作家でごはん!鍛練場
日程

独善看守

 序章 血迷い
 
 殺人鬼に三度目の脱獄をさせたのは自分であった。
 奉野(たての)萩之進(はぎのしん)が北海道石狩川上流の月形村に出向き、樺戸集治監(かばとしゅうちかん)の看守となったのは明治十六年のことだ。そこは全国の罪人の中でもとりわけ重罪の者ばかりが送り込まれた、地の果ての監獄。囚人を駆使して北海道開拓に貢献することと、囚人を一般人から隔離することを目的に作られ、樺戸に連れてこられた者には例外なく強制労働が待ち受けていた。囚人たちはこの集治監への移監はすなわち死を意味すると認識し、自らがその対象になることを強く恐れていたという。
 奉野が樺戸で看守の勤めを始めて一年が経った頃のこと。新たに集治監に運ばれてきた囚人がいた。名は早川慶次郎。四国出身で、本州にて婦人十二人を刺殺・絞殺に及んだが、警察の厳しい捜索から独特の嗅覚で逃れ続けた。捕縛時にも手練れの警官七名に重軽傷を負わせた名高い殺人鬼である。本来ならばもちろん死刑に処されるのだが、早川の犯行が極めて慎重に行われたため目撃者以外の決定的な証拠が得られなかった。自白強要は徹底的に行われるも、彼は固く口を閉ざし続けたという。
 彼は警官に対する暴行罪で懲役二十五年の刑に処され、宮城集治監に収容された。しかし早川は、堅牢を誇る宮城集治監から破獄したのだ。威厳を守るために集治監の看守たちにより不眠不休の大捜索が行われたことは言うまでもない。最終的に農家で食物を盗み取っているところを住人に目撃され、早川にとっては運悪く警官らに囲まれて捕縛される。逃亡の罪も合わせて無期刑となり、北海道に移監されたのだった。

 始めて樺戸で早川を見た時のことを、奉野はよく覚えている。
 樺戸集治監と、その最寄りにある空知(そらち)集治監を結ぶ警備上の連絡道路となる、峰延道路の開削工事を行わせている時のことだ。峰延への道は沼あり沢ありで、これに道路をつけるにはまず道路予定線の両側に排水溝を掘り、それに舟を浮かべて砂、土石を運び、工事用の丸太はいかだに組んで運ぶ必要があった。軟弱な土壌の上に、逃亡を防ぐために二人一組で囚人の足を繋ぐ器具である連鎖が施されていたため、彼らは幾度となく転んだ。さらに作業自体もいかだを綱で肩に負って引っ張り上げる等、重労働が多かった。看守たちは逃走阻止のために目を光らせ、サーベルを抜刀して監督に当たっていた。
 奉野も監督をしつつ、逃亡抑制の意味もあって、素振りをしていた。手練れた奉野のもとで空気を震わす刀身は、大気中のあらゆるものを断裂するようで、囚人は遠くにいてもその傍に近寄らぬようにしていた。
 剣先に気配を感じたのはそのときだ。咄嗟に奉野がサーベルを引っ込めると、刃からわずか二寸程度のところで早川が瞬きもせず突っ立っている。
「危ない、何をしている」
 その言葉にも動じない。早川を改めて見ると驚くほど体格に優れており、足枷があるとはいえ深淵を覗くような彼の眼光に恐怖を感じた。
「新参。集中せんと飯を減らすぞ」
 サーベルを突き出して脅す奉野。早川は平然と頷くだけだった。

 それから半年余りが経過した明治二十年三月である。奉野が非番の日に、集治監である大きな騒ぎが起きていた。
 早川を含めた四人の囚徒が脱獄したのだ。
 樺戸集治監では上水道の堰堤(えんてい)補修のため、外役作業が連日実行されていた。三月は雪が堅雪となるためどこを歩いてもぬからず、作業に最適の時期であるからだ。
 その中で、逃亡を企てていた二人の囚徒がいた。彼らは作業開始の看守の号令を聞くと、いきなりモッコ(囚人用の作業籠)を担ぐための棒を振り上げて、その看守に襲い掛かった。すぐに付近にいた同僚の看守がこの異変に気付き、応援に駆け付けようとした。そこを、近くにいた早川は見逃さなかった。彼は応援の看守を頭から突き飛ばして気絶させると、自らと連鎖の囚人をそそのかして共に逃走した。
 看守らはまず仲間を棒で殴りつけた二人の囚徒を捕縛し、そのうち抵抗を示した一人を斬殺した。
 ようやく早川らの逃亡に気づき、その後を追ったところ、密生する林の中で外された鉄鎖を発見した。別れて逃走したようだった。
 看守たちが血眼になって囚人を探していると、鉄鎖の片割れの囚徒はまもなく発見された。囚人たちの朱色の獄衣は、彼らが逃走した事態を想定してどこにいても目立つように作られている。あっという間に看守たちに囲まれたことに気づいた彼は、諦めて捕縛に応じた。
 だが、早川は見つからなかった。一週間にわたって早朝からの捜査が続けられたが、早川の行方は不明で捜査は打ち切られた。宮城集治監に続き、二度目の脱獄である。彼の姿はその後一年間、目撃されなかった。
 しかし、丁度季節が一周したころに、急展開が起こった。民家で早川らしき男が強盗を働いたという情報が入ったのだ。さらに場所は樺戸集治監からほど近い、すでに道路の開削がなされた当別村であった。当別村は逃走囚が中継地として物品を奪うという被害が一時期多発したため、武術の心得のある看守が常駐している。村は一瞬にして警戒態勢に入り、早川の退路は封鎖された。情報を手にした看守たちは皆、凄まじい戦闘を覚悟して腹を括っていたが、彼らの姿を黙認した早川は意外なことに両手を前に出し、素直に捕縛に応じた。
 一年ぶりに集治監に帰ってきた早川は、罰として闇室に閉じ込められることになり、この逃走劇は囚人・看守たちの大きな話題に上った。

 翌日から、奉野は闇室の早川を監視し、飯を与える担当に命じられた。早川を扱うことができるだろうという看守長の信頼があったからだ。  
 早川が入れられた闇室というのは、獄舎の外に作られた半坪の広さの密室で、一人が腰を曲げて座れるだけの空間しかない。寝具も与えられず体を曲げて床に寝る以外にないほか、窓もないので空気は汚濁し、呼吸困難に陥る。期間も長く最大七日間あり、囚人たちに最も激しい肉体的・精神的消耗を強いる懲罰であった。奉野の任務は闇室の食事口を開け、通常の三分の一にまで減らされた麦飯と、わずかに塩の入った湯を早川に支給することだった。
 闇室に閉じ込められて三日。それまで早川は食事の際も顔を上げず、ほとんど奉野に口を聞いていなかった。曇り空の、暗澹とした寒い夜のことである。例のごとく奉野は夕飯を与え、食事口を締めようとしていた。
「アシㇼレラ」
 早川の声は低かったが、奉野の耳には確かに届いた。体をこわばらせて、早川を見つめる。唐突に飛び出す見知った言葉に、奉野は混乱していた。
「お前が夜番のとき、その名を奏でているのを聞いた」
 早川がその名を口にした理由に、奉野は安堵を覚える。
「そうか。ただの独り言だ、気にするな」
 そして背を向けた奉野に向けて早川が続ける。
「オクイ」
 今度こそ背筋が寒くなった。オクイとは日本語で小便の意味で、アイヌ人が子供に付ける幼名の一つだった。アイヌでは産まれた子に汚い名前を付けることで、子供をさらう悪神(ウェンカムイ)を退散させることができるとされていた。
 そしてオクイは、奉野の幼馴染であるアシㇼレラの幼名だ。囚徒早川の口からその言葉が飛び出すとは思いもよらない。
 振り向いた奉野に対し、早川は軽い口調で話題を変えた。
「看守さんはこの国が好きか?」
「何の話だ。好きに決まっているだろう。一国民として当然のことだ」
 そう答えると、早川は鋭い眼光を送ってきた。
「国民か、それはお笑いだな。お前は恐らくアイヌの血が入っている。顔の彫りが深く、目鼻立ちが凛々しい」
「……貴様は何が言いたい? 何者なんだ?」
「なんでもない。俺はただのアシㇼレラの知り合いだ」
 背中を丸める早川の姿が異常に大きく映る。まさか此奴は。
「安心しろ。俺はアシㇼレラを黄泉送りにはしていない」
 先回りして早川は言う。奉野の反応を予測していたようだ。
「やつはお前の恋人か? 婚約者か?」
 闇室の饐えた匂いが奉野の元まで漂ってきた。早川はこの匂いを少しも気にしなくなっているようだ。
「詮索するな。どちらでもない。彼女は私の……」
 言葉を詰まらす。私の、なんなのだと奉野は思った。分からない。
「……妹のようなものだ。それだけだ。貴様は静かに罪を悔い改めろ」
 それを聞いた早川は、読み通りと言わんばかりに唇の端を上げた。
「俺がアシㇼレラの居所を知っていると言ったらどうする?」
「そんなことが分かるわけがない」
「分かる」
 強い口調で早川が断言した。
「破獄中に遭遇した。試しにお前の名を出したら、彼女は動揺を露わにしていた」
 奉野は拳を強く握る。なぜ早川がアシㇼレラを知っているのか、なぜそのことを自分に話し、彼女はどこで生活しているのか。湧き出る疑問は止まらない。それでも奉野はまずアシㇼレラが生きていると聞けたことに安堵を感じていた。
 奉野の表情を早川がどこまで読み取れたのかは分からないが、会話の主導権を握られていることは確かだった。
「しかしながら彼女の足場は一寸危うい。いつ命を失ってもおかしくはない」
「それで、アシㇼレラはどこにいるのだ?」
 早川との関係も今の状況も、アシㇼレラから直接聞いた方がよほど信ぴょう性に勝る。
「囚人と蔑まれた、見返りのない労働にはもう飽き飽きしている」
 早川が眉間に皺を寄せ、それから奇妙な笑いを作る。
「どういうことだ」
 心臓の鼓動が急激に早くなった。大きく口を横に開く早川独特の笑い方は、彼の顔形までも変えるようで不気味だった。
「俺の破獄に協奏するならば、必ず彼女を助ける。その御霊が乖離することは決して起きない。逆に俺の頼みを断れば、死ぬ」
 三月の乾燥した寒風が二人の間に吹き荒れる。
「脅しか?」
「どう捉えるかはお前の勝手だが、俺は嘘をつかない人間とだけ言っておく。そしてお前に迷惑をかけることもしない」
 奉野はその言葉に、宮城集治監での噂を思い出した。それは早川と同じ牢に収容された囚人の一人が、早川の破獄を助けたというものだ。
 その男は塀内作業の際に足を挫いたと言い、看守を呼び寄せた。早川が塀をよじ登って逃げたのはその隙だった。ただの偶然かもしれないが、それにしては間が良すぎる。足を挫いた男の罪状は放火。父親が賭博家に騙し殺されたことに怒り、その仇討ちで家を燃やしたのである。しかし家は完全には燃え広がらず、高利貸しも無事に命を取り留めたままのうちに男は捕まってしまった。ちなみに早川と男の罪に差があるのは、獄舎にせよ連鎖にせよ、共謀して破獄することを防ぐため、あえて罪の軽い者と罪の重いものを組みにする決まりになっているからである。
 問題は早川が逃亡したのち、その高利貸しが惨殺される事件が起きたということだ。計画的と思われる周到なやり口で犯人は判明していないが、放火した男が仇討ちを条件に早川に協力をしたという話は、噂と呼ぶには筋が通り過ぎている。冷酷非道と思われるこの男にも、この男なりの義理と美学があるのではないだろうか。
 奉野は今、弱みに付け込まれている自覚があった。それを認識してなお、早川の言葉を一蹴できないくらいに、奉野の心には揺れが潜んでいた。
「石狩国の惨状は知っているな? 今俺の仲間がアシㇼレラを裁くことは極めて容易だ。なにせこのままでは放っておいても死ぬ運命だろうからな。翻って、彼女を解放することができるのは俺だけだ」
 夜は一層冷え込み、手袋に包まれたはずの指先の感覚が薄くなる。
「戯言はやめろ」
 奉野は頭の中に絡みつく余計なものを断ち切るように声を張り、闇室の前をあとにした。
 一人になっても依然として分からなかった。何が正しく、何が間違いなのか。

 四日後の六時、良く晴れた寒い朝、奉野は闇室の前にいた。
 今日で罰則は終了し労役も再開され、明日から早川も他囚と同じ獄舎に戻ることになる。  
 最後の朝食の時間だ。食事口を開けられた早川は、米の入った木椀に手を伸ばした。しかし奉野は木椀を握る手を離さない。
 早川は疑いの目で奉野を見つめた。
「本当にアシㇼレラは生きているのだな」
 その言葉に早川の表情が和らぐ。
「やっとその気になったか」
「彼女に指一本でも触れれば殺す」
「預けられた下駄は天地に誓って返す主義だ。俺を侮らないでもらいたいな、看守さん」
「計画を話せ」
 奉野は口元一つ緩めずに言った。それに応じて早川の細い顎が締まり、目の奥に煌々(こうこう)とした輝きが発された。
「外役作業では警戒が強いほか連鎖が負担になり過ぎる。それに引き換え、単独での塀内からの破獄には自信がある」
「鉄丸か」
「ご名答。羽ばたかせて頂きたい」
 鉄丸とは、逃亡の罰で早川の片足に取り付けられた一貫(三・七五㎏)の重りのことである。
「そんなことをすれば俺が職務違反で獄舎にぶち込まれるがな。それに鉄丸を切り離しても、すぐに見つかりまた闇室送りだ」
「看守さん。剣術の腕前は俺には誤魔化せない。そのサーベルで鉄丸の鎖を、〇・五分(1.5㎜)だけ残して切断してくれ」
「〇・五分だろうと相当固い」
「案ずるな、俺の意志の方が固い」
 早川が歯を見せて笑う。冗談のようだがこの男なら可能であるように奉野は感じた。
「お前に降りかかる禍を取り払うために言っている。協力者だと発覚して獄舎の亡骸になるのは嫌だろう?」
「破獄はいつ?」
「今日」
 早川が身体に力を込めたのが、暗い中でも見てとれた。
 獄舎自体の高い堅牢性に加え逃げるに不利な地形と厳しい気候のおかげで、樺戸集治監から逃亡に成功した例は非常に稀であった。その例の中でも、死体こそ発見されていないが餓死した者が大半と思われ、奉野の知る限りでは確実に他の地に渡れた者は、明治十七年の堀井善吉ただ一名である。だがもし早川が破獄し、二度も逃亡に成功するようなことがあれば、この樺戸集治監は完全に面目を失うことになる。その大罪を承知した上で、奉野は殺人鬼を世に放つのだ。
 そろそろ労役の時間が始まる。早川は鉄丸を付けたままの獄内作業であった。早川を闇室から外に出し、奉野は周囲に誰もいないことを素早く確認した。そして剣の想像をする。    
 一番遠心力に頼れるのは切っ先だが、斬り過ぎる恐れと刃こぼれの不安が強い。程よく力を調節して先端から三寸下、物打ちで垂直に、わずかな切り込みを入れる。
 奉野は背中からサーベルを引き抜き、沈黙した。
 鉄丸と足を結ぶ鎖に一閃。
 即座にサーベルは納刀され、鈍い金属音がしたほかは、見た目は何も変化はなかった。
「流石だ」
 早川が一言。奉野は何も語らず、規則に準じて両腕を拘束したまま獄舎へと引き入れた。見た目は、看守と鉄丸を付けられ打ちひしがれた囚人の構図である。
 そして奉野は、早川と離れる寸前に密かに囁く。
「私もこの国が、嫌いだ」
 彼はそんなことは知っているというように、鼻を鳴らした。
 この日の午後、早川は破獄した。
 事前に、洗濯場の甕(かめ)にたくわえられていた水で獄衣を浸している。早川は作業が終わった後に何喰わぬ顔で獄衣を脱ぐと、鉄丸を引きちぎって走り出した。すぐそばにいた看守が呆気に取られる中、早川は一丈八尺(五・四メートル)の黒塀に獄衣を思いっきり強く叩きつけ、吸着力を利用して体をのし上げ塀を乗り越えて姿を消した。みすみす彼を逃したとされて減俸・謹慎処分となった看守は、囚人に対してひどい扱いをすることで有名な男であった。

 奉野の罪が発覚することは無かった。全ては闇の中に消える。
 それから、三年と九ヵ月の月日が流れた。


 




  
 第一章 網走の闇勇者

 明治二十四年 十二月五日夕刻 大雪山白滝

 間違っている。心で暴れるは、理屈のない感情だ。
 凍てすさぶ風が肌身に与えるのは寒さではなく、限りない痛みの連鎖だった。蝦夷(えぞ)は人間の住むところではないと、冬が訪れるたびに脳が訴えかけてくる。囚人らの纏(まと)う朱色の獄衣はとうの昔に元の色を失い、降りしきる雪と同化した。彼らに声はなく、凍傷のために腫れあがった手足を小刻みに揺らしながらも作業を止めることは許されない。奉野を含めた看守たちのしゃがれ切った激励だけが、虚しく吹雪に吸い込められる。
 その中で、先程から意識がふらついている囚人がいた。狂った薄ら笑いで切り株をモッコに入れ担いで運んでいた男は、あまりに深く白い大地に足を取られ、転んだ。痩せ切った囚人の体は、瞬く間に雪の中に埋まる。
 奉野が行くまでもなく、すぐそばの看守が「立て」と命令するが、囚人は動かない。意識を失ったまま、不気味に痙攣を繰り返している。
 看守は気怠そうに、もう体の半分が埋もれた囚人に雪を被せた。その横にはもう一人落ち着きのない囚人がおり、そこで看守はようやく足鎖の存在を思い出す。彼は言葉もかけずに、雑な手つきで男の鎖を外した。組の変更である。
 しかし動作が余りにも注意に欠けていた。
 鎖が外れた瞬間、立ち尽くすだけであった囚人は、どこから力が湧いてきたのか、身を翻して走った。逃亡だ。
「待て!」
 先程まで怠惰でいた看守は急激に力の籠(こも)った声を上げ、抜刀した。もし労役中に囚人が逃走しその日のうちに捕らえることが出来なかった折には、俸給を没収される上に半年間投獄されることになる。高々月給七円程度の看守たちにとって、それは生活に関わる致命的な処置だった。
 サーベルを握りしめ、真っ白に染まった編傘を身に着ける看守の目は多分に漏れず血走っており、囚人を捉えるのに必死だ。
 幸いなことに囚人には逃げ切るだけの体力は残っておらず、一歩進むごとに深く嵌る大地に力を吸い切られ、二十メートルも行かぬうちに倒れこんだ。追いついた看守は姿を見失うまいと、迷いなくサーベルをその背に振り下ろす。
 付近は赤い血に染まり、この世界にも色という概念が存在していたことを奉野に思い出させた。それも一瞬のことで、間もなく降り注ぐ雪にかき消される。逃亡者がその場で斬り殺されることもまた、「拒捕(きょほ)惨殺(ざんさつ)」と呼ばれるさして珍しい出来事ではなかった。
 しかし残酷無比と思われる看守たちでさえこの労役の被害者にほかならず、男を斬ったサーベルの柄を握る看守の手には至る所にあかぎれが見てとれる。奉野の手も同様で、囚人監督中も常に切り裂くような痛みに襲われ、擦ると出血した。あかぎれ程度ならまだ可愛いもので、重度の凍傷のために指のうちの何本かを失った看守も少なくない。

