作家でごはん!鍛練場
もんじゃ

続き(186枚)

 一

 何時だろうか。壁の時計を見上げる。プラスチックの丸い枠の中で短針は三時、長針は十五分を示していた。
 合成皮革のソファから立ち上がり、フローリングカーペットが敷かれた廊下を歩き、洗面所に行って、パチンとライトを点けて鏡を覗いた。私がいる。三十二歳、女性、アーモンド型の瞳。見つめていたら眉間に皺が寄った。美しくない。唇を尖らせて、溜め息にならないように息を吐く。肩の力を意識的に抜いてみる。今度は眠たそうな私が向こう側にいた。
 リビングに戻る、伸びをしながら。ソファの横のコーヒーテーブルに手を伸ばし、読み掛けのファッション雑誌を取ろうとして、やめて、そう長くはない髪を指で梳きながら寝室に向かった。
 リビングの東に位置する洋室に入ると、南向きの窓の手前、半ば閉じられたブラインドの向こうに真夏があった。陽光が床にいくつものスリットを描いている。じりじりと焼け付くような音を思う。でも実際に聞こえているのは蝉の声だけ。紐を操ってスリットを閉じる。空調を入れる。ショートパンツを脱いでセミダブルサイズのベッドに投げる。それから下着も脱ぐ。タンクトップ一枚になった。カーキ色のタンクトップ。軍人みたいだ、と言った男性がいた。別れてかれこれ経つ。いつも長くは続かない。記憶の中の男性を寝室から追い出してドアを閉めた。
 ベッドにダイブして枕元のチェストの上に手を伸ばす。ひんやりとしたステンレススチールの塊を手に取る。ダイバーズウォッチ。赤い秒針が一秒ごとに時を刻んでいる。
 まだ動いている、と思う。左腕にはめる。私にはユルユルだ。腕を振るとチャカチャカと鳴った。
 時計をはめた左手でそっと私に触れる。
 と、誰かが呼んでいる。リビングの携帯電話だ。立ち上がり、少しよろけながらリビングに向かう。
 着信相手を確かめる。勤め先からの電話だった。出る。
「先生ですか?」と事務スタッフの声。
 はい、と応える。タンクトップ一枚の格好だけれど相手にはわからない。でも気まずさが声に出たのだろう。「あ、今、大丈夫ですか?」と尋ねられてしまった。
 大丈夫、と思った。中断されて少しモヤモヤしてるだけ……。どうしましたか? と私は私のスイッチを切り替えて事務的に尋ねた。
「お電話が入っています。都筑はるかさんからです。電話診療を希望されています。高田先生はお休みの日ですって言ったんですけど、どうしてもって……」
 いいですよ、と応えた。
 都筑さんは私の受け持ち患者さんだ。女性のような名前だけれど男性だ。この春ぐらいから診ている。
 繋いでください、と告げた。下着をつける間もなく電話は繋がった。
「先生……」と掠れた声がする。
 精神科医の高田です、とマニュアル通りに応えた。調子はいかがですか?
「最悪です、尾行されたんです、今も見張られてるかも……」
 落ち着いてください、何があったのですか? 
「道にいた黒い男が図書館にもいて、で、そいつ俺が取ろうとした本取ろうとして、だから俺、あっとか思って……、でもそれだけじゃなくて帰りのスーパーにもその黒いやついて、いい加減にしろよって言ってやったんだけど、変なふうに笑って俺のこと見てて、そんで今帰ってきてからも外に気配が……、絶対あいつだと思う、だから先生に報告しなきゃって思って、先生休みだって言われたんだけど……俺すごく怖くて……だから……」
 都筑さんは高校三年生だ。このところ学校に行けていない。
 落ち着いてください、と繰り返した。いつもの薬、今朝はのみましたか?
「え、あ、どうだったかな……」
 のんでください、三ミリグラムを二錠、今すぐコップに水を入れて……、大丈夫ですか、のめますか? 
 薬をのむ気配を確かめる。
 それから少し横になってください、なりましたか? じゃあ目を閉じて、はい、ゆっくり息を吸って、それから吐いて……。
「先生……」と消え入りそうな声。
 大丈夫ですよ、ここにいますからね、私いますからね、安心してください。
 都筑さんを思い浮かべる。童顔で背が低い。女の私よりも低い。でも小柄と言うわけでもない。太っている。元から太っていたけれど薬の副作用で最近また太った。
「先生……」と、また。泣いているのだろうか、声がくすんでいる。
 大丈夫です、薬が効いてきますからね、安心してください。
 電話を握りしめている彼の、汗ばんだ指を思った。
 蝉の声がシャワーのように降り注いでいる。夏の白さ……。
 しばらくすると蛇口から落ちた水滴みたいに、「平気、かも……」と。
 よかったですね、と伝えた。もう大丈夫ですよ、今日はもう出掛けないで大人しくしててください、お母さんのパート終わるの何時でしたっけ……、そう? じゃあもうすぐ帰ってきますね、美味しいご飯作ってもらえますね、今夜はね、早めに寝ちゃってください、明日の十二時に診察入れときますからね、ゆっくり起きて、いつものお薬きちんとのんで、そしたらそれから来てくださいね。
「先生……」
 はい。
「ありがとうございます、休みだったのに」
 平気です、気にしないでください。
「あの」
 なんですか?
「俺、先生のこと……」
 はい?
「好きです」
 声は真剣。沈黙せざるを得ない。
「……あ、すみません、俺なんかこんなんで、すみません、なのにすみません……」
 いいんですよ、と応じる。好きだと言ってくれてありがとうございます、でもね、都筑さん?
「……はい」
 まずは自分のことだけ考えてね、そしてなんとか今をやり過ごしてください、じっと待ってたら時は来るから、時が来たらそしたらもう嫌なこと全部なくなりますからね。
「そうかな……」と少年は少年らしい声で尋ねた。「本当にそう?」
 時を待て、と私は言った。そうだ、待っているんだ、私も時を。
 だからまた言った。力強く言った。待っててくださいね、と。自分自身に向かって言ったのかもしれない。
 蝉の声に私の言葉が染み込んでいる。 
「わかりました、ありがとうございました」
 いくらかしっかりとした声に安堵する。
 また明日、と告げてから電話を切った。
 壁の時計は四時半を指していた。
 触ってみると私はもう乾いていた。

 二

 待って待って待っていた、時が来るのを待っていた、何かを宿して待っていた、……そして、来た、ついに来た、……時は来たのだ、だから私は……。
 しばらく休ませてください、と告げたら医局は大騒ぎだった。白衣がひらひらと蝶のように舞った。前代未聞だと言われたし無責任極まりないとも言われた。
 でも代わりはいるのだ。病院の、角砂糖みたいに見える建物の中には精神科医が四人もいた。私の受け持ちは月曜日と水曜日、それから金曜日の午前中……、他の曜日や時間は書類を作成するだけで、担当している患者さんは全部で四十人いるけど、その内で毎週診ている患者さんはわずか五人に過ぎない。他の先生方で十分に対応できる人数だった。それにどの医師も私なんかよりずっと立派で優秀で……、だから私がいなくても病院の運営に支障が出るとは思えなかった。
 ただしかし、もちろん患者さんにとっては一大事である……、主治医が入れ替わるだなんてことは望ましくないので軽々しく休んだりしていいわけはない。でも私は行かなくてはならない、今行かなくてはならない、だから休みたいという申し出を撤回して、辞めたい、と伝え直した。医局はさらにざわめいた。
 一方で肝心の患者さんは私の我が儘を比較的冷静に受け止めてくれた。気分障害のクライアントは少しバランスを崩したけれど、感情を失っている患者さんは顔色一つ変えることなく、さよなら、とだけ言った。あっけないくらいだった。
 でも都筑さんは例外で、彼の反応は特別だった。診察室で事を伝えると、口をポカンと開けてしばらく固まり、それから下を向いて小刻みに揺れ始めた。芥子色のパンツの膝に落ちた涙……、その丸い滲みを私はしっかりと見つめた。しばらく泣き続けてから彼は、顔を上げ、私を見ないで、机上のコンピューターの画面を見て、うう、と苦しげに呻いた。響きを私は、白衣の奥の胸の辺りで受け止めた。そして続きを待った……が、彼はもう何も言わず、重力を受けていないかのようにふわりと席を立った。
 都筑さんが高校を辞めたと聞いたのは私がヌサペニダに発つ一週間前のことだった。もう主治医ではない私だったが彼のお母様に懇願されて電話で話した。先生だって辞めたんだから、と彼は言った。ごめんね、と謝った。なぜ辞めたのか、と尋ねられて正直に応えた。……とても大切だった人が消えた場所についに召されることになったのだ、と伝えた。それ以上の説明は難しかった。遠い場所なのか、と訊かれて、飛行機に乗ったらすぐだ、と応えた。帰ってくるのか、と訊かれて、わからない、と応えた、本当にわからなかったから。
 ときに患者は主治医に依存する。精神科では特にそのようなことが起こりやすい。モデルがカメラマンに擬似的な恋愛感情を持つことがあるらしいが、それと似ているのかもしれない。私たちは患者さんを見つめるから。カメラマンが被写体を見つめるように私たちはクライアントを見つめる。クライアントの外も中も、綺麗なところも汚いところも。そして受け止める、包み込む、中に入れる。受容されたと感じて初めて彼らは語り始める、内なる物語を……。語られた物語が患者さんを癒やしきるまで、私たちはただひたすら耳を澄ませる。依存が生じても仕方のない一面が……ないこともない……。
「ねえ先生……」と受話器の向こうで彼はちょっと違った調子で言った。「仕事辞めちゃって食べていけるの?」
 心配してくれてありがとう、と応えた。なんとかなるかな、といい加減に思った。
「俺、もう少しよくなったら働くよ」
 まだ無理はしないでね、ゆっくりでいいんだからね、と伝えた。彼の病状、薬でコントロールできているけれど、とりわけ彼には薬がよく効くのだけれど、それでも無理はできない。彼は待たなくてはいけない、時を待たなくてはいけない。
「先生、俺ついてっちゃ駄目かな? 学校もうないしさ、暇だし、だから先生のボディガードになってやるよ」
 とんでもないことだ、と思う。軽くはない病み方をしている人をどうして同行させられようか。
「いつ出発なの? どこの航空会社の何便なの? 親父になんとかしてもらうから……だから俺を連れてってよ、薬は二ヶ月分もらえたんだ……、新しい先生てんでやる気がないんだよ、ちゃんと診てくれないんだ、俺を見てくれないんだ、隔週の診察にされちゃったし、一回に十五分くらいしか話聞いてくれないんだ、俺話を聞いてほしいんだ、先生にもまだいっぱい話したいことあるんだ、ああ、でも邪魔かな、先生の旅行のお荷物かな、チビデブの俺なんかボディガードになれないかな、俺ってばすぐにくたびれちゃうし、先生はもう先生じゃないんだし、やっぱり俺馬鹿なこと言ってるのかな……」
 熱心な申し出だけど、どうにも無理な話だ……、何より、と思う。一度だけお会いしたことがあるけど都筑さんのお父様は有力な議員さんでいらっしゃる……そんな親御さんが息子さんを私なんかに預けるはずがない。
 ともあれ、診察日をもう少し増やしてもらえないか、後任の先生に相談してみよう、忙しくなってしまったのは私のせいなんだから、きちんと頭を下げてお願いしなくちゃ。
「飛行機見送りに行くよ、母ちゃんと一緒に。母ちゃんってば先生の大ファンなんだよ」と都筑さんが言うので便名を教えた、そして、薬をちゃんとのんでね、と念を押してから電話を切った。
 もう思い残すことはない、そんな気持ちで荷物をまとめた。専用のスーツケースにマスクやフィンや愛用のダイビンググッズを詰めた……あと、チェストの上のダイバーズウォッチも。
 私は私のこれまでを置き捨て自由になる、そして……。
 AとかBとか、北とか出発とか、大書された看板にくらくらしながら辺りを見回したが、旅立ちの日の出発ロビーに都筑さんの姿はなかった。ほっとした。人混みが苦手な彼だから空港なんかには来ないほうがいい。
 オフホワイトの床にグレーの影を相似的に落としているベンチたち……その内の一つを選んで腰掛ける、……そして思った、搭乗のアナウンスを待ちながら、ダイバーズウォッチのかつての持ち主のことを……。
 彼は仲間内からピヨと呼ばれていた。なんでピヨなの? と初めて抱かれたベッドで尋ねたら彼は応えた。「ひよっこだったからさ、昔ね」
 笑ってしまった。夜の海、横穴、沈船、あらゆるダイビングを見事にこなす彼にもひよっこだった頃があったんだ。
 伊豆の南端や外房の海で彼からダイビングを習った。マスククリアのやり方や疲れないキックの繰り出し方、計器の操作、様々なサイン………、それからツノダシ、クマノミ、ソラスズメダイ、オヤビッチャ……たくさんの愛らしい魚たちの名前を学んだ。潜水を終えてからの午後、像の背中のようにも思える岩の上に立ち、砕ける波の青さと白さを見つめていると……彼とのダイナミックな未来が予感できた。研修医でいる間は二人で足繁く海に通った。日灼けし過ぎのひよっこ女医は白衣をまとった黒アヒルとからかわれたけど、それさえなんだか嬉しかった。あの頃が最高だった。
 勤務医になって忙しくなり、彼も海外で潜ることが多くなって、私は日本に置いてけぼりで、会えない日々が続いて、海には潜りたいし、彼には私に潜ってほしいし、なんだかすごく……ものすごく苦しかった。
 車椅子を見ると思わず目で追ってしまうようになった。もちろん彼じゃない。彼の車椅子は他のどの車椅子よりも颯爽と走った、イルカのように。
「歩けなくなったから」と彼は言った。「ぴよぴよ言いながら潜り始めたんだ」
 交通事故で中途障碍者になってしまった彼は、歩行の自由と少年向け漫画雑誌の編集の仕事を失い、代わりに多額の賠償金を手にして圧倒的な自由時間を得た。三十八歳のときだった、と聞かされた。「妻なし子なし仕事なし……」と憂いなく言って彼は笑った。「以来潜りっ放し、海ん中に引きこもってんだよ、ねえドクター、俺ってば平気か、かなりヤバくないか?」
 そんな笑顔にくらくらする私。くらくらしながらいくつもの夏を数えた。
 彼が四十五歳になった秋、彼は消えた。「ピヨが帰らないんだ」と彼の友人から連絡が入った。彼はヌサペニダの海で消息を絶った。私は受け取った、彼の友人から、彼が愛用していたというダイバーズウォッチを……。
 音がした。巨大なパソコン画面のような電光掲示板を見上げた。と同時にアナウンスが入った。登場ゲートにお急ぎください、と言っている。いけない、ぼんやりしていた。
 機内持ち込みのバッグを抱えて出発口を目指した。職を捨て、日常を捨て、今こそ出発するのだ。どこへ? ヌサペニダへ。いや違う、地球上のどこかじゃなくてたぶんもっとどこか違うところへ。
「先生!」
 耳を疑った。次には目を疑った。少年探検隊みたいな格好の都筑さんがいた。
「遅いよ、列の前からずうっと後ろまで俺見て廻っちゃったよ、ゲート間違えたかと思った……」
 なんで?
「先生白衣じゃないからさあ、すぐにはわかんなかったけど、やあ、よかったよかった、席の番号何番?」
 彼の病気は躁転しやすい。落ち込んでいたかと思うとふとした拍子に底抜けに陽気になることがある。今がそうだ。いけない、抑える薬をのんだ方がいい、すぐに病院と、それから親御さんに連絡を……。
 ところが……、意外な人影に気が付いた。都筑さんの後方でこちらに向かって頭を下げている男性……、都筑さんのお父様だった。
 どういうことだろう?
 お父様に歩み寄った。
 すると言われた。信じられないことを言われた。
「何度か死にかけた子です、先生に救っていただいて今日まで生き長らえてきました。ご迷惑をお掛けいたしますが何卒……」
 それだけ言うと恰幅のいい男性はもう一度深々と頭を下げた。
 私は固まってしまった。
 顔を上げた紳士の目には決意の光が宿っていた。
 普通じゃない、と思った。でも普通じゃないことが起きてしまったのだ。
 何かを言わなくてはいけない。もう主治医ではない私に、でもいったい何が言えると言うのだろうか、苦しんでいる少年とその父親にこんな私が……。
 列の後ろから咳払いが聞こえた。
 薬を……、と都筑さんに向かって尋ねた。薬を持ってきた?
「二ヶ月分」と少年は応えた。
 頷いてしまった。いろんなことを肯定してしまった。
 少年はパッと笑った。「乗ったら水もらって、そんで薬のむよ」と言って嬉しそうにした。
 曖昧な気持ちのままゲートをくぐった。そうするしかなかった。そしてもう後戻りはできない。
 予測のつかない旅はこんなふうにしてなし崩しに始まったのであった。目指すはヌサペニダ、インドネシアの海、そこから先はまだわからない。

 三

 ガルーダ・インドネシア航空は成田とデンパサールを七時間で結んでいる。
 機内サービスのスナックを摘まみ、グァバジュースを飲みながらやはり気になった……、離れた席に座っている都筑さんのこと……、でも、と思い直した、子供とはいえ十八歳である、初めての海外旅行でもなさそうだし、まあ大丈夫だろう……。
 水平飛行になって三時間くらいが経過した頃、後部座席で騒ぎが起こった。何事かと緊張する私の耳に、インドネシア語と、英語と、それから日本語のアナウンスが飛び込んできた。お客様の中でお医者様がいらっしゃいましたら……、と呼び掛けている。嫌な予感がした。席を立つ。こちらに歩み寄る客室乗務員と目が合った。民族衣装ふうの制服を着た彼女に向かって小さく頷き、医師免許を持っていることを伝えた。すると手首を掴まれた。事態は一刻を争うらしい。
 後部座席に向かって進んでゆくと、やっぱりだった、嫌な予感の通り叫んでいるのは都筑さんだった。
「早く!」と彼は叫んでいた。「早く捕まえろ! やつはトイレに逃げ込んだぞ!」
 駆け寄った。「どうしましたか? どうしたんですか? 私ですよ、高田です、都筑さん? 私がわかりますか?」
 血走った目の焦点が合うのにたっぷり一秒くらい掛かった。それから彼は呟くように言った。「先生……」
 ほっとした……、と思った瞬間、後ろから肩を掴まれた。振り向くと男性の客室乗務員が険しい表情で注射器を差し出していた。麻酔薬だ、と彼は言った。私は首を横に振った。必要ないと伝えた。彼は眉を曇らせた。次の瞬間都筑さんがまた絶叫した。「出てきたぞ! ほらそこ! カエル人間はそこだ!」
 彼の視線の先にあるのは無人の通路……。
 乗務員の男性が私を押し退けて都筑さんに飛び掛かった。
「やめて!」と叫ぶ私の声に被って都筑さんの声。「ちくしょう! 捕まらねえぞ!」
 都筑さんに向かって手を伸ばす。
 間に合わず、注射針は彼の首に刺さった。
 私は手を広げた。都筑さんが倒れる。抱きしめる。
 腕の中の彼……、すでに眠りに落ちている。
 男性乗務員の目が半ばうろたえたように、そして半ば挑戦的に私を見ている。やむを得ない、と私は頷いた。
 それから彼の主治医であることを告げて、席を変えてほしい、と申し入れた。都筑さんのお隣さんは渡りに船といった面持ちでこれに応じてくれた。手続きが面倒なことになるのだろう、乗務員はしぶしぶといった表情で、しかし結局は交換を受け入れてくれた。
 眠っている都筑さんの横に腰掛けて私は、大変なことになってしまったという焦りの気持ちとこうなったらもうなるようにしかならないのだという諦めの気持ちの間を行ったり来たりしていた。
 デンパサールに着いたらまずは地元の病院を訪ねよう、と思い、しかし……と躊躇う。インドネシアの精神科医療により都筑さんがどんな治療を受けるのか軽視できない不安がある。今の症状ならまず間違いなく閉鎖病棟に入院だ、そして……と思う。副作用の強い薬を射たれて自由を奪われ、場合によっては電気痙攣療法やその他のショック療法に晒される……かもしれない。頭を下げていたお父様の顔が浮かんだ。そんな目に遭わせてなるものか、私は彼の主治医だ、いや正確にはもう主治医ではない、でも今現在、彼の病状を私よりもよく知る医師はいない。そうだ、私の責任だ、私の責任において彼を守らなくてはいけない、旅を中止して日本に戻ろう、できるだけ早い便で蜻蛉返りするのだ……。
 それにしても、と気になった。カエル人間……、そうだ、確かに彼はそう言っていた。カエル人間……?
 おかしな声が聞こえるという症状に比べるとおかしな姿が見えるという症状はそもそもからして珍しい。都筑さんも幻視を訴えたことはなかった。けれども今回無人の通路を凝視する彼の瞳は確かに見つめていたのだと思う、見えない何かを、おそらくは異形の何かを。その姿を、目覚めた彼は紙に描いてくれるかもしれない、あるいは逆に何も覚えておらずカエル人間なんて知らないと主張するかもしれない。……いずれにしても幻覚の内容について問う意味はない、臨床的に重要なのは症状の一般性であって症状の個別性ではないのだ、カエル人間なんてものに興味を持つ必要はない……、そう思った。思ったのだけれど、でも何かが引っ掛かって、どうしても気になってしまうのであった、カエル人間なるものが……。
 目を閉じて私はただ時を待った、しかるべき時を待った、彼が目覚める時を。
 意識の水面の遠いどこかでボシャンと魚の跳ねるような音がした。

