作家でごはん!鍛練場
101

今私の目の前にキリストはいない

 平凡な子だ、と思った。
 あの子はライブハウス「俺の歌」に、ある夜いきなりやってきた。大きなギターを両腕で抱えていた。
「前の方にいたでしょ」と店長は紹介したが、ステージ上の私たちからは見えなかった。
「音が出したいんです」
 声を上擦らせ、あの子は言った。私たち「カラフルノイズ」のリーダー、遠町さんが「音は出せるでしょ、普通に」と笑った。
「自分にしか出せない音が出したいってこと?」
 そう問いかける奥谷さんは、私の隣で腕を組んでいた。またこの人は相手を試しているな、と思った。
「いえ、むしろ他の音に混じりたいですね。溶け込みたいというか」
「ああそっちの段階か。ずいぶん進んでるねえ」
 彼は聞いたこともないアーティストの名前を出し、「あの人が二十歳くらいの頃にそんな歌詞を書いてたよね」と言ってこちらを向いた。清涼感のある香りが鼻をかすめた。
「へえ。私と同じくらいだったんですね。そういえば、今いくつなの?」
「十九です」
「じゃあ鈴ちゃん教えてあげて。この子が鈴ちゃん。うちのボーカル兼ギター担当」
 遠町さんに触れられた肩をすくめ、私は「よろしく」と微笑みかけた。
「知ってると思うけど、俺がリーダーの遠町です。ベースやらせてもらってます。あとこの人がドラムね。まだ三人でやっていくつもりだから、見習いみたいな形になると思うけどいい?」
「よろしくお願いします」
 挨拶に合わせて、あの子はいきなり大きなお辞儀をした。私は少しのけぞって相手を見下ろした。短い黒髪は愛玩動物の体毛みたいだった。
 平凡な子だな、と思った。

 あの子は私たちの集まりにしょっちゅう参加するようになった。遠町さんに言わせれば、「チケット屋さん」らしかった。「俺の歌」に出演するバンドは、売るべきチケットのノルマが課せられる。とはいえあの子にあまり期待している様子もなく、圧をかけている風でもなかった。
 奥谷さんはあの子を「迷子」と表現したが、それは一度きりだった。
 あの子には華がなかった。
 それは一重瞼とか骨張った頬とか、貧相な身体とか子供のような服装とか、探せば理由はいくらでもあった。頑張ればあの子なりに輝くことはできそうだが、たぶん何もしていない。何よりも身にまとった暗い雰囲気、第一印象の悪さで明らかに損をしていた。
 意識してはいるようだけど、努力はしていない。だから人の目を惹かないのだろう。そう思った。
 あの子はギターがまるで弾けなかった。教えても飲み込みが悪い。勘はありそうだが物覚えが悪く、あまり一生懸命やっている感じは伝わってこなかった。
 快活でもなく、ハキハキ話すが声が小さくてわざとらしい。世馴れた愛想笑いはしないが、あまり純粋そうでもない。
 そもそも何を考えているかにこちらが興味を持てない。いつも気がついたらどこかにいる。遠くから私たちを一瞥して、ゆっくり近づいてくる。気味が悪かった。

 入場券の話をしよう。
 私たちは四人、喫茶店のテーブルを囲んでいた。窓から見上げる空は白くて青かった。店内には、たぶんどこか知らない国の音楽が流れていた。私はホットコーヒーを、遠町さんはクリームソーダを、奥谷さんはホットミルクを、あの子はコーラを頼んだ。
「俺の歌」の運営方針について、遠町さんは「普段あんまりこういうことは考えないんだけど」と前置きしてから語り始めた。
「あの店のやり方はもう古いと思うんだよね。前例にこだわりすぎてると言うか。もうちょっと集客を意識してもいいと思う」
 悲惨な現代の実情、平和や自由の定義、音楽が果たす役割を踏まえて、彼はアーティストのあり方、その正しい活かし方について語った。何か新しい機材でも欲しくなったのだろう、私はそう思いながら聞いていた。
「社会的な欠乏が表現の場の衰退を招くのは、損失だね。受け取る側にとっても、与える側にとっても」
 そう言って奥谷さんは隣席の私に目配せした。重みのあること、本人がそう思っているに違いないことを言ったあと、彼はずん、と内臓に響くような眼光を私に注ぐ。
 私は集客が見込めそうな案をでたらめに挙げた。コーヒーが熱くて飲みにくかった。奥谷さんは喋りながら、それに自分のミルクを勝手に混ぜた。人前で私がブラックを飲みたがるのを、本当はその苦味があまり好きでないことを、彼は知っていた。
 入場券の話題を私が持ち出したのはその時だった。「俺の歌」ではチケット代とドリンク代が別になっている。初めて来た人の中には、このドリンク代を払いたがらない人がいるらしい。
 飲食店としての建前があるから、という話をいきなり聞かされても納得できないのはわかる。だからいっそのこと、チケットとは別に入場券を売ったらどうかと提案したのだった。
 すぐさま遠町さんが「どう違うの?」と聞いた。私は「駅と同じです。入場券は入るだけ、他に何もできません」と言った。
「嫌でも聴こえてくるじゃない」
「それはその人の勝手ですよ。うるさければ耳を塞げばいい。今流れてる音楽みたいに、聴きたければ聴けばいい。ただ居場所だけ提供するお店。偶然誰かが歌ってても聴くかどうかが自由なら、飲食店の許可も興行場の許可も要らなくないですか」
 もちろんくだらないことを言っていた。奥谷さんが笑いながら、「読書に最適だね。ヘッドホンつけて」と言った。今日は柑橘系の香りを漂わせていた。私は「同じ曲流しながらですね」と応じた。
 しかし遠町さんは首を傾げ、「客側じゃなくて提供する側のための許可でしょ。ドリンクを売るには飲食店としての許可がいるし、演奏するなら興行場としての許可がいるよ。本来は後者がメインだけど、興行場としての許可はなかなか下りないからね。飲食店という形式をとるのは仕方ないよ」と説いた。あの子が何度か頷いていた。
「スタジオとしての許可を取ればよくないですか」
 そう返すと今度は首を逆方向に傾げた。賢く見せようとして馬鹿に映る典型だと思った。
「まあそもそも客が減るかもね。バンドとの一体感がなくなりそうだし」
 奥谷さんがそうフォローしてくれた直後、「私は行きます」とあの子が言った。
「そういう場所を望んでる人って多いと思います」
 あの子はこれまでも機を伺っては話に乗っかってきていたが、急に大きな声を出したので三人とも動揺した。テーブルの上でぎゅっと手を組み、あの子は続けた。
「入場券を買って居場所を作るって、世の中そのものだと思いますし。お金を券に変えるだけで」
「何か格好いいこと言おうとしてる?」と遠町さん。目を輝かせて話を続けようとするあの子が、私にはたまらなく痛々しかった。土のように沈んだ色をした唇をひと舐めするのが気の毒にさえ思えた。
 が、不意にあの子は誰からも視線を逸らして黙った。遠町さんは面食らった様子で続きを促した。
「大したことじゃないです。すいません」
 あの子は大げさに頭を下げてから、氷の溶けきったコーラを啜った。そんなことが言いたいんじゃないだろ、と腹が立った。
「入場券ね。なるほど」
 頬に手を当て、奥谷さんはまた誰かの名前を出して参加することの意義を唱えた。そうしてまた私の目を覗き込んだ。私は視線を逸らし、コーヒーを啜った。まろやかな甘みと泥のような苦みが口内に満ちた。

