作家でごはん!鍛練場
m.s

きみとつよくてニューゲーム

 可哀想であまりにあわれだったからまるで義務のようにして交わったのだ、道端でであった死にかけの生き物を救護するようにして、それはとても自然な成り行きだった。そうしてじぶんの意思と義務感の区別もつかないままにわたしは処女を棄ててしまう。
 喩えればすでにクリアし終えてずっと手を触れることもなかったゲームについて、それをたまたま攻略サイトで見つけたあたらしい遊びかたを試すためにもういちど再起動してみるように、わたしは人生をもういちど生き直すことをしはじめたのだった。
 つまりそれはなんとはなくの成り行きだったのだ。それでさ、ともえはね、あれがそんなに大切なものだったならああして見せびらかしたりせずにカギでもかけて仕舞っておけばよかったんだ。もう、遅いけど。
 なにそれ知らないよ、あとから聞くよ。下りたあとに、切れ切れに荒れた吐息でともえが言うが、
 きっと、うそだ。日常に降りたあとでは彼女はもう、耳を貸したりしないにちがいない。だから話しておかなければ。ひと口の水やクッキーのかけらなど、あちらでは意識にすらのぼらない些末が此処ではしごく重要で、いまはどうでも良い事実もあちらに帰れば重大な告白なのだから。
 
 山のうえでは、価値観が転倒する。
 地上でいちばん単価の高い水を飲み。命やお金や時間や、平時はもっとも価値があるとされているものをすべて惜しげもなく費い果たしてしまう。それはゲームをしばってプレイすることに似ている。あえてセーブデータをいちども取らずにクリアしてみたり、ひつよう最小限の敵のみを倒してクリアしてみたり、とにかくはやくクリアしてみたり、そのために膨大なじかんを注ぎ込む。
 そんなことは無意味なことだと人はいう。じかんの無駄だと。ではもともとこの場所に、無意味と無駄いがいのなにが存在していたというのだろう。
 お金を指さして、これはただの紙だといってみるようなことならだれもがいちどは試してみて、それにもう飽き果てているのだ。そらに手をかざし見ることなんかにも。太陽にむかいひらいて、閉じて、手の甲と腕とのつけ根をぐるりと半周させてみる。それはあの見慣れたみあきたフォルム、皮で、骨で、肉だ。わざわざデッサンしてみるほどの目新しさをかんじない。
 視界から手をどかすとそら恐ろしいほどの、落下してしまいそうに蒼くぬけた空。その、ぎらぎらと目を灼く太陽もなぜかすこしも暖かくない。前景にはいちめんの雪原とそこに埋もれる二つの死体。いやまだ、前をゆくともえがモゾモゾと動いている。極彩色のいも虫のように身体をねじり起きあがろうとしている。ギザギザな峻険で視界を裂くあの狂った稜線にむけて。まだ、登るの? 彼女のハーネスとロープでつながれたわたしの身体も引きずられ、揺り動かされて、無音無風な夢見の視点から凍えるような雪中の身体に引き戻される。たぶんあとすこしでもう、寝付けるところだったのに。また歩かなければいけないのか。しかし手足の感覚がうすい、まるですべてが他人ごとのようだ。

 ねえふつう、ひとつのゲームにどれだけ熱中できる? 半年? 一年? わたしはまあ、もってひと月といったところか。実のところ二、三日ももてばいいところだ。ほんとうは新作の記事をみて購入のボタンを押したときに興味のピークはすでに去っており、インストール後のタイトルにスタートボタンを押したころにはもうなかばウンザリとしかけているのだ。なのでゲームは大作であるほどグラフィックスがきれいであるほどに良い、だってそのほうがデータを落とすのにずっとじかんがかかるので情報量が百分率やプログレスバーとしてじわじわとしているのを眺めるあの、いちばん楽しい時がより長く引き伸ばされるから。
 では本ではどうかといえばやはりこれも、長ければながいほうが良いなだってたんじゅんに、開くときの心持ちに重みがどこかシンクするから。というわけでとうぜん電子よりも紙推しなのだがもともとちんまい文庫本なのをA4サイズ超のタブレットで寝どこに転がりながらずっしり圧殺されるようにして読むのもきらいではない。デュマをラノベよりもより好むのは純粋に、作者の死によりそれが完結しているからだ。作者がまだいきているという実感が、読書をすこしそわそわさせる。さて、こころはこうしてすでに幾つもの異なる物語にあそんでいるというのに、あの山の峰できみとわたしの身体はまだなお死にきれずにいるのか。夜明けがた窓からのぞく青ぞらは禍まがしくてすこし苦手だ。けどなに、なにも見なければいい。ねえなに、なあに『あああああ』って耳をりょうてに聴こえないふり。いくら起きろとどやされたって。かみさまは耳に目のようなまぶたがないのでふた揃えの腕をくれたのだ。ヒジをついてお祈りのようにふとんで夜明けをやりすごす。かみさま、
 どんなゲームも映画も小説も、それはおおむね価値について描いている、つまり生きていることや死んでいることについてあるいはかつて産まれたことやこれから死ぬことについて。果たして熱湯に泡が湧いてきえるいじょうのなにがしかの意味があるのかと。しかしまったく正気かな? ははは隣人がきゅうにそんなことを言い始めたらぞっとするよね、震えあがれ。つまりなんだっけ? 小説は死人のものにかぎるのだってこと。そしてわたしといえばたまに、鏡をまえにしてじぶんの姿にたちつくす。その生きているさまに青ざめる。なぜならこのものがたりは筋書きや思想や美意識をいかにかたってもそこに優劣を比較かのうなある基準をぜんていとしていることをわたしに疑わせない。おまえはより良く生きるのかいなか、というテーゼを。
 おまえはほんとうにこのさきも生きているほうが良いのか、という問いを。でも、

 それってほんとうに? ほんとうに? ほんとうに? ほんとうに? 語りかけるようにしてわたしはゲームをプレイする。いぜん大人がしまいに幼いわたしにそうしたように面倒になって殴りつけたりはしないのだ。なのでいくらでも体験をリピートできる、けれど物語のがわはわたしが自分を通りすぎるのがなん度目かをカウントできたりはしないため。わたしがどれだけ飽きても物語はそのことに気づきさえしないだろう、ものがたりは人間のようにじぶんが飽きられていることに気づいてそれに激怒したりはしないのだ。
 
なのでそこでわたしは
 牧場でいのちを育んでみたり
 銃弾の雨のなかに必死になって生きてみたり
 助けをまつ恩人の生死を無視してミニゲームに興じてみたり
 ふと生きのこることに飽きてなぶり殺しにされてみたり、する
 するのだ。
 きょうもまた。ライフルの照星ごしにゲートの衛兵をスナイプして物陰にかくれ、ついで放り投げた手榴弾の三秒あとに建物に突撃してクリアリングして制圧することを繰りかえす。一日どころか一時間のあいだになんども、なんどもだ。でも、こんなことなにが楽しいんだろう。わたしは操作する主人公を無抵抗にして殺させて解放されたわたしの身体をようやくベッドでねむらせる。翌朝まどを開けるとあたまの中ゆびがカチ、とエイムボタンを押しこむたびに視界の焦点がきちんと二倍ズームでさだまる、あのゲームないの装備の効果がまだ残っている。おかげで青ぞらがそんなに怖くない。けれど講義でうつらうつらしてしまい、ゲームで寝不足で、とすなおに言うと教授はきまってしあわせな愚か者をみるようにこちらを一瞥するのだった。しかしなあ、おいオマエふざけんなこっちは金を払っているんだよ。おまえに一銭にもならない、ただ周りからバカにされるだけの営為をしているときの気持ちなんてわかるものか。そうやって苦笑いなどしているときにまたわたしは、あの架空のせかいで精巧にできているニセモノの人間のあたまを撃ち抜くところを思い描いている。それをそれだけを空想をしてしまう。
 ひとの殺し方にもいくつかの種類がありヘッドショットによるほんのわずかなボーナスを加算するために自動で導かれた胴体中央への照準からわずかに手動でうえにずらしてわざわざ面積のすくない頭部を狙うのだが、当然これは外れることもあり、そんなときには敵が弾幕をすり抜けて寄ってくるのでぎゃくに急接近して逆手のナイフで刺し殺してしとめる。ナイフでの近接攻撃にもちゃんと得点ボーナスがつくので損をした気分はしない。でもそんなのどこが楽しいのか、たしかにそうおもっていたハズなのに、現実で言い訳しながら愛想わらいをしているとあっちのほうがどれだけか魅力てきなせかいのように思えてさっさと帰ってあのつまらない物語のつづきをやりたくなる。
 べつに衆目のなかでねちっこく皮肉をいってくる先生を殺したいわけじゃないよ、いくらなんでもそんなぶっそうなことは考えたりしない。現実でかんじた欲求をすべて現実で叶えてしまおうと心からそう望むならそれは異常者だ。二千年まえなら英雄としての生き場所もあったかもしれないが現代の日常生活のせかいにその居場所はない。なのでわたしはかえってゲームをやる、殺しまくって死にまくる。あきて寝る。

 そしてまた翌日。たとえば物干し竿のまえで洗濯バサミに指さきを噛まれておもわず手を引っ込めたときなど、うっすらと水気に血の滲んだタオルを洗面台で濯いでいるときに鏡がわたしに問いかけるのだ、これは現実か、これは現実か、これは現実か、これは現実か、では、これいがいになにかがあるのか。そのせいで本の背表紙もゲームのコントローラーも鏡のように作用する。わたしはそれを頑張って意識からおしのけて洗濯ものを干したらテレビのスイッチをつけてコンフレをたべるのだ。だけど湿った衣服を干そうとして雨が降っていたときはペットボトルのウイスキーを飲んで朝食の代わりに干しぶどうをたべる。そうして朝というものがおおまかにふた通りに分岐するのだけれど、テレビのスイッチをつけても番組がやっていなかったときはいまだない。せかいはまだ終わっていないらしい。それが終わったというニュースはまだわたしのところまでやってきていない。
 テレビ番組はただのBGMなのでとくに好きでもきらいでもない。どうようにわたしは有下ともえのことは嫌いではなかったが彼女の付き合っていた男のうちひとりと付き合うようになってからその関係は破綻してわたしは忌み嫌われるようになった。大雨のせいで通学する気にならないまったく、この雨のせいで。酒がすすむ。
 だって有下は別れる前後でその男のことをさんざん悪くいっていたのだ。なのに、それがわたしの恋人となると話はべつであるらしい。わたしの知る限りでもそれまでに十数人はいた有下の恋人のひとりでしかなかったがその一人だけをかすめとったにしてもそのせいで、十数ぶんの一だけ嫌いになったりはしないということだ。がっつりと嫌われて妬まれる。有下はたいへんにわかりやすい女だ。なのでわたしは彼女のことが嫌いではないしこうして憎まれるようになってもそれは変わらない。

