作家でごはん!鍛練場
でんでんむし

真紀の物語(PART2)

        幕間
 真夏の強い光が、きらきら光る海の向こうに、どんぶりを逆さにした形の島が姿を見せてきた。海岸線には白い砂浜が島を取り囲むように伸びているが、中央部は緑豊かで、見知らぬ獣が棲息する未開の孤島を髣髴とさせた。
 揺れる小舟の舳先に若い女が立って、その島を食い入るように見つめている。肌は抜けるほど白いが、容貌はその肌を裏切ってことのほか醜い。細面の顔の中で鼻は木の瘤のように大きく、糸かと見まごうほどの目はまわりの肉にすっぽり食いこんでいる。肩は頑丈な男肩で肉ばっているせいか、背丈がある割りに下半身がずんぐり沈んでみえる。それは、臨月が間近な腹を抱えているためばかりとはいえない。最近まで本土の商家で働いていたおかげで、着ているカスリは、結城、大島紬に及ばないにしてもこざっぱりした立派な晴れ着である。 
女は子供の頃に商家に引き取られ、下女として飯炊き洗濯などの下働きをしてきた。仲働きとして裁縫をすることもあった。ところが十六になったとき、大旦那のたっての願いで、座敷牢に閉じこめられている四十路に入った次男の世話を命じられた。若い時期に家を飛び出し盗賊に加わっていた次男は、箱館の娼家で放蕩三昧を尽くした崇りであろうか、瘡毒(梅毒)がすでに脳、脊髄にまわり、髪の毛の多くも抜け落ちていた。腰も立たない。しかし肌は白く、若い時分には役者に等しい美貌だったと想像される。次男の身のまわりの面倒をみるうちに、女はやがては自分も同じ病気で鼻がもげて死ぬだろう、と覚悟した。どうせ拾ってもらった命、感謝こそすれ恨む筋合いはないのだ。何より、次男一人に関わっていれば醜い顔を外に晒さずにすむ。それは安心できることでもあった。しかしすでに七年も座敷牢に幽閉された男には、女の醜さは何ほどのこともなかった。三度の食事を運び、牢の掃除を甲斐甲斐しく行ううちに、狂気の中に穏やかな心が生まれ、やがておずおずと手が伸びてきた。女はそれを拒まない。
その男を父とする子が腹にいて暴れているが、嬰児の顔を見る前に男は座敷牢で狂い死にした。ふた月ほど前のことだ。壮絶な死の様を見守るうちに、突然、潮のにおいが、黴くさい臭いが、そして島そのものの姿が、くっきり女の眼前に浮かんできたのである。それがどのような島なのか記憶にはない。無理やり封じこめた過去の思い出のひとつにちがいないにしても、甦った理由がわからない。しかし島と潮のにおいが自分を呼んでいることは、強く感じ取ることができた。仮に呼んでいるとすれば、神秘なその声に応えてみたい気持ちがひっそり湧いてきたのである。
女は四十九日がすむとすぐに大旦那に暇を乞い、名前さえ知らない島に渡ろうと決意した。大旦那は女の暇の理由を聞くと、即座に下男に舟を漕ぐように命じた。それは次男の子を孕む女への餞だったのかもしれないが、女はよろこんだ。本土から島までの距離がどれほどか知らない。櫓を漕ぐ仕事は屈強な男にしかできないことである。
その下男が、額に汗を滲ませながら、
「もうすぐ着きやすぜ」
 といったとき、潮風に髪をなびかせて島に見とれていた女は、視線を男に移した。男が顔を背ける。
「安吉、あの島で間違いないぞ」
 安吉と呼ばれた男はちっと舌打ちした。
「前にあの島に行ったことがあるんですかい」
 女は固い表情で首を横に振る。
「しかし、昨日ああだこうだと絵を描いたりして説明してくださったぶんには、かなり詳しゅうござんしたよ。まるで何度も行かれたことがあるみてえでしたがね」
 女は、今度も首を振るだけである。
 横板にぶちあたる波音に混じって、小舟を漕ぐ櫂の軋み音が規則的に聞こえてくる。
 女が黙したので、安吉も黙然と櫂を漕ぐ。大旦那の命令でなければ、波高い海峡を越えて箱館からこんな遠い島まで来ることはなかった、といわんばかりに、顔に不満がうかがえる。女はその不満を無視して緑の島を見据えていた。どうしてあの島が自分を呼ぶのか。どれほど探っても、島の記憶は何ひとつ心に浮かばない。
徐々に小舟が近づくと、船着場と思える場所に幾隻もの舟が真夏の光に晒されて放置されているのが見えてきた。すでに早朝の漁からもどって、後始末を終えた頃合いであろうか。無数の鴎が我がもの顔に飛び交うだけで、人影はない。島全体にどれほどの民がいるのか、それすら判然としないが、いたとしても知れた数であろう。
わざわざ島に呼ばれたとするなら、そこに懐かしさがあるのではないか、と女は期待した。しかしそれもない。むしろえぐるような冷たさを心に感じ、戸惑いを覚えていた。
安吉の漕ぐ小さな舟が船着場に着く。辺りはひっそりして、誰も顔を見せない。鴎の影だけが地面を走っている。
女は片手を突いて揺れる舟から岸にあがった。カスリの着物の裾を払うと屹立して振り返る。臨月に近い腹が、まるで安吉を威圧するように大きく突き出た。
「夕方……ここで」
「よござんす。あっしも探検とやらをやって、時を潰しやしょう。オロシャまで行った間宮の旦那には負けますがね」
 といって、卑屈に首筋に右手をあてた。あいかわらず醜い女の顔を見ようとしない。
女は覚悟を決めたように、村の中央へつながる道に一歩踏み込んだ。そのまま振り返りもせずに歩き始める。雲に隠されて光の筋は弱くなっているが、歩けば蒸し暑い。白い首筋に汗が垂れる。そのうえ道はごつごつして草鞋の裏が痛んだ。
道路沿いの家々は、本土の町並みを見慣れた女の目には粗末にみえる。投網が干され、魚や海藻が日干しされている家は漁師のものだろうか。しかしすぐに牛小屋を持つ藁ぶきの家屋が現れた。小さい島ながら百姓仕事もやっているのか、と思う。百姓といっても、内地のように米がとれるわけではあるまい。
どこからかセミの鳴き声が届く。
十字路に出た。右手に視線をやれば、遠くに家々が密集しているのが見渡せる。おそらくそこが村の中心だろう。右に曲がろうと足首を向けた瞬間、その足が獲り餅にくっついたように止まった。
――違う、こっちじゃない。
押し留める声が、突然胸底からせりあがってきた。
女は驚きつつ左手に踏みこんだ。心急かされた気がする。道の脇には雑草が繁茂するばかりで、家はまばらである。それも廃屋のような家ばかり。
どうしてこのような村道にもぐりこんだのか、と考える。記憶のどこにもこの道を辿った形跡は残されていない。それでいて、自分が正しい道を進んでいることに、わずかばかりの疑いもなかった。
やがて家々が途絶えて、片側に緑の葉が繁茂する林、反対側には黍が植えられた畑が顔を出す。お腹の子供を重い荷物に感じながらどこまで歩いても、何かがあるようには思えない。しかし女は足をとめない。やはり呼ばれている気がするからだ。
すると道が一段低くなって、左手の海がせりあがってきた。海底のような道の向こうから、牛を引いた男がやって来る。日焼けした顔を手ぬぐいで包んでいるが、その手拭いが汗で濡れている。
男は近づくと怪訝な顔で女をねめつけ、
「この向こうは何もないべや。どこさ行ぐ?」
 と、きいてきた。
 女は黙ってその顔を見つめて、答えない。
「口きけんのか。それとも頭が足りんのか」
 女は黙して見つめるばかり。侮られることは、子供の頃から慣れていた。
男はぺっと唾を吐くようにいう。
「こんなドコ(所)歩いていると、盗っ人扱いされても仕方ねえべ。奥にはサヨの家しかねえ。わかったか!」
そういい放つと、怒ったように牛の尻に鞭を当てた。
歩き去る男の、汗に濡れた背中をにらみながら、女の内部に何かが生まれてくるのがわかった。
サヨの家……。
どこかで聞いたことがある。遠い昔に聞いた名前。
はっきりしなかったが、女は男の忠告を無視してそのまま進んだ。緑の液をべっとり塗りつけたような雑木林が真正面に見えて、その手前に屋根の茅が朽ち果てたあばら家がある。村の中央から離れて、一軒だけぽつんと取り残されているのが哀れである。
女の中で埋められていた記憶がかすかに動いて、ぼろぼろと墓土をほじるように何かが現れてきた。すこしずつもどってくる不気味な過去がその姿をすっかり現す前に、女は家の土間に足を踏みこんでいた。
外の光をあざ笑うように内部は異様に暗く感じられる。しかも漂う空気はひんやりしている。天井といわず壁といわず蜘蛛の糸が縦横に張られ、そこで誰かが寝たはずの畳は乾ききって、手で触ればぼろりと剥げ落ちそうだ。片隅にあるヒビ割れた水甕の中はからからに乾いて、長虫が一匹うごめいていた。その甕も足で蹴れば、その場で土くれにもどりそうなほど脆くみえる。鍬や鉈が土間に落ちて、そのまま錆びついていた。
何かが這うようにして、喉もとまでのぼってくる。この家には、かすかに見覚えがあった。住んでいた記憶はないが、確かにいたのだ。それは確実なものに感じられたが、明確な姿が浮かぶわけではない。ただの感覚にすぎない。しかしその感覚は思いのほか強いものだった。
女の張りつめた腹の中で、楽しげに動く者があった。やがて生まれてくる赤子も何かを感じ取っているのだろうか。それは楽しいことなのか。しかし女の確信は逆の方向に向いていた。
廃屋を出て、花々や丈高い雑草が蔓延る庭を見まわした。黄色い花の向こうにくぼみのようなものが見える。そこだけ草丈が低いのだ。女は雑草を掻き分けてゆっくり近づいて行った。幅が一間ほどの四角い形の地面は土質が異なり、大雑把に浜砂利が敷かれているのがわかる。思い切り踏んでみた。固く締まっている。何かが埋められたにしても昨日や今日の話ではない。
じっと見つめる女の体に突然震えがついた。最初小刻みだった震えが徐々に激しくなり、がたがたと大きく揺れ、突然、身をよじって腹をぐいっと突き出し、まるで陣痛に襲われたように歯を食い縛って吠えたのだ。
「おっかさん……!」
今、記憶のすべてが甦ったのである。それは、黒土が盛りあがって中から奇怪な虫がぞろぞろ這い出るのを見たときのような、恐ろしい感覚だった。
女は声にならない声をあげると、急いであばら家に取って返し、土間に落ちていた錆びた鉈を手に取って、それを思い切り玄関木戸に叩きつけた。もとから脆くなっていた木戸は軽く二つに割れて吹き飛んだ。
醜い女は白目を剥くと、錆びた鉈を手にしたまま、自分が身重であることを忘れたかのように村へ向かって走った。突然の風が起こって、横手の雑木林の葉が驚いたようにゆさゆさ揺れた。


第二章(1999年)

運動会の件で校長室に呼ばれた光彦が、ようやく解放されて職員室にもどると、学級委員長が真っ青な顔をして飛びこんできた。
「先生、真紀ちゃんがまた喧嘩してます」
 光彦はあわてて一度座った席から立ちあがった。その途端、机にうず高く積まれた教科書類がどっと崩れて、その勢いで昼前の授業で行った算数の答案用紙が床に散らばった。もたもたと掻き集めて、それから学級委員長に続いて教室に向かった。
 激しい雨降りのせいで、昼休みの狭い廊下は児童であふれていた。ほとんどは廊下の壁に背中を預けてお喋りしているだけだったが、中には床に寝転がって格闘技の真似をしている者までいた。
「こら、廊下でそんなことするんじゃない。みんなの迷惑になるだろう!」
 叱りつけて、光彦は教室に小走りに急いだ。
 ゴールデンウイークでだらけきった気持ちが、ようやく引き締まってきた時期である。それなのに真紀が関わる喧嘩はこれで三度目だ。
四月に転勤して来て、最初にクラス名簿を受け取ったとき、同じ三年生を受け持つ女教師が、
「先生のクラスには一人問題児がいますからね。目を離せませんよ」
 と揶揄ともつかぬ笑みをたたえて教えてくれたが、それが真紀だった。
真紀は特殊な子供で、学業はずば抜けており、教えることなど何ひとつなかった。ものによっては、教師の光彦より詳しい。小学三年生といえば、わずか八歳。それなのに抱える知識は大学出の大人を遥かに凌いでいた。それが、真紀をよりいっそう異質なものに仕立てているのか、今やクラスで完全に孤立している。
教室に入ると、真紀は床に転がされて、その上にクラス一の乱暴者、隼人が馬乗りになっていた。おかしなことに組み敷いている隼人が大声をあげて泣いているのだ。
急いで走り寄り、
「ばか、何やってるんだ!」
 と叫びながら、隼人の肩を掴んで力一杯後ろに引いた。隼人は光彦の腕の中に崩れるようにもぐりこんできたが、その手首は長く伸びて、指先が真紀の口にあった。真紀は首を激しく振って、隼人の指を噛んでいたのだ。口元に鮮血がある。
「真紀、離せ!」
急いで真紀の両頬に手をあて、潰すように親指に力を入れた。ようやく赤い口から隼人の指は離れたが、噛んでいたときの形相の醜さに光彦はぞっとした。
隼人はうずくまって、片手で血の滲んだ指を押さえて泣いている。
光彦は隼人を叱りつける。
「女の子と喧嘩してうれしいのか」
隼人は泣くばかりで何もいわないが、確認すると血のついた中指に見事な歯型があった。
真紀に視線をやると、赤い唇に、してやったりと奇妙な笑みが漂っていた。口から指を外した幼い顔は、いつものように気味悪いほどの美しさを取りもどしている。
真紀がわざとのように勢いよく立ちあがる。水色のチェックのスカートが大きく揺れた。
「どうして喧嘩したんだ」
 隼人にきいても埒が明かないので、真紀に尋ねた。
 真紀は鞄からポケットティッシュを取り出して口元を拭うと、落ち着いた表情にもどって、素直な言葉を返した。
「隼人君が、私のペンケースを取りあげたの。返して、といっても返さないから」
 そんなことだろう、と思った。隼人の行動はいつも単純だ。おそらく真紀が気になって仕方ないのだろう。ちょっかいかけたがるのは、その美しい顔立ちによる。美しいだけでなく、年相応の愛くるしさも兼ね備えていて、無視するわけにはいかないのだ。だから悪戯する。そして泣かされる。前の二回も今のように齧られていた。最初は耳で、次が脚。隼人は学習することを知らないのか。それともペンケースを取りあげても真紀が平然としていたのではつまらないから、自分から体を寄せていったのか。いずれにしても、長引かせるのはよくない。午後も二コマ授業がある。
隼人に強い口調でいった。
「隼人、謝れ。喧嘩の元はおまえが作ったんだろう」
 隼人は、痛む指を別の手で包んだまま、しゃくりあげるように、
「ごめん」
と、素直に謝った。嫌いで喧嘩を売っているわけではないから謝るのも早い。
「真紀。これでいいか」
 真紀は、じっと光彦を見つめたままうなずいた。その目の奥で一瞬何か暗い炎が揺らいだような気がした。
「さあ、保健室に行くぞ」
 呼びに来た学級委員長に片手をあげてから、隼人の背中を押すようにして教室を出た。廊下にたむろする生徒たちが怪訝な顔で隼人を見送る。クラス一の乱暴者が真っ赤な目をして先生に背中を押されているのだから、不審がっておかしくない。
 これで懲りないものだろうか、と思いながら、保健室のドアをノックして、中に押しこんだ。雨のせいか、湿気のにおいがする。
机に向かって何かの本を読んでいた養護教諭の山岸留美子が顔を向けた。光彦と同じくこの春赴任してきたばかりだが、違うのは、光彦はすでに地方の海岸町で六年勤務したあとの転勤であり、留美子は初任者としてこの学校に配属されたことである。当然新米の中の新米。しかし根が活動的で何事にも物怖じしないから、大学を卒業したばかりなのにすでに十年選手の貫禄があった。光彦がそう思うのは、体育会系のいかつい体格のせいばかりではない。
隼人を丸椅子に座らせると、留美子は雨による蒸し暑さのせいで外していた白衣の胸ボタンをとめ、前屈みになって隼人の指をつまむ。
「隼人君、どうしたの? 血が出てるじゃない」
 隼人は保健室の常連ではない。しかし留美子は三百人あまりの全生徒の名前をすべて覚えていた。大学で学習したことの几帳面な応用に違いないが、その努力には常々敬服している。
 隼人が気おくれしながら答える。
「喧嘩して、指をかじられた」
「またあ。きっと真紀ちゃんにでしょ?」
「うん」
「君が先にちょっかいだしたんでしょ?」
 留美子は笑いながら、隼人の中指を軽く前後に動かした。
「痛い?」
「さっきは痛かったけど、今はなんも」
「骨は折れてないみたいね。でも、歯型が見事に残っているわよ。おいで」
 そういうと、隼人を立たせて、隅の流しに連れて行って、水道の水をじゃぶじゃぶかけた。隼人は、痛てっ、と叫んだが、すぐに照れたようににやりと笑った。もう一度丸椅子に座らせ、棚から消毒薬を取り出して隼人の指につける。カットバンを巻く。
「今度からは指をかじられるようなこと、するんじゃないよ。骨が折れたら、大変なことになってたわよ」
「へ~い」
 隼人は素っ頓狂な声をあげて、保健室から出て行った。こういうのを、泣いたカラスがもう笑った、というのだろうか。感情の切り替えが実に早い。わざわざ家に連絡するまでもないな、と光彦は安心した。
 礼の言葉を述べて出ようとすると、留美子が声をかけた。
「先生、ちょっといいですか」
 光彦が顔を向ける。
「前からいおうと思っていたんですけど、先生のクラスの真紀ちゃん……。最近よく来るんです、保健室に。で、この前ね、来たときに、いろいろきいてみたんですよ」
「ほう、何かいってましたか」
 興味を覚えて、光彦は隼人のかけていた丸椅子に座った。
 留美子がカルテのような個人カードを取り出すとき、机の上の雑誌が目に留まる。表紙に「蝦夷の郷土史」とある。こんなものに興味があるのか、と感心していると、留美子はカードを見ながら話し始めた。
「別に何とはいってませんでしたけど、印象がとっても暗いんです。話しているときも目を見ないのですね。常にうつむいているか、視線を遠くに投げているか、そんな感じでした」
「照れ屋さんかな」
 と流しながらも、それは自分の授業でもそうだ、と思った。最近の真紀は、常にぼんやりしている。
「そういうのとも違う気がします。たまに目が合うと、なんかその目が鋭くて、怖いんです」
「怖い?」
 光彦は、真紀の目の奥で暗い光が揺らいだことを思い出したが、おそらく喧嘩のあとだからそうなのだろう、と浮かんだ印象を打ち消した。
 留美子は一度息を呑んでから、わずかに前屈みになって続けた。
「何というのかな。あの目の奥に何か気味悪いものがいるような、そんなおかしな感じを抱くんですよね。真紀ちゃんは優秀なうえにきれいでしょう。あんなきれいな子って、私、初めて見ましたもの。でもね、確かにきれいなんだけど、誰もが近寄って、きれいね、っていえる安心できるきれいさじゃないんです。どういったらいいのかな。変ないい方ですけど、どこか西洋人をモデルにした掘りの深い日本人形みたいな感じ。ぞっとするきれいさ、っていっていいのかな。つまりね、人間が作ったものとは少し違うような、どこか底深い何かがあの子にはあるような、……うまくいえないですけど、そうですね、たとえば、潜在意識に訴えてるような美しさ、そんな印象かな」 
 留美子は真剣な顔で言葉を探しながら説明したが、光彦は口元を緩めた。たかが八歳の女子に、潜在意識に訴える美しさ、などと大学でしか通用しない大仰な言葉を使うのがおかしかったのだ。
「まあ、あの子が変なのはわかっていますからね」
 といったあとで、光彦は四月に金山鉱山に登ったときのことを急に思い出した。
「話してなかったかな。あの子、喘息の子を治したんですよ」
 訝しげな顔を向ける留美子に、光彦は金山鉱山であった出来事を説明した。
 社会科学習の一環として、三学年全員で行ったのは、クラス替えしてそれほど経っていないぽかぽか陽気の午後だった。すでに閉鎖された鉱山跡から眼下の石狩湾を眺めていると、突然女子児童が喘息の発作を起こしたのだ。花粉が飛び散っていたせいかもしれないし、陽射しの中を歩いたせいかもしれない。喘息のことを前担任から引き継いでいたかどうか、それは光彦の念頭になかった。息苦しそうな女子を見ながら処置の仕方がわからずあわてていると、真紀がすぐにその子の顔に自分の顔を近づけて、両手で頬をゆっくり撫で始めたのである。まるで真紀の手から病気を癒す不思議な力が発散されているかのように。苦しげだった女子は見る間に顔色を取りもどし、五分しないうちに立ちあがることができた。
 そんなことを話すと、
「やはり真紀ちゃんには特別な力、流行の言葉を使えばヒーリングの力なのかな、そんなのが備わっているんですね」
 と留美子が独りごつようにいった。
「やはり、ってどういうこと?」
「何となくですけど、そんな感じがしてたんです。暗い目もただ暗いだけじゃないと」
「そうか。ぼくは担任なのに、そんなこと想像したことなかったな。まだこの学校に慣れないせいか、精神的にばたついているので、金山鉱山のことも忘れていたくらいです。いずれにしても、これからはよけいに声かけしようと思います」
 といって立ちあがろうとすると、留美子が片手で制した。
「それでね。話は変わりますが、話していたときの印象から、どうも真紀ちゃん、さびしいのじゃないかって思ったんです。先生にべたついたりしませんか」
 中途半端にあげていた腰を、またおろす。
「それはありますね。他の子より特に。あの子には父親がいないのですよ」
「離婚したとか?」
「いえ。まだ赤ん坊のうちに、交通事故で亡くなってますね」
「そうか。そういうわけか」
 留美子は一人で合点してから、
「この前話したときに感じたんですけどね。私の勘違いでなければ、あの子、先生をお父さん代わりに慕っているみたいなんですよ」
 光彦は首をひねる。
「さびしいからですか」
「そう」
「しかしどうなんだろう。片親の子って、そんなにさびしいものかな」
「そりゃ、さびしいですよ。私は両方健在なので正直わかるとはいえないですけど、ものすごいものがあると思いますよ」
「実はぼくも母親がいないんです。でも、さびしいなんて感じたことなかったし、最初から父との二人暮らしが普通だと思って、母に憧れたこともなかったけどな」
 そういって、光彦は激しい雨が吹きつける窓ガラスを見つめた。ガラスの表面にさざ波のように雨滴が広がっている。父親は道北地方にいて一人で農業をやっているが、ひょっとしたらこんな日はさびしいのかな、と考えた。
 留美子が考え深そうに小首を傾げる。
「それは先生が男だからですよ。大学で習った女子児童の症例ですけどね。先生を独占しようとして、それができなかったために非行に走った、そんなのもありましたよ」
 光彦は笑った。
「ぼくも学生時代に教育心理とかの単位は取ったけど、忘れたなあ。実際、現場に出てしまえば、習ったことの多くは関係なかったしね」
 留美子は、勢いを殺がれたように憮然とした表情を作る。
 光彦は腰をあげた。
「いずれにしろ、親に会ってきいたほうがいいでしょうね。今日の帰りに家庭訪問しようと考えているんです。これからも真紀がお世話になりますが、何かあれば教えてください」
わかりました、というように、留美子は軽く頭をさげた。
しっかりしているな、と思う。しっかりしているが、どこか教科書どおりのしっかりかな、と心で微笑んで背中を向けようとしたとき、ふとからかい心が生まれた。
「そうそう。先生は妙なものに関心があるんですね」
「妙なもの?」
 光彦が机の上の薄い雑誌を指さすと、留美子は困ったように瞬きした。
「すみません。仕事中に読んでいて」
「かまわないさ。子供たちが来なければ、無駄にお喋りしているより勉強しているほうがずっといい。表紙がちらりと見えたんだけど、そういうのに、興味あるんですか」
「中学のときに社会の授業で郷土史研究をやらされて、それで見事にはまったんです」
「郷土史って、なんかこじんまりしたどうでもいいことを、重箱の底をつつくみたいに研究するわけでしょう? おもしろいですか」
「それはおもしろいですよ。何でもないところに、ものすごい宝物が埋まっていたりするわけですからね。重箱の底をつつくのって、結構楽しいですよ」
 と留美子は照れたようにいう。美しいというにはほど遠いが、表情にはどこか活発な愛嬌がある。
「そうなのか。ぼくは、郷土史研究なんて、てっきり退職老人の暇潰しと考えていました。不謹慎でしたね」
 光彦はすまなそうに頭を掻いた。

 教室にもどると、隼人はかじられた指を自慢するように友だちに見せて、大声ではしゃいでいた。ただのガキにもどっている。目で探すと、真紀は窓辺に立って雨の校庭を眺めていた。午前中から降り始めた雨はいっそう激しくなり、鉄棒のうしろの蝦夷山桜の枝が大きく揺れて、やっと満開になったばかりの花弁を散らしている。暴風雨になりそうな予感があった。
 光彦は、真紀の小さな背中に声をかけた。
「隼人の指、齧られて少し切れていたぞ」
 真紀が振り向く。留美子のいったように、整った顔立ちの中でその瞳が異様に暗い。怖くはないが、なるほどその深い底に何か得体の知れないものが棲息していておかしくないと思えた。それが喘息を癒す特殊な力の源なのか。
 真紀は一度向けた顔をまた校庭にもどして、小さな唇を開いた。
「だいじょうぶ。私、きつく噛んでないから。それに指の第二関節は簡単には折れたりしないよ」
「詳しいんだな」
 返事をしないでうれしそうに肩をひょいとすくめて、真紀は誇らしげにつけ加える。
「本気出したら、齧らなくても隼人君には勝てるよ、私。ぐいぐいって齧るのが好きなだけ」
 真紀の子供らしい強がりを笑顔で受けとめ、光彦は並んで窓の外に顔を向けた。
「今日、家庭訪問しようと思うんだけど、お母さんいるかな」
「四時には帰って来るよ。パートの仕事が終わるの、三時半だから」
「そうか。じゃあ、あとで連絡してみる」
「私が喧嘩したこと?」
「それもあるが、来週は家庭訪問週間だろ。一週間で全員はまわりきれないから、少しずつやっておきたいな、と思って。いい機会だから」
 真紀が光彦を見あげる。前髪が横一線に切られ、横髪が肩まで伸びているせいか、留美子がいったように日本人形を連想させた。通常の日本人形と違って、いかにも陰影が濃い。
「ママ、最近仕事とかで疲れているみたい」
「じゃあ、長居はしないよ」
 一度離れようとして思い直し、耳もとに口を近づけて小声できいた。
「真紀、円周率の小数点以下三十桁目は?」
 真紀が急に表情を変えて子供らしい笑顔をみせた。笑うと、年相応のあどけなさがもどってくる。目のどこにも暗い炎はない。
「三・一四一五九二六五……だから九じゃない」
「いつもすごいな」
「先生、答え知ってた?」
 笑って首を振る。
「じゃあ、私、でたらめいったかもしれないじゃない」
「そんなことないよ。信じてるよ。真紀がすごいのは知っているから」
 そういって、肩を軽く叩いた。真紀は素直にうれしそうな表情をした。

真紀のマンションを訪ねたのは六時過ぎである。学校から車で五分かからない。マンション前の駐車場から管理人室に走る間に、横殴りの雨で髪もスーツも濡れた。襟元の水滴を払いながら管理人に声をかけて、母親を呼びだしてもらった。
エレベーターに乗っている間にも体が冷えてくる。何の風だろう。ただの季節風だとにしても、風速はちょっとした台風並みである。光彦の専門は理科だったが、大学では生物学を専攻していたから、同じ理科でも風には詳しくない。それにしても最近の気候は狂っているな、と思う。風もそうだが、積雪量は目に見えて減り、二月の雪祭の雪が毎年不足する。北海道の自然はどこか軌道が外れたみたいだ、と平凡な思いに浸っていると、五階でエレベーターが停止した。
インターフォンを押すと、すぐに母親の由紀江が顔を出した。うっすらと化粧して、白系統のワンピースの中でその笑みが垢抜けている。小学生の子がいる女にはみえない。
光彦が三月までいた道南の小学校は海に面した漁師町にあり、母親は漁業関係者が多かった。誰もが日に焼けて、がらっぱちのように元気はつらつとしていたから、家庭訪問で気をつかうことはなかった。帰りにはいつも獲れたばかりの魚をもらったものだ。
札幌に来て初めての家庭訪問先が真紀の家だから、都会の母というべき由紀江に対面して自然に緊張した。
玄関で靴を脱いでいると、赤いスカートをはいた真紀がやってきて、にこりとあどけなく笑った。
 頭に軽く手をやって、
「帰りにびしょ濡れにならなかったか」
 ときくと、
「大丈夫。おばあちゃんがタクシーで迎えに来てくれたから」
「円周率とか教えてくれたおばあちゃんか」
「うん。いつも散歩のついでに迎えに来てくれるよ。でも、雨が降るとタクシーなの。工業大学で教えていたのに、車の運転ができないんだって」
 子育ては、誰かの手がないと大変だな、と思った。今がマタニティーブルーの盛りといえる妻には、市内に親戚がいないから、産まれてからうまくやっていけるだろうか、と不安になる。
由紀江に促されてリビングに入ると、どこかひんやり感じられた。空気の澄んだ谷間にいるようなひんやり感。外が激しい雨降りのせいかもしれない。
リビングは整理整頓が行き届いていた。小さなガラストップのテーブル、小振りのソファ、肘掛椅子やテレビのほか何もないから、意外に広く感じられる。壁には日本画が飾られており、雀と太陽が遠近法を無視した手法で描かれていた。
 光彦がソファに腰をおろそうとすると、
「スーツ、濡れてません? ハンガーにかけますよ」
 と、由紀江が促す。 
いや、と一度断ったが、さすがに濡れたものを身につけるのは気持ち悪い。誘いに乗った。
 ハンガーにスーツを通しながら、由紀江が独り言のようにいう。
「いろいろご迷惑かけていますでしょう? 学校にも顔を出さないで、申し訳ないと思っています。パートの仕事があって、なかなか……」
 光彦がソファに座ると、真紀も横に座って足をぶらぶらさせた。小さな体から温もりが伝わってくる。
 自覚していなかったが、保健室で留美子が指摘したことは正しいのではないか、と急に思えてきた。その気になってみれば、確かに真紀は今にも手を取りそうなほど体を寄せて座っている。横目で見ると、頬に緩みさえある。赴任して慣れない日々をせわしなく過ごしてきたせいか、気づかなかったことだ。
 由紀江がコーヒーと洋菓子をテーブルに置いたとき、真紀がどちらにともなくきいた。
「私、ここにいていい?」
「かまわないよ」
 光彦は答えたが、由紀江は自室に行くことを命じた。
 真紀は渋々二つある部屋の奥のほうに、ぴょんぴょん跳ねながら向かった。やはりさびしげに映る。留美子に変な情報をもらったかな、と半ば当惑しながら、自室に消える真紀を見つめていた。ドアが閉まるとすぐに、若者に流行っている和製ポップスが聞こえてきた。
由紀江が向かいの椅子に座ったので、光彦は頭をさげて喧嘩の経緯を話し、型どおりに監督不行き届けを謝った。教師を長年やっているから、父母に頭をさげるのは慣れている。由紀江は、気にする必要はない、と述べたが、相手の指を噛んだことを告げると、ふと心配そうな表情をみせた。
「どうしてあの子は何でも齧るのかしら。先生、こういうのって、遺伝しますか。私の夫はよく鶏の骨や魚の骨を齧っていたんですよ」
 遺伝は専門分野のうちだから、光彦は笑って答えた。
「性格とかは似ることがありますが、齧るのまでは遺伝しません。もっとも丈夫な歯は遺伝しますけどね。真紀さんの場合は、腕力では負けるので、齧るのを武器にしているだけじゃないですか」
由紀江は、納得できないように頬に片手をあててうつむいた。
「あの子は、赤ん坊のときからやたらに齧りたがりましたね。おしゃぶりを何個買っても、すぐにぼろぼろにしたものですよ」
 鼠みたいだな、と思う。
光彦は声をひそめて、保健室の留美子から聞いたことを口に乗せてみた。
「どうも、真紀さんはさびしいのではないか、と思うのですが」
「さびしい?」
 由紀江が怪訝そうに復唱する。
「真紀さんは、最近保健室によく行くので、そこの先生の意見なんですけどね」
由紀江はしばらく口を閉ざした。外は激しい風が吹いているはずなのに、真紀の部屋から洩れる軽快な音楽を除いて、リビングには何の音もない。空気が嫌な感じで澱んだとき、ようやく由紀江が顔をあげた。
「いわれてみれば、確かにさびしいのかもしれませんね。父親を早くに亡くしていますし、それに保育園に入ったときに、パートに出始めたものですから。さびしいといわれてみれば、そうかもしれません。なんかばたばたしていて、そんなこと考えたこともなかったわ」
つぶやくようにいう由紀江の瞳に、昼間真紀に見たのと同じ暗い揺らぎが浮いていた。
「それにね、先生」
 由紀江の唇がねじれる。
「あの子は、妹も亡くしているんですよ」
「妹さん……ですか」
 初耳である。
「ええ、年子の妹がいたのですが、生まれて半年で亡くなりました。真紀はいつもそばにいて、かわいがってくれていたんですけどね。私の不注意だったんです。救急車で運んだときには、すでに手遅れでした」
 冷静にいったあと、両手を組んでぎゅっと力を入れた。指先が赤くなり、握る強さに由紀江の悔恨の深さがうかがえた。
 光彦はほんの少し頭をさげて、ぎこちない慰めの言葉を送った。
聞こえたのか聞こえないのか、由紀江は光彦の言葉に反応することなく言葉をつなぐ。
「真紀はまだ小さかったのですが、それが心のどこかに傷として残っているのかもしれませんね。そういうのって、ありますよね」
 大学で一通り習ったが、心理学系の知識は人にいえるほど深くない。とはいえ、年子で生まれて半年で亡くなったというのなら、真紀は一歳半かそこらのことだ。普通は何の記憶も残らないのではないか。もっとも、父親と妹を喪った強烈な悲しみが無意識の領域にわだかまり、やがてそれが物理的な力を得る、ということはあっておかしくない。精神世界が恐ろしいほどのエネルギーを所持し、底知れない神秘をかかえているのは、別に大学で勉強しなくても子供でも知っている。そのときふと思った。心で身をくねらせている暗い悲しみが金山鉱山で見せた力を真紀に授けたのではないか、と。
「妹さんのことは知りませんでした。これから真紀さんを見るときに、少し注意したいと思いますが、真紀さんには人を癒す力がありますよね。それは小さい頃からそうだったのですか」
 由紀江が怪訝な顔を向ける。
「癒す力?」
「はい。ヒーリングといっていいような力ですが」
「そんなこと初めていわれました。真紀は人を快くさせるより、不快にさせることのほうが多いのじゃないでしょうか」
 由紀江の口調は意外に重かった。
光彦は金山鉱山の話をすることにためらいを覚えて沈黙した。真紀は母親の前でこれまで一度も秘める力を発揮したことはないのか、と瞬間的に考えたあとで、ひょっとしたら由紀江は知りながら故意に隠しているのではないか、と疑った。
 光彦は、わずかにひるんだ気持ちでテーブルのコーヒーに口をつけた。
 由紀江が顔を向ける。
「先生は、お子さんいますか」
 首を振って、
「まだ、というべきでしょうね。妻のお腹にはいますが、七月が予定日なんで」
「楽しみですね」
「楽しみというより、やはりぼくのようなものでも父親になれるのかと、心配のほうが大きいですね」
 由紀江は光彦の心配を無視して、ふいに苦々しい口調を取る。
「最近、私、自信がないんです。真紀の母親でいることに。見てください、ここを」
 そういって、手首まで包まれた白いブラウスの袖を捲くりあげた。二の腕に真新しい歯型がある。
 光彦は目を剥いた。
「真紀さん……ですか」
 由紀江は一度うなずいてから、
「先生がみえられる少し前です。反抗期なんでしょうか。最近、何でも私のすることに逆らうんですよ。なんか私に恨みでもあるような反抗の仕方なんです」
「さっきは、そんな風には見えなかったですけどね」
 由紀江が鼻先で笑う。
「真紀に人を癒す力があるのなら、少しは私を癒してくれればいいのですけどね、二人きりになると、わがまま放題なんです。この前の日曜日なんか、前の公園に行こうというので連れて行ったら、父親と一緒に来たときのことを、独りで喋っていました」
「ご主人は、真紀さんが物心つく前に亡くなられたのでは?」
 由紀江は一瞬逡巡したあと、
「いえいえ、勝手にお話を作っているだけです。妄想なんですよ」
妄想、とは聞き捨てならない。
「先生、そんな妄想につきあうわけいかないじゃないですか。ですから雨雲が広がってきたのを汐に帰ろうとしたら、にらみつけて、差し出す私の手を齧ろうとして、頑として帰ろうとしません。おかげで二人ともずぶ濡れになって、もう少しで風邪をひくところでした。私が小学生だったときは素直で大人しい子供でしたのに、真紀はどうしてこんな風になってしまったのでしょうね」
 光彦は、真紀の意外な一面を知って驚いた。父親不在による孤独が心の深い底で黒い蜘蛛の形を取り、妄想まで紡いでいるというのか。
「最近の子供は、お母さんの時代とは違いますからね。扱いが難しくなっているのは事実です。でも真紀さんは賢いから、いつまでもばかな反抗を続けるわけはないと思いますよ」
 由紀江は、光彦のその場しのぎの慰めを、空気が作る雑音ほどにも気に留めない。いかにも悔しそうにいう。
「やはり父親がいないのがつらいのですね。会社の車に乗っていて、仕事帰りにトラックにぶつけられて亡くなったのですよ」
「お気の毒なことで」
「相手は逃げてしまって、前のへこんだトラックは農道に置き去りにされていました。盗難車だったようです」
「トラックの盗難車ですか」
 息を詰めて由紀江がいう。
「夫は真紀をかわいがってくれて、真紀のためにもしっかり生きよう、と決意を新たにしたときだったものですから、私、残念で仕方ないんです」
 いいながら細い手をぎゅっと握りしめて、また沈黙した。向かい合わせにきちんと座って光彦を見つめる目の焦点は、どこか遠くに絞られているような気がした。何かを思い出そうとしているような、虚ろな眼差しにみえる。それでいて落ち着きない。
 光彦は戸惑っていた。さっぱりときれいにみえた真紀の母親は、夫の死後じりじりと心を焼いていたのだ。
 漁師町での経験では、家庭訪問するとたいてい母親が一方的に喋りまくり、教師はただ黙ってうなずくだけで事は終わった。滞在の三十分を堪えればいいだけの話で、定例行事としての家庭訪問は思いのほか楽だった。おそらく担任教師というのは、西洋の告解の神父の役割を果たしているのだろう、と思ったりしたものだ。心の底に溜まりに溜まった子供への不満、愚痴、ときには夫への苛立ちなどを、神父のような担任にあっけらかんと吐き出して、それで明日から頑張る意欲を手に入れる、そう考えていた。しかし目の前の母親は黙しがちで、心の奥を自分で探っているように見える。来週の家庭訪問週間にまわる都会の子の親とは、このように内向した懊悩に苛まれているものなのか、と心配になった。
 由紀江が揺れていた視線をきちんと向ける。どこか擦り寄ってくる気配を感じて、体を硬くした。
「先生、私感じるんですが、なんか今の日本人って、真紀だけじゃなく、誰も彼もが心さびしいのじゃないかって」
 光彦は咳払いした。何かの宗教にはまっているのだろうか、と不安な気持ちになる。
「先生は、そうは思われませんか。まだお若いから、そういう気弱な考えは持たれないかもしれないですね」
「来年で三十になりますから、決して若くはないです」
「三十ですか。あの子を産んだ年ですね。母にいわれて無理やり結婚させられたのですが、こんなことになるのなら母のいうことなんか聞かなければよかった。そう後悔するときがありますよ」
「真紀さんはいいお子さんですよ」
 光彦が口を添えた。しかし由紀江は芯のある声でそんなあやふやな言葉を弾き飛ばして、吐き出すようにいうのだ。
「先生は何もご存知ない」
 それはあたりまえだ、と心で反論した。児童が見せる仮面の裏にどのような素顔があるか、クラス担任はたいてい知らない。知ろうとしても、日に何時間かの表面的なつきあいでは実際無理なこと、と半分諦めている。
 由紀江が、彷徨うように続ける。
「先生は、何かを待たれたことがありますか」
「待つ?」
「そうです。誰だって、何かを待っているわけでしょう。違いますか」
「確かに」
「私も待っています。母も真紀もみんな待っています。もう長い間」
 由紀江は心を打ち明けるべき友を持っていないのだろうか。光彦は当惑して、何を待っているのか、と気のない問いを返した。
「いろいろです。でも、待つって残酷なことですね。一度待つことに決めたら、もう普通の暮らしはだめになりませんか。どうせ、その何かが来ればすべてはオールクリアになってしまうわけですからね。待っている間は何をやっても意味はないし、どんなことだってできます。息苦しいですよね」
「考えたことないもので」
 光彦は生返事をして、壁に掛けられた時計を見た。そろそろ辞去すべき時刻である。
 しかし由紀江は迫りくるように続ける。
「先生、私にも何度か正社員の声はかかったんですよ。でも、正社員になったら、もう待つ立場じゃなくなりますね。そう思って、今もパートのままですし、再婚もしなかった。母のいうとおりにやってきたのですが、なんか虚しいですね。こんな虚しいまま、あと何十年も生きていかなくてはならないのかと思うと、やりきれないです。ご存知ですよね、私の母。頑固な独裁者みたいな人」
 光彦はすっかり困惑していた。清楚に見えた都会の母親が、今漁師町の魚網をたぐる日焼けした母親よりも情けないありさまになっているのだ。由紀江は母親に支配されたこれまでの人生に腹を立てているようにみえた。
そろそろ引きあげようか、と機会をうかがう。
 しかし由紀江は唇を噛んで、すがるようにいう。
「どうせ、みんな、最後には死んでしまうわけです。それなのに、どうして人間って、愚かしい夢ばかり見て、こんなに面倒くさいのでしょう」
 つき合いきれない気がして、意を決して立ちあがった。
「すみません。遅くなりましたので、そろそろ失礼します」
 由紀江は、まだ話し足りないという素振りをみせたが、光彦はきっぱりいった。
「また何かあればお電話します」
 ゆらゆらした視線を光彦の顔に漂わせていた由紀江が、ようやく力なく立ちあがり、鈍重な動きでハンガーにかけていたスーツに手をやった。その体が、訪問したときと比べて急激に縮んだようにみえる。それは夫の死、次女の死、それに歯を剥き出して逆らう真紀のせいなのか。それらの悲しみが、やっとのことで形を整えている心を、無惨に蝕んでいるのだろうか。
 いつ消したのか、さっきまで聞こえていた音楽がない。真紀がドアを小さく開けて顔を覗かせた。
「先生、終わった?」
「うん。帰る。明日またな」
 真紀が、さびしそうに笑って近づいてきた。
「今日は来てくれて、ありがとう」
 笑顔で見あげる真紀は、どうみても反抗期の子供にはみえない。それでもこの子は、幼いながらも重い屈託を心に抱えているのか。
 光彦は、いつも二人でやっているクイズを出した。
「真紀、『日本霊異記』の四十一段は?」
 真紀は、八歳の年齢よりずっと子供らしい笑顔をみせる。
「上巻、下巻?」
「そうだな、上巻」
「また適当にきいたでしょう。四十一段は中巻にしかないです。蛇と結婚する女の人の話」
「ひいおばあちゃんの専門だったな」
 スーツを渡す由紀江の手がとまって、一瞬頬が引き攣り、
「真紀、何の話をしているの!」
 と、今にも拳を振りおろしそうな剣幕で叱った。
 光彦は突然のことに驚愕したが、真紀は平気な顔を母親に向ける。
「ママ、先生はだいじょうぶなの」
「だいじょうぶって。そんなわけないでしょう」
 声は荒く、由紀江の目は焼けているようにみえた。
 事態が理解できなくて、光彦は呆然と二人を見つめていた。

 車を走らすうちに、雨は小降りになった。ワイパーの動きがかえって目障りになる。
光彦は、何だか大変な親子だな、と思いながらハンドルを握っていた。帰りしなに母親が激怒したが、真紀に難しい知識があるのは隠すことでも何でもない。学校関係者なら、誰でも知っている。夫と次女を亡くしたせいであのように意味なく神経質になるのなら、自分も妻と生まれてくる子供のために長生きするのは責任であり義務なのだ、と自覚した。
 真紀の母親は、どうせ死んでしまうのだから何をやっても意味がないし、また逆に何でもできる、といった。光彦は生物を専門にしていたから、それを生物学の見地でいうのなら正しい、と思う。しかし飽くまで学問上での話だ。地球に海ができてそこにアミノ酸が生まれ、やがて光合成バクテリアが満ちあふれて、ついには魚の形をとる。地上に植物が繁茂して酸素が充満したとき、魚は陸にあがり、それから長い年月かけて哺乳動物が生まれて今の人類の繁栄をみる、というのがおおよその進化の過程だが、その間に消費された命のほとんどは記憶されることがない。億万種もの種が絶滅している生物の歴史の中で、命など、まさに意味なく生まれて意味なく死んでいったといえる。人間の場合も、どれほど知能が優れていようと、どれほど形態が美しかろうと、結果的にはバクテリアの命と変わるものではないのだ。個体は、系統の中ではただの過程でしかない。人でも犬でも、死体は土に溶けてまた別の命を育む。春、公園に咲く桜花だって、昔は誰かの命の素材になっていたのだ。
光彦はその無意味さにおもしろ味を感じるが、現実に個体として生きている真紀の母親は、そうは思えないのだろう。
 ほとんど石狩に近い屯田地区に着いたときには、雨はすっかりあがっていた。光彦も妻も、地方の出身だから札幌に実家がない。学校から離れているが、安かったので住宅街の一軒家を赴任した四月から借りていた。カープールに車を止めて、玄関チャイムを押す。
 妻の朋美が、はちきれそうなお腹を抱えてドアを開けた。玄関灯に照らされた顔は不機嫌そうだが、朋美も真紀に劣らず美しい。
「どこに行ってたの?」 
 光彦を見ると、真っ先にそうきいた。その目つきがきつい。このところたいていこうである。マタニティーブルーのせいと思って、逆らわないようにしている。
「家庭訪問だよ」
「電話ぐらいしてよ。その程度の時間あるでしょう?」
「急だったからな」
「本当は、行動をチェックされたくないんじゃない? 女?」
「そんなわけないよ。おれ、昔から女の子にそれほど関心なかったし。知ってるだろ?」
「じゃあ、ウーパールーパーと結婚すればよかったのにね」
 朋美は憎たらしげにいったが、目もとは笑っている。
「オス同士じゃ、無理だろう」
 と、いなしてリビングに入り、真っ先に水槽を覗いた。朋美は商標名のウーパールーパーを使うが、光彦は原語のアホロートルという名前に馴染んでいる。サンショウウオの幼魚で、ボタンのような黒い目を二つくっつけていつも砂の上でのんびりしている。買ったときにはわからなかったが、ようやくオスだと判明して実はがっかりしている。水温は適温の十七度にしているが、指を入れてピンクの肌を触ると少しぬるぬるするのは、体調が悪いせいかもしれない。水換えは数日前に行ったばかりだから、きっと餌の赤虫を食べすぎたせいだろう。
「ご飯にする。それとも、お風呂。ひょっとして、私?」
 朋美が背後からつまらない冗談をいったので、安心してダイニングのテーブルに座った。
「お腹、ぺこぺこだよ」
 朋美はテーブルに野菜をメインにした食事を出す。
「あなたの食事作るのって、ほんと面倒くさいのよね。魚も肉もダメだっていうから」
「おれ、虫みたいなものだから、野菜がうまいんだ」
 光彦はにやけた。子供のころは平気で肉でも魚でも食べていたが、学生時代に生き物を実験用に殺していくうちに、それらを食べることに抵抗が生まれてきた。別にベジタリアンを気取っているわけではないし、食べようと思えば食べることができる。しかしどこか気持ち悪い。漁師町で家庭訪問の際にもらう魚は、いつも隣の公宅に住む中年女性教諭に渡していた。
 光彦が箸を取ると、朋美はテーブルの向かいにゆっくり腰をおろした。
「どうだ、何か変化あるか」
「特にないけど、腰がだるい気がする」
「それはそうだろう。荷物を内臓の筋肉だけで支えているようなものだからな」
「芽衣、よく動くよ。かわいい?」
「かわいいにきまってるじゃないか」
「きまってなんかいないけど……」
 とすねた振りをする。
「きまっているよ。おれとおまえの子だろう? 女の子って聞いて、うれしかったよ。きっとすごい美人になるぞ」
「なるかな?」
「なるよ。おれだって、バレンタインの日には、カバンに入らないくらいチョコレートもらったからな。今でも小学生がたくさんくれるよ」
 朋美はばかにしたように笑う。
 光彦は煮つけた椎茸を一切れぽいっと口に入れ、
「今日な、また喧嘩があったんだ。女の子とガキ大将との」
「この前話してた子?」
「そう。同じ子。とってもきれいなんだぜ。おまえが子供のころって、こんな感じだったろうって、いつも思うよ」
「じゃあ、その子、応援しなくちゃね。で、どうだったの? 喧嘩」
 と目を輝かせて頬杖つく。
「女の子の勝ち。これで、三勝目かな」
「また耳を齧ったの?」
「いや、今日は中指。でも血が出たよ」
朋美が、長い髪を払ってにっと笑う。
「好きなんじゃない、その子?」
「残念ながら、おれ、ロリコンの気はないし」
「ほんとかな。赤ちゃんみたいなウーパールーパーを愛する変な趣味があるくせにね」
「ほんとだよ。でも、その子は赤ん坊の頃に父親を亡くしているせいか、すごいさびしがり屋で、いつも甘えてくる。どっか痛々しいくらいだな」
「私だって、父が事故で死んだときは泣いてばかりいたよ」
 光彦は含み笑いした。
「そこに、おれはうまくつけこんだってわけか。今だからいえるけどな、前浜でやった帆立祭のパーティーで初めて会ったときのおまえって、暗くてじめじめしてたぞ。漁師町の保育園に咲く萎れたバラ、って感じだったな」
 朋美は長い首を傾けて、ほほ笑んだ。そのとたん、素っ頓狂な声をあげた。
「あっ、今動いた」
「芽衣か」
「うん。触る?」
 光彦はとっさに椅子から立ちあがって、向かいに座る朋美の腹に手をあてた。動くものはない。
「すでにオヤジを拒否してやがる。もう反抗期かもしれないな」
 光彦はまた茶碗を手に取る。
「そうだ。おまえ、児童心理とか勉強したはずだから、きこうと思っていたんだけどさ、天才って、どう思う?」
朋美がとまどった顔をする。
「何よ、急に。意味わからないわよ」
「その子な、きれいなだけじゃなく、頭もすごいんだ。おれよりいろんなこと知ってるよ。そういう子ってさ、いつ普通になるんだ?」
「いつ普通になるって、変な質問だな。でも、本当に天才なら、ずっと天才のままじゃない。それにね、わかっていないかもしれないけど、たいていの人は、あなたより頭はすごいと思うよ。あなたって、専門のこと以外何も知らないでしょう?」
 朋美はまじめに受け取らない。
「そんなことないよ。おれだって、小学校の教師だから、小学生レベルの知識はあるよ。苦手の歴史だって国語だってな。小学校で習うことって、ばかにしたもんじゃないぞ。でもな、その子は、そんなレべルじゃないんだ。二人でよくクイズを出し合うんだけど、そうするとよろこぶんだ」
「学校の先生ってヒマなのね」
 朋美がさもおかしそうに笑う。
「そんなわけないだろう。おばあちゃんが教えてくれたらしくて、クイズは数学の問題。算数じゃないぞ。それからひいばあちゃんから習った『日本霊異記』って本とか、奈良や平安時代のギリシャ文化の影響とか、そんな難しいことをよく知っているんだ。それに英語だってできるみたいだぜ。普段は隠してるけど、いつか理科の時間に、ぽろっと『コンスタレーションズ』なんて言葉をこぼしてたよ。それもごく自然に。おれ、英語、からきしだめだから、あとで辞書を調べたら『星座』って意味だった」
 朋美は考え深そうに眉に皴を寄せた。ふいにその目つきが鋭くなる。
「名前、何ていうの?」
「真紀。早瀬真紀っていう」
「お母さんの名前は?」
 箸を持ったまま少し考えて、
「確か由紀江……だったかな」
 朋美の顔から血の気が引いた。
 光彦があわてて身を乗り出す。
「どうしたんだ。知ってるのか」
 朋美が硬い表情でうなずく。
「由紀江さんには、中学生のとき英語の家庭教師をしてもらっていたの。遠いのに、わざわざ車で家まで来てくれたのよ。真紀ちゃんにも会ったことある。まだ赤ん坊だったけどね。真紀ちゃんのマンションは通学区域が違うと思っていたのに」
 光彦は、わざと大げさに安堵の息を吐いた。
「手稲区も人口が増えて、学区変更があったんだ。知っていたのなら、早くいってほしかったな。今日家庭訪問したときに、挨拶できたじゃないか」
「いいよ。由紀江さんには、あまり会いたくない。父が亡くなったのは、由紀江さんのご主人の車に乗っていたときだったの。二人とも即死だったけどね」
 朋美の父親は誰かの車に乗っていたときに、トラックに激突されてぺちゃんこになって死んだと聞いた。それしか聞いていない。
「恨んでいるのか」
 朋美は目を伏せて、細い指でテーブルクロスをぎりっと掴んで、重々しく首を垂れた。
「何度も恨んだよ。どうして父の所に顔を出したのかって。あの二人は、決して会うべきじゃなかったのに。あの男の誘いに、嫌がる振りをしながらのこのこついて行った父も許せなかったけど、真紀ちゃんのお父さんも許せなかった。父が亡くなったのはいいの。仕方ないと諦めてる。でも、私を裏切ったのは許せない」
「おい、おまえのいっていること、わからないぞ。何の話なんだ」
 朋美は、それきりうつむいて沈黙した。全身が強張っている。ふいによろりと立ちあがった。
「ごめん。今日は疲れたから寝るね」
 光彦もあわてて立ちあがり、急いで朋美の手をつかんで引き寄せた。とたんに、朋美が体を投げかけてきた。光彦の腹に、大きく膨らんだ朋美の下腹がつっかかる。背中に手をまわして、懸命に撫であげた。
「なあ、話してみろよ。話せば気も休まるぞ」
 朋美の髪が揺れて、光彦の顎をかすめる。
「いいの。もうだいじょうぶだから。ちょっと嫌なことを思い出しちゃっただけ」
「まあ、座れよ」
 そういって、ソファに連れて行った。腰をおろすと、安心したように光彦の胸に顔を埋める。
 光彦は途方に暮れていた。つきあい始めの頃に道南の山道を夜遅くドライブしていたとき、一度父親の話をして泣きだしたことがあったが、それはただのさびしさからくるもの、と考えていた。結局はその夜初めてホテルに泊まることになったが、それは朋美が誰かにすがりつきたかったせいだろう、と決めつけていた。しかしさっきの言葉は理解できない。
――私を裏切ったのは許せない。
 誰が裏切ったというのだろう。真紀の父親だろうか。それとも、朋美の父親なのか。わけがわからないながらも、朋美の過去に何かがあって、それが今も心を圧っしているのだけはわかった。
しかしそれが何であっても、詮索する必要はない。おそらくいつか何かの機会に、朋美のほうから話してくれるだろう。それを待とう、と決めた。学生時代から、小さな生き物が蛹の中で息づき、やがて孵化して成長していく過程を気長に見守ってきた。待つのには慣れている。
少したつと、朋美の表情に色がもどり、笑みももどった。光彦はまたテーブルに座り食事の続きをとったが、寡黙になった朋美の口から再び父親の話題が出ることはなかった。光彦は故意ににぎやかに、アホロートルの故郷であるメキシコのソチミル湖の話などをした。湖水には何らかの成長阻害物質が含まれているらしく、アホロートルは成体に変態できないまま子供を作る、いわゆる幼形成熟の一種だとも伝えた。そこだけ朋美が反応を示したので、
「幼形成熟ってな、いってみれば、蛙にならないで、オタマジャクシのまま親になって子供を作るようなものだよ。英語で、ネオテニーっていう」
 朋美は一瞬気味悪そうに眉をひそめた。

