作家でごはん!鍛練場
もんじゃ

月(三枚)

 河は、海へと下っていた。
 畔を歩みながら前方の闇を見下ろす。遠くの漁り火が灯いては消えて、風が吹き、衣の襟を立てると私は草履を踏む親指に力を込めた。
 湊町までおそらくは半里、そこが果ての町になるのかならぬのか、辿り着いてみなくては判然としない。
 仏に仕える身一つで旅する男を、月の眼差しは虚空より照らし、それを私は背中で感じている。振り返るまいと思いながらも足を止め、肩越しに振り返ると、はるか彼方に、暮らし。捨ててきた日々。一歩進むごとに遠くなる罐焚きの煙。汁物の匂い。白米の味。
 ふと、乳房が浮かんだ。やわらかな温もり。俯くようにして目を落とす。
 と、道の端に白い花。月を見上げていた。そのしんとした佇まいは、一宿一飯の世話になりし宅に独居していた、あの女を思わせた。泣けてしまうのであった。

 旅路の先に向けて長い影、すなわち月が描きし私の模様。見てまた改めて孤独を悟った。
 夢、を描いてはいた。青年らしい、野心にも似た想い。夢は飛翔し、それから落ちた。脱け殻を見詰め、明らかに諦めて己を深く瞑らせた。すると私の内で仏性が目覚めた。それでも、と気が付いた。また陽は昇るのであった。だから私は旅に出た。

 黒い空を、黒い鳥が、啼きながら何処かに帰って行った。飛び慣れた道なのかもしれない。しかし、一羽じゃ寂しかろう。
 また思ってしまう。他人のままで共に寝た女。迂闊にも、惚れてしまった。ああ、そういうことなのだ。
 視界の隅を星が流れて、騒ぐ胸の内をかすめて、すっと消えた。

 暗い海に出た。
 響く波音が、悲しいという言葉の意味を教えてくれる。月光を浴びて仄かに白く、足下の砂。泪を吸わせて申し訳ない。
 影を見詰めながら突っ立っていると、背後より優しく罪深き風は吹いた。肌は萌えた。私は夜に酔った。抱かれてみたい、と思ってしまうのであった、また誰かの胸に。
 月夜の蚊帳を思い出し、温もりを想い、湿り気を想った。
 ――見上げる月は揺れている。
 ああ、やはり私は泣いているのであった。

(あるものへのオマージュであります。あとで明かします。習作なのでありました。こういうの、どう思われますでしょうか?)

月(三枚)

執筆の狙い

作者 もんじゃ
KD111239165243.au-net.ne.jp

なぜ旅立ったのか、その【動機】がわかないからそれを書き足すべしだとか、一宿一飯の情を掛けられし夜の【エピソード】を具体的に記すべし、そうでないと「小説にならない」だとか、あるいはそもそもの【場所】や【時代】を明示せよ、みたいなことを言われますでしょうか?

コメント

アフリカ
flh3-122-133-232-202.osk.mesh.ad.jp

おいらはいつでもヘビーゲージ
数回しか聴いたことないけど
強烈に耳に残ってしまうのでした。

それをなんか思い出した。

昔読んでた雑誌に、少ない言葉で多くを連想させるのが優れたそれだ。って出てた。
確かにそうとも思う。

女を思い出す瞬間。
僕の場合、確かに女性を象徴する部位ややわらかさを思い出す。

なんか心地よくて、感想入れたくなりました。

ありがとうございますた(*´ー`*)

偏差値45
KD106154138222.au-net.ne.jp

読みにくいし、分かりにくい。
その上、つまらない。
ほとんど食べるところがない感じかな。

もんじゃ
KD111239165243.au-net.ne.jp

アフリカさま

ありがとうございます。

『僕のギターにはいつもHEAVY GAUGE』って、若かりし頃の長渕剛が弾き語っていた歌ですよね。若かりし頃のもんじゃもギターでコピーしてました。下手でしたが。

ありがとうございました。

たまゆら
p1817002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

読ませて頂きました。
 
私はこの作品に無常観を感じさせられました。主人公は煩悩に苛まれながら歩く。懐かしい日々を思いだしながら歩く。そして孤独がゆえに、頭をよぎるのは人との温もり。たぶんそれは若い頃、野心のために捨てたものかもしれないし、失敗した経験なのかもしれません。でも、主人公には目的があってもなくても前へ進む。遠い日の温もりに涙しながら。
 
>仏に仕える身一つで旅する男を、月の眼差しは虚空より照らし、それを私は背中で感じている。
・この文章は距離感の取り方が絶妙だと思いました。とても勉強になりました。
 
>なぜ旅立ったのか、その【動機】がわかないからそれを書き足すべしだとか、一宿一飯の情を掛けられし夜の【エピソード】を具体的に記すべし、そうでないと「小説にならない」だとか、あるいはそもそもの【場所】や【時代】を明示せよ、みたいなことを言われますでしょうか?
・なぜ旅経ったのかに関しては野心と書かれているので、この長さの作品であれば問題ないと思います。夜の情けも同様に。場所も最果て、漁火で見当がつきます。ただ時代に関しては、その時代にしかないアイテムの必要性を感じさせられました。
 
じつは冒頭を読んでどきっとさせられました。
というのも自作品のイカ釣り漁船を漁火に変えていたからです。それに合わせて、空爆から終戦、季節も間違えていたので変えました。
 