 では皆ごろしの準備をはじめよう。だいじょうぶその手順はとてもかんたんだ。
 まずサーバーをえらびます、陣営と人種と性別と武器をえらびます。じっさいの人生とちがってこれらは毎回じゆうに選ぶことができるので安心です。まあ赤ちゃんはじぶんで親をえらんで産まれてくるっていうしね、ただいま母さん。そしてさよなら。さきほどに有限の順列組み合わせで個性をコーディネイトされたキャラクターはすぐさま戦場に投下されてこれから理由もなく殺しあう。ゲームのなかでは戦争にはイデオロギーがないほうがより健全であるとされているようなのだ。理由はわからないがどうも積極てきに戦争からその原因とか目的がパージされている。つまり、暴力でもって目的をなすことは良くない、けれどフィクションのなかでくらいは暴力を振るいたい、なので暴力を振るうための理念をかたってはならないということなのだろう。まあこれは、じっさいにそうだよな。じじつ人間は、暴力に専念しだすとひどく無口になるし。
 そして有下は、多弁な人物だ。そのため、いつ会っても毎週ゲストだけが変わるテレビ番組ていどにしか印象の変わり映えがしない。というのも、いま好きなひとについてそのどこが好きなのかと、別れたもしくはこれから別れようとしている最中の男に対する嫌悪と猜疑がほぼその話題の九割だからなので。最近そこにニコニコ笑顔の泥棒ネコというあらたなレギュラーとしてわたしが加わったにちがいないのは少し晴れがましい。そうしてわたしは閉じないはずの彼女のくちを閉ざさせてしまった。有下はいつも手にするまえの理想への賛美と過去への嫌悪を反復している、彼女はいつも裏切られつづけている。そして現実は、いつでも彼女から過重な期待をかけられている。なので有下に嫌われることでわたしも漸くこの手のひらにすこし現実味がでてきた気がするのだった、なのに。
 あきた、
 いいかげんアルコールがまわってきたわたしはダイエットコーラの小瓶にテキーラをそそいで輪切りにしたレモンに塩をかけたのを口にふくんだ。まったくひどいものだ。冷蔵庫のいちばんおくで霜をかぶり緘黙していたレモンのなかみは鬆のはいったスカスカで苦い、まずい、味けない。そうシンクに吐き出したのを罵倒してわらっていると、
 ならもっとマシなものを食べればいいのに、そうさまざまな原因であるところのその男が二段ベットから降りてくるので。
 ねえもう飽きたよ。わたしはちょくせつにそう告げてしまう。
 え。
 きみさ有下ともえとヨリをもどすつもりはない?
 なんでそんな気まずいことをしなくちゃならんのよ。俺のこと嫌いになったの?
 や。そういうわけでもないんだけど。わたしはそういってもう、見慣れてしまったその顔を見て、つぎに手鏡をとおしてもその像がもはや変わらないのをヨシ、と指さし確認する。ついでテーブルに立てたスマホのカメラごしに二人のすがたをタイマーで映してみる、それはいつも通りのへやに男と女、その風景のいち部分がわたしであった。
 ねえ、きみはわたしのどこが好き? 寄りすぎてアルコールにけぶる液晶にふれて問いかける。
 ほらもう。やっぱり別れる気だろ、もういいよ。
 ちがうわたしの問題でさ、あきただけなの。いつもこうなんだ。わたしはテレビラックのしたから取り出したコントローラーのひとつを彼にわたした。
 ほれ。
 どういうコト?
 あなたが一回でも勝てたらもういちど選択肢をかんがえてみるよ。
 わかったーーおずおずと彼がコントローラーに手を伸ばすので、
 良いの? わたしがそう念押しする、と
 しょうじきメフィストフェレスの申し出に応じるようでまるで気はすすまないけれど、彼はそう前置きして、けれどいまさらともえのところに戻ったって、どんな目にあうかわかったものじゃないし。
 ハハひどいなーー。
 だけど、きみがもうぼくのコトを捨てたなら、ここに残っても末路はそんなに変わらないだろう。ならぼくとしては、一縷ののぞみでもそれに賭けたほうがいい。
 ほんとう。ひどいよな。わたしって、人間じゃないみたいだ。
 人間だって、いらなくなったあいてにはそんなに優しくないだろう。そうしてだれからも関心を持たれなくなった人物にとってはもう敵も味方もない、みんな危険な隣人でテロリストだ。
 かもしれない。でもこんなにはなしの分かるテロリストはいないよ。わたしは彼の二の腕の片方を胸もとに抱きよせて体をあずけて言った。ねえ、テロルというものの本質はさ。もう言葉はいらない、ってこと、わたしやともえがもうあなたにこうした無駄ぐちをなにも喋らなくなったら覚悟をしたほうがいい。
 それでどうすればいい? 逃げればいいのか
 うん逃げてもいい。でもいちど逃げることにそう決めたなら、うんと遠くまで、みえないところまでちゃんと逃げなよ。ねえーーきみはさ。孤独がどうして怖いか。とか、考えたことはある。
 彼は応えなかった。なので好きなようにさせてもらう。
 さてキスをするときになぜ目をつむるマナーがあるのか、じっさいに目をあけたままやってみないとその理由にきづけない。かおの近さがある一定を超えるとあいての眼球の反射ごしにじぶんの瞳が見つめかえしてくるのだ。そう、
 孤独についてだ、
 わたしは目のまえに横たわる視線にそう語りかける。
 昔むかしね、王様にね。臣下が言うわけだよ。降伏しましょうこの戦は負けですって、王様の国は敵に包囲されていて籠城戦なわけ。それでもうそれが持たないときが来ていると臣下は告げる。飢えた民が隣人と交換した子どもを煮てたべています、って。
 気持ちのわるいはなしだ。なんでそんなことをしなくちゃいけない。
 飢えたからといってじぶんの子どもを手にかけるのはあまりに忍びないので互いに隣の子どもを食べるわけ。まあ地獄だよ。でも、それでもなお最悪を回避する理性はいきている。同じ立場の他人がいるからまだ相手のこどもで済む、きっとほんとうの孤独というのは、それすら許されないということでーーわたしは名残り惜しむように手のひらでそのほおに触れた。
 ねえ、楽しいの。そういうこと覚えたり考えるのって。
 本で読んだの。楽しいのかな。わからないけど。でもずっとやめられない。
 あ、とおもって。じぶんのかおに触れてみる。凍りついた髪の毛というのはさきがパリパリしていて焚き火で焦がしてしまった前髪みたいだ。指さきで砕いてみるとやはりあれとそっくりな、爪をやすりで研いだときの臭いがする。

 さて、コントローラーをにぎってボタンを押すとゲームのアイコンがずらりと並んだライブラリが4Kのテレビ一面に表示される。
 すごいね、ゲーマーだ。
 まあ、ほかにやることがないときにはね。
 ほんとうに飽きちゃったんだなー。
 うん、しかたない。人間はなんにでも飽きてしまう。すくなくともあたしという人間は。

 さて、ゲームにはいろんな楽しみかたがあります。
 CPUに勝つこと、ソロプレイでながく生き延びること、ネットごしに知らない人間に勝つこと、知っている人間をボコボコにすること、そうせつめいをしながらわたしの指は思いつくかぎりの暴虐をつくす。
 対戦レースゲームでCPUではなく彼の操作するキャラが穴をジャンプするしゅんかんにだけ決まってアイテムで攻撃して奈落に落としたり、FPSで味方にも当たり判定のある爆発物で吹き飛ばしたり、スポーツゲームでこちらの攻めではなくあいてのミスを誘うことで得点するプレイを繰り返したりなどだ。
 ほんと上手いねえ。でも、ぼくなんかとやっていて、楽しい?
 あのね上手いからってそれで楽しいとは限らないわけ。ねえつまり映画ってさ。ひとにそれがどんな映画だったか話しているときが一番たのしかったりしない? あ、じぶんこんなとこまで覚えてるな、てなんかさもう、自画自賛しちゃわない? 一度観た映画を何度も観るのってつらいけど、他人がいれば、それにもまだ我慢できる。
 ぼくだってこれで、手を抜いているわけじゃないんだけど。
 知ってる。わかってるよ。こっちだって本気だからね。ちゃんとつたわる。どう、やめたくなった?

 まあいまさらもう、勝てるとは思わないけれどさ。教えて。これまでゲームしているとこなんて見たことなかった、なんで?
 だって、きっと楽しくないから。楽しいとおもえないから。
 そうかな。こんなに上手いのに。
 そもそもさ。ゲームが上手ってどういうことでしょう。ハイスコア? RTA? フレンドの数? 視聴者数? じぶんの思い通りにいくことが楽しいなら、もっとかんたんなことがいくらでもある。わたしは、となり合う首すじに口をつけてなめた。
 おいまだ、ゲームの途中だろ。
 なんでだろう、一つべつのことを始めるととたんに、べつのことがしたくはならない?
 まあ、いいけど。
 やり飽きたこのゲームを別の視点でながめてみる。敵愾心を慈愛に、消費を生産に、かけたお金や唾液を時間で微分すれば愛のかたちがもとまるのだろうか。
 ねえ押し入れにあるきみのアレさ。
 いくら恋人でもそういうの、かってに見ない方が、いい。
 いやでも見えちゃうよ、あんなにデカいんだから。軍隊の予備役か登山家くらいしかあんな大掛かりな背嚢もっていないからね。あれは、なに?
 それをぼくから言うのは、気が進まないな。
 なんで、それだけだいじなものだから?
 そういうわけじゃあないが、あれは人からの預かりものなんだ。つまり有下ともえの趣味だ。おまえは、あいつのこと嫌いだろ。
 わかったじゃあ、こっからはあの子に聞いてみるよ。
 だけど有下ともえだっておまえのこと、嫌いだろう?
 だとしても、とわたしは言った。ここであんたに元カノのことをあれこれ聞くのってもなんか違うでしょうが。
 そうだな。
 そうだよ

 いつのまにかうつらうつらしてしまっていたらしく、テレビから響く押しっぱなしのクラクションのようなおとに二人で身をおこすと、ゲーム機がフリーズしていた。
 あああ、熱暴走したか、ずっとポーズしたまんまだとこういうの、たまにあるんだよね。
 わたしはそう、据え置きゲーム機の電源プラグを抜いてそれを沈黙させる。
 するとぼくは、いっかいも勝てなかったけれどいっかいは負けなかったわけだけど。そう彼がとなりでちゃっかりと身を起こす。
 わかった好きにしなよ。だいたい、きみがゲーテをしっているなんて今日はじめてしったんだし。また機会があれば話をしよう。ああいう長い小説、好きなんだけど話し相手がいない。
 うん。
 だいたい話題がセルバンテスやプルーストでは恋人をやりながらじゃあ、あんまりにも間が長すぎるしね。
 うん。
 あなたに元カノを恨んだり裏切ったりしてほしいわけでもなければ、べつにあてつけで好きになったわけでもないんだ。わかっては、もらえないかも知れないけれど。
 でも結局は、ともえに連絡をとりたいんだろう?
 まあ。ね。
 おまえらは、分かりやすいんだよ。彼はそうスマホを一瞥して立ち上がった。
 ちょうど有下ともえはそのリュックがひつようらしいぞ。
 なんで?
 山に登るんだろ。ふつう、それいがいに理由がない。というわけでこれから渡しにいくから、なにか言伝があるならいっしょに伝えておくよ。
 いや、伝言なんていらない。その背嚢はわたしが持っていくと伝えて。
 じゃあなんか面倒くさいことになりそうだから、ぼくは少しのあいだ消えるよ。
 うん、またね。彼を見送ったあと、
 聞いたようにあなたの背嚢が手元にあるのだがどうしたらいいか? と有下にメールを送って返事をまった。