光彦は、教室の窓から晴れやかなグランドを眺めていた。時間を与えて割り算の問題をやらせていたのだ。
グランドには清々しい陽射しがこぼれ落ちて、隅に立つ蝦夷山桜、辛夷、銀杏の木が清々しい姿をみせていた。昨日の暴風雨で花びらはたくさん落ちていたが、植物の生命力は不思議なもので、空が晴れるとすぐに花粉を飛ばし始める。虫媒花の花粉はわずかに黄色味を帯びているが、風媒花の花粉は白い煙のように飛ぶ。見ているぶんには見事な光景だが、最近は花粉症の問題があってそうものんきな態度は取れない。西洋で薔薇熱と呼ばれた花粉症が日本で一般に知られるようになったのは、セイタカアワダチソウによるものだった。セイタカアワダチソウは主に水辺に大群落を作るが、虫媒花のため自ら花粉を飛ばすことはない。それでもこぼれ落ちるわずかな花粉で、人は容易に鼻づまりを起こす。日本の都市部で花粉症が本格的に問題になり始めたのは、スギ花粉の大飛散があってからのことであり、以来花粉症といえばスギ花粉が代表されるようになった。ただ幸いなことに、道南を除いて北海道にスギはない。安心していると、代わりに白樺による花粉症が問題になってきた。白樺の場合は、口腔にかゆみやしびれが生じてスギ以上に始末が悪い。花粉症は植物そのものに対するアレルギー反応といえるから、イネ科やキク科の植物はもちろんのこと、あちこちに群生しているどの植物も脅威であり、林檎や苺でさえ花粉症の原因になったりする。
最近はアレルギーの児童が極端に多くなってきた、と思う。野の草に触れるだけで皮膚がかぶれる子も増えたし、トマトなどの果物をアレルゲンとする子もいる。遠足ひとつ行くにも、毎日の給食の献立にも、以前は考えられなかったほど神経を使うようになった。
これまで同じ地上で棲み分けてきた植物が人間に棘を向けるほど敵対的になったのだろうか、と考えてみるが、ありうることとは思えなかった。敵対的というのなら、人類が誕生したおよそ六百万年前から植物は常に敵対的なはずである。表面上は共存しているようにみえても、仮に植物の側に立ち位置を取れば、人間はただの後発の異物でしかない。しかも自分たちに害をなす異物。植物だけが大地にはびこり、たんぱく質合成の生き物すべては古巣である海にもどるべきだ、と地球上のすべての植物が願っているとしても納得できる。草木が叛乱を起こさないのは、ありがたいことだ。
となると、花粉症の患者が激増しているのは、大気汚染などによる劣悪な生活環境が人の免疫反応を過敏にさせているせい、そう結論づけるしかない。ひょっとしたら多くの人たちにとって、植物系の食料を口にできなくなる日が近いうちに来るのではないか。そうなれば、これもまた食糧難の大きな原因になるかもしれない。
そんな途方もない思いに浸っていると、突然、がたんと大きな音がした。振り向くと、一番うしろの席に座っていた真紀が、椅子ごと仰向けに倒れて体を震わせているのだ。あわてて机の間を走り抜け、床にごんごんと頭を叩きつけて痙攣する真紀を見おろした。白目を剥き、口から泡を吹いている。引きつけのようであるが、そのような病歴があるとは聞いていない。
「保健委員、留美子先生を呼んで来て!」
 そう叫んでから、片膝ついて横に座り、椅子を取り除いて、真紀の胸元のボタンを二つ外した。幸い舌を噛んだ形跡はない。五月の連休前に留美子の指導で校内研修を行った際に、発作時には何もしないで様子を見ておくように、と教えられた。舌を噛まないように割り箸を入れるのではないか、と年配の教師が質問したとき、留美子は笑って、今どきそのようなことはしないし、めったに舌を噛むことはない、と答えたはずだ。箸などを入れて逆に差しこむ指を噛まれたら、そのほうがひどい結果になる、といったのも覚えている。
 それがあったから黙って様子を見ることにした。すぐに留美子が来るだろう、という期待もあった。
やはり緊張していたのか、時間の経過がわからない。一分程度とも思えたし、もっと長かったようにも思える。奇妙な唸り声を伴う痙攣の勢いが衰え、激しく揺れていた首も固定されて動かなくなった。今はただ白目を剥いて、何かを食べるように口を小さく動かしているだけである。痙攣の間は呼吸ができないはずだから、当然顔は土色になる。その顔に、一度消えていた紅がゆっくりもどってきた。やがて真紀は目を硬く閉じてぐったりした。
「おい、そんなにじろじろ見るんじゃない。みんな席について自習しなさい」
 ふいにわれに返って命令したが、誰も動かない。怖いもの見たさに、遠巻きに視線を向けているのだ。その中に蒼い顔をした隼人もいた。
 背後でばたばたと足音がして、留美子の白衣が目の片隅を掠めた。
「引きつけたのね」
 横にしゃがんだ留美子が、真紀の顔や額に触っていう。
「保健室に運びますか」
 光彦がきくと、
「いえ、しばらくは動かさないほうがいいと思うわ。ものすごいエネルギーを使うので、今くたくたになっているはずですから」
「救急車呼びますか」
「どうかな。治まったのなら、救急車まではいいと思いますけどね。あとで、タクシーで病院に連れて行きます。脳波検査は必要だと思うので。前から引きつけを起こしていたのですか」
「いや、聞いたことないな。この前の講習会のときだって、一、二年時の担任は何もいわなかったし」
「熱っぽかったですか」
「そんなことなかった。直前はわからないけど、それまでは熱がある感じじゃなかったな」
「今もないですね。わかりました。このまま静かに寝かせておいてください。声をかけないでくださいよ。脳波が乱れることがありますから。私、教頭先生に相談してきます」
 留美子が手馴れた指示をして、立ちあがろうとしたときだった。真紀が呻き声を発したのだ。いや、呻き声というより言葉だった。言葉は、穴から泥水がごぼごぼ湧くように口から洩れて、途切れることがないのだ。光彦は真剣に耳を傾けていたが理解できるものは少なく、ときおり苦しい息の合間に洩れるいくつかを拾いあげることができただけだった。それらは、サヨさん、カモメ、だった。それさえも明瞭に聞こえたわけではない。
 おさまったと思った瞬間、真紀が今度はものすごい声で唸った。
「くやいよぉ!」
 光彦はざわりとした。声が真紀のものではなく、どこか荒々しい声質に変わっているのだ。そのうえ発音は小学生というには心もとなく、まるで幼児の発するものだった。そのせいか、真紀の言葉は何かなまぐさい生き物の咆哮のように感じられた。ちらりと見ると、留美子も怯えたような眼差しで真紀を見据えている。その顔色が極端に悪くなっている。
 真紀は、ぜいぜいと荒い息を吐き、再び唸り声をあげた。小さな胸が荒波のように激しく揺れる。息を殺して待機していたが、真紀はそれ以上言葉らしい言葉を発することなく、獣の声でひたすら吼え続けた。瞼の奥で眼球が嵐のように動き、眠りながら不快な夢を追っているのが想像できた。
 留美子が白衣のポケットから携帯電話を取り出し、教頭に相談することなく救急車を呼んだ。事態が尋常でないと判断したのだろう。確かに先日の講習会で聞いたのとは、あまりにも発作後の様子が違う。発作の後では、疲労のあまり昏睡したような眠りがくると習ったはずだが、今の真紀に平安な眠りがあるようにはみえない。息はまだ荒く、痙攣こそ起こさないが、深い闇の底をがさごそ這いずりまわっているような感じだ。ときおり体がぴくりと跳ねる。
 光彦は、学級委員長を使って教頭を呼びにやらせた。それから怯えた顔で見つめる児童たちに、席について静かにしているように指示した。今度は誰もが無言で従う。
 やがて太った教頭が小走りにやって来た。留美子が小声で事態を説明し、救急車を呼んだことの了解を取る。するうちに禍々しいサイレンが聞こえて、玄関前でとまった。
 留美子はすぐに飛んで行き、担架を持った隊員たちともどって来た。これまでにも何度か呼んでいるから、救急隊員と顔見知りのようである。呻き声こそおさまったが、まだかすかに震える真紀をてきぱきと担架に乗せて、留美子と一緒に出て行った。
「そのまま、少し自習していてくれ。わかったな?」
 いい置いて職員室にもどると、赤色灯をくるくるまわして正門を抜ける救急車が窓の向こうに見えた。急いで個人票をめくり、母親のパート先に電話を入れる。
 由紀江はすぐに出た。挨拶もそこそこに、真紀の発作を伝えると、
「引きつけ?」
 声が半信半疑である。
「ええ、どうみても癲癇のような発作でした」
「そんなの、初めてです」
 戸惑った声が届く。
「保健室の先生としばらく様子を見ていたのですが、通常の引きつけとは違うようなので、救急車を呼びました」
 由紀江の声は何度も滞った。
「そんな病気を持っているのなら、これまでもあっておかしくないですよね。急になるものでしょうか」
「そこは、ぼくにもよくわからないのですが、しかし明らかにあれは……ちょっと待ってください」
 一般教諭よりも一まわり大きな管理職用の机に背中を丸めて座り、留美子からの電話を受けていた教頭が、身を乗り出すようにして病院名を告げた。 
「もしもし、搬送先がわかりました。市立病院です。今、養護教諭がつき添っていますが、お母さんにもそちらに行ってほしいのです。よろしいでしょうか」
「もちろんすぐに向かいます」
 ほっとして電話を切ろうとしたとき、ふと真紀がうなされていった言葉を思い出した。
「そういえば、さっき発作の最中にうわごとをいってました。サヨさんとかカモメとか。わかりますか」
 しばらく沈黙があって届いた由紀江の声は、闇夜を抜ける風のようで、光彦の背筋を冷やすものがあった。
「サヨですか」
「はい。確かにそういいました」
「わかりました。それでは……」
「もしもし」
 電話は切れていた。サヨですか、と確認した由紀江のひんやりした声が光彦の耳に残っている。サヨの意味はきっと理解されている、となぜともなく確信した。

 放課後生徒を帰すと、その足で保健室に向かった。
 白衣の留美子は机に向かって、保健日誌をつけていた。光彦を認めると、回転椅子をくるりとまわして向き直った。
丸椅子に座って、
「今日はすみませんでしたね」
 光彦がいうと、留美子はぺこりと頭をさげた。
「こちらこそ報告しないで。授業中だったものですから」
「それはいいけど、真紀はどうでした?」
「救急車に乗ると、すぐに落ち着いて、そのまま寝てしまいました。病院では、脳波とか断層写真とかを撮って調べてくれましたが、まったく異状ないらしいですね。検査中にお母さんも来られて、一緒に医師の説明を聞いたのですが、医師もお母さんも首を傾げていましたよ」
 安心はしたが、どこかしっくりこない。
「何もないのに発作って起こりますか」
「子供には多いですよ。一過性のものですけどね。発作は、脳が抱えきれないほどのストレスに見舞われた場合に起こる、いってみれば脳の拒絶反応なんですよ。医者は、熱がなかったのだから癲癇の可能性がゼロとはいえないが、それでも熱性痙攣に似たものじゃないか、といってました」
「熱性痙攣?」
「ええ、赤ん坊が起こす痙攣です。赤ん坊の時期に、脳が高熱に堪えきれなくて起こすのですけど、まあ、地震と同じで、溜まったエネルギーの放出と考えてください。何度も起こして癖になるとまずいですが、一度や二度では問題ないといわれています」
 光彦は、医師の診断を奇妙なものに思って眉をしかめた。
「熱性というのなら、外から見ても顔が赤くなって、すぐにわかるはずだけどな」
「熱性痙攣ではなく、熱性痙攣の類です。つまり癲癇ではない痙攣という意味ですね」
 どこか納得できない気持ちでいると、留美子が顔を近づけた。
「さっき真紀ちゃんがうなされて喋ったこと、覚えてますか」
「覚えてるよ。確か、『カモメ』とか『サヨさん』とか』
「私が郷土史を研究しているのは、話しましたよね」
 訝しげにうなずくと、留美子は一瞬の躊躇のあと、光彦の目をにらみつけていった。
「真紀ちゃんがいった『カモメ』と『サヨ』というの、北海道の郷土史に、大きな謎としてあるんですよ。カモメって、カモメ島のことですけどね」
 光彦は、留美子の大げさな表現を笑った。
「へえ、謎とはすごい。あの子はそんな謎に関わっているのか」
「さあ、関わっているはずはないと思いますが、どうして発作の最中にあんな名前が飛び出したのか、私、気になるんです」
 光彦はひらひらと片手を振った。
「あのね。あの子は、おばあちゃんとかからいろいろ昔の話を聞いて、何でも知っているから、それを夢に見たんじゃないかな」
「それはどうでしょう。だって、この話、一般には知られていないことですよ。郷土史家は調べてますけど、よくわからないみたいです」
「じゃあ、おばあちゃんも郷土史家かな」
「ほんとですか」
 光彦は軽く頭を掻いて、
「やっぱりそういう感じじゃなかったな。迎えに来たときに、何度か挨拶したけど。工業大学で数学を教えていたみたいだから、ばりばりの理系じゃないかな」
「理系の人だって郷土史家にはいますけど、きっと違うと思いますね。会員名簿にも工業大学に勤めていた人なんていませんもの」
「じゃあ、どうしてあの子は痙攣しながら、サヨなんて名前を口にしたんだろうな」
「そこなんですよ。ちょっとこれ、見てください」
 留美子は机の上から昨日読んでいた薄い雑誌を取り出し、せわしなくページをめくって、中ほどを開いて差し出した。
「短いですから、ここだけ読んでみてください」
 面倒な気がしたが、見るとわずか一ページの内容だったから諦めて受け取った。小見出しには、
「三、小夜による島民無差別殺害の概要」
 と、ゴシック体で書かれている。
 何だこれは、と思いながら、留美子に指示された紙面に目を走らせた。

 事件が発生したのは、今を遡ること百三十六年前、磐石なはずの徳川体制の基盤にほころびが見え、いつ倒壊があってもおかしくない一八六〇年(万延元年)のこととされている。干支は庚申。弥生には桜田門外の変が起きている。
日本海に浮かぶ蝦夷カモメ島は、当時は松前藩の藩領であり、もともとは罪人を留める流民の島であった。警備の役人は置かれていなかったが、同時に舟と名のつく物もただの一隻も残されていない。海流の関係で海が荒れる日が多く、島はまさに自然の作る牢獄といえた。その理由もあってか、先住民族であるアイヌの民もここには分け入ることがなかったという。
流された罪人たちは、それまで人の侵入を認めたことのない鬱蒼とした森に入り、獣を狩り鳥類を射て、かつかつ命を永らえるしかなかった。やがて食い詰めた渡り者が入植を始め罪人と混じるようになると、村が構成され、明治期には島民五百人を越えるに至った。過去には流民の島にちなんで「鬼棄島」と呼ばれていたが、時代が大正に移った時、現在の「カモメ島」に変更された。
位置的に米作の北限を越えていることもあって、入植しても作るのは粟や稗であったり、寒冷地に強い黍などであった。とはいえ、それらの栽培すらまだ難しく、島の生計の基本としては、物を「育てる」より「獲る」ことに主眼が置かれ、雑木林の栗やどんぐり、塩漬けにした山菜などが主な生きる糧であった。本格的に米作がなされるようになったのは明治の終盤になってからである。
当然暮らしぶりは豊かといえず、冬は乗り越え難い季節で、「飢渇(けかち)の時」と呼ばれ、雪解けの山野に餓死者が連なることも珍しくなかった。
小夜の事件は、そのような島で起こった類をみない惨劇であるが、その内実はほとんど周知されていない。 
 時は陰暦葉月。現在の太陽暦に直せば七月、夏の盛りである。身重の体をカスリに包んだ女が忽然と件の島に現れ、まっすぐ山につながる道を進んだ。途中で出会った者の証言では、その時の女は「狐に祟られたごと、目がござっていた」(島に唯一ある浄土宗分院の住職が書き残した文献)というように憑依状態にあったのではないかと推測される。
 女はそのまま村外れの、当時すでに廃屋と化していた家に一旦立ち寄り、そこにあった錆付いた鉈を手に村に取って返し、出会う者は女、子供の見境なく斬りかかった。死者は幼子二名を含めた八名(多くは失血死と思われる)、傷者は十名に上った。
 すぐに捕らえられ、誰何されると、憎しみの目で「小夜」と名乗った。本土の箱館奉行所に連絡することなく、私刑に似た方法で小夜はその場で殺され、山の雑木林に身重の胎児と共に埋められたのである。その時、小夜を小舟で運んだ男も殺害された。現在その雑木林がどれであったかは判明していない。
 事件の概要は以上の通りであるが、小夜がいかような理由で島民の虐殺を画策したのか、これは現在に至るも大きな謎として残っている。襲われたはずの島民も長年この事実をひた隠しにし、本事件が公けになったのは、本誌の同人であり、現在、島役場の嘱託をされている郷土史家山田敏治氏のお陰である。以来五年を閲していない。調査はようやく端緒に着いたばかりである。
次号で、筆者はこの小夜とは別の小夜が起こした事件に関して、わずかばかりのメスを入れてみたいと資料を整えている最中である。(次号に続く)

 読み終えて、光彦は顔をあげた。留美子の好奇に満ちた目が間近にある。
「これが、あの子のうわごとと関係あるっていうの?」
 留美子が力強くうなずく。
「そう思わないですか」
「確かに小夜とカモメ島は同じだけど、小夜なんて名前、昔だったらよくありそうだし、それに北海道の周辺は島だらけだから、カモメ島って、あちこちにあるんじゃないかな。実際、ぼくが最初に勤務した近くの江差にもあるしね。それに真紀も、偶然この雑誌を読んでいたかもしれないしね」
 留美子が力強く首を振る。
「それはないです。これは市販していません。先生、私は確信しています。病院で真紀ちゃんのお母さんに小夜のことをきいたら、顔色変えていましたもの」
 そういえば、自分が電話で真紀のうわごとを伝えたときの反応も同じような印象だった、と思い出した。
「で、それがどうかしたの?」
「どうしたの、ってきかれても困りますけど、先生は興味ないですか」
「あまりないな」
 留美子は落胆の表情を隠さなかったが、それでも執拗と思える口調で続けた。
「これ書いた人ね。白老にいるんです。元教員ですけど、私と大学が同窓なんです。これまでも同人会で何度か会っています。それでね……」
「会いに行きたいわけ?」
 光彦は、留美子の言葉を先取りした。留美子が重々しくうなずく。
「だって、この同人誌、季刊ですよ。この号って、出たばかりだから、続きは三ヶ月先になるでしょう。待てないですよ。この人、もう一人の小夜の事件を書くっていうくらいだから、絶対何か掴んでいますよ。だから私、どうして小夜って人が急に島にやって来て、発作的にこんなひどいことをしたのか、きいてみたいのです」
 光彦は笑っていった。
「ひょっとして、先生はぼくを誘ってる?」
 留美子は、頬をわずかに染める。
「だって真紀ちゃんに関係あるかもしれないと思って」
「それだけ?」
 怒るかと思ったが、留美子は肩をぎこちなくすくめただけだった。
「それだけですよ。先生にはきれいな奥さんがいるでしょう。勘違いしないでくださいね」
 光彦は、留美子をじっと見つめた。決して美形とはいえないが、よくよく見ると大きな瞳がきれいに澄んでいる。その底には、どこか子供みたいに瑞々しいものが流れていて、こういうのを吸いこまれそうな瞳というのだろうな、と思った。
「いいよ。ぼくはかまわない」
「ほんとにいいですか」
「うん、たまには郊外に出るのもいいかなと思って。で、いつ?」
 留美子はいい渋ったが、
「明日の土曜日なんです。午後、都合悪いですか。さっき電話でアポ取ってしまったもので」
「せっかちな話だな。でも、白老なら高速使えばたいしてかからないね。午前中はうちの奥さんと買い物に出かけることになっているから、午後ならちょうどいいや」
「じゃあ、私、車出しますね」
 留美子は笑みを顔中に撒き散らした。清潔な白衣の中で、その笑顔がきれいである。どこかで何度も見たような心地よい笑顔だった。
 光彦は中腰になって、きいた。
「でもさ。先生は、どうしてこんな気持ち悪い事件に興味あるわけ?」
 留美子は一瞬当惑の色をみせたが、すぐに穏やかに笑って、
「だって、私、郷土史が趣味だから」
 と答えた。
 光彦はにやりと笑い返したが、心の底では、違うな、と思った。
 
 小夜の事件を研究しているのは、中学校を教頭職で退職して十年になる、向井健吉という老人だった。アイヌコタンで有名な白老に退職後移り住んで、それから郷土史研究にのめりこんだようである。紺の作務衣を着ている。
 向井は老人特有のにおいが染みついた居間のソファに座って、久しぶりに人が訪ねてきたせいか、血圧が高そうな赤ら顔をにこやかに崩していた。教員時代は、生活指導部によくいるこわもてタイプだったのかもしれない。
「年を取ると、雪掻きがこたえるんで、こっちに中古の家を買ってね。太平洋岸だから箒で掻くだけですむ。年寄りには楽でいい」
 と、移った理由を、ききもしないのに口走ったとたん、大きなくしゃみをした。
「雪の心配がなくなったと思ったら、今度は花粉症に悩まされてるよ。浜にブタ草やホソムギが群生しているせいだと思うがね。市が刈り取っても刈り取っても生えてくる。年を取ると何にでもアレルギーを起こして困ったものだね」 
 と今度は病状を披瀝した。
 向井は、留美子だけを相手に世間話を始めた。いついつの同人会では誰それがどうだったとか、あるいは自分たちがいた頃の大学は、移転後の今と違ってススキノのそばにあり、そこにはまだ一杯飲み屋がたくさんあったとか、まるで地図を描くように細かい。留美子は、光彦に気をつかって早めに話を切り出そうとするが、向井の一方的な独演会をとめることはできそうになかった。
しかし光彦は退屈していない。珍種の魚を水槽に入れて餌をやりながらじっと観察している気分になっていたから、無視されるのは返って心地よかった。逆に話を振られたら狼狽したかもしれない。
 二十分ほど独り言めいた会話を続けたのではなかろうか。奥さんが出してくれたインスタント・コーヒーは飲み干してからからになっていたし、喋るのに忙しい向井のコーヒーはすっかり冷えていた。
ようやく本題に入った。
「で、わざわざ札幌から来てくれたのは、何でしたっけ?」
 留美子は呆れ顔をして、
「電話でもお話しましたが、今回の同人誌に書かれた小夜の件をお聞かせ願いたくて、伺ったのですけど」
「そうか、小夜だったか。で、どうだね、読んでみて」
 向井は、相変わらず光彦を無視して、留美子に問いかける。
「細かい感想は、今度の号評会で話したいと思いますが、とにかくおもしろかったです」
「そうかね」
「あの論文の終わりに、私の知らない別の小夜について何かを掴んでいらっしゃるように書かれていたのですが、次号まで待ちきれなくてやって来たのです」
 向井は、困ったな、という表情で、霜のおりたまばらな髪の毛を片手で軽く撫でた。
「それをききたいといわれてもな。ここでぺらぺら喋ってしまったら、夏季号の楽しみがなくなるだろう?」
 留美子は一瞬当惑したようにみえたが、首筋をぐいっと伸ばした。
「いえ、口で聞くのと文章は違います。それは別の楽しみです」
 なるほど、とつぶやく向井の目には狷介な光があった。しかし腹を括ったようである。
「で、君は小夜の何を知りたいのかね」
 留美子は躊躇することなく尋ねた。
「小夜がもう一人いるというのは驚きでしたが、今、関心があるのは先生の書かれたほうの小夜です。その小夜はどうして島民を虐殺しようとしたのか。その理由を、先生は何と推測されますか」
 こういうのを直球勝負というのだろう、と光彦はのんきな印象を抱いた。
 向井は、皴の寄った目尻を持ちあげて黙って留美子を見つめていたが、さっきとは異なる重々しい声をあげた。
「今回の論文に引用したように、件の小夜に関してはお寺の住職が書き記している。事実のみの記載だが、それを読んでの私の主観と思ってもらっていいがね、小夜は、以前あの島に住んでいたのじゃないか、と考えている。そういう前提で推論していかないと、島民に激しい怒りを向けた理由が説明できないように思うのだがね」
「突然やって来た見知らぬ女、じゃなくてですか」
留美子がきく。
向井は留美子をぎろりと見て、
「小夜の事件にしっかりした動機があるとすれば、そう思うべきじゃないかね。女はカスリを着ていた。木綿の着物ではなく、そこそこ立派な物だったと書かれている。であれば、本土でそれなりの暮らしをしていたと想像されるな。そんな女が、わざわざ人を雇って荒海を漕いで来たわけだ。今でもあの島に行くのは大変だが、当時は絶海の孤島だったと思われる。そうなると私には、偶然島に立ち寄ったどこの誰とも知れん狂人、とは思えんのだがね。小夜はもどって来たのだよ」
 留美子の眉がぴくりと動いた。
「ということは、小夜は過去に島民と何かあった、ということになりますね」
「積年の怨みがなければ、あれほどひどいことはしないだろう。小夜は子供まで殺している」
「で、その何かとは何でしょうか」
「はっきりとはわからんがね、小夜はあの島で迫害を受けていたのじゃないかと思う。違うかね」
「いえ、充分にあり得ることです」
 即座に答えて、留美子はうつむいた。何かを思い出そうとしているようにみえる。しかしすぐに顔をあげて、
「先生の論文には書かれていませんでしたが、もどって来たとき、小夜は何歳くらいだったのでしょうか」
 向井の厳粛な面持ちは変わらない。
「事件のとき、小夜のお腹には赤ん坊がいた。それが初子であれば、二十六で年増といわれた時代の話だから、一般的に十六、七から二十歳と考えられる。たとえそれまで暮らしていた本土で、すでに子を成していたとしても、二十五には届いていなかったのじゃないかね。あれやこれや考慮して、私は二十三前後と勝手に考えているがね」
「では、島にいたのはそれ以前になりますが、先生はいくつくらいのときと推測されますか」
「迫害を受けたのは、ずいぶん小さい頃じゃないかな。おそらく五歳にはなっておるまい。あるいは、もっと下かもしれない。その理由の一つは、島民が小夜の顔に見覚えがなかったことだ。誰何して吐かせたときに小夜と名乗ったのが、その女を今もって小夜と呼ぶ根拠になっている。十年かそこら前にいたのなら、顔に面影が残っていておかしくないと思うがね」
「確かにそのとおりですが、でも、そんなに小さい頃になりますか。そんなに小さくて迫害された記憶が残っている、と」
 と繰り返しながら、留美子の表情が変わっていくのに気づいた。留美子はもはや明るいだけの女ではない。向井を見つめる視線は異様な揺らめきを含んで、光彦を驚かせた。やはり留美子には小夜の事件を掘り起こしたい別の理由があるのだ。
 向井がもったいぶった様子でいう。
「記憶には個人差があるだろうが、あの小夜には過去の記憶があったと思っている。いや、そう思わないことには、この事件自体が理解できないものになるのじゃないかね」
「そうですね」
 留美子の声は低い。
「で、その迫害の種類だがね」
 と、向井の声が弾んでくる。
「二つ考えられる。一つは、小夜はことのほか醜い娘だったというから、その醜さのせいでいじめられたのではないか、というのが一つ」
「はい。わかります。私も決して美人とはいえないので、子供の頃は変なあだなをつけられて、ばかにされました。悔しかったです」
「しかしそちらの理由で、島民の虐殺を願うほどの憎しみが生まれるとは、普通納得できない。それで私は別の理由を考えた」
「何でしょう?」
 向井は、留美子を見据える。
「君は、雑誌に載せた私の地図を見ただろうか。下手な手描きの地図だったが」
「拝見しました」
「あの地図の中で、小夜が島に着いて最初に行った家はどこにあったね」
「村里を離れた場所に一軒だけありました。あれは先生が途中の家を省略されたのではないかと」
「めっそうもない!」
 妙な所で語気強く否定した。
「いやしくも郷土史を研究している者だ。そんな杜撰な真似はせん。私の描いた地図のとおりに、あの家だけがぽつんと雑木林の近くにあった」
 そういうと、向井はすっかり冷えたコーヒーに口をつけた。
光彦は少し場違いな気持ちを抱いて向井の足元に視線を落した。向井はスリッパ代わりに太い毛糸で編んだ履物をはいている。足裏の汗で中がむれそうだった。
 向井はコーヒーを半分ほど飲んで、留美子を再び見据えた。
「で、君に尋ねたいが、君は故郷にもどったとき、真っ先にどこに行く?」
「自分の家でしょうか」
「そうだな。久しぶりに帰郷すれば、たいていの者はそうする。小夜は島に着いてあの家に真っ直ぐ向かっている。となれば、あれは住み慣れた懐かしい家だったとは考えられないかね。おそらく小夜は小さい頃そこに住んでいたのだと思う」
 留美子がなぜか当惑する。
 向井は勢いづいて続ける。
「もしあの家が小夜の家だとすれば、迫害の答えは簡単だ。小夜の一家は村八分にあっていたと考えて間違いない。そうでなければ、あんな辺鄙な場所に家が一軒ある説明にはならんだろう」
 村八分? と光彦は考えた。意味はわかるが、八分というのが何で残りの二分が何かは判断できない。
 留美子がゆっくりうなずく。
「村八分になるには、理由として大よそ二つありますね。一つは、村の利益にならない何かの悪業をなした場合、つまり掟破りですね。もう一つは、江戸時代の身分制度がもたらした弊害ですが、その階級の最下級にいる場合」
「普通はその二つを思いつくが、しかし実際それだけだろうか」
「と、いいますと?」
「実はここにもう一人の小夜がからんでくることになる」
 向井は重大な告白でもするかのようにゆっくりいった。
 留美子が熱い視線を向ける。
「それが、今度書かれる予定の小夜ですか」
「いや、最初の小夜だ。私はカモメ島に関わる小夜について調べているが、小夜は三人いる」
「三人?」
 留美子は唖然とした顔を作ったが、驚きは光彦も同じだった。背筋が急に引き締まる気がした。
 向井は乾いた下唇を舐めて、さらに驚くべきことを口にした。
「しかも、三人が三人とも、それぞれ虐殺事件に関わっている」
 関わっている?
 光彦に戸惑いがきた。向井の論文を参考に当時の島の人口を五百人程度と想定すれば、そこに同じ名を持つ女が三人いて、その三人ともが虐殺に関係しているというのだ。確率的にいかにも低い。
「どういうことですか。混乱しています」
 留美子が頭を振るのを無視して、向井は述懐するようにいった。
「今回書いたのは二人目の小夜であり、次号は三人目について書こうと思っている。物の順番でいけば、最初の小夜のことを真っ先に書くべきだろうが、これには資料が少なくて手を出せないでいた。しかし、ようやくその手がかりを得たので、二号先にはある程度のことを書けるのではないかとよろこんでいるよ」
混乱していた留美子が、気を取り直して尋ねた。
「他の小夜が関わった虐殺というのは、どのようなものですか」
「三番目はたいして重要ではない。問題は最初の小夜だが、二番目がもどって来る二十年前に母親と共に島民に殺されている。小夜が殺したのではなく、虐殺されたのだ。まだ小さかったようだが、さきほどの家に住んでいた」
「二番目が訪ねた家ですか」
「そうだ。元々あれは最初の小夜の家で、二番目も子供の頃に一緒にいたのではないか、と私は想像を広げているがね」
「それは姉妹ということでしょうか」
「そこまではわからない。しかし係累ではあったと思う。二番目は、母子虐殺の際に難を逃れ、無事に島を抜け出して本土に渡り、それから二十年後にもどって来て、殺された母子の復讐を代行した、そう考えている。だからさっきいったように歳は二十三前後だったろう、というのが私の考えだ」
 留美子は視線を伏せて、軽く唇を噛んだ。
「ちょっと待ってください。一緒に暮らしていて、どちらも小夜という名前はおかしくないですか」
「二番目は実際は別の名前だったのではないか、と私は推量している。たとえば、スエとかムラとか。捕まって誰何されて、初めて小夜と名乗って、その女を小夜と呼んでいるだけのことでね。その名を使ったのは、虐殺の理由をはっきり島民に伝えるためだった、とは考えられんかね。小夜母子の虐殺があった事実は、二十年かそこらで島の記憶から消えるものではない。人の出入りの少ない閉鎖された孤島だから、なおさらそうだったろう。だから大立ち回りを演じた女が小夜と名乗ったことによって、突然やって来た理由を島民は理解したのだよ。そうなれば、島民としては、隠蔽の意味もあって、女を殺して山に埋めるしかなかった。所轄である松前藩の、今でいう警察に届けることなどできるものではない。仮に届けたら、過去に小夜母子を虐殺した事実まで明るみに出てしまう。それもあって、舟を漕いで来た罪のない男まで口封じに殺された、というのが私の推測だがね」
「なるほど。わかりました。しかし確認させてください。最初の小夜が母親と一緒に殺された、ということに疑うべき点はないのですか」
留美子の声は、乾いて掠れている。
光彦は、留美子の質問の行方が奈辺にあるかわからず困惑したが、向井はほくそえんだ。
「疑う点はない、と確信している」
「確信された理由は?」
「最初の小夜の死が、伝承としてあの島に残っているからだよ。しかもその伝承に従えば、小夜は異能の者だったとわかる」
「異能?」
 向井は厳かにうなずいて、
「最初の小夜は間違いなく異能を持って生まれてきた、私はそうにらんでいる。その証拠もある」
 留美子は息を殺して向井を見つめる。握りしめる掌に汗が滲んでいておかしくないほど、表情は必死である。
「最初の小夜が異能であったというのは、どういうことでしょうか」
 留美子を凝視して、向井が続ける。
「この号の原稿を書く前に、カモメ島に渡って調査してみたんだ。資料だけでは地理的なことはわかっても、場の空気まではわからんからね。島に宿屋はなかったが、幸い論文にも書いて置いた、役場の嘱託をしている山田君の好意で、彼の家に泊めてもらうことができた。いろいろ話を聞いたよ。で、次の日、山田君の案内で島巡りをしたが、小さな島だから一日あればすっかり見ることができる。すると、村外れの森のそばに神社の跡地のようなものがあった。山田君の説明がなければ、誰もそこに社があったとは思わんような小さなものだ。今はこじんまりした墓地が残されているだけだが、その墓地の手前に石を砕いたものがあって、破片がそのまま積まれて苔むしていた」
「その石というのは?」
「元は石碑だったそうだ。手に取ってみたが、石碑といっても、御影石などの立派な素材ではなく、浜にある石に名を刻んだだけの粗末な物に思えた。理由はわからんが、その石碑が壊されて遺棄されていたわけだ。山田君は指さして、それは小夜、最初の小夜を称えたものだという」
 留美子が息を飲む。
「先生はそれを信じられたのですか」
「壊れた粗末な石を見ただけじゃ、信じられるわけはない。妙なことをいうな、と思いながら、そのまま島を一巡りして山田君の家に帰り、居間でくつろいでいると、見ろ、といって石の欠片のようなものを持って来た。それは墓地にあった石碑の欠片で、家に保管している物だという。何事かと思って手に取ると、それには文字が彫りこんであってな。『夜』という字が読めた。そして欠片の端に『小』という漢字の中棒と右ハネが残っていた。私は、それを『小夜』と読んだ」
「他の可能性はないでしょうか」
「どうだろう。『夜』で終わる文字が他にないとはいわんが、あの島に砕いで捨てられていたとなれば、『小夜』と読むのが相応しいのじゃないかね」
 留美子はまたうつむいて黙る。
「ということはだな……」
 向井が一呼吸置いて続ける。
「石碑を作って祭るほどだから、一番目の小夜はあの島で尊敬を集めていたことになる。幼い小夜が称えられるとすれば、その理由を異能とみるのが自然だろう。ところが何かの事情があってその立場はどん底に落ち、母親と共に虐殺されたわけだ」
 留美子が顔をあげて、勢いこんでいう。
「しかし、石碑を作って祭る場合、もう一つの意味がありますね」
「鎮魂か」
「はい」
 留美子が唾を飲みこむ音が聞こえた。
 向井は、またぎろりと留美子を熱い視線で焼いた。
「それは、ない」
「どうしてでしょうか」
 留美子が食いさがる。
 向井は、薙ぎ払うような語調でいう。
「小夜母子を殺したあとに、その崇りを恐れて石碑を作ったのなら、石碑が破壊される理由はない。今もきちんと残っているはずだ。魂鎮とはそういうものじゃないかね。山田君の話では、破壊されたのは建てられて間もない頃のことらしい。だからその後に起こった争いとか自然災害とかによってではなく、明らかに建立した者たちが自らの意思で粉々に砕いたと考えるしかない、というのだ」
「山田さんの話は信じるに足るものでしょうか」
「それはわからん。しかし今は否定する材料がないので、私は信じることにしている。あの男は口には出さないが、おそらく私が想像する以上に小夜の事件を知っている。そう思えてならないのでね」
「山田さんが、ですか」
 留美子は、ふいに水を浴びせられたように黙って向井を見据えた。それきり何もいいださない。しかし心に湿気混じりの風が吹きすさんでいるのがわかる。
「横から口を挟んですみませんが……」
 光彦が割って入った。
「大変話がこみ入っているようですが、私も、一部ですけど、昨日先生の論文を拝読しました。それによれば、山田さんという人が、今から五年前に最初にこの事件を掘り起こされたわけですよね。それで二番目の小夜の事件が島以外でも知られるようになった」
 向井は、なんだこいつは、という顔を向けた。
「その通りだが、それがどうした」
 光彦は、向井の態度に気分を害したが、そのまま言葉を継いだ。
「そして、この前カモメ島に行かれたときに、一番目の石碑の欠片を、山田さんが先生に見せられた」
「それで?」
「山田さんも同じ郷土史の同人であれば、今回どうしてご自身で発表されなかったのですか。石碑の欠片は大きな発見じゃないですか。しかも島に居を構えておられるのなら、日常的に聞き取りもできます。先生よりもずっと有利な立場にいらっしゃるわけですからね」
「あれにも書いておいたが、五年前に発表している」
「その一度きりでしょう? どうして継続して研究されなかったのでしょう」
「それは、知らん」
 向井は、考える間もなくぶっきらぼうにいい放った。そして大きなくしゃみをした。体全体が震えるほどのくしゃみ。そばのティッシュで鼻を音立ててかむ。
「そこが、ぼくにはよくわからないのですが。すみません、関係ない者が口を挟んで」
 光彦は謝ったが、向井はティッシュを瓢箪形のダストボックスに投げこんで、光彦の質問など端からなかったかのように、留美子に顔を向けた。
「で、問題はどのような異能かだが、それが実はわからんで困っている」
 向井は、さきほどまでと違って明らかに光彦に注意を払いながら喋っている。口調がわずかにぎこちない。
 留美子が恐る恐る問いかける。留美子も質問をためらう様子がうかがえて、光彦は黙ることに決めた。
「その異能ですけど、石碑を作ってまで顕彰されたわけですから、島にとってきっと役立つものだったのでしょうね」
「それは当たり前だ。罪人が流されていた当初は舟の建造自体が禁止されていたが、小夜の話の頃にはたくさんの渡り者が住みついて、漁業も行われていた。そうなると、一般的に考えられるのは、潮見ができるということだろう。つまり漁船を出すのにいつが相応しいか、幼いながらもそういうことが小夜にはできた、というのが今のところ私の考えだ」
 留美子は、少しうつむいてじっと考えてから顔をあげた。
「しかし、あるとき、石碑まで作った小夜の予想が当たらなくて、島に甚大な被害がでた。それで殺された、というわけですね。そのとき同時に石碑も破壊された、と」
「話の筋としては、それで通らないかね」
 向井は仰々しくいった。
「その被害とは?」
「そこまでわかったら、先に一番目のことを詳しく書いておるよ。おそらく嵐が来そうな日に漁業日和だ、とでもいったのじゃないか。それで、安心して海に出た漁船のほとんどが沈没したのだろう。仮にそうなら、小夜の予見に悪意が隠されていたのか、それとも予見の単純なミスだったのかは、興味深いことになる」
 悪意? 最初の小夜の予言に悪意があったという発想は、光彦には斬新なものに聞こえた。しかし小夜が悪意を持って虚偽の予言をしたと想定すれば、当然その後自分にふりかかる悲惨な出来事も承知していたはずである。どのような理由で、母親と自分の命を賭して嘘の予言をしなければならなかったのか。それに仮に殺されたのが小夜の悪意の結果なら、怒るべきは島民であり、惨劇の隙を縫って逃亡しのちに復讐にもどって来た二番目はただの道化になる。
納得できたのは、予言の外れで島民が怒り狂って小夜母子を殺し、石碑を破壊したということだけである。たとえ一度は石碑まで作って称えた小夜であっても、村八分の女であるのなら島民の眼差しが変化するのは容易なことだったろう。異能がなければ、島にとっては邪魔な存在でしかないからだ。
じゃあ、そこまで正しいとしても、本土でそれなりの暮らしをしていた二番目がどうしてわざわざもどって来たのか。それほどの執念深さをもたらしたものは何なのか。わからない点がいかにも多い。
人間というのは、いつものんびりしているアホロートルと違って未知の解明に異常な努力を払う妙な生き物だから、こうまで中途半端な知識を注がれたら、郷土史研究を鼻で笑っていた光彦にも興味の芽が生まれる。真紀とどうつながるか知らないが、それでも留美子の関心に染まったのは自覚するしかなかった。
 向井が、失礼、といって一度居間を出て、A4の紙を一枚持ってもどって来た。立ったまま、留美子に手渡しておもむろにいう。
「これが今度出そうとしている三人目に関する原稿の一部だよ。まだ草稿段階だから、今後きちんと推敲する予定でいる。目を通してもらえれば、少しは参考になるかもしれない」
 留美子は硬い笑みを浮かべて感謝を述べ、すぐに読もうとした。しかしソファに座った向井は、そこで小夜の話題から外れ、急に懐かしそうに同人たちの話を始めたので、留美子は原稿をバッグにしまうしかなかった。
光彦は、帰ろう、と留美子に目で促した。そのとき、窓の向こうの庭に鴉が三羽飛んで来て、ナナカマドの枝に大きな翼を広げてとまり、うるさく鳴いた。潮に焼かれたように声がしわがれている。
来るときにもたくさん見たが、白老はやたらに鴉の多い町である。


  小夜による自宅放火と殺人の概要
                       向井健吉

 先の小夜の大量殺人事件から四年目の夏、維新の夜明けが迫っていた一八六四年(元治元年)のことである。
 激しい嵐の夜、浜に裸の女児が打ち上げられた。嵐のせいで遭難した船から投げ出されたものと推測された。名前は、自ら小夜と名乗った。
浄土宗分院に預けられた小夜は、寺男のような仕事をしていたが、よく働く上に不平もいわない。その評判を聞いて、ひと月も経ないうちに島の漁師が小夜を養女にしたいと申し出てきた。漁師は、幼い娘を海難事故で失ったばかりであった。養子縁組は、当時本土で流行っていたことである。
 小夜は無口であったが、そこでもよく漁労の手伝いをし、島の評判になった。顔立ちはきれいとまではいえないにしても、そこそこであったため、十四になった春、乞われて同じ島の塩や味噌などを商う請負商人の総領息子の元に嫁ぐことになった。商家は、規模は小さいながらも本土ともニシン粕などの交易をしており、小夜はまさに玉の輿に乗ったといってよい。男児二人に女児六人を成した。すべては順調にいっていると思われた。
しかし小夜が四十路に差しかかろうとした冬の夜、前触れひとつなく、突然菜種油を家に撒いて火を放ったのである。明治三十三年、風の強い夜のことである。
島民が駆けつけて火を消そうとすると、何を思ったか、小夜はわけのわからない言葉を叫びながら、それら島民に商家の家宝である村正で斬りつけて消火を妨げたのである。その顔には明らかに狂乱の相があった、と島民は証言している。小夜は女とはいえ手に凶器があり、おいそれとは近寄れない。無理に近づいた者たちの何人かは深手の傷を負った。しかし幸い島にも武術の心得のある者がいて、ついに小夜は村正を奪い取られ、挙句に燃え盛る炎に自ら飛びこんで命の火を消したのである。
刀で切られて、失血のあまり亡くなった者二名。また小夜の子のうち女児三名が焼死する結果になった。男児に被害はなかった。
 小夜の狂乱の理由は事件後に様々に取沙汰され、揣摩臆測が囁かれたが、何より小夜が村正を無茶苦茶に振りまわしながら喚いた「もう終わりにしたい」という言葉に尾ひれがついて語られた。しかし元もと無口の小夜ゆえに、その言葉のよって来るところを知る者は一人もいなかった。小夜の夫は勤勉な男で陰口を叩かれるべき落ち度もなく、また子供たちは利発で行いも立派なものであった。
 何が小夜を狂わせたのかわからぬまま、やがて事件は島の記憶の闇に埋められることになる。しかし小さな島で三人もの小夜が、被害者であれ加害者であれ、惨劇に関わりを持ったことは異常なことであり、筆者はさらにこれらの事件を自己テーマとして探求していきたいと考えている。

 いかにも新車ですと宣伝するみたいにぴかぴかに磨かれたマーチを、白老の海沿いに停めて、留美子は原稿を読んだ。光彦も読む。小夜の無差別虐殺があってから四年後に現れたもう一人の小夜。まったく関わりのない話には思えなかったが、それが前の二人にどうつながるのか見当がつかない。
「でも、これを読んですっきりしたよ」
 と光彦がいった。
「何がですか」
 潮風に髪をなびかせながら、留美子が深刻な表情できき返す。
「たいしたことじゃないけど、島に三人の小夜がいると聞いたとき、妙な話だな、と思ったのさ。だって人口の限られた島で、しかも短い期間に三人も同じ名前の女がいるって、変じゃない? 最初の小夜は虐殺されているわけだから、そんな縁起の悪い名前をつける親がいるかな、と考えてね。でも、二番目には別の名前があると聞いて、これはなるほどと納得した。三番目は、船の難破で流れついた本土出身者というのであれば、小夜という名はただの偶然として理解できるからね」
 留美子は無造作に首を振って、返事をしないまま車のドアを開けた。
高速道路に乗りあげて札幌に向かいながら、留美子はずっと思案顔でハンドルを握っている。光彦が軽口を叩けないほど深刻な様子がうかがえ、どうして留美子がそこまでこれらの事件に関心を向けるのか、たかが孤島の小さな出来事ではないか、と思ってみる。
 黙って助手席に座って、光がまぶしいだけの変わりばえのしない景色を眺めているうちにさすがに飽きて、光彦は恐る恐る声をかけた。
「どう考えたってさ、あの島と、ぼくのクラスの真紀は関係ないと思えるけどね。やっぱり小夜とかカモメとかいったのは、別のことじゃないかな」
「そんなことないです。私は確信しました」
 と、さきほどの向井と同じような物言いをした。
「確信? どうして?」
 留美子は、光彦の疑問を無視して、ふいに全く関係ないことを口走った。
「先生は、生まれ変わりを信じますか」
「生まれ変わり? 変なこときくんだね。先生は郷土史家じゃなかったんだっけ。それとも霊能研究者?」
 口を固く閉じて、留美子は光彦の冗談を無視する。
「魂の生まれ代わりは信じないけど、物体としての生まれ代わりは科学の基本として信じているよ。人間の肉は死んでから土に溶けて、そのエキスを含んだ水が流れて、やがて木にのぼって果実になる。それを食べた人間が再び肉として取り入れる。そういう生まれ変わりはね」
「そういうのとは、全然違うんです。普通にいう生まれ変わり」
「つまり魂の生まれ変わり、ってこと?」
 留美子は返事をしない。光彦は勝手に答えた。
「それはいくらなんでも、信じろってのは無理。ぼくに理科の先生をやめろっていうのと同じだよ。先生は信じてるの?」
「いえ、私も信じていませんし、信じたいとも思いません」
 話を振っておいて何だ、と意外な展開に当惑した。
「ひょっとして、三人の小夜が順番に生まれ変わった、っていいたいわけ」
「まさか。それは時間的に合わないでしょう」
「じゃあ、真紀が凶悪な二番目の小夜の生まれ変わりってことかな」
「そんなこと信じるわけないでしょう。あの小夜は醜い女みたいですよ。反対に、真紀ちゃんは見たことがないほどの美人です」
 照れたように留美子がいうので、光彦はからかった。
「ハンサムな男と結婚して代を重なれば、やがてはきれいな子が産まれるさ」
「たとえば、私が先生のような男性と結婚して、生まれた子供がまた先生みたいな人と結婚すれば、ですか」
 光彦はどきりとしたが、戸惑いを隠すように、
「メンデルのエンドウ豆の白い花だって、かけ合わせればやがてはピンクになるからね。確かにそうならないともいえない」
 と、いってごまかすと、ふいに留美子が思いつめたようにいった。
「先生、来週の土曜日、つき合ってもらえませんか」
「カモメ島に行きたいの?」
 またも先走ってきくと、留美子はくすりと笑う。
「やっぱり私は、先生にとって女じゃないんですね。普通女のほうから誘えば、デートを想像するじゃないですか。でも、先生はカモメ島行きを思うわけですね」
 光彦はあわてた。
「おいおい、危ないこといわないでくれよ。これでも、家には怖い奥さんがいるんだから」
「怖くて、きれいな奥さんですか。わかってますよ。もちろん私が行きたいのはカモメ島。私はそこに行って、役場の山田さんに聞いてみたいんです。どうして自分で発表されないのか。先生が質問されたときに、はっとしました。きっと何かあるんだ、表立って書けない何かが、と思いました。違いますか」
「いや、論理の帰結として当然そうなる。たとえば、今も小夜の崇りがあるとかね」
「そんなこと信じますか」
「信じない。いっただけ」
 光彦は軽く笑った。
「で、先生。答えはもらえないのですか」
「行きたいけど、まず奥さんの了解を取らないと。機嫌よく、行っておいで、といえば、よろこんでお供するよ」
「じゃあ、私からも電話して、頼んでみようかな」
 光彦は狼狽した。それでなくてもマタニティーブルーで精神が不安定なのに、ここで留美子と二人で旅行に出かけると知ったら、何をいい出すかわからない。冷や汗ものだ。
「いいよ。電話しなくて。ぼくが説得するから」
 留美子が、光彦をちらりと見てほほ笑んだ。
 やはりそのほほ笑みが清々しい。どこかでこんな笑みをもらった気がしたな、と思う。
 留美子はそれから黙って車を運転し、東札幌のインターを越えたとき、ようやく口を開いた。
「真紀ちゃんがいった言葉、私はやっぱり同じ小夜と同じカモメ島だと思いますよ。でも、暗い、ってのは何だろう? どこか穴の中にいる夢を見たのかな」
「暗い所って、墓の中じゃない? あそこは暗そうだよ」
 茶化していったが、留美子は返事をしないで、また沈黙に落ちた。

 家の前で車からおりると、留美子は片手を振ってマーチを発進させた。どうやってカモメ島行きの許可を得ようか考えながら、光彦は車のテールランプを見送った。ここまで話を聞けば、確かにおもしろそうである。どうせたいした結論ではないにしても、中途半端に物事を片付けるのは性に合わない。まだ一週間あるから何とかなるだろう、と気軽に玄関チャイムを押して中に入った。いつもならすぐに飛んで来る朋美が現れない。変だな、と首を傾げてリビングのドアを開けると、部屋は薄暗く、アホロートルの水槽だけが青い光を放ってぼこぼこ水音を立てていた。どこかに出かけたのだろうか、と思った瞬間ぎくりとした。
 朋美が、ダイニングのテーブルに座って頬杖をついてうつむいているのだ。
「なんだ、いたのか。チャイム聞こえなかったのか」
 光彦は壁に手を這わせて、蛍光灯のスイッチを入れた。リビングの光がまぶしく目に入る。
 朋美がゆっくり白い顔を向ける。
「ごめん、まだ夕食の準備してない」
 声が弱々しい。
「いいよ。おれ、パスタ作るから」
「そう」
 そう、といって、立ちあがろうとしないのがおかしい。いつもの朋美なら、パスタだけではダメだと諭すはずだし、たとえパスタを調理するにしても自分でやるというはずだ。どこか具合が悪いのだろうか。心配になって声をかけると、朋美はゆっくり首を横に振った。見つめる目の奥が陰気にみえる。
「何かあったのか」
「別に」
「誰か来たのか」
 朋美は重そうにまた首を振る。リビングを見まわしたが、来客があった様子はない。
「じゃあ、どうした」
 光彦は同じことを執拗に問う。物をいいたがらないときに児童に使う手だったが、ようやく朋美が反応した。
「私が行ったの」
「どこに?」
「真紀ちゃんのマンション」
 家庭訪問したとき、母親の由紀江はわけのわからないことに煩悶していた。マタニティーブルーの朋美がそのような由紀江に会えば、心は不安定になるばかりではないか。
「真紀のお母さんと喧嘩でもしたのか。お父さんが亡くなったことで、何度も恨んだ、っていってたよな」
「ご主人は恨んだよ。父を訪ねて来なきゃよかったのにって。だからって、由紀江さんを恨むわけないじゃない。私、そんなことで喧嘩するほど子供じゃないよ」
 それでも、声は闇底にあるように沈みきっている。
「じゃあ、どうしたんだよ」
「何もないって、いってるでしょ」
 ふいに刺々しくいい返した。ヒステリーでも起こされたら大変だ、と探りの手を引っこめる。
「パスタ、おまえも食べるか」
いい、と顔を向けないで、投げつけるようにいった。
 おそらく夕食はまだだろう。これじゃあ、カモメ島行きなんか口に出せるわけないな、とがっかりして光彦はキッチンに立った。
 お湯を沸かしながら肩越しに見ると、朋美は背中を向けたまま、同じ姿勢でテーブルに座っていた。何があったのだろう、とやはり気になる。仕方なくガスを止めて、向かい合ってテーブルに座った。
「やっぱり、おまえ、変だよ」
 朋美が顔をあげる。長い髪がばさりと目もとにかかり、眼窩に影を作った。
「あんたって、生物専攻だったからわかるよね。ねえ、どうして私たちって生まれて来たの?」
「そんな大問題に簡単に答えられたら、おれ、哲学者になってるよ。理系は『どうやって』は研究するけど、『なぜ』は元々考えないんだ」
できるだけ笑顔を作って混ぜ返すしかなかった。
 朋美が、ちっと軽く舌打ちする。
「哲学なんて大げさなこときいてないわよ。どうして、私は生まれてきたのかな、って単純に思っただけ」
この前、由紀江が放った問いと似ている。今日の昼間、二人は日本画のかかるリビングにいて、背中を丸めて辛気臭い問いを弄んでいたのだろうか。まるで不気味な老婆たちのように。しかしいくら由紀江の影響を受けたとしても、生まれた理由に悩んで暗くなっているとは思えない。
「そりゃあ、サル目ヒト科ヒト属の子孫維持のためじゃないか。いつまでも種が繁栄していくための」
そんな当たり前な答えに、朋美は当然満足しない。膨らんでいるお腹に手をあてて、ますます陰気になる。
「じゃあ、私は?」
「同じだよ。同じ人間なんだから。違うのか」
 朋美は長い睫を伏せた。マタニティーブルーのなせる仕業ではない。やはり真紀のマンションで何かあったのだ。
「私ね、どうして生まれてきたのかって、いつも思うの。お腹にいる芽衣も同じことを考えて、産まれてからずっと悩むと思う。それが嫌になったの。もう、待つのに飽きたのよ」
 光彦は衝撃を受けた。口にしたのは、先日、由紀江が呻くように吐き出した台詞と同じだった。由紀江の不安がそのまま、濡れ落ち葉のように朋美に張りついたのだろうか。
「おまえは、一体何を待ってるんだよ」
 身を乗り出すようにしてきいた。
 朋美は返事をしないで光彦を見つめる。やはり暗い瞳の奥で何かが揺らいでいる。真紀の目に見て、由紀江の目に見て、そして今同じものを朋美の瞳に見ている。この者たちは何だろう、とふいにひんやりしたものが体の芯を走り抜けた。
 そして直感的にカモメ島が頭に浮かんだ。留美子は、あの島と真紀は関係ある、と確信を持っていた。とすれば、目に同じ揺らぎを持つ朋美もあの島に関わっている可能性はないのか、そんな恐れが怒涛の勢いで迫ってきたのだ。光彦は、ゆっくり一言一言区切るようにいった。いいながら胸が異様に高鳴る。
「おまえ、わかるか。小夜とカモメ島という言葉……」
 炎で炙られたように、朋美の顔色が顕著に変わった。頬に赤みが差し、瞼が一度痙攣した。
「わかるんだな」
「どうして、あなたがそんなこと知ってるの」
「洩れ聞いただけだよ。でも、どういうことなんだ、小夜って?」
 目を一瞬も逸らすことなく朋美を見つめた。この瞬間を逃せば、おそらく永遠に聞き出すことができない、そんな緊張が光彦を襲い、体が強張って指一本動く気がしなかった。
 朋美の顔に怯えが走る。その怯えが静かに停止して、砕けたような声が形のよい赤い唇から洩れた。
「私がどんな女でも、これからも好きでいてくれる?」
「心配いらない。いつまでもおまえを離さないよ」
「私を化け物と思わないでくれる」
「化け物? 何だ、それ?」
 驚いて繰り返した。
 朋美は、落ち着きなく視線を迷わせながらいう。
「私、……違うの」
「違うって、何が」
「私……あなたとは違うの、体が」
「男と女だろ。当たり前じゃないか」
 朋美は急に腹を立てたように腰で椅子をずらして立ちあがり、キッチンに走った。そして包丁を手にもどってきた。
 切っ先が光るのを見て、光彦は驚愕のあまり椅子に座ったままのけぞり、息を詰めた。朋美は何を始めようというのか。しかし、相手が興奮して正気を失っているときに大事なのは冷静になることだ、と自分にいい聞かせて、できるだけゆっくり立ちあがった。
「おいおい、何をするつもりなんだよ。おれ、修羅場の原因になるようなことしてないぞ」
 朋美は唇を震わせて、狂乱した目であえいでいる。それから、まるで光彦の腹を刺すように包丁をぐいっと突き出した。
「これで、私の手を刺してみて」
 安堵を覚えて、注意深く包丁を受け取る。包丁さえ手にすれば問題ない。光彦は冗談のようにほほ笑んだ。
「刺したら血が出るだろう?」
「出ても大丈夫」
「痕が残るぞ」
「少しは残るけど、あなたほどじゃない。私は回復が早いの」
「誰だって回復するけどな」
 朋美はいらつくようにいう。 
「そうじゃないのよ。私の体は特異体質なの。あなたなら簡単に死んでしまうようなことでも、私は平気なのよ」
「女はそうだ。血液の三分の一が流出してもそう簡単には死なない。生物学的に男よりずっと逞しいからな」
 光彦は、できるだけおどけたふりを続けたが、特異体質といわれて思い当たることがある。結婚前に道南の海水浴場に行ったとき、朋美は予防しなくてもまったく日焼けすることなく、肌はメラニン色素が抜けたみたいに白いままだった。光彦は、昭和の子供のように真っ黒になったのに、である。まるで紫外線が朋美の体に何の影響も与えることなく、すっと通り抜けていくように思われたのだ。
 特異体質……。興味はあった。しかし今はそれを確認するときではない。
「わかったよ。まあ、そこに座れよ。この包丁はしっかり隠しておいて、今度、夫婦喧嘩するときに使わせてもらう。ぼくはまだラブラブだから、今はおまえを刺す気になれないよ」
 朋美の眼差しが、ふと柔らかくなる。
「なあ、ぼくたちって、いつ包丁を振りまわすほどの大喧嘩するんだろうな。十年後かな。きっと芽衣の教育に関してじゃないか。おまえは教育ママになっていてさ、名門中学に入れよう、とかいう。それに、ぼくが必死に反対して、田舎の公立中学を推薦する。で、大喧嘩。そのときにこの包丁が役に立つ。そんなんじゃないか、きっと」
 ようやく朋美の目が笑った。
「あんたと喧嘩なんかするわけないじゃない。張り合いがなさすぎるもの」
 安心して先に腰をおろす光彦に向かい合って、朋美も窮屈そうに椅子に座った。
テーブルに置いた包丁が青い刃を朋美に向けている。あわててテーブルの端に移動させる。落ち着いたのを確認して、光彦は穏やかに尋ねた。
「さっきいった特異体質って、何だよ」
「もういいの。いつかいうから。ただ、私は根が丈夫だから心配いらない。それだけわかってくれればいいの」
「そうか」
 朋美は涼しげに目を細める。
「あなたが亡くなっても、私はそれから三十年か、それ以上は確実に生きると思うよ。環境がどんなに悪くなってもね。私は新人類みたいなものだから」
「新人類か。かっこいいな。でも、新人類というより、ぼくには爬虫類みたいに思えたぞ。だって包丁で手を刺してもすぐに傷口がふさがるわけだろう? トカゲの尻尾は千切れてもすぐに生えてくるから、本当はそんな段階まで退行しているのじゃないか」
 光彦は熱い興味を抱きながらも、まるで動物園の珍種を話題にしているようにできるだけ軽くいった。
 朋美は嫌な表情をみせたが、それでも楽しそうに答える。
「せっかく新人類って教えているのに、爬虫類と一緒にするんだからね。ヤンなっちゃう。あなたなら、私を抱いたときに気づいてると思ってたけどな」
「ひょっとして臍がなかったっけ」
「ばかね。そんなんじゃないの。キスしたとき」
 光彦は首をひねる。朋美とのキスに、特別変わったところはなかった。いつもいい感じの芳しいキスだった。
 朋美がテーブルに白い手を伸ばす。光彦はその手を握ったが、むろんトカゲの冷たさはない。
「キスはどうでも、芽衣とおまえの長生きが保証されているのなら安心できるよ。実に心強い言葉だな。でさあ、さっきの小夜っての、どうして知ってるんだ」
 朋美の瞼がまた痙攣したように揺れて、握っていた手がずるりと引きもどされた。朋美はうつむいて悔しそうにいう。
「私ね。落ちこぼれなの」
「落ちこぼれ? 北海道のみんなが憧れる大学に入ったのにか」
「そういう意味じゃなくて、一族の」
「一族?」
「同じ係累の、って意味。小夜さんはね、私の母方の先祖なの」
背中を氷で撫でられたような気がした。
「小夜って、どの小夜だよ」
「どの小夜って、小夜さんは一人しかいないわよ」
 光彦は強張ったように首を横に振って、
「いや、三人いるはずだ。まさか二十歳頃に亡くなった小夜じゃないよな。それとも四十前に焼け死んだ小夜か」
朋美は急に不安な表情をみせた。
「よくわからないけど、若くして亡くなったはずよ」
「じゃあ、二十歳のほうだな。あの小夜が……おまえの先祖なのか。ありえない」
 息を詰める光彦の耳に、アホロートルの水槽に酸素を送る音がぶくぶくと聞こえた。
「どうしたの? 私が小夜さんの子孫って、何かおかしいの?」
「あの小夜は子供を残さないで、死んだはずだぞ」
「そんなことないわよ。子供はいるはずよ。でないと、私が子孫のわけないじゃない」
 それもそうだ、と思い直す。白老の元教師も、島に来る前に本土で子供を成している可能性を示唆していた。腹にいて、一緒に殺された子が初子とは限らないのだ。
「小夜さんのこと、何か知っているのね。知ってたら教えて。私は小夜さんのことなら、何でも知りたい」
 光彦にめまいのような逡巡があった。いうべきことではない。小夜が先祖の一人だとしても、大昔のことは今の朋美には関係ないのだ。
黙していると、朋美が必死な表情で光彦の手を取る。
「私、自分がどこから来たのか知りたいの。どんなこといわれても平気だから、隠すことないよ」
 強く見つめる瞳の奥におどおどした光がある。いうべきではない、とまたも自分にいい聞かせる。しかし迂闊に口を滑らせた以上、いつまでも隠し通すことはできまい。今夜切り抜けても、明日また責められる。明日切り抜けても、明後日同じ問いが来るはずだ。覚悟を決めて、口を開いた。
「小夜はな、カモメ島で殺されている」
 朋美の唇が不吉な予感に震えている。
 ごくんと唾を飲みこんで、光彦はまるで汚物を吐き出すようにいい放った。
「あの島で八人も殺したからなんだ」
 朋美の泣きそうな声がほとばしる。
「そんなの知らないわよ。それって本当なの?」
 重々しくうなずく。
 朋美は、手を離してうつむいた。
「私、落ちこぼれだから、小夜さんのこと、よくわからないの。そこまで辿れないのよ」
 光彦は強張った体を乗り出して、肘をついた。
「辿れないって、どういう意味なんだ」
「思い出そうとすると、なんか背中を斬りつけられるような気がするの。痛いというより、怖い。ただ怖い感情しかない。だから、他のことは何も知らないの。小夜さんが人殺しだなんて、信じられない。……殺した八人の中に子供はいないよね」
 光彦はためらった。しかしそのためらいの意味を、朋美は素早く察知した。
「いたのね?」
 仕方なく首肯する。
「二人含まれていた」
 朋美はとっさに耳を塞いだが、肩がびくんびくんと震えた。朋美は長い間ぎゅっと耳を塞いだままうつむいていた。やがて重い物を梃子で持ちあげるように緩慢に小さな顔をあげた。顔色はすっかり落ちて、亡霊のように蒼ざめ、目に光るものがあった。
「わかるわ。今やっとわかる。ぼんやりだけど、私でも何か少しだけ感じる。波の音が聞こえる。荒い波音。走ってるわ。きっとカモメ島ね。暑いの。やけに暑いし、重たい。うっすらと短い着物姿の子供が数人見える。怯えた顔をしている。それ以上は見えない。でも、小夜さんがあの島にもどった、ということだけはわかる」
 何かに取り憑かれたような朋美の独白に、光彦の皮膚が不快に粟立った。理由はわからないが、朋美の先祖にあたるのは、やはり二番目の小夜だったのだ。
朋美の視線はここには存在しない遠い島に注がれ、体ごと石ころだらけの村道に落下して行くように思われた。
「やめろ!」
 朋美を引きもどそうと声高に叫んで立ちあがり、テーブルをまわって華奢な肩を思い切り抱いた。離島の熱気から這い出すように、朋美が体を向けてすがりついてきた。激しく震えている。
「ごめん、いらんこと、いったよ」
 光彦は、しゃがんで朋美を抱く手に力をこめて謝った。
 朋美は、空気の流れに溶けてしまいそうなほど聞き取りにくい声でいった。
「私は、そんな小夜さんの血を引いているんだね。小夜さん、そんな人とは知らなかった」
「気にすることない。誰だって、何代も先祖を遡って行けば人殺しに行き着くはずだ。戦争だってあったし、戦さだって数え切れないほどあった。たとえ狂気の血が流れていても、そんな血なんか、とっくに薄まっているよ」
 慰めの言葉が打ちつけられる斧と同じになったみたいに、朋美はまたも体をびくんと痙攣させた。光彦はさらに強く抱きしめる。甘酸っぱい髪のにおいが熱をともなって鼻腔を抜ける。
「もう忘れるんだ。誰が祖先にいたって、今のおまえが好きだから」
朋美が、か細い声を出す。
「私、不安なの。お腹の芽衣にも小夜さんの血は流れてる。いえ、私よりもっと濃い血が流れていると思うの。私は落ちこぼれだけど、芽衣は違うみたい。今、島を感じることができたのは、芽衣の助けがあったからだとわかるの」
「芽衣はまだお腹にいるんだぞ。そんなわけないだろう?」
「何か、私、頭がおかしくなりそう。ねえ、今日、真紀ちゃんに会ったの」
 光彦は、朋美の両頬に手をあてて顔を持ちあげた。見つめる瞳が濡れて、訴えるように光っている。
「真紀と何かあったのか」
「何もないけど、怖いの」
「真紀は八歳の子だぞ。怖がることなんてないさ」
「そういうことじゃないの。あの子は、芽衣を憎んでいる」
「どうして芽衣を憎むんだよ」
 返事をせずに、朋美はさらに強くしがみつく。
「どんなことがあっても、私を見捨てないでほしいの」
沈みこんだ深い場所から声だけが届くような気がした。
 実際のところ何がそこまで不安にさせているのかわからない。光彦は長い黒髪を撫でてやるしかなかった。
「大丈夫だ。ぼくを信じていいよ」
 光彦の慰めを無視して、腕の中の朋美がふいにどろりと液体を吐くように憎々しい声を発した。
「男って、みんな最後は裏切ってしまう。私が大好きだった父でさえ、そうだった。私を可愛がる振りをしながら、心の底ではずっと私を憎んでいたんだ」
 愕然とした。朋美が、繭から身をくねらせて這い出すぬめぬめした幼虫のように思えた。
「そんなことないよ」
 あわてて慰めたが、それは自分の耳にさえ意味を持たない空虚な言葉に聞こえた。
 朋美が顔をあげて見あげる。乱れた髪の間から大きな瞳がぎらりと覗いた。
「あなたも本当は父のような人じゃないか。心では、私と芽衣を化け物と笑っている」
 声が朋美のものではない。別の何かがその口を借りて唸っているように感じられて、光彦は両肩を掴んだまま白い顔を見つめた。視線が兇悪な手に握られたようで、引き離すことができない。
「私なんか、死んでしまえばいいと思っているんじゃないか。憎いのじゃないか」
「朋美、朋美! どうしたんだよ。もどって来いよ」
 朋美の肩を思い切り揺する。まるで発作を起こしたときの真紀のようだ。
 朋美はうつむき、光彦が掴んでいる肩をぐいっと震わせた。ようやく顔をあげたとき、濡れた瞳は虚ろなままだったが、いつもの朋美がいるように思えた。
「ごめんなさい」
 声が細い。
「いったいどうしたんだよ」
「芽衣が……」
 ぽつりといった。
「芽衣がどうしたんだ」
「何でもない。本当にごめんなさい」
 朋美は指先で目尻を払った。
「何があったのか知らないけど、今日のおまえ、やっぱり変だぞ」
「もう大丈夫。心配いらないから。でも、これからもずっとずっと守っていてほしいの」
「当たり前だよ。ぼくはおまえが好きで結婚したじゃないか。どうであっても、ぼくはお前を離さないよ」
「私、あなたと結婚して芽衣を産むことを、決して後悔したくない。真紀ちゃんが何といっても……」
 涙声になってうつむいた。
「もう何もいわなくていいって」
 真紀が何をいったか気になったが、朋美のほっそりした肩を強く抱きしめた。同時に自分がこれまで何度も愛した朋美が、何か見たことのない生き物にゆっくり変わっていくような不安を覚えていた。
光彦は、次の土曜日に絶対カモメ島に渡ろうと決意した。その日が何年も先のように思えて、心のうちに待ちきれない思いがせりあがってきた。

