作家でごはん!鍛練場
跳ね鳥

六道輪廻図の輪

大きな台風が日本に迫ってきた。白い龍のような雲が渦を巻き、東京湾のあたりをちょっとだけ齧って、直撃はせずに去って行った。東京湾のあたりから伸びる隅田川付近には、悲しい土地があり、北千住の胃袋のような土地と隔てられた、南千住のハート型のような土地の山谷地区には、人間の住めない、宿をひっくり返したドヤと呼ばれる狭い簡易宿泊所が並び、人間が飢えて腐っていき、天井から尿が降る劣悪な環境であり、人間が飢えて外に出られずに死んで腐っていくのである。


ドヤに住んでいるホームレスの生活保護の人が日中外に出られないのは、精神的な苦しみで脳が眠くてたまらず、日中何もできずに眠さしかなくて外に出られないという絶望の心理なのかもしれない。人間は死が怖く、恐怖故に、日中動けない猛烈な眠気に襲われる。吉原の女たちには女神がいて、女神と関わってしまった人はもう苦しみで、日中動けなくなってしまう。


その僧侶がドヤの中にいたのは、お経の罪業故であった。護摩焚き法要で攻撃のお経で人を死なせてしまった。薬師如来の罪業で、世界崩壊し、人を攻撃するお経のやり過ぎで僧侶が続けられなくなり、家を失って、山谷のドヤ街に送られた。僧侶の名は六鉛という。僧侶の六鉛は優秀な僧侶で、吉原の近くの竜泉で、投げ込みのような身寄りのない人の死をたくさん供養してきた。ただ、六鉛は日々精進していたから、まさか自分がお経の過ちと罪業により、家を失ってドヤ送りになるとは考えていなかったのだ。ただ、良き行いをしようと心がけ、清らかな人生を目指して人を弔ってお経を上げて焼香してきた六鉛には、この世の悪の結集のような吉原の遊郭や山谷のドヤの住むことの出来ない空間は耐え難かった。いっそ家を失ってしまった時に、その前に借金をしてしまった方がまだ長く生きられたとか、借金の取り立ての暴力であの家で殺される方が、こんなドヤに送られるよりは良かったと六鉛は考えた。でも借金というのは悪の行いだと考えて、逃げられなかったのだ。


六鉛はまた僧侶をやめた時に、なにか自分に出来る仕事をして金を稼げば良かったのではないかとも考えた。長年僧侶だったが、自分にも働ける仕事は見つけられたかもしれない。短時間でも働いて社会に繋ぎ止められていれば、こんなところには来なかったかもしれないと悔やんだ。家を失う前に何か働いていられれば良かったのかもしれない。お経の罪業で精神が混乱して正常ではなかったから、見ておくべき現実の選択肢を見失ったかもしれない。会社というのを7つの大罪とみなして、会社の銀行融資の借金や、資本金の出どころの疑いや、株式での資金集めというのをこの世の悪とみなして、自分の道として選択できなかったのは、ただの偏見でねじ曲がった悪しき妄念だったかもしれない。


六鉛は、ドヤの中で、心を守るお経を暗記で脳内で紡ぎあげて、眠気が脳内をはりさかんばかりにしていて、脳みそに綿の詰まったような気分の中で、明鏡止水の十二支のお経を順番にやっていた。このままこのドヤの部屋から一歩も外に出ずに、入滅をしようというのだ。


如意輪観音がいた頃、天道で、六鉛はコンビニに行けたし、空を飛ぶように自由にアイスクリームも変えた。135年の電気のある時代に花開いた明るい電灯のお店で、六鉛はなんだってできたのだ。でももうドヤから外には出られないので、コンビニにはいけない。そのまま死ぬのだ。


