悲しいピアノの旋律
練習室の中に中里が弾くピアノの音が響き渡っている。ドビュッシーのベルガマスク組曲は「月の光」に差し掛かった。部屋の中に置かれたヤマハのグランドピアノから、美しく、胸が締め付けられるような悲しい旋律が発せられている。中里のピアノの腕はこの音大でトップの実力というだけのものはある。しかし、さらに彼にしか発せられないような旋律があった。僕は「月の光」を感心して聴きながら、その背後にある感情について考えた。彼がこのような旋律を奏でる背景には何があるのだろう。
演奏が終わると、中里はピアノから手を放し、そっと膝の上に置いた。明るい茶色の髪、両耳の銀色のピアス、端正な顔立ち、背は僕より一センチ高い。
「どうだった?」
中里はピアノから顔を離さずに僕に聞いた。
「すごくよかった。心が動かされるような演奏だった」
僕は彼に素直に感じたことを告げた。
「小規模なコンクールなら優勝できるんだ。現に去年は優勝している。でも全国規模や国際コンクールとなるとまだ通用しない。俺は早く世界で通用するような技術を身につけなくちゃいけないんだ」
中里は焦っているようにそう言った。
「君ならできると思うよ。君にしかできない演奏だったから」
中里は僕がそういっても溜息をつくだけだった。彼は褒められても自分の現状をしっかりと認識しているのかもしれない。
「のどが渇いたな。コーヒーが飲みたい」
僕らは練習室を後にした。廊下を歩いていると様々な学生の演奏が聞こえる。僕の耳にはそんな彼らの演奏はありきたりなものに感じた。今、隣を歩いている中里は彼らにはない、圧倒的な個性を持っているように感じていたのだ。でももしかしたらそれは僕の思い込みだろうか。僕が彼と親しくしているから、彼の演奏をひいき目に見てしまうのだろうか。
練習室のある建物を後にして、僕らは外に出た。季節は冬で、身が縮こまるような冷たい風が吹いている。キャンパスにあるすべての木は葉が落ちていて、全体的に閑散とした印象だった。
隣の建物に入ると、中にはたくさんの学生がいた。髪を染めている人はいたが、この大学の特徴のせいか、あまり派手な人はいない。皆、それなりに恵まれた環境で育ち、真面目に生きてきて、この大学に入ったといった感じだった。だからそういう意味でも中里は特徴的な学生だった。
建物の中に小さなカフェテリアがある。店の周りにはテーブルが置かれていて、多くの学生は授業が終わった後、ここで話をしたり、勉強したりする。
僕は若い女性の店員にカフェラテを二つ注文した。女性の店員は慣れた手つきで、エスプレッソをカップに注ぎ、牛乳を加えた。
外は寒かったが、僕らはカップを持って、外に出た。キャンバスを通り過ぎる学生たちが目に入る。小さな大学だったが、僕の知り合いはいなかった。
キャンパスの芝生の上に僕らは座った。中里は背伸びをして、空を見上げた。
「演奏する時に何を思っているんだ? おそらくその感情が君の個性だと思ったんだけど」
僕は空を見ている中里に聞いた。中里は一呼吸した後に話し始めた。
「いいところに気づいたな。さすがお前だ。俺は演奏するときに、ある一人に向かってピアノを弾いている。その人はもうこの世界にはいないんだ。高校生の時に親しかった女子生徒がいてね。ある冬の朝に電車に飛び込んで死んだんだ」
僕は彼と一年一緒に過ごしてきたが、初めて聞いた話だった。彼は僕に多くを語ることはなかったし、それは僕も同じだった。だから今みたいに重要なことを時間が経ってから知ることがある。
「なんでその女子生徒は死んだんだ?」
