作家でごはん!鍛練場
もんじゃ

過ぎ去りし夏(七枚)

 場所は葉山の芝崎海岸沖、天気は快晴、遠くに富士が見え、季節は夏の終わりだったから空は高かった。
 そんな世界の底にダイバーはいた。仲間たちと一緒に潜っていた。
 海底の岩場に何かを見付けた。それは四角かった。至近距離からよく観察した。
 物体は灰色で、ところどころが錆びて蜜柑色で、細かな貝や石灰様の何かがこびりつき、お世辞にも美しいとは言えない有り様だった。
 ヒトデやナマコや、イソギンチャクと違ってそれは言うまでもなく人工物で、海の中においては明らかな異物で、もっと感情を込めて形容するなら排除すべきゴミだった。
 拾い上げ、陸上に持ち帰った。
 箱形のボディから短い円筒が飛び出ていて、どうやらコンパクトカメラのようだった。
 その日のダイブは切り上げた。仲間と別れてダイバーは、真っ赤なピックアップトラックのハンドルを握った。
 茅ヶ崎に向かって走り、信号に止められ、陽光に照らされたナビゲーターズシートを眺めた。
 ビニールの上、貝殻のように、沈黙で何かを語りながらそれはあった。
 信号が青になり、アクセルを踏み込み、フロントグラスの向こうの空間に向けて車を走らせた。
 マンションに着き、ピックアップトラックを駐車タワーに収め、エレベーターで八階に上がり、サザンビーチをわずかに眺められる角度のリビングに入ると、バルコニー側のサッシを開け放ち、風を入れ、長テーブルの前に座ってタオルの上の物体を見詰めた。
 かつてはカメラであったところのそれ。世界を見詰め続けていたレンズ。光景を切り取り続けていたシャッター。そして、と思いながらダイバーは立ち上がり、所定の場所から工具箱を取り出し、それを手にまた長テーブルに引き返し、小さなドライバーを片手に続きを思った。
 ダイバーの右手は、思いを期待に、期待を願いに変換しながらそれを分解していった。
 やがて右手は、一枚の記憶装置を取り出した。
 青いラベルの、8ギガバイトのSDHCカード。時をやり過ごし、なお青く、もしやを漂わせながら沈黙していた。
 もしや、の続きを確かめるべくダイバーは、カードをバルコニーに持ち出し、陽光で十分に乾かしてからのち、パーソナルコンピュータのスロットに差し込んで応答を待った。
 果たして、少なくはない数の記憶が再現された。
 若い男が写っていた。上半身が裸だった。陽を受け、筋肉は明るく輝いていた。
 彼の歯も白く輝いていた。その歯に、勝るとも劣らない白さで輝くマリンクルーザーの上に彼はいるようだった。
 青い空の下、霞むような富士が薄青く写っていた。白いカモメも写っていた。裕次郎灯台も写っていた。
 日付けを確かめる。五年前の夏だ。
 別の写真で男は、海をバックに、人懐こい笑顔で細身のシャンパングラスを掲げている。炭酸の気泡が煌めいていて、よく見るとその手前、グラスの表面に、カメラを構えた撮影者の姿が確認できた。髪が長い。けれども性別までは判断できない。そう思ったのだが、次の一枚で判明した。
 撮影者はおそらくこの女性だ、と、そう思われる人物が、男の隣で、ビキニ姿で、青い空と海と、白いクルーザーの縁を背景に、破裂したような笑顔でカメラにピースサインを送っていた。
 灼けた肌、綺麗なボディライン、卵型の顔は小さく、目は大きく、鼻は真っ直ぐで、唇はふっくらとしていながら、白い歯を抱き留めるありさまは十分に快活で、鎖骨が尖り、バストも尖り、ウエストはくびれて、その下はわからなかったが、控え目に言って恐ろしく美しく、そしてどうにも健康的だった。
 画面から目を逸らしてダイバーは、サッシの向こうの高い空を見上げ、サザンビーチを見下ろし、耳を澄ませて波の音を聞き取ろうとしたが、波の音はおろか、もう蝉の声も聞こえず、今や世界は写真の中にしかないように思われた。
 だからまた、画面の中の写真たちに向かってダイブした。
 健康、という言葉で形容し尽くせそうな男を、カメラは、五年前のその日、何度も追い掛け、姿を切り取り、小さな記憶装置にストックし続けていた。
 男の腕の筋肉や、陽光に照らされた汗や、陰りの欠片もない瞳は永遠を思わせた。
 何枚目かに最後の写真があった。そのあとのファイルは壊れていてもう開けなかったのだ。
 再現し得る、その日最後の写真を開き、そして拡大して見た。
 ケーキの写真だった。ホールのケーキがアップで写っていた。
 小さな、かつシンプルな、しかし美しいケーキだった。白いクリームに抱かれるようにして言葉が踊っていた。

 HAPPY BIRTHDAY RIKAKO 24th

 カメラの持ち主なのであろうリカコを思いながらダイバーは、テーブルの上の、かつてはカメラであったところの塊を見詰め、海を思い、目を瞑り、そしてそのまま長いこと動かずにいた。
 レースのカーテンが膨らむ気配に目を開けると、風が、リビングの隅に配置したアレカヤシの葉を音もなく、ただ揺らしていた。
 ダイバーは友人に電話を掛けた。そして晴れ晴れとした声を、おそらくは作ってこんなふうに誘った。
「九月のビールを飲みにゆこう」
 サッシの向こうで空は飽くまでも高かった。

過ぎ去りし夏(七枚)

執筆の狙い

作者 もんじゃ
KD111239165082.au-net.ne.jp

実話ベースの話です。タイトルは、締め直前の台詞(ブルハの歌詞へのオマージュでもあります)と呼応させるべく(無論、話全体が象徴する意味とも呼応させるべく)、敢えて外連味を排した凡庸なもの(ダサい、という幼稚な形容を拒まないもの)を採用してみました(HAPPY BIRTHDAY RIKAKO 24th だとか、九月のビールを飲みにゆこう、だとか、そのほうがキャッチーなのはわかっているけど、それじゃ浅すぎる気がしました)。読点を多めにして、意味的にも、リズム的にも、稚拙に思われようとも読みやすくしています。しかし、名詞や形容詞、副詞も含めて、通常の遣われ方とは違う遣い方をするなどして、込めるべき箇所に込めるべきを込めてみた次第です(筋で楽しませる話ではありません)。一人称と三人称についてを十分に考え尽くしたのちにこの視点を採用しています。擬人法も多用していて、繋がりが順行してはおらず、つるっとは飲み込みがたい文章かと思われます(単語たちを象徴的に配置するためこのようにしています)。ついさっき書き始めて、今しがた書き終えたばかりのものなので、推敲は十分ではないと思いますが投稿してみます。

コメント

偏差値45
KD106154139035.au-net.ne.jp

要するに、ダイバーが海底でカメラを拾って帰り、中味の映像を見ることが出来た。
盛り上がりに欠ける感じがしますね。
何か工夫が必要のようです。

地蔵
KD111239155058.au-net.ne.jp

感想を書かせていただきます。
執筆の狙いを読まずに本文を読み、それから狙いを読みましたが、作品として特に違和感を感じない普通の文章だと感じました。プロアマ問わずどの作品も作者としての狙いや意図はあるのでしょうけど、それが100パーセント読者に伝わることってないのでしょうけど、今作でも私が鈍いのか読み方が拙いのか、作者様の作文における様々な意図を、それを知る前に感じ取ることはできなかったです(それが良いことなのかどうかもわかりません。作者の意図が種明かし的に明言されていなくとも伝わるということは、それだけ表現が露骨であり、大味であると言い換えることもできると思うのです。それと気づかないようにさりげなく仕込んでいて、その効果が受け手の意識の表層に浮上しないけれどもしっかりと影響を与えている、もしくは手練れの読み手にだけははっきりと伝わってニヤリとさせられる、そういう精妙なものの方が成功だと言えるのかもしれません。私にはどちらが正しいのかわかりません)。
読点を多めにということですが、私には普通の文章に感じました。太宰治みたいな文章だと、これはもう嫌でもわかります。読点多いなーって。クセがすごい、主張がすごい、みたいな。こういったやや否定的な言葉で表現したくなるということは、やはり大味だ、と思っているのかもしれません。つまり、もんじゃさんが正しいような気がします(わかりません)。

>一人称と三人称についてを十分に考え尽くしたのちにこの視点を採用しています。

ダイバーっていう表記ですが、途中で主人公のことなのか写真の中の人物のことなのかわかりづらくなって、紛らわしい書き方だな、これはどうなんだろうって思ったんですけど、最後の方でどういうオチがあり得るかって考えた時に、同一人物なのかなってふと思いました。

>ダイバーの右手は、思いを期待に、期待を願いに変換しながらそれを分解していった。

ここを読むとその解釈が自然なように思えるのですが

>その歯に、勝るとも劣らない白さで輝くマリンクルーザーの上に彼はいるようだった。
>けれども性別までは判断できない。そう思ったのだが、次の一枚で判明した。撮影者はおそらくこの女性だ、と、そう思われる人物が、

この「ようだった」や「性別までは判断できない。そう思った」や「撮影者はおそらくこの女性だ、と、そう思われる」といった言葉たちが、いったい誰のものなのかが不明なのでモヤモヤします。作者は超越的な立場に立っていて、全てを知っているので、「ダイバーの右手は、思いを期待に、期待を願いに変換しながらそれを分解していった」と人物の内面について断定的に書くことができるのですが、そうすると上記の写真について何も知らない立場の表現は、全てを知っている作者による、ダイバー視点でなされた表現と解釈するしかありません。その場合、「ダイバー=写真の中の男性」という解釈が崩れてしまい、結末の「ビールを飲みにゆこう」というセリフがかつての恋人で現在の友人であるリカコに言った言葉であるという解釈も崩れてしまいます。そうすると、ただの飲み友達に言った言葉ということになり、掌編としてのオチにもならないし何の詩味もないよくわからない結末になってしまいます。その辺が私にはわからなかったです。読み取れていないだけかもしれませんが、スッと腑に落ちないです。

>擬人法も多用していて、繋がりが順行してはおらず、つるっとは飲み込みがたい文章かと思われます(単語たちを象徴的に配置するためこのようにしています)。

擬人法については、初読の際、多用されているとはあまり感じなかったです。特に目立っていないと言うこともできるでしょうし、常識の範疇に収まっていて、文章として破綻していない、良い塩梅で書かれていると言うこともできるかもしれません。改めて読み返してみると確かにところどころで使われていますが、効果的というよりは、そういう傾向の人なのかなと感じるだけでした。日常会話でも不思議なところで物を人っぽく表現する人がいますが(女性に多い気がします)、そういう自分の世界を持ってる人って感じです。好き嫌いが分かれるクセの範疇のもので方法的なものではないというのが私の印象でした。

>繋がりが順行してはおらず

これがよくわからなかったのですが、倒置法的な意味でしょうか? 以前の障害持ちの女の子が出て来る話を読んでいても思ったのですが、切り口上的というか、短文の連続、ぶつ切りみたいな文が多いな、という印象があります。カミュ的? ハードボイルド的? 何と言えば良いのかわかりませんが、わかりやすくて読みやすい文章だと思います。平板とも言えるかもしれませんが。文体において変な小細工をせず、潔いスタイルをとっている分、物語の本質的な構造の巧拙が見えやすくなり、作品は仮借ない判定を受けやすくなります。文体のミスティフィケーションをやめて正々堂々と勝負するのは立派ですが、わかりづらい曖昧な結末を持ってくるのであれば、それは別の隠れ蓑をまとったに過ぎないのであり、ゴテゴテと飾った文体で読者を煙に巻くのと何も変わらないのではないか、そんな風なことをちょっと思いました。しかしただ私が読めていないだけなのかもしれません。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

差値45さま

ありがとうございます。

ご感想、参考にさせていただきます。

・テーブルの上の、かつてはカメラであったところの塊を見詰め、海を思い、目を瞑り、そしてそのまま長いこと動かずにいた。

ダイバーは、何を思って目を瞑ったのか?
まあ、海なんだけど、海とは何か?

