作家でごはん!鍛練場
青木 航

坂東の風【第二十八話~第三十七話】

 【第二十八話 陰に生き闇に死す】

 二回目の会談は、三日後に同じ福王寺で行われた。

 兼通(かねみち)は腹案を持って臨んでいたが、千常には迷いが有った。朝鳥の言葉が、微妙に千常の気持ちを揺らしていたのだ。
 最終的に、千晴、高明の赦免を勝ち取らなければ意味が無い。だが、それはとてつもなく困難なことなのではないかと思えて来ていた。かと言って、中途半端な妥協などしたくは無い。相手の出方次第で腹を決める他無い。そう覚悟した。

 正対して、一応頭を下げる。
 顔を上げて兼通を見ると、なぜか落ち着いた表情を浮かべている。 

『さては、戦うと腹を決めたのか』

と千常は思った。 

「兵を退(ひ)く腹は決まったか?」

 兼通が鷹揚(おうよう)に言った。 

「それは、前回も申し上げた通り、そちらのお答え次第です」

「条件は譲れぬと申すか」

「仰せの通り」

「前にも申した通り、朝廷が決めたことは覆(くつがえ)せぬ。戦うより他無いか」 

「御意(ぎょい)」

 兼通は黙って頷き、平維茂(たいらのこれしげ)と源満仲の方を見た。

 二人とも、さも当然と言う表情で頷く。千方と貞義は硬い表情を崩さず、黙している。 

「やむを得ぬな。だが、最後に申し聞かせたき儀が有る。他の者達は席を外せ」

 何事かと思ったが、千常は千方と貞義の方を見て頷く。二人は、礼をして席を立った。
 兼通は、満仲と維茂の方に視線を送った。二人は互いに視線を交わし、間を置いて席を立った。
 四人が姿を消すのを待って、兼通が表情を崩した。

「本音を申せば、戦いとうは無い。世が乱れることは望まん。
 じゃが、麿の立場も考えてみよ。千晴や、まして高明様の赦免など決められる立場では無い。関白様が了承し、詮議に掛けて初めて出来ることじゃ。
 そうする為には、都に文(ふみ)一通送れば済むと言うことでも無い。直接お願いしなければならぬことだし、一度や二度で済むことでも無い。時が掛かる。
 そして、もし、関白様のご同意を得られるとしても、何かの理由が無ければならない。
 例えば、帝(みかど)のお代替(だいが)わりの恩赦であるとかな。いずれにしろ、したくても直ぐには出来ぬ。もし、兵を退(ひ)いてくれるなら、赦免に向けて力を尽くすと言う一冊を与えても良いぞ」

 つまり、赦免に向けて努力すると言う約束を文書にして与えると言うのだ。

「もし、約束を違(たが)えた時は、その文(ふみ)を世に晒せば良いであろう。
 勝手にそのような約束をしたことが朝廷に知れれば、当然、麿は罰せられる。麿も、約束を守って赦免の為に力を尽くすしか無くなる。どうじゃ、ここまで腹を割って話しても聞き入れられぬか」

 言い終わると、兼通は千常の目を見据えた。
 千常は既に戦ってみても、千晴、高明の赦免まで持って行くことが極めて困難であることは自覚している。だが同時に、公家(くげ)と言うものを信用していない。千常も兼通を見返し、暫し沈黙がその場を支配した。
 兼通の言う通り、文書(もんじょ)を与えると言うことは、兼通に取っては相当な危険を伴うことである。他に、より良い方策が無い限り受けることもやむ得無し、と腹を決めるに至った。

「仰せ頷ける部分も御座います。御言葉に偽りが無く、確かな念書を頂けるのであれば、兵を退(ひ)きましょう」

「そうか! 分かってくれたか。結局、それが下野藤原の為でもある。朝敵に成ってはならぬ」

 兼通は歓びを露(あらわ)にした。千常は表情を変えない。これで良かったのかと言う想いがどこかに有るのだ。
 兼通は、予(あらかじ)め用意させておいた筆と紙を取り出し、約定(やくじょう)を認(したた)めた。

『こたびは朝廷の説諭に従い、騒乱を自(みずか)ら収めんとせしこと、殊勝である。
 本来、相応の罰を与えるべき処ではあるが、特別の計らいを以て罪一等を減じ、お構い無しとする。
 尚、異例ではあるが、千常に付いては、その武勇を朝廷の為に使うよう命じ、近頃騒がしき俘囚(ふしゅう)の動きを静める為、次期鎮守府将軍として力を尽くすよう計らうこととする。また、千常より願い出されし、千晴らの赦免に関しては、力を尽くし、極力、意に添えるよう致す』

 兼通は、ゆっくりとそれを書き上げ、千常に渡した。

 末尾には、

『参議・従四位上(じゅしいのじょう) 藤原朝臣(あそん)兼通』と署名した。

 ゆっくりと書いたことと署名に、実は兼通の策が潜んでいた。
 ゆっくり書いたのは、兼通が意識して普段の筆跡とは違う筆跡で書いた為である。また、署名の肩書、『従四位上(じゅしいのじょう)』も嘘である。この時点での兼通の位階は、従四位下(じゅしいのげ)である。
 万一公表された時、この二点を以て偽造と決め付け、知らぬ存ぜぬと押し通すつもりなのだ。公家たる者、やはり、保身に関しては、ずる賢く強(したた)かである。

 手筋(てすじ)を変えてみても、現代の筆跡鑑定であれば簡単に見破られてしまうだろうが、当時なら、十分に惚(とぼ)けられる。
 また、兼通の正確な位階や筆跡まで千常辺りが詳しく知っている訳も無いのだ。

 兼通が突然表情を崩した。本人としてみれば、身分を超えた親しみを表そうとしたのかも知れないが、千常と言う男、元来(がんらい)公家の白粉(おしろい)顔が大嫌いなので、突然、にやけられたら気持ち悪いと思うだけで、嫌悪感以外に無い。

「麿の本心が分かるか?」

「はぁ?」

「存じておるかとは思うが、麿の六男・正光の室(しつ)は高明様の姫じゃ」

 それは、千常も知っていた。
 当時、高明直属の部下であった兼通は、高明の三の姫が生まれると直ぐ、六男・正光との婚約を願い出、高明の了承を得た。そして、一昨年、婚姻を結んでいたのだ。正光はまだ十三歳なので、形だけの夫婦(めおと)ではある。

 しかし、こうしたことが、安和(あんな)の変に際して、高明派と看なされ、兼通を窮地に陥れることとなった。
 幸い罰せられる迄には至らなかったが、出世に於いて、弟・兼家に追い越されることとなっていたのだ。

 千常は兼通を、高明派で有りながら保身に走り、摂関家の中で何とか浮き上がろうと踠(もが)いている男と見ていた。だが、先程まで呼び付けにしていた高明に『様』を付けていることに気付いていた。

「罪人(つみびと)となった今、他の者の前では呼び捨てにせざるを得ぬが、麿はいつも心の中では、『高明様』と呼んでおるのじゃ。千晴も以前より見知っておる。内心、解き放しは、麿も望んでおるところなのだ。
 しかし、今の朝廷の中で、そのようなことは噯気(おくび)にも出せぬ。じゃが、そのほうの要求と言う形であれば願い出ることが出来る。麿を信ぜよ」

 表情は不快であったが、千常の心は、兼通の言葉に少し動かされた。

 千常から和議を結んだと聞かされた千方は、千常らしく無いと思い、結果に不満であった。だが、朝鳥の進言も思い起こし、敢えて反対の意見は述べなかった。

    ~~~~~~~~~~~

 同じ日の夜、都の伊尹(これただ)の舘に忍び入る影が有った。

 長老である。蝦夷の装束を身に着けている。
 今は、下野の郷では長老自身を含めて、蝦夷の装束を身に着けている者は居ない。大和(やまと)の農夫と同じ物を着ている。それがこの日、何故か蝦夷の姿をしているのだ。

 影は警備の従者(ずさ)達の目を盗み、南庭(なんてい)から母屋へと進む。南庇(みなみひさし)に素早く上がると伊尹の寝所(しんじよ)に忍び入った。
 宿直(とのい)の者の目を盗み、寝入っている伊尹に近付くと、いきなり枕を蹴上げた。殺すつもりならそんなことはせずに、ただ刺せば良いはずである。
 枕を蹴られた伊尹は、闇の中でもあるし、一瞬、何が起きたか判断が付かない。じっと目を凝らすと、何となく影を感じた。影はじっと待っている。

「曲者(くせもの)じゃ。出会え!」

 伊尹が叫んだ。

 手に手に灯(あか)りを持った従者(ずさ)達が、慌てて駆け付けて来る。猟官の為、無報酬で仕えている地方の土豪の子弟達である。
 灯(あか)りの中に姿が浮かび上がる。顔こそ布で覆っているが、伊尹、従者達の誰もが蝦夷と認識し、従者達が伊尹を護る為駆け寄ろうとした瞬間、長老は伊尹に襲い掛かった。
 蕨手刀(わらびてとう)が伊尹の腹に突き刺さろうとする瞬間、複数の従者(ずさ)が一斉に長老に斬り掛かった。蕨手刀は、わずかに伊尹の腹に食い込み、血が滲(にじ)んだ。
 数人の従者(ずさ)が伊尹を退避させる一方、残りの者達は、尚も代わる代わる長老に斬り付ける。それは、長老が倒れてからも続けられ、上から何度も刺し抜かれた。

「なぜ蝦夷が」

 浅手を負って北の対屋(たいのや)に避難した伊尹はそう呟いた。

『やはり蝦夷は、本気で都に攻め上ろうとしているのか』

 そう考えた。

「賊は仕留めました」

 従者(ずさ)達から報告を受けた家司(けいし)が報告に来た。

「血の穢(けが)れ。母屋は建て替えよ。当分はここで暮らす」

「はっ。お怪我(けが)の方は、大事御座いませんか。直ぐに医師が参ります」

「かすり傷じゃ。大事無い」

 伊尹の寝所(しんじょ)の床は、長老の血に染まっていた。手柄を立てるのは今と、誰も彼もが競って斬り付けた結果だ。
 伊尹はこの事件を隠すことにし、厳しく箝口令(かんこうれい)を敷いた。

「賊はたまたま蝦夷であった。逃げた蝦夷で賊となっている者も多い。だが、このことが表に出れば、
『大納言が蝦夷に襲われた。やはり、蝦夷が都に攻め上(のぼ)って来ると言う噂は本当だったのだ』
と言うことになってしまう。
 民心を不安にさせ、都を混乱に陥れる。良いか。例え親・兄弟といえども決して漏らしてはならん。万一、漏らす者有らば、厳しく処罰する」

 そう通達して押さえたが、伊尹自身の心には、
『蝦夷が攻め上(のぼ)って来ると言うことは有り得(う)る』
と言う観念が植え付けられてしまった。

    ~~~~~~~~~~

 千常に兵を退(ひ)かせることに成功した兼通は、帰京して実頼に報告した。
 与えた文書のことは触れない。条件としては、千常の次期・鎮守府将軍と千方の身分保障、昇進に付いて約束したとだけ伝えた。実頼が事前に了承していた内容とほぼ同一である。

「良うやった、兼通。麿は、兄弟の中でのそなたの立場理解しておる。任せよ。悪いようにはせぬ」

 和睦に付いて伊尹から相当な反発が有ることを実頼は覚悟していたが、なぜかそれは無かった。


 【第二十九話 朝鳥の死】

 千常は兵を退(ひ)き、下野の小山(おやま)に引き揚げた。
 千方とその郎等達は武蔵の草原(かやはら)に戻り、祖真紀と郷人(さとびと)達は隠れ郷(ざと)に帰った。
 山に戻った祖真紀は、父である長老が、二人の郷人を供に都に上ったと聞かされる。

「はて、都で何をするつもりなのか」

と考えた。嫌な予感がした。

 その二日後、近江の甲賀兼家からの使いが千常を訪れた。伊尹の下僕(げぼく)として潜入させてある手の者からの情報だと言う。
 伊尹の舘に、蝦夷がひとり侵入し、従者(ずさ)らに斬り刻(きざ)まれ、死骸はいずこかに捨てられたと言う。

「馬を引け!」  

 聞き終わった途端、千常が叫んだ。

「どちらへ?」

 今は千常の側近と成っている、朝鳥の上の娘の婿(むこ)・足立三郎・盛末(もりすえ)が聞く。

「良いから、さっさと馬の支度せい!」 

 千常は気が短いので、重ねて聞くことは出来ない。盛末は仕方無く馬の手配に掛かる。但し、盛末自身を含め、五人の郎等の馬も用意させた。 
 千常達は隠れ郷に向かった。

「長老はおるか」

 慌てて迎えに出た祖真紀(そまき)に、千常はいきなり尋ねた。

「手前の留守中に都に向かったとのことです」

「それきり繋ぎは無いのか」

「はい」

と答え、祖真紀は千常の表情を探った。 

 千常の表情が曇ったのを見て取り、祖真紀は、父が既にこの世に亡いことを悟った。
 千常の次の言葉を静かに待つ。 

「近江の望月兼家殿より報せが有った。都の藤原伊尹邸に忍び込んだ蝦夷がひとり殺されたそうじゃ」 

「父で御座いましょう」

 祖真紀は静かに答えた。

「あの男が、そう簡単に殺されるとは思えぬ」

「死にに参ったので御座いましょう。ひとりと言われましたね、潜入したのは」

「申した」

「父は、郷の者二人を連れて行っております。恐らく、巻いたか騙(だま)して置き去りにしたのでしょう。ひとりで死ぬ為に」

「ふん。そうで無ければ連れて行くはずか。伊尹は、賊が入ったことを極秘にしているそうじゃ。
 二人の者は、未だに長老の行方(ゆくえ)を探しているのかも知れぬ。戻って来ぬのは、そう言うことか」

「不出来な伜(ぜがれ)の穴埋めをしたつもりか、親父め」

「陸奥(むつ)でのことなど長老が知る訳も有るまい」

「我が親ながら、底知れぬ男で御座います」

「ふん、確かに。底知れぬものを持ちながら、影として生き、影として死んだと言うことか」

「我等の定めに御座います」 

「父上や麿を恨まぬのか」

「いえ、大殿に『命(みこと)』と呼ばれたことを、父は生涯喜んでおりました」 

「そのほうには、そんな死に方はさせぬ。先代・祖真紀への、それが、せめてもの手向(たむ)けじゃ。千方もそう思うじゃろう」

「どうか、我等にお気遣い無く」

 その晩は郷に泊まり、千常は、郷人達と長老を偲んだ。 

 十日ほどして、長老に従い都に上った二人の郷人が戻り、予測がほぼ正しかったことが裏付けられた。長老の死は、武蔵の草原(かやはら)に居る千方と朝鳥にも知らされていた。

 四、五日、風邪で臥(ふ)せっていた朝鳥が、その日、たまたま出て来ていた。

「やりおったな」

 話を聞いて、朝鳥がぼそっと呟く。

「何か存じておったのか」

 千方が尋ねた。

「先日、別れを……」

と言い掛けて、朝鳥は咳(せ)き込んだ。

「大丈夫か」

「申し訳ありません。大事御座いません」

「麿に別れを告げに参りました」 

 朝鳥が又、咳(せ)き込む。

「戻って、寝ておれ」

「何のこれしき。その時は麿も、ゴホッ、先陣を努めるつもりでおりましたので」

 朝鳥は、また咳(せ)き込んだ。

「朝鳥。命(めい)じゃ。住まいに戻れ。夜叉丸と雛に送らせよう」

「そんなお気遣いはご無用に、ひとりで戻れますゆえ。お言葉に甘えて下がらせて頂きます」

 礼をして、朝鳥は下がって行った。千方は夜叉丸を呼ぶ。

「夜叉丸。雛(ひな)と共に朝鳥を送ってくれ。草原(かやはら)の住まいには、飯炊きの婆と下僕(げぼく)しかおらぬゆえ、雛を看病の為残して来て欲しいのじゃ」

「畏(かしこま)りました」

 返事をすると直ぐ、夜叉丸は一端、郎等長屋に戻り、雛を連れ、朝鳥の後を追った。

 千方の前を辞してから、朝鳥の体調は急に悪化した。
 馬に乗るのもしんどかった。春と言うのにやたらに寒さを感じ、体の芯から震えが沸き上がって来る。温かいそよ風が吹いているはずなのに、木枯(こが)らしのように身に凍(し)みる。
 ともすれば、頭がぼーとして来て落馬しそうになるので、下僕に手綱(たずな)を取らせ、両手で鞍(くら)の前輪をしっかりと握っている。