 道庁が北海道の各集治監に激烈な通達を発したのは、明治二十四年四月のことだった。道庁は北海道開拓を大きく前進させるために、忠別太(今の旭川)から大雪山をふくむ山岳地帯を貫き、遠くオホーツク海にのぞむ網走に達する大横断路の開通を企てていた。
 忠別太から札幌へは、すでに樺戸・空知両集治監の囚人によって幅三間以上の道が開削されており、工事の大要は網走に外役所を持つ釧路集治監に当てられた。そこで道庁は網走の外役所を釧路集治監の分監に昇格させ、網走分監に横断路の開削を年末までに完成させるよう命じたのである。網走分監の担当は忠別太(ちゅうべつた)方面から進行中の、空知分監担当の道路と連絡できる道までであったが、その距離は全長約四十一里(百六十三キロメーロル)にもなり、傾斜面、原生林、硬質な岩石肌からなる未開の地を切り拓くことになる。その労力を鑑みれば、ロシア帝国への危機感があったとはいえ、工期八か月という歳月は無謀にほかならぬものだった。網走分監に送り込まれた千二百人の囚人たちは、昼夜を問わず原始林に駆り出され、大木を切り倒し、野生動物のヒグマやオオカミの脅威に怯えながら大量の土砂を運んだ。夜は雨漏りの激しい仮宿舎所に足を引きずりながら戻り、固い板の上で束の間の睡眠を取る。午前三時半には看守たちに丸太枕を叩かれ、再び朝の作業が始まるのだ。
 この時点ですでにこの世の地獄と見まがう過酷さであったが、八月二十日に初代分監長に命じられた有馬四郎助が網走に赴任してからは労役のむごさに拍車がかかった。
 二十七歳の有馬は、自分に破格の登用を施した長官の期待に沿いたいと願った。あと四か月以内という期限を何としてでも守ろうとした有馬は、いくつかの班を作ることで囚人同士を互いに競わせる方法を考案し、かつてない囚人労働が始まった。
 道路開削は夏場とて容易なものではない。荊(いばら)は囚人たちの獄衣を裂き、その体に血を滲ませた。複雑に絡み合った蔦に足鎖が絡まり、一人が転んだものならば、連鎖されたもう一人も体をぶつけた。内地では見られぬ大きな糠(ぬか)蚊(か)やブヨが彼らに群がり、執拗に刺す。痛みは激しく、彼らの皮膚は大きく脹(ふく)れあがった。
 開削のために切り倒した樹木の下敷きになる者も数知れない。時には樹木が倒れるまでの時間を惜しがった看守たちによって樹木の一方に綱でぶら下げられる囚人もあった。人の重みで早く木が落ちるため、作業が捗るのだ。もちろん運が悪いと囚人は死んだ。死体は全てその場に放置され、正式に埋葬されることはなく闇に消えた。
 それまで昼間だけ行われた作業も、いつの間にか昼夜兼行に変わっていた。囚人は二交代制になり、単純労働時間が増大した。
 十月も終わりになり降雪期がやってくると、いよいよ現場には消しきれぬ悲愴感が漂った。それには極寒ゆえの体の異常はもとより、食糧輸送班として雇われたアイヌたちとの連携が、雪と補給線の伸びによって難しくなったことにも一因がある。囚人たちに支給される米の主食七合は雑穀に代用され、囚人たちの楽しみの一つであった味噌汁の分配もとどこおりがちになった。栄養失調から全身が脹れ上がる水腫病にかかる者が大量発生し、そのほかの疾患を含めると起工から七か月で延べ千五百人が病気を患った。路線の周辺には病死者と、容赦ないサーベルの刃を浴びた逃亡者の背中が点在しており、その屍の道の先を亡霊のような囚徒が紡いでいくのだ。

 間違っている。
 再び奉野は思った。このまま工期に間に合ったとして我々に、そして囚人に何が残るのか、奉野には見当もつかなかった。
 さらに追い打ちをかけるように恐ろしい情報が入ってきている。別の工区で工事を続けている一隊がエゾオオカミの群れに襲撃され、甚大な被害を受けたというのだ。不可解なことに、このところエゾオオカミの被害が多発している。
 明治に入ってからエゾオオカミの個体数は減少の一途をたどり、今では絶滅寸前にまで追い込まれているはずだった。それがここにきて集団で人間を襲うなどということは通常は到底考えられる話ではない。しかし奉野はその謎について、拭っても拭いきれない一つの可能性を知っている。
「…………」
 考えに耽っていた奉野。目の前の囚人がモッコを地面に下ろし、大木の影で休んでいることに気づくのが遅れた。
「おい。休憩はまだだぞ。手を休めるな」
 慌てて奉野は囚人たちをサーベルの背の部分で叩き、激励の声を飛ばした。陸に上げられた魚のような眼をした彼らは、辛そうにモッコを担ぎ直す。そのとき、こぼれんばかりに入っていた大岩が一つ、雪の上に崩れ落ちた。囚徒の肩がびくりと揺れ、おびえた様子で奉野を伺う。
「チッ」
 舌打ちをした奉野は他の看守がいないことを確認すると、空いた片手で岩を持ち上げた。
「これだけ運んでやる。さっさと行け」
 囚人は短くお辞儀をすると急いで歩き出した。
 冷静に考えれば、このような残忍な任務の最中にオオカミの事などを考えられる自分の頭は狂っている。結局のところ、根本は他看守とも道庁の人間とも変わらぬ無慈悲な人間であり、正義を振りかざせるような立場ではない。
 そう、奉野には悪人の自覚があった。幾度となく血迷ったあの日のことを思い出す。結局奉野は罪に問われず、早川が捕縛されることもなかった。そのことについては沈黙を貫いたが、内省はした。それならば、今は自分のなすべきことを続けるのみである。
 岩石を所定の場所まで運んだ奉野は、駆け足で自分の持ち場へと戻った。この隙に囚人に逃亡されると自分の首が飛んでもおかしくはない。無論、作業の手伝いなど看守が取るべき行いではなかった。
 朝から晩まで相変わらずの猛吹雪である。空はどうなっているのかと、奉野はいつも疑問に思う。まるで日本中の水分全てがこの地に集まっているようだった。そこで奉野の向かいにいた痩せ切った別の男が、モッコを雪の中に落とした。傍らの看守が罵声を浴びせ、腹を蹴る。囚人は痛みに耐えながら奉野に縋るような目線を送った。
 奉野はそこから眼を逸らす。あの囚人は前に一度作業を助けたことがあった。
 二度以上同じ者を助けることは差別であり、甘えである。いたずらに助けを求め続けるようになり、自らの力を行使することを惜しむようになる。
 それは奉野の一貫した考えだが、同時に自分の持つ中途半端さの証明とも思う。言ってしまえば偽善だ。
 その時、吹雪の向こうから駄馬に荷物を載せた集団がやって来た。
 アイヌの食糧調達班だった。看守たちは一様に、久々の歓喜に沸いた。
 険しい雪道を乗り越えた先頭のアイヌの男が奉野の前で立ち止まる。男は美しい紋様の刻まれたアットゥシ(シナノキの樹皮の繊維を織って作られて、通気性がよく防水・防寒機能も高い)の上にさらにウルと呼ばれる毛皮を着て、木綿で作られたハㇵカを頭に被っていた。それでも、男たちには悪路に疲弊した様子が見てとれる。
 破れた獄衣一枚で労役を続ける囚人は言わずもがな、官服の上にわずか一枚の防寒着で業務に当たる看守の身を彼らは案じているようだった。
「テケペㇾケ(あかぎれ)」と奉野の手を指さして言う。
「大丈夫だ。気を付ける」
 奉野は笑って答えた。奉野が網走分監に送られたのは、アイヌ語を自在に操れたことによる。
「残念ながら馬の脚にも限界があり、多くは運びきれなかった」
「ありがとう。ここまで来られたことに感謝をする」
「それではさようなら」
 アイヌの男たちはシサム(和人)風のお辞儀をすると、早々と雪の中を帰っていった。別れの表現が普段使いのスイ ウヌカラン ロー。(また会いましょう)ではなく、アプンノ オカ ヤン。(どうかご無事で)であったことが奉野には辛い。網走分監に課せられた過酷な状況は、彼らにも十分伝わるようだ。
 休憩中の看守たちと囚人により、それから仮宿舎に食糧を運び入れる作業に入った。
 担当中の奉野は再び囚人監督に戻る。常にくまなく視界を見渡し、逃亡や労役の誤魔化しを行おうとする者を抑制しなければならない。

 一時間が過ぎようとした頃だろうか。食糧を運び入れる作業は終了し、辺りは徐々に闇が迫ってきていた。看守たちはそれぞれ提灯を持ち、辺りを照らしながら任務に当たっている時分だった。
 ことは唐突に起きた。二人の囚人が、叫び声をあげてこちらに向かってきていた。逃亡か、という思考も束の間、看守の声が響いた。
「オオカミの群れだ。逃げろ」
 現場は瞬く間に大混乱に陥った。看守たちは冷静な思考を失い、とにかく声と逆方向に走る。囚人の大多数は焦るあまり、鎖で結ばれた相手との連携が取れず雪に埋もれている。疑念に駆られて立ち止まる看守もいたが、あるものを見つけて凍った。
 樹林の隙間から無数に光る眼。ただならぬ気配に木々が蠢く。
 オオカミ。本物と分かると、勇敢な者も押しなべてサーベルを捨てて逃げる。自らの命を守るため、雪の中を一心不乱に駆け出した。
「そんな……」
 身軽な者が遥かに遠のく中、罪人が絶望混じりに発した言葉。
 道路開削第十三区担当班の囚人は、オオカミの群れに包囲されていた。
 息遣いはひしひしと、確実に迫ってきている。
 奉野に残された方法は囚人を見捨て逃げるか、囚人と残り戦闘に身を投じるかの二択だった。
 泳ぐようなオオカミの眼が浮かんでは消え、次に現れると前よりも格段に大きくなっている。
 夜目に加え、鼻も利く。状況は完全に人間側が不利だ。
 その中で奉野は強く柄を握る。臆病な人間。震えはあった。だが囚人看守に身を埋めた以上、いつかは地獄に落ちる覚悟はできている。それが少し早まるというだけの話だ。自分が学んだ撃剣の術は、囚人を殺すためのものではない。一つでも多くの命を尊重し、守るべき未来に繋げるためである。
 左から響いた突拍子のない奇声。目をやると、看守が残したサーベルを手にした囚人が、無策にも木々に向かって刃を振るっている。
「やめろ!」
 奉野が叫ぶと同時に一匹の獣が樹林から飛び出し、囚人のサーベルを前足で弾いた。彼は恐らく指の骨ごと持っていかれ、血飛沫がサーベルに絡むように空を舞う。獣は機敏に動き、動きの鈍った囚人の首に噛みついた。加勢する覚悟を持った、他の囚徒たちに合わせて数匹の獣が姿を現し、その動きを封じた。安易に近づけないようにしている。
 見事な集団行動。獣には高い知能があった。
 それから奉野は、獣たちがエゾオオカミの中でも体格が小ぶりであることに気づいた。嫌な予感がした。まさか。
 だが今は考えに浸る場合ではなかった。奉野はすぐさま駆け出し、大声を上げた。オオカミを少しでもこちらに引き寄せて時間を稼ぐのだ。
 指を噛みちぎった個体が奉野に気づき、囚人の首を離した。白濁した眼の男は雪の上に倒れ、動かない。
 赤い牙を携え、奉野に向かって走り寄ってきた。同時に左右の獣も動き出す。奉野、ただ一人を狙っていた。
 走る間に考える。まずは前方の一匹の勢いを利用して口の中に刃を刺しこみ、肉を抉り取って正面に抜ける。それから……それから……。
 それ以上自分が勝つような画は浮かばなかった。
 前方一匹が動きを読まれぬよう、不規則に足を踏んで急接近してくる。
 刹那の天運、自分の勘に頼るより無い。ひりつく五感の中で息を吐いたその時。

 奉野は神の業を見た。

 悲鳴は唐突だった。小動物のような情けない声が辺りに響く。オオカミたちが一斉に声のする方を振り返った。
 腹の捩(よじ)れた一匹の個体がとどめなく血を流し、よろめきながら雪の上を進んでいる。
 なぜ? 
 考える暇がない。続いての悲鳴が聞こえ、三匹の獣が森の中から飛び出した。一匹は前脚が二本とも潰(つい)え、一匹は腹から飛び出す小腸を雪の上に引きずって、最後の一匹は首から上が無かった。
 彼らを追うようにして現れる影は、人間。
 その左方から跳躍した一匹。仲間を殺され怒り狂い、この生物を殺ろうとしている。人の足ではとても逃げ切れない。オオカミは木々の間を巧みに潜り抜け、標的に照準を当てる。その剣幕に奉野は目を覆いそうになる。
 だが人影は、人ではない動きを取った。自らオオカミに接近し、その腹に潜り込んだ。体を沈み込ませて間合いを計り、重力に任せ、はらわたに剣を突く。
 貫通。串刺しになった獣が四肢をばたつかせ盛大に暴れる様子は、人影の前では哀れにすら感じた。獰猛な声は腹をかき乱されたことで、器官が破けたような雑音が混じり、痛々しい。
 人影は慣れたように獣に足をかけ、体から剣を引き抜く。
 獣は一つの物体と化して、雪の上を転げまわった。
「看守さん、裁神(さばきがみ)だ。殺される」
 足を引きずりながら奉野の元に寄ってきた囚人が、血の気の引いた顔で言った。
 ——— 裁神。
 名に聞き覚えはある。エゾオオカミの頻発に伴い、どこからともなく現れた常軌を逸した者。食物連鎖の最上位を、踊るように切り刻む主。名の由来は、ある時その凶行を目撃したアイヌがこう叫んだことによる。
「シユッパカムイ(荒れ狂う神)」
 基本的にアイヌは人間に対して「カムイ」という言葉を用いることはしない。この世の事象に精神的な働きを認め、擬人化したものがカムイであるからだ。しかし人間らしい怯えや理性が存在しない一挙一動は、目撃者の心胆をあまねく寒からしめるものがあった。
 気づくと、辺りのオオカミの数は大きく減っていた。内臓の飛び出した獣が五匹大地に転がり、のたうち回っている。
 その手負いの仲間を超え、獰猛な二匹が新たに人影に襲い掛かった。
 人影は一匹の顎の中に剣を横向きに刺し入れる。続いて牙をむくもう一匹の顎(あぎと)は、刺した獣を盾に防いだ。オオカミは一度噛みつくと顎の強靭さが災いして、すぐに引き離すことができない。仲間に噛みついたまま、後ろ足が毬のように雪に跳ねる。
 その隙に人影は剣を戻し、頭を斬りつけた。
 無謀な使い方をしたために刃は鈍り、頭を落とすには至らなかったが、肉の中には十分に食い込んだ。体の中の異物を振り払うように二頭は錯乱して暴れまわり、互いを爪でひっかきあった。
 人影は獣たちに最後の一太刀を与えず、ただ見つめていた。
 よく見ればオオカミたちのほとんどが致命傷を負いながらも、とどめをさされていない。
 それも、奉野が話に聞いていた裁神の特徴と一致していた。理由は定かでないが、裁神は高度の技術によって、意図的に獣たちの即死を防いでいるのだ。
 もはや道路に残るのは血塗りの獣ばかりで、他は恐れをなして山中へと姿を消していた。囚人は少しでも裁神から遠ざかろうと必死で、彼らの荒い息と死にゆくオオカミたちの断末魔が、聞くに堪えない不協和を放つ。
 地獄絵図だ。
 看守になってから長らく、奉野は闇を見てきた。そこに何か一つでも光を灯せたらいいと思っていた。
 だがどんなに闇の向こうを覗いても、そこには闇しか見えないのだ。

 奉野は裁神の方に足を向ける。
 阿鼻叫喚が煩い。神だか何かはどうでもいい。何の役にも立たない自分をもう殺してくれ。
 向こうも自分に近づいて来る奉野の姿に気づいたようだった。もはや死人と思えるほどの血を浴びた、細い顎が横に開く。
 それを見た奉野の心臓がドクンと跳ね上がった。
 壮絶な既視感。この表情。

「久しぶりだな、看守さん」

 裁神—————早川慶次郎は真っ赤な歯を見せて笑った。

  





 第二章 獣を愛する少女

 明治九年三月 宗谷地方 マシポポイ(増幌)

