作家でごはん!鍛練場
たまゆら

囚われの迷宮

 明け方に決まって同じ夢を見る。
 その夢の中で、私は遥か前方にたたずむ古城へ向かって一直線に車を疾駆させている。霧でかすむ道の両脇には、まだ咲くはずもない黄色い菊が匂い立つかに群生していた。
 でもしばらくすると、古城も菊も小川の手前で突然ゆがみ、ふわふわ空間を漂ったあげく消滅してしまう。行き場を失くした私は、消え去って無と化した残像をいつも悄然と見つめることしかできずにいた。
 夢は毎回そこで終わる。
 どうしてだろう。消え去った古城と菊は私に何の暗示を投げかけているのだろう。
 ひとしきり考えたのち、ふっと夜具を払いのけ、薄暗い部屋の中を歩いて真っすぐ机に向かった。灯りをつけて地図を広げた。一点を凝視し、ここしかないと見当をつけた場所にペン先を当てた。
 そこは有名な温泉地を抜けた海沿いの町。かつて源頼朝が流刑されたという地とも近く、どことなく曰くのありそうな場所だった。
 その古城の場所を曖昧ながら教えてくれたのは、職場の同僚でもあった恋人の理恵だ。なぜ知っていたのか疑問だが、二ヶ月前、居酒屋で夢の話を伝えると唐突に言った。
「もしかしたら太一、招かれたのかもしれない」
「招かれたって、何に?」
「饗宴に」
 霧にかすむ古城での饗宴、妖しい響きを含む言葉だった。それだけに興奮を掻き立てられた。私はビールジョッキを傾けながら、心を見透かされないようさり気なく訊いた。
「それは単なる夢ではないってことかな。古城は実在してるんだね」
「と思う。都市伝説の一つなのかもしれないけど、古城はホテルよ。それもロックによって傷を癒してくれるホテル。行ってみたいよね。幻想的だもの」
 ロックの名曲をなぞったホテルが、都市伝説になった話なら聞いたことがある。確か曲名はホテル・カルフォルニア。その曲を人気ロックバンドの演奏で聴かせて、恋人たちを幻想世界へトリップさせようとする、テレビのバラエティー番組がはじまりだ。
 だけど視聴者から、実際にそんなホテルがあるという情報が次々に舞い込んできた。それで続編として、出演した芸人カップルが調べることになった。結局探せず、芸人カップルは番組スタッフのつくった落とし穴にトリップするという低俗なオチだった。
 絵空事だ。招かれたという理恵の話を信じようにも説得力がなかった。
「興味を失ったみたいね」
 理恵が顔を覗き込んできた。「信じようと信じまいと自由だけど、あの芸人カップルは破綻していないから探せなかったのよ。だって失恋した人なら、小川を越えて、全員ホテルに辿り着けたって聞いたもの」
「その小川を越えられないんだ。ゆらゆら漂ったあげくホテルは消えてしまう」
「夢だから消えるの。夢は現実と同じようでも根本が違うから」
  
 今振り返ると、居酒屋での理恵の返答に絶妙な企みが渦まいているのを感じる。さもありげのような話しぶりで興味を惹かせたこともそうだが、迷わせ、私の夢を支配しているようにも思えるからだ。
 たぶん酒を飲んだとき、たまに愚痴を聞かされることがあったので、そういった幻想的な世界へ連れて行ってほしかったのかもしれない。
 ただ夢と現実の違いは理解しているつもりだ。仮に夢の中だったら、理恵の愚痴に応じるまでもなく結婚を申し込んでいるだろうし、距離を置いてわざわざ土まみれになる農家の仕事を継ごうとは考えない。市場の従事者として、生産者から集荷された野菜を淡々と消費者に送りとどけている。
 だから辿り着けないホテルは、儘ならない理恵との結婚を指しているのだろう。
 居酒屋での直後に父が床に伏し、いま母から再三再四、農家後継者の要請を受けている。一つには父の看病をしつつ、畑仕事をしなくてはならない母の体力が限界に近いからだ。
 母は再婚だった。七歳になる私を連れて野菜農家へ嫁いだ。父は寡黙で感情をあまり表に出さない性分のせいか、男手がほしくとも、決して農家の仕事を押しつけようとはしなかった。そのぶん母が、つど私に辛辣な言葉を投げかけてきたが、それでも父は何も言わなかった。
 たぶん血のつながらない私に遠慮していたのだと思う。昭和生まれにしては謙虚で、控えめを絵にかいたような人だった。それでも母との間に生まれた待望の子どもが、弟ではなく妹だと知ったとき……さすがに父は落胆した。
 その父が脳梗塞の後遺症で歩行も儘ならない状態に陥っている。
 妹が同居しているとはいえ育ててもらった恩がある。長男として知らんぷりするわけにはいかない。だからといって、いつかはネイリストの店を開きたいという理恵に農業をやらないかとはいえなかった。そのため距離を置くと、生まれるべくして溝が生まれた。夢でも現実でも障害物に阻まれ、望みは儚く消えてしまう。とりわけ現実は痛みを伴うだけに苛酷だ。
   