 激しい感情のよじれをみせた朋美は、疲れたのか十時には寝室に入った。光彦は心配して添い寝してやったが、その必要がないほど、眠りはいち早く朋美を包んだ。軽い寝息を立て始めたとき、そっとベッドからおりてリビングにもどり、キッチンでウイスキーのロックを作った。海岸町を去るときに、餞別としてPTA会長がくれた高級な銘柄だったが、光彦には高級も低級も区別できる舌がない。ドカンと呼ばれるニッカの大瓶を教授の目を盗んで研究室に隠し、当直していたときに同じゼミの学生とこっそり飲んだのが懐かしい。
 グラスを手にソファに座る。少しも眠くなかった。かといって、持ち帰った仕事に手をつける気にもならない。
 朋美は一瞬ではあったが人格を変容させたし、過去を幻視するみたいに二番目の小夜を体感した。そのとき、島にもどったのがわかる、ともいった。もどった、ということは、白老の郷土史家が推測したように、二番目はやはり島で育った女だったのか。
尋ねると、芽衣のせい、そんな印象の言葉を洩らした。しかし腹の中にいる芽衣が、どうやって朋美の心深くに埋もれた小夜を目覚めさせることができるのだろう。
今日真紀との間にいったい何があったのか、それを知りたくて焦燥の焔が燃え立つようだった。朋美は、自分は新人類といったが、ひょっとして真紀もそうなのか。仮にそうなら真紀の母親由紀江もそうであっておかしくない。いや、この三人に留まらない。朋美がいった「一族」というものの誰もが新人類なのかもしれない。
 朋美は、包丁で手を刺してくれ、と物騒なことをいった。本当に刺したら、傷口からトカゲのように新しい肉がもこもこ隆起してくるというのか。それに、何度も交わしたキスで新人類であることにとっくに気づいているはずだ、ともいった。思い出しても、唇が蕩けそうなほど柔らかなキスということしか浮かんでこない。どこにもおかしなところはなかった。それでも、朋美は新人類なのか。
もちろん理系を志した者としては、検証もなく軽々と新人類の存在など信じることはできない。とはいえ、朋美の宣言は、それが事実であっても、理論上は不思議でも何でもなかった。種というものは絶えず生まれて絶えず滅びていく。新種の出現はむしろ恒常的な姿といえるし、それが進化というものなのだ。
当然今の人間の形態が最終形であるはずはない。ネアンデルタール人にとってクロマニヨンが新人類であったように、「現人類」という強力な新種が生まれたのなら、やがてはその種から別の何かが生まれておかしくない。生物が高等であればあるほど変異は頻繁に起こるし、進化の速度も速い。もっとも速いといっても、クラスの児童たちが見る荒唐無稽なアニメと違って、数万年からそれ以上のスパンでの話である。それは、地球が続く限り、タマネギの皮を剥くように切りがない。その新人類が朋美であるのなら、むしろ僥倖というべきではないか。
とはいえ、気になるのは朋美のいう新人類がどのような特性を持っているかである。免疫機能が強くて少々の傷は自然治癒し、おかげで長生きできる、というだけのことなのか。まさか、と自嘲する。その程度のことは多くの生物で可能であるし、植物体でさえ自己保存のための防衛反応としてやっている。おこがましくて新人類などと呼称できるわけはない。では、朋美が他の者たちと異なる点はどこにあるのか。
はっきりしたものは何もない。推測すら不可能だ。
しかし朋美のいう新人類の起源が小夜にあるのではないか、とは薄々感じる。それがどの小夜であるにせよ、そうならぜひカモメ島に行かなくてはならない、と光彦はまたも思う。それは朋美の過去を知るという意味もあるが、同時に真紀のことを知る機会にもなろう。いや、本当に小夜が新人類の起源というのなら、どのような変異が小夜に起こったのか生物学的にも興味深いのだ。
 気分が高揚して、ソファに座る光彦の脳裏に打ち上げ花火のように思いがどんどん弾けていく。いつまでも眠気に襲われない。ロックをまた作った。高級酒だけあって、舌にとろみを残す。
突然、朋美の叫び声が聞こえた。
「熱い!」
あわてて寝室に飛びこむと、朋美は背中を丸めて眠りながら激しくうなされて、光彦には判断できない言葉をしきりに吐き出していた。その中で聞き取れたのは「小夜」という言葉だけだった。起こそうとして背中に手をあてると、びっしょり濡れていた。
「朋美、朋美!」
 数度呼びかけたが反応はない。
手を握ってやると、ふいにつぶやき声になった。どこか甘えるような声質。表情も安らかなものに変わり、寝息も落ち着きを取りもどした。光彦は布団を肩まで引きあげて、リビングにもどった。
 先祖の小夜の夢を見てうなされていたにちがいない。そうなら熱いと感じるのは、焼死した三番目にならないか。どうして二番目ではなく三番目の夢を見たのか。奇妙な感情に襲われながら、新しいロックを作る。あたりはしんとして、怖くなるほど底深い夜だった。

 授業が終わって保健室に顔を出した。養護教諭の留美子はベッドを包むカーテンの奥にいて、白衣の裾と長い脚が見える。
 近づいて声をかけると、カーテンから顔だけ出して、
「あっ、先生。ちょうどよかった。また真紀ちゃんが変なんです」
 といって中に招いた。
 薄い涼しげなシャツを着た真紀はベッドに横になって、体を震わせていた。しかし目はきちんと閉じられ、この前の発作時のように痙攣しているわけではない。悪夢を見てうなされている、そんな感じだ。朋美に続いて今度は真紀か、と土砂降りに打たれたような気分でそばの椅子に座った。
 真紀は今週に入ってから、日に一度は保健室の厄介になっている。授業内容はわかりきっているから退屈なのは入学当初からのことだったが、この一週間妙に暗い顔をしているのが気になる。光彦をじっと見つめることはあっても、それはもちろん授業を理解しようとする姿勢からではない。真紀が求めているものは、留美子の助言もあって今はおそらくわかる。しかし他の児童の視線もあるから、一人だけに特別な注意を払うのはまずいと考え、授業中は素知らぬ顔で通すことが多い。すると手をあげて、保健室行きを訴えるのだ。そのときくすくす笑いが教室のどこからか洩れてくる。隼人ではない。隼人は真紀の発作を見てから距離を取っているが、女子の中に悪臭に似た笑いが広がるのだ。光彦は腹立ちを覚えるが、気にしない振りをしている。今日もまた算数の授業を抜けて保健室に来て、真紀はベッドでうなされ、額を汗で濡らしているのだ。
留美子が光彦を見て、確認するようにいった。
「どうします。起こしますか」
 この前の発作を思い出して首を振った。痙攣がないのならもう少し様子を見てもよい、と考えたのだ。うまくすれば何か小夜のヒントを口走るかもしれない、という期待もあった。
 真紀が、嫌々するように首を左右に軽く揺すり始めた。留美子が再び光彦の顔をうかがう。
「もう少し待とう」
 これが前回と同じ発作につながるのであれば責任問題になるが、幸いそこまでの気配はない。唸りがおとなしいのだ。あのときは、最初から仰向けに椅子ごと倒れて白目を剥いていた。
 そのとき女子児童の声がして、留美子はあわてて光彦の背中が隠れるようにカーテンを閉め、児童のほうに向かった。指を擦り剥いたからカットバンをくれ、というのだ。注意を与えながら、留美子がせかせかとガラス棚を開ける音が聞こえる。
 ふいに真紀が小さな口を開いた。その口の深い奥から小蛇が這うように言葉が洩れ出てきた。細いが、粘っこい声。
「暗いよ。……寒いよ」
 当惑していると、急に寝息が平常にもどり、せわしく動いていた眼球が固定し、顔も穏やかになった。
 カーテンを開けて留美子が入って来て、小声で聞く。
「どうでした?」
「もう大丈夫みたい。すやすや寝ている」
 光彦はカーテンから出て、いつもの丸椅子に座った。腰をおろす留美子に真紀の言葉を伝えると、
「前と似てますね」
 といって首を傾げた。
「声が変わるから、いつもびっくりするよ」
 光彦がいうと、留美子が唐突におかしなことをきいてきた。
「先生は、憑依現象って知ってます?」
「狐憑きみたいなやつだろ?」
「そう。そんなときって、たいてい声まで変わるらしいですよ」
 光彦は、留美子の目を見つめた。自分でもどうして気になるのか訝しいが、やはり瞳がきれいに澄んで清々しく見える。
 光彦が視線を据えたままいう。
「憑依現象というのなら、真紀は、三人の小夜のうちのどれかに取り憑かれているってわけ? あの変な声は小夜の声だって?」
「可能性の一つとしてはありますね。無意識って広大ですからね。宇宙のような心の闇に小夜が隠れていてもおかしくないですよ」
「どの小夜?」
「あくまで勘ですけどね、二番目だと思います。二番目の怨みを引き継いでいるのではないでしょうか」
 留美子があまりにあっさりいうので、とまどった。
「怨みを引き継ぐ? 生物学的に肉体は引き継げるけど、思いを引き継ぐことなんてありえないよ。信じてるの?」
 光彦をしっかり見据えて、留美子がうなずいた。
「信じている、というのは正確ではありません。でも、今はそう考えるしかない気がしますよ」
「冗談だろ?」
「いえ、本気です」
 光彦は眉をひそめる。
「そういえば、白老からの帰りに、生まれ変わりのこと話してたよね」
「生まれ変わりは信じていません。ただ二番目の怨みを辿れる者がいるだろう、というのは確信しています」
 辿れる? 光彦はその言葉で妻の朋美を思い出した。私、落ちこぼれだから、そこまで辿れないのよ、といったはずだ。しかし辿るとはどういうことだろう。昨夜短い時間だったが朋美の声が変わったのは、カモメ島の二番目の小夜まで辿り着いた、そして小夜も朋美まで降りてきた、ということでいいのか。それとも朋美の言葉を信用すれば、芽衣の力を貸りて。となると、お腹で眠る芽衣も二番目の思いを引き継いでいることになるのか。それは、真紀も同じなのか。しかし、そんなことが一体どうして可能だろう。進化の過程では瞬きより短いが、それでも小夜から一世紀半は経過しているのだ。
 光彦は、尻を持ちあげて丸椅子に座り直した。
「わかった。今度カモメ島に行ったら、そのことも含めていろいろ発見できるかもしれない。ひょっとしたら、真紀がうなされる、暗くて寒い場所ってのも探し出せるかもしれないな」
 留美子の顔に笑みが広がる。
「そうならいいんですけど。先生が行ってくれると聞いて、実は私、わくわくしています。奥さん、よくオーケー出しましたね」
 光彦は含み笑いした。
「もうフェリーの切符を買ったといったら、諦めたみたい」
「すみませんでした」
「いいよ。ぼくだって今は郷土史に興味があるから」
 留美子が笑うかと思ったら、ふいに口元を引き締めた。
「真紀ちゃんね、最近、夜眠れないようなんです。さっき話を聞いたんですけど、寝るのが怖い、といってました」
「あの年頃の子には、寝るのは天国みたいに幸せなはずなんだけどな」
「きっと、夢を見るからじゃないですか。怖い夢ばかり」
 光彦はうなずいた。
「なるほど、そうかもしれない。でも、こればっかりは担任でもどうしようもできないや」
 と、苦い舌打ちをして立ちあがり、カーテンを開いて真紀の様子を確認した。あどけない顔でぐっすり眠っている。これなら安心だ、と思った。

 前を走る車の背中が赤い色に染まっている。軒を連ねる家々の側面も、赤いペンキで塗られたようにみえる。見事な夕焼けだったが、フロントガラスに粘りつく日没の光が視界を遮って、サンバイザーをおろしても血の海を進むように前方がよく見えない。どうかした弾みに夕陽が網膜を直撃して、しばらく目の前に赤い血が流れることがある。対向車線の車は軽快に飛ばしているが、光彦と同じ方向の車の流れはとろとろしていた。
 ハンドルを握って前の車にくっつくようにして走りながら、それでも心は軽かった。ようやく最後の一人が終わったのである。赴任して年間の行事予定表を見たときには、五月末の家庭訪問週間を重い荷物のように感じていたが、終わってみれば漁師町にいたときと同じで呆気ないものだった。
ライラックが植えられた並木通りを走っていると、明確な闇が落ちてきた。街路灯に照らされて、紫色の花が朧のように揺れている。
真紀のマンションが、夕空を貫いて左向こうに突っ立っていた。その前を通過して左折すれば家へ向かう広い道路に出る。ふと立ち寄ってみようかという気になった。気分が楽になっていたせいもあるが、やはり保健室での様子は気になることだった。
車のスピードを緩めて、それでも光彦は思案した。アポを取っていないから、母親は突然の訪問を嫌がるかもしれない。漁師町ならいつ行ってもお持ち帰りの魚が用意されていたが、ここは都会である。少し臆する気持ちが湧いた。しかし、ままよ、とハンドルを切ってマンションの訪問客用の駐車場に乗り入れた。車から出ると、道路向こうの市営公園で手拍子打って子供をよちよち歩きさせている白いシャツを着た男親が見えた。涼しい風があるから夕涼みのつもりかもしれない。芽衣が生まれたら、いつか日暮れた公園で歩きの練習をさせるのもよいか、と思わず頬を緩めた。
 管理人に名前と用件を告げて、エレベーターに乗る。札幌にもオートロック方式のマンションは増えてきたが、築十年は絶対経っているはずの、このマンションは昔のままである。ひょっとしたら都市ガスも、旧来の石油系原料を使っているのかもしれない。
 五階で降りた。廊下を歩いて、早瀬由紀江と書かれた部屋のインターフォンを押すと、しばらくしてドアが開けられた。由紀江の髪は乱れ、それと同じほど心が乱れているのがわかる。目が虚ろだった。明らかに光彦の訪問に戸惑っている。
「何か?」
 由紀江が、髪を片手で整えながら上目づかいにきく。
 答える先に、中から真紀の怒鳴り声が聞こえてきた。ヒステリー患者ならこうだろう、と思えるような、甲高くせつない声である。
「どうしてパパにあんなことしたの! 私、ママもおばあちゃんも大嫌い!」
家庭内暴力というのがあるが、真紀はまだ八歳である。それでいて、必死なわめき声は大人顔負けの凄みがあった。学校では見せない素顔を、今リビングで晒しているのだろうか。
「何度いったらわかるのですか。もう少し大人になりなさい。一族の仕事を忘れたのですか」
今どき一族とは何と大仰な、と心で舌を出したが、朋美が同じ言葉を使ったのを思い出して不可解な気持ちになった。諌めているのは年のいった声である。数学を教えてくれる祖母にちがいない。しかし真紀に、大人になれ、一族の仕事を忘れるな、というのはどこかちぐはぐな叱り方のように思えた。
「あれ、真紀さんですよね」
 由紀江が、ちらりと背中の気配をうかがってから、眉根にきゅっと皴を寄せた。重くうなずく。
「ときどき、発作を起こしたみたいにあのようになるのです」
 中から祖母の声がまた届く。
「真紀、やめなさい。あんな無学な男みたいな怒鳴り方をするもんじゃありません」
「パパを無学なんていうんじゃない。おばちゃんなんか、大嫌いだ!」
 真紀の声は泣いているように痛々しく聞こえた。
 由紀江があわてた素振りをみせる。
 光彦は、いたたまれなくなって頭をさげた。
「お取り込み中のところに来て、申し訳ありませんでした。また来週にでも出直してきます」
「そうですか。ご足労おかけして、申し訳ありませんでした」
 由紀江がせわしげに頭をさげたとき、
「あっ! この子は!」
 という声があって、リビングとの境のドアが乱暴に開き、真紀が飛び出して来た。血走った目をしている。しかし光彦が顔を覗かせているのに気づくと、手にした包丁をだらりとさげた。その先端が赤い。
 光彦は仰天した。家庭内暴力だとしても、小学生に包丁は早い。しかもその包丁はすでに誰かを傷つけているのだ。
「真紀!」
 一瞬の躊躇のあと、光彦は玄関に飛びこみ真紀の手から血塗れた包丁をもぎ取った。柄にぬるりとした感触があった。
「おばあちゃんを刺したのか」
きつい声できくと、真紀は消え入りそうなほど体を縮めてうなずいた。
 光彦は放り投げるように靴を脱ぎ、リビングに向かうドアを開けた。
 入った瞬間、この前のように空気がどこかひんやりしているのを感じた。窓は閉まっているから、夕風のせいではない。学生時代にキャンプした夜明けの森のような、凛とした冷ややかさだ。
その森が今や、荒廃の地にみえる。壁にかかっていた日本画はフロアでひっくり返っている。食器棚から持ち出したのか、コップが一つ砕けていた。カーペットも半分めくれて、病んだ女のように、乱れがそのままフロアに反映されていた。
その荒廃に一人逆らうように、地味なスカートをはいて前掛けをした老婆が、右手を押さえて屹然と立っていた。元教授の真紀の祖母。指の間から鮮血が一筋垂れている。
大事に至っていない様子を見て、光彦は心の底から安堵し、あわてふためいた軽率さを恥じながら軽く頭をさげて、
「その手、大丈夫ですか」
 と尋ねた。
祖母は口を一文字に引いて、威厳をこめた仕草でうなずく。
それでも心配になって、
「ちょっと見せてもらえませんか」
 一歩進み出た。
「その必要はありません。お座りなさい」
祖母は、ソファの上に散らばった衣類をさっと片づけ、そこに座るように促した。促すというより、命令のように聞こえた。
 座るべきか迷っている光彦の視線が、血を滲ませた祖母の右手の甲を捉えた。三センチほどの裂け目はあるが、血の量からそれほど深くはなさそうだ。
「消毒されたほうが……」
 祖母は答えず、片手で散らばった衣類を集めて隣部屋に投げこんだ。
余計なことをいったか、とそそっかしい反省が兆して赤面して座り、血のついた包丁を前のガラストップのテーブルに置いた。
リビングに入って来た真紀は、バスで手を洗ってからこの前と同じように光彦に体を擦りつけて座る。横目で見ると、玄関口に顔を出したときに見せた燃え盛る感情の炎は、すでに鎮火しているようだった。穏やかな、八歳児の子供にもどっている。
いったいこの家はどうなっているのだろう、と光彦は考える。先ほど聞いた祖母の叱り方はどこか奇妙に聞こえた。傷口に手をあてて厳粛な顔で向かいの肘掛け椅子に腰をおろす祖母は、一族の仕事、といった。噴飯しそうなほど時代からずれた言葉。また真紀の父親のことを、無学な男、と侮った。真紀は甲高い声で怒鳴り返したが、真紀に限らず父親のことを誹謗されれば誰だって怒るだろう。元教授の教育方針というのは、光彦が小学校でやっているものと大きくずれていた。そのずれをなぜか笑い飛ばす気にもなれず、どうやっても合わない嵌め絵のようなもどかしさを覚えた。
 由紀江はフロアに散らばったコップの欠片を箒で掃き取り、キッチンに向かった。その背中が、やはり細ってみえる。
 祖母は黙然と光彦に鋭い視線を向けている。右手から血が滴っているが、ハンカチやタオルで押さえるでもなく、まるで癒すように片手で蔽っているだけだ。深い傷ではないにしても、決して浅手とはいえない。消毒しなくて大丈夫だろうか、と再び心配になる。
コーヒーを作る由紀江を待たずに、祖母がようやく口を開いた。声は思いのほか低い。
「とんだところをお見せしましたね。しかし担任である先生には、真紀の本当の姿を知って頂くのも悪いことではないでしょう。今の真紀をどう思われます?」
「どう思うといわれても……」
 口ごもった。祖母の目はきりっと光彦に射られ、答えを辛抱強く待っている。
「真紀さんには、ぼくにはわからない何かがあるように思えます。その何かは見当がつきませんけど」
「見当がつきませんか」
 声は相変わらず低く、そこにわずかの温もりも感じられない。
「はい。ぼくには、何とも」
「あなたは、朋美さんのご主人ですね」
 顎を持ちあげて、うなずいた。
「朋美さんには、いろいろお世話になっております」
こちらこそ、と光彦は小声で答える。
「そのご主人であるあなたにも、真紀の心の様子はわからないのですね。私は薄々と勘づかれているのではないかと思っていましたが」
「何が何だか」
 答えながら祖母の奇妙な問いかけに息苦しくなってきた。あるいは祖母は小夜のことをほのめかしているのか、と思ってみたが自信はない。
 由紀江がコーヒーを静かにテーブルに置く。それから包丁を両手でそっと掴んで、キッチンに持って行った。
間が持てないでいた光彦は、正直救われた気がして熱いコーヒーを一口啜った。真紀が、腕を取りそうなほど体を擦り寄せてくる。
 由紀江が祖母の横のフロアに座ると、また重々しい声がリビングに響いた。
「これからも真紀がお世話になると思いますが、先生の目にいくらおかしく見えようと、何も気にされることはありません。先生がどれほど教育に情熱を持たれていても、真紀に何かをすることはできません。ただ穏やかに見守ってくださるのが賢明ではないかと考えています」
「見守るだけですか」
「そうです。男は見守ることしかできません。朋美さんを見守るように、真紀を見守ってください。それだけで充分です」
 朋美を見守るとはどういうことか、と思ったが、光彦は、
「しかし、ぼくは担任ですよ」
 と、刃向かうようにいってみた。祖母の唇に冷笑が浮かぶ。
「担任とはいっても、いつまでもこの子の面倒をみてもらえるわけではないでしょう。普通二年ですか。それが過ぎれば、真紀のことはすぐに記憶の隅に押しやられます。そして先生は新しいお子さんたちの面倒を見ることになりましょう。ですから、教室で真紀はお客さんで結構です」
「お客さん」というのは、授業に参加しない、あるいは参加できない学力の低い児童のことをいう。祖母はそれを望んでいる。いや、確かに真紀には、小学校で学ぶことなど何もない。本来の意味とは異なるにしても、すでに扱いはお客さんである。しかし祖母の口からあからさまにいわれると、教師として忸怩たるものが湧く。やはり理解できない何かがこの家庭にはあるのだ。
「申し訳ありませんが、コーヒーを飲まれたらお引き取り願いたいと思います。ご覧の通り、部屋は乱れていますので、私たちも本腰入れて片づけねばなりませんから」
 邪魔だ、と面と向かっていわれたに等しい。担任など相手にされていないのだ。
「わかりました。突然訪問して申し訳ありませんでした」
 唇を噛んで立ちあがろうとした。その瞬間腕をぐいっと引っ張られ、とっさの弾みでソファに尻餅つく形になった。真紀が光彦の腕を両手で必死に掴み、訴えるように見あげているのだ。
「先生は、まだ帰らないの!」
「そんなこといっても。ここは先生のうちじゃないから」
「先生が帰るなら、私も一緒に帰る」
 だだをこねる声に、固い芯があった。
「真紀、愚かなことをいうものじゃありません」
 祖母の冷厳な叱責が響く。
 由紀江が、恐る恐る口を挟んだ。
「先生は、おうちに帰らなくちゃならないでしょう。先生のおうちは真紀のおうちじゃないのよ」
 真紀が痛々しい声をあげた。
「じゃあ、私、先生の子になる。ママやおばあちゃんのいるこのうちなんか、大嫌いだもの」
 真紀は心の底に溜まった膿を噴きつけるようにいうと、光彦の腕にさらに強くしがみついてきた。ちらりと見ると、その目が充血したように真っ赤に燃えて、また怒りがぶり返しそうにみえた。
 困惑して祖母に視線を投げる。突然ぎょっとした。祖母は傷口に当てていた左手を外して、恐ろしい顔で真紀をにらんでいたが、鮮血の中心に血の裂け目がないのだ。ついさっきまでは、確かに血の溝があった。祖母の手の甲には今も半乾きの血がおびただしい。それでいて傷が消えている。傷痕を思わせるのはかすかな一本線だけで、それは赤マジックで悪戯描きされたように稚拙にみえた。
 妻の朋美が包丁を取り出して刺せといった様子が、まざまざと浮かんできた。あのとき朋美は、怪我をしても回復が他の人間より何十倍も早い、といった。光彦は、それをトカゲみたいと鼻で笑って相手にしなかったが、真紀の祖母はまさしくトカゲである。朋美にしろ、この老婆にしろ、いったい何者なのだ、あるいは一族というものの、共通の先祖かもしれない小夜とはいったいどういう女なのだ。
「真紀、わがままいうのはやめなさい」
由紀江が諭すようにいったが、真紀は必死で抵抗する。
「私、先生のおうちに行く。ママやおばあちゃんが何といっても、私は行く。だめなら、私は前の公園で寝る。この家なんか、吐き気がするよ!」
 耳に馴染んだ真紀の声が徐々に異質なものに変容していくのが、光彦にはわかった。真紀の口を通して無体なことをいわせているのは内部に潜む者なのか。それが小夜なのか。
 祖母が毅然といい放つ。
「真紀、恥を知りなさい!」
「恥なら、おばあちゃんこそ知ればいいよ。人殺しのおばあちゃんじゃないか!」
 祖母の額にぴりりと皴が寄った。
 光彦はまたも驚く。目の前の老婆は人殺しなのか。それとも先週訪問したとき由紀江がいったように、これも真紀の妄想の類なのか。背筋が凍ったが、これ以上家族喧嘩を見すごすわけにはいかない。光彦は、怖気づいたように一度咳をしてから、提案した。
「もしかまわなければ……真紀さんをぼくの家に連れて帰らせてください。数日程度なら、真紀さんにもぼくたちにも気分転換になるでしょうから」
 光彦の言葉を聞いて、真紀は今度はうれしそうに小さな体をこすりつけ、勝ち誇ったように短い足をソファから伸ばしてばたばたさせた。
 祖母は、気に食わなさそうに眉間をしかめている。由紀江はフロアに座ったまま、そんな祖母をはらはら見あげている。先日家庭訪問したとき、由紀江は不安に切り崩されそうな様子で、祖母のことを頑固な独裁者と呼んだ。威厳ある独裁者に絶えず見張られ、ぴりぴりと神経を磨耗させて、由紀江は半分壊れている、さしたる根拠もなくそんな思いが浮かんだ。
 真紀が体を傾けて甘えるようにいう。
「おばあちゃん、いいよね。ちょっとの間だけ、私、先生の子になる」
 豹変している。真紀は心の中に仕舞いこまれた様々な仮面を気安く顔にかけることができるのだった。わずか八歳の子なのに、である。いったいこの家族は何なのだ、とまたも思う。
 祖母がようやくうなずいた。
「わかりました。それでは、お世話になりましょう。明日迎えに行きます」
 真紀がまた叫ぶ。
「一晩だけなんて嫌。日曜日までいたいよ。私、先生にお料理作りたいんだから」
「真紀!」
 祖母が頑陋な声をあげた。
 同じ醜態を見たくない。体をぐいっと乗り出していった。
「うちには、日曜日までいてもらってかまいませんよ」
「そうですか」
 由紀江が中腰になって、あわてたように祖母より早くほっとした言葉を投げる。
 そのとき、急激にめまいに襲われた。そんな持病はない。驚いて天井を見あげると、蛍光灯がかたかた鳴っている。同時にテーブルがガタンと揺れて、飲みかけのコーヒーがあふれ出た。地震である。太平洋プレートの関係で北海道はやたらに地震が多いが、縦揺れはないから、震源地は別にして、札幌ではおそらくM4程度と観測されよう。光彦は、真紀が体を擦りつけるのを感じながら、天井から垂れる蛍光灯を見つめていた。すぐにおさまった。
 光彦の様子を冷静ににらんでいた祖母が、鼻で笑うようにいった。
「大地が怒っているだけです。うろたえることはありません」
 別にうろたえたわけではないが、祖母の目にはそう映ったのだろうか。落ち着かない思いでこぼれたコーヒーに視線を落していると、束の間の思案のあと、祖母が諦めたようにいった。一言注意も怠らない。
「わかりました。では、三日だけお預けしますが、真紀のことに過剰な関心を持たないでください。よろしいですね。普通に親戚の子が来たという程度に扱ってくだされば結構です。朋美さんにもよろしくお伝えください」
 光彦は内心深い安堵を覚えて真紀を見つめた。真紀はあどけない顔でほほ笑み返したが、今度はどこか成熟した女の笑みのように感じられた。

夜空の星に追われる気分で、車を走らせた。助手席に座った真紀は異様にはしゃいで、実によくしゃべる。それも、いかにも三年生の子供たちがよろこびそうな他愛ない話ばかり。ちびまる子ちゃんのこと、ゲームのこと、流行りの歌手のこと。これまでこのようなことを話す相手が一人もいなかったのだろうか。確かに教室にいるときの真紀は「お客さん」のように孤立していて、休憩時間は窓辺に立ち、グランドで上級生たちが騒々しく走りまわるのを見つめているだけだった。今、その反動が来たように話し振りに熱がこもり、三年生というより入学したばかりの新入生に似た無邪気ささえ発揮している。そのちぐはぐさが、光彦を不安にさせた。
祖母がいった「一族の仕事」という言葉が気になっていたが口に出せる雰囲気ではなく、適当に相槌を打っていると、真紀が急に話題を変えた。
「ねえ、先生。今度は私が問題、出していい? 二つ出すけど」
 ハンドルを握る光彦の腕に触りながら、真紀は精一杯の笑顔を向ける。
「いいよ。でも、先生はあまり物を知らないから、きっとわからないと思うな」
 と牽制の煙幕を張った。
「そんなの知ってるから、やさしいやつ」
「そうか。先生が無知なの、ばれてるか」
 真紀は、肩をすくめて楽しそうに笑った。
「最初のは生物の問題だから簡単だよ。細胞の核の中にDNAってあるよね。人間一人が持っているDNAを全部つないだら、どれくらいの長さになる?」
 光彦は、前方を走るトラックのテールランプを見つめながら苦笑した。いかにも子供が好きそうな無意味な質問である。
「それって専門分野だから、わからなかったら恥ずかしくて明日から授業教えられないよ。一つのDNAを伸ばすとだいたい一・八メートルあるだろ。しかも人間の体を作る六十兆個の細胞の全部に入っているから、つなぐと地球から月まで三千往復の長さになる。大学では、そう習ったよ」
「ビンゴ。正解です」
 真紀がはしゃいだ声を出す。
「そんな長いヒモが体の中にあるなんて、不思議だよね。先生は最初に勉強したときに不思議って思わなかった?」
「あまり思わなかったな。そういうもんだ、と素直に受け入れた」
「そうか。でも、体って、なんか宇宙みたいでさ。わからないことってたくさんあるよね」
 真紀のいうとおり未知な部分はたくさんあるが、それはただ解明が行き届いていないだけだ、と光彦は思う。わからないからといってそれらを怪奇や神秘の色で塗るのは性に合わない。
「ヒトゲノム計画が快進撃で進んでいるから、不思議な宇宙が解読される日も近いのじゃないか」
「そんなに簡単なことかな。あのね、私、ときどき思うんだけどさ、動物って酸素呼吸をしてるじゃない。でも酸素って細胞には元々危険なものだから、そういうの嫌って、別の形でエネルギーを得ている動物っていないのかな」
「それはたくさんいるよ。深海とか高い所や土の中は酸素がほとんどないよね。けど、微生物は生きている。大腸菌なんかもそうだ。嫌気性の生物は酸素がなくても平気だよ」
「細菌じゃなくて、もっと複雑な動物のこと」
「それはないんじゃないか」
 と、あっさり答えた。
「そうなの。つまんないね」
 真紀は不満そうに口を尖らす。その横顔を街路灯のオレンジ色が掠めてゆく。
 光彦は、学生時代に夜が白むまで友人たちと議論したことを思い出した。そのようなとき真紀の疑問も何度か話題になった。脊椎動物レベルの生物で、エネルギー獲得に酸素を必要としない新種が地球のどこかに潜んでいることはないのか、と。呼吸とはエネルギーを得るための手段であり、動物が酸素を使うのは、それが体内に蓄えられた栄養素の水素電子を容易に受容する性質を持っているからである。酸素より還元電位が高いものであれば別に何でもかまわない。現に硫酸塩や硝酸塩を受容体にする細菌もいて、それは「硫酸塩呼吸」などと呼ばれている。植物のように二酸化炭素を吸収して、それでエネルギーを得る動物がいればおもしろいな、と笑い合ったのだ。ひと笑いしてから、話題がいつも子供の頃に見たぬいぐるみ怪獣に移ったのは、今考えれば無邪気なことだった。
 光彦は、どこまでも同じ方向に向かうトラックを見つめながら、
「真紀は本当によく知っているな。おばあちゃんが教えてくれるのか」
「うん。おばあちゃんは理科系のことに詳しいから。でも、ママは英語だけ。じゃあさ、二番目の質問するね。いい?」
「やさしいやつな」
「わかってる。あのね、私たちって、一秒にどれくらいの距離を動いていると思う?」
「意味わからないよ」
 光彦はすぐに白旗をあげた。
 真紀は、先生になったみたいに両手を動かして丁寧に説明する。
「私たちは宇宙を漂流する地球に乗っているでしょう? その地球は一秒にどれくらい動くかってこと」
「こっちは専門じゃないから難しいな。でも、地球は太陽のまわりを一年かけてまわるわけだろう。光が八分かかる距離が半径になるから、半年後には太陽のちょうど反対側、つまり楕円を描いて光が十六分かかる場所まで行っているわけだよな」
「ブーです。間違い」
 即座にいった。
 光彦は首を傾げる。
「どうして? すぐには計算できないけど、考え方はいいだろう? 公転の軌道距離を三百六十五日で割って、それを二十四時間で割って……きっと一秒に百キロ以上は移動していると思う。だから、ここから東京に行くのに十秒かからないって感じかな」
 また真紀が明るく笑って、ブーブーといった。
「先生、太陽系もまわっているでしょう。それも入れなきゃ。そしたら、そんなんじゃすまないよ」
「そうか。確かに太陽も惑星を引き連れて、銀河系をまわっているな。忘れていた」
「だからね、先生。私たちは地球に乗ったまま、秒速三百キロ以上で宇宙を移動しているんだよ。東京まで行くのに、三秒かからない。これがジェットコースターだったら、一遍にみんな振り落とされちゃうよね。宇宙には中心がないから、こういういい方って変なんだけど、地球は同じ場所を二度通過することってないの。わかる? 今通過した宇宙空間は、三葉虫も恐竜も北京原人も、どんな生き物も通ったことがないし、二度ともどれない場所なんだよ」
 二度ともどれない場所。あどけない顔の真紀がいうとどこかそぐわない気がしたが、それは心が冷たくなるような認識だった。宇宙空間までは考慮する必要はないにしても、人が生きるということはきっとそういうことなのだろう、と光彦は納得する。真紀は自分が喋っている意味を理解しているのだろうか、とふと小石のような疑問が湧いた。

 玄関に出てきた朋美は、真紀が横にいるのを見て暗い顔をした。
 妻がマタニティーブルーと知りながら、衝動的に連れて来たことの言い訳を考えていなかったので少し焦ったが、先に真紀が説明した。
「日曜日までお世話になることになりました。家でいろいろあったものですから」
 まるで大人のような挨拶である。
 朋美は曖昧な表情を崩さなかったが、それでも真紀を拒むことはなかった。
「そう。おあがりなさい」
 大きな腹を抱えて、先に立ってリビングに向かう。マタニティードレスを着ているせいか、動きが緩慢にみえる。光彦は真紀の背中を押して続いた。
 リビングに入ると朋美はすぐにキッチンにもどり、やりかけていた料理を続けた。真紀は一度ソファに座って、二、三度跳ねてから、光彦が習慣で覗いている水槽に顔をくっつけた。
「これ、ひょっとしてアホロートル?」
「知ってるのか」
「見るのは初めて。でもわかるよ。赤ちゃんなのに子供を作れるんだよね」
「ちょっと違うけど、幼形成熟といってね。赤ちゃんのままで大人なんだ」
「気持ち悪いもの飼ってるね」
 真紀はにやりと笑って、いつかの朋美と同じことをいった。それからキッチンに走った。
「朋美さん、手伝う?」
 気持ち悪いか、と苦笑しながら、光彦は水温を確認してからダイニングに立って、対面式のカウンター越しに二人を見つめた。朋美の表情は硬いが、別に怒っている風ではないし、拒否の鎧で体を固めているわけでもない。どこか諦めに似た印象を受けた。
「真紀ちゃんは、お料理できるの?」
「もちろんできるよ。ママは揚げ物が得意だし、おばあちゃんは煮物が得意だから」
「そう。今夜はジャガイモを煮つけようかと思っているの。皮剥いてくれる?」
「いいよ」
 朋美は、真紀にジャガイモの入った青いボールと包丁を手渡した。光彦はさきほどの騒動を思い出して背筋をぞくりとさせたが、真紀は平気でキッチンの床に新聞を敷いて座り、大きなジャガイモを器用に剥き始めた。
 どこか変な気がした。この前朋美は、真紀を怖い、といった。そんな真紀を事前の連絡も相談もなく連れて来たことを、なぜ怒らないのだろう。それに真紀の従順な様子もしっくりこない。
光彦がソファに座って夕刊を開くと、朋美の声がした。真紀に話しかけているのだ。
「私ね、先生の奥さんでしょう。そしたら、いつか泊まりに来る子がいるだろうなって、ずっと考えていた。それが真紀ちゃんとは思わなかったけどね」
「どうして私って思わなかったの?」
「だって真紀ちゃんのおうちは、しっかりしてるからよ。もっとひどい家庭の子がね、おうちから逃げるようにして泊まりに来ると思っていた」
「たとえば、気に食わないと、お父さんが卓袱台をひっくり返すとか?」
 朋美の声も、肩から力が抜けたように穏やかである。
「そう。そんな家庭って、多いしね」
 しゃりしゃりとジャガイモの皮を剥きながら、真紀も同じように静かにいう。波風なく幸せに長い年月を過ごしてきた、年の離れた姉妹のような雰囲気がある。
「でもね、朋美さん。私、卓袱台をひっくり返してもいいから、パパがいたほうがいいな、って思う」
 ちらりと見ると、朋美は黙って泥のついたニンジンをシンクで洗っていた。
「やっぱりパパがいないとさびしい。朋美さんもパパいないよね」
「うん。真紀ちゃんのパパと同じ車で死んじゃったから。私も真紀ちゃんと同じ。今はやっぱり、どんなパパでも生きていてほしかったな、って思うよ」
 今度は真紀が沈黙して、気持ちよい音を立てて懸命にジャガイモの皮を剥く。小学三年生で包丁を使って剥くとは、よほど器用な子である。
「ねえ、朋美さん」
「何?」
「最近、何となくわかってきたの。誰がパパを殺したのかって」
 朋美はわずかの時間沈黙したが、抑えた声でいった。
「事故じゃなかったの?」
「それは最初から考えたことないよ」
「じゃあ、誰だったの?」
「私ね、最初はママが誰かに頼んだと思ったの。でもママは気が弱いから違うって、今は思う。ガスのときだって、いわれて渋々栓をひねったけどね、本当は細目に一時間近く放置することだったのに、三十分過ぎると自分に言い訳するみたいにして窓を開けたのよ。いつもおばあちゃんのいいなりなのにね」
「そうだったの」
「うん。ママもね、子供の頃に、パパが死んじゃったじゃない? そのときとっても悲しくて何日も泣いていたんだよ。だから、やっぱりひどいことする勇気はなかったの」
 朋美は、洗ったニンジンをまな板でとんとんと切った。その音に真紀が包丁を使う音が混じる。
 夕刊に目を走らせながら聞き耳を立てていた。きちんと理解はできないが、二人が話している内容はただごとではなかった。それでいて、部屋の空気は、あまりにも静謐に満ちている。
「だからね、私、考えたの。あれって、私たちのこととは関係ないのじゃないかって」
「じゃあ、事故ってこと?」
 朋美がまた事故を強調する。
「そうじゃない。なにかもっと個人的なこと」
「そうなの。私にはわからないけど」
 真紀はしばらく黙してからいった。
「でも思うんだけどさ。パパにトラックをぶつけた人が私たちの仲間で、女の人だったら、赤ちゃん、かわいそうだよね。そんなママの子で」
 朋美は返事をしないで長ねぎを刻んでいる。
 真紀がまたいう。話題が急に変わっている。
「朋美さん、先生は大丈夫だよね」
「心配ないよ。でないと、お腹の赤ちゃんがかわいそうじゃない」
「私も先生は信用しているよ。だからよくクイズするんだ」
「どんなクイズ?」
「おばあちゃんなんかに習ったクイズ」
「真紀ちゃんのおうちは、ママもおばあちゃんもひいおばあちゃんも、みんなすごいものね。うちはダメだな。林檎を作るのが専門だったから、他のことは何も知らないの」
 真紀が、皮を剥いた薄黄色のジャガイモを朋美に渡したのだろう。朋美の驚きの声がする。
「きれいに剥けたね」
「これ、おばあちゃんが得意だったから。おばあちゃんね、子供の頃、いつも皮剥きやらされてたんだよ」
「そうか。うちのおばあちゃんは牛の乳しぼり」
 真紀と朋美が同時に笑った。喋る中身ははっきりしないし、どこか不穏な趣があったが、今の真紀は普通の八歳児にもどっている。連れて来てよかった、と光彦は新聞を閉じて立ちあがり、キッチンに顔を突っこんだ。
「なんか、楽しそうだな」
 無理に笑ってみた。
 真紀もへへへと笑う。
「でも、おまえたちの会話、よくわからないよ」
「わからなくていい。真紀ちゃんと話してるんだから」
「ぼくは除け者か」
「そうです。先生は除け者」
 といって、真紀がほほ笑む。実に清々しい、心が洗われるような笑みである。この感じ、どこかで経験したな、と思った瞬間、養護教諭の留美子を思い出した。そうだ、留美子と同じだ。しかし、どうして留美子の笑顔から、こんなそばにいる二人の笑顔を引き出すことができなかったのか、と自分でも不思議な気がした。きっとがっしりした体格やその顔立ちのせいにちがいない。
喉につかえていた頑固なものが取れた気がしてほっとした。と同時に、そうなら留美子も仲間という可能性はないのか、という新たな疑念が生まれて心がもやついた。
 光彦がもう一度笑顔を作る。
「真紀が来たからどうしようかと思っていたけど、やっぱり明日予定通り行ってくるよ。夕方にはもどるから」
 朋美の表情が一瞬曇る。
「切符も予約しているし、むだにすることないと思って。いいよな」
「わかった。真紀ちゃんと待ってる」
 丸椅子に立って朋美の手元を見つめていた真紀が、残念そうな顔を向けた。
「先生、明日いないんだ。私、がっかり」
「前から約束してたんだよ」
「どこに行くの?」
「カモメ島。知ってるか」
 真紀の顔色が、明白に変わった。
「どうして、そんな島に行くの?」
 声に棘が混じる。
 光彦は狼狽した。考えたらすべての発端は真紀のうわごとにあって、その当事者が目の前にいるのだ。島を調べることは、真紀にとってよろこばしいことではないのかもしれない。口を滑らせたことを後悔しながら、嘘をつくしかなかった。
「島の役場にね、先生のお友だちがいるんだよ。山田さんっていう人。会いに行くんだ」
「それだけ?」
「それだけ、って?」
 逆にきくと、真紀は口を閉ざした。
 突然、朋美が痙攣したように前屈みになり、両手をシンクに突いて呻き声を洩らし始めた。
「おい、どうした」
 朋美が唇を強く噛みしめて青ざめた顔をあげる。
「芽衣が……芽衣がお腹を乱暴に蹴ってるの」
 光彦はカウンターをまわってキッチンに走り、朋美の体を支えるようにして、
「ソファに座ったほうが楽になるぞ」
 と連れて行こうとした。抱きかかえる掌に、腹を蹴る振動が伝わってくる。おそろしいほど小刻みな動きである。
 すると、真紀が朋美の腹に頬をくっつけて叱りつけた。
「芽衣ちゃん、だめ、そんなに暴れたら。先生はね、お友だちに会いに行くだけだから」
 すると、まるで真紀の言葉を理解したかのように芽衣は動きをとめた。とめる瞬間一度大きく腹を蹴った。朋美がびくんと息を詰める。
「大丈夫か」
 背中を撫でていると、朋美はすぐに笑顔を取りもどした。
「もう大丈夫。芽衣は元気がよすぎて」
 といったが、どこか悲しそうに聞こえる。
 背中に手を這わせながら、芽衣は真紀の言葉を理解したのではないか、と不審な思いに翻弄された。そんははずはない、と思いながらも、完全に否定しきれない自分に戸惑っていた。
 顔色がよくなったのを見届けてソファにもどると、真紀が小声で囁くのが聞こえた。
「朋美さん、大変だね。私のママもこうだったのかな」
「みんなそうよ。でも、芽衣は他の子よりちょっとだけ元気がいいのかな」
「芽衣ちゃん、いい子ならいいね」
 朋美が、片手で真紀をさっと抱くのが、光彦の目の隅に写った。