准胝観音が売春宿の主人で、彼に会ったら人間道に落ちて、地獄の六道輪廻図がはじまる。ソープランドに行きたいとは思わず、生き地獄の拷問処刑が怖い。


十一面観音が阿修羅で、修羅道なのは、見方にはよるが、このドヤの風呂かもしれない。十二支の湯の死に際のもののように、地獄の湯に十二の色がある。全部茶色いが、その中に微細な死体の色彩の虹がある。手首を切った死体の入った赤の湯や、性器をソープランドで切られて出血した、黒い血液のこびりついた浴槽。汚い汚物で汚れた浴槽の内部。カップラーメンのUFOの器で体を洗う時の、風呂の汚さと危険さだ。バスマジックリンが買えて風呂を洗ってから使えればよいが。


馬頭観音の畜生道は想像してみると、遊郭でのスカトロやSMなどの動物扱いかもしれない。人間では動物のようにかがませて、よつん這いにさせて四足の動物にさせられた人間がどうされるかというと、いじめでトイレの汚物に突っ込まれたりするだろう。そんなことにはなりたくないから、六鉛はもうこのドヤから一歩も外に出ないことにした。


千手観音は、虫のムカデのようにたくさんの手足がある。餓鬼道の千手観音は、虫なので、畜生道の時にスカトロをして食糞餓鬼道に落ちていれば、水も喉を通らず、ミイラのような干からびた骸骨になってしまい、梅毒の肌を上回る九相図の死体となるだろう。ああ、死ぬ前に清らかな、水槽に死体の入れられていない岩清水がコップに一杯欲しい。六鉛はのどが乾いた。


聖観音は地獄道で入滅をする時の六道輪廻図では1番最後に来る、脳漿の世界である。死んた後の世界で脳が感じることは、記憶がなくなりループする悲しみと、肉体の痛みと死であろうと思う。

六道輪廻図の輪

執筆の狙い

作者 跳ね鳥
p395019-omed01.tokyo.ocn.ne.jp

ちょっと前の8月末くらいに投稿した掌編を書いてみたところ、このようなアイデアが頭に不思議と浮かびましたので、このアイデアも掌編にしてみました。

コメント

ぷーでる
45.92.32.5

仏教の?超哲学的な話でした????
詳しい事は知りませんが、生前の過ちで人は永遠にループし続ける的な
仏教の話は聞いたよーな。それを元に書いたのかな?
キリスト教だったら、きっとループしないで済んだのだろう?
死んだら土に還るだけだから。

跳ね鳥
p2196094-omed01.tokyo.ocn.ne.jp

ぷーでる様

貴重なコメントありがとうございます。

仏教の輪廻転生図は確かに哲学的というか、物語なので、人間の死に際についての想像力で書かれていて、人間の死ぬ間際の心理を遠慮なくどんどんいうような哲学かもしれないです。作家もまた人間の死ぬ間際の心について、あらゆる角度から言い尽くしていきますので、物書きは仏教くらい人間の死ぬ間際を抉るように書き尽くしていいのだと思います。

ループと死に際について個人的に思うのは、例えば人間の脳機能が壊れて、小川洋子の「博士が愛した数式」の博士のように、記憶が三十分も持たなくなって、新たな記憶がなくなってくる心理が死に際の脳にあるとしたら、それは輪廻転生図のような地獄の体験のエンドレスループかもしれないという仮説と想像力です。仏教のエピソードというかおきょの教えは、人間の死に際に色々と当たる物語を書いたものかなと思い、それは古い時代の日本の哲学かもしれません。仏教説話が教えてくれるのは、死ぬ前に人間が考えるこたかもしれませんが、現代の作家もやはりそれは書けるし、目指すところのもので、物語は人間の今際の際に振れるものであって欲しいとも思います。ただ、物語には自由があって、仏教ではないので、現実世界の価値も語れます。どの深度で書くかはやはり作品によると思います。仏教のループの思想は、キリスト教では、イエスキリストの蘇りの物語にあるかもしれませんが、ループとは違うかもしれません。ただ、死んだ人や、現実世界で会えなくなった昔の知り合いの双子がまた人生生きていれば再び会えるというのは、人の縁のめぐりで循環の繰り返しの輪ではあると思います。