 人前で歌うのは嫌いじゃない。つまりそんなに好きでもない。
 歌詞を書くのは好きだ。声を出すのも好きだ。
 ただ最近は、人に聞かせるものではないような気がしている。公にした時点で押しつけがましい、そう思う。
 子供の頃はただ純粋に書いて歌ってを楽しんで、親や兄妹に聞いてもらうのが楽しみだった。友人、知人、先輩や後輩と聞き手が増えていくにつれ、達成感は増すけれど、負担も増している気がした。
「5W1Hの“Who”が霞んでいる」
 当時の彼氏はそう表現した。なんとかの定理を証明するように。その時は納得したが、今考えると事実を言い当てているだけだった。
 その夜も私は叫ぶように歌った。技巧とか調和とか、なるべく意識しないように。歌いたいように歌う。
 自分が楽しみたい時はそうする。客の反応だって悪くない。だけどやっぱり、ここは流すようにとか、次は繊細にとか、余計なことを考える。すると授業参観みたいな圧力を感じて嫌になる。歌詞の幼さも気取った歌い方も嫌になって、自分が見世物みたいに思えてくる。「ヘタクソ」と野次を飛ばされでもしたら、目に涙が溜まると思う。
 三度目のサビを吐き出すように歌って、私は客席から目を逸らした。ステージの袖にいたあの子と目が合った。
 あの子ははたはたと手を打っていた。まるっきり愛玩動物だった。だとしても、たぶんあの子は売れ残る。その後のことは知らない。
 バックステージで奥谷さんに「熱かったよ」と言われた。その日は朝から気が立っていたことを、彼を前にしてようやく思い出した。
 前の夜、彼氏との行為の最中に、奥谷さんの顔が浮かんだ。見えなくなった彼氏の顔に、奥谷さんの顔を当てはめた。朝食時、彼は味噌汁が薄いと訴えた。料理しながら別のこと考えてたでしょ、とも言われた。その時飲み込んだ言葉が、未だ疲弊した喉の奥につかえていた。
 あの子は私に冷たいコーラをくれた。
「すごかったです」
「どこが?」
 私は意地悪く聞いた。たぶん真顔で睨みつけながら。
「歌い方が」
 ふざけんな、と言いそうになった。だけどこらえて、コーラのラベルに目を落とした。糖類や酸味料など、含まれているものがすべて書かれている。
「鈴ちゃんのすごさは説明するのが難しいよ」
 背後から遠町さんの声が聞こえた。つまんないこと言わなきゃいいのにと思った。その夜、私はあの子を避けた。あの子も私に近づかなかった。

 歌詞を考えていると0時を過ぎることがある。部屋の明かりを消して、デスクライトだけでカリカリやるのが好きだ。スマホはおやすみモードにして伏せておく。
 静かな夜には彼氏の寝息、不規則な風音、水の滴りなんかから着想を得られる。
 だが落ち着かない夜もある。冷蔵庫の駆動音や家鳴り、隣室から届く話し声が耳に障る夜。レポート用紙をいきなり左右に裂いてしまうのはそんな夜だ。
 何が「すごかったです」だ。何もわからないくせに、何も知らないくせに。急にあの子の顔を思い出し、机にペンを叩きつけたくなった。けれど彼氏が後ろで寝ていた。
 私は親指の付け根で額を打って、あの子のはしゃいだ顔を消そうとした。熱く、鋭く、重い痛みが響いては消える。私の手はだいぶ骨張っていた。
 書いていたものを読み返す気もしない。どうせ知っていることしか書かれていない。
 納得はできる。言い回しも悪くない。だけどそれだけだ。覚えようとしなければ覚えられない、どこにあってもいい歌詞。引き裂く気さえ起こらない。
 私はお気に入りをまとめたファイルに目を通した。中には吹き出してしまうような歌詞がある。川の増水がどうとか、今では意味がよくわからない。でもその時、他に言いようがなかったのはわかる。
 私は彼氏の寝顔を見返った。応じるようにいびきをかき始めたので、ちょっと笑った。身動きせずに目を細める。ぼんやりとしか見えないけれど、すぐに誰だかわかる輪郭。愛おしい。
 起きたら味噌汁の件を謝ろうと思った。あの子にも、私から声をかけよう。そう思った。

 公園に誘うとあの子は喜んでくれた。音楽スタジオで夜通し出していた私の声はかすれていた。
 駐車場で男二人と別れ、女二人で歩いた。あの子の下手な化粧がほとんど落ちているのが、暗がりでも見て取れた。楽器を預けたから、空いた手、特にあの子の傍にある手をどうしていいかわからなかった。
 途中で寄ったコンビニで私はサラダを買った。普段なら何を買うか悩むが、この日はさっさと決めた。あの子も早かった。
 夜明けの時刻はとっくに過ぎていた。昇ったばかりの太陽が辺りを平坦に照らしていた。公園の入り口から乾いた土と草が一望できた。
 私は木陰に沿って歩こうとした。なのにあの子は日向に立って、こちらに手招きした。
「暑くない?」
 額に手をかざす私に、あの子は「カラスに怒られるかも」と小声で言った。
「まだ寝てるかな。木の下をウロウロしてると、けっこう鳴くんですよ。それに飛んだり」
 詳しいね、と私は笑った。カラスの挙動なんか気にしたことがない。公園の真ん中を行くあの子の背中は小さかった。額に当てた人差し指が、生暖かく湿っぽい。指と前髪の間から青白い広がりが見えた。
 ベンチに座り、私はビニール袋を脇に置いた。あの子はエコバッグを膝の上に置いた。
 もう少しカラスの話がしたくて、弁当にかこつけて茶化そうか、もっと真面目に聞こうかと迷った。だが、ふっとどうでもよくなってサラダの容器を取り出した。あの子も同じようにした。
 ネットで不味いと噂の弁当を、あの子は買っていた。私は言葉を選んでそのことに触れた。あの子は「そうなんですか?」と目を丸くした。わざとらしい感じはしなかった。
「ネットとか見ないほう?」
「今は見ないですねえ。でもどのみちこれを買ってたんじゃないかな。目立つところに置いてあったので」
「そういうのが好きなんだ」
「好きで選んだわけじゃないですけど。成り行きというか。いつの間にか買ってたというか」
「時々意味わかんないこと言うよね」
 私は短く笑った。「けっこう浮かれちゃってて。今も現状が飲み込めてないんです」とあの子。割り箸の先を左右に引っ張る仕草は、確かに浮かれて見える。
「誰かと二人で食事とか久しぶりで。嬉しくて」
 そういえばあの子が友達を連れてきた、なんてことは一度もなかった。あの子の携帯の着信音も知らない。
 友達がいないのか。いないと思いたいだけか。「俺の歌」には何をしに来ているのか。
「まあ学校出ると友達ってできにくいよね。同級生とも連絡取らなくなるし」
 私はさも深刻そうに言って身を屈め、キャベツにドレッシングをかけた。隣から漂う魚介の香りが気にはなったが、それでも俯いたまま中身を絞り出した。普段よりずっと濃い味がしそうなサラダができた。
「けっこう美味しいですよ、これ。そんなに評判悪いんですか?」
 あの子は当たり前のように話題を変えた。なんだか私がうまくあしらわれているような気がした。だが腹を立てるのはさすがに大人げないので、私も驚いてみせた。
「鈴さんはサラダだけなんですか?」
「まあ、あとは帰って寝るだけだからね。私は」
「お腹がすいて眠れなさそう」
「たまにね。そっちはよく眠れてる?」
「全然です」
 それから私たちはちょっとだけ話し込んだ。あの子は話を合わせるのがうまくて、自分を強くは出さない。暇潰しの談笑にはふさわしい相手だった。短時間だったらなおいい。
 話がこの公園に及んだので、私は改めてカラスについて触れた。もうあちこちでカアカア鳴いている。しょっぱいサラダはだいぶ減っていた。
「けっこうしつこいんですよね、カラスって。公園に近づいただけで『来たぞー』ってサイレンみたいに鳴いて。天気とか時間帯にもよるんですけど、あんまり長くいると頭の上を飛んだり、一斉に鳴き出したりして。帰り道まで追っかけてくるんですよ。怖いんです。暴力みたい」
 最後の言葉にぎょっとして、私は笑うのをやめた。
「理不尽ってことですけど」
 あの子は取り繕うようにそう言った。お互いそれきり黙った。際限のない鳴き声が、急に耳障りに思えてきた。
 薄い胸の真ん中に手を当て、あの子はじっと前を見ているようだった。深い呼吸音が聞こえた。
 私はポケットに手を入れてスマホに触れた。一つくらいは着信があるはずだ。けれど大事な用事なんてないに決まっている。
 隅に残ったキャベツを箸先でかき集めながら、私は彼氏のことを思い出そうとした。落ち込んでいる時に向こうから話しかけてくれた時の嬉しさを、頑張って思い起こした。
 私は言った。「何かされたことあるの?」と。
 あの子は「そんなんじゃないんですよ」と首を横に振った。胸から手を離し、「傷があるわけじゃないんですけど」と言って、再び箸を手に取る。素人目にも、まばたきの頻度が尋常じゃないように映った。
「『けど』?」
 続けて聞いたのはたったそれだけで、私はキャベツを黙々といじくった。口に入れたら、きっと冷たくて湿っぽい。
「痛いんです」
 あの子はそう言った。そして話題を変えた。