 フェリーとは名ばかりで、むしろポンポン船というにふさわしい小さな船が桟橋を離れると、光彦たちを迎えてくれた山田敏治が、雨雲の欠片でも探すように空を仰いだ。
「今時期は気候がよいですから、週に九往復の便があって助かりますが、冬になると運行も間引きされるうえに、海が荒れて欠航することも多いのですよ。ですから、秋のうちに冬場の兵糧を蓄えておかなくちゃならない。島暮らしもこれでなかなか大変でしてね」
 山田は、役場の嘱託をしている六十過ぎの小柄な男である。留美子が先輩である白老の郷土史家を通して、事前に島の案内を頼んでおいたのだ。
 コンクリートの防波堤に囲まれた港には漁船が十隻ほど停泊しており、イカ釣りの時期なのか、手鞠のような集魚灯がいくつもぶらさがっていた。それでいてどこにも人影はなく、鴎がおびただしく群れて、落ちた小魚を啄ばんでいる。
 促されて、光彦と留美子は桟橋から島にあがった。港から真っ直ぐ伸びる狭い道を歩きながら、山田は、嘱託といってもこの島の役場は本土の出張所のようなもので職員は自分しかいない、と笑った。島の総人口が千人を切っているというから、そんなものかもしれない、と納得する。
 白いワンピースを着た留美子は、日焼け用に被ったソンブレロに似た大きな帽子のつばを持ちあげて、すぐに小夜の話題を切り出した。
「早速ですが、私たちが案内して頂きたいのは、神社の跡地と小夜の家、それに一番大きな森の三箇所なんです。近いでしょうか」
 山田は、どの小夜とはきかず、湿った咳をしてうなずいた。
「神社跡まで歩いて五分かかりませんが、森をご覧になりたいというのは、またどうしたわけですか」
 それは光彦の内部に湧いた疑問でもあった。事前に聞いていない。すると、留美子はおかしなことを口走った。
「森には島ができた頃からの万年樹があるそうですね。そこに行けば何か島の来歴のようなものがわかるのではないかと思うのです」
「なるほど、おっしゃるとおりかもしれません。抽象的ないい方をすれば、森は太古からの島の出来事を記憶しているわけですからね。私もめったに入ることはないのですが、エゾマツのような針葉樹やブナ科の落葉樹などが鬱蒼と茂っていますよ。大きな葉が空を蔽って、昼間でも薄暗い所です。森は最後になりますが、よろしいですか」
 留美子は重々しくうなずいた。
「じゃあ、最初は神社の跡地に行きましょう」
 一人で決めて、山田は率先して歩き始めた。光彦は二人の会話をどこか大仰なものに感じながら、あとについて行った。
 道の片側ではポプラが空に伸び、向かい側には家々が連なっている。それらは意外に真新しいものが多く、島のさびれた印象とは逆に華やいでみえた。どの家の戸口にもぴかぴかの郵便受けがかかっているが、週に何度配達があるのだろう。島の人たちはめったに届くことのない海の向こうからの便りを期待して、頻繁に赤い蓋を開くのだろうか。そんなことを考えると、思わず微笑が零れる。しかし家々の華やぎはすぐに途切れて、うら寂しい十字路に出た。
 山田は右側を指さして、
「こっちが、一応島の中心にあたります。役場の出張所や小さなスーパーがありますよ」
「山田さんのおうちは?」
 留美子がきいた。
「うちは、中央を抜けて少し行った海沿いです。帰りにお茶でも飲んでいってください」
 山田は気さくに誘ったが、別の島に向かったフェリーがもどってくるのは二時間後であり、残念ながらのんびりする時間はなさそうだった。
そのまま真っ直ぐ十字路を越える。
 両側が水田になる。田植えを終えたばかりなのか、足首ほどの高さの水稲が緑の細い葉を揺らしている。気候が寒冷なうえに地質の悪そうなこのような場所でも、稲の品種改良で今や稲作は普通のことである。大学時代に定年間際のゼミ教授は早稲種しかなかった時代のことをよく話してくれたが、その話との間には隔世の感があった。
 山田が前屈みに歩きながら解説する。
「この島は交通の便が悪いだけじゃなく、雨は多いし、寒い日も多いです。今日みたいに穏やかなのは珍しいですね。冬場、大気と海水との温度差が激しいときには、頻繁に毛嵐が立ちますよ。お風呂の蓋を取ったときのように、海一面に蒸気がどっと沸きあがって、なかなか壮観ですな」
 光彦は今春まで道南地方の海岸町で勤務しながら毛嵐を見る機会には恵まれなかった。それほど厳しい冬を迎えてこなかったということなのか。
「昔からどの年も冷夏みたいなものでしたから、作物の生育には不適切な場所でしてね。稲作も明治の後半になってようやくできるようになりました。しかし不作の年が多かったようです。そのうえ魚を獲ろうにも、海流の関係で時化る日が多くて、昔の小舟では思うようにいかなかったみたいですね。最近ですよ。農業も漁業も安定したのは。しかし、そうなってよろこんだのも束の間、今度は若い連中がみな本土や内地に出かけてしまって、一遍に過疎の風が吹きこんできました。うまくいかんもんですな」
 それは、この島ばかりではない。北海道の地方町村はどこも同じだった。光彦の父も道北地方の小さな町に心細い思いでいるから、山田の嘆きは父の嘆きに似て少々耳に痛かった。
海風はあるが陽射しが思いのほか強く、少し歩くだけで背中に汗が滲んでくる。水田を越えると雑木林があり、その外れに神社の跡地があった。
「ここですが、今はただの草原ですね。墓地の手前の片隅に石碑の壊れたのが残されていますよ」
 といったあとで、山田は道の向こうを指さした。
「このまま三キロほど行くと、万年樹の森に出ます。森は断崖となって海に落ちるまで、広い範囲に渡って葉を茂らせています。森を森のまま放っておくのはもったいないので、入植当初からいろいろ開拓が試みられたようですが、これまでうまくいった験しはありませんでしたね。森には、どこか人間を拒絶するような雰囲気があって、昼間でも薄気味悪い場所ですよ」
 そういうと山田は道を外れ、葉を大きく広げた蕗やタンポポが群生する一段低い草地におりた。光彦と留美子もあとに続いたが、草深く、蛇でも棲息していそうだった。踏みつける靴底が腐葉土の上を歩くようにふんわりして、妙に生暖かく感じられる。広々とした草地のどこにも、かつて神社があった痕跡はうかがえない。柱一本、土台ひとつ、見事にないのだ。
 離れて前を歩く山田の足が止まって、振り返って手招いた。小さな墓地を背中に、小柄な体は半分雑草に沈んでいた。
 二人は急いで山田の立つ場所に行き、蕗の葉を折るようにして体を屈めると、赤ん坊の拳大の砕けた石が放り出されていた。欠片を集めて復元してもそれほど大きな物にはならないだろう。光彦はその一つを手に取ってみた。苔むしてぬるぬるしている。白老の郷土史家がいったように粗末な石だったが、そのいくつかの隅に文字が彫りこまれた痕跡らしいものが認められた。何と書いてあるかはわからない。手にした欠片をにらんでいた留美子が、帽子を取って団扇代わりに二、三度顔に風を送ってからいった。
「確かに最初の小夜を讃えた物のようですね。これには、『碑』と思われる文字が書かれています」
 覗きこんだが、はっきり「碑」とあるわけではない。石偏はかすかに読み取れるが、旁はほとんど欠けている。
 留美子が、顔を山田に向けた。
「家にこの欠片をお持ちですよね」
 山田はうなずいた。
「『小夜』と読めるものと『称』と読めるものの二つです」
「どうして他の石はお持ちにならなかったのでしょう。五年前の論文にはこれらの石のことは書かれていなかったようですが」
 山田は困った様子をみせた。
「発見したのは、雑誌に発表した翌年なんですよ。最初は全部持って帰ろうと考えたのですが、やめました。顕彰の碑だとわかれば、それ以上必要なかろうと思いましてね」
 留美子は帽子で顔を扇ぐ手をとめて、信じられない顔をした。
「それほど文字数が多いようにはみえませんから、文字の部分だけ持ち帰っても、たいした量になるとは思えないのですが」
 山田はにが笑いする。
「しかしですね。これに、どれほどの意味がありますか。この事件は、当時としてはつまらん事件ですよ。幼い小夜が母親と一緒に島民に殺された、それだけのことでしてね。内地では、徳川幕府が外国の脅威をひしひしと感じて右往左往していた時期ですし、ここ蝦夷地にもロシア船が横行していました。松前会議所が襲撃されたり、ロシア艦に捕獲される漁民も増えていましたね。そのような騒然とした時期の小さな島の、小さな出来事です。あった、とわかればいいだけのことで、証拠のふた欠片があれば充分じゃないですか」
 留美子が重ねて問う。いつもながら必死である。
「山田さんは、ここにある石碑をきれいに並べてみられましたか」
 山田は、冗談のような笑みを浮かべて首を横に振る。
「その必要は感じませんでした。寄付者の名前とか年号も探せませんでしたし、顕彰の理由が書かれている様子もなかった。彫られた文字はおそらく『小夜を称える碑』程度の物だったと思われます。それはすぐにわかりました」
「わかった、とは?」
「昔話として聞いていたのです」
「昔話?」
 留美子は鸚鵡返しに問いかけたが、これが白老の向井がいっていた「伝承」なのだろう、と光彦は思った。
 山田が一呼吸置いて答えた。
「昔、この島は本土と隔離された文字どおりのさびしい孤島でしてね。さきほども申しましたように、海は荒れる日が多く、もちろん当時は、お二人が乗ってこられたようなフェリーはありませんから、本土に用事があるときは小舟を漕いで荒海を越えるしかなかった。ですから、函館に行くのも来るのも大変難儀したものです。電気が届いたのは私が小学校高学年のときでしたから、子供の頃は、海が荒れた夜、親たちはランプの光でいろいろ昔話をしてくれたものですよ。その中に、当然小夜の話もありました。聞きながら、子供の私は怖くて震えていましたが、昨日のことのように覚えていますね。ですから、石の欠片に小夜の『夜』を発見したとき、すぐにその意味がわかりました」
「じゃあ、これが小さな小夜を称えた石碑だというのは、島のどなたもご存知なのですね」
「若い者はどうか知りませんが、年配者はおそらくそうでしょう」
 拍子抜けする話だった。留美子は新発見を狙ってわざわざやって来たのだろうが、この島では謎でも何でもないのだ。
「でも、山田さんは郷土史に関心を持たれていますよね。そしたら一応は欠片を並べ直して、書かれた文字を正確に確認されてもよかったのではないでしょうか。たとえそれが『小夜を称える碑』であったとしても」
 山田は自嘲するように笑って、勝手に草地をもどり始めた。あわてて追いかける留美子に、山田がいう。
「私はあなたの入っておられる郷土史会の同人になっておりますが、元からそういうのに関心があったわけではないのです。残念ながら毎回送って頂く雑誌も、きちんと目を通しているわけではありません。私が入会させて頂いたのは、小夜のことがこの島でもときおり話題になるので、そういえばそのことを本土の人に知らせてもいいかな、と思った程度のことでしてね。ですから一度アウトライン的な物を書いたらそれで書くことがなくなりました。向井先生が私が書いたものをさらに詳しく掘り起こしてくれていますから、私にはもう出番がないわけです。会費だけ几帳面に払う幽霊同人みたいなものですな」
 留美子は一度落胆の色を見せたが、すぐに、
「でも、それはもったいないでしょう?」
 と食いさがった。
「小夜の事件がですか?」
「いえ、このような宝物を目の前にしながら、きちんと調べられないのは」
「郷土史が好きな人にはそうかもしれませんが、なにぶん私の目にはただの石の欠片にしかみえないものでしてね。それにあの石碑が小夜を祭ったものだというのは間違いないことですし、実際に島に伝わる話でも、小夜は子供の頃に尊敬されて、みなに崇められていたようですからね」
「崇められた理由とは、どういうことでしょうか」
 山田は立ち止まって留美子を見つめ、皮肉をいった。
「あなたは実にせっかちな人ですね。すぐに結論に飛びつかれる。私ぐらいの年になると、結論よりもその過程を重視しますが、今の若い人は違うのですね」
 留美子は唇をゆがめて、すみません、と謝った。
また元の道にもどり、港に向かって歩きだした。雑木林から蝉の声が激しく降ってくる。
十字路に来て、山田は右側に曲がりながら、
「次は小夜の家でしたね」
 といった。黒い染みのできた顔が柔和にほほ笑んでいる。いいすぎたと後悔しているのかもしれない。
お願いします、という留美子の湿った声は、べそをかいたみたいだった。
 道は未舗装で、小石がたくさん落ちている。農業用の車もめったに通りそうにない山に向かう狭い道だった。ここにも左手に水田がある。十アールほどのものだが、背の低い緑の葉が豊かで目にまぶしい。
 蝉時雨の中をそのまま歩いていると、不思議なことに水田の向こうの日本海が高く見えてきた。大津波が目前に迫る光景に似ている。道がどんどん低くなっているせいだろうが、満潮時に海水が田に雪崩れこんで来ることはないのか、と光彦がきくと、山田はおかしそうに笑った。
「大丈夫です。実際に海が高いわけじゃなく、そう見えるだけの話ですから。もう少し歩けばまた坂道になって、元にもどりますよ。それに自然の防波堤のようなものもありますから、その心配は過去にもなかったですね。ただ潮風がひどくて、昔の品種では稲が枯れることも多かったようです」
 潮気の多い風はやっかいである。稲田が全滅したことも、過去に何度もあったにちがいない。
 そんなことを考えていると、光彦の声が聞こえたかのように山田が懐古談を始めた。
「江戸時代、この島が松前藩の藩領だったというのは、ご存知ですよね。松前藩というのは、江戸三百藩の中で唯一米産を基礎にしない特殊な藩でして、石高の割り当てがなかったのです。それで、いわゆる商本主義を取っていました。農本主義を採用しようにも、蝦夷地はブラキストンラインの北にある寒冷地ですから、農作は無理でした。ですから、藩は税収の基礎になる請負の商人さえ把握しておけば、あとは何が起ころうが誰が殺されようが知ったことじゃない、という方針でしたね。当然、窮屈な決まりで人を縛ることもありませんでした。それは同時に島に飢饉が起きても何の援助もしない、ということでもありましたね。そしてその飢饉がこれまでに何度も起こっているのです。江戸時代には二つありましたし、昭和の代にもありました。飢饉とまでいわなくても食い物が不足するのは毎度のことでした」 
「江戸時代であれば、天明の飢饉と天保の飢饉という、有名なものがありますね」
 留美子が口を挟む。
 山田は少し思案してから、
「天明の飢饉は、確か一七八七年のことでしたか。その頃ここには流民しかいませんでしたね。ご承知と思いますが、元来ここは流刑地でした。最初の罪人が流されたのは、蝦夷地に関心を持っていた田沼意次の時代になりますが、当時の詳しい記録はほとんど残っていません。置き去りにされた罪人たちは、森に棲息していた獣を狩って、ようやく生き延びてきたのではないでしょうか。そのせいか、昔は狼や狐などたくさんの動物がいたはずですのに、今はすべて絶滅してしまいましたね。島の最初の大飢饉は千八百年代になったばかりのことですが、一般の人が入植してようやく黍などの栽培を始めた時期にあたります。そのときは海も連動して妙な荒れ方をしたらしいですね。夏でも寒い日が続き、漁はおろか、舟を出すことさえままならなかった。食べるべき獣はもうほとんどいませんでしたから、飢饉の際には、島民たちは野の草や森の樹木のひこばえなどを食べていたらしいです。同じ寒冷地の東北では、飢饉の際に娘を身売りしたそうですが、大きな飢饉がこの島を襲えば、そんなものではすみません。なんせ娘を売ろうにも函館まで運ぶ足がない。家族で餓死するしかなかったことでしょうね」
 光彦は水田の向こうで静かにたゆたう真っ青な海を見つめながら、確かに本土に渡れなければまともな食べ物のない島では自滅していくしかないだろう、とぞっとした。そうなれば、ひょっとして親が子を食い、子が親を食うこともあったのではないか、とおぞましい想像が湧いた。
 留美子が大きな帽子を傾けて、またも尋ねる。
「江戸時代のもう一つの飢饉はいつのことですか」
「それが小夜の飢饉です。私たち島のものはそう呼んでいます」
 山田が歩きながらぼそりと答える。
 留美子は目を丸くした。
「小夜の飢饉? どの小夜ですか」
「さっき石碑をご覧になった小夜ですよ。一八四〇年のことです。さきほどおっしゃられた天保の飢饉は一八三六年のことで、大阪では大塩平八郎の乱が起こっていますね。その飢饉と何らかの関係があったのかもしれませんが、私にはよくわかりません」
 光彦は訝しい気がした。最初の小夜が幼い時期、この島が凄絶な飢饉に見舞われた。そういう事実があってもおかしくなかろう。しかしそれを小夜の飢饉と呼ぶのはどうしたわけだろう。白老の郷土史家は小夜は潮見の予見ができるといったが、その失敗が飢饉を招いた、というのは違うはずだ。
「小夜はその飢饉のせいで殺されたのですか」
 と留美子がきく。不似合いなほど大きな帽子を被っている留美子の額に汗の玉がいくつもあった。
「そう思います。小夜が一歳になったばかりの秋のことです」
「一歳?」
留美子が鸚鵡返しに問いかけた。
「島ではそう伝わっています」
 山田は平然と答える。 
白老の元教師から、小夜が幼くして殺された事実はすでに聞かされていた。しかしそれが一歳になったばかりとは光彦にも驚きである。虐殺の前に、島民は小夜を称える石碑を建てている。ということは、潮見ができたのはゼロ歳のことになろう。たとえ異能であったとしても、まだ言葉を喋るはずのない赤ん坊が、どうやって予見を伝えることができたのか。
 留美子が必死な表情で尋ねる。
「小夜の年齢は、はっきり史実として残っているのですか」
 留美子の疑問を笑うように、山田は軽くいなした。
「残念ながら、小夜の話はほとんどが伝承です。飢饉の年号だけは松前藩に記録が残っているので正しいと思いますが、小夜の年齢も亡くなった様子も、昔話になって伝わっているだけで、詳細まではわかっていません」
 何だそんなことか、と落胆した。留美子も当惑の表情を隠さない。
「島の昔話では、母親が万年樹の森に捨てられている小夜を発見した、ということになっています」
「いわゆる貴種流離譚ですね」
 留美子がすかさず確認するが、光彦には意味がわからない。桃太郎が桃から生まれかぐや姫が竹の中で見つかった、というようなものだろうか。小夜の話が昔話にすぎないとすればありうることだった。
 山田は留美子を一瞥してから答える。
「その通りです。小夜が特別な存在であるのなら、伝承される話の中で、生まれが普通であってはいけないと考えたわけですね。島で奇異な誕生を想定すれば、森で生まれるか浜辺に打ちあげられるか、その程度しか思いつきません。もちろん生まれだけでなく、亡くなり方も普通であってはいけません。ですから、小夜と母親は美しい羽を持つ鳥になって、島を飛び去ったといわれています。しかしどうして話はそのようにきれいに装飾されたのでしょう。いや、それ以前に、なぜ小夜のことをお伽噺にする必要があったのでしょうか。しかも、わざわざ小夜の名を数ある飢饉の一つに借りている。どう思われますか」
 問われて、留美子は額の汗を手の甲で拭っていった。
「祟りを恐れてですね」
「おそらくそうでしょう。島はそれでなくても暮らし難いのに、そこに小夜の祟りで海や山が荒れたら困りますからね。わざわざ魂鎮めの祭儀をした証拠はありませんし、鎮魂の碑も残されてはいませんが、子供に聞かせる話の中にその事実が隠されているように思うのです。そうであれば、小夜の死は飢饉によるただの死ではない、と読めるのですが、間違っていますか」
「そうなると、島民は飢饉の原因を小夜と考えた。そして襲った、ということになりますか。しかし島の人たちは、どうしてそう考えたのでしょう」
 留美子は暑さのせいもあって眉をひそめながら問い続けるが、その声は力を失っていた。
 山田は考え深そうに説明する。
「これは白老の先生の意見ですがね。小夜の親子は村八分にあっていた、というのはどうでしょう。どこかに飢饉の怒りを向けるとすれば、疎外されていた小夜たちに向けて、生贄にするのが自然ではないかと。いってみれば、母と子は飢饉の腹いせに殺されたというわけですね」
 郷土史家に聞かされたときにも、充分にありうるとは思ったが、引っかかるのはすでに小夜が崇められていた事実との齟齬である。
 留美子は額に皴を寄せたまま、わけのわからない顔をする。
「もう一度確認しますが、それは小夜が一歳になったばかりのことで間違いないですね」
「伝承を信じればそうなります」
「わかりました。話は変わりますが、そのとき小夜の家にもう一人いませんでしたか」
 山田はゆるやかな坂道をのぼりながら、一瞬困った表情をした。
「大量殺人を起こした小夜のことですね」
「はい」
「それはわかりません。いたかもしれないし、いなかったかもしれない」
 山田は言葉を濁す。
「白老の先生は、いたはずだ、とおっしゃっていました。現場からうまく逃亡を図って、それから二十年後に復讐のために舞いもどって来たのではないかと」
「そうなら、きっといたのでしょうね」
「山田さんは、そう思われませんか」
「私には何とも。なにぶんにも遠い昔の話ですから」
山田の口調が急に曖昧になる。光彦は、山田が何か隠しているような印象を持ったが、むろんその何かはわからない。
 留美子は諦めたのか、話の矛先を変えた。
「じゃあ、二番目の無差別殺人もきれいな話として伝わっているのですか」
 山田は、肩をすくめて、
「そっちのほうは、逆にリアルですね。私が同人誌にアウトラインを書いたとおりで、伝承も特別二番目の小夜をかばう話の作りになってはおりません。そのまま鬼か悪魔の物語でした。というのも、こちらは当時のお寺の住職がいろいろ書きとめているからですな」
 留美子は腑に落ちない顔つきをしている。
坂が終わって栗の木などが青葉を広げる雑木林が眼前に現れたとき、山田が右手前方を指さした。
「そこですよ。そこが小夜の家があった場所です」
 雑木林の手前に家一軒が建つほどの跡地がある。神社跡と同じでただの草地。小夜の家がどのような形を取っていたか知らないが、残骸さえ残されていないし、跡地を耕して畑にしようとした形跡もない。三方には畑が作られているのに、である。
「ここは登記上は誰のものでもないのです。今は一応島の出張所が管理していますが、気味悪く思うのか、買い取って畑にしようとする者はいません。仮に本土の役場がくれるといっても、私も遠慮しますがね」
 光彦と留美子は草地に踏みこんだが、山田は道端にしゃがみこんで入って来ない。ここも茎の長い蕗が、傘代わりになりそうな葉をあちこちで広げている。笹竹も地に根を張って、歩けば靴に引っかかる。葉を払ったり折ったりして地面を覗くが、黒土があるだけで変わった点は何もない。江戸時代に建てられた茅葺家屋の残骸が、今も残ると決めつけるほうがおかしいだろう。
 光彦はそのまま草間に立って留美子を見つめていた。煙草を吸う習慣があれば、一服したにちがいない。
留美子は体を屈めて、狭い跡地の探索に倦まない。何がそこまで駆り立てるのか、と不思議な気がしたが、目に入る白いシャツに汗が滲んで、背中のブラジャーの所在さえはっきりうかがえた。
 黄色い蝶が二羽、目の前をうるさく飛ぶ。雑木林で蝉の声が急ににぎやかになった気がした。
 すると突然留美子が背筋を伸ばして、光彦を見つめた。
「ちょっと、ここ見てもらえないですか」
 うなずいて、草を払うようにして近づく。
 そばに寄ると、留美子は長い蕗を根っこから抜いて、ぼこぼこと穴の開いた地面を指さした。
「ここだけ土質が違っていません?」
 光彦が中腰になって確認したが、土は湿り気を帯びてくろずんでおり、見た目は周りと何も変わらない。しかし手に取ればごつごつと固い。なんだこれは、と思って、靴の先でほじってみた。芥子粒みたいな黒い塊が跳ね飛ぶ。
「これ、土じゃない。砂利だよ。きっと浜から運んで来たんだ」
 光彦はまわりの雑草を引きぬいて、砂利が敷かれた部分の広さを確かめてみた。目測では二メートル四方が砂利の部分に当たる。明らかに何かを埋めた跡。
「何だろうな」
 と奇妙に思いながらしゃがんで指を差し入れようとしたが、砂利はぎっしり詰まってわずかの隙間もない。
 留美子は立ちあがって、遠い昔に小夜の家があったという敷地内に目をやった。
 そのとき正面の雑木林から、雑草を激しく揺らして突風が来た。留美子のソンブレロに似た帽子がふわりと空に浮かんで離れた草むらに落ちた。留美子は突っ立っているだけで拾いに行く様子がないから、光彦は仕方なく立ちあがり、蕗の葉を蔽っている帽子に向かって草間をゆっくり漕いで行った。
 白い帽子を手に取って、ふと空を見あげる。膨大な量の煙が青空を隠すように川となって流れていた。驚いて白い煙の尾を目で辿ると、森の方角からたなびいて来るのがわかる。森が火事になっているのだろうか。
 不審な思いのまま振り返ると、留美子が硬直したように雑草の中に立ち、低い声で念仏のように何かつぶやいていた。目は弓のように釣りあがり、口から光るものを一筋垂らしている。
心臓が早鐘のように打ち始めた。あわてて走り寄り、汗に濡れた背中を撫でて大声で呼びかけた。
「先生、どうしたんですか」
 草間に倒れることはなかったが、留美子はいつかの真紀に似て、軽い発作に襲われたように震えていた。留美子に引きつけの持病があるはずはない。そんな病歴があれば、採用時に何度も繰り返される健康診断を潜り抜けて教諭になれるわけはない。
 背中と肩に手を当てて不安げに見つめていると、留美子は小さく震えながら、崩れるように光彦の胸に飛びこんできた。とっさのことで狼狽しながらも、しっかり腕にかかえて両手で支えた。シャツが涎で濡れるのがわかる。光彦は助けを求めて、道端にしゃがんでいる山田に顔を向けたが、山田は平然とこちらを見ているだけで、表情に驚きの色はない。むしろ染みの多い顔には失望が漂っているようにみえた。
奇妙な思いのまま震える留美子を抱いていた。留美子は息を荒くして何かわけのわからないことをつぶやいていたが、徐々に震えはおさまり、ややあって青ざめた顔をあげた。釣りあがった目もとがいつもの切れ長にもどっている。弛んでいた口もきちんと閉じられていた。
長い髪を揺らして留美子は体を離し、うつむいた。 
「ごめんなさい」
 恥ずかしそうな声を出した。
帽子を渡しながら、
「どうしたんだよ、急に」
 努めて冗談めかしてきいたが、留美子はにこりともしない。
「何でもないです。こんなこと初めてですが、本当に何でもないです」
海風が激しくなったのか、汗まみれの背中が冷えてくるのを感じながら、光彦は色のもどらない留美子の顔を注視していた。
留美子が道に向かって雑草を掻き分けて進む。砂利にはもう何の関心もないように、前方に首を垂れている。さっきまでの留美子とは明らかに異なっていた。小夜と母親はきれいな鳥になって翼を広げて島から飛んで行ったというが、留美子は小夜の家の跡地で、今、別の何かに変身したようにみえた。
光彦も倣って道に向かったが、焦っていたせいで笹竹に足を取られて一度転びそうになった。
 ようやく道に立つと、山田が静かな声でいった。
「もうここはいいですね。森はどうします?」
「森は結構です。もどりましょう」
 留美子が答える。
 どうして森に行くことをやめたのか理解できない光彦を無視して、山田を先頭に歩き始めた。
海風がさらに激しく吹いて、潮が肌にべたつくようである。あとを追いながら、光彦は大きく開けていたシャツの胸元のボタンを閉じて空を見あげた。さっき目にした異様な煙の流れは跡形もなかった。
しばらく歩いて、海が田んぼより高く見える場所に出たとき、山田が初めて留美子に顔を向けた。そして重い声でいった。
「やはり、あなたも島の歴史や暮らしぶりには、興味なんかなかったんですね」
 留美子は覚悟していたように、唇を噛んだままうなずいた。当惑しているのは、光彦である。
 山田が冷笑するように続けた。
「あなたも私と同じだ。今さら島の過去をほじくり返しても仕方ないと考えている。あなたはきっと、私が五年前に書いた論文を読んで、それで雑誌の同人になられたのでしょうね」
 留美子が再びうなずく。
 それを見て、山田のこわばりが急に解けたように思えた。
「これまでにも、私を訪ねて来た人は何人もいました。誰もが、流刑者と入植者が混ざり合った江戸末期の生活状況を調べたい、といわれた。しかしほとんどの人が、生活状況とはいっても小夜の事件にしか関心がなかった。あなたを見て、こんな若い人が本当にそんな昔のことに興味があるのか、と最初から不思議な気がしていましたが、やはり来られたのは個人的な理由だったのですね。島の置かれた状況などいろいろ話したのですが、質問を返されることはなかった」
 留美子は帽子を取って頭をさげた。
「申し訳ありませんでした。山田さんを騙すつもりはなかったのですが」
「別にかまいませんよ。ただ一つだけいっておきますが、白老の先生のように真剣に歴史として研究される場合は別として、ただの個人的関心だけでしたら、あの事件はあまりつついてほしくないのです。島にとっても、決して愉快なことではないですからね。それに私たちは、事件に関与した島民の子孫なのですよ。先祖が小夜を殺した、あるいは小夜に殺された、なんて話は正直うれしくないのです」
「それはよくわかっております。本当にすみませんでした」
 山田は難しい顔をして、しばらく黙って歩いた。
十字路に出たとき、山田はそのまま港の方角に曲がった。時間があればお茶でも飲んでいけ、といったはずなのに、家に誘う様子はどこにもなかった。
新築の家々に沿って歩きながら、山田がまたぽつりという。
「あなたもやはり、あの場所では具合が悪くなるのですか」
 留美子が眉をぴくりと動かす。
「以前来られた人もそうだったのですか」
「何人か同じような状態になられましたよ。あなたよりずっと症状がひどくて、そのまま動けなくなった人もいましたね」
「そうですか。私はまだよくわからないのです。傍系にいるようなので」
 山田はちらりと気の毒そうな視線を投げて、
「そのほうがいいですよ。関わることないです」
 困惑している光彦を無視して、二人は次元の異なる会話を続けている。最初に小夜の事件を雑誌で報告したときには疎かったとしても、今の山田は、おそらくかなりのことを把握しているのだろう。それが陰惨なものであるから続きを書こうとしないのだ。そんな確信が強くなった。
 留美子が思い詰めたようにきく。
「一つだけ教えてください」
「何でしょう」
「あそこは、いつ埋められたのですか」
「はっきりとはわかりませんが、二番目が本土からもどったときにはすでに埋められていたと思いますよ。誰も寄りつかない場所だったのですが、三年前に気にする人がいましてね。どうも土質が違うようだというので、私が呼び出されて掘ってみたのです。すると、浜砂利を埋めたものとわかりました。十メートルほどの深さがありましたかね。役場の意向で、そのまま埋め直しました」
「それは山田さんが石碑を発見された翌年のことになりますね」
「そうなります。……こんなところでいいですか」
 まだもの問いたげな留美子を制するように、山田は唐突に話を打ち切った。
 留美子は諦めて礼を述べた。
 港に出る。鴎が群れなして飛びながら、奇妙な声で啼いている。光が力を落したせいか、海は鈍色にみえた。
山田が一度腕時計に細めた目を向けてからいった。
「まだ一時間ほどありますが、私はこれで失礼したいと思います」
 光彦はまたも呆気に取られた。留美子は帽子を取って深く頭をさげ、感謝の言葉を述べる。同じように謝意を送ると、山田は一瞬鋭い視線で光彦を射抜いた。しかし次の瞬間、柔和な笑顔を取りもどし、
「帰りのフェリーの旅、楽しんでください。それでは」
と背中を向け、静かに離れて行った。
 光彦は、桟橋のそばに設置されたフェリー待合室の長椅子に留美子を誘った。待合室といっても、バス停と変わらない掘っ立て小屋のような代物。発着表の掲示板の下に、煙草の吸殻がたくさん落ちている。切符は船内で買うから、陽射しさえ避けることができれば、それで充分なのだろう。
「結局、ぼくにはよくわからないのだけど、何の話をしてたの?」
「たいしたことじゃないから、いいんです」
「そうか。じゃあ、小夜の家にあった砂利は何を埋めたものなの? わかった?」
 留美子はわずかのためらいを見せてから答えた。
「井戸だったと思います。水のない枯れ井戸ですけど」
「枯れ井戸?」
「深く掘っても水脈にあたらなくて、放りだされていたようですね。その井戸を埋めたのだと思います」
 砂に海水を通すことによって真水を採る方法は当時も知られていただろうが、井戸があれば話はもっと簡単になる。しかし枯れ井戸では仕方ない。だが、その井戸をわざわざ砂利を運んで埋めた理由とは何だろう。
「井戸って見たことないけど、さっき山田さんは十メートルの深さっていってたよね。当然たくさんの砂利が必要になる。どうしてそんな面倒なことをしたんだろう」
 留美子が口ごもりながらいう。
「島の人たちが、最初の幼い小夜さん、それにお母さんの二人を殺してあの井戸に簀巻きにして投げこんだのです。そのままにしておけるわけないでしょう?」
「井戸に投げこんだ?」
 唖然とした顔を向けた。
「はい。飢饉の年のことです」
「じゃあ、二人は確実に殺されたわけだ。山田さんは、鳥になって飛び立ったとか、どこか奥歯に物がはさまったいい方をしていたけど。でも、どうして先生にそんなことがわかったの? 山田さんに尋ねたわけじゃないのに」
「私、おかしくなったときがあったでしょう? あのとき聞こえたのです。小夜さんの声が。井戸の底から届く、いかにも子供らしい小さな声が」
 光彦は、留美子をまじまじと見つめた。夢の話につき合わされているのかと憮然としたが、穏やかに尋ねた。
「その小夜は何ていったの?」
「私が今話したようなことです」
「でもさ、殺された小夜は一歳になったばかりだよね。どうして喋れるのさ」
「言葉としてはっきり聞こえたわけではないのですが、私は感じました。まるで耳元で囁かれているみたいに。小夜さんは、確かにあの井戸の底にいました」
「からかっているんだろう?」
「そんなことありません」
 留美子はきっぱりいい切った。
 ふと真紀がうなされて洩らした言葉を思い出した。暗くて寒い場所。光彦はそれを戯れに墓の中といったが、ひょっとしたらあの井戸の底のことなのか。とすれば、真紀は幼い小夜の不安と恐怖を夢で感じていたことになる。真紀は小夜の生まれ変わりなのか。
 そのことをきくと、留美子は力強く首を振った。
「生まれ変わりじゃありません。真紀ちゃんは真紀ちゃんです」
しかし留美子はどうしてそれほど確信を持って断言できるのか。島に来る前と違って、今の留美子はまるで別の人格である。小夜に関して、光彦が想像する以上のことを知っているように思えた。しかも小夜と呼び棄てにしないで、小夜さんと呼んでいるのもおかしなことだ。妻の朋美と同じである。
留美子は顔をあげて、待合室から見える薄っすらと青い空を気持ちよさそうに仰いだ。その横顔がきれいに見える。
やはりそうなんだ、と光彦は思い、一度声を整えてから静かにきいた。
「先生、ちょっとクイズ出していい?」
「こんなときにクイズですか」
「うん。簡単なやつ」
「いいですよ。何でしょう」
「あのね、『日本霊異記』の中巻の四十一段には何が書かれている?」
 おかしな問いに、留美子は初めてほほ笑みを見せた。
「何ですか、それ。『日本霊異記』って、聞いたことないですよ」
 心に失望が走る。違うのか。
「じゃあさ、もう一つ。数学の問題。円周率の小数点以下三十桁先は何?」
 留美子はますますおかしそうに笑って、
「九じゃないですか」
 すらっと答えて、
「母が数学の教員でしたから、私もそういうのはわかるんです」
 と補足した。
 光彦の背筋が思わず震えた。円周率の記憶があるからといって、留美子を真紀や朋美の仲間と思うのは早計である。そんなやつはたくさんいるだろう。しかし井戸のそばで小夜の声が聞こえる者は、そうはいない。やはり留美子も一族の一人なのか。だからこそ、真紀のこととなると必要以上に必死になるのか。
 それにしても、留美子は他の者たちと大きく異なっている。笑顔は涼しげだし、懐かしそうに笑う。今のようにきれいに見える瞬間もある。しかし真紀や朋美のような恐ろしいほどの美しさはないし、体格もいかつい。先ほど山田に、自分は傍系、といった言葉がひっかかる。それは一族の傍系ということなのか。だから留美子だけ外見が異なるのか。そうなると、一族とはどのような者たちの集まりなのだろう。
混乱していた。留美子が手に持つソンブレロに似た白い帽子が、目を洗うように清々しくて、それがかえって光彦の気持ちを落ち着かないものに変えていた。
 
 函館から国道を北上し途中から高速道路に乗って飛ばしてきたが、札幌のインターチェンジを降りたときには、蔽い被さるような西日はすっぽり消えて、手稲山の雪の残る北壁がほの白い顔となって月明かりの中に浮かんでいた。
 カーオーディオでスメタナを聞きながら、ほとんど沈黙を通していた留美子を送り、それからハンドルを逆方向に切って、家のある屯田地区に向かった。街路灯が霞んだようにみえる。
 車をとめてチャイムを押すと、朋美ではなく、真紀が爽やかな顔で玄関に顔を出した。
「奥さんは?」
 腰をおろして靴を脱ぎながらきくと、
「病院」
 と、答えた。
「産まれるのか!」
 反射的に立ちあがったが、真紀の、妙な笑顔はその可能性を否定していた。
「よくわからないけど、きっと流産かも」
 思わず体が震えた。
「朋美さん、階段から落ちたの。二階に物を取りに行ったときに。お腹が大きいから足元がよく見えなかったみたい」
 光彦は真紀の両肩を揺さぶった。
「何時頃、落ちたんだ」
「お昼前。すぐに連絡したかったけど、どこに電話していいかわからなかったから」
 井戸を見ていた時刻である。
「すぐに救急車を呼んだのか」
「うん。私が電話した。一緒に行きたかったけど、救急隊の人に、子供はだめっていわれたの」
「運ばれた病院わかるか」
「あとで電話が来たよ。仁愛会病院だって。知ってる?」
 通勤の途中で朝夕その病院の看板を見ている。十分とかからない。あわててもう一度しゃがんで靴を履き直しながら、背中越しに振り向いた。
「ちょっと行ってくる。真紀はここで待っていなさい」
一緒に行きたがるかと思ったら、わかった、と素直に留守番を引き受けた。
光彦は立ちあがって、玄関ドアを開けた。
「中からきちんと鍵をかけておくんだよ。誰が来ても開けるんじゃないよ。いいね」
「うん。私、留守番しながらお料理作って待っているね」
 ふいに真紀の声が、そのまま体にしがみついてきそうなほど悲しいものに聞こえた。光彦は振り切るように車に飛び乗った。
 アクセルを踏みながら気ばかり焦った。暗い中に鮮明に浮かぶ信号灯の一つ一つが煩わしく、信号待ちの間、指先でハンドルをせわしなく叩いた。
 流産? そんなことがあってたまるか、と思う。芽衣の誕生を楽しみにして、二人がどれほど頑張ってきたか。
朋美の悪阻は長引いたから、その間もちろん料理はできなかったし、元からさせるつもりもなく、包丁を握ったのは光彦だった。悪阻はかなりひどく、口に入れたとたんにもどしてしまう。それでも朋美は嘔吐用の洗面器をテーブルに置いて、懸命に料理を口に詰めこんだ。わずかな時間でも胃にあれば栄養になる、というのだ。最悪だった一週間、口にできたのはグレープフルーツの汁だけだった。
 そこまでして大きくした芽衣である。これで流産などされた日には、朋美の精神がどうなるかわかったものではない。とはいえ妊娠七ヶ月。うまくすれば早産ということで、すでに産声をあげているかもしれない。せめてそう願いたいと思った。
 八階建ての仁愛会病院に着くと、車を駐車場に入れて、天井灯の多くが消されてがらんと洞窟のようにみえる待合室のロビーに慌ただしく走りこんだ。受付に紺色のカーディガンを羽織った女事務員が一人いて、コンピューターに向かっていた。名前を告げて朋美のことをきくと、産科のナースステーション内部のICUにいると教えられた。
 エレベーターを待たずに階段を駆けあがる。三階で息が切れたが、それでも軟弱な脚を叱りつけながら必死でのぼった。
 六階に出る。ナースステーションはすぐにわかった。飛びこんで名前を告げるより先に、声がかかった。
「来てくれたの?」 
 あわてて視線を向けると、隅のベッドに朋美がいてほほ笑んでいた。
 光彦は息を切らしてそばに寄り、椅子に座った。点滴が一本右手の甲に突き突き刺さっているだけで、他に特別な処置は施されていないようだ。わけのわからない医療機器もない。顔色も蒼白いことは蒼白いが、想像していたよりずっと元気そうにみえる。朋美の手を取った。
「大丈夫か」
「心配ないみたい。芽衣も無事だったよ」
「生まれたのか」
「ばかねえ。まだいるわよ。触っていいよ。元気に動いてるから」
 そういって、光彦の手を取って下腹に当てた。指の向こうで芽衣が暴れている。手触りは意外に固くごつごつしている。
ほっとしたら、急に気が緩んで背中に汗が噴きだした。
「受付でICUって聞いたから、よほどひどいのかとびっくりしたよ」
「急患だから部屋がなかっただけ。明日は大部屋に移れると思うけどね」
「階段から落ちたって聞いたから、骨でも折ったんじゃないかと焦ったぞ」
 朋美は声を殺して笑い、
「私は特異体質だって話したじゃない。あんなので骨が折れたり、打ち身なんかできるわけないわよ。ここの六階から落ちたら、いくら私でもどうしようもないけどね。でも、芽衣はまだ小さいから心配したわ」
光彦は、朋美の耳元に顔を近づけて囁いた。
「新人類の奥さんでよかったよ」
 朋美がほほ笑む。
そのとき、女医が看護師と現れた。五十代と思える女医は、オペラ歌手のように太っている。
 立ちあがって挨拶すると、看護師の持つカルテを受け取って、簡単な説明をした。
「ご心配いりませんよ。運ばれたときは出血がひどかったので、帝王切開の必要があるかと心配しましたが、胎盤もしっかりしていて大丈夫でした。出血もすぐにおさまりましたし、エコーで確認しましたが、赤ちゃんも無事でしたよ。お母さんは普段から食生活などきちんとされているのかな。丈夫な体なんですね」
 太っているのに声がソプラノだから、間近で喋られると耳に痛い。
「流産と聞いてあわてましたが、たいしたことなくて安心しました」
 女医がかすかに笑う。
「もう七ヶ月ですからね、こういうの、流産とはいいません。すでに早産の時期で、医学的には切迫早産と呼んでいます。体には異状を認めませんでしたが、しばらくは入院して安静にされるのがよいでしょうね。通常の分娩で大丈夫だと思いますよ」
 光彦は頭をさげた。何度さげてもさげ足りない気がした。
 女医が看護師たちに別の患者の指示を始めたので、椅子に座り直し、朋美の手を取って声をひそめた。
「家のことは心配しなくていいから、ゆっくり休めよな」
 朋美は黙って光彦を見つめる。
「そうしたいけど、ここでは眠れないと思う。お産って朝方が多いでしょう。ここ二時か三時になると、きっとざわついてくると思うわ」
「じゃあ、早く病室に移れることを願うだけだな」
 朋美はそれには答えず、大きな目でしばらく光彦を見つめいた。
「ねえ、カモメ島、どうだった? 小夜さんのこと、調べに行ったんでしょう?」
 朋美の言葉に内心狼狽する。光彦はあわてて朋美の唇に指をあててシッと制した。朋美は大丈夫としても、カモメ島に行くと話しただけで芽衣が大暴れしたのは昨夜のことだ。胎児にすぎない芽衣が言葉を理解できるか半信半疑だったが、いずれであっても無闇に島のことを聞かせる必要はない。
 しかし朋美は、光彦の狼狽をよそに片唇を持ちあげた。
「今、眠ったから大丈夫よ」
 そうはいっても、看護師たちがばたばたしている詰所でする話題ではない。光彦は曖昧に答えた。
「うん。いろいろな。あとで教えるよ」
「いろいろって、どんなこと?」
 その目が真剣である。
「おまえのほうが、よく知ってるじゃないか」
「いったじゃない。私は落ちこぼれって。小夜さんって、島ではどう思われていたの?」
 朋美は異常殺人者の二番目のことを尋ねているが、光彦は少し迷って故意に最初の小夜のことを告げた。芽衣が聞いている場合を想定してのことである。
「小さい頃、島の人に称えられていたみたいだった」
「どうして?」
「よくわからない。でも、島に飢饉があったときに、お母さんと鳥になってどこかに飛んで行ったらしいよ」
「鳥に?」
「うん。きれいな羽を持つ鳥だってさ」
 朋美は瞼を閉じる。美しい顔立ちが血の気を失って、黒髪の中でかえって怖いほどの陰影を作る。朋美に鮮やかな羽が生えて、ナースステーションの窓からゆったり羽ばたいてどこかに飛んで行っても、ちっともおかしくない気がした。あんな不細工な恐竜が始祖鳥になるのなら、これほどきれいな朋美が空飛ぶ鳥になれないはずはないのだ。そんな想像が光彦の脳裏に鮮明な影を落とした。
 ふいに真紀を家に残して来たことをが心配になって、顔を近づけて、
「安心したから、今夜は帰るよ。真紀が留守番してるから」
「真紀ちゃん、家に帰らなかったんだ」
「だって連絡してないだろう」
「自分でできるじゃない。子供じゃないんだから」
「子供だよ、まだ」
 朋美が色褪せた唇を噛む。
「あなた、真紀ちゃんには気をつけてね」
「気をつけるって?」
「あの子はとても危険な子よ」
 光彦はぼんやり朋美を見つめる。意味がわからない。
「あなたが想像している以上に危険な子」
「よくわからないけど、少し大げさじゃないのか」
「そんなことない」
 光彦は当惑して朋美をじっと見つめた。いつもながら底深く澄んだ瞳にずるずる引きずりこまれそうな気がする。
「結婚して、もう一年になるよね」
 何をいいだすのかと、光彦は重くうなずく。
「じゃあ、私が不注意かどうかわかってるよね」
 朋美は神経質なほど警戒心が強く、ときには辟易することさえあった。
「ねえ、私が階段を踏み外して落ちるような、そんなそそっかしい女にみえる?」
 朋美の目指す先を見つけて、光彦は驚嘆のあまり、一瞬体が硬直した。
「おまえ、何をいってるんだ。そんなわけないだろう」
 朋美は、顔を背ける。
「あの子は、お腹の芽衣を憎んでいるのよ」
 朋美の抑えた声は、首筋にあてられた刃のように感じられた。光彦は狼狽して、思わず声を高くした。
「どうして芽衣を憎むんだよ。理由がないだろう」
 看護師に指示を与えていた女医の声がぽつんと途切れた。
 光彦は振り向いて頭をさげ、それから朋美に顔を近づけて耳もとで囁いた。
「全然話がわからないよ。きちんと説明してくれないか」
 朋美は顔を背けたまま、くぐもった声を出す。
「ここではだめ。明日にでも病室に移ったら話すね」
「わかった。明日また来るよ。何かほしい物あるか」
 朋美が風に払われたようにほほ笑んだ。
「来るとき、化粧棚からいつも使っている化粧品を適当に持って来てくれる?」
「うん、わかった。今夜よく眠れるといいな」
 光彦は、一度朋美の頬に手をあててから心残りのまま立ちあがった。挨拶しようと思ったが、女医は背中を向けていた。

 リビングに入ると、真紀がキッチンに立って何か作っていた。
「お帰りなさい。どっかで食べて来なかったよね」
「そんな暇なかった。お腹ぺこぺこだよ」
光彦が頬を緊張させて答える。
「よかった。先生の好きなマカロニ・グラタン作ってるの。っていうか、私風の野菜グラタンみたいになっちゃったけどさ。エビとかは入れてないけど、チーズはいいんだよね」
「いいけど、グラタンが好きだって、うちの奥さんから聞いたのか」
「うん。子供みたいだって、笑ってたよ」
「あのとろっとした味が好きなんだ」
 アホロートルに指先ほどの赤虫をやってキッチンに行くと、真紀は丸椅子に乗ってマカロニを茹でていた。椅子がないと届かないのだ。
「危ないな。気をつけろよ」
「大丈夫。家でもこうやってるから」
 シンクにはジャガイモの皮やタマネギの皮があり、ジャガイモはきれいに剥かれていた。昨日今日料理を覚えたわけではないとわかる。
真紀は浮き浮きと菜箸を使っている。まるで朋美の入院など最初からなかったかのように、病状について何もきいてこない。いくら小学三年生でも非常識である。それともすでに結果を知っているのか。
「グラタン皿ある?」
 光彦は食器棚から二つ取り出して、水道水で洗った。
「あとは私やるから、そこのテーブルに座っていて。美味しいこと請け合いよ」
 大人みたいなことをいいながら、マカロニの水を切った。
光彦はダイニングの椅子に座る。キッチンに立って、いかにも楽しそうにホワイトソースやパン粉などを入れる真紀を真正面に見据えていると、朋美が不安そうにいった言葉が妄想に思えてくる。真紀には憎悪の影すらうかがえないし、まして二階の階段で朋美の背中を押す悪意が潜伏しているとは、想像できないことだった。朋美の思いは杞憂の類ではないのか。そう納得させる何かが目の前の幼い体から漂ってくる。しかし真紀はまだ朋美の安否を尋ねない。
「先生、オーブンからお皿を取り出してくれない?」
 真紀の笑顔に答えて、光彦は尻軽に立ちあがる。布巾を手にグラタン皿を二つ取り出し、真紀が用意した花柄の盆に乗せた。どこから探してきたのか、普段使ったことのないものだ。真紀はその盆を両手で持って、ダイニングのテーブルに運んだ。誇らしげな表情だ。
「おいしそうだな」
 座って褒めると、真紀は朋美のように向かい合わせの椅子に腰をおろして、スプーンを手に取った。
「召しあがれ」
 不似合いな物言いに噴き出しそうになったが、光彦はよろこんで一口食べた。
「美味いよ」
 真紀は相好を崩して、声を立てて笑った。その笑いが耳につく。以前から気づいていたが、真紀が笑うと近所のおばさんのように下品に聞こえて、人形のような顔といかにも不釣合いだ。
「何でも上手なんだな。家庭科の先生も褒めてたぞ。料理だけじゃなく縫い物も上手にできるって。それに難しいことをたくさん知っている不思議な子だって」
 と水を向けてみた。
真紀はおいしそうに食べながら、肩をちょっとすぼめただけで話に乗ってこない。
「芽衣も小学生になったら、真紀みたいにグラタン作ってくれるかな」
 真紀が顔をあげた。初めて怪訝な表情をみせる。
「赤ちゃん、大丈夫だったの?」
「うん。問題なかった」
 真紀は何もいわず光彦を凝視する。瞳孔が開いて暗い目になる。その瞳孔の奥に何が潜んでいるのだろうか。
 真紀が小声でいった。
「そうなの。でも、本当は産まれてこないほうがいいのにね」
 光彦は、残酷さを底に沈めたいかにも無邪気な口調にざわりとして、強張った顔を向けた。
「そんなこというもんじゃないよ。先生は芽衣が産まれるの、とっても楽しみにしてるんだから」
「私、産まれて楽しかったのは、パパが生きてたときだけ。それからは、何も楽しいことなかったな」
「お父さんのこと、覚えているのか」
「うん。いっぱい覚えてるよ。いつもかわいがってくれたし、抱いてくれたし、私、笑ってばかりいた」
 これも妄想だろうか、と疑った。真紀の父親が亡くなったのは、一歳になる前と聞いた。その時期の記憶が残ることなど、普通ありえない。
 真紀が顔一面に笑顔の花を咲かせた。
「私のパパね。とっても悪かったんだよ、若いとき」
「悪いって?」
「突っ張っていたの。そしたらね、暴走族の親分にリンチを受けちゃった。だってね、パパ、ちょっとばかだったから、わかっていて親分の彼女に手を出したのさ。それで川原に引きずりだされたの。子分たちがたくさんいてね、すごかったよ。パパね、殺されると思ったんだ。でも、しがみつかれたときに、頑張って親分の耳を齧り取ったの。血が口に入って、とても美味しかったって」
 母親から聞いたのだろうか。しかし由紀江はこのようなことを話す愚かな母にはみえないし、もちろん厳格な祖母が口にしたとも思えない。
「もちろん、パパね、そのあとで見ていた子分たちにぼろぼろにされちゃった。肋骨は折れて痛いし、脾臓は腫れるし、肝臓だって、お医者さんの話では皮が破れる寸前だったんだって。皮が破れてたら、死んじゃうところだった」
「真紀?」
「何?」
「そんな話、誰から聞いた?」
 逆に真紀が妙な顔をして、光彦を見つめた。
「パパに決まってるじゃない。ママやおばあちゃんが話すわけないよ」
「でも、お父さんは真紀が一歳になる前に亡くなったんだろう」
「そう」
「そしたら覚えてるはずないよ」
 また暗い顔をした。
「先生は私が勝手に話を作っていると思っているんでしょ?」
「そういうわけじゃないけど」
 当惑して口ごもると、真紀が追い討ちをかけるようにいった。
「私のパパね。ここにいるの。だからわかるの」
 小さな手で頭を指さした。
「ママもいるよ。おばあちゃんもいる」
 狂ったのか、と光彦の胸に怯えが走る。
 すると、真紀がにやりと笑った。
「みんなが小夜さんと呼んでいる人もいるよ、ここに」
「どの小夜だ」
「二人の小夜さん」
「二人? 三人じゃないのか」
 真紀は不思議そうに首を横に振った。
「いるのは二人だけ。一人は私の大好きな小夜さん。もう一人は大嫌いな小夜さん。大嫌いな小夜さんはいつも夢に出てきて、私の心を独り占めにしようとするの」
 体が勝手に身震いした。
「私だけじゃないよ。朋美さんの頭にも、朋美さんのママがいる。朋美さんのママのママも、そのママもいるよ。でもね、パパがいるのは私だけ」
 光彦は強く制した。
「真紀、そんなおかしな話はやめろ」
 真紀はまた悲しそうな、陰気な目つきをした。
「やっぱり信じてくれないんだね。これ、本当はいってはいけないことなの。でも、先生だけはいいと思った」
「どうしていいんだ」
「だって、いつもやさしくしてくれるから。それに朋美さんのだんなさんだから」
 いっていることはわかる。自分は祖母のいう「一族」と結婚した男で、仲間のようなものと考えられているのだろう。
「それにね。私、先生が悲しむの見たくない」
「どうして先生が悲しまなくちゃならないんだ」
 しばらく沈黙した。
「芽衣ちゃんのこと」
「芽衣がどうした?」
 真紀はきれいな顔の中でふいに目だけをぎらつかせてぼそりといった。
「芽衣ちゃんが生まれたら、先生はきっと悲しむ。だから生まれないほうがいいと思ったの」
「芽衣が生まれるの、楽しみにしてるって、いわなかったか」
「先生は知らないのよ、芽衣ちゃんのこと。芽衣ちゃんは、私の妹と同じ」
「年子の妹か」
「そう。あの子と同じで、先生が思っているような赤ちゃんじゃないの。芽衣ちゃんの中には、今は小夜さんしかいない。それも大嫌いな小夜さんしか」
 心がじわりと冷えてくるのがわかる。真紀の家に最初に家庭訪問したとき、母親の由紀江は、妹は一歳になる前に亡くなった、と告げた。病院に運んだが間に合わなかった、と自分を責めていた。しかし死亡の理由は洩らさなかったし、光彦もあえてきくことはなかったが、ひょっとしたら妹もまた真紀によって死の世界に追いやられたのか。きちんと理解できないながらも、真紀の言葉には凍りつくような説得力があった。
「まだ生まれてもいないのに、どうして、芽衣の、そんなことがわかるんだ」
「いつか朋美さんがうちに遊びに来たことがあったでしょう。あのとき、私、芽衣ちゃんとお話したの」
 帰宅したときに朋美が陰鬱にテーブルに座っていた日のことだろう。あの日真紀のマンションを訪ねて何かあったと確信していたが、その何かを朋美が口にすることはなかった。
「それで、芽衣ちゃんがどんな子かわかったの。でも間違ってたら困るから、今日のお昼にも朋美さんのお腹に顔をくっつけてね、芽衣ちゃんとお話した。だから芽衣ちゃんは生まれてこないほうが、先生も朋美さんもよろこぶと思ったの」
 朋美の腹に手をやったときの感触を思い出す。はちきれそうな腹の中で芽衣は暴れていた。落ち着きのない暴れ方だったが、見方によっては凶暴な動きともとれる。そう考えれば、真紀のいうこともまんざら妄想とはいえないかもしれない。しかし、どうであってもただの赤ん坊だ。真紀が心配することはないし、そのためであっても朋美を階段から突き落として切迫早産などという危険な状態を作りだすことはない。断じて許されることではないのだ。
 真紀が細い首を突き出して、心配そうにいう。
「先生、芽衣ちゃんが危険なのはね、嫌いな小夜さんの思いを引き継いでいるから」
「生まれ変わりか」
 光彦は、いつか留美子のいった言葉を繰り返した。
 真紀がかぶりを振る。
「ただ思いを引き継いでいるだけ」
 光彦には理解できなかった。生まれ変わりなら、たとえ荒唐無稽であってもイメージできないわけではない。しかし、思いを引き継ぐとはどういうことなのか。鉈で島民を虐殺した二番目の小夜の怨念が、子から子へ伝わっているということか。しかし、ありうることではない。二番目の小夜の腹にいた子は、殺されて、一緒に土中に埋められたのだ。
「思いを引き継ぐって、子供がいないのにどうやって引き継げるんだ? 小夜が島に来る前にすでにいたとしても、その子は母親である小夜の無念の最期を知らないだろう」
「そうじゃない。小夜さんには、最初からお腹の赤ちゃんしかいないの」
 混乱した。
「真紀のいうこと、さっぱりわからないぞ。一緒に埋められたんじゃないのか」
 真紀はうなずく。
「そしたら、当然死んでるだろう? なのにどうして引き継げるんだ」
「小夜さんの赤ちゃんね、死んではいないよ」
真紀の言葉は、光彦をぞっとさせた。
「その小夜が殺されるときに無事に産まれて、島の誰かに育てられたっていうのか」
 いいながら、白老の郷土史家のレポートを思い出した。しかし真紀はまるでその場にいたようにすらすら答える。
「そんなことしたら、その人も大変な目にあうじゃない」
 話の論理として間違っているわけではなかった。
「じゃあ、どうして死ななかったんだ」
「普通の子ならすぐに死んだと思う。でも、小夜さんの赤ちゃんは普通じゃなかったの。埋められたくらいじゃ死なない」
 やはり、土に埋められたのはまちがいないことのようだ。しかし埋められるのは、包丁で手を刺されるのとはわけが違う。息ができなくては、トカゲだって死んでしまうだろう。
「じゃあ、どうして土の中で生きていけたんだ」
 光彦の必死な問いかけに、真紀は当惑の表情を浮かべる。目つきが一瞬胡乱になる。何かを隠そうとしているように光彦には感じられた。
 一昨日、車の中で真紀がクイズを出したときのことが暗雲のように頭を過ぎる。真紀は、酸素を必要としないで生存のエネルギーを得ている動物がいないか、ときいたのだ。それは、このことなのか。小夜の子供は、酸素の少ない土の下にいても平然と生きていけると示唆したかったのか。まさか、と強張った思いのまま否定した。
 すると真紀が、いかにも子供らしい無邪気さでいった。唇の端には笑みさえあり、さっきの当惑は表情からすっかり消えていた。
「完全に埋められたら、空気がないから誰だって死んじゃうよ」
 本当にそう思っているのだろうか。
「でもね、先生。あそこの土は柔らかくて、枯葉が多かったから空気が洩れてきたの」
「あそこ?」
「島の雑木林のこと。小夜さんの家の横にあったでしょ。それほど大きくはなかったけど、夏には花がたくさん咲くし、栗の実もいっぱい生るよ。鳥だってきれいな声で鳴く」
 光彦は身震いしながら聞いていた。踏みこんで確認する勇気はなかったが、確かに小夜の家の横手には雑木林があって緑の葉を広げていた。
「土の下は暗かったし、冬なんか凍えるほど寒かったけど、それでも赤ちゃんには平気だったの」
 暗くて寒い場所。それは井戸ではなく土の中だったのか。
「どうして真紀はそんな大昔のことがわかるんだ」
 粘るような声できいた。
「だって、私の頭の中に、小夜さんの赤ちゃんがいるの。今もいて夢で、いろいろ教えてくれるよ」
「でたらめいうな」
 光彦は興奮して声をあげた。しかしそれをでたらめといって笑い飛ばせない何かが固いしこりになっていた。
「やっぱり先生も同じなんだね。信じてくれないし、私のいうこと、おかしな夢だと思っているんだ。そしたら、いいよ。グラタン、冷めないうちに食べて」
「食欲なくなったよ」
 真紀はスプーンを置いて、光彦を大きな瞳で見つめる。楽しい夕食をぶち壊されたのが悲しいのか、その目にじわりと涙が滲む。
「今日、先生と夕ご飯食べるの、とっても楽しみだったのに。私、赤ちゃんのときにね、大きくなったら、パパに絶対おいしいものを作ってあげるんだ、そう決めてたの。でも、一度もお料理しないうちにパパは死んじゃった。だから、パパの代わりに先生に一生懸命作ったの。小夜さんのことなんかどうだっていいし、あの人、私大嫌い。なのに、先生は嫌いな小夜さんのことしかいわない」
「悪かった。食べるよ」
 光彦は謝ってスプーンを取って一口噛んだ。味はほとんどわからなかったが、真紀は父親を早くに亡くしたさびしさで、心がぐちゃぐちゃになっているのだけは確信できた。
「おいしいよ」
 真紀は、濡れて赤くなった目で光彦をじっと見つめて小さくうなずき、涙を拭った。
「ありがとう」
 可憐な声に聞こえた。
「先生が担任になってくれてうれしかった。私、こんな変な子だけど、六年生までずっと担任でいてほしい」
「そうなればいいな」
 といって、光彦はスプーンを口に運びながら、真紀の言葉をそのまま信じてよいか迷っていた。真紀は芽衣を憎んでいる、と朋美はいった。その言葉が正しいのなら、目の前で幸せそうにグラタンを食べる真紀の内部には、正体の知れない憎悪があって、光彦の生活を、いや人生そのものを破壊しようと甘言を囁いているのではないか。そしてそれは真紀の思いというより、遠い過去から蓄積されてきた小夜の怨みなのか。それとも真紀は心からの思いを言葉にしているのか。やがて不幸をもたらすという芽衣の抹殺を願ったのも、行動は愚かながらも、光彦を思うあまりなのか。真紀の心の裏は何ひとつ読めなかった。 
ふいに真紀が清々しい笑顔で呼びかけた。
「先生」
 光彦は、はっとして顔をあげた。
「私、ずっと先生のおうちにいたい。そして先生を守ってあげたい」
 意外な言葉に絶句した。守る? 八歳の女子が三十歳になろうとする男を守るというのか。それは誰から守るということなのか。芽衣だろうか。それとも他の危険な何者かからか。
「気持ちだけでいいよ。先生は大人だから、悪いやつが来たって、何とかできるさ」
 真紀はがっかりした顔をして、スプーンを動かした。
 光彦はわざと朗らかにいった。
「先生は、これでも小学校のときにはガキ大将だったんだぞ。隼人みたいにさ」
 真紀は目もとを涼しげに細めた。
「嘘でしょう? 鼻が笑ってるよ」
「ばれたか。本当はぼうっとした子供だった」
「今もそんな感じ」
「こら、先生をばかにするもんじゃない。真紀は生徒だから、逆らわない、文句をいわない、いつもはいはいで、スマイルスマイル。それでなくては先生の生徒とはいえないぞ」
 真紀は楽しそうに笑った。
「わかった。そうする。これからはずっとスマイルスマイルで」
 目の前にいるのは、やはり八歳の女子である。どこにも凶暴なものも、悪意も憎悪もない。それでいて、いまだに朋美の状態をきいてこないのが落ち着かない。まるで最初からこの家に朋美という女が存在しなかったかのように。