「お兄ちゃん、近いうちに来れない」
 昼休みに、押し迫った声で妹から電話がかかってきた。
 どうしたと聞くと「お母さん、この頃ふさぎ込んで、突然泣き出すの」
 そう話す妹の声も涙声だった。
 予兆はあった。先週末に実家へ顔を出したとき、大学生の妹が一人で茄子の収穫をし母は家の中にいた。もちろん父の世話をしていたのだろうが、家の中は乱雑きわまりないものだった。台所は洗い物でシンクの底が見えないほど溜まり、洗面所は洗濯機から溢れた汚れものが火山の噴火のようにこぼれ落ちていた。何より欠かさず漬けていた胡瓜の糠漬けが、糠床に一本も入っていないのだった。
 いよいよ精神的にも限界へ達したのかもしれない。次の日に実家へ行き、家業を継ぐことを正式に伝えた。道すがらスマホを取りだし、経緯を理恵にも話そうと思ったが、今さらどう切りだせばいいのかわからなかった。父が床に伏したと連絡があって以来、破局に陥るのが怖くてまる二ヶ月会っていないのだ。電話とメールの着信も、仕事が忙しいからと放置している状態だった。
 結果的に恋人より身内を選んだ。それは別れを選択したのと同じことだ。私はスマホをポケットにしまった。駅構内へ入って電車を待った。
 週末のせいもありホーム上に人はまばら。普段気づかない、反対側の線路沿いに咲く花も自然と目に入り込んでくる。容赦ない夏の暑さにも萎れることなく耐えた、赤と青の色鮮やかなサルビアだ。
 目を周囲に移すと、そのサルビアにも劣らぬ艶やかな金髪の女性と、煌びやかな装身具をつけた紳士が肩を寄せ合い談笑しているのが見えた。女性は白を基調とした華やかな花柄のワンピースに、濃いサングラス。純金のネックレスを首に巻いた男性は、ベージュのサマージャケットにグレイがかったズボンを身につけていた。
 年齢は女性が二十代後半で、男性が四十代前半ぐらいだろう。秘密めいた雰囲気が感じられることから、二人は夫婦ではなく恋人とも思えた。いずれにせよ私の手のとどかない世界で、めくるめく宴を繰り広げる人たちだ。
 そう思いながら眺めていると、不意に女性と目が合った。サングラスを外して私に笑みを投げかけてきた。はっとして凝視すると、手のとどかない世界の住人と思っていた女性は、恋人の理恵だった。
 えっ、……理恵の華麗な変身に気圧され、言葉が出ない。
 で、その男は誰? 別れを決断したはずなのに嫉妬に駆られた。
 そういえば理恵の送られてきた最後のメールに、新たな旅立ちを匂わす文字が綴られていた。
 つまり、そういうことか。
 悩んで悩み抜いたこの二ヶ月の間に、理恵は私を見限り新しいパートナーを見つけた。私は放置したのではなく放置されていたのだ。
 ほどなく、理恵ともども男も私を見つめだした。まともに目を合わせられそうにない。いつかはこうした場面に遭遇すると思っていたはずなのに、哀しいことに、唐突すぎて受けとめる余裕もなかった。
 うつむくとアナウンスが聞こえ、電車が両方向から侵入してくるのが目の端に見えた。私は顔を伏せたまま真っ先に乗り込んだ。走り込むようにして空いている座席に座り、目を閉じた。その閉じた目から、予期せぬ熱いものがとめどなく伝い落ちてくる。
 鬱屈した気分のまま電車を降り、改札を抜けると、ショッピング街のウィンドウに貧相な男の姿が映っていた。一瞬、他人と見間違えたが、それはまぎれもなく私だった。
 理恵のことも先のことも考えず、これまで瞬間瞬間を無為に過ごしてきた男の姿。気がつけば当時の仲間はみな家庭に収まっているというのに、私だけが未だ変わらぬアパートに暮らし、いたずらに年を重ねていた。スリムだった身体もだぶつき、輝きなんてどこを探してもない。享楽にうつつを抜かして、六年という歳月を無駄に失った三十代の憐れな男でしかなかった。
  
 その夜も明け方に夢を見た。いつもと同じ場所で目が覚めたが、なぜかどうしても越えられずにいた小川を越えていた。たぶん曖昧だった恋の行方が、駅のホームの一件で失恋だと知らされたからに違いない。
 私はバルコニーへ出た。明けきらぬ空の下、光の筋となった高速道路を次から次と車が何台も通過していく。こんな時間にどこへ行くのか、また何をしに行くのかなんてどうでもよかった。ただ車に限らず人は、目的があるからこそ進むのであって、目的を実行しようという意識がなければ惰性でその場をくるくる繰り返すことしかできない。私のように。
  
 秋の野菜が出荷された十月初旬、私はささやかな休みをとって車を走らせていた。行先はもちろん温泉地をすぎた海沿いの町。単なる都市伝説で終わってしまうのか、それとも現実と成り得るのか。それはわからない。けれど無駄足になっても検証するだけの価値はあると判断した。
 助手席に理恵がいないことに一抹の寂しさを感じるが、あれから一人で土を耕し一人で種を撒いて、それなりの野菜を育ててきた。そうしたプロセスをあたり前のようにやってきたので、以前とは違い、少しは片肺にも慣れた気がする。
 温泉地をすぎてからも、ひたすら車を疾駆させていると、突然霧が立ち込め夢と同じ景観の小川が滲みながら見えてきた。その先には、やはり霧にかすむホテルが揺れながらたたずんでいた。
 川の手前で車を停めた。ドアを開けて降り、辺りを見まわした。
 小さいだけと思っていた川幅は案外広く深さもありそうだった。試しに細長い枯れ枝を拾って突きさしてみると、すっと入った後、ずぶずぶ背丈ほどの深さまで一気にめり込んでいった。水深は浅くても、軟らかい土が底なし沼のように堆積しているのだ。
 これではいくら勢いをつけて跳躍しても、落ちたら最後、浮かび上がれない。怖くて飛ぶ勇気が湧いてこなかった。
 霧はますます濃くなる。
 思案に暮れていたら、対岸から「横山太一様でしょうか」と、かすれた声がした。
 大きなスリットの入る、黒いラメドレスを着た妖艶な女性だった。ボブカット風のヘアーに顔半分を隠すハーフマスクをつけていた。
「あなたは?」
「ホテリエです。道案内に参りました」
 ならば都市伝説ではなかった。理恵の言う通りホテルは実在していた。私は嬉しくなり案内人だというホテリエを見つめた。
「助かりました。でも、どうして私の名前を……」
「横山様は、当ホテルに招かれた、お客様ですから」
 かすれる声音もそうだが、霧と同じでつかみどころのない、あまりに拍子抜けする返答だった。まるで酒に酔った仙人相手に問答している感じだ。百歩譲って信じたとしても、この川を渡らなければ何もはじまらない。
「二百メートルほど下れば橋があるので、そこを、お渡りください」
 ホテリエは私の懸念を察し、事もなげに不安を取りのぞくと、霧の中に姿を消した。
  
