作家でごはん!鍛練場
跳ね馬

週末のラブレター

【9月第4週】


 残暑を撫でるようなそよ風に吹かれながら、僕は配達品の梱包紙を開けた。注文したレターセットは、明暗さまざまな12色の封筒に、便箋は季節柄から中世ファンタジー的なものと揃っている。妻の好きなネコやクマさんの柄まである。準備は万端、あとは中身だけだ。
「あっ、いたいた。先輩先輩」
 屋上に広末がやって来た。涼しげな色のブラウスに濃いデニムのコーディネートは、明るく活発な彼女の代名詞だ。
 広末は茶髪のポニーテールを縛り直しながら、僕のベンチに一人分の隙間を空けてちょこんと腰を下ろした。
「仕事の連絡でも来た?」と僕は聞いた。
「部長が探してましたよ。滝田先生の件で」
「あの人に書かせるのは、世界のCo2を5%削減させるのと同じくらいの難易度があるよ」
「あはは。30%でも過言じゃないかも」
 入社3年目の大卒社員は、美形ではないが愛嬌は良く、小型犬のような人懐っこさがあって、自他社のおじさんおばさんからはすこぶる気に入られている。それでいて嫌味のないパーソナルスペースは保つから、トラブルにも縁がない。正直とても楽な後輩だ。
 広末は僕からねだったライトピンクの封筒を空にかざしながら言った。
「かわいいですね、これ。何かの企画に使うんですか?」
「広末ってさ」
「なんです?」
「ラブレターとか、書いたことある?」
 人差し指に顎を乗せた広末は、ゆったりと流れる雲を見上げながら、その名詞を噛み締めるように口にした。
「ラブレター……一昔前の少女漫画でしかお目にかかったことはないですねー」
「なるほど」


 金曜日は溜まった仕事がないのが幸いだった。というか、僕が前日まで頑張って働いたと言うべきだろう。おかげで簡単な事務作業や電話対応の合間を縫って、ラブレターの執筆に取り掛かることができた。
 だが筆はほとんど進まなかった。普段は偉そうに他人の作ったものを編集してるくせに、いざ自分で書いてみるとまるで上手くいかない。久しぶりに握った万年筆も思うように扱えなかった。
 四苦八苦しながら時間だけが過ぎていく。夕方、パソコンをシャットダウンしたところでスマホにメッセージが届いた。妻からだった。

『今日から金曜日の夕食は私が作るね。食材の買い足しも済ませておきました。ゆっくり羽根を伸ばして帰ってらっしゃいな、愛しの旦那様』

 出来の良いラブレター心待ちにしてるからね。
 僕にはそんな文面にしか見えなかった。罠へと追い詰められていく獲物のような気分に駆られたので、精一杯の抵抗とインスピレーションを求め、普段とは違う帰り道を選ぶことにした。


 たまに妻と散歩する河川敷の方は、もうすっかり秋の匂いがした。ススキが気持ちよさそうにそよぎ、陰影を黒く染めた建物がオレンジ色の水面に映し出されている。どこからか漂う夕餉の匂いに腹が鳴り、遠くの鉄道橋から響くジョイント音が、人々の家路を急かす。
 ビールの本当に美味い時期は、今のような、夏の終りから秋の始めだと思っている。風呂上りの控えめな汗を、秋の夜風でさらさらと乾かしながら、喉にねぎらいをシュワシュワと流し込む。週末の贅沢としては十分なものだ。
 早く帰って妻と一杯やりたかった。だがまだ帰れない。どこか落ち着ける場所で、ノートに書き散らしたラクガキを推敲し、便箋に清書しなければならない。

 こぢんまりとした喫茶店を見つけたのは、町中に戻って見慣れぬ路地を進んでいた時だ。
 道に面した窓際にソファー席が二つと、広々とくつろげるカウンター席が四つの静かな店内。物腰の柔らかそうな店主と、何より客がいないのが入店の決め手になった。
 マスターは印象通りの慎ましくて清潔な人だった。縁のないメガネと整えられた短髪の白髪頭は、前職が執事と言われても何の疑問もない。
「ごゆっくりお寛ぎください」
 高齢者の礼節あふれる佇まいや綺麗な言葉遣いに、僕はとても惹かれてしまう。そこには威圧も驕りもなく、山を下って濾過された天然水みたいに、ただただ洗練されたものだけがある。
 コーヒーは価格のとおり特別な味ではなかったが、慣れ親しめる心地よさは十分に感じられる深みがあった。長調と短調を忙しなく行き来するピアノジャズも、雑草の隙間から顔を出す百合の花みたいに控えめで上品だ。澄んだ文章とは、こういった空気の中で生まれるのかもしれない。初めて万年筆がスラスラと流れた。

 どうにか納得できるものが完成した頃に、マスターがおかわりを注いでくれた。
「初めてのお客様へのサービスです」
「ありがとうございます」
 マスターは優しげに丸めた目を便箋に向けながら「そちらはお仕事ですか?」と言った。
「あ……これは、その──」
 広末とはまた異なる、熟練された柔らかな空気に対し、あやふやな返答をするのは失礼に思った。
「ちょっとした罰で、ラブレターを書かされてるんです。妻に」
「それは素敵だ」とマスターは他意のない顔をほころばせた。
 あまりにも自然な笑顔に好感を抱いた僕は、恥ずかしさを紛らわす意味も兼ねて、いくつか質問を投げかけてみた。
「御主人は恋文をお書きになったことはありますか?」
「私共の世代なら、多少文学をかじった者の大半が経験済みでしょうね。希望を持て余した青年の嗜みのようなものでした」
 希望を持て余した青年の嗜み。
 そのワードの響きと紳士的な声が、耳にとても心地よかった。
 彼は言葉にワンクッション置くみたいに、一度笑みを深めてから、こう続けた。
「ただ、しがない老人の個人的な見解を言わせてもらえば、恋文は相手を選ぶものです」
「相手を、選ぶ」
「聞こえは悪いかもしれませんが、人は良くも悪くも先入観を持って物事を見つめます。モカは酸味が強いとか、ブルーマウンテンは舌触りがなめらかだったりと。こだわりを持たない多くの人にとって、豆の煎り方や挽き方というのは、文学でいうところの行間です。無関心な視点には、あまり映らない」
「行間……」
「お客様のご嗜好やご体調に合わせて、味や香りを調整する……近しい人だけが分かる、親しい人にだけ伝わるものを、行間に込める。それが恋文の、一つの在り方でしょうかね」

 喉がさっぱり潤った気分だった。文字を生業とする身でありながら、老馬の智には頭が下がるばかりだ。
 何かの縁を感じた僕は、名刺を渡すことにした。
「私、こういう仕事をしている者です」
「ほほう、出版社の方でしたか。御社の『爽籟(そうらい)』いつも楽しく拝読しております」
「それはありがとうございます……あの、今後も仕事抜きでお邪魔してもよろしいでしょうか」
「もちろん。ぜひお越しください」



 記念日をすっぽかされた妻は、手から離れた風船みたいだった。まだ何が起こったのか分からない子供みたいにぼーっとして、それでいて嵐の前の静けさを予感させる感情を、唇の裏にじっととどめていた。
 幸いその感情が爆発することはなかったけれど、僕らの関係は若干の変化を余儀なくされた。寝室は二つに分けられ、家事の役割分担が真逆となり、妻はよく朝寝坊するようになった。
 料理をすることに疑問は持たなかったが、何よりの問題は夜の営みが制限されたことだった。解除の条件はたった一つ。妻をもう一度、ときめかせること。
 その手段として提示されたのが、週末のラブレター。何だか有無を言わさず学生に戻された感じだ。
 いずれにせよ、妻を抱くにはその子供じみたご要望にお応えしなければならない。ひどく平和的な罰のようで、背中のかゆいところをかかせてもらえないような制裁(いじわる)にも思える。経費はかからないが、言いようのない労力と、三十代の男が青春の中に置き去りにした気恥ずかしさというものを、煮込んだ灰汁のごとく浮き彫りにさせてくれる。
 道端で恥部を見せたがる変態は、そういった感情の推移にでも興奮するのだろうか……と、くだらないことを考えていたら自宅マンションに着いてしまった。
 僕は甲子園出場を決める最後の一球をふりかぶる前のエースみたいに、大きく深呼吸してから、エントランスの自動ドアをくぐった。

 ランチョンマットにカトラリーを並べる妻は、浮かれた独裁者に見えた。機嫌が良いに越したことはないが、屈託のないその笑顔がどうにも不気味だ。普段より美しく見えるぶん、余計に。
 それでも、互いの好きな銘柄のビールで乾杯したら気にならなくなった。好きな人と週末の夜を過ごす……これが間違いなく僕の幸せだ。
「ビーフシチュー作ったの何年ぶりかな」と妻は皿の縁を綺麗に拭いたものを食べさせてくれた。
「完璧な味です」
「ゲンちゃんの好きな人参たくさん入れたげた」
「やわらかくて味が染み込んでて美味い」
「でしょ? お昼から煮込んでたから」

