作家でごはん!鍛練場
飼い猫ちゃりりん

知恵子

 私は子供の頃、五階建ての建物が数十棟もあるマンモス団地に住んでいた。その住宅の多くが、二つの四畳半と水回りしかない手狭なもので、低所得者や、母子家庭の家族が優先的に入ることができた。
 団地の中には八百屋や床屋などが並ぶ商店街があり、そこに小さな電気屋があった。団地の住民は、その店頭で大相撲やオリンピックを観戦し、明るい未来に夢を馳せていたのだ。

 私の両親は、冷蔵庫とテレビのある一戸建てに住めば幸せになれると信じていた。だから涙ぐましいまでの倹約をし、貯蓄に心血を注いでいたのだ。
 私はクラスメイトから「貧乏人」という仇名で呼ばれていたが、正しくは「ケチ」だ。「貧乏人じゃない! ケチだ!」と言い返すのも滑稽なので、いつも言われっぱなしだった。
 ただ、知恵子の家の貧しさは、我が家の比ではなかった。彼女の家は母子家庭である上に、母親が病気を患っていたのだ。

「遅刻するわよ!」と母に怒鳴られ、階段を駆け下りて顔を上げれば、二階の窓には知恵子の顔があった。
「知恵ちゃん。学校休むの?」
「うん」
「帰ったら呼びに行くから、また池で遊ぼうね」
「うん。わかった」
 彼女は、いじめられた日の翌日は、いつも学校を休んでいた。つまり、休んでばかりいたということだ。

 知恵子は中学一年の春に下の階に引っ越してきた。彼女は明るい性格をした普通の女の子に見えた。ただ、どこか他人を恐れているようなところがあって、逆にそれが私を安心させた。
 彼女の母親はよく咳をしていた。夜にその音が響いて来ると、母は、「あの子と遊んじゃだめ。父親が恐ろしい病気で死んだって噂なのよ。母親もきっとそうなんだから」と私に言った。

 知恵子はクラスで「ただれ」と呼ばれていた。長崎で被爆した母親が産んだ子だから、彼女の肌もただれているいう馬鹿げた言い掛かりだった。
 ある日、数人の男子が知恵子を取り囲み、「ぼろ雑巾みたいな肌を見せてみろ」と迫った。「ぼろ雑巾じゃないもん!」と彼女が泣きながら言い返せば、なら服を脱いでみろと彼らは言った。彼女が拒否すると、やっぱりそうなんだと言い、「ぼろ雑巾! ぼろ雑巾!」と囃し立てた。
 私が担任を呼びに行こうと思い席を立つと、そこに担任が現れて男子らを叱った。担任は知恵子に休んでも良いんだよと言った。しかし、それは来て欲しくないという意味だったのだ。

 次の日の朝、また階段を駆け下りて顔を上げると、知恵子が窓から顔を出していた。
「知恵ちゃん。休むの?」
「うん」
「帰ったら呼びに行くから、また池で遊ぼうね」
「うん。わかった」
 彼女の笑顔は純真を物語っていた。しかし、彼女を世間から隔離していたのは、団地のコンクリートではなく、差別という厚い氷壁だった。
 
 団地の中心部には、グラウンドや公園などがあったが、私と知恵子がそこで遊ぶことはなかった。二人はもっぱら人目を避けるようにして遊んだのだ。
 当時は未開発の土地が沢山あって、団地から少し歩けば鬱蒼とした茂みがあった。その茂みの奥に池があり、その水辺が二人の遊び場だった。
 晴れた日の朝は、池の水が水晶のように透き通り、魚が光の中に浮かんでいるように見えた。そこは生き物たちのオアシスであるばかりか、二人の安息の地でもあったのだ。

 夏休みに入ると、私たちは早朝から池で遊んだ。
 水辺を一通り探検し終えると、二人は池の畔に座って休憩をした。すると並んで泳ぐ二匹の蛙が見えた。私が、「きっとカップルだよ」と言うと、知恵子が急に泣き始めたのだ。
「知恵ちゃん。どうしたの?」
「みんなが、プールに入っちゃだめって」
 クラスの連中ばかりか、その親までも、汚いから彼女をプールに入れるなと文句を言い、学校はその理不尽を受け入れたのだ。
 私は、「大きなプールができたから、一緒に行こうよ」と彼女に言った。そのプールには噴水や滑り台があり、女子と行った男子もいると聞いていた。しかし入場料が三百円もしたのだ。当時の私にとって三百円は大金であり、まして二人分の入場料を払えるはずもなかった。しかし、極貧に喘ぐ知恵子に金を払わせたくはなかった。だから小遣いの増額を母に頼んだのだ。しかし母は、「気でも狂ったの!」と怒鳴り散らした。
 犯罪の誘惑に駆られた。犯罪の芽を育くむのは劣悪な教育ではない。悲しいまでの貧困なのだ。

