作家でごはん!鍛練場
素朴な侵略者

分かりやすさという幻想ーその抗い、または寛容へのステップ

 書店に行くなどして書棚から手に取った文庫本、またはこれから読み始めようとする文庫本、または、読み終えた文庫本の裏表紙を覗くと簡単なあらすじが載っていることがある。簡潔で要を得た説明にことさら異を唱える気にもならないが、目を通してみるとどこか据わりの悪い感触が過ぎる。具体的に何が拙いというのでもない。自分が要約を書けばもっとひどいものになるだろうとも思う。それでも漠然とした、半ば無意識下の違和感がどうしても拭えない。あるいは、こういう書評などを書いているとしばしば起こる、言い表そうとしているものと書きかけた言葉とが食い違っているように思える事態を例に挙げてもいい。実感に忠実であることを求めるほど文章としては不自然になり、文として自然であることを取ると書きたかったことから離れてしまう。ジレンマの中で自然な文の方が見映えするとは感じつつ、読みやすさを選びたくない気持ちが拭えない。
 どうやらわかりやすさや読みやすさに反感を抱いているらしいのだが、その理由が自分にも判然としなかった。保坂和志の『読書実録』は、この違和感に輪郭を与え、大袈裟に言えば今後の自分の生き方に一つの指針を示してくれた。


 迂回になるかもしれないが、まず一本の補助線を引きたい。
 今年みすず書房から発刊された『フロイディアン・ステップ』によると、ナルシストの由来であるナルシシズムというのはフロイト出典の言葉だが、フロイト自身は俗に言われるような「自己愛」の意味でこの言葉を使っていないそうだ。精神分析を科学として成立させるために理論の模索をつづけた過程でニュアンスや意味合いはずいぶん揺れ動くのだが、少なくとも自己愛としてのナルシシズムはフロイトの意図に反する用法だ。では本来のナルシシズムとは何なのだろうか。
 統合失調症やメランコリーの患者の体から病理の根をさぐる臨床の場で、フロイトは一つの仮説を立てる。それは人の心的欲動=リビードという概念を措定し、このリビードが量的に増加すると不快、減少すると快になるとした上で、後にナルシス神経症と呼ばれるようになる一連の疾患は、患者が外に向けようとしていたリビードが何らかの原因で遮られ、行き場を失した末、自分自身に回帰したために生じるのだという。リビードが対象を失い、自己の中で自家中毒を起こしているこの状態が「ナルシシズム」の意味なのである。
 この定義を受け、自身も精神分析医である著者の十川幸司は、患者との臨床の場でフロイトの理論を更新する。患者は社会人として優秀に働く生真面目な女性なのだが、治療に際にしてパーソナルな領域に踏み込まれることを避けつづけ、著者を逆撫でするような振る舞いをつづける。進捗のない長いカウンセリングの末、著者はようやく彼女が隠していた領域を聞き出すことに成功する。彼女はいわゆるマゾヒストで、特定の相手を持たずに定期的にSMクラブへ通う習慣の持ち主だったのだ。このことから著者は、これまでの治療で彼女が分析のための対話の場という現実を退け、著者の加虐性を引き出そうとしていたのだと気づく。プレイの道具にされていたのだという戸惑いの中に、著者はこの患者の姿にこそナルシシズムの真の姿が示されていると考える。

「 患者の関心は分析家にも、分析家との関係で起きている事柄にも向かない。患者は分析関係において一人であり、分析家も一人にさせられる。このような関係を、分析家の側から見れば、患者との二者関係はなく、分析家は不在の相手とかかわっているような印象を受ける。このような関係の不在を生み出す病理こそが、ナルシシズムの本質である。
(中略)ナルシシズムの臨床形態は、関係の不在生というだけでは不十分であり、関係の不在性と過度に激しい興奮である。しかもこの興奮が、他者との関係に向かうことはないという点を考えあわせるなら、ナルシシズムは、関係性の切断と関係の外部における興奮と定義するのがより正確であろう。」

 ナルシシズムというのは他者と向き合うことなしに、他者をただ欲望の道具として行使する様を指す。自己愛は関係ない。たとえいっさいの自惚れと無縁だったとしても、人はナルシストであり得る。他者と関係を結ぶことのできない者はおしなべてナルシストなのだ。反対に、一見して暴力的で独善的に映ったとしても、ナルシシズムとは無縁の人もいる。こう言って念頭に置いているのは、『こことそこ』(保坂和志『ハレルヤ』収録)の主人公とも言える登場人物、尾崎である。
 横須賀で暴走族のリーダーをやっていた尾崎と語り手は、映画監督である友人の撮影で知り合った。エキストラに暴走族を使うことになり、それを手配できる男として監督が紹介されたのが尾崎だったのだ。彼とは友達と言えるほど親しくしてきたわけではないが、「今度飲みに行こう」という科白が社交辞令にならない程度にはお互いに好感を抱いていた。還暦を迎えた語り手の元にその尾崎の訃報が届き、かつての映画仲間でお別れの会を開くことになった。
 作中、尾崎の人物像について多くは描かれないが、かつてのフィルムを流してみんなで「若い、若い」と猫のようににゃあにゃあ騒いで明るく送ったというエピソードにそれは如実に表れている。葬式における無類の明るさは社会的には顰蹙を買うような振る舞いだが、だからこそ彼にふさわしいものだったのだろう。

 ところで『こことそこ』では酒井隆史という社会学者からの引用がある。それは『通天閣』の注に著者本人も深く考えずに書きつけた一節なのだが、保坂和志はこの一節を著者以上に重視し、『読書実録』の「スラム篇」と題された章の冒頭にも載せる。

「 この社会の核には「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある。日本近代史のある時点で、統治がうまく活用することを学んだ技法である。」