「あの弁当が美味しいって答える人、アンケートでは5%くらいなんだって」
 後日そう告げると、あの子は「じゃあ探せばけっこういるんですね」と笑った。遠くから、ぞっとするくらい低いピアノの音が聞こえた。
 私たちは四人で楽器店に来ていた。車を出した遠町さんいわく、特に目的はないらしかった。
 あの子のギターはまるで上達していない。家ではほとんど弾かないと言っていた。家で弾いてもつまらない、と。
 この日は飾ってある楽器を指差して、形が良いだの色が良いだの、いちいち感想を述べていた。だが一度私が「そんなに興味あるんだ」と言うと、急にわきまえたように静かになった。
 思い込みが激しい子だと思った。ちらと鏡を覗いても、私は迷惑そうな顔などしていない。「もう少し意見を言ったり聞いたりしなよ」、そう言おうとも思ったが、面倒だからやめにした。
 奥谷さんに呼ばれ、あの子は駆けて行った。私はギターを見て回った。
 一度だけ、あの子に使い方を説明している自分を想像した。でもすぐに意識してやめた。店内は音に満たされている。あの子の控えめな笑い声も、奥谷さんの低く諭すような声も聞こえてこない。
 私はウロウロと歩き回った。するとレジ前で財布を出している奥谷さんと、彼に頭を下げるあの子が見えた。笑ってしまった。
 ギターのコーナーに戻ろうとした私に、遠町さんが声をかけた。上機嫌な様子で手招きする彼には、愛想笑いを返すのが精一杯だった。
 帰りの車内で、私は遠町さんの買ったベースの隣に座らされた。触れないよう気を遣う一方で、ケースに描かれた人物が気になった。荊の冠をかぶった男性が項垂れている。
 あの子は反対側で薄笑いを浮かべていた。手には小さなビニール袋が握られている。前方からは男二人の気取った談論が聞こえてきた。芳香剤の香りに紛れて、たまに奥谷さんの香りまで届く。そのたびに私は咳払いした。
 私はベースケースばかりを眺めていた。気がつくとあの子も眺めていた。
「興味あるの?」
 聞いてみると、あの子は「ちょっと」と言って、冠の下の黒い凹凸を指差した。
「顔がよくわからないですね」
 すかさず「そんなに顔が気になる?」と遠町さん。
「いえ、そんなに。ただこの人はどんな顔だったんだろうって思って」
「創作では『美しい』って表現されることが多いね。俺はどっちでもいいと思うけど」
 そう言って、美醜にこだわる感性がどうこうと語り出した。
「美しいものが美しく現れるのは自然なことだと思うよ」という奥谷さんの意見には、「どこまでそれにこだわるかって話ね」と応じた。それから二人は専門用語の飛び交う議論を始めた。
 論争でないのはいつものことだ。この二人はあまり互いを否定しない。互いに一歩引きつつ知識を披露し合う。いかにも俺は冷静だぞと言いたげな様が、傍目には薄ら寒い。あの子はやけに真剣な面持ちで身を乗り出している。浅い子だ。
「ああいう筋の通った書物に、幼い頃から触れる機会があるのは幸せなことだね。この国にはそういう明快な基盤がない」
 深刻そうに言う奥谷さんの目がルームミラーに映っていた。あの子と目を合わせたのかもしれない。
「与えられた言葉って形式は浸透しやすいからねえ。浸透していることにもしやすい。もちろん、便宜上ね」
 楽しげな遠町さんは、鼻歌でも歌うかのようになんとか書の暗唱を始めた。その言葉には重々しさがあった。古めかしい言い回しは、切羽詰まった状況にふさわしいに違いない。きっと定規を当てたように正確な引用だったのだろう。
 赤信号を前にして、全員が前のめりになった。景色の変わらない車内でも暗唱は続いた。私はあの子の目が異様に見開いているのに気がついた。
「どこへ行かれるのですか」、その言葉を聞いた時、あの子はいきなり「なんて答えたんですか?」と本当に大きな声を出した。男二人が同時にこちらを振り返った。すぐさまあの子は叫ぶように言った。
「やっぱりいいです。言わないでください」
 そうして両耳を塞ぎ、身を屈めた。奥谷さんは怪訝な顔を前に向けた。遠町さんは「怖っ」と言って私と目を合わせようとした。そうして自分の頭部を指差し、唇を歪ませた。
 私はわりと落ち着いた仕草でビニール袋を拾い上げた。あの子だからと思えば、こんな状況も納得できた。理解はできず、するつもりもなかったが、あの子の落としたものを膝の上に戻してやることはできた。
 車が動き出した。沈黙の後、あの子は耳から手を離して「すいません」と呟いた。遠町さんが大きく首を捻っていた。
 街の外れであの子と二人、車を降りた。ちょっと歩いて角を曲がってから、私は「さっきのは何だったの?」と聞いてみた。出来の悪い落書きに顔を近づけるような好奇心からだった。
「うるさくしてすいません。聞いても仕方がないですし、聞くより自分で読みたくて」
 私が「遠町さんから聞きたくなかったんじゃないの」と言うと、あの子は「そうですね」と真顔で返した。
 道すがら、あの子は手に持ったビニール袋をゆらゆら動かしていた。私はずっとスマホをいじりながら歩いた。

 痛々しい子だった。その場の空気を読もうとしているのがありありとわかる。そのくせ内心では何を思っているかわからない。「チケット屋さん」としてはまったく機能しないと、遠町さんが呆れていた。売り上げもバンドとしての質も、あの子が来る前から何も変わっていない。いてもいなくても同じ。私は、たぶん私たちは、あの子に興味を持てない。
 ただあの子の慎重さは理解できる。私はまだ、彼氏に味噌汁の件を謝っていない。
 なんと言っていいかわからない。お互いが傷つかないような瞬間が訪れない。
 私の味噌汁の味なんて日によって違う。どんなに濃くても薄くても、普段の彼はおいしいと言ってくれる。私も味について謝るつもりなんかない。話を逸らしたこと、彼から目を背けたことを謝りたい。
 けれどそのきっかけを作ろうとしたり、今はやめようと自分に言い聞かせたり、彼との距離をいちいち測るのが嫌だ。いっそ殴られた方がわかりやすかった。彼自身は私を決して傷つけない。言葉を選び、機を窺う。大人なのだと思う。
 だけどそうやって選ばれた言葉はうまく歌えない。契約書のような歌詞は誰からも求められない。
 最近、彼はちゃんと笑ってくれない。やたらと甲高い、目が覚めるような笑い声が聞きたいのに、低く、長く笑う。
 仕事がうまくいっていないと、彼は一度私に漏らした。私は離れた場所から話を聞こうとした。近づくと、奥谷さんの香水の匂いを嗅ぎ取られそうな気がしていた。それきり仕事の話は聞いていない。
 暗い部屋の隅に、ぽつんとデスクライトが灯っている。スマホは蛍光灯のリモコンの傍に伏せられている。カーテンの隙間からは何も見えない。
 私は紙に「入場券」と書き、すぐに消した。それだと私の言葉じゃない。あの子と私とでは前提が違う。
 私はたぶん得をしている方だ。だがそれを歌詞にしてもくだらない。彼氏のいびきが今日は聞こえない。その理由を考える自分が嫌になる。
 