 同級生の財布から金を盗むことを、犯罪と思いたくなかった。だから、「知恵子がプールに入れないのは奴らのせいだ」と念仏のように唱えていた。
 当時は気の利いたロッカーなんて無くて、荷物は教室の後ろの棚に置きっ放しだった。プールの授業が終わり、掃除の時間になると、クラスの連中は花壇の清掃に行き、私はその途中で引き返した。ところが教室には二人の男子が残っていたのだ。
 箒を持って彼らが去るのを待っていると、その会話が聞こえた。それは正に福音だった。駅前の商店街にある専門店で、クワガタを高値で買い取ってくれると言うのだ。私は勉強も運動も苦手だったが、虫捕りだけは自信があった。
「知恵ちゃん。プールに入れるよ。クワガタを売ればいいんだ」と言うと、彼女は一緒にクワガタを捕りに行くと言い出し、森は危険だと言っても聞かなかった。

 翌日の夜明け前に、建物の横の街灯の下で待ち合わせをした。クワガタは朝になると木の隙間から出てくるからだ。辺りは暗く、新聞配達の自転車はまだ電灯をつけていた。
 藪蚊に刺されるからと言ってあったのに、知恵子は、擦り切れたブラウスに半ズボンという格好で現れた。
「それじゃ蚊に刺されちゃうよ」
「これしかなかったの」

 まだ星が輝いていて、森は静寂に包まれていた。
 知恵子に、「怖くない?」と聞くと、彼女は、「うん。大丈夫」と答えた。しかし、野犬の遠吠えが森に響き渡ると、彼女は私の手を握ったのだ。
 森の奥にある寂れた神社の境内が目的地だった。そこに生えているクヌギの木の幹から樹液が流れ出ていたのだ。小学生の頃、そこでオオクワガタを捕まえたことがある。オオクワガタは黒いダイヤと呼ばれ、高値で取引されることもあるのだ。

 境内に着く頃には空が白み始めていた。クヌギの木には沢山の昆虫が群がっていたが、肝心のクワガタがいなかった。でもよく観察すると、厚い木の皮の下に、クワガタらしき昆虫が見えた。喜び勇んで指を隙間に入れると、それは凄い力で噛んだ。「うわ!」と叫んで指を出すと、オオクワガタの顎が肉に深く食い込んでいた。懸命に腕を振ると、それは指から離れて飛んで行った。しかし指先からは血が流れ始めた。
 御影石で造られた手水舎(てみずや)からは綺麗な水が湧き出ていた。彼女は柄杓でその水をすくって私の指先を洗うと、八重歯でハンカチを切り裂いて、包帯代わりに巻いてくれた。
 ふと気づくと、何匹もの藪蚊が彼女の腕や脚にとまっていた。
「知恵ちゃん! 蚊が血を吸ってる!」
「ほんとだ!」

 私は知恵子を手水舎に座らせて靴下を脱がし、ふくらはぎに水を掛けた。すると彼女は、「冷たい!」と叫んだ。「次は腕だよ」と言うと、彼女は目を閉じて腕を伸ばし、くすくすと笑いながら冷水に耐えた。
「他にかゆいとこある?」と聞くと、彼女はブラウスの一番上のボタンを外し、胸元の赤い腫れを指差した。
「知恵ちゃん。服が濡れちゃうよ」
すると彼女は二つ目のボタンを外した。
「誰か見ているかもしれないから」
「誰もいないよ」
 彼女が立ち上がって三つ目のボタンに指を掛けたとき、私はある恐怖に見舞われたのだ。
「だめだってば!」と私が声を上げると、彼女はぼう然と立ち尽くし、「あたし、ただれてないよ」と小さな声で言った。
 私は自分の本性を知った。彼女を迫害する連中と何も変わらない、心の貧しい社会の一員だった。

 もう二階の窓から知恵子が顔を出すことはなかった。しかし、父の転勤が急に決まり、夏休み中に引っ越すことを彼女に話さなければならなかった。手紙なんかで伝えるべきではないと思った。私の心が、直接会って伝えろと叫んでいたのだ。だから毎日何度も二階の窓を見上げた。しかし、彼女の顔を見ることはできなかった。

 当時は今のような引っ越し業者は無かったから、家具を売り払ってから手荷物一つで移動するのが通例だった。私の家には家具らしき家具も無かったから、支度はすぐに済んでしまった。
 転居する前日の夕方に、親は私を連れて挨拶回りに出掛けた。同じ棟の人たちに僅かばかりの粗品を渡し、丁寧にお辞儀をしていた。しかし、知恵子の家の扉を叩くことはなかった。母に、「知恵ちゃんの家には行かないの?」と言うと、「お前は黙ってなさい!」と母は私を叱った。