 言われるまま下り橋を渡った。途端、あれほど深かった霧が嘘のように消えていた。
 澄み渡る高い空を背景に、色づきはじめた山々が白い雲によって絶妙なコントラストに導かれている。足元の道の両脇には、菊とばかり思っていたマリーゴールドが敷きつめられ、その沿道の先に中世の古城にも似たホテルが建っていた。色とりどりの蔦で覆われる赤レンガの壁に、緑色の銅屋根。中央に円錐形の高い屋根がちょこんと突きだしており、そこに青銅色の古めかしい鐘楼が吊るされていた。
 目の前に、白日夢と見紛う現実離れのした風景が幻のごとく広がっていたのだ。私は呆然と立ちつくし、もしかしたら、まだ夢を見ているのかもしれないと思った。
 けれど、そんな幻想的な光景もさることながら、エントランスに立つ先ほどのホテリエに私は身を貫かれた。色香の漂う赤い唇、露わになった細い肩、スリットから覗く艶めかしい足、どれもが官能的で私をとらえて離さなかったのだ。
 ただ奇妙なのは、ホテリエを見て、それらのすべてで対極の位置にいる理恵を思い起こしたことだ。
 耳に残るレトロなフォークソングに、別れた恋人と似た女性を街で見かけ、つい振り返ってしまう。そんな切ない曲があった。たぶんそれと同じで、まったく別人のはずなのに同一人物と錯覚した。それほど六年という歳月は、私にとってかけがえのない時間だったのかもしれない。気恥ずかしさから額に浮いた汗を拭った。
 その惑いを知ってか知らずか、ホテリエは黒いラメドレスをそよがせ優雅に出迎える。小川のときよりワンオクターブ低い声で囁いてきた。
「囚われの地へ、ようこそ」
 なぜ、そう呼ぶのだろう。かつて源頼朝が流刑された地が近いからもじっているの。それとも理恵を無視したよう両親も見すて、ここに雲隠れするとでもいいたいのか。
 錯綜する私をよそに、ホテリエは透けるような白い指でキャンドルを前方に掲げた。そして何事もなかったかのように「こちらへ」と促し、振り向きもせずにフロントとは別の仄暗い通路を歩いていく。
 しばらくして客室の前で足をとめ、また意味深な言葉を投げかけてきた。
「当ホテルは、お客様に限り好きなだけ滞在できるようになっています」
 私は長居するつもりもなかったので、決まり悪く人さし指を立てた。
「一泊だけでいいんです」
「それで済むとは思えませんが」
「ここが囚われの地だから?」
「いいえ。囚われるのはお客様で、当地とホテルは囚われておりません」
「どうして私が囚われると……」
 ここへは、決まって見る夢の検証に来た。それ以外の思惑は誰も知らないはずだ。
 私が問い質すかに見つめると、ホテリエは、はにかむような笑みを浮かべた。
「あなたのことを、よく存じ上げているからです」
 嘘だ、と顔を横に振って否定するが、事実、知るはずもない私の名前を小川で呼んでいた。それ以上何も言えなくなった。
「ではディナーは五時に、突き当りのレストランで。日が沈むと同時に目的の饗宴も開催されるので、心ゆくまでお過ごしください」
 ホテリエは私を見つめ、唇を悩ましげにすぼめて炎を吹き消すと、闇に消え入るよう去っていった。
  
 戸惑いつつベッド脇にバッグを置き、靴を履いたまましばらくベッドに寝転んだ。否定しようにも謎だらけで情報を処理しきれない。窓の外の山が、そんな私の心を見下すよう聳え立っていた。
 いずれにしろ、これだけの広さのホテルなら、招かれたという客は私だけではないはずだ。おそらくホテリエが断言した通り、一泊のつもりが何泊にもなった客がほかにもいるに違いない。そうであるなら突きつけられた言葉は事実を物語っている。
 耐えきれずに起き上がると、シャツの袖をまくり時間を確認した。長針が8を指し、短針が5に迫っていた。その場で前ボタンを外してシャツを脱いだ。シャワーを浴びて汗を流し、レストランへ向かった。すると入口に、オペラ座の怪人風のマスクをつける、四十代前半の支配人が立っていた。その横には、あのホテリエの姿も。
 またぞろ謎が立ち塞がる。
 なぜ二人は顔を隠しているのだろう。表情を読みとらせないためなのか、それともこのホテルを幻想的に演出するためなのだろうか。マジシャンに頭の中を掻きまわされたような気がして思考が定まらなかった。
「お待ちしておりました。海を一望できる窓際の席へ、ご案内させていただきます」
 四人がけのテーブルが二十卓ぐらいと、さして広くない店内に客が半分ほど埋まっていた。ほとんどが男性一人客で、数組のカップル姿もあった。支配人はときどき私を振り返り、空いている窓際の席の前で足をとめた。
 奥から四列目の席だった。その奥の壁に、打ちひしがれる青年の横を、白いワンピースを着た金色の髪の女性が去っていく絵画がかけられていた。
 この画風、どこかで見た記憶が……。
「絵が気になりますか。ムンクの『別離』でございます」
「ムンクの?」
 「叫び」なら知っていたが、「別離」は知らなかった。それにしても金色の髪といい、白いワンピースといい、あの駅のホームで見た理恵と何もかもが似ていた。仮にこの女性が理恵であるなら、打ちひしがれる男はきっと私だ。
 悄然と席へ着くのを見て、支配人が囁いてきた。
「コース料理は、いつお持ちしましょうか」
「いつでもいいです。この絵の男みたいになりたくないから」
 私は毅然と言った。すると支配人は「ほう」と小さな声を漏らし、慇懃に続けた。
「お飲み物はいかがされます」
「ウイスキーのダブルをロックで」
「水割りではなく、ロック。それは賢明なご注文です」
 支配人は、仮面越しにしげしげと私の目を覗き立ち去った。
  
 飲み物と料理を運んできたのはホテリエだった。並び終え、足早に戻ろうとするのを見て私は呼びとめた。
「あの……」
「何でしょう」
「君に、似てるんだ。ヘアースタイルも雰囲気も違うけど」
 ホテリエは、一瞬、会話を嫌がる素ぶりを見せたが余所余所しく聞き返した。
「どなたにですか」
 壁にかけられた絵画の女性。と言おうとしたら、口をついて出たのは理恵の名だった。
「三崎理恵、恋人だったんだ」
「過去形ですね。今はお付き合いされていないのでしょうか」
「振られた」
「お気の毒に」
 トレイを持ったまま、ホテリエは表情を変えることなく言った。
「六年付き合って、結婚しようと思っていたのに……彼女は別の男にのりかえた」
「そう言いきれるのですか」
 一転、ホテリエは口調を強めた。「あなたは六年も交際した女性を、つくづく信頼なさらない方なのですね」
「違う、信頼してた。けど私は、彼女が男と肩を寄せ合っているのを目撃した」
「それだけのことで断定してしまうのは、大いに問題ありますよ。彼女が意図的に目を背けたのなら、また別ですが」
 そういえば理恵は目を背けなかった。むしろ愛くるしい笑みを浮かべていた。だとすれば疚しさなどなかったことになる。あの時点で私たちは、まだつながっていたとも言える。
「結局、あなたは彼女をすてたのですね」
「そうじゃない。彼女の夢を気づかったんだ」
「彼女の夢とは?」
「ネイリストとしての成功さ。農家の嫁になったら、ネイリストなんてできなくなる」
「では、ネイリストは農家へ嫁がないと、お考えですか」
「十中八九」
「偏見です。どんな女性であろうと結婚すれば、食器洗いに風呂掃除など水仕事は欠かせないのですよ。それに彼女は、ネイリストよりも野菜づくりのほうが好きだったかもしれませんし」
 ホテリエは有無を言わさぬ口調で言いきると、くるりと背を向けた。私はその後ろ姿が厨房に消えるまで、不思議な感覚に浸りながらいつまでも見つめていた。
  
