作家でごはん!鍛練場
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饒舌なかぼちゃ畑 寡黙な父親

 死を前にすると人は些細なことがどうでもよくなり、ほんとうに大事なものだけが気になってしまうのでしょうか。人生とは日常における些事の積み重ねです。
 しかし死が目前に迫っていることを悟ると、些事の積み重ねで編み込まれた膜が破れ、人にとってほんとうに大事なことは何なのかが、ぜんぶ剥き出しになります。何に突き動かされて、何を望んでいるのか、それがおのずとわかるようになってくるのです。
 わたしは今、語りたいことがあります。
 あの、ひと夜の記憶です。記憶の部屋に封じ込められていた素晴らしい風景を伝えたいのです。
 大事なことは理解される、されない、ではありません。何を語るかでもありません。そこにどんな心があるのかということです。ようやくこのことに気がついたのです。

 わたしの名前は南瓜(かぼちゃ)といいます。そう、あのかぼちゃです。そう聞いて、引いてしまうのもよくわかります。
 もしテレビにでも出ているのならいいのでしょうが、わたしはタレントでもコメディアンでもありません。南瓜という名は、父が名付けたのでした。
 名前について、わたしは父親のことを恨んでいました。というのは誇張でありますが、もし同級生から名前のことで苛めにでも遭っていたなら、恨んでいたに違いないでしょう。
 一般的にはかぼちゃというと田舎臭いイメージであり、かぼちゃ頭だとまぬけな感じを指します。わたしの頭の形から宇宙人みたいとか、サッカーボールと呼ばれることもありました。でも、これらは周囲からすると愛嬌あるように思われていたようです。
 小学校のころは男の子の間でも、けっこうな人気がありました。育ったのがおっとりした片田舎というのもあるでしょう。人々は都会よりも素朴でしたから。わたしは虫や爬虫類が好きな女の子でした。恐竜などもたくさん名前を知っていたので、そういう女の子らしくないところが好かれた点かもしれません。
 父のことを想うとき、わたしが育った土地の豊かな自然を思い浮かべます。深遠なる森、濃厚な闇の夜、圧倒的な静けさ。わたしはこれらに畏怖を抱きます。と同時に、どこか親しささえ感じます。
 あの夜もそうでした。小学生だったわたしは幼くありました。大自然は怖かったものです。しかしながら、空に輝く星などは都会と比べられないほど美しく、心にずんと響いてきます。それは夜の濃さが周囲を覆っているからこそ、よけいに輝いて見えるものなのかもしれません。

  *

 昼と夜の節目といった時間帯で、夜はまだとばりは下りていませんでした。柱時計が七時に鳴ると、わたしは畳からはっと顔を起こしました。宿題か何かをしていて途中で眠ってしまったようです。畳にはやりかけのノ―トと鉛筆がありました。確かテレビでは日曜日恒例の『笑点』をやっていたようですが、もうとっくに終わっていました。
 目を覚ますと同時に二つの質問を、わたしの母にしました。「お腹空いた。夕ごはんは?」と「父さんはどこ?」の二つです。リビングにあるテーブルは本と書類で埋まっていましたが、わたしからの一言で母はとっさに顔を上げると、わたしのほうを見て目をぱちくりとさせていました。
「あら、もうこんな時間じゃないの。夕食の準備をしなくちゃいけないわ」
 母はわれに返ったようにいいました。「父さんはどこ?」というわたしの質問にはまた、答えてはくれませんでした。それが最初ではありません。その日は、何度も同じ質問を母にしていたのです。なにしろ父の姿は、朝から家にはなかったのですから。
 父がいつも履くサンダルがありませんでした。釣り竿はあったので、このところ凝っていたアユ釣りには出ていないようです。こんなに家を開けているということは、でなかったらパチンコ屋にいるのでしょうか。
「父さんはどこに行ったの、ねえ、母さんってば。パチンコ屋なの?」
 昼ごはんのときも父は帰ってきませんでした。当然ながらわたしは母に訊いたのですが、母は聞く耳を持ってくれませんでした。わたしが知りたいことを母は答えてはくれず、自分が知りたいことだけはわたしに訊いてくるのです。
「宿題は終わったの?」
 宿題のことを訊くときの母はいつも同じフレーズを繰り返しました。そして決まって、口調が鋭いのでわたしは嫌いでした。
「ううん、まだ。だって、途中で寝ちゃったんだもん」
「本当に、やだ、この子ったら。寝ていてついた畳のあとが頬っぺについているじゃないの。だらしがないったらありゃしないわ。宿題を先に済ませてといいたいところだけど、まず母さんを手伝ってからよ」
 そういうと母は眼鏡をとってエプロンをつけました。母は家の中で会社の仕事をするときは必ず眼鏡をします。けれど、キッチンにいるとき眼鏡はしません。エプロンをして仕事はしないし、眼鏡をして料理をすることもありませんでした。
 母が家で仕事をするときいつも気が張っていました。小難しい顔をして、厚い本を広げ書き物をしているのです。わたしが訊いてもろくに返事は返ってはきません。うってかわって母がキッチンに立つときは、とたんに騒がしくなります。ああでもないこうでもないと、独り言をつぶやきながらドタバタと料理をするのです。
 母は料理の最中、なにかを床にこぼして叫んだりすることがよくありました。まるで一人芝居のようです。顔の表情はめまぐるしく変わり、ガチャガチャと食器らの音が響いてきます。
 母がキッチンに立つときは戦場のようです。なにかと殺気立っているのでわたしはなるべく近づかないようにしますが、決まって母はわたしのことを呼びうまく逃げ出せません。
「ちょっと、かぼちゃったら、早くテーブルを片づけて、茶碗と箸を並べてよね。さあ、早くしてよね!」、
 そうやって母の牽制する声が届きます。どうしてわたしが母の手伝いをいつもしなければいけないのだろう、と内心思っていました。だって、普段は父がいて寝転がっていても母は父には手伝ってとは一言もいわないのですから。
「どうしてテーブルにスプーンがないのよ!」と、母は叫びます。
「だって、スプーンっていわなかったじゃないの」
「なにいっているのよ! 今晩はカレーなんだから、スプーンは必要でしょうが!」
「えー、また、カレーなの?」
「つべこべいわないの! カレーは作るのが簡単なんだから。ちょっとは作るこっちの身にもなってみてよね!」
 エプロン姿の母をわたしは好きではありませんでしたし、眼鏡をかけて仕事をしているときも同じです。わたしが好きな母は、たとえばお風呂で髪の毛を洗い、ドライヤーで髪を乾かして、爪を切ってくれるとき、あるいは夜布団に寝るとき読んでくれる物語などでした。
 けれども、そのときのわたしの髪の毛は三つ編みができるほど長くはありませんでした。少し前に、母親が通う美容室でバッサリと切られてしまったからです。
「お母さんと同じようにショートが似合うわね」
 美容室の人はそういいましたが、わたしはちっともそうは思いませんでした。髪の毛が短くなり、なんだか自分の頭がよけいにかぼちゃっぽくなったような感じがしたものです。
「仕事で忙しくなるから、もうかまっていられることもできないのよ。だからね、こうやってショートにするの。そのほうが、手入れが楽だから。それに、母さんと同じように髪短いほうが、かっこいいわ。案外、似合っているんだもの」
 普段はめったなことでは褒めることのない母でした。だから、これが精いっぱいの母なりの言葉だったのでしょう。なにせ流行のショートヘアにしている他の母親というのは、他に見当たりませんでしたから。
 母は、住む場所とやや離れた地区のある建築会社に勤めていました。田んぼばかりの田舎でしたから、周囲の母親たちはたいがい農業か工場に従事しているのが普通で、いわゆるキャリアウーマン(当時はそんな言葉はなかったように思います)という女性が珍しかった時代でした。
 しゃれた洋風の家。それがわが家でした。洋風といっても館とかというものではなく、いまならごく普通と呼べる一戸建ての家です。建築会社に勤めている母の長年の夢がかなったのでした。新築の一戸建てで、布団ではなくベッド、畳ではなくカーペット、ソファもあり、テーブルなどもモダンなものになりました。母は家族に、台所と呼ばずにキッチンと呼ばせ、名称も英語読みとなったのです。
 たとえ、家が洋風になったとはいえ、住む人というのはそう簡単には変わりません。特に父です。母が反対するのもかまわず、相変わらずトイレではなく「便所」と呼んでいるのでしたから。そう、なによりも父の存在自体がこの家に一番そぐわない和風であり、洋風と称する対極にあるものでした。
 もちろん、これはあくまで母が勝手に描いているイメージに過ぎなかったのだと思います。以前は母が自分の好みを反映させた服をいろいろと買ってきて、渋々ながらも父はスタイリッシュなものを着ていたころもあったのですが、少し前に友人としていた商売(どんなものかは説明してもくれず、さっぱりわかりませんでした)が失敗して職なしになってからは、よりいっそう頑固になり最近ではランニングシャツとトランクス姿となってしまいました。
 外ではどうか知りませんが、家では父はとても静かな人でした。寝ているかと思いきや、目は微かに開いていて、ナイタ―中継を観ていたりします。失業してからそんな傾向に輪をかけてより静かになり、存在感がいっそう薄まってきたようでした。
 窓の外からは夕焼けが見えました。とてもきれいでした。わたしはふいに父のことを思い出し、無性に心配になってきました。どうしてかはわかりませんが、もしかしたら夕焼けのせいだったかもしれません。なぜなら、ずっと夕焼けが橙色とばかり思っていたのに、実際の色は橙色というよりは紫色に近いことに気づき、わたしの頭の中がひっくり返されるような思いを味わっていたからです。
「父さん、もしかしたら帰ってこないんじゃないの、ねえ、母さんってば!」
 わたしは心にあった不安を口にしました。といってもなにかしらの根拠があってのことではありません。たいがいは、パチンコ屋で時間を忘れたとか、その程度のことであり、お腹が空けばすぐに帰ってくるものと思っていました。しかし、その日は、なにかが変でした。夕焼けの色が思っていたのと違った色をしていたのと同じように、父が違った行動をしているように思えたのです。
「もし父さんが帰ってこなかったら、母さんのせいだからね!」
 わたしはふいにそんなことを口走っていました。誓いますが、わたしはそんなことを思っていたわけではありません。自分でもどうしてそんなことをいったのか、まったくわかりませんでした。最近神経質ぎみだった母でしたから、どんな手痛い言葉が返ってくるかと、そのときのわたしは母の反応を内心で恐れていました。
 母はわたしをすごい顔でにらみつけました。母の手に握られていたおたまが、肩のあたりまで上がりました。カレーを作っていたおたまでル―がついたままです。それをわたしに向かって投げられるのか、と思いました。わたしはすかさず目をつむりました。
「なにをばかなこといっているんだい。そんなことより、カレーが出来たよ」
 なにやら殺気立った母でしたが、母が投げた言葉は裏腹に軽く、炭酸の抜けたコーラのようでした。思わず息が抜けてしまいました。と同時に、母の反応がわたしをより不安に駆り立てました。軽口か、怒鳴られるのだったら、そうならなかったのかもしれません。しかし、母はどう見ても変でした。
「ねえ、もし、かぼちゃのいうように父さんが帰ってこなかったら、そうしたら、わたしと二人で住むことにしようか? それでもいい?」
 ああ、母はどうしてそんなことをいったのでしょう。わたしはわけがわからなくなりました。まだ小学生だったわたしですが、あの日のことだけは細部をよく覚えていて、いまになっても鮮明に思い出すことができます。
 ――父がいなくなるなんて!
「かわいそうだわ、そんなふうに父さんのこというなんて!」
「あんたはそうやって、いつも父さんの肩ばかり持つのね。わたしがいなくちゃこの家はどうしようもないっていうのに。仕事を辞めてしまってぶらぶらしているだけなら、いてもいなくても同じことよ。母さんはいい加減に疲れてしまったの」
 いても立ってもいられなくなったわたしは、玄関へと飛んでサンダルだけを引っかけて外へと飛び出しました。母の声が背後から聞こえたはずですが、わたしは振り返ることをしませんでした。勢いで家を飛び出したはいいが、どうしたらいいのかわからないのでした。父の姿が周囲に現れてくれるような気がして見回しますが、そんな都合よくことは運んではくれません。
 わたしは逸る心で思案し、パチンコ屋かゲームセンターに行ってみようと決心しました。父はパチンコに関してはそううまくはなく、ゲームの腕のほうがまだマシでした。父がよくわたしを連れて行ってくれたので、そのあたりの事情はなんとなく察していました。あてずっぽうでしかありませんが、ゲームセンターにいると賭けてみることにしたのです。
 パチンコ屋は少し遠くですが、ゲームセンターは家からすぐのところにあります。わたしは夕焼けの中を足早に、不安になりながらも駆け足で向かいました。往来はほとんどありません。道歩く人もなければ、道路にも車は通りませんでした。近所は数軒だけの閑静な地区にあり、周囲は田んぼに囲まれています。
 田んぼを割って道が続き、街の中心部に繋がります。わたしが通う学校も同じ方向にあり、ゲームセンターはその少し奥にありました。通学路ですから、通い慣れた道でした。それでも朝と夕ではまるで違った雰囲気を醸していました。
 梅雨が明けて、田んぼの稲はこぞって成長しているようで、ふさふさとした葉が揺れています。朝であれば、さぞかし気持ちのいい風景でしょう。しかし夕暮れ時となると、田んぼの稲は朝の輝かしい光ではなく、やがて来る夜の暗さを吸い込み始めていました。
 田んぼが続くそのさらに向こう側には、落ちてゆく陽が山々の峰を、影で浮かびあがらせています。緩やかな形状をした山で、標高もそう高くはありません。いつも見下ろすようにそびえ立つその山は登下校時にいつもそこにありました。優しくわたしを見ていてくれるような気がしたものです。
 わたしは一人道を歩きながら、父のことを想いました。父は母と結婚する前は、あの山で農業に就いていたのです。母といっしょになってから、いまの家に住むようになったのですが、一家で農業を営んでいた父の家族とともにあの山の麓で暮らしていたのです。父にはまだ連れて行ってもらっていない場所でもありました。山のすぐ近くには小さな川があり、そこでよくメダカなど捕りに行きましたが、そこまでです。
 当時の父は仕事をしていなかったので、下校時によく校門の外でわたしを待ってくれていることがありました。そんなことをする親はわたしの父以外にいませんでした。たいがいの親は忙しく、子供にかまっている暇はなかったのです。田舎ですから子供たち同士で登下校をするのが慣例でした。
 そんな中で、わたしの父は校門に隠れるように小さく立っていました。そうしてわたしを見つけると照れ臭そうにして、はにかんだ笑顔を覗かせます。他の子供たちの手前からか、後ろからそっとランドセルを叩いて、わたしを振り向かせるのです。
 母はいつでも仕事が忙しく、父は失業中です。もとからよく父と遊ぶほうだったのですが、このころになると父がいろんなところに連れていってくれました。アユ釣りに、カブトムシ捕り、いろんなことをしました。自然の中での遊びが多くなるにつれて、他の子供たちとは少しずつ離れていくようになったのです。
 父とはあの山の近くまで遊びに行きました。父が小さいころによく遊んだ場所でした。蝉をとればわたし以上にはしゃぐし、ぜんまいを採れば夢中になるのは決まって父でした。自然の中で育った父の幼少時代が目に浮かぶようです。というか、父の中に隠れて棲みついていた、子供時分の父がひょっこりと姿を現した、といったほうがより近いかもしれません。
 家では暗い顔をして黙りがちだった父も、自然の中で遊んでいると表情は全く違ってきます。暗い顔をして陰気に虫とりなどはできないものです。自然と親しむとはそういうことなのです。そうなると、父はいろんなことを勝手に喋ってくれます。父が学生のころ、農業をしていたころ、など、普段の父ならば訊いたところで不機嫌になるだけで、話しなどしてくれることはほとんどなかったのです。
「ねえ、父さん、わたし父さんが育った家を見たいわ。ねえ、連れて行ってくれる?」
 わたしは無邪気に何も考えることなく、そんなことを尋ねました。
「できねえ」
 父は眉間に皺をよせて、きっぱりとはねのけました。
「できない、ってどうしてなの?」
「夢に見てしまうからじゃ。いまでも時々見る夢じゃ。同じ夢を繰り返し、繰り返しな。だから、お前を連れていきたくとも、おれは怖くていけないんじゃ」
 わたしは父の顔を覗きこんでいました。何をいっているのか、さっぱりわからなかったからです。
「地震の夢じゃよ、じ、しん」
「じ、し、ん?」
「お前にはまだいったことなかったかのう。おれの親は地震のおかげで死んだんだ。家も半壊した。おまけに広大な畑も、あたり一面で土地がぱっくりと割れてしもうた。おれはな、あの地震でなにもかもを失ってしもうた。残ったのは、おれ自身だけ。あとはなにもかもダメになった」
「そんなに大っきな地震だったの?」
「規模自体はそう大したことなかった。町のあたりだって無事だったし、怪我人が出て、家屋がいくつかダメになったくらいじゃ。一番の被害を被ったのは、おれらのところだけだったといってもいい」
「……」
「いろんな野菜がとれた。農業も規模が拡大し、軌道に乗ってきた矢先のことじゃった。とくにおれが個人的に力を入れていたのが、かぼちゃじゃ」
「……かぼちゃ?!」
「そうじゃ、お前につけた名前はなあ、おれが大事に育てようと思っていたのがかぼちゃだったからじゃ。おれはかぼちゃという野菜が気に入っていた。かぼちゃという野菜はとてもたくましい。多少の条件が悪くとも、ぐんぐんと育ってゆく。活気と力がかぼちゃという野菜にはみなぎっているんじゃ。おれは日本一のかぼちゃを作るつもりでいた。それがおれの夢だったんじゃ」
 父がそこまでかぼちゃという野菜を作ることに賭けていたとは、初めて知ったことでした。まして夢という言葉が、父の口から出るのを聞いたのも初めてのことだったと思います。
「お前にも、かぼちゃみたいに育って欲しくてつけたんじゃ」
 わたしはショックを受けました。かぼちゃという名前をこれまでいいと思ったことはありませんでした。嫌いではありませんでしたが、もうちょっとマシな名前――かぼちゃという田舎っぽい響きのものでなく――例えばバナナやリンゴ、ミカン、これらの果物だったら少しは女の子っぽいし、なにやら芸能人っぽくていい、と何度思ったことでしょうか。
 しかし、わたしの名前の由来を父から聞いてからというもの、胸のつっかえがとれた感じがしたのも事実です。これまではかぼちを食べてもろくに味を噛みしめることができなかったのですが、以来かぼちゃのコロッケを筆頭に、煮物や 、あるいはかぼちゃのケーキなどもむしろ好んで食べるようになったのです。ようやく、わたしはかぼちゃという野菜の本来の味を知ることができたのです。
「おれは地震ですべてを失ったと思った。なにもかも。けれど、おれは地震のあとで一人のかけがいのない人と出逢うことができた」
「父さんを助けてくれた人がいたの?」
「そうじゃ、それがお前の母さんじゃよ」
「母さんと?」
「もし、あのときお前の母さんが助けてくれなかったら、おれは野垂れ死してたかもしれん」
 母との馴れ染めまで話してくれた父でした。もちろん、わたしは幼すぎてすべてを理解することはできませんでした。けれど、わたしの小さな胸に一つの大切な事実が刻み込まれました。
 父と母は地震を通じて出会った、ということです。人の縁のなんと不思議なことでしょう。わたしはそう思わずにはいられませんでした。
 地震で土地がダメになり、家が半壊しました。父の母親は、家の中で柱の下になって死んでいるところを発見されたのです。父の父親は外に出ていて生き延びました。写真でしか知らない父方の祖父母ですが、祖父は市から提供された仮の家に父と共に移ったのはいいのですが、すぐに心不全で亡くなったそうです。父はわたしには、地震で両親とも亡くしたといいましたが、実際のところ祖父は地震で受けた精神的なショックが相当堪えたようです。
 母は父と祖父のことを気にかけて、ボランティアでちょくちょくと顔を見せては、日常の面倒を見ていたといいます。母は当時もいまと同じ建築会社に勤めています。市が提供した仮の家には母の建築会社が携わり、その担当社員だったのが母なのです。地震の犠牲者だった父らに、献身的な手助けをする母、その関わりの中で二人の間に自然発生的に恋が芽生えたのです。いわば地震がきっかけで生まれた恋だったのです。