 翌朝、真紀を車に乗せてマンションまで送った。最初は、一緒に病院に行くと強情を張ったが、見舞いに行きたければあとでお母さんとおいで、というと意外にあっさり折れた。
 マンションの部屋には入らず、ドア口で由紀江と軽く話した。この前のような疲れも心の乱れも表情にはなく、むしろさっぱりと晴れやかにみえた。
 真紀が顔を上向きにして朋美の入院のことを告げると、そのときだけ由紀江の眉根が険しくなった。
「大変なときに真紀がお邪魔して申し訳ありませんでした。あとで、お見舞いにうかがいたいと思います」
 光彦は頭をさげて車にもどった。運転しながら、真紀を数日とはいえ家に引き取ったのは正しかったのか、と考えていた。朋美のことを思えば、若気のいたりというしかない。運よくそれほどの事態にならなかったが、下手をすれば最悪の状況を迎えていたかもしれないのだ。そのとき真紀を泊めたことを知れば、同じ学校の他の教諭たちは、それ見たことか、と嘲笑こそすれ、留美子を除いて庇う者など一人もいないだろう。たとえ自分のクラスの子とはいえ、児童を教諭の家に泊めるのは、今の学校教育の方針に適っていない。仮に事前に教頭に相談したとしても、問答無用に却下されたはずである。何かあった場合の責任が問われるからだ。それほど今の学校は臆病になっている。
 仁愛会病院に着いて、頼まれていた化粧品を手にエレベーターで六階に向かった。ナースステーションに顔を出すと、朋美は隣の一般病棟に移されたという。覗くと、四人部屋。お腹の大きな妊婦は朋美だけで、産科というより婦人科の病室のような気がした。
 朋美は横になって開け放した窓の外を見ていた。その桟の下に「ハトにエサをやらないでください」と書かれたステッカーが張られているが、鳩の姿はない。
「元気そうだな」
 化粧品の入ったビニール袋をベッド横のテーブルに置くと、朋美は横になったまま顔を向けて、弱々しげにほほ笑んだ。
「真紀ちゃんは?」
「来る前に家に送って行った」
「そう」
 朋美の顔色は、頬にも赤みがさして昨日よりさらによくなっている。それでいて表情は浮かない。
光彦は用意されているパイプ椅子に座った。
「痛みとかあるのか」
「そんなのは全然。今すぐ退院してもいいくらい」
 しばらく沈黙してから、朋美がまた真紀のことを尋ねた。
「真紀ちゃん、何かいってなかった」
「あの子は、お父さんがいなくてさびしい、ってのはよくわかった。それ以外は特に。なあ、真紀のことは忘れたほうがいいぞ。それより母親だから芽衣の心配してやってほしいな」
 ぽつりという。
「この子は何の心配もいらないの。強い子だから」
「そうか。母親ってすごいな。産まれる前から、その子のことがわかるんだ」
「それはそうよ。それにね、この子、ときどき話しかけてくるもの」
 光彦はぎくりとした。
「ほんとか」
「本当よ。体を伝って下のほうからすっと聞こえてくる」
「ママ、っていうのか」
 朋美は静かにうなずく。
「他にもいろいろいうよ。特に夜になるとおしゃべりになるの」
 すべてを信じるわけにはいかないが、その通りなら真紀が芽衣と話したというのもまんざら嘘とはいえない。
「なあ、変なこときくけど」
と前置きしてからいった。
「真紀も、芽衣と話したのか」
 朋美が長い髪を揺らしてまたうなずく。
「そのとき、真紀が小夜のことを何かいったか。おまえも聞いていたんじゃないのか」
 とたんに朋美は眉をひそめて、苦悶の表情になった。
「どうした?」
 朋美の噛みしめた白い歯の奥から言葉が洩れ出た。
「芽衣は、あなたが今小夜さんのことを尋ねたのを……ちゃんと聞いていて……怒っている」
 薄い病衣の上から手をあてた。太鼓の皮のようにぴんと張った皮膚の下で、ごつごつ暴れるものがある。芽衣が朋美を執拗に蹴っているのだ。
 背筋が粟立って、手を離した。真紀は芽衣のことを生まれて来ないほうがいいといったが、掌にあたった感触はそれを信じたくなるほど凶暴だった。
「芽衣は、今何かいっているのか」
 朋美は歯が毀れるほどきつく噛みしめて、喉から声を絞り出した。
「芽衣はね。あなたに腹を立てている。……口汚くあなたを罵っている」
朋美の腹が、ぼこんぼこんと弾けるのが病衣の上からでもわかる。
「罵る?」
「この子は、私たちの話をずっと前から聞いていたの。だから、真紀ちゃんを憎んでいる。そしてね……」
 朋美は、うっと苦痛で顔を歪め、体をぐいっと弓なりに反らせた。それからのけぞるようにして、ベッドでばたついた。まるで何かが乗り移ったみたいに出っ張った腹が上下に激しく揺れる。隣ベッドの患者が小さな悲鳴をあげる。
 光彦はあわてふためいて、ベッドの上に垂れているナースコールのボタンを押した。
 朋美は今度は背中を丸めて痛みに堪えながら、それでも形のよい唇から懸命に言葉を引きずり出した。
「この子は、私も憎んでる」
「どうして母親のおまえを憎むんだよ」
 ううう、と喉から血を吐くような、言葉にならない呻きをあげた。それはいつも耳を撫でる朋美の声ではない。腹の底の魔物が朋美の口を借りて訴えているような、どこか底知れないものがうかがえた。その声が笑った。
「私、大嫌いなママの子。ママも自分のパパを殺して、私もママを食べた」
 朋美の体が炙られた魚のように跳ねまわる。
 光彦は激しい衝撃で立っていることができなかった。信じられない話である。朋美は憑依されて、忌々しい奇想をつむいでいるのか。朋美が自分の父親を殺した? ということは、トラックをぶつけて自分の父親と真紀の父を死に追いやったのは、朋美なのか。しかし朋美はあれほど父親の死を悲しんでいたではないか。それにママを食べた、とはいったい何事だろう。想像するだけで身の毛もよだつ。
 女医がばたばたとやって来た。ベッドで暴れる朋美を一瞥して、看護師に急いで薬品の名前を告げた。
「しっかりしてください」
 女医は必死に呼びかけるが、朋美は歯をがちがちいわせて乱暴に首を振り、気味悪い唸り声を発するばかりだ。
 すぐに看護師が注射器をトレイに入れてもどって来た。女医は暴れる朋美の腕を掴むと、強引に注射針を差しこんだ。見る間に朋美は脱力してぐったりした。
 しばらく様子を見てから、女医は光彦に顔を向けた。ふくよかな顔に汗が滲んでいる。窓は開いているのに、空調のない部屋は蒸し暑い。
「どうされたんですか」
「突然呻きだしたので、よくわからないのですが」
 光彦は、芽衣のことも小夜のことも伏せて答えた。
「そうですか。今朝診断したときには何の異常もなかったのですが、気になりますね。しばらく様子を見てください」
光彦は頭をさげる。女医は肉づきのよい体を揺すって出て行った。
 椅子に座って、穏やかに眠る朋美を見つめていた。さっきの声は朋美の声ではなかった。しかもその声は子供らしく、ママ、パパといったのだ。大嫌いなママの子、ともいった。朋美でなければ、他には芽衣しかいない。それは本当に芽衣が叫んだものなのか。
 仮にその言葉が芽衣のものだとしたら、どうして芽衣は朋美が父親を殺したというのだろう。それが事実であっても虚妄であっても、光彦たちが知り合う前のことである。芽衣がどうして知り得よう。
昨夜真紀は、自分の頭の中にはママやおばあちゃんがいる、といった。自分だけにはパパもいる、ともいった。だから直接話を聞かなくても、父親が体験した暴走族によるリンチの内容が詳細にわかるというのだ。真紀と芽衣が同じ「一族」だとすれば、論理の流れとして当然芽衣の頭にも母親の朋美が住んでいることになる。芽衣は朋美の過去の体験をその肌触りまで克明に知っていて、だからこそ朋美が父親を殺したと断定したのか。そうであれば、朋美のいう新人類の特異性とは母親の記憶を受け継ぐことにあるのか。しかも真紀だけは例外的に父親の記憶も再現できると。
さらに芽衣は、私もママを食べた、といったが、あれはどういう意味だろう。胎児は母親の子宮にいて、母親が命がけで取りこむ栄養分を貪り食う、という意味なのか。そうであれば、確かに比喩的に子は常時母親を食べている。そうやって赤ん坊は大きくなる。しかし叫んだ声は全身が凍るほど恐ろしく、無邪気な赤ん坊とあまりにかけ離れていた。
 考えれば考えるほど、深い底にずり落ちて行くような気がして、光彦は暗澹たる思いで頭を抱えた。

 夕暮れの光が、コンクリの塀の隙間に生えた雑草を淡く照らしている。十日ほど前に朋美がきれいに刈り取ったはずなのに、すでにタンポポが黄色い花を広げている。どこから種子が飛んで来たのか、紫蘇まである。
光彦は特にタンポポを嫌っていた。根は石を砕くほど強く、放っておけばコンクリの塀を壊しかねない。門から玄関につながる短い犬走りにも、黄色い花がちらほら見える。草取りは朋美の仕事だったが、入院しているので、光彦が鎌を手にしているのだ。
狂乱した朋美は注射が効いて三時間ほどぐっすり眠り、目が覚めたときには柔らかな表情を取りもどしていた。顔色はやはり蒼白かったが、もともと色白だからやつれた風ではなく、光彦の目にはむしろ元気そうにみえた。芽衣も落ち着いたらしく、もはや暴れることはなかった。ひょっとしたら芽衣に聞かれるかもしれないと恐れて、昼前のことは故意に話題から外し、他愛ないことばかり午後遅くまで話していた。ここ数日落ち着かなかった光彦に心地よい安らぎが生まれたし、朋美もゆったりしていた。
面会終了時刻まで付き添ってやろうと考えていたが、四時頃、家の草取りをしてくれない? といわれた。隣近所は塀まわりをきれいにしているのにうちだけ草ぼうぼうだ、と大げさなことをいう。男が女部屋にいつまでも居座るのはやはり妙なもので、朋美の指示どおりに帰宅して、タンポポを目の仇に鎌を使っていたのである。
しかし帰ろうとして立ちあがったとき朋美が妙なことを口走ったのが、今も心に引っかかっている。奥深い目でじっと見つめて、小さく消え入りそうな声でいったのだ。
――私ね、あなたと結婚できて幸せだった。ありがとう。
 その寂しげな声に一瞬心臓が鼓動をとめたが、暴れたときに芽衣が吐いた言葉で気弱になっているのだろう、と考えて、乱れた髪を撫でてやった。撫でる指先に、細い髪が命を持った生き物のようにまつわりつき、それは奇妙な感触として今も残っている。
 あれは何だったのだろう、と考えたとき、開け放したリビングの窓から電話のベルが聞こえてきた。どきりとして立ちあがり、玄関にまわるのももどかしく、庭からリビングに這いあがって受話器を取った。せわしげに洩れてきたのは養護教諭の留美子の声。急に力が抜けて、受話器を首に挟んでソファに寝転んだ。
「すみません。お忙しいときに電話して」
「草取りしていただけだから。何か」
 留美子は少し間を置いていった。
「今日ね、また行って来たんです」
「カモメ島?」
「はい。気になることがあったので、山田さんに会って来ました」
 物怖じしないこともそうだが、やはり若いだけあって行動力があるな、と素直に感心しながら草の汁で汚れた両手を見つめた。
「気になることって?」
「先生が、白老の先輩にいわれたことです」
「何だっけ」
「山田さんが井戸を発見して一度同人誌に小夜さんのことを発表されたのに、それ以後どうして何も書かれないのか、です」
 留美子が重い声でいうことは、今の光彦の関心からずれていた。気のない返事をする。
「そのためにわざわざ行ったの? 船に乗って」
「はい。やはり一日がかりでした。今日ね、島は大変でしたよ。空が花粉で真っ白になっていました」
「花粉?」
 鸚鵡返しに尋ねていた。
「秘境といわれる森から発生したらしいですけどね。白樺の花粉が煙のように海に向かっていました。山田さんの話では、最近多いらしいですね」
 小夜の家の跡地で見た空にたなびく白い塊は花粉だったのか、と光彦は驚いた。思い出せば、そのとき飛んでいたものだけでもずいぶんな量になる。今日も同じだけ飛んだのだろうか。北海道はスギ花粉症こそ少ないが、白樺によるものはこの時期恒例のように蔓延して、人々を苦しめている。光彦に花粉症の経験がないのは菜食を主体にしているからではないかと勝手に思っているが、留美子はどうだろう。そのことをきくと、
「私は大丈夫です。花粉は、触ろうとなめようと、子供の頃から平気みたいですね」
 傍系であれ、やはり一族の端くれなのだ。強靭なのだろう。
「先生の馬力には敬服だな」
 光彦がからかうと、留美子は軽く笑って話を元にもどした。
「最初はもちろん昨日のような感じで相手にしてもらえませんでした。それでも桟橋まで送ってもらって、フェリーが近づいてきたときにようやく聞き出せたのです。簡単にですけどね」
「それはよかった」
 留美子はじらすように沈黙した。光彦は爪についた泥を取ろうとして別の手の爪を擦りつけた。
「草の中に埋もれていたあの井戸ですけどね、三年前に砂利が取り除かれたときに白骨があったそうです」
 一番目の異能の小夜と母親が簀巻きにされて投げ入れられたというのだから、あっておかしくない。気持ちよい話ではないが、充分に納得できることだった。
「でも、ですね。そこにあった白骨は大人のものだけだったらしいです」
「どういうこと?」
「一歳の小夜さんの骨はなかったということです」
 光彦は、受話器を握ってソファに座り直した。
「小夜の骨がなかったって、意味わからないよ」
「言葉のとおりです。お母さんの骨は頭蓋骨から両脚の骨など、元のままきれいに残っていたそうですが、子供の骨は欠片もなかった、と山田さんはいわれました」
「小さいから井戸水に溶けたとか、そういうことはないの? 酸性の水ならそうなるけど」
「水が原因なら、お母さんの骨にも損傷があるはずです。でも、そんな感じではなかったみたいですね。水でないとすれば、いくら子供の骨でも、そう簡単には消滅することってないでしょう」
「それはそうだけど、じゃあ、砂利を投げ入れたのだから、粉々になってしまったとか」
「それは私も尋ねましたが、そういうのはきちんとチェックするよ、と笑われてしまいました」
「そしたら、わけわからないよ。たとえば、小さな小夜は放りこまれなかった、とは考えられないの?」
「いえ、小夜さんは井戸の底に確実にいました。私は聞きました」
 光彦は半信半疑で言葉に詰まった。
「山田さんは、母親の遺骨だけを無縁仏として葬られたそうですが、すでに石碑を発見されていましたし、島に伝わる伝承もご存知でしたから、子供の骨がないことの意味をすぐに理解されたようです。だから雑誌に続きを書くのをやめられたのでしょうね。山田さんは何かが見える人だと、私は思っています」
「山田さんのことはいいよ。問題はどうして小夜の骨がないか、じゃない?」
「そうですね」
「ひょっとしてさ、投げこまれたけど死んでいなくて、すぐに井戸から自力で這いあがったってことは考えられない? というか、それしか思いつかないよ」
「這いあがるのは無理だと思います。井戸の深さは十メートルはあったようですし、そのときの小夜さんはまだ一歳になったばかりですからね。普通そんな力はないと思いますよ」
「普通でなければ、ありうると思う?」
「わかりません」
それ以上話すこともなく、留美子は電話を切った。
 妙な胸騒ぎを覚えながら窓から庭に這い出て、草取りの後始末をした。すでに夕闇が霧のように路面に落ちている。玄関から家に入り、洗面所で丁寧に泥を落し、またソファにごろりと横になった。
 やはり、幼い小夜はどうにかして井戸から這い出したと考えるしかない。しかし、その光景を思い描こうとしてもうまくいかなかった。一歳児というものを正確にイメージできないせいもあるが、それ以上に小夜の腕に井戸をよじのぼる筋力が育っていたとは想像し難いのだ。受け持ちの子でも、十メートルの土壁をこなすやつは、まずいないだろう。
 そのとき突然、昨夜夕食を食べながら真紀がいった言葉が脳裏をよぎった。
――小夜さんの赤ちゃんね、一緒に埋められたけど死んではいないよ。……小夜さんの赤ちゃんは普通じゃないの。そんなことでは死なない。
 真紀がいったのは、二番目の腹にいて雑木林に埋められた胎児のこと。しかしそれは井戸に棄てられた最初の小夜にも当てはまらないか。
 真紀の祖母は包丁で切られながらも、すばやく蛋白質が合成され、傷口は短時間で復元された。朋美だって階段から転落したのに骨折も打ち身もないという。確かにあれは普通ではない。そうなら「一族」と一括りにできる連中は、光彦の予想を上まわるほどの生命力を持ち、誰もが死に無縁なのか。つまり朋美も芽衣も死なないということか。
 いや、違う。あの連中だって死ぬはずだ、と思い直した。異能の小夜が死なないというのなら、どうして母親は白骨になったのか。同じ血を持つ親子ではないか。鉈を振りまわして島民を八人も殺した小夜が蘇ったという話も聞かない。もし一歳の小夜が生き延びたとするなら、それは以前祭ったほどの存在だったから、村人が殺すのにためらいを覚えたせいではないか。要するに留めを刺さなかったのだ。それで小夜は投げ捨てられた井戸底で復活した。とはいえ一歳児が壁をよじのぼることなどできない。そこで導かれる自然な結論は、体が成長するまで暗い穴底にいたということ。それは三年や四年のことではあるまい。いや、もっとかもしれない。仮に何かの弾みで小さいうちに地上に出たとしても、そんな姿で島をうろつけば殺意に満ちた島民に必ず発見され、即座に殺されてしまうはずだ。まさか井戸を抜け出たその足で、荒れた日本海を本土まで泳いで渡ったということはなかろう。
どういう細工か判断できないが、小夜は充分に成長するまで待って、それからゆっくり井戸から這い出した。それゆえ井戸底に小夜の骨は残されていなかった。それで正しいのか。
むろん光彦は自分の推論を信じることなどできなかった。一歳に満たない子がどうやって一人で深い井戸底で生きていけるのか。
光彦はソファから立ちあがってアホロートルの水槽を覗いた。体が浮いている。赤虫のやりすぎかな、と思ったが、日に日に大きくなって今は体長二十センチ近くあるから、きっと大丈夫だろう。
光彦の目にはかわいく映るアホロートルを、真紀も朋美も気持ち悪いという。どこが気持ち悪いのだろう。形から表情からまるきり赤ん坊なのに、これで子供を作ることができる。そこが不気味なのか。生物学的には、これをネオテニー、幼形成熟という。
突然頭の中が閃き渡る気がした。人間も幼形成熟なのを忘れていたのだ。哺乳動物はどれも体毛に蔽われているのに、ヒトには体毛が少ない。つまり幼児の姿なのだ。人は幼児のまま成熟して子をなすから、アホロートル同様、幼形成熟に一括りされる。
 ただ、幼形成熟といっても、ヒトは生まれた時点で立つことも這うこともできない。動物的には未熟児なのだ。だから赤ん坊は親の手を借りる必要があるが、他の哺乳動物にヒトほどの介助は必要ない。それは、生まれながらに自立するための本能がほぼ完成し、動物として成熟しているからである。小指の大きさほどしかないカンガルーの子でさえ、絶壁のような母の腹を這いあがって育児嚢に潜りこむ。
 仮に一族と呼ばれるあの連中が、幼形のまま成熟した形で生まれ、一人で生き抜く力をあらかじめ得ていたと考えれば、話は変わってこないか。
 いや、と光彦は首を振る。どれほど完璧な本能が内在していたとしても、人間の赤ん坊である限り、すぐに立ったり這ったりはできない。ソフト部分はまだしも、ハード部分を考えれば無理な話である。朋美の腹の中にいる芽衣の大きさは知れたもので、せいぜい二千グラムあるかどうかだ。その程度では、手足はあまりに脆弱で、馬や牛のように体を支えるのは無理だろう。自力で食べ物を見つけることなどもっての他である。
 となると、あの一族に独特な自立の武器とは何なのか。その武器がない限り、井戸で暮らすことも、抜け出すことも、埋められた土の中で生き抜くことも不可能である。
 そのときまたも脳裏を走ったのが、真紀が、自分の頭の中にはママやパパがいる、といったことである。とすれば、一族の武器とは、やはり生々しく伝えられる記憶ではないのか。真紀の言葉に従えば、母系の記憶。
 自然界には本来雌しかなかった事実を考えれば、雌性遺伝は納得できないことではない。地球が四十六億年前に誕生してからおよそ十億年後に最初の生命が生まれ、それに続く十億年間は、雌がひたすら自己複製のクローンを作ってきた。その過程は、連綿と雌のみに継承される記憶の連鎖といっておかしくない。雄の発生は、生物の歴史の中では新しいのだ。
そこで、母親の記憶だけでなく、真紀たちは小夜まで遡って先祖の記憶を獲得できると考えたらどうだろう。朋美が、自分は落ちこぼれで辿れない、といったのはそういう意味で理解できるはずだ。
そう仮定すれば、思い当たることは多い。島に行ったことのない真紀が小夜の埋められた雑木林を正確に知っていたのは、死ななかったという小夜の腹の子の記憶を通して、ということになろう。また留美子が井戸を見たとき、隠されていた惨劇の記憶が、地が孕む怨念のように甦ってきたのも、その推論の上で理解できないことではない。
異能の小夜は簀巻きにされて井戸に投げ入れられたが、すりこぎで潰されても甦るプラナリアに似た生命力があるうえに、大人と同じ記憶を所持していたのなら、井戸の底で生き抜くために何をどうすればよいかの知恵もあったろう。それが一族独自の本能なのだ。いや、そもそも本能というものは、生き物すべての体に生まれながらに埋めこまれた先祖の記憶のことではないのか。
さらに想像を飛躍させれば、おそらく一族と呼ばれる連中は、それほど物を摂取しなくても平気な体質と考えられる。そう仮定しなければ、井戸底で小さな指を使って生存するなど、できることではない。植物が水と光だけで成長するように、小夜は水とわずかな食べ物、たとえば土の中の虫などを口にするだけで生き抜くことができた、という可能性はないのか。いや、植物まで話を広げなくても、動物界を眺めるだけでそのような種はたくさん発見できる。早い話、冬眠する熊は冬場何も食べないし、牛の輪胆管に寄生する肝蛭(カンテツ)などは、卵として水に産み落されたあと、一時的に寄生する巻貝を求めて物も食わずに半狂乱で泳ぎまわる。それは肝蛭の寿命の中では長い時間に相当する。一族が似たような能力を持つとすれば、異能の小夜が何年も井戸で生きることができたとしても、おかしくないのだ。死ななかったと真紀がいった二番目の小夜の子が雑木林の腐葉土の下で生き抜いたのも、同じ理由によるのではないか。
となると、一族と呼ばれる者たちは、動物の本能と先祖の記憶、それに強靭な体質を併せ持った、まさに新人類といえよう。それは進化がさらに進んだ形なのか。それとも退化したものなのか。そのすべてが、朋美の先祖であるカモメ島の小夜から始まっているとして、では正確にどの小夜を起源と呼ぶのが相応しいのか。順番でいえば、異能の小夜になるが、二番目もまた同じ家に一緒に暮らしていた、と白老の元教師は推測している。姉妹でないにしても係累であることは間違いない、ともいった。とすればどちらも元々は同じ母系から発生したと考えられる。つまり同じ母の記憶を共有しているのだ。いや、二人だけの話ではない。凶悪な記憶をコピーされた者たちは、朋美を含めてこの世にぞろぞろいることになる。総身に鳥肌が立つようだった。
では三番目の小夜はどうだろう、と無理に冷静になってみる。あれは、一族とは無縁のものなのか。その小夜は嵐の日に浜にいた。幼いときのことである。
 しかし、と光彦は興奮してつい声をあげていた。
「発見されたとき、四歳ならどうなる?」
 三番目の小夜が島民に発見されたのは、異常殺人の小夜が雑木林に埋められてから四年目のこと。そうなら、その小夜は、真紀がいったように二番目の皮膚を食い破って腐葉土の下から這い出た赤ん坊ということにならないか。年齢に齟齬はない。
 そこまで考えたとき、突然電話が鳴った。びくりと全身が痙攣した。また留美子かと思ったが、あわてて受話器を取ると仁愛会病院の看護師からだった。
 一言挨拶を終えてから、看護師が落ち着いた声でいう。
「奥さんの朋美さんですが、今手術室に運ばれました」
「生まれるのですか」
「いえ、六階の病室の窓から飛び降りられたのです」
 突然のことで、思うように声が出なかった。
「すぐに行きます」
 やっとのことでそれだけいうと、まだ何かいいたげな看護師を無視して、受話器を置いた。
そのまま車を走らせた。信じられなかった。何がどうなっているのかわからない。飛び降りたということは、自殺なのか。手術室ということは、朋美は無事なのか。それさえ聞かずに車を走らせたことに気づいて、光彦は自分を呪った。
――あなたが亡くなっても、私はそれから三十年か、それ以上は確実に生きると思うよ。環境がどんなに悪くなってもね。私は新人類みたいなものだから。
光彦はそんな朋美の言葉を茶化して、
――新人類か。かっこいいな。
と笑ったが、どうして新人類が自殺しなければならないのか。自分の死後、朋美は芽衣と三十年は生きるといったではないか。話が違うだろう。
夜の通りを照らす街路灯が一つ一つ視界から飛び去って行く。同じ街路灯に見えるが、それぞれ別物なのだ。いつか真紀がクイズに出してくれた、二度ともどれない場所、という言葉が意味なく浮かんできた。どうしてこんなときに、と光彦は自分に腹を立てながらハンドルを握り、信号待ちではせわしなく空噴かしした。
十分とかからず病院に着くと、そのまま階段を駆けあがり、六階の廊下を走って病室に飛びこんだ。息を切らして見やると、朋美がいたベッドはもぬけの殻になっていた。三人の患者たちが口々に慰めの言葉をかけてきたが、耳に入らない。そのままナースステーションに向かおうとして廊下に走り出たとたん、かち合うようにして顔見知りの中年看護師に出会った。電話をくれた人である。
 光彦が喉を詰まらせていると、
「どうぞ、こちらに」
 といって、先に立って歩きだした。
 何かいおうとしたが、返事が怖くて声にならない。あわてて横に並んだ。看護師が息を潜めて説明する。
「三十分ほど前になりますが、夜の検温を行っているときに、奥さんが突然大きな声で叫ばれて、そのまま鳥のように窓から飛び降りられたのです」
「鳥のように……ですか」
 光彦は吐息のような声で繰り返した。他愛ない小夜の伝承を伝えた自分の口を切り裂きたいと思った。
「そのとおりです。本当に鳥が翼を広げるみたいに、両手を大きく広げられて飛ばれました。他の患者さんも見ていましたし、検温で病室にいた私も目撃しました。何があったのかわかりませんが、突然のことでお気の毒でした」
「お気の毒?」
「残念ながら、手の施しようがありませんでした」
 足が萎えた。立っているのがやっとだった。
 朋美が死んだ……?
瞼が熱くなり、どっと頬を伝うものがあった。朋美のきれいな笑顔が目の前で花のように鮮やかに咲き誇った。どの顔もやさしい笑みを湛えて、物いいたげに光彦を見つめている。いくら新人類でも、六階から落ちたら助かるものではない。
 ナースステーション横のエレベーターに、看護師が先に乗りこんで手招きした。よろよろ入ると、看護師は行き先のボタンを押して、さらに続けた。
「ちょうどお見舞いの方が帰られてからのことでした」
「見舞い?」
 やはりはっきりした声にならない。光彦は涙を拭った。
「ええ。小学生の女のお子さんとお母さんのようでした。お母さんは挨拶を終えると、すぐに一階のロビーに降りられたようですが、そのお子さんはしばらく病室にいて奥さんと楽しそうにお話されていましたよ。私は廊下から覗いただけでしたが、天使のようにきれいで爽やかなお子さんでした」
 真紀だ。真紀が見舞いに来てすぐに、朋美は鳥になろうとしたのだ。二人が楽しそうに話していたというのは信じられなかったが、光彦の眼前に幼い影がくっきり浮かんできた。影が囁いている。飛び降りろ、鳥になれ、と。
 怒りがこみあげてきて、涙で濡れた拳を力いっぱい握りしめた。
 エレベーターが停まった。地階である。降りたすぐそばの部屋に手術中という赤ランプがついてる。分娩室だ。
「奥さんはお気の毒でしたが、今、赤ちゃんが無事に産まれる手助けをしているところです。ドクターは、きっと大丈夫ではないか、とおっしゃっていましたが、ここにおかけになってお待ちください」
 看護師は分娩室前の長椅子を示した。光彦は一度よろけて腰をおろした。暗澹とした思いが満ちてくる。
 朋美の、命の炎を失った体から今芽衣が産まれようとしているのか。
朋美のいない家で、これから芽衣と二人、どうやって暮らしていけばよいのだろう。真紀にいわせると、生まれて来ないほうがいいという子供。家に再び笑いがもどることなど、もはや想像できなかった。大学に行くまで父親と二人で暮らした子供の頃がじわりと浮かんで、頬を洗うように涙がとめどなく流れてきた。
 突然赤ん坊の甲高い泣き声が、遥か遠くから誘うように聞こえてきた。
 分娩室のドアが開く。涙に濡れた目を向けると、中から太った女医が現れた。光彦が力なく立ちあがる。
「赤ちゃんは無事に産まれましたよ。奥さんはお腹を突き出すようにして墜落されたのですが、着地の瞬間に風圧か何かで仰向けの状態になられたみたいですね。丈夫な女のお子さんでした。早産ですが、異例なことにすでに三千グラムありました。念のため数日は保育器に入れることになると思いますが、おそらく問題ないでしょう。奥さんは中におられますので、お会いください」
 女医はそういうとエレベーターに向かった。
 光彦は呆然と立ちつくしていた。
芽衣を下にして腹から落ちた……? どういうことだ? 朋美は芽衣を殺す目的で飛びおりたというのか。
すると、看護師が目の前にノートの切れ端をそっと差し出した。
「これは、奥さんが書かれたものです。ベッドに残されていました」
 手に取る。目が霞んでいたが、何度も瞼を擦って短い文面を読んだ。

  私は芽衣と鳥になります。
  さびしくなるでしょうが、あなたなら大丈夫、やっていけます。
  真紀ちゃんは、とってもよい子でしたよ。仲良くしてやってくださいね。
  さようなら。                 朋美

朋美は芽衣と無理心中するつもりで、失敗したのだ。 
 光彦は堪えきれず嗚咽した。泣けば心配して朋美がもどってくるのではないか、そんな気持ちが湧き出で、いつまでも涙がとまらなかった。なぜ小夜のことなどに首を突っこんだのだろう。そうでなければ、朋美が鳥になることはなかったのだ。そのような思いが心の中を真っ黒な風のように吹き荒れた。
あえいでいると、またドアが開いた。看護師が赤ん坊を白い布にくるんで現れ、光彦を認めて近寄って来た。よく見えるように赤ん坊の顔を向けて、
「本当に奥さんはご愁傷さまでした。赤ちゃんだけでも助かって、少しはお手伝いできたのでは、と思っています。奇跡的なお産でしたよ」
 光彦は愕然としたまま布にくるまれた芽衣を見つめた。顔は血塗れたように赤く、小さな口はしっかり閉じられていた。目もとは朋美にそっくりな気がする。朋美に似て、おそらく美しい娘になるだろう。
 小さくて今にも壊れそうな芽衣は、看護師の腕の中でひとしきりむずがってから薄い瞼をゆっくり開き、光彦を見つめた。そして、ふいに唇を歪めてにやりと笑った。
 光彦はぞっとした。
 とたんに、看護師は頭をさげて、芽衣を抱いたままもう一人の看護師と急いでエレベーターに乗りこんだ。
 取り残されて、光彦は分娩室のドアを開けた。緑色の手術着の看護師が二人残って後始末をしていたが、重い鉛を引きずるようによろよろと手術台に横たわる朋美に近づいて行った。芽衣という希望が生まれたはずなのに、光彦は、すべてが終わってしまった、と空洞に落ちたような感覚に陥っていた。


          幕間

 真っ黒い夜空を切り裂き、銀色の稲妻が長い線を引いて海に落ちる。暗い海がきらりと光った瞬間、打ち寄せる怒涛を弾き返すように雷音が頭上で轟き渡った。その轟きは、荷車が巨大な鉄の車輪をまわして雲の道をがらがら走るようで、耳すさまじい。大粒の雨が滝のように横流れして、砂浜に黒い穴を穿っていく。
 裸の幼女が浜に座って、獰猛な雨に頬を殴られて夜の海に視線を向けていた。彼方は厚い闇に包まれており、その闇を破ってどろりとした波頭が伸びあがっては迫り、水際で一度大きくうねってから引いて行く。島が、嵐の直撃を受けて三日になる。難破した漁船も数知れず、浜には破損した舟板が打ち寄せられていたが、人の死骸があがって来ることはなかった。一度も海に出たことのない幼女でも死骸の行方は知っていた。水に呑まれてそのまま海の底に潜り、嵐のような潮にもみくちゃにされて遠い海の墓場まで流されて行くのだ。
 幼女は闇夜に目を凝らす。稲妻に照らされて魚の背中のようにきらめく海を渡って行けば、夜も光まぶしい箱館という町があるはずだった。いつかその懐かしい町に行ってみたい、と強く願うのだ。
 この島が嫌いなわけではない。生まれた土地である。雑木林のひこばえのにおい、腐葉土のむっとするぬくもり、その下の柔らかくて暖かい土、どれも心を穏やかにしてくれるものばかりだ。島で生まれたからには島で死ぬこと、幼いながらにその覚悟はあった。しかし、ただの一度でかまわない。この荒海を越えてみたい。ずっと昔、母が海の向こうからやって来たのとは逆に。そう願うのだ。
 波濤の背中を押すように海から吹きつける強風が、幼女の痩せた裸身を刺し貫く。嵐の夜には、何か身にまとうものがあればよいと思う。昼間雑木林や草葉の陰に隠れてこっそり覗く島の者たちは、着物というものを身につけている。陽射しの下では暑いだろうと笑って見ていたが、このような夜には羨ましい。母の眠る穴にもぐれば暖かいのはわかっている。しかし雨の激しい時分、土は湿って肌に不快に感じられる。以前はどろどろの黒土に包まれるのは気持ちよかったのに、どうしたわけかこの夏を越えたあたりからそれが馴染まない。体が成長してきたせいだろうか。
 幼女は、自分が産まれたときのことをはっきり覚えている。産まれたというのは正確ではない。初めて母の力を借りずに一人で生きることを決意した瞬間のことだ。
暗くて生暖かい場所にいた。血のにおいも強かった。母の肉が徐々に冷えていくと、自分の臍から伸びている長い紐が邪魔になり、歯のない口でそれを引き裂いた。べっとり体を包む覆いも、動くたびに煩わしく、手で引き裂いた。柔らかい母の肉が、覆いの先にある。母の記憶を探れば、それがどのようなものかすぐに理解できた。食べるのに適していることも知っている。体が小さいうえに、激しく動くわけではないから、ひもじくなることはめったになかった。けれど、たまにそうなれば周りの肉をつまんだ。やがて肉は腐ってにおいを発し、溶けてきたが、食べるのが楽になったうえに、何よりその腐敗が熱を孕んで幼女の寝床を暖めてくれた。
そうやってまわりの肉を少しずつ口にしながら、どれほどの時間、光の及ぶことのない窮屈な場所にいたのだろうか。ふた月か半年か。あるとき暗い、母の胎内から抜け出すことに決め、母のわずかな肉を両手で開いて土の中に這い出た。土といっても、腐葉が幾重にも堆積してほどよい温もりを保っており、そのにおいにいつまでも包まれていたいと願ったが、ついにはその腐葉土さえ払う日がきた。
 そのとき見た光景は、忘れることができない。顔を出したのは雑木林。空高く伸びる木々のどれにも緑の葉が豊かに茂り、手招きするように風に揺れていた。葉のそよぎの隙間から柔らかい光が差しこみ、地面を蔽う花々や青草をきらきらと照らし出していた。辺りには初めて嗅ぐ名も知らぬ植物のにおいが充満し、息苦しいほどの命の盛りを感じたのだ。しかも林のあちこちから鳥の鳴き声が盛んに降って、極楽とはこういうものか、と胸を震わせたのである。
 そのまま陶然と顔をあげていると、空は輝いているのに霧のような雨が降ってきた。口を大きく空けて舌先で受けると、かすかに甘い味がした。その味が忘れられない。そのとき母が生きた光の満ちるこの大地で暮らそうとはっきり決めたのだった。
 それからどれほどの月日が経過したのか、覚えがない。雑木林の葉が枯れ落ち、雪が地面を蔽うと、再び腐葉土の下に潜って堪えた。やがて花々が辺り一面を鮮やかに染め、陽射しが弾ける。その繰り返しを幾たびか経験して、今荒れ狂う海を前に、母や父の暮らした波頭の彼方を憧れの気持ちで眺めているのだ。嵐の夜、人に出会うことはない、という確信もあったから、真っ暗な海を前にして、心置きなく座っていることができた。
 ところがそこに大きな男がやってきた。砂浜に引きあげて置いた小さな漁船が波に流されないか、と確認に来た様子である。男は幼女に気づいて、
「おめ、こんな夜ながに、何ばやっとる!」
 と驚いて大声をあげた。
 島の男への恐怖が染みついていた幼女は、あわてて中腰になると、まだ膨らみを持つには遠い胸を両手で隠し、怯えたように男を見つめた。
 男が湿った音を立てて砂を踏みしめ近づいて来る。着ている蓑が風に煽られてはたはたと動く。わずかの距離を埋めるうちに、稲妻が何度も男の顔を照らし出した。予想外にやさしげにみえた。
「おめ、そんな裸で寒ぐねが。舟が難破でもしたんか」
 男が心配そうにきくが、幼女は答えない。どう答えるべきか、わからなかった。
 男がせわしなく問いかける。
「箱館から舟で来たんか」
 それでも、幼女は沈黙を守っている。
「こんな小さな子が、大変だったべや。うちに来いや。裸ではあずましくねえべ。名前は何ていう?」
 名前? 幼女の心に父の顔が浮かぶ。大きな家の奥座敷に閉じこめられ、髪がすっかり落ちて腰も立たない男。それでいて、皮膚は透き通るほど白く顔立ちも美しい。その男が、母の腹を撫でながらいったものだ。
「なあ、ややこが女なら小夜にしよう。小夜って、おまえには懐かしい名前だべや」
 母はわずかに眉を寄せたが、反対しなかった。その男に対して常に従順だったからである。
「小夜……」
幼女は思わず父の願った名前を口からこぼした。波音にさらわれそうなほどか細い声で。その名前を告げたとき、母が父が、無性に恋しくなった。


第三章(二〇一四年)

 父親と娘が札幌駅西口の改札を抜けて来た。父親の表情にはきらめきも輝きもない。まだ四十五歳のはずなのに、短く刈られた髪のあちこちに霜が降り、黒い蔓で鼻にかけられた丸眼鏡の奥には、厚い隈が醜く垂れている。朝剃ったと思われる髭が長旅の間にまだらの影を作って、細面の顔をますますみすぼらしいものに変えていた。光彦である。小学三年のときに別れて以来だから、会うのは十五年ぶりになる。
光彦はすぐに真紀を認め、黒いオーバーコートを着た娘の手を引きずりながら近づいてきた。真紀の前に立つと、
「世話になるね」
といったが、声は以前と同じように艶と張りがあって若々しい。
真紀が挨拶を返すと、横に立つ娘を紹介した。
「芽衣だよ。会うの、初めてだったかな」
真紀より頭ひとつ低い芽衣は、真紀の顔を下から舐めるように見つめた。細面で色も白く、顔立ちは母親に似て飛び切りの美人である。しかし目つきが卑しい。心の底に解けない屈託があるのが、生々しく感じられた。
光彦が、雑踏の中で芽衣を叱る。
「ちゃんと挨拶しないか」
 芽衣は、ちっと何かを吐き出すように、
「ども。世話になるけど、何か」
 田舎のつっぱり娘が虚勢を張っているだけのこと、と軽く笑い飛ばせばすむことかもしれない。しかし真紀は、羽毛のような虚勢の裏に潜む陰気な感情に圧倒された。やはりすんなりとは育っていなかったのだ。以前予感した悪意と憎悪が今の芽衣にあるかどうか、会ったばかりでは判断できない。しかしその兆しだけは明確に掴むことができた。
芽衣は数週間前に中学を卒業したばかりである。札幌の公立高校に地方枠で合格したので、明日の入学式のために道北地方からやって来たのだ。
真紀がその場を取り繕うようにいう。
「芽衣ちゃんは、札幌初めて?」
いいながら、取り繕うべきは父親の光彦ではないか、と思った。しかし憔悴したようにみえる光彦にそのような気力はあるとは思えなかった。
「初めてだよ。田舎者で悪りぃな」
 芽衣は相変わらず下から舐めるようにしていう。
 真紀は苦笑した。
「車で来ていますので、女子学生会館にお連れしますね」
「そうですか。よろしく」
 光彦はおもむろに頭をさげた。
一緒に札幌駅のコンコースを歩きながら、これが子供の頃に父として慕った男なのか、と痛ましい気持ちが滲む。光彦を守る、と子供らしい決意でいったのを覚えている。しかし朋美の自殺のあと、光彦はすぐに教師をやめ、道北の実家に逼塞して農業を始めたのだ。そんな光彦を守ることは子供の真紀にできることではなかった。しかもこちらから何度かけても電話に出ることもなかった。年賀状は毎年書いた。小学生の間は絵入りの丁寧なものを送ったが、今年のは、お元気ですか、と添え書きしただけだ。返事が来たことは一度もない。一方的に年賀状を送ることだけがこの十五年の唯一の交流だったのである。光彦は真紀に禍々しい思いを今も抱いているにちがいなかった。
四月初めのせいか、駅のコンコースは人であふれ、新品の制服を着た中学生や高校生が華やいだにおいを発して通り過ぎるが、真紀が引き連れているのは春の輝きから見捨てられた親子である。光彦の心の闇がそのまま真紀にも忍んで来るようで、悲しかった。
光彦が両側のデパートをきょろきょろ見まわして声をあげる。
「これがJRタワーに通じているのか。ぼくがいた時分にはなかったな。札幌も大きく変わったね」
「人口もどんどん増えていますから」
「その分ぼくのいる道北が過疎の波に洗われるわけだ。芽衣、明日入学式が終わったら、ここのタワーにのぼってみるか」
 芽衣は何もいわず、すっきりと細い首を横に振った。腹立たしそうに。
最初から拒否を予測していたのか、光彦の表情に落胆はない。
母親の朋美もこのようにきれいな首をしていたな、と思い出す。芽衣を通して見えてくる朋美が懐かしかった。と同時に、決して朋美が怪我することはないと確信していたとはいえ、階段から突き落とした自分を悔やんでいた。真紀の将来を心配して、そっと肩を抱いてくれたときの温かさを思うと、申し訳ない思いが強くなる。
地下街の飲食店街を歩いて、地下駐車場に出た。学生時代に買って四年目になるキューブの後ろドアを開けて二人を乗せると、南区の女子学生会館に向かった。
大通りを越えるとき、光彦は窓に顔をくっつけるようにして噴水やテレビ塔に目を向けた。四月の札幌は冷え冷えして、桜の通過までまだひと月待たなければならない。そのせいか観光客も少なく、ベンチに人影はほとんどなかった。焼きとうもろこし売りの屋台も見えず、鳩がまばらに飛んでいるだけである。
光彦の関心の強さとは裏腹に、ルームミラーで見る芽衣は、窓に顔を向けることなくじっと前方をにらんでいた。ときおりその鋭い視線とぶつかって、真紀は肩をすくめた。
光彦から突然の電話が来たのは三日前だった。赴任して二年目になる南区の高校から帰宅し、シャワーを浴びてバスローブを着たときのこと。
十五年ぶりにきく光彦の声に、愛する男に体を撫でられたらこんな感じだろうと思えるほどの震えがきて、真紀はつい声をあげていろいろその後を尋ねたものだ。しかし光彦は生返事を返すばかりで、聞きたい現在の様子について語ることはなかった。
「芽衣が、真紀さんの高校に入ることになったよ」
といったのは、失望の思いで受話器を握ったままソファに腰をおろしたときである。驚きと同時に、激しい拒否感が心の底から奔流した。
「芽衣はあけぼの女子学生会館で暮らすことになっているんだけど、知ってるかな」
「ええ。何人かうちの生徒が入っていますから」
と答えたとき、光彦は信じられない申し出をしたのだ。
「男子禁制とか、管理がうるさい所らしいから、親としては安心なんだけどね。困ったことに入館はゴールデンウイーク明けになりそうなんだよ。高校生が一人卒業延期をくらってるみたいで、その部屋が空いてから入るようにいわれたんだ。でね、頼みなんだけど、今、真紀さんは一人暮らしなんだよね。どうだろう。四月いっぱい芽衣を同居させてやってくれないだろうか。前に真紀さんの部屋だった奥の小さなやつでいいよ。ほんの一ヶ月でいいんだけど」
 どこで聞いたのか、マンションに真紀が一人暮らしなのを光彦は知っていた。大学に通うようになったとき、母は足腰の弱くなった祖母の介護もあって、二つ向こうの駅そばの家に越していた。以来五年になる。母は父と結婚したときに買ったマンションではなく、生まれながらの祖母の家を選んだのだ。
 光彦がせかすようにいう。
「やはりだめかな。同じ高校の先生と生徒が一緒では」
朋美のことを考えれば断れるものではないし、芽衣がどのような子に育っているか、関心がないとはいわない。しかしなぜ真紀のマンションなのか。こちらで教員をしていた光彦には、他に親しい同僚がいるはずではないか。
真紀のためらいを感じ取ったように、光彦が重ねていう。
「芽衣も、ぜひ真紀さんに頼みたいというんだ。やはり同じ一族のほうが安心できるしね」
猫撫で声が耳に障る。光彦がどこまで詮索しているか知らないが、祖母に反抗して育った真紀には、一族という言葉ほど腹立たしいものはない。すべて一族のために犠牲にしなくてはならないからだ。結婚さえ自分の意思で選ぶことができない。見てくれがよいこと、家庭というものへの願望が強いこと、それに寡黙なこと。それであれば、父のように「無学な者」でもかまわない、というのが祖母の考えだった。
 そのような真紀に、光彦は一族という言葉を撫でるように故意に使うのだ。
唇を噛んで黙していると、真紀はふと光彦にグラタンを作った夜のことを思い出した。あれは小学生の真紀にとって特別なひとときだった。それから多くの楽しかった思い出が噴出してきて、泣きそうになった。それもあって、両手を広げてとはいえないまでも、引き受けることに決めたのである。
 電話を切るとき、光彦がぼそりとつぶやいた。
「助かったよ。やはり一族の絆は強いんだな」
真紀は過去からあふれてくる様々な思いに浸りながら、黙ってハンドルを握っていた。小学生だったときの真紀は、今、後部座席にいてきょろきょろ札幌の街に視線を投げている男と一緒に笑いたい、と常に思っていた。それは、おそらく今もそうにちがいない。しかしそばにいる芽衣が、口元から洩れるその笑いを乱暴にむしり取るだろう。
 あけぼの女子学生会館に着いて、訪問者用の駐車場に入れると、光彦が、
「きっと三十分ぐらいはかかると思う。悪いけど待っていてくれるかな」
「いいですよ。ごゆっくり」
 目でほほ笑むと、光彦は芽衣の手を引いて会館のロビーに入って行った。二十四時間体制で常駐する警備員が、光彦に名前などの記入を申し出ているのが見えた。
 真紀は煙草を一本取り出し、駐車場横の低い柵に腰をおろした。真下の豊平川に雪解けの濁った水が流れている。広い河川敷に遊ぶ子供の姿は少なく、四月といっても吹きつける風は薄ら寒く、思わずコートの襟を立てた。
 煙をゆっくり吐きながら、これから先一ヶ月の生活を考えた。明日の入学式が終わると、翌日から授業は平常通りにある。市内の名門校だから選りすぐりの者が集まって来るが、勉強のことは心配ない。朋美は林檎園の手伝いをしながら易々と道内の国立大学に入っている。その知識を芽衣も受け継いでいるはずだ。真紀の家から高校まで離れているが、まさか毎朝車に乗せて行くわけにはいかない。電車と地下鉄を使えば乗り降りを含めて一時間近くかかろう。札幌の地理に疎い芽衣は大丈夫だろうか、と心配になったが、すぐに心配した自分を笑った。いくら地方にいるとはいえ、芽衣も一族の一人である。つい保護者気分になっていたのが面映い。教員稼業をやっているとこうまで心配性になるのか、とおかしかった。
 雲が割れて陽射しはそこそこあるのに、ひんやりした風がセミロングの髪を払っていく。光彦の暮らす北の内陸部はこんなものではないだろう、と想像して寒けがした。
 やがて二人が出てきた。ドア口で警備員に頭をさげている。昔はどこかへらへらしながらも余裕があって、卑屈に頭をさげる男にはみえなかったが、芽衣と暮らした年月が心にいじけた染みを作りだしているのだろうか。人は変わる。変わらないのは記憶だけである。
 キューブのドアを光彦のために開けると、頭をさげて、
「ほんとに遠い所、申し訳ないね。なんなら電車で行ってもいいんだけど」
 と遠慮した。
「いえ、いいんです。私も久しぶりに遠出できてうれしいです。それにね、先生。今は電車も、小樽の向こうは日に十本ほどしか走ってないんですよ」
「そうか。じゃあ、家内の実家も過疎村になっているのか。さびれているだろうな」
 二人が乗りこむと、真紀はエンジンをかけて、道路に乗り出した。
「途中から高速にあがりますけど、それでも一時間半はかかると思いますよ。お疲れでしょうから、お休みになっていてください」
「そうだね。今朝早かったもんで、そうさせてもらうよ。おまえも休んだほうがいいぞ」
 そういって、芽衣を見る。芽衣は返事をしないで、片手に顎をあてたまま不貞腐れたように窓の外に顔を向けていた。
 朋美の墓参りを提案したのが芽衣だと電話で聞いて、真紀は異様な感じを持ったが、自分が父親を懐かしがるように、芽衣は今も母の姿を追っているのだろうか、と不憫な思いが湧いた。
 日曜日の国道はいつもの通勤時の混雑をみせず、車は豊平川沿いを軽快に走った。芽衣は、眠る光彦の横に座って押し黙っている。

 光彦は、最初から朋美を道北の墓に入れることは考えていなかった。それは葬儀に参列したときに聞かされたことだ。生まれた町の墓に朋美を入れるほうが、一人暮らしの義母はよろこぶだろう、といって町営墓地を選んだのである。生物が専門だった光彦は、死んだ者は土に帰るだけのことでそこに心が残るわけではない、と常々いっていたから、その表れであろう。光彦ほど霊魂や崇りから遠いものはない、と真紀は子供ながらに理解していた。
 朋美の墓は見晴らしのよい山の中腹にあった。遥か眼下に林檎園がいくつも散らばっている。秋が深まると、辺りは真っ赤な林檎の海になるのだろうか。
 水も何も用意していない。光彦は、駅で買ったというお菓子の袋を一つ供えた。
「さあ、母さんに手を合わそう」
 そう促して、昨夜の雨でぬかるみの残る墓前にしゃがみこんだ。真紀も横にしゃがんで手を合わせる。すると墓石の背後から鼠が数匹顔を出して、くるっとした目を向けた。
両手を合わせたまま振り返ると、黒いコートを着た芽衣は突っ立って墓石をにらみつけていた。その目つきが尋常と思えないほど暗い。
 光彦はうつむいているが、真紀は急いで立ち上がり芽衣と距離を取った。
 すると突然、芽衣が朋美の墓石を足で蹴ったのだ。それほど力が入っていないから墓石はぐらりともしないが、朋美の名を刻んだ部分が泥靴で黒く汚れた。
「てめえは、何をやっても中途半端なんだよな」
 芽衣が腹立たしそうに墓石に叫んで、さらに片足に力を入れてぐりぐりと泥靴を擦りつけた。鼠がゆっくり消える。
 光彦があわてて芽衣の背後にまわり、両手でその肩を引き、
「母さんに何てことするんだ」
 と声を荒げた。
 肩を取られて一瞬よろけそうになった芽衣は、今度は光彦に怒りの顔を向けた。
「ここにいるのは、おれのおふくろじゃねえよ。ただの骨だよ。てめえがいつもいってるじゃねえか」
光彦を見つめる芽衣の眼差しが冷え切っている。
 芽衣は、今どき誰もいわない「おれ」という言葉を使った。道北の中学校では今も流行っているのだろうか、と呆れたが、それにしても芽衣の振る舞いは常軌を逸していた。心に重い鬱屈があるのがわかる。子供の頃の真紀もそうだった。しかし母親の墓を踏みにじるなど、理解できることではないのだ。
 光彦が力なく羽交い絞めしていると、芽衣がまた父親に顔を振り向けた。
「てめえも、おれが死んでくれたほうがよかったと思ってんだろ。おれを恨むなよな。恨むならこの中途半端なおふくろを恨めよな」
 そういって芽衣はまた墓石に足をあげようとした。光彦は弾かれて、なすすべもなくおろおろと芽衣を見つめているばかりだ。真紀が代わりに叫んだ。
「芽衣ちゃん、やめなさい!」
 芽衣が首をねじりあげるようにして、真紀をにらみつける。
「何だよ」
「お母さんのお墓にそんなことするもんじゃありません」
「おお、いっぱしの先コウみてえな口きくじゃねえかよ」
「当たり前じゃない。明日から私はあなたの先生よ。忘れるほどばかじゃないよね」
 芽衣がねめるような目でじりっと寄った。
「おれを殺そうとしたやつが先生かよ。いっとくけどな、すべててめえが悪いんだぜ。こいつに、もっとはっきりいえばよかったんだ。おれは生まれるべきじゃないってな。中途半端にいうから、土壇場でこいつもためらったんじゃねえかよ」
「ためらった? 何の話?」
 芽衣は吹き来る風で乱れる髪を払って、唸るようにいった。
「こいつな、おれのおふくろな、おれを殺そうとしたまでは立派だったよ。褒めてやろうじゃねえか。それなのによ、どうしてしっかり殺さねえんだよ。おれはこいつの腹にいたときに、小夜という化け物とつきあってきたんだぜ。いいかげんうんざりしていたから、こいつが、二人で死のう、と誘いかけたとき、おれも迎える気持ちになっていたよ。てめえの語るおれの未来予想図を聞けば、誰だって生まれたいなんて思わないだろう。だから窓から飛び降りたとき、おれ、こいつと心中するのかと、実際わくわくしたんだぜ。それをなんだ、地面に着く直前になって、急に体をねじって、おれを庇うんじゃねえや。おれを潰すために腹から落ちるはずじゃなかったのかよ」
 芽衣の目尻が光った。風に流されて、髪が白い頬に張りつく。
「こいつは、どうしておれなんかを助けようとしたんだよ。おかげでおもしろくもねえ十五年を、寒い田舎で暮らすはめになっちまったぜ。わかってんのかよ」
 痛々しく叫んで、芽衣はまた墓石に足をあげた。真紀は思わず芽衣の手を力まかせに引いた。
「やめなさい! あなたは……」
 言葉が途切れた。真紀は頭をがつんと叩きつけられたような衝撃を受け、立っておれなくなった。そのまま地面が割れて闇の底に墜落するような感覚に襲われたのだ。
そのとき地の底から土壁に反響するような声が聞こえてきた。真紀はその声をはっきり聞いた。
「おっかさん……」
 甘い撫でるような声。それは芽衣の声に似ていたが、明らかに別の誰かの口から吐き出されたものだった。ずっと幼い。すぐにどんどんと何かが叩かれる荒々しい音が続いた。
すっと見えてきた。薄暗いあばら家の中。ばんと芯張り棒が弾け、痩せこけた男たちが手に鍬や斧を持って飛びこんで来た。鍬が振りあげられ、斧が薄闇を裂いた。真っ赤な血が飛沫となって散る。なのに笑っている。幼いが、気味悪い笑い声。誰が笑っているのだろう。
 小夜だ。今小夜が自分のそばにいるのだ、と悟りが降ってきたように理解した。血飛沫の中で笑う小夜は初めて見るものだった。こんな小さな小夜がいたのか。
 突然真紀は弾き飛ばされていた。頭が折れたようにがくんと後ろに垂れ、片手がぬかるみに埋まった。荒い息を吐いて見あげると、芽衣が怪訝な表情を向けている。その背後で、光彦がはらはら表情を揺らしている。
 芽衣が目を剥く。
「小夜を見たことなかったのか」
 ゆっくりうなずいて立ちあがった。手で払ってみたが、コートに付着した湿った泥は落ちそうにない。真紀がつぶやく。
「この小夜さんは初めて」
 芽衣は信じられない表情をした。
「じゃあ、てめえの脳には傷はないのか」
「傷? 芽衣ちゃんにはあるの?」
「今、確かにてめえは小夜まで辿れたよな。脳が壊れてなくて、そんなことができるのか」
 芽衣が何をいっているのか、真紀には理解できなかった。当惑して首を傾げると、芽衣は呆れ果てたように瞳を大きくする。
「おれが小夜まで辿れるのは、おれの頭が壊れているせいだとばっかり思ってたぜ。だからおれは特別なんだとな。ばっかくせえな。オヤジ、帰るぞ。やっぱりここには骨しかねえや。あいつの気配さえ感じられねえ。オヤジのいった通りだった。墓なんて何の意味もねえな」
 芽衣は車を停めている下の広場に向かって坂をくだり始めた。真紀はコートを畳んで腕にかけ、あわてて後を追う。
「芽衣ちゃん、脳が壊れているって、どういうこと?」
真紀が肩を並べてきくと、芽衣は鼻で笑った。
「どってことねえよ。おれはあいつの腹から無理やり引っ張り出されて、半日ほど保育器にいたんだ。息苦しくてな。オヤジに助けを求めても、ばっかみたいに突っ立っているばかりだしな。おかげで脳細胞が壊死したわけよ。わかるだろ?」
「わかるわ」
 と答えながら、保育器の中で苦しむ芽衣を哀れに思った。
「おれの悪口をさんざん吹きこんだくれえだから、てめえも同類だと思ってたぜ。小夜を知らねえとはよ。呆れて物もいえねえぜ」
 芽衣は自嘲するようにまた笑ったが、笑うと中学をやっと卒業したばかりの、素直でかわいい顔になる。しかしその笑顔の奥にはまだ自分がきちんと捉えたことのない小夜がいて、芽衣を縛りつけているのをはっきり感じ取ることができた。それは生半可なことでは跪きそうにない何かだった。

 真紀の運転するキューブが札幌のホテルに着いたとき、すでに陽は落ちていた。ホテルは中堅のもので、玄関口に車を止めても、ボーイは出て来なかった。夕食を一緒にどうか、と誘ったが、助手席の光彦は断った。
「少し疲れましたので、このままホテルでくつろぎたいと思います。あとで芽衣とラーメンでも食べに行きますよ」
 丁寧な口調には、叩いても砕けない氷塊のような拒否があった。
 真紀は失望を払うように無理に笑顔を作って、バッグから部屋の鍵を取り出し、後部座席の芽衣に差し出した。
「明日は先にマンションに入っててかまわないから。これ、スペアのキー」
芽衣はひったくるように受け取った。
「管理人さんには話してあるからね。そうそう、場所の説明しないと」
 芽衣が薄ら笑いを浮かべた。
「あいつが何度か行ってるから、そんなのわかるじゃねえかよ。忘れたのか、おれたちの力」
 車から降りた光彦は、パワー・ウィンドウに顔を突っこむようにして、芽衣をよろしく、と何度も頭をさげた。
「明日の入学式が終わったら、私はそのまま帰ります。真紀さんとお会いすることはもうないかもしれませんが、お体にお気をつけて、お仕事頑張ってください」
 光彦はまた深々と頭を垂れた。
今日、半日つきあって知った光彦の置かれた状況に自分はやはり責任があるのだろうか、と息苦しくなったが、光彦が窓から顔を離す寸前、思いがけず言葉が口を突いて出た。
「先生、覚えてます? 卒業まで私の担任をして頂くことになっていたのを。先生も、いい、とおっしゃいましたよね」
 何をいいたいのだろう、と自分でも訝しかった。しかししょんぼり肩をすくめる光彦に何かいっておきたかったのだ。これでもう会う機会がないとしたら、自分に向けられた憎しみ、恨みを解くのは今しかない。決して良い子ではなかった。けれど、自分はそんなに悪い子だったのだろうか。少なくとも、光彦にとって。
 光彦は目を細めて哀れむような眼差しで真紀を見つめていた。その視線の奥に和みが生まれて、光彦がいう。
「真紀さんは普通の大人になったんだね。大変だったと思うけど、安心しました」
 半分は芽衣に聞かせるためだったろうが、真紀は胸が熱くなった。
 それだけいうと、光彦はそっと窓から離れて、恭しくもう一度頭をさげた。円周率や日本霊異記のクイズを出してくれた男は、その丁重すぎる態度で再び真紀を拒絶したのだ。
 真紀も頭をさげてアクセルを踏みこむ。
 ルームミラーで確認すると、光彦はしばらく車を見送っていたが、先にホテルに向かった芽衣が呼んだらしく、あわてて視界から消えた。
 光彦は、半日にも満たない時間のうちに真紀が選んだ今の状況を正確に感じ取ってくれたのだ、そう思うと再び瞼が熱くなる。細い指先で涙を払いながら、わけのわからない悲しみと同時に、一番理解してほしい人に理解されたよろこびを深く感じた。