 四

 都筑さんはまだ目覚めない。
 前列シートの背面ポケットから、浅黒い肌の、冠を被った女性の横顔が描かれているアメニティパックをよけて冊子を取り出し、パラパラと捲った。何かしてなきゃ自分を今に繋ぎ止めておけない、そんな気がした。
 バリ島の工芸品、あ、それからダイバーズウォッチも……、さらに頁をめくると王宮の風格を漂わせた老舗のホテル……、うん? これは?
 ホテルの案内頁の中に目を引くものがあった。苔むしたカエル……石造りのカエルだ、直立している、滴る緑の中でカエルは神様のようにも妖怪のようにも見えた。
 カエル人間だ、と思った。都筑さんが発したカエル人間という言葉、それから私がイメージする姿は、うん、まさにこれだ。
 ウブドのホテルの紹介頁である。……ウブド。冊子を捲って地図を見る。ヌサペニダ行きのスピードボートが出るサヌール港まで車で一時間といったところか。このホテルならボートの手配もしてくれそうだ。
 招かれている、と、そんな気がした。
 ふと視線を感じて横を見る。都筑さんが私を見ていた、カエル人間みたいに真ん丸な瞳で。
 目が覚めたのね? と声を掛けた。
「おはようございます」と言って彼はにっこりと笑った。昼寝から覚めた猫みたいに寛いだ様子だった。
「よく寝たなあ」と伸びをしながら都筑さん。
 もうすぐデンパサールですよ、と告げた。気分はどう? と付け加えた。
「あれ?」と都筑さんは目を擦って言った。「先生、なんでここに? どうして隣に座ってるの?」
 記憶の欠落、と思った。何も覚えていないのかもしれない。試しに尋ねてみた、かなりの冒険ではあるが勇気を出して。あのね、カエル人間のこと覚えてる?
 案の定彼は応えた。「何それ? 変なの」
 間違いない、彼は発作を覚えていない。
 まずは薬を……、と思ったが、彼の晴れやかな顔は頓服の必要性すら感じさせなかった。
 急性一過性の錯乱発作だと思う。なぜ起きたのかはわからない。でもたぶん問題はない。これは直感だ。間違っていない自信がある。けれども……と思い直した。私は医師だ、たぶんだとか直感だとか、そんなものに立脚して万が一にも患者を損なうわけにはいかない。成田に引き返さなくてはいけない。
 だから旅の中止を宣言した。
「え? どうして?」と都筑さんは驚き、それから泣きそうな顔になった。
 都筑さん、自覚してないと思うけど実はあなたあまり調子がよくないの、だから日本に帰って用心したほうがいいと思うの、主治医の先生には私からちゃんと伝えてあげるから、だから心配しないで……、と告げた。
「主治医は先生だよ、高田比佐子先生だよ、俺の一番の先生だよ、先生と一緒なんだから世界中のどこに行ったって俺安心なんだよ、薬も十分にあるし、これから行く国にだっていざとなったら病院あるんだろ、だったら平気だよ、俺今すごく調子がいいんだ、大丈夫!」と彼は捲し立てた。
 が、もちろん大丈夫ではない。すごく調子がいいと本人がそう思っているあたりが非常によろしくない、むしろ危険な状況だ。
 客室乗務員を呼んで水をお願いした。やっぱり薬をのんでもらわなくては……。
 すがるように見つめてくる視線から逃れたくて、手にした冊子に目を落とし、それから……私は固まった。
 ……え?
 世界が揺れた。
 ……ピントが絞られてゆく感じ、音が失われてゆく感じ、ああ、そこに、彼が、いた、あろうことか、彼が、そこに……、意識が、私の意識が、沈潜してゆく、ここではないどこかへ、深いところへ、佳祐、緒方佳祐、彼の影、そうだ、影、落ち着け、私、しっかりしろ!
 親指をきつく握り締める。
 蝉時雨が聞こえた気がした。
 写真を見つめる。穴があくほど見つめる。車椅子の影。ウブドのホテルのロビーの片隅に、車椅子の男が写っている。シルエットだ。顔はよく見えない。でも、腕が、肩が、顎が、彼だ、佳祐だ、間違いない、もう一度見る、そうだ、佳祐だ、ここに佳祐が……!
「先生?」
 都筑さんの声が私を機内に連れ戻した。
 水が来たのだ。……受け取る。
 都筑さんが薬をのむ様子をぼんやりと見て、そして揺らいで……、世界に膜が掛かった。
「どうして泣いてるの?」
 泣いてる? 私泣いてる? 嬉しくて? 悲しくて? 寂しくて?
「俺が……」と少年は言った。「守ってやるから、だから大丈夫だよ、先生には俺がついてるから」
 ……何かが入ってくる、私の中に。……バリアを張らなきゃ、急いで。
 ポン、と音がしてシートベルト着用のサインが点灯した。
 ベルトを締めて目を閉じる、私の手を誰かが握っている……。
 着陸体制に入ったのだろう、重力を感じる、……大丈夫、私はまだ万有引力に繋ぎ留められている……。
 ……佳祐!
 デンパサール国際空港に降り立ち、異国の匂いに包まれて、もう迷わなかった、二本の足が意識を支えた。
 預けていた荷物を受け取り、タクシーディマナ? と暗記していた言葉を連発しながら乗り場に辿り着き、トランクに荷物を積み込み、都筑さんと二人で後部座席に収まった。
 ウブドのホテルの名前を告げた。空き室を確認する気力がなかった。行けばなんとかなるだろう。
 バリ島の空は澄んでいて、でもなんだか嘘っぽくて、私の心みたいにぺらぺらで、でもその軽さがなんだかありがたかった。ありがとう、と気持ちを声に出して呟くと、「どういたしまして」と隣の少年が前を向いたまま応えた。なんだかしっくり……。空と少年の区別さえつかないほどに私は混乱していたのだと思う。
 信号機がなくなり、野犬の姿が増えてきて、道が細くなり、緑が濃くなって……陽が傾いた。ウブドに入ってやっと私は浮上を始めた。胸の辺りに滞留していた私が頭に戻ってきた。
 とんでもないことになっている、と考えた。でもまあしかたがない、と思い直す。今夜はウブドに泊まることにしよう、明日以降の直近の便をフロントに頼んで、今夜は都筑さんに早めに寝てもらい、それから独りで考えよう、何が起こっているのかを……。そして何が起こっていようが都筑さんを連れて日本に帰る、と毅然と思ってまた揺れる……。……そして、それからどうなる? ……わからない。またもうしばらく時を待つか、そう、それしかない、いや……それとも、……それともなんだ? それともこの道を……引き返すことなく進んでみるか、このまま進んでみるか、どこかに出るまで進んでみるか? ……進んでみたい、本当はこのまま……。
 私の煩悶に気がついたのか都筑さんが言った。「俺、生きててよかった」
 え?
「先生と来てよかった、俺、本当によかった」
 さらなる小道に入った。蜩に似た蝉の声。なんだか懐かしい。幼い頃祖母の家で過ごした夏を思い出す。
 でも車は遠い夏をくぐり抜け、さらに奥へ、そのまた奥へと進んでゆくのであった。夕闇の向こうに、もっともっと深い闇の存在が感じられた。濃密な闇。怖くなるような、でも少し癒されるような……。そこはたぶんカエル人間の世界なんだろう。佳祐は別の世界の住人になったのかもしれない……。
「先生の大事な人から俺、俺の大事な先生を守ってやるんだ」
 ポツリと落ちたその言葉は変なふうに響いた。
 返事をする前に車は篝火の前に停車した。
 反社会的な青少年の、髪のごとくに揺れる炎を見つめる……。が、次の瞬間俗的な思いを恥じた、炎はあまりに神聖だった。そして炎は……、闇を照らしていたけど……その明るさは森の暗さをより強調していて、なんだかどうにも足が震えた。
 ずいぶんと奥に……、と思った。深いところに来てしまったんだな。
 もう蝉の声は聞こえなかった。

 五

 空き室を確認しないで来てしまったからいけないのだけれど、現在残っているのはヴィラタイプのダブルルーム一室のみとのことで……、これには困ってしまった。ダブルルームに泊まるわけにはいかない。フロントに頼んで近くのホテルの空き室をあたってもらう。
「腹減ったね」と言って都筑さんが眉を開いた。少年は無邪気なものだ。
 フロントのインドネシア人は聞き取りやすい英語で、近所のホテルにも空きがない、と言った。もうすぐ祭りがあるのだと言う。だからどこも満室なのだと。
 やむを得ない、ここに泊まろう、一泊だけだ、私はソファかなんかで休むことにしよう。くたびれていてそれ以上のことは考えられなかった。
 フロントが案内係を呼んでくれている間、アースカラーのソファに腰掛け、エキゾチックな香りを嗅ぎながら南国の花を思った。気持ちをマッサージしてくれるような匂い……。石造りの床から立ち上るひやりとした空気を足首で感じる。火照った体に冷水のような心地よさが染み込んでくる……。あちこちに配置された観葉植物の、日本にはない種類の大きな葉に目を奪われる。圧倒的に濃厚な緑色はシンプルにジャングルを連想させた。壁の、焦げ茶色の、重厚なるレリーフが刻まれた額縁の中に……現地の筆によるものであろうか、少年が異国の女を斜め後ろから見つめている絵が飾られていた。とても印象的な絵だ、と背骨の辺りで感じた。……そして、どこから聞こえてくるのだろう、楽器の音……録音じゃない生の音……、これはたぶん民族楽器の……、なんだっけ、そうだガムラン……、ガムランの響きだ。大地の底から響いてくるような、ある種の崇高さ、捉えようによっては不気味さ……。
「ねえ先生……」と少年が目をきらきらさせながら屈託なく尋ねる。「ここはインドなの?」
 インドネシアだと伝える、インドネシアのバリ島だと。
 続いて繰り出された「どんなメシが食えるの?」という質問に虚を衝かれた。……彼はこの旅行を楽しんでいるのだ、私とは違って非常にナチュラルに。
 ミーゴレン、ナシゴレン、それからサテ……、と思い付くままに名前を挙げてその甘辛さを伝えた。
「サテってのはヤキトリなんだね、俺今なら二十本は食えるね」だなんてはしゃいでいる都筑さん……、実に無邪気だ、それともそう装って私を元気付けてくれているのだろうか?
 初老の男性がやってきた。豊かな顎髭が白い。山羊さんみたいだ。だから私はこっそり彼を八木さんと呼ぶことにした。
 八木さんはサンダル履きで、襟なしの白い半袖シャツを着て、腰から下に、民族衣装なのだろうか、黒い地に咲くベージュの花模様の布をスカートのように巻いている。そして同じ柄の、バンダナのようなものを頭に巻いていた。華やかにも見える衣装を八木さんは、威厳により、嘘っぽくなく自然に着こなしていた。佇まいからは自信のようなものも伺えた。
 一方で八木さんは都筑さんと同じくらいの背丈だった。百六十センチとかたぶんそのくらい。私の背はそれよりももう五センチくらい高い。ヒールがある分さらに高いのかもしれない、立ち上がって並ぶと八木さんは私を少しだけ見上げるような角度になった。
「ウェルカム」と明瞭な発音で八木さんは言った。それから私のスーツケースやダイビングケースを持ち上げ、転がしてきたカートに丁寧に積み上げてくれた。
 案内してもらう、私たちのヴィラへ。
 ロビーを抜けるとそこはまた屋外で、夜風が髪や肩を、甘く、そしていくらか妖しく撫でた。右手に、ライトによる斜めからの光を浴びて石造りの宿泊棟があった。怪獣のようにも見える神々の姿が彫り込まれている。仏塔みたいだ。
 ガムランの響きに抱かれるようにして小道を歩いた。ホテルの敷地内という感じがしない。そう、このホテルは全体が森の中にあるのだ。
 辺りは暗い。八木さんの懐中電灯が前方の闇を切り取っている。あちこちに篝火がある。篝火のあるところに、ヴィラの敷地への入口なのであろう、重厚なる門扉があった。ヴィラとヴィラとは随分離れている。お隣との距離たぶん二十五メートル、息継ぎなしのクロールでぎりぎり泳ぎきれるかどうかの距離だと見当を付けた。
 篝火と篝火との間は懐中電灯の光だけが頼りで心細い。都筑さんも八木さんも何も言わない。黙々と歩いている。ガムランの響きの合間に、どこからか川の流れる音がする。そういえば水の匂い。
 と、そのとき懐中電灯が照らし出した、道の脇に立っているそれを。あやうく叫び声を上げるところだった。
 石造りのそれ、大きい、八木さんの背丈とたぶん変わらない、闇の向こうからこちらを見ていた、真ん丸な、感情の読み取れない瞳で。カエル人間……。
 いけない、と思った。非常にいけない。カエル人間を見て都筑さんがまたパニックを起こすかもしれない。身構える私の気配を感じたのだろうか、八木さんが振り向き一言。「ゴド」
 ゴドはgodだろう。神様。カエル人間はこの地の神様なのだろうか。
 都筑さんを横目で窺う……。暗がりの中彼もこちらを見る。そして笑って言った。「お化け屋敷だね、まるで」
 ほっとする。どうやら何も思い出さないらしい。それとも彼が飛行機の中で見たカエル人間はこれとはまた別の何かだったのだろうか?
 八木さんが立ち止まった。私たちのヴィラに着いたようだ。篝火に浮かび上がる門扉には番号が書かれている。8と読めた。門扉の脇にはやはりカエル人間が立っていた。ゴド……、と祈った。どうか私たちをお守りください。
 握り拳くらいの、大きな南京錠を開けると重々しく門扉が開いた。森の中に佇むヴィラの敷地内、そこもまた小さな森に見えた。鬱蒼とした庭。虫の声に初めて気が付いた。空には星が瞬いていた。日本とは違う星座の下を歩く。
 庭の先にはまた扉。八木さんがまた南京錠を開けてくれる。狭い扉の向こうは意外に広い半室内だった。石のたたきにソファとテーブル。……それからやっぱりカエル人間。よく見るとなんだかちょっとエロティックな姿だった。服を着ていないからだと思う。
 そしてまたまた扉、またまた南京錠。非常に狭い扉をくぐるとその向こうがやっと室内だった。石の床。石の壁。茅葺きの……たいそう高い屋根。天井で大きなプロペラが回転している。リビングの向こうに壁もなく剥き出しのベッドルーム。天蓋付きのベッドが見えた。そしてベッドの脇にまたしてもカエル人間……。
 八木さんが案内してくれる。トイレットルーム、と言って。バスルーム、と言って。冷蔵庫を開けて、ウォーター、と言った。電話機を示して、テレフォン。受話器を持つ真似をして、9番を指し、フロントコール、と言った。どれもこれも説明がなくてもわかることばかりだった。でも、そうだチップを差し上げなきゃいけない、と思って気が付いた、両替ができていない……。タクシー代はカードで支払った、フロントで両替するつもりでいた、でも忘れてしまった。南京錠を三つも開けてくれた八木さんに何かお礼をしなければ……。両替がまだなことを伝えて困惑した表情を作った。
 ドントウォーリー、と八木さんはにこりともせずに真顔で応えた。実直な人柄なのかもしれない。欧米のリゾート地なら、代わりにキスミー、くらいのことを言ってきかねないがここはアジアなんだ、ホテルの重厚さに見合った実直な人柄が当たり前なのかもしれない。
 そんなふうに感心していると、都筑さんがリュックをがさごそとしてチョコレートバーを取り出しそれを八木さんに差し出した。チョコバー……、と思った。民族衣装に身を包んだちょっと仙人みたいな八木さんに果たしてチョコバーって通じるんだろうか?
 そしたら八木さん、白い歯を見せて笑った、初めて笑った。それからサンキューと言って、軽く拝んで、チョコバーを受け取ってくれたのである。好意が伝わった。チョコバー恐るべし。そして十八歳恐るべし。キュートだなあ、と三十二歳は感動してしまった。
 日本にいるときはわからなかったけど、都筑さんってやっぱり普通に子供っぽいな。クライアントとしての都筑さんより今の彼は随分と私に近いところにいた。親戚の子みたいだ、と思った。こうなったらもうリゾート気分で寛いでしまおうか。都筑さんの調子も安定しているし、明朝日本へのフライトが確保できたらそれでいいじゃないか。部屋に着いたらすぐにフロントに言って……、と思っていたけど慌てるほどのこともなさそうだ。薬もあるし、精神科医が付きっきりなんだし、これ以上の手当ては隔離病棟への入院とイコールだ。というかここってもうほとんど隔離病棟なみに奥まってるしね。こうなったら都筑さんにとことん向き合って差し上げようか。そしてちょっとだけ……、明日帰国の便が取れてからの話だけれど、佳祐の写真について調査してみよう、フロントで尋ねてみよう……。鞄の中には機内誌が入っていた。写真を見せたって大した情報が得られるわけでもあるまい、とは思う。でもいいんだ、佳祐が泊まったホテルで一晩眠れるだけでも満足だ、思いきって来た甲斐があった、すぐに帰国するだなんて思ってもみなかったけれど、でもこれでいい、都筑さんを送り届けたら体勢を立て直してまたここに来よう、佳祐の影を求めて……。そしてヌサペニダの海に潜るのだ、佳祐の海に、それから……。
「ついてくよ」と声がした。声に向かって振り向くと都筑さんが妙に大人びた目付きで。「先生がゆくとこに俺ついてくから」
 天井からだろうか、ふぁっふぉう、と何かの鳴く声がした。
「ゲッコーイズラッキー」と八木さんが言った。
 ……ゲッコーってヤモリのことだっけ? 見上げる。茅葺き屋根の内側にいるのだろうけど、目を凝らしても姿は見えなかった。
 さて……、と思った。そして都筑さんに向かって言った。ご飯を食べに行きましょう、ヤキトリたくさん食べましょう。
 都筑さんはゲッコーの真似をして、げっこう、と鳴いた、結構という意味なのだろうか、笑ってしまった。
 そんな私たちをカエル人間の真ん丸な目が……そう、たぶん見据えていた……。すでに森に捕らわれていることに私たちはまだ気付かずにいた。

 六

 レストランはフロントのすぐ脇にある。夜のテラスでインドネシア料理を食した。
 日中のこの席からは雄大なる渓谷が一望できるようだが、今は暗く、谷と思しき闇の塊は何かの不在ではなく逆に濃密なる何かの存在を示してそこにあった。
 ともあれ今は楽しもう。考えるべきことは考えるべきときに考えればいい。幽玄なるガムランの響き、テーブルにはキャンドル、吹く風には森の甘い匂いが混じっている。素敵な夜だ。
 運ばれてきたオードブルは芸術品だった。木でできた大皿にやはり木でできたいくつもの小皿が並び、中には色とりどりの野菜やフルーツが、艶々とした丸い葉や、桜色や紫色の花びらを従えつつ繊細に配置されていて、気持ちが華やぎ、これがデートなら……、と思った、思ってしまった、向かいに座っているのが佳祐だったら……、二人で森に抱かれていたら、そしたらこの夜はもっともっと素敵な夜になっていたに違いない……。
 でも実際に目の前にいるのは童顔もあどけない色白の少年で、彼はサテを頬張ることに夢中で、だから私たちのテーブルにはロマンスの欠片さえも漂っていなかった、……いや漂っていたら困るけど。
 そんな思いを敏感にキャッチしたのか少年は、上目遣いでちらりと私の方を見た。野良猫のような目付き。
 微笑んでみせた。
 すると都筑さん、「先生ってお酒とか飲まないの?」と丸い目をいっそう丸くして尋ねてきた。
 首を横に振った。お酒は苦手だ。飲めないわけじゃないけれど、佳祐と一緒に出掛けるときは常に私がドライバーだったし、海に潜るときアルコールが残っていると危険だし、それに……、と思った。少なくとも今はお酒なんて飲んでる場合じゃない。……私は医者だ、勤務医こそは辞めたけど医師免許を失ったわけではない、医者である私が患者とともにいる、当然に責任が生じる、私は年長者だし、都筑さんに何かがあったら全面的に私のせいだ、お酒なんて飲むわけにはいかない。
「先生って美人なんだけどさ……」と雰囲気に酔ったのか少年は大人っぽい仕草で口元を拭うと生意気なことを言った。「でも隙がないんだよね、隙がない女はモテないよ?」
 吹き出しそうになる。小学生のように幼い顔をした彼がいっぱしの口をきいている。それに彼の分析ったらサテ並みに甘い。
 隙がない? そんなわけない。子どもの頃からずっと隙だらけだった。優柔不断、と通信簿にもそう書かれてたし、夏休みとか女友達と島に出掛けたらその度に必ずナンパされて帰りは男性と一緒だった。断れないのだ。彼氏がいても他の男性に口説かれて気が付いたら二人の男性に支配されてたり……。夜中にアイスとか食べちゃうし、診察の合間にも机の中のチョコとか食べちゃうし、バーゲンセールで要らないものまで買っちゃうし、結果として靴箱に入りきれない靴を泣く泣く捨てるはめになるし、だなんて我が身を省みると今すぐ教会に行って涙ながらに懺悔をしたくなる。
 こんな駄目駄目な私に、隙がないよ、だなんて都筑くん、君ってまだまだ女を知らないね、かわいいね、いつまでもいつまでもお砂糖みたいに白く甘くさらさらでいてね、などと思いながら私はモナリザのごとく澄ましていた。
 まあもっとも……、と思う。いくら私だって十八歳の男性患者を目の前に隙なんて作るわけにはいかない。キンチョーしているのだ、これでも私は君といるときはいつもすこぶるキンチョーしている。そしてこのキンチョーは君を成田に送り届けるまで決して解くわけにはいかないのだよ。
 だなんて思いながらディナーを終えて、粉っぽい現地のコーヒーを飲み、都筑さんには薬をのんでもらい……、伝票にサインして、カエル人間を数えながら夜道を歩いてヴィラまで帰って、それから「さて」と声に出して言ってみた。
「サテ?」と言って都筑さんは首を傾げた。
 いえヤキトリのことじゃなくて……、と茅葺きの天井を見ながら思った。お風呂に入りたい……のだがまあこれは別に問題ない、順番に入ればいいだけだ、などと考えながら浴室まで歩く。ドアを開けると無駄に広い石造りの浴室……、鍵は掛かるだろうか、よしちゃんと掛かる、シャンプーもリンスも石鹸も私は持参した……けど都筑さんは持ってきてないと思う……でもちゃんと備えつけのものがある、なかなか高級そうだ、私も試してみようかな、なんて思いながら風呂底に栓をして、蛇口を捻って、温度を調整して給湯する、……よしよしこれでいい、と満足して私はリビングに戻る。そして都筑さんに言う。今お風呂入れてるからね、お湯が溜まったら都筑さん先に入っちゃってくださいね。
「え、俺いいよ、風呂今日はいい」
 これだからもう十八歳の男子は……、と呆れる。長時間のフライト、テラスでの食事、肩も凝っただろうし汗もかいただろうのに入らない? そんな選択肢ない。入りなさいと目をつり上げて伝えた。
 都筑さんはしぶしぶと、それでも着替えを取り出して、ペンギンみたいにもたもたと浴室に向かった。
 はい、これでお風呂問題は終了……、と茅葺きの天井に向かって報告をする。で、そのあとだ、そのあとどうするか、私が入って、出てきて、それから……。
 患者さんをソファに寝かせるわけにはいかない、ベッドは彼に譲ろう、私はソファで寝る。で、何を着たらいい? 独り旅の予定だったからパジャマなんて持参してない、タンクトップとショートパンツで寝ようと思ってた、でもそんな姿彼氏でもない男性に見られたくない、男性っていってもまあ子供だから別にいいかな、どうかな、なんて考えながらクローゼットを覗くと、おやおや、いいものを発見、広げてみる、悪くない、だらしなくない、八木さんが纏っていたような腰巻きと、薄茶色の、肌触りのよさそうな開襟シャツ……、おそらくこれが室内着なんだろう、これにしよう、これを着て、これを着てもらって過ごそう、これなら互いに気まずくない。
 まもなく浴室から都筑さんが出てきた、Tシャツと短パンという格好で……。館内着みたいなのがあるよ、と教えてあげる。
「俺これでいい」
 せっかく気を遣ってあげたのに。まあいいか、少年には少年の少年らしい過ごし方があるのだろう、どうせ一泊のことだし好きに過ごしてもらいましょう。
 シャワーを浴びてから開襟シャツを着て腰巻きを巻いた。鏡を覗くと随分と現地に溶け込んだイメージの私がいた。
 それにしても、と思う。トイレにも、浴室にも、部屋の隅にも、プラスチックというものが見当たらない。たいていの調度品は、木か石か、布か陶器でできていた。天然素材。宿る神様も随分と居心地がいいんじゃないかと思う。東京の私のマンションなんかにはとてもじゃないけど滞在してくれないだろう、バリ島の神々は。
 ソファに枕などを移して寝床を設えていると、都筑さんがやってきて言った。「やっぱり俺がこっちに寝るよ」
 見ると真一文字の唇、毅然とした表情だ。
「女をソファに寝かせるわけにはいかないよ、先生ベッド使いなよ」
 男らしい台詞じゃないの、と思った。思って甘えることにした。実は私生理になってしまったようで……、できたらベッドで寝たい……。だから言った。「ありがとね、じゃあ私ベッド使わせてもらうね、眠れなかったらいつでも起こしてね、あと夜のお薬のんだ? まだ? じゃあのんで、のんだら朝までぐっすり寝ちゃってくださいね、朝になったら帰りの飛行機手配するから……、すぐにまた自宅のベッドで眠れるようになるからね、ごめんね」
 都筑さんは頷いてリュックのポケットからピルケースを取り出し、中の睡眠導入剤をのんだ。
 さてさてこれで完了、と天井を見上げた。
 歯を磨き、腰巻きを開いて生理用のナプキンを確認し、都筑さんにおやすみを言ってから天蓋付きのベッドに倒れ込んだ。今日はくたびれた……とても眠い、明日になったらフロントで写真を見せて尋ねてみるのだ、佳祐のこと……何かわかるといいな……。
 だなんて思いながら眠ったからだろうか、夜中に目を覚ましたときベッドサイドに立っている人影を佳祐だと思ってしまった。佳祐、と声を掛けた。そしたら人影はゆらりと揺れて、それから踵を返して歩み去った。連れてって、と思った。佳祐、私も連れてって……。思いながらまた眠りの波にさらわれて、気が付いたらもう朝だった。
 蝉が元気よく鳴いていた。

