作家でごはん!鍛練場
大丘 忍

夫婦坂

 夜おそく利治が帰宅すると、妻の静恵が待ちかねたように玄関に出迎えた。妻の表情には笑みが見られない。いつもにこやかに出迎える妻にしては珍しいことだった。
「あなた、先ほど松永から電話があって……」
 静恵の表情にただならぬ緊張が漂っていた。松永とは、広島県の瀬戸内海沿岸にある利治の生まれ故郷である。
「それがどうした?」
「隆平さんが亡くなったそうで……」
「なに? 隆平が死んだ?」
 静恵が無言でうなずいた。利治は時計を見た。十時を僅かに過ぎている。
 電話をかける手が震えた。しばらく呼び出し音が続いたあと、沈んだ声が聞こえてきた。
「坂田です……」
「ああ、克彦か。隆平が亡くなったそうじゃが」
「あ、トシおじさん。親父が死んだんじゃ」
 克彦の声は泣き声で消え、荒い呼吸音だけが聞こえてくる。
 とうとう死んだかという気もある。しかしまさかという意外な感じの方がはるかに強かった。
「フミちゃんは……」
 利治は言い直した。
「お母さんはどうしとる? 電話に出られそうか?」
「ずっと親父の側で泣いとる。今親父の身体を拭いとるけえ電話には出られんじゃろう」
「そうか、克彦、おまえがしっかりせにゃあいけんぞ。わしは明日なるべく早く行くけえな」
 病院の薬剤師をしている富美子が夜帰宅した時に、ベッドからずり落ちるような姿勢で隆平は冷たくなっていたという。すぐにかかりつけの医院に連絡して死亡が確認されたところである。
「克彦、ええか。おまえがいつまでも泣いとったんじゃあ、フミちゃん、いや、お母さんがよけい辛い思いをするだけじゃ。男のおまえがしっかりしとかにゃあいけんのぞ」
 そう言っている利治自身の目から涙がこぼれ落ちるのを止めることは出来なかった。
 大阪に本社がある一部上場企業の常務取締役、これが宮下利治の肩書である。翌日、早めに出社するとすぐに、すべての予定をキャンセルし、部下に必要な指示を与えて、その足で新大阪駅に向かった。新幹線では静恵が待ち合わせていた。
 隆平が死んだ。いつかはそうなるとは覚悟していたが、いきなりその現実を突きつけられても、まだ実感として湧いてこなかった。
             *       *
 宮下利治と坂田隆平は子供の頃からの親友であった。同じ小学校、中学、高校と、まるで兄弟のように仲が良かった。強気で猛進型の利治と、慎重で粘り強い隆平とは、反対の性格がかえって良かったのかも知れない。
 二人は中学の時、一緒に卓球部に入った。それ以来、二人は好敵手であった。卓球の実力はほぼ互角。攻撃型卓球の利治に対して、隆平は徹底的に粘る守備型の卓球であった。
 高校への進学時には、利治はレベルの高い福山の進学校に行かずに、あえて隆平と同じ地元の松永高校に進学していた。
 入学してしばらくした頃、
「おい、すげえ別嬪が入ってきたで」
 体育館で卓球をしていた隆平がとんできて言った。
「べっぴん? そぎゃあにかわいいか?」
「おお、そりゃあべっぴんじゃ。おみゃあも行って覗いて見い」
 隆平は手を胸に当て、次に腰の膨らみを描いて見せた。
 利治は教師に頼まれていたガリ版切りを放り出して体育館へ走った。
「それ、あの子じゃが」
 色白の、目鼻たちがはっきりした少女がラケットをもって卓球台に向かうところであった。
「卓球部に入ったんじゃろうか?」
「うん、さっきキャプテンに言うとったけえ、卓球部に入ったことは確かじゃ」
 二人は顔を見合わせてにんまり笑った。
「べっぴんじゃのう。B組かC組じゃろうか?」
 利治も隆平もA組である。
「確かC組じゃ言うとったで」
 これが一年C組の大塚富美子との出会いであった。
 高校に入って初めてラケットを握る富美子は、先輩達のお荷物にされながら、それでも熱心に練習に顔を出した。
 利治や隆平もときどき練習相手になっていた。初心者相手の練習は面白くない。球拾いばかりでうんざりする。利治はすぐに投げ出してしまったが、隆平は辛抱強く富美子の相手になっていた。すぐに強打してしまう利治より、相手の打ちやすいところに丁寧に球を返す隆平の方が初心者の練習には向いていた。
 二年生になると、利治と隆平は松永高校の主力選手になっていた。とくに二人が組むダブルスは、隆平が繋ぎ、チャンスに利治が強打するという理想的なコンビネーションでチーム戦では貴重な勝ち星をあげている。
 部員の少ない女子では、富美子も選手の一員として試合に参加するようになっていた。
 夏休みに、県大会が広島市で行なわれる。選手に選ばれて、富美子は部員中随一の練習量をこなしてきた。
 体育館に乾いた球の音が響いて、利治が富美子を相手にラリーを続けている。甘い球が返ってくると遠慮なく強打する。富美子は抜かれた球を拾いに走る。
「もちいと加減したらどうじゃ。球拾いばっかりで、それじゃあ練習になるまあが」
 見かねた隆平が富美子の後ろで球を拾っては投げ返した。
「おまえのように打ち易い球を返したら試合には強うならんのじゃ」
 利治は隆平をにらむように言った。
「それでも球拾いばっかりじゃあ練習にならんで」
「球拾いをしとうなかったら打たれん球を返しゃあええ」
「そりゃあそうじゃが、多少は手加減してやらんと……」
「初心者のうちから試合の厳しさをわからせとかにゃあいけんのじゃ」
「そりゃあ違う」
 いつになく隆平は強硬であった。意見が対立すると、大抵は隆平が譲歩する。この時ばかりは、隆平は頑なに自説を曲げなかった。基礎的な練習が大切か、実戦を想定した練習が効果的か。二人は台を挟んでにらみ合い、激しく言い争って譲らなかった。富美子が心配そうに二人を見守った。
「よし、勝負で決めよう」
「わかった。一セット勝負じゃ」
 利治の挑戦に隆平が応じた。
 二人は台上で互いの意地をたたきつけた。利治が打ち、隆平が拾う。激しい打球音が続き、球はめまぐるしく台上を行き交った。勝負は一進一退で互角であった。
「もう止めて」
 こぼれた球を拾って富美子が後ろ手に隠した。
「私のために喧嘩しないで頂戴」
「喧嘩じゃあない。わしと隆平との真剣勝負じゃ。さあ球を出せ」
 利治が手を出した。
「そうじゃ、フミちゃんは心配せんでもええ」
 隆平も富美子に穏やかな声で言った。
「いいや、球は出さん。このまま試合を続ければ、どっちかが勝ってどっちかが負ける。どっちが勝っても負けても、私はそれが嫌なんじゃ」
 利治と隆平は顔を見合わせた。
「どうする?」
「わしは勝負をやめる。おまえの勝ちにしたらええ」
 隆平が汗を拭きながら台から離れた。
「そうじゃのう。勝負は引き分けじゃ。練習方法はそれぞれが好きなようにすりゃあええんじゃ」
 利治も台から離れて流れる汗を拭いた。