 スタジオで練習している最中に、友人から電話があった。「チケットを買ってくれる人が見つかった」と相手は得意げだった。私は何度かお礼を言って、スマホの電源を切った。わかっているつもりだったが、金で立場が変わる関係は実に煩わしい。
 戻ると男二人はいなかった。部屋の片隅で、あの子が一人ギターの練習をしていた。音が少し柔らかくなっている。
「ちょっと音、良くなったね」
 そう声をかけた私に、あの子はやたらと嬉しそうな笑顔を向けた。
 奥谷さんが選んだピックは実際初心者向けのもので、私も当時付き合っていた人から最初に勧められたものだ。ただあの子のは材質まで合っているようだった。
「こないだ奥谷さんに買ってもらってたやつ?」
 わかりきったことを私は聞いた。あの子は頷き、「音が前よりカクカクしてない気がします」とピックを見せつけた。
 何をわかったようなことを。
 刺々しい言葉をぐっと飲み込み、スタジオを見回した。新品のベースはある。男二人が戻ってこない。
「ちょっとそのへんで遊んでくるって言ってました。帰りのタクシー代もらいましたよ。遠町さんに」
「はあ?」
 怒鳴るような声が出た。聞きたいことも言いたいこともたくさんあった。私が席を外した時を狙うのは別にいい。だが遠町さんは、金を預ける相手を選ぶと思っていた。
「私ら置いてかれちゃったね」
「ですよねえ」
 ねえ、じゃないよ。
 私はあの子を上から下まで眺めた。目元が前よりスッキリしている。たぶん口紅も変えている。服の色合いも整っている。
「あ、お酒飲めないんだっけ?」
 かすれ気味な声を張り上げて聞くと、あの子は頷き、「飲もうと思えば飲めるかもしれないですけど。やっぱりまだ未成年なので」と付け足した。笑いながら、早口で。
 改めて不細工な笑顔だと思う。私はあの子とはす向かいの床に座り込んだ。あの子も同じように腰を下ろし、膝を抱えた。
「友達と飲んだりしないの?」
「いないですねえ」
「一人くらいいるでしょ」
「いないですよ」
 ふうん、と私は宙を仰いだ。どうしようもなく静かだった。鼻を啜り、爪を見ていた私に、あの子は「入場券がないんです」とはしゃいだ調子で言った。
「それはどういう意味なの?」
「今は――たぶん特に今は、世の中に参加したければお金が要るじゃないですか。顔の良さとか声の大きさとか、話のうまさとかでもいいですけど」
 案外つまらないなと思いつつ、私は「友達作るのは別でしょ。お金のせいにしちゃいけなくない?」と返した。そうしてまた爪を眺めようとした。
「そうですね」と、あの子は言わなかった。前のめりになって、「手持ちがないとほんとに何もできないですよ」と続けた。
「お金がなくて顔も悪くて声も小さくて、もしそんな人が目の前に倒れてたとしたら、まず嫌な気分になると思うんですよ。良いとか悪いとかの話じゃなくて、まず単純に、うわってなると思うんです。それから状況が揃っていれば声をかけられることもあるんでしょうけど、まあ運次第ですね。私――」
「あんまり閉じこもりすぎでしょ、それは。待ってるだけの言い訳にしか聞こえないよ」
 あの子は少し身を引いて、息を整え、なお「言い訳だとは思いますね。ちょっとその、方向が違うかもですけど」と言った。
「方向?」
「えっと、目的というか、原因というか。その……」
 言葉を探しているのか、あの子は頑張って手を伸ばしたり広げたりした。私は思わず吹き出してしまった。この子は話し慣れていない。うまく言えないのは仕方ないし、本人もきっともどかしいだろう。
 ゆっくりでいいよ、と私は言った。時間はあるんだし、とも言った。あの子はそっと微笑んだ。
「不細工の考え方なんですよ。実際」
 まだ続けるのか。力んだ眉間が熱くなった。
「美人だったらそんな考え方をする必要がないっていう意味です」
 こちらの目をじっと見つめるあの子に、たぶん悪意はない。それに、怒ると自惚れてるみたいだと思ったから黙っていた。あの子は喋り続けた。
「綺麗な人だったら道で倒れてても周りがほっとかないし、本人にもそう思う余裕があると思うんです。もちろん綺麗さにもデメリットはあって、それは私には想像がつかないんですけど、やっぱり痛いんだろうなあとは思います。それでも綺麗さはまずあって、便利には違いないんです。入場券を持ってるって、そういう意味です。お金とは数え方が違うだけって気がします。でも不細工は他で稼がないといけない。欠けているっていう痛みがまずあって、それを補わないといけない。そうしてるとね、考え方も偏りますよ。その人に何もなければなおさらで、誰もフォローしてくれないから一人で自分を納得させないといけない。すごく内側に閉じた理屈だとは思うんですけど、当たり前なんですよね。聞き手がいないので」
「言いたいことはわかるけど。自分を追い詰めてるだけじゃない?」
 私はあえて口を挟まず、あの子が喋り終えるのを待ってから言った。話の内容はどうあれ、あの子の饒舌は珍しかった。それにしても「わかるけど」という返しは空っぽで、私まではしゃいでるみたいだった。
「結果的にはそうでしょうね。間違いなく」
 言ってあの子はちょっとの間、口を噤んだ。静寂の真ん中で目をうっすら閉じて顎を上向け、自分を内側から調律しているように見えた。手は胸の上に置かれている。
 別に私の言葉を待っている風ではなかった。沈黙は気まずいが、それだけだ。関わる方が面倒くさい。
 けれど私が声をかけると、あの子はやっぱり嬉しそうな顔をした。財布忘れてるよ、と言われた時みたいな顔。私は「どこか痛むの?」と聞いたのだった。
「胸が痛いんです」とあの子は答えた。
「はっきりどこがとは言えないんですけど、ちょうどこの辺り。食道とか血管は悪くないらしいですけど、この真下」
 指先を当てたり離したり、あの子は硬く虚ろな音を響かせた。痛みはここにある、とばかりに執拗に。口元に笑みを浮かべたまま、楽器を鳴らすように胸を打った。
「病名は?」と聞くと、「わかりません」と返ってきた。
「医者によって違う感じ。レントゲンとかには異常がないんですって。キシツテキには、だったかな」
「薬は飲んでる?」
「飲んでましたけど、効かないからやめました。炎症じゃないみたいですし、精神安定剤みたいなのも効いた感じがしなくて。日によっては効く気がしますけど、ひどい時には何をしてもひどいです」
「顔に出ないね、それにしては」
「出てますよ、たぶん」
 私は咄嗟にあの子の表情を窺った。焦りの色が、応じるように浮かんだ。
「出さないようにはしてますけど」
 すぐにとぼけた声を出し、あの子は五指を胸に這わせた。あの子の気遣いは、彼氏のそれと似ている。私が勝手に傷つかないよう計らってくれる。
「出してもしょうがないんですよ。さっきも言いましたけど、不細工が苦しそうにしてたって誰も気にしません。何をどうしても痛いですし。屈んでもダメ。のけぞってもダメ。打つ手がなくて。だから気づかないでしょうね。当たり前ですけどね」
「あんたほんとに納得できてる? さっきも『当たり前』とか言ってたけど、もっと腹が立ったり、大声で叫んだりしないの? 誰かのせいにしたくなるでしょ?」
 私は怒鳴るようにまくしたて、ぎゅっと口を結んだ。わかったような物言いに腹を立てているんだ、そう思わせたかった。だが後ろめたい憤りが責めているのは私だった。あの子は戸惑いを隠さず、それでも気丈に続けた。
「聞き手が必要じゃないですか。そういう吐き出したり、とかは。一人じゃやりづらいでしょうし、本当に一人ならやっても痛いからやりません」
 一重瞼の目はじっとこちらを見据えていた。視線を逸らしたのは私だった。向かい風に耐えかねたように。固く閉ざした唇が熱かった。
 あの子は「納得できない時もありますよ」と少し声を落として言った。哀れみを乞うているように、私には聞こえた。私は壁と向き合ったまま眼球だけを動かし、あの子を睨みつけた。瞼の裏がジンジンと痛んだ。
「できない日は大抵ひどいから、帰ったらすぐ寝ますけどね」
 笑いながら、あの子は胸から手を離した。私はわざとそちらを見ないようにした。遠くに置かれたドラムスティックの黒ずみを、しばらく見つめた。奥谷さんの個人練習に、私はいつまで付き合うのだろうと考えながら。
 若干の沈黙の後、私はあの子に目を移した。たぶん頑張ってメイクした目元を、あの子は指で押さえつけていた。声をかけようか迷っている間に、手は顔面から離れた。ぱちぱちと瞬きをして、あの子は言った。
「今痛みはだいぶいいですよ。喋ってるとけっこう楽なことが多くて」
 暗に何かを訴えている風でもなく、媚びを売るような口調でもない。しかし言うほど楽そうでもない。
「かわいそうって言ってほしいの?」、そう問いかけたらこの子は何と返すのだろう。怒るのか、悲しむのか、笑うのか、まるで想像する気にならない。
 私は天井を見上げ、でたらめにギターを弾いた。あの子も頑張ってついてこようとした。拙い音は硬く、ぎこちない。初心者向けのピックが床の上に置かれていた。