 『フロイディアン・ステップ』の文脈で読むと、この社会は個人の言葉に対してナルシシズムを揮っている。言葉を統治という社会の欲望を満たすための道具として行使し、メディアや世間の雰囲気といった形で、そこに生きる個人を「人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法」というナルシシティックな暴力に曝しているのである。これはロラン・バルトがドグマと呼んで痛烈に批判した言説でもある(『言語のざわめき』)。世間の顰蹙を買うような華々しさで見送られた『こことそこ』の尾崎は、この社会の「統治の技法」から徹底的に反した人物だったわけである。
 一方、「スラム篇」には「統治の技法」の具体例とも言えるような場面が出てくる。それは語り手と友人との会話に表れるのだが、前後の文脈を含めて抜き書きしてみたい。
 語り手は芸術の無計画さを説いた流れで、戦場ジャーナリストや登山家・冒険家と言われる人たちは安全な場所にいると不安になり、危険な場所にいる方が居心地がいいと語る。彼らの言う「不安」とか「居心地がいい」は、社会に適した言葉・概念がないから、間に合わせに同じ言葉を使っているに過ぎず、それを文字通りに受けとって「統治の技法」に属する言葉で考えても解釈できない。そもそも解釈という行為が彼ら個人の実感を殺して社会に統治するためのシステムなのだ。同じ意味で、カフカの小説もまた、解釈することでカフカの小説ではなくなってしまう。
 これを聞いた友達は、解釈しない読み方に意味があるとは思えないと漏らす。「友達がここで使った「……に意味があるとは思えないし」というこの構文の、既定路線で変更しようがないしする必要もないと感じさせる頑強さはどういう語法の効果なんだろうか」と語り手=保坂和志は呟くのだが、「語法の効果」を「統治の技法」と読み替えればそのまま『通天閣』が現れそうだ。
 最初にふれた裏表紙のあらすじもここで言う解釈と同じものである。対象を小説に限らずとも、解釈とはそれを社会に受け入れられやすい別のものに歪曲する行為なのだ。このことが端的に表れているのが日々目にするメディアのニュースで、あれは事件という出来事を「語法の効果」=「統治の技法」によって飲み込みやすく解釈したものだ。『読書実録』ではパレスチナ問題に焦点を当て、二人の先人を導きにこのことを掘り下げていく。
 まず参照されるのはジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』という作品だ。この作品は『こことそこ』の終盤でも取り上げられており、フェダイーンと呼ばれる若い兵士たちと暴走族の少年たち、中でも尾崎とが重ねて描かれる。というか『こことそこ』はフェダイーンと尾崎とを融合し得るかに全体重がかかっていると言っても過言ではない。
 フェダイーンとは解放戦士とも言われ、イスラエルによる支配からパレスチナを解き放とうと奮闘した兵士のことである。パレスチナ問題で犠牲になった人々でもあり、彼らはイスラエル軍の後ろ盾があったとも言われるキリスト教系の武装集団に襲撃され、女性や子供も含んだ難民キャンプで無差別に能う限りの殺戮を受ける。ジュネの『シャティーラの四時間』はたまたま現場の近くに居合わせたジュネがジャーナリストを装ってシャティーラの難民キャンプに足を踏み入れたルポタージュになる。ジュネは事件以前にも何度かパレスチナを訪れており、残酷極まる事件とそれ以前のパレスチナとを対象的に描く。『読書実録』ではこの作品と、ジュネと同時期にパレスチナへ行った映画監督、若松孝二のインタビュー記事「パレスチナ報告」とをつきあわせる形で参照していく。若松孝二が訪れたのはジャバル・フセインという難民キャンプで、こちらはヨルダンのフセイン国王によって攻撃され、破壊される。
 股引きになるが、若松孝二の言葉をそのまま引用する。
 ただ、こういう状態にあっても、彼らは不思議に明るいんだ。かつてイスラエルに、ちょっと困っているから雨宿りをさせてくれっていうんで軒下を貸してやったら、ここはおれのウチだからお前ら出ていけって、全部乗っ取られて追い出された。その人たちがみじめな状態におかれている、こんなバカな話があるか、これは許せないじゃないか、と僕は思うんだ。日本でできるなら、パレスチナのために何かやりたいという、そんな形でパレスチナとの出会いがある。しかし、彼らは自分たちのこと、みじめだという風には思っていない、燃えているんだ
 保坂和志が強調するのは次の点だ。ジュネも若松孝二も、難民キャンプの人々が悲惨だとは書かない、むしろ彼らの陽気さは不幸を突き抜けていたと証言する、なけなしの食料を老いたフランス人や血気盛んな東洋人に気前よく分け与え、そのことに誇りや喜びを抱く。尾崎のお別れの会が騒々しく楽しかったのと同じように、社会がどう見做そうとも彼らは幸福だった、というか社会における幸/不幸という概念の埒外にいた。
 「パレスチナ報告」には注がついており、編集者が書いたと思われる事実関係を簡潔に表した文が添えられている。ところがこの注からは保坂和志が強調した点がまったく伝わってこない。何が起きたのか把握しづらい若松孝二の言い方と比べて、整理された注の書き方は「わかることで逆に事態は遠くなっていないか」という疑問を抱かさせる。晩年のジュネが受けたインタビューを引用しつつ、保坂和志はこのことをさらに掘り下げていく。
 八三年のインタビューで質問者が「我々はパレスチナの戦闘のニュースがあたり前になってしまったために、現実でなく非現実と感じているように思う、そのことについてあなたはどう思うか?」と言うと、ジュネは、
「むしろ私にしてみれば、すべてを非現実に変えてしまうあなたがた(マスコミ)のことを強調しておきたい。」と答える、「あなたがたがそうするのは、そのほうが受け入れやすくなるからだ。現実のキャンプに本物の手紙を運ぶ女よりも、非現実的な死者、非現実的な虐殺の方が結局は受け入れやすいものだ。」
 この「非現実」という言葉はフィクションと読み換える方がわかりやすい、テレビや新聞の報道は現実を伝えるのではなく現実をフィクションに変える、さっきの注のわかりやすさはそれと関係しているだろう、「わかる」「わかった」と思った途端に現実はフィクションになる、あるいは伝えるという行為が現実をフィクションに変える、
 ここで語られているのは、わかりやすさという「統治の技法」がいかに暴力的に現実を蝕むかということだ。しかもその暴力は人々の死角に溶け込み、自分が暴力に晒されているとは気づかせない。簡潔なわかりやすさをありがたがるような人も出てくる。そうでなくとも、社会の多くの場ではわかりやすさが正義とされている。ジュネも若松孝二も、この意味での正義とは対極にあった人だ。
 特に若松孝二に関しては、今でこそ国際的に評価された実績ある監督だが、若かりし日にはヤクザの下働きをしたり、チンピラの喧嘩に巻き込まれて逮捕されたりしている。テレビ業界で助監督になるも気性の荒さが災いして馘になり、低予算なピンク映画に行かざるを得なくなったという経歴の持ち主でもある。作品は学生運動に邁進する若者から熱烈に支持され、パレスチナの一件から運動家たちと行動を共にしたこともあった。若松孝二という名前は常にどこかアンタッチャブルな響きを纏っていたのである。

「彼らは自分たちのこと、みじめだという風には思っていない、燃えているんだ」
 パレスチナで出会った彼らを明るく燃やしていた火は若松孝二に移り、映画の世界を熱く濃く駆け抜けていく。その様は『止められるか、俺たちを』(監督 白石和彌)という若松孝二の伝記映画で観ることができる。実は公開当時、テアトル新宿で初日舞台挨拶を観に行ったのだが、その日は登壇しなかった主演の門脇麦が、インタビューで若松孝二について「エネルギーの出方がおかしい」とコメントしていた。映画を観るとそのおかしさが体感できる。彼の言葉は徹底して社会の通念から外れ、バルトがいうドグマと闘い、それを壊そうとして止まない。若松孝二に後ろ暗いような、どこかアンタッチャブルな響きがあるのは、彼がピンク映画の監督だったからでも前科があるからでもなく、パレスチナで燃え移ったアナーキズムの火影によるものだろう。「統治の技法」を揺さぶる者には不穏さがつきまとうのである。
 『止められるか、俺たちを』の若松孝二は、東北なまりを隠そうともせず、ことあるごとに金の話をし、スタッフがミスをすれば「おれの視界に入るな!」と罵声を浴びせる。今でいうブラック企業の経営者めいて見えるときもあるが、同時に弱い立場の者を前にすれば一緒に傷を負うように共感し、本気で涙を流し、助けられないかと必死に悩む。仕事や私生活に迷う同僚を見れば不器用ながらも背中を押さずにはいられない。彼はどこまでも人間臭い魅力に溢れている。周囲の者は彼に否応なしに惹きつけられていくが、同じ魅力がやがては彼らを蝕んでいく。その最大の被害者は映画の主人公でもある吉積めぐみだ。若松プロで助監督になった彼女が敬愛する監督の毒にどう侵されていくのか、映画は丹念にその姿を追っていく。
 この映画の台本には、一ページ目に「映画を武器に世界と闘う」という若松孝二の言葉が書かれていたという。彼という存在は「止まるな、戦え」というメッセージを口ではなくその存在そのものから発しているのだ。激動の時代に悩み、疲弊していく周囲の者たちは息も絶え絶えの中で不断にそのメッセージを浴び、ついには彼に反撥するか黙って離れていくかすることになる。人を巻き込み常に人に囲まれている若松孝二の背中がなぜか淋しげに見えるのは、井浦新の名演もさることながら、実際の監督が有していた雰囲気でもあるのだろう。

