作家でごはん!鍛練場
大丘 忍

鏡の中の女

 
 邦子はあっと小さな声を上げた。三和土(たたき)に立っている学生の瞳は、夫の元春そっくりだった。
 似ている。
 濃い眉の下につぶらな瞳が光を放って邦子を見上げていた。濃い眉、そしてその瞳は……。
いらっしゃいという声を掛けることも忘れて、邦子は学生の瞳を凝視した。
 夫の筈は無い。終戦直前に夫の元春が戦死したという知らせを受けている。その戦死は誤報であり、夫が生きて帰ってきたのだろうか。
「あのー、石丸敏彦と申しますが」
 学生の声でふと我に返った。

 女学校を卒業してしばらく銀行に勤め、二十才で結婚して銀行を退職した。子供の出来ぬまま四年が経過し、夜の生活に女の幸せを感じ始めたときに夫を戦争にとられ、三十四才のこの歳まで、小さな会社の経理事務をして生活を支えてきた。
 僅かでも収入の足しにと、空いている二階の一間を改造して学生の下宿にした。女の一人住まいでは用心が悪く、若い学生を下宿させたらという勧めもあったからである。京都北白川のこの辺りは京洛大学に近い。邦子は京洛大学学生課に下宿生募集の案内を出していたのである。
「あのう、学生課で聞いてきたのですが」
 邦子を見上げる目がまぶしそうに瞬いた。
 がっちりした長身で、角張った顎、純朴そうな目の動きが邦子の心を揺さぶった。
 やはり元春に似ている。
 邦子は畳に正座して笑みを浮かべた。
「京洛大学から?」
「はい。石丸敏彦です」
 二十才くらいであろうか。まだ童顔の残っている顔がほころんだ。好感の持てる学生だと思った。確かに夫の元春に似ている。
 どんな学生が来るかと内心は冷や冷やしていたのであるが、夫に良く似た学生が来るとは、きっと夫があの世から手配してくれたに違いない。
「こんな所で良かったら」
 邦子は学生を二階に案内した。
 六疊間で押し入れがついている。
 北の窓を開けると、北山の連山が濃い緑を連ねており、初夏の風が頬をかすめて通り抜けた。
 学生は押し入れを開けて覗いた。新しく取り替えた床板が木の香りを漂わせる。
「石丸さん……でしたわね」
 声をかけると、彼が振り返って口を開いた。
「石丸敏彦。経済学部の三回生です。良いところですね。大学にも近いし」
 学生は次に南の窓から下を見おろした。塀に囲まれた小さな庭に物干し竿が掛かっており、邦子の下着が風に揺れている。若い男に下着を見られて邦子の顔が熱くなった。
「もし洗濯するのなら、洗濯物はそこに干して頂いていいんですよ」
 あわてて窓を閉めて振り返ると、彼は満足そうにうなずいていた。
一階の廊下の突き当りにトイレがあり、その手前が風呂場である。邦子の寝室はトイレや風呂場に行く廊下の途中にある。
「へー、お風呂があるんですか」
 学生は珍しそうに風呂場を覗いた。
 古い京都の町並みには、風呂のない家が多い。その代わりに町のあちこちに銭湯がある。
「お風呂は二日おきに沸かしますが、それで良いかしら。お風呂屋に行くなら近くに白川湯がありますが」
「もちろん、良いですよ。内風呂があるとは思っていませんでした」
学生はじっと邦子を見つめた。彼に見つめられて、邦子は頭の中が波打つのを感じた。
「あのー」
 なに? というように、邦子は僅かに首をかしげてみせた。
「おばさん、いや……。あの、どうお呼びしたらいいんですか?」
「あら、私のこと?」
 学生の戸惑った顔を見て、邦子は思わず笑った。
「おばさんで結構よ。だっておばあさんと言うにはまだすこし早いでしょ」
学生は、口を開きかけてまた閉じた。おばさんという言葉が出しにくかったのかもしれない。
「おばさんでいいのよ」
 会社では、上司や男性職員は苗字で呼ぶし、中年の女子職員は「邦子さん」と呼んでいる。高校を卒業したばかりの男子職員や若い女子職員でも苗字で呼んでいるので、「おばさん」と呼ばれた経験はない。
 この若い学生が改まって呼ぶとすれば、苗字かもしれないが、「おばさん」と呼んでもらった方が親しみを感じる。
 若い男性とこれほど仕事以外で身近に言葉を交わすことは久しぶりだった。ときめきに似た心地よさが体を突き抜ける。その夜、邦子は夫に抱かれた感触を久しぶりに思い出した。
 その翌日、邦子は鏡に映る顔を眺めていた。もともと童顔であったから今でも三十前と言っても通用するかもしれないが、目尻の皺が少し目だつ。もう少しお化粧を丁寧にすればこの皺も隠せるかもしれない。しかし、体の肌はまだ艶やかである。二十歳前後に比べれば、腰周りにかなりの肉がついているが、子供を生んでいない体の、胸の膨らみや胴のくびれはかろうじて若い頃の面影を保っている。
 おばさんか、と呟いて邦子は苦笑した。
「おばさんには違いないわ。ねえ、おばさん」
 邦子は鏡に呼びかけて、うっすらと口紅を引いてみる。これで少しは若く見えるかしら。
 玄関で物音がした。
石丸敏彦が荷物を運んで来たらしい。
 邦子が玄関に出てみると敏彦と二人の学生がリヤカーから荷物を降ろしているところであった。
「お世話になります」
 敏彦の声に続いて、
「こんにちは」
 とほかの学生が人懐っこく挨拶した。
 三人は次々と荷物を二階に運び込んだ。部屋の整理をしている学生達の明るい話声が下まで響いて来る。
 邦子はお茶を持って二階に上がろうとした。
「おい、あのおばさん、すごい美人やないか」
 潜めたつもりでも大きい学生の声が耳に入って、邦子は階段の途中で足を止めた。それに敏彦が何か答えていたが聞き取れなかった。
 美人やなんて。そう言えば女学校のころは美人で通っていたっけ。しかし最近はそれを意識したことはなかった。自分が女である事をいつの間にか忘れていたのかも知れない。
邦子は面映い気持ちで部屋に入った。三人の学生達はあわてて座りなおした。
 お茶を置きながら、部屋には男の匂いが充満していると思った。
男の匂い。そんな感じを抱いたのは何年ぶりだろう。
 邦子は最上級の笑顔を見せて彼等に視線を送った。邦子に見つめられて、敏彦が体を固くした。学生達の眼差しの熱さを意識しながら、邦子の心の隙間が暖かい風で満たされたように感じた。
 敏彦は朝早めに学校に出かける。大学生協の食堂で朝食を摂るのだろう。夕方は夕食を食べて帰って来る。食事はすべて外食である。ときどき下着や剣道の稽古着を洗濯している。
 夏が近づいたころ、邦子がいつもより早く会社から帰ると、風呂場からパンツ一枚の敏彦が出てきた。木刀の素振りをしてかいた汗を流していたらしい。庭の片隅に木刀が立てかけてあった。
 敏彦は高校時代から剣道部の選手だったと聞いている。剣道で鍛えた厚い胸板と腕の筋肉が邦子の目に焼き付いた。心臓の鼓動が高まり、体がにわかに騒ぎ始めた。