 七

 朝食を済ませてバリ島のコーヒー、バリコピを飲みながら考えた。まずはこのあと成田行きの便を押さえて、それから都筑さんが荷造りをしている間にフロントで佳祐のことを尋ね、何か情報がもらえたらそれを土産に都筑さんとタクシーで空港に向かおう……うまくいけば今日中にデンパサールを発つことができる。
 バリコピの粉っぽさに少しむせる。
「風邪?」と都筑さんがなぜか薄く笑いながら尋ねる。
 ちょっとむせただけだ、と応えると、「風邪だったらよかったのに」だなんてことを……。「そしたらもうしばらくここにいれたかもしれないのに……」
 真ん丸の目だ。ほんとにカエル人間みたい。
 大丈夫、ちゃんと帰れるから、と私は意地悪く反対のことを言った。
 でも、しかし、だけど軍配は都筑さんに上がるのであった。
 フロントで驚いた。デンパサールでテロ……、とのこと。昨今の世界情勢は不安定だからそういうことも起きるのかもしれないが、でもよりにもよってこんなときに……と悔しく思った。フロントの女性は自らの英語を頼りなく思ったのかもしれない、タブレットを取り出し私に突き付け、自分で情報を取れ、というジェスチュアをした。
 検索する。今朝早くデンパサール空港の近くで大規模な爆破テロ、二十一人が死亡、負傷者多数、混乱は収まっていない……。
 発着便を調べる。全て運休……復旧の目処は立っていない……。
 気の毒に思ったのだろうか、よく日に灼けたフロントの女性、タブレットを貸し出してくれると言う。敷地内ならどこでもインターネットに繋がるのだそうだ。テレマカシ、と言ってタブレットを借りた。
「中国製だね」と都筑さん。「それたぶん防水のやつだよ、風呂場でも使える」とすっかり長居を決め込んでいる。
 でもまあ確かにこうなったら帰国どころじゃない。患者さんを危ない目に遭わせるわけにはいかない。ご両親に電話して騒ぎが収束するまでウブドに滞在することを報告しよう。
 テロだなんて……そんな危ないところに患者さんを連れてきちゃうだなんて、どうして私はこんなに駄目人間なのだろう、都筑さんのお父様もお父様だ、こんな私に大事な息子さんを預けるだなんて何を考えているのだろう?
 悩む私とは反対に妙に元気な都筑さん。「ねえ今日はどうするの? 近くに美術館があるみたいだね、ロビーのパンフに案内があったよ、俺バリ絵画って見てみたい」
 フロントで佳祐のことを尋ねたい。でもそれを都筑さんに知られたくはない。大事な人の影に招かれて……、とかそんな曖昧な言い方でごまかしてきたのだ、今さら詳しく話す気になんてなれない、佳祐との日々を、彼の突然の消失を、その後の私の脱け殻のような日々を……。そう、患者さんにカウンセリングしてもらうわけにはいかないのだ。
 カウンセリング、と思った。都筑さんは言った、バリ絵画に興味があるのだと。いいかもしれない、治療を絵画療法的な次元に深めるチャンスかもしれない、時間もあるし、よし日中は訪ねてみるか、その美術館とやらを。
 ヴィラに戻った。昨夜は暗くてよくわからなかったけれど、陽の光の中で見る我らがヴィラは実に神秘的なまでに荘厳だった。積み上げられた、均一でない色合いの石の壁は、その繋ぎ目を緑色の苔で飾っていた。魔物の侵入を防ぐためだ、と八木さんが言っていた狭い扉は、開くとき、閉めるとき、いちいちぎいぎいと派手な音がした。外部からの侵入者を知らせるための工夫なのだ、とこれも昨夜八木さんが教えてくれた。中に入ると、大理石と思われる床が水面のように光を跳ね返している。ソファもテーブルも床の艶やかさの上に船のように浮かび上がって見えた。そしてソファの上にもテーブルの上にもベッドの上にも、ルームメイドさんによるサービスなのであろう……、仄かに香る赤い花が、ごくごく自然に散らされていた。
 新しさとは真逆の価値に包まれて、心はほぐされ、意識は沈み、感覚が冴えて、感情が募り、そして何かが体の芯を上昇した。ヴィラは、本来の体と本来の魂を目覚めさせる装置のようにも思えた……。
 壁に埋め込まれたクローゼットに向かって歩んだ。扉を開き、中から服を選んだ。選ぶほどの枚数を持ってきているわけではないのだけれど……、暑さに耐えられそうな一着に着替える。
 そして都筑さんと連れだってまた狭い扉をくぐって外へ出た。
 出てすぐ……踏み出したその足元に、神々へのお供えなのであろう、椰子の葉に盛られた色とりどりの瑞々しい花……。
 庭を抜け、門扉を開けて小道に出ると……そこにも椰子の葉を器に花、花、花……。葉っぱの上にだけ鮮やかな色が宝物のように集まっている。花を摘む手の祈りを思った。濃密な夜が明けた朝、人々は花を摘み、供えて、また来る夜に備えるのかもしれない。
 小道を歩ききり、ホテルを出て、少し大きな通りをさらに歩く。マキシワンピに汗が滲む。黒い服はこれしか持ってきていない。生理中だから一応念のために黒を着ることにしたのだった。でも黒ってわりと汗が目立っちゃうんだよなあ、……だなんて思いながらテロのことや佳祐のことやカエル人間のことなんかを棚上げにする。考えたってしかたがない。待ってさえいれば時は来る、そしたらちゃんといろんなことがわかる……。
 離島の小学校を思わせる美術館だった。ギャラリーカフェを擁した校庭サイズの広い庭があり、平屋の、木造校舎のように感じられる簡素な展示館があった。都筑さんの、小学生みたいにあどけなく見える背中を追って入場した。少なくはないバリ絵画が並んでいた。都筑さんは思った以上に熱心で、絵の一枚一枚に十分過ぎる時間を掛けて……、だから私は退屈してしまった。そんな私に気が付いたのだろう、待ち合わせの時間を決めよう、と少年は言った。調子は十分によさそうに見えた。なので、出口に一時間後、と約束をして別れた。
 独りは気楽だ、大小の、さまざまなテイストで額装された絵画たちを眺めながらふらふらと歩いた。色彩が鮮やか過ぎるわけでもない、タッチが荒々しいわけでもない、かなり素朴で穏やかな感じ……、そんな絵に囲まれてなんだか寛ぐことができた。
 外から蝉の声……。バリ絵画って蝉の声にマッチしている、と思う。淡々と、しかししみじみと、深いところに切実な想いを秘めて何かを語っているような作品たち……。
 通路の曲がり角……木陰みたいにひんやりとした場所に、群れからはぐれたかのように一枚の絵……。どこかで見たことがある、と思ったら、そうだ、ホテルのロビーに飾られていた絵、あれに似ている、おそらくは同じ画家による同じテーマの絵なのだろう。歩みを止めてしばらく眺める。
 いいな、と思った。そんなに大きくはない、淡い色彩の絵。手前に白人女性……、林の中で空を見つめている、たぶん空だ、角度的にそう思う。思いつめたような表情で見つめている。空に何が見えているのだろうか? 少し後方に、インドネシア人だろう、まだ幼さの残る少年がいる。後ろから女性を見つめている、熱っぽくて、でもどこか悲しげな眼差しで。切ない。女性の表情が切なくて、少年の瞳が切なくて、ああもしも私が空ならば……、と思う。彼女を包み込むだろう、彼を包み込むだろう、そっと包み込むだろう……。
「この女、いけすかないねえ」
 声に向かって振り向くと、四、五十代と思しき男性がいた。紳士とは形容しがたい格好をしている。額にサングラス、頬には無精髭、膝の破れたジーンズ、それから素足にサンダル……。日焼けした顔に皺を作って目を細めている。
「いやいや、お姉ちゃんのことじゃあないよ、俺が言ってんのはさ、この絵の中の女のことだよ」
 絵の中の女? 絵に視線を戻す。いけすかない?
 どうしてですか? と尋ねてみた。私には素敵な女性のように見えますけど。
「あんた、ここ初めてかい?」
 また振り向いて男性に向かって頷く。
「俺何度もここ来て、もう何回もこの絵見てっからね、だからちゃんとわかんだよ、この女さ、後ろのガキの熱い視線に気付いてやがんだよ、で、それなのに知らんぷりしてあらぬほうなんて見てんのさ、でもって、なんだろ、自分に酔ってやがる、な、いけすかねえだろ?」
 言われてみれば……、と再び絵に向き直ってから思う。確かに女性はその耳の辺りで背後の少年を意識している……ようにも見える。上を仰ぎ見ながら、同時に背中で後ろの少年を捉えている……ようにも感じられる。なんでだろう、そういうふうに眺めると作品の印象は一変した。
「あんた日本人だってすぐにわかる背中してんだな、こっちに来たばかりか?」
 昨夜着きました、と応えた。
「どうりでね、トーキョーの匂いがプンプンしてら、トーキョーは相変わらずトーキョー砂漠か?」
 トーキョー砂漠?
「俺ずいぶん帰ってないんだ、飛行機苦手でね」
 こちらでお仕事を?
「いや、してないよ」
 ずいぶんとお金持ちでいらっしゃるんですね。
「放蕩してんだよ、これでも昔は企業戦士やっててね、がしがし稼いでたら金たんまり貯まっちゃって、で、俺一人くらいなら十分食わせてけそうだから……まああとは死ぬまで放蕩しまくることに決めたわけ」
 結構なことで、と思った、が声には出さない。
「ああ駄目だ限界だ、カラータイマー鳴ってる、じゃあな、もう行くから、俺タバコ吸えないとピコンピコンなんだ、だから飛行機苦手でさ、だもんだから帰国できないんだ、あ、それともあんた一緒に外のギャラリーカフェ行くか、喫煙所ってうら寂しくっていけねえや、コーヒーでも飲んでジンセー語り合っちゃうか?」
 今朝のバリコピを思い出した、悪くない、私もコーヒーが飲みたい、でも。
 都筑さんの丸い瞳を思う。
 毅然とした調子で断った。連れがいるんです、待ち合わせしてるから。
「ふうん、男か?」
 距離感のおかしなおじさんだな、と呆れながら応える。ナンノブユアビジネス。
「ふんふん、わかった、退散するよ、その絵のさ、即自なふりして対自な女にあんたちょっと似てるかもな、そんなふうな肩してるよ、あんたさ、もっと力抜きなよ、らしくなれよ」
 ソクジ? タイジ? インドネシア語かしらね?
「サルトルだよ」と放り投げるように言うと彼は振り向きもせずに歩み去った。
 サルトル? わけがわからない。ジェネレーションギャップってやつか?
 佳祐もずいぶん歳上だったから話の合わないことがたくさんあった。彼の常識は私の非常識で私の常識は彼の非常識だった。
 待てよ、と思った。都筑さんから見たら私もさっきのおじさんみたいにうっとおしい存在だったりするのかな?
 かもなあ、とか思いながらもう一度絵を眺めた。いけすかない、か。そんなふうに見えなくもない。でも絵の中の女性、あるいは蝉の声に聴き入っているだけかもしれない、少年には全く気付いていなくて。そうだ、そのように見ればそのようにも見える。
 絵から離れて一歩を踏み出す……と、また蝉の声がはっきりと……。
 私はインドネシアの夏にいる。

 八

 月に百四十時間くらいだったかな、残業、平均するとね……、とランドクルーザーの助手席で佳祐は語った。除夜の鐘は会社で聞いてたし、元旦の朝飯は会社の向かいのデニーズで食べてたな、馬鹿みたいに働いてたよ。
 漫画雑誌の編集者だった頃の思い出話だ。
 有名な漫画家さんにも会った? と尋ねると、聞いたことのある偉人の名前を挙げて、誰それ先生とは駅前の立ち食い蕎麦を食べただとか、別の誰それ先生とはゴルフ場で喧嘩をしただとかそんなことを語った。そういうのが彼の日常だったのだろう。
 よく働いたけどよく遊びもしたよ、と言って佳祐は鼻を鳴らした。朝起きてさ、六時くらいから車飛ばして海行くわけだよ、首都高とヨコヨコで三浦の突端までとかね、で泳いでさ、そんでまた大急ぎで九段下まで帰るわけ、平日だからね、そんでバルコニーに出て貝とか食べる、泡盛を牛乳で割って飲む……、そうこうしてるうちにやっとお目覚めの先生方から電話が入るようになるからそしたら戦闘開始だよ、午後から歩いて出社する、神保町の会社まで。そんで夜中の二時か三時くらいまで働いて、場合によってはそれから飲みに付き合って、カラスに睨まれながら帰宅する……。朝帰りの翌日なんかはさすがに昼まで寝てるんだけど、二時とか三時に帰れた翌朝はまた泳ぎに行ってたな。
 タフな人生だったんだね、と感想を述べた。でもそれだけ働いてたくさん稼いでたから……、だからランクルが買えるほどの賠償金が出たんでしょう?
 結構もらってたんだよ給料、でもその内の四割かな、それくらいは税金に持っていかれる、だからまあ手取りは全部レジャーに消えてたってわけ。ところが事故に遭ってさ、そしたら生涯の逸失なんたらってのが算出されて……、で、相手の保険会社が賠償してくれたんだけど、いやもうびっくり、稼いでた額のどれだけ倍よって額が支払われてさ、一度にドンとだよ、ほとんどもう漫画の世界だったね、一夜にして事故長者ってやつだよ、申し訳なくてしょうがない。
 彼は退職してダイバーになった。
 仕事、無理なんだよ、歩けないと無理なんだ、編集の仕事に足なんて関係ないぞって言ってくれた先輩もいたんだけどさ、でも実際無理なんだ、草野球したい先生もいらっしゃるしパチンコに通いつめたい先生もいらっしゃるし、そういうのに同行できない担当なんて泳げないカッパみたいなもんだよ、役に立たないわけ、だから辞めて海とか好きだったからダイビング始めて、陸上のあらゆることから逃げ出して深いとこに引きこもることにしたわけ、ま、鴨長明みたいな心境だよね、西行とかさ、陶淵明とかね、海の底に庵を構えたんだ、もう人間は誰も訪ねて来ない、マンタやナポやジンベイなんかが遊びに来てくれるだけ、静かでなかなかいいところだよ。
 聞いていてあまり気持ちのよい話ではなかった。ちょっと嫌いになりそう、とさえ思った。
 でも海に着くと佳祐はいつもの佳祐だった。何も語らずただただ瞳をキラキラさせてた。そして潜ると魚のように優しくなった。陸上の重力から解放されて安心しているようにも見えた。そんな彼が好きだった。
 海の気持ちを思った、彼を包む海の気持ちを。海になりたかった。今佳祐はヌサペニダの海に抱かれているのだろうか。ヌサペニダに嫉妬した。
 夏が来ると、だから私は焦れた。私の中でも蝉が鳴くのだった、切々と、激しく、苛だたしげにワンワンと、もうどうしようもないくらいに……。なだめる言葉を私は持たない。だから鳴くに任せてやり過ごしてきた、長いことそうしてきた。決まった時間に起きて、ちゃんと朝食を作り、電車に乗って通勤し、たくさんの患者さんの話に耳を傾けた。私は私を私の役割にはめ込んで動けないようにしたんだ。
 そんな私を蝉は責め続けた。
 とても苦しかった。

 九

 ギャラリーカフェで簡単な昼食を済ませてから美術館の敷地をあとにした。
 ヴィラに戻ると都筑さんは、くたびれが出たのだろう、昼寝をすると言い出した。睡眠を欲するときは徹底的に寝たほうがいい。彼の病気はそういう病気だ。
 ベッドを使ってもらう。ゆっくりたっぷり休んでほしい。
 彼が眠ったらフロントに行って佳祐のことを尋ねてみよう。
 時計を見ると午後の二時、バリ島二日目の太陽はまだ高いところで輝いている。特にやることはない。フロントで貸してもらったタブレットで情報収集に励むことにする。
 テロについて調べた。犯人側からの要求に政府は回答を躊躇っていた。事態の収束にはまだしばらく時間が掛かりそうである……。
 それからヌサペニダについて調べた。サヌール港から高速船で一時間ほどのところにあるダイバー憧れの聖地である……が、一方で一般の観光客はほとんど訪れず、それゆえに手付かずの自然が豊富に残っている。マンタやマンボウと七十パーセントの確率で遭遇できると言われている。流れが速くドリフトダイブが主流で、そのため初心者には向かない。……前世紀の初頭にはたくさんの画家がヨーロッパよりやってきて、この地をテーマに絵を描いた。また太平洋戦争においては日本軍による南方進出の有力な拠点となった……。
 ベッドの方を見る。小さな声で呼んでみる。返事はない。
 というわけで、自由時間。
 図書室に行ってみよう、と思い付いた。チェックインのときに説明があったが、スモールライブラリーがあるらしい。ヌサペニダの写真集なんかもあるかもしれない。ヌサペニダの海を大きなサイズで見たかった。図書室からの帰りにフロントに寄って佳祐の写真を見せることにした。
 ヴィラを出て、庭を歩き、門を出て、カエル人間に、行ってきます、と告げた。都筑さんをよろしくね、見守ってあげてね。
 フロントの近くに建つ宿泊棟の一階……、苔むした石造りのゲートをくぐり、涼しい廊下をしばらく行くと突き当たりが図書室だった。
 こじんまりとしているがエキゾチックで、清潔で、なかなか素敵な場所だった。この時間の利用者は私だけ……、悪くない、今度から独りになりたいときはここに来よう。
 ブックエンドは石造りのカエルだった。カエル人間じゃなくて……、ぴょこたんと跳ねて移動する普通のカエル。
 背表紙を確かめながらしばらく歩くと、果たしてあった、ヌサペニダの大判の写真集。取り出してデスクの上で開く。
 綺麗だ、なんてありふれた形容だけど他の言葉が思い付かない。コーラルブルーの海、イルカの背鰭を思わせる切り立った山、岩に囲まれた潮溜まり……。海中の写真も眺める。ギンガメアジの群れ、数枚のマンタ、バラクーダ、ナポレオンフィッシュ、それから惚けた顔したマンボウと、ドロップオフ沿いの壁をドリフトしているダイバーたち。
 佳祐も見たであろう海を食い入るように見た。
 でも……、と思う。写真は写真だ、本当の海じゃない、本当の海は冷たくて、温かくて、太陽の光が移ろって、はたまた暗くて、深いところはもっと暗くて、静かで、優しくて、ときに厳しく……のっぴきならなく自然なところなんだ。
 行きたい、潜りたい、すぐにでも。
 図書室を出て、足早になる自分を確かめながらフロントに向かう。
 機内誌を見せてインドネシアの女性に問う。この車椅子の男性についてあなたは何かを知らないか?
 知らない、と女性はあっさり首を横に振る。
 行方不明の知人を捜しているのだ、と伝えた。そのためにはるばる日本からやって来たのだ。
 呼ばれて現れた男性スタッフもやはり同じように首を振った。
 がっかりしている私の肩を優しく叩いて彼は約束してくれた。冊子をコピーして他のスタッフにも見せて、集められる限りの情報を集めてみる……と。
 お願いします、と頭を下げた。そしてチョコレートバーよりは喜ばれそうな紙を数枚差し出して、彼の白い歯を眺めさせてもらった。
 尋ね人は日本人だ、足が不自由だ、でもダイバーだ、おそらくはヌサペニダで潜っていたと思われる、英語はあまり上手じゃない、そしてひたむきな目をしている、と伝えた。
 スタッフは真剣な面持ちで頷きながらメモを取ってくれた。
 もう一度頭を下げてからフロントをあとにした。
 ヴィラに戻る途中、楽器の響きを耳にした。ガムランではない、もっと乾いた軽い音……。
 足を止める。音の出所を探る。5と書かれた門扉の向こうから聞こえてくるようだ。扉は半分開かれていた。
 と、楽器の伴奏に歌が加わった。
 どこかで聞いたことのある歌だ、と思ってから気が付いた。日本語だ、日本語の歌を誰かが歌っている。メロウな歌。男と女がどうこう、ってそんな歌詞だ。
 覗いてみた。どんな人が歌っているのか気になったから。
 するといきなり声が掛かった。「フー、アー、ユー?」
 あ、すみません、と応えてから言い直す。ソーリー、アイム、ジャスト……。
「なんだ日本人か」と声は語った。それから「おやおや、お出ましか、こちらにご滞在ってわけか」と続いた。
 見ると、迷彩柄のTシャツを着た白髪混じりの男が、庭の石に腰掛け、悪戯っぽく笑ってこちらを見ていた。サルトルだ、美術館にいた男。
「入れよ」と手招きされた。
 門をくぐる。
「飛んで火に入る夏の姉ちゃん、ウェルカム、トゥ、マイ、ハウス」
 いけすかない、と思った。絵の中の女性なんかよりあなたのほうがはるかにずっといけすかない。
「小僧も一緒か?」
 都筑さんのことだろうか? 首を横に振る。なぜ知っているのだろう?
「カフェで飯食ってたじゃねえか、ああゆうのが好みなんか? ちっこいの、白豚みたいなの」
 失礼な男だな。
「俺、ナツハラサトル、五十三才、国籍日本、無職、独身、逮捕歴なし、あと何が知りたい?」石の上に腰掛けたまま男はそう言った。
 尋ねてみた。今の歌なんですか? どこかで聞いたことあるような……。
「えっ、知らないの?」とサルトルは歌手の名前と歌のタイトルを言った。「この大ヒットソングをユードンノウ?」
 知らない。初めて聞く名前だ。
「じゃあこれは?」と彼は別の曲を弾いた。年上の女性に憧れる男の子の気持ちをいくらかユーモラスに歌った歌。こっちの歌は聞いたこともなかった。同じ歌手の歌なのだろうか?
「おいおい、ほんとにジャパニーズかよ、アーユー?」
 ジェネレーションギャップである、世代が違い過ぎるのだ。
「まあいいや」と言って彼はウクレレを膝に置き、私に向かってウィンクした。「俺ここに住んでるようなもんだから、何か困ったことがあったらいつでも来いよ、助けてやるぜ」
 ソレハアリガタイ。変なおじさんに絡まれて困ってるんです、と、そのうち相談することになるかもね。ああ、同じホテルだったなんて……、まあこの辺りってそもそもあんまりホテルがないみたいだからやむを得ないんだけど、それにしたってバッドニュース。……だなんてサルトルの日英チャンポンがうつってしまったようだ。
 またいつか今度は新しめの歌を聴かせてくださいね、と伝えて手を振った。
「はいよ、シーユー、達者でな」と言ったら彼はすぐにまたウクレレで今度はハワイアンソングを弾き語り始めた。インドネシアでハワイアン、実に頓珍漢でそれはもうくらくらしてしまうくらい。
 かいまなひぃらぁ、とか口ずさみながら八番ヴィラへと続く坂道を下った。コロコロとしたウクレレの音色も、シャワーのような蝉の声にあっという間にかき消された。
 帰り着き、カエル人間に、ただいま、と告げた。
 積み上げられた石の壁の間に窮屈そうに挟まっている狭い扉を開けて室内に入る。
 ……と、目の前にある光景に一瞬我が目を疑った。
 驚いた。都筑さんが床に這いつくばっている!
 額には脂汗が浮かんでいた。
 駆け寄る。助け起こそうとする。手を取って体を引っ張ると、とても苦しげに低く呻いた。続けて「痛い」と言った。
 どこが痛いの? 何があったの?
「寝てたら腰が……、急にグキッとなって」
 腰が?
「間に合わない」
 間に合わない?
「トイレ行きたくなって、頑張って這って行こうとして……」
 状況を理解した、差し迫った尿意と腰の痛みと、その両方が都筑さんに玉の汗をかかせているのだ。
 私は走った、浴室に走った、陶器製の洗面器を両手で抱えて寝室に戻った。
 ここにしなさい、しちゃっていいよ、私あっち向いてるから、急いでやっちゃって。そう伝える。そして後ろを向く。
 痛い、と呟きながらも何やらごそごそとしている様子を背中で確かめる。
 しばらくすると「出た、間に合った」と声。
 振り向く。頑張って短パンを引き上げたらしい都筑さんがまた床に転がっている。
 待っててね、トイレに捨ててきちゃうからね、と言いながら洗面器を持ってトイレに向かう。うっすらと黄色い液体をトイレに流して一段落だ。
 寝室に戻ると都筑さんが目を閉じている。
 痛い? と尋ねる。
 みっともない、と彼は応えた。
 みっともなくなんかない、私研修のとき介護とかも経験したし、だからこんなのなんとも思わない、そう伝えて少年の手を取る。
 でも彼は立ち上がることができなかった。痛さが尋常でないらしい。
 フロントに電話して事情を話した。救急車を呼んでもらった。スタッフが八番ヴィラ宛に担架を届けてくれるとのこと。
 十五分後、やって来たのは車椅子だった。大柄のスタッフが心配そうな顔で私たちを見ている。スタッフの手を借りて都筑さんをなんとか車椅子に乗せる。腰を曲げるのがひどく痛そうだ。担架が古くなっていたんで申し訳ない、とスタッフは言った。
 救急車に同乗してガバメントホスピタルとやらに向かった。
 政府系の病院だというから勝手に工場のように無愛想な建物を想像していたのだが、着いたのはまるで寺院のように厳かな佇まいの病院だった。庭先の……プルメリアだろうか、白くて香しい花が私たちを迎えてくれた。痛みを癒す香り……都筑さんにも届いたと思う。
 日本の古民家のような、ぎしぎしと音の鳴る廊下を行くと受付があり、事情を話すと整形外科を案内された。
 診療科の前で待つ。他に待っている人はいない。すぐに診てもらえそうだ、と安堵しているとやがて呼ばれた。車椅子を押して診察室に付き添う。
 ベッドで寝てたら急に腰が痛くなったんです、と英語で伝えた。グキッ、と都筑さんが擬音を付け足した。
 医師は患部に手をやり、都筑さんの反応を確かめ、それから両手を広げて首を横に振り、メモ用紙に何やら書き付けた。手渡された紙には、strained back とあった。
 strained back?
 看護士がタブレットを貸してくれた。なんだかよく登場するな、タブレット、インドネシアの昨今の慣習なんだろうか?
 strained back を和訳してみる。
 そうかな、とは思っていたけどやっぱりそうだ、ギックリ腰。
 何か重いものを持ったか、という医師の質問を通訳すると都筑さんは首を横に振った。無理な体勢をしなかったか、という質問に対しては、なぜだろう、黙ったまま目を伏せた。なんにせよ……、と医師は大きな声で私に言った。薬も効かないし手術もできない、湿布でも貼って大人しく時を待つように。
 私は頷いた。
 さらに医師は丁寧な発音の英語でこんなことを言った。今後痛みは時間とともに激しくなる。しかし安静にしていれば三日後くらいからいくらかよくなる。しかし普通に歩けるようになるまで一ヶ月は掛かる。痛みは長ければ半年取れない。でも命に別状はない。後遺症も残らない。
 私の知識とほぼ同じだ。頷くしかなかった。
 看護士が、湿布が出ますからね、と言って退室を促した。立ち上がる私たちの背中に医師は付け足すように言った。激しい運動は絶対に禁止です。
 ともあれよかった、ひやりとした、またまた親御さんに報告しなくてはならない、テロが収束してもこれでは飛行機に乗れない、七時間もシートに座っていたらもう降りられないだろう、痛みが引くまで安静にして……ひたすら時を待たなくてはいけない。
「ごめんなさい」としおらしい調子で都筑さん。旅に出てから躁転気味だった彼だが、日本にいた頃のようになんだかまた縮こまってしまった。
 構わない、ホテルは快適だしこの際ゆっくり療養しよう、と励ました。メンタルの疾患にとってもそれは悪くない選択である。
 かくして旅は同行介護の様相を呈してきた。
 なんてことない、と私は気楽に考えようとした。けれども事態は予期せぬ方向に大きく舵を切るのであった。