 登山口の駐車場で待ち合わせた有下は早朝のせいかピリッとしたかんじの横がおで、蛍光色のダウンに身をつつんでいた。
 ともえは、相変わらずハデだね。
 そっちは相変わらず地味な女だな、そんな葉っぱや迷彩色みたいな色じゃあ遭難したときに死体も見つけてもらえないよ。
 わからんが、かっこうはこんな感じでいいのでしょうか。わたしはそう、前日にワークマンで買い揃えたいっちょうらでつま先を軸に半身をひるがえす。
 今日はお手軽に日帰りでかえってこれるルートにしたから問題ない。でも色はやっぱり目立ったほうがいいかな。エベレストの山頂付近では回収不可能になって凍りついた死体がごろごろしているんだが
 うん。
 そんな茶や黒や灰のおとなしいカッコでは雪におおわれた岩や土クレと見分けがつかなくてね。
 うん。
 じゃあ、あんまり面白くないだろせっかくそんな場所までいって死んだのに。
 それでわたしはわらってしまった。やっぱりともえはともえなのだとうなずいて、
 言われたとおりちゃんとここに来るまえに日常の始末はつけておいたよ。引き落としのある口座の残高だとか、それに新聞をとめたり、部屋のペットだとかも。
 ああ、まず有り得ないがかりに遭難したとして、そうしてひどい目にあったあとに水やガスが止まっていたり、玄関に新聞がひざまで溜まっていたり、ペットが死んでいたり、そういうのってマジで死にたくなるからさ。そこはできるだけ考えておいたほうがいい。
 遭難したこと、あるのともえは? わたしはどこか期待をこめてそう訊いた。
 ん、まあね。でもいまはもう山に来てしまっているのでそういうはなしはあとだ、細かいとこは、ちゃんと無事にかえったあとでね。で、どうなのあいつとは上手くいっているの。
 それこそ、山から降りたあとのはなしだろうに?
 しかしここ、いっさい話題にださないのもおかしくないか。おまえ、友だちの男だったやつと付き合うのとかそーいうことだろ。
 友だち、そう。友だちか。わたしはそうわらって、山はだを這う木道に彼女の手をひく。行こう、いこうもっと奥へ。急いでいそいで、高原は夏もさかりを過ぎてなお緑が目にまばゆいがもう二、三週間もすれば雪が降りはじめて、それでじきにみな白く埋もれてしまうのだから。

 だってともえが男を取っ替え引っ替えしすぎるんだそのせいで、ともえの息のかかっていない男とかまわりにいないし。
 悪かったなあばずれで。あたしのお下がりでは不満か。
 いやしょうじき良くわからない。じつはわたし、つい最近まで処女だったんだ。
 うん。
 でもあいつ。ともえの言っていたほどヒドいやつじゃない気はするよ。
 じゃあよかった、うまくいってんのね。
 たぶん。あなたとのやり取りもこうして仲介してくれたし。
 じゃあとりあえずそのまま上手くやりなよ。ああ、さんざん責めるつもりでいたのになんだか、責任感のようなものが芽生えてしまったわ。あとおまえ、ところどころ言動にごっているのに子鹿みたいな目であたしをみるのはもう止めにしろ。きょうは、男のはなしやグチはなしだ。下りたらあとから話す。山のカミサマは女神なんだからね、そういうあたりは敏感なんだよ。
 うん、わかった。ほんとうは、そんな一言ではとても分かり合えたりしないだろうが。ひとまず『わかった』

 冬がみるみる間に近づいても、わたしたちの欲動は昂進をしつづける。
 言うまでもないが、わざわざ雪の積もった山にのぼるなんて狂っている。台風の真っ盛りに川のようすを見にいくぐらいただ愚かしくて、ただひたすらに楽しいだけの享楽てきな行為だ。だけど登山はスポーツなので、スポンサーがいるので、歴史と権威があるので、だれもがそれに挑む権利があるわけで。それを阻むことはだれにもできない。しょうじき他人ごととして言えば、だれかが止めるべきだ、免許制とかにしてもっと規制すべきだろうこんなにも危険なあそびは。一歩まちがえば死ぬような場面がごろごろしているし、じっさいにそれでたくさん死んでいるし、救助をおこなうがわもけっこう死んでいるし、しょうじきやっている本人もこんなのおかしい狂っているって、よっぽどアレなひと以外はそう自覚をしている。薬物依存の人間がだれよりもその害を自覚しつつ目を爛々とそれを摂取しているのと登山家のすがたはよく似ている。死にたくないからといって山から離れたりはしない。死ぬかもしれないから山がすきなんだ。

からだにわるいからタバコがすき
頭がわるくなるからアルコールがすき
非合法だからドラッグがすき
そうしたものを好む人を好きなひともまたその不健康さや不健全さや合理性のなさに憧れている、死に憧れるひとたちは死にやすさに惹かれてしぜんと山にあつまる。どうしてそんな危険なことを、とまともな人から指摘されても、わけ知り顔で頷きながら内面ではきょとんとしている。じゃあこの人はなんでそんなに生きていたいのだろう、とむしろ気になってしまう。そして無責任な行為で他人に迷惑をかけている、と非難されるとまったくそのとおりだよな、そうかんじてまた山に登りたくなる。登る。なのに死なない、まだ死なない。じぶんだけが死なない。
 感覚がマヒする、雪庇とくべつのつかない崖のすれすれを何度もなんども歩むうちに自分はただしいラインを見透かすことができるのであると確信する。そうして生きながらに死を克服する、いざ狂ってしまえば人生はあんがい楽しい。

 わたしたちが二度アタックして頭頂間近で天候がくずれて死にそうになったルートを三度目に挑戦したとき、わたしとともえはもうそっちがわの人間になっており、もはや死をおそれない。おそれられない。一般道からの登山口にはいったあたりで秋もののブルボン新作お菓子を批評しつつ齧りながら消費して荷物をじょじょに軽くしながら二日目。ルートに入る前日は雪を溶かした松のお茶と羊羹で夜食を摂る。三度目のアタック前日である。夜明けはこれまでになく、本当に晴れわたっておりわたしたちは嬉々として山頂へとむかった。もちろんそんな場所になにもないことはわかっている。なにしろ、わたしたちの以前にも多くのひとがもう登頂しているのだし、ヘリからの空撮写真はカレンダーの素材につかわれているわけで。
 きゅうに雲がおおった、というか、冷たく澄んだ大気にきゅうに湿気が流れ込んだのであたりが霜におおわれホワイトアウトしてしまう。そうして空と地表が熱を交換しあう対流で前兆のない吹雪が肺のおくまで凍てつかせる。咳こみながらじめんに突っ伏してやりすごそうとするのだが、みるみるまに体が、パウダースノウに埋没していく。これはもう、どのみち死ぬな、とおもって身を起こすと耳やまぶたやほおに出来た氷が凍って裂け目のはいる感触があった。でも、血も出ないのでそれが幻覚かどうかも判別がつかない。目の前にくろい人かげがあった、あれは有下ともえだろう。そうだ、もう上り数メートルで山頂のはずなのだ。もちろんそこに他にはない何かがあるわけではないということなんて、分かってはーいるのだけど。太陽も方角もわからないので一先ず、ともえの人かげについていく。たった一二メートルさきにいるはずなのに、轟音で声をかわすことすらできない。口を開けると肺が咳こんでまた咽せてしまう、結局はこえを出すことすらできない。黙々とあるいた。そのたった、十数歩のはずの距離を永遠のじかんをかけて。
 ああ死は安らぎではない、死はうるさい、死はいたい、死はつめたい、その感覚はどれもいがいとありふれている。では現実はどうか、そこには何かそれいがいのものがあったのか。

 気づくと嵐は止んでおり、わたしは倒れ臥しているじぶんを発見した。
 有下は消えてしまった。あの気の狂った山頂へつづく丘にメタリックイエローのカラビナ、オレンジのロープ、赤いしましまのスリング、そうしたあざやかな痕跡だけをまっさらな雪原に点々とのこして。きっとあちらがわにたどり着いたのだろう。
 山頂は目と鼻のさきにあった、でもその場所になにもないことはもうわかりきっている。茫としたしじまだけがそこにあった。泣きながら下り始める。雲ひとつない青ぞらから燦々と陽光が降り注ぎそれが足もとの白にむらみやたらに反射するのでゴーグルをつけた。どうやら今回わたしは死なないらしい。そうして下りたらしばらく有下のことをわすれてしまうに違いない。
 そしてきっと取り戻した生を感受するだろう、サラミやパラペーニョをがんがんにトッピングしたピザをデリバリーして冷凍庫でキンキンに冷やしたウオッカとカロリーのある本物のコーラとを交互にしてそれを食い尽くす、やがて山のことを忘れられるくらいに酔っぱらったらせがるようにきみをしゃぶってセックスしてその、あったかい身体を抱きしめて眠る。何日かはそんなことを続けるのだろう。でもきっとそのあとには働かなきゃな、なにしろ、山を登るためにはとにかくカネがかかるんだもの。

 徐々に陽にあたためられたはだに感覚がもどってくると手足は重いどころではなく血が水銀に置きかわったかのようで何度もなんども転ぶ、いつのまにかストックを両方なくしてしまった。さいごの峠を越えてひとの住まう場所がとおく眼下に見えてくる。アタックに失敗した下山ではこういうところで遭難する、気がはやる、足がはやまる。そうして生き急ぐからだをとどめることは誰にもできない。もはや体力も気力もくべつがつかないが、どうにかしゃがんでトレッキングシューズの紐をがちがちに締めあげる。擦り減ったわたしの意思にできる最後のこと。いま足を挫いたらたぶん死ぬ、そしていちど腰をついてしまえばもう立ち上がれない。
 ふとほおに触れると主観ではぐしゃぐしゃに泣いていたはずなのに汗のいってきも指にふれない。乾ききっている。なんどみても空の水筒がいまいましくてもうフタを捨ててしまった。下るにつれてどんどんとさきほどまでのじぶんを忘れていく。そら恐ろしいほどに生きたくてしかたがないのだ。あちらの日常にかえりたい。でもまだわたしはぎりぎり覚えている、そしてまったく忘れてしまうまえに戻ってくる有下ぜったい戻ってくるおまえに追いつく。だからそれまで待っていろ。

