも非ず。しかるに彼の如来出世するも、及び未だ出世せざるも法界常住なり……彼の如来は自らこの法を覚して等正覺を成ず……」
「山下さん、ぶつぶつと何を言ってるんですか」
望月の問いを無視し、眉間に皺を寄せたまま目を瞑る。
(なるほど……十二の縁起を絶ったか……憎悪に満ち満ちている)
「無明滅すれば則ち行も減す、行滅すれば則ち識も減す、識滅すれば則ち名色も減す、名色滅すれば則ち六入も滅す、六入滅すれば則ち触も減す、触滅すれば則ち受も減す、受滅すれば則ち愛も減す、愛減すれば則ち取も減す、取滅すれば則ち有も滅す、有減すれば則ち生も減す、生滅すれば則ち老死、憂悲、苦悩も減する」
言い終わると山下は、カッと目を見開き、僅かに左頬をひきつらせた。
「なんのことですか……」
神妙な面持ちで尋ねる。
山下は望月に向き直ると、ゆっくり諭すように話した。
「十二因縁。仏教の縁起説の一つで、十二縁起とも言う。過去、現在、未来の三世輪廻を、12の項目で説いた原始仏教よりあった思想だ。無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死という、人がもつ12の苦の発生原因とそれを滅する方法をな……。犯人は、この教えを逆手にとった……」
「仏教の教えですか……」
「そうだ、湯山に十二因縁を説きながら、じっくりと殺りやがった」
「恨みから……あまりにも、酷《すぎる」
「おい望月、新見の旦那に連絡だ! これ迄の経緯とともに、湯山殺しの動機は怨恨だと伝えてくれ。たぶん……組織犯罪とは関係が無い。それと、今から札幌に戻ると」
・・・・
 智慧をもって
生死の由るところを観察するに
生より老死あり。
 生はこれ老死の縁たり。
 生は有より起る。有はこれ生の縁たり。
 有は取より起る。取はこれ有の縁たり。
 取は愛より起る。愛はこれ取の縁たり。
 愛は受より起る。受はこれ愛の縁たり。
 受は触より起る。触はこれ受の縁たり。
 触は六処(六入)より起る。
六処はこれ触の縁たり。
 六処は名色より起る。
名色はこれ六処の縁たり。
 名色は識より起る。
識はこれ名色の縁たり。
 識は行より起る。行はこれ識の縁たり。
 行は無明より起る。無明は行の縁たり。
 是をもって無明に縁って行あり、
行に縁って識あり、
識に縁って名色あり、
名色に縁って六処あり、
六処に縁って触あり、
触に縁って受あり、
受に縁って愛あり、
愛に縁って取あり、
取に縁って有あり、
有に縁って生あり、
生に縁って老病死憂悲苦悩あり。
……(阿含経典 長阿含経より)……
・・・・
山下の脳裏に、女の影がちらついた。

遠き潮騒(仮題)

執筆の狙い

作者
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知床羅臼の美しい大自然を背景に、縺れ合う慕情。男と女は、真実の果てに何を見たか……
横浜、札幌、羅臼の点が、線で結ばれた時、事件の真相は明らかとなる。

ミステリー小説約12万文字の、書き出し約3万文字となります。お読み頂けると嬉しいです。読者様がこの先を読んでみたいか、否かが気になるところです。
よろしくお願い申し上げます。

コメント

10月はたそがれの国
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冒頭、状況に違和感があって、そこでやめたんです。


>カラカラと北風に巻かれ、枯れ葉が足元にすがりつく。

↑ 11月の落葉シーズンまっさかりで、関東あたりの「乾いた」気候か、もしくは「小春日和」な印象。


>絶え間なくそそぐ波潮が細かな泡となり、微かに音をたてながら消えてゆく。

↑ 海に「そそぐ」のは、普通「川」。それが、「波潮」?? で、「泡が音を立てる」???


>「あぁ……さぶい」
膝を抱えたくなる程の、凍てつく寒さが身に染みる。

↑ さっきまで11月小春日和・晴天乾燥な状況が、「凍てつく」で、いきなり厳冬期??


>山々をおおう雲の底辺が、朱色に染まり始めると、けあらしに霞む赤灯台の灯が、いつの間にやら落ちていた。

↑ 山々をおおう雲の「底辺」?? ・・夏雲っぽいんだよね。
それが「朱色に染まり始める」?? と、「けあらし」になる???

けあらしは「海に立つもの」なので、「山々をおおう雲」は関係ない。
「けあらし」は《冬の訪れを告げる》ものなんだけど、直下で


>流氷は、遥か沖合いにあった。

↑ 流氷は、《春先に来る》ものだったと思った。



「状況」と「季節」が、てんでまったく、まるっきり理解不能だった。


失礼ながら「とてもメンドくさそうな作者さん」なので、レスはいらないです。

10月はたそがれの国
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「ストーリーで読ませたい」
「最後まで読んでもらいたい」

場合は、

こういう「のっけから変に気負って(気張って)小説っぽく書こうとする」のじゃなしに、

「余計な力を抜いて、するっと書き出す」のが読者親切だし、

作者にとっても「得」だと思うんですよ。

10月はたそがれの国
n219100086103.nct9.ne.jp

>山々をおおう雲の底辺が、朱色に染まり始めると、けあらしに霞む赤灯台の灯が、いつの間にやら落ちていた。

↑ ・・・。

もしかして、
《背後の山の方が東で、そこから曙光が差してきた》状況なんだろうか??
それで《けあらしに霞みながらも、灯台が消灯した》??