 体育館の電灯の下に打球音だけがリズミカルに空気を震わせていた。一台の卓球台だけ残し、あとは片づけられている。
 富美子の紺色のユニフォームが汗で地図状に黒ずんでいた。流れる汗を手の甲で拭いながら、富美子は懸命に球を打っている。隆平の額からも汗が流れ落ちていた。
「そろそろ休んだらどうじゃ」
 と利治が声をかけた。
「もうちょっと、このカットが打てるようになるまで……」
 富美子は顔の汗をタオルで拭き、ラケットを構え直した。打っても打っても隆平の良く切れたカットが返って来る。富美子が打つ球はやがてネットに引っかかる。
「これはこうして打つんじゃ。ちょっとどいてみい」
 利治は富美子の肩を押して台から離れさせた。富美子の汗ばんだ肌が手に柔らかかった。
 返ってきた隆平の球を強打する。球は悲鳴をあげてバック側を抜けて行った。
「スマッシュは球が上がり切った時、思いきり叩くんじゃ。フミちゃんのは叩くんが遅すぎる」
 利治に言われた通りに富美子が球を叩く。ラケットを振る度に胸の膨らみが揺れた。
「もっとラケットを前に出すんじゃ」
 利治は富美子の手に添えてラケットの動きを教える。富美子の汗くさい体臭が心地よかった。
 練習を終わって三人は校門を出た。腹が鳴った。
「うどんでも食うていくか」
 利治は財布をのぞき込んで中身を確かめた。
「フミちゃん、どうする?」
 隆平が富美子を振り返った。
「みんな行くんなら私も行く」
「トシ、おまえが言い出したんじゃけえ、おまえがおごるんじゃろう」
「おお、わしのおごりじゃ」
 利治は財布を叩いてみせた。
 学校の近くに行きつけのうどん屋がある。
「隆平、大学はどうするんじゃ」
 テーブルについてうどんを注文すると利治が口を開いた。
「まだ、どうするか決めとらん。行くとしても地元の広島大じゃ。教育学部だけ福山にあるけえの」
「のう、三人で東京か京都の大学へいかんか」
 隆平は首を振った。
「わしは家から通える所しか行けんじゃろう」
 隆平の家はそれほど裕福ではなかった。
「そうか、同じ大学は無理としても、同じ所にある大学に一緒に行きたいがのう」
「トシは東大か京大へ行きゃあええ。成績がええんじゃけえ」
 利治は横の富美子に顔を向けた。
「フミちゃんはどうする?」
「私は……」
 富美子は利治と隆平の顔を交互に見て言葉を続けた。
「薬大に行きたい思うとるんよ」
「そんなら東京へ出るんか。京都にも薬大があるが」
 利治が顔を輝かした。
「ううん、神戸。神戸の女子薬大」
「福山には薬学はないけえのう」
 利治は、隆平のがっかりしたような表情を目に止めた。広島大学は広島市だが、教育学部だけは福山にある。隆平はそこに行って教員になるのが志望であった。福山なら家から通える。
「神戸か」
 利治は天井を見上げた。東大にするか、京大にするか。
 富美子が神戸にするなら、自分は京大にしてもいいと思った。京都から神戸までは阪急電車で簡単に行くことが出来る。
「今度の試合が最後になるかも知れんのう」
 うどんをすすりながら隆平が呟いた。二年生の夏休みが終われば、そろそろ受験勉強に専念しなければならない。そうなると練習時間は制約される。大学進学予定であれば充分に練習を積み重ねて出場する試合は今度の試合が最後になるだろう。
うどん屋から出て富美子と別れた。
 二人は塩田の間の道を歩いていた。
「わしはのう……」
 隆平が湿った声で言った。
「フミちゃんが好きなんじゃ」
 利治の胸にこの言葉が突き刺さった。わしも好きなんじゃという言葉を呑込んだ。隆平が富美子を好いていることは感じていたが、それをあからさまに言葉で表わされるとやはりショックであった。利治も好きであることを表明すれば、おそらく隆平は利治に譲って身を引くだろう。隆平の性格を知り尽くしているだけに、そんなことは出来なかった。
 富美子が東京か京都の大学へ行くと言えば、それは富美子の意思表示ともとれる。しかし富美子はそのどちらでもない神戸を選んだ。松永から一番近いところにある薬大は神戸の女子薬大である。だから富美子は神戸を選んだのだろうか。富美子が利治と隆平のどちらに好意を持っているのかはわからない。
「隆平とフミちゃんなら似合いじゃろう」
 利治は声を張りあげた。言った後でその言葉の空しさが腹に沈み込んでいく。
 隆平が利治の顔を窺うように見た。隆平のその表情は塩田の暗闇に吸い込まれて利治の目には届かなかった。
 フミちゃんだって、きっと隆平が好きに違いない。利治は口の中で呟いた。富美子が初心者の頃から熱心に指導したのは隆平である。富美子は利治には一定の距離を置いていたように思われた。
 急に無口になった利治を気遣うように隆平が言った。
「トシ、おまえもフミちゃんが好きなんとちがうか」
「そりゃあ、まあ。フミちゃんは別嬪でええ子じゃあけえなあ」
 利治は暗い夜空を見上げながら言葉を続けた。
「しかし、フミちゃんは隆平が好きならしいでえ」
「そうかなあ」
 隆平の心細い声がかろうじて利治の耳に届いた。
 一人の女を親友同士で争う。まるで映画の筋書きではないかと利治は苦笑した。泣いて身を引くのが男の美学なら、泣くのはわしの方がええ。隆平を泣かせてはいけん。
「そうじゃ。そりゃあ確かじゃ……」
 暗闇に吸い込まれるように利治の声は消えていった。
 利治の心を察したのか、隆平は口をつぐんで黙々と足を運んだ。
 翌日の練習も普段と変わりはなかった。富美子は隆平を相手に練習をするし、隆平もいつもと同じように練習に応じていた。
 隣の台では利治が憑かれたように強打を繰り返していた。富美子の手が止まり、ときどき利治の強打を盗み見ていた。
「今日はどうしたんね」
あまりにも激しい打ち込みに辟易しながら相手は球拾いに走る。
 球に恨みでもあるかのように、利治の強打が続いた。隆平もその手を止めて利治を見つめていた。
 広島市には試合の前日の夕方に入った。原爆で壊滅した市の中心部も戦後十年が経てばほとんどが復旧している。
 旅館の夕食が終わって席を離れた利治は、客室の窓から夜空を見上げていた。富美子が好きだと言ってもまだ高校生ではないか。それは思春期の淡い感傷に過ぎない。少なくとも、結婚を意識した大人の恋愛ではない。富美子だって利治や隆平をそのような相手と考えているわけではなかろう。富美子を隆平に譲ると考えるのは、利治の勝手な妄想に過ぎないかも知れない。
「トシ」
 隆平の声で振り返った。
「明日は頑張ろうな」
 隆平も並んで空を見上げた。隆平が言おうとしているのはそんなことではあるまい。富美子に対する利治の気持ちを感じとったに違いない。隆平とはそんな男だ。
「フミちゃんに男の意地を見せてやれ」
 利治は耳を疑った。どんな意味だ。富美子を奪い取れと言うつもりか。利治の気持ちを察して身を引こうとしているのか。そんなことをさせてはならぬ。
「フミちゃんはな、隆平が好きじゃと思うで」
 利治は隆平の耳元で囁いた。
 足音が近づいてきた。
「二人ともここで何しとるん?」
 途中で消えた二人を探していたのだろう。富美子がそばに寄ってきた。
「明日の作戦じゃ」
 隆平が陽気に答えた。
「秘密の作戦じゃけえ、明日を楽しみにしてくれ」
 利治も劣らず陽気に言った。
「ふーん」
 富美子はほっとしたように二人の間に入って空を見上げた。
「まん丸い月じゃね」
 月を見上げる富美子の顔が月明りに輝いて見えた。