 結婚してからの夫婦生活は、夫の求めに応じて体を開くだけであった。戦争中の夫婦生活はそれが常識であったし、邦子に何の不満もなかった。
 ある夏の夜、元春は珍しく酔って帰ってきた。
「あなた、どうしたの。こんなに酔っ払って」
 玄関に倒れこんだ夫を抱き上げた。やっとの思いで布団に運ぶ。
「暑い。脱がせてくれ」
 元春は上着を脱ぎ捨て、布団に倒れこんだ。ズボンのベルトを外そうとする。邦子は手伝ってズボンを脱がせてやった。
「邦子、お前も服を脱げ」
 邦子は逆らわずに、寝巻きの浴衣に着替えた。
 夫の横に寝ると元春は邦子の寝巻きの紐をほどこうとする。
「あなた、何をするの」
「お前も裸になれ」
 夫は下着も脱ぎ捨てて全裸になった。
戦争のさなかである。女が裸を見せることは、たとえ夫の前であろうともはしたないことであった。
「いやよ、そんなことは」
 いやいやをしながら抵抗する邦子の力が次第に萎えていった。元春の手が邦子の乳房を這いまわる。片方の手が魔法のように邦子の下着をはぎとっていく。羞恥に身を震わせながら、押し寄せるさざなみに身を委ねて邦子の口から喘ぎが洩れ始める。
 元春は仰向けに寝ころび、邦子を腰に乗せた。
「ああ、あなた」
 恥ずかしさで邦子は慌てて離れようとしたが、腰と腰は深く打ち込まれた楔によって一つに結ばれ、元春の手が邦子の腰を押さえて離れることを許さない。
 元春が腰を突き上げてくる。それに合わせて邦子の腰が上下する。深く突き刺さった楔によって子宮が突き上げられ、しびれるような感覚が波紋のように広がっていく。その感覚を追い求めるように邦子の腰が自分の意思に関係なく勝手に上下した。
「あなた、なにか変」
 しびれたような感覚は激しい快感に変わり、喘ぎながら邦子の動きが激しくなった。
「あなた。体が止まらない。変だわ、変だわ、ああ」
 邦子の喘ぐ息使いと動きが一層激しくなる。
「なにか変。体が勝手に動く。どうなってるの。あっ、ああ……」
 噴出した精液の衝撃を子宮口に感じて、邦子は元春の上に崩れ落ちた。襞の筋肉はリズミカルにまだ収縮を繰り返している。
 これまでの夫婦生活は一体何だったのだろう。夫の求めに応じて体を開き、夫が満足すれば自分もそれで満足であった。
 男女七才にして席を同じうせずという女学校時代の教育を受けている。結婚して行なう夫婦生活は子供を作るためのものであり、その夫婦の営みがこのような快感をもたらすものであろうとは想像もしていなかった。
 それ以来、元春の愛撫によって、邦子の官能は完全に熟していった。子供には恵まれないまま元春は出征した。
 夜ごと疼く体を持て余しながら邦子は夫の帰りを待った。元春戦死の報を受けて、諦めが体の疼きを次第に忘れさせていった。

