作家でごはん!鍛練場
積 緋露雪

審問官 第一章「喫茶店迄」

審問官 第一章「喫茶店迄」

           積 緋露雪 著



私が思ふに、彼が絶えず「断罪せよ!」といふ内部から沸き上がつて仕方がない自己告発の声に悩まされ続けてゐたのは間違ひない。そのことを彼は彼が何か行動を起こさうとすると必ず内部で呟く者がゐると暗示していたのであつた。

…………
…………

――断罪せよ! 

…………
…………

彼は、当時から、そもそも己の《存在》自体に懐疑的であつた、といふよりも、自己の《存在》を自殺以外の方法で此の世から葬り去る事ばかり考へてゐたのである。

…………
…………

――両親の死を看取つたなら即座に此の世を去らう。それが私の唯一の贖罪の方法だ……。

…………
…………

彼には主体なる《もの》の《存在》がそもそも許せなかつたらしい。彼をさうさせた原因は、しかし、判然とせず、今もつて私には謎のままである。彼が、あの頃、埴谷雄高が名付けた奇妙な病気――黙狂――を患つてゐたのは間違ひない。
 彼はいつも何かを語らうとすると、言語がその構造を担保にしてゐる主語述語などといつた言語が現れるその言語自体の構造を見失つて、彼の頭蓋内の闇、それを《五蘊場(ごうんば)》と彼は名付けてゐたが、、その《五蘊場》では数多の言語が一斉に湧出し、渾沌に堕すその結果、無言になつてしまふとのことであつた。しかし、彼は無言とは言へ、それで全てを語つたといふのであつた。つまり、端的に言へば《黙狂者》以外の何《もの》でもなかつたのである。それは、
――俺は……。
 と、言つて彼が不意に黙り込んでしまふ事からも明らかに思へたのであつた。つまり、彼は自同律の陥穽に終生堕ち込んだまま、其処から這ひ出た事は一度としてなく、そして、彼はそれを「善し」と自己納得してゐる風でもあつたのである。
 しかし、彼は学生時代が終わらうとしてゐた或る日、忽然と猛烈に語り始め、積極的に行動し始めたのであつた。彼を豹変させ忽然とさう変へた原因もまた、私には判然としなかつたのである。
彼は大学を卒業すると、二十四時間休む間のない事で学生の間で有名だつた或る会社に自ら進んで就職したのであつた。
風の噂によると、彼は猛然と二十四時間休む事なく働き続けたらしい。しかし、当然の結果、彼は心身共に疲労困憊し、遂には不治の病に罹つてしまつたらしいのである。その後某精神病院に入院してゐるらしいとは、私も承知してゐた事であつた。

…………
…………

――自同律の不快どころの話ではないな。『断罪せよ!』と私の内部で何時(いつ)も告発する者がゐるが、かうなると自同律を嫌悪する外なく、その結果故に吾は自同律の破壊を己の手で己を実験台にして試みたが……ちえつ……人間は何て羸弱(るいじやく)な生き物なのか……ふつ……自己破壊と言へば聞こえはいいが……ちえつ……唯……病気になつただけではないか……くつ……自己が自己破壊を試みた挙句……唯……病気になつただけ……へつ……をかしなもんだ……だが……しかし……俺も死に至る病にやつと罹れたぜ……へつ……両親も昨年相次いで亡くなつたからもう自己弾劾を実行出来るな……。

…………
…………
 彼の死は何とも奇妙な死であつたらしい。態態(わざわざ)看護師を呼んではにやりと不敵な薄ら嗤ひを浮かべ突然哄笑したかと思へば忽然と息を引取つたらしいのである。

…………
…………

――断罪せよ……さうだ……お前をだ……其の《存在》自体が既に罪なのだ……。

…………
…………

何やら今も彼の言葉がこの時空間にゆらゆらと宇宙背景輻射の如く不可視な《もの》として漂つてゐるやうに思へて仕方がない……。

主体弾劾者の手記 

にやりと嗤つた途端、不意に此の世を去つたといふ彼の葬儀に参列した時、亡くなつた彼の妹さんから彼が私に残したものだといふ何冊にも亙つて彼が書き綴つた大学Note(ノート)を渡されたのであつた。英語と科学を除いて勿論彼は終生縦書きを貫いたのでその第一冊目に当たつていたと思はれる大学Noteの表紙にその大学Noteを縦書きで使ふ事を断言するやうに『主体、其れ主体を弾劾すべし!』と力強い筆致で筆書きされてあつたのである。
その手記は次の一文から始まつてゐた……。

――吾、吾を断罪す。故に吾、吾を破壊する――。
これは君への遺言だ。すまんが私は先に逝く。これが私の望む《生》だつたのだ。私はこんな人生で満足しなければ、へつ、罰が当たるぜ……。本当に私は幸せだつたのだ。
君もご存知の「雪」といふ名の女性が私の前に現れた時に私は《自死》しなければならないと自覚せざるを得なかつたのだ……。それは私が自意識に目覚めたときにすでに薄らと吾におぼえていた何とも物悲しい感覚なのであつた。
ふつ、自分で言ふのも何だがね……、私は皆に「美男子」と言はれてゐたので美男子だつたのだらう。君はどう思ふ? 
よくRock Band(ロツク・バンド)のU2の作品「WAR」のジヤケツト写真の少年(俳優:ピーター・ロワン)に似てゐると言はれてゐたが、ご存知のやうに私は変人だつたのでそれ程多くの女性にもてたとは言へないが、生命を生む性である或る女性の一部にとつては、私はどうしても私の《存在》が「母性」を擽(くすぐ)るのだらう、彼女らは私を抛つて置けず無理矢理――この言ひ方は彼女らに失礼だがね――私の世話をし出したのは君もご存知の通りだ。
しかし、私に関わつた全ての女性たちは私が金輪際変はらないと悟つて私の元から皆離れて行つた。雪もその一人だつたのかもしれないがね……。ふつ、自業自得だね。
私は雪と出会つた頃には埴谷雄高がいふ人間の二つの自由――子を産まない事と自殺する事の自由――の内、自殺の自由の行使の仕方ばかり考へてゐたが、私には、また、人間にはそもそも自由など無いし、また、宇宙は原則として自由なる事を許されてゐないとも自覚してゐたので、自殺してはならぬとは心の奥底では思つてゐたけれども、画家のヴアン・ゴツホの死に方には一種の憧れがあつたのは事実だ。自殺を決行して死に損なひ、確か三日ぐらゐ生きた筈だが、私もヴアン・ゴツホが死す迄の三日間の苦悩と苦痛を味はふ事ばかりその頃は夢想してゐたものだ。それほどに私は追ひ込まれていたのかもしれなかったのだ。それに自殺は地獄行きだから、死しても、尚、未来永劫《吾》であり続けるなんて御免被るといつた事も私が自殺しなかつた理由の一つだ。何故つて、地獄とは《吾》は卒倒することすら許されないところで、意識は未来永劫に亙つてずつと《吾》は《吾》として地獄の責苦を味はひ続けなければならないのさ。
今は亡き母親がよく言つてゐたが、私は既に赤子の時から変はつてゐたさうだ。或る一点を凝視し始めたならば、乳を吸ふ事は勿論、排泄物で汚れたおむつを替へるのも頑として拒んださうだ。ふつ、私は生まれついて食欲よりも凝視欲とでも言つたら良いのか、見る事の欲望が食欲より――つまりそこには性欲も含んでゐるが――優つてゐたらしい。赤子の時より既にある種の偏執狂だつたのさ。君が私を《黙狂者》と呼んだのは見事だつたよ。今思ふとその通りだつたのかもしれない。
そんな時だ、雪に出会つてしまつたのは……。

私が何故Television(テレビ)を殆ど見ず、街中を歩く時伏目になるのかを君はご存知の筈だが……、実際、私には他人の死相が見えてしまふのだ。街中で恋人と一緒に何やら話してゐて快濶に哄笑してゐる若人にはつきりと死相が見える……。体の不自由なご主人と歓談しながらにこにこと微笑み車椅子を押してゐるそのご婦人にはつきりと死相が見える……。Televisionで笑顔を見せてゐるTalent(タレント)にはつきりと死相が見える等等、君にも想像は付く筈だが、この他人の死相が見えてしまつた瞬間の何とも名状し難い気分……これは如何ともし難いのだ。それが嫌で私はTelevisionを見ず、伏目で歩くのだ。他人の死相が見えてしまつたときの私の慌てやうは解かるだらう? それはどうあつても抗ふことが出来ないもので、街を歩けば必ず一人くらゐの死相は見えてしまうものなのさ。
そんな私が馥郁(ふくいく)たる仄かな香りに誘はれて大学構内の欅を見た時、その木蔭のBench(ベンチ)で彼女、つまり、雪が何かの本を読んでゐるのを目にしたのが、私が雪を初めて見た瞬間だつた。
その一瞥の刹那、私は雪が過去に男に嬲られ陵辱されたその場面が私の脳裡を掠めたのである。そんな事は今迄無かつた事であつたが、雪を見た刹那だけそんな不思議な事が起こつたのであつた。それは、所謂以心伝心と言ふもので、雪との間においては、何故か、心が通じる「会話」が自然と出来たのだ。その時は、私は雪に声も掛けずにそのまま欅の木の傍らを通り過ぎたのだがね。しかし、雪に言はせるとその瞬間に雪は私に一目惚れしたらしいのだ。
しかし、その時を境として私は、雪が欅の木の下のBenchに座つてゐないかと、その欅の前を通る度に雪を探すやうになつたのさ。
君もさうだつたと思ふが、私は大学時代、深夜、黙考するか本を読み漁るか、または真夜中の街を徘徊したりしては朝になつてから眠りに就き夕刻近くに目覚めるといふ自堕落な日日を送つてゐたが、君とその仲間に会つたところで私は無言のまま、唯、君たちの会話を聞くに過ぎぬにも拘はらず、私は君とその仲間に会ふために夕刻になると大学にはほぼ毎日通ふといふ、今思ふと不思議な日日を過ごしてゐた訳だ。
話は前後するが、今は攝(せつ)願(ぐわん)といふ名の尼僧になつてゐる雪の男子禁制の修行期間は疾(と)うに終はつてゐる筈だから、雪、否、攝願さんに私の死を必ず伝へてくれ給へ。これは私の君への遺言だ。お願ひする。多分、攝願さんは私の死を聞いて歓喜と哀切の入り混じつた何とも言へない涙を流してくれる筈だから……。
さうさう、それに君の愛犬「てつ」こと「哲学者」が死んださうだな。さぞや大往生だつたのだらう。君は知つてゐるかもしれないが、私は「てつ」に一度会つてゐるのだ。君の母親が、
――家(うち)にとんでもなく利口な犬がゐるから一度見に来て。
と、私の今は亡き母親に何か事ある毎に言つてゐたのを私が聞いて、私は「てつ」を見に君の家に或る日の夕刻訪ねたのだが、生憎、君はその日は不在で、君の母親の案内で「てつ」に会つたのだよ。
「てつ」は凄かつた……。夕日の茜色に染まつた夕空の下、「てつ」の赤柴色の毛が黄金(こがね)色(いろ)に輝き、辺りは荘厳な雰囲気に蔽はれてゐたのさ。その瞬間、私にとつて「てつ」は「弥勒(みろく)」になつちまつた。私を見ても「てつ」こと「哲学者」、若しくは「弥勒」は全く警戒しないので君の母親は私と「弥勒」の二人きりにしてくれた。それはそれは有難かつた。暫く「弥勒」の美しさに見蕩(みと)れてゐると「弥勒」が突然、私に、
――うああお~んわーうわうあう~~。
と、何か私に一言話し掛けたのである。私にはそれが「諸行無常」と聞こえてしまつたのだ……。
今でもあの神神しい「弥勒」の荘厳な美しさが瞼の裏に焼き付いてゐるぜ……。さてさて、彼の世で「弥勒」に会へるのが楽しみだ……。
さて、話を雪の事に戻さう。
或る初夏の夕刻、君と一緒にあの欅の前を歩いてゐると、雪がBenchに座つていつものやうに何かの本を読んでゐた……。それがすべての始まりだったのかもしれないと思ふのさ。

…………
…………

話を先に進める前に君に言つておくがね、しかし、君には多分薄薄と解つてゐた筈だが、私が私であるといふ自同律を嫌悪する私は、性に対してもその通りだつたのだ。思春期を迎へ夢精が始まり、まあ、それは《自然》の事だから何とか自身を納得させたがね、しかし、自慰行為は幻滅しか私に齎さなかつた。射精の瞬間の《快楽》がいけないのだ。その《快楽》は私に嘔吐を反射的に齎すものでしかなかつた……。

…………
…………

君は「ⅹの零乗=1」《(x>0:0より大きい数の零乗は1となる》といふ事は知つてゐるね。私はこの雪との出会ひの時に、自同律の嫌悪を超克するには《死》しかないと確信してしまつたのだ。皮肉なことだがね。これは何ともし難い私のLibido(リビドー)とも言える《死》の衝動だつたのだ。零乗の零と言ふアラビア数字の形が一回転した《もの》の軌跡に見え、零乗されたⅹなる《存在》は皆平等に1になる、つまり、私にとつてそれは現世での《一生》に見え、更に《存在》全てに平等に訪れる《死》をも其処に見てしまつたのだ。生命は死の瞬間確率1になる。否、もしかすると《存在》はその死の瞬間に零、若しくは∞、つまり、《無》、若しくは《無限大》に化けるのかもしれぬが、しかし、つまり、1=1といふ自同律は《死》で一応完結する筈さ。私はこれで自同律の嫌悪は終はるに違ひないと自覚せざるを得なかつたのだ……。そして、さう望んだやうに私はかうして死んだのだ。私はこれに満足してゐる。
――はつ。

…………
…………

ところで、雪を除いて過去に私を一方的に愛してしまつた女性たちは或る時期を過ぎると必ず私に性行為を求めて来たので私は《義務》でそれら全てに応じたが、性行為が終はると《女の香り》が私を反射的に嘔吐させる引き金になつてしまつたのだ。勿論、私は同性愛者ではない。だから、尚更いけないのだ。或る時、私が射精した瞬間、女性の顔面に嘔吐してしまつたのを最後に、私は女性との性行為もしくは性交渉をきつぱりと已めてしまつた……。
また雪を除いての話だが、それに《女体》の醜悪さはどうしようもなかつた。彼女たちは彼女自身の《脳内》に棲む《自身の姿》をDietなどと称しながら自身の身体で体現する《快楽》が正しく私の嫌悪の元たる自同律の《快楽》だと知つてゐた筈だが、私の嘔吐を見ながらも、誰ひとりの女性も《脳内》の自分の具現化といふ実に不愉快極まる事を已めはしなかつたのだ。結局彼女たちの理想の体型は痩せぎすの《男の身体》に《女性》の性的象徴、例へば乳房を、しかもそれが豊満だと尚更良いのだが、そんな《不自然な》体型を《女体》と称して私に見せ付けたのだ。これが醜悪でないならば何が醜悪といふのか……。

…………
…………

そんなときに雪が現はれたのだ。
私が君と連れだつて大学の構内を歩いてゐて、私が不意に欅の木蔭のBenchにゐた雪を見つけた時、反射的に私の足は雪に向かつて歩き始めてしまつた。その時、雪は読んでゐた本から目を上げ私を一瞥すると、私の全てを一瞬にして理解したやうに可愛らしい微笑を顔に浮かべた。私はその時に既に悟つていたのさ。雪は私を彼女の全《存在》で受け容れてくれたのだ。君にはこの時の雪と私の間で通じ合ひ、それをお互ひ一瞬で理解してしまひ、更には多分お互ひ同士それを明瞭に感じた筈である奇妙な或る感覚は、多分理解不能だと思ふが、《奇跡的》に他人同士が一目で全的に互いを理解する出来事がその時起こつてしまつたのだ。
吾ながら今もつてその時の事は不思議でならないがね……。
君は私が《黙狂者》だと認識してゐたので、君は多分私と雪との関係をこれまた一瞬で理解したのだらうね。君は駆け出して、私より先に雪に声を掛けたね。あの時は有難う。
――君、何の本を読んでゐるの?
――William Blake(ヰリアム・ブレイク)よ。
――それは丁度いい。良かつたならなんだけど、これから僕たちブレイクの《THERE IS NO NATURAL RELIGION》と《ALL RELIGIONS ARE ONE~The Voice of one crying in the Wilderness~》をネタにして、男ばかりだけど……飲み会みたいなSalon(サロン)みたいな真似事をしようとしてゐるので……君もよかつたら来ないかい? 
――……ええ、いいわよ。
――本当、ぢやあ、僕らと一緒に行かう。
雪が君と会話してゐる間もずつと雪は私を見て微笑んでゐたのは君も覚えているだらう。その時私には既に雪が尼僧の像と二重写しで見えてしまつてゐたのだ……。不思議なことなのだが、それは今も尚、私にとっては余りにも自然なことに思はれて仕方がないのさ。

William Blake著

《THERE IS NO NATURAL RELIGION》
[a]
  The Argument. Man has no notion of moral fitness but from
Education. Naturally he is only a natural organ subject to
Sense.
 I  Man cannot naturally Percieve. but through his natural or
bodily organs.
 II  Man by his reasoning power. can only compare & judge of
what he has already perciev'd.
 III  From a perception of only 3 senses or 3 elements none
could deduce a fourth or fifth
 IV  None could have other than natural or organic thoughts if
he had none but organic perceptions
 V  Mans desires are limited by his perceptions. none can desire
what he has not perciev'd
 VI  The desires & perceptions of man untaught by any thing but
organs of sense, must be limited to objects of sense. 
 Conclusion. If it were not for the Poetic or Prophetic character
the Philosophic & Experimental woud soon be at the ratio of all 
things & stand still unable to do other than repeat the same dull
round over again
[b]
 I  Mans perceptions are not bounded by organs of perception. he
percieves more than sense (tho' ever so acute) can discover.
 II  Reason or the ratio of all we have already known. is not
the same that it shall be when we know more.
 [III lacking]
 IV  The bounded is loathed by its possessor.  The same dull
round even of a univer[s]e would soon become a mill with
complicated wheels.
 V  If the many become the same as the few, when possess'd,
More! More! is the cry of a mistaken soul, less than All cannot
satisfy Man.
 VI  If any could desire what he is incapable of possessing,
despair must be his eternal lot.
 VII The desire of Man being Infinite the possession is Infinite
& himself Infinite
   Application.   He who sees the Infinite in all things sees
God.  He who sees the Ratio only sees himself only.
Therefore God becomes as we are, that we may be as he is
《ALL RELIGIONS ARE ONE》
〔The Voice of one cryng in the Wilderness〕
 The Argument    As the true method of knowledge is experiment
the true faculty of knowing must be the faculty which experiences.
This faculty I treat of.
 PRINCIPLE 1st  That the Poetic Genius is the true Man. and that
the body or outward form of Man is derived from the Poetic Genius.
Likewise that the forms of all things are derived from their Genius.
which by the Ancients was call'd an Angel & Spirit & Demon.
 PRINCIPLE 2d  As all men are alike in outward form, So (and with
the same infinite variety) all are alike in the Poetic Genius
 PRINCIPLE 3d  No man can think write or speak from his heart, but
he must intend truth. Thus all sects of Philosophy are from the Poetic
Genius adapted to the weaknesses of every individual
 PRINCIPLE 4.  As none by traveling over known lands can find out
the unknown.  So from already acquired knowledge Man could not ac-
quire more. therefore an universal Poetic Genius exists
 PRINCIPLE. 5. The Religions of all Nations are derived from each
Nations different reception of the Poetic Genius which is every where
call'd the Spirit of Prophecy.
 PRINCIPLE 6   The Jewish & Christian Testaments are An original
derivation from the Poetic Genius. this is necessary from the
confined nature of bodily sensation
 PRINCIPLE 7th  As all men are alike (tho' infinitely various) So
all Religions & as all similars have one source
 The true Man is the source he being the Poetic Genius
(出典:PENGUIN CLASSICS版 「WILLIAM BLAKE――THE COMPLETE POEMS」より頁75~77)

ヰリアム・ブレイク著

《THERE IS NO NATURAL RELIGION》の拙訳

「如何なる自然宗教(理神論)も在り得ない」
[a]
論証。人間は教育を除く如何なるものからも道徳の適合性に関する概念を持ち得ない。本来人間は感覚に従属する単なる自然器官である。
一 人間は本来知覚する事が出来ない。自身の自然乃至身体器官を通さずしては。
二 人間は自身の推理力によつては。単に自身が後天的に理解(知覚)した事を比較乃至判断出来るのみである。
三 単に三つの感覚乃至三つの要素のみで構築した知覚から如何なる人間も第四の乃至第五の知覚を演繹出来なかつた。
四 仮に人間が器官による知覚の外一切を持たないなら如何なる人間も自然乃至器官による思惟形式以外持ち得る筈もない。
五 人間の希求は自身の知覚によつて限られる。如何なる人間も自身が知覚し得ないものを希求する事は出来ない。
六 感覚器官以外では如何なる事象も知り得ぬ人間の希求及び知覚は感覚(客体)の対象に対して制限されなければならない。
結語。仮に詩的乃至預言的な表現が此の世に《存在》しないならば、哲学的及び試論による表現は即ち全事象の数学的比率となり、及び陰鬱な単一反復回転運動を繰り返す以外不可能故に立ち尽くす(停止する)のみである。
[b]
一 人間の知覚は認識機構によつて制限されない。人間の感覚(どれ程鋭敏であらうとも)が見出す以上の事を知覚(認識)する。
二 推論乃至吾吾が後天的に認識した全事象の数学的比率は。吾吾が更に多く認識すると想定された《存在》と同じである事はない。
三 欠落
四 枠付けは枠付けした者に忌避される。宇宙の陰鬱な反復回転運動でさへ、即ち歯車複合体たる水車小屋に変容するであらう。
五 仮に多様が単純に還元されると看做す場合、そしてそれに取り憑かれたとき、もつと!  もつと! は迷妄なる魂の叫びであり、直ちに全事象は人間を満足させる。
六 仮に如何なる人間も自身で持ち得ないものを希求する事が出来るとするなら、絶望こそ人間の永劫に亙つて与へられし運命であるに違ひない。
七 人間の希求が無尽蔵なら、それを持ち得るといふ事は無限であり自身もまた無限である。
応用。全事象に無限を見るものは神を知る。単に数学的比率しか見えぬものは自己しか知り得ない。
それ故、神は吾吾が《存在》する限り《存在》し、即ち吾吾は神が《存在》する限り《存在》するのであらう。

《ALL RELIGIONS ARE ONE》の拙訳

「全ての宗教は一つである」
荒野の一嘆き声
論証。真の認識法が試みであるなら、真の認識力は経験の能力でなければならない。この能力について論ず。
第一原理 詩的霊性が人間の本質である。及び人間の肉体乃至外観の様相は詩的霊性から派生する。同様に全《存在》物の形相はそれら自身の霊性から派生する。古代の人々はそれを天使及び霊魂及び霊性と呼んだ。
第二原理 全人類が形相に於いて同等であるなら、即ちその事はまた(及び等しく無限なる多様性を持つならば)全人類は詩的霊性に於いても同等である。
第三原理 如何なるものも自身の心の深奥から思考し乃至書き乃至話す事は出来ないが、しかし人間は真理へ向かはなければならない。何故なら哲学の全学派は全個人の羸弱さに応じた詩的霊性から派生したものである。
第四原理 既知の領域を見回したところで如何なるものも未知を見出す事は出来ない。即ち後天的に得た認識から人間はそれ以上獲得出来なかつた。故に全宇宙型詩的霊性は《存在》する。
第五原理 あらゆる民族の各宗教はあらゆる場所で預言の霊性と呼ばれる詩的霊性を各民族が多様に感受した事から派生する。
第六原理 ユダヤ教徒及び基督教徒の聖書は詩的霊性から本源的に派生したものである。この事は肉体的感覚の限界性から必然である。
第七原理 全人類は同一(無限の多様性が見えてゐるにも拘はらず)である故に、全宗教及び全宗教的類似物は一つの本源を持つ。
真の人間は自身が詩的霊性である事の源である。

以上、当時のMemoのまま――表現が稚拙で誤訳ばかりであるが――ここに書き記しておく。当時の雰囲気が香つてくるのでね。
さて、君に話し掛けられても私を微笑みながらぢつと見続けてゐた雪の目は、フランツ・カフカかエゴン・シーレのSelf-portraitの眼光鋭き眼つきを一見髣髴とさせるやうに見えるが、しかし、よくよく見てみると雪の目は柔和そのものであつたのだ。
君も雪の行動が奇妙な点には気が付いてゐた筈だが、雪は未だ《男》に対して無意識に感じてしまふ恐怖心をあの時点の自身ではどう仕様もなく、雪は《男》を目にすると自然と雪の内部に棲む《雪自体》がぶるぶると震へ出し、雪の内部の内部の内部の奥底に《雪自体》が身を竦(すく)めて《男》が去るのをぢつと堪へ忍ぶといつた状態で、雪は君の顔を一切見ず君と話をしてゐたんだよ。
その点、雪は私に対しては何の恐怖心も感じなかつたのだらう。つまり、雪にとつて私は最早《男》ではなく、人畜無害の《男》のやうな《存在》、しかも、
――この人の人生はもう長くない……。
と、多分だが、私を一瞥した瞬間全的に私といふ《存在》を雪は理解してしまつたと、そして、また、そんな雪を、私は雪の様子からこれまた全的に雪を理解してしまつたのだ。これは一見不思議に見えるが、此の世で生きているならば、誰しも経験があることだらう。
と、そんな事を思ふ間も無く、あの時は無意識裡に私の右手は雪の頭を撫でる様に不意に雪の頭に置かれたが、雪は何の拒否反応も起こさず、これまた全的に私の行為を受け容れてくれたのだ。
さて、私が何故《黙狂者》となつてしまつたかを君も薄薄気付いてゐた筈だが、それは私の人生が短く終はるしかないといふ事とも関係してゐたのだらうけれども、私が一度何かを語り出さうと口を開けた瞬間、我先に我先にと無数の言葉が同時に私の口から飛び出ようと、一斉に口から無数の言葉が渾沌としたまま飛び出さうとしてしまふからなのだ。多少、無念ではあるがね、人生が短く終はるしかない私にとつて、私の《未来》を閉ぢ込めてゐる筈の私の内部の《未来》は、結果として既に無きに等しいので、私の内部の《未来》には時系列的な秩序、若しくは構造が生まれる筈もなく、つまり、私の《未来》は既にまつ平らで薄つぺらな薄膜の如きものでしかなく、それは、つまり、無きに等しいが故に《渾沌》としてゐたのだ。私が口を開き何かを語り出さうとしたその瞬間に最早全ては語り尽くされてしまつてゐるといふ去来(こらい)現(げん)の転倒が私の身には起きてゐて、それ故に《他者》にはそれが《無言》に聞こえるだけなのだ。つまり、《無=無限》といふ奇妙な現象が既に私の身には起こつてゐたのだ。
君は私が雪の頭にそつと手を置いた時、私が口を開いたのを眼にしただらう。多分、雪はこれまた全的に私の無音の《言葉》を全て理解した筈だ。君はあの時気を利かせてくれて、ずつと黙つて私と雪との不思議な《会話》を見守つてくれたが、仮に心といふものが生命体の如き《もの》で、傷付きそれを自己治癒する能力があるとするならば、雪の心はざつくりとKnife(ナイフ)で抉(えぐ)られ、あの時点でも未だ雪の心のその傷からはどくどくと哀しい色の血が流れたままで《男》に理不尽に陵辱された傷口が塞がり切れてゐなかつたのだ。それが痛痛しくも鮮明に私には見えてしまつたので、《手当て》の為に雪の頭にそつと手を置いたのだ。そのことは雪もまた、全的に理解していたのさ。
それにしても雪の髪は烏(からす)の濡れ羽色――君は烏の黒色の羽の美しさは知つてゐるだらう。虹色を纏つたあの烏の羽の黒色程美しい黒色は無い――といふ表現が一番ぴつたりな美しさを持ち、またその美しさは見事な輝きをも放つてゐた。
さて、君はあの瞬間雪の柔和な目から恐怖の色がすうつと消えたのが解つたかい? 
そして、君もご存知の通り、雪の目から恐怖の色がすうつと消えたと思つた瞬間、私は不意の眩暈(めまひ)に襲はれたのだ。
――どさつ。
あの時、先づ、私の目の前の全てが真つ白な霧の中に消え入るやうに世界は白一色になり、私は腰が抜けたやうにその場に倒れたね。しかし、意識は終始はつきりしてゐた。君と雪が突然の出来事に驚いて私に駆け寄つたが、私は軽く左手を挙げて、
――大丈夫。
といふ合図を送つたので君と雪は私が回復する迄その場で見守り続けてくれたが、あの時は私の身体に一切触れずにゐて見守つてくれて有難う。私が他人に私の体軀を勝手に触られるのを一番嫌つてゐる事を君は知つてゐる筈だからね……。
あの時の芝の青臭い匂ひと熊蝉の鳴き声は今でも忘れないよ。
私が眩暈で倒れた時に感覚が異常に研ぎ澄まされた感じは今思ひ返しても不思議だな……。あの時私の身に何が起きてゐたのかは明瞭過ぎる程はつきりと憶えてゐるよ。
それでも眼前が、世界全体が、濃霧に包まれたやうに真つ白になつたのは一瞬で、直ぐに深い深い深い漆黒の闇が世界を蔽つたのだ。つまり、当然私はその時外界は見えなくなつてゐたのだ。
するとだ、漆黒の闇の中に金色(こんじき)の釈迦如来像が現れるとともに深い深い深い漆黒の闇に蔽はれた私の視界の周縁に二つの勾玉の形をした光雲――光の微粒子が雲の如く集まつてゐたから光雲と名付ける――が現れ、左目の視界の周縁だと思ふ辺りを時計回りに、右目の視界の周縁だと思ふ辺りを反時計回りに、つまり、数学でよく見る二つの集合が交はつた図そつくりに私の視界にその光跡を残しながら、その光雲がぐるぐると私の視界の周縁を周り出したのだ。
そして、その金色の釈迦如来像がちらりと微笑んだかと思ふ間もなく不意と消え、世界は一瞬にして透明の世界に変化(へんげ)した……。
眩暈でぶつ倒れたままの私の視界全体に拡がつたその薄ら寒い透明な世界に目を凝らしてゐると、突然、赤赤と燃え上がる業火の如き炎が眼前に出現したのだ。それは正に血の色をした業火だつたよ。
その間中、例の光雲は視界の周縁をずつと廻り続けてゐた……。
私が悟つたのはその時だ。自分の死についてそれ以前は未だ何処となく他人(ひと)事のやうに感じてもゐたのだらう。私はまだ己の死に対して、覚悟は正直言つて出来てゐなかつた、が、私が渇望してゐた《死》が直ぐ其処迄来ているなんて……私はその時何とも名状し難い《幸福》――未だ嘗て多分私は幸福を経験した事がないと思ふ――に包まれたのだ。
――くつくつくつ。
私は眩暈で芝の上にぶつ倒れてゐる間《幸福》に包まれて、内心哄笑してゐたのさ。
しかし、燃え盛る業火は、私が眩暈から覚め立ち上がつても目の奥に張り付いて……ちえつ……今も見えてしまうのだがね。
さう、時間にしてそれは一分くらゐの後の事だつたよね。私が不図眩暈から覚め何事もなかつたかのやうに立ち上がつたのは。君と雪は何だかほつとしたのか互ひに顔を見合はせて笑つてゐたね。その時君は初めて雪と目が合つた筈だが、君の目には雪はどのやうに写つたんだい? 私には雪はその時既に尼僧に見えたのだ……。これまた、不思議に思ふかもしれぬが、人間、生きてゐると不可思議な経験の一つや二つあつて当然だらう。君にもそんな不思議な体験がある筈だがね。まだ、ないと思つてゐるならば、直にそれが身に染みて解かる筈さ。
眩暈から覚め何事もなかつたやうにすつくと立ち上がつた私を見て、君と雪は初めて見詰め合つて互ひに安堵感から不図笑顔が零れたが、その時の雪の横顔は……今更だが……美しかつた。雪は何処となくグイド・レーニ作「ベアトリーチエ・チエンチの肖像」の薄倖の美女を髣髴とさせるのだが、しかし、凛として鮮明な雪の横顔の輪郭は、彼女が既に持つてゐた《吾が道ここに定まれり》といつた強い意志を強烈に表してゐたのである。
―大丈夫?
と、雪が声を掛けたが、私は一度頷いたきり茜色の夕空をぢつと凝視する外なかつた……。
何故か――。
君は多分解らなかつただらうが――後程雪には解つてゐたのが明らかになるが――私には或る異変が起きてゐたのだ。血の色の炎が燃え上がるやうな業火が目の網膜に張り付いた事は言つたが、もう一つ私の視界の周縁を勾玉模様の小さな光雲が、大概は一つなのだが、最早消える事なく今もずつと時計回りに若しくは反時計回りにゆつくりと回つてゐる事である。そして、私はその光雲を人魂だと直感的に判断し、その判断を疑ふ事もなく、今も人魂だと信じてゐるのさ。そして、その人魂は私のものと他人のものとが同時に入り混じつてゐたのだ。つまり、誰か私が与り知らぬ他人が死を迎えると、たぶん、その死を迎へた人間の意識は解放され、全宇宙に向かつて爆発膨張する。そして、私はその爆発膨張した意識の残骸に感応し、私の眼による視界がそれを捉へるのだ。その結果として私の視界にその人魂が一足飛びにやつてきて、私の目玉はそれを捉へてしまうのさ。人間の体軀は殆ど水分で出来てゐる事と此処が北半球といふ事を考慮すると、時計回りの回転は上昇気流、つまり、私の視界から何か――多分それは私自身の魂魄に違ひない――が憧(あくが)れ出て時計回りに回り、若しくは私の全く知らない赤の他人の魂魄が私に侵入し続けてゐる事を反時計回りといふ回転の方向は意味してゐたのである……。
勾玉模様の光雲が見えるのは大概一つと言つたが、時にそれが二つであつたり三つであつたり四つであつたりと日によつて見える数が違つてゐた。例へば、星がその死を迎えるとき大爆発を起こして色色なものを外部に放出するが、人の死もまた星の死と同じで、人が死の瞬間例へば魂魄は大爆発を起こし外部に発散する……。それが此の世に未だ《生きる屍》となつて杭の如く《存在》する私をして魂魄のカルマン渦が発生し、それが私の視界の周縁に捉へられるのだ。だから多分、その光雲の一つは私の魂魄で、その他は死んだ《もの》の魂魄の欠片に違ひない……私はさう解釈してしまつたし、それで間違ひないと今も思つてゐるんだ……。