「旦那様。大丈夫だべか」

 下僕が声を掛けた。

「大事無い」

と言いながら、体が揺れている。

 今までこんなことは無かった。風邪など気合いで治るものと思っていた。
 少し楽になったと感じた。花が咲いている。春だから当然とは思ったが、住まいから千方の舘への道筋にこのような美しき場所が有ったかなと思う。
 その時、行く先にひとつの影が現れた。良く見ると、影は次第に人の姿になった。

「おお、祖真紀、無事でおったか」

 当代の祖真紀では無い。朝鳥は長老を昔の名乗りで呼んでいるのだ。

「してやられたと思ったぞ。戦(いくさ)とならず、死に損(ぞこ)なってしもうたからな。何か、汝(なれ)を裏切ったようで心苦しかった。おまけに性質(たち)の悪い風邪までひいてしもうてのう」

「旦那様!」

 叫ぶ下僕の声が聞こえた。
 朝鳥は、いつの間にか長老と轡(くつわ)を並べている。長老が微笑んだ。

「ん? 忘れ物じゃ。六郎様に、芹菜(せりな)の腹におったお子のことを話しておらん」

「ご心配無く、伜(せがれ)がいずれお話しするでしょう」

「うん? そうか。そう言う約束であったな。それにしても、見事な花畑じゃな」 

 崩れ落ちる朝鳥の姿と、それを必死で受け止める下僕の姿を夜叉丸と雛は遠目で見た。

 二人は走った。そして、朝鳥を受け止め、そのまま尻餅を突いてしまった下僕の側へ走り寄った。

「どうしたのだ!」

 叫ぶように夜叉丸が聞く。

「具合悪そうだなと思って見ていたら、急に大きく揺れて落ちて来なされた」

 夜叉丸は直ぐに朝鳥の胸元に手を入れた。だが、既に朝鳥の心(しん)の蔵(ぞう)から鼓動を感じる事は出来無かった。

    ~~~~~~~~~~

 朝鳥の遺体は下野(しもつけ)の小山(おやま)に運ばれ、葬儀が行われた。

「長老め、ああ見えて以外と淋しがり屋であったと見える。さっそく朝鳥を迎えに来おった」

 酒を酌み交わしながら、千常が千方に言った。

「かも知れません。年が近いこともあり、仲が良う御座いましたから。身近に居たこともあり、父上が亡くなった時以上に、堪(こた)えております」

「さも有ろう」

「朝鳥には、数えきれぬほどのことを学びました」

「父上が、麿にもそなたにも、朝鳥を付けたお気持ちは分かる。荒武者でありながら、考えの深い男であった」

「真(まこと)に。戦(いくさ)で死にたいと申しておりましたが、それは、叶いませんでした」

「戦(いくさ)を止めたのは朝鳥じゃ。己の死に方よりも、下野藤原家を残すことを優先したのであろうよ。我等には尤(もっと)もらしい説教をしおるくせに、己は無茶なことばかりする男だったが、最後は、先陣を切りたい気持ちを抑えて、戦わぬよう説いた」

「左様で御座いましたな」

 存亡を懸けた戦いに迄は至らず、事は収束した。
 だが、下野藤原を陰で支えていた大きな存在と言える、朝鳥と先代・祖真紀の二人をほぼ同時に失うこととなった。それは、千常と千方の心に悔いを残した。

    ~~~~~~~~~~

 信濃(しなの)の国府から『千常の乱』が報告されたとの記録があるが、詳細は記録されていない。そして、安和(あんな)二年(九百六十九年)四月には、やはり、事の詳細は示されないまま、
『秀郷の子等(こら)を教喩(きょうゆ)す』 
との記録のみが残されている。


 【第三十話 伊尹の台頭】

 早くも五月には、千常を武蔵介(むさしのすけ)とする旨の通達が有った。
 一体どう言うことかと調べさせてみたが、源肥(みなもとのこゆる)と言う男が突然『介』を解任されたと言うだけで詳しいことは分からない。
 尤(もっと)も、この時の武蔵は、武蔵守・藤原斯生(ふじわらのこれお)が三月に着任したものの、権守(ごんのかみ)として菅原幹正(すがわらのもとまさ)が残っていたので、介が居なくても左程困らない状態にあった。
 そこへ千常を押し込んだのだろう。肥(こゆる)にどんな咎(とが)が有っての解任かは分からないが、或いは、とんだとばっちりを受けたのかも知れない。
 千常にしてみれば、兼通(かねみち)が口先だけで無く、実際に動いているのだと思う根拠になった。臨戦態勢は解除し、千常は武蔵の国司舘に移った。只、千常は、全面的に兼通を信用した訳では無かった。
 千常の留守中に何か仕掛けて来るのではないかと言う疑いも持っていたので、祖真紀を文脩の傍に置き、更にその配下の六人を小山(おやま)、草原(かやはら)、武蔵府中に二人ずつ配し、常に連絡を取り合う態勢を作った。

 一方、千方は都に戻り、修理職(しゅりしき)に復帰し、正六位上(しょうろくいのじょう)・修理亮(しゅりのすけ)と成ったが、修理亮の位階相当は従五位下(じゅごいのげ)。位階不足の抜擢である。千常も千方と同じ正六位上(しょうろくいのじょう)であり、大国・武蔵介は位階相当である。
 つまり、千方は位階に於いて、この時点で、実兄であり養父である千常と既に並んでいたのだ。

 千方に付いては位階相当とする為、千常に付いては、現職の藤原文信(ふじわらののりあきら)の任期明けを待って鎮守府将軍とすることが内定した為、臨時の除目(じもく)により、二人同時に叙爵(じょしゃく)することとなった。すなわち従五位下(じゅごいのげ)に上(のぼ)り、下級貴族の仲間入りをしたのである。

 反乱を起こしておきながら、なぜ事がこうも上手(うま)く運んだかと言えば、安倍忠頼と、命を投げ出した長老の手柄と言える。
 千常、千方は、兼通(かねみち)が誠実に約束を実行したからだと思っていたが、事はそう単純では無い。
 実は、兼通は御身大切(おんみたいせつ)とばかり実頼の意向に沿った報告をしただけで、何ら積極的な働き掛けをした訳では無い。
 最初に蝦夷蜂起の噂に恐怖と危機を感じたのは、実頼である。始めこそ、意図的に流されている噂話と高(たか)を括(くく)っていたのだが、鎮守府将軍・藤原文信(ふじわらのふみあきら)からの報告を受けて以来、日に日に不安を募らせて行った。
 今の朝廷に蝦夷との全面戦争を再開する余力など無いことは、実頼自身が一番良く分かっていた。やっと上(のぼ)り詰めた関白の地位である。自分の在任中にそんなことになれば、後世に汚名を残すことに成り兼ねない。それは、何としても避けなければならないと思った。しかし、伊尹(これただ)に相談すれば、弱腰と批判されることは目に見えている。そこで、伊尹の直ぐ下の弟でありながら、下の弟・兼家にも先を越されて冷飯を食わされている兼通を使って、千常に大幅譲歩した講和を纏めさせたのだ。
 事後に伊尹から相当な反発が有ることは予想したが、関白の権威を盾に押し切るつもりでいた。
 ところが意外なことに、伊尹は全く反発して来なかった。だから、千常もびっくりする程、事は順調に運んだのだ。

 強気な伊尹は、蝦夷蜂起を意図的な噂と思い続けていた。あの蝦夷が舘に進入する迄は。

『あの蝦夷が、もし枕を蹴ったりせず、行き成り熟睡している自分を刺していたら、確実に死んでいた』

 そう思うと背筋が寒くなる。
 そればかりでは無い。蝦夷の装束こそ身に着けていなかったが、その後、二人の怪しげな男達が舘の様子を窺(うかがっ)ていたと言う。従者(ずさ)達が気付いて捕らえようとしたが、逃げられてしまったと言うのだ。
 蝦夷の蜂起が本当だとしたら、まず、伊尹を暗殺し、都を混乱に陥れると言う作戦は十分考えられる。そんな事情で、伊尹も実頼同様、危機感と恐怖心を持つに至っていた。
 だが、長老の潜入を極秘にしているくらいだから、表立って騒ぐ訳には行かない。そこで、実頼のやった講和を批判することも無く、黙認したのだ。

 伊尹は冷泉(れいぜい)天皇に娘の懐子(かいし)を女御(にょうご)として入内(じゅだい)させ、師貞(もろさだ)親王が生まれている。天皇の叔父に加えてこのことが更に外戚関係を強めている。
 官職から言えば、当然、関白・太政大臣・実頼が最高位であり、続いて、左大臣・師尹(もろただ)、右大臣・在衡(ありひら)、そして、大納言・伊尹と言う順序になる。
 関白が大納言の意向を気にするなどと言うことは通常有り得ない。しかし、外戚ではない実頼、師尹は伊尹の意向を気にせざるを得ないのだ。
 そんな訳で伊尹の権勢は、近頃では実頼を凌(しの)ぐものがある。実頼が自(みずか)らのことを『名ばかりの関白』と嘆(なげ)いたと言うことも伝わっている。

 父・師輔(もろすけ)は派手なことを嫌った。処が、伊尹は豪奢を好み、大饗(おおうたげ)の日に寝殿の壁が少し黒かったので、非常に高価な陸奥紙で張り替えさせたことがある。
 父の師輔は子孫に質素倹約を遺訓として残したが、伊尹はこの点も守らなかった。
 葬送に付いて、父は極(きわ)めて簡略にするように遺言していたにも関わらず、伊尹はお構い無く、通例通りの格式で儀式を行った。

 才が有り、強気で派手好きで、いつも上を観ている。その伊尹が蝦夷の潜入事件に恐怖を覚えていた。
 伊尹は、良く食べ良く酒を飲む。働き過ぎなのか、飲み過ぎの為か、近頃、一晩寝ても気(け)だるさが残る。皮膚のあちこちに痒(かゆ)みが有り、掻きむしつてしまうことも有るのだ。

「誰(たれ)か在(あ)る!」

 不機嫌そうに人を呼んだ。

「はいっ」

 直ぐに奥仕えの女が御簾(みす)の外で手を突いて頭を下げる。

「何度言うたら分かるのじゃ。水差しの水を切らすなと申したであろう」

「先程、足(た)したぱかりで御座いますが」

「ならば、水差しを二つ用意致せ」

「畏(かしこま)りました」

 伊尹は、兎に角良く水を飲むのだ。自分では、活発に動き回っている為と思っているが、現代の目から見れば明らかに糖尿病である。
 いくら公卿達が贅沢をしていたとは言っても、食事から、そんな多量の糖分や脂肪分を採(と)っていたとは思えない。
 では、何が原因か。ずばり、酒である。当時の酒は、今の日本酒と比べればアルコール度数はかなり低い。だから、なかなか酔わないし、アルコール中毒などにも成り難(にく)い。その代わり、糖度が高いのだ。

 伊尹は一度に大量の酒を飲むことも多く、また、のべつ幕無しに飲んでいる。悪酔いしたり、酒に飲まれたりするようなことは無いが、糖分の取り過ぎとなってしまっている。
 伊尹は、侍女が新たに持って来た水差しからの水を、旨そうに飲み干した。浅傷(あさで)と思っていた蝦夷から受けた傷の治りが遅いなと考えていた。深い傷では無いのだが、表面がじくじくとして治りきらない。それが、伊尹を苛(いら)つかせた。

    ~~~~~~~~~~

 冷泉(れいぜい)帝の譲位に因って安和(あんな)三年(九百七十年)三月二十五日、元号は天禄(てんろく)と改められる。
 そして、この前後から、朝堂(ちょうどう)の人事は目まぐるしく変わって行くのだ。
 
 まず、前年の安和(あんな)二年(九百六十九年)十月十四日に、左大臣・藤原師尹(ふじらのもろただ)が薨(こう)じた。享年(きょうねん)五十歳。
 翌安和(あんな)三年(九百七十年)正月二十七日、七十九歳の藤原在衡(ふじわらのありひら)が後任の左大臣に転じる。
 天禄(てんろく)と元号が変わった月の五月十八日には、摂政・太政大臣・実頼が遂に薨(こう)じた。享年七十一歳。
 そして十月十日には、左大臣に成ったぱかりの在衡も薨(こう)じる。享年七十九歳。
 長生きしたがゆえに出世の道が開けた二人が、図らずも同じ年に没したのだ。

 この時代の人は殆ど四十代で死んだと思っている方が居るかも知れないが、それは誤解だ。
 千年の間に寿命が四十年も伸びた訳では無い。飽(あ)くまで平均寿命が伸びただけだ。運良く大病に罹(かか)らなければ、七十代から八十くらいまで生きた人は、決して稀(まれ)では無いのだ。

 余談は兎も角として、師尹(もろただ)、在衡(ありひら)、実頼(さねより)の死に因って浮上したのが伊尹(これただ)である。

 安和(あんな)三年(九百七十年)正月二十七日、師尹の薨去(こうきょ)に伴い、右大臣・在衡が左大臣に転じた為、伊尹は右大臣を拝す。
 天禄(てんろく)と元号が変わった後の五月十八日に実頼が薨去(こうきょ)した為、十一歳の円融(えんゆう)天皇の外伯父(がいそふ)である伊尹は、藤氏長者(とうしちょうじゃ)と成り摂政(せっしょう)に任じられた。

 藤原千常は、案和(あんな)三年(九百七十年)正月の徐目(じもく)で、鎮守府将軍に任じられ、陸奥(むつ)に赴任した。

 それから間も無く、都では、千方の舘を伺う怪しい男が捕らえられた。

「千清殿!」 

 引き据えられた若者を見て、千方が思わず叫んだ。

 急いで縄目を解き、居室に伴う。

「心配していたが、無事で良かった。いずれにおられた」

「はい。あちこち知り合いを頼って隠れておりましたが、詮議(せんぎ)が厳しくなり、居場所が無くなりました」

 安和(あんな)の変で父と祖父が捕らえられた日、千清は、友人の舘に泊まっており、難を逃れたのだ。

「だが、この舘も見張られておる。何日もおるのは危険じゃな。草原(かやはら)も安全とは言えぬ。いっそ陸奥へ落ちてはどうかな。丁度、鎮守府将軍として五郎兄上が赴任したのだ。うん、それが良い。鷹丸に送らせよう」

 その晩遅く、千清と鷹丸は、密かに陸奥に旅立った。 


【第三十一話 駆け抜けた男】

 円融(えんゆう)天皇は、高明の娘を妻としていた兄・為平親王を差し置いて摂関家に依って擁立された守平親王である。
 母は故・師輔(もろすけ)の娘であり、伊尹(これただ)の妹である安子(応和(おうわ)四年(九百六十四年)没)。
 高明失脚から六ヶ月後の九月二十三日、冷泉(れいぜい)帝の譲位を受けて帝位に昇った。そして、東宮(皇太子)には、冷泉(れいぜい)院と伊尹の娘・懐子(かいし)との間に生まれた師貞(もろさだ)親王が立てられた。