 近づく台風のせいか、翌日は明け方から激しい雨が降った。私たち家族は、それぞれ手に荷物を持って階段を降りた。私は建物を出たところで傘を差し、人気のない二階の窓を見上げた。歩きながら何度も振り返り、その度に、「前を向いて歩きなさい!」と母に怒鳴られた。
 結局知恵子の顔を見ることはできず、建物の角を曲がり、長い坂道を下った。所々で側溝が溢れ、雨水が斜面を流れ落ちていた。
 坂道を下り終えて、駅に向かって歩いていると、叩きつけるような雨音の中に、つっかけの音が響いた。振り向くと、知恵子が豪雨の中で泣きじゃくっていたのだ。
「知恵ちゃん!」と叫ぶと、母が、「ほっときなさい!」と大声で怒鳴った。ほっとくわけにはいかなかった。擦り切れたブラウスがずぶ濡れになり、彼女の肌があらわになっていたのだ。
 彼女に駆け寄り、その体を傘で覆うと、彼女は私の腕の中で泣いた。
「知恵ちゃん。実は、俺さぁ」
「知ってる。引っ越すんでしょ」
「うん。あっちに着いたら手紙書くから」
「うん。わかった」
 
 これが私の初恋である。今日は午後に予定があるので、恥ずかしい話はこれで終りにする。
 退職してからは特に仕事もしていないので、健康管理も兼ねて週に三日はカラオケに行く。でも機械の操作がわからないから、いつも妻に頼むのだ。
「そろそろ、あの曲を入れてもらえるかな」
彼女もいい年なので、もう「うん。わかった」とは言わない。
「はいはい。またいつもの歌ね」
 私は上を向いて、涙がこぼれないように歌う。彼女と過ごした夏の日の記憶をたどりながら。

 終わり

知恵子

執筆の狙い

作者 飼い猫ちゃりりん
123-48-68-251.area1b.commufa.jp

約4200字の掌編です。サラッと読んでください。

※ 手水舎とは、参拝者が身を清めるために手水を使う施設のこと。水盤舎とも呼ばれる。

コメント

浅野浩二
FL1-122-133-188-24.kng.mesh.ad.jp

前にも読んだことがあるような。
ともかく、いい作品ですね。
主人公の「私」は、男なのですね?
てっきり、女友達の関係だと思いました。
女性の書き手が男を主人公にして書くと、わかりにくいですね。
主人公の呼称を「僕」としてくれれば、わかりやすいと思います。

飼い猫ちゃりりん
KD106128156231.au-net.ne.jp

浅野浩二様
 先日まだ途中書きで投稿してしまい直ぐに削除してもらいました。その節はすみませんでした。
 主人公が女性に思えてしまったんですね。推敲の材料とさせていただきます。貴重な御意見に感謝します。ありがとうございました。

太郎
M014009196000.v4.enabler.ne.jp

なんでこれ間空いてんですかね
悪くないですよ
もっと百枚くらいに伸ばして
読書補強して
推敲30回して
公募に出したらどうですかね

飼い猫ちゃりりん
123-48-68-251.area1b.commufa.jp

太郎様
ありがとうございます。
推敲はしたんですけどね。

夜の雨
ai197155.d.west.v6connect.net

「知恵子」読みました。

時代背景などは導入部のオリンピックうんぬんでわかりました。マンモス団地に住んでいた主人公とか、知恵子とか。
話は主人公と知恵子との交友関係が描かれているわけですが、下地に当時の学校や団地で受けていた差別とかが書かれていて、設定に説得力がありました。
優れているところは知恵子が受けていたかなりな差別ですが、主人公もまた大なり小なりの差別を受けており、そのあたりが伏線になっていて、母親の周囲に気遣うヒステリックな表現があったのではないかと思います。

御作は単純な子供時代の初恋という内容ではなくて、背景に社会的な問題を含んでいて、それも具体的に描かれていたので、ハイ・レベルの作品になったと思います。

ラスト近くは主人公の引っ越しで豪雨の中知恵子が待っていたわけですが、ここは絵になりますね。
その前にある森の奥にある寂れた神社の境内でのエピソードがありますから。
必要なところは具体的なエピソードで書かれていたので、イメージがわきました。


良い小説を読ませていただきました。

茅場義彦
M106072175192.v4.enabler.ne.jp

猫さま 

すごくはまりそうな因子は多いです。

主人こう 男って最初からわかるよーにしてくっさい

そこはかとないエロスはぅまいすね。やるねえ

猫さんはなんで短編ばかりなんだ。。長編やればいいのに

これくらいの重いテーマ扱うには尺短い

知恵遅れ 障害 被爆 そういうテーマよく扱うっすね そういうテーマ扱う怖さとか責任っぽいものもっと持ってもいいかもかも。サラッと読んでくださいって台詞に違和感あるっすわあ。。。