…………
…………

さて、君と雪と私はSalonの真似事が行れる喫茶店に向け歩き出した。その途中に古本屋街を通らなければならないのだが、君は気を利かせてくれたのだらう、その日に限つて古本屋には寄らずに真つ直ぐに喫茶店に向かひ、私と雪を二人きりにしてくれたね。有難う。
私は先づ馴染みの古本屋で白水社版の「キルケゴール全集」全巻を注文し、それから雪とぶらぶらと古本屋を巡り始めたのだつた。
古本屋の主人との遣り取りはいつも筆談だつたので、馴染みの古本屋の主人は多分今でも私の事を聾啞者だと思つてゐるに違ひない。それにそこの古本屋の主人は何かと私には親切でその日も「キルケゴール全集」を注文すると、どれでも好きな本を一冊おまけしてくれるといふので、私は、埴谷雄高の『死霊(しれい)』を凌駕するべく書き出したはいいが、書き出しても尚、書き出しの筆致の迷ひや逡巡等がそのまま取り繕ひもせずに直截的に書き記された文章で始まる現代小説の傑作の一つ、武田泰淳の『富士』の初版本を選んだのだ。
『富士』を読む時は、私は何時もブラームスの「交響曲第一番 ハ短調 op.68」を聴く。どちらも作品を書き連ねる事に対する迷ひや逡巡等がよく似てゐると思はないかい? それに泰淳さんは盟友の椎名麟三が洗礼を受け基督者になつた時、埴谷雄高が椎名麟三を誹(そし)つた事と、そして純真無垢といふのか天衣無縫といふのか、埴谷雄高曰く「女ムイシユキン公爵」たる泰淳夫人で著名な随筆家の百合子夫人に対する埴谷雄高の好意への多分「嫉妬」を死す迄泰淳さんは根に持つてゐた節があるが、そこがまた武田泰淳の魅力でもあるがね。
さて、雪はSalonの真似事が開かれてゐた喫茶店に着く迄終始私の右に並んで歩き、左手で私の右手首を少し強く握り締めたままであつたのである。
馴染みの古本屋を出たとき、東の空には毒毒しい程赤赤とした満月が地平から上り始めてゐたが、その満月の「赤」が私の目に張り付いた燃え盛る業火の炎の色に似てゐたのである。
――成程……この業火の色は《西方浄土》の日輪の色を映したものか……。
その時、雪が私の右手首を少し強く握り締めてゐたのは多分理不尽な陵辱を受けた「男」に対する恐怖といふよりも、
――今暫くは逝かないで。
といふやうな切なる感情を以てして私に対する切願が込められてゐたやうに私は確信してゐる。唯、私は女性に対しては無頓着なので雪のしたいやうにさせ、雪に為されるがまま夕闇の古本屋街を二人で漫(そぞ)ろ歩きを始めたのであつた。
当然、私は伏目であつた。雪は私の右手首を握つて私を巧く《操縦》してくれたのである。雪が、私を捕まへてないと何処か、つまり《彼の世》へ行つてしまふと直感的に感じてゐたのは間違ひない。そして、雪はかう切願してゐたに違ひないのだ。
――今は未だ逝かないで……。
 とね。だが、雪には済まないことなのだが、私はやはり、もうそんなに人生の時間がなかったのさ。
ここで話が横道に逸れるがね、君に私の《死後の世界》について預言しておかう。
私が死して後、私のゐない此の世の有様こそ私の《死後の世界》の様相を忠実に反映してゐると考へておくれ。君や嘗ての雪、即ち攝願やSalonの仲間を始め、私のゐない此の世がまあまあ過ごし易ければ私は極楽浄土にゐるし、此の世が地獄の有様だとすれば私も地獄に堕ちたと思つてくれ給へ。私のゐない此の世の有様こそ私の《死後の世界》に外ならないのさ。
まあ、それはそれとして、私の死後、君達は、特に攝願、つまり俗名でいふところの雪は、彼女が出家する迄に私が施した、例へば雪の為されるがまま私が何の抵抗もせずそれに無言で従つた事などは、雪の《男》に対する憎しみやそれに伴ふ底知れぬ苦悩といふ雪の内部でばつくりと傷口の開いた《心の裂傷》を縫合し、その傷に軟膏薬を塗布して治療する意図があつての事で、多分に私の《存在》によつて雪も癒された筈だが、といふのも幾ら《生きる屍》に為り下がつたとはいへ、私も生物学的には《男》そのものだからね。
そして、雪は出家し攝願と為つた訳だが、攝願が尼僧でゐる間は《禊(みそぎ)の時間》に過ぎない。攝願の内部の《心の裂傷》が癒え、その傷の《瘡(かさ)蓋(ぶた)》が剥がれ落ちると、攝願の《禊の時間》は終はりを告げる。さうして、暫くすると、私も君もSalonの仲間も知つてゐる或る「男」に攝願は惚れ、攝願は何もかも捨ててその「男」の元へと身を寄せる筈だ。さうして再び雪に戻るのさ。「男」は「男」で、雪に逢つた時からずつと惚れてゐた。そこで雪はその「男」の子供を身ごもり「母」になる。雪の第一子は男の子で、雪はその子に私の名を付ける。勿論、雪の配偶者たるその「男」も大賛成さ。まあ、これ以上は話さない方がいいので黙つて彼の世に持つて行くよ。
さて、そこで君にお願ひがある。雪は寺を出た後、その悔恨に悶絶する程苦悩し続ける事になるが、君は雪の良き理解者となつて、雪の「愚痴」の聞き役になつてくれ給へ。お願ひする。さうする事で君達に起こるであらう艱難辛苦も乗り越へられ、私も浄土で安らげるといふものさ。重ね重ね宜しく頼むよ。

話を戻さう。
ところで、古本屋街を漫ろ歩きしてゐた私と雪との間には、雪がぽつりぽつりと一方的に私に話す以外殆ど会話は無かつた。
沈黙……。Salonの仲間とは違つた心地よさが雪との間の沈黙にはあつたのだ。互ひが互ひを藁をも縋る思ひで「必要」としてゐた事ははつきりとしてゐたので、多分、雪と私の間には――他人はそれを《宿命》とか《運命》とか呼ぶのだらうが――互ひに一瞥した瞬間に途轍もなく太い《絆》で結ばれてしまつたのは確かなのだ……。

…………
…………

――ねえ、この古本屋さんに入りましよう。
少し強めに雪に握られた右手首を通して、雪の心の声が聞こえて来たのであつた……。
その古本屋は雪の馴染みの古本屋だつた。少し強めに握られてゐた私の右手首から不意に雪は手を離し、雪にはお目当ての本の在り処が解つてゐたのだらう、私を古本屋の入り口に残したまま一目散に其方に向かつて歩を進めたのであつた。
その古本屋は、東洋の思想、哲学、宗教、神話等等の専門の古本屋だつた。
雪に取り残された私は、その古本屋内の仏典の本棚に向かつてゆるりゆるりと歩を進めたのであつた。
私は唐三藏法師玄奘譯(たうさんざうほふしげんぢやうやく)の般(はん)若(にや)波(は)羅(ら)蜜(みつ)多(た)心(しん)經(ぎやう)が、その時どうした訳か無性に読みたくなつたのであつた。
「觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虛故。
說般若波羅蜜多咒即說咒曰
揭帝揭帝 般羅揭帝 般羅僧揭帝菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經」

訓み下し

「觀自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまへり。
舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなはちこれ空、空はこれすなはち色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。
舎利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ぜず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くる事もなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くる事もなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙(けいげ)なし。罣礙なきが故に、恐怖ある事なく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三(あのくたらさんみやくさん)菩提(ぼだい)を得たまえり。故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の咒を説く。すなはち咒を説いて曰く、
羯諦(ぎやてい) 羯諦(ぎやてい) 波羅羯諦(はらぎやてい) 波羅僧羯諦(はらそうぎやてい) 菩提娑婆訶(ぼじそはか)
般若心經」

……くわんじざいぼさつ ぎやうじんはんにやはらみつたじ せうけんごうんかいくう どいちさいやく……と、真言を頭蓋内で読誦(どくじゆ)しようとしたが、「觀自在菩薩」の文字を見ると最早私の視線は「觀自在菩薩」から全く離れず「觀自在菩薩」の文字を何故にかぢつと凝視したまま視線が動かなくなつたのであつた。
『觀自在菩薩……何て好い姿をした文字だ……くわんじざいぼさつ……音の響きも好い……何て美しい言葉だ……』
不図気付くと、私の目に張り付いてゐた先程来の業火が私の視界の隅に身を潜めてゐるではないか。目玉をぎよろりと出来得る限り垂直に回転させると、やつと視界の境に業火が見えるではないか。
『これも……《觀自在菩薩》……といふ文字の……御蔭か……』
私はゆつくりと目を閉ぢ、瞼が完全に閉ぢられた瞬間に姿を現す勾玉模様の光雲と業火を見つつ胸奥で何度も何度も……『觀自在菩薩』……と唱へたのであつた。
暫くすると、雪が私を見つけて私の右肩をぽんと叩いた。
――これ、どう?
雪が私に見せたのは陰陽五行説の陰陽魚太極図であつた。
――あなたの目には、今、勾玉が棲み付いてゐる筈よ。何故だかあなたの事が解つてしまふのよ。それに業火もね、うふつ。
ずばりとさう言ひのけた雪が微笑んだ顔は、何か不思議な力を秘めてゐるやうで、雪が微笑んだ瞬間、辺りは一瞬にして《幸福》に包まれてしまふかの如くに私には思へたのであつた。何ともそれは《幸福》といふ言葉がぴつたりなのだ。雪にはどうしようもない優しさがその仕種の一つ一つに宿つてゐて、それは他人を存分に癒してくれるものなのだ。何故か、雪には私の身に起きていた事が全てお見通しであつた。しかし、私はそれが何とも自然な事にしか思へなかったのだ。「以心伝心」と言ふ言葉があるが、私と雪との間には言葉を超えた互ひの理解の仕方が自然に出来上がつてゐて、私はそれを自然に受け容れてゐたのだ。雪もまた、私と同じ感覚を持つてゐたに違ひない。私と雪との間の不思議な交感は既にその時にはしつかりと確立されてゐたのさ。
――あなたには陰陽魚太極図の意味が解るわね。
 私は口を開けて、
――宇宙。
と、無音で言つたのだ。
――さう、《宇宙》よ。……私、哲学を、それも西洋哲学を専攻してゐるけれども……西洋哲学の《論理》が今は虚しくて仕様がないの。……特に弁証法がね……虚しいのよ。……私の勝手な自己流の解釈だけれども……正反→合が何だか自己充足の権化のやうな気がして気色悪いのよ。西洋の哲学者……特にヘーゲルが、何故かはその理由が説明できないのだけれども……何処かNarcist(ナルシスト)に思へて仕様がないの……これぢやあ……西洋哲学専攻者としては失格ね、うふつ。

…………
…………

君も知つてゐるやうに私は、筆談するとき《つまり》と先づ書き出さないと筆が全く進まないのは知つてゐるね。この時も勿論さうだつたのさ。私は常時携帯してゐるB五版の雑記帳とPenを取り出して、雪と極極自然に筆談を始めたのであつた。
――つまり、ヘーゲルには、つまり、陰陽魚太極図の目玉模様が、つまり、陰中の陽と、つまり、陽中の陰が、つまり、無いんだよ。つまり、それで君は、つまり、ヰリアム・ブレイクを、つまり、読んでゐたんだね。
――さう……。
君にも教へておかう。雪は直感的に何故私が《つまり》を連発するのか解つたが、私の当時の思考は堂堂巡りをする外ない《渾沌》の只中にあつたのさ。或る言葉を書き出すときその言葉を頭蓋内から取り出すには、一度思考を頭蓋内で堂堂巡りを、つまり、思考を一回転させないと最初の一語が出て来ず仕舞ひだつたのだ……。
君はストークスの定理は知つてゐるね。その当時の私の思考の有様は将にストークスの定理を地で行つてゐたのさ。

…………
…………

※「ストークスの定理」
 ストークスの定理はベクトルが定義されている空間内での線積分を面積分に変換する公式。考え方はガウスの定理に似ているが、ストークスの定理は次のやうな式として表される。

 この中に出てくる という部分はベクトル量である。よつて次のやうな 、 、 の 三 成分で表現しなければならない。

Figure 1
 これはベクトルの回転を表す量なので「rotation」を略して と書く。教科書によつては と表記しているものもある。

…………
…………

――つまり、キルケゴールも、つまり、読むと善い。つまり、陰陽魚太極図は、つまり、その後でも、つまり、善い。つまり、僕が、つまり、さつき、つまり、「キルケゴール全集」を、つまり、買つたから、つまり、僕が、つまり、読んだら、つまり、君に、つまり、あげるよ。
――有難う。でも、借りるだけね、うふつ。
――つまり、君は、つまり、知つてゐるかな、つまり、渦は、つまり、未だ数式では、つまり、物理数学的に、つまり、正確無比に記述、つまり、出来ない事を? 
――えつ! 知らないわ。さうなの……。
雪は終始愉快さうであつた。即ち、それは私が愉快であつたといふ事である。ねえ、君、他者は自己の鏡だらう? 雪が愉快だといふ事は、取りも直さず私が愉快だつた事が雪に映つてゐただけの事に違ひないのさ……。
――つまり、渦の紋様が、つまり、古の昔から《存在》してゐて、つまり、しかもそれが、つまり、人類共通の、つまり、紋様だつた事は、つまり、知つてゐるね。
――ええ。アイヌの人人の衣装を見ただけでも自明の事よ。日本は勿論、唐草紋様は特に世界共通の渦紋様だわ。……それが物理数学的に未だ正確には数式で記述できないつて事が不思議でならないわ。
――つまり、其処なんだ、つまり、問題は。つまり、僕の、つまり、直感だけれども、つまり、渦を、つまり、数式とかで記述するには、つまり、∞の次元が、つまり、自在に、数式で、つまり、操れないと、つまり、記述できないと、つまり、思へて仕方がない……。
――∞の次元? ねえ、それは何の事? 
――つまり、此の世は、つまり、アインシユタインの一般相対性理論のやうに、つまり、四次元多様体であるといふのが、つまり、一般的だが、ちえつ、中には五次元とも十次元とも言われてもゐるがね、つまり、其処でだ、つまり、君は、つまり、特異点を知つてゐるね。つまり、人類が、つまり、未だ渦を、つまり、物理数学的な数式で、つまり、正確には記述できない事が、つまり、この世界を、つまり、量子論と相対論とを、つまり、統一出来ない、つまり、その根本原因だと、つまり、その歪(ひずみ)が、つまり、特異点として、つまり、現れて、つまり、人類は特異点の問題を、つまり、姑息な手段で、つまり、なるべく触れずに、つまり、取り繕つて、つまり、何事か、つまり、世界が物理数学で、つまり、記述出来ると、つまり、錯覚してゐたい、つまり、穴凹だらけの地面を見て、つまり、「この土地はまつ平らな土地だねえ」と、つまり、夢幻(むげん)空(くう)花(げ)な《もの》として錯覚してゐる事を重重承知してゐるのに、つまり、それを敢へて錯覚して見せてゐるに、つまり、違ひないのさ。
――えつ? もつと解りやすくお願ひ。
――つまり、僕の直感だけれども、つまり、渦は、つまり、四次元以上、つまり、∞次元を四次元多様体に射影しただけの、つまり、∞次元多様体を四次元で表しただけの、つまり、仮の姿に、つまり、過ぎない。そして、つまり、渦は、つまり、此の世の結び目、つまり、四次元時空間を、つまり、宇宙として繫げてゐる、つまり、結節に違ひないのだ。
――つまり、銀河の事ね。パスカルぢやないけれど、二つの無限の中間点が……渦といふ事ね。そして、人間もまた……渦といふ事ね。
――さう。
――うふ。
――つまり、渦が、つまり、物理数学的に正確無比に一度(ひとたび)記述出来るといふ事は、つまり、《無限》の仮面が、つまり、剥がれる、つまり、時さ。そして、つまり、人類は、つまり、此処に至つて漸く本当の《無限》に、つまり、出遭ふのさ……
――本当の《無限》? 
――つまり、人類が、つまり、無限大を、つまり、∞といふ《象徴》で、つまり、封印した事が、つまり、間違ひの元凶だつたのさ。しかし、∞といふ、つまり、象徴記号が、つまり、なかつたならば、つまり、科学の発展は、つまり、もつともつとゆつくり進んだに違ひない……つまり、ねえ、君、人類は、つまり、得体の知れぬものに、つまり、《仮面》なり、《象徴記号》なり、《名前》なりを、つまり、付けずには、つまり、堪へられぬ、つまり、生き物だらう? 
――さうね……《心》がその典型ね。きつと無理ね。この私の内部に棲息する《もの》を《心》と名指さなければ、精神分析学が、つまり、フロイトが此の世に出現する事もなかつたわ。ねえ、さうでしよう。
――……。
――ねえ、うふ、《得体の知れぬ》あなたは、形而上で呼吸をしてゐる《不思議》な生き《もの》ね……。ドストエフスキイ曰く、あなたは《紙で出来た人間》の眷属なの? えへ。
――つまり、さうかもね、へつへ。つまり、《魂の渇望型》の、つまり、生き《もの》さ。さて、……その、つまり、陰陽魚太極図だけれども、つまり、僕の勝手な、つまり、解釈だけれども、つまり、東洋、つまり、特に日本は、つまり、陰陽→太極で論証する、つまり、弁証法の正反→合に比べたら、つまり、曖昧模糊とした論証だけれども、つまり、しかし、陰陽→太極で思考する方が、つまり、深遠だと思ふのだ。つまり、それは、つまり、『何故?』と訊かれても言葉に、つまり、窮するがね。つまり、だが、東洋、特に日本は、論証が曖昧模糊としたものに、つまり、ならざるを得ぬのだ。つまり、それは、つまり、陰陽魚体極図の太極図に見る、つまり、宇宙がその象徴として曖昧模糊とした、つまり、ものでとしか表現してゐないからなのさ。つまり、その点は西洋の論理とは、つまり、根本的に、つまり、思考法が違つているのさ。
――さうね。さうかもしれないわ。
――君は、つまり、今、つまり、道元と親鸞に、つまり、心酔してゐるね? 
――さう……。あなたは何でもお見通しね、うふ。キルケゴールの『おそれとおののき』だつたかしら、アブラハムとその子イサクについての基督者の厳然とした覚悟と言ふのか姿勢が書かれてゐた筈だけれども……私……《論理》を超えた《言葉》を……今……渇望してゐるの。それが道元と親鸞にはあるやうな気がするのよ。だからかしら、《神》無き仏教に惹かれてしようがないの。それに、私、神が傍若無人を人間に働く『ヨブ記』が大嫌い! 
――でも、つまり、ブレイクもキルケゴールも、つまり、『ヨブ記』に耽溺してゐた筈だがね……。
――さうね、基督者にとつては『ヨブ記』はある意味、信仰の《踏み絵》ね。確か、ドストエフスキイも好んでいた筈だわ。
――つまり、砂漠の地で生まれた、つまり、ユダヤ教、基督教、そして回教のいづれも、つまり、《自然》といふ名の《神》は、つまり、皆、つまり、悪意に満ちてゐなければならなかつたのさ。つまり、彼らは、つまり、それ程迄過酷な自然環境の地で生きなければならなかつたのさ。つまり、だから、砂漠で生まれた宗教史が世界を、つまり、蔽ひ尽くし、つまり、砂漠と言ふ過酷な、つまり、自然環境に堪へ得た、つまり、宗教しか、つまり、残らなかつたとも言へる。しかし、日本は、つまり、自然は、つまり、或る時は傍若無人を働くが、つまり、しかし、とても柔和なものとして、つまり、人人を包んでくれた。つまり、だから、日本では、つまり、今も、原初的とも言へるAnimism(アニミズム)の一種たる宗教の神道、つまり、八百万の神神が、つまり、今も、つまり、厳然と生き延びてゐるのさ。
――うふ。それで一神教を信仰する世界は厳格なる縦関係で《秩序立つて》ゐたのね。だから、私には虚しいだけの《論理》と《科学》が発展したのね。
――さう、つまり、《理不尽》にね……。
――さうなの、西洋の《論理》は《理不尽》なのよ。
――Credo,quia absurdum、つまり、君は、つまり、《不合理故に吾信ず》といふ、つまり、箴言を知つてゐるね。つまり、埴谷雄高を知つてゐるね? つまり、確か、テルトウリアヌスの言葉だつたと思ふが、否、つまり、その前に、つまり、君は、つまり、此の世に《秩序》があると思ふかい?
――ええ、知つてゐるわ。『死靈』は読んだわよ。そして、《秩序》は勿論あるわ。
――へつへ。つまり、此の世に、つまり、《秩序》があるのに、つまり、君は、つまり、西洋の《論理》は、つまり、《理不尽》といふ。つまり、君の《論理》に、つまり、《矛盾》がないかい? 
――うふ、《矛盾》はないわよ、天邪鬼さん。だつて此の世の《秩序》がそもそも《理不尽》なのだもの、うふ。
――つまり、《真理》、若しくは《摂理》といふ名の、つまり、《神》の御業を、つまり、把握したいが為に人間は、つまり、哲学から、つまり、始まつて、そして、つまり、数学やら物理やらを、つまり、派生させ、つまり、《真理》の追究に、つまり、邁進して来たが、つまり、君はどう思ふかな、つまり、哲学者や数学者や物理学者等に、つまり、定理、公理、法則等が、つまり、此の世に厳然と、つまり、《存在》すると、つまり、彼達は言ふが、つまり、では、その、つまり、定理やら公理やら法則やらは、つまり、何故、どうして、つまり、《存在》するのかを、つまり、その根本の根本のところを彼らに尋ねると、さて、つまり、彼等は何と答えるかね? 
――さうね、多分、解らないと答へるでしようね。
――つまり、其処さ。つまり、彼等は言外で、つまり、《神》の《存在》を、つまり、認めてゐるのさ。更に言へば、つまり、彼等は全て、つまり、一神教の《神》が此の世を創世したと心の深奥では、つまり、信じてゐるのさ。
――さう、それが私の言ふ《理不尽》の根本なのよ。幾何学等を発展させたエジプトやギリシア、そして零を発見したインド、更にニユートンやライプニツツに比肩する程の独自の和算を発展させた日本、これら全て多神教よ。
――つまり、ギリシアを始め、つまり、欧州に原始基督教が布教した頃は、つまり、土着の信仰も許容してゐた筈なのだが、つまり、僕の勝手な考へだけれども、つまり、欧州の土地が、つまり、石畳で蔽はれるのと機を一にして、多分、つまり、一神教の圧制が、つまり、始まつたと思ふ。つまり、石畳に蔽はれたといふ事は、つまり、それは砂漠と同じと看做せるからね。つまり、これは、つまり、人間の性(さが)だが、つまり、石畳といふ《単純明快》な生活環境が理不尽な自然の儘の環境よりも其処に《美的感覚》を見、つまり、《単純明快》と《美的感覚》は結び付いてゐる、つまり、一神教の圧制は、つまり、必然なのさ。
――一神教の圧政? あなたの言ふ通りかもしれないわ。さうかもしれないわね……。
――つまり、話は一気に飛躍するけれども、つまり、無性生殖の単細胞から有性生殖の多細胞へと、つまり、生物が、つまり、進化した事と、つまり、《単純明快》が《美的感覚》と結び付く人間の性と、つまり、密接に関係してゐると考へるのが自然なのさ。
――えつ。どうして? 
――つまり、君には酷な話になるが、つまり、口を濁さず言ふけれども、つまり、君は既に、つまり、独りで立ち上がつて、つまり、何かを《決心》してゐるから、つまり、直截的に言ふよ。つまり、特に人間だが、つまり、君は、つまり、一つの卵子が作られる、つまり、過程は知つてゐるね? 
――……ええ、多くの卵細胞から卵子に為れるのはたつた一つ。後は卵胞閉鎖で自ら死滅して行くのよ。それを今ではApoptosis(アポトーシス)と名付けてアポトーシスといふ現象で生物の事象が説明できるといふ事を見出した時、生物学者は何か新発見をしたかのやうにしたり顔で馬鹿みたいに《歓喜》してゐるけれども。
――つまり、君は、何故卵子は一つなのか、つまり、君の考へを、つまり、聞かせてくれないか。
――えつ! 何故卵子が一つなのか? そんな事これ迄考へもしなかつたわ。御免なさい。私、それが《自然》で当然の事だとしか思つてゐなかつたから。卵子が一つなのは何か理由でもあるの? 
――つまり、これは私の独断だがね、つまり、遺伝子には《諦念》或いは《断念》といふ情報が組み込まれてゐる、つまり、私はそれを《断念遺伝子》と勝手に名付けてゐるが、つまり、生き物は《断念》、これは詩人の、つまり、石原吉郎に影響されたんだが、つまり、生物は《断念》を、つまり、《宿命》付けられてゐる。つまり、《断念》無しに、つまり、此の世の《秩序》は在りつこ無いんだ。
――《断念》……ね。うふ、一つの卵子にはそれが生き残る為に無数の死滅した卵子に為れざる卵子達の《怨念》が負はされてゐるのかしら?
――へつへ。つまり、僕の独断で言へば、つまり、その《怨念》を負つてゐる。つまり、自ら死滅した卵子達の、つまり、死の大海に、つまり、たつた一つの卵子がたゆたふ。つまり、そのたつた一つの卵子は、つまり、死滅した無数の卵子達の《怨念》を、つまり、負はなければならない《宿命》なのさ。
――すると、ねえ、……。
――精子だね。さう、つまり、受精はたつた一つの卵子とたつた一つの精子のみしか出来ない、つまり、受精はそもそも、つまり、無数の《死》をそれが《存在》する事の前提として「先験的」に背負はされてゐる。つまり、無数に女性の、つまり、膣内に放出された、つまり、精子達は女性の体内で《死滅》して行く。つまり、僕や君が、つまり、此の世に《存在》する前提に、つまり、既に無数の《死》が、つまり、厳然と《存在》してゐるのさ。
――さう……ね。……ちよつと待つて。ねえ、何故人間は全ての卵子と全ての……精子……を受精させないのかしら? 受精以前に自ら《断念》して死滅する必然なんて何処にも無い筈だわ。
――さうだね。つまり、其処なんだよ、此の世に《秩序》がある《理由》が。つまり、人間もまた、つまり、魚類や昆虫等等と、つまり、一緒に、つまり、他の生物の《餌》になる前提で、つまり、無数の受精卵が、つまり、胎内に、つまり、《断念》せず《存在》してても良い筈なんだ。しかしだ、つまり、現実はさうは為つてゐない。つまり、DNAはどの生物も、つまり、その組成物質の蛋白質は、つまり、《同じ》にも拘はらず、ある生物は、つまり、他の生物の《餌》となるために、つまり、《死滅》せず無数の受精卵が《存在》し、つまり、また、ある生物は《餌》とならないために、つまり、特に人間は、つまり、無数の《死》の大海に、つまり、たつた一つの受精卵を《存在》させる。へつへ、つまり、此の世の《秩序》は、つまり、《不合理》がそもそも「先験的」に、つまり、前提になつてゐる。
――それつて《神》の気紛れかしら。ええつと、Credo……何だつたかしら? 
――Credo,quia absurdum。つまり、《不合理故に吾信ず》。
――それそれ。ねえ、《秩序》は《不合理》の異名なの? 
――いや、つまり、僕が思ふに、つまり、《秩序》は《不合理》を、つまり、許容しなければならない。つまり、それは何故だと思ふ? 
――さうね、《秩序》が《合理》であるとすると、う~ん、そつか、その《社会》には《合理》しか有り得ない。さうすると《主体》は《不自由》極まりないわね。
――さう。つまり、《人類》より遥かに進化してゐる、つまり、昆虫、中でも、つまり、蜂や蟻を考へてごらん。
――御免なさい。私、昆虫は余り詳しくないの。
――つまり、蟻を例にすると、つまり、蟻は大きな群れを作つて、つまり、集団で生活してゐるね。つまり、蟻は、つまり、《社会性昆虫》と言はれてゐる。ところで、つまり、君、蟻に《脳》は、つまり、在ると思ふかい? 
――えつ、さうね、在るんぢやないの。
――さう、つまり、昆虫にも、つまり、《脳》はある。つまり、さうぢやなきや、つまり、此の世は、つまり、《昆虫天国》になる筈はない。それぢや、君、つまり、蟻は《思考》すると思ふかい? 
――えつ、それは、う~ん、解らないわ。
――つまり、蟻が、つまり、《思考》するかどうかは、つまり、これからの研究を待たなければならないんだが、つまり、仮に蟻が《思考》するとして、つまり、蟻は血縁の社会だが、つまり、さうすると、何故、つまり、蟻の社会には、つまり、働き蟻による《内訌》や《叛乱》や《謀反》が、つまり、起こらないのだらうかね。
――う~ん、……《自由》の問題かしら? 
――さうだね、つまり、《自由》の問題になるのかもしれないね。それに蟻の社会には、つまり、二割程だつたか、つまり、全く働かない蟻が、つまり、《存在》する。そこで、つまり、君、蟻の社会は途轍もなく《合理的》だよね。つまり、そこでだ、つまり、蟻のやうに途轍もなく《合理的》な、つまり、それも、つまり、《合理》をとことん突き詰めたやうな、つまり、《秩序》が《合理》そのものの《社会》で、つまり、《思考》する、つまり、《主体》の《自由》は、つまり、《許容》されると思ふかい? 
――さうね。働いてゐる蟻といふ《存在》にとつては《自由》は無きに等しいわね。しかし、社会的に《合理》をとことん突き詰めると、必ず何割かは無為な、うふ、多分、それは思索しているのかもしれないけれども、その無為な蟻がゐないのであれば、それは将に《合理》を、うふ、それは誤謬の《合理》に違ひない筈だわ。無為の蟻が《存在》しない蟻の社会をして、その誤謬の《合理》を《正しき合理》として《洗脳》された全きの《洗脳社会》としかその全ての蟻が働き蟻である蟻社会は言へないわね。そんな《合理的》な社会では《主体》が皆全て《洗脳》された《自由》無き、考へただけでもぞつとする程気色悪い、寒気がする社会ね。ねえ、さうすると、《秩序》はそもそも《不合理》だとして、う~ん、《秩序》が《不合理》であればある程、《主体》の《自由》は保証されるといふ事かしら? 
――つまり、それも《按配》だね。つまり、君、《渾沌》に《自由》はあると思ふかい? 
――うふ、《渾沌》には《自由》しかないわ。だつて《秩序》が無いんだもの。でも、《主体》はその《渾沌》といふ《自由》に潰されるわね。《破滅》のみね、《渾沌》にあるのは。そして、うふ、《渾沌》から《秩序》が生まれる……。うふ、パスカル風に言ふと「二つの〈渾沌〉の中間点が〈秩序〉」……ね。不思議ね。
――君、その陰陽魚太極図が、つまり、《渾沌》から《秩序》が、つまり、生まれる瞬間の《象徴》だよ。つまり、「人間は思考する葦である」。つまり、人間は《渾沌》も《秩序》も、つまり、《思考》出来る《自由》がある。だけども、つまり、この《自由》が、つまり、曲者なんだよ。ねえ、君、つまり、そもそも人間は、つまり、《自由》を持ち堪へるに十分な、つまり、《存在》だと思ふかい? 
――えつ、自由か……、それが私には解らないのよ。そうね、例へば、主君の死に殉じて自ら殉死する人人、例へば、一遍上人は禁じてゐたにも拘はらず一遍上人の死に殉じて入水(じゆすい)した僧や癩者達、そして《死の自由》の狂信者としてドストエフスキイの作品『悪霊』に登場するキリーロフ等等、いづれも《何か》の《殉死》だけれども……う~ん……《自由》の問題を考へると私はどうしても《死の自由》に行き着いちやうの……。どれも極端だけどもね。
ここで私は雪に「一寸」といふ合図を右手で送つて、鞄から或るMemo帳を取り出して、バクーニンが草稿を書きネチヤーエフが補足したと言はれてゐる「革命家の教義問答」を雪に読ませたのであつた。その内容はかうだ。
『革命家は既に死刑を宣告された者である。彼は個人的な興味も個人的な感情も持たない。彼自身の名さへ持たない。彼は唯一つの観念を持つてゐる。革命がそれである。彼はこの教養ある世界のあらゆる法律、あらゆる道徳律と断絶してゐる。彼がその世界の一部である如くに振舞ひながらその世界の中で生活するのは、唯只管(ひたすら)その世界をより的確に破壊するが為である。この世界の中の全ての事物は等しく彼にとつて憎むべきものでなければならない。彼は冷ややかでなければならない。彼は常に死ぬ用意をしてゐなければならない。彼は苦痛に耐へる訓練をしてゐなければならない。そして、自己内部のあらゆる感情を圧殺するため絶えず備へてゐなければならない。彼の目的を妨げる怖れのある時は名誉の感情さへ含めて、彼は唯その目的に貢献する者のみに友情を感じて差支へない。彼はより低い能力を持つた革命家達を唯消費すべきところの資本と看做さねばならない。もし同志が危難に陥つた時は、その運命は彼の有益性と、彼を救ふために必要な革命勢力の消費度によつて決定されねばならない。支配する側については、革命家はその構成員を、その個人の悪しき性質によつてではなく、革命の大義に害悪を齎す様様な度合に応じて、区分しなければならない。最も危険なものは直ちに除かれねばならない。けれども、そこには次のやうな他の部類に属する者がゐる。その或る者は、放任されたままでゐる限り、怖るべき所業を敢行し民衆を昂奮せしめる事によつて革命の利益を促進し、また或る者は、恐喝と脅迫によつて大義の目的に役に立ち利用され得るのである。自由主義者の部門は、彼等の方針に一致するかの如く彼等を信じしめ、それによつて、こちらの方針をもまた容れる事を妥協せしめながら、彼等を利用せねばならない。他の急進主義者については、多くの場合彼等を完全に破滅せしめる行動に駆り立てねばならない。そして、稀な場合、それが彼等を革命家に仕立てあげるのである。革命家の唯一の目標は手を使う労働者達の自由と幸福であるが、この事態が唯全破壊的な、全人民の革命によつてのみ成し遂げられる事を考慮して、革命家は全力を傾倒して人民がついに忍耐心を失うに至るだらうところの全ての悪行を推し進めなければならない。ロシア人は、西欧諸国において一般化してゐる革命の古典的な形態、つまり、財産に対し、また、所謂文明と道徳による伝統的な社会秩序に対して常に足踏みし、そして国家を唯別の国家によつて置き換へてゐるところの革命の古典的形態を断乎として拒絶しなければならない。ロシアの革命家は国家を、その全伝統、全制度、全階級とともに、根こそぎに廃絶しなければならない。かかるが故に、革命を醸成するGroup(グループ)は人民に対して如何なる政治的組織をも上から押し付けようと試みないであらう。未来社会の組織は、疑ひもなく、人民自体の中から生まれる。吾吾の事業は唯恐怖すべき、完璧な、全般的な、無慈悲な破壊を為す事にある。そして、この目的の為、大衆の頑固に反抗する諸部分を結合せしめるばかりでなく、ロシアにおける唯一の真実な革命家であるところの法の保護を失へる全ての者達の不屈な集団を団結せしめばならない』(埴谷雄高著「埴谷雄高ドストエフスキイ全論集」〈講談社〉参照)