きみとつよくてニューゲーム

執筆の狙い

作者 m.s
146.75.196.23

35枚ほどの短編になります。
よろしければ、忌憚のないご意見をお願いいたします。
内容が駆け足ですみません。最終的に250枚くらいまで膨らませたいなあ、と思っています。

また。まだ資料も足りないので、印象的な登山ものの小説や映画やアニメやマンガなどあったら教えて頂けましたら幸いです。

よろしくお願いいたします。

コメント

素朴な侵略者
sp49-97-98-228.msc.spmode.ne.jp

拝読しました。

まだ完成形ではないということですが、完成形がどうなるか全く予想できなかったので、読むにあたっては、完成系とみなして読みました。
各パート?にゆるい繋がりはあるのですが、良くも悪くも焦点が合わず、部分部分の集積といった印象です。だから全体で何かを語ることはできなくて、部分ごとに分解してしまうのですが、ざっくり言えば、人間関係(会話含む)や登山のところは正直あまり面白くなくて、物語(小説)とゲームに関するアナーキー的な記述は面白かったです。

直ちに意味に還元されるような分かりやすい文章ではないので、行ったり来たり、またはじめに戻って読み直してみたりとしましたが、不思議にその行為に飽きは来ませんでした(なんとか解読してやろうというような気にさせられました)。だからそういう意味においても、焦点が合わないことが何かしらの面白さを醸し出しているのかもしれませんが、現状では分かりづらさのほうが優っていて、良いとは言えないのが正直なところです。
また、かなりの頻度で漢字をひらいておりますが、その必要性があまり感じられませんでした。単純に読みにくいです。どういった意図があって、こういうひらきかたを採用しているのでしょうか?

ありがとうございました。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

ゲームと登山のリンケージが分からない(というか、私自身がおそろしくゲームに疎い&苦手すぎて、ついてゆけない)
んで、中身読めなかった。


ざざーっとスクロールしてみても、『なに山(どこ山)に登ってんの??』で、
そこは基本情報だと思うんで、書いときましょうよ。


ここのサイト、前に「軽い登山もの」上げてた男作家の原稿が、後出しで「標高300メートル未満な超低山」で、、、

そんな「実家近くのJR駅の標高より低い山!」が、かえってイメージできなくて困った。

だもんで「感想で素直にそう指摘」したら、
有象無象外野から【300メートル未満の山は、普通にあります!】バッシングされたんだが、、

この小説の場合「雪山」。
長野とか、群馬・新潟の県境の山のイメージでいいのかな??
(後出しで、北海道とか言わないよね??)




登山の小説って、夢枕獏が書いてる。読んだことはない。
漫画だと『岳』とか有名だと思うんだけど、これも読んだことない。
映画だと、『剱岳 点の記』が良かった。

10月はたそがれの国
n219100086113.nct9.ne.jp

作中、雪山でホワイトアウトが出て来るみたいで・・
(画面スクロールで、その文字列は見た)

そのタイトルずばりのサスペンス映画は、奥只見が舞台な設定。(撮影箇所はより麓に近いスキー場のあたりだったけども)

それよりも、「雪山ホワイトアウト」で、日本人の9割7分ぐらいが即連想してしまうのは、
やっぱ八甲田だと思う。。

八甲田を連想してしまうと、読者はもう「とてつもなく陰々滅々気分で、どうしようもない」し、
奥只見を連想してしまうと、「真保裕一と比べられる」から!


だから、【どこ山・なに山設定なのかは、はじめの方でしっかり書いとく】のが、読者にフェアだし、
作者も安全? だと思うんですよ。

m.s
104.28.4.65

素朴な侵略者様

お読みいただけまして有難うございます。
紹介文が分かりづらくて申し訳ありません、これはこれで一つの小説として書いたつもりですので完成形とみなして読んで頂くことになんの問題もございません。
ただ公募に出すときにはもう少し長くしないと間口がせまいので脳裏にそのようなイメージがあるというだけです。

印象の分散はまったく技量の不足によるところです。けっこうこんな、ごつごつした感じでもっと長い文量を平気で書いてしまったりしますし、書いているときには客観的に気づけない人間なので教えてくださってありがとうございます。
合間をパテ埋めして分かりやすく均したほうが良いのか、このようなゴツゴツ道でそのままもうちょっと遠くを目指したほうが良いのか、など。今後もかんがえます。

さすがに自分が分かりにくいものを書いているというまでの自覚はありまして、しかし分かりやすいものをきちんと分かりやすく書いている方は他にたくさん居られるわけで、率直さではかなわないだろうという思いがあります。じゃあどうするか、など。

漢字をひらくことに関しては、よく指摘をいただきまして、言ってしまえば単純に「ひらがながすきだから」という事情によります。どうやら俳句でも語句の区切りのスペースや改行を入れないことでわざと安易に読ませないそうで、そういう「うざさ」がどこか好きです。読みづらいけど読めはする、という折衷ですこしく足をとどめさせたい。しかしわたし自身も情報メディアとしては硬質な漢字の多い文書を好ましく思います。
なので小説の文体においてそうした無駄やぬかるみを表現できる余地があるのならもう少し試してみたいな、という思いでいまのところこのような所作にお付き合い頂いているのですが、書いている私か読者のどちらか、すっかり匙を投げたらこんなことはもう止してしまうのかも知れません。


以上

お読みいただけましてありがとうございました。

m.s
104.28.4.65

10月はたそがれの国様

お読みいただけましてありがとうございます。ただ、お目汚しをしてしまい本当に申し訳ない。
つい一週間まえほどに二人の人物が登山をしている夢をみてこの話を書き始めただけで、私は登山や日本の山についてなにも知りません。書き始めてから興味をもったものです。それで図書館で本を借りて読みはじめたあたりです。

したがって、作内の山について実在のモチーフはありません。あえていえば昔見た黒澤明の映画オムニバスの夢という作品が原イメージになります。どのような山が相応しいのか知りたいとはおもっております。

『剱岳 点の記』はまえに山岳宗教の本を読んでいるときにも紹介されていて興味があったので見てみます。ほかの紹介していただいた固有名詞についても参考にさせていただきます。


以上

もともと山に興味があったわけではなく山の夢を視たのでそれを上手く小説に書くために知りたくなった者でした。

13hPa
KD111239122205.au-net.ne.jp

まだ書いてくれていて、それだけで嬉しいです。
ここにはいちいち読むべきものがほぼ見当たらないし、それはもちろん好みという問題に尽きるだけのことなのであたしだけの問題なんですけど、こういう面倒臭いやつがとんと存在しないのが当たり前なら同好の嗜みなどというものはただの見栄の展覧会でしかないと思ってるんです実際確かにそうとしか見えないので見下してるんですけど。

いけね、迷惑掛けちゃうからやめとくか。


夢きっかけでここまで書く執念に呆れます。
もっと書きたいことに突き抜ければいいのに、なんて思うんですけどそれがこれっつことか、なんて。
恐ろしい集中ですね。

一度読んでみて意味わからなかったんですけど、二度目はちょっと手抜きのつもりで読んでみて、その方が輪郭みたいなものは読めた気はしています。
何しろ気になったのはセリフの割りがないことなんですけど、セリフ大好き派としてはセリフってそのキャラクターの呼吸地点みたいなものだと思ってるので、あえてそれを投げ打つ魂胆にはじつはあまり共感思い付けていないですし、実際だれがどこで何言ってるのか、今も完全にはわかってないですし、ある意味わからなくてもいいんだろうな、っていうのが率直な感想だったりしてます。

山のお話、という先入観に引きずられたくはないんですけど、全編通して“稜線”的な緊張を意識させられながら読み進めさせられる感覚はまったく心地のいい読書感で、面白い面白くないではなくて単純に惹かれるという観点でしか付き合えない質の者としては貴重な集中こそを引きずられた気がしています。

先に言った”わからなくてもいい”というのは、わかってもらえないかもしれないんですけど、ちょっと辛辣なことを言ってしまえばフェーズとか、そんなことのような気がしてるんですね、個人的には。
35枚が250枚に昇華するとき、一体どんなことが書かれるのかは期待と妄想をダシにして何となく予感なり想像は付かない気がしないでもないのですか、そんなつまんないことはここで言っても仕方ないので言わないし、むしろわかる人だろうからその遥か上を企まなければならなくなるようにハードル上げとくチアってことで。

そんな将来の出来を占うに当たっての”わからなくてもいい”ってことなんですけど、つまりフェーズですか。
上手く言えないんですけど、書き手として書きたいことっていうのは書き手ならではのことであるべきなのか、っていう極論すごくつまんなくてダサいだけのことなんですけど伝わるのかな。
溜まりを汲むばっか、流れについていけてんの? っていう変化への感度とかスピードとか、究極は無意識にやらかすだけのことなのかもしれないんですけどつまり、何だか時代にそぐわないアクセスにとどまってる印象が強いってことです。
どうせ個人的は好みのハナシでしかないんですけど、”わからなくてもいい”っていうのはつまりそういうことのような気がしていて、実際このお話もわからないでもない気がしているっていうことは、ちょっと言い方悪いんですけどある種のフェーズに踏みとどまってるっていう属性こそを察するってことだと思ってるんです個人的には。
つまり、切り出し方が何だか新しくない。

見た目でも感じ方でも文体のことでも何でもないです、むしろ説明出来る範疇ではないやっぱり“書き手ならでは”というただの勘において疑いがない。
それを自信と見るのか作為と見るのか試みとして付き合うのか、読者としてそれに付き合う義務はないというただのわがままにおいて感じさせられることです。
“わからなくていい”っていう“わかる属性”っていうのかな、ジャンルとして平に受け入れられる。
それっていいことですか、悪いことですか。
あたしにはm.sさんの答えが何となくわかるからあえて言ってしまうんですけど。



ながくなっちゃったから次いこ

13hPa
KD111239122205.au-net.ne.jp

三千文字しばりとかまじでダルすぎですよね、こんなことばっかする人間に三千文字なんて日記でも足りないレベルでしょやる気あんのかと独り言。

つづきましょ。



>さすがに自分が分かりにくいものを書いているというまでの自覚はありまして、しかし分かりやすいものをきちんと分かりやすく書いている方は他にたくさん居られるわけで、率直さではかなわないだろうという思いがあります。じゃあどうするか


馬鹿には頷けないハナシですよね。
ちがうか、わかってる気がしてるだけの人には、ってことなのかな穏便に化かすなら。


ただの下手がいて、その上にただ目立つだけの下手の変態がいる。
それを子分に仕立てて穏便な根暗で居座る古臭いだけ達者気取りがいる。
それを遠巻きに眺めるだけのただの下手がいる。


ってこれこのサイトのダメな部分のハナシなんですけど、そんなことすらある種のフェーズってことで、要はわざとなのか天然なのかただ性格悪いだけなのか、っていうまたしてもそのフェーズってことであたしはそこばかり見て文章ってすごいなあ、って感じさせられるばかりなんですけど、要はそのスピードが合わないんです。