 日が西へ大きく傾く。グラスの氷がことりと音を立ててくずれていく。琥珀色のウイスキーが水に溶けて薄まっていく。テーブルの上には水滴のついたロックグラスと料理が並べられているだけで、私は一人静けさの中に閉じ込められていた。
 やりきれない気持ちで窓の外を眺めると、青かった空は朱に染まり、ぎらぎら赤みを帯びた波間へ夕日が沈んでいった。上層に薄っすら取り残される青い空。下層はトマトをすり潰したような茜色。そして地上は私の胸と同色の藍色に塗り込まれていた。
 やるせなくグラスを手に取り、すっかり水っぽくなったウイスキーを飲んだ。飲み干すと支配人を呼んで二杯目を頼んだ。
「おかわりは同じ銘柄のロックでよろしいでしょうか。当ホテルは、1969年製のウイスキーをご用意しておりますが」
「それはどういうもの?」
「人によってさまざまですが、失恋にはあきらめきれずにいつまでも浸っていたい想いと、すぐにでも忘れ去りたい想いがあります。それらの事情を考慮し癒すために、浸りながら忘れるウイスキーをストックさせています」
「ウイスキーで失恋を癒す? 紛らわすのではなく」
「ええ、針治療と思ってもらえれば結構です。患部に針を当てることで症状が緩和されるよう、ウイスキーによって傷を癒すことはできないかと試飲を重ね、発見したのが1969年製のウイスキーなのです」
「もしもだけど、それとは別のウイスキーを飲んだらどうなるの」
「1969年夏以降のウイスキーには、魂がないので、おそらく自身のつくった罠の中に囚われ続けるでしょう」
 自身のつくった罠とは、言い換えれば失恋の否定であり継続の願望だ。
「だったら、これまでと同じウイスキーでいいです。彼女と過ごした時間に浸っていたいから」
「囚われたいと」
「そうじゃない。浸り続けていたいだけ」
「絵画の世界に、連れ去られる危険性もありますが」
「そこに連れ去られたら……」
「絵の男性と同じように、心は半永久的に空洞状態になります。ですが、罠をつくったのが本人なら解くのも本人しかいません。それを理解すれば、時間がかかってもいずれ解放されるでしょう。踏まえて速やかに傷を癒すために、ロックのスピリッツが注入された1969年製のウイスキーをお勧めしましたが、残念です」
  
 妙に背後の視線を意識しながら、ホテリエがウイスキーを持ってきた。耳打ちするかに呟いた。
「特製ウイスキーに変えときましたから」
「……どういうこと?」
 私は戸惑う。
「支配人に、また囚われのウイスキーを注文しましたね。特製ウイスキーを勧められたのに拒否するのは、囚われはじめた証拠です。それを知りながら実際に持ってこなかったのは、あの人が温和に見えて、じつはサディストだからです。泣き虫に見えて親思いの人もいますし、人とは見かけによらないもの。ともかく、あなたにこれ以上滞在されても困りますので」
「君は……いったい?」
 真意を探ろうとすると、手で制された。
「詮索は無用です。それよりも、まもなく饗宴がはじまりますので、しばしお浸りください」
 その瞬間、それまでホテリエに感じていた思いに微妙な変化が生じたのに気づかされる。私は魔法のウイスキーを飲んだ。
 途端、喉に焼けるような熱い痺れが走った。その痺れは自尊で塗りかためた鎧を剥がし、無防備になった胸を締めつけてくる。甘美な陶酔に囚われながら。
 異様に感情がたかぶる。暮れゆく空をまともに見ていられず顔を背けた。
 通路を隔てた隣席のテーブルに、フルーツの乗ったカクテルが運ばれてきた。恋人同士であろう二人は満面の笑みを浮かべてスマホで撮り、たがいにピースサインをしてフルーツを口に運びだす。
 そういえば理恵とも、食事の際には必ずといっていいほど自撮りしてインスタに載せた。ハロウィンのときも現実さながら美女と野獣の仮装をした。大いに受けた。周囲の人がブログにアップするから写真を撮らせてとせがむので、プロ顔負けのとっておきのダンスも披露した。今思えば至福の瞬間だった。
 けれど現実は残酷だ。その後もコスプレとダンスに現を抜かしていると、一人二人と同世代の仲間が去り、理恵との間にも隙間を感じるようになった。気がつくと、大した預金もない中年男と、醒めた目をする恋人の姿が浮きぼりに。
 私は現実を見つめ直した。すると夢を見はじめた。すべての事柄で試練の兆しが顕れてきた。
  
 真相を明かせば、私はホテリエが誰なのか気づいていた。いくらマスクをつけようと、ヘアーをボブカットに変えようとも、六年も愛した女性を見抜けぬはずがない。支配人も同じだ。一度しか会っていなかったが、ホテリエが理恵であれば自ずと答えは導かれる。
 なぜならここが理恵の来たがっていた都市伝説のホテルで、失恋者の集う迷宮だからだ。
 そして理恵が駅のホームで私に手を振ったのは、まだ二人がつながっていたからじゃない。夢の話を居酒屋で伝えたとき、理恵はこのホテルに私が招かれたと言った。それは、その時点で心が離れていた証だ。つまり破綻していた。
 だから、その後の私の無視を既成事実とし、理恵はここで特製ウイスキーを飲んだ。それによってホームで意図的に目を逸らさず、笑みを浮かべて手を振ることができた。悲壮感もなく、むしろ清々しく。
 くわえて理恵は、ネイルをはじめていたので市場にいた頃から指が汚れるのを極端に嫌っていた。だから野菜づくりが好きだというのも詭弁だ。結局のところ、ホームで再会した時点で、私たちはすでに完全な他人だったのだ。
 惨めさを痛感した私は、自宅のバルコニーから西方向を眺め、過去と決別しようとここへ来た。失恋を肯定し、継続を望まずに。
 でも、知らずに迷宮に連れ去られるウイスキーを飲んでしまった。だが最後の最後に、それを阻止すべく理恵が手を差し伸べてくれた。
 ここへきて正解だ。理恵は首の皮一枚の場所で私を思いやった。それは理恵にとっても私にとっても、共有した六年間が無駄ではなく貴重な財産だったという証だからだ。そのことがわかっただけでも糧になる。たとえこの先、意中の女性に巡り合えなかったとしても、たぶん生きていける。
  