  1
「アシㇼレラ!」
 息を切らして叫んだ奉野は、しゃがみこんだ少女の元に駆け寄った。
 彼女は背中に縞模様の弓矢を掛け、山歩き用の獣皮衣を羽織っていた。後ろを振り返り、それが奉野であることを認めた少女は、ぷいと眼を逸らす。
「うるさい、ハイタクㇽ。どっか行け!」
 拙い日本語を使って奉野に言い返した。アシㇼレラとしては精一杯の怖い顔をしているのだろうが、すぐに頬が赤くなる性質のため少しも威嚇には向かない。目鼻立ちははっきりとしているがアイヌの中では薄い方ともいえ、幼い童顔も相まって柔和な印象が強かった。
 それでも彼女は口をへの字に曲げ、奉野への強がりを止めることはない。
 萩之進とハイタクㇽ(アイヌ語で馬鹿な人の意味)は最初の一文字しか合っていないのに、そのあだ名はどうなのかと奉野は思う。しかしそんな提言をアシㇼレラが聞き入れてくれるはずもなく、はいはいと頷くより無かった。
「また虐められたのか?」
「私が虐めたんだ」
 そう返す彼女は涙目である。
「レラが誰をどうやって虐めるって言うんだよ」
「うるさい」
 彼女が振りかざした腕が危うく顔に当たりかけた。そこで奉野は少しだけ意地悪な気持ちになる。
「間抜け」
 微笑をたずさえて言うと、アシㇼレラはぽかんと口を開けた。それから褒められたと解釈して得意げな笑みを浮かべる。
「すごいでしょ」
「パコㇱパㇱヌプだよ。間抜けって」
 奉野の言葉に、無垢な笑顔のまま表情を凍らせる。
「ハイタクㇽ!」
 奉野は突き飛ばされた。動きが案外鋭くて少々よろめく。足元の犬が心配そうに奉野を見つめていた。
「行こう。ラムアン」
 アシㇼレラが目配せすると、真っ白な犬は忠実に彼女について行った。
 レイエㇷ゚。通称アイヌ犬は、その名の通りアイヌ人の生活にとって欠かせない働きを担っていた。アイヌ犬は中型犬ではあるが、雪深い土地でもラッセルして獲物を追うことのできる発達した胸と、零下二十~三十度になる夜に雪の中でも寒さに耐えられるダブルコートの被毛を持つ。噛む力も強く、「剥製を作りたいなら、獲物が穴だらけになってしまうから使用に向かない」と言われるほどの牙など、環境に合わせて磨き抜かれた全身は単なる飼い犬とは一線を画している。なかでも樺太アイヌの酋長(サパネクル)の一つであるアシㇼレラの家では、優れた血統の立派な犬が飼われており、ラムアン(賢い)の名に恥じない良犬であった。
 だがアシㇼレラにはラムアンを溺愛するあまり、宗谷地方のアイヌの子供から、マツネシタ(雌犬)と蔑んだ目を向けられていた。               
 虐めは、虐められた側にも責任があるというが、ことアシㇼレラに関しては、どうやっても抗えない国の圧力が働いていた。
 一八七五(明治八)年五月七日。日本・ロシア両国は、ロシアの首都ペテルプルクにおいて樺太千島交換条約を締結する。それまで両国が雑居地と定めていた樺太はロシアが領有し、ウルップ以東シュムシュ島に至る一八島を日本領とする事を定め、永い間の紛争に終止符が打たれた。その結果これまで樺太に居住していた樺太アイヌの帰属が問題となったが、日本は樺太アイヌを北海道宗谷地方に任意移住させることでこれを解決した。その数一〇八戸、八四一人。これは樺太アイヌの数が千人余りであることを考えると相当な割合であり、これだけの数のアイヌ人が居住することについて、旧来の居住者である宗谷アイヌが不安を感じるのは当然であった。そもそも北海道アイヌと樺太アイヌでは言語が大きく異なり、同じ意味でも全く違う言葉さえ存在した。同族という意識も薄く、彼らは宗谷の同族人の血に樺太アイヌの血が混じることを嫌った。
 そのためいかに酋長の娘とはいえ、アシㇼレラが宗谷の子供たちと溶け込むことはできなかったのだ。彼女が奉野に対してわざわざ拙い日本語を使おうとするのにも、樺太方言を見せたくないという意志があるように感じられる。
「ハイタクㇽ!」
 遠くでアシㇼレラがふくれっ面を浮かべている。
「なにぼんやりしてるんだ! アハ(ヤブマメ)を採りに行くぞ」
 なんだ。結局俺も行くことになるのか、と思いつつ奉野は腰を上げる。
 季節はもうすぐ春。植物の採取が始まる時期だった。アハは日当たりのいい野原に白と紫の花を咲かせる植物で、小さなサヤインゲンのような豆をつける。けれどアシㇼレラたちの目的はそちらではなく、土の中の根っこについた豆であった。これをきれいに洗って皮をむき、ご飯に炊きこんで食べると腹持ちがいい。アイヌの生活は、なにも狩猟だけで成り立っているわけではないのだ。
「ちょっと待てよ。勝手に行くなって」
 奉野は慌てて後を追う。気丈に見えてもアシㇼレラはまだ八歳だ。三つ上、十一歳の自分が見守ってやらなくてはという思いがあった。
 二人は山野を駆け、根っこを掘り起こし、アハを籠に詰め込んだ。
「これだけ採れたらいいんじゃない?」
 奉野はアシㇼレラに呼びかけたが、隣に彼女はいない。
 見渡すと、ラムアンと共に茂みの中に身を埋めていた。
「おい、俺だけにやらせて何遊んでるんだ」
 呼びかける奉野をアシㇼレラは手で制す。
「ユㇰ(エゾシカ)だ」
 奉野が素早く近づくと、一匹の小さなシカが三〇間(九十メートル)ほど離れた木々の中に見えた。エゾシカはアイヌたちにとって依存度の最も高い食料資源である。アシㇼレラはエゾシカと奉野の交互に目をやり、せっかく見つけたんだから、と訴えてくる。
 仕方がない。こうなると奉野が鹿(イパ)笛(ッケニ)を吹く担当だ。
 籠から鹿笛を取り出し、茂みの中に身を潜めて鹿の鳴き声とそっくりの音を出す。鹿の反応に合わせて、こまめに音色を変えるのだ。警戒心を抱かせず、近づいてもらえるように工夫するのはある程度の慣れが必要な技である。シカがこちらを窺っている間に、アシㇼレラは背中にかけた弓を取り出していた。弓に手をかけ、限界まで引き絞り、歯を食いしばって獲物を捉える。相当な力を加えているはずが矢先の揺れはわずかで、アシㇼレラの尋常ではない狩りの集中力を思わせる。アイヌの弓は日本式のものと比較すると小さくて鏃が軽いという特徴があるが、それでも齢一桁の女子が簡単に射ることができるものではない。
 三間(九メートル)まで近寄ってきたとき、アシㇼレラはついに矢を放った。空を切る音のみが響き、矢道は眼に追えない。
 続いて悲鳴は聞こえ、胸を貫かれたエゾシカが悲鳴を上げた。
「やった!」
 アシㇼレラが跳ねる。矢にはトリカブトの根を砕き、水分を加え泥状にした毒が塗り込まれている。これはアシㇼレラのコタン(村)特製で、イケマの根とアカエイの毒針をすりつぶしたものを混ぜて毒性を強めるという工夫がなされていた。大型の動物でも、この矢毒が浸透すれば瞬時に仕留めることができるのだ。弓の小ささ故、すぐに殺傷するには至らないが、エゾシカはその後ふらふらと駆け出し、数分後には無事に倒れ込んだ。
 アシㇼレラは腰からマキリ(小刀)を取り出し、素早く矢の周りの肉を取り去る。これはトリカブトの毒が体内に回るのを防ぐためだ。ちなみにマキリはシサムとの交易で得た鉄で作られているため切れ味が鋭く、いかなる場面でも用いられる生活必需品である。
 毒の部分が取り除かれると、アシㇼレラはエゾジカの前に立ち、神妙な顔で深く一礼した。本来、森のどこにでもいるエゾシカにはカムイが宿っていないとされている。そのため敬う必要はないが、アシㇼレラはそうした区別を嫌った。
「刺身にしようか。それとも鍋にいれようか」
「今日は保存しないと」
 笑顔に戻ったアシㇼレラを奉野は諭す。言われると腹が減ってくるが、貯蓄が適当なのは明らかだった。エゾシカは食用に最適な他、弓を作るにも木の他にシカの背中の腱が利用され、矢の方はほぼシカの骨が用いられていた。
 奉野はエゾシカを背負うと、共にアシㇼレラのコタンに向かう。本当は奉野が住んでいるのは宗谷アイヌの別のコタンであるが、今日は特別である。大きな用事があった。
 なぜならば、キムンカムイ(熊)・イオマンテ(送り)が行われる日だからだ。

 コタンはチセと呼ばれる樹皮葺きの家が立ち並んで形成されている。今日は数人の大人たちが、イオマンテに向け、祭壇に飾り付けを急いでいた。
 その中で普段使いの紋様のないアットゥㇱを着たアシㇼレラの義父、コラㇺヌカㇻがエゾシカを運ぶ二人に気づく。
「お前たち、また危ないことをやりよって」
「平気だ、ハギノがいるから」
 アシㇼレラが飄々と言う。都合のいい時だけ俺を利用するなと奉野は思うが、口には出さないでおく。ちなみにアシㇼレラは樺太時代に両親を殺され、後継ぎのいないコラㇺヌカㇻの養子になったという経歴がある。
「ハギノのお父様は元気でいらっしゃるか?」
 コラㇺヌカㇻが訊ねる。その言葉はシサムと遜色ない響きの日本語である。コタンの酋長(コタンコルクル)たる彼が、シサムに見くびられぬよう独学で習得したものだ。
「はい、おかげさまで」
 漁業家の息子として奉野は言う。樺太では古くからシサムの漁業家との交易がおこなわれていて、川海で漁し山野に野草を求めるアイヌは、白米や鉄といった生活必需品を全て交易や漁業の手伝いから得ていた。なかでもアイヌに理解のある漁業家、奉野久蔵と、交易相手のコタンの酋長たるコラㇺヌカㇻの信頼は厚かった。久蔵は漁業を始めてから宗谷地方に住むアイヌ女性と恋に落ち、それから今に至るまで宗谷を根城にしつつ各地への交易で生計を立てている。萩之進はアイヌとシサムの間に生まれた特殊な子供であった。
「今夜のキムンカムイ・イオマンテには参加されるのか?」
「いえ、残念ながら漁業の方が忙しいようで」
「そうか、それは残念だ」
 コラㇺヌカㇻが本当に残念そうに言った。それから思い出したように、奉野の肩からエゾシカを担ぎ上げた。
「無駄口を叩いている場合ではなかったな。急がなくては腐ってしまう」
 生肉を保存するためには、まず解体してから細く裂き、戸外の物干しの棚に吊るして天日乾燥させる。その後家の中に入れて炉棚の上で再度乾燥させ、煙干しにしてくん製にする。出来上がったら白樺の皮にくるんで、プ(高床式の食糧保存庫)に入れておく。そこまでが一連の作業だ。
 さっそくコラㇺヌカㇻは他の大人たちを呼んでシカの解体作業を始める。二人の周りに大人がいなくなったので、奉野はこの機にずっと聞きにくかったことをアシㇼレラに尋ねた。
「キムンカムイは元気か?」
「うん、とても元気だ。この前もエシノッペ(小熊のために作られた遊び道具)を振り回して壊してしまった」
 話しながらアシㇼレラの目線が徐々に下がり、語尾は掠れるような声に変わる。気持ちは奉野にも痛いほどわかった。六月に偶然はぐれていた子熊が生け捕りにされ酋長の元で育てられ始めてから、九か月が経とうとしている。情が入らないという方がおかしいというものだ。半年前にはしつこいくらいにしていた小熊の話も、このところめっきりしなくなっている。アシㇼレラがどれだけ心を痛めているかは想像に余りあった。
 それでもアシㇼレラは、そんな心のわだかまりをコラㇺヌカㇻに見せることは一度もしなかった。

 イオマンテで最も代表的な、食料の神であるキムンカムイ(ヒグマ)は、十一月末から十二月に掛けての初めの吹雪の日に冬眠する自分の穴にはいり、一月中旬から二月中旬の間にその穴の中で仔を生む。その頃きまってキムンカムイポフライェプ(熊神の仔洗い雨)という雨が降り、雨で溶けた雪が寒さで凍ると、雪の上を自由自在に走りまわることができるようになる。そうした雪の状態をウカ(堅雪)といい、アイヌはその堅雪の上を犬と一緒に渡り、犬は熊穴を見つけて主人に教える。見つけた穴の中にいる親熊は獲って、一緒にいた子熊は生け捕りにした。子熊はコタンに連れて帰って大事に飼育し、一、二年ほどした後の三月ごろに、その魂を先に送った親グマの住む神の国に送り返す。すなわちイオマンテとは、「カムイモシㇼ(神の国)からやってきて、動物に化身し人間界を訪れた神を、人間の手でその魂を親もとである神の国に、またの再訪を願って送り届ける神聖きわまる儀式」である。とはいえアイヌ以外のシサムから見れば「生き物を集団で殺す野蛮な風習」ということになり、日本政府からは冷ややかな目で見られていた。
 
 キムンカムイの話を持ち出した奉野が悪かった。気づけばアシㇼレラは眼に涙を浮かべている。情が移る、として小熊に名前を付けなかった彼女だが、その努力も虚しかった。
「キムンカムイはカムイモシㇼに帰るんだ。決して死ぬわけじゃない」
 アシㇼレラは小さくうなずく。奉野はその様子に危ない、と感じる。
 今日の一貫した明るい調子はずいぶん無理をしていたようだ。想像以上に彼女は傷ついている。何か言わなければと考えるほど言葉が空回りして宙に消える。
「おい、ボーっと突っ立って何してんだよ」
 そこに馴れ馴れしく奉野の頭をこついてきたのは、同い年のエトウルシだった。奉野は胸をなでおろす。彼はコラㇺヌカㇻの甥、アシㇼレラの従兄で、樺太時代から奉野と交流があった。体が弱いという欠点はあれど、高い鼻梁と眠たげな眼のアンバランスはアイヌには珍しい容貌であり、奉野は密かにシサムの女に好まれそうな顔立ちだと思っていた。
「はー? 俺たちはエゾシカを狩ってきたんだぞ」
「どうせ射たのはアシㇼレラだろ」
 鼻を鳴らすエトウルシを見て、満足げにアシㇼレラが返事をする。
「うん。大鹿を捕らえたよ!」
「小鹿だ」と付け足す奉野の言葉には嫌でも小物感が漂う。
「嫉妬するなよ、奉野君」
 わざとらしくエトウルシは言う。彼は一見お調子者だが根はとことん真面目で、言葉に垣間見える硬さから察するに、奉野とアシㇼレラの険悪な雰囲気を悟って駆けつけたのだろう。
「ハギノもイオマンテには参加するよな?」
「コラㇺヌカㇻさんに言われたら断れないよ。最後まで参加するつもりだ」
「そうか、ハギノが三日間もいてくれるのか。じゃあアシㇼレラも絶対に来いよ」
 エトウルシは明るい口調に似合わない、懇願するような眼を彼女に向けた。察しの良いエトウルシはアシㇼレラの動揺に気づいているようだ。いや、気づかない方がおかしいというものか。エトウルシの家は長老の一家で、コラㇺヌカㇻとの繋がりも深い。
 うん、と素直に言わないアシㇼレラに、エトウルシは目線を合わせて付け加える。
「宗谷のアイヌに虐められたらいつでも僕かハギノに言えよ。すぐにとっちめてやるから」
 エトウルシの分析によると、アシㇼレラの異常なまでの動物に対する愛着は、人間への不信感に起因するという。たしかにアシㇼレラは、どんな柔和な人が相手でも、一定の間合いを取ろうとする傾向があった。
「あんなの相手じゃない! 私はエトウルシより強い」
 言葉面はいたって強気であるが、奉野は彼女がエトウルシの言葉に実は安心を覚えているのが分かる。目敏く心を見る力はコラㇺヌカㇻにも勝るもので、腕力には優れぬエトウルシが未来の酋長候補と言われるゆえんでもあった。
「はは、レラは強いな。さしずめレラだけに、虐めっ子はレラ(日本語で風の意)のごとき存在ってことだ!」
「……」
 びゅお、っと寒風が吹き抜ける。そう、エトウルシは絶望的に笑いの才能がない。風のごとき存在とはむしろ褒めているようで、まずは駄洒落にすらなっていない。
「ハギノ、そんなことよりヤブマメを洗いに行こう」
 アシㇼレラが奉野の袖を引っ張る。
「そうだな」
 置物のように固まるエトウルシの前から、二人は颯爽と立ち去るのだった。

  2
 宵の雰囲気は異様であった。普段の静かなアイヌの夜とは一線を画する。イナウ(ヤナギやミズキで薄い房を作った祭具)で着飾った大人たちが火の神(カペカムイ)に酒を捧げ祈り、コタンのみなが歌や踊りに興じている。夜の冷気が熱気に包みこまれ、それは目に見える形となって白い靄を生じさせた。囃し立てる歓声。祝いの唄。その音に導かれるように、檻(ヘペレセッ)に入っていた子熊が出され、運びこまれる。
 暴れる小熊にはイラグサで作られた丈夫な縄が巻き付けられ、動きが制御されている。広場はキムンカムイを中心に人々が集まり、皆が声を上げて出迎えた。そこに花矢(へぺㇻイ)が用意され、人々がこぞって投げ合う。花矢とはイオマンテのために作られる綺麗な彫刻をした木製の矢であり、熊を直接傷つけるような鋭利なものではない。カムイモリㇱに向けての人間界からの贈り物であり、これを熊に当てた一家は幸せになるとされていた。
 ある若者が投げた花矢が、熊の眼に入った。小熊はびくりと体を揺らし、前脚で振り払う。その動きに反応し、アシㇼレラの身体に力が入ったのが分かった。奉野はすかさず手で制する。彼女が今にも飛びだしかねない形相であったからだ。
「嫌がっている」
「違う、カムイモシㇼに送られるんだ」
 奉野の諫めに、歯を食いしばった顔を覗かせて言う。
「そんなものはない」
 恐ろしい発言だ、と奉野は思う。アイヌで生まれ、アイヌの人々と育ってきているのに、この子は時々人間の全てを否定するようなことを言う。
 花矢が投げられるのにひと段落がつくと、コラㇺヌカㇻが前に出た。ついに、子熊をカムイモㇱに送る仕留矢(イソノレアイ)が放たれるのだ。竹製の矢じりを持つこの一矢で、熊を仕留めることになる。
 歓声の中、コラㇺヌカㇻが弓を引き絞り、標的に注視する。
 皆の気勢は最高潮に達していたが、奉野は心配で息もつけなった。イオマンテに使われる仕留矢には毒が塗られていない。万一急所を狙い損ねるようなことがあれば、いたずらにキムンカムイを苦しめることになる。そうなればアシㇼレラがどんな行動にでるか分かったものではない。
 しかしそこはコラㇺヌカㇻであった。真っすぐに放たれた矢は正確にキムンカムイの眉間を射抜く。身を縒る絶叫はすぐに弱弱しい声に代わり、肉体は残雪の中に倒れこんだ。
 アシㇼレラは小刻みに呼吸をしつつキムンカムイを凝視する。奉野は彼女の手を取り、押さえた。落ち着け、とその耳元で囁く。
 まだかすかに息のあるキムンカムイに大人たちが集まり、とどめは首を絞めるための木の道具であるシリㇰライナゥにより、熊の呼吸を止めた。
 肉塊と化した熊は祭壇(ヌササン)の上へと運ばれ、そこに長老(エカシ)が駆け寄って毛や手足に触れる。これにより、キムンカムイの確かな死が認められ、カムイモシㇼに送られたと判断されるのだった。
 コラㇺヌカㇻらはマキリを用いて熊の毛皮を剥ぎ、内臓を晒した。熊の毛皮は防寒具の他、シサムとの交易の商品としても貴重なものであるため、大切に保存される。鮮血は、その場で椀を持った病人に受け渡された。熊の内臓の血は体の不具合を治療すると信じられているからだ。奉野も少しだけ受け取り生ぬるい血を呑んだが、かすかに塩味があるだけで、取り立てて美味しい訳ではなかった。
 解体は全身の中でも性器と頭だけは切り落とし、その他の部位は赤身のみを綺麗に残すように行われる。そして一度、カㇺシケニと呼ばれる肉を掛けるための長い棒に、生前の部位と同じ配列で生肉を吊るしておく。外での儀礼はここまでで、それからの舞台は酋長であるコラㇺヌカㇻが所有する、普通の家屋の二倍から三倍大きく公会堂のような役割を担う建物であるポロチセに移った。
 魂が宿っているとされる毛皮を付けた頭(オルシクルマラプト)を飾り、チセの中で焚いた火の神(カペカムイ)の前で、夜を徹しての唄や踊りの宴に興じた。熱気が横溢する、イオマンテ一日目の夜である。