 *
 
 父について考えにふけっていたためか、あるいは昼から夜に反転する刹那的な時間帯を歩いていたためか、わたしはもう小学校の前まで来ていました。父が育った山はすっかり影を帯び、夜の空に少しずつ飲み込まれようとしているようでした。
 また、小学校もしかりです。灯りがついておらず、校舎は夜色に染まりかけており、のっそりとした不気味な建物といった感じでした。誰一人いないグラウンドというのも、なんだか近づきにくい独特の雰囲気が漂っています。わたしが毎日通っている学校ですが、夜となるとまったく別のものに変身しているようです。
 見ているだけでわたし自身もそこに飲み込まれていくようで、わたしは誰もいない校舎を見ないようにしなければいけませんでした。一人が急に心細くなりましたが、父のことを想うと歩を進めるしかありませんでした。迫りくる夜は怖いですが、父がいないということはもっと怖いことだと感じていたからです。
 しかし、学校まで来ればゲームセンターは目と鼻の先です。対照的に、ゲームセンターの煌々とした明かりは、暮れ時にあってなおいっそう輝いているみたいです。わたしはゲームセンターの光にほっとしました。わたしは街灯のもとに光を求めて集まってくる虫たちの心理が、このときほど身にしみてよくわかったときはありませんでした。
 ゲームセンターの中はそれこそ、まばゆいばかりの色と騒音であふれていました。ゲーム台から鳴るけたたましい音と、原色系の派手な色彩にちかちかと目がくらむほどです。この中に、幾人たちかの男の子の姿がありました。背が高く、体格のよい男の子たちです。
「おい、そこのガキ!」
 ひょろりとした体躯と丸坊主頭。ジャージ姿でスニーカーを履いています。頭が小さく首が長いので、その男の子はキリンのように見えました。
「お前、一人なのか?」と、キリンはわたしに訊きます。
「うん」とだけいって、わたしはうなずきました。キリンは背がとても高いですが、他の男の子たちも身体つきはよく、おそらく中学生なのでしょう。男の子たち数人に取り囲まれ、わたしは怖気づきました。
「おい、金持ってねえか? ちょっとでもいいから、持っているだけ出すんだ」
 わたしは怖さのあまり下を向いていたのでわかりませんが、おそらくキリンがそういい出したのだと思います。つい足が震えてきて、気が動転していたので、なにも答えることができませんでした。
「おい、ガキよ! 黙ってねえで、さっさと持っている金出しなよ」と、今度はさっきと違う声がしました。
「お金なんか、持ってないわ。それにわたし、ガキじゃないもん!」
 わたしのことをガキなんて呼ぶので、ついかっとなりました。もし同級生の男の子であったのなら、迷わずにげんこつの一つでもくらわせていたことでしょう。しかし、中学生の男の子相手ではそうもいきません。
「よく見りゃあ、知っている顔じゃねえか。お前、かぼちゃだろ?」
 そう言ったのは坊主頭の男の子で、顔だけは見覚えがありました。
「髪を短くしたから、わかんなかったぜ。それにしちゃあ、どうしてそんなに短く髪を切ったんだ。それじゃあ、まるで男と間違われてもしょうがねえじゃねえか」
 わたしはいわれたことに、カッとして頭に血が昇ったようです。そして、母のことを心の中で恨みました。
 ――ほれ見たことか。だからお母さんと同じ髪型なんか、わたしはしたくなかったのに。そう思ってみてもどうしようもありません。少し前に母に連れられて美容院に行き、長かった髪を母と同じショートにされたのです。
「それにしても、お前ほんとうは男なんじゃないのか? それにかぼちゃなんてダサい名前だし、女っぽくねえしな。笑っちゃうよな、かぼちゃなんて名前」
 わたしは男の子たちの笑う声に耳をふさぎこみました。父と来ているときは楽しかったゲームセンターがすっかり恐怖の場と化していました。いつの間にか膝が怖さでガクガクと震えていました。
 どうにかして逃げよう。そう思って、その場から立ち去ろうとしたのですが、身体はいうことを聞きません。回りを数人の男の子たちに取り囲まれ、どうすることもできません。とたんに涙がものすごい勢いで出てきました。溜まっていたものが一気に爆発したように、わたしはわんわんと泣いていたのです。
「うわあああああああああん!」
 泣いたのは悔しさのため、あるいは怖さのためだったでしょうか。ともかく、どうしようもない状況のとき、まだ幼い女の子が、たった一人でなにができたというのでしょう。わたしは普段泣くことの少ない子供でした。少々のことでは泣かなくても、このときは心の底から、誰かに助けを呼びたかったのだと思います。
 大きな声で思いっきり泣いてみることで、わたしは周囲が見えなくなっていました。ただただ、心の底から流れ出てくるなにかに身を任せ、まるで壊れてしまった玩具のように泣きじゃくっていました。
「お前ら、何をしとるか!」
 たとえ壊れてしまった玩具であっても、やりかた一つで止まるものなのです。あれほど泣き続けていたわたしをぱっと止めたものは――そうです、父の声がしたからなのです。
「うおおおおおおお! お前ら、許さん!」
 なんというタイミングでしょう。絶対絶命のピンチに現れたヒーローです。弱気を助け、強気を憎む。白馬に乗った王子様といったほうが女の子っぽいのでしょうが、ボサボサ頭に無精ひげ、ランニングシャツに短パンという父の出で立ちでは、どうしたところで白馬の王子様とはかけ離れているというものです。
 それにしたって、わたしを助けてくれた父に感謝することに変わりはありません。小学生の女の子にとっての父親象とはヒーローそのものであります。しかもこんな形でわたしを助けてくれたので、この瞬間からわたしの父は心の中ではずっと理想化されたヒーローであり続けることでしょう。
「やべえ、ほんとにかぼちゃのオヤジが出てきたじゃねえか」と、男の子の誰かがいいました。
 次に同じ声で、
「しかも、怒っているぞ!」
 こめかみに血管を浮かせるほど顔を真っ赤にし、怒気をみなぎらせた声を唾といっしょに撒き散らす。そんな父の姿を見るのは、肉親であるわたしにとっても初めてのことだったと思います。
 普段の父は、細い目で開いているのかそうでないのか、わからないのですが、このときばかりはきっちりと目を開けていました。わたしの父ほど、怒った顔を想像するのが難しい人はいませんでした。そんな父がここまで感情を振りかざしているのです。
「ずらかったところで、お前らがどこの学校かくらいは知っているからな。覚えとけよ、こんちくしょうめが!」
 そんな脅しめいた父の言葉が効いたのか、男の子たちはゲームセンターから姿を消すようにいなくなりました。
「やった!」
 わたしも思わず声を上げました。敵はすっかり怯えて雲隠れしてしまいました。いつもの父がとても堂々としていて力強く感じられました。まるで山のようです。不動なる山。思えばわたしは、こうしていつも父に守られているのだと思えました。
 そして、素直にこうして父の顔を見れたことで嬉しかったのです。どうしてわたしは父がいなくなるだなんて思ったのでしょう。そんなことはあるはずがないのに。現にこうしてわたしの目の前に父がいる。母のいうことを聞かず、無茶して飛び出してきたのが馬鹿のよう。でも、それでよかったのです。だって、こうして父の姿がここにあるのですから。
 わたしは父に抱きしめてみらいたくなりました。父の優しい視線に飛び込み、痩せた身体にぎゅっと抱かれ、髭がくすぐったいくらいに父にチューして欲しかったのです。
 大きく手を広げて、さっきまでわんわんと泣いていたのが嘘のような笑顔で、わたしは父の側に駆け寄りました。父は笑顔でわたしを迎えてくれています。
 そんな笑顔の父が、次の瞬間に、崩れていきました。みるみると苦痛の色に変化していったのです。わたしはあまりに急のことで、なにが起こっているのか皆目つきませんでした。さっきまでの優しかった目には、苦悶が見てとれます。父は胸のあたりに手をやっています。
 かがみ込むように父は身体を丸めていき、手を胸に当てたまま、床に転がるようにして倒れていきました。苦し気なうめき声が響きます。咳も出てくるようで、ごほごほとむせかえしています。何度も何度も咳に襲われ、苦しい表情をするのです。
「お父さん、お父さん! だいじょうぶなの、ねえってば?」
 咳はそう長くは続きませんでした。咳が止まると、状態はやや良くなったようで、父は自ら身体を仰向けにしました。息を浅く吐いています。苦悶の表情は和らいだようでした。父は腹のあたりで手をつなぎ、宙を見ていました。
「か、かぼちゃ……」
 わたしはあまりのことにどうすることもできず、ただただ祈っていました。心の中で、神様、神様、父さんを助けて下さい、と。その祈りが通じたのかどうか、父の血色はよくなり、顔に生気が戻ってきました。
 ――よかった!
 父は床に横たえていたのですが、自らでゆっくりと上半身を起こしました。そして、はっきりとした口調でこういいました。
「地震じゃ。もうすぐ地震が来る。しかも、今晩……」
 わたしはあっけにとられて、口が開いたままでした。父がなにをいっているのか、どうして地震のことなんかいうのかさっぱりわかりませんでした。
「腹が減った。なにか食うもんねえか?」
 とにもかくも、父が元気になったのが素直に嬉しいわたしなのでした。
 父から小銭を渡され、わたしはゲームセンター内にある自販機でカップラーメンを父にあげました。日が落ちても気温はまだ熱くて、カップラーメンなんか進まないだろうと思いきや、父はあっという間に平らげてしまいました。
 わたしだってお腹は空いていたので、同じくカップラーメンを食べました。日ごろから箸使いが下手だと母にいわれているわたしですが、こんなときであればこそ箸を上手に使うことができました。
「父さん、もうだいじょうぶなの? よくなった?」
 わたしは父に尋ねました。こめかみあたりに汗が浮かんでいます。おそらくカップラーメンをあんなに急いで食べたからでしょう。父はなによりの猫舌でしたから。
「おう、だいじょうぶさ。あんなに咳が出たけどな。もうなんともねえし。まあ、そんなに心配することあねえぞ、かぼちゃ。たぶんあれだ、ほら、あのガキども。あいつらに怒鳴ったせいかな。普段大きな声なんか出さねえからなあ。それで喉がつっかえたんじゃろ」
 父はもうすっかりよくなったようで、ゲーム台の間をうろちょろと歩き回っているほどです。
「それにしたってあのガキどもめ、覚えていろよ。数人でよってたかって小学生のお前を苛めるなんて。根性が腐っとる。一人で怖かったろう?」
 父はわたしの肩を抱き寄せて、そう訊きました。確かに死ぬほど怖い体験でした。けれど、わたしは、とっても怖かった、死ぬほど怖かったよ、といって、父に抱きつくような子ではありませんでした。というか、そうしたかったのはやまやまなのですが、ここでするべきではないと思ったのでした。
 悪ガキたちに少しくらい脅されるより、もっと酷だったものがありました。
「あいつらね、わたしが髪切って、男の子みたいだって笑ったの。それにかぼちゃっていう名前も、ダサいって――」
 わたしは父にそう告げました。そのときは、あの男子たちがわたしの外見や名前のことで上げ足をとられたことがもっとも辛いことでした。少しくらいいわれたところでと、我慢するべきだったのかもしれませんが、わたしにはできませんでした。
 父はかっかした様子でした。普段から温厚な父ですが、このときばかりは、くそっ、畜生、とか、そんな言葉を吐いて、ゲーム台なんかを叩いているのです。感情をあらわにする父の姿に、わたしはちょっとばかり困惑ぎみでした。
「人の弱みにつけ込むってことは、人としてしちゃあいけねえことの一つじゃ……」
 ひとりごとのように父はいい、それから財布の中の小銭を出しました。百円玉が少なかったので、父に千円札を手渡されて、両替機で崩しました。父はゲーム台の前に座って、百円玉を入れます。それから、ピコピコと音が鳴りだします。レバーをしっかり握って、画面を食い入るように見つめています。
「一回だけじゃ」
 父はいきなりゲームを始めたのです。いまお気に入りのシューティングゲームです。爆撃機を動かし、敵の砲撃をかわしながらも、自らミサイルを撃ち敵機をやっつけながら進んでゆくのです。
 ゲームなどする気にはなれませんでしたので、父のとなりに座って見ていただけでした。父はひっきりなしにレバーを動かし、ボタンを連射しています。ゲームに没頭していました。父の爆撃機は敵に追撃されることなく、どんどんと進みます。途中で宝物や強力な武器を手にします。
 中ボスがいる場面まで突き進んできました。相手は半端でなく、次々と集中砲火をしてきます。父はそれでもひょこんとした顔で、ひょいひょいと交わしながらも、ミサイルなどの手は休めません。
 強く思えた中ボスも、やがて色が変化してきて、勢いがなくなりました。劣勢だったのが徐々に挽回し、中ボス撃破までもう少しのところまできました。そして、中ボス突破を成し遂げて、次のステージに突入したのです。
 わたしは目をきょろきょろとさせて、画面と父の顔を交互に見ていました。父は平素な顔でゲームをしています。その目はゲームに集中しているのでしょうが、どことなく画面ではなくどこか遠くを見ているような感じを受けました。
 父は黙々とゲームをするだけで、一言も喋りませんでした。ですので、父に声をかけたくてもそんな雰囲気ではありません。わたしはというと、父のとなりに座ったまま、ゲーム画面が淡々と進んでいくのを追っていくだけでした。
 しばらくして、父は唐突に、
「なあ、かぼちゃ。お前さあ、いつかおれにいったよなあ。おれの育った家を見たいって。おれの土地、精魂こめて育てたかぼちゃ畑。なあ、かぼちゃ、見てみたいか?」
 わたしはびっくりして、父を見ました。
「でも、地震でなくなっちゃったんでしょ、かぼちゃ畑は?」
 父は手だけは頻繁に動かしたまま、ちらりとわたしのほうに視線を向けました。
「ああ、なくなったはずじゃ――」
「なくなった、はず、って?」
