作家でごはん!鍛練場
そうげん

つづく道行きの途中に

〈秋の日はつるべ落とし〉のことわざどおり、十一月初旬の夕空はたちまち夜の暗色へと染まって行く。秋の冷たい風に身体がふるえる。
 勤務中、津川に懸けられたちょっかいが思い出された。ちょっかいというより言いがかりというべきか。ことのあらましはこうだ。もともと不備があったか、津川自身がやったことなのか、わたし自身がまったく関与していない事柄について、わたしの責任をあげつらわれたのである。降りかかる火の粉はすぐさま払うべきだったが、わたしは躊躇した。自分に責任のないことを主張するのが恥ずかしくなったせいだ。自分はちがうと主張することがミスを隠蔽しようとしているように見えるのではないかとの危惧が脳裏をかすめたせいだった。わたしは津川の怒りをそのまま受けとめ、そこから十分以上彼の小言を聞き続けた。彼が怒り疲れるのをじっと待ちながら。
 小言の最中、まだ入社して一年も満たない伊崎が通りがかった。津川は自分が怒っている理由を彼に説明した。身に覚えのないミスをきっかけに、二人から猜疑の目を向けられる立場に追い込まれる。なるようになれ。いまさらちがうと言ったところで何もはじまらない。もともと当事者ではないのだから二人のやり取りは傍観者の立場で聞いてやれ。
 津川は言った。使えない奴がいつまでこの会社に居座るんだ。俺らは遊びに来てるわけじゃないからな。一度のミスがどれくらい仕事を滞らせると思ってるんだ。若くもない。手も遅い。のんびりやってるやつと組まされた日には罰ゲームとしか思えないね。
 伊崎はなぐさめる。河野さんだって困らせようと思ってやってるわけではないですし。人には向き不向きもあるし、コンディションもありますから。腹を立てるより寛容の精神をもってゆったり構えましょうよ。
 二人のやり取りを聞きながら、自分のことを話されている意識からは遠いところに気持ちを置いていた。伊崎からすればたしかに自分は先輩だけれど、四十代という年齢からみても中途入社で五年目は短い。ほかの二十代・三十代に比べて経験が浅いこともあって社内でのこちらの評価は低かった。年齢と立場がつり合わず、周りもわたしの存在を持て余すようである。問題が起きれば自然とこちらに矛先が向く。ふだんからそういった役回りだった。
 わたしの人生には、以前から同様の気はあった。幼少期からそうだったといえる。集団でよくないことをしたとき、決まって怒られるのが自分の役回りだった。口うるさい相手に抗弁することもなく、弱りきった表情で話に耐えるような態度をとるからだろうか。くみしやすい相手をターゲットに選びたがるのは万人共通だ。ようは腹を立てているんだということを周囲に示せればいい。そんな相手にとって、わたしのような人間は格好の的だった。
 津川も伊崎もこの会社の誰もわたしのことを知ろうとはしない。誰だってそうだろう。表に見えるもの以外見せようとするもの以外見ようとしないし、さらに深く見つめようとすることもない。自分の核を切り開き、それを示し、さて誰に理解できるかなんて期待もしないし、それが可能であると信じるような若い時代はとっくに過去のものだ。
 津川とのやり取りが終わった伊崎君はわたしに向き直っていった。「話は分かりました。河野さんだってわざとじゃないんですし、津川さんの言葉は水に流してやってください。河野さんは同じミスを繰り返す人じゃないってわかってますから」その言葉は彼なりの気遣いなんだろう。それはわかる。しかし実際自分がやったことではないし、気遣う前に確かめるべきことがあるだろう。いや。不満は飲みこんでおくべきか。波風を立てるくらいなら、こちらの不快なんて安いものだ。
 そんな態度で過ごす会社での半日が心地いいわけがない。とはいえ、何もせず家で燻るよりは断然好ましい。物事には好い面もあれば悪い面もある。悪いところばかり見ようとさえしなければ、少々の困難であればそれなりに堪え、わたって行ける。その余裕は四十歳を超してもまだのうのうとこの世で生きていながら得ることのできたほぼ唯一のものだ。ようやく生き方が定まってきた、いや、年を重ねるうち、年々の過ごし方が自身にだんだんに理解されてきたのだろう。おそらく自分はこのまま十年・二十年とこれからの人生をつないでいくのだろう。なにかの間違いがない限り、その未来は確定事項のように思える。誰かから懸けられるちょっかいや負担をうまくいなしながら、とくに大きな目標のあるわけではない人生をそれなりに捌いて行く。それは必ずしもこの会社に留まり続けることを意味するものではない。人生の立ち位置そのものが、大体その強度・その角度において定まってきたようなのだ。
 風が湿り気を帯びている。宵闇の中、どこを飛ぶものかカラスの鳴き声が聞こえてきて、びくっとなる。学校で同級生たちが爪で黒板をひっかいたときのことを思いだす。カラスの鳴き声にも黒板の音にも共通するのは乾いている・乾ききっているというイメージだった。忘れていたはずの心の乾きがよみがえる。ひどく迂遠な同族嫌悪か。
 隣の車道をひっきりなりに走る車両の速度が、歩道を行く自分の弱さを際立たせる。なぜこんなに多くの車が走るのか。猫も杓子も豚も狐も誰も彼もが車を乗り回す。家から目的地まで車でショートカットして、そこから先の用を済ませている。歩道を歩く人は少ない。車に対する歩行者のように、強者に対する弱者のように、優勢な者に対する劣勢な者のように、暗い感情が渦巻く。弱さによって制限される者の中身を覗く機会を失った多くの人には、弱さが胚胎する生きづらさなんてきっとわからないだろう。わかるわけがない。わかる見込みもない。それだけはたしかだ。逃げているのはどっちか。弱さを見つめることから逃げているのは弱者の側か強者の側か。決まっている。どちらもだ。どちらもが困難な道から逃れて、誰も彼もが見ないことにしているから、見つめ直されることのない問題は未来へと維持される。問題の根はのうのうと生きながらえる。