…………
…………

――どう? つまり、これもまた《自由》の一形態だが……。
――ネチヤーエフが『悪霊』のピヨートル・ヴエルホーヴエンスキーのModel(モデル)だとは知つてゐたけれども「革命家の教義問答」を読むのは今日初めて……。
――つまり、《自由》は冷徹非道性を必ず備へてゐなければ、つまり、それは《自由》として取り上げるに値しない……つまり、《自由》は、つまり、そもそも《残虐非道》なものに違ひない……と思ふけれども、つまり、君は、どう思ふ? 
――さうね、《自由》《平等》《友愛》を掲げ、神をその玉座から引き摺り落とし《理性》が神の玉座に座つたフランス革命が好例ね。ブレイクもフランス革命を「The French Revolution」として著してゐるけれども、人間が《自由》のど真ん中に抛り出されると如何に《愚劣》か……さうよね、あなたの言ふ通りかもしれないわ……、人間は《自由》を持ち堪へられないのかもしれないわね。フランス革命後の大粛清がその証左だわ。どうして人間は、《自由》を手にすると猜疑心が芽生えるのかしら。《自由》である事に誰も堪へられず猜疑の眼ばかりが爛爛と輝き、最後は『敵は殺せ!』を地でいって、大粛清、つまり、殺戮の連鎖が続く皮肉。きっと《自由》を人間は持ち堪へられないのだわね。
――つまり、人間はどうあつても《下等動物》でしかなく、つまり、その《宿命》から遁れられない《大馬鹿者》であるといふ自覚がなければ、つまり、結局《縄張り》争ひの坩堝に自ら進んで身を投じ、つまり、最後は無惨な《殺し合ひ》に終始する《愚劣》な生き《もの》といふ事を自覚しなければ、つまり、人間にとつて《自由》は《他者を殺す自由》に摩(す)り替はつてしまふ外ない。つまり、レーニンがネチヤーエフを認め、つまり、「革命家の教義問答」をも認めてゐた事は有名な話だけれども、つまり、レーニンが最も自身の後継者にしてはならないとしてゐたスターリンがソヴイエトを引き継ぎ、つまり、《大粛清》を行つたのも、人間が《自由》に抛り出された末に辿り着く《宿命》、つまり、《自由》に堪へ切れずに人間内部に《自然発生》する《猜疑心》の虜になるといふ《宿命》、つまり、即ち《他者を殺す自由》が人間に最も相応しい《自由》といふ事を証明してゐる。つまり、人類史をみれば、つまり、《自由》が《他者を殺す自由》でしかない事例は枚挙に暇がない。つまり、《他者を殺す自由》以外は全て排除、つまり、《自由》は《自由》に《抹殺》されてしまふ。
――其処でだけど、ねえ、《自殺する自由》はどう?  
――……。
――やつぱり、あなたも考へてゐるのね、《自殺する自由》を……。
――つまり、《何か》を《生かす》以外の《自殺》はそれが殉死であらうが、つまり、《自殺》は何であれ地獄行きさ。つまり、卵子と精子の例ぢやないけれど、つまり、《一》のみ生き延びさせるための《自死》以外、つまり、《自殺》は、つまり、地獄行きだ。
――どうして《自殺》は地獄行きなの? 
――つまり、例へば、僕も君も、つまり、一つの受精卵から子宮内で十月十日の間、つまり、全生物史を辿るやうに全生物に変態した末に人間に為るが、つまり、その一つの受精卵の誕生の一方で、つまり、《自死》した数多の卵子と女性の体内で死滅した数多の精子の《怨念》を、つまり、《背負はされて》此の世に誕生した訳だが、つまり、《自殺》はその死滅した、つまり、卵子達と精子達が許さず、そして、つまり、生き残つた奴が《自由》に《自殺》した場合、つまり、此の世に誕生する事無く死滅させられた卵子達と精子達が、つまり、《自殺》した奴を地獄に送るのさ。更に《生者》が《自殺》する迄食料として喰らはれて来たこれまた数多の《他の生物達》の《怨念》も含めて、つまり、あらゆる《生者》は生まれた時から《死者》の数多の《怨念》を背負つてゐるから、つまり、《自殺の自由》を《生者》が行使した場合、つまり、地獄行きは《必然》なのさ。
――それでかしら、《他者》といふ、《吾》にとつては徹頭徹尾《超越》した《存在》が《存在》するのは……。つまりね、人間は独りでは《自由》を持ち堪へられない、故に《他者》が《存在》する、つてね、うふ。
――さう、そして、つまり、未だ出現されざる未出現の《未来人》を必ず《未来》に出現させる為にも、つまり、《現在》に《生》を享けた《もの》は、つまり、与へられた《生》を全うしなければならない。つまり、その為には人間は数多の《他者》と共に、つまり、何が何でも、つまり、それが仮令不快、若しくは苦痛、若しくは虫唾が走る事態であつても、つまり、《他》と共に生きねばならない。
――ねえ、さうすると、人間は《自由》とどう関はれば良いと思ふ? 
――正直言ふと、つまり、僕にはそれは解らないんだよ。つまり、《自由》の正体が阿修羅の如き《自由》だとすると……、君はどう思ふ? 
――さうね、人間は分を弁(わきま)えるしかないんぢやないかしら……、うふ、私にもこの《残虐非道》な阿修羅の如き《自由》に対しての人間の振舞ひ方は解らないわね、うふ。だつて、《自由》を自在に操れるのは《神様》以外在り得ないもの。ねえ、さうでしよ、うふ。

…………
…………

君もさう思ふだらうが、雪の微笑みは何時見ても純真無垢な美しさに満ち溢れてゐたが、この時の雪の微笑みも「これぞ純真無垢の典型!」といふやうな飛び切りの美しさに包まれてゐて私は心地良かつたのである……。雪の顔には自身には解からないとは思ふが、自然に純真さが溢れ出てしまふ心の美しさが雪の笑顔には現はれてしまふのだ。これに私は惹かれたのだがね。

…………
…………

――断罪せよ。
例へば澱んだ溝川(どぶがは)の底に堆積した微生物の死骸等のへどろが腐敗して其処からMethane Gas(メタン・ガス)等がぷくりぷくりと水面に浮いてくるやうに、私の頭蓋内の深奥からぷくりぷくりと浮き上がつては私の胸奥で呟く者がゐたのは君もご存知の通りだ。
――お前自身をお前の手で断罪せよ。
これが其奴の口癖だつた。
多分、私が思ひ描いた私自身の《吾》といふ表象が時時刻刻と次次に私自身が脱皮するが如くに死んで行き、その表象の死屍累累たる遺骸が深海に降る海雪(Marine snow)のやうに私の頭蓋内の深奥に降り積もり、それがへどろとなつて腐敗Gasを発生させ、その気泡の如きものが私の意識内に浮かび上がつては破裂し、
――断罪せよ。
といふ自己告発の声になると私は勝手に考へてゐたが、雪との出会ひにより、私をしてそれを実行する時が直ぐ其処に迫つてゐる事を自覚しないわけにはいかなかつたのだ。今にして思へば、雪との出会ひは私が私自身を断罪するその《触媒》であつたのだらうとしか思へないのだつた……。
勿論、私の頭蓋内の深奥には深海生物の如き妄想の権化と化したGrotesque(グロテスク)な《異形の吾》達がうようよと棲息してゐた筈だが、其奴等も私が余りにも私自身の表象を創つては壊しを繰り返すので意識下に沈んで来た《吾》の表象どもの遺骸を喰らふのに倦み疲れ果てて仕舞つてゐたのは間違ひない……。
多分、其の時の私の頭蓋内の深奥には、私が創つた表象の死骸が堆く積み上がる一方だつたのだ。
――断罪せよ。お前がお前の手でお前自身を断罪せよ! 

…………
…………

さて、私がSalonでは読書会がもう始まつてゐるのでSalonに行かうと雪に言付けして其の古本屋を出やうとすると、雪が、
――一寸待つてて。二、三冊所望の本を買つてくるから。
と、言つたので私は軽く頷き其の古本屋の出口で待つ事にしたのであつた。
外はAsphalt(アスフアルト)とConcrete(コンクリート)が発散する熱と人いきれの不快な暑気に満ちてゐて、其の中、淡い黄色を帯びた優しい白色の満月の月光が降り注ぐ、何とも名状し難い胸騒ぎを誘ふ摩訶不思議な世界へと変貌してゐた。東の夜空を見上げると美麗な満月がゆるりと昇つて、その満月は、暑気による陽炎に揺れてゐたが、私は『今夜は何人の人が誕生し、そして何人の人が亡くなるのか』等とぼんやりと生死について思ひを巡らせずにはゐられなかつたのである。満月の夜は必ずさうであつた。私にとつて月は生物の生死の間を揺れ動く弥次郎兵衛のやうな《存在》で、且、生物の生死を司るある種創造と破壊の神、シヴア神のやうな《存在》に思へたのであつた。
と、其の時ぽんと私の左肩を軽く叩き、
――お待たせ。
と、雪が声を掛けたのであつた。私は左を向いて雪の瞳を一瞥して不意に歩き出した途端、雪は私の右手首を今度は軽く握つて、
――もう、待つてよ、うふ。
と私に純真無垢な微笑を送つて寄越したのであつた。しかし、私は含羞の所為(せゐ)もあつて其のまま歩を進めたのである。
――もう、うふ。
と、雪は私の右側にぴたりと並んで歩き出したのであつた。
袖振り合ふも他生の縁。私は相変はらず伏目で歩いてゐたが、すると直ぐ様私の右手首を少し強めに握つた雪が私を握つた左手で私の歩行の進行を見事に操るので、私は内心、 
――阿吽(あうん)の呼吸か……ふつ。
などと思ひながら密かに愉悦を感じざるを得なかつたのである。そして、私と雪が相並んで睦まじさうにゆつたりと二人の時間を味はひながら歩く姿を、私達の傍らを通り過ぎる人達が興味津津の好奇の目を向けてゐる。その多少悪意の籠つた視線の鋭き気配を感じながら、私は、この私達の傍らを好奇の目を向けて通り過ぎる彼らともまた他生の何処かで会つてゐる筈だと内心で哄笑しながら、 
――さて、私との彼等の他生の縁(えにし)は人としてなのだらうか。 
などと揶揄してみては更に内心で哄笑するのであつた。 
それはまさしくゆつたりとした歩行であつた。 
不意に雪を一瞥すると、雪は例の純真無垢な微笑を返すのである。雪もまたこのゆつたりとした歩行に何かしらの愉悦を感じてゐたのは間違ひない。 
男女が二人相並んで歩くといふ行為は、しかし、よくよく考へてみると不思議極まりない、ある種奇蹟の出来事のやうな錯覚に陥る。偶然にも同時代に生を享け、偶然にも互ひに出会へる場所に居合はせ、互ひに何かしら惹かれあふ《もの》をお互ひに感じ、そして、互ひに見えない絆を確信し相並んで歩く……、これは互ひに出会ふべくて出会つてしまつた運命といふ必然の為せる業なのかもしれない……。 
私は雪に微笑みかけ、雪もそれに応へて微笑み返す……。人の縁(えにし)とは誠に不思議である。 
そして、ゆつたりとした歩行は続くのであつた。 
と不意に私と他生の縁を持つた人間が、また、この瞬間に此の世を去つたのであらう、私の視界の周縁に光雲が出現し、そして、それはカルマン渦が発生するやうに二つに分かれ、私の視界全体でも左目に当たる部分では時計回りに、右目に当たる部分では反時計回りに、その二つに分かれた光雲が旋回し始めたのであつた。そのまま光雲が私の視界でぐるりと回つてゐたその時、雪を見ると、 
――……また誰か亡くなつたのね……。あなたの目、何となく渦模様が浮かんでゐる気がするの……不思議ねえ……何となくあなたの異変が解つてしまふの。あなたの眼に見える渦模様をあなたは人の魂魄と看做してゐるやうだけれども……ねえ……あなたは憑依体質な人なの? 私は幽霊とか見えないから解からないのだけれども、幽霊が見えてしまう人は、それはそれで大変なことだらうとは思ふの。 
私は軽く頷くと都会の人工の灯りが漏れ出て明るい夜空に目を向け、 
――諸行無常。
といふ言葉を胸奥に呑み込むのであつた。すると、雪が、 
――諸行無常。 
と溜息混じりにぽつりと呟いたのである。私が振り返ると、雪は何とも名状し難い悲哀の籠もつた不思議な微笑を私に返したのであつた。

…………
………… 
君も多分不思議に思つてゐるだらう。何故月の盈虚(えいきよ)がこれ程生物の生死、また、地震の生起に深く関はつてゐるのかを。人間で言へば新月と満月の日に出生する赤子と死に行く人間の数が他の日に比べて多いといふのは、私の思ふところ、仄かな仄かな仄かな重力の差異が人間の運命を大きく左右する、つまり、仮に《運命次元》なるものが《存在》し、重力の仄かな仄かな仄かな差異がその《運命次元》を発生させ、また消滅させる契機になつてゐるとすると、物理学者は重力の謎を考へれば考へる程迷路乃至は袋小路に入り込み、多分、生物の運命を左右し重力と相互作用する新たな粒子の《存在》を考へないと《世界》を説明出来ない筈のやうな気がするのだ。しかしだ、ねえ、君、 
――へつ、重力は此の世の謎のまま人類の滅亡迄其の謎解きは出来ない。何故ならば、重力に関して主体は観測者では有り得ないのだ。 
などと私は時時内心で哄笑してみるのだがね……。多分、重力は物理数学の域を超えた何やら占星術のやうな怪しげな、例へばその《値》を数式に表すと数式を書いた本人の運命が左右されるといつた超物理数学が構築出来なければ重力の謎は解けない気がする。 
今のところアインシユタインがその道を開いた重力場の理論は主体とは無関係に研究が進んでゐる筈だが、また、人間は重力を簡単に一言で《重力》と片付けてゐるが、私が思ふに《重力》を構成するのは∞の量子、若しくは次元に違ひないと考へてゐる……。さうすると、当然これ迄主体は観測者といふ《特権的》な《存在》で《世界》乃至《宇宙》乃至《素粒子》を扱つて来たが、こと重力に関しては主体はその観測者といふ《特権》を剥奪されて重力といふ物理現象に飲み込まれ、翻弄される。つまり、《主体》がモルモツトのやうになる以外に重力の説明は不可能だと思ふのだ。 
ねえ、君。それにしても月は不思議な《存在》だよね。ブレイクもアイルランドの詩人、イエイツも、月の盈虚を題材にOccult(オカルト)めいて幻想的な詩のやうな、思索書のやうなものを著してゐるが、月は人間を神秘に誘ふ《もの》なのかもしれないね。 
多分、君も考へた事はあるだらう。もし月が《存在》してゐなかつたならば生物史はどうなつてゐたかを。まあ、それは人類が地球外の、例へば月や火星で生活するやうになれば重力乃至月がどれ程生物の生死に深く関はつてゐるのか明らかになる筈だから……。 
ねえ、君、私も多分満月の日に死ぬ筈だから、左記の括弧に私の死亡した日時を記しておくれ。お願ひする。

…………
………… 

(追記。此の手記の作者は某年某月某日の満月の夜が明けた午前十時四十分四十秒に態態死の直前女性の看護師を病室に呼びにやりと笑つて死去する。) 

…………
…………

さて、何とも名状し難い悲哀の籠つた不思議な微笑を私に返した雪に私は優しく微笑みかけて、東の空に昇り行く満月を指差し、雪と二人、暫くその場に立ち止まつて、仄かに黄色を帯びた優しくも神秘的な月光を投げ掛ける満月を見続けてゐたのであつた。 
――ねえ、月は生と死の懸け橋なのかしら……。 
と雪が呟いたので私は軽く頷き雪と私の二人並んだ月光による影に目をやつた。雪もまた二人の影を見て、
――何て神秘的なんでしよう、月影は……。 
とぽつりと呟いたのであつた。と不意に再び私の視界の周縁に光雲が一つ現れたかと思ふ間もなく、再びカルマン渦が二つに分裂する如く二つに分裂したその光雲は、視界の周縁で旋回を始めたのであつた。 
私は雪を銀杏の街路樹の下に誘ひ、Pocket(ポケツト)から煙草を取り出して、先づは雪に勧めたのであつた。といふのも私は、雪が《男》に陵辱されてから、多分、煙草を喫むやうになつたと信じて全く疑はなかつたのである。実際、雪は私が差し出した国産煙草で最もNicotine(ニコチン)の含有量が強い煙草は頭がくらくらするからと言つて、自分の煙草を鞄から取り出して一本極極当然といつた自然な仕種で銜へたのである。

…………
…………

君は自殺してしまつたフォーク歌手、西岡経蔵さんの「プカプカ」といふ名曲を知つてゐるかな。1971(昭和46)年、西岡恭蔵さんの自作自演曲だが、Credit(クレヂツト)は、「象狂象 作詞/作曲 西岡恭蔵 唄 JASRAC作品コード072-1643-2」となつてゐるがね。
「プカプカ」の歌詞を調べればすぐに解かる事だが、私は雪の或る一面をこの「プカプカ」に出てくる女性に重ねてゐたのだ。想像するに難くないが、雪は普段は対人、特に《男》に対する無意識の恐怖心の所為で、例へば過呼吸等緊張の余り呼吸が乱れてゐた筈で、煙草の一服による深深とした深呼吸が雪を一時でも緊張を弛緩し呼吸を調へてゐたのだ。さうでなければ雪があれ程純真無垢な微笑を浮かべられる筈はない。あの時期の雪にとつて煙草は生きるのに不可欠なものだつたのさ。
一方で私だが、私にとつて煙草はソクラテスが毒杯を飲み干して理不尽な死刑を受け容れた、或いはランボーの詩の中に「毒杯を呷(あふ)る」といふやうな一節があつた気がするが、私にとつて煙草を喫むのは《生》を実感する為には必要不可欠な《毒》なのだ。私には《生》を幾分でも蔑(ないがし)ろにする《毒》無しには一時も生きられない程、既にあの時から追ひ詰められてゐたのさ。《生きる屍》として何とか私が生きてゐたのは、何をおいても煙草があつたからなのさ。飯は食はずとも煙草さへ喫めればそれで満足だつたのだ。今も病院で私は強い煙草を喫んでゐる。最早終末期の私には何も禁じる物なんかありはしない。へつ。

…………
…………

私は一本目の煙草を喫めるだけ喫めるぎりぎり迄しみつたらしく喫むと、間髪を容れず二本目を取り出し、一本目の燃えさしで二本目に火を点け、体軀全体に煙草の煙が行き渡るやうに深深と一服したのであつた。雪は私のその仕種を見ながら、
――うふ、あなたは本物のNicotine中毒ね、うふ。
と微笑みながら、私が銜へた煙草の火の強弱の変化と私の表情を交互に凝視(みつ)めるのであつた。そんな雪を何とも愛ほしく思ひながら私は私で雪に微笑み返すのであつた。勿論、この時の煙草が格別美味かつたのは申す迄もない。
――ねえ、あなたをこれ迄生かして来たのはその煙草と、それと、うふ、お酒ね。それも日本酒ね、うふ。
と正に正鵠を射た事を雪が言つたので、私は更に微笑んで軽く頷いたのである。
――ふう~う。
とまた一服する。すると私に生気が宿る不思議な快感が私の体軀全体に走る。と、また、
――ふう~う。
と一服する。その私の様が雪にはをかしくて仕様がないらしく、
――うふふふ。
と私を見ながら飛び切りの笑顔を見せるのであつた。すると、雪は偶然にも、
――煙草とお酒があなたの鎮静剤なのね。
と言つたのであつた。