 活気溢れる宴の中、一人隅で縮こまっているアシㇼレラがいた。周囲が興に夢中になる最中、奉野は手を取り彼女を外に出るよう促した。アシㇼレラは抵抗せず、それに素直に応じた。
 チセを出て、宴の行われていない方へ手を引いてゆく。三月も終わりとはいえ、人いきれのない外気は冷たさに満ちていた。それでも宗谷の空は、これ以上ないほど星が瞬いていて、心が暖かくなる。それは混とんとした頭に、少しだけ落ち着きを与えてくれた。
「大丈夫か?」
 目を合わせないアシㇼレラに語りかける。
 明日はカㇺシケニに掛けられた肉を食い、頭の皮を剥がして脳髄を切り刻んだ料理、ノイペチタタプも作られるのだ。アシㇼレラには今日のうちに気持ちを整理してもらわないといけなかった。
「私が今、何を考えているか判るか?」
 アシㇼレラは昼間とは打って変わり、樺太アイヌの言葉だった。
「キムンカムイの死を悲しんでいる」
「違う」
 彼女は奉野の答えを予測していたようで、言いきらぬうちに否定した。
「人は一度自分の行いを肯定すれば、何でもすることができるのだと感じた」
「何を言っているんだ?」
「動物を食べるのは仕方のないことだ。でも人間はそれを悪いことだと感じずに、都合のよい解釈を勝手に作り上げる」
 彼女の語彙力は日本語とは天地の差がある。奉野は時折、彼女が何を考えているのか分からなくなることがあった。
「イオマンテが嫌なのか」
「嫌とかじゃない。正当化された儀式に腹が立つんだ」
「アシㇼレラ。アイヌの文化は、シサムの血が入った俺でも美しいと思う。イオマンテは生を尊ぶ儀式だ。レラにとって悲しいものであることは散々に分かるが、いたずらに儀礼を馬鹿にしてはいけない」
 その言葉に、アシㇼレラは鋭く奉野を睨む。
「ハギノ、なぜイオマンテが行われるか知っているか?」
「カムイに礼を伝えるためだろう」
「違う。生まれて間もない子熊は、そのまま殺せば皮は大型の鼠の皮ぐらい、肉も人間一人の腹も満たせないわずかなものだ。それでは損だからアイヌは一年間養い、神の国へ送り帰すと称してイオマンテを行い、大きくなった皮と肉をいただくのだ」
「そうなのか……」
 初耳だった。アシㇼレラはどこでそんな知識を仕入れているのだろうか。
「ロシア人がそう言っていたそうだ。私はそれを、コタンの大人から聞いた」
「ロシアの連中のことは考えるな」
 奉野はすぐに彼女の言葉を制す。馬鹿だ、樺太のことを考えればまた思い出す。
 すでに、アシㇼレラの表情はひどく暗かった。幼さの残る顔には見合わぬ焦燥感が漂い、焦点がぼやけた眼光を不規律に飛ばす。
「あいつらも、あれが悪いことだなんて、これっぽっちも感じていないんだ」
「そんなことは……」、と言いかけて奉野は黙る。そんなことはあるのだ。
 明治期の樺太は日本に圧を与えるため、明治六年時点で千百十人のロシア人が在住しており、それはアイヌやイヌイットといった先住民の数と匹敵した。民族を一括りにすることは好ましくないとはいえ、囚人とその家族が多い樺太ロシアは先住民を人間とみなしていない傾向が強く、彼らによる暴行・強奪・強姦の被害は極めて多かった。先住民からすれば恐怖の対象以外の何物でもない。
「ロシアの囚人に囲まれて父親は殺された。金目の物は全て剥ぎ取られ、死体はその辺に転がされた。母親はしばらく生かされて裸にされていた。私は母が集団の男達に囲まれているのを見た。彼らは……」
 奉野はアシㇼレラの頭を胸に抱える。咄嗟だった。
「やめろ。それ以上話すな」
「嫌だ。虫を見るような眼を私は忘れない。罪悪なんかこれっぽっちも抱いていなかった」
 アシㇼレラは奉野の腕の中でじたばたと手を振る。その光景だけ切り取れば、駄々っ子じみた自然な子供の所作に見えた。
 当たり前である、彼女は子供であった。彼女をそうでいさせない世界が、奉野には許せなかった。
 アシㇼレラが静かになり、奉野が腕を外した時だ。
「……ホロケウカムイ(狩りの神)なら、人間を絶滅させられるかな」
 ふとアシㇼレラは惚けた顔で溢す。
「何を言っているんだ?」
 急なことに、言い知れぬ恐怖が奉野を包む。脈絡が無かった。ホロケウカムイことエゾオオカミが、なぜ話に出てくるのか分からない。
「ラムアンは勝てなかったんだ」
 彼女の両親がロシア囚人に暴行を受けたとき、ラムアンは勇敢にも彼らに襲い掛かったが、蹴り飛ばされて逆に重傷を負ったらしい。
「私には力が足りない。力が欲しい。力があるべきだ」
 怨念が一点に集約するような眼差しだった。
「決まった価値観を動かすことは容易ではない。自分がもっと不幸になる」
 奉野はアシㇼレラに向かい、一音一音かみ砕くように話す。
「それは死んだ両親のことも?」
「いや」
 体中から攻撃的な気迫を放つアシㇼレラに対抗するように、奉野は力強い声を上げた。
「レラが言うように、確かに善も悪もこの世には存在しないかもしれない。けれど、俺の中にはどうしても許せないことが存在する。だから間違っているものを裁き、正しいものを助ける自分でいたい。俺は、俺の独善に従う。そして必ずお前を守る」
 はるか遠くの火と月の光が、かすかにアシㇼレラの頬を赤く染める。
「そうなの、でもハギノは間違ってるからね」
「正しさのない世界なのにか?」
 奉野は矛盾を感じて問い返したがアシㇼレラは俯いた。彼女の言葉が照れ隠しによる反射的な言葉とは、幼い奉野には気づけない。
「もういい。私の友達の熊は死んだ。これ以上悲しんでも仕方がない」
「よく言った。その意気だ」
 頭を撫でたが、アシㇼレラはじっとしている。いつもなら嫌がって突き飛ばされるのに不思議だった。
「……おなかすいた」
 その場から動かずにアシㇼレラは言った。
「だってレラ、何も食べないから」
「さっきはお腹がすいていなかった。でも今はすいた」
「人は食べないと死ぬからな」
「私が生きると他の命が失われる。分かっているのになんでか、私は生きたい」
 涙を零すアシㇼレラ。生きる、とは都合の悪い物事を考えないことでもあるのかもしれない。イオマンテの夜、十二歳の奉野は漠然とそう感じていた。
 そしてこの日眠りにつくまで、彼女との出会いを思い出していた。

  3
 初めてアシㇼレラと出会ったのは明治六年の夏、奉野がまだ八歳の頃だった。漁業の手伝いで父に連れられて、まだ日本領であった樺太の一大漁場、久春古丹に足を踏み入れていた。
「よおコラㇺヌカㇻさん」
 父は船着き場に姿を見せていた酋長に声をかける。この漁場は豊漁で知られているため出稼ぎのシサムも多く、付近は賑やかだった。
「久蔵さん、元気そうでなによりです」
 コラㇺヌカㇻが凛々しい笑みを浮かべた。白い歯が眩しい彼の後ろには、怯えた様子の子供がいる。
「コラㇺヌカㇻさん、そちらの子は?」
 久蔵が子供に目を向けると、彼女はコラㇺヌカㇻの草皮で編まれた服の袖を掴み、目を細めて睨み返した。
「そうそうこの子は」、とコラㇺヌカㇻが彼女の頭を撫でる。
「つい先月、両親がロシアの者に殺されて、うちの養子になった子供です。ぜひ一度久蔵さんとハギノ君にも紹介したくて」
「ほう、まだ小さい子のようだが幾つですか?」
「六だ」
 久蔵はコラㇺヌカㇻに尋ねたが、彼女は日本語で返事をした。
「あれ、お嬢ちゃん日本語が話せるの」
「この子の父親が昔から教育熱心で、うちの子に日本語を教えてくださいってよく言われたものです。だから俺のところで育てようってな、アシㇼレラ」
 明るく背中を叩いて前に出す。アシㇼレラはそれに抗えず、渋々奉野父子にお辞儀をした。
「はじめまして、アシㇼレラだ」
「です、だ」
「……です」
「よろしく、アシㇼレラ」、と奉野は微笑みかけた。対してアシㇼレラは相好を崩さず、一定の距離を築いている。
「何なんだ、お前は」、とアシㇼレラは言った。
「えっと……何だろう」
 奉野が返答に困っているうちに、コラㇺヌカㇻと父は勝手に世間話を始めてしまった。
「うーん、分かんないな」
「……」
「俺は北海道に住んでいる」
「私は日本人が好きなわけではない」
「ん、俺だってそうだよ」
「……」
 だめだ、全然話が弾まない。幼いながら奉野は気まずさを覚える。
「君の三つ上だよ」
「ちっとも怖くない」
「あと日本人じゃなくて母さんはアイヌ」
「ちっとも驚かない」
 奉野はしびれを切らして、いきなりアシㇼレラの距離に入った。
「な、なんだ!」
 奉野はアシㇼレラの胸に触れていた。
「ドクドクいってる。びびってるね」
 からかう奉野に、能面だったアシㇼレラが真っ赤になる。
「ふざけるな! 私は誰に対しても冷静であり、強い……えっと勇敢! それから正義!」
 思った以上の反応に奉野はたじろいだ。先ほどまで無口だった子だ。からかい過ぎて怒らせてしまったのだと思った。
「アシㇼレラ!」
 そこにコラㇺヌカㇻが口を挟む。
「お前は何をしにここに来たんだ。はよう言わんかい」
 そして再び父の方に向き直る。
「すみませんなあ、漁場には子供が少ないでしょう。ハギノ君がいつも大人たちに交じって仕事をしているものだから、レラは『あの男は誰だ、誰だ』と気になってしょうがないようで。そんなに知りたいのなら自分で聞け、と連れ出して来たのですが」
 アシㇼレラは何も言い返さなかったが、表情は完全に、余計なことを言うなと語っていた。それから気まずそうに奉野に目をやる。
「友達になろう」
 今度は奉野が、胸の高鳴りを覚える番だった。
「……うん」
 昔から兄弟がいる者が羨ましくてならないというのもあった。それにただでさえ大人たちに呑まれるような仕事だ。自分が知らないところで、自分が認められているというのは存外に嬉しい。
「よろしく」かすかに笑う。
 それから樺太を訪れるたびに会うようになった。コラㇺヌカㇻは三度目には甥っ子のエトウルシをも連れてきた。奉野と樺太アイヌの同年代たちの絆はこうして深まった。

  4
「なんだと……」
 そう言ったきり言葉を失ったコラㇺヌカㇻは、驚くほど蒼白な顔をしていたらしい。イオマンテの日から一か月ほどが経ち、ようやく春らしい春の兆しが芽吹いていたころのことだ。
 ポロチセには、宗谷郡の権中主典と、道庁からの開拓使とコラㇺヌカㇻらアイヌの長老、それから奉野の父久蔵を含む漁業家までもが一堂に介していた。
「対雁に往けというのか、我々に」
 もともと気性の激しいコラㇺヌカㇻのことだ。言葉の節々から、溢れ出る怒りが感じられた。
「そうだ、早急に用意を整えよ」
 対照的に、抑揚のない冷たい言葉を放ったのは開拓使であった。
「アイヌを騙したのか」
 コラㇺヌカㇻは今にも襲い掛かろうとするばかりの獰猛な眼光を開拓使に向け、それから権中主典、漁業家へと向いた。誰もが押しなべてこうべを垂れる。もちろん久蔵らは、何一つコラㇺヌカㇻを救う手立てを持っていなかった。
 ―――というのが父の語る現場の様子である。
 海でオットセイ狩りをしている最中、船の上で回転式離頭銛(キテ)の手入れをしながら父は語ってくれた。ちなみに父の本業は網を使ってのニシンやサケ漁であり、同じ漁業でもオットセイ狩りは父の気まぐれに過ぎなかった。木製の小さな舟に乗るのは、奉野父子と、ポロチセでなされた余りに唐突な決定に唖然とするエトウルシ少年である。
 ともかく、と父は言う。
「萩之進。樺太アイヌの人々とはしばらくお別れになるかもしれない」
「……厚田でさえ、無いのですか?」
 石狩国厚田村は石狩湾に面した漁村だが、樺太・宗谷とは遥かに離れた場所に位置する。しかし石狩国対雁はそれよりさらに内陸の地であり、漁業もできぬ立地であった。
 まず移住が前提となっているのも妙な話で、本来アイヌは居住地に執着する傾向がある。なぜなら墳墓に対する尊崇の念が篤(あつ)く、その祭祀を怠けたりこれを他に移したりすることは禁忌であったからだ。
 そのため樺太アイヌたちが日本への帰属に際して、最もこだわったのはその移住先だ。北海道の最北端であり、朝夕に樺太を拝むことのできる宗谷地方を、彼らは強く希望した。
 希望というと聞こえがいいが、他に手が無かったという実情もある。シサムが引き上げればアイヌはロシアの懲役人、流刑人と相接することになり、悪漢どもの暴行略奪を覚悟しなければならない。また樺太におけるシサムの漁業は小規模ながら古くから行われており、米が主食の一つとして文化的に定着していた。食生活の観点から見ても、シサムとの交流が途絶えるのは手痛いことであったのだ。アイヌは、墳墓を拝める宗谷地方へ、という意志は固くも、移住にはやむなく同意した。日本政府もこの要求に折れ、彼らを宗谷地方へ移住させたのである。ところが宗谷に移住してまもなく雲行きが怪しくなった。日本政府は対雁への移住を全く以て諦めておらず、宗谷への移住は一時的な処置だったのだ。幾度となく対雁の移住を求め、最終的にアイヌ側が一歩譲って、厚田の漁場で漁業ができるならば、と移住を承認した。日本側のやり方は狡猾で、樺太から宗谷、宗谷から厚田、厚田から対雁へと、妥協する風を装いながら着々と当初の計画を進めていたのである。

「馬鹿、ぼやっとするな。オットセイが来てるぞ!」
 そういうや否、久蔵は船の上に立つとキテを即座に柄に結び付け、波の下に灰色の巨体を蠢かす海獣に射込んだ。奉野も慌てて覗く。船の底に潜む動物は、本物のオットセイだった。
 射込まれたキテに対して、オットセイは海水を飛ばして暴れるが、逆効果である。キテは獲物が逃げる力でちょうど九十度回転し、引っかかって抜けなくなるようにできていた。久蔵は取り外しの容易な柄の部分をキテから引き抜くと、紐を掴む。キテには初めから丈夫な紐が縫い付けられており、この一本を握りしめ獲物が疲れ果てるまで船上で耐久するのだ。その間奉野とエトウルシは久蔵の足を掴み、同時にバランスをとって船の安定を図る。ただ船が小さすぎた。揺れる、揺れる、揺れ動く。
 ようやく海獣の動きが鈍くなったころには、体感的に相当な時間が経過していた。それでも、オットセイにしては、サイズは大きい方でなかったようだ。
「親父。三人でオットセイ猟はさすがに無理があるよ」
 奉野もエトウルシも、オットセイ猟なんかほとんどやったことがない。今日は父にポロチセでの話が聞きたいと言っただけなのに、なぜか小舟に同行させられたのだった。
「馬鹿を言うな。俺が内浦湾で海獣狩りをしていた時は三人組で、でっかいオットセイを捕まえていたぞ」
「知識と経験と波の量が違いますから!」
 エトウルシが今にも死にそうな声で言う。顔は真っ白で、見ていて釣られそうになるほどの船酔いであった。普段は頭が切れる友人である分、奉野は翻弄されるエトウルシを見るのは面白くて好きだ。
「そういえばエトウルシは昔から漁業をやりたがらなかったよな」
「川なら得意なんだけど、海は本当に勘弁したいよ」
 エトウルシは力なく首を振る。
「おいおい、未来の酋長が何を言っておる」
 父が大声で笑った。
「ええ、その通りです……」
 エトウルシは打って変わって深刻な顔を浮かべた。
「もしも実際に対雁に移住するようなときが来れば、私が皆を守らなければなりません」
 父もその言葉に大きくうなずく。
「奴らが移住にこれほどまでに拘るのは、アイヌという文化を消滅させるためだ。皇民として国の下に置き農耕文化を根づかせ、北海道の開拓に無理やりでも関与させようと目論んでいる」
 父は歯を食いしばるようにして、手に持った紐を殊更に強く引っ張る。ふざけてはいるが、そう遠くはない最悪の事態を父なりに憂いていることは、若い二人にもよく伝わった。
「頼んだぞ、お前ら」
 体の引き締まる心地がするとは、このことであった。

 この月は悪い知らせばかりでなく、翌日には一つめでたい出来事があった。コタン内の若い男女の結婚が成立したのだ。
 アイヌの求愛の仕方は一風変わっている。男は好きな女ができたならば、その娘を山や川で待ち受けた。そしていかにも偶然出会ったような顔をして、マキリ(小刀)をそっと手渡すことをする。もちろんこれはただのマキリではなく、特別上等の鯨の骨や鹿の角で作った鞘(さや)(木を削って作る刀の入れ物)に包まれた、通称メノコ・マキリというものだ。アイヌの生活では純粋な腕っぷしよりも、生活力の基盤となる器用さが大事と言われており、より美しい紋様の入った鞘を掘られる者が、いい男とされていた。
 この手渡されたマキリを娘が腰に下げると、求愛が受け入れられたことになる。また返礼として、刺繍をほどこした手甲、あるいは足絆を男に贈る決まりがある。
 こうしたやり取りを無事に経て、また新たなる二人が結ばれたのだった。
 結婚式はイオマンテほどではないが親族が集まって盛大に行われる。その様子をそっと見つめつつ雪の下から露わになった草原に座り、奉野はアシㇼレラと話をしていた。
「あの二人のことはよく知らなかったけど、幸せそうでいいよなあ」
 どちらかと言えば奉野は、結婚など人の幸せを見るのは好きな方であった。
「ハイタクㇽは結婚式のたびにそう言っている」
「本心なんだから別にいいだろ。ああいうやり取りは憧れだよ」
 奉野も自分のマキリの鞘は自分で作る練習をしているが、まだうまい具合にはいかない。
「あんなの難しくて大変だ」
 アシㇼレラは面をしかめて否定する。
 その態度を見ていると、彼女は結婚の願望などないのかもしれないとも感じた。
「なあ、聞いたか。対雁移住の話」
 素っ気ない対応をされたので、奉野は話題を深刻なものに変えた。
「うん。昨日からコラㇺヌカㇻは、その話ばかりしてる」
「どうなるんだろうか、俺たちは」
 嘆息を漏らす。自分たちがどうにかできる問題ではないことは分かっている。いつアシㇼレラに会えなくなるかもわからないのだ。
 思わず一人での思索に入りかけたとき、スッと、アシㇼレラが目も合わせずに奉野に腕をぶつけてきた。
 何すんだよ、と言おうとして、その手に何かが握られていることに奉野は気づく。
 なんだ、一体。疑念を持ちつつ彼女が手に握りしめたものを抜き取る。
 そこにあったのは不細工な犬の刺繍が入った手甲であった。
「……レラが作ったのか?」
「そう。ハイタクㇽにやる」
 彼女は一つも顔を合わせようともしない。
 馬鹿。心の中で呟く。どこの女が九歳で、まだあげてもいない結婚の返礼を先に渡すというのだろう。
「ありがとう」
 アシㇼレラに言うと、照れた。
「別に好きだからじゃない。離れ離れになるかもしれないと思ったから」
 そうして耳を赤くする。
 別れが急に心配になって、必死で手甲を作ったのだろうか。
 ……それは惚れるかもしれない。
 早く上手なマキリを作りたい、そう奉野は思うのであった。