 試合会場は騒音に包まれていた。ずらりと並んだ台の上を白球が飛び交っている。ときどきあがる歓声が試合の熱気をいっそう盛り上げる。
 男子ダブルス個人戦は順当に勝ち上がってきた。
 準々決勝。当時の試合方法は二十一点先取、三セットマッチである。
 相手は第四シードの強豪であった。一セット目を失い、二セット目はかろうじて取り返していた。
 そして第三セット。
 カウントは二〇対一二で大きくリードされており、あと一ポイント取られればゲームセットである。
「挽回!」
 富美子が大声で叫んだ。相手はシードチーム。このカウントでは挽回することは不可能だと利治は思った。
「わしはまだ諦めとらんけえな」
 隆平が息を弾ませるように言って相手を睨み据えた。
 利治は観客席の富美子を探した。富美子と目が合った。その目は縋りつくように利治に注がれていた。利治はその目にうなずいた。
「よし、挽回してやる」
 利治は口を結んで隆平の尻を叩いた。
 隆平の正確なカットが球を繋ぐ。
 豪快な炸裂音。利治の強打が決まった。歓声が沸き、台を取り巻く人垣が厚くなっていった。
 一本また一本。カウントの差が縮まっていく。
 二〇対一七になると相手の顔から笑みが消えた。
 相手の放ったスマッシュがバックサイドに抜けていったように見えた。横に跳んだ隆平のラケットがかろうじてその球をとらえ、球はふらふらとネット際に上がった。入るか、アウトか。相手のラケットがその球を待ちかまえる。絶体絶命であった。スマッシュに備えて利治が後退しようとして足を滑らせた。あーという悲鳴に続いてどよめきが起こった。球は台のエッジに当たって横に跳ねた。
 あと二点、なんとしても取ってやる。甘い球がきた。利治の強打がコーナーを打ち抜いた。あと一点。守備だけと思われていた隆平が意表をついて強打した。拍手が湧いた。
 ついに、二〇対二〇。ヂュースに持ち込んだ。何度かヂュースを繰り返し、最後は利治の強打が息の根を止めた。
 利治と隆平はがっちりと手を握り合った。その後も語り草になった奇跡的な大挽回であった。
走り込んで来た富美子を二人は抱き止めた。
「すごい」
 富美子の声が涙でかすれた。
 試合は終わった。次の準決勝では負けたけれども利治は満足であった。あの大挽回を富美子の目の前でやって見せたのである。
 これであとは受験勉強に専念できる。目指すのは東京大学か、京都大学か。
 利治は大学の願書を出すぎりぎりまで、東京大学にするか、京都大学にするか迷った。東京大学に願書を出したのは、富美子から距離を置くことで富美子への想いを断ち切るためであった。これが正しかったか間違っていたかは分からない。
 東京大学工学部を卒業して、就職した会社では猛烈社員を地で実行した。それが認められ、創業者の血縁である社長の娘と結婚して今は常務取締役、末は社長の有力候補と目されている。
 もし京都大学にいっていたらどうであろうか。富美子が利治と結婚していたら? 富美子は夫との死別という、こんな悲しい気持ちを味わうことは無かっただろう。
 利治は首を振った。富美子は隆平を選んだのだ。
 東京大学に進学が決って、最初に会ったとき、富美子はさようならと言った。この時、富美子は隆平を選ぶことを決めたのだと思う。
 利治がアメリカに出張している時に、隆平と富美子が結婚したことを知らされた。これで良いんだと言い聞かせながら、一抹の寂しさを抑えきれなかったことが思い出される。
 高校教師の隆平と病院の薬局に勤務する富美子は平穏な夫婦であった。運命の歯車が狂ったのは十五年前、隆平が四十才の時であった。その時の事は今でも鮮明に覚えている。
 その頃、利治は大阪本社に戻っていた。
「課長、坂田フミコさんから電話です」
 何気なく受話器を取り上げ、
「おお、フミちゃん」
 と言いかけて利治が顔色を変えた。
「隆平さんがホジキン病で入院したんです」
 富美子の声からただ事ではないことがわかる。
「ホジキン病いうとどんな病気かのう」
「タチの悪い病気じゃが」
 富美子の荒い息づかいが電話を通じて伝わってくる。
 一年前に会った時は、いつもと変わりなく一緒にカラオケを楽しんでいる。
 隆平はカラオケが得意であった。出張の途中で松永に寄った時には一緒にカラオケを楽しむことにしていた。最初のカラオケのとき、隆平は、「夜霧よ今夜もありがとう」という歌を歌った。甘い隆平の声はこの歌に合っていた。
「上手じゃのう」
 利治は感心した。
「おまえも歌え」
 隆平がマイクを渡した。利治はあまり歌を知らない。マイクを回されて、仕方なく、古賀政男の名曲、「影を慕いて」を歌った。
 古賀政男の失恋の歌は、東京に出てきたばかりの利治の心情を歌ったものだった。聞き覚えでこの歌を覚えてからは、宴会の度にこの歌を歌っている。
「おお、上手じゃの」
 隆平が拍手した。
「これしか知らんのじゃ」
 確かにこの歌しか知らない。忙しくて、歌など覚えている暇はなかった。
「もっとレパートリーを広げたらどうじゃ」
 利治はその他の歌も覚えることを約束した。それからはいくつかの演歌を覚えて歌えるようになっている。一年前も覚えたばかりの演歌を歌って、利治と隆平と、どっちが上手かで議論していたのである。
「よし、わかった。わしの友だちの医者に相談してみる」
「トシさん、お願い、頼みます」
 おそらく富美子は電話の向こうで手を合わせたことだろう。
 利治の東京大学時代の友人で大阪の大学病院の助教授がいる。利治は早速その友人に相談してみた。ホジキン病は放射線治療や化学療法をちゃんとやれば治る可能性が高いという。利治は富美子に伝えて、隆平を大学病院に転医させることにした。
それは五月の連休明けであった。新大阪駅に降り立った隆平の両首の傷跡が生々しく光った。
「これじゃ」
 隆平は苦笑しながら首を撫でた。
「ここのリンパ腺が腫れてのう」
「手術して組織検査でホジキン病じゃ言われて……」
 小学生の克彦と幼稚園のさよ子の手を引きながら富美子がつけ加えた。
 隆平の元気そうな姿に利治はひとまず安心した。
 翌日、大学病院の放射線科外来で、利治が付き添って安宅助教授の診察を受けた。松永の病院からの紹介状を読んで助教授が首をかしげた。
「この組織検査の所見だとホジキン病かどうかわからないね」
 安宅助教授は利治の顔を見ながら言った。
「とすると?」
「非ホジキン病かも知れない。こちらで検査しなおしてみるよ」
 利治も隆平も医学のことはよくわからない。
「僕の親友なんだ。宜しく頼むよ」
「まかしとけ」
 助教授が笑った。富美子が頭を下げた。
 隆平を大学病院に入院させ、富美子は松永へ帰っていった。数日後、安宅助教授から利治に電話があった。
「坂田さんだけどな。やっぱり非ホジキンリンパ腫だった」
「ということは悪性ということか?」
「そうだ。悪性リンパ腫のなかでも、きわめて悪性度の高いやつだ」
 利治は血の気が引くのを感じた。
「助からんのか?」
「かなり難しいな」
「助かる可能性は?」
「一〇%から三〇%位かな」
「そんな……」
 利治は絶句した。隆平が助からない。そんな馬鹿な。
「まあ、しかし可能性がゼロではないんだから」
 助教授の声は殆ど耳に入らなかった。
 これを富美子にどのように伝えたら良いだろうか。