 それから時が来るまで他愛のない話をした。互いの仕事の順調ぶりを褒め合い、滝田先生への愚痴を笑ってもらい、今年の年末年始はどうしようかなどと建設的な相談も進められた。
 何だか新婚の頃に戻った気分……いや、楽しげな会話の陰から相手の反応を盗み見るこの感覚は、付き合い始めの頃やプロポーズの時に似ている。違うのは緊張の度合いだろうか。互いの薬指にはめられた指輪が、僕をホッとさせてくれる。
 そして、当時とはまた別種の緊張を僕に強いる──。
「まったくもう、焦らすのが好きなんだから」
「はい?」
 両手で頬杖をつきながらうんうんと話を聞いてくれていた妻は、突然おねだり上手な末娘みたいに小首を傾げ、両の手のひらを差し出した。
 室内灯に照らされた結婚指輪が、キラキラと、僕の不安と緊張を駆り立てる。
「はやくはやく。この一週間ずっと楽しみにしてたんだから」
「あ、ああ、例のやつね……今出しますよ、うん、まあ、あまり期待されても困るん──」
「そういうのダメ。仕方なくじゃなく、堂々と胸を張って渡して。心から書いてくれたんでしょ?」
「それは、まあ、はい」
「じゃ、ちゃんと渡して」

 妻の好みの色は知っていたが、最初のラブレターは気品を感じさせるものにした。洋形の封筒はシックにダークグレー。横書きの便箋は誠実さを込めて、白背景のクラシックな柄を選んだ。
 そんなダイヤ貼りのフタをためらいなく開けようとする妻に、僕は動揺を隠せなかった。
「え、ちょっ、目の前で読むの!?」
「静かに」
「は、はい……」
 便箋を丁寧に伸ばし広げた妻は、表情一つ変えることなく、無言で文字を目で追っていった。最初はテストを採点するみたいに、次は誤字脱字を確認する編集者みたいに、そして三度目は、コーヒーをよく味わうみたいに、瞳をやわらげながら、ゆったりと……。



『 拝啓 小泉ハル様

 時が移ろい、残暑が幾度と秋の風に流されようとも、貴方を見つめる私の胸中は、あの頃と違わず、いまだ陽炎のように熱をゆらめかせている。

 貴方の声の、陽だまりに誘うようなその慈しみの一つ一つが、心の水面にポタポタと波を打たせ、時には雷のごとき衝動を震わせる。

 朝を連れてきた過去と、夜を運んでくる未来の、狭間に息づく黄昏に身をゆだねながら、淡い色が重なって作られた思い出に、とりどりの想いを添える。いまだ見ぬ薄闇には、揺るぎない意志を、馳せる──。

 有限の瞬間に咲く、貴方の煌めきの数々を、同じ風に吹かれながら、この目に焼き付けていきたいと。

 願わくは、この感情のすべてを、貴方にも届いてほしい。
 されど、手をいくら伸ばしても星は掴めないように。掬い上げた水が、手のひらからこぼれ落ちていくみたいに……。

 言葉だけでは、貴方への想いを伝えきれない。
 言葉だけでは、到底、伝えきれない。


 小泉源 』



 顔が焼けるように熱い。
 飲み込んだ唾が耳につんざく。
 判決を控える被告人の気分だ。お願いだから、何か言って。

 およそ三度、文章を読み終えた妻は、笑みも悲しみも見つけられない澄み切った表情のまま、前髪を優しく撫で上げる秋風のような声で、こう切り出した。
「要望があるのだけど」
「ご、ご意見賜りたく存じます」
「手紙の形式を重んじてくれてるのは分かるんだけど、普段の言葉遣いで書いてほしいかなあ」
「……は、はい」
「ハル様ってのも堅苦しい」
「……善処いたします」
「それじゃ、また来週ね」と妻はニコッと笑い、丁寧に折り畳んだ便箋を封筒に戻した。
「……それだけ?」
「おやすみ」
「お、おやすみなさい」

 手紙を片手に寝室へと消えていく背中を見つめながら、僕はぬるくなったビールを飲み干した。
 うん……これはなかなか骨が折れそうだ。




【10月第1週】



 僕らの暮らす秋風(あきかぜ)町は、緑の多い地域だ。郊外と田舎に挟まれた場所にあり、駅前を少しでも離れたら豊かな自然が顔を出す。近年インフラ整備が進められ、交通の利便性向上に伴いオシャレな建物が増えたが、風の匂いは変わらない。県を跨いで海へと続く二級河川の裏白(うらじろ)川は、今日も流れが穏やかだ。
 自然景観を保全するまちづくりは、ここに生まれ育った多くの住民からの要望だった。妻もその一人に含まれる。だからと言うわけではないが、僕がこの町を気に入るのに時間はかからなかった。
 そんな秋風町を紹介する月刊誌『爽籟』のページを埋めることが、僕の仕事だ。自治体の地域振興課と提携し、個人経営店や地区のイベントなどを取材しては広報の記事を書く。人手の少なさもあってか照明係も兼ねたりする。
 そしてもう一つ。『爽籟』には小説枠があるのだが、その連載作家の担当編集も任されている。その先生というのが、まあ、なかなかの問題児でいつも苦労させられているのだ。

 この日も僕は、諦観と一抹の期待を胸にバスに乗った。出版社のある駅前から南へ10分も揺られると、なだらかな並木道の走る閑静な住宅地に着く。ついこの前まで新緑に輝いていたブナも、いつのまにか落ち着いた色を肌にまとまわせていた。涼しげなそよ風にざわめく葉々が、少し傾いた日差しに黄色く光っている。
 並木道を歩いていくと、小山を切り取った斜面に建ち並ぶ低層集合住宅が見えてきた。秋風町ではこういった分譲住宅が増えている。先生や僕らみたいに、独身貴族や子供のいない夫婦には適した住まいだ。
 玄関を気だるそうに開けた先生は、赤の混じった長い茶髪を邪魔くさそうにかき上げながら、いつもの言い回しで僕を歓迎してくれた。
「光栄に思いたまえ、小泉。私の城に上がれる男は、現在、キミだけになった」
「また別れたんですか?」
「別れたという言い方はそぐわしくない。互いの利害が噛み合わなくなっただけだよ」
「方向性の違いってやつですか」
「その表現もあまり好きじゃないな。視点の異なるパートナーの在り方も尊重されるべきだし、何より文学的じゃない」
「コーヒーもらっていいですか?」と僕は返事を待たずにコーヒーメーカーのスイッチを押した。

 滝田先生は我が出版社お抱え作家だ。この町に来るまでは鳴かず飛ばずの小説家だったらしいが、『爽籟』で連載した恋愛小説の大ヒットをきっかけに、大作家らしい振る舞いをするようになった。
 一言で言えば、仕事をサボるようになった。
 この日の室内も、およそ執筆とは縁遠い光景だった。モダン様式のリビングに似つかわしくないトレーニング器具の数々、ガラステーブルには人気漫画が全巻散らばり、ふかふかのL字ソファにはゲームのコントローラーが気まずさ一つ見せずに転がっている。
 毎度感じることだが、この人は書く気がないのではなかろうか。せめて書きかけの文章を表示したパソコンを開いておくとかしてほしいのに、そういう気遣いは一切ない。ボサボサの髪やキャミソールにショートパンツという格好も、今起きたと言わんばかり。公共の場ではバリバリのキャリアウーマンに見られそうな容姿を持ちながら、自宅内や気を許した相手の前では平気で紐の緩んだ下着を隠さない……まさに典型的な干物女だ。それでいて引き締まった素肌は若々しく、田舎に左遷された伯爵みたいな言動をするから、僕は分からなくなる。四十代の部長にタメ口を利いていたのを見てから年上だろうと認識していたが、実際のところは不明だ。別れた男の話はよく聞くが、プライバシーのほとんどは謎に包まれている。
 数年前から担当を引き継いだ僕は、それからずっとこの人に弄ばれている。何が腹立たしいかって、そんな彼女のことを嫌いになれない僕自身の性格だ。凡人が持たざるおかしみとも言えるなにかが、このずぼらな女にはある。
 前に大手出版社の人から、こんな話を聞いた。家に閉じこもるのが好きな女というのは、得てして、自分だけの世界を持っている。思春期の中学生男子ばりの野望やら欲情やらに負けないくらいの、ひどく個性的で独善的な世界観を。
 そんなおぞましい思想を言語化させて、世に伝えることは、ある意味、編集冥利でもあるけどね──そう言っていた彼は、数年前に出版業界から足を洗い、田舎でのどかな農ライフを満喫しているらしい……なんだそれ。