この度の作品を読ませてもらって一番に感じさせられたことはお話の内容とか文体とかそんな型式みたいなハナシではなくてただ単純に、表現的なアクセススピードが、恐らくは無意識かもしれないんですけど、前時代的な愛情とか思いやり方に良かれとして取り残されてる気がするってことなんですね。
“わからなくてもいい”っていうのは読まなくてもわかるというある種のフェーズ属性という安定のことなのかもしれなくて出来としてはつまり上出来。
ただ、“面白い”を何とするか、という意味においてあたしはm.sさんとはかなり近い距離で共有できるものを勝手に感じているので、これってまったく好意的なある種の期待外れだと思ってます。

次のフェーズに先に向かうのは言葉とか文章ですかね、それとも人間なんですかね。
わからないんですけど、でも恐らくは勝手に生えるような感覚に気付くことでしか、面白がれない、馬鹿を突き放せない気がするんですね。
あ、すでに馬鹿寄り付かせないものは持ってるのか。

とはいえそんな先にしか普通って呼べる水準ってない気がするんです。
当たり前なんですけど。

はっきりと完成形ではないと言うべきのような気がするし、書き手としてともえに十分にアクセス出来ていない気がします。
それは一読者としての単なる不満ということ。
物語の稜線を司るともえに存分に憧れて呆けるべきなのが書き手であって愛情であって、シビれてなんぼが“書く”という手放せなさみたいなことだと個人的には思ってます。
そんな読書を期待するばっか、ってことなんですけど。

文体も挑戦もありましょうし、ぜひオリジナルに挑んで欲しいんですけど、今の状態では稜線に棲むともえの何かには届かない気がする。
それは誰が語るのか、あるいは語らないのかということでもあるのかもしれないし、何を語れるのかという品性のことでしかないのかもしれない。
また馬鹿にはわからないこと言ってしまったんですけど。

すでに答えがあるなら、文体は変わらないですよね。
だとしたらそれで辿り着くものを読みたいとはやっぱり思うし、でも大変そう。

現時点では緊張と文体の相性がはっきりとよくない気がするし、そこに大きなともえは現れてはくれない気がします。
って、それはあたしのただの好みのハナシでしかないんだろな。


ご健筆をー。

m.s
104.28.4.65

13hPaさま

お久しぶりです。ご健勝のようでなによりです。こちらは元気にやっております。
相変わらず書いております。そして書くことと読まれることは不即不離なので『読ませるあいてが居ないのに、いますぐ読まれなければいけない』というニーズは宿命的におとずれ、そんなときにこの場所をマッチングサイトのような感覚で利用させていただいております。
前回はたしか、去年の春に10枚ほどの掌編をあげましたが、これくらいの長さのものはもうずいぶんと久しぶりになります。
昔は公募の落選作を上げたりしていたのですが、長いものは上げられなくなったので。

・夢とセリフについて
セリフを記号で区切ることに関しては、どこまでが内面でどこからが実際に音になったのかを明示するときには必須ですが、本作ではそこまでしなくても良いのかな、という感覚でした。夢を題材に小説を書くことはよくしており、むしろ覚醒した現実の意識のなかで「あ、これは小説にできる」と内心に拳をにぎるシーンはもう長らく訪れておりません(もしや死んでいるのだろうか)。

なのでこれは小説になる。というタネが夢に出てきたらそれは気になるが、かといって別に書いているものもあるわけでそちらを中断するわけにもいかない。だからタネを保存しておこうなどと考えました。忘れないうちに要素のそろった形でちゃんと残しておこうと。すると小説のタネは小説としてしか保管できないので、それをだれかに読ませたいという意欲もセットなのですね。だから一刻もはやく仕上げて読んでいただく必要がある。すると、短編の本作にて人間関係を綿密に演るところまではとてもムリだろうな、またそれは保存に際し本質ではない、とも考えました。

さてじゃあ、これは書けるのかな、書けないのかな、ではどうすれば書ける? という妥協をめぐる駆け引きにどんどん躊躇がなくなっていく感覚があります。
この一作でいろんなものをブチ破ってやるんだ、という野心だけでなく、まず時間を注いだからには質はさておきひと何らかの出力、目に見える成果物はひつようだよね、という社会人てきな老獪さが出てきたりなど。


・「まあコレべつにきみには分からなくても良いけどさ、でもじつはコレってコレコレこういう事でさ、まったくそれについてはもう良くわかっているんだよね。やはりきみには分からないかも知れないが。さておき、結局はここまで読んじゃってるわけでもうそれはそれで良くないか?」という作風と姿勢について。
 指摘されているように、その方本論で長編を頭からおしりまで読書体験で引っ張っていけたならそれは一つの正解であると、私は不遜にもそう考えております。「ようは面白いかどうかだよね?」と。

・同時代性からの乖離や古さについて
これは、無視できない焦点です。しかしごめんなさい。時間が足りなくなって来ましたのでまた後日、できましたら御作への感想にかさねる形で言及をさせてください。まだ読めていないので違うかたちになるかも知れませんが。

・ともえについて。これも思うところは在るのですがここに書くのは蛇足ですし、かならずさきは書きますと、いまはそう言葉で応えておくしかありません。


以上
お読みいただけまして有難うございました。

森嶋
om126156151187.26.openmobile.ne.jp

村上春樹的な冗長さがあるんですが、それが春樹ほど面白くなかったです。
まぁ春樹と比べるのは酷だと思いますが。

ところどころに散りばめられた哲学的な表現は興味ぶかいんですが。

m.s
146.75.196.18

森嶋さま

春樹きた。と思わずこえが漏れてしまった。いえ森嶋さまにも村上春樹にも失礼なはなしだとは思うのですが、感想欄で例にあげられることが多くて。
また理由はわかっており大学の卒論でテーマにしたので、一時期にすべて読んだのです。すべてというのは海外記者によるインタビューや、全集の付録の「自作を語る」という短い自評、はては中嶋らもの作品によせた解説にいたるまで。
その反動か、いまはまったく読まないのですが、いまでも春樹要素が根付いているのだろうか。村上春樹にまったく罪は無いのですが、いまでも思い出すと赤面します。同時代の売れっ子作家を卒論のテーマにするなよ。と

せっかくなので春樹らしい一文を即興で演ろうとしたのですが、出てこないな。たしか、三年くらいまえは出来た気がするんですが。

お読み頂けましてありがとうございました。

地蔵
KD111239154015.au-net.ne.jp

再読を必要とする小説で、これをもし作者様が意図されているのであれば、それにまんまとハマってしまったわけですが。
もんじゃさんの方は精読しようとは思わなかったのですが(すみません)、こちらはそうしたくなります。前者は視点の不備(と言ったら怒りますか?)と情報の少なさによるわかりにくさで、探求心を刺激されないのですが、こちらは主人公の人格と整合したそっけない(省略や思考のスキップによる情報の少なさ)語りと、にもかかわらずこの人物には固有の認識や思考のフレームがあり(つまり魂があり)、よくわからない箇所に行き当たってもあれこれと考えるうちにそれなりの答えにたどり着けるという安心感があり、精読し甲斐があったためです。とは言え、どんなに考えても何のことやらよくわからない箇所も多々ありました。また、冒頭の登山の場面がどの時点のものなのかよくわからず、おそらくそういった時間の流れの正確な理解はこの作品の理解にとってあまり意味を持たないことなのかもしれないとは思いつつも、ちょっとストレスを感じました。また次の場面が延々としゃべり続ける主人公の言葉の一つをきっかけにして展開されることがありましたが、こういった場面移行のさせ方はとても場当たり的で無計画な感じを受けます。この語りのライブ感を良くとるか悪くとるかですが、私は悪印象を持ちました。それと、作者様が意図してされていることに対していちいち指摘するのも気が引けるのですが、正直な意見として言わせていただきますが、謎に開きすぎる漢字と「」を使わないスタイル、私はものすごく苦手でした。そして、散見されることさらウィットをひけらかそうとする気障な会話たち、ちょっと辟易させるものがありましたが、他の方がおっしゃっている村上春樹の悪しき影響がこういったところに出ているのかなと感じました。
しかし生きて行動し発言する人物がちゃんと描けていて、実在の人物のように立体感やリアリティを感じさせるというのはすごいことだと思います。素人の多くはたぶん人物を観念的で血の通わない記号的な人物や紙製のペラペラの人形みたいなものにしてしまうと思いますので。ただ憾みというか懸念があるとすれば、この主人公が作者の分身みたいな存在で、作者がよく知っている人物だからこそ生き生きと描けるパターンの場合、つまりいつもこの手の人物を一人称の形式でしか描けないというのであれば、それはプロになることを考えた時にどうなのかと思ったりします(他の作品を拝読したことがないのでその辺りはわかりませんが)。というのも正直に言ってこの手の人物像(賢く多弁で気の強さと繊細さの両方を併せ持ち独特の感性を持っている人物、たいてい一人称の形式で描かれ作者が世界を切り取るためのフレームとして導入したかのように思える人物)にはあまり新味が感じられず、飽きられやすいのではないかと思えるからです。
生きる意味が見い出せずニヒリストっぽくなった主人公が、スリリングな状況によって分泌される脳内物質の依存症となる。これは、テーマとしては割とありふれているような気がします。これに対する評価は両義的なものになると思います。ありふれているからこそ、普遍的ということができるからです。生きる意味がないという端的な事実は、いつの時代でも、あらゆる国の人々を悩ませます。それ自体魅力がなく、辛気臭く、病的で、場合によっては幼稚とすら見なされかねないものであるにも関わらず、やはり重要であり続けるテーマです。内省の火遊びによる自業自得、自作自演とも言えるこういった陥穽にはまり込んだ人物の寒々しい心の風景が、ゲームを通して描かれるのはとてもキャッチ―だと思いました。私が思い浮かべたのは「荒野行動」というゲームの配信動画でよく知られた、希死念慮に捉えられた少女の自殺の一件です。極めて個別的な出来事ですが、一見すると快活で礼儀正しい、昔と比べれば明らかに洗練された好ましい若者たちが、この世界の端的な無意味さから来る寂寥感、虚無感、そういった心の闇を抱えて生きているという現実を象徴するような出来事だと解釈しています。一線を越えたこの少女に対して、多くの若者たちが異常に関心を寄せました。高度に情報化され、成熟した社会で、賢くなりすぎた若者たちが置かれている同時代の空気というものを、ゲームというモチーフを用いることによってうまく表現できていると思いました。

