作家でごはん!鍛練場
病床伏太郎

どうぞ、このまま殺してください

 まな板の鯉は、私の持つ包丁におびえるどころか、妙に微笑み澄まして「どうぞ、このまま殺してください」と泡をふいた。言われなくとも捌くつもりなのだが、刺身というのは活きのよさがウリなもんで、身を打ちつけながらじたばたしてもらった方が「よし、こいつはうまいぞ」と品質に安心できるものだ。ところが、こう理解の良い佇まいで澄まされると調子が狂う。
「じたばたして身を打ちつけては、血が滲んで生臭くなります。こうしている方が、美味しく召し上がっていただけるのですよ」と鯉が見透かしたように言った。それから「とても立派な生け簀でしたから、今まで快適で、ちゃんと健康です」と続けた。活きの良さを証明するように、尾ひれでピシャンとまな板を打ってみせた。
「ほう。生け簀というのを知っているのか。お前みたいな利口な鯉は初めてだ」
「知っていますとも、私はあなたや、あなたの叔父が生け簀のふちで養殖鯉の育成論を語らっているのを盗み聞きするのが、生涯の宝だと思っているほど、好きだったのですから。他の鯉とは、わけが違います」
 珍しい鯉がいるのだなと、私はそいつを水槽に戻してやった。代わりに底で所在なさげにしているカレイを引きずりだして、じたばたするのを押さえつけて鱗を引いた。鯉は先ほどまでと少し違った微笑みを浮かべており、ただそれは命が延びた喜びでも、呼吸が楽になった安堵でもなく、私への敬意を抑えられないといった風だった。
「よし、ちょっとコースの順番を変えてやる。なに心配はない。客はなじみだし、もうすっかり酔っぱらって、カレイでも鯉でも区別つかないさ。だけど、品数が減ったら、その事には気づいて、途端まけろだとか言い出す連中だから、お前を捌くのをやめたわけじゃない」
 鯉は水槽をぐるりと一周しながら「どういう気の持ち様で? 私は別に、死ぬことはこれっぽっちも構わないんですよ」と優雅そうに言った。この振る舞いは強がりなどではなく、思想的なものだなと私は既に理解していた。
「いやぁ、鯉のくせにおもしれえ。ちょっと話に付き合いなさい」
 鯉は例の微笑みをいっそう強く浮かべた。手元のカレイは「順番がチガいます」と憤っているが、それを繰り返すだけで会話にならない。まあ、これが普通だ。
「やあ鯉。お前はどうして、死を前にして冷静なんだね」
「生物というのは、産まれながらに死を前にしてあるものです。鯉も人間も。まな板に置かれてようやく死を前にするようでは、遅すぎます。特に私は養殖魚という身分でありますから、災害に遭ったり、病気でもしないかぎりは、天然魚と違って食べられたり、死のリスクは低いのです。これほど、死の心構えがしやすい社会はないではありませんか。ところが、生け簀の連中といったら、毎日、餌の時間のことしか考えていません。阿呆です」
「死の心構えをしているやつなんて、人間にも滅多にいないよ」
 私はカレイの刺身を平皿に盛りつけながら、実感を持ってそう言った。鯉が驚いたように口をぱくぱくさせている。
「あなたは死というものを、熟知されていないのですか。死がどういうものか、生命とは何かを考えながら、生きているのではないですか」と鯉が慌てたように唇を水槽の壁に圧しつけた。「考えることもあるが――特に思春期はね。だけど、そういったものに答えはないよ」
 愕然とする鯉を改めて水槽から引きずり出し、鱗を引き始めた。
「では、あの素晴らしい育成論は何だったのですか。私の命を司っていながら、その価値を理解していないのですか。それを理解していないのに、私に包丁を突き立てるのですか。どうか、権力を持つ者として、私の命を預けるだけの根拠をお示しください」
 鯉は態度を一変させて、せわしなくエラを動かしながら、じたばたと身をよじった。これでは指を切って危ないので、包丁の嶺で鯉の頭を一発叩いた。ぐん、と一度だけ大きく痙攣して、鯉は動かなくなった。
「もっと複雑だが、お前が崇拝するほど、私はお前を考慮してはいないよ」
 腹に刃を当てると、惨めな声で鯉がうめいた。
「ちゃんとわかっていました。他の鯉が大口を開け、他者を押し除けながら差し向けられた餌を欲しがる。自分も鯉でありながら、そのサマをみっともないと思いました。この生の執着に対する嘲笑が、私の欠陥であります。ああなるくらいなら飢えてやるという強情さを、自分だけは違うのだという傲慢さを、美しい態度だと私は思っていました。そして、生の執着を忘れたから、死のことを考える暇があったのです」鯉は急にしおらしく「ちゃんとわかっていました」ともう一度言った。
 鯉は突然、酒に酔った時の叔父みたいに「美しいものが好きだ」と泣いた。美しいものとは何だねと呆れながら訪ねると「この世界から、ただ私だけを除いた全てです」と鯉は答えた。私はそんな切ないことはないなと思いながら、鯉を手際よく捌いた。
 この鯉がある覚悟をもって組み上げてきた能動的ニヒリズムの精神が、数秒のうちにあっけなく崩れ去った気がして、私は少しだけ悲しんだ。結局のところ、どんな理論武装をしたって彼は彼の生涯をコントロールすることができない。
 平皿に並べた美しい刺身を、きっとその味のわからない酔っ払いのもとへ運びながら、私はそんなことを考えたのである。