「あ、おばさん」
 邦子に見つめられているのに気づくと、敏彦はあわてて二階に駆け上がった。
駆け上がる毎に躍動する足と背中の筋肉が邦子の目を釘付けにし、忘れていた体の疼きが蘇ってきた。
 夏は、夜になると開け放たれた縁側から蚊が入って来る。夜風を通すために少しだけすかした寝室の障子の隙間から、吹き込む風が蚊帳を揺らせる。蚊帳の中で、廊下を通る敏彦の足音に耳を済ます。風呂場で水を浴びる音が聞こえ、しばらくすると足音が近づいて来る。邦子は息を止めて足音が止まる事を期待する。何事もないように足音は通り過ぎる。息を大きく吐いて邦子は寝返りをうつ。
 戦後間もなく、再婚を勧められたことがあった。当時は適齢期の若者は戦争に取られ、邦子の再婚相手の適齢者は少なかった。戦争を生き延びて無事に帰国した復員兵でも独身者はあまり居ない。それでも何度か見合いをしたが気に入った相手が見つからずに再婚は諦めていた。元春の面影を追い求めていたのが再婚を断念させた要因かも知れない。しかし、このまま年老いて朽ち果てるのも寂しい思いであった。学生を下宿させようと思ったのは、潜在意識下にこの心の隙間を癒したい思いがあったからかも知れない。
 邦子は、敏彦が自分を一人の女として意識しているのだろうかと思った。まさか、こんな三十半ばの女を。彼ほどの若者なら、周りの二十歳代の若い女がほっておくことはないだろう。
 もし、敏彦が障子を開けて入ってきたらどうするか。当然それを拒否するべきである。でも、はたして拒否できるだろうか。廊下に足音が聞こえる度に胸がときめくのは、それを期待しているからではなかろうか。
 敏彦には、三十代半ばのおばさんよりも、もっと相応しい若い相手が既にいるかも知れない。そうは思うものの、やはり足音を聞くたびに邦子は思わず乳房を抱きしめ、下が潤ってくるのを感じていた。
その日は晴天であったのに、夕方から雲行きが怪しくなり、夜になると遠くの方から雷鳴が聞こえ始めた。邦子は子供の頃から雷が怖くて嫌いであった。近くに来なければいいがと念じながら、早々に蚊帳の中に引き篭った。麻で出来ている蚊帳は電気を通さないと信じられており、だから雷のときには蚊帳の中にいるのが安全であると子供の頃から教えられている。
 雨音が激しくなった。閃光が走り、少し間を置いて雷鳴が轟く。光と音との間隔はだんだんと短くなってくる。雷が近づきつつある証拠である。邦子は蚊帳の中で身を縮めた。
 一際明るい閃光と轟音で家が振動した。
 廊下の足音が止まり、
「ひどい雷ですね。大丈夫かな」
 空を見上げているらしい敏彦の、のんびりした声が聞こえてくる。
 邦子は思わず蚊帳から飛び出した。落雷して感電する危険から敏彦を守らねばと思った。
「そこに居ては危ない。早く蚊帳の中へ」
驚く彼の手をひいて蚊帳の中に入った時、煌めくような光と同時に轟音が空気を引き裂いた。
「怖い!」
 邦子は夢中で敏彦にすがりついた。彼はパンツ一つの半裸体であった。
その直後に電気が消えた。近くに落雷があったのだろう。雷鳴は絶え間なく続く。暗闇の中で敏彦の逞しい腕が邦子を抱きしめた。
 雷鳴は去って行った。しかし暗闇の蚊帳の中で、邦子と敏彦は抱き合ったままであった。
 突如、邦子の体に情欲の疼きが湧き上がってきた。その手は敏彦の下着を下ろし、股間を探る。たちまち彼の股間の勃起を探り当てる。邦子は相手を押し倒し、その腰に跨っていた。
 夫の元春の体の上で腰を上下させながら快感に堪えているような気がする。堪えきれなくなり、ああ、と声をあげて体の上に身を落とした。
 電気がついた。
 上気した敏彦の顔が目の前にあった。
「おばさん」
 上ずった声で、敏彦の腕が邦子を締め付けた。
 邦子は身体を離して大きく息をついだ。
「これっきりよ。今日の私はどうかしていたわ」
「おばさん」
 鼻を鳴らすような声で呟いて、一旦離れた身体を敏彦が寄せてきた。若い身体は回復力が早い。邦子は思わず身体を開いた。敏彦が邦子にかぶさると、更に大きい快感の波が押し寄せてくる。
 十四才も年下の男とそんな関係になるなんて。
 私が悪いのではない。たまたま雷が鳴ったのが悪いのよ。
 禁断であった快楽への未練と自責の念が邦子を苦しめた。もう決してしてはいけないと心に誓った。どうしてあんなことをしてしまったのだろう。石丸さんが元春に似ているのが悪いんだわと、心の中で何度も言い訳をした。あの時、雷さえ鳴らなかったら。いや、それはうそになる。あれほど敏彦の足音に耳を澄まし、通り過ぎるたびに失望していたのではなかったか。
 敏彦が蚊帳から去ってから、しばらく邦子は欲情が治まるのを待たねばならなかった。
一旦火がついた官能の炎を消し止めることが出来るだろうか。
 元春が戦死して以来、ここ数年は体の疼きを持てあますことなく、平穏に老いていけると思ったのは錯覚だったのか。
 翌日邦子は敏彦と顔を合わさないようにして家を出た。

