作家でごはん!鍛練場
草太郎

文机

 初夏のまばゆい光に照らされて、電車はゆっくりと動き始める。
 私立の女子中学に通う光子は、今朝も車内の片隅に立つ。光子の視線の先には、小太りの中年男性が座っていた。
 光子は、四月に二年生になったばかりである。大きな瞳と太い眉は彼女の意思の強さを表しており、髪をきつく縛りあげ、制服に身を包んだそのいでたちには、飾り気こそないが、実直な人柄が滲んでいた。
 彼女には、思っていることを衝動的に口にしてしまう癖があった。「それはあなたが馬鹿だからよ」とか、「あの子ブスだから、しょうがないわ」「先生、何を言っているのか全く意味が分かりません」など、思っていることが口をついて出てしまうのだ。級友は、そんな光子の発言を軽く受け流してくれるが、先生は痛いところを突かれるのか、怒りを露わにする。だから、彼女は思いついたことをすぐに口にしてはならないと自分に言い聞かせるのだが、意識すればするほど口にせずにはいられなくなる。
 そんな自意識からか、光子は、早朝六時半の電車に乗り合わせる中年男性を好奇の目でみるようになっていた。
 男は五十過ぎのしがないサラリーマンだ。仕事ができるというわけではなく、これといった趣味もない。車内で読書をするのも、ただ通勤の時間を持て余しているからで、特に気に入った作家や好きな文学ジャンルがあるわけでもない。歴史、恋愛、ミステリー、SF、何でもよかったのだ。
 ただ、男の読書の仕方は一風変わっている。まず空席に座を占めると、膝の上に文机を載せる。縦30cm、横40cmの使い古されたそれは、太ももを開くとほどよく安定する。あとは、机上に本を広げるだけである。
 男は、この簡便で奇抜なアイデアに酔いしれているようだった。事実、その行為が公共のマナーに抵触することへの懸念は微塵も感じられない。
 当然、車内の乗客は男を意識した。二人の若い女性が「またいるわよ」「何で机なんか広げているのかしら」とささやき合っている。その声が耳に入ってか入らないのか、女性の後ろに立つ若い男性はそ知らぬ顔をしており、隣に座った老人はちらりちらりと男を膝の上を盗み見ている。
 しかし、光子だけは違った。
 ああ、あの、身を小さくかがめて、ひたむきに読書に励む姿勢にはほとほと感心させられる。しかも使い古された机の何と味わい深いことだろう。調度と人とがひとつになって織りなす謙虚な美しさこそ、私が見習うべき姿勢なのだわと、自分を抑えられないことへのやるせなさもあって、しみじみと感心するのだ。
 突然、電車の扉が開いた。はっと我にかえった光子の前を、乗客がぞろぞろと横切っていく。
 すると、その機に乗じて、スーツ姿の婦人が男に歩み寄った。
「ちょっと、あなた、ここで何をしているんですか? 」
「え? 何をって、その読書を……」
「そうじゃなくて、あなた、このところ、ずっとそうやって机を広げているでしょう。今すぐその汚らしい机を使うのをやめていただけません?」
「え、あの、私がどのような迷惑をかけたって……」
 扉が閉まり、列車はゆっくりと走りはじめる。
「あのね、公共の場で机を広げること自体、マナーに反するのよ。見てごらんなさい。皆さんも嫌な顔をしているでしょ。いい歳してそんなこともわからないの。言うことが聞けないなら、駅員に通報しますからね」
 光子は、鋭い眼差しで婦人を凝視している。
「そんなこと言ったって、机を膝の上に置くことがマナー違反になるのでしょうか。ほら、机の脚も隣の人には触れていませんし、前に立つ人の邪魔にもなっていないと思うのですが」男は小声で言い返した。