「実のことをいうとな、おれは地震以後、まだ一度もあの土地に戻ったことがなかったんじゃ」
「じゃあ、もしかしたらまだ畑は残っているかもってことなの?」
 父はわたしの問いには答えないで、
「地震が起きたとき、おれはかぼちゃ畑にいた。唐突に揺れが起こり、その場で動けずに地震が収まるのを待った。立っていたのが、いつの間にか地面に手を下ろしてしゃがんだ格好になっていた。揺れはけっこう続いた。まあ、何分というわけじゃねえが、それでもかなり長く感じられた。おれは近くにある立木が揺れるのを見ていた。そのすぐあとじゃ、大規模な地割れが起こった」
「じ、じわれ?」
「最初の地震が収まり、おれはその場を去ろうとしたとき、再び余震に襲われた。ほんの軽い揺れですぐに収まった。が、とたんに地割れが起こったんじゃ。おれの立っているすぐ眼の前で、地面にぱっくりと亀裂が走ったんじゃ。土地があっという間に真っ二つに割れていった。すさまじい勢いじゃった。身体を支えている大地そのものが、変動していく瞬間じゃ。ぽっくりと開けた地面の中に畑のかぼちゃたちが飲みこまれていった。かぼちゃの葉がなぎ倒されるようにして土の中に消えていくのを、おれはこの目で見ていた。おれ自身も飲みこまれてしまうものと観念した。が、おれのわずか足元2メートル手前で、動きは奇蹟的に止まったのじゃよ――。おれはしばらくは動くことができずにいた。怖くて足はずっと震えていたままだったけどな」
 父があまりに臨場感を持って、地割れの瞬間を語るので、わたし自身もまるで父と同じ体験をしたようになっていました。しかも父はゲームをしながら、あくまで淡々として冷静に、地割れの様子を語るのですから、わたしはただ息を飲んでいるだけでした。
「おれって、こんなにゲームうまかったっけ?」と、父はひとりごとのようにいいました。というか、実際にはひとりごとだったのでしょう。
 わたしは答えに窮して、黙ったままでした。
「なあ、これから見に行こうか?」と、父はそっけなく、漏らすように訊きます。
「どこへ?」
「決まってるじゃろ、かぼちゃ畑だよ。見にいくんじゃ。あの土地は危険だということでしばらく立ち入り禁止じゃったが、地震以来もう何年もたっておる」
「でも、これからっていっても、もう夜よ、父さん?」
「学校は夏休みじゃろうが」
「で、でも、母さんはどうするの? 心配してるはずだわ」
 父さんは一瞬、渋い表情をしました。
「うむ、それはそうじゃの。じゃあ、お前を家まで送る。それから、おれは一人で行く」
「ひとりでって?! そんな!」
「母さんはお前のことを待っておる」
「わたしだけじゃなくて、父さんのことも待っているわ!」
 わたしは威勢よい声で父にいいました。が、父は答えません。わたしにとってはあまりに自明なことが父にとっては違っているのではないか。そんな思いがふいに浮かんできて、わたしを不安な気持ちにさせました。
 ゲーム台ではまだ画面が進んでいます。父は座っていた椅子からいきなり腰を上げて、すっと立ち上がったのでした。
「ちょっと、父さん! トイレに行くならそうと……」
 わたしはあわてて、ゲーム台の前に座りレバーを握りました。しかし、ほんの一瞬で敵機の砲撃を受けてしまいました。
「どこ行くの? ゲームはまだ終わってないのに! もうちょっとで最終ステージなのよ!」
 父は振り向きもしません。か細い父の背中がゲームセンターの出口に消えかかりそうになり、あわててわたしは後を追いかけました。
 ――ちょっと、父さんってば……。いきなりどうしたっていうのよ?
 外は真っ暗でした。夜です。ゲームセンターの眩い光にあたっていたので、わたしの視界も真っ黒になりましたが、それもほんのひと時のことですぐに慣れました。
 今宵の闇はなんともいえない柔らかな紺色をしているのでしょう。自然が繰り出す漆黒の闇夜は、天から射す燐光によって幾分にも薄められているようでもありました。
 満月の夜です……。
 天に燦々と輝く月は、宙にあって圧倒的な存在感を示しています。しかし、その光はあくまで優しいものです。白色光を嫌う父が好んだ、和紙の照明のように淡い灯を想わせました。あちこちから聞こえる虫の鳴き声も、いくらか夜の怖さを和らげてくれました。
 湿った空気と初夏特有のむせ返すような草木の匂いにさらされ、しんと静まり返ったなかで、わたしは父の姿を一瞬見失ったかと思いました。しかしゲームセンターの軒先の下で、夜の影に混じって何かが動いているのが見えました。
「父さんなの?」
 わたしが声をかけました。すると、影の中でなにやら動いているのがわかりました。大きなものであり、闇を掻きぬけるようにして、ゆっくりとこちらに向かっているのです。
 その大きな塊のようなものが、ぬくっと出てきました。と同時に、夜を切り裂くように色鮮やかな光線でわたしの目は眩んだのです。
 わたしは映画館で観たばかりの「E.T.」のことをすぐに思い浮かべました。まさかこんな田舎に宇宙人が来るなんて。その小さな宇宙人が乗っていたのが、あの眩い光を放つUFOなんだわ。
 もちろん、そんなことはあるはずはなく、その正体というのは自転車でした。
 しかも、当時一世を風靡したフラッシャー付きの自転車でした。フロントには目のように光るヘッドライトが二つあり、下部にフォグライトというのでしょうか、淡黄色のライトがついているタイプでした。
 重々しくメタリックな自転車というのは、男の子たちの間では羨望の的だったようですが、わたしにとっては単なる自転車でしかありませんでした。
 父は自転車に跨り、誇らしげにライトを点滅させて、派手な赤や橙色が交互に点滅する様を喜んでいました。
「どうしたの、それ?」
「あの悪ガキどもが置いて行ったものじゃろ。かぼちゃ、後ろに乗れ!出発じゃ!」
「ちょっと、でも――」
「つべこべいわんで、ほら手伝うから後ろに乗れ」
 わたしは父にいわれるがままに、父の手を借りて小さい身体を自転車の後部に乗っけることができました。
「しっかりつかまるんじゃ!」
 そうして、わたしと父はゲームセンターを後にしました。ペダルをゆっくりと漕いで、自転車は舗道に出て行きます。変速を換えて、段々と加速していき、けっこうなスピードが出ました。
 かなり重装備な自転車なのですが走っていると、軽々しく感じられてきます。歩くスピードとは格段に違うので、目に移るものは早く過ぎていきます。道路に立つ電燈が横を通り抜けていくさまは、なかなかのものでした。
 あっという間にわたしの通う小学校が通り過ぎていきました。田んぼが続く一本道をどんどんと進んでいきます。
 歩いてきたときは長く感じられた道も、自転車であればあっという間であり、すぐにも家に着いてしまいまいそうです。わたしは父の背中に隠れるようにして、夜に沈む街とそれを囲む自然をずっと見ていました。
 風が肌に当たるのが気持ちよく、薄らとした月の光に晒された水田が目に映りました。水田の水面に映し出される満月のなんと幻想的だったことでしょう。稲が水を吸ってすくすくと成長しているさまが、こちらにまで伝わってくるような感じでした。
 ほんわかとした心持で自転車に揺られていると、もうわが家の近くに来ました。家の灯りが見えたところで、自転車のブレーキがかかりました。
「降りるんじゃ」
 父は振り返ることもなく、前方に目をやったままでいいました。毅然とした声だったので、わたしは従いそうになりましたが、サドルから腰を上げませんでした。
「さあ、早く」
 わたしはぎゅっと唇をかみしめて、てこでも動くつもりはありませんでした。
「父さんが行くならわたしも行く。ひとりでは行かせないわ」
「そんなダダこねちゃいかん」
「イヤよ、イヤイヤ――」
 わたしはふくれっ面をして、首を横に何度も振っていました。
「聞き分けのないヤツじゃ」
「父さんに似たのだわ」
 すると父は声を出して笑い出したのです。なにがそんなに可笑しいのか、わたしには皆目つきませんでしたが、とにもかくもこれで父といっしょにいれるような気がしたものです。
「父さんのかぼちゃ畑を見たいわ」
 わたしは期待をしつつの言葉を父にかけました。父は沈黙したままでした。しかし、父が連れていってくれるだろうという期待を、わたしは父の背後で密かに抱いていました。父は黙っていながらも、静けさに含まれたポジティブな父の空気のようなものを、わたしには子供ながらに感じとっていたのです。
 例えば父はなにかを買って欲しいときと頼み、ダメのときは即否定するのですが、ウンというときは少し黙っている癖があります。
「わかった」
 ひっそりとした背中越しに父の声が聞こえてきました。
「うん」と、わたしは小さくうなずきながらも、心の中ではやったと快哉を叫んでいました。
「じゃがのう――」と父は釘を刺すようにいいかけ、
「ふうー」とため息をつき、それから髭をさすって、その後でようやく、
「なあ、かぼちゃ、おれはあのかぼちゃ畑が無惨な姿になっているところを見たくねえんじゃ」と、父の本音がぽつりと漏れたのです。
 そういったときの父の背中のなんと小さかったことでしょう。わたしはというと、父の縮こまった肩をポンと手で叩いて、
「そんなこと行ってみなくちゃあ、わからないことよ」
 実際のところ、父は地震のあとで一度も見に戻らなかったそうなので、気休めなどではなく、本当に行ってみないことにはわからなかったことだったのですから。
 地面を蹴って止まった自転車の車輪を動かしたかったのですが、わたしの足は届かずに空回りしたので、騎手が馬にするように父の肩を軽く叩いて、父を促しました。
「行ってみなくちゃあ、わからない……か」
 よし、と父は自ら奮い立たせるようにして、再び自転車を漕ぎ始めようとしたのです。
 ――さあ、行こう。かぼちゃ畑を見に行くんだ!
 わたしのほうはといえば、もうすっかり乗りのりの気分でいました。あたかも軽い気分で遠足にでも行くかのように。もうわたしの頭の中では、一面にいっぱいなかぼちゃ畑のイメージで覆い尽くされていたのですから。
 わたしが父の背中にチューをすると、合図かのように父の身体に力が入りました。ペダルを力ずよく踏んで、再度自転車が動き出します。車輪の動く音が、静まり返った空気を切り裂き、シューシューと聞こえてきます。
 路肩に止まっていた自転車は車道に戻りました。やがてわたしたちの家の前を通り過ぎて行きます。灯りがついていました。家にいるだろう母はもちろん心配しているはずです。
 しかしながら、わが家を目の前にしてわたしも父も母のことを言及しませんでした。決して母を顧みないというわけではありません。それは父も同様です。ただ、一度回り始めた希望の車輪を止めることはできないという一心であったと思います。
 たとえ朽ち果てた畑になり果てて見る影もないのであったとしても、やはり行くべきであったでしょう。そう思えて仕方なかったのですから。
 わたしの胸は勝手に脈打ってきて、次第に興奮してきました。それは父も同様でありました。父の背中から伝わってくるものと、わたしの内なるものが溶け合った瞬間であり、わたしと父が乗った自転車は闇の中をひたすら突っ走っていきました。
 たとえ月光がわたしたちの味方であっても、やはり暗然たる自然の夜というものから畏怖を取り除くことまではできません。ふと横を向くと幽々とした木々からは何者かが出てくるような気に襲われたりします。
 ですからわたしはヘッドライトが寸分先の仄暗い舗道を照らし、切り開いていく様に視点を当てていました。やがてそれにも慣れてきたので、頭上を見上げることにしました。
 果てしなく拡がる宙に散らばっている星々の輝きを見ていたのです。ある星は群れを成すように寄り添いあい一つの調和を生み出しているように見えます。またある星は単体でその輝きを誇らしそうに表しているように見えます。
 わたしは数多なる星たちに混ざって、朱色に光る小さな星を南方の宙に見つけました。
「ねえ、父さん、赤色の星を見つけたわ」
「あれはな、アンタレスという一等星じゃよ」と、父は答えてくれました。「よおく目を凝らして見るんだ。何かの形が見えてこないか? 赤い星が心臓で、それを軸として蠍の形が見えてくるはずじゃ?」
「あ、さそり座なの?」
 学校でも習ったことがあります。さそり座。ハサミとくねった胴体のような星の繋がりが見えてきました。わたしはさそり座が見えたので嬉しくて仕方ありませんでした。首が痛くなるのを堪えつつ、わたしは宙を見上げていましたが、さそり座のすぐとなりにもう一つの赤い星があるのを発見しました。
「ねえ、もう一つ赤い星があるわ。あれは?」
「なに、もう一つ赤い星だって?」
 父は自転車を止めて、南方を見上げました。
「本当じゃ。あれは火星だ。しかも、さそり座のすぐ近くにある! なんと不吉な……」
「え!? 不吉って? あ、父さん、こっち見てよ。こっち、流れ星よ。流れ星を見つけたわ!」
 わたしは逆方向に顔を向けていて、流れ星が白色の尾を引いている様を見つけたのです。流れ星が消えるまでに願い事を三つを唱えると、願い事が叶う。そう言われていることを思い出して、とっさに心の中で願い事を唱えました。
 しかし、とっさに願い事を三つも唱えることができず、流星は見えなくなってしまいました。
「すぐに消えちゃうんだもの。三つなんて難しいわ」
 わたしがそう言うと、父は、
「流星は儚く、瞬きほどの間しか姿を見せてくれん。だからな、大事なのは、いつ流れ星が現れてもいいように、いつも心の中に三つ願い事を持っていることじゃ」
「また、流れ星捜すわ」
 わたしたちはまた走り出しました。流れ星をまた期待していたのですが、待っていて都合よく出現するほど甘くはありませんでした。
 ――いつか流れ星に三つの願い事をかなえてもらうんだわ。
 わたしはそう心に決めて、父が漕ぐ自転車に揺られていました。やがて夜空を見上げているのに飽きてきました。自転車を漕ぐ父はというと、無愛想なくらいに無口なので、わたしはつまらなくなったのです。
 そこで歌を歌い出しました。なんとなく頭に残っていた曲でしたが、当時流行っていたので歌詞はすらすらと出てきました。学校でも流行っていました。
 