 数日の間、敏彦の方も邦子と顔を合わせることを避けているようであった。
 一週間ほど経った夜、廊下で足音が止まった。
 邦子は身を固くした。胸の鼓動が高鳴り、下半身が熱くなる。
「おばさん」
 かすれたような敏彦の声に、
「どうしたの」
 と答えてしまう自分が情けなかった。
「入っていい?」
 駄目、という言葉が口の中で消えた。早く、早く駄目と言わなければ。
しかし、邦子はもはや我慢の限界を超えていた。邦子が持ち上げた蚊帳をくぐって敏彦が声もなく入ってきた。
 敏彦の手が伸びて寝間着代わりの浴衣の裾をまさぐった。下着がするりと剥がされる。邦子も思わず彼の股間に手を伸ばして、屹立した肉塊を掴む。
 駄目よ、駄目よと呟きながら、敏彦を押し倒して跨り、肉襞で灼熱の突起を締め付ける。今度だけよと繰り返しながら、腰の動きが激しくなっていく。
 十年間も封じ込まれていた魔物が一挙に囲いを破って暴れ出した。邦子は忘我の境地だった。自分が何をしているのかわからない。いまや邦子の全身が性器となっていた。
「もっと、もっと」と呻きながら腰を激しく動かし続けた。
 今度こそ。これが最後。
 しかし、もう決してしないという決心は、廊下の足音で他愛なく崩れていった。時には敏彦の体の上で、時には体の下で、邦子はもうこの官能の呪縛からは逃れ得ないことを悟った。
「今日はお風呂を沸かしますから」
 これが合図であった。二日おきの筈が毎日風呂を沸かすようになり、敏彦の若さは十分に邦子を堪能させた。
 敏彦が卒業して居なくなったら、と邦子は考える。男なしの生活に堪えられるだろうか。次の学生を入れたらいいではないか。
 駄目、と邦子は首を振った。敏彦でなきゃあ駄目だ。彼との陶酔のなかで、元春の面影を追い求めているのだと自分に言い聞かせた。
 でも、と思う。敏彦は元春ではない。それは単に言い訳に過ぎない。邦子が求めているのは、男との官能の嵐ではないのか。自分はそんな淫らな女ではないという自負は崩れ去ろうとしていた。敏彦が元春に似ているからというのは自己弁護に過ぎない。
 もともと自分は、性欲の強い淫蕩な女ではなかったかと思う。戦争中であったから、そのような欲望はおさえつけられていたのだ。元春によって目覚めさせられた官能はたちまちその勢いを増したではないか。元春が出征して独り寝になったときの苦しさを想い出す。男が欲しい。乳房を抱きしめて、どれだけ眠られぬ夜を過ごしたことか。
 敏彦との関係が出来て邦子は若返ったように思う。肌の艶が増し、体の線に張りが出ている。
「邦子さん、最近何だか若くなったようね。誰かいい人でもできたの」
 同僚はからかうように言う。
「まさか、こんなおばあちゃんを」
 邦子は笑って誤魔化したが、敏彦との姿態を思い出して顔が熱くなった。
 時々邦子は、敏彦は私の事をどう思っているのだろうかと考える。ただ、性欲を発散させてくれるだけの都合のよいおばさんだと思っているのだろうか。遊郭に行かなくても、只で女が抱ける。若い学生にとってこんな都合のよい下宿は無いだろう。しかし、邦子はそう割り切って考える事は出来なかった。少なくとも、敏彦が邦子を抱くのは、もっと別の感情があるからだと思いたかった。 
 敏彦が下宿して一年が過ぎた。ときどき彼の帰りが遅くなる。友人との付き合いもあるだろうし、アルバイトで遅くなることもあるだろう。しかし、邦子には何か予感めいたものが感じられた。もし、敏彦に恋人でも出来ていたなら……。
有り得ることだ。二十歳すぎの若者に恋人が居ない方がおかしい。
恋人が出来たのかもしれない。この思いはだんだんと確信に変わっていく。
 邦子は鏡に自分の顔を写してみた。一年前に比べて目尻の皺や目の周りのたるみが目だつような気がする。三十代も半ばの女が、二十才前後の若い娘と張り合おうとすることはナンセンスだ。それは分かっていても、少しでも若く見せようと服装や化粧に気を配っている。邦子は口紅を引く手をとめてじっと鏡をのぞき込んだ。
「この馬鹿女!」
 邦子は鏡の中の女を罵った。
 それは紛れもなく、十四才も年下の若い男との愛欲に狂った淫乱女の顔であった。敏彦の恋人に対する嫉妬に狂った顔だと思った。本当に恋人がいるかどうかわからないのに。
 若い女に負けてなるものか。淫乱女には淫乱女のやり方がある。邦子は敏彦の歓心をつなぎ止めるために思い切り淫らな体位をとるようになった。
 中年女の恥も外聞もすてて敏彦を責め続ける。若さで太刀打ちできなければ性技で勝負するしかない。 
「おばさん、すごいね」
 敏彦は驚きながらも邦子に任せる。
「石丸さんは恋人がいるの?」
 ある時、いつものように抱き合ったあとで聞いてみた。
 敏彦は驚いたように邦子を見つめ、
「居るわけないやろう。おばさんだけだよ」
 意外そうに言って邦子の背に手を回してくる。邦子は他愛なくその手に引き寄せられていく。
 敏彦に恋人が居てもいい。彼が卒業するまではこのまま過ごしたい。そうは思ったものの、まだ見ぬ彼の恋人の面影が頭をよぎる。美人だろうか。いい体だろうか。彼に抱かれている女の姿態が目に浮かぶ。その時には自分のように声を上げるのだろうか。
「おばさん、妬いてるの?」
 敏彦が呆れたように言った。
「嫉妬するような関係ではないわ」
 自嘲するように邦子は呟いた。
会社の用事で四条河原町を歩いている時だった。オーム社書店から出てきた二人連れを見て邦子は足を止めた。敏彦と若い女である。敏彦はその女と親しそうに話している。楽しそうな敏彦の顔が憎らしかった。
 邦子の背中に電撃が走った。恋人に違いない。
 邦子は咄嗟に人混みに隠れて女を観察した。長い足の長身の女であった。気が強そうだが理知的な目はきっと大学生であろう。負けたと思うと顔が強ばってくる。若さといい、スタイルといい、どう見ても邦子に勝ち目はなかった。
 嫉妬心が炎のように胸を逆なでして燃え上がる。いまさら嫉妬するなんて。それが嫉妬の炎であることを百も承知で、それを否定しようとする。これから二人はどうするのだろうか。ホテルで抱き合うのではないかという思いが頭をよぎった。
 邦子は二人の後をつけた。四条通りを少し歩いた所で敏彦と別れて女はバスに乗った。ホテルに入るのではなかったことでほっとしたが、この真昼中にホテルを想像した自分に、堪らない自己嫌悪を感じる。自分と敏彦との関係は、単に下宿屋の主と下宿人の関係に過ぎない。それがたまたま女と男であり、ちょっとしたきっかけで肉体関係まで進んだだけである。
 敏彦を愛しているのだろうか。まさか、十四才も年下の男を。目元が夫の元春に似ているだけではないか。
 邦子は首を振り、深いため息をついた。まもなく別れなければならない敏彦に深入りしてはいけない。欲しいのは彼の体だけなんだ。
 体だけなんて。そんな淫らな女ではない。別の自分が反論する。
「今日、女の子と一緒だったでしょう」
 その夜、敏彦が布団に入って来たとき、詰問するような邦子の口調に、彼は当惑したように顔をしかめた。
「おばさん、どこで見たの」
「四条通りのオーム社書店よ」
「ああ、あれならクラスの女の子です」
「本当かしら」
「本当だよ」
 敏彦の答は白々しく聞こえた。しかし、邦子にはそれ以上強く追求することは出来なかった。敏彦に恋人がいることをとがめる立場でないことは十分に承知している。
 邦子はいつものように彼の股間に手を伸ばした。そこはいつものように反応している。もし恋人とホテルに行ったとしても、彼の若さでは反応して当然であろう。
 邦子は目を潤ませてじっと敏彦を見つめた。
 もし敏彦を年下の若い女に取られるほどなら、いっそのこと敏彦を殺して自分も死のう……。そのような気持ちが頭をかすめたことに邦子は愕然とした。
「本当に私以外の女は居ないのね」
「もちろん、居ないよ」
 敏彦はうんざりしたように言った。
 そんなことを確かめて何になるのだろう。邦子には彼を束縛する権利はないことは百も承知している。これ以上追及して、もし敏彦が下宿を変わるようなことになったら困る。それが叶わぬ立場であることを十分に承知しながら、やはり彼を独占したい気持ちが腹から胸に燃え上がるように感じる。
 街を歩いていて、向こうから来る学生を目に留める。もしこの学生を下宿させたとして、敏彦と同じように抱き合うことが出来るだろうか。邦子は首を振った。もはや敏彦は単なる下宿人ではない。邦子にはかけがえのない一人の男性として意識している自分を感じた。
 下宿人である学生なら、時期が来れば卒業して下宿を去ることは分かりきっている。邦子にはそれほど分かりきったことが現実のこととして実感されなかった。できれば京都の会社に就職してここから通勤してほしい。しかし、いずれは結婚して去っていくに違いない。
 先のことは考えないでおこう。考えても仕方が無いことだ。
 敏彦の四回生の夏が終わり、就職先が決まった。東京の商社であった。敏彦は卒業すれば東京に去ってしまう。せめて関西の会社であればという邦子の望みは打ち砕かれた。
 これでいいんだわと邦子は自分に言い聞かせた。夫の元春とは、召集という形で突然に引き裂かれた。それに比べれば、敏彦との別れには徐々に心を決める時間的な余裕がある。しかし、それは逆に別れの苦しさを長引かせることでもあった。
 あと半年足らず。敏彦と別れることが出来るだろうか。
 敏彦と別れた後で、官能の炎が治まるまで何年かかるのだろうか。地獄のような苦しみに耐えられるだろうか。
 次の学生を下宿させて同じような関係を続けるのか。決心がつかぬまま、日にちは無常に経過していく。邦子は末期ガンを宣告された患者のように、日が経つに連れて追いつめられていく。
 ある日、敏彦を若い女が尋ねてきた。
 邦子が玄関に出ると、
「トシ、いや石丸さんは居ますか」
 若い女は挑むような目で尋ねた。四条川原町で見たあの若い女だった。
「居られますが」
 邦子は女を見返すように言った。
 二人の女は暫くにらみ合った。
「やあ、来たんだね。上がってよ」
 敏彦が聞きつけたらしく階段を降りてきた。
 女はものも言わず彼に従って階段を上がる。その後姿を邦子は無言で睨みつけた。
 あんなにくい女、お茶を出してやるもんか。それとも、お茶を出す振りをして様子を見に行った方がいいだろうか。
 三十分ほどして女と敏彦が降りてきた。
「じゃあ、その予定でね」
 敏彦が手を振ると、女は邦子に視線を動かした。きっと、私を哀れんだのだわ。邦子は唇をかんだ。