 映画を観終わると、こういう人と直に接するとはどういうことだろうかと考えずにはいられない。
 「統治の技法」を揺さぶる人は、正しさや良識を気にかけない。その行動はどこまでも破壊的に映り、苛立ちや憤激を抑えるのは難しい。『フロイディアン・ステップ』の著者で精神科医でもある十川幸司がなかなか治療させてくれない患者へ苛立ちを禁じ得なかったように、職業的に感情をコントロールする術に長けた人ですら、時として「統治の技法」を揺さぶるものに不寛容に振る舞ってしまう。「統治の技法」と闘う以上に、そのような人と接することは苛酷な命懸けのことなのである。それは不快で耐え難い経験だ。しかし耐え難きに耐えることが寛容であり、若松孝二でもジャン・ジュネでもない私たちが「統治の技法」に負けない唯一の方法なのである。
 自分に正義があると思うそのときにこそ、ナルシシズムに陥っていないか警戒しなければならない。ジャック・デリダが言うように、正義は事前の確証が一切ない個人的なものでしかあり得ず、他者に対してそれが暴力になり得るという不安の中でしかなされないものなのだ(『法の力』)。寛容であるとはこの不安に曝されることでもあり、自分自身に対して、苛立ちから己れの野蛮さを直視させられるという形で、「統治の技法」とは別種の暴力を行使する姿勢である。
 重い不快に我を忘れそうになる瞬間も少なくない。しかしそういう他者から逃げて常識的な平穏な世界を選んだとき、人として今まで大切にしてきた何かが死んでしまう。寛容でいられる自信はない。暗い瞬間を予期して絶望的になりもする。それでもこういう不安を自分自身に課すことに意味のないはずはないと、誰にともなく言い張りたいのである。そのような姿勢こそが「統治の技法」を揺さぶると信じて。

分かりやすさという幻想ーその抗い、または寛容へのステップ

執筆の狙い

作者 素朴な侵略者
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表題のとおり、分かりやすさというフィクションがつくりだす暴力性への抵抗、または寛容へのステップ。いくつかの書評を絡めてのいささか退屈な論考です。

コメント

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

「いささか退屈」どころじゃないでしょう。
のっけから「おそろしく退屈」な文章の羅列で、たぶん全部見ても『だから何?』だと思う。


書き出しからまず、徹底してゴミである。

>書店に行くなどして書棚から手に取った文庫本、またはこれから読み始めようとする文庫本、または、読み終えた文庫本の裏表紙を覗くと簡単なあらすじが載っていることがある。

↑ 無意味にしつこい上に、日本語がおかしい。
「文庫本の裏表紙を覗く」なんて表現は、普通「しない」し、そもそも間違っている。

文庫の裏表紙=「表四」であり、その表四にあらすじは掲載されない。
あらすじが印刷されるのは「カバー」なので。。




>統合失調症やメランコリーの患者の体から病理の根をさぐる臨床の場で、フロイトは一つの仮説を立てる。それは人の心的欲動=リビードという概念を措定し、

↑ 普通は「リビドー」って書く。
そんで、患者の【体】から病理の根をさぐる???

あと、その時代にはまだ「統合失調」は存在してない呼称なので、
本文中でそれを書く際には、「相応しい記載のしかた」を採るのが一般的じゃないかなー??



とにかく文章の【妙ちきりんな癖】が酷すぎて、、、

これはもう直らんと思うんだが、
「評論調で書くには、それ相応の文章スキルを身につけた方がいいよ」と。。


こういうのの基本は、「学術論文の書き方」で、大学の卒論と要領は一緒! なんだが、、、

主さん「卒論書いたことない人なんだ」ってのは、書き出しで一目瞭然。

10月はたそがれの国
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こういうのの基本は「序論・本論・結論」なんだけども、

【冒頭〜序盤、するっと読者に入らせるのがまず大事】なんですよ。


個人的に、「理想形」として、ずっと念頭に置いているのが、

沢木耕太郎。


書き始め、書いている最中、書きあがった後、

「沢木耕太郎」を思い出してみて、

『ダメダメなのか、まあまあなのか』を判断して直し、

「自分的にはこのぐらいかな」ってあたりまでブラッシュアップする。



主さんは、そういう自省とチェックの痕跡がなく、

『これでいいんだ!』って自負が瞭然すぎて、


自縄自縛が見てて苦しいし、読者を拒む。




完全他人事であるし、

「自縄自縛で読者を拒む、偏狭でつまらんもの書くのも、書き手の自由」だしさ。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

【空想力が完全枯渇して、物語が書けなくなる】と、

ここのサイトの男衆は、

なんか こういう「気取った風なもん」を書き出す。



評論は評論のコンクールがあるんだけど、

そういうところに出すほど真面目には、絶対書けないんで、

「なんかすかしたもん」どまり。



「なんかすかしたもん」に逃げて、「サイトでの体面を取り繕おうとする」んだけど、

そんな韜晦〜誤魔化し・めくらまし に走る野郎よりも、


『星新一』とか『坊ちゃん』に投稿して、玉砕する人の方が、

はるかに

ここのサイトの「是」である、と思う。


ここ、「なんちゃって評論家気取りの、5ちゃんねる」じゃねぇから。

『作家でごはん』だからな。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

「エセ評論家気取りが〜!」と、

普通に小説に感想書いてても、

ここの外野・5ちゃん出張組は、理不尽にバッシングしまくってたけども、



【正真正銘 なんちゃって評論家気取りの、自己評価高杉っぽいコレ】には、

全力でお追従コメント寄せそう???



それが、ここの腐れサイト『作家でごはん』 の 代わり映えしねぇ・お定まりの光景。



外野、「特定感想人をとにかくぶっ叩くことが主目的」に成り果てすぎてて、

【身内にはひたすら大甘納豆】

浅野浩二
flh3-125-197-238-216.tky.mesh.ad.jp

素朴な侵略者さま
興味深い文章ですね。
僕は、他者との関係性を持ちながらの、ナルシシズムも、非常に多く存在すると思っています。
女は、みなナルシストです。
彼女らは、ナルシシズムに浸りながら、社会生活を送っています。
それと。
天皇制にせよ、オウム真理にせよ、絶対者の存在する宗教的なものに対する、人間の感情は、ロイヤルティー(忠誠心)に酔いたい、という、うすっぺらな感傷主義で、三島由紀夫の天皇制に対する思いも、ロイヤルティー(うすっぺらな感傷主義)です。
これは、ナルシシズムとは、違うと思います。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

↑ ほら、な。

「ヘンテコお追従専門常連」が、速攻フォローにかけつける。


そういうのって、【まともな小説がそもそも書けない(&てんで書けなくなった)古株男】の仕事。


毎度毎度、職業のようにそれ(ヘンテコお追従)やってる。

長年やってる。


10年も20年も、ずーっとおんなじことやってる。

発展性はない。



その間、納得のゆく作品を書き上げたこともなく、

蟻地獄のように、ここの腐れサイトに身を捧げ、

腐臭を放ち続け、

「反対の意見を潰し続ける」。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

小説じゃないものを、鍛錬場に投下して、

《そういうのが湧いて出てくる活躍場所を与える》のが、

一番「サイト本来の趣旨をゆがめる行為」だと、

自分的には感じる。



『鍛錬場』はそもそも【小説を上げる場所】であって、

それ以外のものを上げたい場合には、

『スレッド掲示板』がある。



仮に『鍛錬場』が閑古鳥で、どうしようもない状況で、

「ひとつ、評論をあげさせていただきたいのですが……」と、お願いしてからUP

とかなら、まあアリなんかもしれないけど・・



「当然」のように「自信満々に評論ひっさげてマウント取りに〜」は、

ちょっと《違う》と思うんだよね。

個人的には。

素朴な侵略者
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10月はたそがれの国 さま

浅野浩二 さま


申し訳ありません。
ここは小説の形式でなくても投稿できるといった勘違いがございました。
拙作の削除を「作家でごはん!」運営様へ申請したいと思います。
また、拙作へ頂いた多くのご指摘はすべて参考にさせていただきます。

重ねて申し訳ございませんでした。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

鍛錬場は【小説を上げる場所】で、

以前は「そこは厳格」で、決して譲らなかった・・ 覚えが。



「小説以外のもの」で、一応まとまってるもので「見ていただきたいものがある」場合、

個人ブログや 星空文庫? にUPして、

「伝言板にそのURLを貼る」形で、

見てもらってた・・ じゃん??