 帰宅してシャワーを浴び、涙を洗い落す。半乾きの髪のままバスローブを着てコンビニから買った野菜サンドを食べていると、チャイムが鳴り、インターフォンを通して留美子の声が聞こえてきた。そういえば、顔を出すかもしれない、と昼間いっていたのを思い出し、さびしい気持ちで夜を過ごすことはないのだ、と玄関に向かう足取りが弾んだ。
 ドアチェインを外して留美子を中に招き入れながら、
「さっき帰って来て、パンを食べてたところ」
 と片手に野菜サンドを持ったまま、明るい声を出した。
 グレイのシャツにジーンズという気楽な出で立ちの留美子は、ソファに座って一、二度リビングを見まわしてから、
「何もなくて殺風景な部屋だね。観葉植物でも置けばいいのに」
と初めて部屋に入った感想を述べた。
「私、植物を置くの、嫌いなの。息苦しくなるから」
「そっか。そうだったね」
と、にが笑いしてから、手に持つコンビニのビニール袋を開けて缶ビールを取り出し、その一缶を真紀に手渡した。
 ついうれしくて急いでプルトップを開ける。
「じゃあ、真紀ちゃんとの再会を祝して乾杯!」
 留美子はにぎやかにいって、ビールを一度高く掲げてから口に含んだ。
 真紀は何もいわずうつむき加減ににこりとして、片手でつまんでいた残りのサンドイッチをあわてて呑みこむと、ビールに口をつけた。
「おいしい」
 真紀が天井を向いて男のように舌を鳴らすと、留美子が笑う。
「なんか変。真紀ちゃんがビール飲むなんて」
「変じゃないわよ。私だってもう社会人だもの」
「でも、私の中には毎日保健室に来ていた小さな真紀ちゃんがいるの。やっぱり何かおかしいな」
 真紀は煙草を一本抜き取って、口にくわえる。
「こっちのほうがもっと変じゃない」
「どっちも」
「そうかな」
 真紀はくすりと笑ってうつむく。
 これから何年教師を続けるかわからないが、おそらく今留美子が感じている違和感はやがて自分も持つだろう、と煙を吐きながら思った。卒業した生徒たちは、現実にはそれぞれの歳月をどんどん突き抜けて行くのに、送り出した真紀の胸の中では十八歳のままで花になってしまう。顔も幼く肌も瑞々しいままいつまでも咲き誇って、おそらく胸のうちに永遠という名の空間が生まれるのだろう。留美子の中では、自分も小学生当時の日本人形に似た髪型のまま、他の花たちと楽しげに戯れているにちがいない。送り出した生徒たちを、自分もまた心の花園にずっと住まわせてやりたい、と思った。
 留美子が一気に半分ほど飲んでから、たった一週間で繰り返し聞かされたことを、また繰り返す。
「まさかね、真紀ちゃんが同僚になるとは思わなかったな」
「それは私も同じよ。校長が転任者の名前を発表したときはびっくりしたよ。高校生を相手にするイメージなかったもの」
「養護教諭は小・中・高、全部が転勤の範囲だし、市内異動だからね。こんなの頻繁にあるみたいよ。でも、いろいろ聞ける人がいて、ほんと助かったな。高校って初めてだからわけわかんないでしょう。おまけにすっかりおばさんになってしまって、物覚えも理解力も悪くなってね」
「まだおばさんには早いんじゃない?」
 といいながらも、確かに老けたな、と思う。記憶の中の留美子は新卒でばりばり張り切っていた。保健室の常連だったから、何度世話になったかしれない。
 留美子は背中を丸めて口をへの字にし、
「あと三年で四十よ。出会ったときは、私だって二十二歳だったもの。今の真紀ちゃんより一つ若かったんだよ」
「小学生の私にはすっかり大人って感じだったけどな」
「こらっ、ほんとはおばさんっていいたいんでしょう?」
 留美子が右手を伸ばしたので、真紀は両手をすくめるようにしてソファにもたれこんだ。
「先生、そんなことしたら、煙草の火で火傷するわよ」
「こいつぅ」
 と留美子は行き先を失った右手をおろしたが、その目にはまだ小学生の真紀が映っているのだろうか。そうなら光彦にも同じ気持ちを持っていてほしかった、と再びやるせない思いが湧く。
 ふいに留美子がさびしげな表情を浮かべた。
「あの年のことは、よく覚えているな。もちろん新任だったせいもあるけど、光彦先生の奥さんのこともあったしね。ねえ、先生どうだった?」
 リビングに入ったときから、光彦のことを聞きたくてうずうずしているのがわかっていた。だからじらそうとして、わざと口にしなかったのだ。
「田舎にこもってしまったせいか、元気なかったな」
「芽衣ちゃん、大変そうだった?」
 真紀はうなずく。
「先生も苦労してるな、と思った」
「懐かしいなあ。会いたかったけど、そういうわけにもいかないしね」
 留美子がしょんぼりしてビールを口に含むのを見て、真紀がいう。
「留美子先生元気だろうか、ってきいてたわよ。同じ高校になった、っていったら笑っていたもの」
 留美子の頬に曙光のような輝きがのぼる。
やはり好きだったのだ、と確信した。留美子が結婚しなかったのはそのせいかどうか。そこまで込み入った話をするに至っていないが、それも理由のある程度を占めていたのかもしれない、と思う。
 しかし実際光彦は留美子のことをきいたわけではなかった。光彦の心から留美子の影は、おそらくすっぽり消えているにちがいなかった。それがわかっていたから、敢えてきくこともしなかった。留美子だけではない。あの小学校に関する記憶の一切は、おそらく影も形も残っていないだろう。真紀のことを覚えているのは、それは懐かしさというより、恨みの感情が残留していたからにちがいない。でなければ、真紀も船板にへばりつく貝のように記憶の壁からがりがり削り落されていたはずである。恨みでしかつながっていないことはさびしかったが、それでも光彦の、子供が一人も遊んでいない心の草原に真紀だけがぽつんといるのは、よろこぶべきことだと思った。日が翳るように光彦の眼差しから永遠に姿を隠してしまうのは堪えられない気がした。
「まだね、先生、再婚してなかったよ。芽衣ちゃんを育てるのに一生懸命みたいだった」
「そうなの」
 留美子は一缶空けて、新しいのをビニール袋から取り出した。それからしばらくは、入学式のこととか、その後の健康測定のことなどを話した。
話が途切れたとき、真紀が唐突に芽衣の話題を持ち出した。
「実は今日ね、芽衣ちゃんに触ったの。そしたらびびっときた」
「何さ、びびっと、って」
「感じたの」
「小夜さん?」
「だと思うけど、すごく怖い気がした」
 留美子がきょとんと当惑の表情を作る。
「だって、真紀ちゃんは、これまでにも小夜さんの夢を見てきたんじゃないの?」
「二人の小夜さんは、子供の頃からずっと頭の中にいる。だから詳しいよ。でも、今日のは初めて」
 留美子は怪訝な表情を崩さない。
「それって、最初の小夜さんのこと?」
「よくわからないけど、そんな気がする」
真紀が一番身近に感じるのは、家に放火した小夜。菜種油を撒いて火をつけたときの鼓動までわかる。小夜は泣いていた。泣きながら、凶悪な怨みを継ぐ子供たちを根絶やしにしようとしたのだ。病院の六階の窓から鳥になって飛んだ朋美は、その小夜に倣ったのかもしれない。むろん芽衣を残すべきではないと確信した理由の一つに、自分がその危険性を告げたこともあったろう。
もし三番目が、あのとき子供たちすべてを焼き殺していれば、今の自分は当然いないし、一族という特殊な血のつながりもない。しかし朋美が着地の寸前になってお腹の芽衣を殺せなかったように、三番目も子供たちすべてを焼き殺すことはできなかったのだ。
もう一人の小夜は、島民を無差別に殺した小夜。虐殺されて雑木林に埋められたが、最近はめったに夢に現れない。現れても、冷たい空気を残して木枯らしのように吹き過ぎて行く。
残りの一人が予言する力があったという幼い小夜。祖母たちから話には聞いていたが、夢で見たことはなかった。その小夜を、芽衣の力を借りて今日初めて感じたのだ。
 留美子が顔を突き出すようにしていう。
「でもさ、そんなことって、ありえないんじゃない? だって、最初の小夜さんは一歳で亡くなっているよね。当然子孫もいない。じゃあ、どうやってそこまで辿れたのよ」
 留美子の疑問は、真紀も抱えるものだった。真紀の心のうちの、無意識と呼ばれる暗黒の宇宙には、母が、祖母が、そして何代にも渡る母たちが星雲のように漂っている。それらの体験と思いを、赤ん坊の頃から夢として吸収してきた。それは一族の特異な体質であり、形質が遺伝するのと同様に記憶が鎖のように途切れることなくつながって、今の自分を造っている。それが遺伝の一種である限り、当然母になれなかった者の記憶が受け継がれることはない。最初の幼い小夜が子を持たなかったのであれば、母親と共に虐殺された記憶が、真紀に、いや芽衣に届くはずはないのだ。
 返事ができないでいると、留美子が首をひねる。
「ひょっとしてさ、最初の小夜さんて井戸で死んではいなかったってことないかな。生きてどこかで結婚して、子供ができてたって」
「今日感じたのでは、結婚なんて雰囲気じゃなかったけどな。なんか怖い感じだったよ」
「女は化けるからさ」
「それはそうだけど」
留美子の冗談に真紀は曖昧に答えたが、墓地で幼い小夜に触れたと感じた際の印象はとても笑いごとには思えなかった。あまりに強烈すぎたのだ。
「その小夜さんを感じたときってさ、真紀ちゃんは小夜さんになっていたわけ?」 
留美子は考え深そうにビールを一口飲んできく。外貌は年齢以上に老けてみえるが、物事を探求しようとする姿勢には相変わらず若々しいものがあった。
「一瞬のことだからはっきりしないのよ。外から小夜さんを見ていたといわれたら、そんな気もするしね」
「ひょっとしたら、芽衣ちゃんの力を借りて、現場にいた誰かの記憶まで辿れたということじゃないのかな。その人の目になって小夜さんを見ていたとか」
留美子は共に虐殺された母親のことをいっているのだろう。しかしそれが母親であろうと、他の誰であろうと、虐殺の場にいたのであれば死を免れるはずはない。記憶が途絶する点では同じである。
留美子が目の焦点をぎゅっと絞る。
「私ね、小夜さんの夢を見る力はないけど、一度だけ、光彦先生と島に行ったときに感じたことがあるの。さっきと逆のこというみたいだけど、あれ、最初の小夜さんだったような気がするの」
 真紀が興味深そうな視線を向ける。
「そのときね、井戸の底から呼びかけられたの。自分は小夜で、井戸の底にいる、って」
「じゃあ、やっぱりあのとき死なないで生きてたってこと?」
「そこはよくわからないの。だって私が聞いたのは、はっきりした言葉じゃなかったしね。まるで朦朧と夢を見ているみたいに、何となく、というのが正しいかもしれない、そんな印象だったかな」
「それって、私が先生の家に泊まっていた日かな。島の知り合いに会いに行くとかいってたけど」
 留美子がうなずく。
「でね、私、気になったからもう一度カモメ島に行ったの。朋美さんが亡くなった日にね。そしたら島の役場の人が、井戸を調べたときは大人の骨しかなかったっていうのよ。つまり小夜さんの骨は消えてたって」
「抜け出したってこと? 小さな体で」
「きっとそう。だから最初の小夜さんは、あの井戸で死んではいないと思うのよ。子供がいたかどうかまでは、はっきりしないけどね」
 真紀の中に確信が見えてきた。小夜はやはり生きている。実際の小夜はむろん存在しない。しかし、思いだけはあの島に深く潜んで、今も地中の獣のように棲息しているにちがいない。そしてあるいは、その小夜には記憶をつなぐ者など必要ないかもしれないのだ。凄まじい力で、一族を支配できる。だからこそ、留美子のような末端の者でも感じる取ることが可能なのではないか。それほども深い恨み。
「私ね、もともと傍系だから、小夜さんのことそれほど関心なかったの。でも赴任した小学校に真紀ちゃんがいるのを知って、急に興味が湧いてね。真紀ちゃんは一族の中でも特別だって、前々から聞いていたから。それで、無理やり光彦先生をあちこち引っ張りまわしたってわけ。でも朋美さんのことがあってから、小夜さんと関わり合いになるのはよそう、と決めて、すぐに手を引いたけどね。郷土史の会も抜けちゃったから、あとのことは何も知らないの」
留美子の先祖は一族を嫌悪して離脱を図り、そのせいで傍系に追いやられて、すでに記憶の継承が無理な体質になっている。それは今話していてわかる。顔を近づけたときの息が芳しいのだ。
真紀は煙草を灰皿で潰した。
「なんかね。私、最初の小夜さんのこと関係ない人だって決めつけて、気にしないできたけど、そうもいかないのかなと思っている」
 というと、留美子が額に皴を寄せて忠告した。
「最初の小夜さんには、あまり関わらないほうがいいと思うけどな。きっといいことないよ」
「そうはいっても、明日から芽衣ちゃんが泊まりに来るわけでしょ。巻きこんでくると思うの。どんなに逃げようとしても」
留美子は黙した。いくら飲んでも平気らしくて、顔色は白いままである。目もきれいに澄んでいる。真紀も黙ってビールを飲む。
 明日は光彦先生に会うから身ぎれいにしなくちゃ、と照れ笑いして、留美子は九時すぎにせわしなく帰って行った。

 留美子がいる間は忘れることができたが、ソファに座っていると光彦と芽衣に会ったときのことが様々に浮かんでくる。やつれて見る影もない光彦も哀れだったが、それ以上に芽衣の手を取ったときに突然落雷のように襲ってきた光景が頭から離れない。いや、光景というのは正しくない。留美子のいったように、何かが明確に見えたわけではない。見えたという感覚に強烈に支配されただけのことだ。それは実に禍々しく感じられたのである。幼い小夜の笑いには悪意しかないように思われた。長い年月を越えて、その悪意が芽衣を通して真紀まで届いたのだろうか。眠れば気味悪い夢を見るのがわかっていた。しかし子供の頃と違って、最近は夢の中でも冷静でいることができる。つまり夢に呑みこまれることはめったにない。ときには夢を抑制したり、推進することもある。それほど見る夢が限られてきて、何度も辿った道を今日も歩くという感覚に馴染んできたせいかもしれない。
 しかし芽衣から伝わった小夜の思いが夢を育むとなれば、それはおそらく自分で制御することの難しい凶暴な夢になるだろう。とはいえ、芽衣の中にいる小夜に会ってみたい気持ちに強いものがあるのは、否定できないことだった。
いつもより早めにベッドに入った。何年たってもマンションのまわりは静かだ。時おり石狩湾から吹きつける北風が夜の静寂を破るだけである。
一度深い眠りに落ちたあと、やはり見たことのない夢が襲ってきた。最初それが何の音かわからなかった。地鳴りのように聞こえた。粗末な家から覗くと、雑木林の下が真っ黒になって動いている。黒くて粗い布地のような地面が、どどどっともの凄まじい音を響かせて揺れながら流れて来るのだ。
野鼠である。野鼠の異常発生があって、それらが、草や笹や腐葉土に咲く美しい花々を食いちぎり、粗末な家に向けて泥流のように流れ落ちているのだ。雑木林は、あっと声をあげる間もなく荒地に変った。
それから野鼠たちは狭い中庭を通過した。鼠同士が背中を擦り合わせるなまぐさい音が不快に耳を撫でる。鼠の大群は、足元に風を巻き起こし中庭を荒らして坂道をくだって行ったが、いつまでも黒い布地は途切れることがなかった。どれほどの数いるのだろう、と不思議に思うほどの群来である。
布地の先端が黍が植えられた遠くの畑に落ちた。さやさやと風に揺れていたひょろ長い茎が、空に吸いあげられたように呆気なく姿を消す。野鼠の大群が走り去ったあとには、緑の一切が消滅し、黒土が剥き出しになって朝日にぬめっていた。真っ青な海が高く波頭を持ちあげ、その海底に潜るように野鼠たちは村の中心に向かい、やがて地響きは遠くなった。
 真紀は汗びっしょりになって目を覚ました。うなされていたのかもしれない。天井は暗く、聞こえるのは風の音だけである。夜は深く沈んでいる。
 初めて見る夢だったが、島の光景は馴染んだものだった。海が一段高くなって、まるで高潮が迫り来るように見えるのは、三番目の視線を借りて何度も見ていた。しかし野鼠の大量発生など知らない。これは芽衣を媒体として最初の小夜がもたらしたものなのか。鼠たちは、草を食い散らし、潅木を齧り倒し、黍を根絶やしにして、狂乱したように里におりて行った。それはわかる。しかし、いったいいつのことなのか。それにどうして鼠たちは、自分が立っていた粗末な家を壊すことはなかったのか。
子供の頃から寝るのは苦手だった。これで当分眠りが来そうにないのがわかっていたから、リビングに出て、留美子が残していった缶ビールを一缶開けた。
あれは何だったろう、と飲みながら繰り返し思う。祖母が同じ夢を見たとすれば、野鼠の群れは、それはそのまま愚かな人類の暗喩、と嘲笑うに決まっている。鼠が通過したあと花園が荒地になるように、人たちが急ぎ足で疾走した背後にはぱさぱさの砂漠しか残らない。野の獣たちは狩られ、草地は踏み潰され、欲望で肥大した人間の胃袋は大地の恵みを貪欲に食い散らしていく。そんなことを間違いなくいうだろう。
小夜の一族といわれる者たちは、そのような人類の滅びの日を木に苔が生えるように待っている。いや、ただ待つだけではない。痺れを切らした祖母はその滅びに積極的に手を貸すことさえ考えている。とはいえまだ数が足りない。一族は生まれて、わずか百七十年閲したにすぎないのだ。
 小夜の子孫たちは、先祖の記憶を継承できるうえに肉体が劣悪な環境に堪えうることに、あるとき気づいた。それは大きな力のはずだが、公衆に晒せる力ではない。せいぜい化け物扱いされて、挙句は見世物小屋に閉じこめられるだけのこと。それを嫌って、一族は特異体質を隠しながらひっそり生きてきたのだ。襲い来る孤独感、屈辱感、閉塞感が、人類の滅亡という陰湿な願望を紡がせたのか。いじめられっ子が復讐の恐ろしい夢を想い描くように。
 確かに環境への耐性があるのなら、環境汚染、疫病、食糧不足による大飢饉など、どのような事態になろうと生き抜くことはできる。祖母が思い描く滅びの日の空はどす黒く汚染され、大地は夢で見た野鼠の疾走後のように荒れ果てて、とうてい人が住める場所ではなくなっているだろう。しかし、小夜の一族だけは、苦しみ悶えてばたばたと倒れる屍を蹴って、有毒ガスさえ平然と吸いこんで、瓦礫の街を歩くことができるのだ。
 祖母は、人類の絶滅した世界にやがて何者かが支配者として乗りこんで来る、と頑なに信じている。一族が生まれたのはその者たちに選ばれたからであり、やって来る者たちに人類の記憶をつなぐためであるというのだ。しかし、つなぐ相手がどのような者か祖母は知らない。神に似たものかもしれないし、逆に悪魔の様相を湛えたものかもしれない。
しかし真紀には、そもそも滅びの考え自体が馴染まない。そんなことになれば、なつかしい人たちの無惨な死を目の当たりにすることになる。光彦が汚染された空気を吸って苦しみながら死ぬのは見たくない。父が生きていて自分の目の前で悶絶するとしたら、そのような姿を座視できるわけはないだろう。
真紀は祖母に必死で逆らってきた。しかし自分も同類であることは否みようがなかった。真紀自身も朋美に芽衣の死を促し、そのうえ芽衣と同じ悪意を本能的に感じて妹を突き落としたのである。子供たちを皆殺しにして一族の流れを断とうとした三番目を真似たつもりだったが、死ぬとは思わなかった。自分の妹なら死ぬはずはないと確信して突き落としたのである。あまりに小さな妹のあっけない死に、真紀は恐ろしくて泣いた。自分が忌まわしくて、心は荒れた。涙を流していなくても、真紀はそれからずっと泣いていたといえる。だから平気で祖母に包丁を向けることができたのだ。
そこまで思い出して、真紀は激しい疲労を感じた。それでいて眠けは遠い。ビール缶を片手に一枚ガラスの戸を開けた。ひんやりした風が吹きこんできたが、外は真っ暗で何も見えない。雲が厚く垂れこめて、星も月もなかった。
自分の心と同じ真っ暗な空に缶を持ち上げてさびしく乾杯したとき、高校時代が忽然と浮かんできた。蓮の花が音を立てて開いたときのような懐かしさだ。真紀も、人並みに男子を好きになったことがあったのである。
真紀は校内でもその美しさゆえにマドンナとして崇拝されていたから、男子の畏怖の混じったものほしげな視線を常に浴びていた。しかしクラスにそんな真紀を無視し続ける颯爽とした男子がいた。その拒絶に胸を焼き、高三になってクラスが変わった春、自分から告白したのである。三度デートした。石狩の浜、植物園。三度目は男子がススキノのバーに連れて行ってくれた。真紀は、その夜は泊まってもよいと心に決めていたから、
「変な病気持ってないよね」
と積極的に誘ってみたが、ハイボールを飲んだ相手は、別れ際に手馴れた感じで真紀の唇を塞いだだけである。そしていったのだ。
「おまえはきれいだし頭もいいから、いうことないよ。それに一緒にいると、とっても快適なんだ。なんかさ、海辺にいるような感じかな。でもな、おまえ、どっか気持ち悪いんだよ」
 そういった目元には残酷な笑みがあった。
 人を好きな気持ちで見つめると自然に瞳孔が開くが、その大きくなった瞳の奥に小夜が潜んでいるのを感じ取ったらしいのだ。それからは廊下で会っても真紀を無視する皮肉な態度を貫いた。
 それはただの失恋ではない。将来、恋をするたびに繰り返されるはずの負の原型。男子の唇に嗅いだアルコールのにおいを掻き消すようにして、真紀は男という男に背中を向けたのである。
それからの真紀は、自分が化け物の仲間であることへの苛立ちが生まれ、鬱々とした日々を送った。内部にひっそり小夜を住まわせる自分とはいったい何者なのか。妹をこの手で殺し芽衣の死を願った自分は、どのような類の化け物なのか。そんな解けない疑問ばかりが煮だって荒れ狂った。
やがては、退屈な授業が終わるとススキノを闊歩し、肩をぶつけられただけで憎しみの目をぎらりと向けるようになった。バイクを盗んで髪をなびかせて夜の定山渓を突っ走ったこともある。工業大学の教授をしていた祖母の知識を借りれば、たとえそれらが時代遅れの知識であっても、停められているバイクのどれもエンジンキーなど必要なかった。星も月もない深夜、中山峠でライトを消した瞬間のまさに漆黒というべき闇をにらんで、これこそが自分の将来の姿なのだと暗澹と感じ入ったものである。湿り気を帯びた闇は、実体を持つ物のように真紀をじっとり抱えこんでくれた。
そんな化け物が、いつか他校の不良女子高生に目をつけられるのは当然のこと。呼ばれたとき、耳を齧り取ってやるぞ、と心をわくわくさせて、ときならぬ暴風雨の夜に豊平川の河川敷に向かった。羽ばたくような風に巻かれておびただしい数の鴉が真っ暗な夜空を飛び交っていたのを、異様なことと覚えている。
張り切っていたにも関わらず、不良は真紀の視線に射抜かれると一瞬にしてひるみ、がくりと膝を落とし、赤髪を揺らして嗚咽を始めた。真紀の眼力には、心の墓地に埋めこんだ水子のような悲しい記憶を甦らせる力がある。いや、正確にいえば、それは小夜の力だろう。小夜は舌舐めずりして笑いながら、人が泣きながら埋めた悲惨な過去を残酷に掘り起こすのだ。
そんな時期、嵐のような真紀の振る舞いを諌めるように父が頻繁に夢に現れたが、生まれて初めて父に逆らった。逆らいながら泣いて訴えもした。しかしついには父に負けた。負けようと決めた。真紀に向ける父の笑顔は、決して壊してはならないものと感じたからである。と同時に、祖母たちの夢想する滅びという考えが、短い日々をツッパリながらも懸命に生きた父の切ない気持ちと決してそぐわないことも、水晶玉を覗くのと同じほど明晰に知ったのである。父が願うのは、きらめくシャボン玉のような小さな幸せ、それだけだった。
真紀は自分が何者であるか、尋ねることを放棄した。妹を殺した悔悟の中で孤独ではあっても平凡に生きる道を選んだのである。担任だった光彦はそれを正確に見抜いてくれたのだ。
しかし実際、家庭への夢や特異な未来を捨てれば、生きるのはそれほど難しいことではなかった。三番目の小夜は、突然狂乱して家に火を放つ四十歳近くまで、平凡で慎ましやかな暮らしをしていたではないか。狂乱の日が自分に訪れるかどうか確信はないが、さしずめ今は三番目に従うことに躊躇はない。
「真紀が一族のやっかい者になったのは、パパのせいよ」
ビールを飲みながら、甘え口調でそうつぶやいてみる。
そんな自分が今高校教師をしているのは皮肉なことだと思う。けれど高校生たちと一緒に笑い悩むのは楽しいことだった。誰もが真紀を普通の先生として扱ってくれるからだ。父が夢で教えてくれたてらいのない幸せというものを、真紀は実感することができたのである。
しかし芽衣が同居を始めれば、心の奥に眠っている狂暴な何かが再び蠢動しないという自信はなかった。自分に三番目の小夜の四十歳の日の狂乱がいつか繰り返されないという保証は少しもないのだった。

入学式は呆気なく終わった。燕尾服を着た校長の式辞を聞き、来賓の式辞を聞き、それから新入生代表の宣誓を聞くだけの質素なもので、生徒の仮装パフォーマンスまである卒業式とは違って、退屈なものだった。
式が終わって、担任と一緒に生徒と父母が教室に向かう際に光彦の姿を捉えたが、声をかけるには距離があった。体育館を出て行く痩せたうしろ姿を遠くから見つめただけである。
職員室で、週明けにある校内実力テストの問題用紙をクラスごとに袋詰めしていると、一時間ほどして父母と生徒たちがぞろぞろ帰って行くのが窓の外にうかがえた。正門で記念写真を撮る親子もいる。
真紀は職員室に光彦が現れるのではないかと緊張して作業を続けたが、それはないまま敷地内から父母と生徒の姿はすっかり消えた。そっと窓辺に立つ真紀の体を、薄い失望が包んだ。
黒いパンツスーツの留美子がやって来た。目もとが少し赤い。
「会ったの?」
 留美子は首を振った。
「遠くから見ただけ。挨拶なんかできなかった。なんかつらそうで」
「芽衣ちゃんには?」
「どの子が芽衣ちゃんかわからなかったわよ。私にはみんなかわいく見えたもの」
 留美子はそういって苦笑した。
 真紀は茶化すように明るくいう。
「あの子、明日にも、きっと向こうから顔出すんじゃないかな。一番忙しいときに、暇そうにね」
「そうかも」
 軽く笑ったが、留美子の心が沈んでいるのがわかり、真紀まで悲しくなった。

 夕方スーパーで夕食の買い物をしてマンションにもどると、真紀の部屋からドアを震わすほどの音量で洋物ロックが吹き出て、廊下の壁にぶち当たって踊っていた。あわててドアを開けると、一瞬激音の洪水に弾き飛ばされそうになった。急いで買い物袋を玄関に置きリビングに飛びこむ。Tシャツにジーンズの芽衣がソファにひっくり返ってスナック菓子を食べていた。
真紀はオーディオのコードをコンセントからむしり取るように抜いた。
「ここは道北の一軒家じゃないんだからね。騒音防止条例って、あんた知らないの?」
 突っ張っていたときのように顎を持ちあげて怒鳴ると、
「知ってるよ」
 芽衣が不貞腐れた態度を見せる。
「あなたはそういう常識もないの?」
「ないよ。そんなもの。田舎者で悪かったな」
「音楽聞きたいならヘッドフォンで聞きなさい。常識がわからないような子を、この部屋に置くのは嫌よ」
 芽衣が鼻で笑う。
「常識がわからないって、似た者同士じゃねえかよ」
 真紀は唇をぎゅっと噛みしめた。
「あのときの私は子供だったじゃない。子供だから思ったことをいったまでよ」
「ガキであろうと何であろうとな、こいつには悪意と憎悪しかねえ、生まれたら大変なことになる、なんて母親にいうかよ。その言葉を聞いて、おれって、そんなひでえやつなのか、と考えて、腹の中で自分でも震えていたんだぜ。まだ七ヶ月でわけわかんねえときによ」
 七ヶ月の子に聞き取る力があれば、いわれなくても自分がどれほどひどい言葉を囁いたかわかる。おまけに芽衣を腹に宿す朋美を階段から突き落したりしたのだ。とはいえ、ここで負けるわけにはいかない。高校に入学したばかりの芽衣が必死で背伸びしようとするのなら、真紀も同じだけ背丈を伸ばすしかない。
「それにね。今のあなたを見ていると、私は間違ってなかったって確信できるわよ」
 だらしなく横たわっていた芽衣がソファに起きあがって、真紀を見あげた。幼い顔つきの中で目だけが異様な光を湛え、瞳の奥に何者かがいるのがわかる。それが真紀を射抜いている。昨日会ったばかりの最初の小夜なのか。
「いってくれるもんだぜ。おれのこと、知りもしねえくせによ」
「知らなくても今の姿を見たら、どんな子かくらいわかるわよ。今頃、朋美さん泣いてるよ」
 母親の名前を出されて芽衣は一瞬ぐっと詰まり、長い睫毛を伏せる。それからふわりと視線を遠くに投げた。まるで朋美の面影を虚空に探すように。
「あいつは骨だよ。骨が泣けるかよ」
 吐き捨てるようにいって、またもにらみ返した。
「てめえがどれほど上品振って叱ってもな、お互い小夜ってやつの子孫じゃねえかよ。そいつは今もいるんだろ、頭の中に」
「いるわけないでしょ、あんたの思うような小夜さんなんて。私には、そこまで辿れないもの」
 芽衣が唇をねじって、にやりと笑う。
「そんなことねえだろ。昨日墓場で手が触れたとき、あいつを感じたはずだぜ。おれも、てめえのおかげで、ずっと鮮明に感じることができた。これまで一族のやつらと何人も会う機会があったがよ。てめえだけだぜ、おれに反応したのは。先生面してても、中身はおれと同じ化け物じゃねえのか」
 芽衣はにたりと笑ってソファから立ちあがり、じりっと寄って来た。
「高校時代、派手にやらかしてたんだってな。道北まで鳴り響いていたぜ」
「知らないわよ、そんなこと」
「ばっくれるんじゃねえや。でもよ、元ヤンの先生って、なかなかいいじゃねえかよ。学校の成績がいいだけの青っちょろいのより、悪ガキのことが理解できて頼もしいぜ」
 真紀は困惑した。自分の恥ずべき高校時代が、風に乗ってどこまで届いていたのだろうか。
「しかし、そんなことどうだっていいや。誰だって、隠したい過去の一つや二つはあるさ。おれだって同類だからな」
 芽衣は一度言葉を切ってぎろりとにらみ、とっさに真紀の手を掴もうとした。真紀はすばやくその手を払って、数歩さがる。
「何するのよ」
 芽衣が舌舐めずりするように見あげる。
「何か、おもしれえな。おれ、一ヶ月ここにいさせてもらうけどよ。てめえの力を借りて、本物の小夜にしっかり会えそうな気がしてきたぜ。ていうか、おれたちは会わなきゃいけねえんだよ」
 ふっと芽衣が顔つきを幼いものに変えた。恐ろしいほどきれいで、奥深い表情になる。
 真紀は息をのんで、
「どうして会わなければいけないの?」
 と重い声をだした。
「簡単な話じゃねえか。てめえとおれは特別だからだよ。でなきゃ、こんな狭苦しい所に泊まりに来るかよ。あいつの腹の中にいるときからわかっていたさ。一族と大げさにいってもな、本物の小夜まで辿り着けそうなのは、今はおれたちしかいねえだろ。おれは脳に欠損があるから辿れるのかもしれねえけど、てめえは正常なままで同じ力があるわけよ。おれの上手をいって、頼もしいぜ。なあ、一緒に小夜をとっ捕まえて、やつがいったい何者なのかしっかり見てやろうじゃねえか」
「でも、どうやって本物に辿り着けるっていうの。あの小夜さんに、私たちまで記憶をつなぐ子供がいたっていうの?」
 芽衣は一瞬不安そうな表情をみせた。それから張り詰めていた気持ちを砕くようにふいに全身から力を抜く。
「そんなことより、腹減ったろ。おれが何か作ってやろうか。オヤジといたときは、おれが給食係だったんだぜ。あいつ、肉がだめだから、いつもいつも似たような、青虫が食うみたいな野菜料理だったけどな」
「野菜料理、私、好きよ」
真紀は無理に笑顔を作ったが、芽衣がどうして自分の質問に答えないのか不審に思った。芽衣も答えを知らないのだろうか。
 芽衣は鼻先でへっと笑ってから、玄関口に出てスーパーの袋を取って来た。キッチンに向かいながら袋の中身を覗いて、
「上等なものばかりじゃねえかよ。さすが札幌だな。おれのいた寒い田舎とは大違いだ。おお、ロースまである。給料安いだろうに奮発したんだな」
と、気抜けするほどよろこんだ。
真紀はソファにゆっくり腰をおろして軽く啖呵を切る。
「安給料で悪かったわね。今度からは野菜だけにするね。あなた、どう見たってお客って態度じゃないから」
 芽衣はへへへと笑うだけで何もいわず、野菜の水洗いを始めた。それから包丁で刻む。リズミカルな包丁さばきで、手慣れているのがわかる。それに刻む音が楽しそうに聞こえる。
 こんなんで一ヶ月持つかな、と心配になった。真紀が恐ろしい毒を持つ青蛇なら、芽衣は小夜に操られて空中を飛びまわる龍のようなものだろう。龍が本気になれば、太刀打ちできるものではない。
それでも朋美の名前を出したときの芽衣の反応に、真紀は少しほっとした。散々罵声を吐き散らしていたが、芽衣が母親への思慕を強く抱いているのがうかがえたからである。顔にかかってうるさいだろうに、髪を長くしているのは朋美と同じだったし、掻きあげる仕草も朋美を思わせる。母を嫌悪しているというのなら、同じように髪を長く伸ばすはずはない。それに墓石を蹴ったときに目尻に光るものがあったのを、真紀は見逃していなかった。何より母親を本気で嫌っているのなら、あそこまで罵ったりはしないだろう。罵るということは、執着があるということだ。芽衣はやはり、朋美のお腹にいたまま一緒に死にたかったのはないか、そんな気がした。
 それは真紀も抱く感情だからわからないでもない。もちろん母といっても、祖母と同居している実際の母、由紀江のことではない。家に火を放った三番目の小夜の、赤ん坊時代の思いが重なっているのだ。実際には見たことのないカモメ島の腐葉土の下で、母の胎内にうずくまって、たまにひもじいとき枝のような指で母の肉をつまんで食べた。歯が一本もないから、飲みこむのに桃色の歯茎で何度も噛んで柔らかくしなければならなかった。それを最初に体感したとき衝撃のあまり引きつけを起こし、留美子と光彦の世話になったのを思い出す。しかし何度も夢で吸収するうち、やがて母の肉をおいしいと思うようになった。それに何より母の腹にうずくまっているのは温かいのだ。腐臭こそ湧いていたが、それさえ心地よく、いつまでも胎内で眠っていてもいいと思ったほどである。とはいえ母が骨になると、食べ物を探しに地上に出るしかなかった。そのとき雑木林で見た華麗な花々や緑の樹木。降り落ちる光の雫。それらは真紀の記憶の中で今も燦然と輝いている。あのようにきれいな光景は見たことがなかったし、そのあと降ってきた天気雨の甘い味も忘れられない。母の肉は、真紀自身、実際に食べたわけではないが、地上の輝きは自分の目ではっきり確かめたものだった。
 キッチンから楽しげな料理の音が聞こえてくる。芽衣も、自分の子供の頃と同じくさびしい子なんだな、とまたも思う。

夢を見ていた。見てはいけない夢だという自覚があって、腹立たしい思いで歯を食い縛り悪夢から逃れようともがいてみたが、それはいつもと違って虚しい抵抗でしかなかった。
どこか暗い場所にいた。背中に固いものがあたる。くるまれている菰から指先を出して固いものに触れると、べっとりと湿った感触を残す。土壁のようである。べっとりしているのは、天井を蔽う板のかすかな隙間から雨が垂れ落ちて、土壁を滴ってくるせいだろう。狭い空間の中の空気は澱んでおり、それは衣服のように暖かく体を包みこんでくれた。
ふいに声が聞こえた。
「これ、うまいよ、食べるか」
 暗くて声の主の確認はできない。顎をあげ、笑顔で口をぽっかり開けた。その口に何かが入ってくる。ぬるっとするが、歯茎で潰すと甘い汁が垂れた。
「うまいか」
 何度もうなずく。伸びた髪が耳にかぶさって痒い。また一つ口に落ちる。齧る。
 真紀は、おそらく井戸の底にいて小鳥のように餌をもらっているのだろう。とすれば、食べさせているのは、死んだはずの母なのか。菰にくるまっているということは、この子が予知能力を持つ一番目の小夜なのだろう。二番目は雑木林に埋められたし、三番目は焼死したはずだ。
その小夜の心が少しも荒れていないのは奇妙に思えるが、いずれにしろ井戸の底は孤独で、暗くて、不快な場所というだけでなく、どこか安らげる場所なのだ、と真紀には実感できた。
誰かが甲高い声をあげて笑った。自分かもしれないし、他の誰かかもしれない。あまりにも無邪気で明るい子供らしい声。
そのとき急に、飛翔していた空から眼下の湖水に墜落するような感覚に襲われ、はっと目を開けた。体が冷や汗で濡れている。
薄暗いベッドの端に芽衣が座って、脈でも測るように汗に濡れた真紀の手首を握り、夢見るように恍惚としているのが目に入った。
真紀は急いでその手を引き抜き、上半身を起こして声を荒げた。
「何してるのよ!」
 枕元の電気をつけると、芽衣は青ざめた顔にかすかな笑みを浮かべて見つめていた。嘲りの笑みではなく、心底からよろこんでいるような穏やかな笑みだ。
「ごめん」
 芽衣が素直に謝って、真紀を驚かせた。
「いったいどうしたのよ。勝手に寝室に入ってきて」
 芽衣がゆっくり起きあがる。
「悪かったよ。おれ、もう寝るから、邪魔はしねえよ」
「どうしたの。わけわからないじゃない」
重ねてきくと、芽衣はどこか曖昧な表情を作った。
「やっぱり思ったとおりだったな。今な、おれたち一緒に小夜の夢を見ていたんだ。でも、他にもおかしな夢を見たな。どうして殺されたのか悩んでいるやつがいたぜ。じゃあな」
芽衣は背中を向けて、影が揺れるように寝室から出て行った。
真紀はベッドに上半身を起こして、パジャマの裾で額の汗を拭く。芽衣は、小夜の夢を見させようとして真紀の手首を掴んでいたのだろうか。一族の他の誰も反応しないといっていたから、真紀の力をもう一度試してみたかったのかもしれない。しかし、それはどういうことなのか。芽衣を支配する小夜に自分を取りこむためなのか。
真紀はリビングに出て、蛍光灯は消したままソファに腰をおろした。
子供の頃に使っていた部屋から明かりは洩れて来ない。芽衣がこんなに早く寝つくとは思えないが、のこのこ顔を出す様子はなかった。ようやくゆったりした気分になる。真紀は今見た夢のことを考えてみた。
 どういう経路で最初の小夜に出会うことができたのか、という疑問は消えなかったが、芽衣からの刺激で一番目まで辿れるとしたら、芽衣はもちろん、自分も特別なのだろう、と納得した。一族の多くは小夜を脳内に潜ませているが、それらは決して一番目ではない。せいぜい鉈を振りまわした二番目。その二番目にさえ、母の由紀江が届いているとは思えないし、祖母だって怪しいものだ。一族を新人類とすれば、真紀と芽衣はさらに上をいく突然変異体なのだろう。祖母は、人類が滅びたあとにやって来る者たちと共存するために一族はいるというが、そのつなぎ役として芽衣と自分は選ばれたのか。
 その疑問の流れに、真紀はあわてて首を振った。自分探しなどとっくにやめて、悪夢のような小夜の記憶のすべてを封印したはずである。求めるのは小波さえ立たない湖畔のような静けさ。憑き物が落ちたように荒れ狂った日々がおさまったとき、自分はそのような慎ましやかな日常を確かに選んだはずだ。しかし、芽衣が来てまだ一夜も経過していないのに、穏やかな日常という砂の城はすでに崩れ始めている。もはや逃げるわけにはいかないのか。
母の代からある掛け時計の時を刻む小さな音が、夜の静寂を破るほど大きく聞こえる。
 ふと芽衣が妙なことを口走ったのを思い出した。どうして殺されたのか悩んでいるやつがいる、といったのだ。真紀の夢には小夜しか現れなかったから、それは小夜の抱く悩みなのか。
もう夢を拒むまい。自分が何者かを知るためにも、井戸の底の小さな小夜を徹底的に感じてやろう、と無理にも覚悟するしかなかった。

担当のLL準備室でぼんやりしていると、留美子が顔を出してソファに座った。進路指導室が秋口に応接セットを新調したので、もらってきた使い古しのソファ。ご丁寧にもコーヒー染みまである。
留美子のためにコーヒーメーカーでブルーマウンテンを落していると、
「今朝ね、保健室に芽衣ちゃんが来たよ」
 といった。予測したとおりの話だ。
「不貞腐れていたでしょう?」
「そうでもなかったけど、いろいろ話していった」
「どんなこと?」
「光彦先生のこととかね。しょぼくれたオヤジっていってたよ」
 真紀は気の毒な気持ちで、心で首肯した。
「向こうでもだいぶ悪かったらしいね。だから光彦先生も地元の高校じゃなくて、こっちを推薦したみたい」
「確かによくはないわね。うちにいても、何にでも突っかかってくるよ。でも料理を作るのが好きみたいで、夕食はいつもあの子がやってくれるの」
「誰にも取り柄ってあるもんだね」
 真紀は苦笑しながらコーヒーを注いだ。留美子は砂糖を二つ入れて一口啜る。
 真紀は裏手に向いた窓を細めに開けた。壁を伝うようにして冷たい風がサッカーグランドから吹きあげてくる。煙草を一本取り出すのを見て、留美子がコーヒーカップを手にしたまま目を丸くした。
「真紀ちゃん、校舎内は禁煙だよ」
「だって、たまには吸いたくなるもの」
 甘えるようにいった唇から煙が洩れて、狭い窓の隙間を抜けて冷気の中に溶けていく。グランドの端にヤチダモの巨木が風に若葉を揺らし、その根元には黒ずんだ雪がまだ残っていた。
「真紀ちゃんも悪い子だね」
「芽衣ちゃんほどじゃないけどね」
 小さな声で冗談をいうと、留美子は仕方ないなという顔をして、またコーヒーに口をつけた。
「でもね、あの子、何ていうのかな。私と話している間に顔の表情がいろいろ変わるんだよね。不思議なほど変わるの。あんな子、初めて見たよ」
 真紀は眼下のグランドを見つめたまま、くすりと笑う。
「わざとやったのよ。私もそうだったもの。覚えてないですか」
「忘れちゃったな」
 真紀は三分の一ほど吸った煙草を携帯灰皿に入れて、窓を閉めた。
「私たちの頭の中って、いろんな人がいるでしょう。だから表情のモデルがたくさんあるの」
「それはそうだけど、そんなに簡単にできるの?」
 真紀はソファに座ってほほ笑んだ。
「何でもないわよ。芽衣ちゃんはね、これまでいろいろ悪さしてきただろうけど、きっと泣いて許してもらったんじゃないかな。あんなきれいな顔で泣いた振りされたら、誰だって許しちゃうよね」
「体験談なの?」
 留美子がからかう。
 真紀は真面目顔してうなずいた。そしてすぐに舌を出す。
「嘘に決まってるでしょう。私、そんなことしないよ」
「してたかもしれないな。高校のときなんか、案外突っ張ってたりして」
 胃にずしんと重みがくる。留美子は、自分の過去を知っているのだろうか。
「してない、してない。真面目を通して、お姫さまみたいに超然としてたんだから」
 自分でいいながら、「お姫さま」といういかにも不似合いな言葉につい声を立てて笑ってしまった。
 留美子が呆気にとられて真紀の肩を手で押す。
「やめなさいって。あんたね、どうして笑うとそんなに下品になるのかな。黙っていれば本当にお姫さまかもしれないのに、笑っている真紀ちゃんはまるで長屋のおかみさんだよ」
「長屋のおかみさん?」
 といって、真紀がまた身をよじった。
「小学生のときも何度か注意したと思うけどな。全然直ってないね」
 ようやく笑いやんで、真紀は垂れた前髪を手で払った。
「私ね。白状するけど、直す気ないの。これ、好きなの」
「好きって、普通そんな下品な笑い方って嫌がるけどな」
「確信ないけど、これね、父方のおばあちゃんのを受け継いでいると思うの。とっくに亡くなったけどね。だからね、こうやって笑っているときって、いつも父がそばにいてくれるような気がしてうれしいの。だから、変えない」
 留美子は両手でカップを包むようにしてコーヒーを飲みながら、怪訝そうに眉をしかめた。
「父方のおばあちゃんって、会ったの?」
「父の葬式のときに一度見ただけ」
「葬式で、そのおばあちゃん、下品に笑ってたの?」
「まさか」
「じゃあさ、どうして知ってるのよ」 
 真紀は、留美子を困ったように見つめた。
 留美子が背中を屈めたまま続ける。
「だってさ、一族って母方の記憶しか残ってないって聞いたよ。違うの?」
「間違いないわ」
「なのに、真紀ちゃんにはお父さんの記憶もあるの?」
「違う違う。父に聞いただけ。父がいつも真似をしていたので、私にそれが移っただけよ」
 あわてて否定した。一族の中で父方の記憶を併せ持つのはおそらく真紀だけだろう。そういう意味では、特別とも、はみ出し者ともいえる。自分の頭の中に死んだ父の若い日々が鮮明に残されていることは、祖母も母も知らない。うかつに喋ることではない。
「でも、本当はお父さんの記憶もあるんじゃないの?」
 留美子が探るような目つきでいったとき、授業終了のチャイムが鳴った。留美子は、何かを吹っ切るように立ちあがる。
「さあ、もどらなくちゃ。健康測定の仕事、ほっぽりだして来ちゃったから。それに保健室にお客さんが来てるかもしれないしね。こうみえても、私忙しいのよね。じゃあ、またね」
 留美子はあたふた出て行ったが、何のために校舎外れのこんな所までやって来たのだろう、と首を傾げた。芽衣が保健室に来たことを知らせたかったのか、それともただの息抜き。中年の男性教師たちは、真紀の空き時間を狙って頻繁に顔を出してコーヒーを飲んで行く。それはわかる。二十代の女教師は真紀しかいないからだ。いや、二十代に限らず女性教師自体が高校には少ない。しかし留美子の場合は違うだろう。どこか見張られているようで、重苦しい気分が残った。
入れ違いに次の授業の一年生がLL教室に入って来た。準備室のガラス越しに四十のブースが並ぶ教室を覗くと、生徒たちは音も立てずに着席して、静かにヘッドフォンを頭にかけてテープをセットしていた。入学して間もないせいで実に初々しく緊張しているが、ゴールデンウイークが明ければ、授業開始前の教室は蜂の巣をつついたような騒乱状態になるだろう。
 生徒たちの背中を見まわしても、私服の高校なのに華美な者はいない。女子でもたいていジーンズに軽い色合いのブルゾンかセーターを着ているだけで、意外に地味である。ススキノで見かけるような派手な服装を見いだせないのはおもしろみはないが、教師としてやはりほっとする。
 その生徒たちがあちこちで息苦しそうなくしゃみをする。肌寒い春だから鼻風邪が蔓延しているのだ。
 すると女子生徒の一人が顔を向けた。芽衣。髪を茶色に染めているわけではないし、服装も華美でだらしないものでもない。むしろ質素にみえる。平凡な生徒のふりをしているのが、妙におかしい。
芽衣がボタンを押す仕草をする。
 真紀はうなずいてオペレーションの機械のスイッチを入れてヘッドセットをかけ、モニターを芽衣の席D15に切り替える。
「どうしたの?」
 真紀が問いかけると、他の生徒に聞かれたくないのか、発音だけ流暢な英語が流れてきた。英語では悪ぶることができず、普通の学校英語である。
「Why not go to the Seagull island with me……tomorrow, or maybe the day after tomorrow?」(明日か明後日、カモメ島に行かないか)
 母の朋美はそれほど英語が堪能でなかったから、道北の田舎町でこつこつ勉強したものだろう。
 真紀も英語で答える。
「What for?」(どうして?)
「Just touch your heart and you’ll clearly see her survive from the bottom of the darkness.」(胸に手をあててみな。あいつが闇から甦るのがわかるだろう)
 ホラー映画のタイトルのような表現を使うのが、おかしい。 
「Let me see for a while. You’ll probably get my answer this evening. OK?」(夜返事するから、いい?)
「 OK. Wish I’ll get a nice one.」(よい返事くれよな)
 真紀はスイッチをオフにした。
 いつか行くことになろうとは覚悟していたが、明日とは急な話である。今夜返事をするといったが、またひとつ余計な迷いをもらったな、と気が重くなった。

華道部の生徒たちとおしゃべりして帰宅すると、芽衣が夕食を作って待っていた。
「遅かったじゃねえかよ」
 と芽衣が相変わらず時代遅れな口調で問いかけてきた。目も一向に柔らか味を帯びない。
「そんなこといっても、私には部活があるの。生徒とは違うわよ」
「華道部なんて、まじめにやってんのか」
「どうかな。芽衣ちゃんも入部しない?」
「あほかよ。おれが花生けて似合うと思うか」
「外見はお姫さんみたいだから、口にファスナーしていれば似合うわよ」
 芽衣がちっと舌打ちする。
 真紀は笑ってコートをハンガーにかけ、そのままダイニングのテーブルに座った。芽衣がグラタンを運んでくる。
「あいつに作ってやったんだってな。だから、おれも作ってみた。味は知らねえぞ」
 真紀は目を輝かせて芽衣を見つめる。芽衣がかすかに照れる。
「なんで人の顔をじろじろ見るんだよ。早く食えよ。しっかし、おっさんみてえだぜ。着替えもしねえでよ」
 真紀は笑ってスプーンを手に取った。光彦にグラタンを作った、あのなつかしい夜のことが浮かんでくる。光彦はそのことを芽衣に話したのだ。
胸を熱くしながら一口食べると、これが半端じゃなく美味しかった。
「芽衣ちゃん、上手じゃない」
「そうか」
 芽衣はテーブルに向かい合って、むっつり座った。
「食べないの?」
「あとで食うよ。それよか、昼間の件、答えはどうなんだよ」
 真紀は無視してまた一口、口に入れた。道北の寒い地方の味付けだったが、嫌いではない。毎日光彦に料理を作っていたというのが嘘でないとわかる。
 芽衣が催促する。
「なあ、どっちなんだよ。じらすなよ」
「別にじらしてないわよ。せっかく作ってくれたんだから、じっくり味わっているだけよ。でもさあ、どうして急に島に行こうという気になったの?」
「急じゃねえよ。前から考えてたんだ。あのな。おれたちに記憶を残す先祖ってのは、当然死んでるよな」
 真紀はスプーンをひらりと払って顔を向けた。
「当たり前じゃない」
「ところがよ。おれ、思うんだけど、最初の小夜だけは今も生きてるんじゃねえかって。夢で吸収したただの記憶とは思えねえんだ。だからあいつには子供なんかいなくたって、伝えることができるんじゃねえか、ってな」
 真紀はどきりとした。昨夜自分の頭を通過した恐ろしい考えだった。
 真紀は、わざとからかうような笑みを口元に浮かべた。
「ひょっとして、取り憑かれているっていいたいわけ?」
「今どき取り憑かれるとか呪いとか、そんなの信じるやついねえだろ。でもな、小夜の記憶があまりにも生々しすぎるのはおかしくねえか。あいつ、いったい何者なんだよ」
「私は、芽衣ちゃんのおかげで、最初の小夜さんの尻尾にちょっと触れただけだから、まだ何もわからないわ」
 それは芽衣も同じだろう、と思う。幼くて死んだ最初の小夜に関しては、今なお明確なことは何ひとつわかっていないのだ。
「だからよ。島の井戸に行けば、もっと強烈に小夜を感じて、小夜の本性がわかるんじゃねえかと思ったんだ」
「だったら、嫌いな私とじゃなく一人で行ったら? 旅費ぐらい出すわよ」
「行ったよ。中学に入った夏休みに、ヒッチハイクしてな。でも、おれ一人じゃうまくいかねえんだ」
「それで私を相棒にしたいわけ?」
 といって、またスプーンを口に運ぶ。
 芽衣がじれったそうな声を出す。
「今のおれにはてめえが必要なんだよ。手に触ったくらいで遠い小夜までぶっ飛んで行ったろ。そこまで許容量のあるやつは、他にはいねえ。今日保健室のおばんの手に触ってみたけど、まったくだめだったしな」
 芽衣は、留美子も仲間と知ってすでに試していたのだ。
「でもさ、そうまでして会うことないじゃない?」
片手を頬に当てていったが、真紀には、小夜に向かって踏み出すことに今も逡巡がある。心の一番深い場所に埋めこんだ過去は、そのまま眠らせておいてかまわない、とやはり思うのだ。
芽衣は、そんな真紀を見つめて、叱りつけるようにいう。
「わかんねえかな。小夜がおれを呼んでいるんだよ」
 驚いて、グラタンから顔をあげた。
「声が聞こえるの?」
「聞こえねえよ。でも、確かに呼んでるんだ」
 呼んでる、とは妙ないい方だった。小夜が遠い過去から忍び寄って、芽衣の耳もとに直接囁きかけているのだろうか。
「でもよ、島は遠いだろ。だからてめえのボロ車で函館まで連れて行ってほしいわけよ。だめか」
 真紀は諦めて、スプーンを置いた。
「気は進まないけど、そんなに行きたいのならいいわ。でも、力の弱い留美子先生でもおかしくなったくらいだから、芽衣ちゃんならどうなるかわからないわよ。そんな所に本気で行きたいの?」
「行きてえよ。行って、小夜の力を借りてえんだ」
「借りてどうするの?」
ときいたが、芽衣の答えくらいわかっている。芽衣はまだすっかり心を許してはいないのだ。真紀は芽衣の死を願った。そうなら、その逆の感情があってもおかしくはない。
芽衣は質問に答えることなく、母親と同じほど長い髪を掻きあげて、ほっそりときれいな顔を見せた。そして真紀をにらみつける。黒い瞳の底から小夜が手招きしているようにみえる。試しているのだ。
仕方なく真紀もにらみ返した。ススキノを徘徊していたとき、因縁つけてきた質の悪い連中に使った手である。それは小夜の力の一つで、凝視するだけで相手の記憶を撹乱させることができるのだ。
しかし芽衣の瞳に小夜がいるのなら、当然真紀の瞳にも同じ小夜がいる。一族同士の芽衣に、真紀の力が通じるはずはない。同様に芽衣の眼力も真紀にはただ陰気な光でしかなく、瞳をすっと通り抜けて消滅するだけのこと。しかも瞳の絞りがまだ幼く、意外にもそれほどの威力はなかった。
 しばらく見つめ合っていたが、真紀が体の力を抜く。
「やめましょう。二人でやっても意味ないわよ」
 芽衣は虚脱したように背中を椅子に預けた。肩で大きく息をついている。
「やっぱり赤子の力は知れてるな」
 意味不明なことをいった。
 真紀が当惑の顔を向けると、芽衣は苦々しい笑みをこぼした。
「今日な、学校が終わってから墓参りに行って来たんだ」
「お墓なんて興味ない、っていってなかった?」
「ひょっとしたら、と思ったんだ。ちっぽけな墓だったな。彼岸に備えた花がかさかさに枯れて、蟻まみれになっていたぜ。たまには掃除に行ったほうがいいんじゃねえか」
 真紀は愕然として芽衣を見つめた。
「教えたよな。この前、赤ん坊が泣いてる夢を見たって。どうして自分は殺されたのか、って」
「妹の墓に行ったのね」
 芽衣がにたりと笑う。
「おれは墓なんか信じねえけどよ。てめえが悪意を感じたやつだから、よほど力があるんじゃねえかと思ったわけよ。確かに墓地にはまだ怨みが残っていた。それを吸収して来たが、赤ん坊だからたいしたものじゃなかった。しかし、てめえもひでえやつだな。おれを殺そうとしただけじゃなく、実際に妹まで殺しているんだからな。てめえの手を握って夢でそいつの声を聞くまで、考えたこともなかったぜ」
 耳を塞いでしまいたい悪夢のような過去だった。母がマンションの踊り場でよそ見している隙に、ベビーカーごとコンクリの階段を突き落したときの感触が、今も掌にまざまざと残っている。母は妹の死を自分のせいと考え、以来どこか空蝉のような暮らしをしていた。妹が生きていれば、芽衣のような子になっていただろうか。それとも何の害意もない普通の女の子に育ったのか。
 打ちのめされている真紀を無視して、芽衣は立ちあがってキッチンに行き、グラタン皿を手にもどって来て、座った。
 一口食べた芽衣が上目づかいにいう。
「もう食わねえのか」
「食欲なくしてしまったわよ」
「食っておかねえと、明日疲れるぞ」
「明日?」
「思い立ったが何とかじゃねえか。明日行こうぜ。ひょっとしたら泊まりになるかもしれねえから、土曜日のほうが都合いいだろ」
「気が早いのね」
 真紀がうんざりした声を出す。
「早くねえよ。小夜に何度も何度も呼ばれて、実際頭が変になりそうなんだ。とっくにくたばっているのならそのまま泥の塊になっていればいい、って思うこともあるぜ」
 小夜の過酷な体験の記憶が、呪いのように芽衣をどっぷり暗黒の底に沈めている。もがいても闇が深くて、容易に抜け出すことができないのだろう。真紀の荒れた高校時代と同じである。
グラタンを食べる芽衣を間近に見つめていると、粗野といえるほどのエネルギーは小夜のものである気がした。それがどの小夜かは判然としないにしても、心のうちを支配している何かに向けた芽衣の感情は、触れば瞬時に指先の皮膚が破れそうなほど熱いのだろう。それこそまさに小夜の子孫である証なのだ。
芽衣は、グラタンをまた一口頬張って、思案するようにいった。
「てめえは、どうして生まれたかって、考えたことねえか。おれは寒い風に吹かれながら、そんなことばかり考えていたぜ。だってよ、正直おれみてえなやつが生まれたって意味ねえだろ。意味があるとすれば、連中がいうように、滅びに手を貸すために生まれた、なんか最近そう思うようになってきたんだ。おれたちって、実際これ以上もたもたと待つわけにはいかねえよな」
 真紀が力なく否定する。
「手を貸す必要なんてないわよ。滅びは必然的に来る、って祖母なんかいってるわ」
「そうはいってもな、頭の中の小夜が何もしねえおれを責めるんだよ」
「そんなわけないでしょ」
「それが、あるんだよ! 日本という国がいろんな意味で滅びの坂を転がっているのは、誰でも感じることだろ。でも、あまりにもたついてねえか。おれはそれを少し加速させたいだけなんだ」
 加速、とは恐ろしい言葉だった。
「芽衣ちゃんは、死んでいく人たちをかわいそうに思わないの?」
 芽衣がきょとんとした表情を作る。
「どうしてかわいそうがらないといけないんだよ。おれたちは特別じゃねえのか」
「特別なのと気の毒に思う感情は別よ。私は、そんなの嫌。世の中が滅びるとしても、それをひっそり待つだけでいい」
「どうせ滅びるんだから、同じことじゃねえかよ。ちょっと手を貸してやるだけのことだ。おれって、むしろ親切なやつだろ?」
 心がざわりとした。
「私、芽衣ちゃんのお父さんや教え子たちが死ぬ姿なんか見たくない。私は父が大好きだったから、今生きていたとしても、そんなので死んでほしくない。芽衣ちゃんは、これまで誰かを好きになったことってないの?」
芽衣が鼻で笑った。声に灰汁のように苦いものが含まれている。
「あるわけねえだろ。たとえこっちが好きでも、向こうが化け物なんか相手にしてくれるかよ」
 真紀は、中学か小学校時代の子供らしい恋の話をしたつもりだったが、芽衣が「向こう」といったのは父親の光彦のことだと感じた。父親に持て余されて、日常的に悔しい思いをしてきたのだろうか。
 真紀は悲しい気持ちを無理に抑えていう。
「今の私たちは、待つだけでいいの。私たちの出番は、この世の滅びを見てからと考えているよ」
「そういうトロくせえの、鬱陶しいんだよな。せめておれにオヤジの知識があれば、何か一つぐらいはやらかすことができるんだけどな」
 芽衣がじれったそうにいった言葉尻を、真紀は掴んだ。
「ちょっときいていい? 芽衣ちゃんにはお父さんの記憶は繋がってないの?」
 芽衣が妙な目つきをする。
「あるわけねえだろ。おふくろのめそめそした記憶ばっかだよ。オヤジの情けねえ記憶なんか願いさげだぜ。ひょっとして、てめえにはあるのか」
 逆に疑わしげにきいてくる。
 真紀は首を横に振る。
「ねえのか。しかし、あってもおかしくねえ気がするぜ。吸収する力が人一倍強いだろ。もっとも、たとえあっても、てめえのオヤジの記憶じゃ何の役にも立たねえだろうがよ」
 むっとした。父に特別な知識はなかったが、祖母たちの無謀で危険な考えを否定するだけの思慮はあった。父のおかげで、小夜に操られて右往左往している一族の姿が、曇りガラスを手で拭いたようにくっきり見えてくるのだ。妹を突き落したとき、事前に父にとめてもらいたかった、と何度後悔したか。
 芽衣がグラタンを大口空けて食べてから、嘲るように笑った。
「てめえはやる気ねえんだな。本当なら先頭立って旗を振らなきゃならねえのによ。そういう立場にいながら、のんきに高校生なんか相手にしてるんだから、笑っちゃうぜ」
 真紀は、芽衣を見つめながら朋美を思い出していた。キッチンで一緒に料理をしていたとき、朋美は自分の将来を心配して一度抱いてくれたことがあった。今は真紀が芽衣を抱く番である。
「芽衣ちゃん、今夜さ、私と手をつないで寝ない? そうすれば、最初の小夜さんに会えるかもしれない。何もわからないで行くより、少しは知っておきたいから」
芽衣は長い睫毛をあげた。
「本気で知りたいのか」
「仕方ないじゃない」
「おれもそうしたいと思ってるけど、不安じゃねえのか」
「嫌な夢ばかり見るだろうけど、大丈夫」
「そんなことじゃねえよ。おれに寝首をかかれねえかって不安だよ」
 真紀は力なくほほ笑む。
「そんな心配してないわよ。そう思っていたら、最初からここに住まわせるわけないじゃない」
 芽衣はにたりと笑って、スプーンをぐいっと突きつけた。先端がグラタンでだらしなく汚れている。
「甘めえな。そんなことじゃ、生徒にばかにされるぞ。わかってんのか」
「心配してくれなくてもいいよ。私は大丈夫だから」
「誰が、てめえの心配なんかするかよ」
 芽衣は細い手でスプーンを使った。長い髪が頬に垂れる。それきり芽衣は何もいわず、自分で作ったグラタンをにらむようにしてがつがつ食べた。
 