 津川はこんな困難があることを知っているだろうか。年齢が下の伊崎はわかってくれるだろうか。知っているだろうかわかってくれるだろうかというのは他者にかける一方的な期待でしかない。軽はずみな期待は裏切られるし、切実な願望だってさらに輪をかけて裏切られる。いまの世の中、期待は割に合わない。何かに望みをつなぐことは無用であるし、望みの欠片を得たがることすら世の中に対する甘えでしかない。生きていく以上、当然に持つべき前途への期待や希望といったものを自分で握りつぶし、あるいは押し込めることで、叶わなかったときの落胆や気落ちの機会を減少させ、細々と生きることを選択するのが標準的といえる社会。自然とはいえないけれど、不自然とまではいいきれなくて、結局のところ、それが平成から令和へと続く、けして好況とはいえない社会情勢のなかで比較的自身を揺さぶられない生き方として通用する順当な世間の処し方だった。明日への不安に怯えることは無駄であるし、もとより不穏な気配は濃厚なのだから、なんとか食べるもの・生活する空間・生きる気力の続くあいだは稼げるときは稼ぐ・打ち込むときは打ち込む・楽しむときは楽しむ・危なければ逃げる、それでのらりくらりと問題を避けながら一日また一日と自分の寿命を延ばしにかかる。
 慈しみの心の萌すときはあるか。困ってる人がいたら助けようと素直に思える心はまだ内面に残っているか。相手を思うより先に困難を避け、自分を守る方へと気持ちが向かってやしないか。
 さいきん余裕がなくなっているようだ。自分自身に。こいつは使えないと対面でバカにされようが、たとえ年下の有用な社員に陰口を叩かれようが、それはそれとして受け取るだけの余裕はある。耐えられないのは精彩を欠いた灰色の日常がこれまで通り、これからもその先もそのまた先の先の命の尽きる直前まで付きまとうだろう見通しの悪さに対して覚える不快である。諦めることを覚えた社会は他者の諦めない心を踏みにじり、これを亡きものとして葬り去る。厚い雲に覆われて陽の光もほとんど遮られた昼のにぶい見通しのなかで近くに遠くに一面灰色のフィルターに懸けられた風景は、それに直面せざるを得ない魂のことごとくから熱度を奪い去る。何処をみても灰色の風景が広がり、灰色の風が吹き、ときに灰色の雨にさらされ、灰色の残光にかろうじて照らされている。薄弱たる光は人や物の正体(せいたい)をあきらかにしてくれるものか。ひょっとするとまやかししか見せないのではないか。まやかしをまやかしと見破れないのは、すでに心の奥深くまで鈍い灰色に塗りこめられて正しい判断から遠ざかっているからではないか。世界がまだ彩り豊かな色味に埋め尽くされていたころ、心は機敏に動き回り、僅かの刺激にも繊細な反応を返し、明日の楽しみを期待して眠りにつく喜びがあった。年齢の重なりが内面に鈍さを孕んだために感覚が鈍磨したのか。本当にそれだけか。これまでにあったものを維持して引き延ばす方向に舵を切っている。所与のものが失われることに恐怖するかのようだ。死に体になってなお形あるものを求め、生き永らえさせようと躍起になる、人も物も国も社会も心でさえも。割に合わない出費に家計が火の車になろうとも、もともと自身の財布が痛むものでなし、勢いのあったころと同じように考えなしにばかすか資金を投入する。無くなることを恐れると同時に新しいことを始めようとする存在にも怯えている。いままでのように、が求められる。上昇したくない。下降もしたくない。ただいまあるようにこれからも居残りたいと願う。現状維持に望みをつなぐ精神は肉体の老化を計算に入れたか。人は新たな命をつないで更新される。更新されることのない社会は、やはり刻々と老化の道を歩んでいるのだろうと思う。老化が進み、動脈硬化や心臓発作によって息の根が止まる未来。そこまでたどり着かなければ究極的に社会はなにも変わらないのだろうか。死に絶えた社会の遺骸こそが、新たな生命が芽吹く端緒になるのか。津川だって伊崎だってもちろん自分だってその頃には命は尽きているかもしれない。死に体の社会の延命治療に供される投入薬物のようなものでしかないわたしたちの存在。なんのために生きているのか。目的が失われ、希望は潰え、明日も明後日もその先も昨日や今日とそう変わらない灰色の風景の中で絶え絶えの息を吐きながらあくせく生き抜いて行く。
 明日目が覚めたらなにか変わるだろうか。思ってもないことを考えつく。津川がいなければ少しは世界もましになるか。伊崎ともっと話せば、彼の考えていることがわたしにも理解されるだろうか。この前の日曜日、首都圏の私鉄の通勤電車のなかで刃物を振り回した四十男が逮捕された。三人を殺害し、十数人を重軽傷に追いやった。日本では何年も前から誰でも構わない誰でもよかったという目標を定めることのないままに人に危害を加えることを目的にした殺傷事件が頻発している。さいきんは事件が発生してもまたかという意識しか浮かばなくなってしまって、おそらくそれは心の麻痺だけれど、実際そういった種類の事件の発生を知るたびにやっぱりなという気持ちになる。自分たちの周りにも、類似の事件を起こしかねない人間が溢れていることが当然のように意識されるのだ。もしかすると知らないのは自分だけで、わたしだって誰かには、いつか無差別殺人を起こすかもしれない要注意人物と目されているかもしれないのだ。元来人に対して腹を割って話すたちではなかった。何を考えているのかよくわからないヤツというレッテルを貼られることも多い人生だった。自分でも自分が本当のところは何を考えたくて何をしたくて何を思うことを理想としているのかすら把握できていないことに無念の気持ちを抱いているほどだった。行動の理由を言語化することにためらいがあった。言葉にした瞬間に内面のすべてが崩れて行きそうで、だからこそ言語化することの危険性を意識せざるを得なかった。言語化とは正体不明なものを当たりの好いもので包んで覆い隠す、苦い薬に纏いつかせる糖衣のようなものと思っている。任意の行為の説明を求められるとき、きまってわたしは躊躇した。どうしてこんなことをした。むしろ黙り込んだ。つきつめて考えるほどに唯一の正解は黙して話さずしかないように思えた。この口から洩れる言葉はかならず語るべき対象から逸れて行く。何をどう語ったところで何も話さない時よりも状況は悪くなる一方なのだ。