書き足りないこと多いよね。なんで、少女のおどおどしたとこに主人公は安心するのか。

ただ、下記の描写は小学生っぽいな。。。。


ある日、数人の男子が知恵子を取り囲み、「ぼろ雑巾みたいな肌を見せてみろ」と迫った。「ぼろ雑巾じゃないもん!」と彼女が泣きながら言い返せば、なら服を脱いでみろと彼らは言った。彼女が拒否すると、やっぱりそうなんだと言い、「ぼろ雑巾! ぼろ雑巾!」と囃し立てた。

飼い猫ちゃりりん
KD106128156194.au-net.ne.jp

夜の雨様、茅場義彦様
今時間ないので、あとでちゃんと返信します。すみません。

夜の雨
ai211168.d.west.v6connect.net

再訪です。

>主人公が男か女かわかりにくいという点について。<

わかりやすくするには「私」と書いているところを「僕」とすると簡単ですが、それよりもエピソードのなかで主人公が男の子だとわかるようにしたほうが自然です。
たとえば――。

 >私の両親は、冷蔵庫とテレビのある一戸建てに住めば幸せになれると信じていた。だから涙ぐましいまでの倹約をし、貯蓄に心血を注いでいたのだ。
 私はクラスメイトから「貧乏人」という仇名で呼ばれていたが、正しくは「ケチ」だ。「貧乏人じゃない! ケチだ!」と言い返すのも滑稽なので、いつも言われっぱなしだった。<

こういうエピソードを利用して、主人公が学校から帰った時に「母親に学校で『貧乏人』と言われたという。そうすると母親が『なんで、言い返さなかったんや、あんたそれでも男の子かいな、しっかりせんとこれからの時代生き残られへで』」というようなやり取りのエピソードを挿入しておくと、母親とのやり取りの中で、自然と主人公が男の子だと伝わる。


 >知恵子は中学一年の春に下の階に引っ越してきた。彼女は明るい性格をした普通の女の子に見えた。ただ、どこか他人を恐れているようなところがあって、逆にそれが私を安心させた。<

この場面についてですが、これは主人公自身が「他人からの攻撃に言い返せないような性格」だったので、知恵子の「どこか他人を恐れているようなところ」は、主人公に「逆にそれが私を安心させた。」ということだと思います。
要するに、大なり小なり主人公は知恵子と似たようなところ(弱さ)がある。(学校等でいじめられる立場)それで、安心して知恵子と付き合えるので、私を安心させた。

えんがわ
p2215247-ipngn9802souka.saitama.ocn.ne.jp

>犯罪の芽を育くむのは劣悪な教育ではない。悲しいまでの貧困なのだ。

この言葉が響きました。
そして主人公の心にも貧困がある。

なんとなく。悲しい話だから、救いがあってほしいなぁとか思いながら、読み進めたのですけれど。

わたしが実は女の子じゃなくて、男の子だった。
女友達というよりもボーイフレンド。

もしかして裸になるのを躊躇ったのは。性差があるからかなとか。広げられそうで。

この作品、かなり好きです。

今まで読んだ飼い猫さんの話の中でも、良い感じだな。
と漠然と思いました。

それでは、アディオス! 良い作品をありがとう!

飼い猫ちゃりりん
123-1-20-113.area1b.commufa.jp

夜の雨様
返信が遅くなり申し訳ありません。
いつも丁寧に読んで頂き感謝しております。
皆様から頂いた性別が分かりにくいという指摘はまさにその通りです。夜の雨様からいただいた案も参考にし、推敲したいと思います
ありがとうございました。

飼い猫ちゃりりん
106171079155.wi-fi.kddi.com

茅場義彦様
返信遅くなりすすみません。
性別問題はミスりました。
「貧乏人じゃない! ケチだ!」で伝わるかと思ったのですが、まだはっきりしませんね。性別はキャラ設定の根本なのでもっと慎重になるべきでした。

小学生っぽいシーンもミスです。最初は小学生設定で書いていて、途中から思春期設定に変更して、そのシーンが残ってしまったのです。

ラストのカラオケシーンはやりすぎ?
九さん名曲をモチーフしたのですが。

皆様の御指摘に感謝します。

飼い猫ちゃりりん
106171066242.wi-fi.kddi.com

えんがわ様
 返信が遅くなり大変申し訳ありません。
(伝言板で無駄なことしている場合じゃないですね。笑)
 えんがわ様のコメントから新たなインスピレーションを頂きました。
 主人公を女の子にして、同性の恋にする。しかし飼い猫はその手の作品を書いたことないで新たな領域の開発です。
 とにかく、インスピレーションやアイデアを触発するコメントを頂き感謝しております。ありがとうございました。

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