  5
 しばらくは平和な日が続くと思われていたが、対雁移住の話が浮上してから、わずか二か月足らずのことである。
 奉野を目覚めさせたのは、けたたましい空砲の音だった。何事かと周囲を窺う。父親はチセから飛び出し、遠くを見渡していた。奉野も床から起き上がり、イグサの寝具を払って外に出る。
 唖然。奉野には表現する言葉が見つからなかった。
 クジラよりも大きい、巨大な船が宗谷沖に浮かび、その真っ黒な船にけん引された小舟が、宗谷沖の海岸に繋がれて上陸していた。
「玄武丸だ……」
 父親が驚きと屈辱が混ざったような声を出す。
「開拓使の奴ら、どうやら本気で樺太アイヌの生活を狂わせてくれるようだな」
 玄武丸の名は、船舶に詳しい父から聞いていた。
 明治四年に樺太専任の開拓次官、黒田清隆がニューヨークのベイカー宛に書簡を送り建造を依頼した、最新型の暗車蒸気運輸船である。その大きさは開拓使付属船の中でも二番に当たる九百一トンにもなり、樺太アイヌたちを震え上がらすには充分であった。
「萩之進、コラㇺヌカㇻの元へ行くぞ」
 父が駆け出す。事態は一刻を争った。
 文字通りそれから数刻もせぬうちである。最短距離で山中を踏破していた父子の耳元に、銃声が響いた。
 そこには山中に駆け込もうとしていた樺太アイヌの姿がある。彼は銃声に慄き、体の向きを変えて立ち止まった。先に見えるのは宗谷にいる役人とは顔ぶれの違う巡査だった。視界に映る中だけでも数人は見てとれる。彼らはみな銃を持っていて、アイヌを脅しているのは明らかだ。
「こんな方法が許されていいのか」
 父が色をなす。理屈を抜きにしても、現場にはアイヌに対する軽蔑というものが空気を通して伝わってきた。
「何をしている!」
 居ても立ってもいられなくなった父は巡査の前に飛び出した。
「樺太より、日本国に帰依した土人(アイヌの事)八百余名を、これより玄武丸にて石狩国対雁に移住させる」
 巡査は日本人である父を見て、機械のように平坦な言葉を並べた。
「コラㇺヌカㇻさんは納得しているのか」
「最早一刻も猶予できぬ状態と判断し、移住を断行するに至った」
 表情にお前の事などどうでもいい、といった様子が滲み出ている。
「宗谷地方で暮らし続けることは不可能なのか」
「一顧だにできぬ話である。むしろ計画は遅れ、急いている」
 四人の巡査が一斉にアイヌに銃を向けたことで、山中に逃げ入ろうとしていた彼は慄き、日本国に従った。
 奉野の元に戻ってきた父は言う。
「こりゃ駄目だ。コラㇺヌカㇻさんも危ないかもしれない」
 奉野の脳裏に、アシㇼレラとエトウルシの顔が去来した。

 コタンは混迷を極めていた。
 三十人近くにもなろうかという巡査が立ち並び、樺太アイヌたちを玄武丸へと追い立てていた。彼らは唾を飛ばし、まるで荷物を積むかのように、効率だけを求めた移住を行っているのが見てとれた。その中で人々が集って流れを阻害し、大きな声で言い争いをしているのはコラㇺヌカㇻのチセの周りである。
「我々がこの地を立ち退かなくてはいけない道理はない。我々はアイヌである以前に、日本の先住民である。蝦夷はアイヌの国なのだ。日本国の臣下に降る義理はない」
 淀みない日本語で演説するのはもちろんコラㇺヌカㇻその人だ。饒舌な彼を、巡査たちが苦い目で見つめている。
 シサムは未だかつてアイヌに日本語を学ばせようとしたことが無かった。理由は単純で、日本の言葉が分かると不平等交易がやりにくくなるからだ。江戸時代からアイヌを騙していいように利用してきた役人にとって、日本語を話せる頭の切れる酋長ほど厄介な者はいなかった。
 訳が分からずともコラㇺヌカㇻを信じ、その場から動こうとしないアイヌの人々たち。その中には子供もたくさん交じっていた。
 状況は平行線を辿り、巡査はみな苛立ちをあらわにしていた。
 その時である。大地を震撼するほどの轟音が響いた。並大抵の弾音ではない。大砲の炮声だ。海を見ると玄武丸がそびえる海が、波に揺れ動いている。
 玄武丸による空砲が海に放たれたのだった。
 奉野は震えあがって地面に座り込んだ。地面にまで衝撃が走ったあれが、海への空砲に過ぎないのか。人間の作る道具にこれほどまで恐怖を感じたのは初めてであった。それは奉野が特別臆病だからということではないようだった。
 抵抗を示していた者たちが次々と、憑き物が落ちたように巡査の言うことに従った。抗えない文明の利器。力の差。そういったものをまざまざと感じされられたからであった。
 父が奉野の隣で俯いていた。奉野は立ち上がってその腕を掴む。
「父さん、早く!」
 だが父は眼を瞑り、首を横に振るのみであった。
「俺には彼らを助けてやるだけの力がない」
「何を言っているのです。みんないなくなってしまう!」
「やむを得ない」
「何ですか、やむとは。何の事情で許されるんですか」
 奉野は声を裏返して父に掴みかかっていた。だが視界の隅にアシㇼレラが映り、奉野の意識は瞬時に移った。
「アシㇼレラ!」
 今にも走り寄ろうとする奉野の腕を、今度は逆に父が掴む。
「無駄だ、止めろ」
 拒否に素直に従う奉野ではない。
「うるさい、離せ。こんなのはおかしい!」
 だがそこに銃声が轟いた。けん制した巡査が奉野の足元に銃弾を飛ばしたのだ。分かっていても追えない、弓矢とは比較にならぬ火勢だ。当たれば死ぬ。それが肌で感じ取れた。
 奉野の足は怖気づき、離れてゆくアシㇼレラを眺めることしかできない。
「巡査さん」
 玄武丸に向かおうと傍を通りかかった官服の男に訴える。
「お願いです。これをレラに」
 服の内側から取り出したのは一昨日完成したばかりの、マキリの鞘だった。表面には、丹精をこめて掘った、凛々しいキムンカムイの姿がある。手先の器用なエトウルシにも相談した。必死で作った。本当は自分の手で渡したかった。
 その時はいつがいいか、ずっと考えていたのに。
「持って行ってやろう」
 男は不憫に思ったのか了承した。だがやはり、アシㇼレラとの最後の挨拶は叶わない。
 巡査たちに囲まれ屈辱感を滲ませながら船に向かうコラㇺヌカㇻの後ろに、彼女は連れられている。
 始終下を向いていて、何を思っているのかは読み取れない。
 いや、彼女の考えていることくらい、ずっと一緒にいた奉野には分かる。人間なんて死んでしまえばいいと思ってるに違いないのだ。そして奉野は、アシㇼレラには人を愛して欲しかった。だから、
「絶対にお前のことは守るからな!」
 腹の底から叫ぶ。これまでもこれからも。俺が死ぬまでずっとだ。それだけは知っていて欲しかった。
 アシㇼレラが奉野を振り返り、悲しげな顔を浮かべた気がした。

 明治九年六月十三日、二度目となる樺太アイヌ民族の移住だった。


  




 第三章 反逆の翼

 明治十七年 五月末 樺戸集治監

 紅葉は散り、乾燥した空気が身体に悪い。
 どんよりと曇った空の下、男は石狩川の船着き場に押送されている。すべてが赤い筒袖の着物と襦袢(和服用の下着)の中で、わずかに襟に縫い付けられた長方形の布のみが白く、そこには「第壱弐〇号」の墨書きがなされていた。
 編笠を被り両足首に鎖を結ばれた集団の数は二百人に近く、北海道の奥地に押送された彼らの背には険悪な気配が漂っている。
 男を含め、今後への不安は誰もが共通して持っている感情だった。看守らの威嚇によってようやく、集団は重い一歩を踏み出す。

 そこで、堀井善吉は目覚めた。時刻は午前一時。頭の上には見慣れた低い天井があるのみだ。何度この悪夢にうなされるのだろうか。この命を賭けると決めてからというものの、浮足立っている。すべてを捨てたはずの自分に、まだそんな感情が残っているとは思わなかった。自分を揺さぶるのは自由への憧れか、反逆への戦慄か。
「寝れないのか」
 左の耳元で小さな声がした。すぐ隣で寝ているのは同じ獄舎の同居人、牧田(まきた)敬重(たかしげ)である。
「お前もか」
 辛うじて聞き取れるかという声量で答える。もし見張りの看守に見つかれば何を疑わるか分かったものではない。
 今獄房の中には善吉と牧田を含め七人の囚人がいる。みなこの獄の中で知り合い、志を共にした者たちであった。
 本来は一房につき三人か五人が適正と言われている。奇数人数であるのは偶数だと「猥褻ノコト有レ」とされたためであり、人数の制限は七人以上になると集団で共謀する危険があるからだった。しかし樺戸では自由民権運動を始めとする国事犯の者たちが多く移管されたため、一時的な獄不足に陥っていた。その状況で善吉と牧田は先頭に立ち、看守側が最も恐れる集団脱獄を計画していたのだ。
「長かった、ここまで」
 善吉はさめざめと口にする。明治十四年に樺戸に収監されてから、はや三年が経過しようとしている。断じて、短い期間ではなかった。冬になり夏になり、また次の冬が巡り、変わらぬ日々に幾度となく狂いかけた。もし仮に脱獄に成功したとしても、朱色の獄衣を見ればいつでも恐怖に震え、永遠の悪夢にうなされ続けることだろう。
 善吉は眼を閉じ、これまでの日々に思いを馳せる。

  1 
 堀井善吉は明治維新の三年前、北海道石狩地方厚田村に生まれた。厚田村は北海道西海岸のニシン漁場として栄えた町だ。ニシンを煮て油をとったあと乾燥させる鰊粕や、酒のつまみにもなる濃厚な味わいが特徴の白子などが人気で、江戸・明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船である弁才船によって内地市場へ送られている。村には商家もあり、多額の蓄財をしている者も多い地域であった。
 しかし堀井がどうであったかと言えば決して裕福な家庭ではなく、父は明治維新で朝敵とされて落ちぶれた武士で、大阪からはるばる出稼ぎに来た一労働者に過ぎない。当時、政府は当時北海道開拓のための入植者を旧士族から募っていた。家族は父と母と善吉と一つ下の妹千代で四人暮らしであり、身の丈にあった慎ましい生活を送る。
 運命が狂ったのは、善吉が十四のときである。
 元来病気がちであった父が病死するとすぐに生活は困窮し、家族はみな働くことを余儀なくされた。母は娼館で、千代は売り子として、善吉は漁場の雇夫として朝から晩まで仕事をした。全ては金のためだ。世の中金がどれほど重要であるか、善吉は嫌というほど思い知ることになる。体調が悪かろうと、手の皮が破けようと、休めば金が入らない。金が無ければ暮らせない。暮らせなければ死ぬのだ。
 疲れ果てた体にわずか二十一銭の駄賃を握りしめ、酒盛りや賭博に興じる大人たちの集う賑やかな市街を通り過ぎる。労働に見合わぬ仕事であった。
 それでも善吉が腐らずにいられたのは、妹の存在があるからだ。
 母は隠さなかった。
「千代を汚い男たちに触らせとうないなら、あんたが頑張るしかないんや」
 善吉は頷く。貧しい者は幼かろうと、世間では平気で娼館に売り飛ばされていた。現役で娼婦をやっている母の言葉には、善吉を奮い立たせる強い力があった。
 十四のとき、こんなことがあった。
 大雨の翌日で海が荒れ、その日の善吉の仕事が無くなった。特にやることもなく暇だったので、千代の働く繁華街に出向いた。妹は、外来品として人気を博した羊羹(ようかん)を売る店で働いていた。
 店の前につくと、千代は大きな男と立ち話をしていた。何をしているのだろうと思っていると、男は突然服の上から千代の胸を触った。
 驚いた善吉は思わず飛び出した。強引に妹の手を掴むと男の前から引きはがす。
「ちょっとお兄ちゃん何なん!」
 千代は突如現れた善吉に戸惑いながら走った。
 善吉は人通りのない路地に入るとようやく足を止める。
「何なんやないやろ。危ないとこやったやんけ」
「はあ? お客さんやで」
「ちゃうやろ、その、胸を……」
 そこで善吉は恥ずかしさを感じて言い淀む。
「愛嬌やん、そんなん。みんな当たり前にやってることやし」
「そんなこと言うたって、色々さあ」
 改めて千代を見ると、おかっぱだった髪を伸ばし始めている。善吉が思うよりずっと、妹は大人びてきている。
「変なことはされてへんよ。あたしは上玉って言われてんねんから」
 千代はあっさりと俗語を使った。
 善吉は周りの大人たちが千代を上玉と言っているのを知っていたが、彼女の耳にも届いていることに驚いた。考えてみれば市場の売り子などをやっていたら、当然のことなのだろうか。
「……それやったら悪かった。でも絶対きいつけてな」
「うん。心配してくれてありがとう」
 足早に駆けていく千代。自分も頑張らなくてはいけない、そう思わせる背中であった。
 
 毎日の漁業はそれからもやり続けたが、やがて善吉は厚田で小銭稼ぎをするには限界があると気づいた。ついに十六の暮れに、開拓使が建設に力を入れていた小樽で、出稼ぎをすることを決意した。一切散財をしてこなかった善吉は、家に二十円(公務員の初任給が八円程度)の貯蓄を残すことに成功していたのだ。自身は懐に五円を携え、母の了承も得て住み慣れた家を後にする。
 千代は涙を流していた。
「お兄ちゃん、ほんまに行かなあかんの? あたしは今の生活で幸せやで」
 水晶のようにつぶらな瞳を浮かべる妹も、もうすぐ十六になる。
「大丈夫や。俺はもっと沢山お金を稼いで、千代と母さんを楽にさせたいんや」
 言葉に嘘はないが、胸には痛みを感じた。それは善吉のなかには家族に対する想いとは裏腹の、縛られた生活から抜け出したいという感情が芽生えていることも、また事実であったからだ。
「母ちゃんと仲良くやってな」
「分かっとうよ」
 顔にかかった髪の毛を払い、涙を拭って千代は微笑む。
「兎にも角にも三年や。三年たったら大金持って帰るから」
「ずいぶん長いんやなあ」
 三年とはいえ、二人からすれば今までの人生の五分の一にもなる。
「すまんなあ。せやけど成功しようと思ったらそのくらいは避けられへん」
「お兄ちゃんよりあたしの方が金持ちになっとったらどうする?」
 千代は冗談めかして言う。
「俺が千代に養ってもらわなあかんな」
 善吉も軽い返事をしたが、千代にはお金に困らない生活を送って欲しいというのは本心だ。
「千代はええ男と結婚して、いい生活を送ってな」
「いつでも帰ってきて、ほんまに。養うから」
 千代の瞳の奥が水面のように揺れる。その様子を見て、危うく涙が混じりそうになった。二度と妹に養うなどと言わせたくはない。
「きっと俺は大丈夫や」
 辛うじて口にし、胸の位置にある千代の肩を叩く。
 こうして気持ちを引きずりつつ、故郷を後にしたのであった。

 小樽は開拓期以来、漁港・商港として整備された北海道西部の有力な湾港である。明治十四年には石炭の発掘に有望とされた幌内炭鉱と小樽港を繋ぎ、石炭を安価に全国に運び込むことを目的とした道内で最初の鉄道「官営幌内鉄道」が、手宮―札幌間で開通されることになっていた。また発展を促すのは国内事情にとどまらず、年々ロシアなど海外とも交易が盛んになっているところであった。
 その小樽で善吉は、厚田村での経験を生かすことができるニシン漁と、鉄道の建設工事が開始されてからは隧道(トンネル)工事に携わるようになった。どちらも骨の折れる重労働である。特に隧道内は真っ暗で、カンテラと呼ばれる手提げの照明器具を持ちながらの土砂運びや角材の持ち込み作業は、連日で出向けば腰を悪くした。煤や土砂が目に入り、簡単に前が見えなくなる。だが工夫によると、「幌内鉱山の石炭採掘はこれと比較にならぬ労働」との話で、一体どんな作業をしているのだろうかと善吉は案じた。
 順調に金は溜まり、明治十三年の暮れには三十五円の貯蓄ができた。あちこちに建設が進んでいた遊郭にも通わず、基本的な生活以外にほとんど金を使わなかったためである。その様子を知る仕事仲間たちはみな、善吉のことを真面目な奴だと褒めた。
 善吉も、自らが賭博も娼婦にも目がいかぬ男だと思い込んでいた。
 若かった。実際はただ遊びを知らぬ青年に過ぎないことを知らなかったのだ。
 一度、仲間たちに誘われて賭博をやった。初めに手をつけたのは花札で、めくりかるた、明治に大流行した手本引きへと幅を広げ、徐々に深みにはまっていった。
 金は持っている、という安心感があった。負けたら負けた分だけ賭けを続け、取り返すまで止めなかった。昔からあれほど苦労し続けたお金が、いとも簡単に手に入る快感がたまらなかったのだ。
 わずか三か月である。善吉は現金はおろか、金目の物をほとんどすべて失うことになる。金が数時間で飛んでいく様を見ていると、苦労して働くのも馬鹿馬鹿しくなり、稼業の漁業すらろくにやらなくなっていた。
 全てを失い、約束の三年が過ぎ去ろうとしているのを知って、善吉は愕然とした。このままではとても厚田に帰ることなどできない。残っていたのは借金だけだ。金貸しに無知であった善吉は烏(からす)金(がね)と呼ばれる一昼夜を期限として高利で金を貸す業者にも手を付けており、到底まっとうな返済に頼れる状況ではなかった。
 そこで選んだ手段は強盗である。同じく、借金に溺れたあぶれ者と共に、繁盛していた呉服商の家を夜半に急襲した。しかし、家に見張りの者がいたことは計算外だった。金目の物を盗み、逃亡を計った際に見つかってすっかり動転した。
 見張りの男に暴行を振るい、気絶させて慌てて逃げた。もちろんそんな杜撰な犯行が発覚しないはずもなく、翌日には小樽の山中に籠っているところを警官に見つかり、函館の裁判所に連行されることになった。
 善吉は強盗・同傷人の罪に問われ懲役十五年の刑に処せられた。函館で拘留の後に一度横浜に送られ、そこで全国の罪人と共に、誰もが恐れた極北の監獄、樺戸集治監に収監されることになった。因みに樺戸行きの条件は犯行内容を問わず懲役十二年以上の者である。