慌ただしいので的外れな感想のような気もしますが、取り急ぎ感想を書かせてもらいました。

もんじゃ
KD111239165243.au-net.ne.jp

偏差値45さま

ありがとうございます。

>分かりにくい。

言葉たちが十分ではない、と感じられたのかもしれませんね。
または、不適切な言葉が使用されている、と感じられたのかもしれません。

>つまらない。

心に響くフレーズがなかった、または、味わい深くなかった、というご指摘でありましょう。

>ほとんど食べるところがない感じかな。

蛇足、ではなく、不足、を感じたのでありますね。
「ほとんど食べるところがない」というご指摘はフェイタルなご指摘であるな、と感じました。

ありがとうございました。

もんじゃ
KD111239165243.au-net.ne.jp

たまゆらさま

ありがとうございます。

>煩悩

はい。もんじゃも、煩悩、とか、破戒、を思いました。

>>仏に仕える身一つで旅する男を、月の眼差しは虚空より照らし、それを私は背中で感じている。
・この文章は距離感の取り方が絶妙だと思いました。とても勉強になりました。

嬉しいご指摘でありました。
 
>時代に関しては、その時代にしかないアイテムの必要性を感じさせられました。

なるほどであります。

ありがとうございました。

アン・カルネ
219-100-28-14.osa.wi-gate.net

「あるものへのオマージュ」と書くと、大抵はそこに引きずられて、それなんだろう、と考えながら読んでしまうと思うの…。そうさせたくてこの作品を書いたのであれば、その為の作品なんだろうねって、ことになってしまうけど、そういう先入観を持ってもらいたくて書かれたものなんでしょうか。

天地人の明示、動機づけ、一宿一飯のエピソードが要か不要か。それはその「あるもの」が何かによるんじゃないでしょうか。
この3枚で独立した掌編として読めるのか、読めないのか、そういうことだったら、私は読めると思います。ラジオのナレーション掌編小説みたいなところでしっとりと読んでもらいたいし、その後に「ケルン」を流してもらいたい。ウィンストンの「あこがれ/愛」でも良いけど。
個人的に思った事は「辿り着いてみなくては判然としない。」は無くても良いんじゃないかな、と。理由は「そこが果ての町になるのかならぬのか」で止めておいてくれた方が「私」とともに、そうだね、どうなるんだろうね、と彼の隣に気持ちをより添えやすいから。「辿り着いてみなくては判然としない」と言われると、そりゃそうだよね、理屈っぽいよね、という気持ちになって彼から半歩離れて歩く気になるから。
「泣けてしまうのであった」これもここではいらないかなあって思いました。読んでいる時はそう思わなかったけど、後に「ああ、やはり私は泣いているのであった。」とそこでこの話の円を閉じているので、そうするのなら、そこを効果的に使いたいように思うので、先に「泣けて」という表現や「泪を吸わせて」とかは一切、使わない方が良いように思いました。
同様に「見てまた改めて孤独を悟った。」これも変えた方が良いのかな、と。「孤独」って出さない方が良いんじゃないのかなあ、と。(無くても分かるし…)。
あとは「私は夜に酔った。抱かれてみたい、と思ってしまうのであった、また誰かの胸に。」の「夜に酔った」ここかなあ。うまく言えないんですけど、ドラマの主題歌の歌詞に「夜を泳ぐように過ごしたあの瞬間を」というのがあって、これは巧いなって思ったんですよね。すごく想像力を掻き立ててくれる一方で、ああ、そうだな、そういう経験だったな、と思わせる共感力があると思うんです。それに比べると「夜に酔った」の後にもう「誰かの胸に」と書かれてあるので、まさにそれだけ、読んだまんま、それ以上にも以下にもならない、そんな感じなんですよね…。でも前半から読んでくるイメージは夜に「酔う」以上のものを感じさせてくれるので、なにかもう一声、というのか、そうですね、月夜のボタンみたいな、あれを読んだ時に胸の奥底にぽっと小さな火がともるような、そうだよね、捨てられないよね、みたいな、そういう情感が欲しいって言えばいいんでしょうかね、そんなことを思いました。なんて生意気ですみません。あくまで、ただの感想ですから。

もんじゃ
KD111239165243.au-net.ne.jp

アン・カルネさま

ありがとうございます。

>月夜のボタン

もしかして、中也の『月夜の浜辺』でありましょうか。
あれ、めっちゃくちゃ好きであります。
著作権切れてますし、そのまま引用しちゃいます。


(引用開始)

『月夜の浜辺』

(詩集「在りし日の歌」〜永訣の秋より)


月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際(なみうちぎわ)に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
   月に向ってそれは抛(ほう)れず
   浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁(し)み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

(引用終了)


いいですね。
同じフレーズを重ねているけど、しかし引き算により成り立っている。余計なことは書かれていない。インテグラルなものは重ねてでも表すけど、ノイズになりかねない贅肉はとことん削ぎ落としている。
説明は一切していない。

>この3枚で独立した掌編として読めるのか、読めないのか、そういうことだったら、私は読めると思います。

首肯いたします。

>その後に「ケルン」を流してもらいたい。ウィンストンの「あこがれ/愛」でも良いけど。

なるほどであります、音が欲しくなる、ないしは、音楽と相性のよさげなテキストである、というご指摘でありましょうか。卓見であるかと。

>「辿り着いてみなくては判然としない。」は無くても良いんじゃないかな、と。理由は「そこが果ての町になるのかならぬのか」で止めておいてくれた方が「私」とともに、そうだね、どうなるんだろうね、と彼の隣に気持ちをより添えやすいから。

蛇足、のご指摘でありますね。
深く、首肯いたします。

>後に「ああ、やはり私は泣いているのであった。」とそこでこの話の円を閉じているので、そうするのなら、そこを効果的に使いたいように思うので、先に「泣けて」という表現や「泪を吸わせて」とかは一切、使わない方が良いように思いました。