 伊尹は、帝(みかど)の叔父であり、皇太子の外祖父(がいそふ)と言うことになる。
 伊尹の思惑としては、円融帝は繋ぎである。皇太子・師貞親王が帝(みかど)の座に就き、帝(みかど)の外祖父となることが権力の頂点を極(きわ)めることになるからだ。

『あの二人を何とかせねばならぬな』

と伊尹は思う。

 二人とは、弟の兼通(かねみち)と兼家のことだ。権力を掌握して行くに当たっては、二人には両の腕として働いてもらわねばならない。しかし、この二人、同じ母から生まれたとは思えないほど仲が悪い。
 伊尹としては、特に兼通を嫌って遠ざけているつもりは無いのだが、下の弟である兼家の方が話し易いので、ついつい兼家の方に肩入れしてしまい勝ちである。
 兼通が高明と接近し、その娘と六男・正光の婚約を纏めたことは、兼家ばかりで無く、伯父である師尹(もろただ)や師氏(もろうじ)の反発をも買った。
 兼家は兼通を一族の裏切り者と激しく糾弾し、高明追い落としの為一族の結束を図ろうとしていた伊尹としても、兼通を蚊帳(かや)の外に置かざるを得なかったのだ。
 しかし、将来のことを考えて、兼家も兼通も、帝(みかど)の身の回りの世話をする蔵人所(くろうどどころ)の長(おさ)である蔵人頭(くろうどのとう)を経験させた後参議とした。

 だが、弟の兼家を先、兄である兼通を後に回しにせざるを得なかった為、その後の昇進にも差が付いてしまったのだ。
 兼通の性格からすれば、恨んでいるに違いない。頂点に立つのはまだ先のことと思い、ついつい気配りをおろそかにしてしまった結果だ。

 伊尹は己の無神経さを悔やんだ。だが、兼通と兼家がいがみ合ったままだと、伊尹自身もやり難(にく)いことになるし、九条流の将来を考えて見ても良いことは無い。
 何としても和解させる必要が有ると思った。だが、兄弟三人で話し合ったことなど一度も無いのだ。

 訪ねて来ても、兼家の牛車(ぎゅっしゃ)が有れば、兼通は入らずに帰ってしまうし、兼家も同じだ。
 二人を呼びつけて意見しようとしたこともあるのだが、同席と知ると、何のかんのと理由を付けて二人とも来ないのだからどうしようも無い。 

 伊尹は頭を抱えた。兼通の立場を少しずつ上げて、少なくとも兼家と同等くらいにしてからでないと、話は始まらないだろうと思った。

 兼通と言えば、実頼の指示で、千常との和議を実際に行ったのは兼通だと言うことが分かった。
 朝廷の権威を汚すような和議には反対だったが、ひょっとすると、それに因って蝦夷の蜂起が避けられたとすれば、やむを得なかったかとも思う。
 実頼は、和議に付いては一切表沙汰(おもてざた)にはしなかった。表向きは飽くまで、朝廷からの説諭に応じて、千常らが自(みずか)ら兵を退(ひ)いたことにしてあるのだ。
 それに茶々を入れれば兼通の顔を潰すことになる。得策では無い。 

 高明を失脚させることに成功したのだから、千常、千方ら末端の人事などどうでも良いと言えばどうでも良いのだ。それよりも今は、兼通を離反させないことの方が遥かに大事であると伊尹は考えた。

    ~~~~~~~~~~

 千常との和議に憤懣(ふんまん)遣(や)る方(かた)無い男が一人居た。満仲である。
 兼通は、他の者達を遠ざけて千常と二人だけの席で和議を結んだ。それまで、決裂も必至の雲行きだったにも関わらず、終わって見れば和議が成立していた。みっともない譲歩をしたに違いないのだ。それが証拠に、千常も千方も、罰せられるどころか直ぐに出世している。

 謀叛人を出世させるなど聞いたことが無い。和議などでは無く、朝廷が千常と千方に屈服したと言うことに他ならない。千方、千常以上に兼通が憎く思えた。
 だが、満仲はそんな不満を他人に漏らすような男ではない。理性とは言わないが、何の得にもならず、下手(へた)をしたら己を追い詰める結果になると判断すれば、己の感情を押し殺すことが出来る男と言える。
 全(すべ)てを計算し、例え感情が高ぶっても、考えも無くそれに流されたりはしない。だが、恨みを忘れない男でもある。

 満仲は、兼通とは犬猿の仲である兼家の舘に盛んに出入りしている。満仲からは口にしないが、兼家が満仲同様、兼通のやったことを批判しているのを聞いて密かに溜飲を下げているのだ。
 いずれ兼家が兼通を叩いてくれるだろうと思っており、その為に何かを命じられれば喜んで何でもするつもりでいる。だが、兼家の不満は、兄・伊尹がなぜか兼通の行為を問題視していないことだ。

「こたびばかりは、兄上のお考えが読めぬわ」

 そう言って兼家は溜め息をついた。

「摂政に成られ、兼通様も手足として使わねばならぬと思われているからで御座いましょう。何しろお身内で御座いますから。
 しかし、摂政様が真に頼りにされているのは中納言様に相違御座いません。近々、大納言にとのお声が掛かるのでは御座いませんか」

 庭に片膝をついて侍(はべ)らなければならない身分から脱して、庇(ひさし)に座して兼家と話せる身分となった満仲が、当たり障り無く、兼家を宥(なだ)める。

「うん、そうは思うておるがのう」 

「摂政様が太政大臣と成られた暁には、中納言様が左大臣と成られることは間違い御座いません」 

 兼家が満足そうに頷く。
 長年に渡って他氏排斥を繰り返して来た藤原氏、そして、摂関家であるが、高明を追い落としたことにより、遂に外に有力な政敵は居無くなった。
 だがそうなると、不思議と内紛が始まるものなのだ。壮絶な兼家と兼通との争いの前触れとなる確執、既にその萌芽(ほうが)が芽生えている。そして、摂関家の内紛は帝(みかど)をも巻き込んで行く。

    ~~~~~~~~~~

 円融帝(元・守平親王)は、六歳で母・安子を亡くしている。
 安子の死後は妹である藤原登子(ふじわらのとうし)(重明(しげあけら)親王の妻)に育てられ、他の兄弟と共に中宮権大夫(ちゅうぐうごんのだいぶ)を務めていた兼通に庇護されていた。 
 普通なら、立太子に際して守平親王を強く推すのは兼通のはずだ。しかし、兼通は、六男・正光の妻に高明の娘を迎えており、やはり高明の娘を妃としている為平親王は守平親王の兄である。
 また、兼通自身、立太子に口を出せる身分でも無かったことから、兼通が積極的に、皇太弟として守平親王を推すと言うことは無かった。
 その頃、伊尹は、守平親王を皇太弟とし、高明の力を奪う計画を立て、実頼を初め摂関家の人々を結束させる為走り回っていたが、高明に近い兼通に情報が漏れることを恐れて、兼通を蚊帳の外に置いていた。 

 伊尹が守平親王を皇太弟としたのは、飽くまで、高明の娘婿(むすめむこ)である為平親王が立太子され、高明が権力を掌握することを恐れた為であり、積極的に守平親王を支持してのことでは無かった。
 伊尹の目的は、いずれ冷泉(れいぜい)帝と自らの娘・懐子(かいし)から生まれた師貞(もろさだ)親王を帝(みかど)とすることにより、帝(みかど)の外祖父として権力を振るうことにあるので、守平親王・すなわち円融帝は繋ぎとしか考えていない。
 しかし、伊尹が強引に皇太子とした師貞親王は生後一年にも満たない赤子(あかご)である。少なくとも数年で譲位させられると言うことにはならないはずだ。それが唯一の安心材料ではあるが、円融帝の摂関家、特に伊尹に対する不信感は根深い。
 円融帝が信頼を寄せているのは、四歳年上の同母姉・資子内親王(ししないしんのう)と母代わりの藤原登子(ふじわらのとうし)(重明(しげあきら)親王の妻)であり、登子は母・安子の妹である。

 伊尹は、天禄(てんろく)二年(九百七十一年)十一月二日、正二位(しょうにい)に昇叙(しょうじょ)し、太政大臣(だじょうでいじん)宣下(せんげ)を受け、摂政・太政大臣と成った。
 ここに名実共に頂点を極めたのである。後は師貞親王の成長を待つのみ。
 外に政敵が無くなった途端、上に居た年寄達が次々と他界してくれたのだから、言うことは無い。正(まさ)に我が世の春と言える。

 ところが、急激に出世を遂げたこの男に、天は余命(よめい)を残していなかった。
 翌、天禄(てんろく)三年十一月一日。伊尹は薨去(こうきょ)する。享年四十九歳であった。


 【第三十二話 逆転】

 天禄(てんろく)三年(九百七十二年)、伊尹(これただ)は危篤になり、十月二十一日に辞意を示す上表(じょうひょう)を行った。

 伊尹の家司(けいし)からの使いが、兼通、兼家両者の舘にそれを知らせる。 
 兄の容体がそんなに悪いのかと言う心配よりも、この二人の頭を過(よぎ)ったのは、どうも、権力への誘惑の方だったらしい。

 この年の二月二十九日、兼通は、伊尹の計らいで、漸く参議から権中納言(ごんちゅうなごん)にその地位を進めていた。

「兄上には申し訳無いが、天は遂に麿に微笑んだ。今こそ、憎っくき兼家めを叩きのめす時。弟の分際(ぶんざい)で麿を見下して来た付けを払わせてやる」

 この兼通の自信には裏付けがあった。

 翌日、参内(さんだい)すると、案の定(じょう)、兼家も来ていた。
 顔を合わせぬようにして、素早く帝(みかど)に拝謁を求める。しかし、兼家も来ていると思うと気忙(きぜわ)しく、取り次ぎも待たず清涼殿へと進んで行った。

 清涼殿は、帝(みかど)が日常生活を送る建物である。その西南の隅、すなわち裏鬼門の位置に『鬼の間』と呼ばれる部屋がある。大和絵師・飛鳥部常則(あすかべのつねのり)が康保(こうほ)元年(九百六十四年)、この間に鬼を退治する白澤王(はくたくおう)像を描いたとされ、その名が有る。
 この鬼の間に居た円融天皇は、平素から疎(うと)んじていた兼通の姿を見ると別の間へ移ろうとした。

「お上(かみ)、お持ちを」

 そう声を掛けられた。 

『案内(あない)も無く無礼であろう』

 そう言いたかった。

 だが、今でこそ帝(みかど)の身に在ると言っても、父母とも亡くした帝(みかど)は、つい数年前まで、守平親王として兼通の庇護の許にあったのである。だが、この男を好きには成れなかった。
 十三歳の帝(みかど)は他の部屋に移ろうとした。 

「奏上(そくじょう)したきことが御座います」

 兼通は威圧的な声でそう言上(ごんじょう)し、帝(みかど)をその座に留まらせた。

 そこに兼家がやって来た。正月二十四日に権大納言、閏(うるう)二月二十九日に大納言に転じていた兼家は、

「権中納言、何をしておる」

とこちらも兄である兼通に、官職を笠(かさ)に着(き)て威圧的に迫る。

「帝(みかど)に奏上したきことが有って参ったのじゃ。余計な口は出すな」

 こちらはこちらで、目上である大納言の役職を無視して、弟に対する物言いである。

「無礼な!」

 兼家が剥(む)きになる。

 帝(みかど)である自分の目の前で、恐れも畏怖の欠片(かけら)も無く言い争う二人に、十三歳の帝(みかど)が怒りの言葉を発した。 

「やめよ!」

 さすがの二人も、若年の帝(みかど)の言葉にはっとして我に返り、恐れ入った。  

「申すが良い」

 着座し直した帝(みかど)が言葉を発した。

「それでは、まず、大納言たる臣から申し上げます」 

 兼通に先を越されてなるものかとばかり、兼家が口を出した。 

「摂政たる兄・伊尹(これただ)が、病(やまいに)の為致仕(ちし)致しこと、お上(かみ)にはさぞかしお心細くお思(ぼ)し召されてと拝察します。
 なれど、お心易く在(あ)られかし。かねてより、兄・伊尹より帝(みかど)のこと、命に代えてお仕え申すべしと言い遣っておりますゆえ、臣・兼家、身命(しんめい)を賭(と)してお支え申す所存に御座います」

 さっきまでの態度はどこへやら、殊更(ことさら)恭(うやうや)しく申し述べる。

「関白の任に就きたいと申すか」 

 帝は天禄(てんろく)三年(九百七十二年)一月三日に元服を済ませていたが、その直後に伊尹が在職一年余りで薨去(こうきょ)することになる。
 伊尹が存命ならば、摂政から関白に、その名乗りを変えようとする矢先だった。

「御意(ぎょい)」 

「お待ちを!」 

と兼通が声を上げた。

 帝(みかど)の玉座である御椅子(ごいし)の隣に文杖(ぶんじょう)が有る。帝(みかど)に直接手紙を渡すのは畏(おそ)れ多いと言うことで、そこに置くしきたりとなっている。
 今更、畏(おそ)れ多いも無いと思うが、兼通は、懐(ふところ)から大事そうに取り出した一通の文(ふみ)を恭(うやうや)しく文杖(ぶんじょう)の上に置いた。
 ひと呼吸置いて、帝(みかど)がそれを手に取る。

「亡き太皇太后(たいこうたいごう)様の御親筆(ごしんぴつ)に御座いまする」 

 帝(みかど)が文(ふみ)を広げるのを待って、兼通がそう言上(ごんじょう)した。

 文(ふみ)には、

『将来、摂関たること有れば、必ず兄弟の順序に従うべし』

と書かれている。

 円融帝の母であり伊尹、兼通の妹である安子の生前に、将来のことを考えた兼通が頼んで書いて貰ったものであると言われている。

 帝(みかど)はそれを黙読した。それが真に母の手になるものであるとすれば、長兄・伊尹の次は、次兄・兼通をと言うのが、亡き母の遺志であると言える。母の弟である兼家を先と言う訳には行かない。
 しかし、安子が崩御(ほうきょ)した時、円融帝は六歳だったのだ。その文(ふみ)が母・安子(あんし)の親筆かどうか判断することは出来ない。

「何と書かれておるので御座いましょう」

 兼家が尋ねた。 

 これも至って無礼な言い方である。帝(みかど)が、

『見よ』

とでも言えば別だが、その素振りも無いのに言うべきことでは無い。

「追って沙汰致す」

「ははっ」

と兼通が大仰(おうぎょう)に返事をして、腰を屈(かが)めたまま後退(あとずさ)りして退室する。

「大儀(たいぎ)」

 帝(みかど)が兼家にひと言発した。

『もう良いから下がれ』

と言う意味である。

 仕方無く、兼家も礼をして下がる。  
 
    ~~~~~~~~~~

 帝(みかど)は姉の資子内親王(ししないしんのう)と藤原登子を召した。

「兼通が生前の母上から賜ったと申しておる文(ふみ)である。登子。そちは妹ゆえ母上の手になるものかどうか分かるであろう」

「拝読させて頂きます」

 登子は、安子の手紙と言われるものを恭(うやうや)しく帝(みかど)から受け取る。

「太皇太后様のお手に依る文(ふみ)に間違い無いと思われます」

「そうか。朕(ちん)は十三歳ゆえ、元服したとは言え、まだ政(まつりごと)は行えぬ。やはり、関白は置かねばならぬのであろうのう」

「暫(しば)しのご辛抱に御座います」

「だが、伯父君・朱雀の帝(みかど)の御世(みよ)では、元服後も、忠平がずっと関白として政(まつりごと)を行っていたのであろう」

「帝(みかど)。そのようにお考えになられるのはおやめ下さい。摂関をお決めになるのは帝(みかど)に御座います。御威光をお示しなされませ」

 姉である資子内親王がそう口を開いた。

「威光を示せとは?」

「兼通や兼家がどう申したかに囚われること無く、帝(みかど)としての筋を通されるのです。
 帝(みかど)が従われるべき御方(おかた)は、父帝と太皇太后様を置いては他に御座いません」