 奥のテーブルで男が目を赤くさせている。その横のテーブルでもロックグラスを片手に男が泣いている。その姿に自らの恋を重ね合わせたのか、それとも失意に共感させられたのか、気づくと私の目にも熱いものが溜まっていた。
 彼らが私と同様、いっときだけ囚われる人たちなのかはわからない。なかには私以上に長い恋を失った人も、深い愛を喪失した人もいるだろう。ただ、これから始まるショーの参加者であり聴衆であることは間違いないはずだ。
 しだいに冴えわたる藍色の空から星が消えていき、あの1969年の夏を思わせる激しい雨が降ってきた。稲妻も発生し、遅れて雷鳴もとどろいた。
 すでに饗宴は始まり、恋人たちがいた隣席にも影が忍び込んでいた。亀裂が生じたのか、もしくはもともと幻影でしかなかったのか、いつのまにか女性の姿は消え、男一人が取り残されている。呆けた表情で飲むカクテルグラスがロックグラスに、中身が私と同じ特製ウイスキーに変わっていた。
 噛みしめる嗚咽がロックのイントロを奏でるかに四方から響き、あの名曲のリズムに合わせて店内をつつみ込む。窓を打ちつける激しい雨はギターに変わり、雷鳴はドラムと化した。
 そう、ここは囚われの地。ウッドストックのように浸りながら三日間滞在できるホテル。そして拒むと、自身のつくった罠に囚われ立ち去ることのできなくなる迷宮。
 
 
                 了

囚われの迷宮

執筆の狙い

作者 たまゆら
p1817002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

前作を改稿しました。
でも書き終えて、何かが足りないような気がして投稿させて頂きました。
気づいた点などを指摘して頂ければ、今後の糧になります。
よろしくお願いします。

コメント

夜の雨
ai195092.d.west.v6connect.net

「囚われの迷宮」読みました。

5月14日投稿の「ホテル・カルフォルニア」改稿版ですよね。
タイトルは、こちらの方がいいですね、雰囲気があります。
内容ですが、御作のタイトル通りにわかりにくい作品でした。

主人公が夢で見る古城に誘われて現実世界でも行き「中世の古城にも似たホテル」でわかれた恋人と似た女性「ホテリエ」と逢い、彼女(理恵)との縁は戻らなくても、人生の生きる道を教えてもらい、人生という迷宮で囚われることは、ないだろう。というようなお話になっています。

恋人の理恵が「主人公が夢で見た古城に行った方がよい」とか、古城のホテルでも主人公に人生の道案内をしているし、題材からは踏み外していないと思います。

主人公が理恵とのわかれのきっかけになったのにも、実家の義父が病気になったことや母の疲れ、妹からの電話とかで、農業を継がねばならなくなり、恋人の理恵の夢である「ネイリスト」が農家の夫の妻になるのではできないだろうとか、人生の機微が描かれています。
彼女に似たホテリエは「偏見です。どんな女性であろうと結婚すれば、食器洗いに風呂掃除など水仕事は欠かせないのですよ。それに彼女は、ネイリストよりも野菜づくりのほうが好きだったかもしれませんし」
というのですが。
結局のところ、主人公の男は6年もの期間理恵と付き合いながら、彼女に肝心なことを話さないで、思い込みだけで別れてしまった。
しかし彼女は主人公のこれからの人生のことも想っていてくれたというような話です。

話の流れ(構成)から、事情はわかりますが、幻想的な演出に力を入れすぎて、対話のやり取りが支配人を含めてわかりにくくなっているのではないかと思いました。

基本部分は普通に読んでも伝わるようにしたほうがよいですね。
御作をワードに取りこんでかなり時間をかけて読みました。
映画をイメージして書けばわかりやすくなるのではないかと思いますが。

前作よりは、よくなっていますというか、中身も深い。

以上です。

たまゆら
p1817002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

夜の雨さん、わかりづらい作品を丁寧に読み込んで頂きありがとうございます。
 
>主人公が夢で見る古城に誘われて現実世界でも行き「中世の古城にも似たホテル」でわかれた恋人と似た女性「ホテリエ」と逢い、彼女(理恵)との縁は戻らなくても、人生の生きる道を教えてもらい、人生という迷宮で囚われることは、ないだろう。というようなお話になっています。
・はい、その通りです。
男と女の6年間の情。しかも憎み合って別れたわけではありません。拭い去ったとはいえ、互いに根底には名残があります。それを最後の最後で浮かび上がらせたかったのです。
 
>恋人の理恵が「主人公が夢で見た古城に行った方がよい」とか、古城のホテルでも主人公に人生の道案内をしているし、題材からは踏み外していないと思います。
・よかったです。人生の道案内までは考えていませんでしたが、そう読みとってもらえると宝くじにでも当たったような気にもさせられます。
 
>主人公が理恵とのわかれのきっかけになったのにも、実家の義父が病気になったことや母の疲れ、妹からの電話とかで、農業を継がねばならなくなり、恋人の理恵の夢である「ネイリスト」が農家の夫の妻になるのではできないだろうとか、人生の機微が描かれています。
・ここは前作で、背景が書かれていないという指摘があったので書き足しました。そのうえで、読んでくれた人が納得するような葛藤を組み込ませました。
 
>結局のところ、主人公の男は6年もの期間理恵と付き合いながら、彼女に肝心なことを話さないで、思い込みだけで別れてしまった。しかし彼女は主人公のこれからの人生のことも想っていてくれたというような話です。
・確かにそうなのですが、彼女にとって、主人公は大して金もない、さらに土で汚れる野菜農家の後継者です。対して今の彼は温和で金もあるうえ、ホテルの支配人という立場でもあります。
ただ、人は見かけによらない。ふっと失ったものに、彼女は捨てがたい愛着を感じたのです。
だからといって彼女はそれを掘り起こそうとはしません。意地でも、前を向いて生きていくうえで、むしろ邪魔だと感じたのかもしれません。
だから言いました。滞在してほしくないと。
 
>話の流れ(構成)から、事情はわかりますが、幻想的な演出に力を入れすぎて、対話のやり取りが支配人を含めてわかりにくくなっているのではないかと思いました。
・わかりづらいでしょうね。まだ書き手の私自身がキャラのことをよくわかっていません。ですのでキャラの話す言葉は、すべて書き手の私が入り込んでいます。つまり生きた会話ではないということです。
 
>御作をワードに取りこんでかなり時間をかけて読みました。
・ありがとうございます。わかりづらい物語なので、その苦労が目に浮かびます。
 
>前作よりは、よくなっていますというか、中身も深い。
・夜の雨さんの感想は、良いところを取り上げることが多いので手放しでは喜べませんが、嬉しいです。
ありがとうございました。
いつか読む機会がありましたら、また怪奇ものを読んでみたいです。
感謝をこめて。