逡巡、を表したくて重ねているのかな、とか、もんじゃは感じました。
しかし、ご指摘の意味、十分に理解できます。

>同様に「見てまた改めて孤独を悟った。」これも変えた方が良いのかな、と。「孤独」って出さない方が良いんじゃないのかなあ、と。(無くても分かるし…)。

これは、書きながらもんじゃも実は思いました。
孤独を表すのに、孤独って書いちゃ駄目だろう、って。
でも今回のには、あとで明かすつもりなのだけど、自らに課した制約がありまして、だから「孤独」って言葉も遣わざるを得なかった。なので、リズムだけ整えて、その言い回しにいたしたのでありました。
とはいえ、自由に書いてよいのなら、「孤独」って言葉は遣わなかっただろうと思います。

>あくまで、ただの感想ですから。

勿論であります。こういうのをニュートラルに読んで「作品として」どう思うのか、を、一人でも多くの方より教えていただいて、自らの表し方に役立てたいと思っているのでありました。

説明、とか、わかりやすくすること、とかが、作品に対してプラスを生むのか、マイナスを生むのか、そのあたりを、実は他者の作品を拝読しまして今真剣に考えているのでありました。足すべきなのか、引くべきなのか。
もんじゃ的には、模様を描くための最低限は「要る」けど、それ以上は「要らない」と感じてきたのでありますが。

唐突にセカチューでありますが、あの単行本の装丁は「引き算」で作られてまして、その方が書店で目立つだろうって算段でもあったわけですが、そういう考え方は『でこぼこフレンズ』の制作者も持ってたようで、DVDのジャケットデザインに留まらず、そこに貼り付ける販促シールの文言からも、余剰なもの、すなわち「!」の一つに至るまで取り去るようにと注文を受けたりしました。幼児をターゲットにした表現についても表現者は美学を貫くのでありますな。
日本的な美学って足し算じゃなくて引き算であるのかもしれません。

仏道を歩まんとする出家者は、いろんなものを断捨離し、削ぎ、削ぎ落としてゆく。無一物足らむと欲するからでありましょうか。拙作に、仏性なる添加物を加えましたことはそのあたりの考察に基づくものでありました。蛇足であるかもしれず、その点は、全方位的に、あとで謝罪をいたします所存であります。

ありがとうございました。

夜の雨
ai192019.d.west.v6connect.net

「月(三枚)」以下のように、解釈しました。


 河は、海へと下っていた。
 畔を歩みながら前方の闇を見下ろす。遠くの漁り火が灯いては消えて、風が吹き、衣の襟を立てると私は草履を踏む親指に力を込めた。

私は草履を踏む親指に力を込めた。 ← これがいいですね、主人公の頑張りがイメージできます。
「前方の闇を見下ろす。遠くの漁り火が灯いては消えて、風が吹き」ということなので、かなり不安でしょね。だから「親指に力を込めた。」で、一歩ずつ前へ進む。

 湊町までおそらくは半里、そこが果ての町になるのかならぬのか、辿り着いてみなくては判然としない。
 仏に仕える身一つで旅する男を、月の眼差しは虚空より照らし、それを私は背中で感じている。振り返るまいと思いながらも足を止め、肩越しに振り返ると、はるか彼方に、暮らし。捨ててきた日々。一歩進むごとに遠くなる罐焚きの煙。汁物の匂い。白米の味。

仏に仕える身一つで旅する男を、月の眼差しは虚空より照らし、それを私は背中で感じている。  ← 一人称にも関わらず、自分のことを「男」と三人称のように客観視しているところがうまいと思う。
あとで、「汁物の匂い。白米の味。」と、当時の日常が書かれているところが、現状が非日常の旅を続けていることがわかる。

 ふと、乳房が浮かんだ。やわらかな温もり。俯くようにして目を落とす。
 と、道の端に白い花。月を見上げていた。そのしんとした佇まいは、一宿一飯の世話になりし宅に独居していた、あの女を思わせた。泣けてしまうのであった。

乳房と女、それに関連して「白い花」となるので、月を見上げている白い花は女ということになる、主人公には。
「一宿一飯の世話になりし宅」なので、主人公は女と関係をもったということになる。
しかし「仏に仕える身一つで旅する男」が主人公なので生身の女と関係を持ってよいものなのか?
それだけ主人公の旅が過酷で寂しいものなのだろうと推測できますが。

 旅路の先に向けて長い影、すなわち月が描きし私の模様。見てまた改めて孤独を悟った。
 夢、を描いてはいた。青年らしい、野心にも似た想い。夢は飛翔し、それから落ちた。脱け殻を見詰め、明らかに諦めて己を深く瞑らせた。すると私の内で仏性が目覚めた。それでも、と気が付いた。また陽は昇るのであった。だから私は旅に出た。

旅路の先に向けて長い影、すなわち月が描きし私の模様。  ← 「旅路」は人生。「長い影」は人生の時間(歳月)。
 「夢」「野心」「夢は飛翔し、それから落ちた。」「脱け殻」「諦め」「深く瞑らせた。」まだ、若いのに、悟りを開いているような内容だが、実際は上のように女と一夜の関係があったりする。そこが、主人公の弱い(隙がある)ところである。

 黒い空を、黒い鳥が、啼きながら何処かに帰って行った。飛び慣れた道なのかもしれない。しかし、一羽じゃ寂しかろう。
 また思ってしまう。他人のままで共に寝た女。迂闊にも、惚れてしまった。ああ、そういうことなのだ。
 視界の隅を星が流れて、騒ぐ胸の内をかすめて、すっと消えた。