「母上の御遺命に従うと言うことですか、姉上」

「それ以外に御座いますまい。臣下の誰(たれ)がどう申したかに帝(みかど)が惑わされてはなりませぬ。なれど、母君の御遺命に従われるのであれば、子として麗しきことに御座りまする」

「長幼の序に従うべしと言うのが母上の御遺命であるとすれば、兄・為平親王を差し置いて立太子された朕(ちん)は、それに背(そむ)いたことになるのではないか?」

「帝(みかど)。そのようにお考えになってはなりません。母上の御遺命は、飽くまで摂関に付いてのことに御座います。帝(みかど)の立太子は、父君・村上帝の御遺命に因って決められたことに御座います」

「じゃが姉上、それを聞いたのは実頼ひとりとのことではないか」

「今更詮索しても詮無(せんな)いこと。先のことをお考えなさりませ」

「申し上げたきことが御座います」

 そう登子が口を開いた。

「二人とも我が兄弟に御座りますれば、帝(みかど)の御心(みこころ)煩(わずら)わせしこと、真(まこと)に申し訳無く思うております。僭越ながらお願いしたき儀が御座います」

「何か?」

「関白を置くことは已(や)む無きと存じますが、政(まつりごと)は任せるとしても、亡き太皇太后様に代わって、奥から帝(みかど)をお支(ささ)えする方が必要と思います。
 関白に任じる条件として、兄・兼通に、資子内親王(ししないしんのう)様を准三后(じゅさんこう)とすることを約束させて下さいませ。

 我が兄弟ながら、あの二人の仲の悪さは恥ずかしき限り。まるで、前世では仇同士であったものを、天の手違いで、兄弟として再びこの世に送り出してしまったのではないかと思える程で御座います。
 いつ何時(なんどき)再び争いを繰り広げぬものとも思えませぬ。禍(わざわい)が帝(みかど)の御身(おんみ)に及ばぬようお護りするべき方は欠かせぬと思われます」

「年若きこの身に、そのような大役が務まるであろうか」

「内親王(ないしんのう)様。お立場で御座います。お立場はすなわち権威。権威が有れば、お若くとも、そのお言葉の持つ力は増します」

「分かりました。それが帝(みかど)の御為(おんため)になるのであれば、力を尽くしましょう」

「姉上。宜しく頼み参らせる」

    ~~~~~~~~~~

 かくして、兼通の関白宣下の方針が決せられた。
 十一月一日、伊尹(これただ)が薨(こう)じると、二十七日、兼通(かねみち)を内大臣に任じる詔(みことのり)が発せられ、内覧(ないらん)を許し、関白宣下がなされた。
 守平親王の立太子に際しては、大逆転の勝ち組であった兼家は、兼通の秘策により破れた。
 前回の大逆転が、摂関家の他氏排斥であったのに対し、今回の大逆転は、摂関家内部の勢力争いである。

 この結果に落胆した兼家は、ふて腐れて出仕を怠るようになる。兼家に取って初めての冬の時代が訪れた。

    ~~~~~~~~~~

 兼家の敗北は、満仲に取っても大打撃であった。
 満仲の行動規範からすれば、負け犬となった兼家を見限って、さっさと兼通に乗り換えそうなものだが、この度ばかりは違った。
 かつて、高明邸の庭で兼通に受けた屈辱を満仲は忘れていなかったし、千常と千方に屈服し、飛んでもない条件で和議を結んだ兼通を許せなかった。
 計算ずくだけで生きているように見える満仲にも、そんな部分が残っていたのだ。


 【第三十三話 遠き道程(みちのり)】

 天禄(てんろく)三年(九百七十三年)十一月二十七日、兼通(かねみち)は従三位(じゅさんみ)のまま関白宣下(せんげ)を受け、内大臣に任じられたが、それ以外の太政官人事は下記の通りである。

左大臣 従二位(じゅにい) 源兼明(みなもとのかねあきら)五十九歳
右大臣 正三位(しょうさんみ) 藤原頼忠(ふじわらのよりただ)四十九歳
大納言 従三位(じゅさんみ) 橘好古(たちばなのよしふる)八十歳
大納言 正三位(しょうさんみ) 源雅信(みなもとのまさのぶ)五十三歳
大納言 正三位(しょうさんみ) 藤原兼家(ふじわらのかねいえ)四十四歳
中納言 正三位(しょうさんみ) 源雅信(みなもとのまさのぶ)五十四歳
中納言 従三位(じゅさんみ) 藤原朝成(ふじわらのあさなり)五十六歳
中納言 従三位(じゅさんみ) 源延光(みなもとののぶみつ)四十五歳
中納言 従三位(じゅさんみ) 藤原文範(ふじわらのふみのり)六十四歳
権中納言 正三位(しょうさんみ) 源重信(みなもとのしげのぶ)五十一歳

 橘好古(たちばなのよしふる)以外、ぐっと若返った人事と成っている。
 しかし、通常八人くらいの処、権中納言以上が兼通を含めて十一人もおり、位階と官職が逆転している者も居るなど、順送り人事の中に無理矢理押し込んだ感じの、不自然で不細工な人事である。

 この年、兼通は四十八歳である。関白とは言え、さすがに大納言にも成っていないのに、左右の大臣をも飛び越して太政大臣と言う訳には行かない。そこで、苦労して選んだのが、内大臣と言う官職なのではなかろうか。
 では、内大臣とは何か。官職の序列で言えば、左大臣、右大臣に次ぐ官職である。官位相当は正(しょう)又は従二位(じゅにい)。兼通は従三位(じゅさんみ)であるから、官位不足である。
 左大臣および右大臣の両人が欠員の場合や何らかの事情の為に出仕出来ない場合に、代理として政務・儀式を司(つかさど)るのが通常であるが、逆に左右の大臣が揃っており、大臣の座に空きが無い場合に、苦肉の策として任命される場合もある。兼通の前に内大臣と成ったのは藤原高藤(ふじわらのたかとう)であり、正(まさ)にその例であった。
 或いはその例に倣(なら)っての内大臣就任であったのかも知れない。高藤以後、兼通が就任するまで七十三年間、内大臣が置かれたことは無い。

 官職で言えば三番目。位階が上の者は六人も居る。その兼通が関白として、全ての文書を帝(みかど)に先んじて目を通す。
 関白とは、内覧(ないらん)の権限を有しており、帝(みかど)と太政官(だしょうかん)の間の政治的なやり取りを行う際には、関白が事前にその内容を把握し関与することで、国政に関する情報を常に把握し、帝(みかど)の勅命(ちょくめい)や勅答(ちょくとう)の権限を直接侵害すること無く、帝(みかど)と太政官の双方を統制する権限を有している。

 だが、十三歳の円融帝に対する兼通の立場は、むしろ摂政に近かったのではないかと思われる。
 師尹(もろただ)の次男・藤原済時(ふじわらのなりとき)は、大納言を経(へ)ないで兼通が内大臣に就任したことや、この人事を行った円融帝、更にはこれを止めなかった藤原頼忠を強く非難している。

    ~~~~~~~~~~
 
 そんな政治情勢の中で満仲は、予(かね)て願い出ていた摂津守(せっつのかみ)に任じられ、ほっとしていた。
 兼通が幅を効かせる都に居るのは面白く無いし、兼家に愚痴を聞かされるのも敵(かな)わない。朝廷での権力争いなど忘れて、将来の為、蓄財に励むのも悪く無い。そう思った。
 摂津(せっつ)(現・大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)は都からそう遠く無いから、何か有れば直ぐに駆け付けられる。

 政界は、一寸先(いっすんさき)は闇の世界。兼通とて、いつなんどき、転げ落ちるか分からない。都を離れてのんびりとその時を待つのも悪く無いと思った。だがこの年、満仲は又もや災厄に見舞われることになる。
 摂津に赴任して間も無く、左京一条に有った留守宅が武装した集団に襲撃され、放火されると言う事件が起きたのだ。この事件による火災では、周辺の多くの邸宅が延焼した。
 この時、都に居た満季が直ぐに駆け付け、同日中に嫌疑人を捕らえたと言うのだが、その者達が検非違使疔で取り調べられ、名が明かされることは無かった。恐らく、満季が闇から闇に葬ってしまったのだ。
 敵も多く、あちこちから恨みを買っている満仲のこと。下手人(げしゅにん)の正体が明かされ、動機が表沙汰になると、満仲兄弟に取って少なからず都合の悪い何かが有ったからだと思われる。

    ~~~~~~~~~~

 一方、鎮守府将軍として陸奥の胆沢(いさわ)城に赴任している千常の許(もと)には千晴の孫・千清が身を寄せていた。

「春とは言え、陸奥(むつ)は冷える」

 千常が首を竦(すく)めながらそう言った。

「都も結構底冷え致しますゆえ、然程(さほど)には感じませんが」

 千清がそう答える。

「若さよのう。じゃが、陸奥くんだりまで落ちねばならなかったとは、その年で苦労も多いな。兄上の赦免を飲ませることが出来なかった。元々その為に立ったつもりであったのだが、済まぬ」

「何を仰せですか大伯父上。こうして匿って頂けるだけでも感謝しております」

「だが、まだ諦めた訳ではないぞ。折を見て、引続き朝廷には赦免を願い出て行くつもりじゃ」

「有難う御座います。宜しくお願い致します」

「湧き湯にでも漬かりながら、のんびりと構えておるが良い。いずれ良き機会も訪れよう」

「父も、未だ検非違使に拘束されたままかと思われますが、行方(ゆくえ)が知れません」

「うん」

と千常も表情を曇らせた。

 千清の父であり千晴の嫡男である久頼も、千晴と共に捕らえられたのだが、遠島(えんとう)となった者の中にはその名は無く、どこに囚われているのかも分からないのだ。
 千清にしてみれば、隠岐(おき)に流されたことが分かっている祖父よりも、父の行方が気掛かりなのは無理も無い。

「ところで千清。明日客が来る。麿も初対面なのだが、なかなか興味深い男じゃ。どうか? そなたも会ってみぬか」

「どなたで御座いますか」

「安倍忠頼と申してな、奥六郡の蝦夷を支配する俘囚(ふしゅう)の長(おさ)じゃ。
 実は、その男にはこたびはえらく世話になった」

「と言われますと?」

「今こうして麿が鎮守府将軍として居られるのも、公卿共が蝦夷が攻めて来ると震え上がったればこそでな。陸奥守にそう思わせることに協力して貰った」

「なぜそのようなことを頼めたのですか」

「そなた、夜叉丸と秋天丸は知っておろう」

「はい。六郎様の郎等の小山武規(こやまたけのり)と広表智通(ひろおもてともみち)のことですね」

「そうだ。その者達は、実は蝦夷の出でな。あの者達が育った郷(さと)の長(おさ)・祖真紀と言う者の妻(め)は、忠頼の姉なのだ。その縁で六郎は十五の頃、安倍の舘に滞在したことが有る」

「左様ですか。六郎様は蝦夷の舘で過ごしたことが有るのですか。存じませんでした。興味深う御座います」

「明日の午後参るとのことじゃ。同席致すが良い」

「はい。是非そうさせて頂きます」

 翌日、午(うま)の刻を過ぎた頃から、千清は、外の様子が気に成っていた。
 奥六郡の蝦夷を束ねる長(おさ)・安倍忠頼とはどんな男で、また、どのような風体(ふうてい)で現れるのか、それに興味が有った。
 しかし、二刻ほどして現れたのは、坂東の兵(つわもの)達と変わらない風体の主従十人ほどであった。
 蝦夷達の珍しい出(い)で立ちを見られるかと期待していたのだが、思惑が外れ、千清は少しがっかりした。対屋(たいのや)に戻り、待機していると千常から声が掛かり、千清は広間に出向いた。

「兄・千晴の孫・千清じゃ」

 千常が忠頼に紹介する。

「安倍忠頼に御座います。お見知り置きを」

 厳(いか)つい髭面(ひげづら)の男を想像していたが、意外にも爽(さわ)やかな男だった。

「千清と申す。良しなに」

「六郎様を思い出します」

 忠頼が言った。

「あの折も世話を掛けた」

「いえ、楽しゅう御座いました。少々はらはらもさせられましたが」

「あ奴は、後先(あとさき)考えずに動くことが有るでのう。いや、こたびのことでは、麿も他人(ひと)のことは言えぬ。すっかり世話を掛けた。安倍には大きな借りが出来たわ」

「何の。こちらの事情も有り、大したことは出来ませんでした。申し訳御座いません」

「いや、終生恩に着ねばならぬと思うておる。そなたの姉の舅(しゅうと)も死なせてしもうた」

「いえ、殿が、鎮守府将軍としておられる少なくともこの四年の間は、我等も安心して暮らせると言うものです。いずれ六郎様も、鎮守府将軍として赴任して来られることが有るかも知れぬと思うと、楽しみで御座います」

「いや、六郎は、都で地道に出世してくれれば良い。高明(たかあきら)様と言う大きな後ろ楯はもはや無い。修理大夫(しゅりだいぶ)くらいまで辿り着いてくれればと思うておる。都に於ける下野藤原家の最後の砦(とりで)じゃ。
 それよりも、源満仲、満季が赴任して来る可能性が有る。その時は、用心の上にも用心を重ね、決して尻尾を掴まれてはならぬ、油断の出来ぬ者達じゃ。良いな」

「源満仲。兄上・千晴様を陥れた男で御座いますな」

「うん。摂関家に摺り寄り、主(あるじ)・高明様を裏切った上、兄を陥れた男じゃ。我が家に取っては不倶戴天の敵じゃよ」

「その者がもし赴任して来た時には、闇に葬りましょうか?」

 忠頼が鋭い視線を見せて言った。

「やめよ。そう簡単に殺せるような男では無い。下手をすると、安倍の命取りにもなりかねん」

「左様で。では、死んだ振りをして、遣(や)り過ごすことにします」

「それが上策。やる時は、我等が殺る」

「忠頼殿。先ほど六郎様にはらはらしたと申されたが、何が有ったのじゃ」

 千清がそう口を出した。千常が苦笑いを見せる。

「興味お有りですか。お話しましょう。当時、手前は狐支紀(こしき)という者と戦っておりました。狐支紀を追い詰めましたが、その者は堀と柵で囲まれた拠点に逃げ込み、膠着状態が続いておりました。
 六郎様は、その現場を見に来られたのです。ところがその時、我等は狐支紀の罠に嵌(は)まる処でした。狐支紀は抜け穴を通って我等の背後に兵を回し、我等を挟み撃ちにしようとしていたのです。
 六郎様をその場に置いて、同行していた我が手の者達が背後に回った敵を討つ為突っ込んで行ったのですが、多勢に無勢。苦戦している処へ六郎様達が参戦して来られたのです。その場でお待ち頂くよう我が郎等が言い残していたのですが、お聞ききになりませんでした。
 尤も、そのお陰で騒ぎが大きくなり、我等も気付いたので勝利することが出来たと言う訳です。その時六郎様は十五歳でした」 

「十五歳、そのようなお歳で戦われたのですか、六郎様は」

「その前の年には、襲って来た者を返り討ちにしておるぞ」

 千常が笑いながら言った。

「えっ? 本当ですか」

 千清が信じられないと言う表情を浮かべる。

「相手は確か二つばかり年長であったな。十四の歳に六郎を草原(かやはら)に迎えに行った頃はひ弱な童(わらべ)であったが、負けん気だけは強かった。死んだ祖真紀と朝鳥が鍛えてくれたのよ」