いまは、《ふらっとやってきて、しれっと評論もどき上げて、OK》 な風潮に劣化してんのかもだけど、

そうなると(大原則を一度崩すと)

「裏(5ちゃん)のスレッドに書いてた寝言・繰り言・中傷 の《逐一まとめ転載》を、ごはんの中心・鍛錬場で〜!」
も「似たようなもんじゃん?」と なし崩しにされかねないし、


「ツイッターで短文連載してたやつの、細切れ掲載〜」なんかも、
【小説なだけ、エセ評論よりはサイトの趣旨に添っていてマシである!】ってことに。。




「短文細切れ連載」してくる 若い女子たちに、何十回となく「ここのサイトは……」と通りいっぺんの説明を 鸚鵡のように繰り返して来たのはワタシで、

男常連は、そういう時は 決まってシカト。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

 たまにはこういうのも読もうかと思って拝読しました。

 このテキストを要約すると、「わかりやすさ」は統治の技法に過ぎなくて、統治にはナルシシズムの病理があって、「わかりやすさ」には、統治される側の都合を考えることなしに一方的にそうあることを強いる暴力性があるよ、ってことなんかな?

 みんなそれぞれ違う実感を持っているから、わかりやすい言葉にしないと実感を共有できないし、共通の実感がないと、集団は集団として回らない。共通の実感といっても、実感ってのはそのままだとつかみどころがないから解釈して言葉をあてがう。飲み込むために整形された簡潔な言葉であればなおよい。理解できると安心できるんですよね。分かりやすさってのは座り心地のよいソファーみたいなものなのかもですね。キャッチコピーとか流行語大賞などの言葉はそのハイブリッドな例で解釈と実感のほどよい要約みたいな感じがします。

 別の話だけど。その統治されているところのぼくらにしたって、結局コスパ重視で生きていたいんですよ。楽したいから。自分を変えるんじゃなくて、未知を自分の理解の方に落とし込みたい。自分は動かなくていいから。そういう楽したいという気持ちゆえに発展することも多いから、それはマア自然の成り行きなのかもしらんけど。ところで小説を書くのってほんとうにコスパ悪いんですよね、ていうか、小説を書くというのは、そういうコスパの悪い面倒とちゃんと付き合うことが大前提なんだろな、って思ったりします。話がそれた。

 どちらにしても、分かりやすさを幻想として提供する統治のささやきを中立に受けとるだけの寛容さでもって、面倒とちゃんと付き合うことでしか、「分かる」は得られんよ、というふうに拡大解釈しました。

 ただ、作者様の情熱は伝わったですけど、評論としては、結論の部分が抽象的であること以上にものすごくふわっとしていて、煙に巻かれている感じがするので、わかりにくかったです。

森嶋
om126156151187.26.openmobile.ne.jp

すいません説明的な文章ばっかりで、持って回った表現が難しくて最後まで読めませんでした。

でもナルシストの説明のくだりは興味ぶかく読ませていただきました。

素朴な侵略者
sp1-75-0-36.msc.spmode.ne.jp

せっかくのコメントを頂いたので短いながらも返信させて下さい。

アリアドネの糸 さま
コスパとソファーのお話、ありがとうございます。海外の複雑な事情を報じる見出し1行のネットニュースは上等なソファー、気持ちが良いけれど足腰を弱らせる。小説を書くように、たまにはソファーから立ち上がりたいですね。

森嶋 さま
すみません迂遠するような書きぶりで。ナルシストの箇所は余計かと思いましたが良かったです。ありがとうございました。

偏差値45
KD106154139035.au-net.ne.jp

全部読んでみましたが、普通に分からないかな。
で、結局何を主張したいのでしょうか。
それを分かりやすく説明して欲しいですね。

素朴な侵略者
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偏差値45 さま
小説『1984』のなかで、言葉の数を減らして庶民を馬鹿にしようという統治が行われますが、現実でもそれと似たようなことが起こっているので、私は気をつけたいです、と書いたつもりです。

アン・カルネ
219-100-28-126.osa.wi-gate.net

短いのでサラサラっと読めました。
で、一応、「こことよそ」ですよね? 「そこ」ではなく。でもって、おそらく、「そこ」と「よそ」この言い間違えと言うか記憶違いというかはこの論考を書くに当たってはちょっと致命的ミスでないかい? と思ってしまうのですが…。
普段、私はこのテのミスとかはまま、いいではないか、とスルーするんですが、今回はちょっとそれはしてはいけないんでないかい? と思うので書いてみようかと。
タイトルにもあるように「分かりやすさという幻想ーその抗い、または寛容へのステップ」という点をテーマにしているのであれば、「そこ」ではなく「よそ」であるという事はとても重要な点だと思うんですよね…。
「よそ」であるからこそ、というかこの「よそ」としたところに保坂先生の拘りというか、分かり易く書こうとすればするほど、出来上がった文章は伝えようとしていた本質から逃れ続けるというジレンマがある、その思いを何気に込めてのこの「よそ」なんじゃないのかなあ、と思うんですよね…。「そこ」という言葉にはその断絶感ないんで…。だから、「分かりやすさという幻想」を考えるならこの「よそ」は大事(笑)。
でもって、「こことよそ」はたぶん、その文脈としては「未明の闘争」と繋がっているんじゃないのかなあってところがあって、氏が拘る自己の思いと自然な文章(又は分かり易い文章、又は文法的に正しい文章)との間というか断絶と言うか、その間とのあくなき闘いがあのねじれた文章なんだろうねって気はしないでもないんだけど、そう思うと、ねじれた文章を綴る事によって、果たして「想い」「思考」を読み手側は、四の五の言わずに兎に角、その純粋な「想い」「思考」だけをキャッチするだろうかってのはもう永遠の問いだよねって思ってしまうのダ。
私も素朴な侵略者さんの補助線を真似て、ちょっと違う事を語ってみると、友人は映画『グラン・ブルー』は心のバイブルとノタマッテいるくせに親しくない人に向けては「グラン・ブルー」を「社会不適応者の話」と要約してみせているわけ。この事によって、友人の実は極めて繊細な心のあり様を私達は見て取る事が出来る訳。心のバイブルだからこそ、この想いにシンパシーを感じないかもしれない人間に対してみだりに本心を見せない防御策として「社会不適応者の話」と要約する(笑)。でもその一方で、その要約から限りなく漏れ落ちるモノ――想い――をあえて言葉に起こさないというところにむしろ映画に対する誠実さがあるのかもしれないな、という事も、彼らのやり取りを傍から見ているこちらとしてはちょっと思ったりもするんだよね。
「これはただの社会不適応者の話。それで終わるか終わらないかは自分の眼で確かめて」そういうちょっとねじれた謙虚さというのも人にはあるから。
古くは養老先生の「バカの壁」でも語られていたと思うけど、人は「分かった」と思った時点でそれ以外やその先を考え続けることをしなくなるから。でも今は、兎に角、「新書」の類であっても「分かり易く書いてください」と口を酸っぱくして言われるそうで、分かり易く書けば書くほど、出来上がったものは、著者が伝えようとしていた本質からはかけ離れてしまうというハナシを小耳に挟んだこともあるから。言葉とはつくづく相互依存システムなんだよなあって思うかな。
かつてブランショだったかが文学、それ自体の死滅へ向けて、みたいなことを書いていたような気がするけど、そうかもしれないなあって、素朴な侵略者さんのこの作品を読んでてふっと思ったかな。
という具合に、素朴な侵略さんの意図がどうであれ、読み手の私は自分が読みたいと思うところを、いえ、「を」ではなく「しか」読まないし、その「しか」のところから連想し、自分の思いを飛ばすことになり、その場所はやっぱり素朴な侵略さんにとっては「よそ」であり続けるのだわ。

13hPaブロでしょ
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論考を根拠に鮮やかな着地を見せることを“評論”と呼ばわるなら勝手にやればいいんですけど、ここは小説サイトだから場違いでしょ、なんて狭量な倫理とは少しも相容れない歓待として違和感なく触れるなら、論考に根拠を求めて然るべきと許容して憚らずいられる態度こそ感性こそ個人的には“小説”的態度あるいは感性とはまったく受け止めがたいし、さらに個人的にはこれを読み進める中で常に“逆説”という反発やら退屈こそを感じないはずはなかったわけで、ここは“小説サイト”という倫理に付き合わせて表明するべきは鮮やかな着地らしき怠慢を蹴飛ばす逆説との融和のようなことこそを、ストレスを、苛立ちこそを脊髄反射の如く思い付いてこその“小説”という感性の働かせ方だと疑いなく感じさせられるものなので、これに同じ態度や視点でへらへらと付き合う読者に共感はないし、ほぼまぬけだと個人的には思わされるわけなんです。