 交差点で赤信号につかまる。車のヘッドライトのまぶしさに目を細める。右側から走行してくる車はあきらかに速度超過だった。通り過ぎる時の風圧が強かった。何かの間違いでドライバーがハンドルを不意に切り替えたら自分は逃れる隙もないまま一瞬で病院のベットに直行か具合が悪ければこの世からおさらばすることだろう。誰がどんな腹積もりで生きているのか当人以外の誰にもわからない。わたしすらわたしのことをよくわかってないのだから、もしかしたら自分の生きる理由をわかってる人なんていないのかもしれない。理由なんて無理から拵えればどんなにでも当てはめられる。とはいえ、それは当座のことであって、建前のことであって、いくつかある候補からの限定的な選択の結果でしかないだろう。生あるうちにできることを厳選してその目標に向かって邁進するという、単純だけれども強い、愚直だけれども眩しい、そんな純粋な核を備えた生き方からはほど遠い。そのような核を身内に保持している人が、いったい自分の周囲のどこに居るだろう。世のため、人のため。お題目のように子供のころから耳にしてきた言葉。かつての事業の創業者にはこの志を持った人も多かったときく。全体は死に体でも部分的には勢い盛んな部隊があるのかもしれない。自分がそれに触れられない立場にいまあるだけで。低俗なところを徘徊することが常態化した魂には自分に似た魂しか周囲に見えなくなるのだろう。掃き溜めに鶴がいればその鶴を殺してしまうか掃き溜めにふさわしい落魄を願ってあれやこれやの妨害工作を働くものか。低俗の低俗たる所以。劣悪な環境は劣悪さの拡大を助長する。浸食の範囲を年々広げて行くことを是とする。きっとそれは社会の停滞を生む元と共通だ。信号を待ちながらずっとひとつの考えに陥る自分も相当に毒されている。これでよく頭がふらふらとしないものだ。感心する。
 明日も今日と同じ日が継続する。信号が青にかわる。左右を確認して一歩を踏み出した。信号を渡り切る前に背後で急ブレーキの音がした。不穏なものを感じて咄嗟に振り返る。急ブレーキをかけた車は速くもなければ遅くもない速度でわたしがいま渡ったばかりの横断歩道を抜けて走り去っていった。次の車もいったん止まるかに見えたが大きく道を逸れながら先に進んだ。歩道になにかが転がっている。土嚢袋よりは小さい、――小動物の姿のようだった。歩道は、じきに赤にかわるだろう。わたしはいったん渡り切った歩道の対岸で、中ほどに転がっている物体に目を凝らした。次の車がやってきたときヘッドライトがその正体をあきらかにした。黒猫。品種まではわからない。黒猫の身体が半分おしつぶされて、血液のしみが歩道の白いラインを赤黒く染めつつあった。わたしは躊躇していた。あえて遺骸をのけてやるために歩道に戻る? わずかの逡巡のうちに左右のラインが青信号に切り替わる。それはもう容赦がなかった。歩道上の障害物に構うことはない。それこそほかのゴミと同じような扱いだ。自身の目的地に向かっておのおのの車は走り去っていく。ある車は気がついて可能な限りよけようと試みる。ある車は気づくのが遅れてかつて黒猫だったものの上を乗り越えて行く。そのたびに毛むくじゃらの遺骸はその高さを減じていく。わたしは無念の中に思い出していた。子供のころ、親がしていた近所のうわさ話のこと。どこそこのおばあさんがきょうの昼、前の道で轢かれた犬か猫かわからないのを回収して埋めてやってたと、その口ぶりは善行を感心するものでもなければ、純粋な報告の態でもなく、よくそんなことができるものだという忌避感情の籠った、あるいは禁忌に触れるような事柄を話すようなひそひそしたものだった。子供ながらにそのような口ぶりで話し合う親の心根に好ましくないものを感じていたものだった。すでにおばあさんは亡くなっている。あのころ生きていた戦争を知る世代は寿命に追いつかれ、近所でも数人が残っているだけだった。あるいは老人ホームに入り、あるいは寝たきりになって。生きる者の背中をめがけ、死はいつも追いかけ、迫りくる。いま轢かれたばかりの小動物に対してなにもできない自分は何だ。できることがどんどんなくなって、できないことばかりが無駄に増えていった結果、なりふり構わず誰かのために何かのためにこの身をすり減らすことができなくなってしまった自分。それは社会のせいか。自分だけが悪いのか。けれど当然のように自分は背を向ける。所詮自分はこういう人間なんだ。だからこそいまこういった立場にいて、一日一日を同じトーンで過ごすことになっている。この生き方に劇的な変化が訪れる見込みはない。周りで何かが起こってもそれに左右されない自分を確保してしまった。踏み外さないことを心がけるといいながら、その実あえて踏み外すという選択肢が選べなくなっているだけのこと。慎重策とか安全策とかいうことではない。勇猛心とか果敢さとか前向きな気持ち・衝動がどんどん損なわれていくことを意識させられる。底をつくほどになった。こんな自分があえて歩道を進んで、骸となったものを掬い上げてどこかに埋めてやるなんてそんな殊勝なこと、できるわけもない。
 後味の悪さを覚えながら、あとわずかとなった家までの道を歩いていく。背後に気配を感じる。引け目・負い目を感じさせるのは、あの黒い毛並みだった。どうしてよりによっていま轢かれるのだと思ってしまう。きっとこの気持ちは引き摺るだろう。