偏差値45
KD106154138222.au-net.ne.jp

ファンタジーの上に妄想が酷いので、意味が分からないですね。
簡単に言えば、軸がない。基準がないので安定しないです。
パロディーの場合、元ネタがあるので安定しているのです。
それで御作は中途半端に現実的な言葉を挟んでいるので、余計にタチが悪いです。
その結果、矛盾があり、方向性が捉えにくい。
全然イケてないです。

跳ね鳥
p2196094-omed01.tokyo.ocn.ne.jp

偏差値45様

貴重なコメントありがとうございます。

批評を下さり大変ありがたいです。

小説という表現はどこまでも自由で、シュルレアリスムのオートマティスムくらいの狂気の頭の妄想を書いても許されるのが小説だと思いますし、前衛小説は読むと理性的ではなかったりします。でも本作はその次元にはないので、妄想と言われても推敲不足の言い訳になってしまいます。軸と基準は、起承転結やプロットなど構造のことでもあり、本作は思いつきのアイデアだけで不安定だと気づき反省しました。矛盾や方向性が捉えにくいというご意見、ありがたいです。作品を書くときの見直しに心に留めたいです。ありがとうございました。

でんでんむし
p0163482-vcngn.ttri.nt.ngn.ppp.ocn.ne.jp

跳ね鳥様
拝読しました。
読んでの感想ですが、偏差値45さんと同じ印象でした。つまり、意味がわからない、というもの。
その理由は、文章的なものに思えました。繰り返しが多いし、書くべきことが書かれていない。つまり、跳ね鳥さんの中では、読者はいないのだな、という風に感じました。読者に伝えようという気持ちはなく、思いのままを書かれている。

そんな感想を持ったのに、挫けないで最後まで読んだのは、話が独創的で、面白かったからです。よくはわからないのですが、ドヤから出ないで入滅しようとする。これは、そのまま即身仏ですね。即身仏を狙うには、いかにもヤバイ主人公ですが、話としては面白いのです。ただ、背景がきちんと書かれていないから、よくわからないままなんですけどね。

最初のあたりでまず気になったのが、同じこと、同じ言葉の繰り返しでした。余計な言葉を消して、説明部分がすっきりすれば、もっと読みやすく、面白くなると思います。
誰かに読ませるのであれば、その誰かの立場になって、わかりやすいように書かれるといいかと思いました。発想自体は面白かったです。

そうげん
112-70-248-248f1.shg1.eonet.ne.jp

跳ね鳥さま、おはようございます。
作品、読みました。一読では不明な点が多かったので通して三度読みました。

この作品の中で作者様が示そうとされた世界観はなんとか把握できたと思います。ただどんな感想をつけたものか悩みました。以前はちょっとした買い物にコンビニに行くことも自由だったのに、身辺の変化によって住む場所に括りつけられてしまい、物理的には身動きが取れなくなってしまった。次第に住む土地柄に染まってしまって、狭く暗い一室を世界のすべてとして生きるしかなくなったうえで、自身にまっとうな死を迎えさせようとするお話という風に自分なりに置き換えてみました。

何か所か用語に躓く部分がありました。

●お経の罪業――お経と罪業を「の」で繋がれたこの言葉の意味がうまく入ってきませんでした。人を呪詛したことによる罪業とか、利己的な私心から経を呪したが故の応報とか、どういうつもりで、どのような形で経を読誦したかによって、罪業の多寡も異なってくるし、仏教の各教典でも因果応報の記載はその世界観のなかでは理にかなったものになっていると思っています。なので、「お経の罪業」と書かれると、言葉が足りないのか、それとも作者様が仏語に不慣れなのか、それともほかにわたしの知らない意図があるんだろうかと不安になりもしました。

