作家でごはん!鍛練場
空なきところに光なし

サティから(短編)

 1



 脳みそが弾けるような感覚を味わったのは二回。ジムノペディに出会った時と友達が死んだ時だった。どちらも小学生の時に味わい、そこから長い間、その記憶だけが脳にこびりついている。

 ジムノペディに出会ったのは小学生の時、イトコの家にあった電子ピアノを恐る恐る触った時のことだ。電子ピアノに備え付けられていた演奏機能を押すと、勝手に演奏してくれるのだが、その演奏の一番。つまりは最初に流れるのがジムノペディだった。僕はそれを、辺りを見渡し、息を荒くしながら押した。そして、心地よい音で、最初の一音が奏でられた。あの時、僕は酷くやさぐれ、心を擦り減らせていた。だからこそ、その時聴いたジムノペディは僕にとってのイエス・キリストみたいなもので、僕はその音楽の谷に、自ら落ちていった。

 友達が死んだのはそれよりもっと前の話だ。もうかなり昔のことなのに、今でもあの時のことは鮮明に覚えている。クリスマスの日に、火事で隣の家の同級生が死んだのだ。あの時見た火の色と、あの叫び声が今でも胸の奥で疼くように思い出す。

 その二つの出来事に、何の結びつきもないけど、僕はジムノペディを聴くとあの死んだ同級生の少女を連想してしまう。それはもう切っても切れないほどに結びつき、僕がジムノペディを聴くたびに、彼女の顔が浮かびあがるのだ。

 それからだった。

 僕の音楽の見方が変わったのは。



 2



 ジムノペディを弾くことになった時、僕は動揺とともにその運命みたいなものを感じていたのだと思う。ピアノ教室で先生から渡されたジムノペディ。その楽譜を、家に帰ってから眺め、少しだけ奏でてみる。すると思うように弾けず、あの記憶は呼び覚まされなかった。まるで夢と現実の間で、ぼんやりとしか見えない花火のように、少女の顔は見えなかった。僕は大きく欠伸をした後、楽譜をしまった。それからふと、スマートフォンをポケットから出し、インターネットでジムノペディを探し、流した。 

 目を瞑る。

 瞼の裏側に、やっぱり彼女が映り込む。夕方の太陽がもう沈んで、でもまだ明るい夏。風に吹かれる草をバックに、彼女は佇んでいる。彼女が何かを言っている。僕は必死にそれを聞き取ろうとする。でも、聞こえない。だってそれは聞き取れないから。彼女はもうこの世にはいなくて、僕は彼女の声を忘れてしまっているから。もう届かないのだ、その声は。それはまるで宇宙の星が何億年も前に発した光によって、今、空に見えているように、僕の声と彼女の声は何億じゃ済まないぐらいにすれ違っている。ジムノペディは未だ穏やかで、なだらかな旋律を奏でていた。

 僕はジムノペディを雑に止めた。息を深く吐き、僕のおかしくなってしまった脳みそを恨む。僕はあの日、ジムノペディを聴いたあの日から、音楽を聴くと彼女が主役の物語を思い浮かべてしまうのだ。それが僕の癖、のようなもの。 

 だからあの日から、僕はジムノペディを最後まで聴くことができなくなっていた。つまり、ジムノペディを弾くということは、ジムノペディを弾き終わるということは、彼女の終わりを意味していた。



 3



 僕はピアノのある家に生まれた。それがどういう運命か、僕は知らずに生きて、誰も弾かないピアノを眺めることだけが、僕にとってのピアノの使い道だった。黒く滑らかで、大きくて勇ましいそんなピアノは、誰に弾かれることもなく、不気味なまでに静かに僕らを眺めていた。僕はそんなピアノを触れてみたかった。でも、触れることが怖かった。僕のピアノに対する初めての感情は恐怖だった。そして、それからずっとその感情は変わることはなかった。

 それから少しして、イトコがピアノを弾き始めた。同い年で、同じように育ち、同じように過ごしてきたイトコが、ある日ピアノを弾き始めたのだ。なんでもピアノ教室に通っているのだとか。イトコがピアノを弾いている時、僕はゲームをしていた。気を紛らすためだ。僕は生まれつき、ある特徴的な性質を持っていた。後々、それが原因で音楽というものの見方が変わってしまうのだが。