…………
…………

ねえ、君。君は「鎮静剤」といふ詩を知つてゐるかな。故・高田渡も歌つてゐたがね。

  「鎮静剤」
 マリー・ローランサン

 退屈な女より もつと哀れなのは 悲しい女です。
 悲しい女より もつと哀れなのは 不幸な女です。
 不幸な女より もつと哀れなのは 病気の女です。
 病気の女より もつと哀れなのは 捨てられた女です。
 捨てられた女より もつと哀れなのは よるべない女です。
 よるべない女より もつと哀れなのは 追われた女です。
 追われた女より もつと哀れなのは 死んだ女です。
 死んだ女より もつと哀れなのは 忘れられた女です。

 訳:堀口大學
 詩集「月下の一群」より

といふ詩なんだが。自分で言ふのもなんだが、私にぴつたりの詩だね。堀口大學の訳詩の《女》を《吾》に換へると、へつ、私自身の事だぜ、へつ。

…………
…………

『鎮静剤か……』。 
成程、雪の言ふ通り《死に至る病》に魅入られた私は《生》に帰属する為に一方で煙草といふ《毒》を喫んで《死》を心行く迄満喫する振りをしながらも私の内部に眠つてゐる臆病者の《吾》を無理矢理にでも揺り起こし、煙草を喫む度に《死》へと一歩近づくと思ふ事で《吾》が今生きてゐるといふ実感に直結してしまふこの倒錯した或る種の快感――これは自分でも苦笑するしかない私の悪癖なのだ――が途端に不快に変はるその瞬間の虚を衝いて、一瞬にして《死》に臆する《吾》に変容するのかもしれぬ或る種の《快楽》を味はふのであつた。さうして《死》を止揚して遮二無二《生》にしがみ付く臆病者の《吾》は煙草を喫むといふ事に対する悲哀をも煙草の煙と共に喫み込み、内心で、 
――くつくつくつ。 
と苦笑しながら、この《死》をこよなく愛しながらも《生》にしがみ付く臆病者の《吾》をせせら笑ひ侮蔑する事で《生》に留まる《吾》を許し、やつとの事で私はその《吾》を許容してゐるのかもしれぬのであつた。 
『鎮静剤……』。 
これは多分、私が《吾》を受け容れる為の不愉快極まりない《苦痛》を鎮静する《麻酔薬》なのだ。《死》へ近づきつつ《死》を意識しながら、やつとの事で《生》を実感出来る、この既に全身が《麻痺》してしまつてゐる馬鹿者である私には、自虐が快楽なのかもしれぬ。ふつ、自身を蔑み罵る事でしか《吾》を発見出来ない私つて、ねえ、君、或る種、能天気な馬鹿者で、 
――勝手にしろ! 
と面罵したくなるどう仕様もない生き物だらう。へつへつへつ。何しろ私の究極の目標は自意識の壊死(えし)、つまりは《吾》の徹底的なる破壊、それに尽きるのさ。其処で、 
――甘つたれるな! ちやんと生きてもいないくせに! 
といふ君の罵倒が聞こえるが……、其処でだ、君に質問するよ。 
――ちやんと生きるつてどういふ事だい? 
後後解ると思ふが、私は普通の会社員の一生分の《労働》は既にしたぜ。ふつ、その所為で今は死を待つのみの身に堕してしまつたが……。それでもちやんと生きるといふ事は解らず仕舞ひだ。そもそも私には他の生物を食料として殺戮し、それを喰らひながら生を保つだけの《価値》があつたのだらうか、と自問自答せずにはいられぬのだ。私の結論を先に言ふと、その《価値》は徹頭徹尾私には無いといふ事に尽きるね。 
――人身御供(ひとみごくう)。 
私の望みは私が生きる為に絶命し私に喰はれた生き物達全てに対しての生贄としての人身御供なのかもしれないと今感じてゐるよ。 
ねえ、君。君は胸を張つて、 
――俺はちやんと生きてゐる! 
と言へるかい? もしも、 
――俺はちやんと生きてゐる! 
と、胸を張つて言へる能天気な御仁が此の世に《存在》してゐるならば、その御仁に会つてみたいものだ。そして、その御仁に、 
――大馬鹿者が! 
と罵倒する権利のある人生を私は送つたつもりだが……、これは虚しい事だね、君。もう止すよ。

…………
………… 

――ふう~う。 
と、また私は煙草を喫み、煙を吐き出しながら、何とも悲哀に満ちた《生》を謳歌するのであつた。 
――ふう~う。 
――本当に煙草が好きなのね、あなたみたいに煙草を美味しさうに吸ふ人、私、初めて見たわ。うふ、筋金入りのNicotine中毒ね、ふふ。 
と、既に自身の煙草はとつくに吸ひ終はつてゐた雪は、私が煙草を喫む毎に生気が漲るやうにでも敏感に感じたのか、ほつとしたやうなにこやかな微笑みを浮かべては私を見続けてゐるのであつた。私はと言へば、この時間が楽しい故に思はず零(こぼ)れてしまつた照れ笑ひを雪に返すのであつた。さうさ、二人に会話はゐらなかつたのだ。顔の表情だけで二人には十分であつた。

…………
………… 

君も知つての通り、私にとつて必要不可欠なものは煙草と日本酒と水とたつぷりと砂糖が入つた甘くて濃い珈琲、そして、本であつた。私の当時の生活費は以上に殆どを費やしてゐて、食費は日本酒と砂糖を除けば本当に僅少であつた。Instant(インスタント)食品やJunk food(ジヤンク・フード)の類は一切口にする事は無く、今もつてその味を私は知らない。 
ねえ、君。私の嗜好品は全て鎮静か興奮かのどちらかを増長せずにはいられぬ代物だつたといふ事がはつきりしてゐるだらう。当時、一度思考が始まると止め処無く堂堂巡りを繰り返し《狂気》へ一気に踏み出すのを鎮静するのに煙草は必需品だつたのだ。煙草を一服し煙草の煙を吐き出すのと一緒に、私は《狂気》へ一気に驀進する思考の堂堂巡りも吐き出すのさ。そして、不図吾に返ると私の内部に独り残された吾を発見し《正気》を取り戻すのだ。古に言ふ「魂が憧(あくが)れ出る」状態が私の思考の堂堂巡りだつた。私が思考を始めると吾は唯《思考の化け物》と化して心此処に在らずといつた状態に陥つてしまふのさ。これも一種の狂気と言へば狂気に違ひないが、この思考が堂堂巡りを始めてしまふ私の悪癖は、矯正の仕様が無い持つて生まれた天稟の《狂気》だつたのかもしれぬ……。 
《死》へと近づく哀惜と歓喜が入り混じつたこの屈折した感情と共に煙草を喫み、そして、私の頭蓋内で《狂気》のとぐろを巻きその《摩擦熱》で火照つた頭の《狂気》の熱を煙草の煙と一緒に吐き出し吾に返る愚行をせずには、詰まる所、私は《狂気》と《正気》の間の峻険な崖つぷちに築かれたインカ道の如きか細き境に留まる術を知らなかつたのだ。何故と言つて、私は当時、《狂気》へ投身する事は《吾》に対する敗北と考へてゐた節があつて、それは《狂気》へ行きつぱなしだと苦悩は消えるだらうがね、しかし、それでは全く破壊されずに《狂気》として残つた全きの生来の《吾》が《吾》のまま《狂気》といふ《極楽》で《存在》する事が私には許せなかつたのだ。《狂気》と《正気》とに跨り続ける事が唯一私に残された《生》の道だつたのさ。 

………… 
………… 

其の時の朗らかに私に微笑み続ける薄化粧をした雪の美貌は満月の月光に映え神秘的で、しかもとてもとても美しかつた……。 
と不意にまた一つの光雲が私の視界の周縁を旋回したのである。私は煙草によつて人心地付いたのと、また光雲が視界の周縁を廻るのを見てしまつた私を敏感に察知しそれに呼応する雪の哀しい表情が見たくなかつたので、ゆつくりと瞼を閉ぢたのであつた。瞼裡に拡がる闇の世界の周縁を数個の光雲が相変はらず離合集散しながら左に旋回するものと右に旋回するものとに分かれ、ぐるりぐるりと私の視界の周縁を廻つてゐた。 
――死者達の手向けか……、それとも埴谷雄高曰く、《精神のRelay(リレー)》か……。 
勿論死んで逝く者達は生者に何かしら託して死んで逝くのだらう。私の瞼裡の闇には次次と様様な表象が浮かんでは消え浮かんでは消えして、それは死者達の頭蓋内の闇に明滅したであらう数多の思念が私の瞼裡の闇に明滅してゐるのだらうかと考へながらも、 
――それにしても何故私なのか? 
と、疑問に思ふのであるが、しかし、一方で、 
――死者共の思念を繋ぎ紡ぐのがどうやら私の使命らしい。 
と、妙に納得してゐる自分を見出しては内心で苦笑するのであつた。

…………
…………

と不意に金色の仏像が瞼裡の闇の虚空に浮かび上がつたのである。 
――ふう~う。 
と其処で間をおくやうに煙草を一服し、もしやと思ひ私は目玉を裏返すやうに瞼を閉ぢたままぐるりと目玉を垂直に回転してみると、果たせる哉、血色に燃え立つ光背の如き業火の炎は私の内部で未だ轟轟と燃え盛つてをり、再び目玉をぐるりと回転させて元に戻すと、未だ金色の仏像――それは大日如来に思へた――が闇の中空に浮かび上がつて何やら語り掛けてゐたのであるが、未熟な私にはそれを聞き取る術が無く、静寂のみが瞼裡の闇の世界に拡がるばかりであつた。 
と忽然と、 
――《存在》とは何ぞや?  
といふ誰とも知れぬ声が何処からともなく聞こえて来たのであつた。 
――生とは何ぞや?  
とまた誰とも知れぬ声が聞こえ、 
――そもそも私とは何ぞや?  
とまた誰とも知れぬ声が聞こえた。と、そこで忽然と金色の仏像は闇の中に消えたのである。 
これが幻聴としても、どうやら彼の世に逝くには自身の《存在》論を誰しも吐露しなければならないらしい。ふつふつ。 
すると突然、左右に旋回してゐた数個の光雲が無数の小さな小さな小さな光点に分裂離散し、すうつと瞼裡の闇全体に拡がつたのである。すると突然、 
――何が私なのだ! 
と誰とも知れぬ泣き叫ぶ声が脳裡を過つたのである。そこで漫然と瞼裡に拡がつてゐた無数の光点はその叫び声を合図に何かの輪郭を、私の瞼裡に仄かに輝きを放ち浮かび上がらせるやうに、誰とも知れぬ私とは全く面識の無い赤の他人の顔の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせたのであつた。私は一瞬ぎよつとしたが、それも束の間で、 
――うう……。
とも、 
――ああ……。
とも判別し難い声為らざる奇怪な嗚咽の如き《声》を、瞼裡に浮かび上がつたその顔の持ち主が発してゐるのに気付いたのであつた。 
――ふう~う。 
と、この現前で起きてゐる意味を解かうとしてか、再び無意識に私は煙草を一服し、そして、意味も無く其処で瞼をゆつくりと開け、月光に映える雪の顔を凝視したのである。 
――何? 
と、雪は微笑んだ。が、直ぐ様私の身に起こつてゐる事を直覚した雪は、 
――また……誰かが亡くなつたのね……、冥界への通り道になつてしまつてゐるあなた、大丈夫? 
といふ雪に私は軽く頷き、満月がゆつくりと南天へ向かつて昇り行く奇妙に明るい夜空を見上げてから再び瞼を閉ぢたのであつた。果たせる哉、瞼裡の闇の虚空には相変はらず誰とも知れぬ面識の無い赤の他人の顔の輪郭がぼんやりと輝きを放つて浮かんでをり、私は最早声に為らざる嗚咽の如き奇妙奇天烈なその《声》にぢつと耳を澄ませるしかなかつたのであつた……。 
――――ううううああああああああ~~。。
と、閉ぢられた瞼裡の闇の虚空に仄かに輝きながらその輪郭を浮かび上がらせた、私と全く面識のない赤の他人のその顔貌の持ち主の彼の人は、咆哮とも慟哭とも嗚咽とも歓喜の雄叫びとも、または断末魔の叫びとも解らぬたつた一声を心の底から思いつ切り叫びたいのであらうが、既に彼の人は恒常の《現在》といふ時間の流れに飛び乗つて、つまり、或る意味では彼の人にとつては時間が全く流れぬであらう彼の世へと既に旅立つてしまつた故に、凝固したままぴくりとも動かぬ自身、つまり、「x0=1(x>0):0より大きい数の0乗は1」のⅹたる《主体》は 零乗たる《死》といふ現象により《完全なる一》たる《存在体》へと変化した故に最早その一声すら上げられぬまま《完全なる一》たる《存在体》として凝固してしまつた自身に対して観念せざるを得ぬ事を自覚させる、永遠の黙考の中に沈潜してしまつた彼の人は、音、若しくは声為らざる音未満の、
――――ううううああああああああ~~。。
といふ《声》を発してゐるのであつた。それを例へてみれば超新星爆発後にエツクス線など通常では観測されない電磁波などを発する星の死骸に似てゐた。
――――ううううああああああああ~~。。
瞼裡の闇の虚空に仄かに浮かび上がつた彼の人は、さて、《完全なる一》たる《存在体》に封印されてその頭蓋内の闇の虚空に何を思ひつつ彼岸へ旅立つたのだらうか。彼の人は死と共に《完全なる一》たる《存在体》に己が成り果(おほ)せた事を束の間でも自覚し、歓喜したのであらうか。多分、その瞬間に彼の人は全てを悟つた筈である。だが、それでも納得できない彼の人は、
――――ううううああああああああ~~。。
と《声》ならざる《声》を発せざるを得ぬ底知れぬ哀しさの中に封印され凝固してしまつたのであらうか。私は彼の人に、
――《存在》とは何ぞや? 
などと、問ふてみたが、答へは全て、
――――ううううああああああああ~~。。
であつた。多分、彼の人は既に《完全なる一》たる《存在体》から堕して腐敗といふ《完全なる一》たる《存在体》の崩壊へと歩を進めてしまつたのであらう。
――――ううううああああああああ~~。。
は、彼の人の崩壊の《音》為らざる《音》なのかもしれないかつたのだ
――――ううううああああああああ~~。。
と、不意に瞼裡の闇の虚空に仄かに浮かび上がつた彼の人の顔貌はゆらりゆらりと揺らぎ始め、すると私の視線の先に忽然とゆるりと時計回りに旋回する大渦の中心が現れたのであつた。
――これがもしや中有なのか? 
私の瞼裡に仄かに浮かび上がつた彼の人の顔貌は、そこでゆるりとゆるりと渦の動きのままに旋回し始めたのであつた。
――ふう~う。
私は何故かそこで煙草を一服したのである。正直なところ、
――――ううううああああああああ~~。。
といふ《音》為らざるその《声》は悲痛極まりなく、私には煙草でも喫まなければ最早堪へられなかつたのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
私はゆつくりと瞼を開け、雪の顔を見ずにはゐられなかつたのである。雪は全てを既に了解してゐたのか、にこつと私に微笑み掛け、
――存分にその苦悩を味はひ尽くしなさい。それがあなたの安寧の為になるのよ。
と、私に無言で語り掛けてゐたのであつた。
私は雪の微笑みを見てほつとしたのか、此方も軽く微笑み、再び瞼を閉ぢたのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
瞼裡に仄かに輝き浮かぶ瞑目した全く面識のない赤の他人の彼の人が、ゆるりと瞼裡全体が大渦を巻き始めたときに口元が仄かに微笑んだやうに見えたのは、もしかすると私の気の所為かもしれぬが、しかし、それを見た刹那、彼の人は地獄ではなく極楽への道を許されたのだと私は思つたのだ。 
――それにしてもこの瞼裡の光景は私の脳が勝手に私に見せる幻視なのか……。 
と、そんな疑問も浮かぶには浮かんだが、 
――へつ、幻視でも何でもいいぢやないか。 
と、更に私の意識は瞼裡の影の虚空に引き込まれて行くのであつた。さう、私もまた、瞼裡の渦にそれとは知らずに巻き込まれてゐたのであつた。 
――――ううううああああああああ~~。。
それにしても中有は彼の人以外ゐないところで徹底的に孤独でなければならぬ場らしい。瞑目した彼の人は、さて、この孤独の中で何を思ふのか。既に死の直前には自身の人生全体が走馬灯の如く思ひ出された筈である。 
――什麼生(そもさん)! 
――説破! 
と、彼の人は自己の内部に、否、魂の内部に沈潜しながら、その大いなる《死》の揺籃に揺られながら、既に《物体》と化した自己を離れ《存在自体》、若しくはカント曰く《物自体》と化して自問自答する底知れぬ黙考の黙考の黙考の深い闇の中に蹲りながら《存在》といふ得体の知れぬ何かを引つ摑んで物珍しげにまじまじと眺め味はひ、そして、その感触を魂全体で堪能してゐるのであらうか……。 
――――ううううああああああああ~~。。 
その証拠が瞼裡の影の闇の虚空に仄暗く浮かび上がる彼の人の顔貌の輪郭なのではないのか……と思ひながら私はまた煙草を、
――ふう~う。 
と、喫むのであつた。すると、私は何やら名状し難い懊悩のやうな感覚に包まれたかと思ふと、源氏物語の世界の魂が憧(あくが)れ出るが如くに、私の自意識の一部が凄まじい苦痛と共に千切れるやうに瞼裡の闇の虚空に憧れ出たのである。私もまた其の刹那、 
――――ううううああああああああ~~。。 
と、呻き声に為らぬ声を私の内部で発したが、しかし、それは言ふなれば、私といふ《眼球体》――それはフランスの象徴主義の画家、オデイロン・ルドンの作品「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」(一八八二年)のやうなものであつた筈である――がその闇の虚空へと飛翔を始めた不思議な不思議な不思議な感覚であつた。
何もかもがその闇の虚空では自在であつたのだ。私の思ふが儘、その《眼球体》と化した私は自在に虚空内を飛び回れるのである。それはそれは摩訶不思議な感覚であつた。 
――――ううううああああああああ~~。。 
《眼球体》と化した私は、瞑目して深い深い深い黙考の黙考の黙考の中に沈潜してしまつた彼の人にぴたりと寄り添ひ、今更ながらまじまじと彼の人の顔貌を凝視したのであつた……。

…………
…………

ねえ、君。人間とは《存在》といふ魔物に囚はれる虜囚たる事を宿命付けられた哀れな生き《もの》だね。もし仮に正覚もせずに《存在》に無頓着なそれこそ能天気な輩がゐたら、さういふ輩には哀れな微笑みを送つてやるしかないね。何故つて、さういふ輩は既に自身を馬鹿者として積極的に肯定した阿呆に違ひないからさ。先づ、自身の《存在》を全肯定出来る事自体が馬鹿の証さ。そいつ等の話を聞いてごらん。薄つぺらな内容に終始して、そのくせ小心者ときたならば、もう目も当てられないね。そういふ輩は愚劣極まりなく醜悪さ。私はそいつ等の放つ悪臭――勿論、これは幻臭だがね――に耐へられず、いつも反吐を吐いてゐたがね。 
ねえ、君、そもそも《存在》とは何ぞや? 何時も、さう、睡眠中に夢を見てゐる時さへ、自身の《存在》に懐疑の眼を向けざるを得ぬ《吾》といふ《存在》はそもそも何ぞや? 吾と己に《ずれ》が生じる故に《存在》といふ変容体に《吾》が身を置けるその因になつてゐるのは当然として、さて、其処に介在する《時間》といふこれまた魔物の流れに取り残され、絶えず《現在》に身を置かざるを得ぬこの《吾》とはそもそも何ぞや? つまりは、身体の細胞Level(レベル)で考へてみると、身体を形成してゐる数十兆もの細胞群は、分裂、増殖、そしてApoptosis(アポトーシス)、つまり、自死を繰り返して何とか《吾》を存続させてゐるが、この絶えず変容する《吾》は、過去の《吾》に未練たらたらで現在の変容する未完の《吾》をどうあつても《吾》として受け容れなければならぬ宿命を背負つてゐて、もしもそれを拒否したならば《吾》は死ねない細胞たる癌細胞化するしかない哀れな《存在》でしかない……。するとだ、生物は絶えず不死たる癌細胞への憧憬を抱いてゐて、不死たる《吾》でありたいと心奥では渇望してゐるに違ひないのさ。へつ、もしかすると己を《高等動物》と平気で看做すこの人類は、一度その《存在》を断念して、ぬめぬめした《もの》に変態した海鼠(なまこ)の如き海鼠としての原形をとどめぬ《もの》が、そのまま抛つておくと再び《時間》が経つにつれて元のの形へと再び再生する、そんな《存在》を理想の《存在》、つまりは神と看做しているのかもしれぬね。近代迄は人間は神に為るといふそんな傲岸不遜な考へを断念し、また、ひた隠して来たが、現代に至つてはその恥知らずな神たらうとする邪悪な欲望を隠しもしない侮蔑すべき《存在》に為り下がつてしまつたが、しかし、それが《存在》の癌化に過ぎない事が次第に明らかになるにつれ、人間は現在無明の真つ只中に抛り出されて、唯漫然と生きてゐる――それでも「私は懸命に生きてゐる」と猛り狂う輩もあらうが、それは馬鹿のする事さ――その結果、現世利益が至上命題の如く欲望の赴くままに生き、そして漫然と死すのみの無機物――ねえ、君、無機物さへも己の消滅にぢつと堪へながら自身を我慢しながら《存在》してゐるに違ひないと思ふだらう――以下の生き物でしかない……。その挙句が過去への憧憬となつて未来は全く人間の思考の埒外に置かれる事になつてしまつたが、さて、其処で現在を見渡したところ現在が最早どん詰まりにある事に気付いて慌てて未来に思いを馳せてみると、へつ、人類は絶滅するしかない事が鮮明になつてゐて、さてさて、困つた事に往生際が極めて悪いこの人類といふ《存在》は、現在、滅亡に恐れをなして右往左往してゐるのが現状さ。 
自同律の不快。人類は先づ生の根源たるこの自同律の不快に立ち戻つて、パスカルの言ふ通り、激烈なる自己憎悪から出直さなければならないと思ふが、君はどう思ふ? 
倒木更新。未だ出現せざる未来人を出現させる為にも、現在生きてゐる者は必ず死ななければならぬ事を自覚して倹(つま)しく生きるのが当然だらう。へつ。文明の進歩なんぞ糞喰らへ、だ。人類は、人力以上の力で作つた《もの》は全て人の手に負へぬまやかし《もの》である事に早く気付くべきさ……。へつ。ねえ、君。一例だが、科学技術が現在のやうに発展した現代最高の文明の粋(すい)を結集して、果たして、茅葺屋根の古民家以上に自然に馴染んだ家を、つまり、朽ちるにつれてきちんと自然に帰る外ない家が作れると思ふかい? 無理だらう……へつ。

…………
…………

その時《眼球体》と化した私の意識は中有の中に飛び出し、私の瞼裡に仄かに輝き浮かぶ、誰とも知れぬ赤の他人の彼の人の顔貌を凝視したが、すると彼の人は消え入りさうな自身の横たはる身体を私の眼前に現したのであつた……。
――しゆぱつ。 
雪がもう一本煙草に火を点けたやうだ。 
――はあ~あ、美味しい。 
私は雪のその心地良ささうな微笑んだ顔が見たくて《眼球体》の吾から瞬時に私に戻り、ゆつくりと瞼を開け、雪の顔を見たのであつた。 
――うふ。私ももう一本吸つちやつた。あ~あ、何て美味しいのかしら。……どう? 死者の旅立ちは。 
私はおどけた顔をして首を横に振つて見せた。 
――そう。三途の川を越えた者皆、その道程は艱難辛苦に違ひないと思ふけど……そして彼岸からその先の極楽迄の道のりが辛いのは簡単に想像出来るけど……実際……さうなのね? 
私は雪の問ひに軽く頷き、煙草を美味さうに喫む雪の満足げな顔につい見蕩れてしまふのであつたが、その雪の顔は、窈窕(えうてう)といふ言葉がぴつたりと来るのやうに、また、乳白色の月光が照らし出す雪の顔は、不安が失せたやうに安寧の中に置かれた弥勒菩薩のやうな美麗な美しさを醸し出していたのである。その顔の輪郭が絶妙で、これまた満月の月光に映えるのであつた。 
そして、私は、雪の美貌を映す満月の光に誘はれるやうに、南天へ昇り行く仄かに蒼白いその慈愛と神秘に満ちた月光を網膜に焼き付けるやうに、満月を凝視し続けたのであつた。 
『科学的には太陽光の反射光に過ぎないこの月光といふものの神秘性は……生き《もの》全てに最早そのやうにしか感じられないやうに天稟として「先験的」に具へられてしまつた《もの》なのかもしれぬ……。』 
――ふう~う。 
私は煙草を身体全体にその紫煙が行き渡るやうに深深とした呼吸で喫みながら暫く月光を凝視した後に、再びゆるりと瞼を閉ぢたのであつた……。 
その網膜に焼き付けられたらしい月光の残像が瞼裡の闇の虚空にうらうらと浮かび上がり、あの全く面識のない赤の他人の彼の人の仄かに輝きを放つが今にもその虚空の闇の中に消え入りさうなその死体へ変化し横たわつたままの体軀が、ゆるりと渦を巻く瞼裡の闇の虚空にAurora(オーロラ)の如く残る月光のうらうらと明滅する残像に溶け入つては、己の《存在》を更に主張するやうに自身の姿の輪郭を月光の残像から分離すべく、月光の残像の明滅する周期とは明らかに違ふ周期でこれまた仄かに瞼裡の闇の虚空に明滅しながら月光の残像の中で蛍の淡い光の如くに輝くのであつた。 
――――ううううああああああああ~~。。
私は再び瞼裡の闇の虚空の渦に飲み込まれるやうに自意識の一部が千切れ《眼球体》となる狂ほしい苦痛の呻きを胸奥で叫び、とはいへ、ひよいつと《眼球体》となつた私は渦巻く瞼裡の虚空に投身するのであつたが、最早瞼を閉ぢると自動的に眼前で渦巻く瞼裡の闇の虚空に吸い込まれてしまふのは避けようもないらしかつたのである。 
それにしても、この眼前に拡がる瞼裡の渦巻く闇の虚空は一体何なのであらうか。 
――中有。 
とはいへ、其処が中有とは今もつて信じ難く、そして私は懐疑の眼でしかその渦巻く虚空を見られずにゐたが、しかも《眼球体》となつて瞼裡の渦巻く闇の虚空に《存在》するこの私の状態は、さて、一体何なのであらうか……。
唯、《眼球体》の私は自在であつた。例へてみれば、そのAuroraの如き月光の残像の中に飛び込めば其処は眩いばかりの光しか見えない《陽》の世界であり、一度月光の残像から飛び出ると、其処は彼の人の闇の中に消え入りさうな体軀が闇の虚空にぽつねんと浮かび上がるのが見える《陰》の世界であつた。そして、《眼球体》の私は多分月光の残像の中では陽中の陰となり、月光の残像から飛び出ると《眼球体》の私は陰中の陽となり、其処は陰陽魚太極図そつくりの構図に違ひないとしか思へなかつたのであつた。 
――――ううううああああああああ~~。。
相変はらず彼の人は声為らざる声を発し続けたままであつた。 
――――ううううああああああああ~~。。
『もしや、この眼前に見えてしまふ全く面識のない赤の他人の彼の人は……、もしかすると、《死》といふ、多分、恍惚に違ひないその全きな恍惚の中に陶酔してゐるのかもしれぬ……。』 
と、何故かといふ理由もなく、さう私は自然と納得してゐる己を見出してはにたりと自嘲しつつ、《眼球体》と化した私は、眼前に横たはる彼の人をまじまじと凝視したのであつた。否、実のところ、さう思はずにはゐられなかつたのである。これは実際のところ私の願望の反映に過ぎぬのかもしれぬが、しかし、生き《もの》が死すれば、 
――皆善し! 
として、自殺を除いて全ての死した《もの》が恍惚の陶酔の中になければならないとしか、私にはその当時思へなかつたのであつた。 
――――ううううああああああああ~~。。
この絶えず彼の人から発せられてゐる音為らざる苦悶の呻き声は、もしかすると歓喜の絶頂の中で輻射されてゐる、誠に誠に慈悲深き盧(る)遮那(しやな)の輝きにも似た歓喜の雄叫びなのかもしれぬと思へなくもないのである。否、寧ろさう考へたほうが自然なやうな気がするのであつた。
自殺を除いて死すもの全て、
――――ううううああああああああ~~。。
と、此の世の摂理たるハイゼンベルクの不確性原理から解放され、此の世からおさらばした故の完全なる《一》、否、それはもしかすると色即是空たる《空》、若しくは《無》、若しくは《無限》たる己を己に見出し、歓喜の雄叫びを上げて、《吾》が生と死に祝杯を捧げてゐるに違ひない。生きてゐる間は生老病死に苛まれ、底無く出口無き苦悶の中でもがき苦しみ、やつとの事で未完の生を繋いで来たに違ひない生者達は、死してやつと安寧を手にするに違ひないのだ。ところでそれはまた死の瞬間の刹那の事でしかなく、その後の中有を経て極楽浄土へ至るこれまた空前絶後の苦悶の道程を歩一歩と這ひ蹲る(つくば)が如くに前進しなければならないのかもしれない来世といふ《未来》に向かふ、巨大な巨大な巨大な苦難の果てといふ事からも一瞬、解放されてゐるに違ひない……。と、不意に《眼球体》と化してゐた私は吾の自意識と合一してしまひ、私はゆつくりと瞼を開けてしまつたのであつた。然しながら、その時、私は雪の相貌を全く見向きもせずに、天空で皓皓と青白き淡き輝きを放つ満月を暫く凝視するしか為す術がなかつたのであつた。この一連の動作は全く無意識でした事であつた。ところが、瞼を開けても最早私の視界から彼の人の明滅する体軀の輪郭は去る事がなく、満月の輝きの中でも明瞭に見えてしまふのであつた。 
――ふう~う。 
と、私は煙草を一服し、月に向かつて何故か煙草の煙を吐き出したのであつた。煙草の煙で更に淡い輝きになつた月は、それはそれで何とも名状し難い風情があつた。と、不意に私の胸奥でぼそつと呟くものがあつた。 
――月とすつぽん。
 これは人間の思考が全く脈略なく思考する性癖を持つてゐることの一つの証左なのであった。私はその呟きを合図に、それ迄の時間の移ろひを断ち切るやうにMemo帳を取り出し、雪と再び筆談を始めたのであつた。 
――つまり、自由を追い求めるならば、つまり、月とすつぽん程の、つまり、激烈な貧富の格差は、つまり、《多様性》の、つまり、現はれとして、つまり、吾吾は、つまり、それを甘受しなければならないと思ふが、つまり、君はどう思ふ? 
と、全く脈絡もなく視界の彼の人を抛り出してとつさに雪に書いて見せたのであつた。満月の月光の下ではMemo帳に書いた文字ははつきりと見えるのである。すると雪は美しく微笑んで、しかし、何やら思案するやうに、 
――う~む。難しい問題ね。あなたの言ふ通りなのは間違いないわ。しかしね、社会の底辺に追ひやられた人人はその《多様性》といふ《自由》を持ち堪へられないわ……、多分ね。でも……、残酷な言ひ方かもしれないけれども《自由》を尊ぶならばあなたの言ふ月とすつぽん程の格差といふ《多様性》は受け容れるしかないわね……。 
と、切り出したのであつた。 
――――ううううああああああああ~~。。
――ふう~う。 
と、私は煙草を一服すると、その吸ひ殻を携帯灰皿にぽいつと投げ入れたのであつた。 
――つまり、《自由》に身を委ねると、つまり、現状は、つまり、嘗ての、つまりね、Pyramid(ピラミツド)型の階級社会にすら程遠い、つまり、一握りの大富豪と、つまり、殆ど全ての貧乏人の、つまり、大地に屹立した、つまり、峻険なる山のやうな、つまり、階級社会となるのは必然だと思ふかい? 
――そうね、《自由》の下ならば一世代位の期間はさういふ階級社会が続くと思ふけれども、でも……、峻険な山が風化するやうに、Pyramid型の階級社会もまた長期に亙る《自然》の近似に過ぎないのならば、多分、三世代の間位に峻厳な山からPyramid型へと階級の形が移行する筈よ、多分ね、うふ。 
と、雪は私との筆談が楽しいのか愛らしい微笑みを浮かべ、次に何を私が書くのか興味津津で私の手のPen先を凝視するのであつた。 
――すると、つまり、さうすると現在貧乏人は、つまり、一生貧乏人かい? 
――……さうね。一握りの《成功者》を除くと殆ど全ての貧乏人は貧乏人の儘一生を終へるわね……残念ながら……。士農工商のやうなPyramid型の或る種平安な階級社会が《自然》に形作られるには最低三世代は掛かる筈よ。だつて、例へば士農工商の工の貧乏人が《職人》といふ他者と取り換へ不能な一(ひと)廉(かど)の人間になるには、最低三世代のそれはそれは血の滲むやうな大変な苦労が必要だわ……。 
――それぢやね、つまり、市民といへば聞こえは良いが、つまり、単刀直入に言つて市民といふ貧乏人は、つまり、士農工商のいづれかの階級の、例へば工の《職人》に、つまり、三世代掛かつてなるんだね? 
――う~ん、……さうね、多分。だつて、現在生きてゐる人類の多くは貧困に喘いでゐて、その貧困から脱出する術すら未だに見つけられずにゐるぢやない。人間が社会に寄生して生きる外ない生き《もの》で、しかもそれが《自由》の下ならば、人類の現状はそのままこの国の社会にも反映されなければならず、つまり、Fractal(フラクタル)、即ち、自己相似形として、如何なる社会も世界の縮図として表れる外ない筈だし、そして《自然》は必ずさう仕向ける筈よ。《自由》が《自由》を束縛するのよ、皮肉ね。あなたもさう思うでしよ。一握りの先進国が富を独占してゐる世界の現状が《自然》ならば、この国の社会もそれをFractalに、えへつ、つまり、《自然》に反映した世界の縮図にならなければ神はそもそも不公平だと。つまり……この国の国民の殆ども貧困に陥らないとその社会は嘘つて事ね。 
雪はさう言ふと不意に満月を見上げ、 
――ふう~う。 
と煙草を一服したのであつた。 