「朝鳥殿と言えば、何とも面白き方で御座いましたな。それでいて深いものを持っておられた」

 忠頼が懐かしげに呟いた。

「我が家に取って宝とも言うべき二人をほぼ同時に失ってしもうた。朝鳥ともうひとりは、そなたの姉の舅・先代の祖真紀じゃ」 

「姉上の舅殿には、遂に会わず仕舞いでした」

 去って行った者達をそれぞれの胸に刻(きざ)み、夢がまた一歩遠退(とうの)いたことを千常も忠頼も感じていた。


 【第三十四話 屈折】

 官位も官職も関係無く、従三位(じゅさんみ)・藤原(ふじわらの)兼通(かねみち)が、今や関白として朝廷を完全に取り仕切っている。

 もはや、朝廷とは摂関家そのものと言っても良いかも知れない。
 帝(みかど)と言う冠(かんむり)を戴(いただ)く真のこの国の主(あるじ)。それは、藤原摂関家と成りつつある。都合が悪くなれば、冠を替えれば良いのだ。だが、その冠を戴くのは、決まって摂関家の誰かと言うことに成って行く。桓武(かんむ)朝以降、皇子(みこ)の数は養い切れないほど居るのだから、代わりに困ることは無い。
 帝(みかど)の外祖父として権力を握る為、摂関家の者達は、競って娘を有力な皇子の妃(きさき)として送り込もうとする。男子誕生となれば権力争いに勝てるからである。

 一方、世相はと言うと、区分田(くぶんでん)の不足、徴税の国司への丸投げ、受領(ずりょう)の収奪と公卿(くぎょう)への贈賄の横行。更に本来国に入るべき税収も荘園経営を通じて寺社や公卿が己の懐(ふところ)へ入れてしまう。

 国軍の廃止に因る治安の悪化、官位・官職を餌に土豪の子弟を只で使い、おまけに貢物(みつぎもの)まで巻き上げる公卿達。それに加えて、官位を売買する成功(じょうごう)まで蔓延(はびこ)り始めている。

 律令制はほぼ崩壊した。
 時代の趨勢(すうせい)として、ここまで腐って来れば、公家社会は音を立てて崩壊し、新たな勢力が生まれて来そうなものだが、実際には、真逆な現象が起こり始めるのだ。 
 律令制は事実上崩壊したが、替わって『王朝文化』なるものが花開く。摂関政治が絶頂期を迎えるのは兼家の子・道長の時代である。正に、摂関家に依る摂関家の為の政(まつりごと)が行われるのはこれからなのだ。

 平安時代の象徴のように言われる王朝文化だが、既に幹は腐っており、実体は、一斉に開花した後は竹林ごと枯死(こし)してしまう竹の花のようなものだったと言える。
 承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱を始めとして、蝦夷によるものも含めて、大小の乱が起こり、又、この後も起こって行くことになるのだが、当面、変革は実現しなかった。
 その原因は、次の時代を担うべき兵(つわもの)層のアイデンティティーが、未だ確立されておらず、或る者は反逆者となり、又或る者は朝廷側に立って互いに相争(あいあらそ)う。兵(つわもの)層が一体となって公家社会に挑むと言う構図が無かった為である。

 官位・官職。つまり、律令制度の最後にして最強の武器。これを手放さなかったことに因り、公家社会は命脈を保っていた。兵(つわもの)達に取っては、尚も暫くは逼塞(ひっそく)の時代が続くことになるのだ。

 天禄(てんろく)四年(九百七十四年)十二月二十八日。天延(てんえん)と改元(かいげん)され、翌天延(てんえん)二年(九百七十五年)正月七日、兼通は従二位(じゅにい)に上り、二月八日に氏(うじ)の長者、二十八日には正二位(しょうにい)・太政大臣と成って名実(めいじつ)共に頂点に立つ。

    ~~~~~~~~~~

 朝廷での動きが先走ってしまったが、話は天禄(てんろく)二年(九百七十一年)に戻る。

 太宰府へ追放の途上で病(やまい)に倒れ療養していた高明だったが、十月には療養の為の帰京を許す決定が下され、翌天禄(てんろく)三年(九百七十二年)十月、都に戻った。
 その後、高明は政界に復帰することは無く、葛野(かどの)に隠棲(いんせい)する。
 天延(てんえん)二年(九百七十五年)八月には封戸(ふうこ)三百戸が与えられる。病気療養を理由として帰京を許すと言う体裁を取ったが、政治に関わらないことを前提とした事実上の特赦である。ここに来て、千常、千方らの要求の一部が実現したことになる。

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 満仲邸が放火された天禄(てんろく)四年(九百七十三年)。兼通は、二月に長女の媓子(こうし)を円融帝に入内(じゅだい)させた。
 媓子は、同年四月に女御宣下(にょうごせんげ)を受け、さらに七月には中宮(ちゆゅうぐう)に冊立(さくりつ)され、兼通は更に立場を強化していた。
 天延(てんえん)五年(九百七十五年)八月に到(いた)って朝廷は遂に、安和(あんな)の変の流人(るにん)を召喚する。ところが、藤原千晴の行方(ゆくえ)は、その後、杳(よう)として知れなくなる。
 千晴の名が歴史に登場することはその後一切無かった。

    ~~~~~~~~~~

 千方は、千晴の行方に付いて何度も問い合わせるが、

「島から戻り、その場で解(と)き放った」

との答しか得られない。

 それなら、なぜ未だに戻って来ないのか。ひょっとして、密かに抹殺されたのではないかと言う疑いが芽生えた。
 十一月になって休暇を取って出雲(いずも)に行ってみようと思ったのだが、折悪(おりあ)しく、内裏(だいり)外郭(がいかく)の北東に位置する朔平門(さくへいもん)などが放火された為、修理職(しゅりしき)は忙しくなり、修復責任者である亮(すけ)の千方は、休暇どころではなくなってしまった。
 仕方無く、鷹丸、鳶丸の二人を情報収集の為、出雲に派遣することにした。一方、久頼は解き放たれ、千清も陸奥から戻って来た。

 或る日、修理職(しゅりしき)から舘に戻る途中、 

「修理亮(しゅりのすけ)殿」

と声を掛けられた。満季(みつすえ)である。
 満季は天禄(てんろく)二年(九百七十二年)に五位叙爵(ごいじょしゃく)、天禄(てんろく)三年(九百七十三年)には右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)と成っており、検非違使を兼ねていた。

 数名の供を従え、私的な外出中のようだ。
 満季の顔を見て千方の血が騒いだ。昔の無役(むやく)同士の頃であったなら、間違いなく斬り付けていたことだろう。黙って睨(にら)み付けた。従っていた夜叉丸、秋天丸の二人も身構えている。

「前相模介(さきのさがみのすけ)殿が放免されたそうで、宜しゅう御座ったな」

 千晴を捕らえた張本人である。もし、千晴が抹殺されたとすれば、一枚噛んでいる可能性が有る。千方はそう思った。

「満仲殿の舘に火を付けた者共を捕らえたとか」

 逆に問い返した、

「いや、取り逃がした。どこの何者とも知れん」

「何の恨み有ってのことであろうのう」

「恨み? 何のことかな。兄も麿も、そのような覚え、とんと無いが」

「そうか。ならば良いが、今後とも気を付けるが良い」

「修理亮(しゅりのすけ)殿も」

 満季は皮肉な薄笑いを浮かべながら去って行った。

「殿にご迷惑が掛からなければ、ぶった斬ってやるところでした」

 満季が立ち去った後、夜叉丸が呟いた。

 千方が従五位下(じゅごいのげ)に上(のぼ)ってからは、夜叉丸ら古くからの郎等達も、人前では千方を『殿』と呼ぶようになっていたが、主従のみの時には、『殿』と呼んだり、『六郎様』と呼んだりしていた。だが、千方は呼び名など気にしてはいなかった。

「麿も同じよ。職も地位も捨てても良いと危うく思い掛けた。だが、死んだ朝鳥が止めてくれた。 
『今や、下野藤原家の都での足掛かりは六郎様のみなのですぞ。おとどまりなされ』とな」

「あの世に行っても口煩(くちうるさ)い爺様ですな」 

 秋天丸がそう茶々を入れる。だが、朝鳥が死んだ時一番悲しんでいたのは、この秋天丸だった。
 鷹丸と鳶丸の二人が、千晴について、何か良い報せを齎(もたら)してくれればと思う千方であったが、その望みは薄いだろうとも思った。

 都も寒さを増して来る季節である。ふと、隠棲(いんせい)している高明のことを想った。侘(わび)しい毎日を送っていることだろう。様子を知りたいと思うが、今、高明に近付くことは、お互いに取って危険過ぎる。
 大手を振って歩ける身の上に成れたとは言え、やはり、勝ったのは兼通であり、千常も千方も敗者でしかない。兄・千晴の行方さえ思うように探せない。千方は息苦しさを感じていた。
 目立たず問題を起こさず、この先官人(つかさびと)として、息を潜めて生きて行かねばならぬのかと思うと、気が滅入った。

 千常から便りが来た。安倍忠頼は良き男で、色々面白い話を聞いたとか、忠頼が千方のことを懐かしがっているなどと書かれていたが、最後に、陸奥(むつ)は平和ですることが無いから、千方の嫁のことを色々と考えてみたと言う。そして候補を何人か書き連ねている。

 嫁取りに付いて、千常は今まで余り煩(うるさ)くは言わなかった。しかし、従五位下(じゅごいのげ)に上り、下級貴族の端くれとなった今、いつまで放って置く訳にも行かないと千常は言う。
 千常は千方を嫡男・太郎として跡継ぎにしようとしているのだから、当然のことと言えば当然のことである。千方にすれぱ、今更見も知らない娘を嫁にするのも億劫(おっくう)だし、実子の文脩(ふみなが)が居るのに、千常が千方を跡継ぎにしようとしていることが更に負担だった。
 千方の気持ちをなぞるように、夕暮れの空には、下辺だけ赤く陽に染まった黒雲が、不気味に垂れ下がっていた。


 【第三十五話 兼通の思惑】

 天禄(てんろく)三年(九百七十二年)十二月に資子内親王(ししないしんのう)は准三后(じゅさんこう)とされ、年官年爵(ねんかんねんしゃく)を与えられ更に封戸(ふうこ)千戸も加算された。若干、十八歳である。
 准三后(じゅさんこう)とは、太皇太后(たいこうたいごう)・皇太后(こうたいごう)・皇后(こうごう)の三后(さんこう)(三宮)に准(じゅん)じた処遇を与えられた者と言うことである。 正式には准三宮(じゅさんぐう)と言う。
 又、藤原登子(とうし)は円融帝の即位から間も無い、安和(あんな)二年(九百六十九年)九月二十七日従四位上(じゅしいのじょう)に叙され、同年十月十日、尚侍(しょうし)と成っている。天禄(てんろく)元年(九百七十年)十一月、従三位(じゅさんみ)、天延(てんえん)元年(九百七十三年)一月には従二位(じゅにい)に昇叙(しょうじょ)した。  

 この二人が若年の円融帝を支えた。特に、登子は帝(みかど)の母代わりである為、帝(みかど)の立場を守ることに腐心した。
 まず、資子内親王を太皇太后に代わって帝(みかど)の後ろ楯とする為、兄・兼通(かねみち)に働き掛け、准三后とすることを認めさせた。権威付けである。 

 兼通(かねみち)も登子の要求を飲まざるを得ない。登子が太皇太后の親筆と認めたればこそ、兼通は権力を手に出来たのだ。真偽は別として、もし登子が兼家と組んで手紙は偽物と主張していたら、兼通は陥れられたはずである。権力を手に出来なかったばかりでなく、高明と同じ運命を辿った可能性すらある。そう言う意味で兼通は登子を粗略には扱えない。登子は兼通との関係を良好に保ち、帝(みかど)と兼通との関係をも修復した。
 そして、為すべきことを為し終えると、まるで安堵したかのように、天延(てんえん)三年(九百七十五年)三月二十九日に薨去(こうきょ)する。生年は不詳であるが、兼家の妹である。この年、兼家は四十七歳であった。又、亡夫・重明(しげあきら)親王と先妻との子・徽子(きし)女王と同年代であったと言われているので、享年は四十代前半であったと思われる。

    ~~~~~~~~~~

 兼通は兼家の巻き返しを警戒した。その為、兼家の昇進を止め、絶対に大臣にはしないと心に決めた。
 本当は左遷してしまいたいのだが、左遷する程の咎(とが)を見付け出すことが出来ない。
 また、兼家が、源満仲を手先として使っていることも気になった。兼家が破れかぶれになって武力に訴えて来るようなことになれば、必ず満仲を使う。藤原千晴が没落した今、満仲は都に於ける最大の兵(つわもの)勢力であり、対抗出来る者は居ないのだ。
 満仲から摂津(せっつ)守に任じられることを希望する願いが出ていたのを幸いに、早速、希望を叶えてやった。都から追い払いたかったのだ。

 警戒すべきことは他にも有った。と言うよりも、それが、一番の現実的な脅威である。
 兼家が、次女の詮子(せんし)を入内(じゅだい)させようと工作を始めたことを掴んだ。兼通の娘・媓子(こうし)は既に中宮(ちゅうぐう)と成っていたが、円融帝より十二歳も歳上であり、子も無い。媓子より十五歳も年下で、円融帝よりも若い詮子が、入内し、帝(みかど)の寵愛を受け男子誕生ともなれば、兼通と兼家の立場は、再び逆転してしまう。容易成らざる事態である。

 伊尹(これただ)も兼家も、円融帝を繋(つな)ぎと考えており、娘を入内させていなかった。兼通のみが媓子を入内させ、円融帝の信頼を勝ち取っていたのだ。それを今になって兼家に引っくり返されてはたまらない。まずいことに、円融帝も詮子に関心が有りそうなのだ。
 兼通は、あらゆる手段を使って、詮子の入内(じゅだい)を妨害した。そうしておいて、円融帝には、伊尹(これただ)同様兼家も円融帝を繋ぎと考えており、長女・超子(ちょうし)と冷泉(れいぜい)上皇(じょうこう)との間に生まれた居貞(おりさだ)親王が帝(みかど)と成ることを願っている。その為、詮子の入内を渋っていると吹き込んだ。

 円融帝は、兼通の言葉を信じ、兼家を遠ざけるようになった。円融帝の決定を得て、兼通の政権奪取は至極順調に進んだ。その後の昇進も、言わばお手盛りであるから、表立った抵抗も無く決まって行った。
 表面上は確かにそうであった。だが、強引な権力奪取にはもちろん批判が有った。済時(なりとき)のように表立って批判する者ばかりではない。大きなことは兼通の意向通り決まるが、逆に小さいことで、兼通の意向通り行かないことが多々有るのだ。
 例えば、中級貴族の人事などがその例であるが、左大臣・源兼明(みなもとのかねあきら)の主張が通ってしまうことが多いのだ。兼通とすれば、将来の大納言、大臣候補を、自分の息の掛かった者達で固めたいのだが、上手く行かない。

 理由は簡単で、関白は直接詮議に参加出来ないからである。詮議は左大臣・源兼明が取り仕切ることになっている。兼明は、醍醐(だいご)天皇の第十六皇子(みこ)で、朱雀(すざく)天皇、村上天皇、源高明の異母兄弟に当たり、承平(じょうへい)二年(九百三十二年)、源姓を賜り臣籍降下している。
 兼明は意図して兼通に逆らおうとしている訳では無かった。謹厳実直な男なので、経歴と実績を見て公平な人事を心掛けているだけだ。権力欲は余り無い。
 高明は自信過剰気味であった為、根回しして賜姓源氏(ちょうせいげんじ)を纏め上げ、摂関家と対峙(たいじ)しようとはしなかった。村上帝と自分で改革を実行し、賜姓源氏達は結果的にその果実を得てくれれば良いくらいに考えていて、相談も協力依頼も全くしていなかった。だから、兼明は、安和(あんな)の変に際しては、一時的な昇殿停止と言う措置だけで、難を逃れていた。

 兼通に取って最も警戒すべきことは、兼家の巻き返しである。だが、左大臣・兼明の存在も、奥歯に挟まった魚の小骨のように、兼通を苛(いら)つかせた。反抗して来る訳ではない。理路整然と、客観的に見れば当然のことを淡々と述べるだけなので、根回しして抱き込むことが難しい。兼通のような策を好む人間に取って、実に扱い難い人種なのである。