●7つの大罪――これはキリスト教の聖書の言葉ですね。意図して使われたのか誤解によるものか。仏教の世界観で整えるなら、ここでは「十悪」とか、「五戒」を何度もやぶったとか、そうされたほうがいいかと思いました。

その後、ドヤでの生活において、六観音を成道の逆にたどって、天上から、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄と落ちていくところに、ドヤならではの「入滅」=「脳漿の世界である。死んた後の世界で脳が感じることは、記憶がなくなりループする悲しみと、肉体の痛みと死であろうと思う」を経て、輪廻であるから眠りについて、また目が覚めると、すこしいい気分になって天上界の心地からはじまり、徐々に下っていく。ドヤの個室に住む孤独な元僧侶が生きている限り繰り返し見ることになる回り灯篭的なビジョンですかね。

▶九相図――小説を書き始めて一年が経ったころ、自分でも仏教の世界観を基にしたものを書いてみたくなって、図書館で関連書籍をいろいろ開いたことがありました。九相図もそのときに大判の冊子で見て、こういうのを見ながら死についてイメージをつよくして修業に役立てた人がいたんだなあと思ったわけでした。いまも当時書き留めた、九相図のそれぞれに付された短文を写したルーズリーフが部屋に残ってます。あとは、平安時代とか、戦のあった時代、表向きは華やかな貴族文化に着目されるけれど、ひとたび市井、洛中洛外さまざまに目を向ければ、行き倒れの物だったり、飢えたり、病んだりして朽ち果てた死体が転がっていたのかもしれないなと思いました。芥川の羅生門がそういう世界観だし、今昔物語の本朝篇を読んでると、殺伐とした世界とそこに付き添うように存在する仏教的世界観と、相反しながらも一つの巻として調和する姿が感じられます。

どうでしょう。本作はワンアイデアが形になった感じですが、かつて夢野久作が書いた『ドグラマグラ』という作品のように、あそこまではいかなくても、あほだらきょう――「キチガイ地獄外道祭文」みたいなのも書いて書けないことはないんじゃないかと思いました。というか、本作がすでにそういうものになってるのかな。

六観音は六道を守護しているのだろうけれど、十悪にまみれた心からすると、観音の導きも、さらに泥沼に誘われる悪魔のささやきになってしまうのかなとも思いました。


●心体光明(しんたいこうみょう)なれば、暗室の中(うち)にも青天(せいてん)有り。
念頭暗昧(ねんとうあんまい)なれば、白日の下(もと)にも厲鬼(れいき)生ず。(菜根譚 前66)

跳ね鳥
p1295191-omed01.osaka.ocn.ne.jp

でんでんむし様


ご感想ありがとうございます。返信が遅れてすみません。頂いたご感想を引用しながらの返信となりますが、失礼いたします。


>読んでの感想ですが、偏差値45さんと同じ印象でした。つまり、意味がわからない、というもの。


すみませんでした。お読みいただき大変ありがたいです。


>その理由は、文章的なものに思えました。繰り返しが多いし、書くべきことが書かれていない。つまり、跳ね鳥さんの中では、読者はいないのだな、という風に感じました。読者に伝えようという気持ちはなく、思いのままを書かれている。