…………
………… 

ねえ、君。社会に不満を持つのは舌足らずな思考をする青年の取り柄だが、当時の彼女もまた当然若かつたのだ。ねえ、君、私は攝願として比丘尼になつた今現在の雪の考へをもう一度聞いてみたいがね。 

…………
………… 

――ねえ、つまり、多様性は、つまり、さうすると、どうなる? 
私は満月を見上げる雪の肩をぽんと叩き、筆談を続けたのである。 
――Paradigm(パラダイム)変換が必要ね。市場原理による《自由》な資本主義にたかつて生きるならば、一握りの大富豪とその外殆ど全ての貧乏人といふ《多様》に富んだ階級構造は受け容れるしかないわね。でも、擬似かもしれないけれども封建制度の復古等等、Paradigm変換は必ず訪れるわ。峻険な山がなだらかな山へと風化するしかないやうにね。 
――でも、君、つまり、峻険な山が、つまり、風化してPyramidのやうになつたとしても、つまり、その社会は活力が、つまり、減衰してゐやしないかい? 
――さうね、あなたの言ふ通りね。でも、地球を《自然》の典型と見るならば、或る日突然地殻変動が起きて、Himalaya(ヒマラヤ)の山山のやうな大地に峻険と屹立する途轍もなく高い山が再び此の世に出現する筈よ。それがParadigm変換ぢやない?  
と、言ふと、 
――ふう~う。 
と、雪は煙草を一服したのであつた。 
――――ううううああああああああ~~。。
相変はらず私とは全く面識のない赤の他人の彼の人は、私の視界で明滅しながら音為らざる声を上げ続けてゐるのであつた。 
――つまり、峻険なる富の山を築いた、つまり、大富豪は、その富の山の、つまり、途轍もない高さ故に、つまり、エベレストの頂上では生き《もの》が、つまり、生きられないやうに、つまり、大富豪もまた、つまり、富の山の頂上では、つまり、生きられないとは思はないかい?  
――ふう~う。 
と、雪は煙草を一喫みしながら何やら思案に耽るのであつた。 
――……さうねえ……マチユピチユの遺跡のやうに……《生者》より、輿に乗つて祀られる木乃伊(みいら)と化した《死者》の人数が多い……生死の顚倒した、それこそ宗教色の強いものに変化しないと……峻険なる富の山では人間は生きられないわね……。それにしてもあなたの考へ方つて面白いのね、うふつ。 
――つまり、するとだ、個人崇拝、つまり、それも死者に対する、つまり、個人崇拝といふ化け物が、つまり、此の世に跋扈し始める。つまり、さうなると、つまり、気色の悪い赤の他人である、つまり、その死んだ者に対する個人崇拝が、つまり、人間が生来持つ宗教に対する、つまり、尊崇の念と結びついて、つまり、巨大な富の山を築いた、つまり、死んだ者への個人崇拝といふ、つまり、気色の悪い尊崇が、つまり、峻険なる山型の階級社会を、つまり、何世代にも亙つて固着させ、つまり、貧乏人は末代迄も、つまり、貧乏人ぢやないかい? つまり、例へば、基督の磔刑像に、つまり、平伏す基督者達は、実のところ、つまり、教会の教皇が絶大な権力と富とを、つまり、保持してゐる事に対しても畏れてゐる、つまり、象徴として一生貧乏だつた基督の磔刑像を、つまり、教会内に安置してゐるが、つまり、しかしだ、つまり、基督者達を統べてゐるのは、つまり、絶大な権力を今も保持してゐる、つまり、教会であり、つまり、その頂点の教皇だといふ事は、つまり、周知の事実だらう?  
――――ううううああああああああ~~。。
その瞬間、私の視界から去らうとしない赤の他人の彼の人がゆらりと動き、私を凝視するやうに真正面を向いたのである。そして、相も変はらずに、 
――――ううううああああああああ~~。。
と、音為らざる声を瞑目しながら発し続けてゐたのである。 
――不思議ねえ。ねえ、人間つて倒錯したものを好んで崇拝する生き《もの》なのかしら?  
――さうだね、つまり、貧富が顚倒した基督に、つまり、象徴されるやうに、つまり、《欲望》が剥き出しのままでの、つまり、人間は、つまり、そんな己の《存在》を、つまり、認めたくないんぢやないのかな。つまり、そこに己の卑俗さが、つまり、露はになるからね。つまり、そもそも人間は自己対峙が、つまり、苦手な馬鹿な生き《もの》なのは間違ひない……。しかし、つまり、己が卑俗であるが故に、つまり、《高貴》なものを倒錯した形で崇拝せざるを得ない馬鹿な生き《もの》が、つまり、人間なのかもしれない。 
――何だかまるで建築家のガウデイが重力を考慮して建築物を作り上げる為にその模型を逆様にぶら下げてみた、正にその逆様になつた建築物の模型みたいね。 
――つまり、天地が倒錯したものこそ、つまり、《自然》なのかもしれないね。つまり、所詮人間は、つまり、重力からは遁れられない、つまり、哀れな生き《もの》に過ぎないからね。つまり、天を向く垂直軸の不自然さに、つまり、気付いたガウデイは、つまり、天地が顚倒した建築物を、つまり、重力に《自然》な形の《もの》として、つまり、建物を逆様にぶら下げてみた……。つまり……天地の逆転の中に、つまり、或る真実が隠されてゐるのかもしれない……。つまり、人間はあらゆるものに対して、つまり、それが《剥き出し》のままだと、つまり、自然と嫌悪するやうに、つまり、創られてゐるのかもしれないね。 
私は再び煙草を一本取り出し、それに火を点け一服したのであつた。 
――ふう~う。 
――木つて不思議ねえ。 
と、雪がぽつりと呟いた。
私は雪がぽつりと呟いたその一言に全く同意見であつた。私と雪は二人で煙草を、
――ふう~う。 
と一服しながら互ひの顔を見合い、そして互ひににこりと微笑んだのであつた。 
――ねえ、君。つまり、アメリカの杉の仲間の、つまり、巨大セコイアといふ、つまり、巨樹を知つてゐるかい?  
雪は私のMemo帳を覗き込むと、
――ええ、もう何千年も生きて百メートルにならうといふ木でしよう。それがどうしたの?  
――ねえ、つまり、毛細管現象は知つてゐるかい? 
――ええ、知つているわ。それで? 
――つまり、毛細管現象や葉からの、つまり、水分の蒸発による木の内外の圧力差など、つまり、木が水を吸ひ上げるのは、つまり、科学的な説明では数十メートルが限界なんだ。つまり、しかし、巨大セコイアに限らず、つまり、木は巨樹になると数十メートル以上に迄、つまり、成長する。何故だと思ふ?  
――うふつ、木の《気》かしら、えへつ。 
――ふむ、さうかもしれない。つまり、僕が思ふに木は、つまり、維管束から幹迄全て、つまり、螺旋状の仕組みなんぢやないかと思ふんだ。つまり、一本の木は渦巻く《気》の中心で、つまり、その目に見えない摩訶不思議な力で、つまり、科学的な常識を超えて垂直に地に屹立する。ねえ、君。つまり、先に言つたが、つまり、科学はまだ渦を正確には説明出来ない。つまり、円運動をやつと直線運動に変換するストークスの定理止まりなんだ。つまり、人間は未だ螺旋の何たるかを、つまり、知らない。つまり、木は人間の知を超えてしまつてゐる。つまり、また渦の問題になつたね、へつ。 
私は雪の何とも不思議さうな顔を見て微笑み更に続けたのであつた。
――ねえ、君。つまり、江戸の町が《の》の字といふ、つまり、《渦》を巻いてゐるのは知つてゐるね? 
――ええ、山手線がその好例よ。 
――つまり、人間が《水》の亜種で、日つ、此の世が右手系ならば、つまり、《の》の字の渦は天から《気》が絶えず降り注ぐ回転の方向をしてゐる。つまり、低気圧の渦が上昇気流の渦ならば、つまり、《の》の字の渦は、言ふなれば下降気流の高気圧の回転方向を示してゐる。つまり、さうすると、江戸の町は絶えず天からの目に見えぬ加護を受けてゐたのさ。そこでだ、つまり、仮に江戸時代のPyramid型の階級社会が、とぐろを巻く渦状の階級社会でもあると強引に看做してしまふならば、つまり、天下無敵の階級社会だつたに違ひない筈なのだ。 
――ふう~う。 
と私は煙草を一喫みした。 
――ねえ、江戸時代の人人は現代人より創造的で豊かな暮らしをしてゐたのかもしれないわね。すると、《自由》の御旗の下の現代の一握りの大富豪と殆ど全ての貧乏人といふ峻険なる山型の階級社会は、うふつ、息苦しいわね。
――ふう~う。 
私は煙草をまた一喫みしながら更なる思案に耽るのであつた。 
――――ううううああああああああ~~。。
と、その時、私の視界に張り付いた彼の人の瞑目した顔は相変はらず私に正面を向けて音為らざる声を唸り上げながら何やら不気味にさへ見える微笑をちらりと浮かべ、忽然とその大口を開けたのであつた。

…………
…………

それにしても死は物全てに平等に訪れるが、さて、例へば視点を変へて速度をベクトルⅴで表した




の時間Δtの極限値、つまり、零――ねえ、君、この数式は考へやうによつては物凄く《死》を記号で観念化した代物だと思はないかい? へつ――と看做すと《死者》はベクトルΔⅹといふ∞の速度で動いてゐると看做せるぢやないか。主体が《観測者》でしかゐられぬ現代において、主体はどんなに足掻いても《世界=外=存在》とハイデガー風に看做せば、物理学とはそもそも主体が世界=内に《存在》しない《死》の学問ぢやないのかね? ふつ。さて、そこで《死》も物理法則に従ふならば《死者》はアインシユタインの相対論から此の世のものは《死》も含めて、その極限値として光速度を超えられないとすると《死者》は光速度で動いてゐる事になる。……今、不図思つたのだが∞とは光の光速度の事で《死》の異名なのかもしれないね……。そして、へつ、光が美しいものならば《死》もまた美しいものに違ひない。ふつ、私ももう直ぐ光といふ美しい《死》へ旅立つがね、へつ。ちえつ、まあ、私の事は置いておいて、速度を時間で微分すると加速度が出現する事自体、《観測者》たる主体の日本刀の如く切れ味鋭くも美しい論理といふ刃物を無闇矢鱈に振り回しているとしか見えないのだが、この私の論法で行くと加速度とは差し詰め《霊魂》の動きを表現したものに違ひないね。その時、私の視界に張り付いた彼の人の《魂》も、
――――ううううああああああああ~~。
と音為らざる声を唸り上げながら彼方此方に彷徨してゐたに違ひない。《死》の学問たる物理学が此の世を巧く表してゐるならば、私の視界に張り付いた私と全く赤の他人の彼の人が蛍の如く私の視界内で渦巻きながら明滅してゐたのは、物理学的に見て正鵠を射てゐたのだ。つまり、《死者》とその《魂》は《光》に変化(へんげ)した何物かなのだ。つまり、光は電磁波の一種なのだから《死者》とその《魂》は各人固有の波長をもつた電磁波の一種なのかもしれない……。まあ、それはそれとして、上下左右の知れぬ何処の方角に向かつて私の視界に張り付いた彼の人は浄土へ向かつてゐたのかと考へられもするが、西方浄土といふ言葉があるから差し詰め《西方》へ向け出立したに違ひないのかもしれない……。さて、重さあるものは相対論より決して光速度には至れないが、《死者》に変化したものは《重さ》から《解脱》して、さて、此の世の物理法則の束縛から逸脱してしまふ何物なのかなのだ。其処で出会うのが多分無限大の∞なのだ。私も直ぐに∞に出会へるぜ……へつ。

…………
…………

――ねえ、この銀杏も《気》の渦を巻いて、私たちを今その渦に巻き込んでゐるのかしら? ふう~う。
と、雪が私たちが筆談をしてゐた木蔭をつくつてゐる銀杏を撫で擦り、煙草を一服しながらまた呟いたのであつた。
――ねえ、つまり、死後も階級は、つまり、《存在》するのだらうか? ふう~う。
と、私も煙草を一服しながら雪に訊ねたのであつた。
――勿論、極楽浄土といふんだから当然あるでしよう。でも、……彼の世に階級があつたとしても彼の世のもの全て自己充足して、それこそ極楽の境地にゐるから……階級なんて考へがそもそも無意味なんぢやないかしら。
――すると、つまり、《光》は自己充足した、つまり、自身に全きに充足してしまつて自己に満ち足りた、つまり、至高の完全に自己同一した、つまり、自同律の快楽の極致に安住する《存在》なのかな? 
――うふ。私、物理学にはそんなに詳しくないから何とも言へないけれど、でも……此の世の全ては《存在》しただけで既に自己に不満足な《存在》として《存在》する外ないんぢやないかしら……。ぢやないと《時間》は移ろはないんぢやない? 《光》もそれは免れないと思ふけれど、どう? 
雪は舗装道路を走る自動車が通る度に巻き起こる風に揺れる銀杏の葉葉に目をやりながら訊ねたのであつた。私は仄かに微笑んで、
――ねえ、つまり、《光》が此の世と彼の世の、つまり、此の世と彼の世の間隙を縫ふ、つまり、代物だと看做すと、ねえ、君、つまり、《光》は此の世の法則にも従ふが、一方、彼の世の法則にも、つまり、従つてゐるんぢやないかと私は思ふんだが、どう思ふ? つまり、《光》が此の世と彼の世の懸け橋になつてゐるんぢやないかと思ふんだけれども……、どう思ふ? 
雪は風に揺らめく銀杏の葉葉を見つめながら、否、葉葉から零れる満月の明かりを見つめながら、
――さうね……、あなたの言ふ通り《光》が此の世の限界速度だとしたならば……、うふつ、《光》はもしかすると死者達が彼の世へ出立する為の跳躍台なのかもしれないわね、うふつ。
銀杏の葉葉から零れる月光の斑な明かりが雪の面に奇妙に美しい不思議な陰影を与へて雪の面で揺れてゐた。
――彼の世への跳躍台? ねえ、君、つまり、それは面白い。つまり、此の世の物理法則に従ふならば、つまり、《光》を跳躍台にして死者が彼の世へ跳躍しても、相対論に従へばそれでも光速度を超える事は不可能だ……ふむ。
と、私は思案に耽り始めたのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
ゆつくりとゆつくりと時計回りに彼の人は渦巻きながらも、面は私に向けたまま私の視界の中で相も変はらず仄かに明滅してゐたのであつた。この視界に張り付いた彼の人もまた、《光》を跳躍台にして彼の世へ出立したのだらうか……。不意に月光の明かりが見たくなつて、私は頭を擡げ満月に見入つたのであつた。この月光も彼の世への跳躍台なのか……等等つらつらと考へながら私はゆつくりと瞼を閉ぢて暫く黙想に耽つたのであつた。
――ふう~う。
その時間は私と雪との間には互ひに煙草を喫む息の音がするのみで、互ひに《生》と《死》について黙想してゐるのが以心伝心で解り合つてしまふといふ不思議な、それでゐてとても心地良い沈黙の時間が流れるばかりであつた。
――ふう~う。ねえ、もう行かなきや駄目ぢやないの? 
と、雪が二人の間に流れてゐた心地良い沈黙を破つて、さう私に訊ねたのであつた。私はゆつくりと瞼を開けてこくりと頷くとMemo帳を閉ぢ、煙草を最後に一喫みした後、携帯灰皿に煙草をぽいつと投げ入れ、徐に歩を進めたのであつた。
――もう、待つて。
と、雪は小走りに私の右側に肩を並べ、そつと私の右手首を軽く握つたのであつた。私は当然の事、伏目で歩きながらも、しかし、《生》と《死》、そして《光》といふ彼の世への跳躍台といふ観念に捉へられたまま思考の堂堂巡りを始めてしまつてゐたのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
歩道は会社帰りの人や学生等で大分混雑してゐたが、私と雪は肩を並べてその人波に流されるままに歩き始めたのであつた。しかし、伏目で歩く外なかつた私はそれらの雑踏の足しか見なかつたのである。雪も何か考へ込んでゐるやうで暫くは黙つてゐた。と、不意に再び光雲が私の視界に飛び込んで来たのであつた。その光雲もまた私の視界の周縁を時計回りにぐるりと一回りすると、不意に消えたのであつた。と、その刹那、私の視界の中の赤の他人の彼の人は、それ迄ばつくりと開けてゐた大口を閉ぢ、その面を彼方の方へくるりと向け、彼の人はゆつくりとゆつくりと旋回しながら虚空の何処かへ飛翔を始めたのである。
――――ううううああああああああ~~。。
彼の人は相変はらず声為らざる音を唸り上げてゐた。
――《生者》と《死者》と《光》といふ跳躍台か……。
私の思考は出口無き袋小路に迷ひ込んでゐた。
『《存在》とは《生者》ばかりの《もの》ではなく……《死者》もまた《存在》する……か……さて……《生者》から《死者》へと三途の川を渡つた《もの》は……さて……中有で苦悶しながら《死者》の頭蓋内の闇で《生》の時代が走馬燈の如く何度も何度も駆け巡る中……さて……《死者》は自ら《生者》であつた頃の《吾》を弾劾するのであらうか……ふつ……《光》といふ彼の世への跳躍台に……さて……《死者》の何割が乗れるのであらうか……《死者》もまた《存在》といふ《もの》であつた以上……それは必ず《吾》によつて弾劾される《生》を送つた筈だ……ふつ……ふつふつふつ……《もの》は全知全能の《神》ではないのだから……《吾》は必ず《吾》に弾劾される筈だ……しかし……《死者》の頭蓋内の闇が……《死者》にとつて既に《光》の世界に……つまり……《闇即ち光》と……《生者》が闇に見えるものが《光》と認識される以外に《死者》にとつて為す術がないとすると……ちえつ……例へばそもそも《死者》の頭蓋内の闇が、即ち死んだ《もの》にとつて《光》でしかないとしたならば、その《光》とは何なのだ!』
――――ううううああああああああ~~。。
私は私の視界に張り付いた彼の人を凝視するばかりであつた。最早私の自意識から《意識》が千切れて苦悶の末に私の意識が《眼球体》となる事はなかつたが、私は彼の人の顔貌を凝視しては、
――貴様は既に光か!  
と、詰問を投げ掛けるのであつた。
『《死者》が既に《光》の世界の住人ならばだ……地獄もまた《光》の世界なのか……《光》にも陰陽があつて陰は地獄……陽は浄土なのか……ふつ……さうなら……ちえつ、そもそも《光》が進むとは自由落下と同じ事なのか……さうすると……自由落下を飛翔と感じるか……奈落への落下と感じるかは本人の意識次第ぢやないか……《吾》が《吾》を弾劾して……ふつ……後は閻魔大王に身を委ねるのみ……ちえつ……馬鹿らしい……《吾》は徹頭徹尾《吾》によつて弾劾し尽くされなければならぬ! ……さて……光速度が今のところ有限であるといふ事は……此の世……即ち此の宇宙が有限の《閉ぢた》宇宙である事のなによりの証左ではないのか……現在考へられてゐる此の膨脹宇宙が無限大に向かつて膨脹してゐるとすると……光速度も……もしかすると定数なんぞではなく無限大の速度に向かつて加速してゐるのかもしれないぢやないか……特異点……例へば一割る零は無限大に向かつて発散する……また、Black holeの中にも特異点が《存在》する……さうか! この宇宙にBlack holeが蒸発せずに《存在》する限りにおいてのみ《光》は《存在》するのではないか……特異点では因果律は破綻する……ふむ……此の天の川銀河の中心にあると言はれてゐる巨大Black hole……吾吾生物はこの因果律が破綻してゐる特異点の周縁にへばり付いて漸く漸く辛うじて《存在》する……つまり際どい因果律の下に《存在》する……ふむ……はて……もしかすると特異点、若しくはBlack holeが《存在》する限りにおいてしか吾吾も《存在》しない……つまり特異点とは《神》の異名ではないのか!』 
『もしかすると……物体が《存在》するとその内部に特異点が隠されているのかも知れぬ……特異点を覆ひ包む形でしか《もの》皆全て《存在》出来ぬとしたなら……因果律も自同律も絶えず破綻の危機に瀕してゐるのかもしれぬ……自同律の不快……これは《存在》の罠でもあり…《存在》を《存在》たらしめてゐる秘儀なのかも知れぬ……すると……中有へ出立した《死者》は自身を徹底的に……ふつ……それは底無しに違ひないが……弾劾する宿命を負つてゐるに違ひない……弾劾に弾劾を重ねた末に残つた自身の残滓を更に鞭打つて弾劾する宿命……此の世に《存在》してしまつた《もの》全てが負つてゐるこの宿命を貫徹した《もの》のみ……未だ未出現の《存在》に出現を促す権利……其処に《魂》……若しくは《精神》のRelayが辛うじて辛うじて行はれるか? ……ふつ……《魂》……若しくは《精神》のRelayは……しかし……必ず行はなければならぬのかもしれぬ……此の世に一度《存在》してしまつた《もの》は……先達の《魂》……若しくは《精神》を受け取つた上で辛うじて……《存在》に堪へられるのかもしれぬ……未知なる《もの》への変容……此の世に《存在》してしまつた《もの》は《死》を受容し……未来に出現する《もの》へその席を譲る……其処に因縁は生じるのか? ……《死》によつて因果律は破綻するのか? ……しかし……破綻した因縁は再び別の此の世に出現してしまつた《もの》に託されるのか? さうだとして……ふつ……不連続の連続性……矛盾は《存在》した《もの》には必然のものだが……矛盾を抱へ込まざるを得ない《存在》してしまつた《もの》は……しかし……自己を責め苛む事で……もしかすると馬鹿げた自己慰撫をしてゐるだけかもしれぬではないか……自同律の不快と言ひながら実際のところ其処でこの上ない自己愛撫といふ悦楽を味はつてゐるのかもしれぬ……自虐が快楽へと変容してしまつたならば……最早その自己内部に引き籠つて外界に一歩たりとも出ない……自己憎悪が最高の自慰行為……か……へつ』
――――ううううああああああああ~~。。
『彼の人も今中有で自己に対して弾劾に弾劾を重ねて倒錯した至高の悦楽の境地にゐるのか……この悦楽はまた……地獄の責苦に等しいか……極限……苦悩と快楽の境に……《死者》は辛うじて佇立し……其処で杳として知れぬ漠たる自身といふ茫洋なる面(おもて)と全的に対峙するか……自身が自身によつて滅び尽くされる懊悩を味はひ尽くす以外……《吾》は《吾》を脱皮出来ぬかもしれぬ……《吾》以外の何かへの変容……幽冥への出立……は……《吾》が《吾》であつてはならぬのか……解脱……か……《死》してのみ《吾》が《吾》を超克するこの《存在》め! ……《存在》よ……呪はれるがよい! ……へつ……へつへつへつ……《吾》が《吾》を呪縛するだけぢやないか……だが……しかし……《存在》する《もの》……この《吾》から遁れられぬ!』 
――――ううううああああああああ~~。。
『それでも……《吾》は《吾》を超克しようともがき続ける……しか……ない……へつ……何とも不自由極まりない! ……そして《死》からも遁れられぬ……《存在》とは何と呪はれた《存在》なのだ! へつ! と自身の《存在》を嘲笑つたところで、やはり《吾》は《存在》する……くつくつくつ……そもそも《吾》は《吾》である事を望んでゐるのか? ……《吾》……この面妖なる《もの》……ちえつ……心臓は相変はらず鼓動してゐるぜ!』 
『……ふむ……常に伸縮せずにはゐられぬ……否……鼓動するように命ぜられてゐるこの心臓は……真の自身を知つてゐるのか……へつ……真の自身て何だ? まあよい……しかし絶えずその姿を変容させるこの心臓は……その鼓動を停止した時に初めて己の何たるかを知るのか……それ迄は絶えざる変容を強要される……哀れなる哉……吾が心の臓! ……動く事がそもそも《吾》を《吾》為らざる《もの》へと動かす原動力ではないか……若しくは時が移ろふ事がそもそも《吾》を《吾》為らざる《もの》へと誘ふ魔手なのではないか……ちえつ……下らぬ……そもそも《吾》が《吾》と呼んでゐる《もの》は《吾》には為り得るか……《吾》は無数の《異形の吾》の《存在》を前にして《吾》に戸惑ふ……か……《吾》の異形は無数に《存在》しやがる……けつけつけつ……例へばこの《吾》が意識すればたちどころに全て実現する魔法を手にしたとして……満ち足りるのは最初の一瞬だけに決まつてる……寝てゐるだけで全てが実現してしまふ世界なんぞ直ぐに飽き飽きするに決まつてゐる……謂はば《吾》は脳のみの《存在体》……つまり……《脳体》へと変容してしまふのさ……それは植物状態の人間と何も変はらぬ……すると《吾》は《吾》の《存在》を滅する事を願ひ出す外なく、否、どうあつてもこの《吾》なる《存在》の抹殺を成し遂げるところの宿願をたちどころに遂げて此の世から消える……意識の窮極の願ひは自ら滅する事に行き着くのが道理さ……しかし……《脳体》は《存在》か……』