 メダカの兄弟が川の中 大きくなったら何になる
 大きくなったらコイになる 大きくなったらクジラに

 スイスイ
 
 だけど大きくなっても メダカはメダカ スイスイ

 シンプルで歌いやすいうえに、味わい深さもきっちりあるところが当時の歌らしく、昨今の安易なだけの曲とは一味違います。歌詞の本当の意味は子供には理解できないでしょうが、大人になると身に沁みてわかってくるものです。
 わたしは夏の夜風を肩で受けながら、声を周囲に響かせるように歌いました。人はどうして一人きりになると歌を歌いたくなるのでしょうか。それは子供でも大人でも同じなのでしょうか。声に出すことで歌の持つ魔力のようなものが、自分の身体に沁み込んでくる。わたしにはそんな気がしてなりません。
 楽しいときには楽しい歌を歌いたいものです。わたしはウキウキするような、元気が出るような歌を歌いたかったのだと思います。
 ――これからかぼちゃ畑を見にいくんだわ。
 心がすくすくと湧き立ってきます。父が精魂を込めて養えたかぼちゃ畑。たとえそれがどんな姿を晒すことになろうとも、ここまで来ればなにがなんでもこの目で確かめなくては。わたしはそんな心境でいたと思います。
 いろんな歌を口ずさみました。でたらめな歌詞で順番があべこべだったかもしれませんが、とにかくわたしは歌い続けました。やがて思いつく限りの歌を出しつくしました。
 それから、わたしはそっと目をつぶりました。そして、自然界が発する歌に耳を傾けることにしました。
 視覚がないと、聴覚に頼るせいか、耳がさまざまな自然界の音を嗅ぎ分けるようにして、たおやかな音色の素晴らしさをより実感できるようになってきます。
 梢の葉の重なり合う音が連なり、優しい旋律となって聞こえてきました。
 秋まで待たなくても虫たちの鳴く音が、まるで楽器のごとくの優雅なメロディを生み出すのが耳に入ってくるではありませんか。あるいは、初夏の心地よいそよ風が夜の大気をかすかに震わすような、繊細な音をわたしに届けてくれます。
 自然が奏でる音楽こそ最も美しいものである、といったところで決して過言ではないでしょう。わたしはその調べに唯々諾々と聴き入っていました。
 また音というのは匂いなどとともに、頭のすみにあって忘れられていることでさえ、どこかで綿密に記憶と繋がっていて、それらを呼応させることによりイメージを鮮やかに脳に喚起させることができる機能を持っているのですね。
 自然の音色によってある映像が頭の中にすらすらと流れてきました。わたしはこれらの光景に身を任せるがままにしました。
 小川でメダカやザリガニをとりに行ったときのこと、渓流でイワナを釣りに行ったとき、夜の街灯に集まるカブトムシを探したとき、朝顔の種を蒔いたときのこと、飼っていた犬が病気で死んでしまったときのこと。
 どういうわけか、その光景のどれもにしっかり父がいるのでした。わたしの傍らにひょっこりと佇んでいます。母のように強い存在感こそないものの、山野にあって慎ましい花を咲かせているスミレのようなものです。
 わたしは無性に父が愛しくなり、父の腕を思わずぎゅっと握っていました。父は自転車を漕ぎながら、とても静かなままです。
 以前は農業に従事していた父ですが、とっても華奢な腕をしています。農作業というきつい仕事をしている想像がしにくいのです。わたしは農作業をしている父の姿を実際に見たことはありません。
 父は地震後(わたしが生まれるずっと前のことです)に農業とはきっぱり手を切っていましたし、仕事をしょっちゅう変え、その上にどんな仕事をしているのかわからないものばかりだった(わたしの同級生の父親たちはたいていカイシャインと呼ばれていました)のです。
 むしろ働かないで、わたしと遊んでくれている父というのがわたしにとっての実像でした。母を含めてみな、働かない父なのでかなり否定的に見ていたようですが、それはわたしにとっては逆でした。
 働かない父だったからこそ、わたしにいろいろな自然のおもしろさを教えてくれたのだと思っています。豊饒な自然に囲まれて育ちながら、その肥沃な土地の環境さえ知らずに育ってしまう人たちのなんと多いことでしょう。わたしは大人になった今でこそ、そう思わずにはいられません。
「父さん、父さんってば!」
 こんなに近くに父がいるのに、さっきから父は黙々と自転車を漕いでいるだけで、父の沈黙には慣れ切っているわたしでさえ、どうも煮え切れないものを感じてしまいます。
「父さん、そんなに急がなくても、ちょっと休んだらいいんじゃないの!」
 わたしが耳元にいっても、返事をするどころか、ぴくりとした反応さえありません。よくは見えませんが、父は前方に視線を固定したまま、ひたすら自転車を走らせるだけです。まるで意地になっているようにも見えます。
 わたしはすっかり自分の世界に浸っていて、気がつくと登り道になっていました。そう急な勾配ではありませんが、それでも後ろにわたしがいるのできついには違いありません。自転車に最新式の変速式機能があっても、しょせんは自転車であり、バイクではありません。
 わたしは後ろに振り落ちないように気をつけて、自転車にしっかりとしがみついていました。勾配が急でないにしても、坂になる道が続いているばかりです。
 すぐにも父の息がみるみるうちに荒くなっていきました。わたしができることといえば、ひたすら祈ることだけでした。
 ――なんとかうまく辿り着けますように。
 わたしは再び目を閉じました。そして、わたしは空想をしました。公民館で観た映画のE.T.での印象的なシーンでした。
 主人公の男の子が自転車に乗っているところです。いまのわたしと同じく夜中に自転車を漕いでいます。自転車のカゴからは、小さな未知の生物が愛嬌ある顔を覗かせています。やがてE.T.を乗せた自転車は夜空の宙を飛んでいきます。
 空を自転車が飛んで行きます。主人公は自転車ごと空を飛ぶのです。満月の下を自転車が通過してゆくシーンのなんと幻想的だったことでしょう。
 ――飛んでください! わたしと父の乗った自転車が空を飛ぶことができますように。そうしたら父も楽になります。
 わたしは神様だろうが誰だろうが構わずに、心の中で祈り続けました。必死になって何度も何度も、自転車が飛べるようにと祈ったのです。
 映画ではないので、もちろん飛べるわけはありません。しかし、しばらくして父の荒くなる一方だった息が、急に軽くなったように感じられました。
 わたしはもう少し祈り続ければ空を飛べるかもしれないと、目をつぶったままにいたのです。
 後ろに引かれて落ちそうになるのをこらえていたのが、いつのまにか自転車にしがみついていなくてもだいじょうぶになりました。
 わたしは身体が軽くなったのを確かに感じていました。
 ――飛べたのかも!
 小さかったわたしはその瞬間、本気で空を飛んだと思っていました。
 目を開けました。しかし、自転車の車輪はしっかりと道路の上を走っているだけで、下には小さくなった道も森も家も見ることはありませんでした。
 ただ、坂道が終わって、また平坦な道になったにすぎなかったのです。
 平らな道になったおかげで、自転車はまた元のスピードを取り戻しました。軽快な車輪の廻る音がまた響いて来て、わたしは少しほっとしました。
 やがて、父がようやく口を開きました。
「あの坂はきつかったのう」
 わたしは父の声が聞けてとても嬉しかったのです。まるで二日間くらい父の声を聞いていない感じがしていましたから。
「ちょっと休もうよ。でないと、疲れちゃうわ」
 わたしがそういっても、
「いや、これくらいまだ蛇の道じゃ。いちいちへこたれていたらどこへも行けんわい」といって、聴く耳を持ちません。
 わたしは心細くなるのを嫌って、どうでもいいことを根掘り葉掘り父にぶつけましたが、まともな言葉が返ってくることはなく、曖昧な返事ばかりでした。
 やがて、わたしが父に語りかけることで、父が疲れてしまうことに気がつきました。これまでどれだけの時間がたったのか定かではありませんが、もうけっこうな時間になっていることでしょう。夜に始まる洋画劇場が終わった時間かもしれませんし、そうではないかもしれません。
 いずれにしても、わたしは黙っていることにしました。
 夜は自分の心を吸いつくしてそれを映す鏡のようなものでした。心が不安になるにつれ、夜はその心情に敏感なまでに反応し、いやがおうにも暗い未知なるものに反映させ、丁寧にもこちらに返してくれるのですから。
 わたしは幽霊の存在を信じません。と、いくら声を大にしたところで、こんな真っ暗な闇の中では説得力を持ちません。
 怖いものみたさで、夏休みの昼などについ観てしまう、テレビ番組の幽霊特集のことを思い出してしまいます。夜中トイレに起きたときなど、ところかまわず幽霊のことが思い出されて、足がすくんでしまうのはどうしてでしょうか。
 いくら怖さに打ちのめされそうになっても、やはり幽霊を肯定することはしません。それとも、霊の存在を信じたくないとやっきになればなるほど、霊が悪戯をしてわたしたちを怖がらせているとでもいうのでしょうか。
 ともかく、わたしは父が近くにいながらも、怖さでぶるぶると震えていました。
 電灯はところどころ建っているにしても、灯りは消え入りそうなくらい心もとない程度でありました。もうずいぶんと山の中へと入ってきているはずなので、森の鬱蒼とした影に飲み込まれるように、光というものの力が薄れている世界へと足を踏み込んでいるのです。
 わたしが住む町も辺境なところですが、ここに比べたらまるで都会です。闇が圧倒的な力を持ち、夜を味方にして、その猛威を振るう世界なのです。わたしはこのときほど、光というものの存在を尊く思った瞬間はありません。
 自転車のライトはずいぶんと薄くなったようです。あってもなくても同じような感じで、むしろ満月から射す光のほうがよほど力強くありました。
 そうです、今夜は満月の夜であり、夜にあって最も心強い味方となってくれるのが、月夜でありませんか。
 太陽はわたしたち人類にとって神様と同じ存在ですが、太陽は夜という世界にあっても、その存在を完全に消し去っているわけではないのです。
 自らは隠れていても、そのエネルギーをなお、月に反映させて自らの存在を誇示しているのです。そして、満月は夜にあって、太陽の光を最大限にわたしたちに与えてくれるものであります。
 ――満月があるわ。
 わたしは思わず、そうつぶやきます。
「見てよ、父さん。満月だわ、満月」
 つぶやくだけでなく、わたしはなるべく威勢よく声を出してみました。怖さなんかに自らを縛られてはいけません。
 わたしは自分に言い聞かせるように、
「父さん、満月がとてもきれいよ。ねえ、そうでしょ?」と、父の肩をゆすって語りかけます。
 父はうんともすんともいいません。もう一度、父の肩を同じようにゆすりました。
「ねえ、満月がきれい。そうでしょ? ねえってば」
「ああ、そうだな」
 父はわたしに強いられるように、声を絞り出したようでした。どうして父は満月に対して、こうも背を向けるような態度をとるのでしょうか。父はわたしの父ですが、わたしには父のわからないところがたくさんあるのです。
 このときわたしは、父がゲームセンターで口にした妙なことを、ふいに思い出しました。
 ――地震が来る。しかも、今晩……。
 たしかに父はそういったのでした。父が咳に咽返った直後のことです。わたしは父のただならぬ容態にただただ驚いてばかりでしたが、今になってどうして父がそんなことをいったのか、とても気になってきました。
「どうして、地震が来るなんていったの? 覚えている?」
 父は凄い目つきで睨むように振り返りました。
「いったろ、おれはな、地震がまた来るという夢をいつも見るんだよ。あんときもそうさ」
「地震が来る夢を見てたっていうの?」
「ああ、そうだよ。咳に咽返りながら、おれははっきりと地震が来るのを見ていた。まあ、ただ怖いだけなんだろうな」
「地震が?」
「ああ、情けねえことにな。今晩の満月のせいだ」
「満月のせい? どうして?」
「地震が来た前の夜はな、はっきり覚えとるけど、それはとてもきれいな満月の夜だったんじゃ。今晩の満月と同じだ。美しくて、あまりにも美しくて、それがとても不気味なんじゃ」
 わたしの中に去来したのは、父とはまったく別の想いでした。今晩のこの冒険は、この満月があってこそというものです。
 優しく包み込むように、山の全体を照らしてくれていたおかげで、わたしは木々の間にはびこる闇の存在に屈しないままでいられるということです。自然の怖さが暗闇とすれば、自然の優しさは月の光であったでしょう。
 月はいつだって上さえ見上げれば、頭上にあってわたしを見守ってくれているのですから。山吹色というか、もっと薄い黄色の満月です。ごく普通の色をした満月に思われ、どこか変わった満月にはわたしには見えませんでした。
「かぼちゃ、もうすぐだよ。あと少しだ」
 父のこの言葉でわたしは一気に心躍りました。
 ――もうすぐだわ!
 わたしはだんだんと気持ちが落ち着いてくるのがわかりました。なんだかとんでもないところへ迷い込んだ気になっているだけで、実のところわたしの家からはさほど遠くもない場所なのだといい聞かせました。
 わたしは父の畑が近くだということで、視線をわざと周囲には向けないでいたのですが、こうなってはついきょろきょろとしてしまいます。
 鬱蒼とした木々に覆われたままで、畑が近くにあるような気にはなりませんが、それでも好奇心でつい何かを探してしまいます。
 それにしても、木々が密接に連なり合うだけの景色に終わりはあるのでしょうか。ずっとさっきから同じ場所をぐるぐると回っているだけの感じさえしてしまいます。終わりのない迷宮。果てしなく続く森。
 森の間を延々と続く、きわめて単純な道。標識もなければ、外灯一つさえありません。何だか童話によく出てくる、魔女や狼が棲んでいる遠い国の森のようなイメージが湧いてきました。
 わたしの心が不安に脅かされると、決まって宙に拡がる満月を見上げました。父にとっては嫌な満月かもしれませんが、わたしにとっては父以外では月の光が一番心を落ち着かせてくれる存在でした。
 わたしの日焼けした腕ですが、こうして月明かりの下にあると、とても優雅な色をしているように見えるのですから。わたしの肌が月のシャワーで、きれいな黄金色に染まっています。
 時間という概念が届かないようなこの山に、突如、静けさをぶち壊すような声が響き渡りました。

 がああああ、がああああああ、があああああああ!

 その声はまるで声のようには聞こえませんでした。不協和音というのでしょうか、人間の脳が不快に感じるような音響だけで成っている音のようにしか聞こえませんでした。
 わたしは不穏な音によって、肌という肌に戦慄が走り抜けました。鳥肌を立てて、思わず、父の腕をぎゅっと握りしめました。
「なあに、そんなに驚くことぁねえ。たかがカラスじゃ」
 そう平静にいった父でしたが、腕伝いに感じられるのは、やはり父とて不気味がっているのだということでした。父の自転車を漕ぐ足というか、身体全体からは、妙な緊張で強張った様子が手にとるように伝わってきます。
 いつの間にか、杉の木々がやけに密集している箇所を通りました。ここにいると暗さがずんと深くなっています。それもそのはず、遥か頭上には背の高い木々が互いに寄り添うように聳えています。
 たくさんの葉っぱに覆われた枝が人間の手のように見えます。大きく手を拡げて、互いに肩を組んで、わたしたちは木々たちに見下ろされる形でいます。わずかに梢が揺れると、よけいに木たちが意志を持っているように見えるのです。
 それにしても樹冠部分がやけに長く、豊かに繁った枝葉は夜の闇と繋がって、頭上の満月を隠しています。満月の存在はいまのわたしたちからは、遠い彼方にありました。
 木々の影の中にあっても、わたしたちは自転車を進ませていました。頼れるのは自転車の灯りだけになってしまいました。照らしてくれるのは、ほんの数メートルだけですし、明るさは頼りないばかりです。
 やがて道はか細くなり、葉っぱで覆われてしまって、道なのかもわからないくらいになりました。ときどき石ころが転がっているくらいに荒れています。父の自転車はより慎重に、ゆらゆらと前をかろうじて進んでいきます。

 があああああああああああ、がああああああああ!

 また声が轟きました。自転車が道の枝や葉を踏みつぶしてゆく音を、はるかに凌駕するほどの声でした。先ほどよりもずっとこちらに近くで聞こえたように思います。
 どちらの方向から聞こえてきたのか、まったく見当がつきません。まるで四方八方から聞こえてくるようでもありました。
 再度、鳴き声がしました。わかることはただ近くにいるというだけで、一体どこにカラスが潜んでいるのかまでは知る由はありません。わたしは目を潜ませましたが、視界に入るのはただただ闇の色ばかりで、黒色といっても様々な色があるのでしょうが、わたしには区別はつきません。
 木々の影と、夜の帳と、それらがまったく混合しているかのようです。むしろ、これらの色々にわたし自身の身体さえも飲みこまれているように、ここはあらゆるものの境目が曖昧になっているのです。
 それから、羽音で不穏な音響を周囲に撒き散らし、金切り声とも咆哮とも呼べるような耳をつんざく啼き声が、こちらに向かってきていることをわたしの直観が教えてくれました。
 梢の揺れる音が鋭く音を立てます。わたしの肌には再び、鳥肌が立ちました。カラスはすぐ近くにいます。
「とうさん、カラスが近くにいるわ!」
「おう! わかってらぁ!」
 そう父がいい終るとき、わたしの手の届くくらいの距離で、何かが通り過ぎていきました。あまりの素早さのことで、即座に状況をつかむことはできませんでした。
「きゃあああああ!」
 わたしは叫びました。お尻が飛び上がるくらいに、びっくりしたと思います。後ろも前もどこも見てみる気にならず、わたしは父の背中に隠れるようにして縮こまっていました。
 カラスであったのでしょうか。とても俊敏だったので、目で捉えることはままならず、ただ気配と鳴き声だけがわたしの周囲を掻き乱しました。他にもカラスは潜んでいるのでしょうが、感覚的には一羽だけのような気がしました。
 そいつはわたしの近くを通り過ぎた後で、しばらくは音一つ立てませんでした。再び、静寂さが訪れました。そうして、しんと静まり返った後になって、また、そいつの鳴き声がしました。わたしには同じカラスから発せられたのだと思えました。
 また舞い戻ってきたのでしょう。わたしは再度、身構えました。遠くに響いたそいつの声をもう一度聞いたときは、わたしのすぐ近くでした。

 きゃああああ、きゃああああ、きゃああああああああああ!
 
 金切り声で、つーんと耳を裂くような鳴き声を立てました。わたしを威嚇するために、わざとそんな鳴き声をしたのでしょうか。今度は一度だけでなく、二度わたしのすぐそばで声を張り上げるのです。
 そいつの羽根音が聞こえました。パタパタパタと立て続けに聞こえ、まるで、ほら、おれはここにいるぜ、といっているようでもありました。
 そうなのです。そいつはすぐわたしの背後から寄ってきたのです。わたしは大きな黒い塊を見ました。闇と同じ色の身体をしたそいつは、羽根を大きくはばたかせて、真っすぐわたしのほうへ向かってくるではありませんか。
 かろうじてそいつの姿を垣間見たのですが、常夜とあってははっきりと目には見えません。ただし、そいつの目だけはまざまざと見据えることができました。そうです、わたしはそいつと目が合ったのです。
 自転車は道の加減もありスピードは遅いのですが、そいつはわたしたちに合わせるようにして、ぴったりと数メートル後ろにくっついたままでいるのです。そいつの視線はちょうどわたしと同じ高さだったので、わたしはそいつの目を見ることができたのです。
 カラスであろうが動物の目というのは、何とも不可思議な色を放っているものです。人間と同じではありえないけれど、同時にどこか共通したものがあるような、そんな感じです。
 しかし、所詮はカラスです。決して心地いいものではありません。わたしはほんの瞬間だけカラスのぎらついた目と合うと、何か嫌なものがこみ上げてくるような気持ちになりました。
 ――カラスはわたしのことを見ている!
 そう思えて仕方なかったのです。特に根拠があるわけではありません。自転車が夜の帳の薄い箇所に差しかかると、闇夜という衣に身を包んでいたのが、ちらっと、その姿を垣間見せました。
 身体はもちろん黒色ですが、夜の闇とは違った色であったように思います。うまくいえませんが、自然が織りなす色調ではなく、もっと単純な黒というか、純粋な黒、単一での黒色という感じを与える色です。
 羽根を羽ばたかせることもなく、宙に浮かんでいるカラスは、ずっとわたしと同じ視線の位置で飛び、自転車にスピードを合わせているのでした。
 