 兎にも角にも、その能力についてだが、その僕に備わった特徴的な能力とは音楽を聴くと頭の中に物語や情景を想像してしまうというものだ。それは僕の意思とは関係なしに、頭の中を駆け回る。だからこそ、イトコがピアノを弾くと、僕は他のものに集中することができなくなる。ゲームも、やっているフリなのだ。僕はただ、イトコのピアノを聴いていると思われることが嫌いで(それはたぶん幼い嫉妬のようなもので)僕はまるで興味がないように、ゲームを動かしていた。でも、やっぱりゲームをしていても、その情景は浮かんでくる。イトコの演奏は、まだはじめたばかりで、たどたどしくて拙い。所々演奏が止まって、滑らかさがない。でも、芯があった。とても強い芯がそこにあって、僕はそれを綺麗だと思っていた。緑の草原が広がる丘で、一人の少女が駆けている。少女は泥だらけで、走るごとにその地面の土を弾いていた。その後ろを垂れた耳を揺らしながら、バセットハウンドが追いかけている。少女はそんなバセットハウンドを見て、笑って、バセットハウンドも嬉しそうに吠えている。僕はそれを眺めていた。楽しげな雰囲気。少女は笑顔を崩さず、バセットハウンドも嬉しそうに少女を追いかけている。ただただ幸せな情景。そこで、イトコは一音、間違える。少女がピクッと体を揺らして立ち止まる。バセットハウンドは急停止すると、不思議そうに首をかしげる。イトコはそこからリズムも、音も、そのメロディさえも崩していき、一種の不協和音のような演奏になる。草原に雨が降ってきた。それは段々と強まり、少女とバセットハウンドを濡らす。でも、少女は笑っていた。とても嬉しそうに、空を見上げていた。僕は堪らずに歩き出す。そして、少女に傘を差し出した。少女はキョトンとした顔でこちらを見る。それから、深く笑って、首を横に振り、「いらない」そう言った。僕が傘を差し出す手を引っ込めると、少女はまた走り出した。今度は雨を感じるように、手を広げて、大きく笑って。バセットハウンドも吠えながら少女を追いかける。

 僕はそんな少女を見て、傘を投げた。傘は風と雨に吹かれ、どこかへ飛んでいった。僕は少女に近づく。少女は僕に気がつくと、にこりと笑った。

「ねえ、あなたも一緒に走ろうよ」少女は言った。バセットハウンドがそれに同意するように吠える。

 僕は迷わずに、首を縦に振った。

 そこで、演奏は終わりを迎える。少女とバセットハウンドは手を振って、消えていく。

 イトコは「疲れた」と一言言った。僕はゲームを置き、立ち上がった。

 その二日後、僕は母に「ピアノ、やりたい」と伝えた。



 4



 僕の家庭は少し複雑というか、面倒くさいというか、僕には家が二つあるのだ。一つは家族と暮らす、寝る家。もう一つは祖母と祖父の暮らす、夕飯を食べる家。僕は学校が終わると夕飯を食べる家に行って、イトコと遊んで、勉強して、お母さんとイトコの家族も帰ってきて、みんなで夕飯を食べる。その後、自らの寝る家に帰って、お風呂の後、眠るのだ。ピアノは夕飯を食べる家にあった。昔、母が買ってもらったらしい。僕が覚えている最初に弾いた人物はイトコで、はじめて曲として聴いたのは、母が弾いたエリーゼのためにだった。僕は湖の中で佇む妖精のような女の人を思い浮かべていた。妖精は笑って、僕を見ている。白い髪と、白い肌。まるで透き通る硝子のような女性。僕は手を振った。彼女も手を振り返した。でも、次の瞬間には、それは泡沫のようにパッと消えてしまう。母は「どう?」と僕に笑顔を向けている。「綺麗」僕はそう言った。この時がはじめてだったのかもしれない。頭の中に浮かぶ、その情景を見たのは。