・そして晴れ晴れとした声を、おそらくは作ってこんなふうに誘った。

おそらくは、という副詞ひとつが、全編における視点主(に、平たく読むなら思えるであろうところの)「ダイバー」の「僕」への置換を、少なくとも一見、不可能にしているのだけど、だとすると、この話の視点は実はどこにあるのか?

・「九月のビールを飲みにゆこう」

この台詞の意味は?

・サッシの向こうで空は飽くまでも高かった。

空が高い、で始まる話が、飽くまでも高い、で締められているということは……?

・ダイバー

そもそも、「ダイバー」って?

みたいなあたりを読み込むと(読み込むためのキーは全編にわたって、あちこちに、言葉として、埋め込まれているはずなので)、話の表層を追うだけの理解〈泳ぎ方〉とはまた違う「わかり方」(少なくとも「味わい方」)〈潜り方〉ができるんじゃないかな、と、これは感想を頂戴いたしました書き手による感想であります。

というような感じ方をさせていただけたご指摘に(いろんな読み方に晒されること好ましく)、ともあれ感謝いたします。

偏差値45さんを貶める意図はありません(拙作にも、この返信にも、それとは違う意図があります)。ニュートラルな感想として受け止めさせていただきます。

読んでくださり、ありがとうございました。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

地蔵さま

ありがとうございます。

あざとい「狙い」を失礼いたしました。しかし、「狙い」に言及してくださり、嬉しく思います。

>ダイバーっていう表記ですが、途中で主人公のことなのか写真の中の人物のことなのかわかりづらくなって、紛らわしい書き方だな、これはどうなんだろう

「ダイバー」に言及してくださり、ありがとうございます。しかし、「ダイバー」という表記に込めたものについては、今少しあとで(機会があるなら)語らせていただくことにして、まずは地蔵さんの、

>同一人物なのかなってふと思いました

との、ご感想に向き合わせていただきます。
同一人物? とまさに「ふと」思っていただけることを意図しましたが、地蔵さんがご指摘されますように、同一人物ではない表層で書いています。
失われし「若い肉体」「美しき輝き」「盛夏の鮮やかさ」を、ダイバーは、写真の中の男に(女にも、すなわちカップルに)感じるわけで、その対比が「秋」であり、つまり「今」であり、高らかな視点が見下ろしますところの「ダイバー個人」な図式となっておりますから、写真の中の男はダイバー個人では、現実的にはないのだけれど、象徴的には(角度としては・配置としては・模様としては)、ダイバー一般であり、要するに重なりますし、ダブりますし、なので「同一人物なんじゃ?」と、ふと思う、気配を感じるアンテナの精度は鋭敏であるなと感じられました。
匂いを感じるように、ふと思う、ダブらせていただく、ということにより、ダイバー個人の体験が、普遍的な、つまり実在する個人に限定されない、ダイバー(メメント・モリを生きているところの――これ、車椅子の少女の話とおんなじでありますね)一般の体験に置き換え得るのではないか、と、これは書き手でもある一読み手として実は感じております。
その意味で、以上でも以下でもない読み方に照らされていただけたように感じ、嬉しく思っています。

>スッと腑に落ちないです

わかっていただけない、飲み込んでいただけない、あれ? と感じて釈然としない、だから言葉を追い掛けて潜ってみる、これは偏差値45さんへの返信で書かせていただいたいくつかの「?」を紐解く行為になるかと思われるのですが、そういう読み方をするダイバーに向けて、あ、もう書いちゃいますね、「ダイバー」を、「僕」じゃなくて、「君」に置き換えて読んでいただきたい意図で書かせていただきました。主語は、「ダイバーたる読者すなわち君」であると。これは限定された君ではなく、もっと広くダイバー一般であります。主語はそうなんだけど、しかし視点は……。こちらこそは、また別の機会に呟かせていただきます。

>文体のミスティフィケーションをやめて正々堂々と勝負するのは立派ですが、わかりづらい曖昧な結末を持ってくるのであれば、それは別の隠れ蓑をまとったに過ぎないのであり、ゴテゴテと飾った文体で読者を煙に巻くのと何も変わらないのではないか

おっしゃっていただいたこと、大変よくわかります。ヘクトパスカルなありさまとかわらない、みたいなご指摘と理解いたしました。
しかし、わかりづらくもあろう曖昧な結末、というか、飲み込んでいただきづらい「?」に導く結末、これは、読み手を煙にまくために配置しているのではなく、まさにあの締めくくり箇所こそが、読み手に潜水を開始していただくダイビングポイントであってほしいと意図してそう配置したつもりなのでありました。実際に、地蔵さんは、違和を感じてくださっている。だから、空を見上げたり、この秋において夏を思ったり、文章の水面から垂直に沈行せんと意志してくださったりが可能になるわけで、終わり方に違和を感じていただけなかったら、単に、タイムカプセル拾ったよー、というだけの浅瀬でしかなく、それは小説足り得ないし、ポエム足り得ないし、日記にしかならないでありましょう。そう思われます。なので、あの終わり方や、全編の構造は、露骨に、例えば「赤い海」みたいな言葉で表してはいないけれど、表層のみでは解し得ない何かを漂わせていて、だから、読み手は、この短いテキストをもう一度精読してみようかと、リズール(精読者)になってみようかと、そんな気になってくださるかな、とか、そんなふうに企図いたしました。
ともあれ、核心的なことに言及していただきまして、嬉しく感じています。
読んでくださり、ありがとうございました。

13hPaブロでしょ
KD111239114119.au-net.ne.jp

めっちゃヘタクソな仕上がり。
驚くわ実際。


忠告通り、病院行ったんですか。
もう夢遊病レベルですよ、この文章。
違うか、ナルコレプシーか。
寝ながらぶつぶつ書いてるでしょ全然まともじゃないものどうしちゃったの。


何だか色々言ってみても結局、

>ついさっき書き始めて、今しがた書き終えたばかりのものなので、推敲は十分ではないと思いますが投稿してみます。

なんでしょ。

それがいけないって言ってんじゃなくて、所詮そんな日和った魂胆が思いつきたがるばっかの意図まる出し文体だって言ってんの。
卑怯にすら機能し損ねてるってもはや悲惨しっかりして。
まあ、基礎的なただの馬鹿ポイントも盛りだくさんですけどね。



自分のやってることわかってないでしょ。
言い訳ばっか考えんのに忙しいから屁理屈も何もただ恥ずかしいだけの明後日らへんにふぁーしてますあぶないなあ。



ダサいなり。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

13hPaブロでしょさま

ありがとうございます。

参考にさせていただきます。

ありがとうございました。

アン・カルネ
219-100-28-126.osa.wi-gate.net

作者さんが意図している事を汲み取れているかどうかは分からないですけど、私は一読で「良いもの読ませてもらったなあ」って思いました。
私もダイバー君と5年前の写真の中の若者は同一人物なのかなって思いました。
で、ラストは「過ぎ去りし夏」ではなく本当は「失われた夏」への献杯なのかなあって。
でももし5月の風のビールにかかってくるのなら、その歌詞の世界観とは違うような?? と思ったりもして…。

で、ちょっと思う事。
作者さんは、どうなんだろう、自分の書いたものを誤差なく読み取ってもらいたいタイプなんでしょうか。
いえ、ふと友人の事を思って。私の友人はどこで仕入れてきたんだか、ある日ある時、目をキラキラさせて、「ね、知ってた? 『よだかの星』って実は負け犬の物語なんだって!」とのたまってくれて、一瞬、殴り倒してやろうかと思ったけれど、私はニコニコとして、「へー、そうなんだあ」と軽く流しまして。この友人、『賢者の贈り物』については「やっぱり夫婦こそコミュニケーションが大事だよね!」とのたまい、なんと言うか、別な意味で私の心を鷲掴みにしてくれていて(笑)。そう、彼女のそういう感想もまた良いではないかと。だって、それは言い換えれば彼女の日常においては、心のしこりになってしまうような、奥底に澱のように積もってしまうような負の経験が少ないということなのだから、と思っているんですよ。
今でもメーテルリンクの『青い鳥』が上演されているのかどうか知らないのですが、作劇術に興味を持っていたりちょっとでも関わった事がある人達はラストの青い鳥が家にいたってオチは出来る限りサラッと描いて、子供達の記憶に残らないようにする事が最も望ましいと教わるんですよね。子供達の記憶に残すように描く所は青い鳥を探す時のワクワク感、その面白さ楽しさだけ。そうすると子供は大人になった時、今度は自分の子供にもその劇を見せたいと思うから。そして大人になって子供を持ってから、子供を連れて『青い鳥』を見に行く。そこで舞台を夢中になって見つめる我が子の輝く横顔を眺め、親になった自分はラストのオチに、ああ、そうだ、青い鳥はここにいる、と実感する。その時、初めてこの作劇は完結する、まことに息の長い物語として習うんですよね。私はそういう思いのこめ方ってのが結構好きなんですよ。
もんじゃさんがどういう種類の作者さんなのか分かりませんが、もし、もんじゃさんがこの作品をある種の喪失感を知っている人達に向けて作っているのだとしたら、そこを受け取る人がそこそこいたらそれはそれでよしとしようというスタンスで良いんじゃないのかな、と思います。と僭越に書いてしまうのは、なんとなく読み手の力量を試しているようなところがあるように思えて、それはなんというか、ちょっと考えさせられてしまうんですよね…。
まあ、確かに5年前の夏ってところで、彼女も他の男と元気に生きてますって、もうすぐ結婚式だそうです、か、あるいは近々おめでたです、とか、既に赤ちゃんがいます、とか、そういうふうに読めば、切なさは吹っ飛ぶ物語になって、『舞踏会の手帖』によれば女は思い出に生きる者だけれど、現実には男こそ思い出に生きる者だよねって、そういう読み方してくれますかーって話になって、なんかそれでは台無しじゃんって気がしなくも無いんですが、よしんばそういう読み手がいたとしてもそれはそれで、そういう読み方もありですねーで、良いんではないかと…。そんなふうにちょっと思いました。ごめんなさいね、もんじゃさんの意図している所とは違ってしまって。作者のスタンスってところで余計なお世話をだらだらと書いてしまいました。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