「詮議を命(みこと)が主導してくれれば良いと思うのだがな」

 右大臣・藤原頼忠に兼通が愚痴っている。頼忠は實頼の次男で従兄弟に当たる。九条流の中では疎外されていた兼通は、寧(むし)ろ小野宮流の頼忠と元々仲が良かった。
 頼忠は、藤氏長者(とうしちょうじゃ)であったが、天延(てんえん)二年(九百七十四年)に、兼通にその座を譲っている。

「しかし、何と言っても相手は左大臣。右大臣の麿が押さえ込むことは中々難しい」

「かと言って、落ち度も無いのに降ろすことも出来ぬしのう。どうすれば良いか」

「降ろせなければ、上げてしまうと言う方法も御座いますぞ」

 頼忠が声を落として言った。

「上げる?」

 兼通が不審げに尋ねる。

「兼明様は一世源氏。皇子(みこ)に戻って頂くと言う手はいかがでしょう。親王は左大臣を兼ねることは出来ません」 

「なるほど。一旦、臣籍降下した後皇子に戻るというのは、宇多(うだ)の帝(みかど)の先例が有る。
 実はな、帝(みかど)は右兵衛督(うひょうえのかみ)・源昭平(みなもとのあきひら)を皇籍(こうせき)に戻すことを望んでおられる。
 そうじゃ。帝(みかど)のお望みを叶えると言う名分(めいぶん)で昭平を皇籍(こうせき)に戻す際、兼明殿も併せて皇籍に戻すことにしよう。その上で名誉職でも与えて置けば良い。それを通す為に、まず、頼忠殿を一上(いちのかみ)とすることにしよう」

「左大臣を差し置いて、右大臣の麿を一上(いちのかみ)とすると言うのですか?」

「そうせねば、通せまい。詮議を決するのは一上(いちのかみ)じゃからな」

「少々強引ですが、仕方無いと言うことですな」

 帝(みかど)の兄弟の中で昭平は、只一人臣籍降下しており、異母兄とは言え、兄に臣下の礼を取らせることを、円融帝は心苦しく思っていたのだ。帝(みかど)の願いを叶えると言う名目で、それに乗じて、兼明も一緒に棚上げしてしまおうと言うのが、兼通の策である。藤原氏に依る他氏排斥は、安和(あんな)の変が最後とされるが、これも、形を変えた他氏排斥であった。

    ~~~~~~~~~~
 
 元々、得意とすることだから、朝廷での工作は何とか上手く行っている。そのことには満足している兼通だが、兼家が満仲と言う凶器を持っていることへの不安は拭い切れない。満仲に匹敵する私的な武力を何とか手元に置きたいものだと思う。

『そうか、あの男が居る。修理亮(しゅりのすけ)・藤原千方だ』

 その戦闘能力の高さは、信濃守から聞いている。おまけに、満仲兄弟は千方に取って兄の仇(かたき)のようなものだ。主(あるじ)・高明を嵌(は)めたのは、兼家を含む摂関家の者達だが、自分は一切関わっていない。

『あの男なら、満仲に対抗する勢力として育てられる』

 兼通はそう思った。


 【三十六話 嫁取り】

 安和(あんな)三年(九百七十年)正月に鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)と成った千常は、天禄(てんろく)四年(九百七十四年)十二月末にその任期を明け、続いて美濃守(みののかみ)に任じられた。
 因(ちな)みに、満仲が摂津守(せっつのかみ)に任じられたのも天禄(てんろく)四年(九百七十三年)の正月である。(注:この年の十二月五日がユリウス歴では九百七十四年一月一日となる)

 鎮守府将軍の引継ぎを済ませ、千常は、一端、下野の小山(おやま)に戻った。そして、千方を呼び寄せる。
 多忙ではあったが、仕方無く休暇を取って、ぎりぎりの日程で、千方も下野(しもつけ)に戻った。用件は嫁取りである。この年、千方は既に三十九歳に成っている。この時代、官位・官職を持った官人(つかさびと)が、この年齢(とし)まで正妻を持たないと言うのは異常である。
 女っ気が全く無かったのかと言えば、そうではない。この物語で触れなかった何人かの女性は居た。だが、正妻を娶(めと)ろうとはしなかったのだ。
 若い頃の千方は、下野藤原家の先兵となる気概に満ち溢れていた。戦いでいつ命を落とすかも知れないと思うと、妻子を持つ気にはなれなかった。柵(しがらみ)は邪魔になると思っていた。

 上洛(じょうらく)した応和(おうわ)元年(九百六十一年)には二十六歳に成っていた。とっくに妻子が居て良い年頃である。
 上洛後、千晴の妻が盛んに縁談を持ち掛けていた。多くは、五位の官人(つかさびと)の娘である。その者達が、なぜ六位・無官の千晴の弟に娘を嫁がせても良いと思ったか。それは、高明が間も無く実権を握ると誰もが思っていたからだ。
 高明が実権を握れば千晴が大出世することは間違い無い。それに伴って千方も出世するに違いない。そんな思惑からだった。
 それを、何のかんのと言って断り続けているうちに起きたのが安和(あんな)の変だ。この時、千方は既に三十二歳。その後は嫁取りどころでは無くなってしまったと言う訳だ。
 千方が千晴の妻の持って来る縁談を断り続けていたのには、実は他に大きな訳がある。実子が有りながら、千常が千方を跡取りと決めてしまったことである。
 千常の実子・文脩(ふみなが)は千方より十一歳年下の遅く出来た嫡子である。坂東は自力救済(じりききゅうさい)が必須の世界であった。皇族や公卿のように幼い者を上に立てて生き延びられる世界では無い。土豪達に舐(な)められたら、下野藤原家と雖(いえど)もその勢力を維持することは困難になるのだ。当主が睨(にら)みを効かせ続けていることが必要である。隙(すき)は見せられないのだ。

『文脩が一人前になるまで自分が頑張っていられるか』

 それが、千常の悩みだった。そこで、繋ぎとして目を付けたのが千方だった。 
 千常は千方を隠れ郷(ざと)に預け、厳しく鍛(きた)え、それは成功した。だが、我が子をそこまで厳しく鍛(きた)えることは出来なかった。何かと忙しかった千常は、我が子の教育を、ついつい妻や女達に任せにしてしまっていたのだ。
 成長するに連れ、千常は文脩の性格に違和感を覚えるようになった。何かと言うと理屈を捏(こ)ね回す。
 兵(つわもの)らしく無く、千常の大嫌いな公卿のようにさえ思えた。我が子可愛さはもちろん有ったが、父・秀郷から受け継いだ下野藤原家を守り、発展させて行くことを文脩に期待するのは難しいと思えて来た。苦渋の選択として、千方を跡継ぎにしようと決めたのだ。

 最初、千方は千常の申し出を固辞し続けた。千常に万一のことが有った時には、自分が全力で後見(こうけん)するので、跡継ぎは、実子である文脩にして欲しいと何度も頼んだ。だが、千常は聞き入れなかった。
 仕方無く、跡継ぎとなることを承諾した千方だったが、一旦は当主と成っても、なるべく早く隠居して文脩に譲ろうと心に決めた。
 だが、もし自分に子が出来たら、こんな自分でも我が子可愛さゆえ、文脩に跡を譲ることが惜しくなるのではないだろうかと言う不安が有った。
 世間にはそんな例はいくらでも有る。郎等達も千方派と文脩派に分かれて、下野藤原家の内紛と言う事態にでもなれば最悪だし、摂関家の者達や満仲を喜ばせるだけだ。
 そんな理由(わけ)で嫁取りを避けて来た千方だったが、女っ気無しで過ごせる訳も無い。それなりに遊んだ。しかし、女達の誰ひとりとして館に入れようとはしなかった。
 だが、子が出来れば館に入れなければならないだろうとは思った。幸いと言うか、身篭(みご)った女はひとりも居なかった。
 自分は子が出来ない身体(からだ)なのではないかと千方は思った。もしそうであれば、妻を迎えても、将来、文脩と争う心配は無い。そう思って下野(しもつけ)に向かった。

 千方の妻として千常が選んだのは、鳥取(ととり)氏の血を引く端野(はしの)昌孝(まさたか)の娘・侑菜(ゆな)である。下野藤原氏の原点、鳥取氏の血を引いていることと、評判の才女であることが決め手となった。年齢(とし)は十七歳。千方とは親子ほどの差が有る。
 昌孝は鳥取家の生まれであるが、千方と同じ六男で、端野家に養子に出された。鳥取の本流から外れてしまったことを残念に思っており、端野の家を、鳥取を凌(しの)ぐ存在に押し上げたいと常々思っていた。

 千常から声が掛って昌孝は大喜びだった。下野藤原家の跡取りの正妻である。それだけでも、下野の土豪に取っては願っても無い縁談であるのだ。

『自分の孫が次の当主と成るかも知れない』

 そう思うと、千方と娘の年の差など気にもならない。立場の差は天と地ほど有るが、思考回路は、摂関家の者達と変わらないのだ。そして昌孝は、娘・侑菜に取っても願っても無い縁であると信じている。
 田舎土豪の娘が貴族の正妻と成って、都暮らしが出来るのだ。嬉(うれ)しく無いはずは無いだろうと勝手に決め付けている。
 千方の位階は従五位下(じゅごいのげ)。上国(じょうこく)・下野(しもつけ)の国守(くにのかみ)にも成れる地位に有る。昌孝に取っては夢のような縁談であったに違いない。田舎土豪から見れば、確かにそう言うことになる。
 しかし、都での実際の千方の立場は、有力な後ろ楯を持たない崖っ淵の末端貴族でしかない。仕事振りは一目(いちもく)置かれる程であったが、将来の出世を左右するのは、能力や勤勉さではない。一にも二にも人脈なのだ。兼通の胸先三寸(むなさきさんずん)で、いつ信濃での一件を蒸(む)し返され、罠に嵌(は)められるか分かったものでは無い。そう言う意味で正に崖っ淵の末端貴族なのである。

 下野(しもつけ)中の土豪逹は元より、下野守を始め国衙(こくが)の官人(つかさびと)逹も招かれて祝宴は盛大に行われた。
 千晴が罪を受けたにも関わらず、下野藤原家が尚も健在であることを土豪逹に示す絶好の機会と思った千常が、財を惜しまず人を集めた結果である。
 土豪逹も国衙(こくが)の役人達も、下野藤原家が未だに安泰なのは、千常や千方が、上手く兼通(かねみち)に取り入った結果だと思っている。

 大規模な徴兵を掛けた一件も、単に、信濃の土豪逹と争う為だったと聞かされ、そう信じている。まさか、将門の乱と紙一重(かみひとえ)の処まで事態が進んでいたとは夢にも思っていないのだ。それは、朝廷側、すなわち関白・太政大臣・兼通も事件の真相をひた隠しにしていたからである。

 既に大勢の人々が集まって千方を待ち侘(わ)びていた。
 侑菜(ゆな)の顔を一度も見ること無く、千方は宴席に臨むこととなった。千常に挨拶し、席に着くやいなやドンチャン騒ぎが始まってしまった。厳(おごそ)かな式など一切無く、馬鹿騒ぎして祝の気持ちを表しているだけだ。
 もう出来上がっている侑菜の父・昌孝が、赤い顔をして千方の前に進み出る。

「若殿、いや婿殿(むこどの)。不束(ふつつか)な娘ではありますが、幾久(いくひさ)しく可愛がってやって下され」

「心得申した」 

 そう千方が答える。

「しかし、侑菜は只の田舎娘では御座いませんぞ。さる姫の侍女をしていた女子(おなご)を都から呼び寄せましてな、幼い頃より都風の素養を身に着けさせております。和歌(うた)も詠(よ)めます。しかし、それが災いしてと言うか、目に叶う男が中々おりませんで、ついつい十七にも成ってしまいました。
 しかし、慌ててその辺の男にやらんで、本当に良かったと思うております。若殿のような願っても無いお方に嫁ぐことが出来るのですから。娘も本望(ほんもう)と思うていることで御座いましょう」

「そう思うてくれれば良いが」

「いえいえ、そう思うて居るに違い有りません。これ以上のご縁など御座いましょうか」

 三十九にも成って若殿などと呼ばれるのは嫌だったが、千常が上に居る以上仕方が無い。昌孝はいつまでも喋り続けそうな様子であったが、直ぐに他の土豪達が割り込んで来て、千方に杯(さかずき)を求めた。
 次から次に杯を交わし、話を聞いているうちに、さすがに千方も疲れを覚えた。ちらりと横を見ると、昌孝が娘自慢をし他の者達がそれに合わせてお世辞を述べるのを、わずかな微笑みを湛(たた)えながら少し俯(うつむ)き加減に聞いている侑菜の姿が目に入った。言葉を交わすどころか、まだ、まともに正面から顔も見ていない。侑菜はどんな気持ちで居るのだろうと思った。

 侑菜が千方との縁組みを聞かされたのは、ひと月ほど前のことである。

「喜べ! 殿の御舎弟様との縁組みが纏まったぞ」

 そう言いながら父が部屋に入って来た。

 侑菜にしてみれば、なぜ喜ばなければならないのかと思う。千常の弟・千方は千常より二十歳も年下とは聞いていたが、それにしても、四十近いはずだ。父の年代の脂(あぶら)ぎった男を想像する。
 それは十七歳の娘に取って、生理的な嫌悪感でしか無い。断って納得する父で無いことは分かっていた。

 父に徹底的に逆らおうとまでは思わなかった。特に好いた男も居なかったからだ。
 侑菜は男に付いては奥手と言って良い。父が自分の教育に熱心だったのは、当初からこう言うことを狙っていたのだろうと察しが付いた。そう言う運命には逆らい切れるものでは無いと言う観念がいつか芽生えていた。

「正直言って、六郎は、もういい歳だ。今さら堅苦しい婚儀など、却(かえ)って気恥ずかしいことであろうと思って、皆への披露のみとした。済まぬな、侑菜殿」

 打合せで訪ねた時、千常がそう言った。婚姻に幻想の欠片(かけら)も抱(いだ)いていなかっな侑菜は、

「それで結構で御座います」

と明るく答えた。仕事に例えるなら、気が進まぬ仕事をやらざるを得ない時でも、それをやるしか道が無いならば、明るく頑張るしかないと腹を決められる。そんな心境だったのか。

 花婿が到着していないうちから宴は始まってしまっていた。千常が長々と挨拶したのは、土豪達の表情を見ながら結束を固める為である。
 昌孝は浮かれ切っての挨拶である。そして、双方の親族代表と主賓となる下野守の挨拶が終わると、直ぐに酒宴となった。
 千常は、代わる代わる祝いを述べに来る土豪達の挨拶を受けながら、その表情を窺(うかが)っている。皆、少し酔いが回って来た頃にやっと千方が到着したのだ。

 千方をチラリと見て侑菜は、はっとした。良い意味で、予想が裏切られたからである。想像していたより十歳は若く見える。体は引き締まっており、肌も脂(あぶら)ぎってはいない。諦(あきら)めの気持ちが瞬時に好感に変わった。

「六郎。いや、太郎じゃったな。挨拶致せ」

 千常の声が掛った。


 【第三十七話 縁(えにし)】

 夕刻近く、下野守を始めとして官人(つかさびと)達は引き上げて行ったが、土豪達は呑み続けている。宴を楽しんでいることは確かなのだが、それよりも、誰もが、最初に席を立つことに躊躇(ためら)いを感じているのだ。

「これからが我等が本音で誼(よしみ)を深める時ぞ。酒も灯(あか)りの油も惜しまぬ。いくらでも用意するから、朝まで呑み明かしてくれ。
 ただ、済まぬが花嫁は疲れておろうゆえ、下がらせて貰う。千方と文脩(ふみなか)には麿から話が有るので、我等も暫し席を外させて貰う。直(じき)に戻るので、その間気楽にやってくれ」