 ご近所からカレーの匂いが流れてくる。スパイスの刺激的な香りだ。お腹が空いていたことを思い出す。他者の死を前にしても空腹はちゃんと思い出す。現金なものだ。他者の不幸を憐れむでもなく悼むでもなく、早く家に帰りついてわずらわしさから開放されてしまいたいと願っている自分の姿。その浅ましさ。カレーを囲む食卓はきょういまこのときに一つの命の失われたことにまったく気づくことなく、ふだんと変わらない団欒のひとときを持つのだろう。夫がいて妻がいて子供は二人ないし三人いて世間的にみれば幸せな家庭を築いているのかもしれない。もちろんそこには外には見せない不幸の影が落ちていることも考えられる。しかしいま自分が身内に感じるような不安感や不全感とはちがった種類の翳りであるにちがいない。人はいまあるようにしかなれなかった。嘆いても仕方ない。決まった通りの道順を辿っていまある地点はいずれ通るべき道であったに違いなく、そしてあたかも何者かに導かれるようにしてその先の道のりも操り人形のようにふらふらと進み行くようにできているのだろう。人はそれを運命と呼ぶ。自分では選択しているつもりなのだ。しかし十年後の進みゆきを、二十年後にいる地点から眺めればやはり決まったルートを辿らされてきたのだと言った感慨を覚えるのにちがいない。明日の日をどう作っていくかなんていう無用のあがきを試す歳ではなくなった。四十歳をすぎれば多かれ少なかれそういった境地に落ちつくのが自然だ。それをいつまでも若いつもりで新しいものに飛びつこう、目新しい物こそ素晴らしいと願望することに、なんの望みがあるのか。もうすぐ家につく。なんの感慨も浮かぶことのない寝るためだけの住まい。
 寝床に落ちつくまでに自分は何度、きょうあったことを反芻するだろう。狭い世間をさらに狭くする料簡で自分の中には辛うじて津川と伊崎という他者だけが存在している。自分にとっては究極的には毒にも薬にもならない存在。ときどきちくりと胸を刺すような痛みをもたらす両者は自分にとっていったい何者だろうか。家に帰れば津川だって子供の親だろうし、その子供はすでに成人になっているかも知れず、その子供にはクソ親父うざいと思われているかもしれない。妻に頭が上がらないから仕事場で高圧的な態度をとって内心の平衡を取っているだけかもしれない。案外自宅では料理や洗濯といった家事を率先して行う家庭的な父親という線も考えられる。伊崎はどうだろう。付き合ってる相手はいるのだろうか。そもそも誰かと付き合ったことはあるのか。彼もいつか子供の親になることがあるのか。順当に行けばきっとあるんだろう。普通に生きていれば大抵子供の親になるのは当たり前と言える。ならば結婚もしなかった、子供もいない、そんな自分のこの社会での役回りはなんなのか。息をして飯を食べてわずかな気晴らしに趣味の時間をもって寝るだけ。仕事をするのは無聊をかこつための方便でしかない。自分の果たすべき最低限の役割を担うためだけにいまの仕事に自分の時間をあてることに決めているだけのこと。義務感に気負いを覚えることもなければ、誰が好き好んであんな職場で働くものか。しかしこの社会の一隅に住まわせてもらう以上、ほんの少しくらいの貢献はしておかなければ座りが悪い。報酬としての給金を目的に働くというよりは、社会に対して何も益することのない存在としてのうのうと生きることに耐えられないからこそだった。ただそのためだけに自身の貴重な時間を浪費する。
 全体の利益にも供しない。欝憤だけをためて引きこもる。無為の存在として命をつなぐことだけを目的に生きる人。あの通勤電車の刃物男のことを思い出す。どう控えめに見積もっても、今後この社会に類似の犯罪の発生を押しとどめる力はないように感じる。他者のために生きる気持ちをはなから失った人たちに、余所から外圧という形で権力を介入させれば、自身の中に溜め込んだ不如意による欝憤は一気に弾け飛ぶだろう。社会のあらゆる場所に時限爆弾が仕掛けられているみたいなものだ。知らずに触れてしまって誘爆に巻き込まれる人はきっと不運でしかない。目に浮かぶようだ。一人静かに死んで行け。多くの人はそう思うだろう。おそらく向こうだって一人にしておいてほしかったんだろう。しかし一人にさせてくれない周囲に対する怒りが、他者への攻撃性となって牙をむく。立場の強い弱いに拘わりなく、人はもともと一人で居たいものなのか。多くの人は鉄の箱から降りることなく、見向きすらせず、目的地に向かって乗り物を飛ばすだけのこと。他者に構っていられない。構っている時間が勿体ない。自分だって歩道の前で黒猫を見なかったことにしたんだ。人を咎める資格はない。
 むかつくからという理由で津川を刺すことはできるか。伊崎の若さに嫉妬して彼を害しようとすることはできるか。できるわけがないと思っていても、もしかすると、彼らにとってわたしはそういうことをしでかしそうな存在として認識されているやもしれない。無差別殺傷事件が起きるたびに自分と犯人を重ね合わせる気持ちが消せなくなっている。自分がそっち側にいる世界がもしかすると千分の一か万分の一の確率であったかもしれない。そんな考えは妄想にすぎるだろうか。もうよそう。そんなことを考えても始まらない。
 家の敷地に入り、玄関扉をあける。家の中は外よりも暖かく感じられた。ふだんよりも多くの靴が玄関に並んでいる。弟家族が来ているらしい。弟と奥さんと二人の子供。リビングに繋がる戸の向こうに談笑する気配が感じられた。顔を合わせる気がしない。わたしは靴を脱いで揃えると、そのまま二階の自室に引っ込んだ。すでに所帯を持っている弟たちと対面するのに抵抗があった。正確に言えば、弟とは子供のころからそれほど仲が良くなかったし、その奥さんとも何を話していいのかわからず、結局この五年の間に話したことといえば二言三言の社交辞令的言辞でしかなかった。彼女の方もわたしとの会話を望んでいるわけではなさそうだった。子供たちは推して知るべしで、結局この家にあって異物はこの自分一人だ。