「黒い空を、黒い鳥」で「飛び慣れた道(主人公の想像)」にも関わらず、「一羽じゃ寂しかろう。」ここが、笑えるところである。
どうして笑えるところなのかというと、主人公は「寝た女」に「惚れてしまった。」「迂闊にも」と、能書きを垂れている。
「星が流れ」「騒ぐ胸の内をかすめて、すっと消えた。」「ああ、そういうことなのだ。」と、理解した。
どういうことかというと、「黒い空(なんでもありの世界)を、黒い鳥(裏も表も知り尽くしているキャラ)」が飛ぶのでさえも「一羽じゃ寂しかろう」だから、自分のような若輩者なら一夜の女に惚れたとて、問題はなかろう、という甘い考え。

 暗い海に出た。
 響く波音が、悲しいという言葉の意味を教えてくれる。月光を浴びて仄かに白く、足下の砂。泪を吸わせて申し訳ない。

「暗い海」は暗いので見えにくい人生を現わしている、「響く波音」は「日常の戯事」も悲しいよのう、と、いう意味で、だから世間から逃げてきた主人公。
月光をあびて泪を砂に吸わす。
「申し訳ない。」誰に対してなのかというと、自分の人生に対して。

 影を見詰めながら突っ立っていると、背後より優しく罪深き風は吹いた。肌は萌えた。私は夜に酔った。抱かれてみたい、と思ってしまうのであった、また誰かの胸に。
 月夜の蚊帳を思い出し、温もりを想い、湿り気を想った。
 ――見上げる月は揺れている。
 ああ、やはり私は泣いているのであった。

「影を見詰めながら」は「人生を見詰めながら」。
「罪深き風」は「女の言葉」または「掌で背中を撫でられた」。
だから「肌は萌えた。私は夜に酔った。」になる。
抱かれてみたい、「また誰かの胸に。」なので導入部の女とのことを思い出している。または、ほかにいい女はいないのか。という塩梅。

 月夜の蚊帳のなかでぬくもりに触れた。からなぁ。

見上げる月は揺れている。 ← もしかして月は女ということかもしれない、主人公にとっては。

ああ、やはり私は泣いているのであった。 ← 主人公はまだ若いので、「仏に仕える身一つで旅する男」といっても、煩悩がありすぎです。

そういう煩悩がある若い仏に仕える男の話でした。



執筆の狙い
なぜ旅立ったのか、その【動機】がわかないからそれを書き足すべしだとか、一宿一飯の情を掛けられし夜の【エピソード】を具体的に記すべし、そうでないと「小説にならない」だとか、あるいはそもそもの【場所】や【時代】を明示せよ、みたいなことを言われますでしょうか?

これらについては、作品のなかですべて描かれていると思います。
もちろん、御作(掌編)は「詩」に近く具体的な部分を省いているので、エピソードで展開してもよいと思います。


以上です。

もんじゃ
KD111239164026.au-net.ne.jp

夜の雨さま

ありがとうございます。

>自分のような若輩者なら一夜の女に惚れたとて、問題はなかろう、という甘い考え。

破戒、について彼は、どう感じているのでしょうね?
逡巡し、煩悶し、超克しようとしてかなわず、だから泣いているのでありましょうかね。
「女」とは何で、「月」とは何でありましょうかね?

>または、ほかにいい女はいないのか。という塩梅。

「女」とは何なのでありましょうね、仏道を歩まんとする彼にとって。
単に、煩悩、すなわち肉慾でありましょうかね?

>見上げる月は揺れている。 ← もしかして月は女ということかもしれない、主人公にとっては。

確かに。
乳房、とか、抱かれて、とか、そういう表現にもんじゃは、月や女に、母なるもの、を感じました。炊飯の匂い、とか、そのあたりにも。
月は母性であり、ヘッセの『知と愛』のゴルトムントが求めたそれではありますまいか?
女性一般なるもの、すなわち春子や夏子や秋子や冬子の中に、その温もりに、湿り気に、男は、永遠なる母の像を見ているのではないでしょうか?
旅立ちの起点は子宮であったのだから、ゆえに男は、帰りつきたいのかもしれない、果ての町に、母なる子宮にも似た安寧に。
毅然と歩む彼は、まるで迷子のように思えもするのでありました。

>そういう煩悩がある若い仏に仕える男の話でした。

読み方を教えてくださり、ありがとうございます

>これらについては、作品のなかですべて描かれていると思います。

なるほどであります、そのあたりについて皆さまの感じ方をうかがいたいと存じました。

>もちろん、御作(掌編)は「詩」に近く具体的な部分を省いているので、エピソードで展開してもよいと思います。

首肯いたします。
ポエムに近いことは間違いないと思われます。
この骨に、エピソードという肉を付け加えてゆくような作業は、鍛練場で活躍されております皆さんの技量をもってすればぞうさもないことかと思われます。
核心は模様に宿りますので、その模様のあらましさえしっかりしていれば、あとからそれに肉を付け、何十枚、何百枚に膨らませてゆくことはシンプルに楽しい作業であるかもしれません。そのように、もんじゃは思います。
作品のよしあしは、贅肉を削ぎ落としたときそれがどんな配置になっているか、という視点ではかれるように個人的には感じています。
模様は説明になじまないので、当然ながらさまざまな読まれ方、感じられ方に晒されますわけですが、それで構わないように思うのでありました。