「理由なんかわからないよ。ある人は精神を病んだからだって言うし、またある人は家庭に問題があったって言う。そいつはクラスに数人しか友達がいないような目立たない生徒でね。俺はたまたま席が隣同士になったことをきっかけによく話をするようになったんだ。でも亡くなる前日だって、そいつはいつもと変わらなかった」
中里はそう言うと、カップのコーヒーをすすった。彼は相変わらず遠くを眺めていたが、その目が少しだけ潤んでいるようにも見えた。
「でもなんでその人に向けてピアノを弾いているんだ?」と僕は聞いた。
「俺は彼女が死んでから世界観ががらりと変わったんだよ。今までは自殺するような人は特別な人だと思っていたんだ。でもね、彼女のように自分が死ぬような苦しみを抱えていて、それを周りに打ち明けられない人は想像よりもずっと多いと思った。だから俺はそういう人たちの心に響くような音楽を奏でたいんだ」
僕はその時、彼が弾いた「月の光」を思い出した。胸が締め付けられるような悲しい旋律は死んだ女子生徒に向けられたものだったのだ。彼は彼女のことをずっと思い続けていたのだろう。
「ようやく、君の個性の理由がわかったよ」と僕は言った。
「でもね、俺は今でも後悔しているんだ。あの時、もっと賢明だったら、彼女に手を差し出せたかもしれない」
芝生の上に座って、気が付くと、僕はカフェラテを飲み干していた。空になったカップを手に持ち、遠くの景色を眺める。この大学は高台にあったので、住宅地の家々が見渡せた。空の色は変わり、紺とオレンジのグラデーションになっている。キャンパスの中を通り過ぎていく学生の数もずっと減っていた。中里は相変わらず遠くを見て、何か物思いにふけっているようだった。
「そろそろ帰ろうか? もう日が暮れるし」
「そうだな。明日は二限からだから、朝にもう一度練習に付き合ってくれよ」
僕らは芝生から立ち上がり、歩き出した。太陽が沈んでいこうとしている。ぎらぎらとした光はまるで中里の演奏のようだった。彼の演奏にはそうした個性もあった。
大学の外の道に出ると、日が暮れて、辺りは暗い青い世界に包まれた。向かいの道の奥は林になっていて、風が吹くたびに葉がこすれ合う大きな音がしている。
「お前が初めて軽音部に来た時、俺に何曲か聴かせてくれただろ? 俺はあの曲を聴いて、お前とバンドを組むことにしたんだ。お前が来たのは大学三年からだったから、あまり時間はなかったけどね。俺はピアニストを目指しているが、お前だって作曲家になれると思うよ。それくらいお前の曲には特別な魅力がある」
僕は彼にそう言われて、少し嬉しかった。
「僕は作曲家になれるか不安なんだ。でも、来年にはアメリカに留学しようと思っている。僕には曲を届けたい誰かはいないけどね。ただ、僕は様々な曲に救われてきたのも事実だ。だから今度は誰かに曲を届けたいと思っている」
坂になっている道を下っていくと、住宅地に入った。街灯の明かりが点在して地面を照らしている。ほとんど人は歩いていなくて、時々車が通り過ぎていくだけだった。僕はこの街にやってきてから、ずいぶんといろいろな景色を見てきた。
駅に着くと、中里は僕に手を振って、反対側のホームの階段を上っていく。僕も彼に手を振って、ホームで電車を待った。駅にはアナウンスが響いていた。スーツを着た会社員や制服を着た女子高校生の姿があって、人はまばらだった。
電光掲示板を見ると、あと五分で電車がやってくる。ふと線路の方を見ると、空から雪が降ってきた。白い小さな雪が風に吹かれて舞っている。次第に雪は多くなっていった。地面に雪が落ちると、ゆっくりと消えていった。僕は駅のホームで電車が来るまで雪を眺めていた。脳内には、中里が演奏した「月の光」が鳴り響いている。その旋律の悲しみは彼女に届いているだろうか。
執筆の狙い
夢を追う若者とちょっと前に話題になった芸能人の突然の死を題材にしてこの小説を書いてみました。