 周囲の乗客は見て見ぬふりをしているが、二人の会話を固唾を飲んで聞いているのがありありと見てとれる。
 婦人が怒りを露わに、
「それなら、はっきり言わせてもらうわ。あなた目障りなのよ。私はね、周りを無視して勝手なことをしている人が許せないの」と怒鳴りつけた。
 その時、たまりかねた光子が鞄を片手に、婦人に歩み寄った。
「ねえ、おばさん、あなたこそいい加減にしなさいよ。この人は静かに本を読んでいるだけじゃない。誰も迷惑だなんて思っていないわよ。そりゃ、この人は、こ汚い中年かもしれない。いやそうよ。スーツはよれよれだし、お腹は出ていてみっともないわ。でも、こうやって静かに落ち着いて机に向かって本を読む姿は素敵だわ。少なくともここで人に難癖つけているおばさんのほうが、ずっと気持ち悪いわ」  
 乗客は唖然として光子を見ている。
 光子は正義感を振りかざすつもりなど毛頭なく、また思いの丈をぶちまけたという自覚すらない。
 男は下を向いたきりである。
 婦人は、歯に衣を着せぬ光子の発言に動揺してか、
「まあ、失礼ね。あなた、どこの学校? 」と敵意をむき出しにした。
 電車が駅に停車して、扉が開く。
 すると突然、男が、我が意を得たりと顔をあげ、
「そうだ。お嬢さん、これはあんたが持つべきだ。私は、ただ家にあったのを面白がって使っているだけで、さしたるこだわりもない。お嬢さん、あんたこそ、この机を使うにふさわしい」と言うなり、光子に文机を押しつけて、そそくさと電車を降りてしまった。
 婦人は、男の思いもよらぬ行動にどうしてよいかわからず、光子を睨みつけると、何なのよと叫んで隣の車両に立ち去った。
 光子は、とっさのことに驚いたが、文机を自分が手にしたことへの興奮と好奇心がみるみる首をもたげてくるのを自覚した。
 その日、彼女は文机を小脇に抱えて歩き、どうするべきかを考えた。
 そして、まずは自分にできることをしようと決心した。翌朝には、六時半の電車に乗って、膝の上に文机を載せてみた。膝と机の脚との間には、わずかな隙間ができたが、前かがみになって体重を乗せるとそれは安定した。宿題をしてみると思いのほか、はかどった。予習と復習もしてみた。二週間が経つ頃には成績も上がっていた。
 しかし彼女は浮かない顔をしている。いくら机に向かってみても一向に馴染んだという実感がわかないのだ。もちろん、それは彼女が実際に机を使ってみてわかったことなのだが、そのことよりも、彼女がこの一風変わった体験の中で、他人の目に自分がどう映っているのかを気にしたことの方が注目に値する。
 やはりこの机は、あの中年男性が使うからこそしっくりと馴染み、見た目にも絵にもなるんだわ。
 光子は文机を男に返そうと心に決めた。
 目をあげて前を見ると、あの中年男が座って腹の辺りで本を広げている。光子は、ああよかった、読書はやめていないのねと心の中でつぶやき、文机を小脇に抱えて立ち上がると、男に歩み寄った。
「あの、やはりこれはお返しします」
 男は顔をあげて、光子を見た。
 車内には走行音が響きわたる。
 すると、男はにっこり笑って小声でささやいた。
「いやいや、とんでもない。お前さん、一度でも周りを見回してみたかね。あの日から一生懸命に机に向かって勉強をするあんたをな、乗客みんなが、ほほえましく見守っているんだよ。私もな、お前さんが勉学に励むのを健気で美しいと眺めておったんだ」
 光子は慌てて周りを見回し、そして顔を赤らめた。恥じらうことを知ったのだ。
 人生においては、何が人の成長を促すのか分かったものではない。