ありがとうございました。

夜の雨
ai192019.d.west.v6connect.net

再訪です。

御作に出てくる「女」について。
または主人公は女に何を求めているのかというと「母」を重ねているのではないかと思います。
ただ、御作には母のことは一言も書かれていません。
月も母と重なっているかもしれませんね。
一般的には母の愛は深いので。
御作の時代ならこのままでも女と母がつながって解釈できます。

ラストにでも母をイメージできるような文章を書いておくと、伝わりやすいと思います。

もんじゃ
KD111239165103.au-net.ne.jp

夜の雨さま

ありがとうございます。

>御作には母のことは一言も書かれていません。

と、言い切れてしまうかどうかは微妙かもしれませんね。
少なくとも、表されてはいる、かも。
表されている、ということは、書かれている、ということかもしれない。

>ラストにでも母をイメージできるような文章を書いておくと、伝わりやすいと思います。

かもしれませんね。しかし、表現は伝達ではないので、もしかしたら、必ずしも、明確に、伝わらなくてもよいのかもしれません。
それがメインではないようなので。いろんな表し方があるとは思いますが。どうでありましょうか。

ありがとうございました。

アン・カルネ
219-100-29-115.osa.wi-gate.net

ちょっと遊びに来てしまいました。すみません。
「引き算」そうですね。日本には省略の美学があると思います。
>説明、とか、わかりやすくすること、とかが、作品に対してプラスを生むのか、マイナスを生むのか、そのあたりを、実は他者の作品を拝読しまして今真剣に考えているのでありました。足すべきなのか、引くべきなのか。
もんじゃ的には、模様を描くための最低限は「要る」けど、それ以上は「要らない」と感じてきたのでありますが。
それは作品のカラーとかターゲットゾーンをどういうふうに設定しているのかにもよるような気がしました。
それ以外に内容的な事で言ったら、そうですね。例えばフランス映画の恋愛もの。基本、出会った男女はあっという間に恋に落ちます。ちょっとした一言二言で恋に落ち、次はもうベッドです(笑)。お互いのどういう所が好きか、どういう所に惹かれるか、を長々、引っ張りませんし、好きになる感情に理屈を付けません。映画の中に男と女がいればそれはもう恋に落ちる事は決まってるんだから、決議事項にフィルムの無駄使いは致しませんと、確固たるポリシーがあるようです(笑)。フランス人的にはむしろその後の二人がどうなるのか、その事の方がはるかに関心事として重要事項なのだそうです。と過去にファッション雑誌に某映画監督が語っていました。でも翻って日本のドラマはどうでしょうか。出会った男女が恋に落ちるまでを延々と描きますよね(笑)。それだけ日本の男女は「そこに男と女がいたら、恋に落ちるのは自明の理」という考え方をしないのだと思います(笑)。感性と皮膚で恋するのではなく、頭で恋するからでしょう。であれば日本向けに作るなら、やっぱり出会った男女が恋に落ちるまでの時間を丁寧に描くのは大事なんだと思います。
あとは力技と言うのもあるかもしれません(笑)。「きっかけ? そんなこと忘れましたよ。だけどね、虫ってやつはもう可愛いのなんの」と始まって、これも嬉々として、延々、それこそびっくりするぐらいの学術的知識を披露して、オタクとかマニアの次元を超えたよね、ってか、もうファーブルなの? この人、ファーブルの生まれ変わりなの? とそういうのを先にかましてこられると、動機づけとかは飛びますよね(笑)。「忘れたよ」でももういいよね、と(笑)。もう生きている人間のように虫が好きなんだもんね。いつかきっと素敵な虫を花嫁にしてくれ給え、とこちらもその虫愛の動機をあれこれ問いません(笑)。
多分、こちらがその描かれた状態から十分に想像できると、動機づけとか説明は求めなくなるんでしょうね。そんなふうに思いました。

マーフィー
M106072203096.v4.enabler.ne.jp

僕なら僧侶の後ろに狼をつけますね。
いわゆる送り狼で色々な妄想がはかどる訳です。

もんじゃ
KD111239165103.au-net.ne.jp

アン・カルネさま

ありがとうございます。

>それは作品のカラーとかターゲットゾーンをどういうふうに設定しているのかにもよるような気がしました。

そうですね。同意いたします。いろんな表現がある。

>もんじゃ的には、模様を描くための最低限は「要る」けど、それ以上は「要らない」と

という箇所は、某氏の某作品「的な」表現「についての」もんじゃの私見でありました。

>フランス映画の恋愛もの

いわゆるお約束ってやつでありますね。
何にスポットを当てるかは表現の種類により異なるのでありましょう。
しかし、当てたライトが浮かび上がらせるべくは、たいていにおいてこれ、普遍的な模様なのではないか、とも愚考いたします。そこにウソがあるとやはりそれは「表現」物とはまた違った「制作」物ってことになるようにも少し思うのでありますが、実際のところどうなのかまだちょっとよくわかりません。

ありがとうございました。

もんじゃ
KD111239165103.au-net.ne.jp

マーフィーさま

ありがとうございます。

ご指摘の意味がのみこめているか自信がないのですが、拙作を書きながらもんじゃも、あおーんんん! とか、そんな感じの遠吠えを聞いてたようにも思います。

ありがとうございました。

ショコラ
h175-177-040-032.catv02.itscom.jp

もんじゃさま

 読ませていただきました。

 わたしも大好きな中也の詩よりもむしろ、西行を思いました。

 ともすれば月すむ空にあくがるる心の果てを知るよしもがな
 おもかげの忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて
 思い出づることとはいつともいひながら月にはたへぬ心なりけり
 なげけとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな
 知らざりき雲居のよそに見し月の影を袂に宿すべしとは