「ふふん、小泉──」
 くだらないことを考えながらコーヒーをすすっていると、先生は悪巧みを企てる子供みたいに鼻を鳴らしながら、僕の顔を覗き込んだ。
「キミ、あれだな。最近なにか問題事を抱えているというか、人生のターニングポイントにおける出来事にでも直面したんじゃないか?」
 勘の鋭い女性は苦手だ。魅惑的ではあるけども。
「図星か」と先生は得意げに笑った。
「転換点なんて世の中にいくらでもありますよ。締切も守らずに自宅で自由を謳歌してる人は初めて知ることかもしれませんが」
「刺々しいねえ。キミは昔からかってた近所の幼なじみによく似てる。口がお堅いところとか、歯を見せないように笑うところとか、無茶振りには小憎らしい言い回しでかわそうとするところなんかそっくりだ」
「ちなみに無茶振りに応じなかったらどうしてたんですか?」
「無茶振りとは、文字通り不可能なことを頼むことだ。ゆえに叶えてもらえなくても理不尽に怒ったりすることはないよ。ただ、キミもいい歳だからある程度理解してることだとは思うが、女というのは、なかなか諦めが悪いんだ。イイ女ってのは特にね。好きなコにちょっかいを出す男子みたいに、どうにかして願望を叶えてもらおうとあらゆる魅惑(わがまま)に走りたがるんだな。フェミが活発なこのご時世ではあまり大きな声じゃ言えないが、これは生物学上どうしようもないことなんだ。ゆえに、借りたシャーペンに付いた消しゴムを勝手に使ったり、女子の前で体操着の半ズボンを白ブリーフごと下ろしてしまったとしても、それは仕方のないことなんだ」
「その人が今は幸せに暮らしていることを願いますよ」
「そしてキミから頂戴した美術の資料本にラクガキしてしまったことも、仕方のないことなんだ」
「ちょっ、あんた何してくれてんスか、それ借り物だって言ったでしょ!?」

 先生との時間は、悪酔いの中でみた夢のようなものだ。気づけばいつだって彼女のペースに引きずり込まれている。僕が今、隣でゲームのコントローラーを握っていることも、仕方のないことなのかもしれない。
 それでも僕は、編集者として己の仕事に毅然と向かい合った。
「──実際、どうなんですか? 小説の方は」
「そうだな、例えるなら」
「例えなくていいです」
「今の状況は、向こう岸に橋を作ろうとしている段階に似ている。木材やとんかちなど必要なものは揃えているんだが、いかんせん設計図が見当たらない。自慢じゃないが、私は図工で3以上の成績を取ったことがないのだよ」
「ここはこうしようって展望ぐらいはあるでしょ? 何でもいいから聞かせてください」
「展望ねえ。最近のSNS隆盛へのアイロニーも兼ねて、時代錯誤に手紙でも出させようかとか考えてたりするんだが」
「手紙、ですか──」
 身近な人には知られたくなかった僕は、本筋を隠した上で聞いてみた。
「先生って、ラブレターとか書いたことあります?」
「突然どうした?」
「ああ、今度レターセットの特集企画を考えてて、色んな構想をしてるんです」
「ラブレターねえ。書いたことくらいあるよ。私をいくつだと思ってるんだ」
「なるべく年齢は聞かないようにしてたんですが」
「ふむ、ラブレターねえ──」
 格闘ゲームで僕に10連勝した滝田先生は、コントローラーを置くや窓辺へと立ち上がり、茜色が滲み始めた空に遠い目を向けながら禁煙パイプをくわえた。
 さながら映画のワンシーンを思わせる美しい背中に、なぜか無性にイラっとさせられたが、僕は黙って彼女の話に耳を傾けた。
「女の書くラブレターというのは、一つの芸術だ。誰にも見せることのない感傷的な日記のようで、それでいて単位ギリギリの学生が書いた卒論みたいにごちゃごちゃとした論理が混ぜられてる。それらが上手く調和されたものが文学となったり人の心を惹きつけたりするのだろうが、大半は法規的強制力のない政府の要請と同じで、伝達の粋を出ないものに終わる。ま、端的に言うと自己満足だな」
「それじゃ、男から貰うラブレターには、どんなことを期待しますか?」
「そんなものは相手によるが、普遍的な答えでいいなら"正当な評価"と言ったところかね。ラブレターを渡す時点で好意はすでに伝わってるようなものだから、あとは想いの基盤となる論理がありありと表現されてることを願うだけだよ。ミステリー小説の犯人の動機と同じ。ま、私はミステリー書いたことないけどな」
「ミステリーは書かなくていいから、恋愛小説の方を進めてくださいよ……って、ちょっと! 缶ビールを開けるな缶ビールを!」



 滝田先生の話をすると、いつも妻は楽しんでくれる。それも上品に鼻を鳴らす普段の淑女的な微笑ではなく、目尻に涙を浮かべるくらい爆笑してくれるものだから、僕はあの人を嫌いになれないのだ。
「──滝田先生とはまだ会ったことないんだっけ」
「前に遠くからちょこっと見たくらい」
「あの人、いつもハルさんに会いたい会いたいと言ってるよ」
「ふふふ。もうしばらくは傍観者のままでいいかな。そのうち仕事で会うかもしれないし」

 今週の妻の手料理も僕の好きなものばかりだった。豚肉ではなく鶏もも肉を使った肉じゃがに、三つ葉の卵とじ。鱈の西京焼に、枝豆を加えた炒り豆腐。どの味も妻と半分こしながら飲む500mlのビールによく合う。
 肉じゃがには、妻の苦手な人参もたくさん入れてくれた(彼女の器に人参はほとんど入っていなかった)。視点の異なるパートナーがどんな家庭を築いていくのかは分からないが、食べ物の好き嫌いが違っても、こうして上手くやっていくことはできる──。
 上手く、やっているよね? 
 そんな確かめる視線を向けた僕を、両手で頬杖をついて見つめる彼女は、さながら餌を待つ小猫のようで、それでいてスフィンクスみたいにどっしりとした威圧感があった。
 僕は見せつけるように深呼吸してから、ラブレターを差し出した。今週はネコの柄が入った便箋をライトピンクの封筒で包んでみた。
「かわいい」
「お気に召していただけたのなら光栄です……って、今日も目の前で読むの?」
「だってゲンちゃんが書いてくれたものだし」
「うん、だから目の前で読むのはなんか違くない?」
「まあ気にしない気にしない。それじゃ読ませていただきます」
「こういうのって、差出人のいない場所で一人で読むのが普通なん──」
「静かに」
「はい」



『 親愛なるハルさんへ


 青空を連れてくるような声で僕の名を口にした時。
 目を見つめながら話を聞いてくれる時。
 頭を撫でて送り出してくれる時。
 僕はたまらなくあなたに惹かれる。
 
 葉が色を変えていく時。
 会社で同じ弁当を食べている時。
 慣れない万年筆を走らせる時。
 僕はたまらなく、あなたを想う。

 ハルさんの生まれ育った町を歩きながら、この目に収めることのできなかった少女の姿を、今のあなたから想像し、これから見たいあなたの姿を、変わらない風に寄り添いながら、想い描く。

 町が輪郭をそのままに色だけ変えていくように、あの頃のハルさんが今のあなたとは違うように、僕の描いたハルさんが、この先のあなたと違っていても……それでもこの胸を優しく締めつけるぬくもりは、暖炉でのどやかに咲いた火のように、ゆらゆらと揺らめきながら、きっと、僕の中にあり続けるだろう。

 とどまることのない季節の中で、これからの僕が、いつまでもハルさんのぬくもりでいられるよう……。


 小泉源 』



 書面と差出人を交互に見つめながら、堪える笑いをふふんと吹き出す妻に、僕はいたたまれなかった。
「……あ、あのう、ハルさん?」
「ふふん」
「何か言ってもらえますかね……?」
「ふんふーん」
「何か言ってよ」
「じゃ、また来週ね。おやすみ」
「何か言ってってば!」

 最近の妻は魅惑的(いじわる)だ。




【10月第2週】



 どんなものにも長所はあると思っている。エレベーターすらない寂れた出版社でも、屋上だけは快適なように。
 晴れた日はベンチで弁当を食べ、遠くの自然を眺めながら紙コップのコーヒーをすする。おじさんの憩いの時間だ。
 隣でコンビニパンをほおばる後輩も、そんな風流を理解できる年齢になってきた……ということではなく、狙いは僕の弁当のおかずのようだ。広末はいつも人差し指を立てて「一つだけ」と言っては好きな具をいくつか横取りしていく。
 僕はこれを強盗の類いではなく、わがままと見なしている。わがままは女のコがつける香水みたいなものだ。人間だから当然、惹かれるものもあれば不快なものもある。
 広末のそれは、もう天性のスキルと思えるくらいの絶妙な加減だった。人たらしというのはこういうやつを言うのだろう。

 この日も広末は、ネギ入りのだし巻き卵をつまみながら、こんなことを聞いてきた。
「前から聞きたかったんですけど」
「ん?」
「先輩、愛人でもできました?」
 たまらず口に含んでいた水を柵の方に噴き出してしまった。
「お弁当のバリエーションもだけど、盛り付け方がこれまでと全然違うから」
「最近は俺が作ってるんだよ」
「岬先生と喧嘩でもしたの?」
「ただの役割分担の交代だよ」
「ふーん。でも先輩の卵焼きも美味しいですね」
 女の人は、男には無い特殊能力を備えている気がする。
 言い換えるなら、ものの見方が違うといったところか。クリエイティブな職場ではプラスになることが多い。
「今日は撮影でしたっけ?」
「うん。杉さんと今月号の表紙を撮りに」
「私も行きたいなー。Webのプログラミングばかりで体が鈍っちゃう」
「広末がパソコン得意で助かってるよ」
「じゃあそのタコさんウインナーもください」
「俺に梅干しだけで白飯食えってか?」