 翌日隆平を見舞った。
「どうもいけんようじゃ」
 隆平が沈んだ声で言った。主治医からある程度の告知は受けたらしい。これからの辛い放射線治療と化学療法に堪えるには本当の病名を伝えなければならない。
「そんな事があるか。安宅に任せときゃあ大丈夫じゃ」
「いや、わしはもう覚悟はしとる」
「馬鹿を言うな」
「わしが死んだら富美子のことを頼むで」
「フミちゃんはおまえの嫁さんじゃ。おまえが責任持たにゃあ誰が持つんじゃ」
 隆平はしばらく利治の顔を見つめた。
「トシ、知っとったか?」
「何を?」
「富美子はな。本当はおまえが好きじゃったんじゃ」
「フミちゃんがそう言うたんか?」
 隆平は首を振った。
「おまえが東京へ行くとき富美子が泣いとったのを見たんじゃ。わしは、お前は京都にするとばかり思うとったんじゃが」
 利治も東京へ行く列車のなかで涙を流したことを思い出す。
「そりゃあもう昔のことじゃ。結局フミちゃんはおまえの嫁さんになったろうが」
 利治は病室の窓から外を眺めた。コンクリートの四角が空を区切り、あっという間に雲が流れ去って行く。
「あの時の挽回を覚えとるか?」
 窓に向かったままで利治が言った。
「覚えとる。すげえ大挽回じゃったなあ」
「あの挽回の成功率は一%もなかったろう。おまえの病気がなおる可能性は三十%はあるんじゃ」
 隆平は黙ってうなずいた。
「わしがついとる。フミちゃんもついとる。あの時と同じじゃ」
 利治は隆平の手を取った。
「もういっぺん、男の意地を見せてやれ」
 隆平が手を握り返した。隆平の手の温もりが伝わってくる。
「そうじゃのう。あの挽回が出来たんじゃ。こんども挽回出来るかも知れん」
 隆平の顔に少し明るさが戻ってきた。
 治療は過酷な様だった。放射線を当てる目印がマジックで頬や首につけられ、豊かだった頭髪が抜けていく。首の後ろは完全に脱毛していた。
「どうじゃ、治療は辛いか」
「あの点滴がかなわんのう。ちょっと動くとゲーいうんじゃけえのう」
 坑癌剤の副作用の嘔気である。
「まあ、もうちょっとの辛抱じゃ」
 安宅助教授からは治療は順調に進んでいると聞いていた。一クールが終わってしばらく休んでもう一クールの治療をするという。富美子は日曜日毎に新幹線で見舞いに来ているらしい。
 そんなある夜、自宅に富美子から電話が掛かってきた。
「さよ子が……」
 あとは泣き声だけが続いた。
「フミちゃん、さよ子がどうしたんじゃ」
「さよ子が死んだ」
「なに!」
 利治は大声で聞き返した。そばで静恵が驚いたように振り返った。
 何度も聞き返してやっとわかったことは、その日の夕方、さよ子が家から道に飛び出したところを車に跳ねられたのだ。すぐに病院に運ばれたが意識不明のまま先ほど息を引き取ったという。
「隆平にはわしから伝えるけえな」
 さよ子が死んだ。あれほど隆平が可愛がっていたさよ子が。
「すぐに大学病院に電話しますか?」
 静恵は電話番号簿を広げようとした。
「いや、明日わしが直接言うて松永へ連れて帰る」
 この出来事を隆平に何んと伝えたらいいのだろう。
生存の可能性十%から三十%という絶望的な闘病中の隆平に、この悲報はあまりにも残酷であった。言わずに済むならそうしたい。二クールの治療が終わって退院してから言った方がいいだろうか? しかしそれではきっと隆平に恨まれるだろう。富美子の悲しみは、隆平が支えてやらなければならないのだ。それに利治も、それを隠して隆平に笑顔で会う自信はない。
 安宅助教授に電話してこの事故を伝え、二日間の外泊許可を貰った。
 一睡もしないで出社し、休暇の手続きをしてすぐに病院へ向かった。隆平はベッドに寝ころんで夏目漱石を読んでいた。利治に気がつくと本をおいて、いつものように微笑んだ。
「隆平……」
 利治はあとの言葉を続ける勇気はなかった。
「どうしたんじゃ」
 隆平が怪訝な顔をした。言うしかない。あとにどんな修羅場が待ちかまえようとも……。
「さよ子が死んだ」
「えーっ? うそじゃろう」
 ぎょっとしたように隆平が聞き返した。
「死んだんじゃ。交通事故で……」
「ほんとか」
 隆平の目が大きく見開かれた。凍り付いたようにその目は宙を見つめ、やがてどっと涙が噴出した。
「さよ子が……」
 枕をかき抱き隆平は肩を震わせた。利治は暗然としてその肩を見つめていた。看護婦がそっと病室を覗きにきた。中を一目見てすぐに姿を消した。
 梅雨時の昼下がり、新幹線は空いていた。窓から外の景色をじっと見つめる。
「わしはもう病院へは戻らんけえのう」
 隆平が窓を見ながら言った。
「そりゃあいけん。まだ治療は終わっとらんのじゃ」
「終わらんでもええ。わしは戻らん」
「どうなるか知っとるんか」
「知っとる」
 もはやこれ以上の説得は不可能だと思った。家に帰り通夜を済ませて、気持ちが落ち着いたときに説得するしか方法はなさそうであった。
 運命はどこまで残酷なんだろうか。頭の下半分が脱毛し、マジックで印をつけられた隆平の痩せた顔。その顔を見せまいとして隆平はじっと窓の方を向いている。その肩が震えているのが痛ましい。
 福山駅までの沈黙の一時間少々。利治は新幹線の速度がやたら遅いと感じた。
 タクシーから転げ落ちるように出て、隆平は家に駆け込んだ。入ってすぐの部屋にさよ子は寝かされていた。さよ子を囲んでいた数人が席を空ける。
 さよ子の亡骸にすがりついて泣く以外に、隆平と富美子に何が出来るのだろう。利治は言葉もなくその光景を傍観するしかなかった。
通夜に備えて、さよ子の小さい体を納棺するときがきた。富美子はさよ子を抱え上げようとした人をはねのけてさよ子を奪い返した。
「さよ子は誰にも渡さん」
「棺に入れにゃあいけんのじゃけえ」
 近所の人が宥めるようにさよ子に手を伸ばした。
「棺に入れるんなら私も一緒に入れて!」
「馬鹿なことを言うたらいけん。さあ、手を離して」
「いやじゃ、いやじゃ」
 富美子はさよ子をしっかりと抱きしめて頬ずりする。近所の人がもらい泣きをした。隆平は魂を失ったようにぼんやりとこの光景を眺めていた。
「フミちゃん、さあ、手を離すんじゃ」
 利治は富美子の指を一本づつ剥すように、その手をさよ子の体から離していった。さよ子を床に戻して富美子は利治の胸に倒れ込んで泣いた。
「隆平、フミちゃんを隣の部屋に連れていけ」
 隆平はうつろな目を利治に向けた。隆平の頭の中では一切の時間が停止しているようであった。
 利治は左手で富美子を支え、右手で隆平を抱えるようにして隣の部屋に移った。
「隆平さん」
 富美子が隆平に縋って鳴咽した。隆平の見開いた目から涙が流れ落ちた。
 通夜の客が帰り、広間には数人の親族だけが残っていた。少し落ちついたのか、隆平が線香の煙を絶やさないように仏を見守っていた。
「明日告別式が済んだら病院へ戻ろう」
 利治が声をかけると、
「わしは戻らんけえの」
 仏の方を向いたまま隆平が力なく言った。
「戻らんでどうするんじゃ」
「富美子のそばに居てやる」
「いつまで?」
 隆平が振り返った。
「おまえもすぐに死んでフミちゃんを悲しませるんか?」
 利治はたたみかけた。
「元気になってフミちゃんのそばにいてやろうとは思わんのか」
 隆平はじっとうつむいていた。しばらくして、わかった、と呟いた。