ナルシシズムのハナシは小説的な設計を思うならその一面しか相手にしたがらない適性のないハナシとしか思えないし、例えば“一人”という認識を呼ばわりたがるにはあまりにも浅薄だし退屈に感じさせられます。
その先にある本当の“一人”がいかようにでも活かせる世界を書いて許される、書かずにはいられないのが“小説”というナルシシズムでこそあるはずと個人的には当たり前に感じさせられるのだし普遍どころかただの不機嫌とかしょうもない性とかにようやく着地出来るものなんじゃないのかと。


> 横須賀で暴走族のリーダーをやっていた尾崎と語り手は、映画監督である友人の撮影で知り合った。エキストラに暴走族を使うことになり、それを手配できる男として監督が紹介されたのが尾崎だったのだ。彼とは友達と言えるほど親しくしてきたわけではないが、「今度飲みに行こう」という科白が社交辞令にならない程度にはお互いに好感を抱いていた。


“小説サイト”という認識やら目的を以て歓迎して付き合うなら、こんな程度の文章ミスにも気付けない人が所詮書いてる、って個人的にはまったく適切な参加者としてお付き合いさせてもらってますね、親切なので。
単純にヘンですよ、この文章。
そんなこと言われて、すでに参加意義も義務も満たされるんじゃないですかね。(more親切)




なんて、ちょっとディレクションキツめでしたかね、感想頂いた良識人に甘えてわざとらしくムカついてみました。
論考得意ならベクトル読んで気持ちよくなってみてください。



こんな感じの悪い感想返しってありますかね。
って、そう感じるならその程度、っていう親切でした。(じぶんでいう)





ここは“小説サイト”、ただの同好の戯れの場ですから馬鹿と面倒くさがり以外は歓迎したい派です。

仕切り直し
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場違いなお詫び突っ込んでくれる優しい人だれもいなくてますます晒し首の馬鹿みたいになっちゃってるんでそろそろ本音で話します。
まず月さんはまだ原稿用紙に対する信仰心とそれに付随する作文の心得みたいなのは誰よりも優っているのですけど、その既定路線を頑なに崩さない姿勢はどこか窮屈で、つまり小説的思考がないですよね。それってまさに貴方の目指すどこか秘境の地方公募の矮小化された特徴が如実に表れているみたいでやはりつまらないですよ。パフォーマンスとしても、読んでないアピールが旧石器時代から哀れにしか響いてないことに気づけないのは何故ですか。貴方の感想こそ最早だれも読んでないのですけどもしかしてそんなことを自虐的に言ってるのだとしたら失礼しました。歪な連投の意味じぶんでじぶんに説明できますか。マウントって何ですか。こんなとこに居場所求めてるもんじゃさんと作文の心得が大好きな点でも思想おんなじですよね。
浅野さんは良い人なのだろうけど、ナルシズム解説してるふりしてナルシズム的に他人の場所へプロパガンダ垂れ込んでるのはどうかなと思います。またその内容もどうかなと思います。
アリアドネさんは前にいたNさんの下位互換みたいな感じで、なんだか深い思索のようでそのじつ奥までは届かず表層ひたすら掠めて言葉の上塗りの賞金稼ぎみたいになっているような気がします。
森さんは正直、それだけです。
偏差値さんは小説的思考というよりも、暇で書店にふらっと立ち寄った一般人のつぶやきを重ねているみたいで、何が目的なのかちょっとよくわかりません。
アンカルネさん、すみません『こことよそ』ですね。よそってそういうことなんですかね。言われてみればそうなのかもしれない。保坂さんはおろか『未明の闘争』読んだ人なんて滅多に出くわさない。あの人の最高傑作は小説的小説論三部作だと思っているのですが、近頃のねじれた"私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた"みたいな文や、作中の内容が急にどこに飛ぼうが矛盾していようが、要するに一般的な文章の規律から外れてもそこに書かれたものはそこだけに留まらずいくらかでもこちらに波打ってしまうこと、言い換えれば読み手にはどうしたって何かしら"伝わってしまう"ということを大袈裟に言うと証明したのだと思う。アンカルネさんのいうように読み手はどんなものでも読みたいところだけ勝手に読む。そんな無責任に書き手が合わせるなんてまず無理なことで、合わせる必要なんてないのだから捻れていようが飛躍していようが書き手の実感の一部もしくは誤読された実感がシュート回転して読み手のどこかに飛び火すれば良い。大切なのは伝わることであって、意味ではない。伝わることに何より力点を置かなければならないとは思います。ああ、よそってそういうことなのかな。
プロになったらしい13hPaさんは書き手としてはm.sさんの次に好きですが、感想は最近ぜんぜん力入れてないですよね、アリアドネさん並みに賞金稼いでる感じです。
ところでm.sさんって頭ひとつどころかふたつもみっつも抜けてるんですけど、なんでもんじゃ編集長はコンタクトしないのですかね? 誰よりもまっとうな文章書いてると思うんですけどね。

書き忘れ
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13hPaさん、貴女の作品に筋なんて求めてないですよ。むしろ筋なんて無いほうが良い。ついでに言うとなんだかメタファー的なこと意識してるらしいですけど、そんなものいらないです。そんな解釈されて何が嬉しいんですか。書く際の制約みたいになってしまっていないですか? 少なくとも読み手にしたらどうでもいいです。
飛躍がないって言ったのは語りがワンパターンなのを指摘しただけです。それがコメディっていうなら別にいいんですけど。
三人称の件は、場面描写やれって言ってるんじゃないです。あくまでも語りについての話です。

13hPaブロでしょ
KD111239114119.au-net.ne.jp

どうした?

わざわざ書き忘れと追記したこと全部あたしの反対のこと言ってるよ。
メタファーとかいってあたしのこと嫌うのは読者のほうでしょいつものこと。そんな誤読にいつあたしが嬉しがったんだか妙なもの言いはあなたの評判こそ危うくしちまうよ、ってもうヤバい感じですけど。

飛躍も迷惑。
それはあっちゃダメってことをやってるって言ってるでしょ。ワンパターンではなく真に受けない愛だっていってんじゃん。そればっかは失礼だなまじで。
近頃は愛の在るイジリが出来る人がいなくなったってさ、これ芸人さんのハナシなんだけど。

語りについて人称に食いついたのあなたでしょ?
食いついたんならやってみなて思うじゃん。
一人称って、独り言ですよ。ヤバくない?

なんだと思ったの? ってあたしは言っただけ。
考えすぎてちっちゃくなっちゃってんじゃないの。


考えるより実践の方が強いに決まってんの。
アタマ重くて転んでんじゃん。


たかが受け売りのふんどし談義にビビるのは書きたい動機があやふやな人だけだから、ナメてかかると恥かきますよ。
自分が出来るハナシしなよ。


急に態度悪いじゃん、なんなの。

あら
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メタファー違うんですか、なら良かった。やってみなって言われたんでやってみますよ。えっと、あれを視点変えて書けばいいんですか? それとも一人称で? 実践のほうが強いでしょうからね。
ゴジラは要らないよってことだけ伝わったんですかね?

13hPaブロでしょ
KD111239114119.au-net.ne.jp

何言ってんのかわかんないけど、カリカチュアライズとかでお願いします。


あとコテでやる気ないなら何してもお前クズだから。
いまのところおまえの態度、大層気取ったはずの自分の作品軽々裏切ってるはずだし、でまかせ自覚してアンカルネくんとかに詫びた方がいいんじゃないの。
クズに同調しておしゃべりしちゃったみたいで気の毒なんだけどどうなんですかね。

アフターサービス整ってなさ過ぎみたいで傲慢じゃないですかね。
だいじょうぶですか。

13hPaブロでしょ
KD111239114119.au-net.ne.jp

あ、感想欄じゃなくてちゃん鍛錬作として投稿しないと嘘だよね、おまえの言い草として。

ゆっくり時間も取れるしがんばれ、丁寧に恥かけ、暴発太郎。←コテにどうぞ(参加賞)

クズでいいです
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カリカチュアライズで?