 創作に必要なものはインスピレーションである。だがそのひらめきは、凡人の視点では見つけることができない。
 昔あるカメラマンがそんなことを言った。たしかにプロのクリエイターというのは、一般人とは違った角度からものを見ていると感じる時がある。
 出版社と契約している杉元さんも、そんな独特の視点を持った一人だった。会社の車を転がす僕の隣でカメラをチェックしていた彼は、世間話の延長でこんな話を始めた。
「──コイちゃん、最近料理始めたらしいね」
「始めたというか、再開したというか」
「僕も料理が好きでね、週末はよく娘と作ったりするんだけど」
「娘さん、いくつになりました?」
「14。来年は受験だよ」
「やっぱりあっという間って感じですか?」
「そうでもないかな。小さい頃から見てきたらそう思うのかもしれないけど」
「そういうもんですか」
「それよりコイちゃん。フライパンの替え時っていつだと思う?」
「フライパン、ですか?」
「僕は表面のコーティングが剥がれて、豚こま肉や焼きそばの麺がこびりつくようになったら買い換えるべきだと思ってるんだ。もともと高価な物は使ってないからね」
「んー、俺も杉さんのタイミングで買い替えたいとは思いますね」
「娘も同じ意見なんだ。でも嫁さんだけは、まったく気にしないんだよ。『あんたら繊細やわー』と笑っては、何がこびりついてもお構いなし。なあ、コイちゃん。これってとても恐ろしいことだと思わないか?」
「おそろしい?」
「考えてもみてよ。娘は紛れもなく嫁さんの子なのに、僕と似た感性を持ってるし関西弁も使わない。孵ったばかりの雛は目の前にいる存在を親と認識するなんて話を聞くけど、娘と出会ったのは3年前だ。たった3年で、血の繋がらない男と性質が似てくるものなのかな?」
「ははは。でも別に悪い気はしないでしょ?」
「もちろん。でも考えちゃうんだよ。娘の繊細さが僕の影響だったとしたら、これからどんどん僕の短所まで似てきちゃう可能性もあるってことでしょ? 鼻毛は切らずに必ず抜くんだって哲学を身に着けたらと思うと、夜も眠れなくてね」
 思春期の子だし、考え過ぎだと思うけど。
 そう言いかけたが、僕は笑うだけにとどめた。親の気苦労は、親にしか分からない。


 裏白川では気管が洗われるような風が吹いていた。昼下がりの水面はキラキラと輝き、伸びたススキが涼しげに袖を振っている。
 澄んだ空の下では、北の県境の方にある花野(はなの)山がよく映える。ちらほらと紅葉が目立ってきたのがここからでも見える程だ。
 照明のいらない屋外撮影は杉元さんの一人舞台だ。手持ち無沙汰の僕は情景をメモし、雑誌の表紙にあてる宣伝文句を考えている。
 色づいてきた山を背景にシャッターを押しながら、杉元さんはしみじみとした口調で言った。
「あっという間と言えば、秋だよね。金木犀の香りがしてきたかと思えばすぐに肌寒くなって、葉が色づいたと思ったらすぐ雪が降ってくる」
「杉さんはここの人でしたよね」
「うん、コイちゃんの奥さんと同じ小学校。今はよそと合併しちゃったみたいだけど」
 迷いのないシャッター音が次々に聞こえてくる。杉元さんは仕事が早い。それでいてとても良い写真を撮るものだから、僕の文案も負けじとアイデアが浮かんでくる。
「去年の11月号は花野山にしたんだっけ」
「去年は紅葉が遅かったですからね。今年は三丁目の並木道にしようかと思ってるんですけど」
「あー、滝田先生のところかあ。あの人まだサボってるの?」
「担当としてはそういう言い方はしたくないですが、まあご想像の通りです」
「あはは。でも僕さ、少し分かるんだよね」
「杉さん真面目じゃないスか」
「じゃなくて、書かないこと。もしかしたら書けないのかもしれないけど」
 あの唯我独尊の女が書けないかもという発想は、担当の僕には寝耳に水だった。
「どうしてそう思うんですか?」
「ある程度価値が認められて自由にできるようになった僕らみたいな人種はさ、自分が納得できるかってところに重点を起きたくなる。雨が降った翌日の川のように、衝動的な表現に身を任せていた若い頃の刹那的な感性と、基礎の大事さを改めて知った経験値らがぶつかる葛藤を抱えがちだ。簡単に言うと、何かしっくり来なくなるんだよね」
 ラブレターを書く前の僕だったら、彼の言うことをあまり理解できなかったかもしれない。
「岬先生には、そういうところあったりする?」
「どうですかね。誰かさんみたいに締め切りを守らなかったことは無いと思うけど」
「まあ、翻訳はまた違うものなのかな。一から生み出す小説だと、もっと複雑なのかもしれない」
「写真だって単純なものではないでしょう?」
「どうだろう、定義は人それぞれだからね。高速の変化球にバットを当てるプロの打者みたいな撮り方をする人もいれば、自然と一体になりたがる人もいる」
「杉さんは?」
「ケースバイケース。穴熊のように閉じこもってじっとその瞬間を待つ時もあれば、棒銀のようにグイグイ切り込んでいく時もある。グラビアなんかでは後者かな」

 若い頃は世界各地に足を運んでいた杉元さん。それこそ貧困地域や紛争地域まで。
 前に一度、脇腹の銃痕を見せてもらったことがある。危険と隣り合わせでよく家を空けるそのワークスタイルが原因で、若い頃に一緒になった最初の伴侶とはお別れしたそうだが、今ではこうして一児の父親として隣の郊外で暮らしている。親しみやすい人間性はもちろん、社会的評価も高いカメラマンだ。
「──よし、今日も良いのが撮れた」
「杉さんは」
「うん?」
「杉さんは、今も戦場を撮りたくなる時がありますか?」
 杉元さんは想いを馳せるみたいに青空を仰いだ後、はぐらかすように笑って、こう言った。
「そこにあるものを、様々な角度から見せるのが僕らの仕事。高速に変化していく一瞬を僕が切り取り、コイちゃんたちがそれを繋ぎ合わせる……今の仕事、好きなんだよね」

 ラブレターの執筆は、正直大変だ。ポップソングに出てくる歌詞を気軽に使えたらどれだけ楽だろうといつも思う。
 でも、僕にはそれができない。僕はそういう人間ではないし、妻もそれを知っているから。
 どうでもいいものならいくらでも作れるが、大切なものだと思えば思うほど、やはり手は抜けないのだ。

 帰りの車の中で、僕はこんなことを聞いてみた。
「杉さん」
「うん?」
「連れ子を育てるって、どういう感覚ですか?」
 杉元さんはおかしそうに僕を見た。
「なんですか?」
「いや、何だか結婚式を控えた新郎みたいなことを聞くからさ」
 その例えはどうなんだろう。今一ピンと来ない顔を隠さないままに、僕は続きを待った。
 杉元さんは、カメラを赤子の肌みたいにさすりながら、答えを探すような口ぶりで言った。
「昔はさ、自分だけにしか撮れない写真ってのを追い求めてたんだ──」
 それは、過去を懐かしむようで、それでいて今を慈しむような優しげな声だった。
「同じものを見て、同じことを思えるのって素敵だけど、違っていたとしても、全然良いんだよね」



 あれは、いつの頃だったか。妻がこんな話をしていたのを思い出した。

 "子供ができたらアキって付けたいな。どっちの性別でもいけるでしょ?"