「長らくお世話になりました」
 とうとうその日がやってきた。
京都を去る日、敏彦は頭を下げた。濃い眉の下のつぶらな瞳は変わりなかった。
そう、あなたは平気なの。邦子はじっと彼を見つめた。その視線を受けて、彼の顔に憐憫の表情が走ったように見えた。敏彦はもう一度頭をさげ、玄関から遠ざかった。二歩三歩、後を追おうとして、先の曲がり角で彼を待っていた長身の女の姿に気づき、辛うじて玄関先で踏みとどまった。
 そう、それならいいわ。つぎの学生を下宿させてやる。そうだわ。敏彦の代わりなんていくらでもいるんだわ。学生を下宿させて、自分の性欲を満足させる道具にしてやる。男なんてチョロイものだ。ちょっと私が股を開けばイチコロなんだから。そうは思っても、心にはぽっかりと隙間ができていた。
 邦子は二階に上がった。荷物の無くなった空き部屋は冷たく寂しかった。敏彦の名残香を求めて邦子は部屋を見回した。取り残された木刀が部屋の片隅によりかかっていた。
 邦子は畳の上に座り込んだ。急に堪らない吐き気が襲ってきて、あわてて下の洗面所に駈け下りた。激しく嘔吐し、生唾を吐きながら、月のものが止まっていることを思いだした。
 洗面所の鏡の中の女の顔は泣いていた。
「かわいそうな女」
 邦子は鏡の女に向かって呟いた。 