クズでいいです
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タイトル『個守り 2.0』でいいですか?

13hPaブロでしょ
KD111239114119.au-net.ne.jp

いや、そのタイトル評判悪いみたいですよ。

『アンパン守り』でおねがいします。

13hPaブロでしょ
KD111239114119.au-net.ne.jp

伝言板でちょうどいい書き込みあったから投げといたからさ、慌てないでちょっとまだ待ってて。

どうせなら面白くやりたいじゃんか。
ゆっくり考えといてよ。

クズでいいです
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了解です。
とりあえずアンパン買ってきます。

m.s
146.75.196.18

m.sといいます。
休みじかんにつくえに突っ伏していると耳にじぶんの名前が入ってきた。さてどんな類の醜聞だ。と聴き耳をたてていたらそれが褒め言葉だったために赤面してしまい、なおさらかおを上げるわけにはいかなくなってしまうわけですね。
まったく私がもう、子供でなくて良かったな、いまは中学生の男の子が主人公のお話を書いているのですが、彼ならばこういう時には『無視』の一択に決まっていますから。
むちゃくちゃ青春。つまり、そのちょっと汗くさい馥郁に嗅ぎいってしまいたいところもある。
さて評論と小説の差異について。思うところを。ここではこの場所で分かりやすいよう、小説と小説についての評論について考えてみます。
(しかしじっさいには評論の対象は小説でなくてもよい。文章でなくてすらよい。まだない対象を想定した評論をあるときには哲学などと言ったりするものではないかと愚行します。たとえば自然についての観察の記述レポートがあったとしてその評論が自然科学としての学問や論文であるわけで)
つまり小説を書くものAと書かれた小説についてなにかを書く批評者A’についてです、また批評者についてさらに評論をするメタ評論家A‘’を考えてみてもいい。際限がないな。まあ考えるのまでは自由で。しかしそのあたりでナタとしての暴力装置を想定したくなる。私は必ずしもそうではないが「なら、殴ったほうが早いや」という即物論が無限の連鎖の内にかならず出てくるということです。

言葉でなにかを語りたい伝えたいと願う人間は言葉が面白くないという理由で殺されうる可能性がある。もちろん、そんなことは許されない(だれに?)、愚か者には法の裁きが下るだろう(いつかは)。しかしあなたを殺したものがあなたを殺した報いであなたが死んだ後に死んだとしても、論理はそこで閉じたにせよ、あなたは納得できないし納得できないのではないか。納得できなかったものが生き残って後世に呪詛を語ったりするのではないか。

物語について上記のようなことを語るにおいて小説と評論はほとんどおなじ射程を持ちえます、異なるのは小説は小説のみで成立しうるが評論はそうではないことであり、後者においてそれは強みとも弱点ともなるのではないかと考えます。そしてこれは感想文やレポートの域は出ていない。
ちゃんときちんとした言葉で語ってはおりますが、違和感やあささを感じさせる。

たとえば本節において触れられているフロイトはユダヤ人です。パレスチナの問題を文量を並列させて語るときにそのリンクがないところが、いささか評論としてあさく感じました。
細かいところを、と思われるかも知れないが、評論をするというのはそのバックボーンであるところの知見の量までその質を問われるものだし、そうした前提や責任がなければ評論家の書籍など疑わしくて読めない。なので私には評論などというものはまあ怖くて書けません。作家でごはんでなく評論でごはんであったなら指いっぽん触れないだろう(そもそも、食えるわけがない、というのはまず置いておいて)、しかして、その、勇気については高く評するものです。

あの。晩年に咽頭がんを患ったフロイトはナチスに囚われていた孫娘を思い煩って夜中にうろうろしていたという逸話があり、そういう逸話をパレスチナの話題にカットインすればこれは小説にも評論にもなるのではないか。科学万能時代の黎明期に人類の意識の鏡にはうつらない世界を理論化した老人は、絶望の夜のまどにどんな迷妄を抱いたのか。など。なかなかに書けそうにない話ではないか。うんうん。エジプトの太陽神ラー=ユダヤ人の神ヤハウェっていう妄想をいだいていた人でもありますしね。ふくらむ。

ちょっと、資料をあつめて舐めてみます。
ありがとうございました。

寝ても覚めてもクズのままです
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m.sさん、ありがとう。

これはこの場で感じた空気とm.sさんの作品に寄せられないコメントの不在が書かせたのだと思う。

順序が逆だけど、ひとつ訂正をしたいです。『きみとつよくてニューゲーム』に宛てた感想で、"全体で語る"とか"解読"とか"分かりづらさ"とか"読みにくい"いう言葉を用いたのは間違っていたと思います。あの作品は私にとってこの場に投稿された作品のなかで抜群に面白いのだけど、しかし作中で何かがうまくいっていないことを言語化できず、上に書いた間に合わせの言葉を用いてしまった(小説なんて部分で語ることしかできないし、解読も分かりづらさもクソもない)。じぶんが書く際には実感や体感に忠実に、なるべく言葉の規律から離れて柔らかくいたいと思う一方、読み手に回った瞬間にそれらが反転して硬直した読みかたをしてしまう経験というのは、だれもが一度はしているかと。拙作と重なるけど「わかる」こと「わかろうとする」ことは、小説を読むまえに持っていた自分の思考の材料を更新することではなく、事前にあったそれらで小説を腑分けすることでしかないのだと思う。
ひらがなが好きだからと言われれば何も文句は言えません。ただ、読み手は書き手の感性や特性を探っていくうえで、言葉の選択(たとえば、えんじ色か濃い紅色か)や漢字のひらきなどテクニカルな次元は意外と無視しているのではと近頃思います。そういうものは作者本来の特性をむしろ隠してしまうのではないかと。たとえば翻訳物は訳者によって文章が微妙に異なりますが、その面白さが損なわれることはそうそうありません。極端な話、文章というのは情報の集まりに過ぎないのかもしれない……すみません長くなりました。

評論には強みも弱点もある。こんかいはまさに弱点ばかり出てしまったのですが、そのひとつがまさかフロイトとパレスチナのリンクだとは思いませんで、
> あの。晩年に咽頭がんを患ったフロイトはナチスに囚われていた孫娘を思い煩って夜中にうろうろしていたという逸話があり、そういう逸話をパレスチナの話題にカットインすればこれは小説にも評論にもなるのではないか。科学万能時代の黎明期に人類の意識の鏡にはうつらない世界を理論化した老人は、絶望の夜のまどにどんな迷妄を抱いたのか。など。なかなかに書けそうにない話ではないか。
との知識や発想の豊かさにはm.sさんの創作に対する思索の深さも感じられたわけです。

拙作は、私が思う評論の強みである「引用部分に批判はこない」もしくは「引用部分は絶対的な力を持つ」ということを小賢しくも利用した、仰るとおり、評論にも何にもなりきれていないゲテモノか単なるお喋りだと思います。こんご評論なんて簡単に手を出さないことだけは確定しました。

m.sさんの作品は過去にいくつか読ませてもらっています。三次?までいったやつとか、描写力えげつないなと思いました。落選作をここで読ませてもらうのも喜ばしいのですが、いつかここで読めない日が来ると良いです。