 秋風町の秋は短い。
 咲いては散りゆく花びらみたいに、避けられない冬を前に、その命を色鮮やかに燃やす。
 戦地を経験した杉元さんは、きっと、名前のつけられることのないそんな一瞬たちを、残してあげたかったのではないだろうか。
 目に見えれば、人は、それらを知ることができる。
 見えない聞こえないものを、人は、知らない。



 夕方、妻からこんなメッセージが届いた。

『今夜は外食しよ。迎えに行くから終わる時間教えて』

 出版社からちょうど出てきたところに、見慣れた車がやって来た。8年前に買った白のSUVだ。
「運転代わる?」
「んーん、私したい。帰りはお願いね」
 妻の要望で中華料理屋に行った。雲白肉に鶏肉のカシューナッツ炒め、焼売に春巻き、麻婆豆腐から炒飯に玉子入りのコーンスープとすべて小皿で頼み、シメの杏仁豆腐まで僕らは夢中でほおばった。
「麻婆豆腐を食べた受け皿に炒飯をよそうのは邪道だと思う?」
「世界中からダメと言われても、俺たちのセオリーにしよう」



 帰宅早々、ソファに倒れ込んだ妻は、可愛げに膨らんだお腹を満足そうにさすった。
「あー、食べてしまった。中華だといっつも食べすぎちゃう!」
「あれもこれもってなるよね」
「太ってないかなあ? 最近ついたお肉が全然燃えてくれないんだよね」
「まったく分からないけど」
「見えないところがちょっとね」
「たまには見せてもらえませんかね」
 妻がお風呂に逃げてしまったので、僕は週末お決まりのビールを楽しむことにした。冷蔵庫を空けるついでに、弁当箱を流しで洗う。
 しまおうと食器棚を開けた時、二つ折りのメモ用紙を載せた弁当箱を見つけた。妻のものだ。めくってみると、彼女の字でこう書かれていた。

『全部残さず食べました。美味しいお弁当ありがとう。(ニンジンさんが入っていたので、語尾にハートは付けてやらぬでござる)』

 350mlの缶ビールを半分くらい飲んだ頃、前髪をヘアバンドで上げた妻が、美容製品の詰まったメイクボックスを片手に戻ってきた。どうやらフェイスマッサージをご所望らしい。
「やって」
 お願い、ではなく、やって、と言う時の妻が好きだ。そのあたたかみのある声は命令でも依頼でもない、好きな人からのわがままに値する。
「お肌むくんでないかな?」
「できたてのシュウマイみたいにぷにぷにしてる」
「それ褒めてるー?」
 桃の香りがするオイルを肌に塗り込み、中指と人差し指の腹を使って優しくほぐしていく。適度にオイルを残した状態から、ローションマスクで顔をひたひたに覆う。これが妻の好むやり方だ。
 僕はこのシートマスクをかぶせる瞬間が好きだ。膝の上で無防備に目をつむる彼女が、何より愛おしい。
「はい、今から5分ね」
「10分にして」
「はいはい、10分ね」
「やっぱ15分」
「足痺れちゃうからイヤです」

 僕らは結婚して8年になる。カラッと乾いた洗濯物を丁寧に折り畳んで、タンスに一つ一つ綺麗にしまっていくような時間だった。時々雨に濡れたりもしたけれど、今となってはいい思い出だ。
 もちろん、汚れてしまったものもある。
 洗い直せず、捨てることのできなかったものも……。
「──ゲンちゃん」
「……ん?」
「今週の」
 またこの時間がやって来てしまったか、と僕は苦笑いせずにはいられなかった。
「はやくはやく」
「あと5分残ってるよ」
「読んで」
「はい? 俺が?」
「たまにはいーじゃん」
「たまにはって、今日でまだ3回目なんですけど」
「やって」
 数ヶ月に一度、妻が徹底的に甘えたがる日が来る。ちょうど季節の変わり目辺りだ。たくさんの嬉しかったことと、ささやかな感傷が、彼女の中でミルフィーユのように重なって表れる。
 感傷を構築するものが何なのかは、いくらか想像できる。でも僕は聞かないし、妻も話さない。押し入れから引っ張り出した、その縮んでしまった服を、ぬいぐるみみたいに抱えながら僕に寄り添ってくる彼女は、ケーキフィルムで僕ごと巻きつけるみたいに、決まってわがままを言う──。
 童話のお姫様みたいに爛漫に。
 作家が文末に心残りなく打つ、ピリオドみたいに……きっと、その日を笑顔で締めくくるがために……。
 そんな彼女に、僕はため息混じりに笑って従う。夫の特権だ。
「承知しました、お姫様」
 クマ柄のクッションに大切な姫の頭を預け、僕はラブレターを取りに行った。



『 親愛なるハルさんへ


 鳥が風を欲するみたいに、僕は辞書を引く。
 美しい譜面をなぞる演奏者のように、あらゆる言葉をかきわける。

 それでも、散ってしまう花びらみたいに
 ピースの異なるパズルみたいに
 僕はいつも、しっくりくるものを見つけられない。

 どれだけ格式高い言葉を探しても
 文学性に惹かれ、身の丈に合わない表現にすがっても
 僕の想いをあなたの前にありありと映し出せたことは、一度も無いのかもしれない。

 月の美しさで愛を表現した文豪を恨めしく思い
 ギターを持ってあなたの前で歌えない自分を、頼りなく感じる。
 ボディランゲージで想いを陽気に伝えていそうな外国人を妬ましく感じ
 恋愛小説を嗜んで来なかった思春期の頃の自分に、コブラツイストをかけてやりたくなる。

 それでも、今は今の僕しかいない。
 そして、いつだって、今のあなたを求めてる。

 雨が続くと、陽射しに焦がれ
 日照りが続けば、雨音を聴きたくなるけれど
 どんな日でも見たくなるのは、いつだって、その笑顔──。

 あなたの笑顔は、どんな傘よりも、僕を僕でいさせてくれる。

 誰よりも近くで
 さまざまな角度から
 ハルさんの笑うところを、眺めていきたい。


 小泉源 』



 文字で送るのと口にして届けることが、これ程までに違うとは。熱湯に浸したシートマスクでも着けてるみたいだ。逃げ場を求めた胸が激しく暴れている。怖くて下を向けない。
「……い、いかがでしたか?」
 チラリと伺った妻の頭は、微動だにしない。
「たまには感想ちょうだいよ」
 微動だにしない。
「ねえ、ハルさん……」
 仰向けの体は重力に逆らわず、ゆるやかな呼吸に上下している。
「……ハルさん?」
 マスクをめくると、無防備に閉じたまぶたと、ほっこりと浮いた下唇が、柔らかな空気にすやすやと包まれていた。
「寝てんじゃねーよオイ」

 好きな人のわがままは、食後の杏仁豆腐みたいだ。




 来週に続く。

週末のラブレター

執筆の狙い

作者 跳ね馬
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ほのぼのとした日常を描いて見たくて書いてみました。

コメント

自分らしく
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読ませていただきました。

読後、第一印象。
比喩表現や描写が独特で……
独特なのは構わないんですが、残念なことに私の口には合いませんでした。

なんて言って良いのか……
ほのぼのとした日常を描いてみたくてと執筆の狙いにあり、確かに、主人公の日常が描かれてはいますが、『日常』の風景の描写が内容と合っていないように、わたしには思えました。
もっと、比喩的な言葉を使わずに、ストレートに表現及び描写をしても良いのではと。
風に揺れるススキの描写に『穂』という言葉を使わず、『袖』と表現されていましたが、わたしには違和感しかありません。
時代小説ではないのですから、現代風に分かりやすい表現で良いと思います。
ラブレターの文章に使っている比喩表現や言葉遣いを、そのまま、地の文にも使っているような印象を受けます。
作中に出て来るラブレターは、あくまでも、登場人物が『個人的』に書いているものなのですから、それと作品の比喩や描写が、同じ仕様ではいけない気がします。

簡単に言ってしまえば、全体的に『くどさ』を感じた……と言うところでしょうか。
内容は確かにほのぼのとしています。
出て来る登場人物たちも、個性があって面白い。
セリフ回しも、人物たちの個性を捉えていて、その個性を殺さない書き方で好印象。
ただ、独特な比喩表現や描写が、何とも言えず、わたしには合いませんでした。

それを感じなければ、もっとすらすらと、さらっと……
ほのぼの感を感じながら、読み進められたと思います。

では・・・

そうげん
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跳ね馬さまへ

作品読みました。よくまとまっていたと思います。

夫婦の関係性が毎週、夫が妻にラブレターを送るという変化によって、うまく描かれているようでした。9月のときは気にならなかったのですが、10月1週で妻がちょっとデレたときにあれ、これどこかで知ってるなと思いました。今日は水曜日。わたしはいい年をしていまだに週刊少年サンデーを毎週読んでるのですが、(今日も読みました。)畑健二郎さんが描かれてる漫画『トニカクカワイイ』の主人公ナサくんと、その奥さん司ちゃんの関係性にとっても似ているんですね。そして作品を通して読んだときの印象、描こうとしている夫婦の関係性のあれこれが瓜二つといっていいほどでした。今朝サンデーを読んだばかりだったから余計にそう思うのかもしれません。畑さんの漫画は『ハヤテのごとく』からずっと好きなので『トニカクカワイイ』も楽しく読んでいて、だからこの小説に描かれている雰囲気もとても好きなものでした。

妻の《『全部残さず食べました。美味しいお弁当ありがとう。(ニンジンさんが入っていたので、語尾にハートは付けてやらぬでござる)』》というメッセージこそ、ラブレターって感じがしました。作中で書かれていた行間というもののなかに、妻の夫に対する愛情がしっかり織り込まれていて。夫が最初に書いたラブレターのようなのを、ラブレター初心者はついこれぞラブレターのフォーマットと思ってしまうのでしょうが、ふだんの言葉で書いてほしいといった妻が、ちゃんとそれを実践しているというか、どういう言葉で書くのが相手に心を伝えるのに適しているのかわかってるのですよね。