 明治十四年の九月の終わり、石狩川の船着き場に連れられた善吉は、「ああ」と嘆息をもらした。北海道らしい、つんざくような冷たい自然の香りだった。その匂いは家族を彷彿とさせ、自らの馬鹿さ加減に虫唾が走る。こんなことで故郷の近くに帰って来るとは皮肉なものだ。
 このとき善吉ともに樺戸に押送された二百人の中には極悪人や国事犯も交じっていた。獄舎に向かう道中で看守に食ってかかる兇暴な連中もいたが、そんな彼らでさえ、森がきれて前方に獄舎がみえると、怯える小動物のように沈黙した。
 荒涼とした原野に寂しく佇むのは、丸太組の粗末な獄舎だった。今年開庁したばかりとはいえ、想像を超えた未開さである。しかし監獄らしく高々と作られた塀がこの集治監が重罪人を収監するために作られた施設であることを物語っており、善吉の心に現実と非現実が同時に流れ込むような妙な心地がした。
 罪状は様々であったが、善吉を含めた囚人たちに共通するのは若いということであった。樺戸は北海道開拓のために、若い労働力を必要としていた。言い換えるとそれは、体の不自由な者には耐えられぬ労働であることを示す。囚人たちは大門をくぐり、看守により襟につけられた白布の番号が確認された後獄舎の中に引き入られた。夕刻五時すぎには夕食が配られるが、それは麦の交じった米四合と、漬物二切れという粗末なものである。
 その夜は、獄舎に騒然とした空気が広がっていた。
「国が行っているのは我々の命を犠牲に労働を強制させ、己の私腹を肥やそうとするものだ。これに従っていても、我々は死を待つのみである」
 言葉巧みに演説を繰り広げたのは、はなから国の体制について反感を持つ国事犯の男であった。それに呼応し、地鳴りがするほどの歓声が獄舎に響きわたる。自らの処遇に不満を持つ罪人たちが、拳を叩いて興奮する。主導して演説を行った男は罰として闇室に移されたが、異様な熱気は獄舎に渦巻いたままだった。
 次の日から善吉たちは、樺戸集治監の最初の労役となる開墾された地を耕す作業に従事することになる。
 事件が起こったのはその三日目のことだった。
 二人の囚人が、突然鍬を担いだまま石狩川の方面に走り出したのだ。逃亡を知った八人の看守がすぐに囚人の後を追う。善吉ら他囚人たちの作業は一時的に中断され、逃げ出さぬよう一か所に集められる。その間誰もが事件のゆくえに言いも知れぬ緊張感を抱いていた。
 翌日。結果は明快だった。
 獄舎の前に散々に切り刻まれた二つの遺体が、かぶせられた蓆(むしろ)の隙間から覗いていた。遺体は三日目ごろから腐臭を発し無数の蟻が群がりはじめ、看守たちも気分が悪くなったようで、十二日目にようやく埋められた。
 この一件以降、囚人たちの背中から反逆の気配が消えた。闇室に閉じ込められていた男も、すっかり精気を失った様子で戻ってきた。五日後にはまた、丸太舟に乗って百人ほどの囚人が押送されたが、表立って反抗する者はいなくなっていた。
 気温がさらに低下し、霜が連日おりるようになる。善吉は予測していた悪夢が間近に迫っていることに恐怖するが、看守たちは何食わぬ顔で、もくもくと森林の伐採と開墾作業を続けさせた。
 十月の暮れには、唯一心が休まる時であった就寝が、徐々に苦痛の大きい時間に変わり始めた。囚人たちには冬を迎えても、綿のない薄い獄衣一枚のみで、股引き(ズボンの下にはく下着)も足袋さえも支給されない。獄舎内の気温は野外とほとんど変わらず、隙間風に体が震える。
 まずい、と善吉は思った。善吉は北海道の冬がいかなるものかを幼少のころから知っていた。もしこのまま何の対策もなされずに本格的な冬を迎えたら恐ろしいことになる。
 十一月一日、本格的な降雪に見舞われた。その頃日の出時間の遅れに伴い、囚人たちの起床時間はこれまでの五時五十分から六時五十分に変わっていた。
 外に出た囚人たちは昨日までとまるで違う白銀の景色に茫然とする。内地から来たものは、一周回って夢を見ているような表情さえ浮かべた。
 だが夢はひと時の幻に過ぎない。
「今日の開墾作業を始める」
 看守長が一同に、いつも通りを告げた。
 善吉たちは顔を見合わせる。正気か、と誰もの眼が語っていた。
 恐ろしいことに冗談ではなかった。看守は上質のフェルト製で雪上仕様の滑り止めのついた長靴を履いており、それが今日も開墾作業を継続することを示していた。しかし長靴を履くのはあくまで看守のみの話で、善吉たちの靴は冬になっても粗末な草鞋に変わりない。雪を防ぐことはおろか、体温で溶けた氷塊が足に染み込んでゆくだけである。雪の下の畑を耕す苦痛は、夏季とは比較にならなかった。
 作業開始から間もなく、足の感覚が無くなった。指ではない、足だ。足そのものに意識が感じられない。自分が何をしているのかも分からない。そんな時間が長らく続いた。
 作業が終了すると、自力では帰れない者が多く発生していた。意識はあるのだが体がついて行かないのだ。
 善吉は助けない。自らも足に異常をきたしているのに気づいていた。一日の終わりに、他人を気づかうほどの余力が残っている者などどこにもいなかった。その後動けない者は病監に運ばれた。連日にわたる作業で、日を追うごとに病監行きの人間が増えた。
 善吉も一度だけ、作業中に気を失って運び込まれたことがある。
 病監と言っても、獄舎と何の変わりもない。それは仮小屋に近いもので、床には蓆が敷いてあるだけで畳もなく、不祥事や反逆の手立てになる火気の使用は禁止されているため底冷えが激しい。医薬品も解熱剤や消化剤程度の中、囚人はみな一時的に麻痺していた凍傷による手足の本格的な痛みに襲われ、露出した皮膚が真っ赤に膨れ上がった。獄舎より閑散としている分より寒気が激しく、体の弱い者から高熱と咳に苛まれた。
 善吉は症状が軽く、奇跡的に足の薬指を切断するだけで生き延びたが、十一月下旬の朝に病監で三人の囚人が冷たくなっているのが発見された。二人が肺炎で、一人が腸炎だった。乾燥した冷たい空気は気管支から水分と熱を奪い、気管支攣縮(または気管支けいれん)を起こす。加えて支給される飲み水は雪を溶かしただけで、あらゆる細菌の温床になった。腸炎も肺炎も風邪の領域にはとどまらず、大抵別の病気を併発して重症化する。そんな病死者の遺体は簡素な棺に納められ、生者たちが腰まで雪に没しながら、埋葬地へと運んで行った。
 次の日も人が死んだ。死因は凍傷。死んだ男の肌は黄色がかった箇所と真っ黒に染まった箇所があり、むくみや血だらけの水疱がその上に浮かんでいた。身体の細胞が死滅していくのにはとてつもない痛みが伴うようで、男は夜通しで叫び続けていたらしい。病監でそれを見ていた看守も相当な苦痛だったようで、蒼白な顔を浮かべていた。その頃には積雪量が尋常ではなくなり、開墾作業は中断されて善吉らは、草鞋や蓆や俵などを獄舎の中で作る作業に従事した。しかし肝心の寒さの対策は全くといっていいほどなされなかったので、誰も死なない日が稀であるという毎日だった。
 最も絶望的なのは、何もできないことである。看守に訴えたところで寒さが和らぐわけでもなく、獄舎の外は雪に凍てついた未開の山野が広がるばかりで、たとえ逃げ出しても吹雪に斃れるのが関の山だった。さりとて監獄で生き延びても、ただ永久に歳をとって朽ちてゆくだけだ。そんな未来を想像すると目の前が真っ暗になる。
 善吉たちは獄舎の中で身を寄せ合い、震えた。獄舎も当然のごとく火気はなく、手先足先などの生身の部分は少しでも動かしておかないと簡単に腐った。寒さは統率側にとっても耐え難かったようで、夜間勤務の看守は少しでも体を温めるためか、狂ったように獄舎の通路を行き来し、互いを温め合う囚人をどこか羨まし気に見つめていた。
 善吉の隣の獄舎には三人が収容されていたが、そのような状況の中、二人の囚人が夜中に性行為をしているのが発見された。性行為はご法度であり、二人は罰として独房へと移監された。そして残ったはぐれ者の一人は、ちょうど前日に病監に運ばれる者が出て、三人から二人に減っていた善吉の獄房に編入された。
 編入の男は顔色だけ見ると衰弱しているかに見えたが、目の奥にはまだ煌々とした光が滾(たぎ)っていた。
「間違っている」、そう切り出した。
 男は国賊とされた会津藩の士族であり、名を牧田敬重といった。武士の名誉を失った後に窃盗を繰り返し、今回三度目の捕縛となって樺戸に運ばれたという。齢は二十四で善吉の四つ上だった。
「お前はこの新政府が正常だと思うか?」
 怒りを滲ませた口調で牧田は訊ねてきた。
「思わない」、と善吉は答えた。樺戸の扱いは、到底人間に対して行う所業とは思えなかった。罪に対する罰といえばそれまでだが、そもそも士族を犯罪に追い込むほどの貧困に追い込んだのは誰だと善吉は問いたい。
「国は俺たちを家畜か何かだと勘違いしているらしい」
「それもありうる」
「こんなところでいたぶられ続けて死ぬくらいなら、一か八かチルを考えるべきだと思わないか?」
 チルとは囚人の間における隠語で、破獄を意味していた。
「お前がこの辺の地理に一番詳しいと俺は思っている」
 牧田は頼るように目を向けたが、善吉は首を横に振る。
「国に対して思うことは尤もだ。だが俺はまがいなりにも蝦夷に住んでいたから言わせてもらうが、ここからは逃れられない」
 冬だからではない。鬱蒼とした未開の原始林を迷わずに歩き、はるか遠くの町に逃れるのは不可能に近かった。善吉は善吉で、破獄について真剣に考えた結果の結論だった。
 ちっ、と牧田は舌打ちをする。
「夢のねえことを言いやがって。大阪の人間だろ? もっと大志を持てや」
 牧田の無茶苦茶な暴言に、善吉は一人恥じた。関西弁と共に目的を忘れ、賭博に興じる毎日を思い起こしたのだ。
「俺だって今すぐにでもここから抜け出したい。厚田に置いてきた家族に泣いて謝りたい。今度こそ真っ当に生きると約束したい」
 善吉は歯を食いしばった。体が痙攣するほどの懺悔の念に襲われる。
「……すまない」
「大丈夫。俺が悪いんだ」
 むしろ人に文句をつける余力がある牧田は強靭な男だと思う。
「ともかく今は耐えることに集中しよう」
 そう言ったのは、獄舎のもう一人の囚人である村瀬周作だ。弱弱しい声だが、希望は失っていない。
 彼に至っては善吉の眼から見れば何も悪いことをしていない。国会開設を求める運動を主導して行っただけなのだ。政府曰く、国に歯向かう政治犯になるらしい。
 そんな村瀬も、近日の寒波にすっかり体調を病み、青白い唇を震わせていた。
「そうだな、ともかく生き延びねえことにはしょうがねえ」
 牧田が同意して、三人は支給された薄い毛布一枚で体を寄せ合う。少しでも熱を発するために肌を擦り合わせた。
「絶対に生きてやる」
 天井で置物のように張り付いた氷柱から、水滴が垂れる音がした。

 氷点下十七度を記録するような日を超え、善吉たちは明治十五年を迎えた。在監者四百六十名中、逃亡を計った二人が斬殺、三十六名が病死する一年だった。
 一月上旬になると雪は寒さで凍結して上を歩けるようになったため、夏場の開墾に備えた木々の伐採作業が強引に進められた。土気色の集団は作業終わりに支給される凍った粥を、かみ砕きながら口にする日々。北海道の冬はまだまだ長かった。
 三月までの病死者は、八十六人に急増した。
 春になると雪は溶けて開墾作業を行うことができるようになり、引き換えに北海道各所でイナゴの大量発生が起こった。囚人たちはイナゴ駆除に使役する組と開墾作業を続ける組、そして最寄りの当別村への道路を開削する組に分けさせられる。牧田はイナゴ退治で胆振国虻田郡に出役し、体の弱い村瀬は残って開墾作業に従事した。
 善吉が携わったのは樺戸集治監創設以来始めて行われる道路工事だ。
 それは、気が遠くなるような作業だった。月形・当別間は人っ子一人通らぬ木々が生い茂った谷であり、苦労して巨木を一本切り倒したところで先に見えるのは無限に続く鬱蒼とした雑木林なのである。マムシの多く生息する地帯で、足を噛まれる者も多かった。そんなときはサーベルで毒の部分を抉り取られ、また労役に駆り出された。
 三か月かけ、善吉たちは割り当てられた一・五里の樹海に、やっとのことで幅一間ほどの道を開通させた。ずたぼろになった善吉の唯一の収穫は、ようやく自らの置かれた大体の地理を把握できるようになったことである。
 その頃、牧田らイナゴの駆除に出向いた一群が樺戸に帰ってきた。彼らの体は痩せこけ目は窪み、擦り切れて真っ黒になった獄衣を雑巾のように纏っている。まるで物語の餓鬼だった。牧田もその中で、髪や髭を無造作に伸ばし、腰を曲げて歩いていた。
 後に牧田に訊ねたところによると、向こうではイナゴによって食うものは何も残ってないため空腹の状態が続き、夜はイナゴをはじめとする無数の昆虫が蠢き、眠ることすらままならなかったという。
「寝ることもできねえし、食うもんも女もいねえんだ。みーんなビョーキになって空っぽの胃からゲロ吐いて。死んだ方がマシだ」
 苦々しく彼はそう語った。
 結局明治十五年は在監者八百三十七人中、死者百十九人と前年度をはるかに上回った。多少は防寒具の支給があった明治十六年も、在監者千二百二十五人中、五十五名の死者を出した。逃亡者の数だけを見ると明治十四年から順に八人、三十四人、三十二人と、一年の間に爆発的に増加したが、これは閉鎖迷宮であった月形の樹海でまがいなりにも当別村への道路が開削されたことが原因である。右も左も分からぬ原始林をさまようより、自らが切り拓いた道路の上を走る方がよほど安心であった。
 しかし、善吉は動かなかった。人数が増えても、逃亡に成功した者はほとんどいないことを善吉は知っていたからである。看守たちは囚人が逃げ出すと、まず真っ先に当別村に追手を放った。逃走の知らせは騎馬を用いてすぐに当別へ報告され、そこに駐屯した手練れの看守たちによって厳戒態勢が敷かれる。こうなると並大抵のやり方では、監獄の包囲網を突破することはできない。
「善吉、もう俺は限界だ。ダイ(共謀者の隠語)たちの体力も消耗している。お前がそのつもりなら俺たちは先におさらばするぜ」
 牧田は事あるごとに催促してきた。しかし、その顔に灯るのは希望ではなく悲壮で、追い詰められた人間の顔であるのは明らかだった。決して牧田にも破獄の成算があるわけではないのだ。もちろん捕えられれば闇室に閉じ込められることになり、場合によっては搾(さく)衣(い)まで着させられる。誰もがその恐怖と、終わらない日々との狭間で葛藤を続けていた。ちなみに搾衣とは皮と麻の衣に水を掛けた拷問器具であり、これを着させられ一定時間が経つと皮が乾いて縮むことで、胴体が締め付けられて呼吸困難に陥る。特に冬季だと体温が奪われ、最悪の場合死に至った。善吉は秋の暮れに、搾衣の罰をされた囚人を見たことがある。彼は衣に締め付けられ各所が鬱血し、時間が経つと気絶した。すると看守によって水が新たに掛けられた。その冷たさと、搾衣が水分で緩むことで囚人は意識を取り戻す。それからまた徐々に搾衣が縮み始め……。
 最終的にその男は死んだ。
 これを目撃してから、看守への憎悪と、自分はことを慎重に進めなければならないという思いを善吉は強くした。

 明治十七年。物騒な国内情勢の中で在監囚人の数は千三百人を超え、獄舎では七人の囚人が寝食を共にした。善吉は精力的に彼らと交流を図り、彼らの志が自分たちと同じであることを確かめていた。
 雪溶けのすんだ五月、ついに善吉は彼らに告げた。
「今月の末に、チルだ」
 告げながら唇が震えた。もし看守に計画が発覚したら、善吉に未来はない。自分たちの運命はこのひと月で決まるのだ。
「逃走路として目を付けられている当別村への道は避ける。また石狩川に沿って上流或いは下流に向かうのも、看守たちに見つかりやすい。特に上流は空知集治監に連絡されると挟み撃ちにあう可能性がある」
「ならばどこへ行く?」
 訝(いぶか)しげに牧田が言う。声が樺戸から遠ざかる手段が他にあるのかと問うていた。善吉は六人を見渡し唾を呑む。
「厚田だ。樺戸の西北西、直線距離五里(二十㎞)にそびえる山々を超え石狩国厚田村に向かい、食糧その他を調達してから漁船を奪い、追手から逃れる」
 六人は始めて聞く脱出路に唖然としていた。その中で村瀬が鋭く訊ねる。
「漁船を奪うまではいいとして、それからどこへ逃げる? 一日が過ぎれば湾港にも見張りが敷かれ、怪しい漁船は調べられるぞ」
 彼の冷静な物言いに善吉は頷く。この計画の欠点であり、長らく考え続けていたことの一つである。
「役人の待ち伏せが予想される南方への侵入は避け、北上する。上陸先は今や日本国の目が届かぬ土地、樺太だ。ロシア領樺太でしばらく潜伏し、ほとぼりが冷めた頃に便を得て内地に戻る」
 誰もが呆気に取られている。壮大過ぎる計画かもしれないが、この方法が最も成功率が高いと善吉は確信していた。
「厚田村への道、また漁船の入手先は?」
「俺は厚田村出身だから方向は勘で先導する。船は金持ちの住む一帯があるから、そこで入手し同時に金品を奪う」
「最高だ」
 牧田が短い言葉で唇を噛みしめる。
 ようやくだ。ようやくなのだ。善吉はこの三年で体格の良かった牧田が痩せこける様をまじまじと見てきた。それだけに、善吉の中にも込み上げてくるものがあった。
「必ずや七人で、チル」
 ダイたちの背中には、静かな反逆の闘志が燃え盛っていた。