つづく道行きの途中に

執筆の狙い

作者 そうげん
58-191-92-2f1.shg1.eonet.ne.jp

世間的に氷河期世代と呼ばれる年代のマインドを押し出せるようにと思いながら書いてゆきました。
重くてなかなかに救いのない話であります。しかし救いなんてなさそうな社会情勢ではありませんか、この現代社会というのは。
もともとが重くて暗さが色濃くにじむ社会を題材に書くのだから、出来上がるものもそういった属性を帯びるのは無理もないかと思いました。

コメント

夜の雨
ai214218.d.west.v6connect.net

そうげんさんへ。
現在三面にある”(題名未定)”という御作(2021-10-21 03:15)ですが、まだ返信をしていない感想が、私のも含めて多数ありますが。
最初から返信をしない予定なら「執筆の狙い」に返信はしない、と書いておくべきだと思います。

よろしく。

そうげん
58-191-92-2f1.shg1.eonet.ne.jp

夜の月さまありがとうございます。
前作のページをまったく開いていなかったのでコメントが付いていることを知りませんでした。
一面の最新のコメント一覧は見てたのですが、流れるのが速くて気付けてなかったようです。
教えてくださってありがとうございました。
確認して返信いたします。
感想・コメントをくださった方々へ。
ありがとうございました。そして申し訳ありませんでした。

青木 航
sp49-98-217-208.msd.spmode.ne.jp

余計なおせっかいですが、そうげんさん。『夜の雨』さんが『夜の月』となってますよ。間違え方が微妙。

そうげん
58-191-92-2f1.shg1.eonet.ne.jp

なんと。失礼いたしました……。
長い間やり取りさせてもらってるのに申し訳ありません。
夜の雨さま、どうかお許しください……。

秋の春雨スープ
KD106129084246.au-net.ne.jp

読んでいる最中に、主人公はなんとバカで無知で浅薄で傲慢で往生際が悪いのだろうとイライラさせられました。
そういう効果を狙って著作されたのであれば大層立派、秀の字を何べん書いても足りません。

> そこから十分以上彼の小言を聞き続けた。彼が怒り疲れるのをじっと待ちながら。

このあたりまでは主人公のしたたかさが感じられて小気味良いです。

> しかし実際自分がやったことではないし、気遣う前に確かめるべきことがあるだろう。いや。不満は飲みこんでおくべきか。波風を立てるくらいなら、こちらの不快なんて安いものだ。

ここからしばらく小説の読者に不可解さを与えます。
不快なんて安いものだと言いながら、この後の膨大な文章量に未練がましい思いが詰まっているように見えることがまず不可解です。
それに「気遣う前に確かめるべきことがあるだろう」と思うのであれば、主人公の顔についているであろう不自由のない口でそれを示せばいいのにそうしない。なぜなのか全く理解できませんし、ずうずうしく忖度を求めているようで神経に障ります。
本小説の後半に差し掛かるまで、なぜ主人公がこのように考えるのか理解できないため、読者に非常な不安と不愉快さを与えます。

> 弱さを見つめることから逃げているのは弱者の側か強者の側か。決まっている。どちらもだ。

この文章に行きつく理由かわかりません。なぜこの文章に行きつくまでの内容で「どちらもだ」という結論になるのかわかりません。一読者として納得できません。明らかに主人公が自ら弱者だと認めながらもその弱い部分を外面に出していないではありませんか。どうして隠された弱さを他人が知り得るのでしょうか。この場面に至るまでに津川や伊崎が河野の弱さを知るヒントは出てきていたでしょうか? 仕事のできなさが弱さだと言えば、しっかりと津川や伊崎はその弱さを見つめているではありませんか。河野のウジウジした考え方が弱さだと言えば、津川や伊崎はその弱さに気づきようが無いでしょう。なぜなら本当に単に仕事ができないとしか思えないのですから。実は内面に弱い部分があるということを河野は全く説明していない、隠しているのですから。

> 生きていく以上、当然に持つべき前途への期待や希望といったものを自分で握りつぶし、あるいは押し込めることで、叶わなかったときの落胆や気落ちの機会を減少させ、細々と生きることを選択するのが標準的といえる社会。

ここは主人公の弱さが表現されていて素晴らしいです。期待や希望を当然に持つべきと考えていたり、気体や希望を握りつぶすことを標準的と考えていたり、視野の狭さが際立っています。しかしその視野の狭さを主人公自身が認識できていないのだ、と気づいたとき読者は逆に視界が開けたような気分になります。なるほど主人公は内省ができないのかと。

> 諦めることを覚えた社会は他者の諦めない心を踏みにじり、これを亡きものとして葬り去る。

ここにも自分の感性が社会一般に通じるという傲慢さが見えます。また、主人公の認識能力についての説明を十分すぎるほどに補強しています。

> まやかしをまやかしと見破れないのは、すでに心の奥深くまで鈍い灰色に塗りこめられて正しい判断から遠ざかっているからではないか。

一読者として、主人公が実は考え方を変えられるのではないかと気づく期待を持ち始めました。

> 死に絶えた社会の遺骸こそが、新たな生命が芽吹く端緒になるのか。

偏った主人公の考え方が、新たなものに変わる端緒になるのか。

> 元来人に対して腹を割って話すたちではなかった。何を考えているのかよくわからないヤツというレッテルを貼られることも多い人生だった。

主人公は自分が他人にどう思われるのか分かっていたのですね。

> むしろ黙り込んだ。つきつめて考えるほどに唯一の正解は黙して話さずしかないように思えた。この口から洩れる言葉はかならず語るべき対象から逸れて行く。何をどう語ったところで何も話さない時よりも状況は悪くなる一方なのだ。

主人公の性質がようやく確かになりました。
懸命に弁明しようとする姿勢を見せるよりも、己の口から出た言葉と内面との一致を優先させようとしている理想家なのである、と。
一読者としては、これまでの考え方はなんと偏っているのだろうと思っていましたが、ここで納得できます。