10月1週のラブレターを読んだ後の妻の反応がもう、あんたら相思相愛なんだなって感じられて、だからこそ余計に『トニカクカワイイ』を彷彿したんですよね。

楽しんで読みましたということをお伝えいたします。

13hPaブロでしょ
KD111239114147.au-net.ne.jp

>ほのぼのとした日常を描いて見たくて書いてみました。


と言われてしまえば確かにそれしか書いてないようなので、感想の書きようこそない気がしてしまうのはあたしだけでしょうかね。
ほのぼのしたいだけなら、明らかにサイズから的確ではない気がするし、フォーカスそのものがよくないので終盤に向かえば向かうほど蛇足染みた感度と表現が混み入って、読後感としても決して良好なものではない気がします個人的には。


>ラブレターの執筆は、正直大変だ。ポップソングに出てくる歌詞を気軽に使えたらどれだけ楽だろうといつも思う。
 でも、僕にはそれができない。僕はそういう人間ではないし、妻もそれを知っているから。
 どうでもいいものならいくらでも作れるが、大切なものだと思えば思うほど、やはり手は抜けないのだ。


ほのぼのしすぎて勢い失礼な気がしてしまうのはあたしだけですか。


> 秋風町の秋は短い。
 咲いては散りゆく花びらみたいに、避けられない冬を前に、その命を色鮮やかに燃やす。
 戦地を経験した杉元さんは、きっと、名前のつけられることのないそんな一瞬たちを、残してあげたかったのではないだろうか。
 目に見えれば、人は、それらを知ることができる。
 見えない聞こえないものを、人は、知らない。


上で言った通り、フォーカスがよくないからせっかく恰好付けたらしい語りが無邪気にのぼせてるみたいで何だかピンときません。




なんて、いろいろ意地悪そうなこと言ってみるんですけど、ほのぼのしたいらしく楽しんで書かれたらしいことは伝わってきます。

ただ所詮座り悪く感じさせられるのは、小説っぽさを装いながらその実、キャラに喋らせたいためだけに仕込まれるらしい地の文の迂闊さ、面白みのなさということで、だからこそ悪目立ちしすぎる過度な迂回表現ってことなのかもしれないとか、要は楽しみは結構でもそれが過ぎて必要な圧縮や抑制が効いていない印象を個人的には受けなくもなかったりするわけなんです。


小説的な地の文章の楽しみに乏しい、なんてことはただの言いがかりで、それって例えば

>ほのぼのとした日常を描いて見たくて書いてみました。

という目的にあっては概ね無関係なこととして切り捨てて開き直れることなのか、という疑問とか違和感のようなことを先に言わせてもらったわけなんです。


これをショートショートくらいにまで削ぎ落としても描けるイメージが作者にあるつもりなら、あたしが言ってることはただの言いがかりということでも全然問題ないと思うんです、って単純な意味伝わりますかね。

跳ね馬
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自分らしくさん、感想ありがとうございます。

三人称ならもっと淡々と書いてますが、一人称なので「僕」という個性を全面に出してみました。
ススキの件は、「袖振草」という別名からああいった書き方をしてみましたが、そういった描写がくどく感じられたのかもしれません。

ラブレターとのギャップを出そうとした場合では、たしかに地の文はもう少し落ち着かせた方が良いのかもしれません。

参考にさせていただきます。

跳ね馬
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そうげんさん、感想ありがとうございます。

行間の機微とでも言いますか、作中の随所で文字にはしなかった箇所を、そうげんさんのように読み取っていただける読者の方がいると、書いて良かったなと思います。

無関心な視点にはあまり映らない行間に、いかに目を向けてくれるような文章展開にするかが、この作品を書いたテーマの一つでもあったりします(もう少し端的に、薄味にしとけば良かったかなとは思いましたが)。

上述してくださった作品は分かりませんが、サンデーうぇぶりはすでにダウンロードして利用させてもらっているので(あだち充・西森博之先生らの作品が大好きです)、時間ができたらゆっくり読んでみることにします。

跳ね馬
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13hPaブロでしょ、感想ありがとうございます。

そうですね……過度な迂回表現が悪目立ちし過ぎる言い回しと、意地悪そうな口ぶりが過ぎて必要な圧縮や抑制が効いていない印象を受けなくもなかったりするご意見でしたね。

なのでせっかく長々ダラダラと恰好付けたらしいご意見が無邪気にのぼせてるみたいで何だかピンときません。

端的に言えば、ちょっと何言ってるか分かりませんでした。

跳ね馬
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敬称を付け忘れてしまいました。申し訳ありません。

13hPaブロでしょさん、読んでいただきありがとうございました。

13hPaブロでしょ
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大丈夫ですか。
作者の性分は全然ほのぼのしてないみたいですけど、自信あったのに悪口言われた気がして動揺しちゃいましたか。

わかってるからそんなむくれた返信しなきゃ気が済まないんでしょ。
性格の悪さ丸出しっぽいですけど大丈夫ですか。

そういう気質が透けてるって、せっかく言わずにいてあげたんですけど、自分から台無しにするのも性分ならまあ好きにしたらいいです。

見立て通りすぎて残念ですけど。








せっかくの自分の作品のつもりなら、もっと大切に振る舞えばいいのに。

馬鹿だなあ。

(他利用者様向け都合便乗広告)

跳ね馬
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なんというか……後出しジャンケンをして得意げになってる小学生というか……論理性を放棄した子供が苦し紛れに言った「お前の母ちゃんデベソ」と同レベルの悪口が返ってきたのでびっくりしました。

「そんなむくれた返信しなきゃ気が済まない」とありますが、それは敬称を付け忘れた事でしょうか?
私は完璧な人間ではないので、たまに誤字脱字をしてしまいます(お名前を間違えないようにコピーしたものを切り貼りするので、ついつい敬称の付け忘れを見落としていました)。
その非礼を先にお詫びいたしましたが、謝罪だけでは飽き足りないのでしょうか?
あなた御自身がこれまでの人生で一度もミスや誤字脱字をした事のない完璧な人間だと主張されるのなら、そのお怒りはもしかしたら理にかなったものかもしれませんが、こちらは匿名の場なので、どのような提示をされてもその真偽を判断できる根拠は無いので、どうしようもありませんが。

ちなみに、相手の顔も名前も伺えない匿名の場での断定的な批判は、『個人の感情やコンプレックスが多分に反映される』傾向がある、という統計的見地があるようです。心理学的見地では、自分が言われたら傷つくような事柄を無意識(または意図的に)チョイスする心理傾向があるようです。

あなたからいただいたご意見がいまいちピンと来なかったので(独善かつ雑然とした論調が文法的にもひどく読みづらかったので)、非礼の無いよう"あなた御自身が用いられた言葉遣い"を拝借した上で、最後は私の言葉で率直に「ちょっと何言ってるか分かりませんでした」と返答をしたら、それを「動揺した」と断定し、「性格の悪さ丸出し」と判断主張されてしまうと『あなた御自身の言い回しがとても悪質なものであるという何よりの根拠』となってしまいますね。

端的に言えば、見てるこちらが恥ずかしくなります。

13hPaブロでしょ
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そう思う人なんでしょってさ、だから好きにしたらいいですって言ってるんです。
わかんないですか。

最初とは打って変わってそのずいぶんおしゃべりな感じも何のためなの? っとことでしかないでしょ。
わかりますか? 実際感想つかないんだし。
あたしのせいだと思うなら、それもあなたがあたしにしたことと変わんないってこと。

いろいろやり方間違ってないですかね。
いろんなこと想像つくんですけど、まあ好きにしたらいいです。

跳ね馬
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好きにしたらいいと言われたので、好きに発言してるのですが……。
一連のあなたの言動通り、まるで論理性が無いですね。

最初とは打って変わってずいぶんおしゃべり、とありますが、必要量に応じて文字が増えるのは至極当然の事かと思います。
義務教育を卒業できるレベルの常識と論理性があれば誰もが理解している事ですね。

あたしのせいだと思うなら、って……聞いてるこっちが恥ずかしくなりますね。
私は一言もあなたに責任を転嫁するような発言はしていないし、そもそも"何を"あなたのせいにすればいいのでしょうか。

義務教育を卒業できるレベルの読解力さえあれば、私の発言が何一つあなたに責任をなすりつけていないという事実は、誰の目からみても明らかだと思います。

それから、感想はあなたの前にすでにいただいてますが……。
見落とされたのでしょうか。
あなたが最初にくれたコメントの上へスクロールしてもらえば、お二人の感想がご覧いただけるかと思います。
素早くスクロールされてしまうと、掲載箇所を飛び越えてしまう恐れがあるので、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりとスクロールしていただければ、見落とされる可能性は少ないかと思います。

そうげんさんには好意的に読んでいただき、自分らしくさんにはとても論理的で分かりやすいご指摘をいただきました。

私は自分を中心に地球が回っているなどとは考えていない人間なので、個人の憶測だけで物事を断定するような発言は控え、分からないご意見に対しては素直に分からないと答えるようにしています。好きにしたらいい、と発言の制限を強いられる事もなかったので、論理性を放棄することのない意見を忌憚なく発言しています。