(変な時間に、ぼけぼけ洗濯中…)


最新コメでクリックしてしまって、「どこの欄の感想か」分からんまま、
ここの部分(↓)が目に入って、そこだけ読んでしまったんですが・・

(んで、横から唐突に ぶつくさ言って、すまんこってす)



>今でもメーテルリンクの『青い鳥』が上演されているのかどうか知らないのですが、作劇術に興味を持っていたりちょっとでも関わった事がある人達はラストの青い鳥が家にいたってオチは出来る限りサラッと描いて、子供達の記憶に残らないようにする事が最も望ましいと教わるんですよね。子供達の記憶に残すように描く所は青い鳥を探す時のワクワク感、その面白さ楽しさだけ。そうすると子供は大人になった時、今度は自分の子供にもその劇を見せたいと思うから。そして大人になって子供を持ってから、子供を連れて『青い鳥』を見に行く。そこで舞台を夢中になって見つめる我が子の輝く横顔を眺め、親になった自分はラストのオチに、ああ、そうだ、青い鳥はここにいる、と実感する。その時、初めてこの作劇は完結する、まことに息の長い物語として習うんですよね。私はそういう思いのこめ方ってのが結構好きなんですよ。


↑ 作劇は知らんし、ワタシは文学部じゃないんで、文学的なことは知らんですし、メーテルリンクの原典を読んだことも・劇を見たこともないんです。
が、心理学の講義で、『青い鳥』には何回か言及されてたんで、猛烈に覚えてることは、

《『青い鳥』の ほんとうのラストを、日本人の9割9分は知らないままだ。》


チルチル・ミチルは、やれやれ〜 と家に帰って来て、そこで「青い鳥」に遭遇する。
こんなところにいたんだ! と歓喜。

↑ 日本版は、「めでたし、めでたし」とここで終わる。
演劇的にはいいフィナーレです。

しかし、原典だと、
きょうだいの喜びも束の間、開け放たれてた窓から、青い鳥は飛び去ってゆく。
「誰かあの青い鳥を知りませんか?」と、観客に向かって問いかけるきょうだい。
で 終幕。


だったと思った。


↑ そういうのが流行った時代があって、
自分的には、原典の方が「まことに示唆的、文学的」だと思う。
(宮沢賢治とか、「こっち系」な感じする)

日本版の「幸福の絶頂で止めとく」が好きな人の気持ちも分かるんですけど〜




洗濯の待機時間だったもんで、よけいごと失礼しました。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

アン・カルネさま

ありがとうございます。

>ラストは「過ぎ去りし夏」ではなく本当は「失われた夏」への献杯なのかなあ

写真の中の男にとっては「失われた夏」で、普遍的な全人類にとっては「過ぎ去りし夏」かと。
盛夏は過ぎ去る、秋になる、若さも煌めきも健康も、そして言語的には矛盾があるけど、永遠、も過ぎ去る。みな死ぬ、消える、滅する。だからこそビールで乾杯、と森高が歌ったのかどうかは知らないけど、今夜ももんじゃは九月のビールで今を祝する所存であります。

>5月の風のビールにかかってくるのなら、その歌詞の世界観とは違うような

はい。五月の風のビールを飲みにゆこう、というフレーズを引いてオマージュしていますが、内容的にはまったくの別物で、あの歌とはなんの関係もありません。九月のビール、って思い付いたとき、あのフレーズが浮かんだんで調子だけ揃えてみた次第。しかし、マジマ氏だっけか、あのギタリストの書く歌詞は好きです。あいみょんや、すなわちスピッツの書く歌詞より好きかも、シンプルだけど、模様が沁みる、捻りすぎてないぶんだけ素朴なんだけど味わい深い。彼の書いた言葉たちは、無意識に潜ってるとき、ふと、サイダーの気泡みたいに浮かび上がってくる。サイダー、って書いて今また浮かび上がってきちゃったのが、彼の書いた『雨上がり』だっけか、の冒頭の歌詞。あと、『手紙』もいいな。

>『賢者の贈り物』

『海のまんま』を書きながらずっと思っていたのが『賢者の贈り物』で、それにまつわる記憶でこんなのがあります。
学生時代に、某女子、あれを読んだ感想として曰く、「前もって相談すればいいのにね!」
わは。
なので、アン・カルネさんのおっしゃりたいこと、よくわかります。

>この作品をある種の喪失感を知っている人達に向けて作っているのだとしたら、そこを受け取る人がそこそこいたらそれはそれでよしとしようというスタンスで良いんじゃないのかな

そう思います。
でも、ここは市井ではなく鍛練場なので……、

>僭越に書いてしまうのは、なんとなく読み手の力量を試しているようなところがあるように思えて

ご指摘のような側面が、この作品には多分にあります。
恩返し。
『海のまんま』では、読み手に、たくさんを与えていただきました。
この書き手は受け手に徹して、ご指摘を参考に、当該作品を、かつ自らの筆を鍛えようと意図いたしました。
みなさまからのご指摘に照らされて、とりわけアン・カルネさんからの具体的なご指摘にも照らされまして、あれはいくらかなりともマシなものになれたし、この筆も多くを学ばせていただきました。
拙作は、真逆です。
それこそ「僭越ではありますが」与えるつもりで描きました。
自分のためではなく、書き手たらむと欲して筆を持つ同士のために、及ばずながらも、提起し得るものを提起してみたい、というモチベーションで書いてみた次第です。車椅子の話や、タイ料理屋の話のような習作でもありません。
ご指摘に照らされ何かを学ぼうとするのが『海のまんま』なら、逆に、各自の作品の書き手でもある読み手に、リズールへの招待状を送らむとしたためさせていただいたのが拙作であります。
ありますれば、解説もいたします。
守るものはないので、弁解、ではなく、解説、であります、鍛練場なので。
プライベートで、「表現探求所(ひょうたん)」なるワークショップを主催しています。コロナで開店休業に追い込まれつつありますが、そこでは、模様や、角度や、あうふへーべんを中心に、ゲーム感覚で表現なるものをレクチャーさせていただいているんですけど、それを体験した受講者は、驚くほどすばらしいポエムを書けるようになるんですよ、マジっす、掛け値なしで。だから、小説書きであるこの場のみなさまにも、水面下の模様の表し方について、「僭越ながら」こちらから提供できますものがあれば、と、今回の投稿に及んだ次第です。
ほんと、『海のまんま』のときの恩返しのつもりであります。
要らん、と、感じる方はスルーしていただければ不快を回避できるかと思われますので。

ともあれ、ご意見、参考にさせていただきます。

読んでくださり、ありがとうございました。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

10月はたそがれの国さま

それ、ここに書かないでください。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

もんじゃ様

拝読しました。

わかったことといえば、主体がありそうでない語りってことと、神視点と一人称視点の重ね合わせ視点ってことぐらい?

>その日のダイブは切り上げた。仲間と別れてダイバーは真っ赤なピックアップ
>トラックのハンドルを握った。
という表現が一番わかりやすいかもですね。一人称っぽいところから三人称っぽいところに移動しているから。それに、ここの「ダイバー」は三人称個別視点(言葉がわからない、一人称によった三人称という意味です)と三人称神視点のどちらともとれる、絶妙なニュアンスで書かれていますね。
全体的に、一人称による時は、主語が割愛されている。
身もふたもない言い方をすると、思い出話の人称不在って感じかなー。
この作品の構造を見るに、メタ視点。つまり、ダイバーがコンパクトカメラの中のデータを展開して、スライドショー追体験しているってことを、読み手に追体験させるマトリョーシカスライドショー追体験視点になっているってことなんだと思いました。

気になった表現
>そんな世界
俯瞰しているわりに妙に一人称的なのは意図だろうからいいとして、世界って言葉の風呂敷の広げ方に違和感

>白いカモメも写っていた。裕次郎灯台も写っていた。
あざとい。

>破裂したような笑顔
破裂したような、って書かれると違和感。破顔ってことなんだろうけど。

>「九月のビールを飲みにゆこう」
この一言のためにあった作品なんだろうなって思った。全体的にCMっぽい印象。無音映像のカットアップの後、台詞が一言だけ入るみたいな感じで。

> HAPPY BIRTHDAY RIKAKO 24th
は記録が、花開くようにいままさに開かれた、といった瞬間をふわりと切り取る風情でいいと思った反面、「九月のビールを飲みにゆこう」の威力を減じているので、全体としては蛇足になった印象。

追伸。
「海のまんま」について、あの長いやりとりのあと、頭が冷え、わりわいニュートラルな状態で、「海のまんま」の冒頭と最終段落を改めて読んだのですけど、特に、冒頭が、件のメタメッセージ(話の中のうそのお話)を知らしめるほどの機能を有しているかどうかについては、まだ議論の余地があるなと思いました。
 第一に短すぎる。第二に短いことで作られる印象が予期せぬ方向に働いている。つまり短いってことそれ自体が、とってつけた感につながったり、さもなくば、ウルトラ意味深につながるってことで、そのベクトルはゼロか、語りの中身に向いちゃうから、制御性のよろしくない状態にあるのではないかということ。
 第三に象徴表現や比喩から匂いたつものが強すぎて、気づきを阻害するところはあるかも。外と内とで、構造のコントラストはあっても、印象のコントラストはあまりないというかそんな感じで。実はこれ話は逆で、象徴や意味で「外」を示せないからこそ、構造にコントラストをつけたという意図は理解していますけれども、まあ、とりあえず書くだけ書かせてください。例えば、これは僕の青春時代のお話だ。 という一文があったとして、これは外の視点であることは示せても、語られるお話のうそ・ほんとまでは宣言できない。あの作品の場合は逆で。クラゲとプラスティックの指輪という言葉が利きすぎていて、言外の情報過多ではっきりしない。おそらくは、最後まで読んで、冒頭を読んで戻って二週目の冒頭を読んで、閉じたループを眺めて気づいて、はいおしまいってことなんだろうから、この指摘にどこまで意味があるかはわからんけど。
 余談の余談。いまさらですけど、プラスティックの指輪がダブルミーニングになっているって気づきました。プラスティックの指輪は等身大の彼でほんものの気持ち。でも、プラスティックの指輪はにせものの指輪だ。
 第四に、「野良猫のような」という比喩があるけど、雰囲気づくりのための印象付けにしか思えなくて、雑音だなあと思った。キーワード以外は、思い切って竹を割ったような大雑把というか独特の繊細さをある程度殺して書くといいんじゃないか思いました。もちろん、最後の段落とのバランスは考えないといけないとは思うけれど。追伸の方が長くなりました。