>冬がみるみる間に近づいても、わたしたちの欲動は昂進をしつづける。

ここからラストまでがこの作品の圧巻となる部分だと思いますが、この箇所の迫真性は素晴らしく、グイグイと引き込まれます。山に取りつかれた者の狂気が語られ、破局へと至り、ちょっと古臭いですが宮台真司的な意味から強度の世界観が一つの結論として提示されているかのようです。概念としてはよく知られていて、今ではやや陳腐にすら感じられるその思想が、力強い筆致によって生命を更新し、非常な説得力をもって迫ってくるのを目の当たりにして、作者様の書き手としての力量を感じずにはいられませんでした。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

m.sさま

拝読しました。

感じたままを書いてしまいます。

高慢、散漫、自己満。

印象としてはそんな感じでした。

山→ゲーム→山、の構成はよいとして、文芸誌なんかではお馴染みの文章、つるっといけないのは呑むとして、この書き方でなきゃいけない話とも思われず、こういう文章を、上手い、と感じるのは、こういう文章を読みなれていない人たちだけで、それってあんまり意味なくて、だから表現したいものに応じた、いくらかフレキシブルな文章で、例えば、御作の、生きてる作家のじゃなくて死んでる作家の完結した息吹こそが好ましい、とか、そういうくだりが、もっと素朴に挟み込まれていたら、そこにある体温みたいなのは奪われないのに、構えた文章で、もったいつけた語順でそれを表されちゃうと、わかるんだけど頷けない、みたいなレシーブになってしまって、スパイク受けるためにこちとら読んでるんじゃねえぞ、と不貞腐れたくなるような。そんなあたりに、高慢、って印象を受けたのでありました。

散漫、については、書き手も自覚があるのであろうと察するけれども、キャラが話の導線に沿って、その体を動かしたり、その意識を動かしたりしていないから、お話の進行とは無関係に、いわば日記的に、思いや考えがとりとめもなくテキストサーフィンしてゆくので、三十五枚ですか、この長さだから読みきれたけれども、この文章で二百五十枚は無理ですよ、たぶん、少なくともこの読み手は脱落しちゃいそう。

あと、自己満足ってことについて少し書かせていただくと、確かに、話を読み手に「解っていただく」必要は必ずしもない、と、この書き手でもある読み手も思います。しかし「味わって」はいただけないと、「感じて」はいただけないと、無意識下の何かには訴えないと、読み手に面白いと思ってもらえないし、もっというなら「あれ、ここ飲み込めないや」みたいに、分からないことを分かってもいただけない。じゃあ御作が、無意識にアプローチし得ないテキストなのかっていうとそんなことはなくて、御作、読み終わり、面白かったな、と思えた。だから伝わってはいる。じゃ、何が問題なのかっていうと、「分かってもらいたい」っていう態度では、文章が、つまり言葉の配置が、まるでない、ってあたりです。これだけ不親切な配置をしていて、つまりサービス精神がなく、分かるやつだけ解らずとも分かれ、的に表されちゃうと、伝え難いことを懸命に伝えようと工夫し尽くしながらもなお伝えきれない、という作品がごまんとあるただ中において、書き手が書き手だけで、「読み手の協力を求めないで」満ちちゃってる感じがあって、自己満足的だよな、って印象がこの読み手には強かったです。

あと、具体的に文章。最初のあたりだけ、ちょっと引用させていただきます。

>可哀想であまりにあわれだったからまるで義務のようにして交わったのだ、道端でであった死にかけの生き物を救護するようにして、それはとても自然な成り行きだった。そうしてじぶんの意思と義務感の区別もつかないままにわたしは処女を棄ててしまう。

出だしの一等最初。

>可哀想であまりにあわれだったから

可哀想、ないしは可哀相ってのは、読んで字のごとく、哀れに想うことが可能なありさまを指すわけだから、

可哀想であまりに哀れ、ってのは反復表現だし、強調したいがために、ばなな的に、わざとなのかもしれないけど、作品のドアタマでそんなふうにされちゃうことに見あった効果も感じられないし、読む人間が、あ、語感よろしくなくない、っていきなり小さな×を付けちゃいかねないから「よろしくない」かと。

>道端でであった死にかけの生き物を救護する

ポエムな表現なのかもしれないけれど、であった生き物? 道端で、死にかけの生き物を、みつける、んじゃなくて、出会う?
同じ意味でも、出会す、ならまだいい気がするのだけど、道端の、猫? トンボ? トノサマガエル? そういうのに「出会う」?
森の熊さん的な表現なのだろうか?
出会ったのは性的な相手だから「出会う」でよいのだけど、言葉の配置として、順番として、死にかけの生き物に出会う、って響きが強すぎて、そこんとこにも、語感がよろしくないなと小さな?マークが付いちゃいそうな。

>生き物を救護する

ここも同様で、救護、って言葉を、動物のお医者さんが遣っていて、対象が傷付いた迷子の飼い猫だったりしたら無論飲み込めるのだけれど、この文章において救護する対象は「道端の死にかけの生き物」なわけだから、道端って言葉と死にかけって言葉から、この読み手は、トンボか、カナブンか、そんなあたりをイメージしちゃうから少し気持ちよくない。傷付いた迷い猫を救護するみたいな憐れみでもって相手に処女を差し出しちゃった、ってなんでそんなふうにシンプルに書かないのか、と。なんでもってまわるのか、と。もってまわる意味は、効果は、狙いは、何かあるのかと。

>それはとても自然な成り行きだった

それ、って指示代名詞は、「義務的に交わったこと」を指してますよね?
だから違和感がぬぐえない。
義務、ってのは、いやいやしかたなく、強制されたことや、決められたことを、自由意思に基づかないでやる、その負担をいうのでありますよね?
でも、この人物は、しょっぱなで「あまりに可哀想で」って書いてる。あわれで、あわれで、みたいに重ねて表してる。可哀想ってのは自発的な感情でありますから、つまり、可哀想に思って交わったんなら、自由意思で交わったんであって、やむなく役割を与えられて交わったのではないわけで、土台、義務、って言葉とは親和しないのであります、が、そこは、可哀想という己の感情に己の意志がそそのかされて心ならずも、ってことを、やや硬く、義務、って表してるんだってことにして(それならそれで違う文章が適しているとは思うのだけど)飲み込んで読み進めたのに、さらにまた、

>それはとても自然な成り行きだった

とくるからもうどうにも気持ちが悪いことになる。

一、可哀想という思い
二、義務
三、自然の成り行き

てんでばらばらじゃないですか?

一と三はいくらか親和するけど、可哀想に思ってやっちゃうのと、流れに流されて成り行きやら弾みやらでやっちゃうのは違うし、ましてや二の、義務やら責務やらで、それこそ対価をいただいた風俗嬢さんがお客といたすのと、一、二はまるで違う。
成り行きで客とやっちゃう嬢がいないように、「義務的に」かつ「自然に」処女を失う女の子もいない。

みたいなあたりから、言葉の遣い方が雑駁だな、って感じるのでありました。

つづきます。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

m.sさま

つづきました。

>意思と義務感の区別もつかないままに

そんなことはないでしょう?
道端の生き物を救護しよう、ってのは意思であり意志であります。可哀想って自発感情により形成された能動的な意志です。そういう言葉で書かれているそういう文章です。
義務、ってのは、与えられし役割に対しての言葉であり、「可哀想→助けよう」は明らかに義務ではなく自発でありますれば、その区別を語り手が付け得ていないって帰結するなら、別の言葉で別の文章が紡がれていなくてはなりません。感情に意志がそそのかされてやむなく、みたいな。表したい内容は伝わってくるのだけど、文章が、その内容に適した言葉で構成されていないから気持ちよくないのです。

というような意味で、言葉の配置に、この読み手はセンスを感じないのでありました。言葉を、選んで、吟味して遣ってこの表現になっているんじゃなくて、なんとなく、感覚的に、慣れで遣ってこの表現になってるんだな、と感じるのであります(結果、煙幕にしかなっていない)。言葉がそういう配置になっておりますと、これは気持ちよくない。不協和音を、その必然性もなく聴かされている状態です。
何かを正確に表すためにもってまわった表現にならざるを得ないなら、それはしかたがない、リーダビリティを損ねようとも、しっかりとした語句選択に努めながらもってまわるべきであります。しかし、スタイルとして、ファッションとしてもってまわるくらいなら、もってまわらないほうがはるかにいい(と思う)。もってまわられちゃうことで簡単に分かってもらえることすらだに分かってもらえなくなる(無論、解られようがない)から。分かられたくなくて書いているならまあその目的は果たせているのだろうけれども。
御作は、内容的にも散漫だけど、テキストたちが抱えている言葉の配置も散漫で(リズムもよくなく、メロディカルでもない。ごつごつさせたくて必然性もなくごつごつさせられた言葉たちだと感じる)、だから内容が、よりいっそう気持ちよく読み手に届き得難いのであろうと思われるのであります。

うろ覚えだから、勘違いだったら申し訳ないのだけど、書き手さんは、ずいぶん前に、隣室の声、についての作品を書かれていませんでしたか?
いや、ほんと、別の方かもしれないのだけど、その作品を拝読したとき似たようなことを感じました。すごく印象深い作品で、書き手はたくさん読まれて、たくさん書かれておられるのだろうとお見受けしつつ、その力量に唸らせていただいたような記憶があります。しかし、その作品にも、表し方の散漫さを感じ、それを指摘するのも、拙作を読んでくださった、というようなえにしもまるでない方に対してぶしつけかな、と感じて感想は残しませんでした。
人違いだったら流してください。
で、今回はなぜこうして長々とした感想を書かせていただいているのかというと、この作品の文章は上手い、と、AさんがBさんに言ったようで、そしたらBさんがもんじゃに、あの作品に感想付けてこいや、と半ば以上挑発のように言ったんですよ(いやもうほんとまんま獅童の台詞なんです^^;)、だから義務的にだか自分の意思だかそれこそよくわからないままに、ってこんな場面で遣えばいい表現なんでしょうか、もんじゃは書き手さまを憐れに思ったりしてないし、救護して差し上げようとも思っていない、半ば強制されて、しかしまあ半ばは、綱を引っ張られたわけでもないので自分の意思で以上を書かせていただきました。

あと、漢字の開き、さすがに開き過ぎでありますから、これも読み手に資する要素はあまりなく、書き手の趣味に思われ、そこんとこはお好きに、で勿論構わないのだけれど、skyが空になってたり、そらになってたり。意図がないなら、表記のぶれとして校閲さんに拾っていただかなくてはならない箇所になるわけで、開くなら開くで、意思なり責任なりをもって開かないと、成り行きで散漫に、じゃなく、通すべきを神経通して通しきらないと、それはやはり高慢な、あるいは自己満な印象をある種の読み手には与えるんじゃないかな、って思いました。もってまわった言い回しである、ということと、神経が通っていないことは実に馴染まないものでありますれば余計に気になるのでありました。

内容の面白い、面白くないは主観でありますから、個人的には、あまり鍛練場では書きたくないのですが、一つだけ、ゲームについては濃かったけど、登山については薄い気がして、なんか伸びやかに感じられなかった。左に比べて右のハサミが大き過ぎるシオマネキみたいでした。たぶん書き手の目論見の真逆なんじゃないかと思うのだけど、そのアンシンメトリな味わいこそがこの読み手にはいちばん面白く感じられました。