 治療は続けられた。二クール目も無事に終了し、隆平は退院することになった。
 迎えにきた富美子と利治は安宅助教授に呼ばれた。
「一応、予定の治療は終了しました」
「それで後の見通しは?」
 富美子が心配そうに訊ねた。
「月に一回、外来に受診して経過を見ることにします」
「助かるのか?」
 利治が口を挟んだ。
「まだ油断は出来ないが、助かる可能性が高くなってきた。外来で経過観察を続けて、必要があればまた治療をするかも知れない」
「取りあえず、危機は脱したということだな?」
「そう言うことだ」
 利治と富美子は顔を見合わせてうなずきあった。大挽回の末にヂュースに持ち込んだのだ。本当の勝負はこれからだ。
 松永に帰って隆平は教職に復帰した。
「切られの坂田いうあだ名がつけられてな」
 利治が松永に寄ったとき隆平が首を撫でて笑った。後頭部の脱毛もそのままである。さよ子を失ったショックからも徐々に回復してきたようであった。三年間定期的に通院して、異常が無いことが確認された。
 隆平と富美子にようやく平穏な日々が戻ったように思われた。利治は口実を儲けては出張し、ついでにできるだけ松永に寄ることにしている。
「新しいスナックができてなあ、行ってみるか」
 隆平は相変わらずカラオケに熱中している。
「私にもカラオケをやれ言うて無理やりやらされとるんよ」
 富美子が笑った。
「そこへ行ってフミちゃんの歌を聞かせて貰いたいのう」
「私は下手じゃけえ、トシさんに聞いて貰うのは恥ずかしいわ」
 高校生の頃、ときどき寄っていたうどん屋が建て替えられてカラオケスナックになっていた。
「あら、坂田先生。ようこそ」
 中年のママが微笑んだ。
「多美ちゃん、連れて来たで」
 多美と呼ばれたママは利治の顔をじっと見た。
「ああ、宮下さんじゃね。私を覚えとる?」
 利治はその顔を見たような気がするが名前は思い出せない。
「多美ちゃんはC組で私の友達じゃったんよ」
 富美子が出されたおしぼりを渡しながら言った。そういえば、C組にそんな子が居たような気がする。
「私がラブレター出したのを覚えとる?」
 利治は首をかしげた。
「あの頃、宮下さんはフミちゃんに首ったけじゃったけえ、私ら見向きもして貰えなんだわ。私の片思いじゃった」
 多美が豪快に笑った。
「トシは成績がダントツじゃったけえ、ようもてとったなあ」
 隆平が昔に視線を送るような目で言った。利治は女生徒にはあまり関心がなかったのでそんなことは記憶にはなかった。
「C組ではみなフミちゃんを羨ましがっとったんよ」
 遠い昔のことだ。高校時代を振り返ると心が疼く。
「あのころは良かったなあ」
 利治の言葉に皆はうなずいた。
 利治の「影を慕いて」を富美子も多美もうっとりと聞いていた。この歌を利治がどんな想いで覚えたかを富美子や多美は知ってはいない。今では、過ぎ去った青春の心地よい感傷として残っているだけである。
 隆平と富美子が「夫婦坂」という歌をデュエットで歌った。どんな苦労の坂道も夫婦が手を取り合って越えて行くというこの歌は、今の隆平と富美子の気持ちを表わしていた。この歌を聞きながら利治は夫婦とは何だろうと考えた。
 アメリカから帰国してまもなく、利治は見合い結婚をした。相手は社長の娘であった。静恵は裕福な家庭に育ったにもかかわらず、傲慢さの無い素直な娘であった。
 妻の縁故で出世したと言われることが悔しくて、利治は人一倍仕事に精を出した。月のうちほとんどは出張で外国や日本全国を飛び歩いていた。静恵にやさしい言葉をかけてやった記憶もあまりない。出張が多くて静江を時々抱くだけであったから、静江はさぞさびしい思いをしていたのではなかろうか。
 ひっそりと寄り添って生きている隆平と富美子が羨ましかった。これこそ本当の夫婦ではないのか。
 でも、これは隆平の生き方、自分には自分の生き方がある。やさしく守り抜くのが隆平の生き方なら、がむしゃらに突き進むのが自分の生き方ではなかろうか。
 しかし、と利治は思った。静恵は口には出さないがもっと寄り添って貰いたいと思っているのにちがいない。「影を慕いて」、この歌は富美子への想いを込めた歌である。今日限りこの歌を捨てよう。仕事はほどほどにしてもっと静江に寄り添ってやろうと思った。