13hPaブロでしょ
KD111239114119.au-net.ne.jp

だっさ。


ポエムで全て納得。
もうきみは小次郎への道をひた走るんだね。

まあ、そんな気はしてたんだけども。



ご愁傷様さまふんどし。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

とにかく、日本語がひどすぎる。

序盤見ただけでも、相当なゴミっぷり。


昔の職業病で「赤入れしまくりたくて堪らん」状態だから、、、

【最も編集者に嫌われる文章】だってのが、唯一確かなことだ。



かつての上司:仕事きっちり副編集長(中上健次読者だった人)が、
赫怒し、唾棄し、「ああー! もうっ!!」と叫ばずにはいらんなくなってるのが ありあり眼前に浮かんで、
往時のままの若さの幻想の副編集長を、「まあまあ」と宥めた。



精神衛生上よくない、何の利益もない、正真正銘の「駄文章」だから、

こういうのは「見ない」「全力で逃げる」のが一番。




文章が壊れるにもほどがあって、

これはもともと「こう」なんだろう。

日本語おかしい。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

この駄文章の 元ネタ・・




□ 台湾東部の宜蘭(イーラン)県の海岸で、地元の小学生らが今月27日に拾ったデジタルカメラが、約200キロ離れた沖縄・石垣島の海で2015年夏、日本人旅行者が紛失したものだとわかった。手がかりとなったのは、防水ケースに守られ、浸水せずにカメラに保存されていた約1千枚の写真。カメラは2年以上、太平洋を漂っていたとみられる。

 カメラを拾ったのは、同県蘇澳(スーアオ)地区の岳明小学校の何兆恩さん(11)ら児童たち。27日朝に近くの海岸を掃除した際、貝や海藻に覆われた防水ケースが浜辺に落ちていた。中のカメラは無事で、バッテリーも生きていた。持ち帰って調べると、石垣島の商店街の風景や、日本人らしい若者がダイビングを楽しむ様子が記録されていた。
 学校は石垣島を訪れた日本人観光客が潜水中にカメラを落としたのだろうとみて、中国語と日本語のメッセージと共に保存写真をフェイスブックに掲載。情報は1万件以上転載された。28日、東京の・・大3年、椿原・・さん(21)からの連絡で持ち主と確認。椿原さんはフェイスブックを見た友人から聞いてカメラの発見を知ったという。朝日新聞の取材に「カメラを受け取りに行き、児童にお礼を伝えたい」と話した。
 石垣島と台湾の間では、海流が南から北へ流れる。直線距離は東から西へ200キロ余りだが、実際の漂流ルートは分からない。同小の李公元教諭(45)は「カメラが流れ着いて、写真が残っていたのにも驚いたが、ネットを通じて日本の持ち主がすぐに見つかったのもすごい。女性にカメラを返したい」と話している。(宜蘭=西本秀) □




元ネタで肝心(大事な)ところは、

>防水ケースに守られ、浸水せずにカメラに保存されていた

だから!!

もんじゃ
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アリアドネの糸さま

ありがとうございます。

>主体がありそうでない語りってことと、神視点と一人称視点の重ね合わせ視点ってこと

はい。秋の高い空、みたいな、そういう高みに視点があって、視点はそこから、一人間たるダイバー個人(と同時にモータルな存在である人間一般)を見詰めてる、みたいなことでありますので、ダイバーを「君」に置き換えたところでこれは二人称ではなく、一人称よりの三人称神視点、っていうのが、むりやりカテゴライズするなら正しいんじゃないかと思われますな。

>気になった表現

参考にさせていただきます。

>追伸

参考にさせていただきます。

>最後まで読んで、冒頭を読んで戻って二週目の冒頭を読んで、閉じたループを眺めて気づいて、はいおしまいってことなんだろう

意図としては、閉じたいとまでは思ってなくて、シンプルに二回読んでほしい、と。エンディングを読んで、無理矢理にでもプロローグに戻されて、過去のすべてのあらましを知ったのちの、つまり一人称の「俺」により重なりうるさまになった上での読み手として、プラスティックの指輪やらクラゲやらを意識しながら、「過去を振り返るように」あれを再読してもらいたいというループでありました。
プロローグ→本文→エピローグ→プロローグでおしまいじゃなくて、プロローグ→本文→エピローグ→プロローグ→本文……と、少なくとも三十歳の認識を得た上で十五歳を再読してほしかったのであります。だからまあ閉じた円環というまでのことは意図していませんでした。

>プラスティックの指輪がダブルミーニングになっているって気づきました。プラスティックの指輪は等身大の彼でほんものの気持ち。でも、プラスティックの指輪はにせものの指輪だ。

なるほど。アリアドネの糸さんらしく、言葉を見詰めたご指摘でありますね、深いですな。
プラスティックリングは、普通に考えるなら、いわゆるニセモノでありますが、あの作品内の文脈によれば、ほんとうのホンモノってことになるかと思われます。

>「野良猫のような」という比喩があるけど、雰囲気づくりのための印象付けにしか思えなくて、雑音だな

ではなくて。
猫は、
一、プロローグで家出娘を形容
二、海にくだる道でリアルな猫
三、そのとき背後からニャーオと礼奈
四、幾ら? と訊かれたときの家出娘の表情
五、窓のないホテルで、綺麗だ、と言われたときの家出娘の表情と仕草
六、ニャーオと、礼奈の出現を予感させるホテル内でのこだま
……でありますから、あの駄作の中で、わりと重要なポジションを担っておりまして、「雰囲気づくりのための印象づけ」でも「雑音」でもなく、共鳴し合う言葉をみつけたくニャーオしますところの、大事な単語なのでありました、この書き手の目論見におきましては。

読んでくださり、ありがとうございました。

もんじゃ
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13hPaブロでしょさま

二回目なんでちょっとだけ、いささかキャラめかして向き合ってさしあげますけど……、

キライ!

って睨んでさまになるのは、せいぜい十六、七の少女までで、劇中の少女のありさまでそれを表現するなら「せまいおんなのいたましい叫びをあらわしました」的な作品になり、そのピュアネスさは「昔いじめられてました」的な読み手の友かなんかになりうるのかもしれないけれど、感想欄や5ちゃんねるで、いい年したおばちゃんがそれやっちゃうと、単なるいたいたしいだけの輩だし(三島の『弱法師』かっつの、愛されたいの?)、そういうんだと社会に居場所がないだろな、って思うし、小説とは~なんだとあたしは確信してます! みたいな主観の断言により、根拠も背景(五反田あたりの女王か?)もなくただ勢いだけでハッタリかましても、ひたすらもう哀しくもいたいたしくしか見えなくて(そのいたさを「わかってもらいたくて」懸命なの? でもそれやってかわいいのはマジ十七くらいまでで、残念ながらおばさんはかわいくないです、いたいだけです)、相手にしたくなんかないけど、台風どころかほとんど公害なんで、そういうのは作品の外じゃなくて作品の内でキャラに語らせてくださいね?

もんじゃはね、読む人の鏡になるだけの孤点なんですよ、だからグンちゃんがね、もんじゃに読んでるそれはマジ自分自身のありさまなんですよ?

世界に甘えないでください。

もう少女じゃないんだから。

もんじゃ
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10月はたそがれの国さま

どこの社のもんじゃい!?

5150
5.102.2.172

拝読しました。

もんじゃさんの作品で海&ダイバーとくれば、と思ったのですが、読んでみると案外ダイバーや海にはあまり引っかかることがなかったです。

むしろ、

>ヒトデやナマコや、イソギンチャクと違ってそれは言うまでもなく人工物で、海の中においては明らかな異物で、もっと感情を込めて形容するなら排除すべきゴミだった。

私的にはこの文から引っかかっていきました。人工物、もっと感情を込めて、みたいな言葉の選択からです。

視点というより、時間の経過、みたいなことを思いながら読んでいました。何が起こったのか、ダイバーと出来事がリンクするのか、みたいな筋ではありましたが、そのあたりはあまり印象には残りませんでした。ダイバーの行動が書かれているけど感情は隠されていますね。

>ビニールの上、貝殻のように、沈黙で何かを語りながらそれはあった。
>かつてはカメラであったところのそれ。世界を見詰め続けていたレンズ。光景を切り取り続けていたシャッター。
>画面から目を逸らしてダイバーは、サッシの向こうの高い空を見上げ、サザンビーチを見下ろし、耳を澄ませて波の音を聞き取ろうとしたが、波の音はおろか、もう蝉の声も聞こえず、今や世界は写真の中にしかないように思われた。

なんかやたらと時間を思わせるんです。一瞬が永遠だ、みたいな歌の歌詞によくあるような。

>カメラの持ち主なのであろうリカコを思いながら

から終わりまでの部分が、これまた微妙な終わり方。

>レースのカーテンが膨らむ気配に目を開けると、風が、リビングの隅に配置したアレカヤシの葉を音もなく、ただ揺らしていた。

特にこの部分、前の文を受けてダイバーの感情がそのまま書かれていてもおかしくないけれど、この文に託している。

>「九月のビールを飲みにゆこう」

についてはよくわからず、なんか村上的だなと思ったくらいでした。

>サッシの向こうで空は飽くまでも高かった。

最後でこれ、冒頭の文をつい見返しました。というのも、冒頭の、>季節は夏の終わりだったから空は高かった。変だなあと思っていた表現ですが、ここ繋がっているのかな、と。

ダイバーの感情と、時間、瞬間、そんなことを考えた御作でした。

もんじゃ
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10月はたそがれの国さま

あれ?
また来てました?

またしてもいつもの知ったかぶりと決め付けですか?

>>防水ケースに守られ、浸水せずにカメラに保存されていた
だから!

実話ベースって、狙い、に書いたでしょう?

元ネタはね、一昨日だったかのdairybreakですよ、

https://www.dailybreak.co/ja/158815?utm_source=pop&utm_campaign=60cf43e70fc10c0b3648ffc9&utm_medium=referral&utm_term=www.tokai-tv.com

防水ケースになんて守られてなくても、SDHCカードは生還し得るんですよ?