たしかにひとりごとのようになってしまうと小説は、視点だったり人称だったりする人間の客観的な眼差しが失われ、文章的な技法として不完全になるかもしれません。


>そんな感想を持ったのに、挫けないで最後まで読んだのは、話が独創的で、面白かったからです。


どうもありがとうございます。そこまでの褒め言葉をいただき光栄です。独創的というのは、目指すオリジナリティですが、初めて人から言って頂いたため、大変嬉しいです。


>即身仏を狙うには、いかにもヤバイ主人公ですが、話としては面白いのです。ただ、背景がきちんと書かれていないから、よくわからないままなんですけどね。


即身仏というテーマは、仏教の入滅の話で、お坊さんが、お経で世を救うために、地面に生きたまま埋められて、お経を唱えながら、閉じ込められて死んでいくもので、例えば澁澤龍彦の高岡親王航海記に洞窟の中の即身仏のようなモチーフが登場した記憶があります。仏教の断食修行などとも通じる苦行ですが、入滅僧はミイラとして、残ったりもするようです。死んだ姿が残されます。一般に仏の死亡は入滅といい、高僧の死亡は遷化というが、特に宗祖の遷化を入滅と表現することもある。僧の死亡を入寂(にゅうじゃく)や示寂(じじゃく)ということもある。ということですが、小説としては言葉として聞かれやすい入滅を選びました。


江戸時代には、疫病や飢饉に苦しむ衆生を救うべく、多くの高僧が土中に埋められて入定したが、明治期には法律で禁止された。また入定後に肉体が完全に即身仏としてミイラ化するには長い年月を要したため、掘り出されずに埋まったままの即身仏も多数存在するとされる。とのことで、言葉として即身仏の方が表現上正しいと思います。ご指摘ありがとうございます。


>最初のあたりでまず気になったのが、同じこと、同じ言葉の繰り返しでした。余計な言葉を消して、説明部分がすっきりすれば、もっと読みやすく、面白くなると思います。


アドバイスありがとうございます。参考にさせていただきます。
>誰かに読ませるのであれば、その誰かの立場になって、わかりやすいように書かれるといいかと思いました。
確かに読み手あっての小説なので、気をつけて書きたいです。
>発想自体は面白かったです。
どうもありがとうございます。貴重なご意見ありがとうございました。

跳ね鳥
p1295191-omed01.osaka.ocn.ne.jp

そうげん様へ

お返事遅れてすみません。エバーノートに頂いたコメントをコピーして、文章を引用しながらお返事がしたかったのですが、リンクを踏んで電話番号に飛んでしまうエラーがあって、コメント引用できないためまだお返事が書けておりません。貴重なコメントを頂いたため、もうしばらくお時間頂いて、紙の上でお返事の文章を考えたいと思います。作品が一面にある内にお返事出来たらありがたいです。遅れてしまい申し訳ございません。

そうげん
112-70-248-248f1.shg1.eonet.ne.jp

跳ね鳥さまへ

諒解しました! わたしのコメントが作者様へちゃんと届いたことが確認できましたので、それだけでも安心しました。ゆっくりでもかまいません。こちらも気長に待つことにいたします。

跳ね鳥
p1727236-omed01.tokyo.ocn.ne.jp

そうげん様

お返事が遅くなって申し訳ございません。素晴らしいご感想ありがとうございました。

お読み下さりありがとうございます。3度も読んで頂けてありがたいです。

書こうとしたのは、橋本龍太郎政権時代と出来た山谷ルールという、歪んだ政治のせいで、ホームレスの生活保護受給者が、台東区山谷地域に集められて、ドヤと呼ばれるひどい住めない部屋に入れられるという、今の時代の奈落の底の部落差別をテーマにしたものです。ホームレスの囲い込みをしてドヤに入れるという政治は、古代ケルトのウィッカーマンのようなもので、巨人の人型に木枠に詰め込んで人を焼き殺すような、野蛮な魔術並みの殺戮だと思います。

人間色々理由で働けなくなりますが、本作では職業柄お経を使いすぎて精神を病む僧侶を描きました。

お経の罪業という意図についてですが、お経は仏教の宗教ですので、お経の言葉が精神に影響するという信心があります。お経が人の心を救ったり壊したりする、言葉の魔術への信仰があります。護摩焚きを受けたりすると体感で感じるものがあり、お経が人の精神に恐怖を与えたり、また人の心がお経を読むと静まって、死に際の心理が取れたりする、明鏡止水の心の組み換えのお経のご利益があるというのが、仏教の信じるものだと思います。