 退院して八年が経った。もう大丈夫だと誰もが思った。
 夜、利治の自宅に隆平から電話がかかってきた。
「また一つリンパ腺が腫れたように思うんじゃがのう」
 隆平の声は不安そうであった。利治も一瞬息を呑んだ。再発?
「とにかく、安宅助教授に診て貰え」
 何でもないことを祈りながら言った。
 翌日、利治は大学病院で隆平と落ち合った。
「これじゃが」
 隆平は首を伸ばすようにして触ってみせた。利治も触ってみたがよくわからない。
 安宅助教授は慎重に触診した。
「すこしあるようにも思えるがよくわかりませんね。念のため入院して検査しましょう」
「また入院ですか?」
 隆平が不満そうに言った。
「そりゃあ、入院して検査せにゃあいけんぞ」
 利治の説得にやっと隆平は納得した。
 詳細な検査の結果、やはり再発が疑われた。
 隆平、富美子と利治が安宅助教授に呼ばれた。
「まだいくつかリンパ腺が腫れているようです。放射線治療と化学療法は限界までやっているので、このさい頚部のリンパ腺の廓清手術をやったらどうかと思います」
「廓清手術?」
 隆平が訊ねた。
「そうです。頚部のリンパ節をぜんぶ取るのです」
「手術は難しいのですか」
「手術そのものは難しくはありませんがね」
「大丈夫ですか?」
 富美子も念をおした。
「それがベストの選択なら、やるしかなかろう」
 利治は隆平を励ますように言った。
 耳鼻科に転医して廓清手術が行なわれた。放射線治療によって頚部の皮膚は萎縮しており、皮下組織に強く癒着していた。手術は予想に反して難航したらしい。
 その夜おそく慌ただしい電話で利治は起こされた。
「隆平さんの様子がおかしい。すぐに来てちょうだい」
 富美子のせっぱ詰まった声であった。
 利治は病院に車を飛ばした。病室にかけ込むと、当直医が気管内に管を入れて人工呼吸器に繋いだところであった。当直医の説明によると、手術創からの出血が止まらずに、首を圧迫して窒息するところであったという。
 隆平は利治を見ると手で書く動作をした。紙とボールペンをもたせると、震える手で、こんな恐ろしい手術とは思わなかった、と書いた。たしかに、耳鼻科での説明では、それほど難しい手術ではないと聞いていたのだ。もう少し処置が遅れたら窒息死していたかも知れない。
 傷が癒えて退院した後も、皮膚は固く癒着した侭で首がまわらなくなっていた。主治医は時間が経てば自然に動くようになると言っていたが、その兆しは一向に訪れなかった。何より困るのは、唾液が出なくなったことである。放射線の照射で多少の唾液分泌の障害はあったが、術後は全く出なくなっている。これは手術時に唾液腺を損傷した為らしい。
 隆平は絶えず口を水で潤さなければ、食事はもちろん、喋ることすら出来ない。術後数年が経った頃、腕が挙がりにくいのに気がつき、よくみると肩の筋肉が萎縮していた。このような状態では教師の仕事は難しい。隆平は退職した。
 利治が安宅助教授に相談すると、やはり手術時に神経を傷害したか、あるいは癒着によって神経を傷害したかのどちらかであろうという。神経を傷害するとその支配領域の筋肉は萎縮してしまう。
 しかし、この後にもっと苛酷な運命が待ち受けていようとは誰も予想はしていなかった。
 相変わらず利治は出張の途中に松永に足を止めるようにしていた。
「奥さんはお元気?」
 富美子が妻のことを聞いたのは始めてである。
「そりゃあ、元気じゃが……」
「綺麗な方じゃと聞いとるけど」
「さあ、どうかな」
 利治は口を濁した。富美子がそんなことを聞く意図がわからない。
「子供さんは?」
「ああ、上が男で京都大学にいっとる。下は女で……」
 富美子の顔に翳が走ったのをみて言葉をとめた。さよ子が生きていれば高校生か大学生であろう。
「奥さんは幸せじゃろうね」
 利治は健康だ。仕事も順調だし、子供も素直に育っている。その意味では静恵は富美子より幸せと言えるのかも知れない。
「フミちゃんはどうなんじゃ」
「私は幸せよ。隆平さんが生きていてくれれば」
 利治は、富美子が隆平ではなく自分を選んでいたらと考えたことを恥じた。やはりこれが運命だったのだ。
 隆平は酒を呑みながら昔話をすることが多くなった。隆平は利治が知らなかった高校時代の出来事をよく知っていた。その大部分は多美の店で仕入れたのであろう。三人で多美の店に出かけては昔話に興じていた。
「昔話が懐かしゅうなるのは、みんな歳を取った証拠じゃね」
「まあ、五十を過ぎればね」
 利治は苦笑した。
 隆平が物を呑込むときに咽につかえると言い出した。安宅助教授にそれを伝えると、助教授は顔を曇らせた。
「嚥下機能に障害が来たらしい」
「どういうことだ」
「物を呑込む筋肉の動きが悪くなっている」
「そうすると物が食えなくなるのか?」
「最終的にはそうなるだろう」
 物を呑込む筋肉を支配する神経も傷害されているのである。食事が出来なくなると大変だ。
「声も出なくなるかもしれない」
 利治は足元がぐらつく感じがした。隆平が生きてさえいれば富美子は幸せだと言った。しかし食事が取れなくなると生きることは不可能であろう。
 利治は絶望に打ちひしがれた。どうしてやることも出来ない。このことを富美子に伝えるべきかどうか迷った。伝える勇気はなかった。
 隆平からかかった電話で利治は来るべきものが来たと感じた。
「このごろ、声が出にくうなってのう」
 たしかに隆平の声はかすれて聞き取りにくい。これではカラオケも歌えない。
「酒なら呑めるが、飯が食えんのじゃ」
 酔っているようであった。最近酒の量が増えたことを富美子が心配していた。酒でも呑まなくてはやりきれない隆平の気持ちはよくわかる。
 安宅助教授の話では、胃に腹壁から管を入れてそこから流動食を摂るという方法があるそうだ。
 利治が松永を訪れたとき、隆平は胃ゾンデを入れていた。一時的な嚥下障害であれば、胃ゾンデで危機を回避することができる。しかし、隆平の場合は死ぬまでそのゾンデに頼るしかないのだ。これがいつまで続けられるのか。その保証はない。
「どうなるんじゃろう」
 富美子が物陰で利治に訊ねた。
「当分は大丈夫じゃろう」
 利治もよくは分からない。それが気休めに過ぎないのは分かっている。まだ、三年や四年は大丈夫なのではないか。
 それが一年前のことであった。
 囁くような声しか出ない隆平に代わって、ときどき富美子が電話で様子を知らせて来る。
「隆平さんがはよう死にたい言うとるんよ」
 涙声であった。確かに生きているのは苦しかろう。飯も食えない。ものも言えない。痩せて手足に力も入らない。すぐに転んで生傷が絶えないという。転んでも体を支える手の力がないのだ。
「私はどんな形でもええ。隆平さんが生きているだけでええんじゃけど……」
「隆平を支えるのはフミちゃんしかおらんのじゃ。辛いじゃろうがしっかりしとかにゃあ」
 富美子が電話の向こうで泣いているのがわかる。利治は、隆平に死ぬなよと心で呼びかけた。
「お気の毒にね」
 電話のそばで静恵が声を落とした。
「近いうちにお見舞いに行ってあげたらどう? 私も一緒に行くわ」
 静恵は富美子に会ったことはない。入院中に隆平には何度か会っている。親友である隆平の妻であることを知っているだけで、利治と富美子との高校時代の関係は知らない。
 仕事が一段落したら二人で松永に見舞いに行くことを決めたのがつい一週間ほど前であった。
        *         *
 新幹線の座席に深々と腰を落として利治は目を閉じていた。元気であった頃の隆平の顔が浮かんでくる。高校で卓球に情熱を燃やしていた頃がこれまでの人生でいちばん良かったと思う。
「奥さんがかわいそうですね」
 その声で気がつくと目の前に妻の心配そうな顔があった。列車は間もなく新福山駅に到着する。福山駅からタクシーを飛ばした。在来線に乗り換えるより、その方が幾分早く着く。
 玄関を入ると、すぐの部屋に隆平が寝かされていた。利治は枕元に駆け寄った。
「隆平さん、トシさんが来てくれたんよ」
 富美子が顔を被っていた布を取って隆平に語りかけた。
「トシさんが、カラオケを歌いに来てくれたんよ」
 富美子は隆平の顔を手で撫でた。
「さあ、一緒に歌おうね」
 富美子の口から声が洩れた。
  この坂を超えたなら……
 途切れながら低い声で富美子が歌う。いつも隆平と富美子がデュエットしていた演歌の「夫婦坂」である。部屋の片隅に座っていた静恵が目を押えた。
  冬の木枯し、涙で耐えりゃ……
 富美子の声は鳴咽で消えた。
 隆平と富美子はどれだけ辛い坂を越えてきたことだろう。利治は黙然として隆平を見つめていた。そっと胸に組んだ手に触ってみる。命を失った手の冷たさが利治の手から熱を奪い去った。
「隆平は負けたんと違う。隆平は勝ったんじゃ」
 利治はそう思った。隆平は悪性リンパ腫を克服したのだ。その治療の過程で生じた思わぬ合併症で命を落としたのだ。
 発病して以来の、この十五年間、隆平と富美子の人生は何だったんだろう。病気との戦い、最愛の子供の死。二人は支えあってそれに耐え抜いた。そして隆平は死んだ。二人にとって、この十五年間は幸せだったと言えるのだろうか?
 静恵が進み出て合掌した。
「わしの女房の静恵じゃ」
 富美子と静恵は互いにみつめあった。二人の女の脳裏をよぎったものは何であろうか。
 やがて二人は深々と頭を下げた。
 翌日、告別式を終えて松永駅に向かう利治と静恵を息子の克彦が車で送ってくれた。
「克彦よ、お母さんを頼むで」
「わかっとる」
「何かあったらわしに言えよ。どんなことでも力になるからな」
 克彦はうなずいた。克彦は広島大学の教育学部を卒業して教師をしている。
 新幹線に乗って目を閉じた。
 高校時代に卓球に熱中している隆平の姿が浮かんでくる。隆平相手に懸命に打ち返している富美子。すべては遠い昔の思い出となった情景が走馬燈のように頭を駈け巡る。最後の十五年、本当に幸せだったのだろうか?
「あの二人は幸せだったと思いますよ」
 静恵がぽつんと言った。その言葉が利治の心を突き刺した。自分は静恵に幸せだと思わせることをしてきたのだろうか。仕事一途の夫を持って、静恵は幸せだと思っているのだろうか。
 ふと、利治は「夫婦坂」を口ずさんでみた。
 新大阪駅に到着した。ホームで利治はそっと静恵の肩を抱いた。はじめて肩を抱かれ、驚いたように静恵は夫を見たが、嬉しそうにその腕の中に身体を沈めた。
「私も幸せですよ」
 静江がつぶやいた。