ま、元ネタと拙作じゃ内容がまるで異なりますけど、水没して数年したカメラの内からでもデータカードは、防水ケースなんてなくてもサルベージできるんだって裏は取れてるんです。

それにしてもだ、あちこちで目にするけど、その読み方(作品そのものを読まないで、足を引っ張れそうな粗を探してネットで事案を検索しまくる、みたいな)、不毛でしょ?

時間もかかるだろうし、誰も得しないし、そちらさまの単なるハッタリマウンティングにしか資すらないもののためにエネルギー使うなんて馬鹿馬鹿しいじゃないですか?

自分の作品書いて、みなさんの感想に照らしていただいたほうが有意義なんじゃ?

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

5150さま

ありがとうございます。

ダイバーの感情はあまり書かなかったつもりだけど、

時間

については、めちゃめちゃ描きましたつもりでありまして。

そのとおりでありますね、時なんでありますね、過ぎ去りゆくものは。

>>レースのカーテンが膨らむ気配に目を開けると、風が、リビングの隅に配置したアレカヤシの葉を音もなく、ただ揺らしていた。
特にこの部分、前の文を受けてダイバーの感情がそのまま書かれていてもおかしくないけれど、この文に託している。

はい。風、に託してます。高い空、秋の風、音もなくただ揺らされたアレカヤシの葉っぱ。
風が伝えたのはね、たぶん、時の経過、すなわち宇宙の曼陀羅、つまり季節のうつりかわりであります、『ある日のアウトライン』のテーマとおんなじであります。
有るものは、うつろい、きえる。しかし、また、うつろい、しょうじて、うつろいつづけるのである。世界のなりたち。
「有限性」みたいなものを表したかったんだけど、それをやると僕らは、どうしたって無限を思う。
柵があるから自由があるんだ、って囚人の話を拝読して感じたんですけど、それに似てて、有限だからこそ、無限を思えるんですね。
そこに切なさがある。
夏がゆくと淋しいじゃないですか、九月の高い空を見上げながら今も思うんですけど、こうして生きてて、夏が過ぎるように、人生は過ぎてゆくわけで、夏の終わりの寂しさは、九月のビールで紛らわす吉田拓郎らいくな気分でありますよ。うつろいゆくよなあ、若かりし輝きも、輝かしきときめきも。それは悪いことじゃありません。ビールで乾杯。

>>「九月のビールを飲みにゆこう」
についてはよくわからず、なんか村上的だなと思ったくらいでした。

上で書かせていただいたとおりであります。うつろいに従容として、深く瞑り、九月に乾杯。

>>サッシの向こうで空は飽くまでも高かった。
最後でこれ、冒頭の文をつい見返しました。

はい。高い空のもとダイバーは潜って、過ぎ去りし夏をサルベージして部屋に帰り、大事にそれを開けて、輝きを目の当たりにして、ふたたび高い空のもと、すべてを受け止めビールで乾杯。空の高さは変わってないんです。

>時間、瞬間

そうですね、うつろいゆく時間は有限だけど、刹那は無限なのかもしれませんね。
だから僕は、たぶん来週半ばくらいまでにはブログに書くけど、あることを企画しているのです。
拙作は、その企画のピュアネスさにすごく親和的な話なんでありました。

読んでくださり、ありがとうございました。

13hPaブロでしょ
KD111239114119.au-net.ne.jp

おいもんじゃ。


素朴なちんちくりんがあたしなんか構ってないで突き抜けたm.sさんにちゃんとつっ込めって突っかけてるよ。
馬鹿にされてるよ?

引っ掻きまわす力あるとこういうことも起こるよね、おもしろいね腹の中引っ張り出しちまうね。


張り切って行ってこいポエム編集長

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

13hPaブロでしょさま

さん、くれろ?(ペコ)

13hPaブロでしょ
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くれるくれる。

行くのか。(獅童)

もんじゃ
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13hPaブロでしょさま

もう絡まんでシーユー。

13hPaブロでしょ
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ちんちくりんの図星かよルーザー

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

四回目、五回目かな? なんで再び、いささかキャラめかして向き合ってさしあげますけど……、

キライ!

って睨んでさまになるのは、せいぜい十六、七の少女までで、劇中の少女のありさまでそれを表現するなら「せまいおんなのいたましい叫びをあらわしました」的な作品になり、そのピュアネスさは「昔いじめられてました」的な読み手の友かなんかになりうるのかもしれないけれど、感想欄や5ちゃんねるで、いい年したおばちゃんがそれやっちゃうと、単なるいたいたしいだけの輩だし(三島の『弱法師』かっつの、愛されたいの?)、そういうんだと社会に居場所がないだろな、って思うし、小説とは~なんだとあたしは確信してます! みたいな主観の断言により、根拠も背景(五反田あたりの女王か?)もなくただ勢いだけでハッタリかましても、ひたすらもう哀しくもいたいたしくしか見えなくて(そのいたさを「わかってもらいたくて」懸命なの? でもそれやってかわいいのはマジ十七くらいまでで、残念ながらおばさんはかわいくないです、いたいだけです)、相手にしたくなんかないけど、台風どころかほとんど公害なんで、そういうのは作品の外じゃなくて作品の内でキャラに語らせてくださいね?

もんじゃはね、読む人の鏡になるだけの孤点なんですよ、だからグンちゃんがね、もんじゃに読んでるそれはマジ自分自身のありさまなんですよ?

世界に甘えないでください。

もう少女じゃないんだから。

13hPa
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こわ、何言ってんの

情緒不安定なの

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

また、なんか書いてるな。

じゃ、あと一回だけ、ぐんちゃんの土俵にあがったげるよ?

ぐんちゃんのいいとこはね、人並みの日本語が書けること(スタートラインだよね?)と、じゃないか、とか涙目で繰り返しちゃういたいけな一人称、そんだけ。

感想文もさ、論理的じゃなくて、感情爆裂なだけで、単なる悪口じゃん、頭悪いよね?

だから、どんなとこから、どんなギャラで、どんな頁もらってんのか知らないけど、もんじゃ的には、ぐんちゃん的にいうなら、需要ないから。

なので、もう来ないでね?
以上です。

森嶋
om126156151187.26.openmobile.ne.jp

文章自体はかなり読みやすく、すんなりと情景が想像できました。
でも結局のところ何が言いたいのか分からないまま終わってしまって残念でした。
尻切れトンボみたいな話だなと思ってしまいました。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

森嶋さま

ありがとうございます。

わかられまい、と思ってではなく、わかられたい、と思って表したつもりなのですが、わかっていただけなくて残念です、表現力が未熟なのでありますね、精進いたします。

読んでくださり、ありがとうございました。

たまゆら
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シンプルで、それでいてありありと情景が浮かぶ良作だと思います。ただ読み終えて、読み手と作中の主人公(書き手ではない)に隔たりを感じたのも事実でした。
 
久しぶりです。雑事に追われて創作から離れていたので、的外れな感想でしたらごめんなさい。
 
>画面から目を逸らしてダイバーは、サッシの向こうの高い空を見上げ、サザンビーチを見下ろし、耳を澄ませて波の音を聞き取ろうとしたが、波の音はおろか、もう蝉の声も聞こえず、今や世界は写真の中にしかないように思われた。
・どうして、そこまで主人公は写真に魅入られたのでしょう。普通じゃないよね。
また主人公はどんな男なのでしょうか。被写体の男を見て若いと思うのだから、たぶん三十代だとは思いますが背景のヒントをほしいところです。というのも、写真の女性と何のかかわりもない単なるダイバーであれば「九月のビールを飲みにゆこう」は、あまり意味のないように思えるからです。
もしそうであれば、読んで感じたものが裏切られたかもしれません。
 
>カメラの持ち主なのであろうリカコを思いながら~~
・ここもそうですね。関わりがなければ、動くこともできなくなる心境を読み手は理解できません。だから想像の余地(手助け)が必要かと。
 
>ダイバーは友人に電話を掛けた。そして晴れ晴れとした声を、おそらくは作ってこんなふうに誘った。
・晴れ晴れとした声をつくろってまで飲みたくなる心境を、勝手に想像して共感できるけど、相手しだいかな。
友人では消化不良、はっと思わせる欠片を見せてほしかったです。
 
やはり創作から離れると感想も的外れですね。失礼しました。

もんじゃ
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たまゆらさま

ありがとうございます。

>また主人公はどんな男なのでしょうか。被写体の男を見て若いと思うのだから、たぶん三十代だとは思いますが背景のヒントをほしいところです。というのも、写真の女性と何のかかわりもない単なるダイバーであれば「九月のビールを飲みにゆこう」は、あまり意味のないように思えるからです。

ダイバーを、一個人のように読む人が「違和を感じて」、ダイバーとは誰か、つまりは何者か、なんのメタファなのかを感じてほしく意図いたしました、がために、ダイバーなる主体の背景はブランクなのであります。

>>カメラの持ち主なのであろうリカコを思いながら~~
・ここもそうですね。関わりがなければ、動くこともできなくなる心境を読み手は理解できません。だから想像の余地(手助け)が必要かと。

リカコは白いクルーザーに乗っていた。その日最後の写真はバースデーケーキだった。カメラは海底からサルベージされた。以上の事実から匂い立ってしまうのは、死、であります。
ダイバーという主体は、死、というものに、一存在として関係している。たまゆらさんも、もんじゃも、メメントしてる人もしてない人も、すべての、時の流れの中に存する存在は、滅、に関連している。
だからダイバーは、かつて有り、今は無い存在に、のっぴきならなく関与するのであります。

>>ダイバーは友人に電話を掛けた。そして晴れ晴れとした声を、おそらくは作ってこんなふうに誘った。
・晴れ晴れとした声をつくろってまで飲みたくなる心境を、勝手に想像して共感できるけど、相手しだいかな。
友人では消化不良、はっと思わせる欠片を見せてほしかったです。

友人、というのもメタファであります。特定の誰かである必要は皆無です。
重要なのは、九月です。夏過ぎ去りしあとの、今、であります。

>やはり創作から離れると感想も的外れですね。

的外れではないと思います。
水深二メートルの言葉だけを追うなら、そのような読まれ方にしか、拙作はならないと思われます。
水深二百メートルの地形を読んで初めて、言葉たちの相関が、万人にとっての、のっぴきならない絵として、つまりは、ひとごとではなくじぶんごととして、あかあかと浮かび上がってくるのだと思われます。
そのように、書き手は思う、ということでありますが。
拙作は、ダイバーに向けたinvitationであります。