 ぐるるる……ぐああああ……ぐううう……があがあ。

 カラスは小さく細かな鳴き声を立てました。威嚇するのではなく、まるで誰かに語りかけるような感じで。
 ――わたしたちは一羽のカラスに目をつけられている!
 そう思うだけで、カラスが気味悪く見えてしまいます。実際のところ、カラスというのは気味が悪い種類の鳥に分けられることでしょう。わたしは何も考えずに、ぷっーと、唾を吐き出していました。下品な行為であろうが何だろうが、こんな状況では関係ありません。
 妙なことに、カラスはわたしのささやかな悪態さえも見抜いたのでしょうか。これまでは距離を置いて様子をうかがっていたようですが、唐突にスピードを上げて、こちらへと突進してくるではありませんか。
「父さん! もっと早く漕いで!」
 父とてこれまでずっと自転車を動かしてきて疲れていることでしょうし、こんなデコボコの道とあってはスピードが出るわけはありません。
 くちばしを上下に大きく開け、羽根をばたばたとやかましく動かして、さらに奇妙な鳴き声を洩らしているのですから、こちらとしてもたまったものではありません。
 やがて、餌にでもありつくように、まずくちばしの先端でもって、わたしの身体のあちこちをつっつき回すのです。つん、つん、つん。と、まるでこれからの食事の毒味でもしているかのようです。
 服を着ていますが薄い夏物です。軽くうわべをつついているだけでしたが、肌に直接くちばしが何度か当たると、針のようにちくちくした痛みにわたしは悲鳴を上げていました。
「きゃあああ!」
 痛みが恐怖らと混濁して、わたしの声はさらに大きくなり、夜の森に響き渡りました。世界が深い眠りに落ちているような気がして、わたしの声はどこへ届くこともなくかき消されてしまったかのようです。
 そんな気持ちがあったからこそ、わたしはなおも叫び続けたのだと思います。
「助けて!」
 あるいは、家にひとり残された母へ向けた声だったのでしょうか。わたしは心配しているであろう母のことを思うと、ひどく胸が痛くなるのでした。
 母の顔が浮かんで来ました。厳しい人ではありますが、芯はとても優しい人なのです。日常の煩わしさに追われていると、母のような人のいいところというのは、なかなか見えにくいものです。
 こうして遠くに離れていると、母のことを抱きしめたくなってきます。普段の生活では甘えさせてくれるようなタイプの母ではありませんでしたから、なおさらなのでしょうか。
 いずれにしてもなにもいわずこんなところまで来たあげくに、怖くなって誰か助けて欲しいと母のことを思うなんて、身勝手にもほどがある。わたしは母にとってなんて悪い子供なのだろうと思わずにはいられませんでした。
 またカラスが襲ってきました。また暗闇から出てきて、わたしのすぐ近くまで来ました。バタバタと大袈裟に羽をはばたかせ、尖ったくちばしをわたしのほうへ向けるのです。
 わたしは手でカラスを追いやろうとしきりになっていましたが、カラスは嘲笑うかのように低い鳴き声を放ちながら、わたしのすぐ顔のところで宙に止まっています。
 カラスと目が合いました。すぐに目を背けます。今度は足をなんとか上方に向けて、カラスをあっちにいかせようとしました。
 自転車に乗ったままなのでうまく届きません。何度かの足蹴りは、闇の中で空気を震わすだけでした。
 カラスはしつこく、わたしの側にいます。小刻みに素早く、カラスは羽根を動かして調節し、わたしの目線の位置にいようとしているように見えました。
 またも背筋がぞくっとするような怖さに身が包まれました。わたしはどうしていいかわからず、父の背中をぎゅっと手で強く握りました。
 キューという音がしました。ブレーキはすぐにきかず、自転車は小刻みに横に揺れたあとで止まりました。
「かぼちゃ、降りるんだ」と父がいい、わたしは反射的に自転車から降りて、地面に足をつけました。
 自転車を横に倒したままにして、父はわきの草むらから木の枝を見つけてきました。まだ近くでパタパタと飛んでいたカラスめがけて、木の枝を振りかざしました。
 ぶん、ぶん、と威勢よく空を切る音がするのですが、カラスには届くこともなく、虚しく空振りするだけです。父は何度も木の枝でカラスを追いやろうとしましたが、カラスもうまくよけます。
 空は自分の得意とする場所だぞとでもいいたそうに、余裕しゃくしゃくとしています。動きは俊敏そのものです。
「おい、あっちへ行くんだな。別にな、お前をやっつけてえってわけじゃねえんだ」
 カラスは一度上方に上がっていき、それから網目のように生えている木々に少しもぶつかることなく、実に器用に枝と葉の間を飛んでいます。こんな暗く鬱蒼とした空間を飛んでいけるのですから、見ていても大したものだと思ってしまいます。
「夜だってあいつらは、よく目が効くんじゃ。よく鳥目というがな、あれはうそっぱちじゃ」
 闇の中に消えてしまったカラスを探るように、父は顔を真上にして口を開けたままでいいました。
「たかがカラスと思っちゃあいかん。カラスというのはな、ああ見えても利口な鳥じゃよ」
 父に同感です。カラスというのは一見したところ利口には見えませんが、実際はかなり賢いのだということはよくわかります。
「カラスって、悪い鳥なの?」と、わたしは素朴な質問を父にしました。
「悪くはねえんだろうな。ゴミとか漁ったりするから人間からは嫌われているのじゃろうが、悪い鳥かと訊かれればノ―じゃろうな」
「ねえ、カラスの目には人間がよく見えているのかなあ?」
「けっ、そんなこと知るかよ」
 父は構えていた木の枝を放り出して、横倒しになっていた自転車のところへ行きました。これまで自転車を漕ぎっぱなしだったので、かなり疲労しているように見えました。
「ちょっと休んでから行こう? 疲れてるでしょ?」
「疲れててもそういうわけにはいかねえ。大した時間が残されてはいなさそうじゃからの」
「時間って、何の時間?」
 父は答えず、黙って自転車に跨がると、わたしに後ろへ乗れと目で促しました。わたしは父の目を見た直後、少しだけ嫌な予感のようなものが駆け抜けました。わたしにはそれがどういう意味かわかるすべはありません。ただ父に従うのみです。
 わたしは再び父の後ろに座りました。父はペダルに足を置いて力を入れようとしましたが、自転車はわずかに動いただけで、再び砂利の中にうずくまりました。
 やはり父は相当疲れているのでしょう。自転車をうまくスピードに乗せて発車することができませんでした。わたしだって小学校高学年でしたから、体重だって軽いということはないでしょう。
 わたしはそう思い、一度自転車から降りました。そして、父の後を押して自転車が動き出す直前に、わたしも軽くジャンプするようにして後ろの座席にうまく乗ることができました。運動神経が鈍く体育が苦手なわたしですが、なんとかうまくいってほっとしました。
「ほら!」と、わたしははしゃいだ声を出しました。
 再び自転車が走りだしました。といっても荒い道であり、なにより真っ暗ですから、ゆっくりと自転車は進んでいきます。小石がたくさんあり、タイヤも真っすぐには行けないようです。
 自転車は遅いスピードで進みながら、なんとか道と呼べるような小路をゆっくりと通って行きます。わたしは自転車のライトが照らす木々を見ていたら、ある木の幹が人の顔のように見えました。わたしは驚きました。驚いたのは木が人の顔に見えたからではなく、同じ木を一度見たことがあったような気がしたからです。
 そうです。わたしは一度ここを通った、と思えるのです。
「父さん、ここへは一度来たわ。同じところをぐるぐる回っているわ!」
 この道が一本道であることは確かです。わたしたちはひたすら真っすぐ進んできました。だから普通に考えれば、道を間違いようはないですし、同じ箇所を再び通っているということもありえません。
 ですが……。わたしは、どうしても一度ここを通ったとしか思えないのです。
「かぼちゃ、真っすぐ進んでいるだけじゃ。同じような景色だからといって、同じところを通ったことにはならねえ」
「でも……父さん、このままではわたしたちはどこにも行けないわ!」
 果たしてわたし自身が口走ったことであるのに、このような言葉が出たのは驚きです。
「ねえ、父さん。これ以上進んじゃあいけないような気がするわ。どうしてかわからないけれど、そう思えてくるの」
「お前はここへは来たことないじゃろうが」
 理屈ではありません。理性を超えたなにかが訴えかけてくるのですから。
「本当よ! よくない気がするんだから……」
 わたしはこの瞬間、目の前にある光景とは別の世界が見えていました。世界というと大袈裟ですので、あるイメージといったほうが適切かもしれません。
 そこでは、一羽のカラスが見えています。しかし、動いてはいません。無惨にも傷をあちこちに負って、身体を血だらけにしている姿でした。カラスも屍になっていると、不気味どころか憐れにさえ見えてきます。
 わたしはカラスの死に不吉なものを感じずにはいられません。全身が真っ黒で、世界各地でもカラスは不吉な鳥として伝えられてきました。人間に不気味なものを連想させるカラスだからでしょうか、そのカラスの死にもなにか薄暗い影のようなものが憑いているように思えます。
「ねえ、父さん、ちょっと自転車止めて。ちょっとだけでいいから」
 わたしは懇願するように父にいいました。
「いや。前に進むんだ。かぼちゃ畑はもうすぐじゃ」
「でも、すぐだってばかりいっているけど、いっこうに辿りつかないじゃないの」
「いいから、黙っていろ」
「そっちへは行かないほうがいいわ。なにもないじゃないの。あるのは暗闇だけよ」
「うるさい」
 確かに目に入ってくる光景というのは、木が網の目のように立ちつくしている中を一本の道が通っているだけなのです。
 たとえ同じ光景であっても、例えば空気が異なっています。闇の深さが濃くなっています。月の明かりからもどんどん遠ざかっているように思えて仕方ありません。
 父はわたしをかぼちゃ畑に連れていくということしか、念頭にないのでしょう。それにいま通っている道が正しいということに少しの疑いも持ってはいません。
 わたしが生まれる以前には、この道は父にとって慣れた道であったのでしょう。父が汗を流して一生懸命に働いたかぼちゃ畑がありました。かぼちゃ畑にひびが入るほどの規模の地震でした。
 さて、その後のかぼちゃ畑はどうなったのでしょう。一度破壊されて、月日がたち、再生されたのでしょうか。あるいは以前と同じように荒れた地となっているのでしょうか。
 わたしにはわかりません。
 もちろん、わたしはかぼちゃ畑を見るつもりで父といっしょに来ました。ここまで来たからには、かぼちゃ畑をひと目でも見ないわけにはいきません。なぜなら母を置いてけぼりにしたまま、ここまで来てしまっているのですから。
 だからこそ、わたしたちは正しい道を進まなくてはいけません。正しい道かつ、進むべき道であります。それが、わたしたちの行わなければいけないことであると思うのです。
 しかし、わたしの中の、どこか奥深くから響いてくる声――に耳を澄ませてみると、わたしたちがしている正反対の声が聞こえてきます。
 内なる声は、こっちへは行ってはいけないと告げているようです。その声を無視することがわたしにはできないし、また、してはいけないように感じていたのだと思います。
 次にわたしはなにも考えずに、自転車から降りました。腰を浮かして、動いている自転車から道ばたに転がるようにして落ちたのです。尻持ちをつくようにして落ち、身体が何回か回ったあとで止まりました。
 転がったために両腕から少しの痛みを覚えたのですが、それでも大した痛みではなく、わたしはすぐに立ち上がることができました。足を広げて突っ立ったまま、わたしは周囲を見回しました。
 視界は悪く、すぐ先の道は闇で途切れていて、わたしの立っているこの道が闇の世界と通じているような感じを受けたのです。
「かぼちゃ、大丈夫か」と、暗闇の中のどこかから父の声がしました。わたしは一人ぼっちになったような気がしていて、父の声によって大いに励まされました。しかし、父がどこにいるのか、わたしにはわかりません。
 わたしが父の声に答えようとした瞬間でした。わたしの背後で、パタパタというカラスの羽ばたく音がしました。すぐ近くにいるらしく、喧しいほどの音がわたしの耳をつんざきます。
 きゃあー、とわたしは叫んでいました。
 両手で顔を覆うようにしてしゃがみ込みました。カラスの足がわたしの髪の毛を突っつくのがわかりました。かあかあかあかあかあという鳴き声と、羽ばたきの音が重なって、耳に怖ろしいほどに迫ってくるのです。
 わたしはまたしてもカラスの襲撃を受けました。両手を使ってなんとかカラスを追っ払おうとしますが、カラスもかなりしつこくわたしに付きまとっています。
 一体このカラスはわたしをどうしたいつもりでしょう。わたしを敵と思っているのでしょうか。憎んでいるのでしょうか。
 わたしは躍起になってカラスを退けようとしますが、しょせんは子供でしかない非力なわたしです。抗ってみたところでカラスは怯むことなく、わたしに向きになって襲いかかってくるように思われます。