                  了

夫婦坂

執筆の狙い

作者 大丘 忍
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 時代は戦後間もなくのころ。若い頃のほのかな思いと、夫婦の幸せとは何か、を描いてみました。現在のように「告白する」などは無かった時代です。
 小道具として卓球が出てきますが、私は高校時代に卓球部に所属しており、国体出場を目指して懸命に頑張っておりました。国体出場の夢は果せなかったのですが。
 また、悪性リンパ腫の患者が出てきますがこれは実体験を参考にしております。

コメント

浅野浩二
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大丘忍様
読みました。
可もなく不可もなし、という感じです。
無難な小説だと思いました。

ドリーム
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拝読させていただきました。

今回は友情物語ですね。
セックスシーンも全くなく余程我慢したのかも(笑)冗談です。
友情っていいものですね。今回はそこに隆平の妻、富美子が絡んで来ますが
隆平と利治は富美子を恋の争いを利治が譲った感じ、これも友人の為でしょう。
とてもよい話ですが、回想シーンと言うか過去に物語が進んで行くのが気になりました。
友人が亡くなり利治と富美子の関係がどうなって行くのか気になりました。
ただ全てが遅すぎた。二人共年齢は書かれていませんが還暦はとうに過ぎているでしょう。
今更って感じですが、最後に利治の妻、静江の存在を改めて幸せにしてやらなくてはと、良い締めくくりだと思います。
楽しくせて貰いました。お疲れ様でした。