 国守(くにのかみ)らを見送って戻った千常がそう挨拶した。

「某(それがし)、今日は殿を酔い潰そうと企(たくら)んでおりますゆえ、お逃げ召さるな」

 一人の土豪が、千常に絡んだ。

「逃げはせぬ。直に戻るわ」

「左様で。では、お待ち申し上げておりまする」

 土豪はおどけて大袈裟(おおげさ)に頭を下げた。 

 千常の居室である。

 部屋に入り千常と千方が席に着くと、文脩(ふみなが)は千方の前に座り頭を下げた。

「兄上、本日はお日柄も良く、真(まこと)にお目出度う御座います」

 千方のことを、伯父では無く兄と呼ぶように、千常から言われているのだ。文脩も既に二十八であり、妻子が居る。

「正直、気恥ずかしいだけじゃがな」

「何を仰せですか」

「それより文脩。暫く会わぬ間に立派になったのう。これならば、跡継ぎの件、もう一度考え直して頂かねばならぬな」

「諄(くど)いぞ。もはや決めたことじゃ」

 千常がそう口を挟んだ。

「兄上。麿のことはお気になさらないで下さい。己でも、当主の器(うつわ)では無いと思っておりますので」

「謙遜することは無い」

「いえ、謙遜などではありません。命を懸けて戦ったことも無いので、もし、いきなり刃(やいば)を目の前に突き付けられでもしたら、いばり(小便)を漏らしてしまうのでは無いかと案じております」

「戯(たわ)け! 例え戯(ざ)れ言(ごと)であっても、そのようなこと、土豪達の前で決して申してはならぬ」

 そう言いながら、文脩に厳しい視線を送った後、千常が千方を見て、

「こ奴が跡継ぎでは、麿は安心して目を瞑(つむ)ることが出来ぬわ」

「父上には長生きをして頂きたいと思うておりますゆえ」  

 しらっとした表情で、文脩はそう言った。

「口の減らぬ奴め」

 二人の遣(や)り取りを聞きながら、やはり実の親子だなと思った。千方は、千常に対して、こんな風にものを言うことは出来ない。

「千方、文脩。これへ」

 二人は千常の前に席を移した。

「文脩。千方を実の兄と思って仕え、麿亡き後は何事に寄らず下知(げぢ)に従え。良いな」

「心得ております」

 文脩は神妙な表情でそう答えた。

「何か申したきこと有らば申してみよ」

「特に有りません」

 千方には言いたいことが数々有ったが、口を挟めばややこしいことになると思い、黙っていた。
 大体、文脩は心底から納得しているのだろうかと思う。千常が千方を後継と決めた当時は確かに幼かったが、今は二十九歳。立派な大人である。それに、千常が、危惧するような頼りない男とも思えないのだ。それどころか、下らぬ軽口さえも、気分のまま口から出していると言う感じでは無い。

 跡継ぎの件、考え直して貰うよう、真剣に千常に頼んでみようかと思う。一度言い出したことを簡単に変えるような千常で無いことは良く分かっている。一度、千方に約束したことを反古(ほご)には出来ないと言う想いが有るのなら、例え逆らってでも撤回を求めるべきかも知れないと思った。
 ただ、それを今言い出すことには少し躊躇(ためら)いは有った。

「では、席に戻るとするか」

 一通りの話が済むと、千常が言った。

「少しお話が有ります」

 千方が、立とうとする千常を引き止めた。

「では、麿は先に席に戻っております」

 そう言い残して文脩(ふみなが)は出て行った。

「なんじゃ」

「他でも御座いません。跡継ぎの件、今一度見直しては頂けませんでしょうか」

「諄(くど)いと申したのが聞こえなかったか」

 これは危険信号である。
 
 若い頃はこの後言葉を重ねると殴られた。
 さすがに今は、それは無いが、機嫌を損ねることは間違い無い。

「麿の見ます処、文脩は十分に下野藤原家を背負って行けると思います。そうなると、敢(あ)えて麿が継ぐ必要は御座いません。もし、一度約束したことと拘(こだわ)っておいでなら、麿へのお気遣いはご無用に願います」

「汝(なれ)に気を使っている訳では無い。文脩も納得していることじゃ」

「文脩が、そう言う態度を取れる大人に成ったと言うことでは御座いませんか。心配は無いと思えますが」

「そのようなことでは無い。文脩には兵(つわもの)の気概が見られん。それが、跡を任せられぬ理由じゃ」

「それは、親の目から見れば物足りぬことも御座いましょう。しかし、麿から見れば、十分に跡継ぎと成れる器(うつわ)と見えます」

「ぐだぐだ申さず、今は黙って麿の命(めい)に従え。いずれ、そのほうにも分かる時が来る」

「しかし」

「申すな。聞かぬ。戻るぞ」

 立ち上がるとそう言い残し、千常は千方をその場に残し、さっさと宴席に戻って行った。

 千方が自分の居室に戻ったのは、夜明けであった。既に陽光が射し込んでいる。侑菜は普段着に着替えて、入口近くに背筋を伸ばして座している。そして、夜着は片付けられている。

「寝なかったのか」

「殿がお客様方のお相手をしているのに休む訳には参りません」

 座したまま千方の方に向き直り、侑菜が答えた。
 そして、掌(てのひら)を揃えて床に突き頭を下げた。

「侑菜(ゆな)と申します。末長く宜しくお願い申し上げます」

 顔を上げてそう言った侑菜を見て、千方は、美しいと思った。千方も腰を降ろす。 

「千方じゃ。世話を掛けることになる」

「不束(ふつつか)者ゆえ、どれ程お役に立てますことやら」

「余り気を張らぬ方が良い。気を張り過ぎると持たぬぞ」

「お気遣い有り難う御座います。お水を用意しておりますが、お飲みになりますか?」

 千方が微笑んだ。

「貰おう」

 侑菜は、部屋の隅に用意してあった水差しと椀(わん)を載せた盆を運んで来て、椀に水を注ぎ、差し出す。受け取った椀の水を、千方は旨そうに飲み干した。

「お休みになられますか?」

 侑菜が尋ねた。

「うん。さすがに眠いわ」

 千方が横たわると、侑菜は衣を持って来て横たわった千方に掛ける。
 その時、千方は目の前に伸びて来た侑菜の白い手を握って引き寄せたい衝動に駆られた。だが、既に陽は昇っている。千方は侑菜に背を向けて腕枕をした。

「宜しければ我が膝を枕代わりになさいませ」

 侑菜が言った。

「いや、良い。腕枕で十分だ」

 膝枕などしたら、きっと己を抑え切れなくなるだろうと思った。夫婦(めおと)に成ったのだから、誰に遠慮が要る訳では無い。初夜が朝になってしまっただけのことである。
 しかし、この時代の舘には壁も襖(ふすま)も無いのだ。有るのは、横たわった全身を隠すには少し短めの衝立(ついたて)のみである。
 一睡もしておらず、先程までは、ただ眠いだけだったはずなのに、眠れなくなってしまった。

「一両日(いちりょうじつ)したら都に戻るぞ。輿(こし)を用意せねばならぬな」

 暫くして、侑菜に背を向けたまま、千方が突然に言った。

「おや、お休みになってはおられなかったのですか」

「うん? 眠たく無くなった」

 寝返りを打って侑菜の方を見て、千方が言った。

「輿(こし)は要りません。宜しければ、殿の馬に共に乗りとう御座います」

「武蔵辺りまでなら兎も角、都は遠い。それでは体が持たぬぞ」

「ご案じ無く。これでも兵(つわもの)の娘。見掛けに寄らず、身体(からだ)は強う御座います」

「侑菜。そなた面白き女子(おなご)じゃな」

「都のお姫様方と比べられれば、山出しの女子(おなご)に御座いましょう」 

「そう言う意味では無い。麿のような年の男に嫁いだのに、怖(お)じける処が無い。強き女子(おなご)じゃ」 

「可愛げが御座いませんか?」

「いや、この上無く愛(いとお)しく思える」

「まあ。そのようにぬけぬけと仰せになると、却(かえ)って真実味が御座いません」

「何を申すか。麿は世辞など言わぬ」

「正直申しまして、父の決めた縁談に何の感慨も御座いませんでした。でも、殿にお会いして、想いが少し変わりました」

「どう変わった?」

「さあ? それは殿次第かも」

「何やら謎解きのようじゃな」

 まだ肌も合わせていないのに、侑菜とは、元々の家族か知り合いのように自然に話せる。

「殿と添えて良かったと思えそうです」

「麿と歩む道は楽では無いかも知れぬぞ」

「なぜそのように仰せかは分かりませぬが、分かりました。覚悟致します」

 二人が契(ちぎ)ったのは、その晩のことである。

    ~~~~~~~~~~

 侑菜は、やはり兵(つわもの)の娘であった。
 馬も乗りこなす。最初こそ千方の前に横座りになって相乗りで乗っていたが、上野を過ぎる辺りで、裾(すそ)を絞った馬乗袴(うまのりばかま)を着け、一人で乗ると言い出した。
 千方にしても、二人乗りは多少窮屈だし、面映(おもは)ゆい。侑菜が一人で乗りたいと言い出した時、

「乗れるなら、その方が楽だろう」 

と即座に賛成した。

 侑菜を前に乗せる為、千方は和鞍(わぐら)で無く蝦夷鞍(えみしぐら)を馬の背に置いている。
 和鞍は木製で場所を取るので前に人を乗せたり出来ない。それに引き換え、蝦夷鞍は革製(かわせい)で薄く、前輪、後輪(しずわ)などの突起物も無いので相乗りには好都合であった。それでも、都までの長い道程(みちのり)をずっと相乗りで行くのは、さすがにきつい。一人で馬の背に股(また)がった侑菜の姿はなかなか様(さま)に成っている。

 久し振りの蝦夷鞍である。一人になると駆け出したい衝動に駆られた。昔、夜叉丸や秋天丸と共に駆け回った隠れ郷や陸奥の山々が懐かしく甦って来る。それは、まるで昨日の出来事のような新鮮さを持った思い出である。日々、目の前のことに夢中になっている間に、いつの間にか時は過ぎた。

『老人になどには成りたくは無かった』 

と、父・秀郷も朝鳥も言っていた。

 次に気付いた時には、きっと自分も老人に成っているのだろうと千方は思う。もちろん、その前に死ななければという前提が有っての話ではある。 

 童(わらべ)の頃は未来とは無限と同義であった。だが、歳を経(へ)るに連れ、己が歩んで行くだけでは無く、互いに引き寄せられるように、人生の終焉もこちらに歩み寄って来るように思えて来る。
 人とは、死ぬ為に生きているのかも知れないと千方は思った。もし、若い時であったなら、妻を娶(めと)った直後にこんなことを考えたりはしなかったろう。そんなことを考える暇(いとま)も無く、若くして命を失う者も多く居る。芹菜(せりな)、そして、旋風丸(つむじまる)が正(まさ)にそうであった。

 芹菜。
 死ぬなどと夢にも思わぬ命が、或る日突然失われた。旋風丸は千方自身が殺した。千方に取って、そのいずれもが衝撃であった。
 芹菜の死は、ただただ、理不尽としか思えなかった。襲われたとは言え、旋風丸を殺したことは悔やまれた。それらを忘れはしなかったが、やはり記憶は薄れて来ていた。昨日までは。  
 
    ~~~~~~~~~~~

 都に向けて旅立つ前日に訪ねて来たのは、祖真紀と犬丸だった。もちろん。祝の為の訪問ではあったが、それだけでは無かった。 
 夕餉(ゆうげ)の支度の為に侑菜が席を外すと、祖真紀が改めて千方に頭を下げた。  

「どうした?」

「祝の後にどうかとは思いましたが、やはり今申し上げて置こうかと思いまして」

「何を?」

「本来、亡き朝鳥殿が忌(いまわ)の際(きわ)に殿にお話すると申していたことですが、それが叶いませんでした。そんな時には、手前がお伝えすることになっておりました」

「朝鳥の遺言か」

「遺言と言う訳ではありません、芹菜のことです。
 お忘れであったかとは思いますが」

 犬丸が祖真紀の方に顔を向けた。

「忘れてはおらぬ」

 千方が答える。

「死んだ時、芹菜の腹には殿のお子が居たと思われます」  

「何!」  

 二重の驚きである。芹菜が身籠(みごも)っていたと言うことと、己に子種が有ったと言うことのふたつである。

「確かなことか」

「芹菜と親しかった庫裡香(くりか)と言う年増(としま)の女子(おなご)が、間違い無く芹菜は孕(はら)んでいたと申しました。庫裡香は何人も子を生んだ女子(おなご)に御座います。だから分かったと申しておりました」

「麿に子が」

「はい」

 驚いていたのは、千方ばかりでは無い。犬丸に取っても初めて聞かされた話である。事は、長老、朝鳥、祖真紀、庫裡香の四人だけの秘密として保持されて来たもので、芹菜の弟の犬丸にさえ知らされていなかったのだ。
 腹の中で子は死に、流れたのだ。犬丸は瞬時にそう思った。突然の流産を姉はたった一人で迎えたのだ。一人で後始末をし、誰にも話さず働いていた。それが死因だったに違い無い。犬丸はそう思った。だが、実際には、芹菜の死因は心(しん)の蔵(ぞう)の病(やまい)であった。

 当時は、あんな元気だった姉がなぜ突然死んだのか。全く思いも及ばなかった。この歳に成って聞かされたからこそ閃(ひらめ)いたことだ。
 喧嘩ばかりしていた姉だったが、根は優しい姉であった。哀れと思う感情が沸き上がって来たが、ぐっと堪(こら)えた。そして、犬丸はその考えを決して口にするまいと誓った。

    ~~~~~~~~~~

 都への帰路はのんびりしたものだった。侑菜を気遣い、わざとそうした。

 都に戻ると、忙しい日々が続いた。仕事も忙しかったが、舘の中を世間並にすることに着手した。
 官職に就くとそれに応じた家人(けにん)が支給される。元々の郎等達の他に家人は増えたが、女の使用人の数は極(きわ)めて少なかった。

 侑菜を迎えて新たに女達を雇い入れることにした。女達の纏めは、千晴の妻に着いていた茜(あかね)と言う女にした。義姉(あね)の勧めに従ったものだ。義姉(あね)と久頼、それに千清は、今は都の外れでひっそりと暮らしている。
 千方はそれと無く援助を続けているが、久頼の官職復帰を何とかしなければならないと思っている。だが、千方の力では難しいことであった。
 侑菜の身の回りの世話には、夜叉丸の妻・雛(ひな)を付けることとした。都出の女では侑菜が気疲れするろうと思ったからだ。

 また、これを機会に、古い郎等達を幼名(ようみょう)で呼ぶのもやめることにした。

坂東の風【第二十八話~第三十七話】

執筆の狙い

作者 青木 航
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 『千常の乱』終息の裏には、兼通と兼家との間で、歴史上希に見る兄弟間の確執が有った。
 他氏排斥に成功した藤原摂関家だが、必然的に今度は内紛が始まる。
 兼通と兼家とが、帝も呆れるほど陰湿な兄弟喧嘩を繰り広げる事になるのだが、兼道が権力奪取の第一歩としてやったことが、千常の乱の解決を密約を以て成し遂げることだった。

【第二十八話 陰に生き闇に死す】
【第二十九話 朝鳥の死】
【第三十話 伊尹の台頭】
【第三十一話 駆け抜けた男】
【第三十二話 逆転】
【第三十三話 遠き道程みちのり】
【第三十四話 屈折】
【第三十五話 兼通の思惑】
【三十六話 嫁取り】
【第三十七話 縁えにし】

コメント

あらすじ
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 藤原秀郷の落とし種、六郎・千方は、相模の山中で自家の荷駄の列を襲おうと待ち構えていた十五人の男達を逆に急襲し、皆殺しにしてしまう。
 男達の正体は、武蔵権守・源満仲の弟・満季の郎党と手の者達だった。
 源満仲は、都では、千方の長兄・千晴と勢力を二分し、共に源高明を私君と仰ぐ兵(つわもの)である。
 京に上った千方は、兄・千晴と主・高明のお陰で修理職(しゅりしき)に奉職し、順調に出世を重ねる。
 だが、『安和(あんな)の変』で主・高明は失脚し、兄・千晴は遠島となってしまう。
 謀反をも覚悟して起こした、世に言う『千常の乱』。
 参議・藤原兼通の大幅譲歩による密約を以て乱は終息する。
 その後、修理職に復帰を果たした千方。
 まだ遠いが、微かに修理大夫の座も視界に入って来た或る日、修理大夫であり参議でもある源惟正から、鎮守府将軍に転出するよう打診を受ける。
 だが、鎮守府将軍の任が明けた後は…… 
  一方、摂政・藤原兼家の命により、花山天皇を騙して退位させることに手を貸した満仲は、凡そ一年後、突然、出家してしまう。
 満仲・満李兄弟との因縁の確執。更に、藤原摂関家との駆け引きを軸に物語は進み、歴代の帝、摂関家の人々。更には、ほんの少しだか、安倍晴明も描かれる。
 満李の謀により、平忠常から圧迫を受け、甲賀三郎の招きに応じ甲賀に逃れた千方は伊賀に新しき土地を得る。
 伊賀の青山に伝わる、四鬼を操る伝説の悪の将軍『藤原千方』と、この物語の主人公との関係は?