 ぎゃああああああああああああ

 カラスの声色は阿鼻叫喚でした。突然に響き渡った壮絶な声に、わたしは思わず耳をふさぎ込みました。カラスは喚き声を上げながら、必死になってなにかに堪えているように思えました。
 さきほどと状況ががらりと変わりました。なにが起こったのでしょう。わたしの目は自然にカラスを捉えていて、カラスがきりきりと舞うようにして地面に叩きつけられるのを目撃しました。
 カラスは死に物狂いになって道わきの草むらの中で、身体を宙に浮かしてくれる羽根を動かしています。しかし、飛ぶことはできません。重力から自由になれる能力を生まれながらに持つ鳥の翼が、まったく動かなくなったままとなっていたのです。
「どうじゃ!」
 わたしがうしろを振り向くと、父の姿がありました。父の手には太い木の枝が握られています。勝ち誇ったような顔をしているのが、暗さの中でもわかりました。
「だいじょうか、かぼちゃ?」
「うん。父さんが助けてくれたのね」
 わたしは父を見上げました。父はわたしのことを見てはいませんでした。父の視線は草むらのカラスに向けられているのでした。
 どうやら翼を怪我したらしく、飛ぶことができないまま、地面でもがいているのでした。こうなってしまえば、カラスはなにもできません。かあかあかあと鳴くカラスの声がよけいに弱々しく聞こえてきます。
 飛んでいるカラスは小憎い存在でありますが、こうして飛べないカラスの姿というのは、やはり生命の儚さを感じずにはいられません。
「やったぞ。カラスをやっつけたんじゃ」
 父は嬉しそうな顔をしたままでした。まるで無邪気な子供のようです。
「地震が起こる前の日のことじゃ。わしはカラスを見た。落ち着きがなく、やけに興奮しておったのが印象的じゃった。ちょうどここにいるカラスと同じように大きなやつじゃ。もしかしたら同じやつかもしれんのう」
「やっぱり襲ってきたの?」
「うむ」
「それからどうした? 逃げたの?」
「しょせんカラスは人間なぞ傷つけることなぞできん」
「……」
「おれは怖くなったんじゃ。このカラスがあの日に見たカラスと同じように思えたからじゃ」
 わたしはもう一度カラスを見ました。普通のに比べても大きな体躯をしたカラスなのですが、よく見てみると大きいというよりは、太っているというのが正しいようです。
「知っているか、かぼちゃ? カラスの寿命は十年くらいだってこと?」
「えっー、カラスって十年も生きているものなの」
「野生だからな、まあ十年といわれているがもっと生きているかもしれん。記憶力と学習能力は優れておる。だから、あながちおれは間違っておらんかもしれん。もしかしたら、このカラスはあの日に見たカラスと同じなのかもしれん」
 わたしは背中がぶるっと震えました。少し怖くなったのです。父が地震に遭ったのは、わたしが生まれる前のことです。もっともカラスの寿命が十年というなら、父のいうことも実際にはあり得ない話ではないかもしれません。
 しかし、普通に考えたらありえないでしょう。いくらカラスが賢いといっても、父の顔を見分けることなどできないでしょうし、偶然の重なりだとしてもあまりに寓話的すぎます。
「ねえ、父さん、カラスが語りかけてくるってことってないの?」
 どうしてわたしはこんなことを不意に口にする気になったのでしょう。父にこんなことを話すつもりはまったくなかったというのに。
「そんなわけねえじゃろ。カラスは人間の言葉はわからん」
「言葉を話すんじゃなくて、もっと違う方法よ」
「例えば?」
「例えば、心の中に語りかけてくるの。声が響いてくるの。わたしの声じゃなくて、他の声よ」
「それがカラスだってどうしてわかる?」
「……だって、もうそれ以上、前へは進んではいけないって、声がするんだもの。カラスがそんなことするわけないとわかっていても、わたしにはそう思えるのよ」
「そんなわけねえじゃろうが」
「声に耳を澄ませてみると、カラスはわたしたちになにかを教えたいんじゃないか、って気がするの。だからああして必死になって、わたしたちにつきまとっているの。わたしたちのことを怒っているんじゃあないのよ。逆よ。わたしたちのことを心配してくれているの。だから、わたしは自転車から飛び降りたのよ」
「かぼちゃ、お前、本気でいっているのか?」
「わたしが感じていることをいっているだけよ」
「いつからそんなことができるようになったんじゃ? カラスの言葉がわかるなぞ」
「いつもなにも、今夜だけよ」
「……それはな」と、父はひとつ息をついてから、
「満月のせいじゃろ……」
 自然の中で育ち動物や昆虫が大好きなわたしですが、これまで一度たりともカラスはおろか、他の人以外のものと話しができたことなどありません。
 けれど、今夜に限って、わたしは確かにカラスの伝えたいことがわかったのです。それは人間同士で行う言葉を通じたコミュニケーションとはまったく違っています。相互の意思疎通などというものではなく、もっと単純なものであります。
 うまくはいえませんが、例えばテレビには様々なチャンネルがあり、たくさんのチャンネルの全部を受信することはできませんが、そのうちの一つをどういうわけか観ることができたのです。
 しかし、そのチャンネルで画像が鮮明に現れるのはほんの一瞬だけのことであり、すぐに映像は白と黒に戻りザーという雑音に戻ってしまいます。
 わたしはチャンネルを合わす方法をまったく知りませんし、ただの偶然の重なりとでもいう他にどう説明していいかわかりません。あるいは、わたしの頭がたんにおかしくなっているとも思えますが、そんなことすら自分ではわかるすべはないのです。
 父は満月のせいといいますが、あながち間違いでもないのかもしれません。満月を見ていると不思議な気分になるし、月の光のシャワーを浴びていると、何だが心まで洗われるような気持ちになることを否定することはできないでしょう。
 だって、わたしたちは地球に生きている人間であり、自然やら気候やら環境やらに、自分たちが思っている以上に影響を受けて生きているものだと思うのです。もし月が宇宙から完全に消えたとしたら、同時にそれはわたしたちの中にあるものの何かが消滅することになる、ともいえるのではないでしょうか。
 太陽がないと人はうつむきがちになり、太陽がいつもあれば人は陽気になります。昼をつかさどるのが太陽であり、わたしたちの気分は容易に太陽の力に作用されがちです。では、夜はどうでしょう。
 人は夜に眠りますから、月はあまり人とは関係ないというかもしれません。でも、人は生きている時間の多くを眠って過ごします。眠らないと生きていけないのが人間です。赤ちゃんは眠るとよく育つといいますが、大人だって誰だって睡眠は大事です。
 夜があり、月があり、星があってこそ、人は安らかな眠りにつくことができるのです。そして、わたしたちはみな夢を見ます。夢はわたしたちに多くのことを語りかけてくれています。その夢から送られてくる断片を、わたしは声として聞くことができたのです。わたしにはそんな気がしてやみません。
 カラスの声から確かにわたしはあるメッセージを受け取ったのです。カラスの死んだ不吉なイメージから伝わってくるのは、警告であります。当然のごとく、わたしはそれに従うだけなのです。そうする以外になにができるのでしょうか。
「父さんはどうしてカラスのことをそんなに嫌うの? カラスはみんな嫌いなの、それともこのカラスだからなの?」
 生意気な口の訊きかただったかもしれません。けれど、わたしはどうしても父に訊いてみる必要があったのです。
 父はわたしのことを変な目で見ました。ほとんど奇妙な見知らぬ少女を見るような目で。自分の娘でありながら、別の女の子と接っしているかのように。
「好きじゃあねえっていうだけのことじゃ。それのどこが悪い」
 わたしはもう一回、父に尋ねました。
「カラスはただのカラスよ、父さん。ただ真っ黒な鳥として生まれてきただけ。カラスが悪いわけではないわ。地震の前の日にカラスが襲ってきたのも、もしかしたら父さんに何か伝えたかっただけなのかもしれないじゃない。でもどうしていいかわからずに、カラスは……それに今回だって……ね、父さん、もしかしたらこのカラスはわざわざ、わたしたちになにか大事なことを……」
「……うるせえよ。嫌いなものは嫌いじゃ」
 激しく否定されるように、父はわたしの言葉を遮りました。いっておきますがわたしはいつだって父のいうことを聞いていました。仕事もせずにブラブラしているどうしようもない父だと周囲には思われているようですが、わたしにとっては父は父です。
 父のおかげで自然のことをいろいろ知ったし、たくさんの興味がわきました。確かに父は他から見れば変わったところのある人なのかもしれません。でも、父は父であり、わたしにとってかけがえのない人であることに間違いはありません。
 だからこそ、わたしは父に思い切って自分の思っていることをぶつけてみる気になったのです。
「カラスが怖いの、父さん? カラスの何が怖いの? わたしは怖くなんかないわ」
 もしかしたら父を怒らせてしまうかもしれないと、いった後になって思ったのですが、意外に父は表情を変えることはありませんでした。
「……」
 父の目はどこか違うところを見ているようでもあります。
「ねえ、父さんってば?」
「……」
 カラスがほんとうに怖くないかと問われると、嘘になるかもしれません。
 カラスに襲われて、軽くつつかれただけなのに、わたしの腕には生々しい痕が残っています。もし本気でカラスが人間に襲ってきたら。あの鋭いくちばしが、本来の力を発揮して、肌に食い込んできたら、と考えるとなると。
 しかし、先ほどまでの気味悪さ、不気味さというのは、いくぶんか薄れてきていました。真っ黒な色をした野鳥だと思えるようになったのです。
 わたしはカラスが怖いわけではありませんでした。
 怖いのは、死でした。カラスの死です。
 わたしはカラスの死を見ました。ほんの瞬間ではありましたが、わたしの目の前にいるこのカラスが動かなくなり、血を流して、横たわっている姿でした。それは実際に起こったわけではなく、イメージのようなものでしかありませんでしたが。
 カラスが死んだところでどうということはないのかもしれません。死というのは人間であっても動物であっても、避けることのできない宿命なのですから。
 それでも、わたしはこのカラスが死ぬことによって、何か災いがもたらされるのではないのか、と感じられて仕方がないのです。
 そんな予感じみたものが、わたしを恐怖へと駆り立てていたのです。
「カラスはもう飛べなくなったわ、見てよ。父さん?」
 わたしはすぐ近くにいるカラスを目を向けました。飛べないカラスというのはどうして小さく見えるのでしょうか。思っていたよりも、案外に体躯は小さくて、さほど獰猛さを持っているようにも見えませんでした。
 わたしはこのとき別に憐れみだけで、こんな台詞をいったのではなかったのです。翼を負傷して、飛べなくなったカラスではありますが、カラスはカラスです。野に生息する鳥なのです。
「このまま放っておいて、誰か別の大きな動物に食べられてしまうことなんてないの?」
 わたしは訊きました。父がようやく口を開きました。
「カラスを食べる動物なんて知らねえな。まあ、傷といってもおれが木の枝で軽く当たったくらいじゃから、そのうちに元気になって飛べるようになるんじゃねえか。翼のあたりだけが負傷していると思うけどな、どれ、見て見るか」
 父はそっとカラスに近寄って行きました。わたしも父の後を追って、恐る恐るカラスの様子を見て見ようかとしたら、父の鋭い声がしました。
「お前は近づくんじゃねえ。翼を傷つけられているからといって、迂闊に近寄っちゃあいかんぞ」
 わたしは父に牽制されて、歩を止めました。
 父は太目の木の枝を持って、前方に構えた姿勢で、そっとカラスに寄っていきました。すぐ近くではなくて、数メートルは距離を置いていました。
 カラスの発する声も、先ほどのような勢いはなく、ずっと弱々しく響いてきます。
「見る限り、大したことはなさそうじゃな。身体が傷ついているようには見えんし」
 父はつんつんと枝の先をカラスの近くに当てて、様子を見ていました。
「おれらに出来ることはなさそうじゃ。このままそっとしておくべきじゃな」
 その瞬間、父はふっと力を抜いた感じで、後方にいたわたしのほうを振り向きました。わたしの目は父の姿の向こうにあるカラスに釘づけになりました。
 というのも、カラスがいきなり翼を広げた姿勢になったからです。
「父さん! 後ろよ! カラスが!」
 わたしはそう叫ぶのが精一杯でした。
「うわあ!」
 カラスは驚くべき俊敏さでもって、父に襲いかかってきました。
 漆黒から弓矢が放たれたような俊敏さであり、攻撃性を剥き出しにして襲う様は、闇夜からの刺客を思わせます。頼りなげだった声は一瞬にして金切り声となり、わたしの肌を総毛だちにさせるほど恐ろしい咆哮でした。
 傷ついているように見えたカラスですが、あれほどの動きを見せることができたからには、弱っていたわけでもなく傷ついていたわけではなかったのかもしれません。
 火事場のクソ力とでもいうのでしょうか、いざという局面に立ったとき、内に秘めていた野生の血が急に目覚めたのかもしれません。動物の本能のようなものが、ああした動きをさせていたのだとしたら、わたしたち人間はたかがカラス一羽と侮ることは非常に危険なことだと知るべきでしょう。
 大きな翼を誇示するようにめいいっぱい広げ、下肢の三本の 足指は針のように先が尖り、半ば開けた口ばしは太々と黒光りしています。獰猛さを剥き出しにしたカラスの身体の各部分が、夜中にあってもぞっとするほどこちらには見えていました。
 闇夜を舞う、黒い塊。それが、圧倒的な攻撃性を露わにしてくるのですから、たまったものではありません。
 わたしはどうすることもできず、ただ立ちすくんでいました。
「木の枝を寄こすんだ! かぼちゃ!」 
 父の頭上を飛ぶカラスは鋭い足爪を伸ばして、ヘリコプターが旋回するようにじっと宙空を舞っています。父は両手で顔を覆い、屈み込んだ姿勢で耐え忍んでいますが、カラスもしつこいくらいに父にじわじわと近寄っていきます。
 父は狙い定められた標的であり、獲物を狙うタカでもあるかのように、カラスがとても残忍に映ります。わたしは父が持っていた木の枝を拾い上げて、腰を低くしたまま、父に投げて渡しました。
 カラスは耳のつんざくような雄たけびを叫び続けています。どうしてカラスは急に、様変わりしてしまったのでしょうか。父の木の枝がカラスに当たったのに腹を立てたからでしょうか。先ほどはあんなにも静かにして、道ばたで飛べなくなった身体を休めていたというのに。
 突如、息を吹き返し、それまで以上の凶暴さでカラスは襲ってきました。それが、野生に生息する者に備わっている本能というものなのでしょうか。わたしにはわかりません。
 ともかく、襲ってくるカラスに父は木の枝でもって対抗しました。無闇に木の枝を振り回していましたが、さきほどのように当たることなく空振りを繰り返しました。カラスが届く位置にいるのに、まったくヒットしません。
 カラスはやはり翼を負傷していたのでしょうか、突如、地面向けて真っ逆さまに落ちていったのです。草むらの中でもがくカラス。形勢が逆転しました。
 横たえたカラスですが、頭だけが草むらからひょっこり出ていて、何度か周囲を見渡したあとでわたしを見据えていました。首は前後に動かすことはせず、しっかりと固定されています。
 わたしは見られているんだ、という感覚を受けました。
 
 きゅるるるるる きゅるるるる

 わたしの心に呼応するかのように、カラスは声を発しました。その一風変わったカラスの鳴き声は降参しているかのようにも聞こえるし、なにかの機会をうかがっているようでもあります。
 ――なにをいってるの? 教えてよ?
 わたしは声に出さずに、心の中からカラスに訴えかけました。しかし、カラスが発する鳴き声を理解することなどできませんでしたし、響いてくる声もありませんでした。
 ――逃げれるんなら、早く逃げたほうがいいわ! 翼を広げてよ!
 すると、本当にカラスは翼をばたばたとさせるではありませんか。それが偶然であったとしても、わたしは意気揚々となりました。カラスに意思が通じたんだわ、と嬉しくなったからです。
 ――あなたはわたしたちになにかを伝えたいの? だから、わたしたちのことを追っかけ回しているの? あなたはいつかの地震があったときも、父さんのことを襲ったんでしょ? ねえ、どうしてなの? あなたはいいカラスなの、それとも悪いカラスなの?
 
 ごわあああ ごわああああ ぎゃあああああ ぎゃああああ きゅるるるるる きゅるるるる

 カラスの不思議な鳴き声が、大きく響きました。
 鳴き声と同時に、カラスは翼を一気に広げると、いまにも飛んでいけそうな勢いで、身体の全身からエネルギーを溜め込んでいました。
 たとえ宙を自由自在に羽ばたける鳥に生まれたのだとしても、身体に不具合があればやはり空を飛ぶことはそう簡単ではないと思わせるほど、カラスはそれこそ必死に力を振り絞っているように見えました。
 カラスにもし精神的な力というものがあるのだとしたら、その瞬間は正に、カラスの精神力でもって再び空へと飛翔するせつなでありました。
 そこへ、茂みに身を隠していた父が出てきて、カラスの背後に立って、木の枝を大きく振りかざすのが見えたのです。
「これ以上、邪魔するんじゃあねえ!」
 父の握った木の枝が、カラス目がけて降り落とされました。
「やめて――!!!」
 わたしは声の限り叫びました。
 わたしの脳裏には、あの光景が再び見えていました。カラスの死。身体から血を流し、横たえているカラスです。
 しかし、遅かったようです。
 木の枝の先っぽがまともにカラスの身体を直撃しました。さらに一度でなく、何度か木の枝がカラスにまともに当たったのです。わたしはその光景の無残さに思わず、目を背けてしまうほどでした。

 きゃああああああああ

 金切り声を上げていたのは、わたしとカラスでした。その後、カラスはぐったりとして、ぴくりとも動きません。
 しゃがみこんで震えているわたしに、父はいいました。
「これは生きる掟じゃよ。可哀そうかもしれんがな、あそこでやっつけなければこちらが逆にやられてしまうところじゃったんだ。ほれ、かぼちゃ、見て見ろ?」
 わたしが目を開けると、父がすぐそばにいて、こめかみあたりからは一筋の血が流れていました。カラスにひっかかれた痕でした。
 父は肩で息をしていて、荒い息づかいでした。心なしか父の顔色は青白く見えます。よく見ると父はとても険しい表情をしていました。
 父のきゃしゃな腕が、わたしの身体を包み込み、ぎゅっと抱きしめてくれました。わたしの身体はまだ震えたままでした。
「そんなに可哀そうだと思うのなら、カラスのお墓でも作るか?」
 わたしは父のいったことを聞いてはいませんでした。わたしに聞こえていたのは、なにかのざわめきでした。
 ようく耳を澄ましてみなければ、聞こえてこないほどに小さな音であったと思います。しかし微かな音であっても、それが木から木へと波紋のように音が繋がり、やがて広大な杉林の木という木が一斉にある音響を奏でるのですから、けっこうな音の重なりとなったのでしょう。
 わたしはそこに憂愁の音色を聞きとることができました。泣き叫ぶことはなく、あくまで静謐でありますが、根底には悲しみという感情の起伏がしっかりと流れています。
 ――誰かが泣いている。
 さっきは汗ばむくらいでしたのに、林間から吹いてくる風がわたしの肌を掠めていくにつれ、身体が涼しく感じられます。どこからともなく聞こえてくる悲しいざわめきに身を委ねていると、
 なんだか身体の芯までがひんやりしてきます。
「ちょっとひんやりしてきたわ」
 父はわたしをぎゅっと抱きしめてくれました。心臓が脈打つ鼓動、大きな手に抱擁される優しい感覚、ざらざらとしていて力強い肌の感触、顎ひげのちくちくした感じ。
 わたしは父の腕に抱かれているだけで、安心感がわき、心は和んできます。夜眠る前、父はわたしの髪の毛をさすったり撫でたりしてくれます。そのときと同じような幸福な感覚に、わたしは包まれているのです。
 そんな束の間の幸せな感覚を脅かすように、やがてざわめきはしばらくするとかなりの騒音になってきました。