どうぞ、このまま殺してください

執筆の狙い

作者 病床伏太郎
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思うままに書いてみました。
何か感じることのできる内容になっているでしょうか。

コメント

浅野浩二(浅野浩二物語)
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病床伏太郎さま。
いい小説ですね。
とても、面白いです。
ただ。
>「死の心構えをしているやつなんて、人間にも滅多にいないよ」
少なくとも僕は、「死の心構えして生きている例外的な人間」です。
>「あなたは死というものを、熟知されていないのですか。死がどういうものか、生命とは何かを考えながら、生きているのではないですか」と鯉が慌てたように唇を水槽の壁に圧しつけた。「考えることもあるが――特に思春期はね。だけど、そういったものに答えはないよ」
僕にとっては、小説を書くことが、生きることです。
自分史「浅野浩二物語」をリンクしておきましたので、よろしかったらご覧下さい。
「ビタ・セクシャリス」も、僕の自分史です。

そうげん
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読みました。養殖鯉の育成論の中身もすこし紹介してもらってあるといいなと思いました。概説だけ語られるので、ちょっと印象が薄かったのです。ここがすこし詳しく書かれてあれば、後半で鯉が、〈では、あの素晴らしい育成論は何だったのですか。私の命を司っていながら、その価値を理解していないのですか。~〉というセリフを口にしたときに印象が重なって、心に響くのではないかと思いました。
あと、些細なことですが、淡水魚と海水魚が混在していることが気になりました。
それでは失礼いたします。

病床伏太郎
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浅野浩二さま
感服しました。小説を書くことが生きることだなんて、そんな前向きな人は初めてです。

そうげんさま
感想ありがとうございます。為になる御意見です。

宝星
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読みました。
鯉と言う言葉に心を動かされ易い人をターゲットにしているんでしょうね。
鯉に人並み外れた知性を感じる所がまた寂しいです。
人間は鯉を愛でるか、殺すだけ。
関係性がそれだけのロジックでしかないのは、相手が鯉だからでしょうね。

この内面的にも見えるやり取りは
鯉を捌いて食べる人間の思い込みなのかな、とも思いました。
シャツにも良く鯉の柄はありますね。
日本人的な感性では、愛されやすいのが鯉なんでしょうね。

偏差値45
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>何か感じることのできる内容になっているでしょうか。

鯉の擬人化。人間の死に方でもありますね。
本来動物は死を知らない。人間は死を知っている。その違いが大きい。
賢いが故の苦しみは、人間にはある。
つまり、決まった時間内で生かされている点では、この小説の鯉と実際の
人間も同じことでしょう。
どんなに死を覚悟していても、死に際にジタバタとしてしまうかもしれないですね。
しかも、それに抗いようがないことを知っているとしても、
生の執着は誰にでもあるような気がしますね。
とはいえ、人間はいつ死が訪れるか? それは知らない。
知らない方が幸福かもしれませんね。
そんなことを思った次第です。