 5



 夜、眠れない日々が続いていると、僕は決まってジムノペディを流していた。楽譜を渡されたその日も、暗い部屋のベッドの上で僕はジムノペディを聴いていた。やっぱり見えるのは彼女の姿と、揺れる草木、夏の黄昏時なのだ。少女は決まって何かを言うが、僕はそれを読み取ることができない。ジムノペディが進む。何かが燃える音が聞こえる。パチパチと弾け、ごうごうと燃える音。僕はハッとして後ろを振り向く。そこには燃える家があった。僕はジムノペディを雑に止める。情景はすっと消える。無音の中で、暗い部屋が広がっていた。

 元々、僕は音楽を聴くと情景が浮かぶ癖を持っていた。それが変貌したのは、ジムノペディを聴いた時。あの時から、僕の情景には彼女が映り込むようになった。彼女が主役で、僕がそれを傍観するのだ。ジムノペディと彼女。僕はそれを断ち切ることができそうになかった。



 6



 引っ越しがはじまったのは、僕が小学四年生あたりのころだったと思う。僕ら家族は畑だった土地に、家を建てた。祖母と祖父の夕食を食べる家は壊され、そこに新たな家が建った。イトコの家族と祖母と祖父の家だ。そうして、僕の新たな家にあの黒いピアノはやってきた。場所の都合上と、元々母のものだったことから、この家にやってきたのだ。イトコの家は電子ピアノが来たらしい。でも、生活は変わらなかった。僕はイトコの家で夕飯を食べ、自らの新たな家で眠った。それは変わらない法則のようで、僕は何も変わらず、その新たな生活に染まっていった。

 ピアノは相変わらず続けていて、練習するのはイトコの家の電子ピアノだった。イトコと喧嘩しながら、僕はヘッドホンをして、曲を弾いていた。そんな時に、そう、あれは夏休みの日。イトコがいない合間に電子ピアノのスイッチを入れてヘッドホンをした。僕は緊張しながら、いつも気になっていた演奏ボタンを押したのだ。そこで、それは流れた。ジムノペディ。僕の脳が弾ける音がしたのを、今でも覚えている。でも、僕はその時、その音楽がジムノペディだと知らなかった。ただただ流れる情景に身を任すことしかできなかった。



 7



 はじめてピアノ教室に行ったことを僕は思い出していた。眠れない日は、こうやって過去のことを思い出して手繰り寄せていく。

 僕ははじめ、ピアノの先生というものが怖いものだと思っていた。それはピアノというもの自体に恐怖を感じていて、ピアノの先生も怖いという方程式が勝手に脳内に張り付いていたからだ。

 だから、先生と出会った時、僕はその優しい笑顔に動揺した。ピアノの先生というのはもっと、もっと恐ろしいものでなくてはならない。それなのに先生は笑っている。僕はその笑顔を嘘だと決めつけ、はじめてのレッスンを受けた。まず、弾き方を教わった。

「手首を、こうやってストンって落とします。やってみて」

 僕ははじめて、「ド」という音を弾く。その音が部屋を満たし、僕の耳に浸透する。僕はたぶんその時はじめて感動した。これがピアノなのかと初々しく思った。

「そうそう、上手」

 先生は優しかった。たぶん僕の出会ってきた「先生」というものの中で一番優しかった。

 そうして、僕はピアノと先生と感動に出会った。でも、僕はピアノを弾き始めた時、もどかしくて仕方なかった。ピアノを弾くと見える情景が、まだぼんやりとしているからだ。はっきりと見えない情景は、僕に強い思いを抱かせた。この情景を目にしたい、と。



 8



 ジムノペディはなかなか弾くことができなかった。指が追いつかず、左手の移動が上手くできなかった。窓からの日差しがピアノの黒い光沢を輝かせている。僕は目を瞑り、息を吐くと、またピアノにストンと指を下ろした。楽譜に書かれた音を読み解き、エリックサティがどういう気持ちで弾いていたのかを想像してみる。でも、やっぱりそれを邪魔するように、あの情景が映り込む。少女と黄昏。何かを言っている。でも聞こえない。僕はそこで指を止めてしまう。震える指。僕は力を抜き、手をしまう。