 ぎゅわるるる ぐわおおおおおうう ぐっぐっぐるるるいいいい ぼっおぎゅるるる

 あまりの喧騒に、わたしの頭の中は掻きまわされていきました。ざわめきはいまや、刻々となにか別のものへと変貌していて、わたしの五感を狂わせていくのでした。
 皮膚は奮い立ち、鼓膜を突き破るかのような騒音にわたしの耳は堪え切れず、手で耳を覆ったところで、突き抜けてくる恐怖に立ち向かうことなどできません。
「いやあああああ!」
 わたしの聴覚を犯しつつある音たちに叫声を向けます。ささやかすぎる対抗であり、沁み渡っていくように、わたしの深いところへ音たちは土足で踏み込んでいきます。
 不意に、わたしたちの頭上をなにかが飛んできました。狂ったような泣き声が、わたしたちの近くで轟きました。
 わたしたちのすぐ真上を掠めていったのは、おそらくカラスであったのでしょう。すぐにまた飛んで来ました。それが何度か繰り返されました。
「ちくしょう。カラスどもめ!」
 わたしは父に促され、放置された自転車を見つけて、父の後を追ってそちらへ駆けていきました。
「何羽いやがるんだ、カラスめ」
 交互にカラスはわたしたちの頭上を回っていました。まるであざけるかのように、狙った獲物を取り囲んで、カラスたちは宙を旋回し続けています。
 木の枝という枝がゆっすらと揺れているのがわかりました。風が強く吹いているわけではないのに末葉同士がこすれあって、周辺の木々らが大きな波を作り出しているようでもありました。あるいは、こちらへと向かっている音たちへの道しるべであったかもしれません。
「行くぞ!」という父のかけ声で、わたしたちはここから逃げるべく、自転車に乗ったところでした。
 父が勢いよくペダルを漕ぎ出そうという、瞬間でした。
 繁った木たちのわずかな隙間から、遠い上にある満月の光が差し込んで、闇が薄くなっている箇所がありました。
 そこに光っている目たちがいました。真っすぐに向けられた目たちはこちらを窺っているようです。どれだけいるのか、視界は悪いのでわかりません。しかし、気配がします。それは一羽二羽という単位ではなく、もっともっと無数に潜んでいると思われます。
 森が再び静けさに包まれました。
 しかし、それは闇に潜むものたちが繰り出すピリピリとした威圧感によるものであり、安らぎによる静けさとは異にするものでありました。
 わたしは父に促されて、そっと自転車から降りました。父は一方の手を自転車に、もう片手はわたしの手を握っています。
 息を潜めながら、父はゆっくりと歩を前に向けていきました。手をつないだままのわたしも、父につられて無言のままに足を動かせます。
 彼らを刺激しないようにしてここから逃げ出す、という父の意図がわたしには即座に理解できました。足元は暗く道だかわからないような中へ、足を一歩一歩繰り出していきます。
 のろのろと前進していきある箇所で、わたしはふっとわき見をしてしまいました。思わず息を飲みました。
 さっきよりももっとよく満月の光が当たっている箇所がありました。夜の森が光によって切り取られて、そこだけ照らされて闇の正体をさらけ出していたのです。
 夥しい数のカラスが、枝という枝にびっしりと並んでいるのです。
 しかも、彼らは物音も泣き声も一切立てず、ただじっとしているのです。それは軍隊のようなものでした。静けさというのが規律によって厳しく統率されたものであり、いざ命令が発せられるときをひたすら待っている、そんな凄みがカラスたちに備わっているように思えました。
 カラスの鋭い眼光に囲まれて、蛇に睨まれたカエルのようにわたしたちは、その場を動くことができませんでした。無数にもいるカラスがまるで一個の生き物のように、統一された意思によって動かされているのではないかとさえ感じられました。
 ――死んだカラスのことが悲しくって、仲間たちがこんなに集まってきたんだわ。
 そんなふうに思う根拠はまったくありません。ただ、わたしにそれ以外に、どうしてこんなにたくさんのカラスがひとところに集まってくるのだろう、という疑問が解消する答えを見つけることができませんでした。
 一羽の死んだカラスを偲んで、こんなにも大勢のカラスが結集している。大人しくしてはいるものの、これだけいるカラスの群れが蓄積しているエネルギーというのはかなりのもので、もしそのエネルギーが爆発し、こちらに向かってきたらたまったものではありません。父がいった、守らなければこちらがやられるという自然界の掟も、わたしには正論に思えます。
 一羽のカラスが泣き声を上げました。
 それが号令になったのか、カラスたちは一斉に翼を広げて、さしずめ戦闘開始とでもいうように、殺気立った目を向けてきました。
 一羽が飛び立ち、足爪を尖らせるようにしてこちらへと向かい、他のカラスもならって飛んできました。次々とカラスがきれいに並んで飛ぶ様子は、まるで戦闘機が宙を舞っているようです。
 そうして、カラスたちが一斉に牙を剥いて襲ってきた瞬間を垣間見た後で、わたしたちはカラスたちに背を向けて遁走し出しました。
「逃げるぞ、かぼちゃ!」
 父はいち早く状況を察していたのです。わたしの手を握ったまま、急いで自転車のところに駆けて行きました。
「さあ、早くするんじゃ!」
 わたしが自転車の後部に乗ろうとしたとき、慌ててしまったのか、一度は後部に腰が着いたものの、父が自転車を動かしたその瞬間に、態勢を崩してしまいました。
 わたしは地面に尻持ちをつき、父の自転車だけが前へと進んでいきました。
「かぼちゃ!」
 爪を立てたカラスは自転車に乗った父のところへ、一羽、二羽、やがてたくさんのカラスに包囲されてしまいました。
「父さんは悪くないわよ! だからやめて!」
 黒い集団がよってたかって父を襲撃してきました。殺気立ったカラスたちの獰猛さに、なすすべはないように思えました。
 わたしはアニメに出てくるヒーローたちを真似して、呪文を唱えました。
 ――父さんを助けて下さい。
 もちろんわたしには呪文など使うことはできません。ただ、必死になって心の中で祈るだけでした。
 カラスの群れによって父の周囲はより黒くなっていき、耐えきれなくなった父は、地面にうずくまるようにして倒れ込むのが見えました。
「父さん!」
 カラスたちはやがて、わたしのところにも来ました。
「きゃあ!」
 わたしは必死でカラスをよけようとしました。頭上にせまってきたカラスたちは、くちばしでわたしのことをつっついてきます。
 凄まじいほどの泣き声がすぐ耳元で響き、羽根の音も負けじと大きな音で迫ってくるのです。しかもそれが一羽ではなく、二羽三羽、いやいやもっとたくさんのカラスたちに囲まれてしまいました。
 わたしはカラスの数に圧倒されて、できることといえば小さな両腕で頭を抱え込むことくらいでした。とてもわたしだけでは太刀打ちすることはできなかったでしょう。
 しかし、とても不思議なことに気がつきました。
 わたしはカラスたちの襲撃を受けているはずなのに、カラスたちはわたしに指一本触れることができない様子なのです。
 わたしは見えないバリヤ―を身体全体にまとっているかのようでした。わたしの周囲に近づくカラスはことごとく、跳ね返されて退散していくのです。
 いくら鋭いくちばしでも、足の爪でも、わたしの皮膚に触れることはなかったのです。
 呪文がかなったんだわと、わたしは本気でそう思ったものです。
 その直後――わたしの脳裏には、あのかぼちゃ畑が閃くように見えてきました。
 見たこともないはずのかぼちゃ畑が、わたしの目にはくっきりと見えるのです。ぼやけた曖昧なものではなく、輪郭ははっきりとしていて、色彩が輝かんばかりに眩しかったのです。
 それがあたかも実在する場所であるかのように。まるで一度、行ったことがあるかのように。
 わたしがまだ見たことのないかぼちゃ畑。
 わたしと同じ名前を持ったかぼちゃ。
 父が丹精をこめて養ってきたかぼちゃたち。
 父のかぼちゃ畑。
 また、わたしは母の姿も見えました。
 母がわたしを守ってくれているんだわ、とそんなふうにも思えました。遠くにいたところで、わたしたちの危機を嗅ぎつけて、力を発揮してくれているのだ、と。
 カラスたちに囲まれたわたしですが、痛むところはどこもありません。恐る恐る目を開けてみると、わたしは大きくて温かいものに包みこまれていたのです。
 父でした。
 いつの間にか、わたしのところへ駆けよってきてくれて、わたしをカラスたちから守ってくれていたのでした。わたしは再び、父の大きな腕の中にいたのです。
 その腕からは、カラスにやられて血が流れていました。
 そのとき――。
 パタパタという羽根の音と泣き声は耳元でやたらと騒々しかったのに、あっという間にわたしたちの周囲からカラスが遠ざかっていきました。俊敏なカラスたちは立ち去るときも素早く、見る見るうちに消えていくようにいなくなりました。
 降参しなければならないという指令を受けたかのようでもあり、あるいはなにかがカラスたちの本能を刺激したように、カラスたちの逃走は瞬く間に完了して、やがて一羽のカラスの姿さえもなくなりました。
 あまりに咄嗟の出来事であり、わたしなどはつい自分の魔法の力がカラスたちを追っ払ったのだと勘違いしたほどです。
「聞こえたか、かぼちゃ!」
 父の厳しい声でわたしははっとしました。
「なにかがこっちへ近づいてくる!」
 父はやたら確信めいた言葉でいうので、わたしは条件反射的に身構えていました。
「さっきのカラスがまだいるの?」
 なんの音も耳には入ってこなかったので、わたしは漠然として訊きました。
 すると父は、わたしを制するように、
「いや、そんなんじゃねえ。カラスなんかじゃねえぞ」と、声を強めていいました。
 わたしは急におっかなくなりつつも、
「じゃあ、なんなの?」と、恐る恐るですが尋ねます。
「……」
 父は答えることができませんでした。
 父の息が荒くなり、身体の強張りさえもわたしにはよくわかりました。すぐ近くにいたので、父の緊張感のようなものがこちらにもよく伝わってくるのです。
 目に見えたところで怖いものは怖いでしょう。しかし、目に見えなくてなにかの音や気配だけが感じられたのなら、むしろよほど怖く感じられるのではないでしょうか。そんな父の怖れのようなものを、わたしは敏感に察知していたのです。
「ここからずらかるんじゃ」
 父は早急に自転車を探します。自転車はタイヤが上を向いてひっくり返り、木かげに隠れるようにして横たわっていました。視界も悪くありました。
 これが同じ自転車だったのかと思うくらいに、あちこちにへこんだ跡がついていて、曲げられた箇所が見受けられました。自転車もカラスの襲撃を受けていたのです。タイヤは破損していました。
 わたしたちは互いに無言で、目を合わせました。
「もう自転車は無理なようじゃ」
 父の目には失望の色が湧きあがってきました。それも無理はありません。自転車が使い物にならないとなると、自分たちの足でしか移動できなくなるのですから。
「あっちに少し明るいところがある。あちらにとにかく行ってみるんじゃ」
 わたしたちは少しの光を求めて、鬱蒼たる森の中を彷徨いました。もはや道らしきものもなく、立ち並ぶ杉の木は迷路のようでもあり、どこともわからない中を突き進むしかありませんでした。
 わたしと父は手を堅く握って、互いの手を離さないようにして、ゆっくりと歩を進めていきました。どんなことがあっても手を離してはいけないように思えました。というより、父の温もりがわたしには必要なのでした。
 ほんの子供でありますし、無力でもあるわたしです。もし父の身になにかが起こったりしたら、わたしは途方に暮れるどころではなく、どうなってしまうものやら想像すらしたくもありません。
 しかし、父とこうして手を握り締めて歩いていると、どうしてかわたしだけでなく父のほうでも、子供であるわたしがいなかったなら、立ち往生してしまうのではないかと、そんなふうに思えてくるのでした。
 そういう意味で、わたしたちは一心同体なのでした。お互いに頼り合って進んでゆくしかないのです。
 あるところに差しかかると、急に、父はしっーとわたしを制しました。歩を止めて、息を潜め、声を洩らさないようにしました。父は周囲にしばらく耳を傾けています。森は静かでありますが、そんな中でなにかの物音を聞き分けようとしているみたいです。
「なんの音が聞こえるの?」
「しっー!」と、父の声がしました。
 父はわたしには聞こえないなにかの音を、敏感に察知しているらしのです。
「聞こえたか?」
 わたしは首を振ります。風が微かに木の枝を揺らす音か、足元で葉っぱがずれる音、あるいは虫の鳴く音も聞こえます。それ以外には、わたしの心臓がどっくんと、早い鼓動を打つ音くらいなものです。
「ほら!」
 父はそういいますが、わたしにはまったく聞こえないのです。わたしは、しっかり握りしめた父の手がうっすらと、汗ばんでいるのがわかりました。
 もちろん、それが熱いからではないことは明白です。父はその音とやらに怯えているのです。
「声じゃ。とてつもなく獰猛で、かなり大きい図体をしておる。声は荒々しく、しかもなにかに飢えているようじゃ。おれにはそれがよくわかる」
 父がそんな曖昧な言い回しをするので、わたしはこんな状況にあって、必要でもなんでもない空想力というものが頭の中で、翼を広げるようにして飛び回っていました。
「行くぞ、かぼちゃ」
 わたしは再び、歩き出そうとしますが、どうしてか足がうまくいうことを聞きませんでした。わたしは疲れていました。そう大して歩いたわけでもなく、大半は父が自転車を漕いできたというのに、わたしは文字通りに足が棒のようになっていました。
 空腹であったのも一因です。夕食もとらず、普段ならとっくに眠っている時間帯でもあります。わたしは必死になって、歩き出そうとします。
 そうして渾身の力を振り絞って、足を前に出していきました。これがもし違う状況下であったのなら、例えば、運動会かなにかであれば、そこまで躍起になることもなかったのでしょうに。
 一歩か二歩くらい、重い足をひきずるようにして前に出すと、足の先っぽが暗闇の中でなにかに当たりました。大きくはありませんし、柔らかい感触でした。
 暗い中足元を覗きこんでみると、草むらの中に転がっていたのは、カラスの死骸でした。
 黒いむくろは、ぐったりと横たわって、足指を広げて翼を伸ばし、くちばしの間は大きく開いていていました。よく見てとれませんでしたが、目も見開いているようでした。
 あとわたしの目に強烈に映ったのは、カラスの死骸から滴っている赤い血でした。真っ赤な血の色が濃く、あまりにも赤々としていたので、これはもしや、またわたしの頭の中でだけ見えていたものなのか、それとも実際にカラスが血を流していたものなのか、判別がつきません。
 正直いって、こんな状況では気にすることができず、頭の中がパニックと恐怖によって占領されてしまいました。幻影と現実、現と夢、その中で必死になり、泳いでいたようです。
 わたしは大声を張り上げました。
「きゃああああ!」
 突然、わたしの声は出なくなりました。口元がぎゅと閉まり、一瞬だけ息ができなくなりました。海で溺れたような錯覚を起こしましたが、父の声によって、なにが起きているのかを、わたしは父の手から感じ取ることができました。
 父の手がわたしの口を押さえていました。わたしが大声を出してしまったがためです。父の手は小刻みに動いていて、胴震いしているのでした。
「声を出すんじゃねえ。やつに居場所を感づかれてしまうかもしれん」
 
 グルルル グワォオ

 低い声が、確かにしました。
 今度はわたしの耳にも、しっかりと聞こえてきたのです。しかも、そう遠くから発せられたものではないように感じられました。
 わたしたちはその場を動かずじっとしていました。息を飲んで、状況を見守りました。草一本動かすことなく、不動で立ちすくんでいたのです。
 学校で、校長先生の話などがあると、よく生徒は起立させられます。わたしなどは、我慢がならなくなるのですが、今度ばかりは指一本動かすことなく、息を殺していました。それもこれも、なにかがいるという恐怖がなせるわざでした。
 しかしながら、一度だけ声がしただけで、周囲からはなにも聞こえてきませんでした。もしやつが動いてくるものなら、枝を踏みつける音くらいは聞こえてきそうなものですが、まったくの静けさに包まれているのです。
 それならばと、わたしたちのほうから前進してゆきました。慎重に足を運んで、一歩一歩、ゆっくりと歩きました。
 気配のようなものは、なにも感じません。やがて、足運びは速くなっていきます。走るまではしませんが、かなり足早な歩調です。

 キュルルー、キャキャー、クククッー

 また鳴き声がしました。しかし、先ほどわたしの耳に聞こえてきたのとは、別なものの声だったと思います。獰猛さのかけらもなく、とても小さな声でありました。
 再び、わたしたちに緊張が走りました。わたしたちにできることは、とにかくどこか安全な場所まで移動するということです。
 それか、少なくともこんな鬱蒼とした林の中ではなく、もっと月の光の当たる開けた場所があるはずです。父によれば、かぼちゃ畑も近くにあるはずなのですから。
 わたしたちは無我夢中で、木々の中をかきわけて、突き進みました。しばらくして、父はぴたりと止まりました。
「血の匂いがする」
 たしかに、わたしの鼻も変な匂いを嗅ぎとっていました。血だけではなく、他のものも混ざったような腐臭なのでした。
「野ウサギじゃ。なにものかに、噛み殺されたみたいじゃな。胴体の半分がなくなっておる」
 さきほど聞こえてきたのは、この野ウサギが、なにものかに襲われて発した声であったのでしょう。
「なにものかに身体を引き裂かれたのじゃ。これは、噛まれたんじゃねえ。爪かなにかで、一発でやられたみたいな痕をしておる」
「逃げよう、父さん!」
 わたしたちは再び移動を開始した、矢先です。