ぷーでる
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面白いですね、板前さんが包丁を入れようとする鯉と会話。でも、鯉って口を
パクパクするから、しゃべっている様な口に見えるかも。

浅野浩二
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蜘蛛と蝶と釈迦
 釈迦は歩く時、虫を踏まないよう足に鈴をつけていた・・・とのことである。蜘蛛の巣にかかった蝶を蜘蛛が食べようとしているのを見た釈迦はその時どうするでしょう?
(蝶も生きたいし、蜘蛛も生きたい)
蜘蛛は蝶に向かって言った。
「ゴメンネ。僕、君を食べなきゃ生きていけないんだ」
蝶は、「私も生きたい。死にたくない」と言った。
それを釈迦が憐れみの目で見ていた。蝶は釈迦にすがるように言った。
「お釈迦様。私を助けて下さい」
釈迦は言われた。
「こわがらなくてもいい。あなたは今日、やがて私も行くニルバーナに行く」
蝶は静かに、「わかりました」と言った。

ラピス
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構成や文章が良く、冒頭から久々に引き付けられました。上手いなあ。HNが死にそうなので、ちょいと心配。

鯉の気持ちを擬人化して読んだのですが、それでよろしいでしょうか?
深みが足りないと感じました。
作者自身が死生観をさらに突き詰めて、熟考すべきではないでしょうか。きっと本文に反映されますヨ。

お大事に。

病床伏太郎
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宝星さま

感想ありがとうございます。

>鯉と言う言葉に心を動かされ易い人をターゲットにしているんでしょうね。

鯉を題材にしたのは、池で奴らに餌をやった時、魚体をひしめかせて我先にと大口を開けるのが、なんとも滑稽で「そうか、そうまでして生きていたいか」と憐れむような気持ちになったからです。


>この内面的にも見えるやり取りは
>鯉を捌いて食べる人間の思い込みなのかな、とも思いました。

この鯉が言っていることは、ことごとく僕の思想であって、この能動的ニヒリズムを携えた僕は、いったいどんなくたばりかたをするのだろうと想像しながら書きました。

病床伏太郎
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偏差値45さま

>とはいえ、人間はいつ死が訪れるか? それは知らない。
>知らない方が幸福かもしれませんね。

死がいつ訪れるかは、自殺でない限り、人間にも鯉にもわかりようがありませんが、この鯉にとっての美しい生き方とは『いつか死ぬということ』を常に考えながら日々を過ごすというものであり、おっしゃる通り大半の人間には欠落した美学だと思います。

病床伏太郎
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ぷーでるさま

>面白いですね、板前さんが包丁を入れようとする鯉と会話。でも、鯉って口をパクパクするから、しゃべっている様な口に見えるかも。

浅はかではありますが、youtubeで鯉が捌かれる動画をいくつか見ながら筆を走らせました。

病床伏太郎
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ラピスさま

>鯉の気持ちを擬人化して読んだのですが、それでよろしいでしょうか?

まあ、普通は鯉は喋りませんから、擬人化ということになるのでしょうか。僕にもわかりません。

>深みが足りないと感じました。
>作者自身が死生観をさらに突き詰めて、熟考すべきではないでしょうか。きっと本文に反映されますヨ。

おそらく作中の鯉は、ラピスさまのような人物と対峙し、その突き詰められた死生観を拝聴することに、生きることの喜びを見出すでしょうね。死ぬとは何か、生きるとは何か、熟慮することで、かりそめの答えを手に入れることはできるかもしれません。いえ、なにもかも本人の認識によるのですから、その本人が「おいらの死生観はこういうのだ!」ともっともらしい理屈をこねれば、それは生きていく道を得たようなものです。ただし、自分という存在は、他者の認識によって容易く改ざんされてしまうものです。僕が今、自分の手もとにある材料で納得のいく死生観をこしらえたとて、そんなものは生きていくうちに、通りすがりの、それこそラピスさまのような人の、たった一言で崩れ去ったりするのです。きっと、鯉はそのことを死に際に理解して捌かれたことでしょう。

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