…………
…………

ねえ、君、不思議だね。道行く人人は私の視界にその足下の《存在》を残し、その殆どの者とは今後永劫に出会ふ事はない筈さ。袖振り合ふも他生の縁とはいひ条、今生ではこの道行く人人の殆どと、最早行き交ふ事は未来永劫ある筈もない。この見知らぬ者だらけが《存在》する此の世の不思議。ところが、これら見知らぬ者達も顔を持つてゐる。それぞれが《考へる》人間として今生に面をもつて《存在》する。そして、彼等もまた《吾》以外の《吾》にならうと懊悩し、もがき苦しみ《存在》する。不思議極まりないね。全ての《生者》は未完成の《存在》としてしか此の世にゐられぬ。不思議だね。しかも《死》がその完成形といふ訳でもない。全ては謎のまま滅する。此の世は謎だらけぢやないか。物質の窮極の根源から大宇宙迄、謎、謎、謎、謎、謎だらけだ。ねえ、君、《存在》がそれぞれ特異点を隠し持つてゐるとしたなら、ふつふつ、僕は実際に《存在》たる《もの》はそれ自体矛盾である特異点を必ずその内部に隠し持つてゐると看做してゐるがね、しかも、その特異点は無数の《面》を持つて此の世に《存在》してゐる。人間の《面》は特異点の顔貌のひとつに違ひないね。へつ。特異点だからこそ無数の《面》を持ち、へつへつ、実際此の世に《存在》する《もの》全て己の内界を一度でも覗き込めば、其処に無数の《異形の吾》が棲息してゐる不気味さに驚愕する筈だがね、そして、《存在》たる《もの》は全て特異点を、無数の《異形の吾》の《面》として持ち得るのさ。己にもまた特異点が隠されてゐる筈さ。だから、此の世の謎に堪へ得るのさ。へつ、此の世の謎の探究者達は此の世の謎を《論理》の網で搦(から)め取らうと手練手管の限りを尽くしてゐるが、へつ、謎はその論理の網の目をひよいつと摺り抜ける。だから論理の言説は何か《ずれ》てゐて誤謬の塊のやうな自己満足此処に至れりといつた《形骸》にしか感じられない。ねえ、君、そもそも論理は謎を容れる容器足り得るのかね。どうも私には謎が論理を容れる容器に思へて仕方がない……。謎がその尻尾をちらりとでも現はすと論理はそれだけで右往左往し、
――新発見だ! 
と喜び勇んで論理は、その触手を伸ばせるだけ伸ばして何とか謎のその《面》を搦め取るが、へつ、謎はといふと既にその《面》を変へて、気が向いたらまたちらりと別の《面》を現はす。多分、論理は、特異点と渦とを、真正面から徹頭徹尾論理的に記述出来ない内は、謎がちらりと現はす《面》に振り回されつぱなしさ。だから尚更《存在》は特異点を隠し持つてゐると看做さざるを得ず、そして、渦を巻いてゐるに違ひない。私にはどうしてもさう思はれて仕方がないのさ。論理自体が渦を巻かない限り、謎は謎のまま論理を嘲笑つてゐるぜ、へつ。

…………
…………

不意に私の視界は真つ暗になつた。私と雪は神社兼公園となつてゐる鎮守の森の蔭の中に飛び込んだのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
彼の人は鎮守の森の蔭に入つて、私の視界が真つ暗になつた途端、その輝きを増したのであつた。街燈が灯つてゐる場所迄の数十秒の間、この歩道を歩く人波は皆、闇の中に消え、その《存在》の気配のみを際立たせて自らの《存在》を《他》に知らしめる外なかつたのである。闇に埋もれた《存在》。途端に何か得体の知れぬ《もの》の気配が蠢き出す闇の中、私は何とも名状し難い心地良さを感じてゐた。私は、それ迄内部に息を潜めて蹲つてゐた内部の《吾》が、ゆつくりと頭を擡げ正面を見据ゑたやうに、この闇を見据ゑたのであつた。前方数十メートル先の街燈から漏れる光で幽かに照らされた人波の群れが其処に動いてゐた以外、全ては闇であつた。見知らぬ他人の顔が闇に埋もれて見えぬ事の心地良さは、私にとつては格別であつた。それは闇の中で自身の《面》から解放された奇妙な歓喜に満ちた、とはいへ、
――《吾》は何処? 《吾》は何処? 
と突然盲(めし)ひた人がそれ迄目の前で見えてゐた《もの》を見失つて手探りで《もの》、若しくはそれは《吾》かもしれぬが、その《もの》を探す不安にも満ちた、さもなくば、《他》を《敵》と看做して、ひたすら自己防衛に身を窮する以外ない哀れな自身の身の上を噛み締めなければならぬ、何とも名状し難い屈辱感に満ちた、解放と不安と緊迫とが奇妙に入り混じつた不思議な時空間であつた。闇の中では人の山がのつそりと動いてゐた。それは再び視覚で自身を認識出来る光の下への遁走なのか? 否、それは自己が闇と溶け合つて兆す《無限》といふ観念と自身が全的に対峙しなければならぬ恐怖からの遁走といふべきものであつたに違ひない。若しくは、それは自意識が闇に溶けてしまひ、さうすると最早、再び自己なる《もの》が再構築出来ぬのではないかといふ不安からの遁走に違ひなかつたのであつた。闇の中の人波は等しく皆怯へてゐるやうに私には感じられたのである。その感覚が何とも私には心地良かつたのであつた……。何故かと言へば、闇の中では皆須く闇に《存在》を溶暗する外ないその《存在》の有様が、何やら複素数の虚数部が肥大化に肥大化を重ねて、虚数のみが闇といふ時空間に溢れんばかりに自己増殖をする、つまり、最早《吾》が《吾》である根拠を見失つて茫然とする外ない、その哀れな《吾》に縋り付く《存在》の醜さが不意に露はになるその瞬間の《快楽》を、《存在》たる《もの》はそれが何であれその《快楽》を味はひ尽くさずにはをれぬ阿片の如き《もの》を《吾》に見出してしまふ、即ち、《吾》が《一》者から解放される、若しくは《無限》に出会ふ《快楽》が堪らないに違ひないのであつた。
この闇と通じた何処かの遠くの闇の中で己の巨大な巨大な重力場を持ち切れずに《他》に変容すべく絶えず《他》の物体を取り込まずにはゐられず、更に更に肥大化する己の重力場に己自身がその重力で圧し潰され軋み行くBlack holeのその中心部の、自己である事に堪へ切れずに発され伝播する断末魔のやうな、しかし、自己の宿命に敢然と背き、自らに叛旗を翻し、そこで上げられるBlack hole自身の勝鬨のやうな、さもなくば自己が闇に溶暗する事で肥大化に肥大化を続けざるを得ぬ自己の宿命に抗すべく、何かへの変容を渇望せずにはゐられない自己なるものへの不信感が渦巻くやうな闇に一歩足を踏み入れると、闇の中では自己が自己である事を保留される不思議な状態に置かれる事に一時も我慢がならず、自己を自己として確定する光の《存在》を渇望する女女しい自己をぢつと我慢しそれを噛み締めるしかない闇の中で、《存在》は、「吾、吾為らざる吾へ」と独りごちて自己に蹲る不愉快を振り払ふべく自己の内部ですつくと立ち上がるべきなのだ。自己の溶暗を誘ふ闇と自己が自己であるべきといふ鬩ぎ合ひ。闇の中では《存在》に潜む特異点が己の顔を求めて蠢き始めるのだ。それ迄光の下では顔といふ象徴によつて封印されてゐた特異点が、その封印を解かれて解き放たれる。闇の中では何処も彼処も《存在》の本性といふ名の特異点が剥き出しになり、その大口を開け牙を剥き出しにする。この欲望の渦巻く闇、そして、《存在》の匿名性が奔流となつて渦巻く闇。私も人の子である。闇に一歩足を踏み入れると闇の中ではこの本性といふ名の阿修羅の如き特異点の渦巻く奔流に一瞬怯むが、それ以上に感じられる解放感が私には心地良かつたのである。私の内部に隠されてあつた特異点もまた、その毒毒しい牙を剥き出しにするのだ。無限大へ発散せずにはゐられぬ特異点を《存在》はその内部に秘めてゐる故に、闇が誘ふ《無限》と感応するに違ひない。しかし、一方では私は、闇が誘ふ《無限》を怖がつてぢつと内部で蹲り頑なに自身を保身する事に執着する自身を発見するのであるが、しかし、もう一方では、きつと目を見開き、眼前の闇に対峙し《無限》を持ち切らうとその場に屹立する自身もまた内部で見出すのであつた。とはいへ、《無限》は《無限》に対峙する事は決してなく、《無限》と《無限》は一つに重なり合ひ渾然一体となつて巨大な巨大な巨大な一つの《無限》が出現するのみである。私はこの闇の中で《無限》に溶暗し、私の内部に秘められてゐるであらう阿修羅の如き特異点がその頭をむくりと擡げ、何やら思案に耽り、闇の中でその《存在》の姿形を留保されてゐる森羅万象に思ひを馳せ、その《物自体》の影にでも触れようと企んでゐる小賢しさに苦笑するのであつた。
――ふつ。
確かに《物自体》は闇の中にしかその影を現さぬであらう。しかし、闇は私の如何なる表象も出現させてしまふ《場》であつた。私が何かを思考すれば、たちどころにその表象は私の眼前に呼び出される事になる。闇の中で蠢く気配共。気配もまた何かの表象を纏つて闇の中にその気配を現はす。それは魂が《存在》から憧(あくが)れ出る事なのであらうか……。パンドラの匣は闇の中で常に開けられてゐるのかもしれぬ。そして、そのパンドラの匣には魑魅魍魎と化した気配共が跋扈する。この闇の中で《存在》の下には《希望》なんぞは残される筈もなく、パンドラの匣に残されてゐるのは現代では《絶望》である。
――――ううううああああああああ~~。。
彼の人はゆつくりとゆつくりと螺旋を描きながら、何処とも知れぬ何処かへ向け飛翔を相変はらず続けてゐた。彼の人はこの闇の中にあつてもその姿形を変へる事なく、徹頭徹尾彼の人であり続けたのであつた。
闇。闇は《無限》を強要し、其処に卑近な日常の情景から大宇宙の諸相迄ぶち込む《場》であつた。闇の中では過去と未来が綯(な)ひ交ぜになつて、不気味な《もの》を眼前に据ゑるのだ。悪魔に魂を売るのも闇の中では私の選択次第である。ふつ。この解放感! 私はある種の陶酔感の中にあつたに違ひなかつた。《もの》皆全て闇の中に身を潜め、己の妄想に身を委ねる。それはこれ迄自身を束縛して来た《存在》からの束の間の解放であつた。《存在》と夢想の乖離。しかし、《存在》はそれすらも許容してしまふ程に懐が深い。《存在》からの解放なんぞは無駄な足掻きなのかもしれぬ。闇の中の妄想と気配の蠢きの中にあつても《存在》は泰然自若としてゐやがる。ちえつ。何とも口惜しい。しかしながら《存在》無くしては妄想も気配もその《存在》の根拠を失ひ此の世に《存在》出来ないのは自明の理であつた。

……………
…………… 

――お前は何者だ! 
ねえ、君、闇の中では闇に誰もがかう詰問されてゐるに違ひない。へつへつへつ。人間は本当のところでは自問自答は嫌ひな筈さ。己の不甲斐なさと全的に対峙するこの自問自答の時間は苦痛以外の何物でもないに違ひない。それはつまり自問する己に対して己は決して答へを語らず、また語れないこの苦痛に堪へなければならないからね。それに加へて問ひを発する方も、己に止めを刺す問ひを多分死ぬ迄一語たりとも発する事はないに違ひない。そもそも《生者》は甘ちやんだからね。へつへつへつ。甘ちやんぢやないと《生者》は一時も生きられない。へつへつへつへつ。それは死の恐怖か? 否、誰しも己の異形の顔を死ぬ迄決して見たくないのさ。醜い己! 《生者》は、生きてゐる事その事自体が醜い事を厭といふ程知り尽くしてゐるからね。君もさう思ふだろ? それでも《生者》は自問自答せずにはゐられない。をかしな話だ、ちえつ。

…………
…………

鎮守の森による闇といふ自身の《存在》を一瞬でも怯ます時空間の中で、此の世に《存在》する森羅万象は疑心暗鬼の中に放り込まれて猜疑心の塊になつてゐる筈であつたが、私はこの闇の中といふ奇妙な解放感の中で、尚も、「光が彼の世への跳躍台」といふ言質の周りで思考の堂堂巡りを重ねてゐたのであつた。
『……相対論によれば物体は光に還元出来る。つまり物体は《もの》として《存在》しながらも一方では摑みどころのないEnergie(エネルギー)にも還元出来る……もし《もの》がEnergieとして解放されれば……へつ……光だ! ……この闇の歩道を歩く人波全ても光の集積体と看做せるぢやないか! ……だが……《生者》として此の世に《存在》する限り光への解放はあり得ず、死す迄人間として……つまり……《もの》として《存在》する事を宿命付けられてゐる……光といふ彼の世への跳躍台か……成程それは《生者》としての《もの》からの解放なのかもしれない……』
と、その時、不意に歩道は仄かに明るくなり、再び満月の月光の下へ出たのであつた。
『……確かに《もの》は闇の中でも仮令見えずとも《もの》として《存在》するに違ひないが……しかし……《もの》が光に還元可能なEnergie体ならばだ……《もの》は全て意識……へつ……意識もまたEnergie体ならばだ……《もの》皆全て意識を持たないかな?  馬鹿げてゐるかな……否……此の世に《存在》する《もの》全てに意識がある筈だ……死はそのEnergie体としての意識の解放……つまり……光への解放ではないのか?』 
遂に歩道は神社兼公園の鎮守の森の蔭の闇から抜け、月光と街燈が照らし出す明かりの下に出たのであつた。雪は相変はらず何かを黙考してゐるやうで、私の右手首を軽く優しく握つたまま何も喋らずに俯いて歩いてゐた。私はといふと、他人の死相が見たくないばかりに、明かりの下に出た刹那、また視線を足元に置き伏目となつたのである。
『……それにしても《光》と《闇》は共に夙(つと)に不思議なものだな……ちえつ……《もの》皆全て再び光の下で私(わたくし)し出したぜ……《吾》が《吾》を見つけて一息ついてゐるみたいな雰囲気が漂ふこの時空間に拡がる安堵感は一体何なんだらう……それ程迄に私が私である事が、一方で不愉快極まりないながらも、もう一方では私を安心させるとは……《存在》のこの奇妙奇天烈!』
その時、丁度T字路に来たところであつた。私はSalonに行く前にどうしてももう一軒画集専門の古本屋に寄りたかつたので、そのT字路を右手に曲がつたのであつた。
――何処かまだ寄るの? 
と雪が尋ねたので、私は軽く頷いたのであつた。この道は人影も疎らで先程の人波の人いきれから私は解放されたやうに感じて、ゆつくりと深呼吸をしてから正面をきつと見据ゑたのである。
――あつ、画集専門の古本屋さんね?
と、雪が尋ねたので、これまた私は軽く頷いたのであつた。
其処は洋の東西を問はず、多分古本屋の主人の頭蓋内の闇に明滅する心象風景に呼応してしまつた絵画や、これまた古本屋の主人の魂に決定的な印象を与へてしまつた画集の数数等が、これまた古本屋の主人の魂の有様を映すやうに雑然と置かれてゐた、何やら古本屋の主人の頭蓋内にある或る部屋の中に迷ひ込んだやうな、一種独特の雰囲気を醸し出した古本屋であつた。それを更に例へて言つてみれば、古本屋の主人の頭蓋内に形作られてゐた迷宮都市が画集によつて再現されてゐるといつたやうな、人間誰しも持つてゐるに違ひない或る種の風狂さが直截表れてゐる、古本屋の主人の独特の性質が紡ぎ出した独自の世界観に彩られた古本屋であつた。私がその古本屋を最初に訪れたのは、「あつ、こんな所にも古本屋がある」と何気なくであつたが、しかし、その古本屋の店内に一歩足を踏み入れた刹那、私の魂は鷲摑みにされすつかり魅了されてしまつたのは言ふ迄もなく、途端にその古本屋は私の時間が許す限り必ず訪れないと気が済まない場所になつてしまつたのであつた。
その古本屋に入るや否や、私は雪を放つておいてヴアン・ゴツホとヰリアム・ブレイクと長谷川等伯と伊藤若冲の画集を棚から取り出し、渦巻く夜空が異様なヴアン・ゴツホの「星月夜」と、「天帝」とも呼ばれてゐる雲上の老ひた男が片手を地に向けCompass(コンパス)状に二条の閃光が放たれる「絶対者」と、幽玄至極な等伯の「松林図屏風」と、極彩色が凄まじい若冲の「鶏之図」を左から順番に平積みの雑誌等の上に拡げ並べて雪に見せたのであつた。
――何? 何か意味があるでしよ! 
と雪が訊ねたので、私は即座にMemo帳を取り出し、かう雪に切り出したのである。
――つまり、この四作品を左から眺めていつて、つまり、何か気が付かないかい? 
――そうねえ……ちよつと待つてね。
と雪は四枚の絵に見入るのであつた。雪の腕組みをしたその物腰は、傍から見てゐると見惚れる程に優麗で雪の心の美しさが自然と表れてゐるやうにしか見えなかつたのである。蛍光燈の明かりの下で改めて見る雪は実際に観音像が醸し出す柔和な雰囲気を纏ひ、そしとて、その柔和な表情が見る者の心を穏やかにさせるに相応しい美麗な面立ちをしてゐて、見れば見る程に美しかつたのであつた。
――それにしてもこの四作品は凄いわねえ。
と雪は嘆息したのであつた。さうである。この四人の作品はいづれ劣らず傑作ばかりであつた。雪が嘆息するのも無理からぬ話である。
――う~ん、私には良く解らないわ。唯、いづれの作品も凄いといふ事だけは解るけどもね。
――つまり、先づ、ヴアン・ゴツホの「星月夜」だけど、つまり、これは主観の世界かい? つまり、それとも客観の世界かい? 
――さうねえ、徹底した主観の世界だとは思ふんだけども……。
――つまり、さうだとすると、つまり、ヴアン・ゴツホは敬虔な基督者だけれども、つまり、この作品の創造主は神だと思ふかい? つまり、それともヴアン・ゴツホ本人だと思ふかい? 
――えつ! いきなりの質問ね。多分だけれどもね、この作品の創造主はきつと神よ。さうに違ひないわ。ぢやないと、ゴツホがこの絵を描き上げる前にゴツホ自身が滅んでゐるんぢやないの?  
――さうだね。つまり、この作品の世界の創造主は、つまり、ヴアン・ゴツホぢやなく、つまり、やはり神だと僕も思ふ。けれども、つまり、この渦巻く夜空は、つまり、どうした事だらう? 
――ゴツホには此の世の真理が朧げながら見えてしまつてゐたんぢやないかしら……。可哀相に! 
――つまり、此の世の真理に、つまり、朧げながらも触れてしまふ事を、つまり、君も可哀相だと、つまり、哀しい事だと思ふのかい? 
――ええ、私はさう思ふの。といふよりも、さう思へて仕方無いのよ。自分でもそれが何故だか解らないんだけれども、此の世の正覚者は全て大悲哀を背負つてゐるとしか思へないのよ。何故だか自分では解んないんだけどもね、うふふ。
――すると君は、つまり、このヴアン・ゴツホの作品は哀しい作品に、つまり、思へるんだね。
――ええ。
――つまり、僕もそれには、つまり、同感だ。
――――ううううああああああああ~~。。
――なぜかしらねえ? 此の世に《存在》する事自体が悲哀だと思つてしまふの。私の悪い癖ね。でも、悲哀が《存在》の原形質の一つだと思うのよ。
――つまり、この絵は途轍もない切迫感が、つまり、迫つて来るよね。つまり、この絵はこの世界を創つた創造主への、つまり、ヴアン・ゴツホなりの問ひ、つまり、それもヴアン・ゴツホの全《存在》をかけての、つまり、痛切な問ひだつたんぢやないかと思ふんだがどうだい? 
――問ひねえ……。其処には自身の《存在》に対する疑念が含まれてゐたのかしら。
――しかし、つまり、ヴアン・ゴツホには、つまり、夜空がこの様にしか見えなかつたんだらう。つまり、其処迄ヴアン・ゴツホは追い込まれてゐた。つまり、其処には底知れぬ諦念があつた筈だよ。
――諦念? 何に対する諦念? 
――つまり、自身の《存在》に対する諦念! つまり、多分、ヴアン・ゴツホは己の《存在》を呪つてゐた筈だ。つまり、生涯でたつた一枚の絵しか売れなかつたヴアン・ゴツホが、つまり、それでも創作活動を続けた、つまり、その途轍もない原動力は、つまり、己の《存在》に対する、つまり、呪詛以外あり得なかつたんぢやないかな。つまり、そんな己を《存在》させた、つまり、神への問ひしか、つまり、最早、つまり、ヴアン・ゴツホには残つてゐなかつたに違ひない。
――その問ひは、懊悩に懊悩を重ねた末の最後の一縷の望みを此の世に繋ぎ止めるための呻きに近かつたんぢやないかしら? 
――つまり、それでも神に、つまり、問はずにはゐられなかつたヴアン・ゴツホは、つまり、途轍もなく哀しい《存在》だね。つまり、荒涼としたヴアン・ゴツホの内界を、つまり、神にぶつけてみて、つまり、神の答へ、つまり、それがこの「星月夜」だつたんぢやないかと思ふ。つまり、夜空で渦巻く、つまり、月や星星は、つまり、ヴアン・ゴツホの《存在》を映したものに違ひないと思ふがね。つまり、渦を巻く事で、つまり、辛うじて《存在》が《存在》を、つまり、保てたんぢやないかな。
――渦は中心を持つわね。きつとゴツホは《存在》の中心を創造主たる神に問ふたのね。己が《存在》に中心はあるのかと。渦を巻く以外には最早《存在》はゴツホにとつて瓦解した《もの》だつたんぢやないかしら。吾は此の世に《存在》するに値する《存在》であつたのかと。ゴツホの全《存在》をかけての問ひだつた気がしないでもないわね。
――つまり、無限大、∞。つまり、ヴアン・ゴツホもまた、つまり、無限大といふものに、つまり、直感的に触れてしまつたのかもしれぬ。
――唐突に何? 無限大つて、あのさつきの無限大次元だつたかしら。その無限大次元の無限大? 
――さう。つまり、神の問題を突き詰めると、つまり、どうあつても、つまり、無限大に行き着いてしまふのが自然の道理さ。つまり、実際に夜空を渦巻くやうにしか描けなかつたヴアン・ゴツホもまた、つまり、無限大に触れてしまつたに違ひない。
――無限大に触れるつて? 
――つまり、一般に時空間は、つまり、四次元として誰しも認識してゐるから、つまり、仮に無限大次元でしか認識出来ないとすれば、つまり、ヴアン・ゴツホの「星月夜」のやうな世界が、つまり、描かれるしかない。つまり、世界はさうとしかあり得ないんだ、多分、ヴアン・ゴツホにとつては特に。
――――ううううああああああああ~~。。
赤の他人の彼の人は相変はらずゆつくりと渦を描きながら、私の視界の中の何処とも知れぬ何処かへと飛翔を続けてゐたのであつた……。
――ねえ、無限大次元では全てが渦に収束するのかしら? 
――さうだね。つまり、僕個人の考へではさうとしか考へられない。つまり、全ての《存在》は渦へと収束する。
――ぢやあ、世界を無限大次元で忠実に描写すると正にゴツホの「星月夜」のやうにしかならないつて事ね。
――さう! 
――何となくだけど、あなたが言つてゐる無限大次元が解つたやうな気がするわ。
――さうか。つまり、無限は神に通じてゐるのさ。
ここで私はブレイクの絵を指差し、雪に見るやうに促したのであつた。
――つまり、無限が神に通じる事が、つまり、このブレイクの絵で逆説的にではあるが、つまり、具現化されてゐると思ふが君はどう思ふ?
――う~ん、何をおいてもこの絵は峻厳な絵ね。この絵は「Europe a Prophecy(ヨーロツパ 一つの預言)」の口絵になつてゐる絵でしよ? 
――さう。つまり、かうしてブレイクは無理矢理にでも、つまり、無限なるものを封印せざるを得なかつたのかもしれぬ。
――無限を封印? この絵は無限の具現ぢやないの? 
――つまり、この絵に限らないんだけれども、つまり、ブレイクにとつては、つまり、無限は球状の火の玉に封印され、つまり、人間なるものが《存在》するこの世界の開闢が、つまり、宣告されてゐるやうにも見えるけどね。
――世界の創造ね。
――つまり、この絵には人間《存在》の業が集約されてゐる。つまり、ブレイクはどうあつてもこの世界の謎を、つまり、何としても解き明かし、つまり、認識し尽くしたかつたに違ひない。つまり、その結果として、つまり、必然としてブレイクは世界創造の神話的な物語風の詩を、つまり、書かざるを得なかつたのさ。つまり、此の世は封印された無限の上に築かれた泡沫の夢さ。
――この絵が泡沫の夢? う~ん、さうかもしれないわね。此の世が泡沫の夢であるが故にこの峻厳な絵で世界の開闢を刻印したのね。
――さうかもね。つまり、ブレイクにとつて無限の封印を解いて、つまり、世界の開闢を宣告するにはこの絵のやうな、つまり、神話的な人格の具現でしか表現できなかつた。つまり、それは神とも呼ぶべき《存在》の創出さ。つまり、初めに神ありき。つまり、基督教が支配する世界では全てが神から始まつてゐる。
――さうね……。でもそれつて結局のところは、主体のごり押しに終始するんぢやないかしら。
――さう、つまり、神は主体の理想から一歩も抜け出られない。つまり、それが神の物語たる神話であらうが預言であらうが聖書であらうが、つまり、主体自らの手で徹頭徹尾書き記さずにはゐられない。つまり、それは詰まる所、つまり、神に託(かこつ)けて主体がしやしやり出ずにはゐられない哀しい《存在》なんだ、つまり、主体はね。つまり、主体は世界の中心に《存在》する事になる。しかし、これは、つまり、ある意味主体に苦悩しか齎さない。つまり、《無》がない事の不自由さとでも言つたらいいのかな。つまり、それは主体の暴走を《絶対存在》を創造する事で主体自ら呪縛する外ない。つまり、其処にはそれはそれは深い深い懊悩が隠されてゐる筈さ。つまり、そこにもし神といふ《存在》がなかつたならば、つまり、主体は、つまり、未来永劫救はれない。つまり、徹頭徹尾主体が主体の主人といふ事は、つまり、それはある意味地獄絵図だ。つまり、それを見ないための基督の磔刑像さ。そして、つまり、其処に残されるのは、つまり、自堕落で憐れな自己が現出するのみさ。ふつ、つまり、自己実現出来たらそれで仕舞ひのちつぽけな主体が其処に《存在》するだけだ。つまり、これは矮小化されてはゐるが、つまり、他力にも通じるところがあるんだが、絶対の神の思し召しによるといふ、つまり、絶対的な神に抱かれ高みに昇る信仰がなければ、つまり、主体は主体を超克なんぞ出来やしない。
――他力? 基督教にも他力の要素はあると思ふの? 
 私は其処で軽く頷いたのであつた。
――つまり、其処には大いなる矛盾があるんだが、つまり、彼等は一方で絶対の神への信仰を抱きながら、つまり、一方で主体絶対主義といつたら良いのか、つまり、地上の王は主体なんだ。つまり、それは懊悩以外齎さない。つまり、《無》を、《無》といふ《無限》を認めない不自由極まりない《存在》として、つまり、主体は此の世に《存在》しなければならぬ。つまり、それは哀れだよ。
――哀れ? 
――さう、哀れさ。つまり、其処で他力のやうに絶対の神に身を委ね、つまり、一時の平安を得てゐるのさ。つまり、これは哀れとしか言いやうがない。
――――ううううああああああああ~~。。
 私は暫く口を噤み瞼を閉ぢて、瞼裡の虚空と赤の他人の彼の人を凝視したのであつた。しかし、それも一瞬の事で、私は再び目をかつと見開きMemo帳にかう記したのであった。
――つまり、基督に全てをおつ被せて、自身は平安の安息の中に安らぐ矛盾を、つまり、矛盾と気付かずに、つまり、主体絶対主義の下に生きる。つまり、僕からすると、つまり、そんな生き方は哀れ以外の何物でもない。
――でも、平安が得られるのであれば、それはそれで幸福なんぢやないかしら。
――さうだね。つまり、神に抱かれての平安は、つまり、それはそれで幸福だ。しかし、このブレイクの絵に平安はあるかな? 
――これつぽつちもないやうに見えるけれど……。
――つまり、恐怖を感じないかい? つまり、胸に突き刺さる恐怖を? 
――う~ん、さうね、さう言はれればこの絵は恐怖を掻き立てるかもしれないわね。
――つまり、恐怖がなければ主体は、つまり、増長する馬鹿な生き《もの》だ。つまり、主体が主体を統治する装置として、つまり、恐怖は必須の条件さ。つまり、多分、ブレイクには、つまり、平安はなかつたんぢやないかな。
――どうしてさう思ふの? 
――つまり、ブレイクにとつて自身は、つまり、度し難い、何とも名状し難い《存在》だつたやうな気がするのさ。何となくだけどもね。
――弁証法ではどうしようもないものをブレイクは見てしまつたやうな気がするの。
――つまり、無限さ。
――無限ね……。
――つまり、ブレイクにとつては初めに無限ありきのやうな気がするんだ。つまり、先づは無限を何としても鎮めない事には、つまり、一歩も主体は前に進めない。つまり、有限が無限を退治する苦悩――これはどう仕様もない! 
――有限が無限を退治する苦悩? 
――さう。つまり、主体はどう足掻いても有限だ。つまり、初めにLogos(ロゴス)があつてしまふ西洋において、ブレイクは、つまり、自身の身の置き所がなかつたんぢやないかな。つまり、だから、ブレイクの作品は絵巻物のやうに言葉と絵が混在してゐる。つまり、ブレイクにとつてはさういふ形式しか取りようがなかつた。
――さうね。私もさう思ふわ。
――つまり、絵に無限を閉ぢ込める。しかし、
と、私はここでMemo帳から目を上げ、表向きはぼんやりと本棚の画集群の背表紙を眺めながらも内部に拡がつてゐる虚空を凝視し、暫く沈思黙考したのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
暫くすると雪が、
――渾沌……。陰陽魚太極図……。ブレイクの無限を閉ぢ込めた火の玉の卵殻の形をした絵は陰陽魚太極図に通じてないかしら? 
と言つたので、私は軽く頷いたのであつた。そして私は蛍光燈の明かりをぼんやりと眺めながら、無限について思ひを巡らせたのであつた。

…………
…………

ねえ、君。無限について思ひを巡らすなんて愚かな事だね。
 例へば、
――無限とは何ぞや? 
と自問自答したところで何にも出て来やしない。無限は無限のまま、相変はらず有限の主体をせせら笑つてゐる。しかしだ。有限の主体はそれでも無限を問はざるを得ない哀しい生き《もの》だ。
 尚も、
――無限とは何ぞや? 
と主体は自問自答を敢へてするしかない。哀しいね……此の世に《存在》する森羅万象は……。

…………
…………
 
私はブレイクの絵を一瞥しては瞼を閉ぢ、そして、陰陽魚太極図を脳裡に思ひ浮かべては黙考を繰り返すのであつた。雪もまた暫く何かに思ひを巡らし沈思黙考してゐるのである。
 すると不意に私の頭蓋内の闇の中に、
――人は麺麭(ぱん)のみに生きるに非ず……。
といふ声が厳かに響き渡つたのであつたのであつた。私はゆつくりと瞼を開け、ブレイクの絵を凝視したのであつた。
――人は麺麭のみに生きるに非ず……。

…………
…………
 
ねえ、君。確かに人は麺麭のみに生きるに非ずだね。これは間違ひない。だつて、人は自身の生に何か理由付けしないとこれつぽつちも生きてゐられやしないぢやないか。
――私は何の為に生きる? 
 この言葉が世界に満ち満ちてゐる。誰しもが自分の人生について何かしらの思ひを馳せ、『私は何の為に生き《存在》してゐるのか?』と、絶えず自問自答してゐる。麺麭を得るのにき汲汲としてゐる生活はそれはそれで物凄く充実してゐる人生に違ひないが、しかし、一度、
――私は何の為に生きてゐる? 
といふ陥穽に捉へられると、もう其処から一歩も身動き出来なくなつてしまふ。その満たされる事のない自身の難問を解かう、と或る者はそれを信仰に求め、或る者はそれを物欲に転換して心なる不思議なものを満たさうとするが、詰まる所、正覚でもしない限り、その答へは見つかりつこない。それは死んでも尚解らないままに違ひないのだ。
 ねえ、君。そもそも心は満たされるものなのだらうか。麺麭が十二分に得られたからといつて、心はちつとも満たされる事はない。そこで手つ取り早く《他者》をひつ捕まへて《自己》を満たさうとするが、しかし、《他者》もまた満たされぬ心を持つ宿命にあるので、傍から見るとどうしても《自己》と《他者》は傷を舐め合つてゐるやうな奇妙な状態に置かれる事になる。それは《他者》に対して非礼な振舞ひだ。それは《自己》を満たすためにのみに《他者》を利用してゐるだけだからね。
――人は麺麭のみに生きるに非ず……。
 ねえ、君。君はこれをどう思ふ? 私は前にも言つたが、私は私自身をして己に喰はれる食物以下の下等な生き《もの》だと看做してゐるが、しかし、それでも今の無為な唯死を待つのみの日日を送つてゐると、やはり、
――人は麺麭のみに生きるに非ず……。
といふ難問と向き合はざるを得ない。多分、これは生に対する或る種の免罪符なのかもしれぬがね。しかし、どうあつてもこの難問には向かひ合はざるを得ないのだ。多分、それに対する答へはないだらうがね。しかしだ、人一人此の世に生きたのだ。この事実は消せない筈だ。へつ、だが、私には胸を張つて、
――俺は生きた! 
と言へやしない。どうしても言へないのだ。何故だらうね? 君には解るかい? この口惜しさが! 