13hPaブロでしょ
KD111239114147.au-net.ne.jp

言っても言わなくても結局同じ、ってことだから。

まあ頑張って。

跳ね馬
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10月第3週を更新したので、こちらに掲載させていただきました。


【10月第3週】


 肉体と精神は一蓮托生だ。病は気からという言葉があるように、双方は密接に繋がっている。
 その理屈から、意識改革には新しいことを始めるのが一番らしい。旅に出るとか大それたものではなく、ウォーキングをやってみるだけでも十分な前進なのだとか。

 そんなわけで、いつもはお昼過ぎにセッティングされる滝田先生の打ち合わせだが(それでもよく寝坊されたが)、この日は午前中からお邪魔することにした。
 案の定、彼女はむくれた顔で出迎えてくれた。今にも閉ざされそうな目は陽射しに焼かれているみたいに腫れぼったい。
「なんだなんだ、日本が沈没でもしたのか? いったい今何時だと思ってるんだ」
「午前10時です。というか何度も連絡しましたよね?」
「私が低血圧なのは知ってるだろう。担当編集なら少しは気を遣ってもらいたいものだな」
「朝の通勤ラッシュはとっくに終わってる時間帯なんですがね」
「まさかとは思うがキミ、これから毎回こんな不謹慎な時間に押しかけてくるつもりじゃないだろうね?」
「それは今後の先生次第ですかね。停滞した状況を打開するには、生活サイクルを変えるのが効果的らしいんで」
 リビングは相変わらず、一癖ある芸術家が演出した舞台みたいだった。色々なものが雑然としているが、唯一の救いはゴミ屋敷と化していないところだろう。この女はずぼらだが、綺麗好きではある。もっともその清潔さは汚れや埃だけを対象とし、床に散らばった漫画や雑誌を片付けようとする意欲は備わってないようだが。
 客が部屋の整頓を行い、家主がソファでふんぞり返るという奇妙な構図の中、さも当然といった顔に美顔ローラーを転がしていた先生があくび混じりに言った。
「生活サイクルの変換ねえ。イマイチ信憑性を感じないな」
「前にテレビに出てた学者さんが言ってたから確かかと。そこ、本片付けたいんで足どけて」
「小泉、キミは説得力という言葉を知っているかい? 最近の目立ちたがり屋は、自分が高尚な魔法使いにでもなったと勘違いしてるかのごとく、それらしい言葉を口にしとけば何とかなると思っている。まったく、市民プールで水着を脱いで日焼けしているバカップルより見苦しい連中だね。説得力とはいつだって、その人間が成してきた行いによって備わるものなのに」
「ほうほう」
「テレビをつければいつでも出てくるだろう? お前が言うなよ、って人間が。そういう連中に限って、自分が困ったら普段バカにしてきた脳筋戦士にもっと人様のために筋肉を使えなんて無理難題を掲げるのだよ。そりゃ良識ある若者はみんなテレビなんてつけなくなる」
「ご高説痛み入りますが、何ヶ月も締め切りを守らない人から聞いてもいまいち説得力がないんですが」
「悲しいね、小泉。どうやらキミもこの御時世の毒に侵されているようだ。右向け右の大衆はいつだって、物事の本質を捉えようとしない。その言葉に備わる正否よりも、誰が言ったかの方を重要視してしまう。ホモサピエンスの最前線を行く現生人類として恥ずかしいと思わないかい?」
「舌の根が乾かない、という言葉の最もな事例に直面した気がしますよ」
「あー言えばこー言うなら知ってるが」
「コーヒーもらいますね」

 最初の10分は仕事の話に付き合ってくれた彼女だが、僕がトイレから戻った時にはゲームのコントローラーを握っていたので、危うくズッコケそうになった。何が腹立たしいかって、小説の打ち合わせよりも画面に目を向ける眼差しの方がやる気に満ちていることだ。
 前に無断でコンセントを引き抜いたら一ヶ月口を利いてくれなかったので、僕は隣に座ってやんわりと呼びかけることにした。
「お願いしますよ滝田先生。もう何ヶ月休載してるんですか」
「お堅いこと言うなよ小泉。世の中、誰の代わりもいくらでもいるものだ。私がサボったからって誰も困らんし、世の不景気は改善しないよ」
「担当の僕が困るし、『爽籟』の売上にも関わるんですが」
「そういえば私の穴埋めに載ってた今月号の短編、なかなか良かったな。一夜にして進化した鶏や豚さんたちが、厩舎の脱走を企てるってお話。どんなに知能が発達しても、人とコミュニケーションをとれないってところがツボだった」
「代わりに書いてくれる作家先生が見つからなかったから、出版社(ウチ)で運営してる小説投稿サイトに掲載されてるアマチュアの方にお願いしたんですよ。快くご協力いただけて助かりましたが」
「便利な世の中になったものだ。供給と生産の比率が人と魚の出産数ぐらい差があるところが滑稽だよ」
「仕事中にゲームのレベル上げを始める人は滑稽を通り過ぎてドン引きするんですが」
「自社で飼ってるアマチュアに本誌掲載という餌をちらつかせ作品を提供させた、か……供給側(キミら)からすれば、そこらの石ころを拾うみたいな感覚なんだろう。こんな楽な商売他に無いな」
 いくらか意地悪な物言いだったが、事実として間違ってはいないので僕は返答に困った。
 先生はまつ毛をキッと伸ばし、僕に横目を向けた。
「小泉クン、キミはそれでいいのかい?」
「こういうのは正しいやり方ではないって思ってますよ。僕も会社もね。席に座ってる人が相応しい仕事をしてくれないと、たくさんの人にしわ寄せが行く」
 先生はおもむろに立ち上がるや、窓を開け、粛々とした顔で禁煙パイプをくわえた。流れてきた微風が、ふんわりとシャンプーの香りを泳がせる。
 彼女をよく知らない人だったら、その横顔に心惹かれたりするのかもしれない。化粧気のない唇から放たれる、普段のひょうきんな軽口とは一線を画すおごそかな声色に、胸を打たれるのかもしれない。
「なあ、小泉……私はね、現在のエンターテインメントの在り方に疑問を抱かずにはいられないのだよ。たしかに稀に本物も出回るが、大半は知名度や宣伝力に脚色(メッキ)された紛い物ばかり。キミが見つけてきたあの短編みたいに、カットすれば宝石にもなり得る原石があちこち落ちてるにも関わらず、現実問題、声の大きな人間が拾った石ばかりが世に放たれる」
「それは今の時代や出版業界に限った話ではないと思いますがね」
「どれだけ情報伝達が発達しても、それを使いこなすのは人だろう? 結局のところ、科学がどれだけ進歩しようと、人は何一つ進化しちゃいないんだ。家畜がいつまでたっても酪農家に反抗できないようにね。私はね、そういうことを考えてると、夜も眠れなくなるんだ。仕事なんかしてる場合じゃないと思っちゃうんだよ」
「それが、新作RPGを徹夜でやり込んだ言い訳ですか?」
 驚愕に振り返ったその顔は、みるみると赤くなった。
「き、貴様! なぜそれを知ってるのだ!?」
「あんたがSNSに載せたからだよ」

跳ね馬
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 何とか早寝早起きのサイクルに矯正したかったが、トイレに行くと言われて目を離した隙に寝室にこもられたとなってはどうしようもなかった。僕はリビングを執筆に相応しい環境に整え、腹いせに戸棚から妻の好きそうなお菓子を2,3コ頂戴して、出版社に戻った。

 僕が金曜日に早く帰るようになったことは、狭い社内ではすでに周知だった。妻がどういう人なのかも知られていたので、同僚たちは夕方が近づくにつれ僕を平和的にからかうようになった。厄介な職場だ。これでラブレターを書かされてる事実まで知れ渡ったら、金曜日は休暇申請書を出すかもしれない。
「先輩先輩──」
 広末がポケットに収まる程の小箱を差し出しながら楽しそうに囁いてきた。栄養サプリのようだ。
「シジミって、とっても健康に良いらしいですよ」
「そう」
「今夜のために、充電チャーンス!」
「しまえ」