 そこで、あの時の言葉を思い出す。



「ねえ、知っている?」

 あの言葉。学校でジムノペディを弾いていた友達の言葉。

「ジムノペディの楽譜の注釈にはね、”Lent et douloureux”。そう書かれているんだよ」

 発音の良い言葉。何を言っているのかはわからない。僕は「どういう意味?」と尋ねる。

「ゆっくりと、苦しむように」

「え?」

「ゆっくりと、苦しむように。そういう意味」

 そこでチャイムが鳴った。もう昼休みは終わるらしい。友達は立ち上がり、「それじゃ」と言ってそこから立ち去った。後に残された僕はじっとピアノを見つめていた。それからちょうど一ヶ月後に、僕は学校に行かなくなる。ジムノペディを弾いてくれた友達と会うのは、これで最後だった。



 気がつくと、かなり時間が経っていた。僕はまた過去に引きずられていたらしい。ピアノを前にして、僕は五分ほどぼうっとあの友達のことを思い出していたようだ。今、彼女はどうしているのだろう。そう思うと胸がはち切れそうになった。僕は過去が嫌いだった。でも過去があるから自分が存在していることぐらい、わかっていた。だから、またジムノペディを弾くために練習をはじめた。未だぼんやりとする彼女の情景を手繰り寄せるように。



 9



 ピアノ教室でピアノを弾くのは楽しかった。毎週、毎週、密かに楽しみにしていた。ピアノを弾くと、物語が紡がれ、僕はいつも違う世界を探検しているみたいだった。

 でもあの日、ジムノペディを聴いたあの時から少しずつ僕の人生はおかしくなっていった。

 僕は習い事を四つしていた。それから家では勉強をすることを強いられ、学校では先生に見放され、友達はいたが、いじられキャラとしていつも罵倒されていた。つまるところ、僕は追い詰められていった。空から巨人の手が押し寄せるように、僕はどんどんと地面に押しつぶされようとしていた。僕は辛くなると、ピアノを弾くふりをして、ジムノペディを聴いていた。まだその音楽をジムノペディだとは知らなかったけど、でもその音楽を聴くとあの少女と黄昏に出会えた。少女が何かを言う。聞こえない。燃える音。家が燃えている。そこで、音楽を止める。その日、ピアノ教室に行って、先生の前ではじめて泣いた。ミスをしただけなのに、涙が溢れてきた。



 10



 ジムノペディを知ったのは、中学生になってからだ。僕は名前も知らないあの曲を、いつも思いながら過ごしていた。中学生になって、イトコとの距離が広がり、あの電子ピアノに近づくことさえも億劫になっていた。ジムノペディを聞きたいが、聞けない。そんな日々が続いていた。だからその日、廊下を歩いていてその曲が微かに聞こえた時、心臓がドクンと脈打った音が聞こえた。僕は足を早め、その音の奏でられる場所に向かった。昼休み。廊下は思い思いに休む生徒で溢れている。そんな中、そこに辿り着いた。音楽室と書かれている。僕はノックもせず、ガラリとドアを開けた。中にいたのは、ピアノを優雅に弾く少女だった。少女は僕に目もくれず、黙々とその音色を弾いていた。黄昏時の少女が脳内を走る。僕はピアノに近づき、少女の横に立つ。少女は黙ってピアノを弾いている。そんな時に、少女はジムノペディを弾きながら言った。

「この曲、好きなの?」

 僕は少し動揺したが、冷静に「うん。でも、名前を知らない」そう答えた。すると少女が演奏の手を止める。静寂が音楽室を包み込む。

「ジムノペディ」

「え?」

「ジムノペディっていうの。エリックサティのジムノペディ」

 そういうと、少女はまたジムノペディを弾き始めた。僕は「ありがとう」そう小さく呟くと、音楽室を出た。やけに暑い廊下で、僕は叫びたい気分に襲われた。やっと知れたジムノペディと、出会った少女。僕は世界の果てにでも行ったような気分で、その日を過ごした。