…………
…………

『さうか。ブレイクはこの作品といふものを此の世に残した御蔭で今生きてゐる私は既に死んで久しいブレイクの何かに触れたやうな気にさせてくれる。有難い事だ。
等と、私は思ひながらブレイクの絵を凝視してゐたのであつた。
――人は麺麭のみに生きるに非ず。そして、人は死後も何らかの形で生を繋げる! このブレイクの作品が好例ぢやないか! これは複製だけれども、ブレイクの手によつて作り上げられた作品が今を生きる私の眼前にあつて、私はそれを鑑賞出来るぢやないか。ブレイクの詩がブレイクの死後であつても今を生きる私に読めるぢやないか! 此の世に一度《存在》してしまつたものは、何であらうがその死後もその《存在》の証を何らかの形で残す。《精神》のRelay! はつはつ』
等と思ひながら、尚も私は感慨深げにブレイクの絵を凝視するのであつた。
すると、
――ねえ、ブレイクにとつて無限つて何だつたのかしら? 
と、不意に雪が訊ねたのであつた。
――つまり、《存在》の淵源にして、つまり、究極の目標だつたんぢやないかな。つまり、ブレイクは無限を渇望せざるを得なかつた。つまり、それを宿命と名付けるんだつたならばだ、つまり、宿命としか言ひやうがない。実際のところは、僕には良く解らないんだけれどもね。
――さうね。私も実のところ良く解らないの。えへつ。でも、ブレイクの絵には魂を衝き動かす衝迫力といふのか、何か不思議な力を感じるわ。
――さうだね。
と、Memo帳から目を離し、私はブレイクの絵を凝視するのであつた。
『……何なのだらうか……。この時代をいとも簡単に飛び越えてしまふ力の源は!』
と思ひながら私はゆつくりと瞼を閉ぢるのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
 赤の他人の彼の人は相変はらず、何処とも知れぬ何処かへと向かつてゆつくりと旋回しながら虚空を飛翔してゐたのであつた。彼の人もまたブレイクと同じやうに、死んでも尚、生者の魂を衝き動かさざるを得ない何《もの》かを此の世に残して死んで逝つたのだらうか……。
――つまり、ヴアン・ゴツホもブレイクも主体が持つただならぬ狂気といふのか、つまり、表現せざるを得なかつた、つまり、魂の叫びのやうなものが全的に表現されてゐる。それと較べると、つまり、この長谷川等伯の絵はどうだね?
――う~ん、さうね、何となくだけれども無私な感じがするわ。ゴツホやブレイクとはある意味対極に位置するやうな気がするの。でも、この松林図は等伯の心象風景よね。……人間て……不思議ね。
――この絵は、つまり、徹頭徹尾等伯の主観だね。すると、ヴアン・ゴツホやブレイクと等伯の違ひは何だと思ふ? 
――う~ん、難しい質問ね。うふつ、それが解つてゐれば大学者になつてゐるわよ、うふつ。でもEgo(エゴ)と滅私の違ひぢやないかしら? いや、違ふわね……。
と言つたきり、雪は口を噤んで等伯の画を凝視するのであつた。その蛍光燈の明かりで隈どられた雪の横顔は尚更何とも言へずに美しかつたのである。
――この寂寞とした静寂さは何なのかしら……。
と雪の口から感嘆の言葉が漏れ出たのであつた。
――つまり、無常の恒常といふのかな、これは。
――無常の恒常? 面白い表現ね。さうね。この画には無常なるが故の恒常が画かれてゐるのかもしれないわね。
――つまり、こんな言葉は無いんだけれども敢へて言へば、つまり、等伯は勿論、若冲もさうなんだけれども、心鏡の画だね。
――心鏡? どういふ事? 
――つまり、字義そのまま、心の鏡といふ事だよ。
――心の鏡……ね、さうね、正に心の鏡ね。心鏡か……。
と、その時、不意に私の視界の周縁を小さな黒い影がふわりと横切つたので、私は思はず眼を上げその影の方を見ると、蛍光燈の明かりに誘はれて店内に一匹の蛾が迷ひ込んでゐたのであつた。
『飛んで火に入る夏の虫』
――ねえ、この画に見入つてゐると自分の心が映るの。不思議ね。等伯はどうしてこんな画が画けたんだらう……。不思議……。
 私は少し微笑んでから首を横に振つて、解らないといふ合図を雪に送つたのであつた。
――不思議ね……。
――ねえ、つまり、この画を見てゐると、どうあつても等伯の人生に思いを馳せざるを得ないと思はないかい? 
――さうね……、この境地に至るまでには、それはそれは言葉では言ひ尽くせない途轍もなくとんでもない人生を歩んで来たのは間違ひないわね。
――つまり、確かに等伯の人生は不幸そのものだつたね。それが、つまり、この松林図に昇華されてゐる気がする――。
――私が知る限りだけれども、確か等伯は息子は亡くしてゐるし、右手も不自由になつたし……。等伯の人生は、その画業に反して不幸そのものね……。
――でも、つまり、等伯の人生なんぞ何も知らなくても、この松林図は、つまり、何か透徹した凄味が垣間見えてしまふと思はないか? つまり、見る人の魂を串刺しにしてしまふ凄味が。つまり、この松林図を画かずにはゐられなかつた等伯の思ひは如何ばかりであつたか――。つまり、この松林図は徹頭徹尾己の為にのみに画かれてゐるやうな気がするんだ。しかし、それが無私になる。つまり、東洋的だといふ一言では片付かない何かがこの画には秘められてゐる。つまり、何と言つたら良いのか――、無我の境地、つまり、しかもそれは徹頭徹尾己に拘り続けた末に、つまり、幽かに垣間見えたかもしれない無我の境地――。つまり、何なのか、この松林図は! 
――さうね。この画は見る者の魂をぎやふんと言はせる何か迫力があるわね。無私なるが故に、見る者には敵はない何か突き詰めた思ひが迫つて来るわね。ゴツホやブレイクと違つて直截的ではないけれども、後からじわじわと迫つて来る主観なる《もの》の物凄さがこの画には宿つてしまつてゐるわね。
――つまり、生者の前に厳然と立ちはだかる巨大な壁。つまり、「どうだ、この画の前では身動ぎも出来ぬであらう!」といつた等伯の声が聞こえて来るやうだ。つまり、「さあ、この画を乗り越えられるんだつたなら乗り越えてみるんだな、へつ」というやうな等伯の声が聞こえて来さうな気がする。つまり、この画はもしかすると、現在を生きる生者にとつての《躓きの石》なんぢやないかな。つまり、敢へて言へば先達が残した作品は、それが何であらうと、つまり、それを超えようとする現代人にとつての《躓きの石》でしかないのかもしれぬ――。しかし、つまり、それらを知つてしまつた以上、つまり、現代人はそれらを超克せねば気が済まぬ宿命を負はされる。否、負はなければならない。つまり、さうぢやなければ先達に失礼だと思ふんだが、君はどう思ふ? 
――さうすると……、あなたは先づ第一に先達の作品の否定から現代人は始めろといふ事を言ひたいのかしら? 
――否、それは違ふ。つまり、先達の作品を認めた上で、それ以上のものを作り上げる努力といふのか、絶望といふ茨の道を歩まざるを得ない。つまり、人類も歴史を持つ以上、先達に負けず劣らぬ何ものかを創造する宿命を負つてゐる。
――宿命ね……。それは宿命なのかしら? 過去を超克しようなどと思はなければ、それはそれで何の事はないんぢやないの? 
――それはさうだけれども、しかし、つまり、眼前に人間の業(わざ)なる途轍もなく物凄い《もの》があつて、つまり、それに睨まれたとしたならば、その人間は尻尾を巻いて逃げて、つまり、それで仕舞ひで済むと思ふかい? 
――さあ、解らないわ。
――つまり、敗北感と屈辱の中で、つまり、人間は一生を平気で過ごせるものなのだらうか? つまり、人間といふ《存在》の業(ごふ)がそれを許すと思ふかい? 
――さうね、中にはそれで済んぢやう人間もゐると思ふけれども、何糞つとそれに立ち向かふのが多数の人間ぢやないかしら? 
――つまり、僕も君もヴアン・ゴツホに、ブレイクに、等伯に、若冲に今睨まれてゐるんだぜ。さあ、どうする? 
――うふつ。
――つまり、人間、この度し難い《存在》めが! 
――うふつ。
――つまり、時代を超えて生き延びた、つまり、人類の遺産の如き古典といふ傑作の数数を前に、怯まずにくつと前を向いて、つまり、倦まず弛まず現在を生きるのは、さて、困つた事に、つまり、如何ともし難く、度し難い状況を生きる事に等しい。つまり、堂堂巡りになつてしまふが、つまり、そもそも《存在》とは何ぞや? 
――うふつ。あなたはその《存在》をどう思ふのかしら? 
――つまり、それが良く解らないんだよ。
――うふつ、解らないから生きてゐるんでしよ? 多分生者であれば正覚者以外誰も解らない筈よ。
――つまり、それでも生者は問はずにはゐられない。そこで、つまり、この若冲の鶏の極彩色の画だ。君はどう思ふ? 
――さうね。無心の画のやうな気がするわ。
と、雪が言ふのを聞きながら私は若冲の画を凝視するのであつた。
 成程、若冲のこの鶏の画は無心の画に違ひない。しかし、この画には魂魄が宿つてしまつたやうな不気味な《存在》感が漂つてゐる。それは《存在》といふ《もの》の不気味そのものであつた。若冲はカントのいふ《物自体》にそれとは知らずに触れようとしてゐたのであらうか。この妖気すら発するこの鶏の画は、一体全体どうした事であらうか……。
――つまり、この画は、つまり、ドストエフスキイ言ふところの魂のRealism(リアリズム)だとは思はないかい? 
――さうね、魂のRealismね……。さうね、《物自体》が持つ《存在》の不気味さが漂ふ何とも表現し難い画ね。
――《物自体》の不気味さ? つまり、実は僕もさう思つてこの画を眺めてゐたんだ。やはり君もさう思ふか――。
――さう。ブレイクの「The Tyger」(「虎」)にも通じるわね。

「The Tyger」
Wlliam Blake著

Tyger Tyger. burning bright,
In the forests of the night;
What immortal hand or eye,
Could frame thy fearful symmetry?
In what distant deeps or skies.
Burnt the fire of thine eyes!
On what wings dare he aspire!
What the hand, dare sieze the fire?
And what shoulder, & what art,
Could twist the sinews of thy heart?
And when thy heart began to beat,
What dread hand? & what dread feet?
What the hammer? what the chain,
In what furnace was thy brain?
What the anvil? what dread grasp,
Dare its deadly terrors clasp!
When the stars threw down their spears
And water'd heaven with their tears:
Did he smile his work to see?
Did he who made the Lamb make thee?
Tyger, Tyger burning bright,
In the forests of the night:
What immortal hand or eye,
Dare frame thy fearful symmetry?


「虎」――拙訳
虎よ、虎よ、燃え上がる光輝、
その夜の森に、
如何なる不滅の手と眼が、
汝の震撼する程の均斉を創り得るのか?

どれ程の空空の深度若しくは高度迄。
汝の眼は燃え上がつたか? 
如何なる程の迅速さを彼は敢へて熱望するのか? 
如何なる手が、敢へてその炎を捉へるのか? 

更に如何なる肩が、如何なる術が、
汝の心の臓の筋肉を捩る事が出来得るのか? 
更に汝の心臓が拍動を始めた時、
如何なる恐ろしき手が? 如何なる恐ろしき足が? 
如何なる槌が? 如何なる鎖が? 
如何なる窯の中に汝の脳はあつたか? 
如何なる鉄床が? 如何なるものが? 恐ろしき程に握るのか、
その死する程の恐怖を敢へて握るのか! 

星星が自身の槍を投げ降ろした時
更に自身の涙で天を水浸しにした時、
彼は笑つて自身の御業を観たのか? 
子羊を創りし彼が汝を創つたのか? 

虎よ、虎よ、燃え上がる光輝、
その夜の森に、
如何なる不滅の手と眼が、
汝の震撼する程の均斉を創り得るのか?