秋の春雨スープ
KD106129084246.au-net.ne.jp

> できることがどんどんなくなって、できないことばかりが無駄に増えていった結果、なりふり構わず誰かのために何かのためにこの身をすり減らすことができなくなってしまった自分。それは社会のせいか。自分だけが悪いのか。けれど当然のように自分は背を向ける。所詮自分はこういう人間なんだ。だからこそいまこういった立場にいて、一日一日を同じトーンで過ごすことになっている。
> こんな自分があえて歩道を進んで、骸となったものを掬い上げてどこかに埋めてやるなんてそんな殊勝なこと、できるわけもない。

黒猫の死骸を埋めたくないだけとしか思えません。埋めたくないために、実際はできるのに「できるわけない」、「自分はこういう人間なんだ」、「一日一日を同じトーンで過ごすことになっている」と思い込んでいる。
「できないことばかりが無駄に増えていった結果、なりふり構わず誰かのために何かのためにこの身をすり減らすことができなくなってしまった」などと言っていますが、どうして同僚に弁明したり黒猫を埋めたりしないのでしょうか。別に何か障害があるわけでもないですよね。まさかその障害をこれまで説明していなかったという訳でもありますまい。
なぜできるのにしないのか? 言葉や行動といった外面と内面との一致を優先させようとしているのですよね。この理想にたどり着こうとしているのですよね。これが主人公のできること、やろうとしていることなんですよね。
ということは、黒猫を埋めたくないのです。
理想を叶えるためにはいろいろな苦難があります。ここまでの膨大な主人公の内面の描写は苦難そのものです。苦難を取り除くには掲げている理想を取り下げる必要があります。しかし、その理想の部分について特に強調していないし重要だとは考えていないようにみえることからして、主人公は取り下げの必要を意識していません。また、その苦難が理想と釣り合うかについても考えていないようです。一致の理想を完遂するか取り下げるかあるいは別の理想を掲げるかするまでは、これからもまだ長い時間がかかりそうで少しがっかりします。

> 寝床に落ちつくまでに自分は何度、きょうあったことを反芻するだろう。

四十年も生きてきて、こんなに浅い考えで何度も何度もちゃぷちゃぷ遊んできたのかという思わせられる描写に驚かされます。

> 弟とは子供のころからそれほど仲が良くなかったし、その奥さんとも何を話していいのかわからず、結局この五年の間に話したことといえば二言三言の社交辞令的言辞でしかなかった。彼女の方もわたしとの会話を望んでいるわけではなさそうだった。子供たちは推して知るべしで、結局この家にあって異物はこの自分一人だ。

むべなるかな。それしか言えません。最終的に感想はただこの一言になりました。

しかし執筆の狙いを見ると、なんと「世間的に氷河期世代と呼ばれる年代のマインドを押し出せるように」と書かれているではありませんか。
どうやって押し出されれば良いのでしょうか。

むしろ、この話はグラグラと煮え立つ鍋に入れられた天草のようです。
天草のように煮立てられても耐えようというのですか。
それ自体は最終製品に入らず、あとに残ったものだけがところてんのようにスルッと「押し出され」ます。
これは当然、むべなるかな、です。

氷河期世代と呼ばれる年代のマインドは天草ですか、ところてんですか? 一体どちらなのでしょうか。
私には、もしこの話が氷河期世代と呼ばれる年代のマインドを書いたものであるならば、それは天草だとしか判じ得ません。

そうげん
58-191-92-2f1.shg1.eonet.ne.jp

>隣の車道をひっきりなりに走る車両の速度が、歩道を行く自分の弱さを際立たせる。なぜこんなに多くの車が走るのか。猫も杓子も豚も狐も誰も彼もが車を乗り回す。家から目的地まで車でショートカットして、そこから先の用を済ませている。歩道を歩く人は少ない。車に対する歩行者のように、強者に対する弱者のように、優勢な者に対する劣勢な者のように、暗い感情が渦巻く。弱さによって制限される者の中身を覗く機会を失った多くの人には、弱さが胚胎する生きづらさなんてきっとわからないだろう。わかるわけがない。わかる見込みもない。それだけはたしかだ。逃げているのはどっちか。弱さを見つめることから逃げているのは弱者の側か強者の側か。決まっている。どちらもだ。どちらもが困難な道から逃れて、誰も彼もが見ないことにしているから、見つめ直されることのない問題は未来へと維持される。問題の根はのうのうと生きながらえる。

この箇所の、弱い立場と強い立場の比較は、「河野⇔津川・伊崎」という構図を当て込んだものではありませんでした。《車に対する歩行者のように、強者に対する弱者のように、優勢な者に対する劣勢な者のように、暗い感情が渦巻く。》といった文章上における「車(運転手)⇔歩行者」「強者⇔弱者」「優勢な者⇔劣勢な者」という対比において、視点人物である河野はここにおいて自分は弱い立場の側になっていると見做している。しかし弱者は強者の気持ちを理解することはできないだろうし、強者だって弱者の気持ちはわかるわけがない。わかろうとしたところですれ違うだろうし、どちらも自分と異なる立場への歩み寄りから逃げているのが、河野が見ている現代社会の諸相だといった意識がある。何不自由のない生活を送っている富裕者と、きょう食べるものにも事欠くような困窮者とか、差別するものと差別を受けるものの間にある深い溝、といった社会の中における強弱の差といったものが、この段落において対象としている要素であります。そういった社会一般に対する河野の意識がこの段落で語られたうえで、そういった強弱の別というか、主に弱者の側に立って物事を考えるということを、津川や伊崎は自分のことのように受け止めて考えたことがあるんだろうかというのが、《 津川はこんな困難があることを知っているだろうか。年齢が下の伊崎はわかってくれるだろうか。》とつづく、次の段落の話でありました。この作品で読み直しの際に削った部分もあるのです。海外の技能実習生に触れる箇所があったのですが、思い切って削ってしまいました。削りすぎて、文章間のつながりが希薄になってしまった結果、わかりにくくなったのかもしれません。