青井水脈
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 拝読しました。三十六話、続く三十七話が読んでいて面白かったです。特に侑菜が登場して以降、千方と話をするシーン。第一話『襲撃』で、千方がニ十七歳にしては幼げな面差しを残して、と書かれていたじゃないですか。このイメージがあるせいか、今回三十九歳で妻を娶り。朝鳥が亡くなり、芹菜の話を千方が知ることとなり……。なんだか感慨深かったです。

 投稿する前に執筆の狙いを自分で書くにあたって、表現したいことは何かって書かれてるじゃないですか。やっぱり表現って、避けて通れないのでしょうか。
 執筆の狙いに書かれていることは、千常の乱に関する青木さんの見解のように映りますね。何話目のこのシーンを特に見てほしい、みたいに書いて読み手の入り口を広げてもいいのかな。

青木 航
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 青井水脈様、お読み頂き早々コメントも頂きまして、いつも有難う御座います。
 
>拝読しました。三十六話、続く三十七話が読んでいて面白かったです。

 上手い下手を別にすれば、男と女、夫婦の会話。多くの方が良く書かれる描写ですが、私の小説には滅多に出て来ないシーンではありますね。

>今回三十九歳で妻を娶り。朝鳥が亡くなり、芹菜の話を千方が知ることとなり……。

そう言う風に、複数のエピソードがどこかで繋がって来る。或エピソードが、先のストーリーの伏線になっている。そう言う構成を、自分では面白いと思って書いています。

 メインのストーリーで言えば、千方と滿仲兄弟の確執。形としては敗北に終わった高明、千晴、千方のラインに対して、満仲兄弟、兼道、兼家の関係が暫く全面に出て来ると思いますが、満仲が単なる悪役では無い事に気付いて頂ければと思います。

 少し発展させれば、満仲の物語に出来るくらいの書き込みは今までもしているつもりです。

と言っても、所詮私本人の思い込みのレベルなんですが、スピンオフ、スピンオフで繋がって言って、サリンジャーのグラース・サーガみたいなものが書けたら面白いとは思います。尤も、グラース・サーガは未完ですけど。

 有難う御座いました。

ルイ・ミモカ
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クオリティが高いと思いました。
アカデミックなテーマでありながら、文章が読みにくいということはなく、むしろ、きれいな文章で読みやすく書かれている感じで、内容は深いと思いました。
ところで、この時代に蝦夷が都に攻めて来るという考えは、当時の人は本当に持っていたのでしょうか?
それとも、オリジナルの説なのでしょうか?
全体的にリアルな雰囲気が漂っているので、史実を読んでいるような感じがあるのですが、あくまでも小説というオリジナルな部分もあるのかなと知りたくなりました。

青木 航
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 ルイ・ミモカ様、有難う御座います。
 過大な評価を頂いて恐縮です。

>オリジナルの説なのでしょうか?

と言うご質問に付いてですが、歴史を基にしたオリジナル創作ですと言う答になりますかね。

 さっき、ETV で、『藤原不比等』に付いての特集をやっていました。日本書紀成立1300年を記念して奈良で行われたシンポジウムの録画だったと思います。
 地理学者の千田稔氏、小説家の馳星周氏、漫画家の里中満智子氏、作家・政治家でカナダ・アメリカ大学連合日本研究センター所長であるブルース・バートン氏がパネラーとして参加していました。

青木 航
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 ルイ・ミモカ様が立てた『歴史小説に挑戦してみたいです。』と言うこのサイト付属のスレッドを乗っ取るような形で好き勝手、色々と書かせて頂きました。
 ご記憶かどうか分かりませんが、2021/03/27 に『藤原不比等』に付いて書かせて頂きました。
 そう言う事で、興味を持って番組を観ました。自分の解釈が大方間違っていないことを確認すると共に、2,3知らなかった事を学びました。大宝律令を作り、日本書紀編纂に大きく影響を与え、藤原と言う特殊な氏族の基礎を固め、外戚政治を始めたのは全て不比等です。良くも悪くも、日本の政治形態は不比等によって作られたと言っても大袈裟では無いと言うことを改めて認識しました。

青木 航
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馳星周氏の発言が心に残りました。
 馳星周氏と言えば新宿の闇社会を描いた『不夜城』で有名な方ですが、ある時、編集者から歴史小説を書いてみたらと進められたそうです。
 氏は、歴史に興味は無く、最初どう書いて良いのか悩んだそうです。
『聖徳太子は居なかった』『日本書紀は藤原不比等が捏造したものだ』
と言う二つの言葉に衝撃を受けたそうです。
 悩んだ挙げ句、『小説家とはプロの嘘つきじゃないか。好き勝手に書けばいいんだ』
と居直ったんだそうです。
 それで、荒唐無稽のファンタジーを書いたかと言えば違うんです。
 恐らく『プロの嘘つきは見え透いた嘘では無く、他人を納得させる嘘を付かなければならない』と思ったのでしょう。
 見え透いた遅刻の言い訳をする素人では無く、用心深い人をも嵌めてしまうような嘘でなければならないと思ったのか、歴史の猛勉強を始めたのです。
 そして、藤原不比等を描いた『比ぶ者なき』を書いたのだそうです。

青木 航
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 調べても分からない、或いは、歴史の資料から判断出来ない事。そこを埋める嘘を創作する。そして、それは合理的な解釈と人を納得させるものでなければならない。
 恐らく、そう考えたのでしょう。嘘の上手い者は肝心な事以外は出来るだけ本当の事を言う。嘘ばかり並べれば、襤褸を出す要素がそれだけ増えるからである。
 
 こう言った考え方は、有り得ない事では無く、有り得たかも知れない、有り得るるかも知れない事を書きたいと言う私の考えとも一致する事でした。
 だから私は、『戦国自衛隊』や『図書館戦争』など有り得ない物語に対する拒絶反応が強く、SFやファンタジーでも、有り得るかも知れない結末を用意してくれる作家を好みます。

青木 航
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>ところで、この時代に蝦夷が都に攻めて来るという考えは、当時の人は本当に持っていたのでしょうか?

 この質問に対する答が抜けていましたね。
 安和の変が起きた969年から82年後の1051年から1062年に起こったのが『前九年の役』です。

 満仲の孫・鎮守府将軍・源頼義と安倍忠頼の孫・安倍頼義(頼時と改名)が戦ったのが前九年の役。1051年から1062年に起こった戦いです。
 安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になり、さらには陸奥国府の管轄地域である衣川以南に進出したため、陸奥守・藤原 登任(ふじわら の なりとう)と争ったのが切っ掛けと言われます。

青木 航
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それまでにも度々緊張関係に陥っていたものと思われます。
 この戦いの最中、朝廷側から安倍側に寝返って処刑された藤原経清と言う人がいます。
 経清は安倍頼義の娘・有加 一乃末陪(ありか いちのまえ)を妻としていた為寝返ったのですが、この藤原経清、実は今回の話で、千方が陸奥に逃れさせた千清(千晴の孫)の孫と言われています。
 更にその経清の子が清衡であり、安倍滅亡後、母が清原武貞の妻とさせられた為、連れ子として清原で育ち、兄弟間の争いを勝ち抜いて遂に蝦夷を統一し、半独立政権を打ち立てます。
 清衡は名乗りを、父方の姓・藤原に戻しました。これが奥州藤原氏です。

『蝦夷が攻めて来る』と言う漠然とした警戒感はあったと思われます。

ルイ・ミモカ
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やはり藤原秀衡までの3代は奥州は強かったんでしょうか?
頼朝も、秀衡が存命中は奥州に手を出さなかったみたいなのですが。

青木 航
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>秀衡が存命中は奥州に手を出さなかった

と言うより、秀衡は頼朝の要求に逆らわず、上手く躱していたが、子らにその才覚が無かった。
 平家を倒し朝廷工作も一段落した段階で、義経が上手く陸奥に逃げてくれた。 
 これ幸いとばかり頼朝は揺さぶりに出た。秀衡は義経の引を拒んだ。

 運悪く秀衡が没してしまったので、子らは頼朝の揺さぶりに嵌まり、兄弟の協力も出来ず、分裂状態になってしまったのでしょう。
 秀衡が生きていても頼朝は奥州藤原氏を潰したでしょう。政権を安定させる為には必須ですから。但し、もっと時も手間を掛けざるを得なかったでしょう。

ルイ・ミモカ
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秀衡は頼朝の奥州侵略の意図を見抜いていたので、
義経をリーダーとして奥州がまとまるのが戦略上ベストと考えたのでしょうか?
義経が奥州に独立政権を築いても面白かったんじゃないかなという気がします。
関東勢には勢力の上で敵わないとしても、
もし義経をリーダーにして奥州がまとまれば、どれくらい持ちこたえられたのでしょうか?

青木 航
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『判官贔屓』と言う言葉が有るように、日本人の心情として義経は『良い方、悪い方』の『良い方』になってしまっていますが、兄が武家の権威を確率しようとしているのに、対抗する旧勢力の代表である法王から勝手に官位を受けたり、頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、鎌倉に凱旋しようとしたりと、手柄を鼻に掛けて頼朝の言う事を聞きません。義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れました。

 つまり、義経は確かに戦で数々の手柄を立てたが、自分の手柄を誇り、兄の言うことを聞かず、武家の権力を構築しようとしている頼朝の構想をぶち壊しにする空気の読めない男だったと言うことです。

 何百年も掛けて兵(つわもの)=武士が、やっと公家から権力を奪おうとしているのに、その事を理解せず、邪魔ばかりするようになっては、頼朝としても討たざるを得なかったでしょうね。

 それとも、公家が支配する社会がもっと続いた方が良かったと思われますか?

 義経を中心とする政権など間違っても出来る可能性は有りませんでした。
 ついでに言えば、絵で見る限り、義経は決してイケメンでもありません。

ルイ・ミモカ
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鎌倉時代のイケメン、気になりますね

ルイ・ミモカ
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義経はたぶん、天才すぎて周りがついて行けなかったのではないでしょうか?

ルイ・ミモカ
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義経のあの軍事的直感とか行動力は生まれながらのものなんですかね。
敵の油断や隙をついて一気に攻め立てるところが当時としては画期的だったんでしょうか。
普通の人が怖気づくところを全く怖気づかないみたいなところがあるのかな。
そういうのって既成の教育とかで身につくものとも思われないから、
やっぱり生まれながらの才能とか気質から来るものなんだろうな。
周りから見れば非常識なふるまいってことになるんだろうけど。
でも軍事的な天才でも政治的にうまくわたっていけるとは限らないってことなんだろうね。
頼朝は軍事の上に政治を置いていたんだろうね。その政治がすごく複雑なものだったんだろうね。
義経は軍事の面で成功を成し遂げようとして、成功したんだろうね。でも、複雑すぎる政治に翻弄されてしまったという感じなのかな。

青木 航
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 戦術の天才だったかもしれませんが、天才と言うのはとかく自分中心にしか考えられない。芸術の天才なら許されても、人間関係ダメダメだったんでしょうね。
 義経像が美化され過ぎているから、そう思う人殆ど居ないと思いますが、行動見たら駄目過ぎます。

ルイ・ミモカ
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梶原景時と義経の言い分はどっちが正しかったんでしょうね?

青井水脈
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失礼します。もしかしたらご存知かもしれませんが、お知らせいたします。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/trailer.html?i=28772

4月7日(水) NHK総合 午後10時半

「歴史探偵」 平安京ダークサイド

伝言板に掲載しても、興味ない方が見たら「??」ですしね……。

青井水脈
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『平安京ダークサイド』私は観ましたが、タイムリーな番組と思いました。群盗の襲撃を再現したシーン、ジオラマにカメラが入って右京の奥に緑が広がっていたのが印象的でした。

横領された物を奪い返す、この時代は自力救済だったとスタジオで解説されましたが、千方も『襲撃』で襲ってきた十五人を返り討ちにしたとき、「自力救済の世界」と言っていましたね。番組を観て思い返すと、繋がる感じがしました。

御作で満仲の舘に強盗団が押し入って、と記述が出てきますが、それがまさに群盗ですかね。
天皇の従者二人の生首を持ち去った、という話には!?でした。

青木 航
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 青井様、再訪有難う御座います。
 お知らせ頂いて私も観ました。

 知っていた部分も多かったのですが、『そうだったのか!』と思った部分も幾つか有りました。

1.馬上から弓を真後ろに射る事が出来た。
 あの映像を観て、『そこまで凄かったか』と思いました。私は、『竜の軌跡』のきたやまの戦いの場面で、馬上から長弓を射る場合、左手から前方にしか射る事が出来ない。
 そこで秀郷は、将門軍の攻撃の的となる右翼に子らを配したと書きました。
 幸いこの場面では関係が無かったのですが、まさか真後ろにも射ることができるとは思いませんでした。

2.朱雀大路の広さは分かっていたので、ひろばを縦につないだようなもの。貴族達が互いに牛車を止めて話をしていても、その外側を庶民が通るのに何の障りも無かったと描写しました。
 しかし、塀沿いに餓死寸前の貧民の群れが屯していたと言う描写までは出来ませんでした。芥川龍之介の『羅生門』の描写をもっと頭に置くべきだったと後悔しています。
 貴族の邸宅の長い塀は、外国の使節に見栄を張る為に造られたのですね。

青木 航
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 水害が多く、右京は発展しなかったと言う点については認識していたつもりでしたが、川の改修が重ねられた事は知りませんでした。

 千方が上洛した頃、満仲邸に強盗が入り、犯人が貴族だった事は書きましたし、歴史的事実でもあります。番組でやっていた、満仲邸が放火された事件は、又別の事件で、拙作では次回描かれます。
 検非違使である満季が捕えたとナレーションが入っていましたが、実は、その後犯人がどうなったか記録が有りません。

 満仲は何度も襲撃されているのです。
 清和源氏の礎を築いた人物ですから、多田神社には神として祀られており、縁起には功績が書き連ねられていますが、評判の悪い人物で数々の恨みを買っていたようです。
 善行を積んだから子孫が繁栄した訳ではなく、形振り構わず地位と財産を残したことが子孫の繁栄に繫がったのですね。

 ただ、私は満仲を単なる敵役として書いたつもりはないのて、今後その辺をお読み頂ければと思います。

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