護摩焚きは火炎を使った呪詛だと思うし、お坊さんにとって心理的にハードワークだと思います。人を呪わば穴2つで、悪いお経は善悪の基準で心の中で責められて裁かれるのが、宗教的世界観です。利己的なもの因果応報、全てあるのが、心の中で自分を責める、お経を使ったことにより感じる罪業だと思います。信仰の世界観ですね。

七つの大罪については、ある意味仏教にもあると思っていて、真言などが惑星のメタファーだと思っていて、カロンを入れた惑星で10の星にするか、あるいは七曜星や北斗七星に並べ替えるお経的惑星の観点があります。明鏡止水の星をいくつにするかは諸説ありますが、精神世界を守る星を7つの大罪として捉えても良いような気がします。

仏教の大罪がキリスト教の7つの大罪とリンクしていると考えていますが、たしかに十悪、五戒の研究はしてみようと思います。ありがとうございます。

目が覚めると天上界の心地から始まるという想像力は1番素晴らしいものだと思います。それは、死に際の最後の救いでもあります。ドヤの個室で身体が腐っていき、千手観音に見立てた足の多い虫が身体に湧いた時、それでも目覚めた時には、かつての自由を夢見ているという死ぬまでの最後の日々の中で、絶望の中の希望でもあります。

九相図は、現代画家の松井冬子さんの日本画や、夢野久作のドグラ・マグラで好きになりましたが、小野小町を描いたような昔の九相図を見ると、梅毒や食糞餓鬼道で生きながらにして死にゆく、生きた人間としての姿が九相図で、九相図は死体ではなく生きて施餓鬼を迎えているという僧侶の想像力が分かります。

ドグラ・マグラは好きです。あそこまで脳が揺さぶられる文章が書いてみたいです。テーマとして精神は核心に近く、深堀りして書いていきたいです。

六観音が死に際に悪魔のささやきになり、良かった世界や小説が、死ぬ時に妄想で逆さまに歪むのは、人間が死ぬ時に余裕のない痛みと苦しみの渦中だから仕方がないものではありますが、きつねと言って、心の中の悪魔のささやきたちを昔の人はきつねにつかれたと言って、精神病とは呼ばずに狐憑きなどと呼んでいました。かつて心の中で友だちで味方として楽しかったきつねたちが、死に際に疑心暗鬼で敵だと錯覚しないように、本当に自分にとって、不利なきついことを言って現実を伝えてくれるのは、真の心の友人であるということは知っておかないといけないと思います。きつねというのは、稲荷神社の稲荷ですが、きつねもたぬきも昔の人が、精神世界で他者的な悪魔のささやきを捉えるときの概念だと思います。

お経は善用すれば明鏡止水になり、攻撃に使えば、大乗小説の大菩薩峠というか、万物が敵になる心の世界の暗転になるかなと思います。お経を使いすぎて実際に僧侶が病んだら、それこそ解決方法は、宗教的なものかなと思いますが。

長くなりましたが、本当にご感想ありがとうございました。そうげん様の小説を書き始めた時の仏教小説を読んでみたいなと思いました。芥川龍之介の羅生門のような、貧困や社会的に見えない世界の現実を描いた仏教的作品にはすごみがあると思います。後日鍛錬場内のそうげん様の作品に感想返しに伺います。ありがとうございました。

そうげん
112-70-248-248f1.shg1.eonet.ne.jp

跳ね鳥さまへ

丁寧な返信をくださいましてありがとうございます。
わたしの投稿作にコメントをくださるとのことでとてもありがたいのですが、
最新のものは書きかけで、まったく整備できていないので御作とつり合いがとれないようにも感じてまして、
いちおう、書きあがってるものを掲載している星空文庫のわたしのページのリンクを出しておきます。
参考にしてくださると助かります。

https://slib.net/a/111/

跳ね鳥
p2014201-omed01.osaka.ocn.ne.jp

そうげん様

作品ページのリンクありがとうございます。読ませていただきます。嬉しいです。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

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