 グワアアーーーー、グルルル、ググァーーーー

 やつの声が響きました。耳を塞ぎたくなるほどの声であり、わたしの頭の中が掻き毟られるような感覚を起こすのです。
 これまで聞いたこともないような、恐ろしい唸り声でした。なにかの動物であったとして、たとえば熊であるとしても、動物園で飼っているような熊たちとは、まったく別種のようです。
 野生の熊と飼いならされた熊とでは違うだろうし、種類によっても異なるでしょう。しかし、ともかくわかるのは、やつが生きているらしいということだけで、それが果たして動物と呼んでいいものかさえ、わたしにはわからなくなってきたのです。
 周囲からは、枝のポキポキと折れる音が聞こえてきます。その音からは、やつがとても巨大な体躯の持ち主だということがわかります。小動物ならば、音はかすれるような感じですが、もっと大きなものにしか出せないような、踏みつけてくる音で迫ってくるのですから。
 たかがカラスの死骸などに無闇な声を上げても、いまわたしたちの近くに徘徊しているやつは、とてもカラスの比ではありません。
 わたしたちがカラスの大群に取り囲まれていたとき。あの狂ったようなカラスの集団でさえ、やつの気配をとっさに感じとったあとで、一目散に逃げざるを得なかったほどの存在なのです。
「さあ、とっとと逃げるのよ」
 動こうとしない父の手をとって、わたしは父を促しました。
「父さん、ってば!」
 わたしにはもうじき、この闇から逃れられる場所に行けるように思えました。むろん、例によって根拠などありません。さっきから、父といっしょに堂々巡りばかりを続けていたのですが、わたしに語りかけてくる声が、もうすぐだ、と呼びかけてくるのです。
 怖ろしいやつの気配を近くに感じて、恐怖心がつのってきます。そいつはわたしたちの近くにきているのだということが、わたしにはわかりました。姿は見えなくても、そう感じられるのです。まるで期末テストのときのように、たくさん時間がある、まだ余裕があると思っていると、いつの間にか、ああ、こんな時間になっている。まだ、ここまでしかやっていないというのに! 同じような怖さです。
「やつから逃げおおせることはできぬ」
 父は変な目つきでいいました。これまで見たこともない顔でした。
「おれは逃げるわけにはいかない」
「なにいっているのよ! いまならまだ逃げられるかもしれないじゃない」
 わたしは父の手を引っ張って、さあいこうよと促しました。ですが思いっきり引っ張ってもびくともしません。まるで運動会の綱引きのようです。
 しまいに、わたしは身体ごと父にぶつかってゆきました。頭をごんと何度かぶつけてみました。
「じゃあ、わたしはどうなるのよ? 父さんは逃げたくないならいいわ。でも、わたしはどうなるのよ? あいつに食べられてしまうの? それでもいいの、ねえ?」
 父は今度はわたしをじろりと睨みました。どうして、とわたしは思いました。どうしてこんなときに、そんな怖い顔をしなくちゃいけないの? 宿題を忘れてきたときの先生のような顔なんかして。
「だいじょうぶ。これはな、おれ自身の問題なんじゃ。だから、お前には危害は及ばん」
「は? なにいってるの、父さん?」
「じゃあ、聞くぞ。お前にはなにがきていると思うんだ? なんの声だった? そいつの正体をいってみろ?」
「ぐらあああ、ぐるるるるわわあああああ、って、なんか、野獣みたいな声よ。大っきな角が二つ生えてて、牙を剥き出しにしている。それでね、身体はね、こーんなにでかいの」
 と、わたしは両手を大きく広げて、父に見せました。
「美女と野獣とみたいな獣よ」
「ふむ、なかなかじゃな。魔法をかけられた王子みたいなもんかもしれんな」
「へ、なにいっているの、父さん」
「……とにかくな、前へと進んでみるんじゃよ、かぼちゃ。それしかない」
 一歩、一歩と暗い道の中を進んでゆきました。一本しかない道でした。か細い道ですが、確かに一本の道がずっと続いていました。ずっと。ずっと。
 わたしはふいに心細くなって、歌を歌い始めました。テレビのコマーシャルで流れていた何かの曲だったと思いますが、誰なのかわからず、メロディだけを口ずさみました。そして、コマーシャルの商品名までもはっきりと口にしていました。頭から離れず、きっとスーパーに買い物にいったら、間違いなくこの商品を手にしていたでしょう。
 わたしはずっと父さんの手を放さずに、握りしめたまま、手をつないで歩いていました。この手だけはどんなことがあっても放してはいけない、とわたしはそんなふうに感じていたのです。
「おれは怖くない。おれは怖くない」
 父はそんなことを呪文のように呟きながら、歩いていました。
 わたしには父の感じている怖さがよくわかりました。怖くないといっているにもかかわらず、心は恐怖にとらわれている瞬間なのです。
 幽霊が出ると噂の場所を通るとします。目を開けたくても怖くて開けられません。でもそこを通らないと家には帰ることができません。怖くないと、何度も声に出します。間違った漢字の読み方を直そうとして、正しい読み方を一生懸命に口にするときと似ています。
 間違った漢字の読み方を頭から消したくて、やっきになっているのです。
 わたしと父は手をつないだまま、どんどんと道を進んでゆきました。なにも出てきません。さっきは確かに感じていた気配もしなくなりました。
 わたしは内心ふと安心します。なんだ、こんなの気のせいだったんじゃない、って。なんてったってここは近くの山でなんだから。なんにも出てくるはずないじゃない。
 それよりも、わたしはこうやってずっとと父の手を握っていられることが、密かに嬉しくてたまらなかったのでした。普段は髪をちょっとだけ撫でるくらいしかしてくれない父でした。なでなでしてよ、と何度か催促してようやくしてくれるくらいです。
 父の大きくて暖かい手の感触がとても気持ちよかったのでした。
 こんな外灯もない真っ暗な小道を歩いてゆくさえ、かまわなかったのです。
 なんだ、幽霊と同じで、いると思えばいるような気がしてくる。それと同じことか。だったら信じなければいいんだわ、とわたしは思いました。
「なあ、かぼちゃ。おれは父親としてどうなんだ? やっぱり情けないと思うか?」
 わたしは変な質問をしてくる父の顔を見ました。なんか、テレビのホームドラマに出てくるような台詞です。
「そんなことないわ。だって、父さんは父さんなんだもの」
「いい父親じゃないことは確かじゃな。なにせ失業中だし、ろくなことしてはおらんからな。家事も苦手だし」
「でも、この前はお味噌汁作ったでしょ。それ、おいしかったよ、ほんとうに」
「ありがとうな、かぼちゃ。でもな、男のくせに仕事しておらん」
 わたしはむしろカイシャというものを忌み嫌っていました。カイシャという所がどんなかも知らないくせにそんな風に思っていたのです。同級生のお父さんはカイシャのために、家族と離れて暮らし、週末になると帰るのが許される。そんな暮らしをしているそうです。
 カイシャとはそんなにも偉い人がいるのでしょうか。
 カイシャとはそんなにも大事なものなのでしょうか。
 わたしにはちっともわかりませんでした。
 カイシャの悪口なんかいったらどんなことになるかわからない。だからわたしはずっと黙っていたというだけです。
 むしろ父は失業して家でごろごろしているほうが、気楽そうであり機嫌もいいことをわたしは知っていました。家ではあまり存在感のない父でしたが、でもいるといないのとではやはり大違いなのです。
 忙しい母が帰ってくると、わたしの心臓も少しだけ高まる気がします。家が片付いてないと母は苛々してわたしに当たりますし、家事を手伝わないともっと機嫌が悪くなります。わたしは母の独りごとが大嫌いですが、どうしてか母の独りごとというのは、わたしの耳によく残るのです。よく耳の右から左に流れて忘れてしまうということがありますが、どうしてか母の小言はずっしりとして重く、しかもしつこく居残るのです。
 その点、父は母の愚痴をかわすのがとてもうまいのです。父はまず真っ向から否定したり、怒鳴ってみせることはしません。火に油を注ぐことはしないのです。うんうんという頷きというか、とても曖昧な返事のしかたをよく心得ているのです。
 黙ってばかりだとそれもよくないことを知っているのか、そうやってときおりうんうんと頷きます。またそのタイミングがとてもいいので、わたしは感心してしまいます。
 そうやっていつの間にか、母の気が違う方向へといきだすと、ひょっと何か用事を見つけてうまくその場から逃げてしまうのです。父がいると、わたしのところへ母の愚痴がど真ん中には飛んでこないので、わたしも避けやすいのです。
 山の中で父と二人きりでいて、父の放った一言がずしりとわたしの心を直撃しました。何気ない一言だったのかもしれません。わたしが必要以上に気にかけすぎたのかもしれません。
「おれはな、ときどき自分のことがすごく嫌になるんじゃ。とてもダメな男に思えてしまうんじゃ。まあ、というかおれがダメ男なのはれっきとした事実じゃな」
 がーんと、頭を上げたらそこにはテーブルの角があって、思いっきり直撃してしまった。と、わたしはその瞬間、頭がくらくらとするほどショックを覚えました。
 どうしてよ、どうしてよ、どうしてよ、と、何度も繰り返します。
 よりによってこんなときに弱音を吐くのよ。
 いまはわたしと父の二人しかいないのよ。
 心細くなっちゃうじゃない。
 わたしは答えたくありませんでした。ああ、そうよ、わたしの父さんはどうしようもない人で、ダメ男なんて、そんなこと思いたくもないのです。
 だって、わたしの父なんですから。
 
 グワアアーーーー、グルルル、ググァーーーー

 すごく近くでやつの声がしました。
 もうすぐ手の届くような、すぐそばにいる気配がしたのでした。ガ―ンと周囲の温度が数度くらい一気に下がったように、わたしは寒気を感じました。足元の草が、風に吹かれて揺れているように思われました。
 暗い闇がぬくっと動いたように思いました。
 暗闇にうごめくなにかがひそんでいる。
 しかも、わたしの手の届かない木の上のほうです。覆っている空がごっそりとそいつのものであるように思えて、わたしは鳥肌が全身に立ちました。
「きゃああああ! なにかがいるわ! 父さん」
 わたしは父の身体を必死で揺り動かそうとしていますが、父は石のようになってしまいまるで動きません。
 父はそいつのほうをじっと見つめていました。
 歯を食いしばっています。
「お前にも見えるのか、そいつの姿が?」
「さっき動いたもの」
 今度はもっと明確なものが闇の中に出現しました。
 それは目でした。
 二つの大きな目であり、赤色をしています。暗闇にうごめく二つの目は、こちらをじっと見つめているようでした。高いところから、下にいるわたしたちを見下しているように見えました。
 威圧感を感じました。暗闇で見えませんが、おそらくものすごい形相をしているに違いありません。わたしはそれを敏感に感じとっていました。やつの放つ視線の強さは、わたしの肌が察知していました。皮膚の毛穴という毛穴が反応します。ぶつぶつとなって、毛が立つのです。
 それから、闇の中から影が離れました。大きな黒い塊がごそっと動いたのです。まるで海底の砂にうずくまっていたタコが触手を広げて移動するような感じでした。海の砂の一部がごぞっとはがれて動く。もちろん触手もなければ形も見えないのですが。
 そして、やつの身体全体が見えました。
 あまりにも大きな身体です。
 二階建ての家くらいはあるでしょうか。
 そいつがゆっくりとこっちに向けて歩いてきます。
 他にはなにも見えないとでもいうくらいに、そいつの目はわたしたちに注がれていました。闇に光る赤い目がわたしたちを釘づけにします。
「よく聞くんだ、かぼちゃ」と、手を握っていた父がそっといいました。
 わたしはがたがた震えながらも、父の顔を見ました。
 父の目が大きく開かれていました。普段は細めで開いているのかわからないくらいですが、このときばかりは誰かが手で父の目を釣りあげているのではないか、と思えるくらい父の目がよく見えたのでした。
 父の瞳はまるで深海のようでした。
 深い深い、海の底。とても静かです。圧倒的な空間と静寂さの漂う世界です。海の底では人間は喋ることができません。水の中では呼吸ができないからです。言葉などというものが意味を持たない世界。それはとても美しい世界でもありました。
 そのときの父の表情をわたしは忘れることができません。
 父の底に眠る深海という世界がわたしの前に開かれていたのです。
 父はそいつをしっかりと見据えていました。
「おれはな、あいつに呼ばれたんじゃ。あいつはおれを探していた。おれはずっとどこかにいると思っていた。そして、ほんとうにいた。おれの目の前にいる。これはな、おれとあいつとの最初で最後の邂逅になるだろう」
「かいこう、って?」
「ああ、出会う、ってことじゃ。あいつの顔を見たことはない。けれど、おれはそいつがずっとおれの人生につきまとっていたことを知っておる。最後にやつの気配を感じたのは、地震がきておれの人生が狂ったときじゃった。そのときはおれはやつのことを知っていた。でも、そいつが何者なのかは知らない。わかっていることといえば、おれはそいつから逃げるわけにはいかないということじゃ。いや、もう逃げられないのじゃ。前のときは、おれはあいつに背を向けて逃げた。怖かったからじゃ。でもな、それじゃいかんのだ。だから、今回だけは逃げるわけにはいかねえ。だからな、かぼちゃ、お前にはおれから離れて遠くの安全なところで隠れていてほしいんじゃ。だいじょうぶ。おれはだいじょうぶだから。もう覚悟はできたんじゃ。いいか、覚悟のできた人間ほど強いものはねえ。それにおれはお前に約束したんじゃ。かぼちゃ畑を見せてあげる、と。忘れたわけじゃねえ」
「と、父さん! いやよ、わたし、父さんの近くにいるわ!」
 わたしは父の痛切なるものを感じとり、いたたまれなくなりました。わたしの内部にあるものをぐわっと素手でつかまれたような感じでした。
 わたしは父と離れたくありませんでした。一度遠くへいってしまったら、もう二度と父の顔を見ることができないように思われたのです。
 大きな腕がどこからか、にょきっとでてきました。空気が揺れたと思ったら、闇を裂くようにしてわたしたちの前に飛んできたのです。長い五本の指が見えました。めいいっぱいに広げられたそいつの手です。とても大きな手であり、わたしなどはすっぽりとその手の平の中に隠れてしまえるくらいです。
 そいつの手はわたしたちの手前まできて、また戻ってゆきました。
 一息つくと、今度はそいつの姿が現れたのです。
 ついにやつの全貌が明るみに出ました。
 大きな口を開けていました。牙が見えます。それだけでわたしは想像してしまいます。あの大きな口に食われたくなんかない、と。やけに尖った歯をしていて、ティラノサウルスのようです。立派な顎をしていて、見るからに大きな獲物でも軽々と飲み込めてしまいそうな丈夫な口をしています。人間の口なんかそいつに比べると、まるで迫力が足りません。
 毛むくじゃらで体毛がすごいです。テレビでたまに外国人の黒々とした胸毛が生えている男の人がいますが、あんなものではありません。気色悪い体毛というのとは違って、触ったら柔らかくて気持ちよさそうな体毛です。そういった意味では、そいつは人間というより動物に近いのです。
 顔はまるで狼ですが、身体は動物らしいところはないのです。プロレスラーのように分厚い胸板をしていました。あんな風に筋肉隆々なのは、狼男も筋トレに励んでいるからなのでしょうか。とにかく筋肉質でマッチョな身体をしています。キン肉マンとかそんな感じです。
 
 グワアアーーーー、グルルル、ググァーーーー

 狼男は吠えました。
 それはとても不愉快な音であり、不気味な不協和音でもありました。爪を立ててものを引っかくときの音のような、生理的に不快な音でした。
 父は怯まずに狼男へと立ち向かってゆこうとしていました。
 わたしの手を放そうとするのです。
「いやよ!」
 わたしは断固として父の手を握っていました。
 しかし、これは最後のあがきでした。父の決意に満ちた表情によって、わたしは父の手を放して、父のやりたいようにさせてみるしかないと薄々感じていたのだと思います。それほどに父の確固たる顔はある種の威風堂々としていたのです。
 そのときのわたしはただの幼い女の子であり、ただ不安に駆られた一心で父の手を放したくなかったのだと思います。
 けれど父がいった言葉がしんとしてわたしの手を放したのだと思えなくもありません。父は狼男のことをずっと前から知っているようなことをいい、いつか対決するはずだとそんなふうにいったのでした。今回ばかりは逃げるわけにはいかないのだ、とも。
 父がどうしてそんなことをいったかなど知るよしはありません。まるで予知でもしていたかのような言葉はひっかかりますが、だからといってわたしになにができたでしょうか。
「ねえ、父さん、戦うのよ。狼男と戦いましょう」
 と、わたしはついそんなことを口にしてしまいました。
 目の前では巨大な狼男が佇んでいるというのにわたしの頭の片隅では、父といっしょにいればこんな状況でもどうにかなるさという思いがありました。なんとか切り抜けられるはずだ、と。いつか必ずどこかからヒーローが現れて、悪者をやっつけてくれるはずだと信じて疑わない。というか、わたしが見たアニメや漫画ではそういう勧善懲悪以外の結末は知らなかったのですから。
 すると父はこれまでに見たこともないような不敵な顔で笑ったのです。
「はははは、ばかいうんじゃねえ! これはおれ一人が背負うべきものじゃ。お前を道づれになどはできぬ」
 こんな調子でいわれると、わたしも少しへこんでしまいます。
 
 グワアアーーーー、グルルル、ググァーーーー

饒舌なかぼちゃ畑 寡黙な父親

執筆の狙い

作者 5150
5.102.6.54

長編での、中盤くらいまでです。ダークファンタジーみたいな感じでしょうか。前半は調子に乗りすぎてやたら饒舌になってしまいました。

コメント

椎名
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心理描写が多すぎる気がします。物語を増やすか、作品全体を短くした方がいいかなと思いました。

浅野浩二
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とても面白く読ませて頂きました。

5150
5.102.6.54

椎名さま

仰る通りだと思います。削って引き締めた方がいいと自覚しつつ、そのままにしてあります。

5150
5.102.6.54

浅野浩二さま

読んで貰って嬉しいです。

青井水脈
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読ませていただきました。序盤、前半、ゲームセンターを出て以降から面白くなってきました。地震が来るなんてどうなるんだろう、と思っていましたが、お父さんと狼男の対峙でハラハラしますね。最後まで読んでみたいです。

ダークファンタジー……。ジュブナイル小説の雰囲気ですかね。当時のかぼちゃの年齢、母親との距離感からして、父娘の絆が特別になるのもわかる感じがします。

>父の瞳はまるで深海のようでした。
 深い深い、海の底。とても静かです。

ここが印象的でした。森や畑の広がる田舎で、例えに海が出てきて。

5150
5.102.6.54

青井水脈さま

>序盤、前半、ゲームセンターを出て以降から面白くなってきました。地震が来るなんてどうなるんだろう、と思っていましたが、お父さんと狼男の対峙でハラハラしますね。最後まで読んでみたいです。

けっこうな長さのものを読んでもらって嬉しく思います。序盤はけっこうだるく書いているし、読み進めてくれるかなと心配していたので、とりあえずホッとしました。話が進んでゆくにつれて緊張感も増すようにと、心がけたのですが。

>ジュブナイル小説の雰囲気ですかね。当時のかぼちゃの年齢、母親との距離感からして、父娘の絆が特別になるのもわかる感じがします。

家族の距離感というのは苦心した点でもあります。どうなんでしょう、一般的には、母と娘がくっついた関係が多いんでしょうかね。

>ここが印象的でした。森や畑の広がる田舎で、例えに海が出てきて。

確かに。山の中に、海、ですもんね。父についても、けっこう苦心してキャラを描いたつもりです。

ありがとうございました。

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