 十

 医者の言った通りだった。時間とともに痛みは激しさを増した。ベッドに寝た都筑さんは気を付けの姿勢のまま指先以外を動かせなくなってしまった。体を捻ったりすると激痛が走るようだった。
 かわいそうに、と思った。ベッドサイドに付き添ってフロントが用意してくれたチューブ入りゼリーを飲ませてあげた。都筑さんは赤ちゃんのように、おっぱいを吸うみたいにしてゼリーを飲んだ。ゼリーは無敵だ。食べ物でありながら同時に飲み物であるからすごくありがたい、首を動かすことのできない都筑さんはコップの水さえ飲めなかったから。水分補給に加えてビタミンが摂れてミネラルが摂れてカロリーも補えてエネルギーも吸収できる。これさえあれば三日は持ちこたえられそうだ。三日くらい経ったら痛みもいくらか弱くなるらしいからそれまではずっとチューブ入りゼリーに頼ることにしよう。
 問題はインプットではなくアウトプットの方だった。ゼリーしか摂らないので排便の方はなんとかなりそうだったが排尿の方はどうしようもなかった。オムツを穿かせたらいい、とフロントは言ったがそれは最後の手段である。なんとかもう少し恥をかかせないやり方はないものか?
 思い出したのは佳祐のあれだった。佳祐以外の男のそれは硬く尖ったものしか扱ったことがなかったが、佳祐のそれは私に実にいろんな姿を見せてくれた。私はそれを手乗り文鳥みたいにも扱ったし、消防車のホースのようにも操った。あれはヤガラって魚に似ていて、ピンと尖ったかと思うと別のときにはクニャリと急に軟らかくなったりするのだ。都筑さんはトランキライザーも常用しているし性欲もほとんどないはずだ、だからホースみたいにそれを曲げて、腰の脇に寄せた洗面器に向けてやりさえすればよいのだと思う。オムツを穿かせるよりずっといい、簡単だし清潔だし。
 ゼリーを飲む都筑さんの頭をそっと撫でたり、その胸を優しくトントンと叩いてあげたりしていると……時は来た。尿意が八十パーセントにまで達したらしい。善は急げだ。洗面器を用意して、それから都筑さんのズボンとパンツをなるべくそっと、体幹に振動を与えないようにゆっくりゆっくり下ろしていった。
 観念しているのか少年は黙ってされるがままになっていた。痛みが激しくて何も考えられないのかもしれない。
 が、驚いた、パンツの下から現れたそれは予想に反して真っ直ぐだった。ピンと尖ってしまっている。ツンと突っついてもヤガラのようにクニャリとなりはしないだろう。これでは曲がらない。
 見ると都筑さんは真っ赤な顔をして歯を食い縛っている。恥ずかしいのだろう。
 どうしよう、と考えて研修のときに習ったことを思い出した。
「古今東西!」と私は大きな声で言った。「お寿司のネタ! じゃ私からいくよ、マグロ!」
 都筑さんは黙っている。
「言わなきゃダメだよ、ちゃんと考えて。例えばコハダとか……。じゃあコハダね、そしたら私はね、イクラ!」
 都筑さんは小さな声でタマゴと言った。それでいい。
「じゃあ甘エビ!」
 都筑さんは、イカ。
「ハマチ!」
 タコ。
「シメサバ!」
 ……カッパ巻き。
「大トロ!」
 ……アナゴ、かな。
「うん、いいね、じゃあヒラメ!」
 あ、ええと……。
「よし、もういいよ」と私。左手で素早く洗面器を、右手で軟らかくなったホースを掴む。「ごめんね、痛いと思うけど体ごとちょっとだけこっち向いて、そうそう、いいね、上手だね、……よし、いいよ、出して!」
 少しずつ彼は排尿した。
 陶器製の洗面器がずっしりと左手に重かった。
「もういい? ちょっと待ってね、タオル敷くから」
 用意していたタオルをホースの周りに敷く。
 いくらかこぼれた。でもタオルのお陰でシーツは汚さずに済んだ。
「待ってて、新しいタオル持ってくるからね」
 洗面所に行き、ふぅと息を吐き、鏡に向かってにっと笑ってみせてから、お湯に浸けて絞ったタオルを手にベッドに戻った。入浴できない都筑さんのために体を拭いてあげる。寝返りが打てないので前だけだけどいくらかさっぱりするでしょう。
 パンツを穿かせて短パンも穿かせる、ゆっくりと。
 都筑さんが溜め息をついた。
 私もつきたい、くたびれた。これって大変なことだ、これがあと何回続くんだ?
 ゴド……、と私は小さな声で呟いた。

 十一

 深夜困惑した。神様、カエル様、なんならサルトル様でもいい、助けてください。
 二回目の排尿でちょっと大変なことになってしまった。医師として女としてどうしていいのかわからない。
 同じようにやろうとした、一度目と同じように。でも同じ海況の海が二度ないように、生き物の生理も常に同じなわけではない。そのことを思い知らされた。
 古今東西のセカンドアタック……今度は世界の首都をお題にした。東京、ニューヨーク、パリ、ロンドン、北京、ソウル、アテネ……、ところが唱えても唱えてもホースは硬いままだった。おかしい。そんなはずはない。都筑さんは薬をのんでいる、薬はプロラクチンを上昇させて、その結果として必然的に性欲を減退させ……、と考えてから気が付いた、しまった、そうじゃない、彼に処方しているのはDSだ、五月から処方を変更していたんだ……、頭の中で薬剤の注意書きを読み直す、と、そこには副作用としてのリビドー亢進が一パーセント以内の確率で認められる……との表記があった。ドーパミンスタビライザーは、ときに性欲を通常の精神薬とは反対に高めてしまうことがあるのだ……。
 都筑さんは黙って堪えている。
 泣きたい気持ちになった。
 でももちろん泣いている場合ではない。私は医者なのだ。患者さんは今排尿したがっている。
「先生……」
 うん、ごめんね、苦しいね、出したいね、じゃあタオルに出しちゃおうか、ちょっと待ってね……と言っているうちに都筑さんは暴発してしまった。
 何が起こったのか一瞬わからなかった。
 白いのが出てしばらくしてから透明なのが出た。タオルでそれを吸収できるだけ吸収した。シーツを汚してしまったけれどなんとか排尿できたのだと思う。
 それにしても……。
 天井でゲッコーが鳴いた。沈黙を埋める言葉を探した。ごめんね、ひどいことしたね、と謝った。
「ごめんなさい、俺……」
 いいから、何も言わないで、代わりに聞いて、私ね、最低なんだ、あのね、あなたがのんでる薬にはね、性欲を昂らせちゃう副作用があるの、百人に一人くらいがそうなっちゃうの、私ったら主治医だったのにね、ずっと気付いてあげられなくて……。
 都筑さんは気を付けの姿勢のままで聞いていた。そして「よかった」と掠れた声で言った。「俺、先生のこと思うと診察中も……、ゴールデンウィークが明けたくらいからずっと、夢の中でも……」
 いいのよ、薬の副作用だったのよ、お薬替えましょうね。
「美術館でも俺、先生の黒い服見てたら……、だから歩けなくなって……」
 知らなかった、男の人ってそうなると歩けなくなるの? 佳祐なんて最初っから歩けなかったから、だから私全然知らなくて……。
「歩けないから、絵見てるふりして先生に先に行ってもらって……」
 そうだったんだ、ちっとも知らなかったよ。
 都筑さんのそれを見た。安心したのか、くたっとしている。かわいらしい、と思った。もうパンツなんて穿かなくていいよ、隠す必要なんてない。
 視線に気が付いたのだろうか、都筑さんが言った。「先生、俺エッチしたことないんだ」
 そう?
「先生とやりたい」
 ……それは無理だよ、でもありがとうね、エッチはしてあげられないけどちゃんと面倒見てあげるからね、安心してね。
 痛がる彼を励ましながら横を向かせて、濡れたシーツを剥がした。腰回りを絞ったタオルで念入りに拭いた。
 ベッドルームを出て洗面所に行き、手を洗いながら考えた。この国で手に入るトランキライザーを明日、何が何でも入手しよう。都筑さんにはそれをのんでもらう。確かに突然の変薬はリスクを伴う……、でも看過できない副作用を目の当たりにしてほかの選択肢はない……。そしてなるべく早く彼を日本に連れて帰るのだ。
 ナプキンを替えた。生理中私は昂らないタイプだ。今が生理でよかった。排卵日近くだったら冷静でいられなかったかもしれない。ともあれ彼は私が守ろう。そして今度のことが終わったら医師免許を捨てよう。

 十二

 ベッドの上の少年はもうパンツも穿かず、彼のそれは硬くなったり軟らかくなったりを繰り返した、まるで独立した生き物のように。水棲生物みたいに見えるそれは私たちのペットにも思えた。日に何度か排尿のお世話をした。
 四日目の朝、都筑さんは這うようにしてトイレに行った。私はドアの外で待った。まもなく出てきた少年は指を丸めてOKサインを作った。
 チューブ入りゼリーも卒業だ。ルームサービスで届いたインドネシア料理を彼はなんとか独力で食せるようになった。
 けれどもまだ立って歩くことはできなかった。痛みに顔をしかめることも度々だった。
 薬は結局入手できなかった。方々に電話して頼んでみたのだが、診察なしでの処方は当たり前だけれどインドネシアでも無理な相談だった。やむを得ず恥を忍んで国際電話を掛けてかつての同僚を頼った。薬をホテルに送ってもらえないか、と懇願した。本当はいけないのだけれど……、と困惑しながらも彼は、二週間分の薬を送ります、と請け負ってくれた。
 テロの影響が気掛かりだったが一週間もすれば届くだろう、新しい薬をのみながら腰がフライトに耐えられる程度に回復するのを待てばいい。そう思ったら気持ちが楽になった。
 独りでトイレできるから、と都筑さんが言うので昼御飯までの時間を図書室で過ごすことにした。一人になりたかった。
 炎天下を歩く。タンクトップとショートパンツで。もう今さら都筑さんの目を気にする必要もなかった。
 歩きながら、ふと死にたいと思った。見上げる空が海原に見えた……。
 図書室で一時間ほど写真集を眺めて過ごした。お昼までにはまだもう少しある。
 帰りの坂道を下っていたら涙が止まらなくなった。
 なぜだろう、五番ヴィラの前で立ち止まった。門扉を押してみる。開いた。中に入る。庭には誰もいない。なんだっけ、と思った。サルトルの本名が思い出せなかった、確かにこの前聞いたはずなのに。
 躊躇っていると、気配を察したのかヴィラの扉が内側から開いた。狭い隙間からサルトルがこちらを見ている。「フーアーユー?」と彼は怒鳴るように言った。
 名乗った。高田比佐子、三十二歳、無職、独身、既往歴なし!
「よし、入れ!」
 言われて私はたたきを抜けて狭い扉に進み出た。
 サルトルは室内に消えた。
 影を追うようにして、狭い入り口から中に入った。カゲヲオウヨウニシテ、セマイイリグチカラナカニハイッタ。
 私たちのヴィラと似たような造りだった。手前にリビング、奥に剥き出しのベッドルーム。
 意外なほどに片付いていた。
「ウェルカム」とサルトルは言った。
 微笑もうとしたけどうまくいかなかった。
「何か飲むか?」と問われて、ミネラルウォーター、と応えた。
 サルトルは頷き冷蔵庫まで歩き、それからビールを二本持ってソファに戻ってきた。私の隣に腰掛ける。
 ミネラルウォーター? と尋ねると、ビンタンビール! と彼は応えた。選択肢はないらしい。ビールをいただくことにする。
 瓶を傾けながらサルトルが言う、目だけはこちらに向けたまま。「困ったことになっただろう?」
 曖昧に頷いた。
 彼も黙った。
 蝉の声。
 窓からの太陽光を背中に浴びながらシルエットは言った。「どこを痛めたかそれは問わない。おまえに必要なのは外の世界だ」
 外の……、世界……?
「すべてはおまえの外にある」
 外に……、ある?
 私も瓶を傾けた。甘くて苦い味がした。
「だなんて女に言っても無駄か?」そう言ってサルトルは立ちあがり、赤茶色い木枠で囲まれた大きな窓に向かって歩んだ。
 後ろ姿に向かって呟くように言う。「助けて」
 振り返った男にまた言う。「お願い」
「服を脱げよ」と男は言った。

 十三

 不思議なセックスだった。私は何度も果てたのに、男は一度も果てなかった。
 時計を見るともう一時近かった。二時間も繋がっていたことになる。信じられない。五日目だったから少しだけど出血もした。シーツを汚してしまった、でも……。
 男の隣で天井を見つめながら私はこれまでに感じたことのない幸福感に満たされていた。もう何も怖くない、とさえ思った。
 静かな交わりだった。男の呼吸は乱れなかった。男は腰を動かさなかった。私の腰が動きそうになると男は微かに首を振ってそれを制した。私の中で男は硬くなったり少し軟らかくなったり、また硬くなったり、目まぐるしく変化した。私が果てると軟らかくなり、私が昂るとまた硬くなって、そうして私を繰り返し満たした。
 途中で脚が痛くなったが次の波が来ると痛みを忘れた。なんだか海になったような気がした。
「したことのないセックスだった」と呟くと、「セックスじゃない」と男は言った。「タントラだ」
 タントラ?
「チベット密教だ」
 チベット?
 よくわからないが、たぶんそう悪いものじゃない。だって私とても元気でポジティブになったから。
「女は器だから」とサルトル。「中身がないんだ」
 中身が……ない、嫌なふうには響かなかった。意味を考えるには頭がふやけ過ぎていた。
 ふと我に返った。帰らなきゃいけない、都筑さんが待っている、と思って私は下着を着けた。タンクトップを被ってショートパンツに足を突っこんだ。
「また来いよ」と男は言った。
 もう来ない、と私は応えた。
「また来るよ」と男は言った。
 扉を外に向けてくぐろうとすると、私の背中でサルトルが言った。「尋ね人って、ピヨだろ?」
 ピヨ……!
 振り向いた。どうしてそれを……?
「フロント前のロビーに貼られてるぜ、車椅子の日本人ダイバーを捜してますって紙がさ。捜してる日本人ってのはあんただろ? あんたであり君でありおまえであり高田比佐子だろ?」
 中に戻ろうとする。あなたは佳祐を……?
「また今度だ」と言って彼は私の肩を押し私の体を外に出した。「次来たときに教えてやるよ」
 五番ヴィラの扉が閉められた。体は外に出たけれど心はまだ扉の向こうだった。
 不思議な具合に満たされた、はち切れそうな体が坂を下った。やけに遠くから蝉の声……。泳ぐような気分で私は私たちのヴィラを目指した。
 見上げると空は凪いでいた。
 遅くなってごめんね、と言いながら八番ヴィラの扉をくぐる。すると……、中の少年が慌てた。動ける範囲で勤しんでいたらしい。
 様子を見て状況を理解した私は、尖っているそれと少年に向けて言った。「シャワーしてくるから」
 ちょうどよかった。私は私の大人の汗を洗い流す。都筑さんに気付かれるわけにはいかない。
 それにしても……、とシャワーを浴びながら思う。替えの薬早く届くといいな、これじゃあ彼の身がもたない。
 石の器の中で泡立つ白い石鹸を見つめた。
 鏡の中の、水滴の付いた体を見る。知らない誰かの体みたいだ。器、と思った。私の中の……、と思った。
 シャワーを止めて、首をぐるぐると回した。髪を拭きながら五番ヴィラを思い出す。あれはいったい何だったんだろう?
 五十三歳と十八歳……、それから永遠の四十五歳、と思ったら軽く目眩がした。私の人生いったいどうなっちゃってるんだろう?
 薬が必要なのは私なのかもしれない。

 十四

 リビングに戻る。ベッドルームの少年に、出たよ、と声を掛ける。
 パンツと短パン、自分で穿けたようだった。
 電話を掛けてルームサービスを頼む。
「外に出たいな」と少年が言った。
 あとで散歩に行こうか? と誘ってみる。
 彼は嬉しそうに立ち上がったが、うまく歩けずまた座りこんだ。
 まだ無理だ。一ヶ月はかかる、と医者も言っていた。
 少年は四つ足で這った。「昼飯、外のテーブルで食べたい」と言いながら扉を目指して進んでゆく。
 それはいい考えだ。先回りして扉をくぐる。半室内のたたきに据えられた分厚い天板のテーブルの上をウェットティッシュで拭いた。少年が出てくるのを待ち、肩を貸し、痛がる彼をなんとか椅子に座らせた。
 座ってしまえばもう痛くないようだった。
 彼は何も喋らない。私も何も喋らない。ただ蝉だけが激しく何かを訴えている。蝉の気持ちが私にはわからない。
「俺を産んだ女にさ……」と言葉が、ポツリと雨のように降ってきた。「俺、もうずうっと会ってないんだけど……」
 スコールになる気配を感じながら、カルテに記された家族表を思い浮かべた。実のご両親は彼が小学五年生のときに離婚している。
 少年は下を向いたまま続けた。「なんか会ってもいいかなって、さっきちょっと思った」
 産みの親について彼は、寂しそうに笑いながら語った。
「まだ幼稚園の年少組だった頃、爪をね、ペンチでこう挟む真似して、一枚一枚剥がしてゆくぞって言うんだ、脅しだったんだろうけど、言いながらあの女笑ってるんだ、目をキラキラさせて笑ってるんだ」
 虐待、と思う。彼の傷口が露になった。傾聴しなくてはいけない。頷いて続きを促した。
「俺、怖くなって泣いてさ、そしたらあの女、泣くな、って言ってぶつんだ、黙れ黙れ、って言って……、だから俺歯を食い縛ってね、必死で泣くまいとするんだけどやっぱり泣いちゃって、そしたら、泣いたな、って言ってまた叩くんだ、だから、黙った黙った、って何度も言ってまた歯を食い縛るんだよ、そしたら今度はあいつ、叱られてるのになんで黙ってるんだ、って言ってまたひっぱたくわけ、ひどい女だよ、泣いても叩くし黙っても叩く……」
 ダブルバインドというやつだ、これをやられた子供はてきめんに精神をやられる。
「俺思い出したんだよ、先生に優しくされてさ、あのクソみたいな女がそれでも時々は優しかったってこと……」
 都筑さんの目を見ながらまた頷く。
「先生にそうやって見てもらってさ、俺のこと見てもらってさ、全部見てもらって……、俺嬉しくて、でもそういえばあの女も俺のこと見てくれてたなって、ずっと見てくれてたなって……、親父とは違うなって」
 幼い彼は訴えた、母親からの虐待を……泣きながら。けれども父親はそれを無視したのだという……。
「親父あの女に金だけやってさ、冷たく追い出して……、そんで今俺を育ててくれてる母ちゃんには金もやらないでさ、自分はベンツ乗って高いブランデー飲んでるくせに母ちゃんにはラーメン一杯食う金もやらないでさ、だからパートやって必死で稼いでんだよ、母ちゃん……」
 私は器になる。物語により満たされるべき器に……。
「あの女もさ……、たぶん親父に優しくされてなかったんだろうなって。だから俺を叩いたのかもしれないなって……」
 空港で頭を下げていた都筑さんのお父様を思った。
「俺、学校行けなくなったとき、苦しかったんだ、消えちゃいたかったんだ、ぎりぎりだったんだよ、でも崖っぷちにいる俺に親父は言ったんだ。息子は二人いるんだ、って。長男は死んだものと思う、って。おまえは数の内に入っていない、って……」
 投げ付けられた言葉を少年は、一言一句正確に記憶していた。
「なるべく早く家を出たいんだ、そんでさ、自立したら俺会ってみようと思うんだ、あの女に。で、訊いてみたいんだ、あんたは俺の本当の母ちゃんなのに、なんで俺をいじめたのかって、ちゃんと訊いてみたいんだ」そう言って少年は涙を流した。
 彼はひとしきり静かに泣いた。
 折悪しくそこにルームサービスが届いた。ボーイさんが怪訝そうな目で私たちを見る。泣き笑いの表情で都筑さんは私を見て、そして舌を出した。私も彼にウィンクを返す。それを見てボーイさんはほっとした様子で立ち去った。
 と、雨上がりの虹みたいに都筑さんが言った。「先生ヤキソバにしたんだね」
 うん、と頷く。
 すると彼は涙を拭きながら、「俺のチャーハン少しあげるから、ヤキソバちょっとくれるかな」だなんて。
 抱きしめたくなる。抱きしめる代わりに深く頷いた。
 腰が痛むのだろう、なるべく体を動かさないようにしながら彼はぎこちなくスプーンを手に取った。
 目顔で伝えてスプーンを受け取る。私が運んであげるから。
 都筑さんは鳥の雛みたいに、池の鯉みたいに口を開ける。そこにナシゴレンを運んであげる。今日はいいから、と思う。たくさん甘えていいから、たっぷり優しくしてあげるから。
 鳴いてもいい、鳴かなくてもいい、と蝉に伝えてあげたい。
「ヤキソバも食わせて」と言って少年は無邪気に笑った。