読んでくださり、ありがとうございました。

たまゆら
p1817002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

再訪させて頂きました。
 
>ダイバーを、一個人のように読む人が「違和を感じて」、ダイバーとは誰か、つまりは何者か、なんのメタファなのかを感じてほしく意図いたしました、がために、ダイバーなる主体の背景はブランクなのであります。
・メタファーとして捉えなかった私が想像したのも、別の意味でのブランクでした。
水深二メートルの読解力しかありませんが、想像したものを書かせてもらいますね。たぶんこの作品を読んだ多くの人が同じように思ってしまったかもしれませんので。
 
>その日のダイブは切り上げた。仲間と別れてダイバーは、真っ赤なピックアップトラックのハンドルを握った。
・海底で見つけたカメラはもんじゃさん的には偶然でいいんですよね。私は五年間探し続けたと捉えていました。ですので目的を果たしたからダイブを切り上げたと。
つまり被写体の男は五年前の自分。女性は新しい局面に踏みだせない恋人。二人の間に存在するのは五年間のとまった時間。小さな行き違いがあって、思い出のカメラを主人公は海に投げすてたのです。
 
>リカコは白いクルーザーに乗っていた。その日最後の写真はバースデーケーキだった。カメラは海底からサルベージされた。以上の事実から匂い立ってしまうのは、死、であります。
・二人が死んだとは読みながら考えました。でも海底にはカメラしかなかったので即座に否定しました。沈没したのであれば他にもいろいろ残されていますよね。カメラだけが都合よく落ちているのは不自然だと思ったのです。おそらくサルベージした後にカメラだけが残されたとは思うんですが、そこまでは考えつきませんでした(これも想像で実際は違うと思いますが)。
でもダイバーの、かつて有り、今は無い存在に、のっぴきならなく関与する気持ちも共感できます。
 
>友人、というのもメタファであります。特定の誰かである必要は皆無です。
重要なのは、九月です。夏過ぎ去りしあとの、今、であります。
・メタファーとして捉えず、物語として捉えた私は電話の相手をリカコにしました。後半はそのように誘導しているようにも思えたので。とうぜん九月が夏の終わりということも踏まえ、新たなるステージとして想像しました。行き違いも解決し、残るはカメラの回収だけだったから。
 
まさに読解力のない読み手の暴走ですね。

もんじゃ
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たまゆらさま

ありがとうございます。

読み手は読みたいものを読むわけで、読解なんてしないでいいし、読めるがままに読めばよいと思いますが、たまゆらさんの読み方だと、あちこちに ? が浮かんで気持ちよくないと思うのですよ。作品内の言葉の配置がことごとくその読み方を妨害してくるのではないかと?

たまゆらさんは、物語に連れ去られ、みたいなことをよく書かれていたから、読みたい物語を、テキストの配置の中に探しながら読むタイプの読み手なのかもしれない。しかし、もんじゃの理解によるなら、真の意味での「物語」とは、多分にユング的な枠組みにおいてでありますが、すなわちメタフォリカルな配置であります。物語とは、筋ではないし、展開でもない。よく、オチを求めて話を読む方がおられるのだけど、落語じゃないんでオチは必須じゃない、とは三田誠広が小説について講義した言葉でありまして、同様にお話には、たまゆらさんが、連れ去られる、という言葉で形容されておられるところのあちら側の世界が必須なわけでもない、ようにもんじゃは思います。いろんな読み方があってよいわけだけど、テキストに表れてないことを読み手は読んでも構わないのだけれど、表現は、時代の変遷により、ときどきのブームに影響されながら、いろんなかたちをとるけど、百年たっても、千年たっても、言葉の配置が、つまり象徴的な記号であるところの言葉と、また別の象徴的な記号であるところの言葉との関係性が紡ぐ模様は、これ、変わらないわけで、いろんな読み方に晒されながらも、ウソのない模様は、いつか読み手の人生のあるタイミングで、あるいは人々が時を経たあとでのあるタイミングで、海中のカメラのごとくにサルベージされるものであろうとこの書き手は思っています。だから表層を読んだだけでも楽しめる話で(拙作はそうなれていないわけだけれど)、かつ潜ったら「それ」が見える話を書けるようになれたらな、といつも思っています。

>でも海底にはカメラしかなかったので即座に否定しました

海流があるから。だからばらばらになってしまう。五年も経ったらはぐれてしまう。
ともあれ、ボートが沈んだ、とか、リカコとそのボーイフレンドが、死んだ、とか、これは匂いだけで、そうだとは書かれていないので断定できないから断定すべきでもなく、かもな、という気配のみを感じながら、ふざけて落としたカメラ、という可能性も当然視野に入れながら、消えた命ではなく、消えた夏、と相似的に配置を認識し、さらには、秋に照らされることにより、消えた夏、ではなく、過ぎ去りし夏、と読むのがたぶん流れで、夏のように過ぎたそれなら、また巡り来るわけです、月が太ったり痩せたりするように、それは、祈り、のようなものでもあり、だからビールで乾杯、よいことでもわるいことでもないのだから、それが人間を含む存在、てなありさまを高みから見詰めてくれてるかのよな高い空、みたいに読むのがテキストに抗わない読み方なんじゃないか、と。外からの視線、空からの、海からの。巡り来る季節のただ中、風に吹かれながら「それ」を「ダイバー」は、頭でも、心でも、皮膚感覚でもなく、もっとずっと深いところで○○している。というか、見詰められてただ存在している、というだけのことなのかもしれない。ダイバーは見詰める側じゃなくて、飽くまでも見詰められる側だから。かつてはカメラであったところの物体を見詰めながらダイバーは見詰められている。

つづきます。

もんじゃ
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たまゆらさま

つづきました。

読解力とか、そういう国語のテスト的なことではなく、ニュートラル、という姿勢や、バイアス、という偏り、傾き、染まり、についての言葉に関連するところの趣味性みたいなことが、あるいは読み手のサングラスなのかもしれない。太陽と、自分の死は直視できない(ちょっと改変してますが)。だから色眼鏡を掛けて人は生きがちで、車椅子の少女の習作も、拙作も、筋を探すべくブランクを想像で埋めるのではなく、ブランクをブランクとして認知し、そのブランクを見詰めないと(おそらくは、沈思黙考に似たやり方で)しないと、模様はあぶりでてこないのではないか、と。今回の投稿は、『海のまんま』の投稿とは投稿意図が違うので、読み手と葛藤角や対立角を形成してしまうのは、むしろよいことであり、まっとうなことであるなとこの書き手的には思われます。

テキストそのものを読むのではなく、しばし読み手は、これまでに読んできたさまざまな筋に、目の前のテキストを埋め込みながらそこにはないものを読んでいる、という気がするのですが、これは条件付けであろうかと。ほんとは人は、書物にではなく、人生に「物語」を読んでいて、というか日々生きることが物語で、その物語はいつか終わるから、本は閉じられるから、だから人生の筋を懸命に生きつつ、なお人生を、しかるべき年齢になったら俯瞰して、筋にではなく、模様に、人生模様の全体に、内からでなく外から気付くようになり、すると嫌でも、外、を生きざるを得なくなってくる。拙作の視点は、外、であり、外が見詰めているものは、ダイバー「たち」なんだろうと、書き手でもあるところのこの読み手は思います。

以上のようなことを「解って」いただく必要もないのだけど、拙作を読み終え、あれ? なんかよくわかんないブランクがあるな、と、んー、とか思いながら九月の空を仰いでいただけたら、それで十分伝わるべきは伝わっているし、届くべきも届いている、水深二メートルにだけではなく、水深二百メートルに、たまゆらさんも、もんじゃも、みんなも、誰もがいるのだから。

・視点が不完全
・説明不足
みたいなことを誰かが拙作についてどこかで書いてくださっているのを目にしたけど、視点と主語は当たり前だけど違うし、何人称だなんて便宜的なカテゴライズで話を読んだりするんじゃなくて(そのあたりのことは、執筆の狙いってとこにも書かせていただいていたのだけれど)、テキストをテキストのままに抗わずに読めば、視点がダイバーにないことは明確にわかると思うし、赤ペン先生なる方が伝言板にて拙作を、「説明を加えるかたちで」改稿してくださっていたけど(より「わかりやすく」する必要性をその人は感じたのだと思われます)、それは拙作を拙作とは違う何かに創り直す行為であって、拙作を拙作のままに認知する行為ではないから、つまり読み手が説明を求めて、読み手自身が説明をこさえちゃってる読み方に基づいて拙作を再構成していることに他ならないから、ある種の読者というものは、どうしてもブランクをブランクそのものとして、外を外そのものとして認知したくないようで(そのことで、あるいは少なからず傷付くのかもしれない)、そういうのってのはつまり既存に汚されて、夏にしがみつく蝉の一念にしか思えないのでありますよ、ほにゃららとはこういうものである、あってしかるべき、という思い込み。そうでないと不安になる、何か基盤が壊れる気がする、そういうことなのかもしれない。ゲームにのめり込んでいたいからゲーム盤になんて気付かぬふりをしているのかもしれない。

刹那は永遠かもしれないけど、時は移ろうものであります。変化に柔軟でありたい、生きているのなら。

ご静聴ありがとうございました。

もんじゃ
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地蔵さま

文句なりはこちらでこちらに向かってぶつけないと、わからなさの比較対象にされる作品が気の毒でありましょう?

ショコラ
h175-177-040-032.catv02.itscom.jp

 もんじゃさま
読ませていただきました。 お洒落な掌編ですね。夏の終わり、空はもう秋の気配。そんな日に拾った五年前の夏の思い出、ということでしょうか。
 カメラに残された五年前の男女の恋にきらめく夏も、今年のもしかしたら平凡かもしれないダイビングに明け暮れた夏も消えていく。夏から秋、夢から現実へ向かうような季節感が「9月のビール」でしょうか。
あまりお役に立てることも書けず、ごめんなさい。

13hPaブロでしょ
softbank221022130005.bbtec.net

オチないこともオチの内って当たり前の理解があることには都合フタしてそういう詭弁を平気で吐ける気がしちゃうそもそもの心得の悪さがおまえの文章のちっささなんだし透けまくる汚らしさなの。

ただのケチの引っ込み思案が分不相応に他人舐めてること透けまくってんのにてめえばっか無自覚で見栄張りたがるばっかだから滑稽なんだし魅力ないんだし清々しくないから嫌われんの。

つまんないの。



ユング? めたふぉりかる?


そんなつもりがただのポエム書かせるんでしょ何言ってんのふんどしが

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

ショコラさま

ありがとうございます。

上弦の月や下弦の月について思ってみてください。

ありがとうございました。

もんじゃ
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ぐんちゃん

もう来ないでね、って言ったじゃないですか。

ともあれ、ヘッセも詩人でありましたし、小説なんてもんよりポエムのほうがはるかに偉大だ、って個人的には感じてるんだけど、蛙飛び込む水の音にも「説明」やら「状況設定」やらを求めてしまう甘えんぼさんはお子さまプールであめんぼ泳ぎでもしてたらいいんですよ?