 11



 結局のところ、僕は学校に行かなくなったわけで、あの時はすべてが終わってしまったような気分でいたのを覚えている。僕は突然消えたように、習いごとをすべてやめた。そう、ピアノもその日を境にやめた。やり途中だった楽譜は今でもピアノの上で眠っている。



 12



 ジムノペディを弾く。和音を重ね合わせ、旋律を奏で、ジムノペディは象られていく。僕はあの情景を思い出す。夏色の黄昏時、草花がそよぐその場所に立つ少女。何かを言っている。僕はその言葉を手繰り寄せるように、「ゆっくりと、苦しむように」、奏でる。前半部分は何も見ずに弾けた。何故なら僕はその情景を覚えているから。誰も信じてはくれないけれど、僕はピアノを弾く時、次の音を思い出すのではなくて、次の情景を思い出す。少女の口の動き、吹いた風、揺れる草花、それを一つ一つ奏で、象るのだ。次は、あの燃える家。僕はそれを象って、ジムノペディを弾いていく。でも、そこでジムノペディは静止する。途端に情景がなくなり、消えていった。この先を、僕は知らなかった。僕はいつもこの続きを聴いていなかった。だから弾けないのだ。



 13



 高校生になって、また僕はピアノを弾き始めた。最初は誰にも見られない場所で、なんとなく好きなように弾いていた。好きなように弾くと、情景はまるで夢の中のように、自分でも驚くような出来事がたくさん起きる。僕は直感に従って、ピアノを弾く。そんな時に、ふと、思ったのだ。「また、ピアノはじめよっかなあ」、と。僕は過去を忘れたものを、一つ一つ拾い集めることを望んでいた。ピアノもその一つだった。僕はその日、いつかの日のように、母に言った。「ピアノ、やりたい」、と。



 14



 ピアノ教室に行くと決め、僕は久しぶりにたくさんの曲を聴いた。ドビュッシーの「月の光」。まずはその曲を部屋で聴いた。

 それを聴いて僕は、夜に眠る少女を思い浮かべた。そこには月の光が差し込んでいて、傍には読みかけの夏目漱石「夢十夜」が置かれている。窓が開きっぱなしで、涼しい風が流れ込んできていた。僕はそっと、少女に布団をかける。少女は小さく言った。

「ゆっくりと、苦しむように」

 僕は「わかっている」と言って、そこを立ち去る。

 次に流したのはエリックサティの「グノシエンヌ」だった。グノシエンヌは、僕に世界の終わりを見せた。崩れゆく地面と割れる空。動物たちの悲しみの声に、人間の抗い。すべてを俯瞰するように、僕はそれを眺めている。その中に一人の少女が佇んでいた。少女は僕を見つめている。世界の終わりで、少女はたった一人でそこにいる。

「ねえ、世界の終わりがグノシエンヌなら、あなたの人生はなんて曲なの?」

 少女は冷静沈着にそう言った。僕は終わる世界に降り立ち、「そうだね」と呟くと少し考えた。少女はそんな僕を見て笑う。

「当ててあげようか」

「うん」

「ジムノペディ」

 そうして、少女とともに世界は終わっていく。僕はグノシエンヌを止めた。僕はその後も次々と曲を流し続けた。目まぐるしく変わる情景を、一つ一つ心に焼き付けた。でも、ジムノペディだけは聴けなかった。それだけは、僕を拒んだ。



 15



 だから、ジムノペディを弾くことになった時、僕は動揺とともにその運命みたいなものを感じていたのだと思う。

 だって、僕にとってジムノペディとは……僕そのものだったから。



 16



 雨が降っている。降る雨が地面と衝突して、それが重なり、雨音となって部屋を満たしている。ピアノの前に座り、楽譜を立てかける。静かな時に身を任せながら、指をいつもの位置に置く。

 あれから、ジムノペディと出会ってから色々なことがあった。最近ではもう、彼女の顔さえも忘れかけている。いつの日か、この曲の注釈に「ゆっくりと、苦しむように」と書かれていることを教えてくれた人がいたことを思い出す。あれも、随分と昔の話だ。イトコとも、もう喋ることはほとんどなくなっていた。いつかまた喋るかもしれないが、あの頃のような関係にはもう戻れないのだろう。すべては終わりに向かっていく。あと何年生きられるかわからないけど、最後に、この後悔だけは、この過去に落とした忘れものだけは拾っておきたかった。