 十五

 私には事情があって父親がいない。幼い頃から基本は母との二人暮らしだった。母はファッション雑誌の編集をしていて、編集長に昇格する以前から、デザイナーだとか、カメラマンだとか、ライターだとか、いろんなスタッフを家に連れてきていた。面倒見のよい母はスタッフを何ヵ月も家に住まわせることがあった。春にいたデザイナーさんは夏になると新顔のライターさんに部屋を譲ったが、秋になると今度はカメラマンさんがやってきてライターさんの部屋を引き継いだりした。彼女たち、そして時には彼はたいていの場合母の恋人になった。私はいつでも邪魔者だった。
 自室に閉じこもって私は毎日毎日絵を描いた。油絵も描いたしコミカルなイラストも描いた。将来は画家か漫画家になればいい、と母の恋人たちは口を揃えて言った。でも私は心理職に就きたかった。中学生の頃からそう思っていた。病んでいたからかもしれない。当時よく描いていたのは大きな耳が足に付いているウサギの絵だった。ウサギは耳が邪魔でちゃんと跳ねられなくて、だから耳を羽ばたかせて飛ぶ……。耳のない頭はタンポポの綿毛みたいに見えた。風任せのウサギ……。来る日も来る日もそればかりを描いていた。今から思うとあれは私だったんだと思う。分析するまでもない……。思春期の後半になって家を出た。女子校の寮に入って正月休み以外は家に帰らなかった。……母は今でも若い恋人たちと暮らしているのだろうか。自由で、そしていくらかかわいそうな人だと思う。
 父がいたら、と思うことがある。父なら私たちをちゃんと守ってくれただろうか?
 ……というような話をサルトルにした。させられた。
 一週間ぶりに訪れた五番ヴィラでサルトルに、「ピヨについての物語を聞きたいのなら……」と挑戦的に言われた。「まずはおまえの物語を一つ語れ」
 言われて自然と口をついて出てきたのが親の話だった。
 彼はビールの小瓶を傾けながら話を聴いた。聴き終わると何も言わずに私を抱いた。
 なぜだろう、私は彼のなすがままになった。
 二度目のそれも不思議な交わりだった。奇妙な静けさに満ちていた。何かの儀式のようだった。向き合って、繋がって、ほとんど動くこともなく、長時間じっとしているだけだった。なのに私は数え切れないほど達した。そして彼は一度も果てなかった。
 彼を通じて何かが入ってきた。最初それは私の下腹部で揺らめいていた。私は欲情した。でもほどなくすると何かは私の中を上昇し始めた。お腹まで上がり、少し躊躇うようにしてから胸まで上がった。するとどうだろう、肉体的な欲望はもはや微塵もなくなった。あるのは温かで穏やかな、愛とでも呼べそうな何かだった。愛は胸で咲き、私はひどく幸福な気持ちになった。それから愛は私の中をさらに上昇した。何かを突き抜けるようにして喉に達して、そしてついには眉間に達した。ビジョンが表れた。大樹だった。宇宙にまで達するほどに高い古木が私を貫いていた。
 何度も波が来て、引き、また打ち寄せた。
 気が付くと、終わりなく思えたそれもいつの間にか終わっていた。
 満ちた私をメロディが包んだ。
「ピヨがやってきたのは南半球の夏だった……」と言葉に直すとメロディはそんなふうに響いた。「当時の俺はペニダに夢中で、マンボウと泳いでマンボウを捕らえてマンボウを食っていた。新入りは歩けないくせに深く潜った。いや歩けないからこそ深く潜ったんだろうな。やつの潜水は瞑想的だった。静かに、深く、ひたすらに潜る感じだったよ。誰もやつより深くは潜れなかった。人間だとはとてもじゃないが思えなかった。でも陸に上がると陽気なやつで、あっという間に俺らの真ん中になったんだ。おまえの話よくしてたよ。ドクターなんだぜってちょっと自慢げだったな。俺より英語がうまくて、運転も上手で、おまけにちゃんと二本足で歩くんだ、とか言って笑いを誘ってた。真面目なやつだったよ。地元の女にたいそうモテてたけど、ほらあのスマイルだろう、その気になったら入れ食い状態だったんだろうけどあのバカ、俺には日本にバディがいるから、とか抜かしやがってただの一度も俺たちに付き合わなかったんだ。いや俺たちはまあ普通に楽しんでたよ、現地の女と結婚したやつもいる、でもピヨは、右足に必要なのは左足で左足に必要なのは右足だ、とかわけのわかんないこと言いやがって、まああれだよ、たぶんおまえがピヨの片足だったんだろうな、そういうことだよ」
 ビールがなくなって彼は立ち上がった。影が彼のあとをついて歩いた。影の右足が前に出て、左足が前に出て、また右足が前に出ると左足が前に出た。冷蔵庫まで歩いた。「高田比佐子ももう一本飲むか?」とサルトルは言った。
 首を横に振って断った。そしたらミネラルウォーターを持ってきてくれた。
「流れが悪かったんだよ……」と声はまた語り始めた。「深いところに嫌な流れがあったんだ。やつのバディは逃げるようにして浮上してきた。それで俺たちに助けを求めた。みんな飛び込んださ。でも無理だった、並の人間が行けるところじゃない。捜索隊が出て、三日ほどかな、ペニダにしちゃよくやったって言えるくらいに頑張って捜してくれたんだけどフィンの一枚すらみつからなかった。GPSも壊れてたからどうにも追跡のしようがなかった」
 言葉はそこで尽きた。言葉の不在を蝉の声が強調した。
 連れてって、と私は言った。彼が消えた場所に……。
 蝉の声がまた部屋を満たした。

 十六

 八番ヴィラに戻った。
「遅かったね」と都筑さんが言った。
 図書室に行く、と言って出掛けていたのだ。
 なんだか絵を眺めたくなったから美術館まで足を伸ばして……、と嘘をついた。サルトルとのことは秘密だ。
 都筑さんはまだ歩けない。ほぼ一日中をベッドとソファで過ごしている。
「先生を訪ねてお客が来たよ」と窓の外を見ながら彼は言った。
 お客?
「これ置いてった」
 え?
 都筑さんが差し出したのはダイビング用のグローブだった。
 サマーグローブ。黒地に二本の線が入っている。赤い線とオレンジ色の線。
 驚いた。覚えがある。これは佳祐のグローブ……?
 都筑さんを見る。と、彼はまた外を見た。
 左手用のグローブだ。手をあてがってみる。やっぱり佳祐のサイズだ。
 これどうしたの? と尋ねた。
「置いてったんだ、カエル人間が、先生にって」と言いながら振り向いた都筑さんの目がおかしい。片方の眼球は外に、もう片方の眼球は上に片寄っている。
 駆け寄る。顔を覗き込む。焦点が全然合っていない。
 カエル人間……、彼がこの言葉を口にするのは二度目だ。一度目は飛行機の中だった。思い出したのだろうか、最初の発作を……、あのとき目にしたものを。そして今日また見たのか、あの日と同じ幻覚を……。
 頓服を、と慌てた。薬をのんでもらわなくては……。
 急かすと、言われるがままに彼はリュックの中からピルケースを取り出した。意識はしっかりしているようだ。運動能力も正常。腰をかばってはいるもののリュックを開ける手付きに特別な異常は感じられなかった。
 こういうとき問いつめてはいけない。患者さんが目にしたものを否定してはならない。その話題に触れないようにして様子をみる。鉄則だ。
 何か日常的な話をしたほうがいい。
 美術館でね、と言った。私が気に入ってるのは白人女性を後ろから見ている現地人男性の絵だよ、都筑さんも見たかな? そう? あれどう思う?
「別に、普通……」と都筑さん。「でも女の人、悲しそうだったね」
 そうかな、私には後ろの少年の方が悲しそうに見えたんだけど……。
「あんなやつ、カエル人間に食べられたらいい!」
 また出た、カエル人間。どうやら彼はその存在を疑っていないようだ。これは典型的なパターンだ。
 気分はどう? くたびれてない? そう、じゃあ少し休もうか、睡眠薬のもう、それで少しお昼寝しよう、と言って都筑さんをベッドに促した。
 素直に従って彼は薬をのんでベッドに入った。
 カーテンを引いて暗くする。
 しばらく休ませる、そして目覚めてからもまだ思い込みが継続していたら、やむを得ない、現地の病院に緊急入院だ。
 薬が効いたのだろう、ほどなくして寝息が聞こえてきた。胸を撫で下ろす。
 グローブを手に、部屋の隅のドレッサーに行って座る。鏡の中の自分に声を掛ける。落ち着け私、私は医者だ、彼を助ける……。
 鏡の中の私が目を細めた。緊張しているときの彼女の癖だ。
 ……でもそのためにはまず届けられたグローブの謎を解かなくてはならない。都筑さんの思い込みにどれだけの根拠があるのか見定めなくてはいけない。
 グローブを見る。似ている。佳祐のグローブにそっくりだ。左手にはめてみる。指先が余る。脱ぐ。また見つめる。
 これはどういうことだろう? 鏡の中の私、不安な顔をしている。しっかりしよう、論理的に考えよう、このグローブが佳祐のものであるはずはない、彼は消えたのだから、フィンの一枚も残さず消えたのだから、だから今さら彼のグローブが私に届けられるはずがない。誰かのグローブが間違って私に届けられたのだ。ここまではいいよね?
 鏡の中の女性が頷いた、目をさらにいっそう細くして。
 さて届けたのは誰か? サルトルじゃない。サルトルは私といたんだから。じゃあフロントの人間か? そうか、そうに違いない、フロントが届けてくれたのだ、これを尋ね人の手掛かりとして……。あれ? だとしたらこれってホントに佳祐のグローブなのかもしれない。どこかで誰かに拾われていた彼のグローブ……。だとしてもフロントの人間を都筑さんがカエル人間だと認識したのはなぜだ? ……わからない。そもそもカエル人間って……、待て、そこから先は患者さんの世界だ、たやすく踏み込める領域ではない。ここまでだ、と思った。引き返せ、浮上しろ、これ以上は危険だ、私は医者だ、呑み込まれてはならない。鏡の中の彼女に向かってそう言ってから私は席を立った。
 9番を押す。フロントに繋がる。グローブを届けてくれたお礼を伝えて……それから詳しい経緯を尋ねようと思った。
 けれども……。
 もう私の手には負えそうになかった。
 フロントは言った、グローブなんて届けていない、と。
 深いところに嫌な流れがあったんだ……、と誰かの声が蘇った。フカイトコロニ、イヤナナガレガ……。

 十七

 受話器を取る。番号を押す。内線で電話を掛けた。他に頼る人がいない。
「忘れ物か?」と問われてなんだかほっとする。
 どうしたらいいのかわからない、と正直に告げた。それだけをまずは伝えた。
 サルトルは理由を尋ねなかった。「そろそろ満ちてくるからな」とだけ言った。
 ……満ちてくる?
「月」とサルトルは言った。
 高窓を見上げる。積み上げられた石の壁にぽっかりと開いている穴……。引かれたカーテンを通して月の位置が確認できる。
 受話器の向こうからサルトルが尋ねる。「ガキは眠っているのか?」
 なんでもお見通しなようだ。都筑さんはぐっすり眠っている。ベッドに動きはない。横目でそれを確かめてから単刀直入に尋ねた。カエル人間を知っているか、と。
 しばらく間があった。
 やがて受話器から、「見たのか?」と妙に静かな声が響いた。
 私じゃなくて少年が見た、と伝えた。飛行機の中でと、それから今日の日中このヴィラで。
「よくないな」と掠れた声が言った。「ガキにはまだ縁のない相手だ」
 カエル人間とは何か、と尋ねた。
「やつらはおまえを連れに来たんだ」
 どうして?
「そろそろ時が満ちるからさ」とサルトル。「明後日には満月だ」
 時が満ちるとどうなるの?
「おまえは出てゆくだろう、ここではない何処かへ、やつらに招かれて。そしてもう二度とこちらには戻ってこない」
 なんだかそれでもいいような気がする。だから言った。私がもしも消えたら、そしたら都筑さんをお願いします。
「ベビーシッターを頼めよ」
 彼にはまともな父親が必要なの。
「前世からこっち、まともだなんて言われたことはない」
 頼る人がいないの、と告白した。そして私には力がないの。
「満月の夜、来いよ」
 歌の歌詞みたいなことを言う。
「来たらおまえに……」と真面目なトーンでサルトルは続けた。「フォースを授けよう」
 都筑さん……どうなっちゃうんだろう?
「やつらの狙いはおまえだ、ガキじゃない」
 ……私はただ私を差し出せばいいの?
「そんなことは断じてするな」と力強くサルトル。「おまえはこちら側に留まるんだ」
 留まる? こちら側に?
「答えはおまえの外にある、中ではなくて」
 だからあなたに尋ねてるんじゃないの!
「俺は……」とサルトルは少し弱々しい声で言った。「すでにおまえの中にいる」
 視線に気付いて振り返る。と、ベッドの上で半身を起こした都筑さんがこちらを見ていた。
 慌てて受話器を置く。
 鬼のような形相で私を睨み付けながら都筑さんは言った。「やつらと話していたな」
 よくない、と思った。トランキライザーが効いていない。
「俺に内緒でやつらとつるんでいたんだな」
 痛みすら感じていないのだろう、立てないはずの少年がベッドを降りて立ち上がった。そしてこちらに向かって歩きだした。亀の歩みで、それでも一歩ずつ。
 こういうときにはどうするか? マニュアルに載っている。逃げるのだ。患者さんを、万が一にも加害者にしないよう念のために逃げる……それがセオリー。
 けれども私は逃げなかった。確かに、話してわかってもらえる状況じゃない。でも、だから、と思った。抱きしめよう、と思った。
 近づいてくる彼を待った、長いこと待った。
 扉が叩かれた。
 外から誰かが私たちの扉を叩いている。ソトカラ、ワタシタチノトビラヲ……。はっと我に返った。
 扉に向かって走る。内鍵を開けて扉を開く。
 サルトルだった。
 都筑さんが叫んだ。大きく目を見開いて、サルトルを凝視しながら。
 私も叫ぶ。大丈夫だよ、彼は私たちの味方だよ!
 サルトルは少年に向かって大股で近づいた。そして少年の頭をくしゃくしゃと撫でた、何も言わずに乱暴に撫でた。猛獣使いがライオンに接するような雰囲気があった。厳しく、優しく、サルトルは少年を見つめていた。
「先生……」と言って少年は私の方を見た。
 駆け寄る。顔を覗き込む。目を確かめる。まともだ。まともな目に戻っている。
「先生!」ともう一度言ってから少年は私の胸に顔をうずめた。
 抱きしめる私の肩を男の手が抱いた。
 顔を上げると、カーテンを通した月の光がほんのりと明るく見えた。

 十八

 明日は祭りだってよ、とサルトルが言った。ウブドの夏祭りなのだそうだ。森の祭り。松明を燃やし、裸になって、仮面を被ってケチャというダンスを踊り、朝までガムランを響かせるらしい。死者を慰める祭り。
 都筑さんはまだ歩けない。だから私も部屋にいよう、と思った。私だけ楽しむってわけにはいかない。サルトルは出掛けるみたいだ。お土産を買ってくる、とか言っている。当てにはできない、と私は思うが都筑さんは喜んでいる。
 少年はサルトルを慕っている。サルトルなんてちっとも優しくないのに、と思う。でも少年の心はサルトルにがっちりと掴まれている。
 夕飯にルームサービスを頼んだ。私と都筑さんと、それからサルトルの三人で半室内のテーブルを囲む。
 アタという植物を素材に丁寧に編み上げられたランチョンマット、茶色く艶やかな楕円形のそれを三枚並べた。いつもは二枚なのに今日は三枚。テーブルの上が賑やかになった。
 サルトルはアラックをたくさん飲んだ。結構なアルコール度数のはずなのに少しも酔わなかった。
 石の灰皿から漂う煙。大人になったら俺も、と言う都筑さんに、インドネシアでは七歳から吸えるんだ、と嘘を教えるサルトル。私が叱る。
 トウモロコシのかき揚げが美味しかった。都筑さんの口に運んであげようとしたら、いいよ、と言って断られてしまった。男の子は、腰をかばってギクシャクしながらも食事を頑張った。サルトルの目を意識して強がっちゃって、と、おかしく思った。
 デザートにランブータンを食べよう、とサルトルが言った。ヴィラの中のリビングテーブルに移動した。
 男二人は漫画の話で盛り上がった。私の知らない漫画だった。
「またかよ、おまえは。それでもジャパニーズかよアーユー?」と久しぶりに日英チャンポンが飛び出した。
「プルはヒヨコの気象予報士でね……」と都筑さんが教えてくれる。「すっごく気が強いんだ」
 頷きながら私は爪でランブータンの皮を剥がす。
「ドラゴンランドには二つ頭の龍がいてね、右と左がいっつも喧嘩してたんだけど、プルの天気予報のお陰で仲直りして、それからは右も左も揃ってプルの家来になったんだ」
 真珠のような実が出てきた。食べてみるとライチに似た味がした。
 美味しいよ、と都筑さんを誘う。
「市場で買ってきてやったんだ、この俺が」とサルトルは自分の手柄をアピール、「おじさん、ありがとう!」という少年の言葉に目を細める始末。
 三人で仲良くランブータンを摘まむ。
「あれれ」と急に手を止めてサルトル。「ってか、あれじゃん、あれだよ、プルって確かピヨが担当してた漫画じゃなかったっけ、ああ、そうだよそうだ、ドラコンスクリューって技、あれピヨがゴルフ場で思い付いた技だってピヨそう言ってた」
 佳祐が担当していた漫画……、と思う。都筑さん、それを読んで育ったんだ。
「ピヨって?」とランブータンをいくつも頬張りながら都筑さんが尋ねる。
「こいつの……」と私を指してサルトルは「昔のボーイフレンドだよ」と言った。
 空気を読まない男だな、と思った。余計なことを喋ってくれちゃって。
「先生の……」と今度は都筑さんの手が止まった。「もしかして、大事な人?」
 頷くしかない。
「そうだった……」と少年は言う。「先生、その人に会いに来たんじゃなかったっけ?」
 また頷く。
「どこにいるの? その人」
 応えられない。
 私に代わってサルトルが応えた。「ペニダにいんだよ」
「ペニダ?」
「ペニダっつう海だ、こっからすぐだよ」
「いつ行くの?」と私に向かって都筑さん。
 困ってしまう。
「腰がよくなったら……」と、またもやサルトルが代わって応える。「三人で一緒に行ってみようや、ヌサペニダ」
 駄目です! と慌てて遮る。腰がよくなったら、いの一番に日本に帰るんだから!
「なんで?」と言いながら少年は丸い目をくるくると動かす。
 またもや応えられない。彼には病識が欠如している。そういう病気なのだ。
「いいじゃねえか、せっかく来たんだ、ペニダに行って軽く潜ってみようぜ」
「え、潜るの? 俺も?」
 無理だ、ヌサペニダは流れが速い、初心者が簡単に潜れるような海じゃない。そう思ったが口には出さなかった。どの道都筑さんを連れてゆくつもりはないから。都筑さんを日本に戻して、それから私は独りでヌサペニダに行く。
「ま、なんにせよ腰を治さなきゃな、話はそれからだ」と言ったサルトルに都筑さんはこくんと頷き、それから私を見て言った。「俺、独りで留守番できるからさ、だから先生、明日は祭りに行っておいでよ」
 祭りに興味はなかったが少年の気持ちが嬉しかった。
「せっかくなんだから俺の分も楽しんできてよ、その代わり……」と言って少年は真顔になった。「ピヨのことはもう忘れなよ」
 祭りと佳祐を秤に掛けちゃうあたり、なんとも無邪気でいろんな意味で泣けてくる。
「ふうん、じゃあ明日は俺がエスコートしてやるよ、森の奥深いところまで」と私にサルトル。「八時に五番ヴィラに来てくれ」
「お土産、よろしくね」と都筑さん。
 と、電話が鳴った。意味もなく身構える。電話に向かって歩き受話器を取る。電話の横には持ち主不明のグローブがぽつんと……。
 フロントからだった。日本からの郵便物が届いている、と早口のイングリッシュが伝えてくれた。
「親父め、なんか送ってきやがったかな」と都筑さん。サルトルの真似をして乱暴な口をきくようになってしまった。そういえば、と受話器を片手に思い出した。滞在中の生活費を送りたいと言われていた。帰国後の清算で構わないと伝えていたのだけれど気を遣ってくださったのだろうか……。
 受話器の向こうに差出人の名前を尋ねる、と、かつての同僚からだった。……やった、思ったよりも早く届いた。明日の朝から変薬しよう。そして薬がなくなる前に帰国しよう。
 いくらか明るい気持ちになれた。が、打ち上げられたヒトデみたいなグローブが目に入り、深いところが騒ぐのだった、焦れるのだった、本当はすぐにでも行きたい、何もかも捨てて行きたい、ヌサペニダへ。一刻も早く潜りたい、佳祐のいるところまで……。
 そんな私を後ろから、丸い目がじっと見ている……。それを私は背中で感じている……。

 十九

 排卵日だった。だからかもしれない。五番ヴィラに行ってすぐに私は服を脱いだ。
「タントラしてると……」とサルトルはシャツを脱ぎながら言った。「感度が高まる、やればやるほどまたやりたくなる」
 そうかもしれない。胸に花が咲くあの清浄な感じ、あそこに辿り着くためにはまずドロドロの欲に身を任せなくてはならない。
「蓮の花は……」と女を抱きながら男は言う。「泥土の中でこそ美しく咲く」
 始めると男はリンガになる。
 リンガというのは男性器のことだ、とサルトルが教えてくれた。そして私のはヨーニ。たぶんサンスクリット語だと思う。
 イメージする。リンガとヨーニ。私は溶けて器になる、ただの器に。リンガを包み込むヨーニになる。
 祭りが始まったのだろう、太鼓のリズムが伝わってくる、どんどこどこどこ、どんどこどこどこ。鉄琴の音色が絡む。ただでさえ高い排卵日の感度が、タントラの手法と祭りのリズムでこれでもかと高められ……たやすく達してしまった。でもリンガは果てることなくヨーニを穿っている。また波がやってくる。その波にさらわれる。私の中に何かが生じる。それを締めつける。きつく締めつける。何度も痙攣する。
 海の中にいた。海の中……のようなところ。重力を感じない。見上げると、海面の向こうで太陽が、優しく光って揺れている。
 遠いどこかで男の腕が、女の腰を抱いて持ち上げた。繋がったまま男は座る。座禅を組むように座る。その上に女も座って……。抱き合ったまま向かい合う。ヤブユム、と思う。虚ろな意識でそう思う。インターネットでタントラを検索したら出てきた。歓喜仏、ないしは父母仏の形。中を大樹が貫いている。
 プラーナ、と言ったか、これもたぶんサンスクリット語だと思うがそのプラーナだろうか、幹の真ん中を上へ上へと上昇してゆくのは。下へ下へと沈降してゆく意識とは逆に上へ上へと上昇してゆくプラーナ。
 どんどこどこどこ、どんどこどこどこ、リズムが誘う、何を、どこへ?
 何度目かの大きな波が来て絶望的な歓喜に包まれる。絶望的な歓喜……? 胸に花が咲き眉間で古木は宇宙を目指した。
 もうすぐだ、と思う。どこかで誰かがそう思う。
 突き破った。脳天を突き破り大樹は外に達した。
 真っ白。浮遊感。ここは宇宙なのだと思う。ふわふわと、ひたすらにふわふわと。
 このままこうしていたい、いつまでも。
 ……だが直後に蘇った。感覚が蘇った。重力に引き戻される。五番ヴィラに。怖くなり体にしがみつく、蝉のように、必死に。
 視覚も蘇る。見た。すると……!
 私の下に佳祐がいた。佳祐だった。かつてのように私は佳祐の上にいて彼を包んでいた。そのことに気が付くと快感の波がまた私を襲った。佳祐だ、佳祐と繋がっている。腰が動く、昔のように。
 手が……私の顔に伸び、頬を撫で、それから首に……。そして絞め始めた、佳祐の手が私の首を……。
 苦しい。でも、と思う。これが私の望んでいたこと?
 抗うことをやめる。見つめたい、と思って佳祐を見る。
 と、次の瞬間絞められていた喉は音のない悲鳴を上げた。
 ……カエル人間だ! 佳祐じゃない、私の下にいるのはカエル人間だった。
 指を掴む、水掻きの付いた指を引き剥がそうとする、振りほどこうとする。……逃げ出さなくては!
 けれどもヨーニは私の意志とは無関係にきつくリンガを掴んで離さない。
 また手が絞める。首を絞める。ヨーニも絞める、リンガをきつく絞める。
 死ぬんだな、と思った。
 扉が叩かれた。荒々しく叩かれた。外にいる。誰かがいる。
 外から誰かが中に入りたがっている。
 助けて、と叫びたい。叫べない。ずっとそうだった、子供の頃からずっと。
 と、私の下のカエル人間がやおら立ち上がった。私を抱えたまま扉に向かって走り出す。
 扉は内側から開けられた。外へ。私を乗せたカエル人間は外へ出た。
 暗闇。遠くの山々に松明の灯り。鉄琴の響き。太鼓のリズム。風に混じって生温かい匂い。
 目が慣れてきた。足元が見える。たくさんの足……。そうだ、私は取り巻かれている、たくさんの人々に……。もっと目が慣れてきた。闇に浮かび上がった顔には真ん丸の目……。カエル人間だ……、あいつもこいつも、あっちのやつもそっちのやつも、……みんなカエル人間だ!
 カエル人間が一斉に跳躍した、私に向かって……!
 気が付くと私はお神輿みたいに担がれて山道を登っていた。何十体ものカエル人間がいやらしい言葉を囁いている。ひそひそひそひそと囁いている。言葉が侵入してくる。耳を塞ぎたい。でも手は掴まれていて動かせない。されるがままに任せるしかなかった。
 カエル人間の行進が止まった。松明に囲まれた広場だった。
 突き倒された私にカエル人間たちが群がってくる。たくさんのリンガがたった一つのヨーニに向かって突っ込んでくる。
 今度こそ駄目だ、と目を閉じた。
 ……銃声!
 目を開く。
 カエル人間が倒れている。
 別のカエル人間の首に後ろから回された腕が見えた。そしてそのあと喉を引き裂かれるカエル人間の姿が見えた。
 血しぶき!
 あちらからもこちらからもカエル人間の断末魔の悲鳴が上がった。
 暗くてよく見えないが、たぶん辺りは血だまり。
「一匹たりとも逃がすな!」
 暗黒の森に響き渡った言葉は日本語だった。
 広場は包囲されていた、軍服姿の男たちに……。
 よく見ると彼らは旧日本兵だった。
 なぜ? と問う暇もなかった。捕まえられたカエル人間の首が今まさに切り裂かれつつある。
 やめて! と叫んだ。やめなさい!
 応えはない。
 吹き上がる血しぶき……。
 私は立ち上がった。カエル人間を捕まえている別の兵士に向かって近づいた。
 短刀をしまいなさい。もう殺すのはやめなさい。
 言葉は無視された。
 ……またしても血しぶき。不気味な悲鳴。
「なぜ止める?」と将校と思しき男が言った。
 かわいそうでしょ、と応える。他になんと言えばいい?
「女を捕らえよ!」と将校が命令を下す。
 旧日本兵の手が伸びて、私は捕まり、広場の端の大きな木に縛りつけられた。
「包囲!」と声が掛かると兵隊たちは私から離れて私の前方を扇形に囲んだ。
「名を名乗れ」と言われて応える。高田比佐子。
「どこから来た?」と問われて応える。日本から。
「本土から……、何をしに来た?」
 人を捜しに。
「どこへ行く?」
 ヌサペニダ。
 旧日本軍の兵隊たちがどよめいた。
「例の絵を見たのか?」と問われたが質問の意味がわからない。夜空を見上げた。南半球の空に知らない星座が輝いていた。
 そのとき背後の藪から音がした。小さな音。
 ……いる! 息を潜めてそこにいる。おそらくは生き残りのカエル人間……。丸い瞳を私は思った。
「質問に答えろ!」
 近づいてくる……、兵隊たちが近づいてくる。このままではみつかってしまう。背後に隠れた生き残りの命がみつかってしまう。
 挑発する。私は私に注意を引き付けるべく日本兵たちを挑発する。
 負けるのよ、太平洋戦争で日本は負けるのよ、東京だって空襲されるし、長崎や広島になんて新型爆弾が落とされるのよ、国土は廃墟になって、アメリカ軍に占領されて、それから……。
「構え!」と将校の号令が響き渡った。兵隊たちが一斉にライフルを構える。銃口は私に向けられている。
 空を仰ぐ、インドネシアの夜空を……。
「撃て!」
 たくさんの銃弾を受けて……、……カエル人間は肉片と化した。
 飛び出したのだ、背後の藪から跳躍したのだ、カエル人間が私の前に……!
 光のない丸い目玉が私を見ていた、私を見ていた!
 絶叫する!
 目の前にサルトルがいた。目を閉じている。
 私たちは繋がったままだった、ヤブユムの形で。リンガは中でまだ天を目指している。
 けれども呼吸をしていない、サルトルが呼吸をしていない。冷たい。
 首に触ってみる。脈が……ない。
 サルトルは時を止めていた、私の中で。