>> むしろ黙り込んだ。つきつめて考えるほどに唯一の正解は黙して話さずしかないように思えた。この口から洩れる言葉はかならず語るべき対象から逸れて行く。何をどう語ったところで何も話さない時よりも状況は悪くなる一方なのだ。

>主人公の性質がようやく確かになりました。
懸命に弁明しようとする姿勢を見せるよりも、己の口から出た言葉と内面との一致を優先させようとしている理想家なのである、と。
一読者としては、これまでの考え方はなんと偏っているのだろうと思っていましたが、ここで納得できます。

これに関してここまでずっと河野の立場をあきらかにしていないのはやりすぎだったかもしれないと感じました。根気強くこの書きものに付き合ってくださってありがとうございました。

>しかし執筆の狙いを見ると、なんと「世間的に氷河期世代と呼ばれる年代のマインドを押し出せるように」と書かれているではありませんか。
どうやって押し出されれば良いのでしょうか。

ほかでも書いたのですが、この作は、氷河期世代であり、かついわゆる「無敵の人」という存在について自分がすこしでもその心情に近づくとしたらどこまでにじり寄れるかという部分について挑戦した作でした。少し前に無差別連続殺人の死刑囚に対して聞き取りを行った方の手記を読んだり、オウム事件のレポートを読んだり、また、当時映画公開時に観た『ジョーカー』のことだったり、自分でもネットで少なからず交流のあったひきこもり(自宅警備員)の方々とのやり取りなどから、思うことを引きだしながら自分なりに小説にしたわけでした。もちろん自分が生きてきた中で体験したり感得したりしたことを大量に入れ込んでます。二十年後、現在の氷河期世代で半数程度はなんとかなったでしょうが、なんとかならかった側が未来の社会でどういった立場に置かれるものか、そのことがわたしの関心ごとのひとつでありますので、現時点で彼らが置かれているであろう立場を記せればと思いました。派遣会社での勤務をずっと続けている方とか、社会保険にも加入されてない方とか。そういった存在を視野に入れて書くことで、原題の一部分を描けるのではないかと考えました。

天草・ところてん。この例えがわたしには十全にはわかりませんでした。

読んでくださいまして、ありがとうございました。

そうげん
58-191-92-2f1.shg1.eonet.ne.jp

原題ではなく現代です。まちがえました。

秋の春雨スープ
91.193.7.22

そうげん様

> そういった社会一般に対する河野の意識がこの段落で語られたうえで、そういった強弱の別というか、主に弱者の側に立って物事を考えるということを、津川や伊崎は自分のことのように受け止めて考えたことがあるんだろうかというのが、《 津川はこんな困難があることを知っているだろうか。年齢が下の伊崎はわかってくれるだろうか。》とつづく、次の段落の話でありました。
> この作は、氷河期世代であり、かついわゆる「無敵の人」という存在について自分がすこしでもその心情に近づくとしたらどこまでにじり寄れるかという部分について挑戦した作でした。
> 派遣会社での勤務をずっと続けている方とか、社会保険にも加入されてない方とか。そういった存在を視野に入れて書くことで、原題の一部分を描けるのではないかと考えました。

そうげん様が表現されようとしていることをようやく理解できたような気がします。
ひきこもりや派遣会社の従業員や社会保険もかけられていない方々の立場に河野は思いをはせているだけなのですね。
別に河野自身は必ずしも弱い立場という訳ではない。
弱いように見えるが、それはただ河野の――そして河野の心情描写を読んだ人の――思い込みであり、しかも河野――と読者――は他の弱い立場の方や強い立場の方の思いを理解しているわけではない。

実際、河野は氷河期世代の中でもなんとか「なった」人ですね。
河野はただ周囲の人間たちとコミュニケーションを取れていないだけ。
河野が周りの人間と会話をできない理由は全く説明されていない。
河野の性格の問題にしか見えない。ひきこもりや派遣会社で働かれている方々の苦労が全く河野からは感じられない。
反論したら仕事を辞めさせられるとか、家族と不用意に関わったら家を追い出されるとか、河野の弱い立場を根拠づけるものは全然書かれていない。

氷河期世代でなんとか「ならなかった」方々に向けて、世間の理解は河野の考えと同じように、この程度のものであるよとお伝えされようとしているのですね。
異なる立場に理解を求めるというのは難しいのだから、もう少し発奮してがんばってほしい、という意味で氷河期世代と呼ばれる年代のマインドを押し出そうとされていたのですね。

そういう理解で改めて本作を拝読すると、初見の読者にはすさまじく理解の難度が高いと思いました。
総じて描写が不足しているように感じました。まず河野と弱者の立場は違うということが書かれていません。
河野と弱者の共通点が無いということを読者が発見しなければならない。書かれていないことから執筆者の意図を読み取るというのはすごく難しいです。書かれていないことは何だろうかと、書かれていること一字一句全てを理解した上で、推測しなければならないからです。ここまできてやっとで河野と弱者は違うと分かる。

> ほかでも書いたのですが、この作は、氷河期世代であり、かついわゆる「無敵の人」という存在について自分がすこしでもその心情に近づくとしたらどこまでにじり寄れるかという部分について挑戦した作でした。

読者はそうげん様のすべての作品とその説明に目を通せる訳ではありません。通す義務もありません。
できれば本作中で執筆の意図を完全に表現してほしいと思いました。

秋の春雨スープ
91.193.7.22

> 天草・ところてん。この例えがわたしには十全にはわかりませんでした。

十全には分からなかったということなので、一部は理解していらっしゃると思うのですが、どこまで理解されているのかをそうげん様は説明されていないので(説明される必要もないとお考えになったのかも知りませんが)、改めて例えで何を表現しようとしたのか一から説明します。
まず例えの基になっているところてんの作り方から説明いたします。ところてんは天草を煮詰めた後、その煮汁から作られます。煮汁を冷やすとところてんになるのです。天草の繊維成分はそのまま捨てられるか、せいぜい肥料にされるだけです。