読ませてくださり、ありがとうございました。

m.s
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地蔵さま

お読み頂けましてありがとうございます。
ところでもんじゃ様という方を私は存じ上げないのですが、私といっしょに取り上げられることが他のかたの感想欄でもありました。なにか理由があるのでしょうか?
皆さんどんどん名前が変わってゆくので、人間関係とかはあまりわからないのですが、、、

> 謎に開きすぎる漢字と「」を使わないスタイル、私はものすごく苦手でした。
ひらがなの多用に関してはあんまりに評判がわるいので止めようかと思っています。個人的にはひらがな好きなのでひらがなに忍びないのですが、偏愛は胸のうちにしまってあまり外に漏らさぬようにします。
「」については、さきにどこかで書いたようにそれを使うと仕上げの段階がひとつあがって、この内容を書くために50枚くらいの文量と1.5倍くらいの時間が必要になる気がしたので省略化のために省きました。「鍛錬場で手抜きをするな」と言われればそれまでの話ですが。
おそらく会話を明瞭にすることで、いまは不明瞭でもなんとはなしに許されている部分もそのままでは済まなくなってしまうので。
本当に利己てきな話になりますがこの度の「読ませたい」欲においてカギ括弧の不在によって捨象されてしまう要素は本質ではない気がしました。(もちろん小説として大切な要素であると重々承知しております、ただそれ無くしてはこの小説が成り立たない核心ではない)


> 気障な会話たち
うう、痛いところを突かれました。ただ今のところこういう書き方しかできないのでーーいや違うな。たぶんもうこういう書き方しかできないと思うので、キザでもせめてヘタにならないようにしようと意識しています。
ぜんぜん関係ないしいささか不謹慎ですが、さきごろ逝去されたSF作家の小林泰三さんとか私は大好物だったんですが、つねづね、会話文はひどいと思っていました。でもその小説の魅力はそこではなかった。
本作の場合、会話じたいを減らすとか薄めるとかそっちの方向でも良かったかも知れないです。


・主人公の人格とバリエーションについては、あんまり意識をしたことがなかったです。しかるべき状況と内面を与えて他者を配置すれば一人称は勝手に機能する、という感じです。それをいかに機能させるかを考えはしますが、事前にプロフィールを考えておいたりはしないので。
しかし読み手からすればある作者が似たような主人公ばかり書いても書き手こそ星のかずほど居るので、そんなに文句は出てこないのではないでしょうか。
書けるシチュエーションやテーマまでどれもこれも似通ってしまうとなると、『新作』という商品価値を毀損することにもなりましょうが。

・山(というジャンルについて)
私は、何年かまえから、一年に一本なにかしらのジャンルもので長編を書くということをやっております。昨年は音楽ものを書いてみました、どうやら落ちたっぽいが。もちろん音楽の経験なんてありません。このたびの山についてもそうで、経験に根ざしたものではないのです。じゃあウソなのか? ごめんウソです、小説です。ということになるのですが、ちゃんとこのウソは成立していますか? とお聞きしたかったわけです。
こんな小説を思いついたが書けるのだろうか? と。これはちゃんと食べられますか、と。

山について書くというときに登山家に向けて書くというのはまず間違いだ。だって山に登ったものしかそれを書けないというのは小説という観念に照らして間違っている。じゃあ背理として私にもそれが書けるはずだ。そして、書けたかどうかは読まれねばわからない。創作というものがほんとうに自由であるかどうかなんて実際にやってみなくてははじまらない。

そんな内面のもごもごをキチンと受け止めていただけて嬉しかったです。

あの、どうでも良いですことですが、宛名をお書きするときどうしても頭に“お”を付けたくなります。良いお名前ですね。

お読みいただけまして有難うございました。

地蔵
KD111239155084.au-net.ne.jp

再訪させていただきました。

>もんじゃ様という方を私は存じ上げないのですが、私といっしょに取り上げられることが他のかたの感想欄でもありました。なにか理由があるのでしょうか?

私がもんじゃさんの名前を出したのは、こちらに感想を書かせていただく直前にもんじゃさんの作品に感想を書いておりまして、そこでのやり取りを踏まえた内容をうっかり無関係なm.sさんの感想欄に書き込んでしまったためです。なんでそんなことをしてしまったかと言うと、私がもんじゃさんの作品の感想欄で、「あなたの作品はわかりにくい」と言ったところ、もんじゃさんから「精読して下さい」というようなことを言われまして、しかしそのわかりにくさの理由というのが私にはあまり好ましいものに思えなかったので、精読(というか再読)する気になれないでいたのです。そういう気分の時に、同様にわかりにくいm.sさんの作品に出会ったわけですが、m.sさんの作品のわかりにくさというのはわかりにくいと言って簡単に切って捨てることのできない種類のわかりにくさだと判断して、四つに組んで読んでみようと思ったのでした。その時の対比が私の中で個人的にとても印象的だったので、つい口に出してしまったのです。同じタイミングで他の方が私と同様m.sさんともんじゃさんを一緒に取り上げているのはただの偶然です(と言っても私はその書き込みが誰の感想欄にあるのか知らず確認しておりませんが)。私とその人が示し合わせているわけでも、そういったことが起こる必然性が何かあるわけでもないです。

m.sさんの作品のわかりにくさが読む気にさせるわかりにくさである理由は、主人公の発する言葉の一つ一つが、彼女の人物像を立体的に捉えるためのヒントになり得るからです。主人公の人物像がm.sさんの中に明確にあって、彼女から出て来る言葉には彼女のパーソナリティがちゃんと刻印されているように感じます。そこは非常に一貫していて、とても信頼できます。ですので、筋が面白いかとか話の流れに無理がないかとか、そういう次元とはまた別の次元の面白さがこの小説にはあると思います。ちょっと癖のある興味を引かれる人物がいて、この人の正体を知るための手がかりとしての言葉たちが散りばめられている。彼女は気の置けない人物とばかり関係しているので、言葉はそっけなくぞんざいで、それだけ真実の声だと感じるけれども、ことさら自分を理解してもらおうとも思っておらず、どこか言葉足らずのような謎めいたところがある。その匙加減が絶妙で、好奇心を刺激します。それがわかりにくいのに読みたくなる理由です。

>宛名をお書きするときどうしても頭に“お”を付けたくなります。

ありがとうございます。HNを「お地蔵」にして、みなさんに無理やり「お地蔵さん」と呼ばせてみようかと思ったことがあります。意味がないのでやめましたが。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

m.sさま

再訪です。

人生はゲーム、ってスローにブギったのは南佳孝でありますが、次の一歩をどこに据えるかしか考えられない山岳行動にたとえて生きることの歩みを表す、みたいなことは非常にわかりやすいことでありまして、ゲームなるものが山岳登山と対比されるのではなく、山岳登山なるものがゲームと比較されて開けていなければ、狙いは失敗なのではないかとそんなふうに感じるのですが、ともあれそのあたりを表すのに、御作の、のびやかでない言い回しは多分向いておらず、ゲームなパートはあるいはそれでいてしかるべきなのかもしれないけれど、肝であるところの山岳への開きは、そうであっては、この読み手的には、ならず、もしかしたらパートの切り替えで一気に文体もスイッチ、みたいなアクロバをかます作品なんだろか、と、いくらか期待もしたけれど、終始文章は開けていなくて、いや漢字開いてる場合じゃないだろ、文章開かないと、山岳とか海浜とか、そういう自然の空気ってそういうゲームなことじゃないだろ、っていうか、ニューモードを表したいのに、むしろ圧倒的にゲームな世界からハリボテの山頂を見上げて(いや見上げてないけど)るだけじゃないかと、旧態依然じゃないかと、しかしそこんとこが、なるほど人間一般ってやつは観念じゃ開かれようがないんだ、ってことを表してるみたいで面白かったのであります。
ともあれ、それを、もってまわった文章で紡がんとする、形から入ります的ありさまが、一部の読み手のめくらましとして機能しているように概観するのでありますが、そんなゲームしてへんと地道に山登りなはれ、と、外からの言葉で申し訳ないですが、忌憚なき意見、という求められております、ようでありますところのそれを投下してみる次第であります。

あ、あと蛇足。
どなたかが、もんじゃの駄作のわからなさと、御作のわからなさを比較して、御作のわからなさを高尚なわからなさであるとわかったかのように論じておられましたね。
ムラハルを研究されたようなので言及いたしますが、ムラハル作品は、わかりやすい言葉たちを、気持ちよくさせるリズムで並べて、すなわち可能な限り読み手に文章的なサービスを施して(というかあの文体こそは、ムラハルの手段ではなく中身なのだろうけど)、呑み込みやすい文章で、わかりにくいことを、わからないんだよって、わかりやすく表している。腑に落ちない何かが漂う読後感、しかし、だからこそまた次の作品を読まざるを得ない。つまり斥力を生み出していない。門は広く開かれているのであります。なので売れる。
ムラハルともんじゃには、エベレストと高尾山以上の標高差があるけど、もんじゃの駄作も、かんたんな言葉とかんたんな文脈で、しかし言語では「説明」しきれないものを「表している」、つもりであります。このわかさなさは、読み手を弾かない。入れる。入れたのちに、読み手に、首を傾げさせるわからなさであります。つまり、なんかよくわからない、つるっと読めて、読み終わったけど、なんかぽっかり空いちゃってて、そこに説明を求めたくなる。だから感想欄で何やら言いたくなったり、伝言板で二次創作をしたくなったりする人も出てくるし、他者の作品の感想欄で、もんじゃのわからなさを貶すべく、別のわからなさを持ち上げるだなんて失礼なありさまが展開されたりもする。読み手が作品に関与できるってことは、わからなさがわかってるってことであります。

エベレストについて語るなら、ムラハル作品は簡単に読めるけど一義的にはわからない、だから多くの解説本が出るし、学生の研究対象になったりもする。コミットされるわけです。これは市場価値があるということでもあるのですが、ムラハルさまがそれを狙ってあれらを書いているとも思えないし(もうカネいらなくね?)、ムラハル作品には、明らかに「模様」が、偽りのない角度があるので、いかなる批判や、ときに下劣な誹謗中傷や、逆に熱烈な称賛や、商売人からの過激なラブコールに晒されても、そういうあれこれに影響はされてるんだろうけど、これまでに比較的長い間、そしておそらくは今後百年かそれ以上、あの作品群は、石のように価値を失わないのではないかと愚考する(他者作品を称賛する文章について、愚考する、と受けるのはなんですが)ものであります。
御作は、開かれていない。ジッドの門より狭くしか開かれていない。まるでその向こうに天上がある、かとでもいうように。しかし門は、すなわちそのもってまわった言い回しは、斥力は、読み手のコミットを許さない、弾く。わからないことすらだに読み手はわからない。だから感想を付けづらいし、揶揄することすらだに難しい。一部の読み手が、そこに権威に似た何かを被せ、その傘の下に入ることで手っ取り早く己の価値を偽装せむと利用するに値する作品としてこれを愚弄する、みたいな事態を惹起しかねないほどに、そのわからなさは、御作という表現にとって、誰かの言葉をオウムふうに返すなら、よろしくないわからなさ、であろうかと、こちらははっきり愚考いたします。
単純化して図式化的に表しちゃうと、わからないことを、わからないんだよって、わかりやすく表してるのがムラハル作品なら、わかりやすいことを、なにゆえかわかりにくく表しているの御作であろうかと。

だなんて、事の成り行き上いっぱい書いたけど、御作は、言い回しがややこしいだけで、別にわかりにくくはないと思われます。むしろ大変にわかりやすい。
ただ、山岳を書こうとして山岳が書けてないから、ゲームに留まってるからニューゲーム足り得ていない、という感想が端的な感想であります。山、登ってみたらよいのでは?