文机

執筆の狙い

作者 草太郎
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お時間ありましたら、よろしくお願いいたします。

コメント

夜の雨
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「文机」読みました。

ことのほか、よくできた作品ですね。
早朝の通勤通学電車のなかで膝の上に「文机」を置く中年男、そしてなんの因果か女子中学生が、その文机の持ち主になってしまう。

光子という女子中学生の個性あふれる成長のお話というところでしょうか。
車内のエピソードがヒューマンタッチでいいですね。
ほかの登場人物もなかなかのキャラクターでした。
中年男も味がありましたがスーツの婦人が実直な性格らしく、はたから見る限り受けます。
彼女のご主人は大変だと思いますが。

光子が文机を中年男に返そうと話しかけるエピソードが山場でした。
掌編の長さですが、うまくまとめています。

また、読ませてください。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

画面一瞥して・・


>ただ、男の読書の仕方は一風変わっている。まず空席に座を占めると、膝の上に文机を載せる。縦30cm、横40cmの使い古されたそれは、太ももを開くとほどよく安定する。あとは、机上に本を広げるだけである。


に猛烈に見覚えありまくるんで、

これも「修正、再掲」。




そんで、初出時は「光子」とかゆー本作のヒロインが出しゃばる形じゃなく、

《電車の中で頑なに読書続ける、謎な男。車両に鳩が乱入して、大騒ぎ! だのに、彼は動じることなく、本を読んで・閉じて、文机とともに降車してゆく〜》

って、ちょいシュールな、

もっとコンパクトにまとまっていたショートだったと思った。



改稿したこれは、「のっけから趣味じゃない」んで、読まなかった。

冒頭からもう光子がいらん。光子が邪魔!

うだうだ・うじゃうじゃ余計ごとてんこ盛りにして、げんなりするし、「幻想テイスト」が減じるどころか、雲散霧消。

なので、見なかった。(先へは進めなかった)



前の「シュール掌編」の方が、だいぶいいでしょう。


これは「改悪」だと思う。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

ここのサイト、近年「幻想系テイストで貫き通してた掌編」に、
『浮遊傘』ってのがあって、
あれは見事な筆致だったんです。


すんごい文章うまかったし、
「臨場感ある怪しさ」が滲み出てた。
(しかし、感想書いた人は、私のほかに2人ばかり?? だったような……)



って回想してて、
気づきました。


これ、改稿じゃなくて、もしかして【文机男が電車乗ってる、オムニバス】なんかな??


文机男は必ずいて、
語り手(主人公)が、リーマンだったり、女子中学生(本作)だったり、
子育て主婦だったり・・???

偏差値45
KD106154138001.au-net.ne.jp

以前に読んだことがあるような気がしますね。
内容はすっかり忘れていましたが……。

文机……。
都会の街を走る電車では「迷惑」に感じるでしょうね。
しかし、地方の田舎では比較的に座席が空いてるので、
微笑ましく見えるかもしれませんね。

例えば、最終電車で酔っ払いが座席で横になって寝ていたとしても、
マナー違反ではあるけれども、黙認してやってもいいかな、
そんな気持ちになります。

一方で、ヤンキーが出入口に近くで尻を床につけて座っている方が迷惑に
感じるかもしれないですね。

つまり、状況によって人の感情は違いますね。
言ってしまえば「共感」あるいは「反感」なのでしょう。
そんなことを考えさせられる作品かな。

草太郎
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夜の闇さま、お読みくださりありがとうございました。そして書きたいことをそっくり読み取っていただき感謝しております。最後の一文は、主題を理解していただけるようにあえて書いたのですが、必要だと思いますか?実は最後まで悩みました。書いて限定しない方が、世界観は広がるのではと悩んでおります。お時間ありましたらご意見くださいませ。

草太郎
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10月はたそがれの国さま、拙作お読みいただきありがとうございます。お察しのとおり、以前書いたものを書きなおしました。前回のものは、短すぎて何を言いたいのか伝わりにくいという印象がありましたので、頭を悩ませた結果、今回のような形になった次第です。(内輪話ですみません)それで、最後にくどいくらいに主題を表す一文まで書きました。おっしゃる通りで、前半のキャラクターの説明がくどくどしていて、面白みに欠けるという不安もありました。中年男とは対照的な若々しい女子を出したりもしました。それが前回の雰囲気を見事に壊してしまったのだろうと思います。ですから、オムニバスというほどの御大層なものではありませんでした。大変失礼しました。それにしましても、いろいろな作品を細かくお読みになって的確な分析をなさり、またよく覚えていらっしゃって敬服いたしました。またよろしくお願いします。

草太郎
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偏差値45さま、お読みいただきありがとうございました。前作覚えてくださって光栄です。マナーとは何ぞや、何をもって道徳というのか、この点を考えました。前作では電車の中で勝手にふるまう人物を書きましたが、それを非難する存在が現れたらと考えて今回のような展開にしました。実際に公共の場でどこまで許されるのかは難しいですね。また、投稿してあまり良い評価が得られないと、どうしても気になって書き直してみるのですが、それもどうなのかなと考えました。