ほんと、もう来ないでね?

13hPa
softbank221022130005.bbtec.net

お前がそう言ってこっち来たの忘れたか馬鹿

フタすんなっつってんのヘタレ詭弁ポエム馬鹿がなめんな

もんじゃ
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13hPaさま

見た。

5150
5.102.2.172

再訪です。

>一人称と三人称についてを十分に考え尽くしたのちにこの視点を採用しています。

狙いについて本作を読む前に目を通してはいたのですが、あまり気にかけていませんでした。冒頭は、えっ、という感じがしたので何度か読み返してみてそれから最後まで読み進めました。実は作者の狙い欄について、私はほとんど気にかけずに読んでしまうタイプです。クイズごっこみたいで嫌なのです。好きなのは、読んでいてこちらから作者さんの狙いを当てることです(いつも外れますが)。まあそれはともかく、視点については前の感想で書かなかったし、他の方の返信で目にしたもので、つい。作者さんがどう考えているのかなということを知りたいというのもあったし。

>季節は夏の終わりだったから空は高かった。

この表現、私はかなり引っかかったところでした。高い、ふむふむ。頭上にある空。

>そんな世界の底にダイバーはいた。仲間たちと一緒に潜っていた。

これが普通にいつどこで何をということをたんに表すものなら、「そんな世界の底に」というのも変だよなと思えました。最初に「高い」があって、「そんな世界の底に」と続く。

>海底の岩場に何かを見付けた。それは四角かった。至近距離からよく観察した。

頭上にあったカメラがスッと下りてくる感じです。

>ヒトデやナマコや、イソギンチャクと違ってそれは言うまでもなく人工物で、海の中においては明らかな異物で、もっと感情を込めて形容するなら排除すべきゴミだった。

「人工物」なんて。わざと置いたようになんか不自然です。逆に、対義語の「自然、天然(合ってますか?)」を思い起こさせます。

>もっと感情を込めて形容するなら排除すべきゴミだった。

ここも曖昧ですよね。すごく引っかかりました。ダイバーの視点にしては、??という感じ。普通に書くなら、もっとシンプルに書いてもいいわけで。

>ビニールの上、貝殻のように、沈黙で何かを語りながらそれはあった。
>かつてはカメラであったところのそれ。世界を見詰め続けていたレンズ。光景を切り取り続けていたシャッター。

で、ここに至って中心はダイバーであるけど、少しずれていますよね、ということが伝わってきました。

冒頭は作者さんが実に注意深く、かつ巧妙な技でもって操作しているのかと思えました。一番最後まで読んでまた読み返すと、かなり確信できました。

映画「2001年宇宙の旅」の猿が骨を投げるシーンあたりの視点を思い浮かべたんですよ。御作とは違いますが、あれもやはり強烈に「時間」を感じさせるシーンでした。あと春先ぐらいでしたか、ごはん投稿作品で、もんじゃさんがかなり惚れ込んでいた作品。タイトル思い出せませんが、天地創造みたいな神の視点を扱ったような(神視点ではなくて)稀有な作品を思い出したんです。筋はまるで思い出せません。

というわけで前半と後半が引っかかりまくった御作なのでした。

もんじゃ
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5150さま

ありがとうございます。

視点については、伝言板の赤ペン先生による改稿ぶん3への赤入れで明かし尽くしてしまいました^^;

ともあれ、時 を書いているってことで間違いないです。カエル人間の話もそうだったし、「彼女」をさがして一つの昼と一つの夜とを旅するロードムービーふうのあれもそうだったし、時というのは、つまり相対的な角度であります。

そういう駄作品群が呟いてるのはいつも同じで、一言でいうなら、今さらなんですけどやはり、

メメント・モリ

しかも、どっちの側でかっていうと、意識と、存在と、時間と、存滅の側でです、命とか、肉体とか、心とか、人間とかの側でじゃなくて。『海のまんま』は命とか肉体とか心とか人間とかを描いている(今のもんじゃ的には鬼っ子であります)ふりして、海に相当するものをやっぱりほんとは書いちゃってるから、そうですね、何をどの深度で書いても結局は同じ模様になっちゃうってことなのかもしれません。

>あと春先ぐらいでしたか、ごはん投稿作品で、もんじゃさんがかなり惚れ込んでいた作品。タイトル思い出せませんが、天地創造みたいな神の視点を扱ったような(神視点ではなくて)稀有な作品を思い出したんです。

ボケかな?
まったく、皆目、なっとあっとおーる、思い出せない、心当たりがない。
惚れ込んでいた?
どなたさまの作品でありましょうか?
天地創造のような……。

ともあれ、今日一段落つきましたんで、明日か明後日くらいにはブログで永遠に関する企てに着手しちゃうんであります~♪

ありがとうございました。

5150
5.102.2.172

赤ペン先生さんのはまったく目を通していないので見てみます。失礼しました。
他者が投稿された作品、確か無意識についての作品だったように思いますが、よく思い出せません。すみません。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

5150さま

思い出しました!
もしかして、森山さんのやつかな?
太陽と男根の話。
違うかな?
あれもまたずいぶんと潜った話だったような……。

5150
5.102.2.172

そうそう、それです。内容はもうまったく覚えていないのですけど。そんな感じでしたね、としか言いようがないですが。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

5150さま

歯ブラシの齢とかも書いてた方ですね、あの方のも、わかんねーって叩かれてたけど^^;もんじゃは好きでした。視点が外にあるとこが確かに拙作と被るかも? めためためたふぉりかるだったし。

ショコラ
h175-177-040-032.catv02.itscom.jp

もんじゃさま


>上弦の月や下弦の月について思ってみてください

 上弦の月は健全な月です。夕方から真夜中まで日々の暮らしと共にあります。下弦の月は切ない月です。真夜中から明け方まで、人々が眠りについているとき、夜空を仰いでいるなんて、きっと心になにかざわめくものがあるのでしょう。
 月について語り合いましたこと、思い出しました。

 そして『異郷に還る』を見つけました。はじめましてではなかったのですね。改めまして、なつかしくも心地よいタッチのご感想、ありがとうございました。

もんじゃ
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ショコラさま

「万物は移ろう。それがさだめだ」――まさに、移ろいました。ともあれ、月は月。鮮やかな一文目に出会し、嬉しかったです。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

もんじゃさま

 書きたいことがあって、再訪しました。視点とか模様とか、そういう構造理解はすでに示したので、さておいて、御作で味わったことをできるだけ率直に書こうと思います。

 燃え尽きたあとの星のようなとりつくしまのなさと、それからその星にかつて存在していたはずのエネルギーの残滓を眺めているようなそんな気持ちになりました。すでに、どのへんが率直やねんて感じですけど、まあ、喩えないと表現できないのでカンベンしてください。続けます。かつての星の住人はいずこかへと旅立った、伽藍の洞にふんだんのヒントを残して。空は高かった、あくまで高かった。かつてダイバーであったのかもしれない空の視点が現ダイバー達に問いかけてくるような、というか、その問いかけだけでできているんじゃないだろうか? このお話。とかそんなふうに感じました。深読みかなあ?
 
 「九月のビールを飲みにゆこう」という言葉のあっけらかんとした前向きさは、作中において、唯一の空のものではなく「君」だけの言葉だったのかもしれないと返信を咀嚼して読み直した後に思いました。「君」であるところのぼくたち(つまりは、読み手)の旅立ちのときはもしかしたら近いのかもしれない。
 「HAPPY BIRTHDAY RIKAKO 24th」
 という言葉もそうなると違う印象を帯びてきます。これはもう記憶じゃなくて記録、風化したあとの情緒。まったき過去のこと。このあたりも死んだ星という感覚を当たり前に強めているのですけれど、それ以上に、記憶が記録になって過去が過去になったとき、もうぼくたちは未来に生きるしかなくなるんじゃないだろうか? とかそういうメッセージがそこに含まれているような気がしました。
 それから、空ってダイバーが目指した方向と逆じゃないですか。海中に潜るダイバーからは見えないはずの空の姿。空の視点でダイバーを見て、ダイバーの視点で海の底を見ている、そういう人称の使い方に思えたのだけれども、じゃあ、ダイバーがくるっと向きを変えて空を見あげたときにどうなるのか? そうして、夏は終わり、秋がやってくるのだ。なんてね。
 
 この作品は相当に構造的だと思うんです。「異郷に還る」とか「海のまんま」でやろうとしたことを、小説的虚構にあるべき物語性とか情緒を排して、しかも意図して、説教くさくやっている。喩えるなら、曼荼羅模様の説法という印象。
 小説的情緒がひとつなぎにならないから、印象が育ちにくい。でも、わかりにくい反面、過保護なまでに構造色のヒントがちりばめられている。色のないレンズで見れば、この作品は、一目瞭然の模様をしているのだろうなっていう予感はあるのですけど、色をつけることで育ってきたのがレンズってやつですから、そうはうまく映らないもので、アリアドネにはそこまでビビットに感じることはできなかった。そのことで、アリアドネのレンズが透明ではないことを自覚してしまって、ちょっぴり、悲しくなってしまった。

 脱線しますけど、経験値って何なのでしょう? って最近リアルでもとみに思います。経験をつめばつむほど、いろいろなことがわかるようになるし、経験豊富な人生の先輩などは尊敬しているのですけど、けど、経験を積んだ人ほど未知を経験に寄せようとするところもあって、よい弟子にはいつもなれない。アリアドネには、ある経験は次の未知を新たに経験するために必要な下ごしらえに過ぎないぐらいに思っていて、それがよくないのかもしれない。過ぎないって書いているけど、だからこそ経験は大事なんです。海から出られないダイバーはダイバーにしかなれない。というかそういうことなのだろうだけど。自己組織化はきたるべきアポトーシスのためにある。細胞は三日でまるっと入れ変わるわけだし。すでにして別人である。偏るってどういうことなのか? その先にあるニュートラルな地平とは? 