 真紀は、潮のように次から次と打ち寄せる夢の波間に漂っていた。小夜の夢にちがいないとしても、どの小夜を吸収しているのかわからなかった。しかし意外とくつろいだ夢が多く、にこやかにほほ笑んでもいたのだ。
 知らない町の薄暗い通りを歩いていた。誰かと手をつないでいたが、その誰かははっきりしない。足取りは不確かで、ようやく歩き始めた子供のようである。それとも生まれて数年の年月を経た足が、疲労でよろけているだけなのか。店先のあちこちに鬼灯に似た提灯がぶらさがり、にぎやかといえないまでもそれなりの人通りがあった。古風な形に髪を結った女たちが慎ましやかに通り過ぎて行く。丁髷の男たちは、真紀に一瞥を投げて無関心を装ったまま通過した。
 夢の中で自分の着ている衣装を両手で触ってみる。子供らしい紅の着物。木綿地で上質なものとはいえない。丈も短く膝小僧が顔を出している。
 一軒の商家の前で立ちどまる。不思議そうに眺めて、そのまま入って行く。着物姿の番頭が近寄って来て一緒にいる者に何かいうが、よくわからない。番頭の顔に柔和な笑みがある。
 畳敷きの部屋。男が布団に寝ている。湿気を含んだ布団から饐えたにおいが漂ってくる。
肌の色艶や張りを見ればそれほどの歳にみえないが、老齢な印象を受けた。前歯が欠けているせいかもしれない。それとも髪がないことや顔中を彩っている小豆のような吹き出物のせいだろうか。
 綾乃、と呼びかけながら、男のがさがさした手が腹を撫でさする。腹の中で何かが動く。
 綾乃とは誰だろう、と考える。他には誰もいないから、自分のことにちがいない。ということは、今見ているのは綾乃という女の夢なのか。
 とたんに走っていた。潮風が頬を叩き、体中に怒りがうねる。急激な憤懣に駆られ、自分でも制御できない勢いで走るしかなかった。
 風に血のにおいが混じる。悲鳴が聞こえる。とにかく腹立たしい。声が執拗に耳奥で響く。
「殺せ、殺せ!」
 それは呪文のように陰湿で、真紀は汗だくになって目を覚ました。つないでいた手が離れ、薄暗い部屋に芽衣の背中がある。夢の後半はこれまで何度か見ているが、いつ見ても不快で誰かにすがりつきたいほど恐ろしい。
真紀は、肩で息をつきながら仰向けになって天井をにらんだ。鉈で島民を無差別に殺し雑木林に埋められた女の本当の名前は綾乃なのか。上げ潮のようにやって来て、真紀を浸していった夢はすべて綾乃のものなのか。
夢が正しければ、綾乃は幼い頃どこかの商家に連れて行かれ、そこで子供を孕み、孕んだまま島にもどって大量殺戮を起こしたことになる。これまでも綾乃が夢に現れると、決まって心が破れるほどの怯えが残った。今も最後の最後にいつもの憎悪が発露されたが、それでも夢の多くはあまりに穏やかなのが訝しい。本当にこれらの夢が同じ綾乃のものなら、どうして眠り始めの夢に、鱗を逆さに削ぐほどの怒りの兆候がなかったのだろう。記憶は埋められていたのか。あるいは綾乃は本来あるはずの過去の記憶に自分で気づいていなかったのか。
いや、それよりなぜ最初の小夜ではなく綾乃の夢を見たのか。芽衣と手を取り合って寝たのは、井戸の底にいるはずの小夜に辿り着くためである。しかしやって来たのは綾乃、つまり二番目の小夜。
明日カモメ島に行けば、きっと疑問のすべてが氷解するだろう。雑木林のそばの井戸に、それらを解く手がかりがあるにちがいない。
 しかし真紀は不安になっていた。何か姿を探れない真冬の亡霊に抱えこまれたような頼りなさが生まれて、眠りが弾かれてしまったのだ。
 
 フェリーの甲板に立って、吹きつける強い風に髪を乱していた。春先の海にしては波は穏やかで、白い航跡が遠くまできれいに伸びている。
 昔、日本海の孤島といわれたカモメ島は、今は「釣り場」の看板を掲げて、海釣り磯釣りの穴場として人を集めている。島の近くには、親潮と津軽海峡から流れこむ海流による潮目がたくさんあり、釣り場に適しているというのだ。メバルやホッケの宝庫ともいわれている。
フェリーは漁船を大きくした程度のものだったが、側面には「釣りの穴場カモメ島へようこそ」と描かれていた。窓越しに客室をうかがうと、釣り用の防寒衣を着た会社員と思われる中年の男女で占められていた。黄色のライフベストを身につけている者もいて、ビールや清涼飲料水を飲みながらにぎやかに声を張りあげている。
 それがうるさくて、真紀は客室の後ろ手にある甲板に立って、飛びこめばどこまでも沈んで行きそうな深い海に視線を落していた。潮のにおいが鼻を突き、冷たい海風がクリーム色のコートの襟元から首筋に忍んで、痒みに似たべたつきを残した。
白いダウンジャケットを着た芽衣も、手持ちぶさたに真紀の横に並んで、手すりに体を預けている。朝早く札幌を立って函館に着くまでずっとキューブの中で眠っていた芽衣は、まだ眠り足りないのか目をとろんとさせていた。
 真紀は、口に入ってくる髪の一筋を指で払ってから、気になっていることを尋ねた。
「ねえ、芽衣ちゃんは、綾乃さんって知ってるよね」
 芽衣はうなずいて、あくびをした。手で口を隠すことさえしないが、かえってそれが芽衣の美しさに溌剌とした野性味を与えて、好ましく映る。
「綾乃さんって、二番目の小夜さんのことよね」
重ねてきくと、芽衣は風を恨むように長い髪を掻きあげた。
「知らなかったのか」
「私、あの人の夢って、そんなに見たことないの。どうして綾乃さんっていうの?」
「本土に渡ったときに、誰かに勝手につけられたんじゃねえか」
芽衣は投げやりに答えたが、本土の店の者に自分から綾乃と伝えた可能性はないのか、と真紀は考えた。綾乃が一族の一人であるのなら、よちよち歩きの段階から言葉を自在に操ることができておかしくない。
三番目は、浜で漁師にきかれて小夜と名乗った。雑木林の土の下で生まれた子に本来名前などあるはずはなく、脳内に強く刻まれていた小夜という名を使ったのだ。綾乃の場合も同じということはないのか。
 真紀は海風に目を細めた。
「芽衣ちゃん、じゃあ、本当の小夜さんのこと、どの程度わかる? 昨日待っていたけど、夢にやって来なかったよね」
 芽衣が細い首をひねる。
「それが、おれにもよくわからねえんだよ。見る夢も限られているしな。島の連中に鍬や斧で殺される夢と、井戸の中で何か食う夢。それに小夜の夢かどうかわからねえけど、野鼠の夢も見る。鼠を入れてもたった三つだ」
それら三つは真紀の夢にもすでに現れていた。芽衣を通して小夜から届いたものだろう。
「その三つは繰り返し見るけど、どれも気持ち悪くて勘弁してくれよって感じだぜ。ぞっとしていつも目を覚ましてしまう。実はな、おれも昨日の夜はちょっと期待してたんだ。でも、見たのは綾乃の夢だけだった」
「誰でも見たいときに見たい夢を見られるわけじゃないからね」
 真紀ががっかりしていうと、芽衣はダウンジャケットを両手で叩いて、青い海原に視線を投げた。
「小夜は特別なんだよ。向こうから頻繁にそばに来ているのは感じるから、望めばいつ顔を出してもおかしくねえ。それでいて、おれのほうから辿れねえんだ。どっか変だろ? なあ、昨日見た夢で、子供の頃の綾乃は夜の町を歩いていなかったか。提灯が掲げられた知らない町なんだけど。そのときの綾乃、何歳くらいにみえた?」
「直感だけど、一歳か、その程度じゃないかな。そんなよちよち歩きだったよ」
「おれもそう感じた。でな、最初の小夜が殺されて井戸に投げこまれたときが、やはり一歳のはずなんだ」
「何がいいたいの?」
 真紀が鋭い視線を向ける。
芽衣は青波の上を飛び交う鴎を目で追いながら続けた。
「前からどうして他に小夜の夢を見ないのかって、いらついてたんだ。そばにいる感覚はあるのに、眠ってもやって来るのはいつも綾乃ばかり。でな、今朝ふと思ったんだ。一族の中で特別力のあるおれたちが手をつないで寝たのに現れねえ、ってことはむしろ逆だったんじゃねえかって。おれ、ひょっとしたら頻繁に小夜の夢を見てたんじゃねえかって」
「ちょっとわからないわ」
「本当は綾乃なんかいねえのじゃねえか、そう思ったんだ」
真紀は、風にばさばさと髪を乱す芽衣をしっかり見据えた。
「それとも、いねえのは小夜……」
 真紀は芽衣の話の筋道をようやく理解した。
「ということは、芽衣ちゃん、最初の小夜さんは、井戸から抜け出して本土に渡ったってわけね。そして綾乃さんになった」
 芽衣は黙ってうなずく。しかし真紀にはどこか違和感があった。
「一歳の子がどうやって深い井戸から這い出したのよ。這いだしたとしても、もっと大きくなってからじゃない?」
「そこまで知るかよ。とにかく小夜は本土で綾乃として生きた、としてみよう。そう考えれば、話の辻褄が合わねえか」
「でも……」
「ところが、ある日島にもどってきた。島が呼んだからだよ」
 島が呼んだ? 同じ言葉を、昨夜芽衣が口にしたのを思い出した。本土で髪が抜け前歯のない男と一緒にいた綾乃は、夢で吸収した限りでは幸せそうにみえた。それなのにどうして島が呼んだのか。いや、仮に呼ばれても、なぜもどろうと考えたのか。夢の印象では、綾乃は島に着いてからふいに心が爆発したような狂気に駆られて、お腹に子供がいたにもかかわらず鉈を手に走りまわったのだ。そのときの血のにおいは強烈に鼻腔に残っている。最初の小夜と綾乃が同一人物なら、呼んだのは殺された母親と考えるしかない。母親が復讐を求めたのか。
船体に打ちあたって砕ける波の音が禍々しい太鼓の音のように聞こえた。
「信じてねえみてえだな」
「うん、どっかひっかかる」
 芽衣が嘲るようにいう。
「この前てめえがいってたじゃねえか。もし小夜と綾乃が同じ人間じゃねえとしたら、どうやっておれたちに小夜たちが襲われた現場がわかるんだよ。いったい誰が目撃しておれたちに伝えてくれたんだよ。母親か。それとも小夜か。どちらも同じ光景を見ているが、母親は記憶を継承すべき子供を作らずにその場で死んだ。となれば、小夜しかいねえ。その小夜が幼いまま井戸で死んだのなら、同じく記憶を繋ぐことなんてできるはずねよな。だから生き残って綾乃になり、二十年後にもどって来た。単純な引き算だよ。間違ってるか」
 真紀は、数日前に自分が投げた問いの答えとしては不満に思った。
「でもさ、小夜さんと綾乃さんが同じなら、小夜さんが赤ん坊の頃にしていた予言のことなんか、たとえ断片でも綾乃さんを通して辿れそうなものじゃない。実際はどういう理由で殺されたのか、芽衣ちゃん、知らないでしょう? 最初の小夜さんの記憶は、お母さんと一緒に殺されたあたりで途切れているような気がするの」
芽衣はまた長い髪をうるさそうに掻きあげた。海を見つめる目つきが鋭くなる。その目が波の色を反映して青く見えた。
「おれだって自信あるわけじゃねえけどな、そう考えればすっきり理解できるというだけの話だよ。どっちにしても、島に着けばわかるんじゃねえか」
 芽衣は大あくびして、それきり口をつぐんでしまったので、真紀は諦めて海の向こうに浮かぶ緑の小島を眺めた。真上に白い雲があって、それが島をすっぽり包むように四方に垂れ落ちている。あれが、綾乃による無差別殺人のあった島なのだろうか。
客席で騒いでいた釣り客たちが甲板に出てきて、にぎやかに携帯で写メを撮り始めた。
突然、女の甲高い声が聞こえた。
「見て! すごい!」
 おお、と釣り客たちが叫ぶ。
 真紀が女の指さす方向を目で辿ると、ちょうど背中になっていたフェリーの屋根やマストに、おびただしい鴎が雪が積もるように群がっていた。羽をばたつかせて騒ぐわけでもない。鳴くわけでもない。ただ静かに足を置いている。
「昔こんな映画見たな。鳥でも、こんだけいると気味悪いわな」
 五十代後半と思える男がいって、手にしていたビール缶を屋根に投げつけた。鴎が数羽ふわりと飛んで缶をかわし、また元の位置に足を置く。
 子供じみた態度に腹を立ててにらみつけると、男は急に悲痛な表情をした。はっとして、真紀は視線を遠い海に移す。
 今度は別の男の声が聞こえた。
「おい、あの島、やけに白くないか。天気予報では晴れっていってたのに、雪かよ」
「雪じゃねえよ。雲とも違うな。火事でくすぶっているみたいだ」
「なんか、あの島、変だぜ」
 釣り客たちが大騒ぎする中で、芽衣がまた大あくびをした。
 近づくにつれて、風に流されているのは花粉とわかった。島の樹木が白や黄色の花粉を噴きあげているのだ。
 すぐに甲板やマスト、いやフェリーそのものが花粉に染められた。釣り客たちはドアを厳重に締めて客室に潜りこみ、タオルで鼻と口を必死に押さえて背中を丸めた。激しい咳とくしゃみが、甲板まで聞こえてくる。
 真紀たちのフェリーが島に近づくと、人々で満載の漁船がフェリーに追突する勢いですれ違い、大揺れしながら沖に向かって突進して行った。一隻や二隻ではない。島にあるすべての漁船が必死で逃亡しているのだ。何かが爆発したみたいなあわて方である。
 霧に蔽われたように白く霞む板張りの桟橋には三、四十人ほどの島民があふれ、くしゃみや叫声が海面を響き渡って来る。誰もが鼻を布でしっかり押さえ、すがるような視線を接岸するフェリーに向けていた。
 赤い顔をした船員がくしゃみをしながらモヤイをつなぐと、女たちが子供の手を引いてあわてふためいて乗りこんできた。荷物を持った男たちも息を殺して移ってくる。それら島民の髪や服が花粉で変色していた。
迫って来る島民たちを押し返すようにして、真紀と芽衣はようやく桟橋に立った。釣り客たちは降りて来ない。
「帰ったほうがいいべや。おめら、島が怒っているのが、わがんねえのか」
 と、老婆が恐ろしい形相で忠告して、よろけるようにフェリーに乗り移った。
花粉は空を白くして舞い散って来るが、真紀も芽衣も平然としていた。鼻がむず痒くなることもないし、息も苦しくない。生まれつき花粉への耐性は充分にあった 
少し歩いて振り返ると、フェリーは規定の何倍もの客を乗せ、喫水線を低くして、ちょうど港を離れて行くところだった。船首は予定の隣島にではなく、函館に向けられていた。フェリーを追っかけるように、膨大な量の花粉が川の形を作って中空をたなびいて行く。
「島にはもう誰もいねえのかな」
 芽衣が空を見あげていった。帯に似た花粉の流れに春の光があたってきらきらとまぶしい。
「そんなことないわ。多くの人は、家に閉じこもって様子を見ているはずよ」
「それにしてもひでえな。こんなの初めて見たぜ」
 それは真紀も同じだっった。最近花粉の飛散がひどくなっているのはニュースなどで知っていたが、これほど大量のものは珍しい。ただの鼻づまりやくしゃみですむとは思えない。火山灰や、中国から飛来する黄砂以上に人の健康に害をなすだろう。この状態が続けば、やがて島から人影は絶えて、入植する前のように野性の動植物だけが棲息する神秘の島にもどるかもしれない。
 港を出ると、「釣りの穴場にようこそ」とフェリーに書かれたのと同じ文面のアーチがかかっていた。文字は潮で錆びつき、ペンキは色褪せてあちこち剥げている。
 アーチを越えて、真っ直ぐ進む。道の片側はポプラ並木になっていて、細い枝が両手で幹を包むように上向きに伸びていた。
「このポプラ、元気そうだな。前に来たときは、潮風にげんなりしている感じだったけどな」
 芽衣が不思議そうにつぶやく。
歩きながら家並みに視線を走らせるが、島は漁業を主業にしているようにはみえない。刺し網なども見当たらず、軸足がすべて釣り場産業に向けられたのか、それとも農業を生業にしているのか、どちらともいい難い構えの家々が並んでいる。道沿いに民宿に似た簡易ホテルが二軒あって、扉がひっそり閉められていた。真新しいほうはネオンまでついているが、午後の光に晒されるとさびれた感じが否めない。
 花粉でコートを白くしながら十字路に出る。視線を右手に向けると、古びた店舗が遠くにうかがえて、そこにもホテルのネオンが見えた。三階建ての建物まであって、釣り場として賑わいをみせているようだが、雪が積もったような道路には子猫一匹うかがえない。
港から直進する道には「立ち入り禁止」の立て札があった。その横に畳一枚ほどの錆ついた大看板が立ち、そのまま真っ直ぐ三キロ進めば「秘境」に出ると書かれていた。説明文を読むと、何やら怪しげな洞窟や万年樹の森などがあるらしいが、現在立ち入り禁止中なのは花粉のせいだろうか。とすれば、空を舞う花粉は、何も昨日や今日始まったことではないのだ。
顔を向けると、神秘の森がある方角から白い煙がもくもく立ちのぼって空に広がっている。森を焼いているように見える。
「ずっと昔は秘境の島として観光化されていたみたいだったけどな、おれが前に来たときは、花粉のせいで釣り客しかいなかった。そのとき、花粉は島に落ちねえで、そのまま海を越えて行くがら心配ねえ、と聞かされたが、これじゃあ、どうしようもねえや」
呆気に取られていると、芽衣は左折して舗装された道を進んだ。あわてて真紀も続く。十字路の記憶は二番目と三番目の小夜を通して頭に残っている。どこかなつかしさが湧いてくる。
 芽衣は急激に口数を減らした。唇を固く結び、目は前方に据えられている。肩を並べて歩く真紀にも、芽衣の緊張が生々しく感じられた。突っ張ってはいても、まだ十五歳の子供なのだ、といじらしい。
 黙ったまま狭い道を進む。左手の水田は雪解けを終えたばかりで、泥田のようになっていた。その泥田が粉をふいたように花粉で白い。
 少し進むと、田にかぶさるように海が伸びあがってきた。その付け根の浜にロッジのようなものがいくつかあって、夏場はキャンプも立つだろうが、空気が寒々しいこの時期、さすがに人の気配はない。灼熱の夏が来たとしても、花粉の浜にテントが張られるはずはなかろう。
そこは三番目の小夜が漁民に発見された場所である。当時とまわりの景色が大きく変わっているのは、離れていてもわかる。
 ゆるやかな坂をのぼって行くと、辺りの雰囲気がどこかさびしいものに変わった。
「芽衣ちゃん、何か感じる?」
 真紀がコートの襟を立てて問いかける。芽衣は静かに首を横に振るだけで答えない。言葉にすれば思いが弾け飛んで、予告なしに小夜まで達するのではないか、そのような恐れが芽衣から感じられた。
 のぼるにつれ、小夜の家のあった場所が雑木林のこちら側に徐々に鮮明になってくる。狭い畑が三方から敷地を囲んでいるが、それらの畑はまだ耕されておらず、端には残雪の塊が黒くへばりついている。それでいて、小夜の家の跡地にすでに花や草が繁茂しているのが、距離を置いてもうかがえる。タンポポが黄色い花弁を広げ、蕗が高々と伸びて、そこだけ命が満ちているようだ。
冬の間、頭を押さえつけられていた草花が雪解けとともに背丈を伸ばし、大地から色が滲み出るように一斉に花開くのが北海道の春。この時期、一週間庭の手入れを怠ると雑草だらけになってしまうが、家の跡地は一週間どころではない。長の歳月、誰の手もついた形跡がないのだ。
 芽衣が急に立ちどまって、寒そうにダウンジャケットを両手で抱えこんだ。
「どうしたの?」
 芽衣がきつい視線を向ける。
「感じねえか」
「何を」
「やつだよ。死臭のようなにおいがここまで漂ってくるぜ」
 真紀は鼻に、耳に、肌に神経を集中した。漂う空気はひんやりしているだけで、何かがまとわりつく気配はない。 
 芽衣の手を取った。ほんの一閃だったが、電流が走るような刺激が指先を伝って足の爪先に消えた。やはり何かがいる。何か凶暴なものが潜んでいる。辿るとか誰かの目線を借りて見るとか、そのような間接的なは話ではない、何かが今ここに待機しているのだ、と真紀は確信した。
 逡巡する芽衣の手をぐいっと引く。芽衣はよろけるようについて来る。威勢のよかった芽衣が、今は雨に濡れた小犬のように情けなく背中を丸めているのだ。芽衣の怯えはそのまま伝わってきたが、真紀は心で、一歩一歩、とつぶやきながら歩を進めた。
 ようやく江戸時代の末に小夜の家があった草地に着いた。少し離れた場所ではきれいにみえたタンポポの群生が、近寄ると、どこか異界に咲く花のように色合いをぼんやりさせていた。
不思議なことに、あれほど舞い落ちていた花粉がここにはない。振り返ると、港の上空には先ほどと同じく白い粉が舞っているが、小夜の家の跡地の上空だけ、まるで井戸底から覗くようにすっぽり消えていた。
 芽衣の手を引いたまま敷地に入る。蕗の茎はすでに腰に届き、水仙も紫の花を広げている。
ふいに落雷に打たれたように芽衣が弾け飛んで、タンポポを薙ぎ倒して草間に沈んだ。突風があったわけではない。何もないのに、芽衣は弾かれたのだ。
「大丈夫?」
 しゃがんで背中に手を当てると、芽衣が顔をあげた。目つきがすでに変じている。さっきまでの芽衣ではなく何かが心を蝕んでいるのが明白だった。
「芽衣ちゃん、しっかりして」
 真紀は必死で芽衣の肩を揺すった。芽衣が頭をゆっくり振りながら、朦朧と立ちあがる。
「何か、見えた。初めてのやつだ」
「初めてのやつ?」
「見たことねえ、きれいな顔をした女の子だった」
 真紀もコートを払って立ちあがると、芽衣の手を力強く握って、よろっと一歩進んだ。
全身が異様に冷えてきた。草地に入ったというより、地下の氷室に向かって階段をくだって行くような心地がする。その地下に何か得体の知れないものが棲息しているのだ。
 敷地内はどこも同じ濃さで草の密生があって地面は見えないが、井戸の在り処はわかっている。真紀は、芽衣を抱き寄せるようにして草を払ってゆっくり進んだ。芽衣の体から伝わって来るものがあるが、もやもやしてはっきりしない。しかし引きさがることのできない場所まで来た、という思いは強かった。
 突然足先を何かが掠めた。片手で草を除けると、野鼠たちが真紀の靴にぶつかりながら走っている。十匹ほどいただろうか。
 芽衣が震え始めた。そしてうわずった声をあげた。
「井戸の底にいて、きれいな顔で呼びかけている。聞こえねえか、あの声が」
 耳を澄ましても何も届かない。芽衣に呼びかけているのは、最初の小夜なのか。
真紀は、渋る芽衣を引きずるようにしてさらに進んだ。足首を蔽う雑草の下の土が変わった。井戸があった場所に、砂利が広がっている。真紀は手を離し、湿気を帯びた砂粒を指でつまんでみた。黒土も混じっているが、掌に乗せると風で小さな粒が転がる。浜砂利だった。
 浜砂利で埋まったこの井戸の底に、今も小夜が埋まっているのだろうか。しかし何も感じない。
 真紀は顔をあげて、敷地に接して立つ雑木林を見やった。三番目の小夜は、この雑木林の腐葉土の下で母の肉を食べて育ったのだ。初めて地上に顔を出したとき、そこは花園のようで、赤や黄色、紫、様々な色が氾濫していた。花も草木も、これが天国かと思うばかりに美しかった。しかし今、その天国には汚れた雪が残り、どこにも花はない。樹木の高い枝は常緑の葉を豊かに広げているが、地面は冬枯れて春の気配は遠かった。
そのとき突風が来た。真紀の髪が逆立つほどの冷たい風。地形の関係か、ここはときおり風が渦を巻く。
すると声が聞こえた。けたけた笑う嫌な声。急に目の前に秋の畑が開けてきた。背後に海が高くそびえて、さっき通った田んぼの光景とわかるが、植えられているのは稲ではなく赤紫の毛を揺らす黍。小鳥たちがその実をついばんで長閑である。収穫は約束されていた。
何だろう、と不思議に思った瞬間、母の胸に抱かれていた。その胸の温もりに、ふと懐かしさを感じる。何か喋っているが、いかにもたどたどしい。歯がないから、声がぴちゃぴちゃと気味悪く聞こえる。
「トウキビは枯れ、稗も粟も枯れ、木の芽しか食う物はなくなりましゅ。今年の秋は不作です。蓄えを用意しなしゃい。しゃもないと、島民の半分は死にましゅぞ」
 顔は見えないが、自分でもにっと笑うのがわかった。
 目の前に農民と思われる男たちがひれ伏している。碑を作って祭ってもおかしくないほどの平身低頭振りである。まだ母乳を離せない赤ん坊が、神のお告げともいえる神託を幼い口から洩らし、男たちがその言葉にありがたく聞き入っているのだ。何かが差し出された。塩漬けにした蕗や笹竹などの山菜、それにわずかな味噌。貴重なものとわかる。やはりこの赤ん坊は、生まれながらに言葉を操る力を持っていたのだ。そしてその力は連綿と今の真紀たちに伝わっている。この子がすべての始まりという小夜で間違いない気がした。
赤ん坊は神託として不作の予言をしたが、ついさっき見た畑のどこにも不作の兆候はなかった。むしろ豊作だ。小夜は予言を間違えたのか。
 海が荒れている。畑は泥濘でぬかるんでいる。野鼠が擦過したせいとわかる。男たちが波高い海を背負ってやってくる。何人も何人も。その誰もが骨のように痩せ細り、目も落ち窪んでいる。島中から呪いの声が波うつように轟いてくる。
 幼児は母親の着物の裾を掴み、斧や鍬を持って遠くから押し寄せる男たちを眺めていた。そして笑ったのだ。
「へへへへっ……」
 真紀の総身の毛が逆立った。笑いに底知れぬ悪意が感じられたからである。なぜこの子は笑うのか。男たちが額を床に擦りつけるようにして問う予言で不作を告げた。それは正しい予言だった。しかしこの子は野鼠の襲来を伝えなかった。この不敵な笑いをみれば、知らなかったはずがない。
突然ものすごい音がして、家の戸が叩かれた。
「くたばれ! 化け物!」
 罵る声が戸板を叩く。戸板は今にも壊れそうにがたがた鳴る。
 化け物、とは何だろう。赤ん坊で言葉が話せたことなのか。予言ができたことか。それとも化け物に値する何かが小夜にはあったのか。
 戸板が叩かれる。海の吼える声が聞こえる。風が家の前の草花を倒して乱暴に走って行くのがわかる。男たちはすでに家の中にいて、血走った目を向けていた。
「どうして野鼠のことを黙っていた!」
「テテ親なしに生まれたおめは、こんな飢饉が来るの、野鼠から聞いて知ってたんだべや」
「野鼠のこと、わざといわずに、おめの予言を無視して、豊作と勘違いして浮かれ騒ぐおれたちば、笑っていたのか。島が滅びるのがおもしれえのか」
女児は首筋に垂れる母親の血を心地よく感じながら、またにたりと笑った。
 男たちがその笑みにひるむ。
「やはり、おめは化け物か。えっ、小夜!」
 またあざ笑う。
 恐怖に煽られたように一人が斧を叩きつけた。ひょいと避けた肩に先端が食いこむ。飛沫となって血が吹きあがり、視界が真っ赤になった。真紀は身をよじって叫びあげた。
出し抜けに肩を引っ張られて、首が背後にがくりとのけぞった。風が吹いて、目の前に緑の草が揺れている。ほんの瞬時の夢とわかる。
「大丈夫か」
 芽衣が不安そうな顔で覗いている。助かった、と思った。真紀は荒い息を吐きながら両手を突いて四つん這いになり、足腰の不安定な老婆のように立ちあがる。雑木林から吹きつける風が、いっそう激しくなった。
真紀は恐怖に震えていた。斧は確実に小さな体に打ちつけられ、鮮血で赤一色になった視野に男たちの憤怒の顔が揺らいでいた。それでいてあの子は、死ぬことはなかったのだ。
芽衣のいうように、これがやがて本土で綾乃として暮らす異能の小夜の夢なのか。その小夜が、今真紀にも芽衣にも取り憑いて過去に導いているのか。しかしどこか違う。昨日見た商家の家の前に立つ綾乃に、このような悪意はなかった。斧で斬りつけられた小夜は、芽衣が推測した綾乃では断じてない。真紀はそう確信した。
と同時に、どうして小夜が野鼠の暴走を隠したのか、という疑問が胸につかえる。おびただしい数の男たちが口からこぼれる小夜の言葉を聞きに来ていたのだから、それまでの予言に狂いがあったとは思えない。しかし不作を告げる小夜の言葉には、明らかに作為的な嘘がある。真実を語りながらも、そこに真実はない。本来、悪いのは鼠の群来を隠したことではない。春や夏のまぶしいばかりの作物の繁茂を見て、飢餓への対応を忘れた農民たちなのだ。嘘を含みながらも小夜は生涯真実しか語らなかったといえる。
結果、小夜親子は無惨な結末を迎える。隠せばどうなるか、小夜に予測できなかったはずはない。小夜は、自分の死を代償に、島民を破滅に追いやることを意図して生まれた異形の者だったのか。そうなら、おそらく予言のあとの虐殺は予め覚悟されたものだったろう。しかし母親はそれを知っていたのか。それとも赤子の小夜だけの覚悟だったのか。
 風に吹かれて倒れそうな体をようやく支えて、真紀は思いが混乱するまま吐息のような声を洩らした。
「一人では怖いし断片的にしか感じられないみたい。ねえ、手をつないでみない?」
「おれも、それは考えていた。おれにも、ちらちらとしか見えねえし、頭が割れるように痛えんだ。脳の欠けた所に何かが潜りこんで、暴れてるみてえだよ」
そういって、芽衣は拳で頭を数度叩き、苦しそうに腰を屈めた。
 真紀はくらくらする思いで、芽衣の手をしっかり握る。その瞬間、芽衣の手から激しい衝撃が伝わって、放電を受けたように目の前が真っ白になった。気がつくと真紀は薄暗い場所に導かれていた。足元に井戸が見える。井戸には木の蓋が置かれ、そこだけ微量な黄昏の光が残っていた。小夜の生きていた時代に引きずりこまれたのか。
しかし横を見ると、さっきと同じように芽衣が真紀の手を取って苦しそうにしゃがんでいる。二人は同じ夢を見ているのだろうか。
 真紀は木でできた半分腐ったような蓋を片手で取り去った。内部は暗くてぼんやりとしか見えない。しかし、水が枯れた底に緋色のボロ着を着た幼女がいて、真紀を見あげているのが押し絵のようにくっきり浮かんできた。初めて見る女の子。顔立ちが美しい。小さな声でいう。
「助けて。この井戸から出して」
 おそらく二歳かそこらだろう。この子が母親と一緒に投げこまれた小夜なのか。留美子の推測したように、小夜はやはり井戸底で大きくなったのだろうか。
 手を伸ばすにしても、底は深くて女児との間に距離がありすぎる。マンションの二階から見おろすほどの深さだ。
 真紀は、中腰の芽衣に視線を送った。
「芽衣ちゃん、助けよう。この子を井戸から出してあげよう」
 そうすれば、小夜の怨みも小さくなるのではないか、という期待があったが、その言葉は喉奥に呑みこんだ。
「井戸は大昔のものじゃねえかよ。過去の井戸に手を突っこんでも、今のおれたちには何もできやしねえよ」
芽衣はばかにしたように笑う。
「じゃあ、いい。私、やってみる」
 真紀は芽衣の手を離して立ちあがり、夕暮れの庭を見渡した。驚愕した。さっきまでタンポポや水仙が咲いていた庭に一輪の花もないのだ。草さえ萎れている。刈り取られた形跡はなく、すべてが焼けたように薄黒いのだ。その中に茅葺きの小さな家があった。小夜たちの家。真紀はこだわりなく屋内に入って行く。土間に足を置くたび、ずるずると体が沈むようで、やはり地底深くに落下する感触があった。
 梁に縄がかけられている。それを取って確認すると、長くて頑丈なもの。縄を手に庭にもどった。
 恐ろしい表情で突っ立っている芽衣に、
「これで引きあげるわよ」
 と縄を見せる。
 芽衣が不快に眉根を寄せた。
 井戸の縁に腹這いになって、縄をするするおろす。
「掴まってのぼって来なさい」
 不満そうな芽衣も、同じように腹這いになって縄を掴む。
深い底で、片手を縄にあてる女児が何か抱えていた。その顔が見えた。赤ん坊。女児と同じ布地の着物を身につけている。赤ん坊が見あげて無邪気に笑った。
 夢がまた真紀の心のうちで黒鳥のようにばさりと翼を広げた。気が遠くなり、そのまま井戸底に頭から滑り落ちそうな感覚に捉えられた。
菰にくるまれて、真紀は抱かれていた。誰かの体温と乾いた菰のおかげで、寒さは感じない。笑っている。にこやかに笑って、まるで屈託がない。
抱いてくれる者の顔を、まじまじと見つめた。幼い顔をした女の子。さっき井戸の底から見あげていたきれいな子。
姉? 姉とすれば、赤ん坊は誰? 綾乃? 綾乃は井戸の底で生まれたの?
目を開けた。縄がぴくぴく引かれている。腹這いになったまま芽衣に顔を向けると、芽衣は痙攣したように長い睫毛を震わせて井戸底をにらみつけ、吼えるようにいった。
「小夜、あがって来い!」
 芽衣にはわかっていたのだ。やはり小夜は、赤ん坊を抱く女の子で間違いない。そして抱かれている子が綾乃、二番目。綾乃は井戸の底で生まれ、二人はそこで共に暮らしていたのだ。
真紀も芽衣も、これまで小夜ではなく綾乃の夢を辿っていたにちがいない。予言していた頃の小夜が夢に現れなかったのは、おそらく姉である小夜の記憶が綾乃にはなかったせいだろう。しかし虐殺の場面は、綾乃が母親の腹にいて自ら感じ体験したことなのである。綾乃は、母親の目を通して、鍬や鉈を手に襲い来る狂乱した男たちを見ていたにちがいないのだ。
 しかしこれからは違う。もはや綾乃の記憶に頼ることはない。すでに今を生きる最初の小夜に接触してしまったのだから。
芽衣の呼びかけに小夜は険しい顔でうなずいて、綾乃を片手で抱き寄せ、縄を掴んで足を土壁にあてた。ずるっと滑って落ちる。幼い綾乃が笑う。変わった遊びに参加しているとでも思っているのか。
「小夜さん、縄で赤ん坊の座る所を作って。最初に綾乃さんを引きあげるから」
 うなずくのが見えた。
 真紀が縄のもう一方の端を落すと、小夜は両端を使って輪を二つ作り、そこに赤ん坊の脚を入れてきつく締めた。漁師がやる縛り方なのかもしれないが、器用である。すぐに上体を伸ばして真紀を見あげた。
「引きあげるわよ」
真紀は懸命に二本になった縄を両手でたぐった。芽衣がその端を支える。
輪の中に小さな脚を入れて縄を握る綾乃の顔が、くっきり見えてきた。あどけなく笑っているが、醜い顔をしている。ようやく手が届くところまでのぼって来たとき、真紀が片腕を伸ばした。その瞬間、あっ、と声をあげた。差し伸べた腕は太くて、毛むくじゃら。明らかに男の腕。その腕が綾乃をぐいっと掴み、ごつごつと荒れた指で縄をほどき、赤ん坊をつまみあげて庭に放り投げたのだ。小さな綾乃は火がついたように泣く。貧しい着物を着た痩せ細った若い女が駆け寄り、綾乃をいたわるようにかかえあげて頬ずりした。その光景は一瞬の閃光のような輝きを放って消えた。
 驚愕の思いでいると、また縄が引かれた。井戸の底の小夜が催促しているのだ。真紀が縄を降ろすと、その端をきつく握って、小夜がぎろりと見あげた。その眼差しが火矢のように真紀の体を貫く。
熱い感情が縄を伝って届き、井戸に引きずりこまれるような力がきた。小夜が再び真紀の心に入って来たのだ。
暗くて寒い井戸の底。菰に縛られたまま、母の体に手を伸ばす。小さな手。指で千切った肉を歯で齧る音がいつまでも続く。母は、笑みを洩らしたいほどおいしかった。
今、感じているのは、簀巻きにされて井戸に投げこまれた最初の小夜。小夜は井戸底で母を食べていたのだ。場所は違うが、三番目も、母を、綾乃を食うことで生き延びた。そして自分はそれらの子孫にあたる。物を齧る癖は、父というより小夜から伝わってきたものなのか。
夢の中で何日かすぎたのがわかる。数日かもしれないし、一週間かもしれない。醜い顔の赤ん坊が、同じ菰の中にいる。辺りは暗くてひんやりしているが、ぼろぼろと肉の剥げた母と、幼い綾乃の三人で、一つ菰に包まれていると安心できた。綾乃は、母がまだ温かかったときにその体を食い破って生まれてきたとわかる。小夜が、母の名を取って戯れに綾乃とつけてやった。自分が着る緋色の着物を裂いて、簡単な衣装も作って着せた。
しかしどうして同じ姉妹なのに小夜はきれいで綾乃は醜いのか、と思う。するとまるで真紀の疑問に気づいたみたいに、小夜が菰の中の母親の顔を覗きこんだ。すでに土色に変わっているが、それでも生前の様子は薄っすらうかがえる。色白の皮膚に血が流れていればまぶしいほど美しい女だった、と想像できる。綾乃が醜いのは父親によるものだろうか。不満ながらも、そう考えるしかなかった。
それからまた長い間、井戸底にいた。時間が光のように飛んで行く。
空気が動かないから、温もりが停滞している。それでもボロ着だけでは寒い。肉を少しずつ食べて、骨が見え始めた母をそのままわずかな水に浸し、菰を抜け出してそれを乾かした。綾乃を抱いたまま乾いた菰を体に巻きつけると、母のにおいが鼻を掠めてよけい暖かく感じられた。綾乃の、子供らしく楽しそうな笑い声が井戸底で反響する。
綾乃の温かい頬に顔を寄せながら、鎌や鍬で斬りかかった島民たちへの憎しみが心の奥にわだかまり、再び地上に出る機会を得れば出会う者すべてを容赦なく叩き殺してやる。そればかり願っていた。いつそうなるかは朧げだったが、思いの実現は小夜の予感の中に明確にあった。だからこそ鉈が迫っても笑っていられたのだ。
生まれたときから、島の者たちには軽蔑と憎悪しか感じたことがなかった。突然足音荒くやって来て、太古の時代からひっそり暮らす野の獣を狩り、島を荒らした悪辣な者どもではないか。
手が千切れるのを見たい。首から噴出した熱い血が大地を染めるのを見たい。島の連中が白目を剥いて泣き叫ぶ声を聞きたいのだ。
それは自分の願いというより、母を孕ませた者の願いでもあった。島の者たちを根こそぎ殺すことこそが、自分がこの世に生を受けた理由なのだ、と小夜は思う。
 母の骨にわずかに残る腐肉に白い虫が湧くと、それを指でつまんで綾乃の口に入れた。自分は足元の濁った水を飲み、湿った土壁を指でほじって食べた。土には目に見えない虫がいて、生きる力を漲らせてくれる。持って生まれた怨みの深さも、歯を食い縛って生き抜く力を与えてくれた。
天井の板が腐って、暗かった場所に光の筋が落ちてきた。明るくなった狭隘な場所で、また長い時間綾乃を抱いたまま、ただ一つの思いだけを胸に育んで生きてきた。土壁をのぼるには体が小さすぎたが、怒りだけは黒い虫のように限りなく生まれていったのである。
早く井戸から出て光あふれる地上が見たい。家の庭には前に暮らしていたときと同じようにきれいな花が咲き誇っているにちがいない。赤い花、黄色い花、どれも好きだった。野鼠の大群に襲われたときに枯れ果てたすべての花が、今はきっと以前のようにまぶしく陽光に洗われていることだろう。
地上の花を見ることは、骨となった母と別れることである。しかし母のよろこびや悲しみ、すべての思いは自分の頭にある。間違いなく母は自分の身のうちで生きているのだ。母や父にあたる者の怨みを晴らせるのは自分しかいない。島民が一人残らず島から消え失せることを願って、土を食い、ぼろぼろにほぐれた菰を体に巻いて、綾乃と共に寒い夜を堪えてきたのだ。その執念だけが、いつの日か井戸から抜け出すことを決意させていた。仮に島民の抹殺が自分の手で叶えられないとしても、代わりに綾乃が這い出して自分の思いを継いでくれるだろう。綾乃がどこにいても、井戸のことを忘れても、ふさわしい時期になれば必ず呼びもどしてみせる。そう念じながら小夜は、自分で故意に折って腐らせた足指の、その肉のうちに生まれる蛆虫を妹の歯茎に挟んだ。
真紀は嘔吐感を覚えながら、激しく頭を振って叫んでいた。
「だめ、そんなことしても意味ないの。小夜さん、そんな恐ろしいこと考えるんじゃない」
 しかし真紀の声は小夜の心に達しない。一方的に強い怨念が舞いあがって胸うちを揺さぶるだけだ。その怨念は地底から轟いて来る大地の呻きのように感じられた。
 すると突然、小夜が子供らしい甘ったるい声でいった。
「助けて。早く……」
 同時に縄がぐいっと乱暴に引かれた。真紀は夢から覚めて、あわてて縄を自分の体に巻きつけて中腰になり、両脚で踏ん張って引いた。長い夢と思ったが、これも刹那の夢だったにちがいない。
 すると荒れた声が乱れて聞こえてきた。
「何をぐずぐずしとる」
「はよ、引きあげてやれや」
はっとして周りに視線を投げると、ついさっき閃光のように見えた若い女が、夕闇の中で綾乃を抱いて立っていた。よく見ると、女のそばに刀や槍を持った屈強な男たちが何人も見える。誰もが粗末な着物を着て、髪を江戸風に結っていた。その者たちがぎらつく目で注視しているのだ。真紀を、ではない。井戸を、である。
真紀は背中を反らしてぐいと縄を引っ張った。引いているのは、やはり毛深い男の手だ。自分ではない何者かが小夜を助けようとしている。今の自分はいったい誰なのだろう。男の腕はするすると小夜を引きあげて乱暴に地面に投げつけた。
小夜は両手を突いてしゃがみこみ、萎れた草をじっと見つめる。薄闇の広がる庭で、草花の衰えようは痛々しいほどである。井戸の外に華麗な花園を期待していた小夜は、墓場のような庭を見て愕然としている。
真紀がよく知る三番目の小夜は絢爛たる花園を雑木林に見た。しかし惨めにひれ伏している異能の小夜は、燃えあがる花の炎を知ることはない。そのような僥倖に今後も恵まれることはないにちがいない。
すると突然、小夜は狂ったようにばたばたと枯れ草をむしり始めた。その頬を大粒の涙が流れ落ち、垂れる黒髪を濡らした。小夜がうつむいて歯を噛み締めたまま、手の中の枯れ草を叩きつけて、ふいに獣の叫びをあげたのだ。
「うぬらぁ! よくもこれほど無惨に荒らしたな!」
 異様な咆哮に、綾乃を抱いた女や武器を持つ男たちが一歩退いた。
 そのとき、遠くから怒号が聞こえた。見やると、鎌や鍬を持った島民たちが、大声あげてぞろぞろ近づいて来ているのだ。
 井戸のそばにいた者たちは身構えるが、島民のほうが数は圧倒的に多い。
「どうすべえ」
 といって、男たちが真紀を見た。
「舟にもどれ!」
 真紀はとっさに荒々しい声で号令をかけていた。
男たちは浮き足立ってその場を離れようとしたが、それより早く、鍬を大上段に構えた島の男たちが怒涛のように襲いかかってきた。一瞬の隙を見せた真紀にも、島の男が鍬を打ちつけた。危うく避けて逆に刀で男を薙ぎ倒したが、それだけで息が荒れた。
 ボロ着を着た島民が割れるような声で叫ぶ。
「掠奪する物は、この島にはねえ!」
「島だけで今は窮々としている。本土のやつらにくれるものは何もねえぞ。帰れ!」
真紀はようやく理解した。今、真紀は盗賊か何かの首領になって、この島にいるのだ。その男が、実際は井戸にいた小夜と綾乃を助け出したのだろう。しかし、なぜ盗賊なのか。
 島民たちは口々に叫びながら鍬を振りまわして、本土から来たという男たちを打ちすえた。鍬で頭を叩き割られる仲間もいたし、体を二つ折りにされた島民もいた。薄闇のあちこちで血が噴きあがり、一輪の花もない庭に黒土が舞いあがる。
 島の若い男が、血を吐いて身悶えする男から刀を奪い、骸骨が舞うように斬りつけてきた。その刃を真正面から受けとめて鍔迫り合いになった一瞬、真紀は相手の刃に映る自分の顔を見た。髪は豊かで前歯も頑丈そうにみえるが、やがて畳敷きの座敷牢に住み綾乃の腹を撫でる男。綾乃のお腹にいた三番目の小夜の父親。その男は若い時期、盗賊の首領をやって島々を荒らしまわっていたのは綾乃の夢を通じて知っていた。しかしどういう経路でこの男の記憶まで辿り着くことができたのか。
 島民の刀を払って、その剣先を腹に突き刺した。手に柔らかい感触があって、どす黒い血があふれ出た。
 すると突然、怯えたような声があがった。
「小夜だ! 小夜が死なずにいるべや!」
 枯れ草の上にしゃがみこんでいた小夜は驚いて立ちあがったが、島民は侵入者を忘れたように小夜に迫った。小夜の小さな体は見る間に男たちに取り囲まれた。
「やはり化け物だ。死にぞこないだ! 化け物は殺せ! こいつのせいで、どんだけひでえ目にあったか」
 とっさに逃げようとした小夜の腰に鍬が打ちつけられた。がくんと体を折り曲げて小夜が倒れる。倒れた小夜は、体をねじって黒土に爪を立てて起きあがろうとしたが、首筋にまた一撃受けて、きれいな顔がゆがんだ。口から血が噴きでる。背中や足や手に、鍬が鉈が残酷に振りおろされた。
 その隙に略奪者たちは浜に向かって走りだした。女も赤ん坊を抱いて逃げ去るのが見える。小夜に呼ばれて島にもどり鉈を叩きつけるまで、この赤ん坊はこれから本土で綾乃として暮らすことになるのだ。しかし呼ばれるまで、どうして島のこと姉のことを思い出すことがなかったのだろう。
 一瞬の感慨に耽ったあと、真紀はなす術もなく拳を握った。見ると、その腕に毛がない。白い女の手にもどっている。
 夕闇を剥ぐようにふいに野犬の遠吠えが聞こえてきた。それも一匹や二匹ではない。数知れない野犬が喉を震わせて吠え立てているのだ。真紀が視線を走らせると、すぐそばの雑木林に目を爛々と輝かせた獣の群れが並び、牙を剥いて吠えていた。襲って来る気配はないが、咆哮はいつまでもやまない。
 島の男たちがひるんだ隙に、芽衣が男たちの隙間を潜りぬけて飛び出し、白いダウンジャケットで血濡れた小夜を抱きこんだ。異空から降って来たような芽衣に、男たちはさらにひるんだ。
「何だ、こいつは!」
 芽衣が、島の男たちに顔を振り向けて必死で訴える。
「殺しても殺しても、小夜は甦る。血に意味はない」
 抱かれた小夜が目を細め、真っ赤な唇を歪めてにたりと笑う。
 当惑する男たちを尻目に、芽衣は小夜をさらにきつく抱きしめて、その耳元で囁いた。
「あんたの憎しみはわかったよ。おれが引き継ぐ。今、ここでおれの心にすべてを吐き出せ。おれが全部受けてやる」
 やめて、と叫ぶ暇もなかった。
 いったとたん、芽衣は激しく痙攣した。目を大きく剥いて全身をがたがた震わせ、口から血のような涎をあふれさせた。
 ざわっと男たちの輪が広がる。
小夜の怨念が沁みこんでいるのか、それとも戦慄の夢を見ているのか、芽衣はますます激しく体を震わせた。ときおり獣のような唸り声をあげて吼えたて、背中を反り返らせる。芽衣のゆがんで醜くなった顔を見つめながら、腕の中で血まみれの小夜がにたにた笑っている。その笑い顔には、ただごとでない美しさがあった。
 島民たちは色を失ってお互いを見つめ合っていたが、熱で氷が溶けるようにとろりとろりとその姿を夕闇に隠していった。すぐに野犬の吠え声も消えた。草の枯れ果てた庭にいるのは、今や芽衣と小夜、真紀の三人だけになった。
ものすごい風が吹きすさぶ中で、芽衣は長い髪をもつれさせて小夜を抱きかかえ、白い目を宙に向けたまま激しく戦いていた。思い切り噛み締める唇から血がたらたら垂れ落ちる。
「いいぞ、そのまま吐け、吐き出せ。てめえの正体がだんだんわかってきたぞ。おれが全部引き受けてやるからな」
 芽衣があえぐようにいうと、小夜は気味悪く笑った。その笑い声が吹雪のような風に流されていく。
 怯えた視線を向ける真紀に嫌な予感があった。
「だめ、芽衣ちゃん、やめて!」
 叫んでみたが、喉が引きつり明確な声にならない。
 突然芽衣が白目をぐるりと真っ黒にもどして、血で真紅に染まった唇を開いた。
「小夜、おれが代わりに野鼠になってやるぞ!」
 叫ぶと同時に、芽衣は小さい小夜をかかえたまま、がばっと立ちあがった。その瞬間強風に吹き飛ばされて体が斜めに流れ、小夜は思わず芽衣のダウンジャケットをぎゅっと掴んで不安げな視線を向けた。芽衣は一度体を大きく左右に振ってすばやく井戸に突進した。
 真紀は空を飛ぶように体を投げて、片手で芽衣の足首を掴んだ。芽衣は腰を捻って足を揺すり、その手を払い退けようとした。とっさに真紀のもう一方の手が、抱かれる小夜の素足に触れた。ぞっとするほど冷たい素足。
その瞬間、髪を鷲摑みにされて深い底にずるずる引きずりこまれる感覚を覚えた。引きずられながら、体があちこちぶつかって焼けつくように全身が痛む。真紀はどんと激しく倒れて、背骨が砕けるような激痛に思わず目を閉じた。
 何がどうなったのかわからないが、また悪夢に投げこまれたのは理解できた。真紀は恐る恐る瞼を開いて、痛む体で立ちあがった。真っ蒼な月明かりが水が輝くように目の前で揺らいでいる。その揺らぎのせいで、光の向こうがはっきりしない。怯えながら痛む手を見ると、皮膚が絵具を塗られたようにべっとり月の色に染まっていた。それは足元の地面も同じで、まばらな雑草や手から転げ落ちた笹竹や茸が月光を反射している。折れた若木の枝もあった。
見あげると、頭上にぽっかり円空があり、遥かな夜空で煌々と満月が輝いていた。円空を濃密に縁どりしているのは白樺の薄黒い葉。今いるのは秘境といわれる万年樹の森なのかもしれない、と考えた。おそらく自分は山菜取りに夜の森に来て、若芽を摘んでいる際に木の枝から転げ落ちたものだろう。
鬱蒼とこもる葉が音立ててざわざわと騒いでいるが、その音はまるで森が泣いているように聞こえた。
 視線を落すと、半透明の月光の揺らぎの向こうに何物かの気配があった。最初は正確に捉えることができなかったが、ようやく慣れてきた目が影絵のように動くものたちの輪郭を明晰にした。獣が五.六匹いて牙を剥いているのだ。不思議に恐怖はない。
これは小夜の夢なのか、と考えたが、すぐにその考えを否定した。目線が高すぎるのだ。さっきの小夜は幼く、身長は知れたもの。しかし今自分は大人と同じ高さで物を見ている。ひょっとして小夜の力を借りて、殺された母親の記憶を獲得したのではないか。他にこのような大人の目線を持つ者は、小夜のまわりにいない。
 蒼白い光の中に一匹の獣がぬっと現れた。端正な顔立ちの毛並みの美しい、重量感のある白い狼。森の梢が軋むような音を立てて激しく揺れるのをよそに、白狼はじっと自分を見つめている。その顔のそばを黄色い光を放つ虫が飛び交っている。
真紀の唇が唾液でぬめった。
 突然風がやみ、耳鳴りするような静寂が落ちた。白狼が音を立てずに下草の上をにじり寄る。他の獣たちも忍んで来る。自分も一歩踏みだす。
 白狼が牙を見せて、虚空に吠えた。他の獣たちも、同時に吠えあげた。その瞬間、真紀は手を伸ばして体ごと白狼に襲いかかっていた。片腕が確実に首に巻きついたが、白狼はみじろぎしないで真紀の体を受けとめる。すかさず四方から獣たちが襲いかかる。足首を噛まれ、腰を噛まれ、激烈な痛みがきた。しかし痛みより強く鼻先に漂う獣のなまぐさいにおいが、真紀の喉奥をごろごろ鳴らした。
 食い物のない島では、獣たちもひもじかろう。自分の肉をほしいだけ齧るがいい。しかしひもじいのは自分も同じこと。自分も獣になって、ねじ伏せた白狼をこの歯で食いちぎってやる。
真紀は毛深い背中に頑丈な歯を刺しこんだ。白狼は吠え立てるだけで、逆らってこない。白毛の下の柔らかい肉を口に、必死で首を振る。甘い血の汁がじわりと喉奥に沁みる。それを待っていたかのように白狼が急に体をねじって、軽々と真紀をあお向けに押し倒したのだ。覆いかぶさってきた白狼の赤い舌が顔の上に垂れ、黄金色に輝く獰猛な目が自分の瞳に据えられた。その目が、顔が、気高い。
ふいに高い木の枝から、長い蛇がずるりと滑り落ちるのが視野の隅に映った。それも二匹、三匹。森を震わすような大きな羽音がして、鳥たちがばたばたと梢にとまるのもわかる。耳元を、鼠と思える小さな生き物が走りまわった。
獣という獣は獲りつくし、島には蟻一匹いないと聞いていたが、これらは森の奥に隠れ棲んでいたのか。
体を押し潰すように重いものが密着する。白狼。巻きついてくるのは大蛇。顔を走るのは鼠。森に棲息する生き物たちが、一斉に襲いかかってきたのだ。
とたんに子宮をえぐられるような強烈な刺激を下腹部に受けた。一瞬の痛みに思わず顔をしかめたが、すさまじい獣臭を放つ白狼や大蛇を腹から払い除けようとは思わなかった。実際の経験を持たない真紀にも、これが男の仕業であることの察しはついた。夢で何度も犯されてきたからだ。指が柔らかい襞を開く。子宮が貫かれる。しかし体を突きあげる力は、これまで体感したことがないほど激烈なものだった。その心地よさに声をあげ、震えが走るのを覚えた。
ところが恍惚の狂乱の中に、今この瞬間自分の体を割いているのは獣だけではない、という強い感覚が生じた。何かもっと巨大で不気味なもの。下草に身を投げて陶然と呻きながら、自分は太古から人を拒絶してきた神秘な森に犯されている、そんな途方もない思いが兆したのだ。
というのも、違うのだ。ついさっき白狼に抱かれたときには粗末な木綿の百姓着で、脚の間から赤い腰巻がひらめいていた。しかし今、瞼に入る麻織りの衣類はさっぱりした草色。真紀は、時を違えて二度に渡って犯されていたのだ。
空を蔽うほど緑葉を広げた白樺の大樹。四方に太い根を張ったヤチダモの樹。エゾマツなどの針葉樹。
樹木のことごとくが暴風雨のように大きく緑葉を揺らし、梢を擦り、幹を軋ませている。森が声高く吠える。何千年も何万年も前から人たちの侵入を孤高に拒んできた森が、今、猛然と怒って、真紀に怒りの言葉を投げつけているのだ。森の叫びには、人間との協調は一切感じられない。あるのは、地を圧するほどの憤り。その憤りに混じって、白狼の愛撫するような声が耳元を掠める。蛇が肌をじっとり撫で、鼠が口に入って歯茎をなめる。爪先にあたるざらつく感触はどの獣のものか、それともどの樹木か。真紀は指で草を握り自制しようと試みたが、体は大きく波打つのをやめない。
声をあげて頂きに達した瞬間、森が若葉をばさばさ撒き散らして、人たちへの激しい憤怒を吐き出したのを確認した。嵐のように猛る憤怒。それが、そのまま真紀の心に山が崩れるように雪崩こんで来たのだ。いや、怒り狂っていたのは森だけではない。鳥獣たちも、人たちの絶滅を願うほどの暴戻な怒りを孕んで同時に真紀を貫いたのだ。それらすべてのどす黒い瞋恚を身のうちに取りこんだのを、真紀ははっきり自覚した。
次の瞬間、怒涛に打たれたように自分は受胎したと確信する瞬間を得た。途端に圧しかかっていた白狼の姿が掻き消え、蛇が溶け、森が吐き出す底知れぬ怒りが消滅した。そして下腹が人間への憎悪と悪意で、石を詰めたように重くなるのを感じた。
 気がつくと、真紀は体を火照らせたまま芽衣の足首を必死に掴んでいた。抱かれた小夜の小さな顔が目の前にある。ようやくわかったろう、という満足げな笑みが唇に乗っていた。
 真紀は衝撃のあまり声を振り絞って叫んだ。
「芽衣ちゃん! やめて!」
 芽衣はうるさそうに真紀の両手を払うと、そのまま小夜を抱いて頭から一気に井戸に飛びこんだのだ。まるで鳥になったみたいに。視界から消える瞬間、小夜がまたにたりと笑った。
 どん、と鈍い音が深い底から届いた。同時に獣たちの咆哮があちこちから轟き渡った。
 真紀は悲鳴をあげた。根づいたような体を荒れ地から引き抜き、熱を持った腹を蛇のようにずるずる這わせて井戸の淵に辿り着いた。覗きこむと、芽衣の白いダウンジャケットがぼんやり見える。そこから突き出た首が妙な形でねじれている。島民にずたずたにされた小夜の血塗れた体も、ジャケットの端から覗いている。びくりともしない。いくら小夜でも、瀕死のまま、この高さから落下すれば命はないと思われた。生命力は人一倍あるにしても、小夜とて不死身ではないのだ。
島に来たとき、芽衣は小夜と心中する覚悟を決めていたのだろうか。真紀に対する幼い恨みを膨らませていると考えていたが、芽衣の真意は、小夜を殺すことによって、鬱々と流れる地下水脈に似た血の流れを断ち切ることにあったのか。小夜の思いが消滅すれば、おそらく一族のありようは大きく変わるだろう。
 急に切なくなった。胸を熱くしたまま、風の届かない薄暗い井戸底を再び覗きこんだ。しかし芽衣のダウンジャケットが動くことは、もはやなかった。
 すると出し抜けに辺りが真昼のように明るくなって、真紀のそばに島の男たちが集まってきた。肩からモッコを担いでいる。その中に浜砂利が詰まっている。
「だめ。中には私の友だちがいるの。埋めないで!」
真紀が大声でむしゃぶりついてとめるのもかまわず、男たちは砂利を投げ入れた。叫んで、抗い、男の手を掴んでみたが、まるで真紀などどこにもいないかのように運ばれた砂利は四角い穴に消えて行く。
狼狽して再び井戸底を覗きこむと、すでに芽衣のジャケットのほとんどは浜砂利に隠されていた。
「芽衣ちゃん!」
 真紀は喉が破れるほどの声を張りあげた。悔しくて涙があふれた。
瞬間がつんと背中を蹴られたように、真紀は繁茂した雑草の中に落下していた。呆然と頭を起こすと、辺りにはタンポポや水仙などの春の花が咲いていた。小夜の家はすでになく、井戸もない。作業の男たちもいない。最初の場所にもどったのだ。すると今までのことは幻なのか。そうではあるまい。浜砂利の底に眠る小夜が真紀を過去に導いてくれたのだ。
最初この場で感じた冷気のようなものは、今や跡形もなかった。と同時に、小夜はもちろんのこと、綾乃も遠い人になった気がした。火を放った三番目さえどこか曖昧な彼方にいて、声をかけても届かないように思われた。小夜の怨念は、井戸の底で絶えたのだろうか。芽衣はどうなったのだろう。本当に死んでしまったのか。
顔をあげると、青い空が花粉で濁っていた。
 真紀は心の底に悲嘆が重しのように落ちるのを感じながら、ゆっくり立ちあがった。そのとき雑木林の常緑の枝に無数の鴉がとまっているのに気づいた。羽を揺らすでも、鳴くでもない。剥製のようにずらりと並んで真紀に顔を向けている。不良たちに豊平川の河畔に呼び出されたときも、暗い空に無数の鴉が飛んでいたのを思い出す。鴉は、いや鴉だけではない。島民と争っているときにも、雑木林に野犬が群れていた。鳥獣たちは、まるで真紀を守るように現れる。それは、さっき見た夢と関係があるのだろうか。
 夢は忌まわしいものだった。夢を辿れば、一族の嚆矢といえる小夜は森の獣を父に持つ子になる。それだけではない。小夜の母は二度に渡って犯されている。おそらく小夜が生まれた後、母親は麻織りの着物を着て再び森に出かけて受胎したのだろう。その子が綾乃。綾乃は万年樹を父に持つ子なのだ。
 とすれば、わかることがある。獣の忘れ形見である小夜は神秘的な顔立ちをしていたが、裏腹に綾乃は醜かった。森の樹木を父に持つゆえに、綾乃の顔には、森が育む獰猛で醜い闇が反映されていたのかもしれない。鼻は木の瘤のようで、明らかに植物の顔。二人は、森と獣たちが人への復讐のために母親の産道を借りて送り出した刺客のようなものなのだ。
その後、森と獣の血を持つ子供たちは絶えることなく生まれた。真紀も芽衣も森の憤怒を遺伝的に受け継いだ後裔になる。高校時代に荒れ狂って探し求めていた遠い血の源。真紀が異能を引き継ぐのは、森の怒りの成就に手を貸すため、とようやく思い知ったのだ。
 下腹を撫でてみる。気のせいか、まるで悪魔の子を宿したように異物を感じる。重く不快である。
夢を振り返れば、そこにあるのは根源的な人そのものへの激しい拒否と敵意。
人という生き物が地表に立つまで、植物は何億年も獣たちと穏やかに暮らしてきた。森の樹木は笑うように梢を揺らし、生き物たちは軽やかに地面を蹴った。そのような静謐とした楽園に侵入してきた人たちは、あくまで後発のものである。それでいて、あまりに尊大で排他的だった。
人に向けた憤怒は取り返しのつかない地点に達し、どす黒い悪意にまで膨らんで堆積した。小夜を産んでからの百七十年は、人間にとって膨大な時の流れにちがいないが、森の抱く時間では瞬きするほどのもの。樹木は忘れない。獣たちも覚えている。森は、そして森に暮らす鳥獣たちは、人の足音を知らない原始の静寂に間違いなく焦がれているのだ。幼い小夜が大地の変動を予言できたのも、森の悠久の記憶、獣たちの絶えることのない野性の記憶を得れば、簡単なことだったにちがいなかった。
森は悲しいのだろう。神秘を湛えた原始の密林と異なり、多くが里山として人間に飼育されていることが、そして飼育された状態から一気に抜け出すことができない自分たちの環境が悲しくて嘆いているのだ。
森が悲しければ、そこに棲む獣たちも悲しい。その悲しみが、肌に針を刺されたように真紀にはわかる。森の番人、おそらくそれが人類が絶滅して植物が繁茂する地上で、小夜の一族に課せられた仕事にちがいない。祖母が知ったら何というだろう。
身震いしながら行方もなく絶望的な思考を走らせていると、がさごそと物の動く音が風に乗ってきた。はっとして音の方角に視線を飛ばすと、雑木林の手前の雑草の中に芽衣が横たわって荒い息を吐いていた。
「芽衣ちゃん!」
 叫びながらあわてて走り寄ったが、井戸の底にいたはずの芽衣がどうしてここにいるのか、真紀は混乱した。しかし混乱の中によろこびがあふれてきた。
「芽衣ちゃん、大丈夫?」
 どっと身を投げるようにしてしゃがみ、芽衣の肩を揺すって声をかけた。
 芽衣が瞼を開く。黒い瞳の奥が獣のように爛々と光っている。その輝きが鋭い。どこか違う。真紀の知っている芽衣ではない。
ふと見ると、ダウンジャケットの白い肩にぬめぬめした泥の付着があった。雑草は瑞々しく豊かで、寝ても泥がつくはずはない。現に真紀のクリーム色のコートに汚れはない。とすれば、肩が汚れているのは井戸底の泥濘の名残りなのか。
真紀はよろけるように立ちあがった。合わせるように芽衣も上体を起こし、じろりと真紀をにらみあげる。
「あいつは死んだよ」
ごうごうと音立てて風が空洞を抜けるような不気味な声。真紀は総身がざわつくのを感じた。
 芽衣が同じことを繰り返す。
「あいつは死んだよ」
 にらみつける芽衣の目つきはさらにきつく、険があった。与える雰囲気はもはや芽衣のものではない。とすれば、小夜が完全に乗り移ったのか。「あいつ」とは、芽衣のことなのか。
「今度はてめえの番だな」
 真紀は一歩さがった。体が凍りついて思うように動かない。逃げなくては、と思った瞬間、芽衣が飛びかかって来た。その手が真紀の首にからみつき、草間に仰向けに押し倒された。視界に春らしい爽やかな夕空が広がり、花粉が飛んでいるのが見える。
芽衣は身軽に馬乗りになって、両手に力を入れてぐいぐい首を絞めつける。息ができない。そのうえ、咳こみそうになる。手で抗って見たが、力が入らない。横目でちらりと見ると、頭のそばに深い穴があった。井戸。井戸の淵に頭を置いて真紀はもがいているのだ。
「やめて」
 真紀はかすかに洩れる声で訴えた。芽衣がにやりと笑う。
今首を絞めているのは、小夜なのか。小夜のこの世のものとは思えない力が、芽衣の心に沈殿していた憎しみに力を貸しているのか。そんなはずはない。幾星霜にも渡って蓄積してきた森の怒りが小夜にあるのなら、自分が殺されるはずはないのだ。芽衣も自分も、森の願いを成就するために生まれたのではなかったか。それとも、小夜自身が森の復讐を果たすにはあまりに粘っこい悪意を獲得してしまったのか。あるいはまた、小夜は今や森さえも恐れる別の何物かに変じ、森の思いを受胎した真紀を亡き者にしようとしているのか。
獣の唸り声が聞こえる。鳥たちのばたばたと羽ばたく音も激しい。近くにいるのはわかるが、自分を守ってくれるはずの獣たちも、真紀の必死な抗いを遠巻きに見つめるだけなのだ。獣たちも小夜が恐ろしいのか。
真紀は足で地面を蹴り体を起こそうとするが、息苦しくて思うようにいかない。そのうえ身動きするたびに頭がずるずると井戸に突き出て、髪が逆さに揺れる。井戸底からひんやりした風がのぼって来る。
芽衣が首から手を離して、今度は両肩を力いっぱい押した。全身が再び井戸にずりこむ。芽衣が手を離せば深い底に逆落としに落下するだろう。
真紀は、肩と手を押さえつけられながら激しく咳をした。何かいおうとしたが、声にならない。顔にかかる芽衣の長い髪がうるさく、口からも不快な吐息が風のように降ってくる。人たちには花のように芳しく感じられ、嗅げば喘息の発作など治ってしまうような息。人間の先祖たちが魚の形をして海にいた頃、地上に繁茂した植物たちが懸命に吐き出して地上を埋めつくしたおびただしい吐息の名残り。真紀が自分を化け物と自覚したのはその息のせいだった。それは小夜の一族が森の樹木を父として生まれた結果だと、こんなときになってようやく理解したのだ。
芽衣は臭い息を散らしながら、真紀の体をじりじりと井戸に突き出していたぶる。目が心を凍らせるほど気味悪い。
「てめえを殺したらな、今度はおれを化け物と笑ったオヤジを殺す。どうだ、おもしれえだろう」
「あなたは、芽衣ちゃんじゃないのね。私に夕食を作ってくれた芽衣ちゃんじゃ……」
 はっきり確信して声に出すと、喉が焼けるように痛かった。
 芽衣が底深い笑みを浮かべる。
「てめえな、どうしておれを突き落したんだよ。どうしておれは殺されなくちゃならなかったんだよ。ベビーカーに乗ったただの赤ん坊だったろうが」
 冷たいもので心臓をぎゅっと掴まれた気がして、真紀はあえいだ。妹までいるのか。
 いつでも井戸に落せる状態で、芽衣は、いや小夜と妹は悪の愉悦を楽しんでいる。悪戯っ子が子猫をからかうみたいに。何とかならないものか、と真紀は若い時期に喧嘩ばかりしていた父の記憶を探るが、それさえ見透かされてしまう。
「てめえのオヤジの真似をしてもだめだぜ。下手すりゃ、おれと一緒に穴に落ちることになる。それとも仲良く井戸で暮らすか。小夜と綾乃のようにな。そうなっても、白い虫を生むために足の指を折って腐らせるのは、てめえに任せるからな。おれは嫌だぜ」
 きれいな顔が今は醜い。小夜を抱えこみ、共に死ぬことによって血の断絶を願った芽衣は、逆にめらめら燃えあがる小夜の憎悪と悪意にすっぽり捉えられてしまったのだ。
 ずるりと肩がさがる。真紀は手を動かして井戸の淵にあてたが、泥にぬめって支えにならない。
 芽衣が大きな目を開けて、にやりと笑う。
そのときである。何かが聞こえた。かすかな声で誰かが真紀に訴えているのだ。
「助けて……」
 井戸底にいた小夜と同じ言葉。警戒しながら芽衣の顔を見た。狂暴な顔の表皮が素早くめくりあがり、奥深くに小さなものが体を縮めてか細い声を必死に洩らしていた。
「助けて……」
 明らかに芽衣の声。真紀を逆落としにしようとしながら、芽衣の体の何かが逆らい、訴え、悲しんでいるのだ。
激流に巻かれるように真紀の頭に芽衣の様々な姿が伝わってきた。赤ん坊の芽衣が、光彦に体を擦りつけて笑っている。光彦がスプーンで離乳食を与えると、芽衣は何かいいながら天真爛漫な笑顔をみせる。
道北の原野に落ちる大きな夕陽に染まりながら、子供の芽衣が母の朋美を恋しがって泣いている。母ちゃんと一緒に逝きたかったよぉ、と涙声で叫ぶ。光彦が両肩に手を置いてしゃがみこみ、正面から困ったように見つめている。
小学校で芽衣が荒れ狂っている。学校が嫌で暴れているのではない。芽衣は悲しくてうれしくて、ちょうど真紀のように先生にすがりつきたくて暴れているのだ。椅子を蹴る。授業中うろつきまわる。不貞腐れて床にごろりと寝てしまう。
その芽衣が料理を作っている。光彦が待っている。しかし光彦の表情はどこかぎこちなく、戸惑いのようなものがうかがえる。
芽衣がキッチンから顔を向けていう。
「今日はグラタンだよ。好きか」
 光彦にではなく、真紀にいっているのだ。真紀が重い頭を動かしてかすかにうなずくと、芽衣は照れたように肩をすくめて笑った。
「おれも好きだよ」
 とたんに、さびしげな声が耳道を流れた。
「助けて……」
すると芽衣の声を引き裂くように、不快な哄笑が響き渡った。小夜の悪意たっぷりの嘲り声。小夜は、芽衣の敵う相手ではなかったのだ。
びくりと体が震えて気がつくと、真紀の体はすでに背中まで井戸に落ちていた。芽衣が下半身に乗りかかっているせいで、ようやく落ちないでいるだけのことだ。
辺りは急にしんとして、獣の咆哮が消えた。
「芽衣ちゃん!」
絞るように声をあげた瞬間、ごうっと音立てて地面が揺れた。井戸の淵ががたがた震動して、落ちそうな体をますます深くのめりこませる。空の雲が足早に動き、雑木林の枝葉が激しく左右に流れるのが視界の隅に映った。島が吼えている、と真紀は思った。
芽衣は、ちっと唇を噛む。そのとたん、芽衣が真紀の頭上をずるりと越えた。長い髪で真紀の頬を撫で、臭い息を残したまま深い底に落下して行ったのだ。突然のことで何が何だかわからない。すぐに遥か耳の下で悲鳴があがり、どんと鈍い音が続いた。
真紀は落ちないように両手をばたつかせて何かを掴もうとしたが、その何かがない。あわてていると、足首が力強く押さえつけられているのに気づいた。その足がしっかり握られて、真紀は井戸からずるずると乱暴に引きずりあげられた。
 狼狽して草の上に四つん這いになると、目の前に養護教諭の留美子がしゃがんで荒い息を吐いていた。
「真紀ちゃん、間に合ってよかったね」
 真紀は硬くうなずいた。島に渡ることをメールしておいたので、心配になって追っかけてきたのだろうか。
「ありがとう」
 まだひりひりする喉に手をあてて、急いで井戸を覗きこむ。大地の揺れはおさまっていたが、井戸の底は暗くて何も見えない。芽衣は無事なのか。それとも、さっきのように草間のどこかに横たわっているのか。
 そう思って体をねじった瞬間、祖母の険しい視線にからめ取られた。
「おばあちゃん……」
雑草の間に祖母が杖を突いて立っていた。祖母に寄り添うように、母の由紀江が自信なげに佇み、その横に車イスがあってホイールが夕陽を浴びて茜に染まっていた。よくよく見ると留美子のまわりにも、真紀の知らない年配の女たちが五人いて、慈しむような眼差しを真紀に注いでいる。
当惑している真紀に、留美子が説明する。
「近くの人たちを誘って、札幌から船を出してもらったの。真紀ちゃんと芽衣ちゃんが島に向かったというと、族長さんがすぐに追っかけるように指示を出したのよ」
「族長さんって?」
「真紀ちゃんのおばあちゃん」
 知らないことだった。
「族長さんは真紀ちゃんのことが心配だったの。いい意味じゃなくてね。いつかこんなことになるだろう、っていつも不安がってた」
 悟るものがあって、留美子を見つめた。
「じゃあ、先生は?」
 留美子は素直に頭をさげて、
「ごめんね。真紀ちゃんの見張り役みたいなもの。だから同じ高校に転勤したんだけど、あまり役に立たなかったみたいね」
「私、喋らないわよ」
 真紀は腹立たしそうにいった。
「そういう意味じゃなくて、真紀ちゃんが何を考えているか、族長さん、心配だったのよ。高校時代のこともあるしね」
 真紀は腰をあげて、汚れたコートを両手でばんばんと力強く叩いて、毅然と立つ祖母に近づいた。祖母が恐ろしい目で、一言吐き出すようにいった。
「愚かな孫だ」
 真紀は祖母をにらみ返した。子供の真紀なら、おばあちゃんなんか大嫌い、と両足をばたつかせて叫びあげたにちがいないが、今の真紀にはやるかたない怒りを伝える方法がない。
 杖を片手に背筋を伸ばして立つ祖母の姿は威厳に満ちて、とても九十を超えた老婆にみえない。肌はすべすべして、どこか気味悪いなまめかしさがある。むしろ横で落ち着きない眼差しを祖母に向ける母の由紀江のほうが、五十になったばかりなのに遥かに老齢にみえる。久しぶりに会う母は、蝮のような祖母の足元にひざまずいて、ますます心を陰鬱にさせているのがうかがえた。
 祖母が厳しい声で他の者たちに命じる。
「井戸に灯油を撒きなさい」
 女たちは灯油の入った小さなポリタンクを用意しており、その蓋をねじって開けた。汚い業に手を染めるのは、もはや記憶をつなぐべき子供を産まない、五十すぎの女たちばかり。夕闇の中で悪魔が跳梁しているようだった。
 真紀は、ふいに背中を氷の刃で突かれたように縮みあがった。
「おばあちゃん、井戸には芽衣ちゃんがいるのよ」
 祖母がぎろりと真紀をにらむ。
「あの子を供養するには、焼くしかないのです」
 そういうと、すでに灯油をまいた女たちに、辺りの空気を一瞬で冷やすような声をかけた。
「火を放ちなさい」
「待って、芽衣ちゃんが……」
 叫ぶより早く、女の一人が燃える新聞紙を井戸底に投げこんだ。
 ぼうっと炎が走る音がして、井戸の口に赤い先端が舌を伸ばし、すぐに黒い煙が身をよじるように立ち昇った。灯油の燃えるにおいが草地を漂って来る。
 真紀はあわてて井戸のそばに走り寄ったが、熱くて淵まで近づけない。離れた場所で、
「芽衣ちゃん!」
 と声をかけるしかなかった。
 ごうごうと燃え盛る音が狭い井戸底から悲鳴のように聞こえてきた。芽衣が焼かれていると思うと、涙が激しく押し出されてきた。光彦から、いや、朋美から預かった芽衣を、真紀は守りきれなかったのだ。唇を噛み切りたいほど悔しかった。
 足音が背後で聞こえて振り返ると、祖母が杖を突きながら、それでも矍鑠と近づいて来た。近づきながらいう。
「芽衣が死んで、今度はおまえが小夜を諌める者になるのです。今の小夜は本来の使命を忘れ、異常に膨れあがった怒りの矛先を見失っています。何のために自分が生まれたのか、その自覚が足りません」
「何をいってるの、おばあちゃん。芽衣ちゃんが死んで、小夜さんも一緒に死んだのよ」
 祖母は、真紀の言葉を笑い捨てた。
「小夜は、芽衣ごときでは殺せない。まだこの島で生きています」
 真紀の耳に、小夜の悪意に満ちた笑い声がひたひたと迫るような気がした。
突然、内部で怒りの炎が燃えあがった。
「じゃあ、おばあちゃんはどうして芽衣ちゃんに手を貸してあげなかったの? どうして見殺しにしたの?」
「芽衣は、小夜の扱いを知らない愚か者でした。結局は、一族のはぐれ者でしかなかった」
「はぐれ者? そうなら、私も同じはぐれ者じゃない!」
真紀が声を詰まらせると、祖母が重々しく叱りつけた。
「うつけたことを。今や一族の中で小夜まで辿れるのは、真紀、おまえしかいないのです。今回のことで、それが可能になったはず。私も若いときにはそれができましたが、この体ではどうしようもない。こんな所まで小夜に会いに来たおまえには、悲しげに泣く森が見えたはずです。小夜でさえ正確に伝えることができなかった原初から棲息するものたちの底知れぬ怒りを、子供を身ごもるようにすでにおまえの体は取り入れているのではないですか」
 小夜の母親を懐妊させた神秘の森。白い狼。蛇。森や獣が放つ人間への猛々しい怒り。怨み。それらすべてが今は自分の身のうちにあるというのか。芽衣の死で心の隅に追いやられていた先ほどの夢を、真紀はまた思い出した。すると、まるで窓を開くように見えてくるものがあった。
祖母が口軽な者たちを殺していったのは、一族の始まりが人ではないこと、体の構造が異質であることを必死で隠そうとしたからではないのか。赤ん坊の真紀が生まれながらに言葉を話すことなど、どれほど漏洩しようと人を殺す理由にはあたらない。
真紀は強い確信を胸に抱いていった。
「おばあちゃんたちが長い間待っていたのは、あのものたちなのね。森と、そこに潜む獰猛な命。自然が育んでいる荒々しいもの。いつかまた人間への復讐のために、必ず再生すると信じていたのね」
 祖母はにんまり唇をゆがめて、答えない。
 そんな祖母をにらみつけながら、綾乃に赤ん坊のときの記憶が封印されていた理由がふいに解けていくのを感じた。封印はむろん小夜の力なのだ。一度無意識に閉じこめて、時がくればそれを引っ張り出して強固なものにし、記憶の継承を可能にする。それほどの力は、肉親である小夜以外誰が持とう。
おそらく小夜にはわかっていたのだ。自分が人間の男と体を重ねて子をなすには、抱える憤怒が重すぎることを。だからこそ、森の意志を継承する子らを残す役割、それは綾乃に委ねるしかない、と。おそらく、綾乃は、小夜がこの世で母親以上に愛したたった一人の人間だったのではないか。自分は土を食い、綾乃に白い虫を与えていたのだから。
「おばあちゃんは、いつからわかっていたの? 森のことを」
祖母が厳かな声を出す。
「何度もこの島には来ていますから、薄々は感じていました。おまえの年の頃に、この場所に立って森が動くのを一晩中待ち続けたこともあります。しかし森は、私には応えてくれませんでした。ところが、今日おまえを迎えて森が躍動するのを見て、はっきり確信したのです。森はおまえが来るのを待っていた、と」
「私を待っていた?」
「森は小夜に不満を持っているのです。思いがあまりに幼すぎる。真紀、あの森まで辿り着ける者は、今やおまえしかいません。おまえは森に選ばれたのです。これからは、おまえが一族の長として、しっかりやってもらわなくてはなりません」
 真紀はいやいやするように頭を振った。
「嫌です。芽衣ちゃんのことを見れば、誰だって森や小夜さんに関わりたいなんて思うわけない」
 祖母がにんまりする。
「芽衣が死んだ今、おまえが嫌でも森の使いとして小夜のほうからやって来ます。小夜にとって、今はおまえが一番近しい」
 真紀は絶望的な思いで顔を背け、赤々と燃える井戸の口を見つめた。井戸の口? 芽衣と来たとき井戸は浜砂利で埋められていたではないか、とふいに思いあたった。しかし埋められていたはずの井戸が今燃えている。そんなことがあるものか。
 真紀は祖母にきつい視線を向けた。しかし真紀の疑問を祖母は先に掠め取った。
「ここにいる者たちでも、井戸が見えている者は少ない。おそらく由紀江には見えていまい。しかし、おまえの目には、地の底で芽衣の焼ける姿がはっきり映っているはずです。真紀、自分の能力をむだにしてはいけない」
 真紀は両手で耳をふさいで再び井戸に体を向けた。やはり深い穴は炎を吹きあげている。真昼のように鮮やかである。しかし井戸の淵に立って覗きこんでいる女たちには、そう見えない者もいるのか。では、その者たちには何が見えているのだろう。草の上で燃える芽衣? それともただ雑草が炎を放っているだけなのか。
 顔をあげると、敷地の外側の道に男が腰をおろしてじっとこちらを見つめていた。炎に照らされた顔はかなり高齢に見える。何もいわず、悲しげな顔でしゃがんでいるだけだったが、あの老人の目にも井戸は燃えているのだろうか。それに何より風に舞う花粉を吸いこんで平気なのだろうか。
 留美子が頭をさげた。
「いつぞやは……」
 届くはずのない小声でいった。
真紀は炎の揺らめきを目にしたまま、あえぐような気持ちで草間に座りこんだ。もはや涙も出ない。大きな喪失感が体の底にあった。
芽衣は本当に死んでしまったのか。おかしな口調で文句をいわれることはもうないのか。芽衣は今どこにいるのだろう。祖母のいうように土の底で焼けているのか。芽衣が楽しそうに作ってくれたグラタンのにおいが鼻先を流れて行く。
「真紀……」
 祖母の声が背後から聞こえた。
「滅びはすでに始まっています。まだゆるゆるとですが、森はおまえを迎えて人間への復讐を始めました。顔をあげて、空を見なさい」
 真紀は緩慢に視線を薄暗い夕空に向けた。濃い花粉の塊がいくつもあって、それが海に向かってゆるやかに流れている。秘境の森の方角に顔を向けると、森があると思われる場所から鎮火寸前の山火事のように白煙がもくもくと湧いている。おまけに、目の前の雑木林からも白い粉が猛吹雪のように吹きあがっていた。島中の樹木のすべてが懸命に花粉を飛散させているのだ。
「あれは通常の花粉ではありません。何十年も前から森は毒性の強い花粉や胞子を海に飛ばして、あちこちの森林に見知らぬ樹木を生やしてきました。それは北海道だけではありません。津軽海峡を越えて本州にも渡り、これまで知られていなかったカバ科の新種の森などを作っています。どれも生まれが北海道のせいで、寒冷に、極寒に適しています。毒性に気づいて人たちは必死に伐採をしていますが、伐っても伐っても、外来種のセイタカアワダチソウのように増え続けていくでしょう。そして日本中の樹林が、やがて一斉に猛毒の花粉を飛ばすのです。花粉は有珠山が噴火した時のように街や空を蔽い、やがて昼間も薄暗い日が続き、大気は冬のように冷えこむことになりましょう。そのとき、人びとは息をすることさえ難しく、日本という国は一切の機能を失います。むろん世界もそうなりましょう。そのとき、あちこちの森で息を潜めていた虐げられた獣たちが、変異を終えた体を緩やかにもたげるはずです。真紀、私たちにも手伝いをするときが来たのです。久し振りに島に来て、森の考えていることがようくわかりました」
 真紀は、満足げな祖母に顔を向けた。祖母の濁った瞳に自分の虚ろな表情が映っている。
 きつく目を閉じた。夢に落ちて、父に会いたいと願った。
すると遠くにキャッチボールしている男の姿が浮かんできた。大きなキャップを真深くかぶって顔をきちんと見ることはできないが、父の父、つまり真紀の祖父にあたる人が、油照りの夏の午後、会社の前で小学生の息子と楽しそうに遊んでいるのだ。若い父が、初給料の日に仙台に会いに行って声をかけることができなかったときの光景。父の悲しい心が、指で触れるように生々しく伝わってくる。すると遠くから女の人が声をかけた。塾の時間だよ、と。子供が母親の元に走ると、祖父はキャップを取って毛深い腕で額の汗を拭った。
初めて見るその顔に見覚えがある。綾乃の大きな腹を撫でていた座敷牢の男。自分がついさっき視線を借りた夜盗の首領。当然同じ男のはずはない。しかし、あまりにも顔立ちや振る舞いが似ている。祖父の系図を辿って行けば、ひょっとしたらあの男に至るということなのか。今にも切れそうな糸だとしても、糸のように細い血のつながりが、祖父を通してあの男と自分にはあるのだろうか。だからこそ夜盗の首領の視線を借りることができたのか。
 当惑して瞼を開けた。そのとき、腹の底で何かが動くのを感じた。真紀は下腹に手を当てて、やるせない思いでつぶやいた。
「私は、森が産ませた子、森が人間に復讐するために作った酸素を吐く子。……けれど、こんなの嫌。パパのためにも絶対許せない!……」
どこからともなく、ふいに小夜のげらげらと高笑いする下品な声が聞こえてきた。(了)
          