 うとうとしながら、ちょっとだけあの子のことを考えた。大きなライブの前日で、私は耳栓をつけたままベッドの上で何度も寝返りを打っていた。0時のアラームが鳴る。彼氏はまだ帰ってこない。
 あの子はしばらく私の前に現れなかった。どうせライブには来るのだろう。またステージの袖にいる。きっと胸の痛みに耐えながら。
 けれど想像はそこで終わる。あの子の痛みは私にはわからないし、それほど興味が持てない。真剣に向き合うつもりもない。
 それはあの子の容姿のせいではない。だけど、もしあの子がもっと明るくて、話していて楽しい子だったらまた違うのだろう。あの子が使う「不細工」の意味は、きっと私の知っているものより広い。
 私は起き出して机の明かりをつけた。歌詞が思いつきそうだった。けれどあの子が読んだらと思うとすぐに手が止まった。
 あの子の痛みはあの子のものだ。私の言葉には乗らない。私は深くうなだれて、人差し指で床を打った。ここ数日ひたすら練習した曲のリズムに合わせて。
 テンポが次第に速くなる。指が一本では足りなくなり、当然、中指、薬指も動き出す。
 手持ちが多いと確かに便利だ。そんな考えがふと浮かんだ。ため息が出た。
 閉め切ったカーテンの向こうから電車の走る音がした。なんだか咎められているような気がして指を止め、私は薄暗い部屋を振り返った。一度も読んだことのない漫画雑誌が、裏返しに伏せてある。
 すぐさまペンと、白いレポート用紙を見返った。だがそれっきりだった。今感じたことを歌詞にできるのは今だけだ。なのに手放した。
 心が重かった。あの子が憎かった。今持っているすべてが愛おしい、そう思えないのが後ろめたくて馬鹿みたいだった。

 ライブ当日、あの子は楽屋の奥から会釈した。私の手も意外とすんなり上がった。明るい服を着て、あの子は楽しそうだった。飼い主を引っ張る犬みたいな陽気さを感じた。部屋にはあの子と私しかいない。
 遠町さんの笑い声が通路から聞こえた。よそのバンドのリーダーと話をしているらしかった。奥谷さんも一緒に違いない。新しいベースにかこつけて、また言いたいことを言っているのだろう。私は一度ドアまで戻り、バタンと閉めた。
 リハーサルまでには時間がある。私はまたあの子の斜め前に座った。お決まりの声出しをしている間、やたらと視線を感じた。あの子はずっと立ったまま、ぎこちなく笑んでいた。
「座ればいいのに」
 椅子を指差すと、あの子は「なんか落ち着かなくて」と声を弾ませた。両手は腹の前で組まれている。
 ふうんと聞き流し、私は普段のように耳栓をしようとした。だが、調子は悪くない。寝不足気味なのに、ほとんど雑念がわかない。煙草と香水の匂いも嗅ぎ分けられる。
 私はあの子の顔を見上げた。あの子は笑ったままお辞儀をした。私は首を傾げてみせた。
「この前はすいませんでした。私ばっかり喋っちゃって」
「今言うことじゃないとは思うんですけど」と付け加え、あの子はそれきり黙った。
「そこまで気を遣わなくていいよ。私は慣れてるし」
 こういう舞台に慣れてるってことね、と付け足し、足りない気がしたので「ギターはうまくなった?」と聞いた。
「今日部屋で弾いてたんですけど、外で猫がやたらと鳴くんですよ。やめてって言われてるみたいで」
 破顔したあの子は可愛かった。美醜とは関係なしに、心地よい笑顔だった。
 私はいろんなことを尋ねた。猫を飼っているのか。飼う気はないのか。そもそも猫は好きか。「好きだけど飼えなくて」、とあの子は言った。
「親が猫嫌いなの?」
「いえ、私一人暮らしです。引っ越すお金もなくて」
「そうなの?」
 家族とは毎日顔を合わせているのだろうと、私は勝手に思い込んでいた。あの子は弾んだ息を流し込むようにコーラを飲んだ。飲み終えるのを待って、私は言った。
「この前、ありがとうね。ライブの後でコーラとかくれるでしょ。そういえば一回お礼言ってなかったから」
 そこで私はさっと目を逸らした。言うべきでないことを言った気がした。閉め切った部屋が張り詰めた空気に満ちた。壁越しに聞こえる声は、ただ騒がしい。虚ろな音を一、二度響かせて、あの子は言った。
「鈴さんの歌、聞かせてもらってるから」
 私は膝元の両手に目を落とした。が、あの子が見たくなった。体が熱くて、冷たいものも欲しかった。
 あの子は両手で包んだペットボトルを、音が出ない程度にへこませていた。身を乗り出し、期待するような眼差しをこちらに向けている。私の準備ができるのを待ってくれているようだった。
 笑みがこぼれた。私の手まで汗ばみ、そわそわ動いた。
「ありがとう」と私は言った。一番言いたいことを言った。そしてあの子と向き合った。あの子はとっくに私と向き合っていた。
「鈴さんの歌は、伝えたいことを……サビ? の部分ではっきり口にしてる感じが好きです。『雨降りの街を突っ走る川 増水してく私の想い』」
「やめてよ」
 私はさすがに苦笑いした。あの子は安らかに笑んでいた。急くような、けれども安心しきったような笑顔。鏡の中で異性の隣に映るような、眩しい笑顔。
「『私の』、で区切る歌い方が好き。そのあと吐き出すように『想い』って言うのがもっと好き。吐き出すタイミングが日によって違うのがすごく好き」
 流れるような言葉に、私は目頭が熱くなるのを感じた。意識しているつもりはないけれど、心当たりはある。
「まっすぐに届いてくるんです、鈴さんの歌は」
 胸に手を当て、あの子は言った。それ以上何も言わなかった。今日のライブのことも、他の聞き手のことも、何も。
「ありがとう。本当に」
 私はそれだけ言って、俯いた。今日もこの子は私の歌を聞いてくれる。やがてドアが開かれ、私の名が呼ばれた。「また後でね」と笑いかけると、あの子はこくんと頷いた。互いに手を振り、私たちは離れた。