 二十

「事件性はないので……」と通訳が言った。殺風景な部屋だった。黒電話と扇風機が前世紀の遺物のようにあるだけだった。椰子の葉の器もそこに盛られるべき花たちも見当たらなかった。神様はもちろん魔物さえもが避けて通りそうな空間だった。
 地元の警察の、通訳付きの取り調べも終わりに近づいていた。
「もう帰っていただいて結構です。けれどもビザが免除されるのは三十日間ですから、期限が切れる前に出国していただかないと今回の件も含めて非常に面倒なことになりますよ」
 頷いた。
「ナツハラサトルさんの入院先はガバメントホスピタルです、面会は可能だそうです」
 また頷いた。
「それにしても……」と、いくらかくだけた調子で通訳は言った。「気功の一種かヨガの奥義か知りませんが、心拍を停止した人間がなお命を保つだなんてインドネシアではありえないことです、馬鹿げています、日本人はクレイジーです、このことをそのまま調書に残すことはできません、あなた方も他言無用です、ナツハラ氏は行為中の心臓発作で病院に運ばれたのです、そういうことになっています、死んだ人間が生き返ったりしてはならないのです、いいですね?」
 頷くしかない。
 目の前の公安の男の、首回りと脇にできている汗染みが妙に気になった。こんなところにはいられない、と思った。じゃあどんなところにならいられるのか、と考えた。どんなところにもいられそうになかった……。
「帰ってよろしい」と通訳が言った。
 どこへ……? と私は思った。
 思ったが、そんな思いとは無関係に私は解放された。
 警察署を出てすぐにタクシーを拾った。ガバメントホスピタルまで、と告げた。
 夏も終わりに近づいていた。ラジオを止めてもらう。窓を通して蝉の声を聴いた。
 空を見上げた、やっぱり窓を通して。雲一つない空、あくまでも青い空……。
 タクシーが停まった。料金を支払って夏に降り立つ。剥き出しの夏。窓の向こう、ではなく私のいるまさにここで鳴り響く蝉の声。絶叫のような響き。音に包まれて世界は白くなる。白く、白くなる。
 夏ってさ……、と佳祐が言った。白いんだな。
 何年前のことだろう? 八月の海で。
 青じゃないの? と私は言った。だってほら、青い海、青い空、雲は確かに白いけど、波も確かに白いけど、でも圧倒的なのは海の青、空の青……。
 富士山が見えていた。いく艘かのヨット。海は静かに凪いでいた。
 耳を澄ましてごらん、と佳祐が言った。じっと澄ましてごらん。
 波の音、カモメの鳴き声、それから蝉の大合唱……。
 耳を澄ましてるとさ、色が落ちてゆかないか? 世界の色が落ちてゆかないか? そう言って佳祐は空を見上げた。
 私もならって空を見上げる。
 わかったんだ俺……、夏ってさ、白いんだ、雪原みたいに白いんだ、永遠みたいに白いんだ。
 永遠、と思った。空を見ながら思った。青い空、見つめた、耳を澄ましながら……。
 どこまでもどこまでも、宇宙までも、もっとどこまでも、はるかにはるかに、はるかに空は……。
 そうか、そうだね、永遠なんだ、今このときはまっ白で、永遠で、からっぽで、世界もなくて、私もなくて、あなたしかいない……。
 俺もいない……、と空が呟いた。遠くで鳴る鈴の音みたいに。
 響く。
 ここが故郷なんだ、俺たちの、たぶん故郷なんだ……。
 故郷。
 だからね、と空は続けた。この真っ白な夏の中に、俺還るんだ、いつか還るんだ、神様がもういいよって言ったら、そしたら還るんだ。
 隣を見る。佳祐はまだ空を見上げている。
 連れてって、と私は言った。私もそこに帰りたい……。
 車椅子のタイヤがわずかに回った。
 だめだよ、と、もう歩けないダイバーは応えた。独りで還るから。サコにはまだ色付きの世界を旅してもらいたい。
 サルトルの病室は五号室だった。ヴィラも五番、病室も五号室、gogoとおかしく思った。
 ノックすると「カモン、ベイベ」と日本語の発音で。
 ドアを開けるとベッドの上で半身を起こしたサルトルが笑っていた。「そろそろ来るだろう、と思ってた」
 子供部屋のベッドみたいな小さな寝床にサルトルはいた。というよりも彼が大き過ぎてベッドが小さく見えるのかもしれない。サルトルが大きい、だなんて初めて思った。悪戯っ子のような彼はもっと小さい人かと思ってた。
 お元気そうで、と言うと、死にそうだ、と応えた。足りないんだニコチンが……、早く連れ出してくれ。
 いつものサルトルだ、と思った。パジャマ姿が滑稽に見えるだけで。
 長く掛かりそうなの? と尋ねると、いやいや明日には退院だ、と応えた。退院したらもう全く普通に動けるらしい。形式的な入院に過ぎなかったようだ。
「無罪放免か?」と訊かれて頷いた。「そりゃよかった」と言われてまた頷いた。
 ベッドに近づき彼をよく見る。やっぱりいつものサルトルだった。
「坊やはどうした?」
 ホテルのスタッフが面倒を見てくれている、と伝えた。
 サルトルは水差しの水を飲んだ。まるでパイプをくわえているみたいに見えた。それから「カエル人間に……」と窓の外を眺めながら言った。「会えたか、おまえもあの夜に」
 頷いた。でも彼はこちらを見ていない。応えなんてどうでもいいのだろう。独り言のように続ける。「瞑想してるとさ、たまに出てきやがんだよ、カエル人間」
 夢じゃなかったのだろうか? ……あの夜の記憶が蘇る。
「都筑の坊っちゃん、あれ病気なんかじゃねえよ」
 病気じゃない……わけがない、都筑さんの症状は典型的で、薬が著効するのだからそれすなわち病気である証……。
「タントラしてっとさ」と言いながらサルトルは私の肩の辺りを見た。「ドパドパ出やがんだよ、ドーパミンだかエンドルフィンだか知らねえが、そういうのがさ」
 ドーパミン、と思う。脳内物質の一つだ。
「おまえの中だってドパドパだったんだよ、あのとき、ドーパミン」そう言ってサルトルは私の目を見る。「ドパドパすっとさ、見えてくんだよ、見るべきものが見るべきときに、見るべき形で」
 私の前に飛び出したカエル人間を思った。撃ち殺されてしまったカエル人間。その丸い瞳。
「おまえってさ、なんてえの、ユルユルじゃねえか、なんでもかんでも受け入れやがって、そりゃおまえの水瓶はでけえだろうさ、たいしたもんだよ、でもな、毎日毎日いろんな患者のあんな苦しみやらこんな苦しみやら聴いて、でもってそれ全部受け止めてたらそりゃ底だって抜けるわな、俺の言ってることわかるか?」
 内側にいくらか寄り目になっている彼の目を真っ直ぐに見返しながら、曖昧に首を振ってみせた。
「おまえ偏見ねえし。ピヨのことも、坊っちゃんのことも、この俺様のことも当たり前みたいに涼しい顔して受け入れやがって……」と言って笑ったサルトルの顔は今まで見たことのないものだった。「だからってよ、カエル人間のことまで受け入れるこたねえんだよ」
 言葉を探す。見つからない。
 あれ? と思った。板張りの床に雨粒みたいに何かが落ちた。どうやら私の涙らしい。
 サルトルを見る。
 サルトルが見る。
 視線を逸らす。
 壁の時計を見る。天然木の丸い枠の中で秒針が時を刻んでいる……。
「どうしても行くのか?」とサルトルが言った。
 佳祐の笑顔が浮かんだ、ちょっと照れたような、ちょっと寂しそうな……。
 だから私は応えた。行く、と頷いた。
「しゃあねえな」とサルトルはまた窓の外を見て、「なら送ってくよ」と言った。

 二十一

 ホテルに戻ると都筑さんはいなくて代わりにお父様の使いの方がいた。
 長身の男性だった。この暑いのにスーツを着ている。
 ロビーのソファに座る。半畳くらいの大きさの四角いテーブルを挟んで向かい合った。
「ドクター高田、で、間違いはありませんか?」と男性は静かに言った。
 高田比佐子です、と応えた。この度は……、と言い掛ける私を制して男性は名刺を差し出した。大理石のようにひんやりと光る名刺だった。議員秘書の肩書きで、藤堂竜之介、とある。
「都筑先生の代理で参上いたしました」
 私は頷き目を伏せる。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「まずはこちらを……」と藤堂さんは白い封筒を差し出した。「小切手です」
 小切手?
「ご子息の滞在費と、それから謝礼です」
 受け取れません、と辞退した。そんな立場じゃない。
「お納めください」と言って彼は眼鏡のブリッジに手をやった。
 中を検める気にもなれない。封筒はテーブルに置き去りにされた。
「公安からの連絡に先生は少なからずご立腹しておられます」
 当然だ、と思う。どんなに叱責されても足りない。本当に……とまた謝ろうとする私の言葉に被せて藤堂さんは言った。「先生からのリクエストがございます」
 リクエスト?
「沖縄の本島から渡れる島に小さな精神科病院がございます」
 離島の単科病院をイメージした。
 彼は病院の名前を言った。
 知らない病院だった。
「そちらにご勤務していただきたい。こちらで推薦をいたしますので」
 話が見えない。
「そして診断書を書いていただきます、ご子息についての診断書です」
 都筑さんの診断書?
「自傷他害の恐れがある回復不能の精神病、と記していただきたく存じます」
 ちょっと待ってください、と驚いて言った。都筑さんの病気で犯罪を犯すような人はごく少数です、健常者に比べてもその割合は十分に小さく……と申しますか都筑さんに限っていえば他者を害する恐れは皆無と申し上げてよいと診ています、都筑さんには希死念慮もありませんし、自らを傷つけるような恐れも極めて小さく……「今回の件を……」と男は私の言葉を遮って言った。「公にされると困ったことになるのではありませんか?」
 公に?
「メディアを動かすことは簡単です。都筑先生のお気持ち一つであなたを社会的に抹殺できる、ということです」
 社会的に? 抹殺?
 ロビーに飾られている絵を見上げた。女を背後から見つめている若い男の……。
 お言葉ですが……、と視線を戻して言った。私にはもう失って困るような社会的立場はないのです、ですから……「世田谷に独りでお住まいでしたよね、お母様。お元気でいらっしゃいますか? 今のところは?」
 ……なるほど、そういうことか、と思った。すでに包囲されてるってわけね。銃口はぴたりと私に向けられている。
「これは取引です。選択の余地のない取引です。あなたは診断書を書かなくてはならない」
 なぜ? と訊ねた。訊ねなくても想像は付いたが一応訊ねた。どうしてそんな診断書を?
「ご子息には入院をしていただきたいのです、この先ずっと」
 離れ小島にね、と思った。要するに厄介払いだ。議員活動を続けるにあたって長男が精神病じゃ困るのだ、近場をうろうろされたら困るのだ、だから押し込めたい、見えないところに永久に。
「まもなくビザが切れる。あなた方は帰国する。それまでに手筈は整えておきます」
 私の診断書一つくらいで患者さんを強制入院させることができるとでも?
「都筑先生に不可能なことがおありだとでも?」
 言葉を呑み込む。飛び出して撃たれたカエル人間の……丸い瞳が脳裏をよぎった。
「あなたには離島に勤務していただきます。そしてご子息を生涯見守っていただきます」
 私を鎖にするつもりなんだ、都筑さんの自由を奪う鎖に。
「それでは失礼いたします……」と言いながら男は立ち上がった。「ご子息は今中央マーケットにおられます。ホテルのスタッフが車椅子を押しています。あなたとナツハラ氏の性的な逸脱についてご子息は何も知りません。ナツハラ氏は心臓発作で倒れていて……、これの第一発見者であるあなたは念のためにと呼ばれて事情を訊かれた、ということになっております」
 頷いた。その点については感謝するしかない。
 立ち上がり、議員秘書の背中を見送ってからまた座り込んだ。許せなかった、私は私を許せなかった。泣いた。泣いたってしかたがない、でも泣くより他にどうしようもなかった、子供の頃と同じだ、私は愚かで無力だった。
 どのくらいそうしていたのだろう。
「先生!」という明るい声に振り向くと車椅子の少年がいた。丸い瞳が私を見ていた。

 二十二

 何も知らない都筑さんと夕飯を食べた。半室内のテーブルで食べた。
 陽が沈むと日中の暑さは急速にその力を失い、蝉の声に代わって虫の音が、りんりんと、聴きようによっては妙に切々と庭に響き渡っていた。
 いつの間に着替えたのだろう、少年はピンクのポロシャツを着ていた。ひさしに設置されているライトからの光に照らされて、淡いピンクは時折コーラルピンクにも見えた。この旅で初めて見る服だったが色白の彼によく似合っていた。
 下を向いて茶色いランチョンマットをいじっている。もしかして編み目を数えているの……? と思ってしまうくらい長いこと、食事もそっちのけで彼は指先を動かしていた。
 食後マンゴージュースを飲んでいる私に彼は、ポケットから取り出した包みをくれた。
「市場で買ったんだ、先生に」
 開けてみた。中に入っていたのは……なんと、指輪だった。シルバー細工の太い指輪……。
 都筑さんの顔を見る。
 照れているのだろう、少年は顔を赤らめて、それでも精一杯の台詞を絞り出してくれた。「いつか俺働いて……、稼いで、そしたらちゃんとしたの買ってやっから、プラチナとか買ってやっから、だから今はそれで勘弁してくれ」
 喋り方、サルトルの影響を受けている。吹き出しそうになる。でも笑えなかった。鈍く光るリングの表面には刻字があった。
 My Love
 どんな気持ちでそんな言葉を刻んだのだろう、こんな私のために……。涙が出てきた。だから泣き笑い。
 はめてみて、と目顔で促され……、はめてみた。薬指には大きすぎた。中指にはめてもまだユルかった。一番太い右手の親指にぴったりだった。
 その親指を立ててOKサインを送った。
 少年は少年らしい顔で嬉しそうに笑った。でもあらかじめ決めていた段取りがあったのかもしれない、すぐにまた真剣な表情にスイッチして「比佐子って呼んでいいかい?」だなんて頑張ったかと思うと、「呼ばせてくれよ……、っていうか呼ばせてください」とまたいつもの少年らしい喋り方に戻ったりなんかもして……。「いつも俺先生のこと比佐子って呼んでたから、心の中では勝手にそう呼んでたから、だから……」
 いいよ、と言ってあげた。……比佐子って呼んで。
 そう言ってあげたのにそしたら却って戸惑っちゃったみたいで、中途半端な呼び方で少年は言った。「比佐子先生、俺、あのね……」
 はい、と応える。背筋を伸ばす。
「あの、俺、比佐子先生と、つまり……、……結婚したいんだ、それでずっと……、ずっと一緒に暮らしたいんだ」
 なんてストレートなプロポーズだろう。
「見ててほしいんだ、俺のこと見ててほしいんだ、しっかりと。そしたら俺頑張れるから、きっと頑張れるから」
 なんだろう、駄目だ、涙が止まらない……。上を向く。ひさしが見える。視線を横に移動させる。夜空が見える。星々……。
「お願いします!」という声に導かれてまた彼を見る。右手を差し出している都筑さんを見る。……目を閉じて歯を食い縛っている様子を見る。
 全てを脇に置きやって、握ってあげたい……そう思う。けれど、その右手を握る右手を私は持たない……。
 立ち上がる。椅子ががたりと音をたてる。ぴくりとした様子の都筑さんを残し、テーブルを離れ、狭い扉をくぐり、室内に戻って電話機の方に向かう。
 電話機の隣のダイビンググローブを掴む。
 グローブの腹で自分の頬を撫でる。目を瞑る。
 そしてそれを手に、扉を外に向かってくぐり、再びたたきに戻る……。
 半室内の椅子に座って、目の前の都筑さんをしっかり見て、彼の左手を取り、それにグローブを被せる……。
 少年は黙って、そして動かずにじっとしていた。
 持っていて、と告げた。預かっておいて、これ、あなたが。
 丸い瞳が驚いている。「だってこれ、先生の大事な……」
 お願い、と頼んだ。それから明後日……、と伝えた。ナツハラさんと一緒に三人で、ヌサペニダに行きましょう。
 色白の顔がパッと明るく輝いた。
「でも俺、まだ腰が……。もう随分いいんだけど、でも歩くとまだ痛くて……、だから体験ダイビングってやつ、まだできないかな、したいけどできないかな?」
 見てて、と言った。今度はあなたが私を見てて。ボートの上からちゃんと見てて。
「……見てたらなんかいいことあるの?」
 ミテタラ、イイコト……?
 視線を外して、また上を見た。ひさしの内側で何かが動いた……。
 あ、と少年の小さな声が響いた。
 ……ヤモリだった。照明の光を目指して這いずり出てきたのか……、親指ほどの体長の薄茶色いヤモリがいた。
 この旅で初めて姿を見た……。
 と、思っていると、その横に別のヤモリが這い出てきて……並んで……。
 もしも私が帰ったら……、とヤモリを見上げなから心の中で呟く。あなたのボートに帰ったら、そしたら私たちどこかの島に……、あなたのお父様からずっとずっと離れた小さな島に行きましょう。もしかしたらサルトルも来るかもしれない。そしたら三人でいつまでも……楽しく笑って暮らしましょう、絵を描いたり、ウクレレを弾いたり、美味しいご飯を分けあったりしながら……。
 ヤモリがまたもう一匹這いずり出てきた。ライトが描く光の輪の中に……三匹。
 だから……、とまた祈るように思う。見ていてください。佳祐の海に潜る私を後ろから、しっかりちゃんと……どうか見つめていてください。
 親指を強く握りしめながら視線を戻した。そして私を見ている丸い瞳に向かって応えた。いいことがあるかどうか……、それは流れ次第でしょうね、ヌサペニダの海と私たちの物語の流れ次第……。
 物語? と少年は首を傾げた。
 私も首を傾げてみせた、にっこりと笑いながら。

 二十三

 ダイバーズウォッチのベゼルを回して分針にゼロマーカーを合わせる。潜水時間を管理するためだ。
 佳佑の時計をウェットスーツの上から装着していた。素手にはユルユルだったけど、これならちょうどだ、ぴったりだ。
 赤い秒針を確かめる。一緒に潜ろう、と思いながら見つめると、艶消しのステンレススチールが淡く光を照り返した。
 海を背に、ボートのへりに腰掛ける。正面にサルトル……今回のバディ。
 ヌサペニダに誘うと彼は短く、月は満ちるもんだ……満たすもんじゃない、と応えた。それだけだった。そしてバディを組んでくれた。
 準備OK、と彼に向かって親指を立てる。
 OKのサインを返してくれるサルトル……、その後ろに丸い瞳……、しっかり見てくれている。
 時は来た。
 上半身を後ろに倒す。タンクの重みに身を任せる。頭から落ちる、青い世界へ……。
 冷たい。下が上みたいで上が下みたいだ。
 沈んでゆく。
 ギンガメアジの群れが遠くでキラキラと光った。
 フィンの先に、沈降してくるバディのシルエット……、サルトルは太陽を背負っている……。
 視線を戻すと、横からぬっとナポレオンフィッシュ……、大きい、少し追い掛けてみる……。
 ゆらりと旋回したナポの向こう……彼方に見えた、鳥のように、何枚かのマンタ……、幻想的……、気が遠くなるほどの美しさ、そして静けさ。
 歩けないからさ……、と佳祐。だから潜るんだ……。
 わかるよ佳祐……、青い世界は引き受けてくれる、痛みも、悲しみも、苦しみも……、決して拒まない。
 開いた、自分を海に、佳祐の海にどこまでも……そう、どこまでも……。
 と、前方からマンボウ……、ちょっとぶつかっただけですぐに死んでしまう魚……、とても弱い魚……、擦れ違い様にこちらを見た、……真ん丸の目玉が誰かに似ている……誰だっけ……あれ? 誰だっけ……。
 ……左腕の、時計のベゼルを見る……、まだ十分しか経っていない、もう三十分が経ったような気もする……いや三年が経ったような気さえする、逆についさっき潜ったような気もする……なんだろう、時の流れがおかしい……、海が入ってきて、海に溶け出して、境目がなくなって……そうだ、繋がって、佳祐の海と繋がって……。
 ……海になって佳祐を包む、魚たちを包む、いろんなのを包む……。
 ……フィンを突つかれた気がして振り向くとバディがいた……、そうか、サルトルと潜ってたんだっけ……、タントラしてたんだっけ、中にサルトルがいる……。
 ……バディがサインを出している……手で首を切っている、旧日本兵の短刀がカエル人間の首を切ったときみたいに……これは重要なサインだ……なんだっけ、思い出せ……そうだ、エア切れだ、タンクの中の酸素が乏しくなったんだ……、おかしいな、とまた時計のベゼルを見て思う……潜って十分だ、エアがなくなるはずがない……なのに、バディを見ると、立てた親指を突き上げている……浮上のサインだ、一緒に来いと手招きしている……。
 ……嫌だよ……まだここにいたい、帰りたくなんかない、佳祐を包んでここにいたいんだ…………。
 ……マスクの向こうの目がこちらを見ている……何かを尋ねているような目……、頷いた、親指を立ててみせた……、すべてOK、ノープロブレムのサイン……、バディは誤解をしたのかもしれない、浮上のサインと受け取ったのかもしれない……、身を踊らせて浮上してゆく……、去りゆく姿を見送った……。
 ……さて、と思う、遠いどこかで思う、……これで独りだ、独りになった……。
 ……体が潜り始めた、深いところへ……もっと深いところへ、うんと深いところへ……、……誰かが叫んでいる、うるさいくらいに叫んでいる、蝉みたいに叫んでいる、ひたすらに叫んでいる……何を叫んでいるのだろう……。
 ……太陽の光が届かない、ライトを点けなきゃ……あ……と気がつく、カエル人間だ……あっちにもこっちにもカエル人間……たくさんのカエル人間がいる……そうか、ここはカエル人間の世界なんだね……、思うと同時に世界がうねった……、時計を見る、確かな何かに掴まりたくて……時を見ようと左腕を見た……、……止まっていた、秒針が止まっているのが目視できた……いつからだろう、もしかしたらずっと前から……。
 ……闇を見つめる……闇の向こうを見つめる……と、底の方から声が響いた……。
(もういいかい?)
 ……優しい声だ、佳祐の声かな……それともパパの声……声を求めて耳を澄ました……すると闇が消えた、世界は白くなった、永遠みたいに白くなった……白く、白くなった……静寂の内にポツンとまた鈴の音みたいに……。
(もういいかい?)
 ……白い毛布にくるまれて……だから応えようとした、もういいよ、と応えようとした……けれどもそしたら……、……なんだろう、邪魔するみたいに端っこに、欠片……キラリと光る何かの欠片……なんだっけ、これはなんだっけ……勝手に左手が動いて……右手に伸びた……、そしてむしり取った、右手のグローブを……、……浮上してゆくグローブ……上へ上へ……、裸の右手で、その親指で何かが光った……、……これか、これが光っていたんだ……。
(……もういいかい?)
 尋ねられている、どうしよう……親指にすがるようにして……ねえどうしよう、どうしよう……、……波立ち始めた心を懸命に凝らした、凝らしに凝らした……、そしたら、読めちゃった……。
 My Love
 ……不器用な、精一杯の、それでも真っ直ぐな……、ツキンときた、クスリと笑えた……、そうか……そうかそうか、そうだったのか……、この光は未来に属しているんだ……過去ではなくて……。
 My Love
 日射しのように光った。
 時間の感覚が蘇った、虹が出たみたいに、白い世界に色、色、色……。
 だったら、と思った、だったらどうする? おまえは、私は、私は、私は、高田比佐子は!
 白が消えた。
 闇が戻った。
 私は、いた……ここはインドネシアの海の中だ!
 私は私の右手を動かした……、そして私は私の左手の時計を外した……。
 静止している秒針。
 さまざまなシーンが一瞬に凝縮されて、閃くみたいに蘇り……、けれどもそれに蓋をするみたいに私は五本の指を開いた。
 手放した。
 沈んでゆく時計……、持ち主のところへ、下へ下へ……。
 よし、と私は強く思った。水は冷たく、心臓は温かい。
 意識のボリュームを目一杯上げた。そして私は応えた、時計のゆく先に向かって短く応えた。
 まあだ、だよ。
 反転した。まだ生きるんだ、私は私の続きを。
 キックした。太陽の光に向かって私は浮上を開始した。