もんじゃ
KD111239165103.au-net.ne.jp

ショコラさま

ありがとうございます。

西行、いいですよね!
新潮文庫の『西行』(白洲正子)の装丁もめちゃくちゃ好きです。

仏性だとか仏道だとか、そのあたりのことは原典に対して今回、失礼してこちらで付け加えさせていただいちゃった要素なのですが、西行的なイメージを醸せていたなら、K氏のファンには申し訳なかったかもしれないけど、もんじゃ的にはいちおうの成功だったかもなー、とか思ってしまうのでありました。

ありがとうございました。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

もんじゃ様

 拝読しました。

 言葉っていうのは結局のところ、想像を引き出すための釣り針なんですよね。リンゴと書いたところで、そこにリンゴが存在できるわけじゃない。けど、真っ赤でおいしそうなジョナゴールドがそこにじゅるり♪ やや愉快な性格の人だったら、ついでにゴリラもでてくるかもしれません。リンゴ→ゴリラ的展開は、父の顔、母の顔より眺めしもの。
 実在する『もの』があってそれに見合った言葉が作られるのだろうけれども、言葉は実のところ索引でしかなくて、でもそんなインデックスだからこそ、その背後にある情緒をまとめて引き連れてきてくれる。リンゴのお供のゴリラみたいに。さらに愉快な性格の人だったら、ついでにラッキョウもでてくるかもしれない。
 そういう釣り針たる言葉を集めて、編んで、網にしたのが詩とかそういうものなんだと思う。もんじゃさまの言葉でいうと、プリミティブな模様ってやつなのかな? 
 ところで、ほんとうに手前味噌ですが自分の書いたカカオのお話との共通項を大変多く見出した気持ちでいます。模様的な意味において。

 さて御作。まず第一に詩情性を感じました。心情描写の濃厚さに対して、情景描写の絶妙のそっけなさが対比としていいなと思いました。コントラストが効いているっていうテクニカルな意味ばかりではなく、情景描写に、心情を真摯に対峙しつつも決して引き受けない潔さがあるのがいい。例えば『黒い空を、黒い鳥が、啼きながら何処かに帰って行った。』なんて表現は気が利いているなと。旅の道しるべってのはかくあるべきだと思います。道しるべは、旅人に旅の方角こそ示しても、旅人を偏向しないのであります。

 旅路について思うこと。旅路ってのはただ旅路であるべきだと思います。雲水の心。流れの実態は流れとしてあることであって、どこからとかどこへとかはあまり関係ない。

 それから、一食一飯。これはもうその言葉で言い尽くしているように思います。これはお薬みたいにカプセル化された言葉のように感じます。エピソードの有無がどうとかいうより、具体的なエピソードへの想起が封じ込められているという形で示されているところが、適切かつ素敵なのではないかと。

 御作は人間的な煩悩からの解脱の旅に思えたのですが、どうしても人間的なものに囚われてしまうのがなんとも。月はいつも私を観ているだろうし、月から逃れることはできないし、そもそも、月から逃れたいのだろうか? 人間的なことから反対方向である解脱の道に進むものの、実のところ人間的なものを求めてぐるぐるする、もんじゃ作品に到底したものを感じました。

 惜しむらくは、詩情的で多層性を感じる作品だと思った反面、はっとさせられる要素にはイマイチ乏しい気もしました。詩にある言葉や視点の飛躍はあれど、その飛躍も含めてずいぶん調停的・調和的に織り成されているように思え、裏切りがそれほどないような気がしないでもなく。なんとお抽象的な感想ですみません。

もんじゃ
KD111239165229.au-net.ne.jp

アリアドネの糸さま および皆さま

ありがとうございます。

>人間的なことから反対方向である解脱の道に進むものの、実のところ人間的なものを求めてぐるぐるする、もんじゃ作品に到底したものを感じました。

はい。それはもんじゃが勝手にとっ付けちゃったものであります。仏性だの出家だの一宿一飯だの、そんな言葉たち、モトネタにはありません。そこらへん、極めてもんじゃっぷりが発揮されちゃったんだと思われます。設定を付け加えちゃった。なるべく単語を少なくはしたのだけれど。

>手前味噌ですが自分の書いたカカオのお話との共通項を大変多く見出した気持ちでいます。

むべなるかな、であります。だって拙作は、あのカカオの話と、それに寄せられたある種の感想についての考察から生じた疑念に基づく実験的な表現であり、問題提起でもありましたから。

>裏切りがそれほどない

と書いていただきましたが、実はこの表現を投稿すること自体が裏切りであったかもしれず、最初から、後に謝るつもりでいたわけですが、そのあたりを以下に明かします。

まずは、桑田佳祐さま、およびそのファンの皆さま、すみませんでした。

拙作は、桑田佳祐氏の『月』を下敷きにしています。

あるものへのオマージュであると、狙い欄にではなく、わざわざ作中末尾に記させていただきましたが、あの一文は、これがパクリであり、ごはんの外には出せないものであることを明示するためのタトゥーなのでありました。

お時間が許されますようであれば、YouTubeで、桑田佳祐さんの『月』をフルバージョンで視聴してみてください。しかるがのちに、付けられしYouTubeコメントに目を通してみてください。

(とりわけ玄人筋に)最高傑作の呼び声が高い一作でありますが、YouTube視聴者からのコメントも絶賛の嵐であります。歌声も演奏も曲もよいけど(ってまあ以上は桑田佳祐氏の常でありますが)、『月』は何よりその歌詞が素晴らしい、というような評が集まっています。

もんじゃは、拙作を記すにあたって自らの筆に縛りを設けました。原作のフレーズを可能な限り尊重し、原作にある単語や言い回しは、なるたけ削除しないで残す!