 昔、最初に教わったあの時のように、指をストンと落とす。最初の一音目。完璧なほどに繊細に、そして強い音だった。次に和音。それも一寸のずれもない音だった。僕は目を瞑り、ジムノペディを演奏する。そうして、あの情景がやってくる。

 夏の色に染まった黄昏時、少女が佇んでいる。

「久しぶり」

 少女は確かにそう言った。

「この曲、完成するんだね」

「うん」僕はゆっくりと頷いた。

「じゃあ、もうお別れだね」

「お別れ?」

「そう。お別れ。この曲が終わる時、私はもう去らなければならないから」少女は悲しげに言った。

「どうして?」

「すべては終わるの。あなたはジムノペディを弾き終わって、過去の忘れ物はすべて拾い集める。そうしたら私の居場所はもうないの。だからお別れ」

「これが、最後?」

「うん」

 そうして、その音を聞く。炎の音だ。パチパチと弾け、ごうごうと燃える音。ぱっと振り返ると、そこにはやっぱり燃える家があった。

「あの日、私は死んだ。でも、あなたは忘れなかった。だから私はこうやって、ジムノペディや色々な曲の中で生きているの」

 家が燃え盛り、屋根が崩れ落ちてくる。僕と彼女の目の前に、それは落ちた。まだ倒壊した屋根から火が上がっている。熱い。嫌になるほど熱かった。

「ねえ、私が消えても、あなたは私を忘れない?」

「たぶん、忘れないと思う。いや、忘れられないと思う」

「どうして?」

「ジムノペディは僕そのものだから。ジムノペディを聞けば、また君を思い出すと思う」

「そう……ありがとう」

 ふと、少女を見る。少女の後ろをたくさんのものが駆け巡った。それは記憶だった。最初に出会った少女とバセットハウンド。それから湖に佇む女の人。眠っている少女。世界の終わり。何もかもが駆け抜ける。

「さあ、もう終わるよ」

「もう?」

「ジムノペディは短いの。美しすぎるから」

「そっか」

 すると、少女がこちらに向かって歩き出した。僕に当たりそうな所で、少女は僕をすり抜ける。まるで幽霊のような感触に僕は驚き、はっとして振り返る。

「さようなら。また会えたら、いいね」

 少女は手を振り、火の中に消えていく。気がつけば、そこに少女の影はなかった。まるで最初からいなかったかのような。

 燃え盛る炎。夏の黄昏時。揺れる草木。そこに佇む僕。ジムノペディは最後の音を奏でた。



 僕は弾き終わると、そこで魂が抜けたような放心状態に陥る。周りの感覚がなくなり、世界から断絶されたような気分だった。でもすぐに気がつく。僕はジムノペディを弾き終えたのだと。ふと、もう一度、最初の一小説を奏でてみる。でも、彼女の姿は目に浮かばなかった。それ以上に、顔も声も匂いも何もかもを忘れてしまっていた。もう彼女とは出会えないみたいだった。僕はピアノから手を離し、外の雨音に耳を済ます。

「ゆっくりと、苦しむように」

 その意味が、少しだけわかった気がした。

サティから(短編)

執筆の狙い

作者 空なきところに光なし
p558222-ipngn6201funabasi.chiba.ocn.ne.jp

純文学の新人賞を目指そう、と決意してから三日目に出来上がった作品です。まだまだ稚拙で拙い部分があると思いますが、辛辣なコメントもお待ちしております。
(行間を自動ツールで開けたため、不自然かもしれませんが、そこは暖かい目で見てください。)

コメント

椎名
KD027083171050.ppp-bb.dion.ne.jp

イトコとカタカナで表記しているのは、ちょっと良くない気がしました。また登場人物がどんな人かもあまりイメージできなかったです。最後も現実的に書いた方がいいと思います。場面をもう少し詳細に書いて、長くした方がいい気がします。

浅野浩二
flh3-119-240-41-72.tky.mesh.ad.jp

感動しました。

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