  2
 当日。極度の緊張もいつの間にか眠気に代わり、善吉は樺戸集治監で最後になるであろう、朝を迎えていた。厚田への険阻な山越えで、大きく体力を消耗することは間違いない。しっかりと睡眠をとることができたのは幸運だった。牧田や村瀬は最後まで眠れなかったようで、青白い顔には真っ黒な隈が張り付いていた。
 今日の労役は早朝から樹木の伐採作業だった。善吉たちはこの最も逃走しやすい外役作業に焦点を当てていたが、いくつかの問題点があった。足に括られた鎖が大きな障害になること、逃亡防止のために配置された騎馬に乗り銃を所持する巡回看守がいること、そして獄内からの脱走に比べて看守が逃走に気づくまでの時間が短いことだ。
 これらの難関を突破するのは、牧田と村瀬の長年の行いだ。
 連鎖は通常仲の悪い囚人同士を組み合わすため、同じ獄房の囚人が一緒になることは無かった。そこで村瀬の発案で、二人は一年ほど前から仲の悪いふりを続けていた。看守の前でわざといがみ合い、それを善吉が止めるということを繰り返した。二人の仲が険悪であり、それでもこの三人が一緒の獄にいることで均衡が取れていることを印象付け、引き離されない絶妙な立ち位置を作り上げた。この熱演が実り、同じ獄房内で連鎖を組む相手を作ることに成功したのである。
 作業開始から二時間後、牧田と村瀬は銃を連帯する巡回看守が周りから消える瞬間を見定めた。
「うぅ」と大きな声を上げ、樹海の中で村瀬が崩れ落ちる。それを聞いた傍の看守が「何事か」、と近づいた。普段から体調を崩しがちな村瀬のことだ。看守は完全に油断していた。彼が村瀬の元にしゃがみ込んだ刹那、二人は同時に跳ねた。
 看守を勢いで押し倒すと、あらかじめ引きちぎった獄衣を口の中に詰め込み猿轡の代わりとした。腰の捕縛縄で看守を縛り上げ、サーベルを奪い足枷を切断する。周りの囚人たちはすでにどよめきを発しており、発覚するのは時間の問題だった。牧田は近寄る同胞の足枷を休む間もなく切断した。違う獄房の者も、捜査の攪乱のために助けておきたかったが、間もなく看守が押し寄せたので同胞を救出するのが手一杯だった。
 七人は蜘蛛の巣を散らすように四方へ逃げた。彼らは追手を攪乱しながら、合流場所に定めた巨木をおのおので目指していた。
 十五分が過ぎたとき、木の陰には六人の囚人が息を切らしていた。堀井善吉・牧田敬重・村瀬周作、その他三人。あと一人には気の毒だが、待っている余裕はなかった。善吉は先頭に立ち、息を切らした五人に鞭を打って駆け出す。
 三十分、一時間が過ぎる。看守の影は見えない。もちろんそれは喜ばしいことであるが、同時に不安にもなる。異常な時間を監獄で過ごしたせいで、徐々に現実感が希薄になっていた。今何をしているのか、何処へ向かっているのか、意識が分散して不透明になる。
 そんな浮遊感は、目の前に急崖が現れるまで続いた。
「……」
 善吉は人を寄せ付けぬ峻険な山肌と、その急斜面をものともせず生い茂る密林を目の前にする。これは厚田村に逃げる者がいないのも納得だった。息切れと相乗して吐きそうになる。
 しかし、今更引き返すわけにはいかない。藪と荊の密生した山肌に張り付く。獄衣は裂け、肌に血が滲んだ。一度払った枝も手を離すと撥ね返り、顔に直撃した。根っこと岩が連なる足元は悪く、ほぼむき出しに等しい足裏に疲労が蓄積してゆく。六人は先頭を順に交代しながら一列に並んで歩みを進める。
 山を越えるのには二時間を要した。だがその先に現れたのは行く手に横たわる渓流と、その先に見える新たな山だった。
 善吉は敢えて何も語らず、変わらぬ動きで渓流の中に身を投じた。底は浅かったが流れはあり、泳ぐ中で思わず呼吸をしようとすれば鼻と口に大量の水が流れ込む。見た目以上の脅威に溺れかけた。
 向こう岸についても、誰もしばらくは立ち上がれない。全身がずぶ濡れで鉛のように重い。中でも村瀬は血色が悪く、呼吸の乱れが酷かった。
「おい、こんなところで斃れていいのか」
 牧田が必死で鼓舞したが、村瀬は返事をするのもやっとの様子だ。
 ふと周りを見渡せば、疲弊のあまりみな無言で、死人のような風貌になっている。これは危ない。
「休憩を……」
 善吉のその言葉を聞くと、終わりまで待たず、全員が糸の切れたようにその場に崩れ落ちた。
 三十分が過ぎた。善吉は仲間たちの顔色が徐々に戻って来るのを感じる。人間らしい会話と思考も取り戻してきた。
 しかし、村瀬は戻らなかった。相変わらず息遣いは激しく、こちらの問いにもまともな応答を返せなかった。
「これはもう駄目だ。先を急ぐべきだ」
 ついに焦り始めた一人が口にする。他の者もそれに賛同した。
 しかし善吉と牧田はつい渋い顔を浮かべてしまう。村瀬を見捨てるには付き合いが長すぎた。危険すぎる状況を理解しているからこそ、善吉の心は揺れ動くのである。
 牧田は目を伏せ、苦渋した挙句に重々しく口を開いた。
「善吉、村瀬はもう」
「俺が運ぶ」
 牧田の言葉を遮る。言わせない。村瀬は最高の同胞なのだ。善吉は力を失った村瀬の腕を自分の肩にかけた。残る力を振り絞り、もう片方の手で藪を振り払って前に進む。
 責任を感じていた。もし先程仲間たちの体調を気遣って渓流の前で休息を取っていれば、結果は変わっていたかもしれないのだ。慎重で温厚な村瀬にはいつも感謝している。こんなところで見捨てるわけにはいかないのだ。
 だがそんな空元気が長く続くわけが無かった。善吉の呼吸は瞬く間に乱れ、先頭を交代しても消耗は収まらなかった。肩に乗った村瀬の体臭が気持ち悪くなって吐血した。息が乱れ心臓が毬のように激しく動いた。
「もう大丈夫だ、降ろせ」
 見かねた村瀬は呟く。善吉はその言葉に安堵の息をつく。
「もう大丈夫なんだな?」
 善吉はわざと全員に聞こえるよう大きな声で言ったが、大丈夫であるはずが無かった。村瀬は善吉を守るために死を覚悟したのであり、善吉もそれを分かっていながら、額面通りに受け取るふりをしたのだ。自分から諦めたように思われるのが嫌だったからである。卑怯だった。
 村瀬の姿が樹海の下に消えていくまでには五分もかからない。誰もが後ろを振り返らず、黙々と前へと進んだ。善吉は背中を向ける彼らから冷たい視線が注がれている心地がした。
 さらに二時間が過ぎた。
 樹海には闇が漂う。山の奥深くを突き進む善吉たちの異臭に釣られてか、蚊の群れが執拗に襲ってきた。暗黒の世界で、虫の羽音のみが響く状況には、感じたことのない恐怖があった。月灯りだけを頼りにして森を歩くと、人間の感覚は遥かに狂っていく。自分たちはただ山々の周りをまわり続けているだけで、一生ここから逃れられないのではないだろうか。そんな疑念に侵された。しかし歩みを止めるわけにはいかない。明日になればこちらにも警戒網が敷かれることは間違いないのだ。
 暗夜行軍は相当な時間に及んだ。
 善吉はあるときから、今までとは全く異なる空気を捉えて始めていた。ただ、それが幻であることが怖くて黙り続け、そんな状態のまま、何度目かになる山の頂上を迎える。
 瞬間、善吉は声にならない喜びを噛みしめた。
 幻ではなかったのだ。瞳から涙が溢れた。
 海の匂い。世界の彼方に続く、悠久の水平線。灯の光る賑やかな集落は、遥かに望んだ故郷、厚田村だった。
「みんな。左手の灯りが見える一帯の少し外れ、あの辺りに金持ちの家が集中していて金はもちろん、飯もある、衣服もある」
 善吉は指をさして告げた。声は嬉しさに震えている。
「予定通り俺は先に海岸線に向かい、乗っとられる船を探す。牧田たちは厚田の高利貸しの家を襲い、金目のものと衣服を奪ってから海岸に来てくれ」
「ありがとう。もはや言うこともねえ」
 水平線を直視した牧田が感極まって善吉の肩を揺らした。
「牧田、まだこれからだ。俺たちはあの残虐な政府から逃れ続けなきゃいけない」
「あたぼうよ。一生樺戸の世話になってなんかたまるか」
 牧田の言葉にみなが頷いた。善吉は改めて、同じ目的に一致団結した自分たちの強さを感じたのだった。

  3
 そこから海岸線にたどり着くのには、一時間もかからなかった。
 善吉は夜目を利かして奪い去れそうな船を探した。目立たない大きさでかつ、簡単に錨(いかり)を外すことのできるものだ。
 なかなか見つからない。焦りを感じ始める。こんなところで諦めるわけにはいかない。
 必死に探す時はあっという間に過ぎ去る。目が痛くなるほどに潮風を浴びていた。やっとのことで動かせられる小さな舟を見つけた頃には、どれだけの時間が経過していただろうか。六人がかろうじて乗れるかという大きさでも、この際は仕方がない。後は五人を待つだけだ。獄衣の善吉は陰に身を潜め、仲間たちが海岸にやって来るまで耐える。
 だが五人が来ない。静かな海には人の気配が少しも感じられない。善吉は伏せたまま地面を叩く。苛立っていた。夜明けはそう遠くない。明るくなると舟で逃げ出すことが困難になる。
 無意味に地面を叩き続けるのにも飽き、危険を承知で街の様子を見に行ってやろうか、などと思案し始めた頃、獄衣ではない、綿服を着た仲間の一人が闊歩して現れた。
「遅いぞ、何をしていた。他のみんなは?」
 矢継ぎ早に尋ねる善吉に対して、彼は野性的な笑みを浮かべる。
「善吉の服は持ってきた。これを着て俺に付いてきてくれ」
 善吉は服と仲間を交互に見て勘繰る。
「なんだ? 時間はそんなにないんだぞ」
「まあまあ騙されたと思え。すげえいいもん見つけたから」
 仲間内でもどちらかと言うと無口だった彼が、まるで別人のように高揚していた。何か妙なものを感じつつも、善吉は案内されるがまま進む。
 二人が駆けたのは深夜まで明るいことで知られた街だが、今はさすがに静まり返っており、夜明けが近いことが分かった。
 辿り着いたのは富裕層の家々の中でもひときわ立派な一軒だった。
 でかでかと描かれた銭の絵が目印の、厚田村の中でも有名な高利貸しの店に、仲間は表口から堂々と入った。
「主人はもう縛って奥の部屋に転がしてあるから安心だ」
 そう耳打ちする。
「金庫にあった金も食糧も全部整えてある」
 ならばどうしてもっと早く、と善吉が言いかけたとき、隣の障子から牧田が、ぬっと顔を出した。
 その様子に驚いた。左の頬が腫れ、そこから血が垂れている。
「お前、どうしたんだ」
 話しながら善吉は、牧田の下半身が裸であることに気づく。
 むき出しになった陰部が膨れ、ぬらりと輝いている。
「すまん、善吉のために取っておくつもりだったのに突然反抗して危なかったから、びびって殺しちまった」
 爛爛と光る眼を向けながら、さも申しわけ無さそうに話す牧田。その後ろから同じく下半身を露わにした四人が現れた。
「残念だったな堀井。かなりの上玉だったのに」
 彼らの様子で善吉は悟る。彼らは高利貸しの妻を輪姦(まわ)していたんだ。
 仲間たちは久々の女に、欲望に、背徳に、並々ならぬ生の実感を得ていたのだろう。脱走囚ならお決まりでやることと聞く。一人だけそれが叶わぬとなると、善吉は微かな嫉妬を感じた。
 しかし文句を言っても仕方がない。
「時間もないから今は別にいい。それより早く物資を舟に運び……」
 言いかけた時である。
 目線の隅に衣服を全て剥ぎ取られ、胸から血を流した女が映った。
 心臓が跳ねた。夢にまで見た。見紛うはずない。
 ……千代。
 善吉は全身の血が引いてゆくのを感じた。彼女の傍らに寄る。冷静になれ、と自分に言い聞かせても感情が錯綜する。千代の頬は、首筋は、手は、胸は、常温よりも遥かに低かった。
「これは、誰だ」
 千代の手を握りながら、無理に吐き出した言葉。自然さを装うとか、この後どうするかなどと考える余力はない。
「それがツイてることに娼婦じゃねえみたいで、高利貸しが妻だと言ってたぞ。たぶん俺らには縁のない上流の女だ」
 牧田が卑下た笑みを浮かべた。
 善吉は、こうした牧田の悪びれ一つない独善的なところが好きだった。世界を変えるための必要悪と信じていた。
「…………」
 しかし全員殺してやろうかと思う自分に気づく。考えて見れば自分たちは正義の使徒でも何でもない極悪人だった。いつから、何を勘違いしていたのだろう。
『いつでも帰ってきて、ほんまに。養うから』
『お兄ちゃんよりあたしの方が金持ちになっとったらどうする?』
 千代の言葉が、善吉の脳内で追想される。
 おめでとうの一つも言えやしなかった。なぜ自分は女を犯し損ねたことを惜しく感じたのだろう。いつから道徳の狂った人間になってしまったのだろう。いつから赤の他人をダイと呼んでいたのだろう。いつから俺の正義は、俺の反逆はこんなにも独善的なものになっていたのだろう。
「なんだ善吉、そんなに残念なのか?」
 いつまでも死体の手を握る善吉のことを不思議がった牧田が言った。
「……いや、何でもない」
 感情が入り乱れる中で、また少しだけ善吉の思考が変わる。
 これまで七人で一緒に協力して、たくさんのものを犠牲にして、ようやく今に辿り着いたのではなかったのか。それを今、私怨(しえん)のために裏切るなんて、それこそ独善に当たるのではないか。こいつらの罪を裁く権利が果たして俺にあるのか。
 死ねばいい。俺が死ねばいい。世界で俺だけが死ねばいい。
 誰も知らないところでひっそりと消えて無くなりたい。
「で、これから何処に行けばいいんだ?」
 いつの間にか服を着ている五人の視線が善吉に集中した。
 俺が主導者であることを忘れかけていた。
 善吉は千代の手を離す。まるでモノのように腕が地面に落ちる。
 今自分が握った以上に千代の手が温かくなることは二度とないのだ。そう考えるとあまりの空虚さに胸が張り裂けそうだった。
 千代の目を直視できない。血が流れた胸も、白いものが垂れた下腹も見ることができない。
 だから善吉は五人に目を向けた。
「舟は見つけた。今から出発しよう。俺についてきてくれ」
「よし分かった」
 慌ただしく準備を始めた。これでいいのか、と尚も心は問うてくる。
 正解を導くには、自分の頭は悪すぎた。

「いたぞ!」
 外からの声に目を剥いた。真っ白な思考のまま服を着替えて、六人が裏口から外に出ようとしたところである。見れば厚田村の自衛組織だ。武器を持った者を含め十人近く集まってきている。その中心で提灯を握っているのはなんと、高利貸しの男であった。恐らくどこかに別の出口があり、仲間たちが千代に夢中になっている間に脱出したのだ。何かと恨みを買う高利貸しの家には、そうした工夫が施された場合も多かった。
 自衛組織の、本来は火事を伝えるための早鐘が鳴らされる。屈強な男どもは恐れることなく善吉たちに向かって突進してきた。
「別れろ!」
 牧田が叫ぶと同時に、六人は分散して逃げた。まだ外は暗い。全員を捕まえるのは困難なはずだった。
 善吉は真っすぐに舟のある海岸に駆けた。鐘の音に目覚め、集まってくる人も増えているようで、背中には銃の音も響いた。
「一人だけ海岸に逃げたぞ」
 そんな言葉が聞こえ、体中に汗を感じながら走る。

 海岸に着くと、空が白みだしているのが分かった。
 誰一人、舟の元には辿り着いていない。自分だけだった。着替えたばかりの服は、もう水分でびしょ濡れになっている。
 少しの間五人を待ったが、人の気配さえ感じられなかった。
 まもなく、この辺りに住む漁師たちが目覚めてくる時間だ。仲間はもうここには来られない。
「さようなら」、と呟いてみる。
 妹を殺したダイたちにも、強い胸の痛みを覚えることが分かった。
 それが済むと善吉は諦めて舟に乗り込み、櫂(かい)を手にする。
 この櫂で水平線に漕ぎ出すか、両手を上げてじっと捕縛を待つか、どちらが千代への贖罪になるだろうか。考えてみたが、自分には見当もつかない。
 だから善吉は身勝手な方を選ぶ。
 漕ぐのには慣れている。力の限り、海の中に繰り出すだけだ。
 一心不乱に腕を動かした。風に押されて舟はぐんぐん進んでゆく。おかげで簡単に沖の方まで出ることが叶った。
 朝日だ。長い長い夜が明け、光の束が果てしない海を照らそうとしている。
 善吉はその光景を見ていると、生きたくなってきた。
 世界がこんなにも美しいから、吐き気がするほどの自身の醜さに人は気づかないのだろう。
 死ぬには惜しかった。醜さと共に生きてゆきたいと思った。
 自由も正義も、何一つ存在しない世界で、人が幸せになるためにはどうしたらいいのだろうか。誰もが自分の都合で生きて、誰もが世界を欺いているのに、本当の幸せは訪れやしない。
 何も知らない、何も分からない。俺は大馬鹿者だ。

 水平線と太陽と、翼の折れた命が一つ、舟の上に浮かんでいることだけを、善吉は知っているのであった。

            
  