 最近MCをあまり意識しない。喋りたいことがあれば喋るし、なければ決まりきった話をする。どのみち一曲目を歌い終えるまでは何も語らない。
 私はいつもステージに立つとすぐ、マイクに両手を添えて目を閉じる。曲が始まる。マイクスタンドにもたれかかり、天井を仰ぐ。深く呼吸をして、周囲の音と自分の五感を揃える。この時間が一番好きだ。
 聞き手はいつもより多い。会場は広く、蒸し暑い。興奮の濃い匂いがする。今日うまくいくことは、もうわかっている。
 私が壇上から吐き出すものが客席に満ちる。皆がそれを共有する。聞き手が多いほど楽しい。汗で服が重くなる。熱い血の流れを感じる。私の声は届いている、そう確信できる。
 曲が終わった直後には、ふっと乾いた気持ちになる。拍手と歓声の真ん中で、自分だけが取り残されているような気持ちになる。
 私はステージの袖を振り返った。あの子が私を見つめている。改めて客席を見渡し、一人一人の顔を見る。ドラムカウントが鳴り渡り、呼応するように客席が沸き立つ。
“Who”は霞んでいない。今目の前にいる全員の体温を感じる。私もこの胸の鼓動を伝えたい。声の上擦りも、かすれも、ぜんぶ届けたい。これが私だと伝えたい。
 