 続く

 二十四

 続き

 アマナガシシトウ、アイコトマト、ナスとキュウリとカボチャまで、レジ打ちの仕事をさせてくれてるスーパーが、この日はいろいろ持たせてくれた。
 家に帰るとサルトルが、歌を弾き語って迎えてくれた。サルトル作詞作曲の『お帰りの歌』。
 今日は随分沖まで行ってさ、そんでヒラマサ釣ったんだ、と言って都筑くんが、真っ黒に灼けた顔を破裂させ、五十センチ以上はありそうな大物を見せてくれた。
「あの姉ちゃんにやらねえのか?」
 と横からサルトルがひやかす。
「やらない」
 と眉を八の字に開いて青年は応える。
「この前はイシダイやって口説いてたじゃねえか」
「そうだよ、そんで今はもう俺の彼女だ」
「釣った魚にゃもう魚やんねえのか?」
「次にやるのはエンゲージリングだ」
「おやおや……」と言いながら太陽みたいな男は、最近伸ばし始めた顎髭を擦った。「ったく、こんな離島の役所にあんな綺麗な姉ちゃんがいるんだもんなあ、わかんねえもんだなあ」
 都筑青年は笑って舌を出す。
「じゃあヒラマサは刺身にして食っちまおう」
 と言ってサルトルは、打ち上げ花火のように、はっ、と笑った。
 傾いた太陽が庭を、縁側にいる私たちを、そして網戸の向こうの部屋の中をひと繋がりにしてオレンジ色に照らす。
 塩を付けてアイコトマトをかじる。赤いのとオレンジ色のと両方かじる。順番にかじる。甘くないのと甘いのとどっちも美味しい。弾ける感じがサクランボみたいに爽やかで、私も、サルトルも、都筑くんも、みんな揃って笑顔になった。
 夏は始まったばかりだ。

続き(186枚)

執筆の狙い

作者 もんじゃ
KD111239164083.au-net.ne.jp

・かつて前半だけ投稿させてもらったやつに後半を書き足したものを今回また頭から投稿しちゃいます。やや長めだけど、つるっと読めちゃうかと思われます。完結してますが、まだ今後何回かの推敲を重ねて自分なりの完成を目指したいと思ってますので、お気付きの点等ご指摘いただけますと幸いです!

・ところで! 新しく、noteってやつを始めました。ここの、もんじゃって名前のとこから飛べるみたいなんで、よかったら見てやってください!

コメント

5150
5.102.2.190

もんじゃさま

拝読しました。

うーむ、強烈なトリップ感覚に、頭も身体も麻痺してしまいましたよ。

場所と場所を繋ぐ、人と人を繋ぐ、過去と現在を繋ぐ、身体と心を繋ぐ、なんか、いろんなところをあっちこっちと彷徨いました。舞台がインドネシアだというのがいいですね。主人公はやはり女性でないと、こうはなりませんよね、器ですから……。身体の交わりから、どんどんと……。これは、スピリチュアル、と呼んじゃってもいいんでしょうかね。

登場人物も何だか、みんなあちこち彷徨っている感じがします。サルトルがいいです。やっぱ、彼はもう日本には戻れないんだろうなww 佳祐のエピソードも印象深いですね。海を深く深くひたすら潜りたいんだろうな、やっぱり彼は。深度しか目に入らないと、周囲は残念ながら見えにくくなるんでしょうね、きっと。なんか残りましたね、妙に。みんなそれぞれにそれぞれの事情で、足が地についていない、というか。おそらく、社会的にやってゆく上で、ある事がらは見ないふりをして暮らすのが、一般的なんでしょうかね。追い求めすぎちゃうとね、どうしても一般的な暮らしからは離れて行きますもんね。

ちなみにこのストーリーは、今回が初読になります。

もんじゃ
KD111239164083.au-net.ne.jp

5150さま

短くはないものを一晩で読んでくださったことに驚嘆しつつ、とても感謝しています。丁寧なご感想をあがとうございました。

読ませていただき、そうか、女性という器の「身体性」みたいなことを描いてもいたのかな、とか、これは無意識を意識化するみたいに気が付かせていただきました。

もんじゃと名乗るより前のハンドルで、2019年の夏、鍛練場に初投稿させていただいたのが拙作でありました(と、書いて、ごはんに出入りするようになってまだ二年経ってないのか……とか、ちょっと驚きました)。鍛練場のことがよくわからず、書いたところまでをその都度上げる、という連載形式にて投稿させていただいていたのですが(当時は長いのを一度に投稿できないシステムだったんです)、途中で性描写についてを諫められ、「続き」を断念していたものを最近になって完成させた次第です。途中、といえば、5150さんに読んでいただいていた「ふゆ未完」も「なつ未完」もまだ途中だったりします(この夏仕上げるつもりです)。そちらも書き終わりましたら投稿させていただき、ご感想を乞わせていただければと考えています。

読んでくださりありがとうございました。

u
opt-220-208-25-236.client.pikara.ne.jp

読みました
以前ハルキ名だったかはるか名だっけ、何回かあげていたし、読んだし、2回ぐらい(うん。おそらくwww)感想入れた
今回最後まで通して読んだ印象は若干違うかもミールwwww

あたしごときが、もんじゃさんに文章云々僭越極まりないとはおもうのんwww
今回気になったのは‥‥なのよ 三点リーダ使い過ぎではないかないかナウマン像
画ずらというか字ずらというかなんかなーミタイナ
スンマセン文書良いんです 見た目だけーwwww
あたし記憶衰退なのですが
ある程度書き直しているのかな?

都築君の家族の過去話なんかが明らかになる部分あたりからおもろくなった
それまでは≪多分もんじゃはマゾ≫なんだろうと思っていたし、以前上げられた作品から(ほとんどそうだったハルキ名義も含め)
これは別の方向? でいくんかい(最終)とは期待満々思ったのですがww
でもやはり同じですねんwww 

別に本作が悪いとは言ってない
都築君とサルトルのやはり配置がM  www
もう少し言えば身障者の圭祐に対してもM www
この部分はあたしがそう感じただけですwww

あと、カエル人間と〈旧〉日本軍兵士
メタファ的なんだろうけど  〈旧〉があたしは引っ掛かったww
わかるような気がするんですけど場所が場所ですから(解釈間違ってるかな?www)
ただ、本作に関していうとそれほど効果を発揮してはいないと思うんよねwww

あたし気にかかってるのふゆミカン
最後まで読みたいねんwww
もんじゃさん完成の赤坂見附にはあげてね

本作最後まで読めてよかったです

もんじゃ
KD111239164083.au-net.ne.jp

uさま

ありがとうございます。

三点リーダーの多用についてのご指摘、参考にさせていただきます。

ふゆみかん、完成させてまた投稿させていただきます。

ありがとうございました。

茱萸坂46卍
FLA1Adz107.tky.mesh.ad.jp

冒頭部分のみ、拝読しました。

ひとつだけ、お聞きしたいのですが、冒頭のオナニーのくだりは、作者さまの中ではどうしてもオナニー以外はありえない、ということでよろしいでしょうか?

もんじゃ
KD111239164118.au-net.ne.jp

茱萸坂46卍さま

ありがとうございます。

以外ありえない、ということでもありません。

ありがとうございました。

5150
5.102.13.172

もんじゃさん、再訪です。

自分なりの完成度を高められたい、とのこと。uさんの感想も読んで、思ったことを少し。

初読のときは冒頭がいささか退屈でした。特に、女性精神科医と学生の患者さんとの、好きです、のあたり。交わされる会話がいくぶんか類型的すぎるように思えました。フックがどこにもなく、ストレートすぎるかな、と。引き込むような何かが欲しいですね。あと、気になったのは、冒頭部での女性精神科医の心境がいまいちわかりにくかった点も。

5150
5.102.13.172

訂正

>あと、気になったのは、冒頭部での女性精神科医の心境がいまいちわかりにくかった点も。

あと、気になったのは、繊細に書かれているわりに、冒頭部での女性精神科医の心境がいまいちわかりにくかった点も。

ブロンコ(ハチが
KD111239128186.au-net.ne.jp

バリ島ありきで書きたがるだけなら、観光案内でも書いてたらいいんですよ
どうせ人間なんて一人も見当たらないんだし何ならカエルとか、亜熱帯クルーズに付きものみたいな危なげなさもエキゾチックバケーションで爆上がりハイエンドビッチにジャストフィットどころか爬虫類苦手な人でもギリセーフとかそんな感じですかね
旧日本兵のみなさんったら骨上げ待ちきれずに怒り心頭レイプカエル祭り撲滅で大戦続行とかヤバすぎでしょキメすぎ強制送還必死でしょ秘書にも恥ずかしく怒られたんだしとりあえず英霊の皆さんにこそ謝ろうよとにかく


なんて、あんたキライだからまともに書く気しないだけなんですけど



都筑くん、必要ですか“メンヘラチョロすぎ”みたいなオチに晒されて気の毒なんですけど

ブリーフの黄ばんだシミみたいなキャラ連れまわす意味まじでわかんなったですし、職場離れても年下メンヘラ童貞つかまえてさん付けコンプライアンス貫き通すハイエンドビッチったら鉄女感ハンパなくないですか性格悪すぎ自己欺瞞おばあちゃん並みに融通利かなすぎハイパーめんどいし何様のつもりかと
そのくせカエル人間なんていなくたってどうせサルトルとキメセク上等エキゾチックトリップちょうだい宣言決め打ちバケーションなんだし都筑くん置き捨てお預けごめんね設定からのオルガ絶頂とか性癖奇天烈すぎタントラもほとんど迷惑っていうかおっかなすぎてもう逮捕しちゃいたかったですまじで

サルトルこそ友人出汁にパンツ脱げとかすっかりバリのヘンな蚊に刺されて脳みそヤラレまくってんなしかも自覚ゼロとか能天気に冷酷すぎおまえ毎日ステーキに肘うちで塩振ってるちょんまげ牛殺しだろ、なんて

ピヨって誰だよ知らねえし、って個人的にはひたすらに思わされながら意味わかんねえなあいつもそんなんばっかだなあいっそのこと感情ゼロの殺し屋床上手ってことでいいじゃん所詮人間書けないんだしハードボイルドだか社会派なんだかのボロ着せて誤魔化せてなお結構じゃん自分のことも相変わらずわかってねえかよどんな自信家さんだよまったく、なんて呆れながら眺めてました
大事な金庫の鍵飲み込んだままぬさぺにだ? にとんまに飲まれやがって何してくれてんだっつうの保険金暮らしが無茶しやがってあたしの取り分どうしてくれんだっつうの、とかそんな感じなのかなあとかな最低ですか



舞台もキャラも展開も感情も行動も、全然必然感じないです


それって、いちいちイヤミ書いてあげたことが原因なんじゃなくて、それをちゃんと書き切れないおまえの所詮つまんなさと退屈すぎる自惚れ腹一杯が原因だって言ってるだけですからライザップへGO





要するに、気持ち悪いんですよ所詮
人間一人一人が全部


共感ゼロ



おまえのことだから












はい、おしまい


お得意の自分語りどうぞー

がまんしすぎて溜まってるんだってね、誰も語らせてくれないんだもの、苦しかったよね
5150子さんも来てくれたことだし安心して出しちゃいなよねおつかれさん





れっつぅぅぅぅ、たんとらたんとら(SUZUKAちゃん風)

5150
5.102.13.172

水中に潜んで、泳いでいる人の足を引っ張り、溺れさせようとする悪意のこもった遊びなんて、悪趣味。やってる方としてはさぞかし快感なんでしょうけど。一度イケない遊び覚えると、みさかいなくなって困ったもんだわ。

伝えたいくせに、伝わらないと、思いっきりひねくれて、私怨という精液溜め込んで、誰かにぶっ放す。伝えたいのなら、それなりの書き方を工夫してみたら、女王アリさん。伝わらないことにいちいち怒ってもしようがないじゃないの。だって書き方が悪いに決まってるじゃん。それを人のせいばかりにする。

>なんて、あんたキライだからまともに書く気しないだけなんですけど

まともに書いてきちんと受け取ってもらえないことに、内心ビクビクして怯えてるようにしか見えないんですけど。違いますか?

伝わらないのはそういう書き方をしてないからに決まってるじゃんか。ほんとにプライド高いねえ。それなのに伝わらないことにいちいち怒ってばかりいる。ぜんぶ人のせいにする。あんただって書き手なら、一度でいいから、書き手側から感想を書いてみなよ。まあプライドが邪魔して書けないのは、わかりきったことだけどさ。だって、自分以外、ここにいるやつはみんなバカなんだろ。いつもそう言ってるもんね。

あの、あちこちでいちいち自分の名前を出すのやめてもらえますか。関わりたくないもので。あなたに名前出されると、気持ち悪いんですよ。全身が痒くなるもんで。今回だけアレルギー抑えて、思いっきりかまってあげたのは、サービス精神からですよ。でもこれっきりです。

あの、なんならもう少ししたら、新しいのまた出すんで、よかったらそちらへどうぞ、招待状です。なーんてね。5150のような馬鹿が書いたものに、くるわけねーし。ちなみにコピペして伝言板に晒しても、返事は一切しませんので、したければいつでもご勝手にどうぞ。

もんじゃ
KD111239164254.au-net.ne.jp

5150さま

ありがとうございます。

>冒頭がいささか退屈でした。特に、女性精神科医と学生の患者さんとの、好きです、のあたり。交わされる会話がいくぶんか類型的すぎるように思えました。フックがどこにもなく、ストレートすぎるかな、と。引き込むような何かが欲しいですね。

冒頭のキャッチは大切ですよね。ご指摘、参考にさせていただきます。

>繊細に書かれているわりに、冒頭部での女性精神科医の心境がいまいちわかりにくかった

待って、待って、待っていた、みたいなところでありましょうか。参考にさせていただきます。

書き手といたしましては、最後の、海に潜るとこがしつこいというか、uさんのご指摘にもありましたが「……」を多用しまくり、うざいほどにとことん内的に潜らせてみたわけなんですけど、それが鼻につく、とか、そういうことがあるんじゃないか、と、そっちばかり(シュリンクの仕方ばかり)を危惧していたのだけど、なるほど、乖離している比佐子の気持ちを、比佐子にはともかく、読み手には、冒頭から、きちんと伝えておかないといけない……のかもしれませんね、盲点でした。

これはお蔵入りかな。

気付かせていただきました。ありがとうございました。




ブロンコさま

ありがとうございます。

参考にさせていただきます。

ありがとうございました。

つんつん
flh2-133-200-2-161.tky.mesh.ad.jp

こんばんは。一気に読みました。いわゆる牽引力というやつが強力なのでしょう。ぐいぐい引っ張られました。
音楽の世界ではあるコード進行を用いれば必ず名曲になるというものがあるらしいです。極論かと思いますが。小説においては旅がそれに近いものではないかと思っています。もんじゃ様の文学世界の外のはなしであってわたしの偏った考えなのですが、だから旅はずるい安易だ。ってごめんなさい。同じコード進行でもオイラの旅は別格でした。瞳の謎が知りたい。背景が見たい。

もんじゃ
KD111239165174.au-net.ne.jp

つんつんさま

ありがとうございます。

>音楽の世界ではあるコード進行を用いれば必ず名曲になるというものがあるらしいです。

カノンコードのことでしょうか? 違うかな? 僕も作曲なんてするときは楽なのでカノン進行にしてます。でも、少しだけカエル。ブリッジパートだけでも変節したくなる。でないと、耳ざわりがよいだけの、どこかで聴いた曲になる……。

小説も同じかもしれない。旅、という展開、非日常への流離い、みたいな表し方を僕は好みますが、けれども、どこかで何か「格別な」進行がなされないと予定調和になってしまうのかも……。瞳についての展開、俄然書く気がわいてきました。よし、カエル人間は捨て置き、夏はふゆみかんを完成させよう!

ありがとうございました。

5150
5.102.13.172

ちょっと書き足りないように感じたので。

>待って、待って、待っていた、みたいなところでありましょうか。参考にさせていただきます。

序盤の、ダイバーズウォッチをはめて……の箇所が、ちょっともったいないというか、わかりにくいというか、いろんな意味が含まれているように思えるんですけど、初読だとさっと流してしまったし、比佐子の気持ちがわかりにくかったというか。

何かのきっかけが必要なだけで、比佐子はもう準備できていたんだな、と読み返してみると思えますので。なので、後半あそこまでいけたのかな、と。その下地の部分をわかるように書いて欲しかったですね。

ただ、初読では、むしろ比佐子と都築くんの関係性の話かなと勘違いしてしまったもので。ストーリー的にはそう始まるのですが、そうではないですもんね。勘違いしてたらすみません。

むしろ後半の展開は、5150的にはまったく問題なく楽しませてもらいました。まさにマインドトラベルですね。ここは御作の醍醐味として堪能しましたので。

もんじゃ
KD111239165174.au-net.ne.jp

5150さま

ありがとうございます。

>序盤の、ダイバーズウォッチをはめて……の箇所が、ちょっともったいないというか、わかりにくいというか、いろんな意味が含まれているように思えるんですけど、初読だとさっと流してしまったし、比佐子の気持ちがわかりにくかったというか。

そこでありましたか。等身大の、かつプライベートな比佐子を書きたかったのと、あとはキャッチーかな、とか下世話な企みもあってのシーンでありましたが、とっぱらっちゃってもいいのかもしれませんね。

>その下地の部分をわかるように書いて欲しかったですね。

そうでありますか。参考になります。

>後半の展開は、5150的にはまったく問題なく楽しませてもらいました。

これはうかがえてよかったです。後半の三分の一で失敗してるかな、とか、書き手的にはそんなふうに感じていたので。導入部分をこそ書き直してみます。

ありがとうございました。

カルナック
softbank126163141183.bbtec.net

ホテルの描写が丁寧で魅力的だったので、バリに行ったことのないわたくしは大いに期待して読み進めました。

けれど、登場人物たちがホテルの敷地以外にはあまり出歩かないので(美術館と病院くらい?)様子がわからない。あとは海中のシーン。整えられたホテル内だけでなく、もう少しバリの空気感を味わわせてもらいたかった。
その点に関わるのかもしれないが、旧日本軍の登場はいささか乱暴に感じた。彼らが、無条件降伏前の存在なのか以降の存在(義勇軍)なのかも掴めずに読んだ(どちらなのかによって、出現の意味が違ってくるような)。ヒロインの台詞では、以前の存在のようだが、はて?
わたくしに読み落としがあるのかもしれない。絵をみたのか? という将校の言葉もわからなかった。どの絵のことなのか。読解力なくてすんません。
いずれにしても、中途半端に触れるくらいなら触れない方がいいように思う。つまり、扱いが雑かと。ここ、この作品にとって重要なシーンなのではないだろうか。

最後まで興味を持って読めたのだが、ラストが惜しいような気がした。わたくしは日本だと捉えたが、そう読んでいないひともいるようで。語りなさすぎかもしれない。ヤボなエンディングにならないようにという思惑かもしれないが、じつの父親にこうまで追い込まれたなら、どう逃れたのかに少しは触れたほうが親切かと。
とはいえ、180枚のボリュームがある作品はここでは少ないので、長編好きなわたくしはありがたく読ませてもらい、楽しませていただきました。

もんじゃ
KD111239164070.au-net.ne.jp

カルナックさま

ありがとうございます。

深い森の中に佇むホテルは比佐子の内界を象徴してるように表したかったのですが、そこから出たのは、絵をみるときと、つづきくんを病院に搬送するときと、タントラ中にカエル人間に担がれ、さらに深い心象風景(森山の奥)に潜りゆくときだけだった……がゆえに、バリという舞台の全体像が掴めなかった、とのご指摘に、なるほど、比佐子は自身の内界に引きこもっていて、そこから出るには生死を掛けたダイビングに挑むしかなくて、その舞台は佳佑を抱く明るい海ヌサペニダで、そこから生還した比佐子は、サルトルやつづきくんとの疑似家族形態で過ごす夏の島(沖縄本当から渡れる小島かもしれないし、国内のどこか別の島かもしれない、とにかく男性的な権力や、旧日本軍的な、社会のために統制されたたてまえとしての団体行動規範から逃れたシェルターみたいな離島)にこそ新たな居場所を見出だした……、そこから比佐子はつづきを生きることにした……、続編があるならそこにひょっこり佳佑が現れて……、みたいな構図なんだけど、そのあたりを作品がほぼほぼ具体的に語っていないから、右(佳佑)と左(比佐子)を交互に出して歩む自律性を失した主観(女性性、満ちたり欠けたり、移ろったり、からぽだからこそ満たされたり)が森という内界の奥へ奥へと、目に見えないものが見える少年をおともに招かれて、少年と自分と、失ってしまった自律性の三者関係、すなわち個人的な気持ちと集団的な規範と永遠との三者関係を象徴するような絵に暗示されたフックを統合し、その結果、つづき少年とつづきを生きるべく、雪原みたいに苛烈に白い夏の悟りを象徴するかのような、平たくいうならあるべき父親像みたいな夏原悟(サルトル)をバディに、左手の止まった時計(固着した過去)を切り離すためダイビングし、カエル人間のほうには還らず、つづきのほうに……、グローブを追うように、切々とした蝉の訴えのごとく求めてくれている背後の瞳に向かって……帰った、というあらましが、「わかりやすく伝わらなかった」というご感想なのかと解したのでありますが、以上、例によってまた書き手が解説めいたことをしてみせた内容が、意識化できないまでも、もんやりと感受していただけないのなら、やはり僕の描き方が、雑、みたいに指摘していただいたけど、非常に繊細に紡いでるつもりなので、たぶん雑なんじゃなくて、言葉足らず、というほうのご指摘がぴったりくるのかと、つまり、読み手の無意識みたいなことばかりを相手にしていて、読み手の意識(例えばバリという現実的な舞台の詳細をもっと眺めたかった、みたいな)をガン無視してるところに、不親切、ないしは不敵な、要するに書き手勝手な、伝わる人にだけ伝わればいい、的な、傲慢さにも似た斥力を読み手は感じてしまうのかもしれず、独り言を書いてるつもりはないのだけれど、独り言にならないよう、展開には、それなりの外連味を込めたり、謎を仕掛けたり、つまりエンタメフレーバーも強く出してるし、読者サービス的な甘さも出してるつもりだし、エロスとタナトスの提示も紋切り型にならないよう、かなりユーモラスに表してるつもりだし、二年前の筆への加筆だから全体にまだ文章はとても稚拙だけれど、手を抜いて書いたつもりもないのですが、そういう書き手の努力は、伝わりづらさという欠点に対して微塵も効果を及ぼしていなかったのかもしれないな、と、この方向性の限界を感じつつ、しかし、少なくともあと一作くらいは、このやり方で長めのものを、今はもういくらか達者になったはずの筆で描ききり、再度のご判断を仰ぎたいと、執念深く企んでいます。