 悪阻が落ち着くと、腹の膨らみが目立つようになった。近所の目が冷たく感じられる。邦子が父無し子を身ごもっていることは誰の目にも明らかだった。
 妊娠と気づいた早い時期に産婦人科を受診して中絶すればよかったのであるが、未亡人の自分が妊娠したことを恥じて、その勇気が無く中絶の時期を逸してしまっている。勤めていた会社も辞めて日々の生活にも事欠く状態だった。
 憔悴しきった邦子は、ある夜、鴨川のほとりに立っていた。先刻まで降り続いていた雨は止んでいるが、川はかなり増水している。水の流れの一番深いところに入ればこのまま死ねるのではなかろうか。邦子は履物を脱いで一歩、二歩と水の流れに足を踏み入れてみた。腰の辺りまで水が来た。後は一思いに深みに身を投げればすべてが終わる。邦子は立ち止まって手を合わせた。両親に先立つ不孝をお許しください、こんなふしだらな娘をお許しくださいと詫びた。その時、空を覆っていた雲が切れて、満月の冷たい光が川面を照らした。
「ちょっと待ちなさい」
 突然川岸から声がかかった。思わず邦子は振り返った。
 川岸から声をかけた男は、大急ぎで邦子のそばに水を蹴立てて近づき、さっと手を伸ばして邦子の腕をつかんだ。
「早まったらいかん」
「離してください。私を死なせて下さい」
 邦子は手を振り放そうとしたが、
「とにかく岸に上がろう」
 男は邦子の手を掴んだまま岸に歩を移した。男の力に抗し難く邦子は後に続く。
「事情があるのやろうが、死ぬのはいかん。死んだら何もかもなくなるんや」
 月明かりでは男の表情は良く見えないが、老人のようだった。
「できたら、話して貰えまいか。こんな年寄りやけど、何かの助けになるかも知れん」
 邦子は、下宿生との情事の結果、父無し子を妊娠したことをつぶさに語った。
「みんな私が悪いんです。私は最低の女でした。だから私は死んでお詫びしなければならないんです」
「あんたが死んで誰が喜ぶ? あんたの親御さんには相談したんか」
「こんな淫らで、ふしだらなこと相談できません」
「そら、あかん。淫らやろうとふしだらやろうと、親は親や。自分の娘が死のうとするほど苦しんでいるのをほっとくわけがないやろう。恥を忍んで親に相談することや」
 老人は財布からお金を取り出して邦子に握らせた。
「交通費。これで実家に帰るんや。そしてな、お腹の子供は産まなあかんで。尊い命や」 
 この老人が何者であったか邦子は知らなかったが、その言葉に心を打たれ、恥を忍んで大阪の実家に帰っていった。
 母は話を聞いて驚いたが、涙を流して優しく邦子を抱きしめてくれた。
「そら、辛かったやろうな。はよう再婚の相手を見つけてやればこんなことにはならなかったやろうに。ごめんな。お腹の子供をどうするかは私が考えるから、心配せんでもええ。あんたは丈夫な赤ん坊を生みなさい」
 実家で邦子は元気な男の赤ん坊を出産した。邦子の妹夫婦には子が居らず、妹の夫が子供を実子として育てたいと申し出たのは幸運であった。妹の夫は開業医で、開業医院の跡継ぎが欲しいと言うのである。名前は透と名づけられた。
 乳離れするまで実家にいて、赤子に乳を飲ませた。母親としての幸せを束の間だけ感じることが出来たが、それはまた別れの辛さを強くさせることでもあった。
 邦子は透を妹に託して京都に帰り、仕事を探して新たな人生のスタートを切った。二階も遊ばせておくにはもったいないと、京洛大学に下宿の依頼を出して、主として女子学生を下宿させている。