しかし、歌詞でありますれば、それそのままでは小説らしい小説になり得なく思われますので、やむを得ず小説ちっくな文体を採用し、「破戒と憧憬」なるテーマを付け足し、そのテーマを表すべく、罐焚きの匂いや、仏性の目覚めや、一宿一飯の情掛けられし夜のあやまちなど、いくつかの要素を「最小限で」付け足しました。理屈っぽくならない程度で。原作のイメージを損ねないよう十二分に注意して。

つまり、引かず、足したのであります。その塩梅は原曲の『月』を聴いていただけちゃえばわかっていただけるかと思われます。

>分かりにくい。その上、つまらない。ほとんど食べるところがない

とのコメントを別の方より頂戴いたしまして、ふうむ、と多くを感じました。

上記コメントは、想像するに、ニュートラルなもので、もんじゃを憎む、または自分ならざる他者なら誰をも憎む、みたいな類いのコメントではなく、なので信頼に足るご感想でありましょうかと。

絶賛されております歌詞のほぼすべてを残しております話なのに……、

>ほとんど食べるところがない

と感じる読み手が存在するということは、これ、つまり、不足が作品を悪くしているのではなく、過剰(というほどではなく、ほんの少々の足し算なのですが)が作品を台無しにしてるってことなんだろうなと確信できたわけであります。

絶賛されている歌詞から何も引かずに、最小限の設定やら説明やらのみを付け足した、そんな表現が絶賛されないってことはつまり、余計な設定や余計な説明を加えちゃったことこそが敗因だったってことになります。

それに加えて、狙いの欄に書かせていただいたような、旅立ちの動機だの、時と場所の正確な設定だの、肌を合わせたその夜の具体的なエピソードだのをテキストとして付け加えちゃってたら……、ああ恐ろしい。

設定や説明が、どんなに「上手に」加えられても、普遍であったはずの模様が具体化、個別化、例示化、限定化されちゃいました作品は、ひどく浅く、かつ広がりのない駄作に堕したであろうと思われます。

ことほどさように、作品の種類や尺が表現に要求する「適切な情報量」なるものがあるわけです。

説明が足りない、わからない、カカオの話でいうなら「なんでエクアドルに行ったのかわからない」だなんてコメントが最近目立つのでありますが、そういうのは長尺の、冗長さに堕するを怖れない種類の作品にて表現されればよいわけで、端的に、短く、無駄を省いて、小気味良く模様を表したいって種類の作品にはまったく妥当しない種類の「忠告」なんじゃないかと思われるのです(あ、ちなみにもんじゃはカカオの話を「エンタメ」として読みませんでした、「エンタメ」の皮をかぶってるだけ、って感じました)。

桑田佳祐さんの『月』が汚されましたのは、ひとえにもんじゃによる足し算のせいなのであります。

文学ってーのはポエムじゃない、ましてや歌詞じゃない、だなんてのはおかしな主張でありまして――ボブ・ディランだってノーベル文学賞与えられちゃったじゃないですか――、ポエムだって歌詞だって文学であります。中でも小説……、短歌や俳句じゃありませんからね、そもそも小説には制約や制限ってのがないのであります。小説こそは極めて自由な表現形態なんでありますよ。ときに詩的であること、ときに歌詞的であること、まったくもって上等であるってのが小説表現でありましょう。

模様や角度にウソさえなけりゃ、ってもんじゃは思うんです。桑田佳祐氏の『月』に配置されてる模様にはウソがない、だから絶賛されるのだと思われます。刺さるし、沁みるのであります。普遍的な旅路でありますれば、その行程が醸す旅情に聴き手は涙すら浮かべるのであります。冗長なストーリーの万倍の豊かさが込められている。長い小説も短い小説も、そのような、アリアドネの糸さんがリピートしてくださったあれ――ってそれにしても若い人?は記憶力がエレファントだな――プリミティブな模様、ってやつ、それがしっかり表されてたら、それはたいそうよきものなんじゃないかなってもんじゃは思うのであります。

読んでくださり、ありがとうございました。

夜の雨
ai195170.d.west.v6connect.net

えっ、えっ、えっ、(笑)。

まずは、桑田佳祐さま、およびそのファンの皆さま、すみませんでした。  ← 桑田佳祐のファンなら、この歌(曲)は知っていたと思いますが。
私はファンでもなく桑田さんの曲はほとんど聴かないので知りませんでしたが。

拙作は、桑田佳祐氏の『月』を下敷きにしています。 ← 下敷きというよりも、ほぼ桑田佳祐の『月』そのままという感じです。
多少「加えた」という程度ですね。

>あるものへのオマージュであると、狙い欄にではなく、わざわざ作中末尾に記させていただきましたが、あの一文は、これがパクリであり、ごはんの外には出せないものであることを明示するためのタトゥーなのでありました。

ははは、もっと内容を変える必要があると思いますが、時代設定とニュアンスが違う程度しか感じませんでした。

>お時間が許されますようであれば、YouTubeで、桑田佳祐さんの『月』をフルバージョンで視聴してみてください。

桑田佳祐さんの『月』をフルバージョンのほかに、歌詞つきでチェックしました。

ウイキペディアより。

月 (4:46)
(作詞・作曲:桑田佳祐 / 編曲:桑田佳祐 & 小倉博和)
アコースティックな作風であり詞の世界観も文学的な暗さを持った作品。
曲や歌詞は製作期間中の1994年2月に桑田の母が60歳で死去したことが大きく影響しており、この曲と「JOURNEY」については母を送る歌であることが著書で明言されている。桑田はこの曲が生まれた背景について「ある明け方寝ようとしたら、なんとなくメロディが降るように浮かんできた」「でも、なぜこういう悠久の世界を憂うような曲調になったのかはよく覚えていない」と語っている。