大丘 忍
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浅野浩二様

読んで頂き有難うございます。波乱のない無難な小説でしたね。

大丘 忍
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ドリーム様。
 セックス場面がなく、友情の話ですから物足りないかも。
 卓球が小道具に使われておりますが、私は高校の頃卓球部の選手でした。広島に遠征した大会で、ダブルスの試合で大挽回したことがあります。この小説ほどの大挽回ではありませんが、それでもいい気分でしたね。
 隆平の病気は、大学病院に紹介した患者をモデルとしました。
 現在で始まり、過去を挟んで、現在に戻るという手法が良いのかどうかわかりませんが、別の小説でそのように書いたものを、時系列に書き直したのがあります。書き直してみて、どちらが良いかわかりません。それぞれの良さがあります。いずれここに出すと思いますが、試行錯誤することに楽しみがありますね。
 いつも読んで頂き感想を有難うございます。

5150
5.102.13.217

面白そうな出だしだったので、読んでみました。

変わらない持ち味の大丘さんの小説でした。5150は大丘さんの小説は、どちらかというと歴史ものみたいな感じで、いつも読ませてもらっています。背景がしっかりと書かれてあるし、当時の雰囲気がいいです。同様に、当時の男女の価値観もそのまま描いてあるので。

昔の日本はよかった、とか、昔の日本女性のほうが……みたいな気分に浸りたいときはいいです。過去のことが書かれていて、完結し閉じられた世界という感じですから。

5150が好きなのは、背景がしっかりした地の文で、適度に書かれてあるので、小説を読んだなあ、という感じがするところです。また地の文とは違った、ちょっとお茶目なセリフもコントラストがあって好きです。

ただ、官能作品になると、世代的なことが大きいのでしょうが、言葉の選択が5150は、まるで好きではありません。

これ以前に最後まで読んだのは、「拾った女」でしたが、やはりシチュエーションの動きが、現代ではあり得ないように感じられたし、こういう女は昔はいたんだろうが、現代はなあ、という感じがずっと付きまとっていました。こんな展開はないだろう、あくまで男側から見た都合の良い展開だ、と捉えてしまいました。一種の、男の視るファンタジーかな、と。

と、ネガティヴに書いてしまいましたが、ある一定層には評価されると思います。まあ、こういうひねくれた読みをする読者も一人いる、ということでご勘弁を。

大丘 忍
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5150様

 私の小説は、時代が昭和の初め頃ですから確かに時代物になりますね。その頃の日本は戦中から戦後にかけて、まさに変動の時代でした。
 この夫婦坂の時代も戦後間無しの高校生活から始まります。今なら、「告白」ということが盛んなようですが、その頃は告白なんて行為はありませんでした。
 男女の恋愛を描いたものですが、私の小説には珍しいことですが、具体的な性交渉の場面はありません。これはまた別の小説でたっぷりと書かしていただきます。
 現代の若者から見れば時代遅れの設定になるかも知れませんが、昔はこんなものだったのかと思ってください。
 読んで頂き、感想を有難うございます。

飼い猫ちゃりりん
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大丘 忍様
 あの三部作にも引けを取らないほど良い作品と思います。
 確かに、奇想天外でドラマティックな展開があるわけじゃないですけど、淡々と積み重ねる感じは又別の味わいがあって良いものですね。
 自分に演歌の趣味があればまた別の感動があったのでしょう。

夜の雨
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「夫婦坂」読みました。

原稿用紙56枚の作品でしたが、友情とか恋愛感情とか、そして夫婦愛とかが多重に入っていてレベルの高い作品でした。
内容が深いですしね。
構成的にも導入部で友人の隆平が亡くなった話から始まり、主人公の利治と高校時代に卓球部で活躍していた話から富美子も入部して三角関係になりながらも、お互いに距離を保ちながら時代を生きてきた話がドラマチックに描かれていました。

話としては利治が一方的に隆平と富美子の世話を焼くというような展開になっていましたが、「夫婦坂」という題材通りに「隆平と富美子」の夫婦と、ラストでは「利治と静恵」の夫婦愛が語られていましたし、うまくまとまっていたと思います。
御作では、背景とか設定がうまくマッチしており、話に説得力がありました。

利治がどういった立ち位置にあるのかとかが、現在過去においてバランスがよかったので、隆平が病に侵されても、友人の医師を紹介できたりしましたし。
卓球とか医療関係のエピソードやら説明はさすがにうまい。

気が付いたところといえば、高校時代の主人公たちの精神年齢があまりにも大人で、結婚後の主人公たちと年齢差を感じなかったところでした。
高校時代の小さな失敗談をエピソードでいれておくと、よかったかなと思います。


どちらにしても傑作でした。

以上です。

大丘 忍
p2608243-ipngn200902osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

飼い猫ちゃりりん様

これは中年過ぎの親友の友情を描いたもので、高校時代からの少女をめぐる恋愛も絡めております。少女であるから性的描写はありません。実際にあった話ではありませんが、卓球や病気は実体験を描いております。
いつも読んで頂感想を有難うございます。

大丘 忍
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夜の雨さま

 高校時代の恋愛。これは今も昔も基本的には同じことだと思いますが、現在なら告白によってはっきりとしますね。その当時は告白なんて行為はありませんでしたから、なんとなく自然的にカップルが成立していたと思います。その間は相手の意志がわからずに悶々としたものです。
 隆平も利治も芙美子が好きだった。これは当然でしょう。でも利治は隆平に譲る。控えめな隆平が、夜道で芙美子が好きであると告白した時、利治は決心したのです。これが友情ですね。利治が大学を東京か京都か迷った時、東京にしたのはそのためです。

 高校時代の主人公たちの精神年齢があまりにも大人ということですが、私の高校時代、つまり思春期には、はやく好きな女を見つけて結婚したいと思っていましたね。そのためにはいいだ大学に入り、いい職業について生活の安定を図る。これが受験勉強を頑張ったきっかけでした。私はその通りにやってきましたが。
 
 この小説は、年取った現在からスタートして、過去にさかのぼり、又現在に戻るという形式をとっております。私の幾つかの小説にはこのような形式が多いのですが、どちらが良いのか試行錯誤中です。
 小説の大切なことは、冒頭で先ず読者をひきつけるということですから、どんな冒頭にするかは非常に大切ですね。

 いつも読んで頂き、アドバイスを頂いております。有難うございました。

中野太郎
M014009196000.v4.enabler.ne.jp

エロのない大丘さんを初めて見ました。ww
まあ小説としては毒がないかなと思いますが
公募公募、プロプロ、文学文学ばっか言ってる自分には
こういうアマチュアリズムを理解できなくてそこは残念ですね。
こういう可もなく不可もなしの境地を理解しないということには
プロとしての境地もないのかなとも思った次第です。

大丘 忍
p2608243-ipngn200902osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

中野太郎様
夫婦を描いていますがセックス場面はありません。むしろ闘病生活の中で夫婦とは?を考えております。
セックスを楽しむ作品は、又の機会に投稿したいと思いますのでお楽しみに。
読んで頂き感想を有難うございます。

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