         ◇              ◇

 それから二十年近くが過ぎた。京洛大学の新学期が始まり、下宿人が交代する季節である。次の下宿人は決まっている。
 邦子の家に学生が訪れた。住所を書いた紙と邦子を見比べている。
「伯母さんですか」
 邦子は学生の顔をみてどきりとした。あの時と同じだ。眉、目元が何となく夫の元春に似ている。いや、元春ではなく石丸敏彦だ。顎の辺りは自分に似ていると思った。すると、この学生は妹の子、透だろう。
 しばらく見ない間にすっかり成人した我が子。しかし、邦子は母とは名乗れないのだ。
「透君やね。すっかり大人になって見違えたわ」
 透が物心着いてからはなるべく透には会わないことにしていた。成長していく様子を遠くから眺めるだけだった。
 透はすくすく成長し、京洛大学医学部に入学した。実家の大阪から京都に通うのは不便であり、邦子の家に下宿させたいと妹から連絡があったのは数日前である。だから、透にとって、邦子は伯母ということになっている。生みの親より育ての親という言葉がある。良くぞこのような立派な若者に育ててくれたと妹に感謝した。
「お世話になります。母からもよろしくとの事です」
 邦子はわが子を抱きしめたかったが懸命に我慢した。
「さあ、上がって頂戴。ここは下宿やのうてあんたの家と同じやからね」
 邦子は透をキッチン兼応接間に通した。
 改めて成人したわが子の顔を見る。
「透さんは、頑張って京洛大学の医学部に合格したんやてね。お父さんもお母さんも喜んでいるやろ」
 そして私もという言葉は飲み込んだ。
 透は邦子の妹が生母であり、従って邦子は伯母であると信じきっている。周囲も注意してその様にしてきたからである。
 透は邦子の顔をじっと眺めていた。
「伯母さんが赤ん坊の僕を抱いている写真があったけど、そのときと余り変わっていないね」
「この写真でしょ」
 邦子は引き出しから一枚の白黒写真を取り出して見せた。透を抱いているスナップ写真である。
 たった一枚だけ残されている宝物の写真だ。邦子は時々この写真を眺めている。
 透は写真を手に取って邦子と見比べる。
「この写真や。こうしてみると伯母さんも年をとったんやなあ」
 邦子は笑った。
「当たり前やないの。それから二十年近くも経っているのよ」
「けど、伯母さんはいまでも美人やねえ」
「まあ、年寄りをおだててはいけませんよ」
 お茶を飲みながら親子が話し合うひと時。この幸せは想像を超えるものであった。
「今夜は布団がまだ届いてないやろ。伯母さんの部屋で一緒に寝たらええからな」
 廊下に面した邦子の寝室は六畳であるから二人分の布団を敷くことは出来る。
 わが子と一緒に枕を並べて寝るかと思うと邦子の胸が躍った。
 邦子はぐっすりと眠っている透の顔をじっくりと眺めた。成人した実のわが子の顔をこれほど近くで眺めたことは無かった。思わず抱きしめたい激情を必死に抑えた。
 翌朝、透は上機嫌で目覚めた。
「どうや。ぐっすり眠れたか」
「ああ、よう眠れた。これからもずっと伯母さんの部屋で寝てもええやろうか」
「もちろんええよ。ここは下宿やのうてあんたの家やからな」
 これまでの下宿生は外食であったが、透には食事を作ってやる。掃除、洗濯も邦子がしてやる。まるで母親のように。
 実際にはわが子だから当然なのだが。
「伯母さんはまるでお母さんのような感じがする」
 透がつぶやいたのも無理は無い。
 伯母と甥の、いや本当は母と子の幸せな六年が過ぎた。卒業後、彼はアメリカに留学し、数年後に京洛大学病院に戻ってきた。
 透は結婚し長男が生まれた。邦子にとっては事実上の初孫であった。結婚後も嫁と子を連れて邦子をしばしば訪ねてくれる。邦子にとっては最高に幸せなひと時であった。
 邦子はあの鴨川の夜を思い出した。もし、あの老人が声を掛けてくれなければこの幸せは無かったのだ。いまでは、この世に自分ほど幸せな人間は居ないだろうと思う。

 邦子が七十歳台に差し掛かった頃である。市民検診で胸部レントゲンの異常を指摘された。
透が来たときに検診の書類を見せると、彼は顔色を変えた。
「伯母さん、咳やたんが出るとか息苦しいとか、なにか症状はないかな」
「まあ、時に咳がでるくらいやから、たいしたことはないと思うてるんやけど」
「これはやっぱり」
 透は言葉を切って邦子の顔を窺った。
「なにか悪い病気でもあるの」
「伯母さん、これはきちんと調べなあかんよ。僕が手配するから大学病院に受診して」
これは重大な異常かもしれない。しかし邦子の心は平然としたものだった。もともとあの夜、鴨川で捨てた命である。通りかかった老人のお陰でこれまでの幸せを味わえたのである。これで充分だと思った。
 透の懸念どおり、大学病院での精査の結果は肺がんであった。
「伯母さん、これは重症の病気や。手術せなあかんやろ」
「肺がんやろ。私はもう覚悟しているんやから、何でも遠慮せんと言ってくれたらええんやで」
「肺がんや。手術せなあかん。手術しても……」
 透はその後の言葉が続けられなかったらしい。
「手術しても駄目ということ?」
「いや駄目ではなく、五分五分というところや」
「そうか。五分五分なら生きられる可能性は半分あるんやね」
「手術するかどうかは伯母さんが決めることやけど」
「透先生はどう思うねん」
 邦子は息子に尋ねた。
「僕は」
 息子は言葉を切った。
「やっぱり手術して欲しい。そして長生きして欲しい」
「そうか。長生きして欲しいか」
「当たり前やろ」
 透が怒鳴るように言った。
 邦子は微笑んだ。もし手術がうまくいって生き長らえることができるならそれに越したことはない。
 手術をしても駄目で、死ぬようなことになったとしても悔いはない。七十過ぎまで生きて、実の息子に見守られながら死ぬのは幸せではないか。
 自分が透の実の母親であることを透に知らせたい気持ちがあったが、何も知らないで、自分を伯母と信じている息子の心を乱したくないと思った。死ぬときには黙って死のう。伯母が死ぬのと、実の母が死ぬのとでは透が受ける悲しみは違うだろうから。 
 それが夫の敏春、透の実の父石丸俊彦、透本人に対しても最善ではなかろうか。未亡人とはいえ、淫乱女であった自分の死に方としてはそれが最良の選択だと思った。
 入院の前日、入浴した邦子は鏡を覗き込んでいた。そこに写っていたのは、半白の頭に温和な笑顔を浮かべた老女の顔である。
 邦子は鏡の老女に向かって呟いた。
「あんた、最高に幸せなんやね」
 鏡の中の老女は微笑んだ。
「そうよ。最高に幸せよ」
 手術日、邦子は夫が酔ったときに楽し気に歌っていた歌を口ずさみながら手術室に向かった。
「どーんと、どんとどんと、波乗り越えええてええー」
 手術室に入る前、雷鳴の夜の蚊帳の中の情景が頭をよぎった。すべては蚊帳の中から始まったのだった。