夜の雨
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再訪です。

 光子は慌てて周りを見回し、そして顔を赤らめた。恥じらうことを知ったのだ。
 >人生においては、何が人の成長を促すのか分かったものではない。<

ラストの一行はないほうが良いと思いますが。
恥じらうことを知ったので、「翌日から電車の時間帯を変えた。」という、行動であらわした。
ぐらいでいかがでしょうか。

その理由。
光子は文机が「馴染むかどうか」を気にしています。
車内で文机を使うことにより、「勉強がはかどるか、成績が上がるか」では、ないのですよね、文机が持ち主に馴染むかどうかで中年男のときも見ていたし、自分が使うときも馴染んでいるのか、ということです。
馴染んでいれば車内での周囲の目も気にならない。

>そのことよりも、彼女がこの一風変わった体験の中で、他人の目に自分がどう映っているのかを気にしたことの方が注目に値する。<

>すると、男はにっこり笑って小声でささやいた。
「いやいや、とんでもない。お前さん、一度でも周りを見回してみたかね。あの日から一生懸命に机に向かって勉強をするあんたをな、乗客みんなが、ほほえましく見守っているんだよ。私もな、お前さんが勉学に励むのを健気で美しいと眺めておったんだ」<

と、男に言われて、周囲の注目を一身に集めていたことに気が付いた。

>光子は慌てて周りを見回し、そして顔を赤らめた。恥じらうことを知ったのだ。<
ということなので、翌日から電車の時間帯を変えた、というような内容が良いのでは。

 ラスト。
 光子は慌てて周りを見回し、そして顔を赤らめた。恥じらうことを知ったのだ。
 彼女は、翌日から電車に乗る時間帯を変えた。

以上。

夜の雨
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理由のポイントがずれていたので修正です。

ラスト変更の理由。

 >光子は、四月に二年生になったばかりである。大きな瞳と太い眉は彼女の意思の強さを表しており、髪をきつく縛りあげ、制服に身を包んだそのいでたちには、飾り気こそないが、実直な人柄が滲んでいた。<

上が光子の人柄なので、ラストで作者が「人生においては、何が人の成長を促すのか分かったものではない。」と意見を書くよりも、光子の人柄から出る行動であらわしたほうが良いと思いました。

 光子は慌てて周りを見回し、そして顔を赤らめた。恥じらうことを知ったのだ。
 人生においては、何が人の成長を促すのか分かったものではない。  ← 作者の意見になる。

 ラスト。
 光子は慌てて周りを見回し、そして顔を赤らめた。恥じらうことを知ったのだ。
 彼女は、翌日から電車に乗る時間帯を変えた。  ← 恥じらうことを知った為に、人柄から出る行動にする。

以上です。

草太郎
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夜の雨様。ご丁寧なご助言ありがとうございました。抑えてくださったポイント三点は、まさに光子の成長という主題に関わる箇所ですし、その意味で筆者の主観を色濃く出したところでもあります。光子が周りを意識せずに豪気に言いたいことを言い放つ性格であるからこそ、最後の恥じらいの情が成長を表すという論理が成り立つと思います。ただ前にも申しましたが、それが読者に伝わるかどうかという不安から、ただそれだけで、「彼女が自分が他人の目にどのように映るかということ」(ここは布石です)、そして「何が成長を促すか分かったものではない」という一文を入れた次第です。そのうえで考えますと、夜の雨様の、「通学時間を変える」というご提案は効果的だと思います。「時間を変えたこと」による含みは大きく膨らみ、想像の余地を残せると思います。光子の行動の背景には恥じらいもありますし、一抹の寂しさを覚えるかもしれませんし、そこを含めて他者を意識したこと、つまり成長したという読みが成立しまし、おそらく成長したことは読み手にも伝わります。もっとも筆者が明言するという書き方もありますが、そこはまた読者の好みの問題でもありますね。ちなみに光子を中学生に設定したのも、そうした感情の揺らぎには妥当な年齢だろうと考えたからです(高校生にするか迷いました)。引っかかっていたものが落ちました。取り留めなく長くなりましてすみません。ありがとうございました。

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