ありがとうございました。

地蔵
KD111239154015.au-net.ne.jp

隅々まで共感できました。
また、文章が非常に達者で、雑誌のどこかのページを占領していても全く違和感がない質だと思いました(プロの方ですか?)。
パレスチナやアフガニスタンの荒廃した町に住む子供たちの生き生きとした笑顔、とても不思議に思いながらいつもテレビ等で見ていましたが、そういうものかもしれませんね。
1945年の広島にもそういう風景はあったでしょうね。
加工された情報のわかりやすさは、凡庸な記者たちにできる仕事の限界でしょう。
情報化社会が深化して扱いやすく加工された個々の情報がパーツとして結合され、ロジックが組み立てられ、ネット上にリリースされ、それを多くの人々が見て……といった具合でどんどん生の情報の濃さや複雑さは薄まっていきます。
そういう時に、空気を読まずに現地から生の情報を持ってきてドンと置くと、人々は困惑する。いや、それが見たいんじゃない、と。
統治に関しては、常に統治する者とされる者、今風に言うと「上級国民」とその他の国民との間に断絶があって、(村上春樹的に言うと)「システム」がその間に介在していると感じます。システムはその性質上、コントロールの対象たちからその不公正さ、悪質さを気取られてはなりません。システムが一般の国民たちに公明正大な顔を見せ、味方のように近づき、わかりやすい言葉とシンプルなロジックで語り掛けるのは当然のことです。その際、こぼれ落ちる真実のニュアンスが必ずあると。
私的な話ですが、自分をコミュ障とうそぶき、自己完結したコミュニケーションのスタイルを崩そうとしない迷惑者が職場にいます。その人間の忌々しさと言ったら! 彼と関わるほぼ全ての人がその人を嫌いだと言っています。ここで言われているナルシストそのものです。彼と対峙するのは本当に苦しい。死ぬほど苦しい。周囲の人々は絶えず挑発にさらされています。つい「統治に技法」を用いて悪魔的な存在である彼を〈調伏〉したくなる。作者様は我慢して付き合うことを説くのですね。寛容とはいかに困難を伴うことか! 言うは易し行うは難しとはまさにこのことだと思いました。
とても示唆に富んだ内容で面白かったです。

職場はいつだって地獄
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地蔵さん、どうもです。
『この世界の片隅に』の平凡な日常の描写をそのままに受け止められた人って案外すくないのではないかと。
"システム"は当時のガザ地区の状況があったので仕方ないのかもしれませんが、ずいぶんつまらない言いかたするなあと思ってました。せめてノーベル文学賞に対する揶揄もかかっていたらな、なんて。

「統治の技法」を知ること、さらに「統治の技法」に抗うこと、そして「統治の技法」を揺さぶる人に寛容でいる(「統治の技法」を用いないこと)こと……どんだけ難しいんだって話ですよね。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

 人間分析の皮肉をリストにして晒した意図がふつうにわからないです。
 それで何を釣りあげたかったのでしょう?
 それに何ですか? アリアドネは上っ面おしゃべり下位互換賞金稼ぎクソヤロウ(クソヤロウまでは言っていない)ですって。
 訂正を要求します。
 こんなふうに動物達の脊髄反応を引き出して、それを檻の外から楽しみたいのですか? 動物園みたく。じゃあいきますね、せーの、ガオー。

 なんてね。

 こんな性悪皮肉返しすべり芸の茶番はこのへんにしておくとして、小説ではない評論を、このタイミングで、このタイトルで、この内容で晒したことから、このサイトの様子とか空気に対して訴えたいものがあるんだろうなってことは、なんとなく察したところはあるんです。でも、上の本音の投稿と並べて眺めると、このサイトの感想アクティブプレイヤーの基本見識みたいなこと、それと、アクティブプレイヤーが悪目立ちする様子、 に対して、案外ダイレクトに一石を投じたかったんかな? って思った。本音を晒したのは。評論に昇華するのはさすがに遠まわしすぎたわいっていうか。どうなんでしょう? そのへん?
 そういうこと以外で、めっぽう強く伝わってきたのは、イラついているんだな、てこと。こういうイラつきの根っこにもね、御作になぞって書くならば、統治の技法(の亜種)に係る寛容がなんとも入り組んだ形で隠れているんですよね。そこまでひっくるめると、意図せず、全体としては面白い表現になっているかもですね。入り組んだ形ってのは、感想欄でのやりとりが本文の論のそのままの実演になっているということ、それから、ナルシシズムを寛容する側も実は忌避すべきナルシシズムにまんまと陥っているという主客反転パラドックスのこと。その感じ取ったところのイライラの正体の話。
 あと、この手の皮肉ってそれ相応のユーモアをのっけてやらないと面白くなりきれない気もする。皮肉って、その生来の陰気さを吹き飛ばす陽気さがないとただただ陰気なだけだから。もっとも、皮肉であっても、諧謔じゃなくて真面目な風刺ってところだから、この指摘も的外れっていえば的外れなんだろうけど。そんなことを考えた。
 本音で遠慮なく書くのはいいんじゃないかなって思います。忖度されるよりはずっとためになる。けど、ニヒルぶった感じの悪さが強調されて伝わると、ただの失礼に堕するのみだから、そのへん要注意かと。皮肉は表現の一つなのでそれはそれでいいのだけど、なんでもかんでも皮肉に化かすな、ってことかな。ここで言いたいことは。特に、森様に対しては、ふつうに失礼なだけなんじゃない? だって何も受け取れないじゃん。あとハンドルネームを皮肉でコロコロ変える無節操も印象よくないのだよなあ。物事を分析し言葉を選択して書く時の丁寧さに対して、皮肉に化かす段の無節操さのギャップがね、妙に気にかかるのですよ。

 名指しで批評されたので、批評の批評で返信してみました。頂いた批評自体はなるほどなと思うところも少なくなく、自分の発言の性質を改めて考えさせられました。正直、評論に対する上の真っ当な感想が続く中、こういう返信テキストを書くのはタイミング的にもほんと馬鹿みたいだから、投稿は躊躇ったけれど、もう休日も終わるし、まあいいか、と思って。
 個人的には、素朴な侵略者様には、その切れ味で作品と感想を書いて欲しいと思っています。これはホント。その方が面白くなるから。実は他の方の作品でお名前を拝見しましたが、作品の底流を考えつつの独自の分析の開陳に、また違った新鮮さを感じたのも、これまた事実で本音のところであります。
 書くといえば、企画小説を書く流れになっているみたいですね。以外と二つを並べてみると学べることがありそうです。残念ながら、これから忙しくなるので、アリアドネは感想書けないと思うけど、とりま、ご健筆を。

13hPaブロでしょ
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せっせと仕込み進めてるから気長に待っといて。


あとハンドル鬱陶しいから“葛ゐ”コテにして。
かっこいいでしょ。

13hPaブロでしょ
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アリアドネ逃げたなあいつ

葛ゐ
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つまらなくないようにしたかったんですけど失礼な感じになっちゃいましたか、すみませんね。でもこの流れで多忙になっちゃうなんて勿体ないなアリアドネさん。

浅野浩二
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僕はこういうことを考えている。
もし僕がロビンソン・クルーソーのように、無人島に流されたとしたら、それでも小説を書くだろうかと。
いつか、誰かに発見されて、助けられる可能性が、ゼロではないのなら、無人島でも小説を書くだろう。
しかし、その可能性がゼロなら、小説は書かないだろうと。
わかりきったことだが、小説は、誰かに読まれることが、絶対の条件なのだと思っている。
ナルシシズムも似ている点があると思う。
女は、一人で居る時には、すっぴん、で、髪もボサボサであるかもしれないが、その時にも、ナルシシズムは存在していると思う。
というのは、女はいつか、外へ出るからだ。
「いつか外へ出る。いつか人に見られる」という意識が、ナルシシズムを成立させていると思う。
ここには、物理的ではない、精神的な、社会との関わりが存在する。
しかし、もし、女が無人島に漂着して、全く他者に見られないで、生きることになったら、それでも、女に、ナルシシズムが起こるだろうかと。

もんじゃ
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身体性のありそな文章『海のまんま』で書いたから見てくれろ?