 帰り支度をしていると、取引先から戻った部長が声をかけてきた。
「小泉くん、どうだった? 先生の方は」
「寝室に立て篭もられました」
「ああ……それは、あの人の十八番だね……」
 直属の上司である部長は、人によって印象や評価が異なるタイプだ。横髪がいつも変な方向に飛び跳ねてる七三分けは、お茶目ともだらしないとも受け取られ、アイロンをびしっとかけたシャツに締めるネクタイがいつも微妙に曲がっているので、独身なのか既婚者なのかは一目では断言できない。やつれたアラフォーと言う人もいれば、のどかな聖人と称する人もいる。温厚な言動に虫も殺せないような微笑は、あらゆるトラブルを穏便に済ませてくれるが、見る人によっては弱々しく映ったりするらしい。
 僕はどちらかというと好意的に感じている。責務さえこなしていれば自由にやらせてくれるし、滝田先生の件も僕だけに責任を押し付けず、一緒に専務のお叱りを受け止めてくれる。端的に表せば、適切な能力を備えた無害な人で、幼稚な言い方をすれば、幸せになってほしいと思うタイプの人だ。
 そう思うのは、彼が滝田先生の担当だったことも関係しているのかもしれない。僕も散々な目にあわされてきたが、当事者二人の口から聞いた前担当への仕打ちは、僕なんかの比ではなかったから。
「──彼女、何か恥ずかしい失敗をすると、すぐ部屋に閉じこもっちゃうんだ。それだけなら可愛げがあるけど、中で何やら良からぬことを企んでたりするから恐ろしくて。そして一晩寝たら次の日にはコロッとしてるからタチが悪い」
「何やってるんですかね」
「あの人昔、呪術だか黒魔術だかにハマってた時期があってね、扉の向こうでこの世のものとは思えないおぞましい呪文を聞いたことがあるよ」
 彼の口にした昔という単語は、いったいいつのことを指すのだろう。
 僕は気になって仕方なかった。
「前から思ってたんですけど、部長って先生と付き合い長いんですか?」
 部長は目を泳がせながら「さあ、どうだろう……」と声を震わせた。それから僕の二の句から逃げるように、慌ててどこかへ消えた。



 今週の妻の料理は、恐ろしい程ビールに合うものばかりだった。彼女お手製タルタルソースをふんだんにかけたカキフライ。一口サイズに切ったマグロとアボカドのごま油ポン酢和え。オクラと納豆の梅和え。砕いたアーモンドを散らせたシーザーサラダ。そして極めつけは、たっぷりのガーリックチップを添えた鴨肉のロースト……これは危険なメニューだ。色んな意味で美味しすぎて、ぺろりと平らげてしまった。

 食事を終えると、ビールをちょびちょび飲みながら互いの仕事の話をした。その流れで、『爽籟』に掲載された短編の話題になった。
「──進化のベクトルは常に前向きだと思う?」
「そう願いたいけど、滝田先生を見てると疑問符を拭えないかな」
「ふふふ。前に翻訳した本に、寄り道は創作家の修練というセリフがあった。どんな物事からでも何かを吸収し、それをアウトプットできる人を創作家と呼ぶのかもね」
「成功者の性質に似てるね。憎たらしいけど、あの人も成功者の一人か」
「人はモチベーションに左右されがちだけど、動物はどうなんだろう」
「脳のつくりが異なるから何とも言えないけど、欲望や生存本能に従順なんじゃないかな。キリンが首を長くしたり、ウニが殻にトゲをつくったみたいに」
 滑らすように目線をそらした妻は、物憂げにまぶたを下ろし、こう言った。
「いずれ殺されると知った家畜は、どんな進化を望むのだろう」
 ふっ、と人の声を際立たせる静寂が立ち込めた。キッチンのテーブルの上から僕らを見下ろしながら、もくもくと、男と女を隔てていく。
 彼女はどうか知らないが、僕はこの静けさが嫌いだった。ずっと、前から。
 淀んだ空気を払うみたいに、妻はニコッと笑って立ち上がった。
「先にお風呂もらっていい?」
「できれば一緒に入りたいかな」
「お先いただきまーす」

 一人で飲むビールはあまり美味しくなかった。たぶん、頭に浮かんでいた言葉が味覚を阻害していたんだと思う。
 進化のベクトル……。
 俺たちは、絶対に、正しい方向に進んでる。きっと……──。

「ゲンちゃんゲンちゃん──」
 妻に肩を揺すられハッとした。いつの間にかウトウトしていたようだ。前髪をヘアバンドで持ち上げた妻の素顔を見つけるや、僕は無意識に唇を近づけた。
 前後の記憶がおぼろげだったが、優しく受け止めてくれたそのあたたかさは、疲労も何もかもすべてを吹き飛ばしてくれた。
「私にもビールちょうだい」
「ぬるくなってる」
「もう一本開けちゃう?」
「いいね」

跳ね馬
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 4,5人が難なく囲めるこのキッチンテーブルは、結婚前に妻の要望でオーダーしたものだが、正直僕は、このサイズがあまり好きではなかった。大きければそれだけ、対面に座る妻と離れてしまうから。
 だから、今みたいに隣に座ってくれると、とても嬉しくなる。
 なんだか十代の頃に戻った気分だ。こうして片手を繋いでいるだけで、幸せに満ちてくる。
「ねえ、ゲンちゃん──」
 妻は頬杖をついて僕を覗き込んだ。
「私が最近朝遅い理由、知ってる?」
 長いまつ毛が魅惑的に揺れるまばたきに、たまらず音を立てて唾を飲み込んでしまった。
 僕はごまかすように咳払いを挟んでから答えた。
「翻訳の仕事をしてるものだと思ってたけど」
「そうじゃないんだなあ」と妻はもったいぶった声色を用いた。
「……徹夜でゲームとかしてないよね?」
 妻は昔から僕を試すようなところがあって、通知表を眺める母親のような顔でよく「ふふん」と吹き出して笑う。その楽しげな微笑に、得もしれぬ快感というか、生きた心地を感じてしまう僕は変態なのだろうか……いや、正常のはずだ。ニンニクや牡蠣のせいだろう。
 こんな精のつくものばかり食べさせたのは、ひょっとしてひょっとするのだろうか。なんだか今夜はいけそうな気がしてきた僕は、妻に催促される前にラブレターを差し出した。
 封筒は爽やかなライトブルーで、便箋は横書きのアンティーク調のものにした。毎度のごとく妻は当たり前のように僕の目の前で便箋を広げたが、先週に比べたら何てことはなかった。



『 親愛なるハルさんへ


 この前、夢をみた。
 僕があなたを探しに行く夢。

 温水プールに浮かんだ心地で、薄闇の中をふわふわと宛もなく漂いながら、何度も何度も、あなたの名を呼んだ。

 僕が僕であることを証明する、そのうららかな名詞を唱えるたびに、僕の体と意識は、シャボン玉のように弾けて、寿命間近の蛍光灯みたいに、いくつもの明暗をさまよった。

 手の感覚が無くなったと思えば、足の裏をハンマーで叩かれてるみたいに激しく駆けて
 腰から下が泥のように溶けたと思ったら、片翼が傷ついたツバメのように、ふらふらと、雲をかき分けていた。

 色んな景色があった。

 二人で行った場所、見たこともない場所、僕だけが知っている場所、二人で行きたいと語った場所……。
 あたたかい空気、凍えそうな風、目眩のするような音、ゴムまりの中にでも閉じ込められたかのような圧迫感……。

 だけど、そのどこにも、あなたはいないんだ。
 僕がこんなにも、その名を繰り返しているのに。

 ハルさん、知ってる?
 夢からさめたことに気づかず、うつらうつらに部屋を飛び出し、暗い廊下からあなたの部屋を盗み見た僕が、どれだけ安心したか。
 その寝息に、どれだけ胸をなでおろしたかを。

 ハルさんは、知らなかったよね。
 それが、この前僕があなたの寝室の床でパンツ一丁で眠りこけていた、一部始終だってことを。決して酔っ払って……いや、うん、たしかにあの夜はほろ酔いのままベッドに入っちゃったけどさ。

 ハルさんはルール違反だと笑ったけれど、僕はそうは思わない。異論がおありなら、いつでも受け入れよう。聞き入れた後にはもちろん、論理的な反論をさせてもらうつもりだ。

 それはおそらく、熾烈を極めた論争になることだろう。
 すぐに結論が出ることも、まずないと思う。
 日を跨ぐ議論になるかもしれない。
 肌寒くなってきた近頃の夜、また床で寝てしまうなんてことがあったら、風をひいてしまうかもしれない。それは一大事だ。
 眠気を吹き飛ばす栄養ドリンクに頼るのもいいけど、それは健康的とは言いがたい。何より文学に携わる者としての美意識に欠ける。

 よって、ここは一つ、二人で同じベッドに潜りながら、徹底的に意見を交わす必要があるのではないだろうか。

 僕は断言できる。これ以上の代替案など、この世のどこにも存在しないということを。

 ハルさん、あなたは気づいてないかもしれないけど(もしかしたら気づいてないフリをしてるのかもしれないけど)

 これだけは覚えておいてほしい。

 僕は、大真面目です。


 小泉源 』


 一通り目を通した妻は、顔を背けるように下を向いた。
「ハルさん」
 華やかな香りのするつむじが、グラグラと揺れている。
「笑ってない?」
「……笑ってない」
「笑ってるよね」
「笑ってません……くく」
「怒らないから、ほら」
 そそくさと便箋を封筒に戻した妻は、大きく息を吸ってから顔を上げた。
「じゃ、また来週ね。おやすみ……プクク」
 寝室へ足早に去っていくその肩は、陽気に震えていた。
「やっぱ笑ってんじゃねーか!」

 最近の妻は魅惑的(サディスティック)だ。




 来週に続く。

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