確証はないけど。。


「秋の紅葉なのか??」とか、
「分厚いねずみ色の雲が夕焼けの反射で赤くなってるのか??」とか、
無駄に頭使わされた。



作者からすると、「その直後に漁に行く話してるから、普通に読んだら分かるでしょう!!」とお怒りかもしれないんだけど、

イカ釣りとか夜だし、
「流氷」って単語出るまでには「北海道」な手がかり何もないし、
「けあらし」は東北や北陸の海でもあるようだし、

だいたい「けあらしのさなかにいたら、山々をおおう雲の底辺なんか見えん!」し。。

コウ
p3004-ipngnfx01kouchinwc.kochi.ocn.ne.jp

拝読しました。
警察組織詳しいですね。そして、色々なことを詳しく調べて書かれていることに敬服します。資料収集にも時間を掛けた力作だと感じました。だからこそ、勿体ない。
少し辛口の感想になりますが、お許しください。

序については、月さんに同意します。もっと普通に入った方が良いし、掴みとしての魅力を感じません。

本文に入っても序盤は情報ばかりが羅列され、小説なのか警察組織の解説書なのか分からない状態ですね。知っていることをすべて書くのではなく、必要な情報取捨選択取捨選択した方が良いのでは?
ジャック・プレヴェールのフランス語の詩が本当に必要ですか?
難破船の歌詞が必要ですか?

神奈川県警の不祥事についても、長々と会話文で書かれていますが、これをすべて覚えて話すのは不自然です。それにこの情報は、ほとんど「Wikipedia」の丸写しですよね。自分の書いたもの以外は、著作権があると思っていた方が良いですよ。

やっと物語に入り込め始めたのは、中盤に入ってからです。この構造では、序盤で挫折される方が多いのではないでしょうか。今回の投稿文を全部読んでも、誰を中心に描いているのかよく分からない。つまり感情移入ができないのです。

気になった点を一つ。
裕一の母も祖母も海女だった設定になっていますよね。海女の北限は、「あまちゃん」出有名になった岩手県久慈と言われています。北海道の知床岬に海女はいないでしょう。それとせっかく警察組織について正確に書かれている(確信はないですが、おそらくそうだと思います)のに厚生省の麻薬取締官が麻薬捜査官になっています。まあ、たいした問題ではありませんが……。


とはいえ、謎の提示はよくできていると思います。この先を読みたいかと問われれば、読みたいですね。最後まで読めば、面白いという予感がします。凪さんの創作に対する姿勢は、私も見習うべきだと思っています。頑張ってください。

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コウ様へ
お読み頂き感謝申し上げます。

書き出しは色々と悩んだあげくのものでしたので、お二人に指摘され方向性が見えました。ありがとうございます。

確かに神奈川警察不祥事については書きすぎですね。プレヴェールと難破船は、読者様により好みが別れるところかと思いますが、再度検討してみます。

主人公は新見啓一郎です。実はこの物語は、長編ミステリー「終天の朔」(なろう、カクヨムに掲載中)のスピンオフ作品として執筆したものでして、読者様への配慮が欠けておりました。反省します。

最後まで読んでみたいとのお言葉には、勇気をいただきました。
再度構成を練り直してみます。
ありがとうございます。

u
opt-220-208-25-236.client.pikara.ne.jp

読みました

絶対的に(脚本・シナリオ)的ですwwww

地の文に魅力を感じませんゴメンね辛口で

セリフが説明的www
↑でも指摘ですけど

小説としては(会話バッカ)でも成り立つのですが
でも本作セリフに魅力を感じませんでした
まー脚本としてもwwwwwww

ミステリー(殺人絡む・北海道羅臼昆布・?麻薬・・・・)なんで あたしとしては作者さんに続きはあげて欲しいのよね

本作
全部の長さとか 構成とか(途中挟まれる〈・・・・・『凍えるほどの寒さと言うものは、温度計で計るものとはま違った意味をもつのだと、札幌の地で思い知らされたのでございます』・・・・・ミタイナwwwww

〈・・・・・     ・・・・・〉でくくる  作者が表現する部分が気になるwwww

だけどこれが犯人の独白であれば(殺人事件なので)小説としての多分(肝)なわけでwwww

こういった(細切れ)の出した方ってっどうなんでしょナーンテネ(間違ってたらゴメンwww)

ミステリーとしての熱意は感じた
続きは読みたい
ヨロwwww

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u様へ
お返事が遅れ、申し訳ありません💦
お読み頂き感謝申し上げます。

カクヨムでは、「遠き潮騒 知床羅臼編」、「遠き潮騒 横浜~北海道編」として別々に掲載しております。これを一本の小説に完成させる際の方向性を、ここで検討させて頂きました。
シナリオのようになってしまったのは、自身でも承知しております(汗)
台詞により、それぞれの個性が出せれば良いかなと……

皆さんのご指摘を参考に、構成を練って行こうかと思います。
感想ありがとうございます\(^o^)/

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