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

葛ゐ様

 いえ、失礼というのがメインメッセージではないですよ。本音を晒しておいて、まともに反応されないのもさびしいじゃんって思ったから書いたし、そうすると、御作の内容も搦めて、ああ返信するぐらいしか対立角が生まれないし、対立角を演出した方が面白いって思っただけ。実際、感じの悪さはでていたと思いますが。何度も書くけど、忖度ない意見で照らされるっていいと思うのです。そこは肯定的。いろいろ気づかされるわけで、それはいいと思っているんです。アリアドネの評価にしたって、思うところはあったわけです。
 あとは印象の問題でどう化かすかって話。煽り文だって、皮肉文だって、全然結構っだと思っているんです。分析と言葉の響きが面白ければ。失礼というのは森様に対して、その分析すらなかったから、皮肉の感じの悪さだけ伝わったんじゃない。って、それだけ。だので、あんまり、気にしないでくれると助かります。

 例のコンペは、面白そうではあるんだけど、2週間後でしょ。書く時間は多分とれないと思う。週末に感想を書く時間ぐらいは捻出できるかもしれないど、できればそうしたいけど、あんまり期待しないでもらえると助かります。


13hPaブロでしょ様

 逃げたな、とはひどい言い草だなあ。来週から1ヶ月ぐらい忙しいんですよ、ほんとに。最も、仮に忙しくなくたって、13hPaプロモーションならぬアジテーションにまんまと踊らされてやるかどうかは、アリアドネが自分で決めるでもあれば、自分では決められないことでもある。書くという欲求は、その0.1秒の情動は、実に気まぐれで且つ天邪鬼なのです。まじまんじ。まあ、今回は本当に時間がないからってのが、大きいのだけど。一応、どんな感じか、その状況に目を通しておくことにします。面白そうだったら、感想書くという形で参加ができるかもしれないけど、あんまり期待しないでもらえると助かります。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

〈「こんなとこ」を居場所に定めてる〉と断定されちゃいましたところの者でありますが、ちょっとどなたかのアクションの軌跡を追い掛けまして、こちらもいくらか(たぶんたくさん)書かせていただきますとですね(参加を誘われていたんですよね?)、「こんなとこ」みたいな、ごはんを蔑視する言い方とか平気でしちゃうようなお輩さんは決まって極めておめでたいよなって思うんでありますよ、というのはですね、職業作家さんでもベテランになればなるほど読者により近い存在の意見を、つまりは例えば編集長より新入社員の意見を聞きたがるものであるわけだけど、つまりですね、アマチュアの感想に照らされ得る場所ってのはめちゃくちゃ貴重なんでありますよ?
権威に弱いタイプの、つまりは創作的であることからはるかに隔たった存在であるところのワナビは、選考委員だの編集者だの職業作家だのの意見を必要以上に重視して、アマチュアの意見を軽視し、軽視じゃ足りなく「こんなとこ」呼ばわりして憚らなかったりするわけだけど、目指してるものが低すぎて、とてもじゃないけど跳べる見込みがなかろうと極めてビビッドにそう思われます(挑発的決め付けで申し訳ないけど、思われます)。
確かに、ここらにいらっしゃるところのいくらかのアマチュア作家さんは極端に謙虚でなく(かつ真摯でもないんで始末に負えない、と言えなくもなく)、根拠のない思い込みやハッタリで何かとマウントかましちゃおうと批評家ぶってみたり(百八十度間違ってることを己の主観で断言してみたり)、だけならまだしも己のルサンチマンやら怨念やらを、非論理的な、感情的呪詛に換えて〈ただの悪口として〉〈主観的に〉吐き散らかしてみたり、果ては反社会的なる存在を気取って部分社会のルールやマナーをわざとらしく蹴散らす企てを提起し、もって自己顕示欲を不健康に満たそうと躍起になってみたり、要するに普通に遍在するところのニュートラルなアマチュアさんではなく、恐ろしく偏ったアマチュアモンスターである場合も少なくはなくあるわけで(それを、面白い! って見詰めちゃうような眼差しは周回遅れの眼差しであります)、「そんな」場所にいたら、目指していたものとは違うものになってしまいかねないからソーロング、ってのならまあわかるのだけど、ごはんを「こんなとこ」呼ばわりするワナビに透けて見えるのは、オレハコンナ〈レベル〉ノバショニイルベキソンザイデハナイ的な甚だしい勘違いであり、勝手に劣等感とか抱えちゃってることの裏返しであり、だから卑屈な態度で他者を揶揄してみたり、賞味期限の切れたささやかな何やらにすがってみたり、わりと真面目に参加している人たちを不当に嘲笑してみたりすることで、もってこの場の価値を破壊しようと画策するわけで、そういうさまってのは実に狭くて不細工なありさまであるなとつくづく思うのであります(十年とか前、夜の雨さんがまだ卯月某さんだったり、中野先生が江頭文学の旗をなびかせておられました頃、編集部在籍中だったこの読み手は職業的興味でわずか数ヵ月ではありますが熱心にごはんを覗かせていただき、ゆずきさんとか極めて魅力的な方にラブコールなど送らせてもいただきました思い出があるのでありますが――高遠さんが「北日本文学賞」の栄誉にあずかっておられた頃です――、以来覗いたことのなかったこの場所が、久方ぶりに訪れてみましたところ、よろしくない台風の襲撃に晒されましたのちの姿なのでありましょうか、実に不健全に様変わりしておりまして愕然とし、一書き手としてそこに飛び込み、下手くそなクロールなりで溺れそうになりながらも泳ぎ、ときには潜り、観察すべきを観察し、攻撃すべきものを攻撃すらいたしましたが、その濁り想像以上のものでありまして、かくなる上は書くなる上ぞと自らも濁り、何やらをもって何やらを、とも力みましたがついには脱力し、違う場所に違う価値を一度は見出だそうともいたしましたが(しかし権威や選民や同調性バイアスには馴染まずソッコーで自主退所して)、「こんなとこ」と一部の民に形容されますところに再び舞い戻って参りましたのは、純然たるアマチュア作家の純然たるビームに照射されます価値が明らかに、他の追随を許さないまでにプライスレスだからであります。のにも関わらず、この欄やあの欄周辺で巻き起こされている不健全かつクリエイティブでもなんでもないありさまがあまりにあまりなんで、確かに「ここ」を居場所に定めることは、「こんなとこ」と指し示された意味とはまた別の意味で不適かもしれず、よくよく考えどころではあります。この場所が、実にもったいないことであります。――なので台風を激しく憎みます)。
並べられた言葉たちの角度すなわち意味的関連性が的確でなければないほど表現は浅くなるわけですが(言葉の数の多い少ないと深さは比例しない。また表現者が己の表現に自覚的であることも、表現の深さや適切な響きに対しての必要条件にはならない)、浅い表現にしか慣れていない種類の方々は、込められている(ないしはいつのまにやらこもっちゃってる)意味というようなものを非常に表層的にしか掬い得ないので、だからこそアマチュアの意見やら感想やらに含まれる、盲点をときにはびかあっと照らしてくださり得る表現を、価値なきものだと、権威にこびるその盲目的なありさまにおいて決め付け、安住しているつもりのその裏で実は震え続けることになってしまうのでありましょう。
たった一言〈「こんなとこ」を居場所と定めている〉という安易な、ある種の思いを滲ませた、視野の狭い決め付けがどれほどの言葉たちの反応に照らされ得るのかを表現してみたく、どう思われるかだなんてことは勿論十分に呑み込んだ上でシュトゥルム・ウント・ドラングななりでこちらさまの感想欄を汚させていただきましたが、でも御作、要はこの手の反応を引っ張り出したいところの(平たくいうなら構ってもらいたいところの)挑発的な何かだったのでありましょう(そういうの、ちっとも面白くなんかはないけれど)?――でも、まあそうだとお見受けいたしましたので、御作への感想欄に相応しい言葉を並べさせていただけたように思われます。以上でR!

葛ゐ
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浅野さん、知り合いに日記を書いてる輩ががおりますが絶対に見せてくれません。家族にも見せないんだとか。ああいうのは自分にあてて書いてるんじゃないかな、ちなみに日記が小説に分類されうるかとかそんなかたっくるしいことには関わりたくないんです。あと、遺稿の一部なんかは土掘り返したら出てきたとかそんな話もあるよね、世間には強迫的に書かなければいけない病気もあるみたいで、つまり他人に読まれることは絶対条件でなく必要条件なんでないかな、とわたしおもった。

葛ゐ
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間違えた、必要条件でもないか。

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