ということで、母の死が影響しているのではないかと思います、たしかに桑田佳祐 さんの『月』には。
しかし歌詞の内容自体には母を思わせる内容はありませんね。
解釈の仕方は読み手聴き手により、いろいろとありですので、製作中に母が亡くなっているのでそれを知って聴くと、なるほどと思いますが。
御作は、その桑田さんの『月』に味付けがしてあるので、当然『母』の面影が背景にあるということになるのでしょうね。
御作単独で解釈しても背景に母がいるとも、もちろん解釈できますが。
母の存在がないともいえる。
故郷とか家族とか、そちらでも解釈できるので。
どちらにしろ、書いていないことを、想像するのは文と文の間をイメージしなければならないので。


お疲れ様です。

もんじゃ
KD111239165229.au-net.ne.jp

夜の雨さま および皆さま

ありがとうございます。

そうですね、桑田佳祐氏の『月』の「まんま」でありますね。

文体をいくらか小説調にしたことと「仏性の目覚め」を明記した(しかしこのことも原曲の内に漂っていなくもない)ことくらいが変更点で、つまりは露骨な「ぱくり」であります。

ファンじゃない人は知らないかもしれないけれど、ファンであるなら当然に知ってる曲なわけで、だからファンの皆さまには謗られてもしかたのないことを敢えてしでかしちゃいました。

なんでもかんでも説明、みたいなことを、ことに「公募とやらの一次を通過するための条件」みたいに宣う人もいらっしゃるようだけど、たいていの公募は「相対評価による足切り」をバイトや新人編集にやらせているわけで、だから確かに、わかりやすかったり、内容が賞の傾向に合致してたり、書式がオーソドックスであったりするものが通りやすく、逆に傑作であっても一次落ちすることがままあるようでありますが、プリミティブな模様、とアリアドネの糸さんが復唱してくださったそれが表れていない作品がてっぺんを獲ることはなかなかないんじゃないかな、って個人的には思います(だって、てっぺんは、編集者だけじゃなくて一応はそれなりの作家先生が選ぶわけだから――いろんな大人の事情はあるにせよ)。

桑田佳祐氏の『月』は、使用されている語句たちとその配置が実に的確なので、しんみり沁みて、聴いた者の心の内に長く残るんだろなと思われます。

夜の雨さんは「母なるもの」(ヘッセのナルゴルなんかにももんじゃはこれを強く読みます)に言及してくださいましたが、原曲にも拙作にも、言葉によっては明示されていないそれですが、それってば「アーキタイパル」なものでありますればすなわち「普遍」なのでありましょう。こういったものがたち表れてくる(明示されていないからこそ香ってくる――明示しちゃうとぺらくなるし、ニセモノになっちゃうから明示できない)表現こそが、これすなわちプリミティブな模様の表れた作品ということになるんじゃないかと思われます。

アリアドネの糸さんと、鍛練場で最初に交わしたやりとりを覚えているのですが、それって「穴を書くために穴の縁を丁寧に描く」ってなことだったんですけど、よく言われますところの「説明をしないで表す」ってのはつまりそういうことで、亜流として「説明しないで描写する」だなんて言い方もありますが、突き詰めますと「描写もまた説明の一手法」でありますから、もんじゃ的に尖らせてゆくならこれ「描写をしないで配置する」ってことに行き着いちゃうわけであります。

設定や説明は少なく済ませられるならそれにこしたことはなく(具体性や個別性で対象を特定すると、表現はそのぶん狭く、かつ浅くなるわけであります)、さらに「描写は説明を省くために有効ではある」けど、さらに深く、さらに広く表したいなら、「描写すら最小限に留め、語句の選択と配置だけで対象を表せ」たほうが、表現はより深く、広くなるのではないかと愚考いたします。

無論いろんな表現がありますし、あってしかるべきだし、具象を重ねることで抽象の輪郭を炙り出せればそれが一番よいのかもしれないけど、中身のない冗長なる具象を頓珍漢に並べることに腐心している自覚のあります筆におかれましては、一度、説明や描写ではなく配置を意識した掌編執筆にて己の手法を見直してみますことも好選択ではないかと余計なお世話を焼いてみたくもなったりならなかったり。

ジュンブンであれエンタメであれ――それらに境界線を引くこと自体ナンセンスだともんじゃは思いますが、とまれ――どちらであれ、模様が表されていないテキストは浅くて、狭くて、ゆえに長くは残らず、読み捨てられたり、メディアミックスに消費されて終わりで、つまりそういうのの書き手は稼げる売文業者にはよしんばなれても――出版社や映画制作会社や玩具メーカーなんかはそういう書き手を求めている――、魂の作家みたいな、神さまと対話しうる書き手にはたぶんなれないんじゃないかな、って個人的には感じています。商業作家ってのは商品を売るアキンドさんでありますれば自明なことでありますけど。しかし桑田佳祐氏みたいな作家もいらっしゃる。稼げて、かつ表せてもいる人。そういうアーティストがホンモノとして長く愛されますこともまた理の当然でありましょう。

トリッキーな投稿に付き合わせてしまい、すみませんでした。互いに何かを学べれば、と意図いたしました。

ありがとうございました。

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