――言ひ得て妙だ。本当にさうだね。つまり、ブレイクの「虎」だ。この異様さは――。
――でも、本来《存在》するとは異様な《もの》なんぢやないかしら。異様だからこそ何人の心を摑んで離さないのよ、《存在》は……。
――つまり、君も《存在》は異様だと思ふんだね。
――異様ぢやなくて何故《存在》は《存在》出来るのよ、うふつ。《存在》に魅せられたらもう《存在》から目が離せなくなるわね、この若冲のやうに。
――つまり、これつて特異点の不気味さなのかもしれない――。つまり、若冲の画は客体に至極執着してゐるけれども、つまり、一方で自在感も感じられる。つまり、この相反する《もの》が画として結実してゐるんだが、つまり、それを無限迄引き延ばすと、つまり、どうあつても特異点の問題になる。つまり、若冲の画から漂ふ不気味な妖気は、つまり、特異点の不気味な妖気に通じてゐる。君もさう思はないかい? 
――特異点の問題かどうかは解らないけれども、確かに若冲の画には執着と自在の二つが混在してゐるわね。これつて正に渾沌の画だわ。
――つまり、それでも《もの》だから姿形は保持してゐる。不思議だね。つまり、それは更に何処かしら滑稽ですらある。
――若冲の画は客体と主体の戯れね。どちらも捕捉出来るやうに見えて不可解極まりない。不可解極まりないから最早其処から一時も目が離せなくなる。そして、若冲はその不可解極まりない事をむしろ楽しんでゐるやうにも見えなくもない。
――つまり、それは特異点の罠さ。つまり、若冲は直感的に特異点の不思議を感じ取つてしまつたんぢやないかな。つまり、《存在》の不思議に魅せられてしまつた。そして、其処から一生抜け出せなくなつてしまつた。つまり、絵画三昧の人生だ。
――それにしても若冲の画にはどう見ても厳格なる創造主はゐないわね……。
――等伯の画にもね。
私は若冲の画を凝視しながら、
――神は細部に宿る……。
等と思ひながら、鶏を写生すればする程、当の鶏なる《存在》はあつかんべえをして若冲の筆先から逃げ果(おほ)せてしまふ《存在》に対する屈辱といふのか無力感といふのか、追つても追つても逃げ果せる《存在》といふ如何とも度し難い《もの》を、それでも追はずにはゐられない人間の業の哀しさが若冲の画には漂つてゐるやうにも思へるのであつた。
――つまり、絶対的な縦関係と、つまり、相対的な横関係の違ひだね。
――えつ、何? さうか、絶対的と相対的な神関係か……。ゴツホとブレイクにとつては神は絶対的な《存在》であるといふ事が基本としてある世界認識上での絵で、等伯と若冲は神《存在》は主体と相対的にしか《存在》しない世界認識の結果、こんな画が画けたのかもしれないわね……。
――つまり、等伯と若冲の画にも、つまり、神、若しくは仏は《存在》してゐると思ふかい? 
――う~ん、神仏習合が等伯にも若冲にも当て嵌まるんだつたならば、当然等伯にも若冲にも神仏は《存在》してゐた筈よ。特に若冲の画は鶏といふ名の神的な《存在》と戯れてゐる感じがするわ。
――鶏といふ神的な《存在》と戯れてゐるか――。でも、実際のところ、つまり、本当にさうだつたのだらうか? つまり、神との戯れでこんな奇想天外な画が画けると思ふかい? 
――さうね、戯れはおかしいわね。格闘ね。若冲は鶏といふ神的な《存在》と傲岸不遜にも徹底的に格闘してゐたのね……。
――そして、つまり、己とも格闘してゐた。つまり、等伯も若冲も己とも格闘してゐたに違ひない。つまり、さうぢやなきやこんな画が画ける訳がないよ。つまり、等伯と若冲の画からは、つまり、森羅万象に数多の神が宿つてゐる、つまり、根本思想のやうなものが滲み出てゐるやうな気がする。つまり、何処にでも神や仏は《存在》してゐる。つまり、勿論、己の中にもね。つまり、等伯も若冲もヴアン・ゴツホやブレイクと同じやうに、つまり、絶えず神とは仏とは何ぞやと問ひ続けてゐたに違ひない。しかし、つまり、ヴアン・ゴツホやブレイクとは、つまり、根本的に世界認識の仕方が違つてゐる為に、これ程凄い画が画けたやうな気がするんだが、君はどう思ふ? 
――でも、ゴツホやブレイクと何処かでは繋がつてゐると思ふの、等伯も若冲も……。それぢやなきやゴツホが浮世絵に魅かれる筈はないわ。それにブレイクも絵と文字が混在した東洋的な画風で絵を描きつこないもの。きつと彼等にも共通する普遍的なものは《存在》してゐたと思ふの。
――つまり、それでもヴアン・ゴツホやブレイクの作品から受ける印象と、つまり、等伯と若冲から受ける印象が全く違つてゐるのは何故だい? 
――さうね、やつぱり絶対的な神関係と相対的な神関係の違ひぢやないかしら? 
――でも、つまり、四人ともに神、若しくは仏は《存在》してゐるね。つまり、それが共通点、つまり、普遍的な《もの》なんぢやないかな。
――さう! そうね。絶対的と相対的といふ違ひはあるけれども、四人ともに神または仏が世界に《存在》してゐた……。そして、その神ある世界に魅せられた故に絵を描かざるを得なくなつてしまつたんだわ。つまり、如何ともし難い《存在》に魅入られてしまつたんだわ。何としても自分の手でこの世界といふ何とも不可思議な《存在》が数多《存在》してしまふこの世界といふものを一度握り潰して、そして世界を再創造し直してみたかつたんぢやないかしら。其処には神への対抗心もきつとあつた筈よ。しかし、さすがは神ね。ゴツホもブレイクも等伯も若冲も簡単に一捻りされてしまつて、神、若しくは仏性はその素顔を決して見せる事はなかつたのね。それでも彼等はこの如何ともし難い世界と格闘せずにはゐられなかつた。それは哀しい人間の業ね。
――つまり、きつと彼等は絵を描く事で、つまり、自在感なるもののその片鱗を、つまり、一度は味はつてしまつたやうな気がする。つまり、この自在感なるものが曲者で、つまり、世界を思ひのままに描く事が出来る愉悦、つまり、絵を描く事即ち世界の創造に、つまり、無謀にも自在感なるものを味はつてしまつた事で挑まざるを得なくなつてしまつた。つまり、其処には《存在》に対する恐怖なるものも必ず《存在》してゐて、つまり、頼れるのは己の技量のみ。そこでだ、つまり、彼等は神、若しくは仏性ある世界に一度は大敗北を喫する。其処では、つまり、自在感が徒となる。つまり、それは底無しの陥穽だ。どう足掻いても、つまり、その底無しの《存在》といふ陥穽から抜け出せない。さうすると、つまり、己を全的に世界にぶつけてみるしかない。つまり、其処でますます世界に対峙するべく、つまり、己の絵の世界に没頭して行く事になる。つまり、其処は無明の闇さ。つまり、試行錯誤を何度も何度も繰り返して、つまり、世界といふ不可思議な《存在》を吾が《もの》にしようともがき苦しむ事になる。つまり、それでも世界は知らん顔だ。つまり、神も仏も一度たりともその素顔を明かさない。つまり、それでもこの手で世界といふ不可思議な《存在》を、つまり、一度握り潰して再創造してみたくて仕様がない。困つたものだね、人間の業といふのは――。
――うふつ、どん詰まりのところでは結局、自身はあなたの言ふ鏡、世界を映す鏡になるしかなかつたのね。つまり、心鏡ね。どう人間が足掻いても世界はその断片しか見せてくれない。つくづく人間《存在》つて哀れな《存在》ね……。
――つまり、絵を描く事に没頭するといふ、つまり、飽く事なき《存在》の探究、つまり、それは世界との対話と言つても良いのだが、つまり、心鏡に映る世界は、果たしてその素顔の片鱗でも垣間見せたのだらうか? つまり、《物自体》はその尻尾を見せたのだらうか? 
――さうね、きつと最後迄見せる事はなかつたでしようね。
――そこでだ、つまり、パスカル風に言つて此の世が《無》と《無限》の中間だとすると、つまり、例へば若冲は鶏の画を画く事で、つまり、《無》と《無限》の両極端を認識してしまつたんぢやないかな。つまり、認識と迄は言はなくてもぼんやりにでも、つまり、《無》と《無限》を垣間見てしまつた――。それぢやないとこんな鶏の画なんぞ画けつこないぢやないかと思ふんだけれども、君はどう思ふ? 
――さうね……。あなたのいふ特異点の問題の事ね。
――さう。つまり、詰まるところ特異点の問題だ。つまり、この度し難い特異点と対峙してしまつた時、つまり、画家はたじろぎ怯むが、つまり、それでも眼前の《存在》を逃がさぬやうにぢつと目を据ゑ世界を凝視する。つまり、この端倪すべからざる世界を。つまり、対象を凝視するしか術がないんだ。つまり、その時《存在》は、つまり、《無》と《無限》との間を大振幅して画家を嘲笑つてゐるに違ひない。つまり、揺れる《存在》――。つまり、《無》と《無限》の間を《存在》は自由に揺れる。つまり、画家たるものそれを睥睨して、つまり、世界を描き始めなければならない。つまり、この時の苦悩は底知れぬ苦悩に違ひない筈だ。つまり、若冲の鶏でいふと、若冲は鶏に神を、仏を、宇宙を見てしまつた。つまり、神を、仏を、宇宙を画く事の恐ろしさと言つたらありやしない。つまり、それでも敢然とそれに対峙して、つまり、若冲は鶏を画かざるを得なかつた。つまり、これは何なんだらうね? 
――宇宙を見るか……。本当に何なのかしら? 人をして画を、それもとんでもない画を画かせるその原動力は……。
――つまり、現代と違つて、彼等にはそれぞれ現代宇宙論では収拾のつかない、つまり、個性的なと言ふのか独創的なと言ふのか、つまり、解らないけれども、つまり、何とも奇妙な宇宙が彼らの内界には育まれてゐた筈だが、つまり、それ故彼等は知識に邪魔されない《生(なま)》の世界《存在》に出会つてゐる筈だ。つまり、それはそれは面白かつたんぢやないだらうか。
――《生(なま)》の《存在》ではないでしよう? 彼等にも神や仏の知識は《存在》してゐた訳だから。唯、科学的な知識は遠く現代人には及ばなかつたけれども、それが幸ひして科学的な知識が邪魔しなかつたのは確かね。それはむしろ幸福だつたのかもしれないわね。
――さう、其処なんだ。つまり、心鏡は科学的知識に集約される必要があるのだらうか? つまり、本来、非科学的な事の中にこそ真実なるものは隠されてゐるんぢやないかな。それを心鏡は映す。
――でも、非科学的な世界は渾沌の世界よ。
――つまり、それで良いんぢやないかと思ふんだが、つまり、渾沌の中からしか新世界の再創造はあり得ない。
――陰陽魚太極図ね、うふつ。
――さう、つまり、彼等は太極の状態を、つまり、《生(なま)》の世界《存在》を見てしまつたんぢやないかな。つまり、其処から《生(なま)》の世界なり《存在》なりがぬつと顔を突き出したんだ。しかし、それは一瞬の事で、つまり、その後は一度たりとも顔は現さない。しかし、つまり、一度でも《生(なま)》の《存在》を見てしまつた以上、つまり、それを探求せずにはゐられなかつた。
――それつて探求なのかしら? ただ単にその《生(なま)》の世界なり《存在》なりを捕まへたいといふ人間の業でしかないんぢやないかしら。
といふ雪の言葉を聞くと、私はゆつくりと瞼を閉ぢたのであつた。
――――ううううああああああああ~~。。
 赤の他人の彼の人は相変はらず音為らざる音を発しながら、瞼裡の虚空の何処とも知れぬ何処かへとゆつくりと旋回しながら飛翔を続けてゐたのであつた。
『……画を画く事は渾沌に秩序を与へる行為に違ひない……しかし……私が《存在》してゐなくても世界は《存在》する……《存在》してしまふのだ!』
等と私は思考を巡らせたのであつた。そして、私は雪に解らないと首を横に軽く振つてにやりと笑ひ、おどけて見せるのであつた。
――さうね、解らないわね、うふつ。
――つまり、度し難い己の《存在》に対する処し方が画家の絵にも反映される。つまり、心鏡だ。
――さうね。さうぢやないと画家の作品は時代を超えて残らないわね。何処迄この度し難い《存在》に肉薄したか、それが画を見るものの魂を揺さぶるに違ひないわ。
――さう、つまり、度し難い《存在》への肉薄だ。つまり、特異点への肉薄さ。つまり、《無》と《無限》の狭間で発散しようと隙をうかがつてゐる《存在》といふ特異点は、つまり、それでも無理矢理収束状態に一見馴致されてゐるやうに見えるが、しかし、《存在》といふものはそれで済まない。つまり、狂気とも言へる情熱は如何ともし難い。それに狂気がなければ画など画けない筈だ。つまり、《生(なま)》の《存在》に対峙してしまつたんだからね。つまり、狂気のみが《存在》を馴致する。
――狂気か……。狂気をもつてしか《存在》には対せないのかもしれないわね。
――つまり、狂気をもつてしか《生(なま)》の《存在》には対峙出来ない。つまり、狂気なくして《無》と《無限》を見渡す事は不可能だ。つまり、《無》と《無限》を見渡さない限り、画家は一枚も画を画けない。つまり、さうしないと《存在》が姿形あるものに収束しないからね。
――でも……それつて狂気なのかしら? 私には人間誰しも持つてゐる業にしか思へないのよ。《無》と《無限》を見渡す不可能性へ対する人間の業。不可能なるが故に何としても成し遂げたい渇仰。だつて人間誰しも《無》と《無限》の間に《存在》させられてゐるのよ。あらゆる《存在》物が姿形を持つて《存在》させられてゐるのよ。哀しいけれどもね。
――其処なんだよ。つまり、《存在》は《存在》に我慢してゐるのだらうか? 
――さうね。多分、どんな《存在》も《存在》に我慢してゐる筈よ。さうぢやなきや変容は生じないわ。
――変容――。つまり、《存在》は常に別の何かに変容したがつてゐる。つまり、君の言ふ事はさういふ事かい? 
――う~ん、どうかな。例へば、諸行無常と恒常不変の狭間で《存在》はもがき苦悩してゐる。さうとしか思へないのよ。
――不思議なものだね。つまり、《存在》は諦念として諸行無常を或る意味受け容れてゐるが、つまり、それでも或る意味《存在》は諸行無常には我慢がならぬ。つまり、外的要因で《存在》を変容させられる事を、つまり、何故か忌み嫌つてゐる。しかし、つまり、人間《存在》がどう足掻いても此の世は諸行無常だ。つまり、これは如何ともし難い。つまり、だから、《存在》は渋渋ながらも諸行無常に我慢してゐる。つまり、かといつて恒常不変を心から望んでゐるかといふと、つまり、望んではゐるけれども、つまり、本心ではこれまた忌み嫌つてゐるとしか思へない。つまり、現状のまま恒常不変にでもなつたなら、つまり、此の世の終はりでとんでもないと感じてゐる。とはいへ、《存在》は恒常不変なるものに或る種の憧れさへ抱いてゐる。つまり、をかしなもんだね、《存在》といふこの我儘極まりない《存在》は! つまり、正覚者でない限り変な慾のやうなものを、つまり、人間《存在》は抱いてゐるから始末に負へない。つまり、その変な慾といふものを一言でいふと、つまり、不可能事を此の世で成し遂げるといふ、どうしようもない高望みの事だ。
――さう、不可能事なのよ! 何をおいても不可能事が第一なのよ! 《存在》した以上、不可能な事にばかり目が行くのよ。どうしてかしらね……。
――つまり、それは自由の問題と絡んでゐるんぢやないかな。
――さうね、自由の問題ね。そもそも自由が不可能事を望んでゐるのよ。自己実現出来てしまふ至極簡単な自由では我慢が出来ないのね、人間といふ《存在》は。欲張りね! 
――欲張りかもしれないけれども、つまり、しかし、不可能事に目が行かない《存在》といふのもどうかしてゐるぜ。つまり、現状に満足してゐたならば、つまり、其処に新たなものは何も生まれやしない。つまり、ヴアン・ゴツホにしろブレイクにしろ等伯にしろ若冲にしろ、現状に満足してゐたならば、つまり、これつぽつちも絵なんぞ描きやしないし、況してブレイクは詩なんぞ書きやしなかつた。つまり、其処には自由もへつたくれもありやしない。つまり、其処には不可能を可能にするべく、つまり、悪戦苦闘の軌跡しか残つてゐない。つまり、諸行無常に抗ふ諸行無常と言つたらよいのか、つまり、不可能への絶えざる肉薄を諸行無常といふならば、つまり、諸行無常から恒常不変な創造物が生まれる。つまり、諸行無常なくして恒常不変は無いんぢやないかといふ気がする。
――さうね。でも其処には絶えざる諸行無常への抗ひがあるのね。ああ、難しい! 
と、ここで雪が呻いたので私は軽く微笑まざるを得なかつたのであつた。
――つまり、一方で断念といふものもある。
――断念ね……。
――つまり、断念する自由。
――断念も自由か……。
――つまり、何かを選べば何かを断念せざるを得ない。
――さうよね。何かを選べば何かを断念せざるを得ない。
――つまり、断念するのにも身命を賭して断念する。つまり、さうでないと時代を超越する創作など出来やしない。つまり、君は身命を賭した選択といふものをした事があるかい? 
――う~ん、あると言へばあるし、ないと言へばないとしか言へないわね。西洋哲学を専攻したのは或る意味身命を賭した選択だつた筈なんだけれども、今は東洋思想にのめり込んでゐるこのざまだわ。
――つまり、それは学びの途中だからだよ。つまり、何かを創作するには、つまり、身命を賭して別の何かを断念する外ない。つまり、例へば、それは現世利益だつたりするけれどもね。そのための途中の学びは取捨選択の自由の外にも全てが自由さ。何を学んだつて構ひやしない。つまり、君もその時期が来たならば、つまり、何かを断念して何かを身命を賭して選択する時が必ず来る筈さ。つまり、身命を賭して何かを選択しなければならない、つまり、のつぴきならぬ時期が必ず来る。
――……。
――つまり、君も真剣に生きてゐるからね。
――うふつ、有難う。
――それにしても、つまり、諸行無常は如何ともし難い宿命だと思はないかい? 
――宿命ね……。
――僕は、つまり、主体は各各《個時空》、つまり、《個時空》は渦巻いてゐるものなんだが、その《個時空》を生きてゐると考へてゐるんだが……。
――《個時空》? 《個時空》つて何?
――簡単に言へば、つまり、《主体場》の事さ。
――《主体場》? 
――さう。つまり、主体が置かれてゐる此の世の時空間は流れ移ろふものだらう? 
――さうね、時は流れるとか時は移ろふとか言ふものね。
――つまり、流れあるところには、つまり、必ずカルマン渦が発生する筈だと僕は看做してゐる。
――カルマン渦? カルマン渦つて? 
――つまり、カルマンといふ人が発見したんだが、つまり、自然界で発生する渦全般の事だよ。つまり、台風がその一例だね。
――川面に生じる渦の事? 
――さう。つまり、例へば、川の流れが大いなる時間の流れだとすると、つまり、其処に生じたカルマン渦の一つ一つが主体の《個時空》と看做せる。
――カルマン渦が《個時空》? まだピンとこないわね、うふつ。
――つまり、君も物理学の初等は解るよね。つまり、距離が時間に、時間が距離に変換出来る事を。
――ええ、解るわ。
――そして、つまり、主体と距離が生じるといふ事は、つまり、それは主体から見ると過去に過ぎないといふ事も解るよね。
――ええ、夜空の星辰が何億年もの過去の姿だといふ事なら知つてゐるわ。それと同じ事ね。
――さう。つまり、主体と距離が生じる事は、つまり、主体が現在だと看做しちまへば、つまり、外界は全て過去といふ事になる。その過去の、つまり、距離の拡がり方は主体を中心とした渦時空間を形成する事になる。
――主体が現在とはどういふ事かしら? 
――つまり、《個時空》またはそれは《主体場》と呼んでもいいんだが、つまり、《個時空》の中心といふ事さ。つまり、主体は主体から距離が零だから、主体は現在といふだけの事さ。
――つまり、主体から主体は距離が無いから物理学的に言つて唯の現在という事なのかしら? 
――つまり、《固有時》といふ考へ方は解るかい? 
――《固有時》? 
――つまり、僕と君はそれぞれ違つた時間の流れ方をする時計を持つてゐるといふ考へ方は解るかな? 
――相対的といふ事ね。時間の流れは全ての主体にとつて同一ではなくて各各固有の時間が流れてゐるといふ、ええつと、相対論だつたかしら、アインシユタインの相対論の考へ方ね。さうでしよ。
――さう。つまり、時間は相対的にしか《存在》しない。つまり、主体各人が各各固有の時間、つまり、《固有時》を持つてゐるといふ事さ。そこで、つまり、主体は主体から距離が零だから主体各各は全て固有の現在に《存在》する。もつと正確に言ふと、主体の現在は主体の表皮のみ、つまり、それをずばりと言つてのけた表現で言へば仏教用語でもある《皮袋》であつて、更に言へば主体の内部は主体から、つまり、距離が負故に、つまり、時間が逆巻く故に、つまり、其処は主体の未来になる。
――主体内部は負の時間、さうねえ、かうかしら、時間が逆回転して進むやうにしての未来といふ事かしら? 
――さう。つまり、主体内部は主体自体から距離が負だから唯単に計算上未来といふ事になる。そして、主体《存在》が有限且主体《存在》の内部に中心があるといふ事は、つまり、主体の死を暗示してゐる。つまり、《存在》物は内部を持つ事で、つまり、自らの死を内包した《存在》としてしか此の世に《存在》出来ない。つまり、この考へ方を総じて僕は《個時空》と名付けてゐる。
――すると、あなたにとつて私はあなたの過去の世界に《存在》してゐるといふ事? 
――さう。君は僕にとつて過去の世界に《存在》してゐる。しかし、つまり、君と僕との距離が、相対論で見ると、つまり、無視出来る程に小さいのでお互ひに全く同一の現在にゐるやうに看做せてしまふけれども、相対論は光速度が基本になつてゐるから、つまり、理論物理の世界では、つまり、 僕と君の距離は、つまり、光速度においては無視出来るかもしれないけれども、しかし、つまり、僕も君も光速度では動かない、つまり、理論物理では無視出来ても、現実では無視しちやならない、つまり、僕と君との間に横たはる距離、つまり、正確にいへば僕の《個時空》では君は過去に《存在》してゐる。
――すると、私からするとあなたは私の過去に《存在》してゐるといふ事ね。何となくだけれども、あなたのいふ《個時空》または《主体場》といふ考へ方が解つたやうな気がするけれども、まだまだピンとこないわね、うふつ。
――つまり、それでいいんだよ。つまり、《個時空》といふ考へ方は僕特有の考へでしかなく、つまり、一般化なんかされてゐないんだもの。つまり、誰も現在が主体の表皮、つまり、《皮袋》でしかなく、しかも有限的に《存在》するといふ事は未来の死を内包してしまつた宿命にあるなんて考へないもの。
――さうねえ。あなた独特の考へ方ね。その《個時空》といふ考へ方は……。
と、雪が言つたので私は軽く微笑みながら頷くのであつた。
――そこでだ。つまり、此の世に《存在》してしまつた以上、誰も時間を止める事は出来ず、また、時間から遁れられない。つまり、諸行無常だ。つまり、僕はこの諸行無常こそ《個時空》の宿命だと看做してゐる。
――宿命か……。
――つまり、大いなる時の流れの上に生じた、つまり、主体といふカルマン渦の《個時空》は、つまり、大いなる時の流れから見ればほんの束の間しか《存在》出来ない。人間で言へば高高百年位なものだ。
――あなたの言ふ大いなる時の流れつて宇宙大の悠久の時で見た時の時間の流れつて事かしら? 
――さう。つまり、主体といふ《個時空》は、つまり、大いなる悠久の時の流れの上に生じた、つまり、小さな小さな小さなカルマン渦に過ぎない。つまり、その生滅は主体にとつては如何ともし難い。つまり、《個時空》の考へ方からすると大いなる悠久の時の流れの上に《個時空》といふカルマン渦が生じた時点で、つまり、そのカルマン渦の寿命は既に決定されてしまつてゐるに違ひないと思ふ。つまり、僕は決定論者ではないけれども、《個時空》は必ず死滅する。
――何か虚しいわね。
――さうだね。しかし、この虚しさは、つまり、受容する外ない。つまり、僕は宇宙すら死滅する宿命を負つてゐると看做してゐる。つまり、どんな《個時空》も死滅するといふ宿命からは遁れられない。
――だから、死滅する宿命に抗ふやうにして《存在》は不可能事たる恒常不変なるものを欣求するのよ。
――さうかもしれない。しかし、つまり、《個時空》が負ふ諸行無常は如何ともし難い。つまり、断念する事から何事も始まるんぢやないかな、恒常不変も。
――また断念ね……。
――つまり、僕は物事を単純化する事は嫌ひだから単純化する気はないんだけれども、つまり、何事も按配ぢやないかな、つまり、主体の自由度は。つまり、大いなる悠久の時の流れを重要視すればそれは信仰生活に近い生活になるし、カルマン渦の小さく小さく小さく渦巻くその渦を重要視すればそれは主体絶対主義ともいふべき、つまり、何とも摩訶不思議な生活になると思ふ。
――按配なのかしらね……、人生といふものは。
――つまり、やつぱり、其処には断念が厳然と《存在》する。つまり、誰しも己の《存在》に対して、例へば他の人生は選べないなど、断念した上で、例へば自由などと言つてゐるに違ひない。つまり、死の受容だ。つまり、己を死すべき宿命を負つた《存在》として、つまり、己を受容する外ない。それでも人間は日一日と生き長らへる。つまり、死すべき宿命にありながら、否、むしろ死すべき《存在》だから、つまり、尚更日一日と精一杯生きる。つまり、ここにはある断念が厳然としてあるに違ひない。
――諸行無常ね。人間は諸行無常を受容しつつも、それに一見抗ふやうにして生きてゐる、否、生きざるを得ない。つまり、其処に断念があるとあなたはいふのね……。
――つまり、断念すればこそ、人間は時代を簡単に飛び越える、例へばこのヴアン・ゴツホやブレイクや等伯や若冲のやうな創作物を作り果せる《存在》へと変容する。つまり、しかもそれはちやんと諸行無常の相の上に《存在》してゐる。つまり、これはそれだけで凄い事だよ。
と、その時、それ迄蛍光燈の周りをひらひらと舞つてゐた一匹の蛾が雪の目の前を通り過ぎ、私の眼前の本棚の画集にとまつたのであつた。
――きやつ、何? 
 それはやや灰色つぽい色を帯びた地味な配色の蛾であつた。
――何だ、蛾ぢやない……。
 私は雪がその手で蛾を追い払ふのを制止し、暫くその蛾を凝視するのであつた。その蛾は地味な配色ながらも誠に誠に愛らしい姿をしてゐた。私は無類の虫好きなので、虫であれば何でも凝視せずにはゐられなかつたのであつた。私は虫こそ此の世の《存在》物の中でも傑作の部類に入る《存在》物と看做してゐたのである。卵、幼虫、蛹、そして成虫と完全変態を行ふ蛾は、正に此の世が生んだ傑作の一つに違ひなかつた。この二つの複眼で、蛾の方も私を凝視してゐたに違ひなかつた。さて、蛾にとつて私はどんな姿をした《存在》物として見えてゐるのであらうか。蛍光燈の明かりの下なので、多分、渦巻く奇怪な《存在》物として蛾には私が見えてゐたのかもしれなかつたが、それが解る術は全くなかつたのである。蛾の複眼は自然の眼の一つに違ひなかつた。吾吾が自然を見るやうに自然もまたその眼をかつと見開いて吾吾を凝視してゐるといふ感覚が、幼少時から私に付き纏ひ、決して離れる事のない感覚として感じられて仕方がなかつたのであつた。
 私は蛾の複眼を凝視するのであつた。
 暫くすると私はどうしても蛾に手を差し出して蛾を掌に乗せたくて仕様がなくなつたので、そつと手を差し出すと、蛾は安心しきつてゐたのか全く逃げる素振りを見せずにすんなりと私の掌の上に乗つたのであつた。
――相当の虫好きなのね、うふつ。
と、雪が微笑みながら言つたので、私も軽く微笑んで頷いたのであつた。
 それにしても掌の蛾は美しかつた。そして、その軽さと言つたらこれ以上はありやしない程、それは計算し尽くされた軽さに違ひなかつた。蛾を蔽つてゐる細い小さな毛は、気持ちが良い程繊細であつた。私は掌の蛾をまじまじと暫く眺めた後は、その古本屋の戸口へ向かつて歩き出し、蛾を外に放してやつたのである。
――本当に虫が好きなのね、うふつ。
と、雪が言つたので私は再び軽く微笑んで頷くのであつた。
 若冲も、私が蛾を見たやうに鶏を始め森羅万象をまじまじと見てゐたのかもしれなかつた。多分、穴の開く程凝視してゐたに違ひない。それぢやなきや、こんなべらぼうな画なんか画きつこない筈である。
 私は雪に「行かう」と合図を送り、眼前に拡げられたヴアン・ゴツホとブレイクと等伯と若冲の画集を片付け、その中でブレイクの画集をその古本屋で買つたのであつた。
 その古本屋の戸口で待つてゐた雪の肩を私はぽんと叩くと、そのまま歩を進めたのであつた。
――あつ、待つて、もう。
と、雪は再びその左手で私の右手首を優しくだがしつかりと握つて、再び二人相並んで都会の雑踏の中へと歩き出したのであつた。相変はらず、柔らかい白色の光を帯びた満月は東の空に浮かんでゐた。月の出の頃のあの毒毒しい赤色はすつかり姿を消し、満月は柔和そのものであつた。
 人いきれ。学生や会社帰りの会社員等に交じつて、私達もまたその人波の中に紛れ込んだのであつた。相変はらず雪との間には何の会話もなかつたが、それはそれで心地良いものであつた。
 と、不意にまた一つ、私の視界の周縁に光雲が現れたのであつた。その光雲もまた私の視界の周縁をゆつくりと時計回りに巡り、不意に私の視界の中に消えたのであつた。当然ながら伏目で歩いてゐた私は不図面を上げ、満月にぢつと見入るのであつた。白色の淡い光を放つてゐる東の空の満月は相変はらず柔和で何やら私に微笑みかけてゐるやうであつた。
 私は再び伏目となつて、暫くは人波の中を歩き続けたのであつた。さうかうするうちに目的の喫茶店の前に着いたのである。私は雪をその喫茶店の前に連れ出すと、徐にその喫茶店の扉を開け、皆が待つてゐる店内へと歩を踏み出したのであつた。

第一章完

審問官 第一章「喫茶店迄」

執筆の狙い

作者 積 緋露雪
42-151-67-122.rev.home.ne.jp

初めて長編小説に挑戦したもので、『夢幻空花』よりもかなり前に書いたものです。如何に書き継ぐことに挫折したか、また、物語に哲学的なテーゼを持ち込むことの拙さを見て貰へればと思ひます。それでも第二章までは書き続けられました。約9万字ありますが、よろしくお願いいたします。

コメント

そうげん
58-191-92-2f1.shg1.eonet.ne.jp

積さま、おひさしぶりです。
きょう、この作品を読み始めました。

>ねえ、君、私も多分満月の日に死ぬ筈だから、左記の括弧に私の死亡した日時を記しておくれ。お願ひする。

この箇所まで読み進めました。つづきは時間をあらためて読むつもりをしています。
読んでいますという報告だけでもしておきたくて、コメントすることにしました。
前回公開された作とはまた違った構成の作品で、まだ書かれていないであろう後に書かれるかもしれないシーンを想像しながら読み進めています。それでは読み終えたときにまた感想を書きにあがります。

そうげん
58-191-92-2f1.shg1.eonet.ne.jp

積 緋露雪さまへ

作品、読み終わりました。大まかに二日に分けて読みました。数日前に全体の5分の2ほど読み、きょう残りの5分の3ほどを読みました。今日読んだ部分の後半半分ほどは背景の描写がなされることなく、ひたすら雪との対話になっていました。言葉が多く費やされ、それぞれの箇所で哲学的なやり取りが交わされますが、文章量に比して内容の進展がスムーズであるとはけして言えない印象で、それには用いられる用語が限定的である中で繰り返しに近い文言も多くみられるための渋滞に目が滑る感覚がありました。

対話が連続する箇所にも適宜、情景なり、人物の動きなりを差しはさみながら話を進めていかれる方がわたしとしては読みよくあるのではないかと感じました。

―――――

>自己の《存在》を自殺以外の方法で此の世から葬り去る事ばかり考へてゐたのである。
>――両親の死を看取つたなら即座に此の世を去らう。それが私の唯一の贖罪の方法だ……。

どのようにしてこの思いを実現につなげるのだろうということが、物語の開幕あたりで示されて、この目的に向かって話が進められていくのかなと感じました。読み手としてもこの作品を読む動機づけになったように思います。

>『断罪せよ!』と私の内部で何時(いつ)も告発する者がゐるが、かうなると自同律を嫌悪する外なく、その結果故に吾は自同律の破壊を己の手で己を実験台にして試みたが……ちえつ……人間は何て羸弱(るいじやく)な生き物なのか

自己を喪失する。主体を見失うことが病気を誘発する。道理が通ってるように感じられますし、自分で自分のことがわからなくなっていく病のことを私の好きな作家中島敦も「悟浄出世」で主人公沙悟浄に語らせていて、かつて読んだこの作品のことを思い出しました。

>そんな私が馥郁(ふくいく)たる仄かな香りに誘はれて大学構内の欅を見た時、その木蔭のBench(ベンチ)で彼女、つまり、雪が何かの本を読んでゐるのを目にしたのが、私が雪を初めて見た瞬間だつた。
その一瞥の刹那、私は雪が過去に男に嬲られ陵辱されたその場面が私の脳裡を掠めたのである。

静かな場面展開であるけれど衝撃的な事実が胸に迫る描写。なぜわかるのか、気のせいではないかと一瞬思いもするけれど、それが正しい認識・直観であるとすれば、たしかに人生においてこのような認識・直観はあり得ると感じられるリアリティがありました。そして雪のそのような過去を直観する「私」もまた、性別は異なるけれども社会に対してなぶられ陵辱されると同等の揺さぶりを受けた存在なのではないかと思いもしました。

>そんな事は今迄無かつた事であつたが、雪を見た刹那だけそんな不思議な事が起こつたのであつた。それは、所謂以心伝心と言ふもので、雪との間においては、何故か、心が通じる「会話」が自然と出来たのだ。

陵辱されたことによって自己を破壊されてしまったことによる、手記を執筆した彼の目的との一致。似た性向を持つことによる以心伝心なのだろうか。「私」と雪のあいだの唯一無二の関係性がもたらす多くのやり取り、交わされる文言、「私」にとっての雪、雪にとっての「私」、かけがえのない相手とも思えるからこそ、第一章で語られる以降――結局、雪は他の男の元に走ることになった経緯だったりについても気になる処でありました。

>雪、否、攝願さんに私の死を必ず伝へてくれ給へ。これは私の君への遺言だ。お願ひする。多分、攝願さんは私の死を聞いて歓喜と哀切の入り混じつた何とも言へない涙を流してくれる筈だから……。

これはラストシーンに描かれる場面への伏線なのか。歓喜と哀切の入り混じった涙を攝願さんは本当に流すのか? 『天人五衰』のラストで本多が尼になった聡子と会ったときの彼女の反応の意外性に似たものが作中に描かれるようにも推知されます。

>否、もしかすると《存在》はその死の瞬間に零、若しくは∞、つまり、《無》、若しくは《無限大》に化けるのかもしれぬが、しかし、つまり、1=1といふ自同律は《死》で一応完結する筈さ。

死によって1=1となり、自同律の中に自身が接収される。生きている間は1=1足り得ないことによって足掻き続けることがこの世の苦悩であるとすれば、それは自同律に悩むこと自体が生の苦しみを味わう一般と等価のようにも思われ、元からそこに問題はあったのかなかったのかという点がわからなくなりました。しかし1=1足り得ない苦しみを見出すことなく、1≒1的なもので満足する愚かな人について、この作品では見ないことにされているようにも感じられて、結局、世の中に存在する甲斐があるのは自同律の不快を胸に秘めている人間だけだというようにも受け取られて、第一章を読んだうちでは、世の中の半分だけを対象にした作品ではないかといった印象を持ってしまいました。

そうげん
58-191-92-2f1.shg1.eonet.ne.jp

>全事象に無限を見るものは神を知る。単に数学的比率しか見えぬものは自己しか知り得ない。

>私のゐない此の世がまあまあ過ごし易ければ私は極楽浄土にゐるし、此の世が地獄の有様だとすれば私も地獄に堕ちたと思つてくれ給へ。私のゐない此の世の有様こそ私の《死後の世界》に外ならないのさ。

こういう見方があるのかと感心しました。

>さうして、暫くすると、私も君もSalonの仲間も知つてゐる或る「男」に攝願は惚れ、攝願は何もかも捨ててその「男」の元へと身を寄せる筈だ。さうして再び雪に戻るのさ。「男」は「男」で、雪に逢つた時からずつと惚れてゐた。そこで雪はその「男」の子供を身ごもり「母」になる。雪の第一子は男の子で、雪はその子に私の名を付ける。勿論、雪の配偶者たるその「男」も大賛成さ。まあ、これ以上は話さない方がいいので黙つて彼の世に持つて行くよ。
さて、そこで君にお願ひがある。雪は寺を出た後、その悔恨に悶絶する程苦悩し続ける事になるが、君は雪の良き理解者となつて、雪の「愚痴」の聞き役になつてくれ給へ。お願ひする。さうする事で君達に起こるであらう艱難辛苦も乗り越へられ、私も浄土で安らげるといふものさ。重ね重ね宜しく頼むよ。

意外な展開。この情報を先に出すことによって第二章以降で語られる内容とのあいだにどんな結びつきが生じるのか、優れた効果を持っているといいのですけど。しかしこの内容についてその通りに進行するものもあれば、また裏切られるものもあってもいいかと思い、それは二章以降を読んでみないと判断することのできない内容だと思いました。

>不図気付くと、私の目に張り付いてゐた先程来の業火が私の視界の隅に身を潜めてゐるではないか。目玉をぎよろりと出来得る限り垂直に回転させると、やつと視界の境に業火が見えるではないか。
『これも……《觀自在菩薩》……といふ文字の……御蔭か……』

お経は目から捉えることも功徳があるなんてことを聴いたことがあります。

>日本は勿論、唐草紋様は特に世界共通の渦紋様だわ。……それが物理数学的に未だ正確には数式で記述できないつて事が不思議でならないわ。

たしかにそうですね。「渦」というもの、あらためて言われると不思議なものです。

>欧州の土地が、つまり、石畳で蔽はれるのと機を一にして、多分、つまり、一神教の圧制が、つまり、始まつたと思ふ。


自然を克服するのに石畳をつかって均してしまうこと。わたしもフランス在住時に半年間だけ石畳の敷かれた街に住んでましたが、こういう見方をすることはありませんでした。街の設計からしてたしかに自然を締め出すような形になっていたように思います。

>つまり、僕の独断で言へば、つまり、その《怨念》を負つてゐる。つまり、自ら死滅した卵子達の、つまり、死の大海に、つまり、たつた一つの卵子がたゆたふ。つまり、そのたつた一つの卵子は、つまり、死滅した無数の卵子達の《怨念》を、つまり、負はなければならない《宿命》なのさ。

生まれることそれ自体がすでに原罪を孕んでいる。数多の命の犠牲の上に自分自身が成り立っている。改めて示されるとどきっとします。

以下の言葉はなるほどと素直に受け入れられるものでした。
同意したくなる言葉が多かったです。

>《自由》が《他者を殺す自由》でしかない事例は枚挙に暇がない。つまり、《他者を殺す自由》以外は全て排除、つまり、《自由》は《自由》に《抹殺》されてしまふ。

>これは多分、私が《吾》を受け容れる為の不愉快極まりない《苦痛》を鎮静する《麻酔薬》なのだ。《死》へ近づきつつ《死》を意識しながら、やつとの事で《生》を実感出来る、この既に全身が《麻痺》してしまつてゐる馬鹿者である私には、自虐が快楽なのかもしれぬ。ふつ、自身を蔑み罵る事でしか《吾》を発見出来ない私つて、ねえ、君、或る種、能天気な馬鹿者で、

>近代迄は人間は神に為るといふそんな傲岸不遜な考へを断念し、また、ひた隠して来たが、現代に至つてはその恥知らずな神たらうとする邪悪な欲望を隠しもしない侮蔑すべき《存在》に為り下がつてしまつたが、しかし、それが《存在》の癌化に過ぎない事が次第に明らかになるにつれ、人間は現在無明の真つ只中に抛り出されて、唯漫然と生きてゐる

これ以降はメモを取ることなく、順に読んでいきました。会話の密度が濃くなっていって、その都度立ち止まるよりも流れをせき止めずにずっと読みました。そのうえで、先にも上げました通り、用語に重複が多く、たしかに語られる内容は少しずつ変化しているのが見てとれるのですが、先へ進んでも目新しさがなかなか感じとれなくて集中力の切れる箇所が幾度かありました。

埴谷雄高の小説にも評されるような、形而上小説というジャンルなのでしょうね。
たしかに前回読ませてもらった物の完成度は高かったように思われ、それに比べると今作は若干劣るようであります。ブラッシュアップされればよりよくなるでしょうけれど、わたしが緩慢に思えた部分も、作者様にとっては必要な部分かもしれず、いったんここまで長い物を書かれたのであれば、その経験を基に新たなものを書かれてもきっとより良い物ができるだろうと思います。

ローカルフォルダに保存させていただきますね。
乱文乱筆失礼いたしました。
読ませてくださりありがとうございました。

積 緋露雪
42-151-67-122.rev.home.ne.jp

そうげん様、前作に続き丁寧に読んでくださり頭が下がる思ひです。言葉が重複しながら物語がなんとか進行してゆくのは、この作品を書いてゐた当時はまだ、杳体論が手探りの状態だったことが大きいです。強ひていへばミニマム・ミュージックのように同じ主旋律が反復しながらそれが少しづつずれ行くことで時間が操れるのでないかといふ私の傲慢故のことで、この作品の一つのテーマが時間の弛緩です。

それが余り上手く行かなかったのはそうげん様も感じた通り、弛緩ではなく停滞に終わってゐることです。この作品を書いてゐた当時はキルケゴールの反復論は読んでゐたのですが、ドゥルーズの『差異と反復』はまだ読んでをらず、反復しながらもそこに差異が生じることでやっと表現出来るものがあることを示せればよかったのですが、これは私の力不足ですね。

現在、私はこの作品を全面的に書き直して新たな作品を書くことを構想中です。審問官といふ題名はドストエフスキイの『カラマーゾフの兄弟』にあるイワンの大審問官の話から取ったもので、イワンのやうに大審問官とイエス・キリストとの無言の口付けで幕を閉ぢるやうに、上手い具合に人間と釈尊、若しくは弥勒との間の交感で幕を閉ぢる劇中劇が書ければいいのですが。。。

しかし、審問官といふ言葉は無理がありました。どう足掻いても審問官は西洋のものであり、八百万の神々にも仏教にも、また、広く東洋では馴染まないものであり、思想が根本的に違ふのです。

いづれにしても沈滞せずに時間を操りながら人間といふ存在について深く考へ抜いた作品を書くのが現在の私が己に課したことです。それが小説といふものを突き抜けた新たな様式を生み出せればとの思ひもあります。

そうげん様、ありがとうございました。因みに中島敦は私も好きです。

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