> むしろ、この話はグラグラと煮え立つ鍋に入れられた天草のようです。

そうげん様の説明を頂く前の私の理解では、本作の河野は氷河期世代を代表する人物であり、また周囲の人間たちの不快な言動にひたすら耐えている人間でありました。
そこで、河野をところてんの材料である天草に例えて、本作が、氷河期世代のマインドを押し出そうとしているとは思えないということをそうげん様にお伝えしようと考えました。
天草はところてんの製造過程でグラグラと煮え立つ鍋に入れられます。
河野が鍋に入れられた天草のように周囲の人間から圧迫(エネルギー)を受けているようだと例えたかったのです。
「この話は」と書いたことで、河野ではなく、津川・伊崎・河野の家族を含めた全体を指しているように解釈されてしまう可能性が発生してしまいました。この点については私の表現力の不足を認めざるを得ません。

> 天草のように煮立てられても耐えようというのですか。

これは天草のように河野をはじめとした氷河期世代の方々も周囲の人間からの圧力に耐えるべきなのかということを問うていました。

> それ自体は最終製品に入らず、あとに残ったものだけがところてんのようにスルッと「押し出され」ます。

「それ」というのは煮汁をとられたあとの天草の繊維成分のことです。「最終製品に入らず」というのは絞られるだけ絞られて(人間の労働力や様々な金銭的価値などを)、用済みになったら捨てられる(世話されない)ことを指しています。「あとに残ったもの」は天草の煮汁と河野のような人間から搾り取られた様々な利益を指します。
ここで天突きという調理器具について説明いたします。煮汁を冷やしてできたところてんは、そのままだと大きなゼリー状の塊で食べにくいので、天突きにその塊を入れて裁断します。器具の名前に突きと言う動作が入っていることから想像できるように、ところてんはこの天突きの中から「押し出され」ます。天草(氷河期世代のマインド)は押し出されずに、ところてん(利益)だけが天突きで押し出されて食用(重用)されるという対比を書いているのです。

> これは当然、むべなるかな、です。

河野が特に障害を持っているわけでもないのに無抵抗でいるから流されるままに周囲の人間の思うがままになることと、天草がところてんを作り終わったあとに捨てられることは、どちらも当たり前ではないかと言っています。

> 氷河期世代と呼ばれる年代のマインドは天草ですか、ところてんですか? 一体どちらなのでしょうか。

再度、本作の主人公である河野が捨てられる天草なのか押し出されるところてんなのかを問うています。

> 私には、もしこの話が氷河期世代と呼ばれる年代のマインドを書いたものであるならば、それは天草だとしか判じ得ません。

そうげん様から説明を頂くまで、私にとって河野は利用されつくしたあとに捨てられる天草のような弱い存在にしか思えないと考えていました。
しかし、そもそも河野が天草なのかところてんなのかという問い自体が全く道理から外れていることに気がつきました。
これでは例が通じないのも無理はありません。逆にそうげん様がどこまで例を受け入れられたのかが気になるところではあります。

最後に、無理やりに天草の例を再利用して、本作を表してみます。
まず世間の多くの人間はだれが天草なのかところてんなのかをはじめからあまり理解していない。これが本作を貫くテーマでしょう。
そして河野もある人から見れば天草のように見えるけれども、もしかするとところてんなのかもしれない。
そうげん様からすれば氷河期世代のなんとかなっていない方々が天草のように見える。
しかし世間のほとんどの人間はそれを分からないので、是非その方々に自身の心を押し出して欲しいと願っている。
以上のように私は理解しました。

これも誤解であるなら、もはや私はこれから生きていくうえで直面するあらゆる問題に対して働かせる私自身の理解力に常に疑念を差し挟まねばなりません。
ただそれでも、説明を尽くしてくださったそうげん様には感謝の言葉を申し上げます。どうもありがとうございました。

今晩屋
133-32-233-18.west.xps.vectant.ne.jp

 そうげんさん。お久しぶりです。

 私はこの小説で注目すべきは津山としか思えないのでコメントしました。
 きっと津山は上司から同じように扱われているんだろう。と。
 会社員になればどの立場であれ、針1本が心臓に向く訳ですが、津山は、上と下、左右に。河野は上と、少し斜め上から伊崎の矢が向いているのでしょう。
 
 (あくまで想像ですよw)
津山は中間管理職、勤続20年。郊外3500万の一戸建て、35年ローン。車はプリウス。小学生の長男一人。
 「何事」もなければ。
 やっていける。

 互いに「何事」って針が、互いを刺す。その方角が心臓を向いた瞬間を書いて欲しいですね。
 きっと面白い!


 
 
 

 
 

そうげん
58-191-92-2f1.shg1.eonet.ne.jp

今晩屋さまへ

おひさしぶりです。拙作をお読みくださりありがとうございました。

津山に注目してくださったんですね。津山という人物は実際にいまの五十代・六十代前半くらいのざっくりした人物像をあてこんでいて、親は戦中経験者だけど自身は戦後生まれで団塊世代より後、学生運動も直接は関係のなかった世代の人といったイメージからはめ込んでいった人物像でした。とはいえ、主人公はあれこれその考え方をつめこんで文章量を増やしましたが、津山・伊崎については逆に書かなすぎることによって読み手の方のイメージが載せやすくなっているのかもしれないと感じています。中間管理職であるか、その年で平であるかすらも書かずに済ませました。またそこがどんな業務を行う企業であるかも書いていません。具体的に何の仕事を行っているかを書くことによって、今回書きたかった世代の別ということを書くことから筋がずれてしまうのを恐れていたという側面もあります。00年代「働いたら負け」という言葉がはやりましたけど、主人公河野には働かなかった期間があった。だからいまそのつけを払っているという設定はございます。

ではありがとうございました!

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