読ませてくださり、ありがとうございました。

m.s
146.75.196.15

もんじゃ様

>高慢、散漫、自己満。

はい、間違っていないと思います。

ただ、
> こういう文章を、上手い、と感じるのは、こういう文章を読みなれていない人たちだけで、それってあんまり意味なくて
については、文体についての価値観を共有できてないあいてに肯定的な印象を与えることができたのであればそれはそれで一つの達成なのではないかと考えます。

多くの読者に伝えるための工夫というものは、多くの読者が既に知っているものに似せて歩み寄るばかりでは無いと思いますので。(まさにこうしたところが高慢のゆえんなのでしょうが。)

> 伝わってはいる。じゃ、何が問題なのかっていうと(略)態度では、(略)不親切な配置をしていて、つまりサービス精神がなく、分かるやつだけ解らずとも分かれ、的に表されちゃうと、伝え難いことを懸命に伝えようと工夫し尽くしながらもなお伝えきれない、という作品がごまんとあるただ中において、書き手が書き手だけで、「読み手の協力を求めないで」満ちちゃってる感じがあって、自己満足的だよな

同じ伝えるにしてもみんなと同じ作法でその努力が透けるようにやりましょう、というのは、ごめんなさい。私には頷ける話ではありません。
絵画に例えればそれを学んで描く機会は義務教育でほぼ万人に与えられていますが、最終的に自分で描きたいと思ったものをじっさいに描けるようになる者はごくわずかでしょう。
ただし絵画を描けない大半の人物であってもそれを観たいと思ったときに、無料もしくは安価で優れたそれにアクセスをすることができるという一定の公共性が敷かれているわけです。

表現において担保されるべき平等性はそうした学習機会および消費の平等であって、表現じたいの作法や質についてのそれではない。むしろ後者についてはもっとも不平等で非対称であるといって良いでしょう。酷薄な事実ですが、ここに居られるかたにとっては所与の現実と思いますが。


冒頭について
> 救護、って言葉(略)道端って言葉と死にかけって言葉から、この読み手は、トンボか、カナブンか、そんなあたりをイメージしちゃうから少し気持ちよくない。

> 違和感がぬぐえない。

> 気持ちが悪いことになる。
> 一、可哀想という思い
>二、義務
>三、自然の成り行き

>てんでばらばらじゃないですか?


あの、本当に本心から、だいたい私の企図したように読まれており良かったです。詳細に読んで頂けてありがとうございます。伝わって嬉しい。

ここは気持ちよく納得を落としていただく箇所ではなく、謎や違和感や気持ちわるさを引き摺ったままそれを物語の原動力としたかった。なぜならそれを解消するために読者はひとまず読み進めるしかないわけで、もっとも読者にとって「無視のできない気持ちわるさ」でなければそこで本を閉じておしまいなのですが。小説において謎めいた冒頭って、大抵そういうものでは無いかと。
で、ひどいことに、往々にして回収されないんですよね。この小説もそうなんですが。
ちなみにその逆に、ラストから冒頭がつながってぐるりと円環を為すようなメタフィクションを書いたことがあり、そのときは「実験作でこれは長すぎる普通読めない」と意見がありました。(でも読んだじゃん)

おそらくもんじゃ様とはまったく別の考えになってしまうのですが、
私は小説において対称性や合理性や矛盾の無さにそこまでの意義を感じません。また部分でも全体でもべつに読み心地が気持ちよかったり心地よいのが必然ではないと思います。
もちろんそういう小説はそれで立派だと思うのですが「これはフェアで気持ちの良い小説だったな」という読後感をいままでミステリ以外に抱いたことがありません。


> >意思と義務感の区別もつかないままに
>そんなことはないでしょう?
>道端の生き物を救護しよう、ってのは意思であり意志であります。

私は、意思と意志と行為(結果)との関係はそんなに自明なものではなくて、不連続な断絶や溝があると思っています。少なくとも私の意識や主観にはたしかにそのような欠陥がある。
そして実のところ周りで生きている他の人間だって皆そのような欠陥を持っているのだが、それを隠すか忘れるかして表面上は正常なフリをして生きているのだ、という認識のフィルターを通して日常を見つめることが私にとって小説を書くことです。

もちろん本当にすべての人間が私のような欠陥品なのかは不明だし、もしもそうだとすれば人間社会や家族というものすべて、不気味すぎるので普段の生活のなかではあまり考えないようにしているのですが、文章のなかでそうした欠陥人間に演じさせてみるとそれが奇妙にリアルでときには切実ですらあるので「ほらやっぱりね」と納得する。私にとってたぶん、小説を書く動機にはそういう側面があります。

こうしてじぶんの書いたものに感想を頂いてそれについて考えてお返事させて頂くときって、私にとっておそらく小説を読んでいるよりも、書いているときよりもずっと「小説」自体に向き合う時間だとおもうのです。そもそもなんでウソの物語を書くひつようがあるのか? など。
それはたぶん、作中の人物が明らかに作者を超えるときがあるから。
作中に描かれるものが私の意識や私の意識の上でエミュレートされる他者の意識の忠実なトレースであったならそれはきっと起こり得ない。つまり私や他者の存在を現実どおりに写実できてもそんな小説は(私にとって)面白くないので主観の鏡は破れている必要がある。きっと鏡の破りかたはさまざまだけど年齢や性別のパラメータを弄るていどでは破れないので、スムースな筋書きを破断させたり、日常の意識のスピードでは現れないような複雑な思考の展開や飛躍や突飛な描写を積み重ねるひつようがある。
なるほど

> 言葉の配置に、この読み手はセンスを感じないのでありました。言葉を、選んで、吟味して遣ってこの表現になっているんじゃなくて、なんとなく、感覚的に、慣れで遣ってこの表現になってるんだな、と感じるのであります(結果、煙幕にしかなっていない)。言葉がそういう配置になっておりますと、これは気持ちよくない。不協和音を、その必然性もなく聴かされている状態です。

このご指摘はまさに正しく、私の小説は私にとって面白くあるための偏執や偏りやいびつに満ちているため、このたびのもんじゃ様のように外部の事情により読まざるを得なかった方にとってはたまったものじゃなかったろうな、と感得しました。

> 人違いだったら流してください。
いや、隣室のふすまに聞き耳を立てていたら串でグサっとやられるやつですよね。私の手になるものです。

お読みいただきありがとうございます。
と思いましたらまだあった。

m.s
146.75.196.15

もんじゃ様

つづきです。

> 山岳とか海浜とか、そういう自然の空気ってそういうゲームなことじゃないだろ、
はい、さいしょは資料を読みこんでそうした方向からのバージョンアップをするつもりだったのです。しかし書いている途中、さきに指摘されたように、いやゲームの世界は細かくリアルに現実が書割みたいなのがこの小説の味だよな、と気付きました。生とか死とか真顔でいられたら笑っちゃうようなテーマを書くにおいて。なので山部分をどう膨らませるかは資料を読みながら考えます。たぶんこの小説じたいは半年いじょうは寝かせると思うので。

> だから感想を付けづらいし、揶揄することすらだに難しい。
はい、だいたい、いつも感想すくなめな人です。でもそのこと自体は構わないというか、べつに悪いことでもないなと思っています。あんまりたくさんあっても大変なので。

> ニューゲーム
「強くてニューゲーム」というもの自体がゲームシステムの名称でして、こういうネタのすべてを明らかにするのも芸がないので膨らませた作中で説明することもないと思いますが。

つぶさにお読み頂けましてありがとうございました。

m.s
146.75.196.18

地蔵さま

再訪ありがとうございます。

人間ってそんなに分かりやすいか? って思うのですよね。分かりやすさってそんなに魅力か? とも。
でもそんな事ばかり言っていると他人と仲良くできず通信簿の協調性の欄にバツをつけられてしまうし職場をクビになるので他人のことを分かったつもりになってそこを深く考えないようになる。
そうして正常な人間は各々が各々の共通的な他者認識のフィルターごしにコミュニケーションを行うのが通常なので、その向こうにあるゴツゴツした本当に未知の他者と触れ合うためにはセックスしたり殴り合ったり等、経過や事後が中々にめんどうな接触とかがひつようになる。

そこで物語です。架空の登場人物を架空の舞台でわちゃわちゃさせて、上手くすると途中で作者の思惑を超えて他人になるんですね。
あるていどまで丁寧に一貫した連続した人格を持つ存在として設定と描写を行っていると途中からその一貫性がドライヴしだして他者性をもつ。夢のなかに内面を読めない他人が出てくるように、意識下にない脳の領域に一時的に登場人物の人格がマウントされるみたいな。解離の症例で出てくる『見えないお友達』などもこういう感覚なんだろうな、と思います。

全員ではないのですが主要な人物はそういう感じに書くことが多いです。経験上三人くらいまでなら同時にデプロイ(配置)できます。人物像を私も書きながら知ることになるので書いていて楽しいし。いままで、あんまり誰かに理解されたことがないのですが。
ただ、人物のリアリズムや他者としての一貫性ってただ設定を積み上げてその輪郭を造るだけでは上手く動いてくれないと思うのですよね。
逆に他の方はどうやってこれに取り組んでいるのか気になるところです。

お読み頂けましてありがとうございました。

もんじゃ
KD111239165145.au-net.ne.jp

m.sさま

こちらの意図は伝わらなかったようですが、m.sさんの考え、というかスタンスについてはよく理解できました、ということだけをお伝えするために再訪いたしました。
御作を拝読し、乗代雄介の『 十七八より』を思いました。
もしかしたらm.sさんはああいう高みを目指しておられるのかもしれませんね。

陽炎のようだ
p0135770-vcngn.hkid.nt.adsl.ppp.ocn.ne.jp

いっぱい言われているようだけどやりすぎだねw

思いうかべるだけで、ベッドシーン、山とか動物が居そうな小道、ゲーム、場面がわからない会話、下りた後にという
指示からのほぼ際限のない妄想、水やクッキーというまたかけ離れたイメージ。
そして、山の上ではという一応の回答、そこからもまたなんだかんだとイメージだけ飛ばされて、とうとう二人の死体。
間髪入れずに「いやまだ」とか。まわりくどいことを! この辺りででぶん投げたくなる。
作者さんも多分、他人がこういう文を書いていたら、つまんね、と思ってぶん投げると思う。

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