陽炎のようね
p0396713-vcngn.hkid.nt.adsl.ppp.ocn.ne.jp

やりたいことはわかるんだけど、パーツのチョイスがチグハグすぎて、非常に難しいことになってる。
頭の時間軸の取り方は、幻想と現実のあれこれとごちゃごちゃしているところに、更に混乱を持ち込んでいるだけ。
それも「夢をみた。不思議な夢を…」系のありきたりなもの。
古城のイメージが全く湧かないまま、そういう混乱に無理やり突っ込まれる。
マジ系の大人の話夢の話幻想の話の雰囲気をこれでもか、とやっておいて、居酒屋同僚バラエティ番組(日常お笑い系)
都市伝説(子供)農業(現実の塊)と、どうにも逆にあるようなワードが、その後満載されている。
さあどうぞ、家に入ってくださいと言われつつ、そいつの腕で押し出されているような感覚w
結局なにが言いたいのかをしっかり把握して、逆も突き通したいなら、片方は弱めたほうがいいんじゃないかと思う。
もっと筋をシンプルに表現することを心掛けるべきかと。

たまゆら
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陽炎のようねさん、感想ありがとうございます。
 
そうですか、自分としては何かが足りないと思っていたのですが、逆にごちゃごちゃ感が目についたのですね。
思ってもいなかったことだけに、ありがたいご指摘です。
また読み手に謎を提示するのと、混乱させることが別物だということも勉強させて頂きました。
 
>さあどうぞ、家に入ってくださいと言われつつ、そいつの腕で押し出されているような感覚w
・とにもかくにもこれが痛いです。
自分としては謎を提示して、そのうえで主人公を葛藤させ、読み手を物語世界へ連れ去るつもりだったのが、逆に押し出していたとは思いもしませんでした。
また何を言いたいのかは、はっきりしているので、もう少し整理してシンプルに表現してみようと思います。難しいですが、現状がすでに難しくなっているということなので、それがどこなのか探してみるつもりです。
 
ありがとうございました。
シンプルにできるところは、極力シンプルにしてみようと思います。

5150
5.102.16.93

拝読しました。

実際のところ、どこからがきっちり失恋と呼ぶべきなのでしょうかね、なんて御作を読んで考えてしまいました。何をもって破綻とするのか? 自分の気持ちの踏ん切りどころ、相手の気持ちが変わったのを目の当たりにしたとき? 御作は失恋してゆく物語ではなく、すでに失恋した者の物語ということですね。

結局のところ主人公は置かれた状況を優先したということですが、読んでいる最中わからなかったのが、主人公の気持ちだけをどうして理恵に伝えなかったのかな、ということでした。ネイリストの夢は諦めなくちゃいけない、というのはあくまで主人公側からそう思っていることであり、理恵には正面からは聞いていない。そうする前にある状況を目撃してしまったから? 6年を大事に思うのはホテルに行ったから? で、ホテルの誘われた時点で主人公はすでに気持ちがなくなっていた、ということをホテルで悟った? すでになくなっていたものを追い求めていた? それが呼ばれた理由? 失恋していたから辿り着くことができた場所。

普通に考えたら、相手に一度聞いてみることって当たり前の感覚だろうし、それが果たして失恋していたに直結することなのか。つまり主人公の気持ちがすでになくなっていた、というのが若干???でありましたが。もちろん、主人公が何かに囚われていて見えないということはあるにしても。

つまりホテルという舞台装置は、主人公の気持ちを浮かび上がらせるため、という配置なのですよね。二人では探し当てられなかったので。

そのあたりの主人公の揺れる思いと、その後のホテルへと続く流れの中で、いまいち読んでいて把握しづらかったですね。もっともわかりやすく書けということではなく、これはこれで迷宮的世界、幻想性というのが御作のよいところだと思うので。ただ、エピソードを出す順番とか、流れの整理は必須です、とは思いました。もう一度よく考えてみる必要はあるかと。

前作はあくまでショートショートとして読みました。今作は改稿作というより、全く別物として読みました。主人公の想いをホテルの幻想性に絡ませた物語として。なので、よくなったとか、というふうには比べられないですね。今作はより深く書いてあるので。

たまゆら
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5150さんから感想を頂き、この作品に足りないものが少しわかってきたような気がします。
 
夜の雨さんの返信に、じつは私自身がキャラのことをよくわかっていないのです。と正直に書かせてもらいましたが、二人って張りぼてなんですね。薄っぺらすぎて、たぶん本物ではありません。失恋を設定してつくられた紙人形でしかないと思います。
 
>何をもって破綻とするのか?
・この作品の破綻のはじまりは、当時のコスプレ仲間が去って、取り残されたのが大した預金のない主人公と醒めた目をする恋人でした。その恋人から主人公は招かれたと告げられます。
これを伏線のつもりで書きました。なぜなら失恋者しか辿り着けないホテルだから。
それ以前に、そもそも恋人として成立していたのか。ほんとうに二人は結婚したがっていたのかという疑問にぶつかりました。
 
>御作は失恋してゆく物語ではなく、すでに失恋した者の物語ということですね。
・はい。一応、失恋を知った主人公が折り合いをつける物語です。恋人は、見切りをつけたはずなのに心の底にわずかながら情が残っていたという設定です。
それは温和な新しい恋人の中に受け入れがたいものを見つけたからかもしれません。でも恋人は、後戻りをしない依怙地な性格です。
 
>結局のところ主人公は置かれた状況を優先したということですが、読んでいる最中わからなかったのが、主人公の気持ちだけをどうして理恵に伝えなかったのかな、ということでした。
・もちろん恋人の夢を気づかったのですが、たぶん主人公は怖かったのだと思います。預金も少ないし自信もなかったから。また同僚だったときの仕事ぶりを見て、返ってくる言葉を知っていたからです。それでも駅のホームで再会するまで希望だけは持っていました。
そんな優柔不断な主人公に設定したのです。だから現実を目の当たりにして泣くことしかできませんでした。
 
>つまりホテルという舞台装置は、主人公の気持ちを浮かび上がらせるため、という配置なのですよね。
・はい。別々の道を進むために、たがいが折り合いをつける場です。
 
>そのあたりの主人公の揺れる思いと、その後のホテルへと続く流れの中で、いまいち読んでいて把握しづらかったですね。
・練り込み不足が露呈されてしまいましたね。でもそのせいにしてばかりいると、この先も同じレベルの物語しか書けなくなるのでじっくり考えようと思います。
 