 今日はすごかったね、と遠町さんが軽く肩を叩いた。ずいぶん整えてきたね、と奥谷さん。笑顔で応じる私を、二人は珍しがった。事実、いつもよりずっと達成感や解放感があった。
 いろんな誘いを断り、私はあの子を連れて早めに去った。もっと引き留められるのではないかと思ってはいたが、どちらでもよかった。
 ビルの窓にギターを背負った女が二人映った。あの子も様になっていた。空いた手が、時々あの子のケースに触れた。住宅街の光が夜道を白っぽく照らしている。光の果てに公園がある。柵の内側を、街灯が守るように囲んでいる。
 入り口で私は立ち止まった。あの子はやはり真ん中を突っ切っていった。私はちょっと走ってあの子と並んだ。
 澄んだ夜気は重かった。静けさが聴こえるようだった。私たちはギターを置き、ベンチに腰かけた。
「夜でも怒られるの?」
 私は合わせた指先を、ぱくぱく開いてみせた。
「今は寝てるみたいですね」
 あの子は声を潜めて言った。
「なんか今は繁殖期みたいで。終わるまであと一、二ヶ月かかるみたい」
 言われてみれば、最近朝からやけに鳴いている気がする。それを伝えると、あの子は静かに同意した。
「今はあんまり近づかないようにしてます。あっちの都合もあるでしょうから」
 そのままあの子は口を結び、暗い空を仰いだ。もっと喋ると思っていた。
「今も痛い?」
 私の問いに、あの子は「まあ」と下手くそな笑みを浮かべた。私は何を言うか、少し考えた。
「さっきまではだいぶ良かったんですけど。反動があるんですよ。これだけひどいのは久しぶりですね」
「じゃあ帰って寝た方が良くない?」
 つまんないことを言ったか、と思った。あの子は「大丈夫です」と胸に手を当てた。
「いつ頃から痛むの?」
「二年前の六月からですね」
「きっかけは?」
「あるような、ないような。まあ負担はかかりましたね、心に」
 なんだか尋問してるみたいだった。続けてもいいものかと迷ったり、喋っていると楽だと言ってたのを思い出したり、あの時は気を遣ったのだと訝ったり。
 全体として、私の心は浮ついていた。だがそれはあの子にしても同じようで、街灯の光を含んだ目はよく動いた。たぶんお互い、形にならない感情を持て余していた。
 飾りのような問答が途切れた。冷たい土の匂いがした。裸足で歩いたら気持ちいいだろうな、と思った。けれど私はあの子の隣から離れなかった。
「長くなると思うんですけど」
 あの子が言って、目配せした。私は声に出して頷いた。
「今年は環境の変化とかいろいろあって。いいことも悪いこともありました。いろんな病院にも行きました。それでも私は私で、どんなに期待してもやっぱり一人で。たまらなく痛くて。閉じこもっててもダメだから、本を読んだり音楽を聴いたりしてごまかしてました。そしたらどういうきっかけだったのかな、何かの本に聖書の言葉が書いてあって。ネットでちらっと調べてみたんです。それがまずかったですね、結果的に」
「まずかったって、何が?」
「正しすぎるというか。言葉が強すぎるというか。自分が正しいかどうかを、痛みと結びつけて考えるようになったんです。実際ね、痛いのにダラダラ動画を見たりとかで、余計なことしてるなって気持ちがあると、後悔しちゃうんですよ。痛みの原因みたいなものができるんです、自分の中で。だったらちゃんと生きよう、とはなるんですよ。規則正しく生活して、いい空気を吸って、栄養に気を配って。後悔しないで済むように、できるだけのことはしたんです。でもね、痛いんですよ。それでも痛いんです」
 あの子は一度大きく吸った息を、ふっと吐き出した。長く喋るのは久しぶりなんだろうなと思った。
「自分は正しいと信じてる人がいる。後悔するようなことは、できる限りしない。たとえばいきなりひどい目にあっても、『これは私があの時あんなことをしたからだ』って咄嗟に思うような、バチが当たったんだ、みたいな心当たりがない。できることは全部してる。でも痛い。痛みが取れない。さあどうする」
 私は黙ったまま、意識して呼吸した。この子は私に問いかけてはいない、そう感じていた。
「状況によって違うと思いますけど、自分の正しさが足りないからいけないんだって発想をするのは自然だと思うんですよ。聖書に触れると特にそう。ほんとにちょっと読んだだけで、どうこう言えるわけじゃないんですけど、たくさん心当たりを指摘してくるんです、あれは。『こうしろ』とは言ってくる。イヤってくらいに道を示してくれる。でも私の痛みは取れないんです。さあどうする。そんなことをやってると、一回何もかもを捨てたくなって。もっと陽気にならなきゃって思いました。危機を感じたというか。はしゃぎたかったんです。痛くても、はしゃいでる方がマシかなって」
 弾けもしないギターを買って、歩いたこともない道を歩き回って。近づいたこともないライブハウスに入って。あの子は丁寧に言葉を選んだが、私にはそれが、なんとかの定理を証明しているように感じられた。すぐ傍にあるはずのことを、あの子は耳慣れない遠くの言葉で語った。私は薬指の爪の端を何度も親指でなぞった。剥けた皮がめくれていくのがわかった。
「音楽に興味はあったんだ」
 言い漏らしを補うように、私は聞いた。「元からけっこう好きでした」とあの子は返してくれた。そして「最近は一人じゃ聴かないですけど」と付け足した。
「つまんないなって思っちゃって。聴いてても歌詞が上滑りする感じ。他人事だからだと思います。そうなんですね、で終わっちゃう。『僕』とか『私』って聞くと、ハッとします。『君』とか『あなた』って聞いたらもうダメで、この人は私に伝えたいんじゃないんだな、って思う。『君』はどこまでも私じゃない。当たり前だけど、それが当たり前なのが寂しくて痛い」
 私は鼻から大きく息を噴き出した。そうしてもいいと思った。だけどすぐに後悔した。きっと今は何をしても痛かった。
「『カラフルノイズ』には安心します」
 取って付けたような言葉に、私は苛立った。だが他の感情や疑念が、早まった言動を制した。
 あの子の痛みは、私にも断じて無縁なものではない。親指の生暖かいぬめり、薬指の鋭い痛み。悲しみや苛立ち、後ろめたさやじれったさ。
 どれもあの子の語っている痛みと同じではない。たとえ同じでも確かめようがない。だからこの子は伝えようとしているし、だから私は歌うのだ。
「ノイズなら、好きな時に耳を塞いでもいいんだって思えます。だから塞がないでいられる」
 あの子は誰がバンド名をつけたのかを尋ね、遠町さんの名を出した。私はそっけなく、知らないと答えた。私じゃないからあの二人のどっちかでしょ、と。当時は名前の響きだけが気に入って、それ以上の追求はしなかった。
「なんとなくだけど、遠町さんがつけたと思ってました。たぶんさっき言ったみたいな感想というか、反応を期待してたんじゃないかなって」
「そんなに気が利かないよ、あの人は」
「私は、視野が広いって言うのかな、いろんなことに気がつく人だとは思ってます。鈴さんが入場券の話をした時、遠町さん、何にどういう許可がいるかを説明してたじゃないですか。あれは私に言ってくれてたと思うんですよ。ライブハウスの事情とか知らなくて、ちょっと話についていってなくて。理解させることにはすごく敏感なんじゃないかな。鈴さんの歌を聴くと、『世界中のみんなに聴かせたい』とは思ってないんだろうなって印象を受けるんですけど、遠町さんならそれを『カラフルノイズ』って表現しそうな気がします」
「それなら普段からもっと自分の言葉を使いそうな気がするけど。他の人のじゃなくてさ」
「言葉にしてるなら伝えたいことがあるんじゃないかな。なにを伝えたいかは、いろいろでしょうけど」
 私は「なるほど」とだけ言った。遠町さんがそこまで嫌いでない理由を言い当てられた気がした。あの子の息遣いが聞こえた。その穏やかさが心地よい。
「もしギター弾くのが苦手なら、歌詞を書く、じゃダメなのかな。書いてくれたら、私が歌うよ」
「ありがとうございます」
 私の率直な言葉を、あの子は率直に受け止めた。互いに伝わっている確信があった。「ありがとうございます」に含まれている気持ちと、含まれていない気持ち。あの子は「はい」とは言わなかった。
「書くのはしんどいか」
「そうなんですよ。書いたり読んだりは今はつらくて。身体を動かした方が楽ですね」
「歌うのは?」
「ヘタクソだと思うので」
「私は聞いてみたいよ」
「ありがとうございます」
 あの子は視線を空に向けた。月の半端な輝きに、雲の濃さが際立っていた。
「鈴さんが前に言ってたけど」
 ゆったりとした言葉は煙みたいだった。夢かもしれないと、実際思った。だけど指先がジンジン痛む。
「本当はね、叫び出したくなることはあるんですよ。お風呂の中とか、夜道とかで。自分の運の悪さに耐えられなくなることはあります。でも一人で怒鳴っても、どこかに人目を意識しちゃうんですよ。誰かが聞いてることを期待しながら、大げさに怒鳴るんです。それがね、すごく浅ましく感じられるんですよ」
「わかってほしいのは当たり前だと思うよ。浅ましくなんかない」
「そうなんです。そう思えるのが、思ってもいいのが健全だと思うんです。入場券を持ってるって言ったのはそういう意味です。持ってない人は、浅ましいなって思うほうがマシなんです。どっちにしても誰も聞いてないんだから、叫ばない理由がある方がマシなんですよ」
「そんなにはっきり分かれてるものでもないでしょ。持ってる持ってないが全部じゃないよ。こうやって会話ができてるんだから」
 私は自分とあの子を交互に指差した。言いたいことは、言うべきことと重なっていた。だけど、きっと取るに足りない可能性が邪魔をしていた。誤解を避け、言い過ぎを避ける。明るみに沿って歩くように、私は傷つかない道を辿っていた。
「私だって、おんなじように思うことはあるよ。声が届いてると思えることなんて、ほとんどないし」
「だとは思います」
 あの子は私を一瞥した。あやふやな台詞がさっと消えた気がした。「私は入場券なんか持ってない」、その言葉は喉まで出かかっていた。
「私も他の人の想像はするんですよ。自分だけが痛いって思うのはそれこそ浅ましい気がするし、たぶんどうやっても避けられない偏りはあると思う。それが痛みなんじゃないかって思う。でも、私が痛いんです。他の人も痛い、みんな痛い。だとしても、これ、今ここにあるこの痛み、これはどうしようもないんです。一人じゃなくなれば消えるかもしれないし、もっと痛い人の話をしてもいい。そういう、『世の中がある』。『私が痛い』。たぶんこの二つって、まるで違うことなんですよ。架け橋がないんです」
 この子は両手を左右に並べた。きっと体温のある小さな手を、私は横から眺めた。きっと痛みは隣にあった。熱っぽい言葉の向こうにあった。
 白い手の甲は夜に映えた。いつそれらは下ろされるのか。私は黙り込んだまま、願うように見つめていた。
 あの子は両手で胸を覆い、言った。
「キリストが取り除いてくれるのはそういう痛みなんじゃないかなって、私は思うんです」
「そんな話だったっけ」
 甲高い声が出た。ベンチに腰を据えたまま、平坦に、あの子は続けた。
「私もほとんど知りません。最初は読んでて面白かったんですけど、だんだんその言葉っていうか考え方が頭に残るようになって。実際痛みが減る方に向かってるとは思うんだけど、確信がもてないから苦しくて。八方塞がりになったからやめました。あれは私には読めません」
「実際に痛みが減るもんなんだ」
「あの通りに生きれば後ろめたさはないだろうな、とは思います。後ろめたさがある痛みって本当にひどくて。その、徹夜でゲームした次の日に後悔した、みたいなことを言ってるんですけど」
「寝不足だと痛みが増すってこと?」
「それもありますし、怒られた、とか痛みは何でもいいんです。痛みにはっきりした理由があって、それを自分のせいだって思うのはやっぱりつらいと思うんですよ。それ自体もそうですけど、何の理由もない、事故みたいな痛みまで自分のせいだと思えてきたり。でも最悪なのは、今まさに責任を感じながら、もうやめなきゃって思いながら続ける時の痛みですね。痛みに耐えながら徹夜するイメージ。次の日もつらいけど、耐えてる痛み自体が半端じゃなくて。『もうやめよう、これ以上は耐えられない、でももうちょっとやろう』、みたいな」
「依存症じゃないの、それって」
「依存症はもっとひどいかもしれないですね。私のは体の痛みばっかりだし、比べないですけど。でも依存症の人が聖書を読んで――読むように薦められて治る、なら納得はできますね。方向は示してくれるような」
「でも今読むのはつらいんだよね」
「状況次第ですねえ、たぶん。私には準備ができてないんです。できる当てもないですね」
「話でも聞きに行ったら? ちゃんとした教会とかに。病院で治せない痛みってそういう、メンタルな部分から治ったりするって聞いたことあるよ。意外と効果あるかも」
「本当はそれが正しいんでしょうね」
「でも」とあの子は何かを言いかけ、口を閉ざした。空を仰ぎ、時々唸り声を上げて、最後に首を捻った。頭に、疲れきった彼氏の横顔が浮かんだ。私はまた離れた場所から話を聞こうとしている。
「どうでしょう」とあの子は言った。
「考えたことなくて。私、宗教にぜんぜん興味ないですし。それにライブハウスで同じことをしてるような」
「ぜんぜん違うように思えるけど、私には。それにさっきの話の流れだと、真逆じゃないっけ。宗教から離れたくて外に出たんじゃないの」
「まあ。でも欲しがってるものは同じかなって」
「はしゃぐってことでしょ? 教会ではできなくない?」
「大勢に参加する、って意味です。私にはそれができるのかなあ。たぶん私、何も信じませんよ。何にも祈りたくなんかない。いろいろ言いましたけど、痛みさえなければ考えなくてもいいんですよ、こんなこと」
 突き放すような口振りだった。あの子は眼球に焼けつくような光を溜め、ぐっと両膝をこちらを向けた。私はギターにもたれかかり、体を支えた。
「痛みなんてなければいいんです、はじめから。こんなものに意味なんてない。昔の言葉なんていらない。わけのわからない理屈もいらない。私は――」
 そこまで言って足元に目を落とし、あの子は鼻で深く呼吸した。
内側の温度を調整しているみたいだった。胸に手を当て、ゆっくりと顔を上げ、あの子は「ただ痛いんです」と言った。
「私にできることは何もないんだろうね」という言葉が、はっきりと思い浮かんだ。いろんな感情を無視して単純な理由を固めた、鉛みたいな言葉だった。私は正面の暗い広がりに向かって言った。
「まあ信じられないなら、行かないほうがいいかもね。教会」
 教会はどんなところなのか。そもそも教会はどこにあるのか。どんな話題を出しても、今は白々しい。私はあの子の返答を待った。薬指の血はとっくに固まっていた。
「奇跡があったんだろうってことは信じてますね、たぶんある程度は」
「どんなやつだっけ」
「病気を治したり、死んだ人を生き返らせたり。私はどれも、『痛みを取る』と同じ意味だと思ってますけど」
「死ぬことも痛みなんだ?」
「逃げられない。どうしようもない。先が見えない。慢性痛みたいなものだと思います。理不尽で、暴力みたいな。ただ公平ですよね、たぶん。罪悪感とかに似てるのかな、たぶん人としての痛み。キリストはね、それを癒すんですよ。それって入場券としては最高ですよ。美しい必要なんてぜんぜんない」
「でも処刑されたんじゃなかったっけ。裏切られたか何かで」
「捕まっても逃げる必要がなかったんだと思います。そのへんのシーンって、できればちゃんと読んでみたいんですけどね。たぶん癒すことと、痛みのないルールを伝えること、それさえできればよかったんじゃないかな。全部同じ感じの内容だったとしたら、ですけど」
「そのルールはわかってるの?」
 模範解答を求めるように、私は聞いた。役に立ちそうな部分があることはわかった。
「さっき言った、『バチが当たったんだ』みたいな感覚をなくすこと。自分を責めなくてもいいような環境を作ること。後ろめたいと思ったら、すぐにやめること。私にはそんな風に読めました」
「難しいよね、実現するの。何もできなくなりそう」
「できなくなりました、実際。でもキリストがいれば痛みを癒してくれる。それなら二つは同じことなのか別のことなのか、わからない。たぶん痛みのないルール自体は、今ある痛みにはあんまり効かないんです。でも他にどうしようもないから、後ろめたさがないように生きる。少なくとも自分ではそれが正しいと信じてる人間がいて、でも痛い」
 私は次の言葉を待った。あの子は、「きっと話としては」と続けた。街灯の光が骨張った横顔をぼんやりと照らしていた。顎を引き、細い目を正面に向けている。
「そういう人の目の前にキリストが現れるんですよ。物語ならそれでいいんです。でも現実には現れない。現れないのが現実なんです。じゃあもっと頑張ろう。でも痛い。どんなに頑張っても痛い。キリストは現れない。痛みも、醜さも、欠落も、何もかもが残ってる。癒し手はいない。聖書の中にはいた。でも今はもういない。どこに行ったとしても、いつ帰ってくるとしても、今この瞬間にはいない。今私の目の前にキリストはいない。それが、それだけが問題なんです」
 吐き出すように、あの子は言った。私も、あの子も、それ以上何も言えなかった。私たちは水のような静寂の底にいた。
 どこからか激しい走行音が聞こえて、私はギターに当てた手を強張らせた。あの子は前を向いたまま、眉間に皺を寄せていた。「バチが当たったんだ」の感覚を、私は肌で感じた。それは確かに痛みだった。
「本当にできることは全部してるんだろうね、あんたは。それでも痛いなんて理不尽だよね、本当に」
 雑音が消える前に、何かを言いたかった。きっとこの子は耳を塞がず、私の声も聞いてくれる。あの子は当たり前のように応じた。
「心当たりはね、あるんですよ。醜さとか、学歴のなさとか。痛みの原因そのものじゃないですけど、悪いことがあったらそれのせいにできるようなもの――まあ欠落はあります。どうしようもないですね。お金で補うというか交換することはできますけど、まずお金がない。世の中に受け入れられる理由がない。頑張っても届かない、何をしても痛い。最近よく思うんですけど、キリストってどうやって癒すんでしょうね。正しさか、美しさか。それは二つなのか、一つなのか。架け橋はあるのか。ちゃんと聖書を読めばわかることなのか。わかったらこの痛みは取れるのか」
 私はあの子が喋るのにただ任せ、話を聞いていた。遠くを見ながら聞いていた。私の発するすべての声を、この子は痛みに耐えながら聞く。私にはそれがたまらなくつらい。
「いろいろ考えましたけど、答えは出ないし痛いです。でも、意外と他の角度から良くなったりすることもあるかもしれないですけどね。けっこう日によって違うものだし。平気な時もあるんです」
 あの子はこちらを向いた。笑っているように思えた。
 私は「今はどう?」とは聞かなかった。ずっと心の中にあった迷いを、私らしく表現した。
「今度一緒にカラオケ行こうか。二人で」
「ありがとうございます。ぜひ」
 私は「今から」とは言わなかった。これからの予定なんかないのに。だけどたぶん、どんな理由をつけてもあの子の尊厳を傷つけるだけだ。
 私が痛い。あの子が痛い。左右の手は離れている。
 せめてあの子が立ち上がるのを待とうと、私は身じろぎせずにいた。案の定、あの子はすっと立ち上がって公園を見回した。木と街灯に囲まれた音のない暗がりの真ん中で、あの子は「綺麗ですね」と言った。