>いずれにしても、中途半端に触れるくらいなら触れない方がいいように思う。つまり、扱いが雑かと。

表す、のみならず、読み手の腑に落ちる程度まで語れ、伝達せよ、というご指摘かもしれませんね。僕の書き方の根幹を引っくり返さざるを得ないご指摘でありますが、僕のこだわる表し方が、プラスの効果でなくマイナスの効果をしか生まないのであれば、僕は、この表し方のすべてを丸めてゴミ箱に叩き込まなくてはならない。あと一作だけ書かせていただいて、それがやはり、言葉足らずであるなら、言葉足らずであるがゆえに(それだけが理由じゃないのかもしれないけれど)面白くないなら、この筆は、躊躇わず折り、二度と、永久に、この書き方を採用することはない、ようにしようと決意しました。

>最後まで興味を持って読めたのだが、ラストが惜しいような気がした。

僕も、ラストに問題がある、と強く思っています。ほんとはこれ、まだ途中のはずで、佳佑が帰り、疑似家族にダイナミズムが生まれ、サルトルの過去が明かされ、比佐子たちつづき組は、親、ってものに……、旧日本軍が象徴するものに……、世間体を気にする為政者、しかしその実ほんとうは子の父であらねばならない存在に……対してリベンジに出なくてはならない。疑似家族は、そのような革命的な決起に向かって今は夏を、ただ自らたちを癒すようにたゆとうている……ってとこでエンディングになっちゃってるんで、終われてないんですね、きっと。でも終わりたくない、終わらせたくない、これから始まる、で、つづきを待たせたかった、なぜなら人生は常につづきであるから、生きてる限り。右を失っても左は、新たな自律性を獲得し、また歩きつづけるものだから、これはサーバイブの物語なんだな、って思う、統合によるサーバイブ、疑似家族という化学反応によるサーバイブ。つづきくんの苦しみや比佐子の苦しみをもっと具体的に、わかりやすく書くべきだった、という反省点は、これを強く実感しつつ、絵や旧日本軍やカエル人間やグローブやダイバーズウォッチや雪原みたいに苛烈に白い夏についてはこれ以上噛み砕く必要はないし、噛み砕いてしまうと途端にそれは普遍を失うっていうか、別の話になっちゃうみたいな気がして、この話は書き手にとっても、還るか帰るかを占う決戦であったのでありました。

非常に重要な、核心的なご指摘をありがとうございました。拙作のいちばんの問題点(細かな問題点はほかにごまんとあるにせよ)を明らかにしていただけた思いです。

まあ、これはゴミ箱に捨ててしまおう。これよりはいくらかましなものを、あともう一作だけ、この手法にこだわり書いてみてダメならこの手法の一切を諦めます。

ご感想をありがとうございました。

そうげん
119-231-167-60f1.shg1.eonet.ne.jp

>もんじゃさまへ

おはようございます。今朝といってもまだ日が明けない時間から今作を読ませていただきました。読了して朝食を済ませて、見てみたらカルナックさんへの返信を済ませておられる。出遅れたと思いました。

いいたいことをはじめに伝えます。もんじゃさまがこれまでにどんな作品を書かれてきたのか、あるいはこれは正真正銘の処女作だったのかはわかりませんが、自分がこれと思って出した作品、その作風を反応が芳しくないから引っこめるというのはよくない気がしました。自分の中でこのように書いてみたいという期待感というか、もっとも打ち込める形式として選んだ、その小説の紡ぎ方を丸々捨て去ってしまうのは、たぶんこれから作品を書いていくにしてもマイナスに働いていくように感じるのですね。もちろんそのままではなくて、この作品の成立の仕方を発展させたり、部分を取り換えたりしながら、独自のやり方を伸ばして行かれる方がきっと著者にとっても健全な進みゆきなのではないかとわたしは思うのでした。

さて。カエル人間ってなんだろう。はじめは都築君が飛行機の中で口にするけれど、それが比佐子先生のなかで独自の解釈となって、のちに旧日本兵に打ち殺される存在として成長していく。旧日本兵って、有無を言わせぬ武力行使とかかつての父権的なものの象徴みたいに読み取れたんだけど、だったら、それに対峙するカエル人間ってなんだってなったら、人間的な感情を喪失してしまった存在、情緒を解することのない戦後の日本の社会を埋め尽くす現代人なのじゃないかと思うわけでした。なんでも受け入れる器である比佐子はすべての人を受け入れようとする。受け入れるけれど、それは底なしで底なしだからこそ、本人の気付かないうちに自身の心までも深い海の底に沈んで行ってしまってる。

ヌサペニダの海に潜ることで、いったん自分の体も心も深海へと落ち込もうとしてしまうけれど、ダイバーズウォッチでなく指輪を選んだ比佐子はそこから這い上がることで、自分の心を取り戻したんじゃないかと思うわけでした。

今回全体を読んでみて、以前にわたしも性描写についてなにか書いたと思うのですが、悟がリンガとヨーニの結びつきを通じて、普通ではできない体験をさせることで比佐子を深くさぐっていった。悟が意識を失ったのは、比佐子の器が想像以上に大きくて圧倒されて、そこに溺死しかかったのかなと思いもしました。その比佐子がこんどはヌサペニダの海で溺れかける。よく戻ってきたと思います。

これからさらにブラッシュアップされるのかとも思います。大まかに捉えてみれば、しっかりまとまっていたと思います。ずっと途中までしか読めなかったので気になってました。

今回一応ラストまで読むことができてすっきりしました。
わたしはよかったです。ありがとうございました!

カルナック
softbank126163151075.bbtec.net

すみません。再訪させていただきます。

ゴミ箱に捨ててしまうなど、あまりにもったいない。時間とともに、作者さんご自身がもっと加筆修正したくなるはずだから、少し時間をおいてまた書いてみてはいかがか。

まあ、それだけです。
あと、都築くんに『先生、ここ高そうなホテル。俺も出すから。オヤジに金送ってもらって』とかなんとか、いっぱしの口をきいてもらうと、かわいさ倍増じゃないだろうか。

もんじゃ
KD111239164038.au-net.ne.jp

そうげんさま

ありがとうございます。

>自分がこれと思って出した作品、その作風を反応が芳しくないから引っこめるというのはよくない気がしました。

はい、そうですね。カルナックさんへの返信の調子も、今読み直してみたら誤解を与えかねない書き方になっていて後悔しています。カルナックさんにも、すみません。

実はこれ、自分の中で、ほぼボツだったんです、なんかもう直しようがないかもな、とか思いまして。でも、と思いました。鍛練場に出してみて、ここが違うかも、ここがよろしくないかも、みたいな意見がうかがえて、それをモチベにできるようなら、そしたらその勢いみたいなのを借りて改稿に着手してみようか、納得いくまでツギハギしてみようか、と思ったんです。
でも、ここではないよそで、わりとフェイタルなご指摘を受け、なるほど、アプローチそのものが間違っていたのかもしれない、と純粋に思えてきました。
なので、あともう一作だけ試して、というのはつまり、ここにも出して他者の感想に照らしてもいただくけど、それとは別に、自分の眼が、それを是と読むか非と読むか確かめてみたい、と思いました。この話を書いた二年前よりはいくらかましになった筆で同じようなアプローチを試してみる所存です。その上でやはり違うようなら、百年後の誰かに読まれたら恥ずかしい出来ばえだったりしたら、あっさり今ある方法論を捨て去って、次のやり方を試してみるつもりです。他者による反応が芳しいか芳しくないかではなく――それは参考にいたしますが――己の眼差しに晒してそれが是か非かを判断する所存です。

>そのままではなくて、この作品の成立の仕方を発展させたり、部分を取り換えたりしながら、独自のやり方を伸ばして行かれる方がきっと著者にとっても健全な進みゆきなのではないかとわたしは思うのでした。

はい。なるたけ、その独自のメソッドというものに執着したいと考えています、ずいぶんな時間を割いてきましたし。しかし『続き』が失敗作であるのは明白なので、これをいじり直す時間を、新しいものを紡ぐ時間にあてようと思います。同じメソッドで、別の話を。

>カエル人間ってなんだろう。

見るべきときに、見るべきかたちで、見るべきひとの目の前に表れるらしいそれ。帰る(まだ生きる)を象徴してもいるし、還る(もう死ぬ)を象徴してもいる。永遠の純白に凪ぐのか、刹那を繰り返しながら彩られ続けるのか。比佐子には、等価に、二つの選択肢があったんだと思われます。カエル人間というダブルミーニングは、崖っぷちの比佐子の前にこそあらわれたのでありましょう、崖っぷちのつづきくんの前に、崖っぷちのサルトルの前にあらわれたみたいに。

>旧日本兵って、有無を言わせぬ武力行使とかかつての父権的なものの象徴みたいに読み取れたんだけど

そうですね。男性性。社会性。独善に馴染みそうな力。貫き通す猛り。非個人。集団にとっては正義の「あるべき」。

>だったら、それに対峙するカエル人間ってなんだ

帰ることもつづきを「受け入れること」だし、還ることも抗いを放棄して消滅を「受け入れること」だし。これは女性性。男性性が太陽なら女性性は月。満ちて、欠けて、移ろって、また満ちて……。個人的な非「べき」論(だって、かわいそうじゃないの、ほかになんと言えばよい?)。

>なんでも受け入れる器である比佐子はすべての人を受け入れようとする

太母のように、海みたいに、受け入れ、呑み込み、同一化しようとする。女性性。彼女は「還る」しかないんですよね。サルトルに出会えなかったらシンプルに還っていた。それが望みだったわけだし、その時を待っていたんだし。

女性性に対抗するのが、サルトル&つづき組であります。男性チーム。

>受け入れるけれど、それは底なしで底なしだからこそ、本人の気付かないうちに自身の心までも深い海の底に沈んで行ってしまってる。

気持ちを乖離させて恒常性を営んでいるけど、器は満たされてしまい、もう限界。海の底、佳佑の夏に比佐子は還る気まんまんなわけです。

>ダイバーズウォッチでなく指輪を選んだ比佐子はそこから這い上がることで、自分の心を取り戻したんじゃないか

死にたいのも比佐子だし、生きたいのも比佐子。シリアスなのも比佐子だし、ノーテンキなのも比佐子。時計が佳佑なら指輪はつづきくん、止まった時計が静止なら、刻印として踊る文字は血の通った流動。過去は固着してるけど未来は流動。実際つづきくんは島の役所の美人と結婚したくなっちゃうみたいだし。そういう変幻自在な可能性が未来。還ることをやめてボートに帰ったら比佐子を待ってるのは人生のつづき。くすりと笑えるほほえましさが彼女のフィンをキックさせたんだと思います。屈託なく彼女は、また、生き始めた。

>悟が意識を失ったのは、比佐子の器が想像以上に大きくて圧倒されて、そこに溺死しかかったのかなと思いもしました

そういうことかもしれませんね。エロスはタナトスに呑まれた。拮抗しながら、しかし、生は、死を制御できなかった。比佐子はダーキニーでありパールヴァティなのかもしれません、すべての女性がそうなのかもしれない。海のまんまなのかもしれない。比佐子の気持ちは海の気持ち。

>その比佐子がこんどはヌサペニダの海で溺れかける。よく戻ってきたと思います。

くすりと笑えちゃったから。

>これからさらにブラッシュアップされるのかとも思います。

『続き』は諦めます。違うのを頑張ります。

ありがとうございました。

もんじゃ
KD111239164038.au-net.ne.jp

カルナックさま

ありがとうございます。

そうげんさんへの返信のとこでも書かせていただいたけど、朝は、なんか、変な返信の仕方になっちゃってすみませんでした。

>ゴミ箱に捨ててしまうなど、あまりにもったいない。時間とともに、作者さんご自身がもっと加筆修正したくなるはずだから、少し時間をおいてまた書いてみてはいかがか。

「時間とともに、作者さんご自身がもっと加筆修正したくなるはずだから」とのお言葉に、盲目的に(!?)従いまして、ボツファイル用のホルダーを作りました。ゴミ箱には突っ込まず、デスクトップの端っこのホルダーに埋めとくことにいたします。タイムカプセルみたいに、いつか掘り起こして、また手を入れたくなったら、そしたらまた開いてみます、『続き』のファイル。ありがとうございます。

>都築くんに『先生、ここ高そうなホテル。俺も出すから。オヤジに金送ってもらって』とかなんとか、いっぱしの口をきいてもらうと、かわいさ倍増じゃないだろうか。

確かに、これ、彼っぽいですね!

ありがとうございました。

日程
133.106.128.179

もんじゃ様

読ませていただきました。
リズムが面白かったです。最初の方は読みにくかったですが、ブレがないので慣れるとサラサラ読めました。独特。
ストーリー自体の流れも、『恋人を追い求めてインドネシアに向かう心理士に、なぜか患者が付いて来る』というログラインが面白かったので、興味を持って話を追うことができました。都築くんが動けなくなって、なんだかえっちくなる場面も好きでした。

キャラクターはどの人物も個性的で面白かったです。サルトルが一番かっこいいけれど、私は割と比沙子も好きでした。全員の過去シーンがすごく上手くて、決してテンプレートではないのに妙にリアルな設定の良さもさることながら、幻想性の高い舞台との対比がより鮮明さを産んでいる感じがして痺れました。

文章について、私のレベルで言えることは特に無いながらも少しだけ思ったことを記します。

>今佳祐はヌサペニダの海に抱かれているのだろうか。ヌサペニダに嫉妬した。

なんか共感しちゃいました。

>父がいたら、と思うことがある。父なら私たちをちゃんと守ってくれただろうか?
 ……というような話をサルトルにした。させられた。

ここはこれまでのリズムからすると、……の前に1、2文入れる雰囲気かと思ってました。私の感覚ではやや急と感じたのですがどうでしょう。自信はないです笑

それから後半になるにつれて内的世界と思わしきシーンが増えていった気がします。私は読解力が低い方なので、あまり暗喩的な場面が連続すると目が滑ることも少なくないですが、ホテルの描写、過去、心理と病気の話、が恐らく意図して詳しく描かれていたので、均衡を保っているのではないかと考えました。
気になったのは二十三のシーンでした。
ようやく恋い焦がれたヌサペニダに辿り着くわけですが、回想の中ではしつこい位に出てきた(悪い意味ではありません)情景描写が完全にカットされて海に潜るのはどういう意図なんだろうと思いました。海に潜ってからの三点リーダー多用は、深い思考への突入として捉えたのでそれほど気になりませんでしたが、その前がこれほどあっさりしている理由がいまいち私には掴めませんでした。
振り返ってみると、十九あたりから現実世界がなんとなく駆け足ですね。その中で二十二は多めに描写がありますが、ヤモリの登場からはやっぱり淡い感じです。全て作者様の意図的なものでしょうか。これらによって個人的な読後の印象は「深水」とでも表すものになりました。善悪は別としてエンタメからは離れたところに行き着いた感じです。私はそんな風に感じていたので、比沙子は深水に呑まれる選択をするのかと考えていましたが、ラストは太陽の光に蹴り出して、二十四では落差に驚くほどの現実世界に帰ってゆく展開に進みました。

ということで個人的には、このオチならば十九以降の希薄さがもっとエンタメに置き換わっても良いんじゃないかと感じました。ヌサペニダの底と、生きる世界をわかり易く対比させてしまうような。
しかし、私はどこかで作者様の構想を誤読しているようにも思いますので、はっきりとは言えません。ウンウン唸りながら書いております笑

先が気になるストーリー、個性ある登場人物、節々に仕掛けられた謎、しっかりリサーチがなされた情景・病気などの描写が相まって、とても面白い小説であったと思います。読ませてくださりありがとうございました。

もんじゃ
KD111239164214.au-net.ne.jp

日程さま

ありがとうございます。

>リズムが面白かったです。独特。

これを書き始めた当時は、まだ自分の文章がしっかり固まってなくて、だからでありましょうか、今回加筆するにあたって頭から読み直したわけですけど、僕自身もこれを、改めて、ずいぶんと読みづらく感じました。稚拙なんだと思われます、今でも稚拙だけど。

>『恋人を追い求めてインドネシアに向かう心理士に、なぜか患者が付いて来る』というログラインが面白かったので、興味を持って

ハッタリというかカマシというか、外連味のブチコミというか、別の話でも、『コンビニの裏で残飯あさってたらウェイトレスさんに拾われて……』みたいに話を始めたり、とか、姑息なことをやってます。

>都築くんが動けなくなって、なんだかえっちくなる場面も好きでした。

いろんなフェイズの性を並べたつもりなんですが、都筑くんのあれはユーモラスなエロです、親近感、みたいな、垣根がなくなる感じの。

>サルトルが一番かっこいいけれど

おお。

>私は割と比沙子も好きでした。

比佐子は、困った事態になっても、なんでだか(たぶん乖離がクセになってて)ノーテンキで、変にヒトゴトな感じなんですよね、そこが僕も好きです。

>>父がいたら、と思うことがある。父なら私たちをちゃんと守ってくれただろうか?
 ……というような話をサルトルにした。させられた。
ここはこれまでのリズムからすると、……の前に1、2文入れる雰囲気かと思ってました。私の感覚ではやや急と感じた

まさに、そこ、自分でも覚えてます、はい、はしょりました、なんか面倒になって、そこ以前のすべてを強引に引用にしちゃったんですね、後付け的ななりゆきで。そんなのも変わってて面白いかな、くらいで通しちゃったんですが、気付かれちゃうものなのですね、明らかな違和として。書き直すべき箇所でありましょう。ありがとうございます。

>気になったのは二十三のシーンでした。

はい、まさしくそこでありました、今回読んでくださった方のご意見をうかがいたかったのは。

>ようやくヌサペニダに辿り着くわけですが、情景描写が完全にカットされて海に潜るのはどういう意図なんだろう

はい。

>潜ってからの三点リーダー多用は、深い思考への突入として捉えたのでそれほど気になりませんでしたが

そうでありますか、三点リーダーについて、最初は付けていなかったのですが、あのシーンの、酸素がない中混迷していく意識をたどたどしく表したくて、あとから付けたり、でもウザくて消したり、いやしかし、とまた増やしたり、待てよそれじゃあ、とやはり減らしたり……いじりまくりまして結局あの形になりました、納得はしていません、だから読み手にどう映るのかうかがいたいと感じていました、日程さん的には、さほど気にならなかった、ということでありますね、参考にさせていただきます。

>その前がこれほどあっさりしている理由がいまいち私には掴めませんでした

はい。

>振り返ってみると、十九あたりから現実世界がなんとなく駆け足ですね。

そうなんです。

>これらによって個人的な読後の印象は「深水」とでも表すものになりました。善悪は別としてエンタメからは離れたところに行き着いた感じです。

はい。

>私はそんな風に感じていたので、比沙子は深水に呑まれる選択をするのかと考えていましたが、ラストは太陽の光に蹴り出して、二十四では落差に驚くほどの現実世界に帰ってゆく展開に進みました

二十三で比佐子が「死に向けて還る」のか「生に向けて帰る」のか僕にもわかりませんでした。
佳佑と都筑くんの綱引きな訳ですが、物語が還るのか帰るのか、僕にも書いててまるでわからなかったのです。
リュック・ベッソンの『グラン・ブルー』という映画をご存知でありましょうか? 僕はとても好きで、ディレクターズカットのDVDも所有していますが、書いてるときはそれを意識化してなかったんだけど、書き終えてから気が付いたことには、拙作の二十三は要は『グラン・ブルー』的な二択だったんだな、と。
『グラン・ブルー』には本家のヨーロッパ公開バージョンと、エンディングをわかりやすいハッピーエンドに作り替えたアメリカ公開バージョンがあるのです(最後、主人公であるジャック・マイヨールが海に還って帰ってこないバージョン=ヨーロッパ版と、ちゃんと生きて帰ってくるバージョン=アメリカ版の二つ)。
僕はヨーロッパ版の、海に溶けてイルカの仲間になりましたふうなエンディングを好んでおりまして、アメリカ版の無理にねじ曲げたようなハッピーエンドを激しく憎んでおりました。
だから普通に考えるなら、日程さんが言われるように、僕は比佐子を佳佑の元に送り出しそうなんです、そういう嗜好の書き手なんです。
でも、なんでだろう、たぶん都筑くんのありさまが非常に強力だったのでありましょう、比佐子は人生に引き返すのでありました……、驚いたなあ、もう。
ヌサペニダに行くまで、と、行ってから、を細かく書いた初期バージョンもあるのですが、潜水中の比佐子が指輪を選んだことで、遡りまして、すべてボツになりました。
比佐子は、その無意識で、佳佑のとこに向かう、つまり死ぬ、その気まんまんでありましたわけですが、ちゃっかり付録みたいにくっついてきた都筑少年のその屈託ない丸い瞳に、どうやら翻意させられちゃったみたいなんですね。ですから比佐子出立のカウントダウンページはすべてカットで、いきなり潜水、ってことになっちゃったんです。内面にただシンプルに潜っていただいてしまった……。
そのあたりの事情を筆がなぞってしまっているのでしょうね。二十三より前にあったはずのいくらかのテキストを、あの変にしんとした二十三が、違和としてほのめかしてしまったのかもしれない……。
あるはずのエピソードがなく、いきなり内面に沈潜しちゃうあの感じを僕も致命的によろしくなく感じていて、鍛練場の意見に晒されてみたいと感じていました。やはりよくなかったんですね、そう思います、ありがとうございます。

十九以降を書き換えて、全体の文章もいくらかブラッシュアップしたら……、もしかしたらこれも、もう少しましなものになるのかも……しれない、みたいな希望を抱かせていただけちゃいました、ありがとうございました。

日程さんの、公募でのご活躍、そして一等賞を獲られるであろう行く末を応援したい気持ちでいます。ザ・ビーチのティルダ・スウィントンにういずまいべすとりがーど、僕からのキスを、なんちゃって、よろしく。

カルナック
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日程さんへのご返信を読んで、三たび寄らせていただきます。すんません。

わたくし、海の中のシーンを読んでいてグランブルーを思った。ジャックが外界と結ぶロープを手ばなすかどうか、わずかに迷うシーン(御作と似ているというわけではない)。彼は結局、御作のヒロインとは逆に行くことを選んだけれど。

わたくしもグレートブルーは嫌い。ラスト、リュックベッソンが描きたかったジャックが変質してしまったように感じる。

あの映画でジャックマイヨールという存在を知って、その後、彼の死に胸を突かれる思いをした。現実のジャックもやっぱり行くことを選んだのかと。

それから、これは一応の追記ですが、御作での海中シーンそのものは、わたくしは少しも長いとかうざいとか感じなかったです。

もんじゃ
KD111239164214.au-net.ne.jp

カルナックさま

ありがとうございます。

グラン・ブルー、いいですよね。
僕も大変好きです。ジャック・マイヨールモデルのダイバーズウォッチも買っちゃったくらいです。

>ジャックが外界と結ぶロープを手ばなすかどうか、わずかに迷うシーン

そう、イルカの側に行くか、行かないか、あの一瞬の躊躇い、そしてそのあとの、解放、みたいな手放し。ジャック・マイヨールにとって陸上の重力は重すぎたのかもしれませんね。わかるような気がします。佳佑はたぶん、ジャック・マイヨール的な還り方をしたのでありましょう。でも比佐子はフィンを蹴った。太陽みたいなサルトルに照らされながら都筑くんと自らの物語のつづきを生きることにした。もしかしたら佳佑は生きてるんじゃないか、とも思っていたのです、僕は、カルナックさんからこのご感想をいただくまで。でも、僕の中にはジャック・マイヨールが居たんですね、ジャック・マイヨールのあのフェイドアウトが焼き付いていたんですね、だからこの物語を書いたのかもしれない、ならば、と思います、佳佑はやはり純白の永遠に還ったのでありましょう。そしてそれは悲しいことではないのかもしれない。ただ、比佐子がそれを追わなきゃいけないわけでもない。比佐子は還るときを待ってたんじゃなくて、帰るときを待ってたのかもしれない。ヌサペニダに彼女は、ダイバーズウォッチを沈めに行ったのかもしれない、あるいは。

>わたくしもグレートブルーは嫌い。ラスト、リュックベッソンが描きたかったジャックが変質してしまったように感じる

いや、ほんとそうですよね、エンディングにまで延々と積み重ねられてきたジャック・マイヨールのキャラ造形とあの映画全体の世界観が根刮ぎ引き抜かれちゃったみたいな終わり方でありました……。作り手が無理にねじ曲げちゃった展開ですよね、あれ。

>御作での海中シーンそのものは、わたくしは少しも長いとかうざいとか感じなかったです。

この言葉を聞けただけでも鍛練場に投稿した甲斐がありました。おおいに参考にさせていただきます。

ありがとうございました。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

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