>前作はあくまでショートショートとして読みました。今作は改稿作というより、全く別物として読みました。主人公の想いをホテルの幻想性に絡ませた物語として。
・二人の薄っぺらさ以外に、読み返してもう一つ気がついた箇所は、心情描写ですべて説明しすぎたところでしょうか。もう少し省いて、読み手を参加(想像)させるべきだったと反省しています。
どちらかといえば、5150さんの作風と文体も私と似ている気がするので要注意かもしれませんね。私も恒川光太郎さんが好きで全作読破していますので、そこらも似ているような。
 
ありがとうございました。
感謝をこめて。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

たまゆら様

遅ればせながら拝読しました。
感想を書くのが大変難しい作品でした。
文章はかなりいい感じなのに、なんだか伝わらないなあという感覚が付き纏ってまして、その正体を考えてました。結局、わからずじまいですが、なんとか書いてみます。

第一印象は、大変書き慣れた文章だと思いました。
うまく表現できないのですが、説明と描写の間を縫うような書き方で、小説特有の雰囲気の創出に成功しているように思いました。
例えば、冒頭部から引用すると

>一直線に車を疾駆させている。
>霧でかすむ道の両脇には、まだ咲くはずもない黄色い菊が匂い立つかに群生して
>いた。
「一直線に車を走らせる」という、スピード感とともに映像が浮かびやすい描写があって、その直後に、ふわっと物理的にも心理的にも視野が広がる表現がなされている。このように書くことで読者も車に乗った気持ちになって両脇に目をやることになり、物語に入りやすいし、また、こういうちょっとした視点移動は描写の視野を広げます。さらには、「咲くはずもない」というイマジナリーな表現があり、映像的にも心理的に視野が広がります。これらは、特段、すばらしい表現というわけでもないのですが、こういう算段をちゃんととられているところが、物語の導入としてはとてもいいのではないか、と思いました。
そした、こういう算段が物語世界の気配を作るもので、よいなと思いました。

ついでに重箱の隅をつくようですが、ここは全体的にはいい感じなのですが、言葉の言葉としてニュアンスが強すぎて、全体の気配を阻害している部分もありました。
例えば
> "ふわふわ”空間を漂った挙句
のふわふわだとか、
>咲くはずもない黄色い菊が"匂い立つか"に群生していた。
の匂い立つかだとか
ですね。もうちょっとさらりと書いてもいいのではと思います。


>理恵との会話劇。
この段落は、凝っているわりには報われないなと感じました。理恵との意味深会話が謎を牽引し、ホテルに関する下世話エピソードが謎を説明し、という、このギャップというか、異なるテイストで併走する感じは面白いなと思いました。一方で、この段落がもたらすべき立体感に見合った表現がなされているかというか、もにゅる感じです。
えっと、この段落って、冒頭の夢に関する何らかの啓示となるように仕向ける段落で、結構大事な段落だと思うのですが、算段の立て方が直球過ぎて、総体としての啓示的メッセージが残りづらいように思います。理恵の妖しさは会話だけでしかないし、謎エピソードは説明だけでしかない。例えば、理恵がグラスを持つシーンを入れたりだとか、意味はないんだけど、相対的な空気感に伝わるような、地味だけど効く描写を入れるとかしたほうがいいのではないのだろうか。
上でいいなと書いたギャップも併走するだけでは旋律にならないのですよ。対旋律じゃないけど、ちゃんと共通の調を意識してなおかるたまに交差してこそ、一つのメロディーになるわけで。
つまりは、核心の演出と説明に終始していて、核心を核心足らしめる外の世界に目が行っていない、そういう類の視野狭窄感が、謎の魅力を引き出せないでいるとか、そんなこと。わかりづらくてすみません。

> 今振り返るとからの段落
ここはどちらかというと主人公の背景説明の段落なので、特に取り上げて書く必要もないのですが、主人公の胸の内に翳を落とした夢の存在をかなり意識して語られている段落ではありますよね。
で、その夢なんですけど、冒頭の夢の描写自体がそもそも際立って特徴的という印象でもなかった(だから瑕疵と言っているわけではありません)し、なにより、読み手的には上で書いた夢の啓示が啓示としてもたらされてないので、なんだろう、主人公にとって特別な意味をもつ冒頭の夢であっても、読者として特別な印象をもててないので、興味を引かれにくいところはありました。

   
>「お兄ちゃん、近いうちに来れない」の段落
唐突にでてきた母が精神的に参っている状況、駅のプラットホームでの失恋、瞬間瞬間を無意味過ごした自身への絶望感。これらの要素は個々には大変印象的に書かれているし文章も端正なんですけど、総体として何を伝えたいのかわからないなと思いました。というのも、いきなり出てきた重たいそれぞれの要素が、それぞれでいきなり結末を迎えるからです。結実した人の幹に支えられているならばそのめまぐるしは、ある意味、襲いくる嵐の一部としてとらえられるのですが、今回の場合は性急かつバラバラにことが起きているという印象でした。


>秋の野菜が出荷された十月初旬、の段落
 とくに問題を感じることはなかったです。野菜を育てているという描写などは時間の経過とその後の心理を同時に描けるいい描写だと思いました。

>言われるまま下り橋を渡った。の段落
ホテリエの描写に少し力が入りすぎと感じましたけど、個人的な好みの問題かと。ホテリエと意味深な会話は次の展開を考えると悪くないと思いました。

>戸惑いつつベッド脇にバッグを置き、靴を履いたまましばらくベッド
>に寝転んだ。 の段落
意味がありそうで意味のないようでいて実は意味深設定は、薬が毒か?

>飲み物と料理を運んできたのはホテリエだった の段落
ホテリエの男に対する距離感のつめ方が請求過ぎて、すっと入ってこなかったけれど、ホテリアは理恵のゴーストみたいなものなので、これでいいのかな?

>日が西へ大きく傾く。
ウィスキーをそこまで特別なアイテムにする必然性がよくわからなかった。雰囲気創出のアイテムと、核心に対する啓示をもたらすアイテムとでは、象徴表現としての階層が違うと思うのです。象徴表現の階層の違いを意識した、分量の割き方、言葉の選び方があってしかるべきで、ここにきて、漫然と象徴化しているのではないかと思い始めました。

>妙に背後の視線を意識しながら、ホテリエがウイスキーを持ってきた。
上のようなことを生意気に書いていたら、ウイスキーは囚われるための特別なアイテムでござった。すんません。
でしたら、対照化のため、最初の理恵との会話劇ではビールじゃなくてウイスキーを飲んだほうがよかったんじゃとか、つまんないことを思いました。

>真相を明かせば、私はホテリエが誰なのか気づいていた。の段落
謎が明かされるのですが、理恵との心理的別離については、伏線となるエピソードがまったくないので、唐突に明かされた感がありました。