 あの子は「俺の歌」に来なくなった。唐突にではなく、少しずつ来る頻度が減って、いつからか来なくなった。前からピックは奥谷さんに返していたらしい。
 見切りをつけたか。
 一人に還ったか。
 夜に溶けたか。
 明るみに消えたか。
 死んだか。
 死なせたか。
 どうなっていても納得できる気がする。つまんない子、平凡なあの子は、きっとどこにでも姿を現す。
 意外と彼氏でもできて、偶然にできて、今もどこかで笑っているのかもしれない。きっと誰にとってもそれが一番いい。
 私は変わらず生きている。時々、他人に本気で痛みを伝えたいと願うことなんてないな、と思う。
 病院で薬をもらう時も、彼氏に絆創膏を巻いてもらう時も、「これ、この痛みを何としても伝えたい」とは思わないし、思えない。思う必要がないのだと、あの子は言うのだろう。
 今夜も私は「俺の歌」へ向かっている。様々な痛みを無視して、大勢の前で歌うために。
 うまくいった日も、いかなかった日も、あの子が聴いていればと思う。あの子だけの前で歌いたいとさえ思う。けれど私はステージの袖を振り返らない。もうあの子はいないから。
 街は明るくて暗い。見回すといろんな表情がある。色があって、形がある。
 私がいる。あの子はいない。痛みがある。今ここにある。架け橋はない。
「俺の歌」の毒々しい看板が目に入り、足が止まる。私が「痛いよ」と伝えたら、あの子はどんな顔をするだろう。私はその顔が見たかった。
 私は自分の腕に爪を立てた。痛い。
「痛い」
 そう声に出し、私は夜に向かってまた歩き出した。

今私の目の前にキリストはいない

執筆の狙い

作者 101
om126194111054.10.openmobile.ne.jp

今書けるものを形にしました。
よろしくお願いします。

コメント

どばと
118-105-225-227.area2b.commufa.jp

完全一人称で、ここまで他のキャラをだせるのは凄いと思います。呼称は鈴ちゃんとの心の距離を表しているのかな。「あの子」とは、一番遠い感じ。なんだかんだ遠町さんが一番近い感じ? 想像する楽しみもあって名前をださないのもありだなと。
細かい演出が上手。少ない文字数でさりげなく奥谷さんや彼氏との関係を表しているのは、OMGって感じでした。もう、なびいている感じかな。

あの子が自分の痛みについて語って、カラフルノイズからいなくなってから歌を聴かせたいと思うようになるという、この心境変化。なんか深いなあ。

すごく面白かったです。ありがとうございました。

PS なんか、40年前の曲ですが、美空どれみ擁する『ビジネス』の【痛いマイハート】という曲を思い出しました。名曲です。

101
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どばと様、ご感想ありがとうございます。

お褒めの言葉ありがとうございます。
各人の特徴をうまく伝えられたようで幸いです。
「あの子」は名前をこの作中で出す必要を感じなかったので出しませんでした。遠町との距離感など、いろいろ想像していただけるのは嬉しい限りです。

演出や、文字数と関係の表現についても意図がそのまま伝わったようで嬉しく思います。光栄です。

一人の人間を描きたい一方で物語という特殊性からも離れられないため、その中で心境変化を自然にお伝えすることができたのなら安心できます。

こちらこそありがとうございました。
面白い、と言っていただけるのがやはり嬉しいです。

【痛いマイハート】、聴きました。
率直に「痛い」と言ってくれる歌を知ることができて嬉しく思います。
重ねてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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