真紀の物語(PART2)

執筆の狙い

作者 でんでんむし
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続きを上げさせて頂きます。
Part1のあらすじを簡単に書いておきます。

由紀恵と圭介の間に真紀が生まれる。真紀はまだ赤ん坊なのに喋ることができる。
それが気になって、父親の圭介が真紀の秘密を探ろうとすると、ガス漏れで殺されそうになる。意識が混濁していく圭介の意識に、ガスが充満する中に立っている由紀恵と真紀を認める。警告だったのだ。そして昔の老賢者のように由紀恵たちに指示するのが、由紀恵の母親、義理の母だった。元大学教授である。
会社の部下に朋美がいる。誘われて飲んだとき、圭介はぽろりと真紀の秘密を零してしまう。たまたま朋美の父親と会った圭介は、車の中で真紀たちの秘密の一部を聞く。その車は前から来たダンプカーに潰されてしまう。

コメント

u
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読みました
マアwww面白かったです

あたしが前回予想していた展開ではなかったんだけどwww

全般的に作者さんの「腕」を感じます
文章力(エンタメ的ww) 伏線も含めた構成 ラスetc 上手いと思う

ただ残念www
主人公マキちゃん全く好きになれなかった
その他の一族の女性もwww同
それが本作の難点かもとあたしは思た
逆に男たちの哀れさwww でんでんさん計算して描いてる?

あと落ちです
本作はテーマと落ちが連動しています
それはそれで作者さんの考えで良いのですが 他にも落としどころが無かったのかどうか?

ただ(ラス前)の夢幻シーンは圧巻!!!!
前作も感じたのですがラストになだれこむ もっていきかたはプロだねww

ベトナム舞台の前作面白かったのですが
良い人殆ど出ないw
本作それがもっと顕著 でんでんさんのトクチョウかもと思た

作者さんのもの以前もベトナムシリーズとか田園百姓シリーズとか読んでいるのですが
在庫があるのならwww 本作みたいな「長いの」またあげてください

ありがとうございました

でんでんむし
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U様

いつもありがとうございます。

>マアWWW面白かったです

微妙ですが、ありがたいお言葉です^^
予想されていた展開はどんなだったでしょうか。ミステリーだったのでしょうか。どっちかというと、拙作はホラー系でしたね。

>主人公マキちゃん全く好きになれなかった。

 これは厳しいご感想ですね。確かに嫌な主人公では楽しくないでしょうが、実は書いていて、すっかり気に入ってしまって、それがダメだったのかな、と思ったりしていました。
そっか、嫌な主人公だったのですね。胸にドキッときました。

ラストは、まあ、かっこついているのならうれしいです。
いつも書きますように、私は先が見えないまま書いていますので、どんどん風呂敷を広げて、回収できないままトンズラこいてしまう、そういうのが多くて困っています。なので、ラストへの生き方を、ヨシ、といってもらってほっとしています。

ベトナム物に、良い人が殆どでない、というご指摘も、そうなんだ、とこれも初めて耳にするコメントで、振り返れば、何人かを覗いて、主役級はねじくれたやつだな、と今頃になって気づかせてもらいました。
今作にもよい人は出ないのですが、これ、私の趣味でも何でもないです。
偶然です^^
ただ、エンタメならハッピーエンド風な終わりのほうがいいのかな、とは思うようになりました。すっかりトラウマになっていますが、ある選者さんから、気が滅入る、といわれたのが頭から離れません。
なので、爽やかを狙って真紀をこんな風にしたのですが、それでも、嫌な子だったのですね。うーん。こたえます。

また何か出せればいいのですが、ありますかどうか。
それでは、どうもありがとうございました。大いに助かっています。

カルナック
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面白かったです。
最後まで、どうなるんだろうという興味を失うことなく引っ張られました。
本筋と幕間で語りの雰囲気が違い、あたかもモノクロとカラーの映像を交互に見せられた気分です。第三章ではそれが入り混じり、幕切れに向かって混沌としつつも迫力を持って描かれていました。前回読んだ時よりも、島や小夜の復讐心、悪意がよりリアルに伝わってきました。

芽衣のことばづかいが若干気になりました。15、16歳の女子が乱暴に話すこと、それがひとつのスタイルになることはあると思いますが、それをそのまま文章に起こすと、違和感があるというか。音声として聴こえてこないので可愛げがまるでなく、柄の悪いオッサンみたいだなあと感じました。

印象深い場面はいくつもあったのですが第三章の、訪ねてきた留美子と真紀が話をしているシーンの、

それでも光彦の、子供が一人も遊んでいない心の草原に真紀だけがぽつんといるのは、よろこぶべきことだと思った。

この表現はことに深く残りました。

また第三章では、ことばづかいとは裏腹な芽衣のいじらしさが感じられたぶん(特にグラタンのくだりとか。肉が食べられない光彦のために野菜料理を作っていたことも)、彼女にはもっと長くいてほしかったです。

前回も感じたことなのですが、女性の主要人物(名前があたえられている人物)が全て一族の者であることがほんの少しだけ不満でした。一人ぐらい、不安や不審を嗅ぎ取る一族以外の女性がいないものか、その女性には一族の者たちがどんなふうに映っているのかと。
特に族長。こんな婆さんがいたら、隠しても誤魔化してもなにかしらひとの目に映ってしまいそうです。
婆さんとか、憎々しげに書いていますが、それだけ読んでいて腹が立つ存在だったと言うことです。登場シーンは少ないのに威圧的で、男性を繁殖のための道具としか思っていない。自身が宿命や役割を持っているからにしても、すごくキライ。笑。こういう人物を造形した作者さんの腕が良いから、こう感じるのですね。

読み終えて、ああ、面白かったな、読めて得したなと思いました。

余談ですが、わたくしも時折、郷土研究の冊子などを読みます。北海道にはタコ部屋労働や囚人労働などの暗い歴史が豊富にあるだけに、時に驚くべき記述が見つかりますね。
道内津々浦々、慰霊碑だらけだし。

カモメ島のモデルはあるのでしょうか。

でんでんむし
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カルナック様

長い物を読んで頂き、ありがとうございます。しかも二度までも。
原稿用紙換算では、700枚になります。自己最長ですし、ここにアップされる話の中でも最長かもしれないですね。心から感謝です。

芽衣の言葉ですが、ガラの悪いオッサンみたい、というのはよくわかります。あの年代の子が私のまわりにはいなかったので、映画とかから真似て喋らせたのですが、板についていないから、なかなかうまくいかなかったですね。
ただ、可愛げがない、というのは、それは意図したことですので、よかったのですが、最後まで可愛げがないままではマズイと思っていました。なので、料理の場面とかでいじらしい部分が出せたのなら、うれしいことでした。

実はこれを読んで下さった、元イラストレーターの方が真紀と朋美の絵を描いてくださって、それがとっても素敵だったので、大事にしています。
結局、本にならなかったわけですから、そういうことがうれしいこととして心に残っています。自分で気づかないご感想とか、そのようなこととか頂いて、やはり書いておいてよかったと思うわけです。

パート1,2の狂言回しになる、父親や小学校教師以外は、出てくる人物の誰もが一族に関係があるというのは、さすがにまずいですよね。とは思う、いや、思ったのですが、それを書いていけば700枚がどこまでいくかわからないので、まあ、ここで手を打つか、という感じでした。

とにかく、いいたいのですが、これをノンプロットで書いている間は、最高に楽しかったです。とにかくこの連中は何をしたいのか、何をたくらんでいるのか、それが私にもわからないわけで、それを代わりに考えてあげなくてはならない。仕事から帰って、夜中は一族の一人になって、ああだこうだと考える、結構大変でした。しかし最高に楽しかったです。

しかも毎度のことですが、つい筆がすべって、サヨは三人いたこと、中の一人は醜かった、なんて、進むべき予定の道を自分で外していって、その理由をああだこうだと考えるのは、ほんとに外国で迷子になっているような気分で、ちゃんと理屈を発見したときには、今夜は乾杯、という感じでしたね。異国で迷子になるのは、怖いけど、楽しいですよ。タイで悪徳運ちゃんのタクシーに乗って、夜中の2時に暗い場所に降ろされた、いや、自分で降りたのですが、わくわくでした。
こういう一寸先がわからない、というのは、旅だけでなく、わずか10枚の掌編でもそうで、最初にぼんやり考えていた道筋が変わってしまうのが普通なんです。この返信の書き方を読まれるとわかりますよね。あっち飛びこっち飛びしてわけわからなくなる。
で、最近わかったのは、私は目先のことしか見えないアホだということでした。でも、アホのおかげで、700枚書けて、こうやってご感想まで頂いたのですから、結果、物にならなくてもうれしかったです。

郷土研究とか、私は読んだことないのですが、北海道には、囚人道路とかいわれる道、北見の当たりの長い、長い道ですが、網走などの囚人が、森を切り開いて作りました。1メートル進むごとに一人死んだ、とか。うろ覚えですが、そんなことがありました。
そしてそれを題材にされて、昔、ごはんにいらした方が長編を書かれて、ホラー大賞を受賞されてデビューされました。とっても素敵なホラーミステリーでした。その方、てっきり北海道在住の方かと思ってましたら、実は北海道は知らなくて、ネットに上がった写真などを見て、北海道人が不思議に思わないような北海道を作られたようです。書く場合、やはり調べることは大事で、基本ですね。
はい、拙作でもいろいろ調べました。大変でした。

なお、カモメ島は実在しません。場所的には奥尻島の辺りですが、そばには人が住めるような島はないですね。もっとも江差には実際にカモメ島というのがあります。陸地から歩いていける程度の小島、いや、島ともいえない、ほんとカモメしか住めないような場所ですね、確か。

いずれにしても、二回も読んで頂いて感謝です。カルナックさんが1000枚のを上げられたら、すぐに読ませて頂きます。楽しみにしています^^それでは、

もんじゃ
KD111239165229.au-net.ne.jp

でんでんむしさま

お隣のよしみゆえ、

>真夏の強い光が、きらきら光る海の向こうに、どんぶりを逆さにした形の島が姿を見せてきた。

一文目がこれなのでありますが、この文章のまともでなさを自覚しないことには、うーむ、老婆心ながら……。

でんでんむし
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もんじゃ様
まさにあちゃーという感じですね。自覚だけはしていますが、それでどうだ、といわれてもどうすればいいのか、わからないから、いつだって迷走しているわけです。
これ書いたときのことは憶えていて、どうやればいいのか、ほんの一瞬だけ悩んで、まあ、こんなものか、という感じで書いちゃったわけですね。いつものことですが。書いてから考えようというやり方で。
でも、これに関しては、後で考えなかったわけですね。

でも一行目を読まれたということは、ひょっとしたら、どれどれ、ちゃんとかけていたら読んでみるかって思われたってことですよね。それだけで、実はうれしいです。

子供の頃に本を読んでおかないと、ホント、リズムがわからなくて、うまくなりません。田舎の子なので、野や山をひたすら走りまわっていたもので、本なんか都会の子が読むものだとばっかり思ってました。人生、本に関する部分だけは、もう一度やり直したいですね。
と、ほんと、字を書き始めたら、このようにいつまでもだらだら。なので、強制終了します。どうもありがとうございました。赤面です。

たまゆら
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でんでんむしさん、part2だけですが読ませて頂いています。
 
part1をあらすじしか読んでいないので、不安はあったものの、引き込みが強いせいか知らぬまに物語世界へ入り込んでいました。それにしても、いつも読ませてもらっていたものと、まるっきり作風が違いますよね。こんなジャンルも書けるのかと、びっくりしました。
 
それと、もんじゃさんの指摘された冒頭は理解できましたか。文盲の私にはよく理解ができなかったのですが、どんぶりを逆さにした形の島のことでしょうか。確かにそんな島は有り得ないし、「姿を見せてきた」を「現れた」、にするとか、「真夏の強い光が」を、とっぱっらってしまえばと思うだけで、結局わかりませんでした。どちらにしても自分の冒頭よりはずっとましですが。
 
さて幕間、これから薄気味悪いことが起きそうな予感がして強い引きがありました。
二章も真紀の存在が際立っています。テンポもいいですね。
 
そこで少しだけ。
>隼人は光彦の腕の中に崩れるようにもぐりこんできたが、その手首は長く伸びて
・これはどういう状態?
それと先生の判断がおかしいなと。確かにペンケースを取った隼人がいけないとは思いますが、口を赤くさせるほどに傷を負わせた真紀を叱らないのは、異常に思えました。保健の先生も同様に。
>「今度からは指をかじられるようなこと、するんじゃないよ。骨が折れたら、大変なことになってたわよ」
・この教師らは、何か物を取られたら傷を負わせてもいいと思っている?
 読みながら画面をチェックしていたら、少しも進まないのでストーリーを追わせてもらいますね^^
 
自宅に戻り、妻の話を聞いて、いよいよ物語が動きだす。動いてから次々と新たな情報が舞い込み、やがて老人の住居へ行く。
読み手も展開が気になり、どきどきして老人に臨みました。そして謎が少しずつ解明されていくわけですが、饒舌だし、場面が少し長い気がしないでもなかった。物語は進展したけど、読み手の読む速度はじゃっかん落ち気味。
ところが自宅に戻って新事実が発覚。妻が小夜の末裔だった。しかも特異体質の持ち主。途端にまた読む速度が上がる。そして疑問も。妻は、一族の末裔でありながら一族のことを何も知らないのです。
しかしはっきりしたのは、この時点で朋美の味方になっていたこと。真紀を敵と認識したことです。何でそう思ったかといえば、お腹の子です。それを殺そうとしている者がいると知って。
まだほんの少ししか読んでおらず、この後、展開がどう変わっていくかわからないので何とも言えませんが、わかったことはただ一つ、見事でんでんむしさんの術中にはまってしまったことです。
 
読み終わってから感想を書け! それが正しく、でんでんむしさんもそれを望んでいると思われますが、たぶん読み終えたらまったく違う感想を書いているかもしれません。
とりあえず、読み手がここまでどんな気持ちで読み進めたのか知らせたく、中途半端ながら感想を書かせてもらいました。
では、数日後にまた。

でんでんむし
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たまゆら様

長い物を読んで頂いているようで、ありがとうございます。しかも強い引きがあったと言って頂けると、大変うれしいです。
とにかく、長いのだけが取り柄のような話なので、ご迷惑をおかけしています。

冒頭は、もんじゃさまにいわれるまでもなく、やはり変な文ですね。単純に半円の普通の島だといいたかったのですが、余計な比喩を入れてわからなくなってしまったようです。推敲の際には、文章の副詞とかは意識的に削るようにしているのですが、変なままで気づかないことが多いですね。

その手首は長く伸びて、の件ですが、これはやはりちゃんと書いていなかったせいですね。手首は隼人の手首です。真紀にかまれていて、真紀が先生の方に動いたので、隼人の手が自然に長く伸びたという絵でしたが、誰の手かが曖昧でしたね。
ただ教師2人が真紀を責めないで、隼人を責めるのは、たまゆらさんのような反応は全く予想していなかったので、驚きました。というのも、先に手を出したのが隼人なので、それで隼人を叱っているという設定でした。しかも真紀が変なのはわかっていたので、あんなのかまわんじゃない、という意味合いもあったのですで。
確かに血は出ていますが、隼人はそれを家でいうような子じゃない、とか。まあ、後付けですが、そんな感じで気楽に書きました。隼人も真紀が好きでちょっかいかえているという風に。

仰る通り、郷土史研究家の老人の場面は自分で読み返しても長いと思いました。いいわけですべ、だって、サヨの三人目が出てきてしまったのですから、ということでしょうか。これは訪ねるまで、想定したこともなかったので、何より、私が呆れました。そして三人目の分、長くなってしまいました。という次第です。

すみません。話がばたばたしていて。
まだまだ長いですから、御無理されないように。次のご感想が怖いです。よろしくです。

なお、ここを借りて書きますが、赤い蝋燭。中身を読む前に、小川未明かなと思いましたが、どうも未明とシンクロしているような気がしなかったので、念のため、ウイッキで未明の話の確認をしたのですが、それでもやはりどこが未明に関係しているのかわかりませんでしたので、感想に未明の名前を上げませんでした。未明は私も好きな作家です。なんせ、お化けが出るような物語が多くて、この本、小学生の家庭教師をしたときに使ったのです。音読させて、粗筋をまとめるという形で。男の子でしたが、よろこんでいました。
ただ御作を読んだときに、サヨが出たのはマジびっくりしました^^;

5150
5.102.18.152

>真夏の強い光が、きらきら光る海の向こうに、どんぶりを逆さにした形の島が姿を見せてきた。

>> 真夏の強い光によって、どんぶりを逆さにしたような形の島が、きらきら光る海の向こうに現れた。

解釈がとんでもなく間違っているかもしれませんが、原文を尊重して直すと、私の場合こうなってしまいました。〜が、〜が、の繰り返しに引っかかったもので。すみません、でんでんむしさん、興味本位だけでの割り込みです。もんじゃ氏が感想欄にて添削されているのを見かけると、つい読んでしまうもので。普段の私の文章はデタラメばかりなので、過去に何度か拙作において、もんじゃさんから文章についてのありがたい指摘を何度かいただけました。すべてファイルにて保存してあります。論理的かつ明確なもんじゃ式文章メソッドで、自作を推敲したいと願っている身なのですが、これがなかなか。まっとうな文とやらが、いったいいつになれば書けることやら。トホホ。

ちなみに最近ちょっと忙しくて、鍛練場の作品の感想を書くどころか、まともに読んですらいないのです。ですが、でんでんむしさんのは感想を書こうと思っています(感想返しからではなくて、パート1を読み終えて単純に面白かったからです)。いつになるかはWho knows であります。

たまゆら
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小夜が三人いる必要性。末裔である彼らの、特異体質の効果や価値などを念頭に入れて読み進めていくと、芽依が光彦に怒り、朋美と真紀を憎んでいることを知る。二人の子どもである芽依がひとすじの光だと思っていたのに、何だかつらい物語になってきました。希望というのかな、それを裏切られた気にもさせられてショックが大きいです。今現在、物語同様読み手も救いようのない状態になっています。
 
こういう読み手の心理状態を、でんでんむしさんは計算づくで書いているの? それとも……。
「私、大嫌いなママの子。ママも自分のパパを殺して、私もママを食べた」
このキーワードも頭に入らないぐらい気を滅入らせながら、フリーズした画面を戻して読み進める。でも気持ちは重い。
  
と、朋美が真紀と面会後に自殺する。芽依の命は助かる。でも芽依は人を憎むことで生き延びたような気がしないでもない。だとすれば気に入ったキャラが一人減り、好ましくないキャラが一人誕生したことになる。
でんでんむしさんは何を考えているんだとぼやきながら、また読み進める。気のせいなのか、物語のせいなのか、目がちかちかする。
  
ふたたび幕間に入り、またぞろ描写に違和感を覚える。それでも情景を頭の中に刷り込み、十五年後の世界へ進む。
いつのまにか視点主人公が真紀に変わっていた。不思議だ。真紀の印象は読み手にとってよくなかった。芽依を憎み、朋美を間接的に殺したと思っている。それなのにまともな、いや、それ以上の知的な女教師に変身していた。そのうえで芽依を必要以上に醜悪な立場に置いている。ということは……この後が透けて見えそうで、そうならなければいいなと思った。
 
と嘆きつつ、新展開に驚き、画面の文字を追う速度が速まる。そして墓参りを経て、留美子との話によって、元凶の存在を知ることとなる。
朋美は我が身を犠牲にして元凶を……
 
いい意味での裏切り、凄い物語になってきた。
しかし今まで寄り添ってきた、光彦の体たらくはいったい。もしかしてラストで大きな役割を果たすのだろうか、と心配になる。
 
今日中に読み終えてしまうか、明日に伸ばすのかは気まぐれなのでわかりませんが、牽引力はかなり強い。強いだけに、どうか裏切らないでほしい閉じ方でありますようにと願いつつ、明日読むことにしました。
 
まんまと嵌められましたたね、でんでんむしさんに。
これだけの作品を無料で読んでいいのか、と思うほどの、ここまでの出来栄えです。
では、また明日。

でんでんむし
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たまゆら 様
 
 2章までのご感想、ありがとうございます。
 3章が気に入っていただけるか、怖くなりました。

>でんでんむしさんは何を考えているんだ

と問われたら、実際困ってしまいます。
返信で書いていますが、最初に書こうと思ったのは、どうして知識などは遺伝しないのか、ということでした。折角苦労して英語なんか勉強しても、それが子供に伝わらない、子供はまたThis is a penから始めなくてはならない。人類の時間のムダじゃないか、というアホみたいな疑問でした。
そんな適当な考えで書き始めたら、どんどん話が膨らんで、しかもサヨが3人も出てきて(これに一番驚いたのは、作者の私でしょうね)、3章は広げた風呂敷をどう畳むか、そればかり考えて書きました。

 真紀は普通に考えればよくない子です。でも、これ書くのに半年近くかかって、半年間、赤ん坊のときからずっと真紀の面倒をみていたら、とってもかわいくなってきたのです。いわゆるピグマリオン効果ってやつですね。
 それで3章は、過去はおいといても、まあ、ちゃんとした大人にしてあげたかったわけです。なので、知的な女教師、って書いて頂いたのが、実はかなりうれしかったわけです。
 そして、作品としてはしまりがなくなってしまったみたいで。反省すべきか、これでいいのか、自分でもわかりません。
 3章、せめて退屈されないで読み終えて頂ければ、私は何も申し上げることはないです。
 アホみたいなこと書いていますが、こういうの、自分でも初めてだったので、まあ、娘を結婚させる親の気持ちってこんなでしょうかね。
 
>どうか裏切らないでほしい閉じ方。

 かなり怖い言葉ですね。
 
 こうやって、何回かに分けて感想頂いた経験って、記憶になかったので、新鮮で、同時にどきどきですね。とてもありがたいことです。
 ここまできましたので、次回のコメント、お待ちしています。ぜひぜひ^^
 ありがとうございました。

たまゆら
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読み終えて、想像もしなかったラストに驚愕しました。文句のつけようもなく、物語の奥深さ、凄まじい筆致に圧倒されました。
ただしキャラには失望。
 
一、二章の主人公は光彦で、自分としてはかなり感情移入して読みました。多くの人もそうだと思います。朋美の夫として、真紀の教師として、留美子の同僚として、苦悩を抱えながら思いやりに満ち、探求心も持っていた。それなのに、でんでんむしさんは手のひらを返すようお払い箱にする。四十歳であるのに無気力な老人にさせ、謎の解明に加えることも拒絶して物語世界から消した。
じつに不可解です。
 
一方、三章の真紀は人を二人殺しています。光彦の妻である朋美は直接ではないにせよ、追い込んで教唆という形で死に追いやったのは間違いありません。もう一人は妹。これは完全に殺人です。それなのにのうのうと生き、償いをしようとしない。元凶だからという問題ではないと思う。
三章は光彦では難しそうなので、一、二章の真紀の悪いイメージを少しでも変えてほしかった。そうじゃないと移入できそうもない。やはりペンケースをとられたときに少年だけを叱ったよう、でんでんむしさんの、愛着からくる身びいきをここでも感じてしまいます。罪を贖わずにのうのうと生きる真紀に読み手は感情移入などできないでしょう。たとえラストで驚愕の秘密を知ったとしても、共感できる問題ではないと思います。
 
それと芽依ですが、あの口調は逆効果だったような気がしてなりません。粗暴さだけがむき出しになって少しも魅力を感じられませんでした。むしろ謙譲語のほうがいいとさえ思ってしまいました。
その中で唯一の救いは留美子でした。彼女は読み手を裏切らずに信念をまげなかった。
 
そしてストーリー。真紀の、獣と森がルーツであるのは幻想的でいいとしても、小夜が生き延びた禁断の手段。これを読んだ人がどう思うか、が気になります。この作品が最終に残って、自分がもし選考に携わったとしたら落とすでしょうね。母親の身体にわく蛆や、蛇とか鼠などを食べて生き延びてもらいたかった。でも、さすがに人肉は……引く。
 
あと、やはり小夜が三人だと紛らわしかったです。でんでんむしさんは半年以上もこの物語に入り込んでいたわけだけど、読み手はわずか三時間程度です。中盤から、えっとこの小夜はどの小夜だったかなと、該当の場所まで目まぐるしくスクロールしないと把握できなくなることが度々でしたので。
 
ですが、無理やり注文つけただけで、ホラー作品としての質は高いです。状況、状況でのタッチは唸るものがありましたし、ストーリーの奥深さは凄いとしかいいようがありません。何より読んでよかったと思える作品でした。
 
最後に。
順序が逆になってしまいましたがpart1を読ませてもらおうと思っています。
でも不思議なのは、part2からでも途中という気がしなかったことです。やはり幕間が効果絶大なんでしょうね。謎を提示しつつ、引きが強いので。
 
そうそう、part1に未読の感想が書かれていましたよ。
では、またいつかお会いできることを楽しみにしています。

でんでんむし
p0163482-vcngn.ttri.nt.ngn.ppp.ocn.ne.jp

たまゆら 様
 ホントに長いのを読んで頂いて、ありがとうございます。
 たくさんの時間を取って頂いて、感謝です。
そしてご感想を目にしまして、ああ、拙作はまだまだ未熟だと、納得しました。なんか、滅多打ちって感じですけどね。

>ただしキャラには失望。

これがまさにガツーンでした。
昔読んだ小説なんかを今思い出すと、結局キャラの楽しさ、心地よさが真っ先に浮かんでくるわけですね。ストーリーは忘れても、キャラは鮮やかに残っている。
あたりまえですが、この当たり前な部分で、私は考え違いしていたと知らされました。

半年つきあったので情も移ったのですが、私は真紀を悪い子として捉えてはいなかったのです。この一族の存在は悪だから、自分の力で断ち切りたい、つまり三番目のサヨの考えを受けついでいて、苦悩しながらも、人殺しをするわけです。
最後は、祖母に負けてしまうのですが、そういう健気な心を持つ娘というように作ったつもりですが、そこがきちんと描けていなかったわけで、実は悔しい気持ちでいます。
ご指摘を受けて、もっとやりようはあったのではないか、そんな気がしてきました。

U様も真紀を好きになれなかったとのことで、やはり私の客観は甘かったのでしょうね。これが一番の反省になります。いろいろ弁解しても仕方ないように思います。
読まれて共感できない主人公では、話は終わってしまいますから。

>サヨが生き延びた禁断の手段。

これ、書いているときは特にこうだと決めることはなかったのですが、読み返すと、やはりホラーですよね。ミステリ部分もあるにはありますが、基本はホラー。
そしてホラーにはこういう禁断の手段が描かれることも結構あって、書いていて、問題があるとは感じていませんでした。逆によくある流れにしてしまったかな、と心配だった位です。
そこがダメといわれたら、というか、確かにダメですよね。それはもちろんわかります。ただホラー小説にした場合、それをタブーにしてしまったら、どうなのだろう、とちょっと思ったりしています。

小夜が三人、紛らわしいですね。私の知人が、このサイトを覗いて、読んでくれたのですが、やはり三人にこんがらかってしまった、というコメントをもらいました。
上にも書きましたが、最初は3人も小夜がでる予定はなかったのです。郷土史研究家の解説を受けて、二人で留めてもよかったのですが、どうも二人では落ち着かない、安定しない、と考えて、話を安定するために3人目を示唆したわけです。自分でも3人目のイメージは何もなかったのですが、二人はまずい、不安定だと思ったのですね。結果はどっちが不安定だったかよくわからなくなりましたが、そういう感覚は書いていて、いろいろ浮かんでくるのです。
 話としてはここで終わり、となっても、いや何かもう一つエピソードが必要、と第何感かの囁きがあることって、ありますよね。そして長くしたりする。
 ちょうどそんな感じで、私には3人必要だったのです。映画のロードムービーでも、旅する連中が何人になるかで、映画の雰囲気がかわりますね。それと同じかな、と思ったりしています。
 という言い訳は置いといて、結果、ご迷惑をおかけしたこと、未熟と反省しています。

なお、二章は光彦目線で描きましたが、実は私としても二章が一番好きな章です。光彦の教師としての日常、奥さんとのこと、ある程度書けたのではないかと思っています。ただ少々長いのが瑕ですけどね。

長い物に付き合って頂いて、心から感謝しています。
ごはんの記録?じゃないかと思うのですが、700枚。読むのはつらいです。なので、重ねてありがとうございます。感謝です。

ショコラ
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でんでんむしさま

 パート1につづき、パート2も読了いたしました。

 真紀の物語をつづるにあたって、三つの視点で章分けされている。
1父の視点
 愛する妻由紀江を受容して秘密を守ろうとするも、一族の女の夫で唯一認められている朋美の父に会いに行き、一緒に消されてしまう。パート2で暗示されているように、見張りについていた朋美は実の父まで殺めたのでしょうか。
 とても誠実な人でしたので、残念な結末でした。

2朋美の夫で、真紀が父代わりに慕う担任教師の視点
 留美子先生と共に、カモメ島の謎を追っていく。
 3人の小夜の悲劇は手に汗握る展開でした。
 この光彦先生も大変よい人でしたのに、妻の次章では見る影もないのが残念でした。

3いよいよ真紀の視点
 朋美が最期に守ってしまった遺児の芽衣を光彦から預かり、共同生活が始まる。一族の中でも感性の鋭い二人が3人の小夜の秘密を暴いていく。父の視点で次子誕生が待たれていたのにその結末、朋美の自死の真相、真紀の心の闇はもっと深いのではないでしょうか。

 そしてプロローグが一人目の小夜、二つ配された幕間が二人目の小夜と3人目の小夜を描いた、いにしえの実録。興味を引く構成だと思いました。

 プロローグや幕間の雰囲気から八墓村の祟りのようなお話かと思いましたら、自然界の怒りという壮大なテーマに脱帽いたしました。


 一族は醜いほうの小夜、森の子孫なのですよね。母の美しさを継いだということでしょうか。
 森の系統なら男子でもかまわなくないですか。どうして女系でなくてはいけないのでしょう。火事で生き残った男児はどうなったのでしょう。根絶やしにしなかったことが中途半端だと芽衣ちゃんが語ってましたよね。

 樹木的なところがあるから、土の中でも生きながらえる生命力があるのでしょうね。人間のわたしとしてはちょっと薄気味悪く、おぞましい感覚がありましたけど、そこを描けるでんでんむしさまの踏ん切り、見習いたいです。


パート2の冒頭文、わたしも意味が取れず、何度も読み直しました。
>真夏の強い光が、きらきら光る海の向こうに、どんぶりを逆さにした形の島が姿を見せてきた。
 「真夏の強い光が」を主語としたとき、述語がなく、行き場を失うからです。
ですから「真夏の強い光が、」この「、」を取ればいいかなと思い、
>真夏の強い光がきらきら光る海の向こうに、どんぶりを逆さにした形の島が姿を見せてきた。
 こう読んで先に進めました。
 けれども、5150さまのコメントを拝見して、そうか、真夏の太陽、海、その向こうの島と配するための「、」だったのかと思いました。
 他にも助詞の使い方ですとか、言葉の選択ですとか、気になるところはありました。おっしゃるように読書量が足りないとはとうてい信じられません。長い作品ですので大変かとは思いますが、細かいところにも気を配り、推敲なさったほうがいいかと思います。


 細かいことで気になったこと。
○卵⇒幼虫は孵化、幼虫⇒蛹は蛹化、蛹⇒成虫は羽化
○震度はその場所での揺れの大きさですけど、M5のように表記するのは震度ではなくマグニチュードで地震そのものの規模を表しますから震源との距離は関係ありません。


 力作を読ませていただき、ありがとうございました。

ショコラ
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でんでんむしさま

妻の次章⇒妻を亡くした次章

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