>奥のテーブルで男が目を赤くさせている。の段落。
結局、そのホテルがもつ囚われる魔力の正体みたいなものが最後までわからなかったです。中盤での駅のホームでの出来事、既に別離を迎えていたという最後の述懐はあれど、別離を迎える前の状況が回想状況説明としてしか表現されていないから、ことが起きる以前の理恵との関係性を心理的に実感できなかった。

つづきます。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

つづき

とっちらかってしまったので、総評てきにまとめると

1) 中核の理恵との関係エピソードは、起承がなくて転結で書かれた作品になっているんですよね。これだけ謎を牽引力とし伏線とした作品にも関わらず、人間物語の方、つまり、二人の関係性についてはまったく複線がないから、読んでいて、能動的ではなくむしろ受動的に状況の変化を受け取るマシーンになってしまいました。

2) 謎とエピソードは、小道具と一緒に、沢山振りまかれているけれど、それらをつなぐ底流の糸のか弱さを思います。一方で、その割には個々には高い文章力が印象付けにはてきめんに貢献するので、結果、お話の核心と焦点をぼかすことに働いたのではないかなと思いました。

3) 総体として何を書くべきか? ということ。読んでいて抱いた印象が、太い枝がなんぼんも集まってできている木というものでした。だから、どの要素も大切なんだけど、どの要素もそれほど大きな意味をもたないかのような、錯覚のような読後感に至ってしまいました。単純に、情報量、情報の印象付け、情報提示の順序という点において整理が必要だと思いました。また、観念的には、底流部のメッセージがぶれないように意識して、象徴表現のすみわけを意識してやると、幹と枝が自ずとはっきりするのではないかなと思いました。

4)何度も繰り返しますけど、文章はとても端正だと思います。だからなのか、どれもこれも鮮明になっちゃうところはあるかもしんない。水彩画などでは近くの像ははっきり書いて、遠くの像はぼかして書くそうですけど、適切に力を抜くことでバランスをとるみたいな工夫が必要なのかもしれないですね。


なんだか、とても辛口感想になりましたが、いろいろ考えるきっかけになりました。ありがとうございました。

たまゆら
p1817002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

アリアドネの糸さん、思いがけず丁寧な感想をありがとうございました。
ただ、拝見したのが先ほどなので、返信は帰宅後にさせて頂けると幸いです。
感謝をこめて。

たまゆら
p1817002-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

アリアドネの糸さん、真摯に読んで頂いた感想の返信が遅れてすみませんでした。
 
感想を書くのが難しいという作品だとは理解しています。陽炎のようねさんにも指摘されましたが、前作の掌を膨らませただけの作品なんですよね。表層はかろうじてイメージできても、核心の謎は混乱を招くだけで謎として成立していなかったのだと思います。
やはり枚数に厚みを持たせたのなら、ベースにしたイーグルスの「ホテル・カルフォルニア」のこだわりを捨てるべきだったのかもしれません。
また文章に関して端正だとほめて頂きましたが、アドリアネさんの文章のほうが、文章からキャラが立ち上がって爽やかだと思いました。
 
戴いたご指摘を抜粋して返事を書かせてもらいますね。
 
>重箱の隅をつくようですが、ここは全体的にはいい感じなのですが、言葉の言葉としてニュアンスが強すぎて、全体の気配を阻害している部分もありました。
・ふわふわに関しては、ゆがみの状態を読み手の頭に映像化させたくて入れたのですが、安直だったかもしれません。菊も同じで、黄色という視覚から匂い立つという臭覚を安易に狙いました。
 
>理恵との会話劇。
・この点については凄く勉強になりました。謎を謎としてストレートに提示するのではなく、恋人の表情なり仕草などから匂わせれば、もう少し謎が増したかもしれませんね。現状では「謎」は、ただの記号でしかありませんから。
 
> 今振り返るとからの段落
・じつは地方文学に応募しようと、その要素を背景に取り入れてみました。書き終えて、薄っぺらいなと思い断念した作品でもあるのです。
そのせいもあり、夢の提示から恋の葛藤に移行して失敗したのでしょうね。
ただ、そもそも冒頭の夢の提示が読者にとって興味を惹かれないということが痛かったです。ここは真剣に物語と向き合わないと今後も失敗するでしょうね。
 
>「お兄ちゃん、近いうちに来れない」の段落
・背景が薄すぎたからでしょうか。それとも心情がくどすぎたからなのでしょうか。でも確かに唐突感は否めないでしょう。
 
>秋の野菜が出荷された十月初旬、の段落
・描写を誉めて頂き嬉しいです。
同時に疑問を持たれた、意味がありそうで意味のない場面はあくまでも間です。これからクライマックスに至るまでの緩急をつけたつもりでした。
ホテリエは理恵のゴーストみたいなもの。これについてはゴーストではなくリアルのつもりだったのですが、その過程が不十分でありますし、設定も難しかったです。でも他人だったら、理恵の存在自体の意味がなくなるような気がしたのです。でもそれで、よけい読み手は不鮮明になったのですよね。
 
>ウィスキーをそこまで特別なアイテムにする必然性がよくわからなかった。
・特別なアイテムにしたのは、改稿する前の「ホテル・カルフォルニア」を中途半端に引きずっていたからかもしれません。1969年の夏。ウッドストック以降のロックは魂を失った。名曲をなぞり、そのロックをウイスキーのロックにかけたのです。当然ながら、このホテルの名称は「ホテル・カルフォルニア」です。
 
>真相を明かせば、私はホテリエが誰なのか気づいていた。の段落
・唐突かもしれませんが、必要な部分だと思っています。もう少し展開が上手であれば、読み手を信頼して書かなかったかもしれませんが、無理でした。結局、真相はくどい念押し。
ここらが今後の課題でしょうね。書かずに、読み手に委ねることができればベストでした。。
 
>奥のテーブルで男が目を赤くさせている。の段落。
・魔力の正体を名曲をベースにしましたが、アレンジもしているので難しいと思います。
 
>とっちらかってしまったので、総評てきにまとめると
・人間物語については、この枚数でも書ける人は書けるので実力不足だと思います。また読んでいて受動的になるのは心情の書きすぎ、私の悪癖です。少しも読み手に考える間を与えていませんでした。
 
何を書くべきか。
・確かにバランスが悪いです。総ページとそこに組み入れるエピソードの分量。さらに重要度の比重がなされていませんでした。だから、どの要素もそれほど大きな意味を持たない読後感になったのでしょうね。
次があるかわかりませんが、もし次を掲載させてもらえる機会があるのなら、物語の芯を創って何を訴えたいのかをはっきりさせた作品を投稿したいです。
 
拙い作品を読んで頂きありがとうございました。
たまに覗きますので、アドリアネさんの作品があったらまた感想を書かせて頂きます。丁寧に。

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