 我ながら支離滅裂で妄想爆裂なんですけど、返信を読んで理解しちゃったことも混じっているので、初読じゃなくて二読目の味わいですけど、以上がアリアドネなりの味わい方でした。

もんじゃ
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アリアドネの糸さま

ありがとうございます。

ぐっすり眠ってました。が、妙に早い時間に目覚めてしまい、ベッドの中でごはんを見たら、素晴らしいものをみつけてしまいました。カラスの声を聞きながら以下したためます。

作者が書きたいように書けばいいように、読者は読みたいように読めばいい。一義的な読み方が求められるはずもないし、正しい読み方や間違った読み方があるわけじゃない。

ということを前提にした上で書きますが、アリアドネの糸さんの読み方は、これ以上ないほどに、書き手でもあるこの読み手の読み方に重なっていて、つまりこれはどういうことなのだろう、鏡が、左右反転の世界を、世界そっくりに映すように、読み手が書き手に、百八十度で正対してくださっているさまを感じました。濁りが少ない。ノイズが少ない。映す、ってのは、水面がそうであるように、揺らいでいてはきれいに映せなくて、明鏡止水って言葉があるけど、静かに、ニュートラルに澄んだありさまこそが、向かい合うありさまを明瞭に跳ね返すのだな、と、何かが順行してるさまをひしひしと感じさせていただきました。

>その星にかつて存在していたはずのエネルギーの残滓

>「九月のビールを飲みにゆこう」という言葉のあっけらかんとした前向きさ

>もう記憶じゃなくて記録、風化したあとの情緒

>ぼくたちは未来に生きるしかなくなる

>空ってダイバーが目指した方向と逆じゃないですか

>空の視点でダイバーを見て、ダイバーの視点で海の底を見ている

>ダイバーがくるっと向きを変えて空を見あげたとき

>秋がやってくる

>情緒を排して、しかも意図して、説教くさく
>曼荼羅模様の説法

>過保護なまでに構造色のヒントがちりばめられて

>色のないレンズで見れば、この作品は、一目瞭然の模様をしているのだろう

以上、たくさん引用させていただきましたが、すべてに深く首肯いたします。

添えるべきは、あとせいぜい二つか三つで、拙作はそれ以上でも以下でもなく語り尽くされてしまうだろうと思われます。

二つ三つ語ってみます。

その前に。逆に、そうかな? と感じもいたしました、頂戴いたしましたコメントの終わりの方の、

>海から出られないダイバーはダイバーにしかなれない。というかそういうことなのだろうだけど。自己組織化はきたるべきアポトーシスのためにある。細胞は三日でまるっと入れ変わるわけだし。すでにして別人である。偏るってどういうことなのか? その先にあるニュートラルな地平とは? 

という箇所についてでありますが、

「ダイバー」って何か、っていうと、まさにこれが、先のニ、三にあたるのだけれど、「探求者」だって、もんじゃは思うんですよ。

ダイバー=探求者

空、という視点(↓)は、潜る探求者(↓)を、外から、「肯定的に(というと語弊があるかもだけど)見詰めている」ような気がするんです。

拙作の構造で、もう一つわりと明らかなのは、

空↓ダイバー↓写真の男

って構図だと思うのだけれど、

三者は実に、フェイズの違う「同一存在」なんでありますね。マトリョーシカ大と、マトリョーシカ中と、マトリョーシカ小みたいな。

つづきます。

もんじゃ
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アリアドネの糸さま

つづきました。

だから、ダイバー視点だと、↓だったところのベクトルが、高い空を仰ぎ見る的に、↑に方向転換するみたいな、「スイッチ」が見えるのかもしれないけど、拙作はダイバー視点の話じゃなくて、外からの視点により描かれているから、空↓ダイバー↓写真の男みたいな一方向の眼差しが、強烈な、ノスタルジーみたいな何か(これは『海のまんま』の郷愁にも似た何か)を漂わせてるようにこの読み手には感じられるのであります。これは、全肯定、なんでありますね。いや、肯定でも否定でもなく、包容、によく似た、かつ、親和、にもよく似た認知。含み、含まれる関係性。拙作の最後でダイバーは、確かに空を、九月の高みを仰ぎますが、その視線は、空がダイバーを見詰めております視線に、【圧倒的に含まれて】いるのであります。あくまで、ダイバーは見詰められている。探求し、つまり強烈に求めて生きて(生きるとは抗うことでありますから)いるダイバーを、空は、生きてはいない空は、おそらく、冷たくニュートラルに見下ろしているのではなく、いくらかの切なさをも込めたいとおしさで、いや空には確かにそんな情はないのだけれど、空自体は確かに公平に澄みわたってしまってはいるのだけれど、ダイバーを通して(ダイバーが男を見詰める視点をまさに鏡にして)空はダイバーを、やはり「肯定的に」「包容するように」「親しげに」「懐かしく」「痛切に」見詰めているんじゃないかって、この読み手にはそう思われるのでありました。
しかし、空は、と悲しくも思うのでありますが、あくまでも高い。よくもわるくもなく、あくまでも、空は空だし、海は海だし、拙作には出てこないけど、どっかで出てきたように、月は月だ。

ダイバーの、写真の中の男に対する眼差しは、過ぎ去りし夏への眼差しは、そのまま空の、ダイバーに対する眼差しであり、秋の、夏に対する眼差しであるのだな、ってこの読み手には思われるのでありました。

以上、付け加えて語ってもよいかな、と思えるニ、三でありましたが、あ、あと一つ、これはアリアドネの糸さんも「がらんどう」みたいなニュアンスで言及されていたけど、カメラ。

かつてはカメラであったところの(レンズであり、シャッターであり、機能であったところの)塊。

死を、濃厚に漂わせて、その四角い物体は、海底にあり、ナビゲーターズシートにあり、長テーブルの上にあるのですが、これは何か?

やめときましょうか。

一つくらい開かずの箱があったほうが、説明され尽くされないほうが、箱は箱でいられましょう。

別の作品で、今度は箱を、塊の正体を書いてみたい、と今助平心で思い付いてしまったので、箱は開けずに持ち帰り、リボンなんか巻いちゃってまた別の機会に提示できたら、とか思っちゃいました。ともあれ、星のたとえでしっくりきます。

僕らはね、どうしようもなく生きているんですね。そして死ぬ。

夏の終わりはサザンオールスターズですね。どうしたってそんな感じです。そういう情緒をね、拙作では直接扱わなかった情緒を色濃く漂わせたもので、同じ模様を、また書いてみようと思います。

夏は苛烈に白すぎて、だからとても雪原に似ている。夏はね、夏でありながら、すでに冬を、当たり前なんだけど(天体は精巧な時計だから)内包していて、だから「移ろいゆく」過程は、秋やら春やらは、どうしたって不安定になるわけだけど、そこに情緒が生まれるのでありましょうね。夏の白さや、冬の白さばかりを書いてきたけど、春や秋の情緒を、水彩画みたいなやさしいタッチで描いてみたいって、今この返信を書かせていただきながら思いました、お、七時半だ。

読み直したら、人として、なんかナルな匂いの漂う返信になっちゃってるんで、以下ブランクで語らせていただきます。


















ありがとうございました。

もんじゃ
KD111239164007.au-net.ne.jp

 どなたに対する返信でもなく、拙作の背景を、独り言のように開陳し、しかるがのちにしばらく沈黙する所存であります。


 ――死んだらどうなるのか?

 って幼い頃よく考えてました。

 今思うのは、

 死んだらどうなるのか以前に、そもそも今生きているのか?

 生きているって、そんなふうにこの脳は、感覚器官からの信号をたよりに外部世界を認識しているわけだけど、だとしたら世界とはこれ電気信号に置き換えられているところの何かなわけで、で、電気信号を読み取ることが生きることで、読み取れなくなることが死ぬことなんだろか?

 この脳があろうがなかろうが、機能していようがしていなかろうが、おそらく外部世界はある(有る、存る、在る)のだろうし(当たり前だけど、つまりはポエムな意味でないのなら、または認識論を極端にまで研ぎ澄まさないのであるならば、世界は、脳の内にあるのではなくて、脳の外にあるわけで)、だとしたら、生きていることと死んでいることとの違いは、読み取るか読み取らないかの違いで、つまり視点の置き所の違いで、脳を視点にしないで、世界を視点にするのなら、世界が消えない限りにおいて、「存在」は滅し得ないわけで、世界のむすぼれであるような「この私」という主体がほどけたところで、世界は、特に問題もなく存続し続けるわけで、要は「生きてる」ってのはそれだけのことで、死んだらそうではなくなるのであろうけれども、だからもう一度同じ主語をつかうけど、生きていることと死んでいることとの差は、実は、主体が思うほどに絶対的ではないのかもしれない。

 つまり、変な言い方をしちゃうと、我々は、そもそも生きてなんかいないのかもしれない。世界があるだけで、世界がときにむすぼれるだけで、生きている、だなんてありさまは、かりそめの幻影なのかもしれず、むすぼれていようがいまいが世界は変わらず世界であるわけで、つまり我々とはイコール世界なんでありましょうか、と。

 人間社会が滅びようとも、太陽系が消滅しようとも、世界は消えない、たぶん消えないだろう。世界が消えるだなんてことがあるのだろうか? 想像できる範囲で想像できない。

 僕らがもしも世界なら、むすぼれが生じたりほどけたりすることとは無関係に、ほんとうの僕らは生きたりしないし死んだりもしない。ただ、有り、存り、在り、消えず、有り、存り、在り続けるだけだ。

 人は死ねども、存在は消えず。

 要はやっぱり、視点の問題なのかもしれないな。

 世界はかれこれ有り、存り、在り続けてきたし、今も有る、存る、在るし、今後も有り、存り、在り続けることだろう。

 生きていると生物は、外部環境と常に、いや少なくともたいていの場面において対立的に立ち(つまり、抗うことが生きること)、世界は生物の意識(単細胞生物には意識なんてなかろうというのなら、主体性)において向かい合う他であり、「この視点」すらもがまた世界に含まれるところの「部分」であることを失念し、つまりは錯覚により己を他と誤認しがちなのであるが、本来的には人間(を含む生物――この「生物」を「命」と置き換え得るかはさらなる議論に照らされるべきではあろうけど)は、自然と百八十度に対峙し得る存在なんかではなく、自然と零度で合一(すべきであり、また、どう抗おうとも結局は)しているところの存在なのであろうと、よく考えれば気付かされる。

 僕らは世界から生じた世界の「むすぼれ」であり、それは世界の「鏡」として機能して、しかるがのちにほどける世界の「部分」であるのかもしれない。

(世界とは、だから、たぶん、僕らの無意識だ)

 だとしたら、死ぬとはすなわち、「ほどける」ことである。世界に吸収され、生じる以前と同じように、世界として存続し続けることである、鏡をやめて、正体そのものに帰り、還ることである。器官としての眼に沿って語るなら、見詰めていたものになり、見詰められるところのものになることである。広く感覚器官に沿っていうのなら、能動から受動へのスイッチなのかもしれない。

 平たくいうなら、まんまに戻ることかもしれない。

 むすぼれをほどくこと、これすなわち、仏教的にいうなら、執着(しゅうじゃく)を捨てるということかもしれない。


 以上であります。

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