                      了

鏡の中の女

執筆の狙い

作者 大丘 忍
p1828125-ipngn200209osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

女シリーズの一つです。下宿させた若い学生に狂ってしまった未亡人の苦悩を描いてみました。

コメント

青井水脈
om126179240076.19.openmobile.ne.jp

読ませていただきました。
途中から思いがけない展開でしたが、スラスラ読み終わり。波瀾万丈でも、邦子にとってはハッピーエンドですね。
要所要所で鏡に映る自分と話すシーン、鴨川で助けてくれた老人が印象に残りました。

>それが夫の敏春、透の実の父石丸俊彦、

これだけこっそりと。はじめは夫の元春、学生の石丸敏彦とありました。最後の段落で、名前が違っていますね。

大丘 忍
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青井水脈様

>それが夫の敏春、透の実の父石丸俊彦、

これは掲載する直前に挿入した部分ですが、その時名前を間違っておりました。私の老人ボケの一種ですね。

読んで頂き、感想を有難うございます。

黒沢ひろひと
M014008035162.v4.enabler.ne.jp

大丘様の書く小説は御年(おいくつでしたっけ?)を反映してか、時代設定が古いものが多いように思います。
御作に限らず、時代設定が古いものや、重厚なファンタジーものなんかは、独特の言い回しや表現があるのでなかなかとっつきにくいものも少なくありません。
しかしながら御作に関して言えば、スラスラと、いつの間にか読み終えてしまいました。難しい言葉をつかっていないからか、テンポがいいからか。その理由はわかりませんが。
いずれにしても面白かったです。

大丘 忍
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黒沢ひろひと様
 
 私の小説を読んで頂き有難うご座います。
 私は、昭和8年の早生まれ。従って大学に入ったのは昭和26年でしたから、若い頃のことを書くのはこの時代に限っております。
 長い間、小説なんて書いたことはなく、また文学青年ではありませんでしたから、小説をあまり読んでいなくて、60歳台の半ばに初めて小説を書き始めました。したがって、若い頃を舞台とした小説は、すべて昭和時代に限ります。
 現在は老後の生き甲斐として小説を楽しんでおります。この歳で小説家になろうなんて気を起こしても無意味ですからね。だから、難しい、凝った言い回しよりも。読みやすくわかりやすい文章をと心掛けております。いつまで投稿できるか分かりませんが、これからもよろしくお願いいたします。

夜の雨
ai212019.d.west.v6connect.net

「鏡の中の女」読みました。

それにしても読みやすく内容が把握しやすい。
エンタメの鏡みたいな作品です。
官能作品ですが、邦子という女性の人生ドラマでもあるし。
人生もいろいろな描き方があると思います。
御作の場合は「性」を主人公の人生の中心において展開させています。

元春という主人は戦争で帰らなくなり、大学生の石丸敏彦を下宿させたところ、ただならぬ関係になりました。
これは邦子が夫だった元春に性の喜びを身体で覚えさせられていたから、30過ぎの女には、敏彦が必要だったのかもしれません。

元春ではなくて敏彦の子供を身ごもるという予期せぬ事態になりますが、というか、関係を続けていれば当然子供が出来ても不思議ではありません。
そして自殺未遂で老人に助けられて、実家で子供を産んで、妹夫婦の子供として育ててもらう。
やがて成人した息子が母とは名乗られませんが、一緒に生活できたりする。
年月が経ち年老いた邦子は肺がんになるが、それを医師になった息子の透に見つけてもらい大学病院で手術。

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入院の前日、入浴した邦子は鏡を覗き込んでいた。そこに写っていたのは、半白の頭に温和な笑顔を浮かべた老女の顔である。
 邦子は鏡の老女に向かって呟いた。
「あんた、最高に幸せなんやね」
 鏡の中の老女は微笑んだ。
「そうよ。最高に幸せよ」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
人生いろいろあったが、楽しんだモン勝であり、邦子の生き方も人生のひとつだなぁ、と思いました。

官能を含んだエンタメ系の作品でしたので、人物とか背景の部分は深いところまでは描かれていませんが、邦子の生きた人生は伝わりました。

お疲れさまでした。

大丘 忍
p1828125-ipngn200209osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

夜の雨様

露骨な官能場面ではなく、女の官能を如何に描こうかと考えました。私は男ですから女の官能を女の立場から描くのは難しいですね。
女の情念はわかりませんが、そこは小説ですから自分なりの想像で書いてみました。
読んで頂いつも貴重なる感想を頂いており有難うございます。

椎名
KD027083171050.ppp-bb.dion.ne.jp

最後まですらすらと読むことができました。作品全体に物語があって登場人物の個性も出ていたと思います。官能小説ということでそれが上手く生きている気がしました。

大丘 忍
ntoska160185.oska.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp

椎名様

 私は小説には物語が必要だと考えております。いかに美文や高邁な思想を述べ立てても物語が無ければ小説としては面白くないのでは、と思っております。
 だから、私の小説にはなるべく物語性、つまりドラマを描きたいと思っておりますが、言うは易いけれど実行するのは難しいですね。しかし、そこに小説を書く面白さがあると考えております。
 読んで頂き、感想を有難うございました。

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