  第四章 石狩の生存者

  1
 明治十九年が明けたばかりの、冬のことである。
 エトウルシとアシㇼレラは、来札近くの山にいた。辺りは一面の雪景色で、枯れ木にまでこんもりとした雪が降り積もっていた。その寒さゆえこの時期は地面が凍って歩きやすくなる。二人は来年のイオマンテに向けて、コタンで飼育する子熊を探す狩りをすることになったのであった。
 毎年アシㇼレラは村でもてなすことになったカムイには人一倍ふれあい、結果イオマンテの度に落ち込むことは変わらなかった。とはいえ彼女ももう十七だ。かつてよりは精神も安定してきているように見えた。そしてついにアシㇼレラもカムイを探す狩猟に出掛けることになったのだが、如何せんこの年が初めてのことであり、エトウルシはそんな彼女の様子に一抹の不安を抱いている状態であった。
 山の散策を始めてしばらくが過ぎた頃である。この日は晴天だが外気は著しく冷え、アットゥシを二枚羽織っていても、全身が寒さに震えた。
「エト」、とアシㇼレラが呼びかける。
「どうした?」
「寒い」
「言われなくても僕も寒い」
 戯言に興じる暇があったらしっかり目を凝らせと思う。
「エゾジカの一匹も見当たらないな」
「深刻だな」とエトウルシは答える。
 軽口ではなく、エゾジカの個体数の大幅な減少は実際に起こり、アイヌの生活に甚大な影響を及ぼしていた。直接的な要因は明治十二年の記録的な豪雪であるが、エトウルシを含めた樺太アイヌたちは、ユㇰコㇿカムイ(シカを司る神)を怒らせたことが原因であると考えており、エゾシカに対する敬意が欠けていたことを強く悔やんでいた。エゾジカ狩猟を中心に生活を組み立てていた道内のアイヌは、これによって深刻な飢餓に追い込まれたという。
「しかし本当にここに熊穴があるものか」
 アシㇼレラは白い大地の中に倒れた巨木や、面のへこみに目を凝らしている。
「僕が去年生け捕りにした子熊がいたのはこの辺だったんだけど」
 エトウルシも徐々に自信が無くなってきた。このところ良い狩猟犬が育たず、あまり狩りの成果が芳しくない。
「まあ見つからなければ今日は早めに切り上げて、適当にウサギでも見つけて晩飯にすればいい」
「適当な男だ」、とレラは鼻で笑った。
 お前が寒いというから気を使っているのだ、と心の中でエトウルシは毒づく。
「レラもすっかり来札になじんできたな」
 彼女が対雁からこの地に越してから、はや四年が経過しようとしている。
 するとアシㇼレラが立ち止まって、エトウルシの方を見てきた。同時に短く切り揃えた前髪が風に揺れる。
「そんな感じがするのか」
「歳のせいもあるかもしれないが、対雁にいた頃や、来札に住み始めてからの一、二年は落ち着きが無かったよ」
 赤子(テンネㇷ゚)のようだと揶揄した頬の輪郭も少しばかり伸び、気づかぬうちにレラは大人の顔立ちになっていた。
「そうか。どこか居心地が悪いのは、私には故郷が無いからか」
「……」
 レラの両親は樺太で死に、宗谷から対雁に移住するときにコラㇺヌカㇻが死に、対雁では愛犬のラムアンを失っていた。   
 彼女が住んだ土地は、どこも死の記憶と密接に結びついている。
「来札を俺たちの故郷にすればいいさ」
「いつ何が起こるか分からない」
 否定はできない。自分たちの運命は、個人を離れた大きな力に握られているという感覚があった。このまま自分たちは誰かの手のひらで踊り、それに気づかぬままに生涯を終えるのだろうか。もしそうであるとしたら自分たちは何のために生き、何のためにコタンを守っているのか。
 エトウルシが狩りに向かないと言われてしまうゆえんだが、すぐに思考に没入して周りに気づくのが遅れる性質がある。
 木々の揺れに気づいたのは、レラの方が圧倒的に早かった。
「狐?」
 エトウルシは独りごちる。アシㇼレラは仕草で黙れと言ってきた。
 二人が息を殺していると、気配が徐々にこちらに近づいてくるように感じた。何だ、これは。
 レラが動いた。体一つで素早く茂みの中に覆いかぶさる。慌てたエトウルシ。弓を使わないのは無茶である。しかし次の瞬間には、彼女は小さな狐を腕に抱いて立っていた。
「危ない、噛まれたら……」
 そう言いかけてエトウルシは、胸の中にいる動物が狐ではないことに気が付いた。尾が短く、体毛が白と灰色で構成されている。
 グウ、と威嚇の声を上げるその動物は犬にとてもよく似ていた。
「エゾオオカミの雄だ。小さい。まだ生後三週間と経っていない」
 アシㇼレラはその灰色の頭を見て、素早く見極めた。
「珍しい。来札で始めて見た」
 予想外のことに、エトウルシの声は裏返る。
「私もだ。みんな死んでしまったのかと思っていた」
 アシㇼレラは小さな耳の付いた丸い頭を撫でながら言う。
「エト。こんな機会はそうない。今度のイオマンテにはホロケウカムイを育てよう」 
 彼女がエゾオオカミに向ける目には、多分の情愛が含まれているのが分かった。
「いいけどお前さ……」
 エトウルシは言い淀む。
「送り届ける覚悟はできているのか?」
「このままこの子が死ぬならエトの言う方がましだ」
「どうして死ぬ前提なんだよ?」
「こんなに小さなエゾオオカミが一匹で行動するはずがない。この子には親がいない」
 アシㇼレラが唇を噛んでいる。自らと照らし合わせているのか、ならば危険だ。
「レラの行き過ぎた感情移入は悪い癖だぞ」
 アシㇼレラには弱気なエトウルシが、珍しく強い言葉を使った。それは彼女が今後イオマンテについて癇癪を起せば、つけは自分に回ってくることを知っているからである。
「いざという時は私が責任を持って殺す」
「本当だな?」
 念押しをするエトウルシの鼻の先に、オオカミの頭がぶつかった。
「うわっ」
 エトウルシは思わず後ずさりし、根っこに足をとられて倒れた。
「どんくさいやつだ」
 アシㇼレラが歯を見せて笑っている。オオカミを抱えたまま、不意にエトウルシの前に突き出したのだった。
「もう! そういうの止めろって言ってるじゃん!」
「大丈夫、私は責任を持つ。そのための短剣だ」
 彼女は自分の腰に挿したマキリに視線を送って言った。そのマキリには、幼いヒグマの紋様が施されてある。もう十年も前にシサムの混血児、奉野萩之進から貰ったものだ。
 それを見て、ふとエトウルシはあの話題を持ち出してしまった。
「レラの覚悟は分かったよ。僕も不憫と思うし育てるのはいい。それはそうと、レラはいつ結婚するつもりなんだい?」
 アイヌの結婚適齢期は十七から十八。そろそろ相手くらい見定めてもいいものだった。
「またその話か。しつこいやつだ」
 すぐに顔をしかめられるが、共に暮らしているのだから気になるというものだ。
「結婚したくなったらすると言っている」
「おい……まだハギノのことを気にしているのか?」
「あれから十年も経つ。そんなはずもない」
 その割には行動が伴っていない。
「ハギノ、今何をしてるんだろうか」
「あいつのことはどうでもいい。ずいぶん探したが、いない」
 アシㇼレラはそっぽを向いた。
「ともかくお前が最初にやらなくちゃいけないのは……っておい、待て!」
 アシㇼレラは話も聞かず、小鹿のごとき速さで山を下っていた。
 ホロケウカムイの世話がしたくて堪らないようだ。一瞬のうちに視界から遠ざかり、豆粒のような大きさになる。
「手に負えん」
 誰の耳にも入らぬ捨て台詞を残して、エトウルシは彼女の後を追う。その矢先、根っこに躓いて再びこけた。

 コタンに戻ると、さっそく村人たちと共にホロケウカムイのための檻(ヘペレセッ)を作った。檻の素材には丈夫なきはだの木を採用し、ぶどうづるを火にかざして柔らかくすることで、丈夫な紐として用いた。
 イオマンテで送る動物は村人全員で育てるという伝統がある。それでエトウルシはもちろん、全ての村人たちがこのエゾオオカミに餌をやることになった。  
 アシㇼレラがこの子に接する時間は、それにしても明らかに長かった。注意するべきか、エトウルシの中に葛藤もあったが彼女の境遇を思うとつい、容認する方に気持ちが傾いてしまった。そしてエゾオオカミは、エトウルシが想像していたよりもずっと賢い動物であった。
 二週間が経った辺りから、アシㇼレラが餌をやるのと他のアイヌがやるのでは、目に見える反応の差が表れた。
 エゾオオカミは始め誰に対しても吠え噛みつきを繰り返したが、アシㇼレラには耳をぺたりと後ろに倒し、無駄に吠えつくこともこともしなかった。
「これはどういうわけなんだ」
 エトウルシは首を傾げる。
「逃走行動だ」とアシㇼレラは言った。
「オオカミは犬などの家畜化された動物と比べて、早い時期に人間と接触しないと、社会化せず逃走行動に入る。この子はぎりぎりの時期だった。もう少しすればきっと慣れる」
 そんなものか、と思っていたが、彼女の予言通り、次第に他の人間にも懐くようになった。
 身体にも劇的な変化が起こった。小さかった手足が長く力強くなり、最初の尖った乳歯が生えてきて鼻口部が伸び、オオカミらしい造形に変わった。
「オオカミは生後ひと月の間に生涯獲得する行動様式の六割を完成させる。その十日後には性行動以外のほぼすべてを獲得する」
「おい、なんでお前はそんなに詳しいんだよ」
「ラムアンにオオカミの血が混じっていたからだ。それにシサムのオオカミ研究の本を取り寄せている」
 エトウルシは彼女の情熱の強さに震えるばかりである。
「エトは何の努力もしていないのに、私と仲がいいだけで懐かれていてせこいぞ」
 それは何の文句なのだ、一体。

 かと思えば、こんなこともあった。
 ある日レラがオオカミの傍で、胸を押さえて倒れこんでいる。
 エトウルシは慌てて近寄る。
「どうした! 何があった!」
「いや、何でもない」
 レラは真っ赤になりながら胸を押さえていた。しかもその眼は涙ぐんでいる。
「そんなわけあるかよ」
 エトウルシが問いただすと、彼女は俯いたまま小さく口を動かす。
「ち、乳をやろうとしたら、噛まれた」
「正気か」
「本当は母乳が一番なんだ。エト、誰かこの子が喜ぶ乳の出そうな女を連れてきてくれ」
「おい」
「最悪エトウルシでもいい」
「……」
 あまりの狂気っぷりに茫然とするばかりであったが、幸い間もなくオオカミはひき肉を咀嚼できるようになったので、エトウルシの乳首は一命をとりとめた。
 まだまだ成長は進み、それから一週間もしないうちに、肉を噛み切れる歯が出来上がった。
「見ろ。エト」
 レラは檻の外から、オオカミが咥える生肉を引っ張っている。まだ体の小さなオオカミはずるずると引きずられるが、決して肉は離さない。レラが殊更に強く引こうものなら、毛を逆立てて威嚇した。
「もう留巣性の動物ではない。最上級の狩人だ」
 食事の変化に伴い、糞もよくするようになった。糞の中には未消化の毛や骨の細片が含まれ、この動物の胃腸の強さを思わせた。

 コタンで飼い始めてひと月が過ぎた頃、彼女はエトウルシに頼みごとをした。
「そろそろ外に連れ出してあげないといけない」
「コタンの近くにはウマやウシを飼育しているシサムがたくさんいる。予め警告しておく必要があるぞ」
「オオカミは先天的に何が獲物かを習得していない。自己から逃げる者を潜在的な獲物として学習するから、むしろオオカミからは逃げない方がいい」
「せめて手綱はつけてくれよ、僕が逃げてしまいそうで怖い」
 それから、オオカミと村を散歩するのがレラの日課になった。
 彼女が言うように、オオカミは逃げなければ人も動物も襲おうとしなかった。彼は村人たちから親しまれ、同時に慕われた。
 だがエトウルシには分からないこともあった。
「ねえ。最近オオカミがレラよりも他のアイヌたちに懐いて見えることがあるんだけど、何でなんだ?」
 するとアシㇼレラは得意げに語りだす。
「今この子は完全に人間を社会的な仲間として認識している。そして自分の立場がまだ弱いことも分かっている。ならば自分より強い知らない者に会ったらどうする?」
「懐くのか」
「そうだ、防衛本能になる」
「じゃあレラに対して耳を後ろに寝かせてできる限り体を丸めようとし、他のアイヌたちに対してはお腹や首筋をさらすような行動をとるのは?」
 おっ、と眉を上げ、意外そうな顔をレラは浮かべる。
「よく見ているな。前者が能動的な服従で後者が受動的な服従だ」
「どう違うんだ?」
「信頼と降参だ」
 レラがそう言った瞬間、オオカミが身体を丸めてエトウルシの方に走り寄ってきた。その口の中から尖った牙が覗く。
「ちょっ。助けて」
「遊んでいるのだ、構ってやれ」
 レラは何食わぬ顔で眺めている。彼女は三か月が過ぎた時期には、オオカミをまるで猟犬のように扱い、協力して狩りを行うようになった。
 またちょうどこの頃エトウルシは、コタンの傍に住む佐久間(さくま)忠通(ただみち)というシサムと、漁業を通じて懇意になっていた。彼は海で生活する仲間で、アイヌに対しても区別なく人当たりが良いことから、シサムの中でも特別な位置づけをなされていた。
 そんな佐久間の希望もあって、アシㇼレラとオオカミを含めた面々で一緒に狩りを行ったことがある。
「アシㇼレラさん。こんなことが可能なんですか」
 佐久間は、レラにおとなしく従って獲物の跡を嗅ぎ分けるエゾオオカミに驚嘆を見せていた。海の男佐久間からすれば、山の全てが新しいことだらけだろう。
「当たり前だ。私を何だと思っている」
 背筋を伸ばして威勢のいい声を出す。レラは調子に乗っているように見えるが、それは緊張の裏返しであり、普段よりエトウルシとの距離が近い。彼女は佐久間のような懇意の者であっても、他人に対しては絶対に間隔を取った。
「女子(おなご)です」
 佐久間はレラのとぼけに真面目腐った答えを返した。ちなみに彼はあいさつ程度にはアイヌ語を話すことができるが、普段はエトウルシやアシㇼレラが日本語に合わせていた。
「知っている」、と面白味のない返答に、彼女は少しふてた。
 一方オオカミの方はご機嫌なのか、通る場所の樹木に大きく足を上げての放尿を繰り返していた。季節は五月で、所々に雪は残っていたが、日の当たる地面にはしっかりと土が見えている。
「オオカミは頻尿なのですか」
 案の定、佐久間は珍しそうに観察していた。
「オオカミは鼻がいい。尿の臭いを一月以上嗅ぎ分けられるから、自分が利用する領域に尿をかけ、仲間をけん制する境界区画を引く。でも残念だ。この子以外にオオカミは見当たらない」
 アシㇼレラの眉目が下がる。エトウルシは彼女が、オオカミの仲間を探して、毎日のように山中を探し回っていることを知っていた。
「アシㇼレラさんはオオカミの母親を見つけたらどうするのです?」
「この子を返す」
 その言葉にエトウルシは振り返った。約束が違う。だがアシㇼレラの側も、こちらの反応を予想していたようだった。
「その眼はなんだエト。私はこの子を放って置いたら死ぬから、コタンで飼うと言った。母親がいるなら話は別だ」
「そうすればイオマンテはどうなる?」
「知らん。熊でも勝手に探せばいい」
「勝手なこというなよ。どれだけ大変か分かっているのか」
「イオマンテをやめればいい」
「だからなあ」
 自己中が過ぎる。こちらの努力を一言で片づけないで欲しい。
「まあまあ二人とも」
 佐久間が笑って間に入った。彼はどこまでも柔和で、諍(いさか)いを起こすのをエトウルシは見たことが無かった。
「ほら、佐久間も私が正しいと言っている」
「佐久間さんはお前と違って大人なんだ。同じ扱いにするな」
 そう言って、ふとエトウルシはあることが気になった。
「佐久間さんって年齢はいくつでしたっけ?」
「二十二になります」
「そうですか、たった二つ違いでしたか」
 エトウルシは驚く。その佇まいからなんとなく、自分よりずっと年上だと思っていた。
「よく年上に見られます。私は老けて見えるのでしょうか」
「いえいえ、そんなことは。逞しいので勘違いしました」
 謝るエトウルシにアシㇼレラは言う。
「エトは敬語ばかり使っているからそう見える」
 佐久間とエトウルシは顔を見合わせた
「お互い敬語、やめましょうか」と言う佐久間に、頷くエトウルシ。
「イランカラㇷ゚テ(よろしく)」
「よろしく」
 距離が近くなったような気がする。そして二人はアイヌ式の目礼をした。しかしレラはエトウルシの側にいて、佐久間に挨拶もしない。そうかと思えば急に質問を飛ばした。
「佐久間は結婚しているか?」
 人と仲良くなりたいのかなりたくないのか、難しい女である。
「してないよ」
「好きな相手はいないのか?」少しだけ身を乗り出す。
 結婚に興味ないような顔して滅茶苦茶聞いているじゃないかとエトウルシは思う。
「昔はいたけど今はいないな」
「逃げられたのか」
 そんな質問の仕方があるか。
 だが佐久間は、至って真面目に答えた。
「いや、逃げたのは私だった。大切な人を守ることを忘れ、己の欲望に走った。全て私が悪かった」
 いつも朗らかな佐久間の表情が翳る。心なしかオオカミまでも、小便を止めてしょげた顔をしている。人にはいろいろな過去があるものだ。
「佐久間さんでもそんなことがあるのか。やっぱり俺は怖いな」
「エトはただでさえ弱気なのだから、そんなことを口に出すな」
 たまに正論を言うアシㇼレラほど腹の立つものはない。
「エトウルシさんは優しいから、きっといい相手が見つかるよ」
 気遣いを見せる佐久間に、「エトは別に優しくない」と一蹴。
「アシㇼレラさんから見たらね。でも私には分かるよ」
 そう言った佐久間は、意味ありげにエトウルシに微笑んだ。
 それはどういう意味だろうか。また悪い癖で思索に耽ろうとしたその時、オオカミが耳を立てた。エトウルシにも分かる、狩りの気配のようなものを発している。
「いる」
 レラが静かに言う。エトウルシと佐久間が黙ったのと同時に、オオカミは音もなく駆けた。そのまま速度を上げ、綺麗な山なりの軌道で藪にめがけて飛び上がった。
 小動物の叫び声がする。イセポ(ウサギ)が暴れていた。オオカミはまず始めに前脚で獲物を固定し、それに続いて鼻口部で突きかかった。獲物を即座に殺そうとするのではなく体の色々な箇所に何度も噛みつき、弱ったところでこちらに運んでくる。これがオオカミの、己より小さな獲物に対する狩りの手法だった。
 レラは無駄のない手つきで、痙攣するウサギの首を絞めた。片眼がどろりと飛び出し、まもなくウサギは動かなくなる。
「凄まじい……」と言葉を失う佐久間。
 アシㇼレラはその言葉を否定として受け取ったようだ。
「こうしないと生き物は死なない。シサムはアイヌの狩りを野蛮と言うのに、自分たちも肉は食う」
 すぐに答えたのは、シサムからの蔑みの眼を、エトウルシもアシㇼレラも受け慣れていたからだ。しかし佐久間は、「違うんだ」と手を横に振った。
「もう急がなくても逃げられることはないのに。レラさんの手つきの速さ、少しでも早く痛みを取り除いてやるようだった」
 ウサギを下処理するレラの手が止まった。
「なぜ、それを感じた」
「レラさん本当は、自分の方が死ねばいいと思っているような気がしたから」
 アシㇼレラの纏う色が変わった。咄嗟に両手を出して、胸の前で軽く交差させる。それは彼女の防衛行動だった。
「……私は、人間など要らないと思っている」
 それから、ふっと白い息を吐く。エトウルシ自身はこの彼女の態度を何度も見たことがあったが、シサムに漏らす場面は初めてだ。
「そうなんだ。でも私は、人が生きるこの世界を美しいと思う」
 佐久間はやんわりとした口調で否定した。風が通り抜ける。エトウルシも同じ気持ちであった。
「水を差してすみません。私もウサギ料理が食べたい」
 本当にすまなそうな佐久間に、アシㇼレラは表情を解いた。
「私のチセに伝わる、秘伝の料理を作る!」と、胸を張って宣言する。
 伝わっているのか秘伝なのかは知らないが、人間など要らないと言う彼女が一番人を愛していることは、エトウルシも知っていた。

  2
 明治二十年。人骨と、生肉が焼ける独特の臭気が鼻腔を突く。おびただしい数の死体の中でまた一人、死んだばかりのアイヌが燃やされる。
 臭いの根源は、今焼かれつつある遺体ではなく、野辺に散乱した白骨化しきらぬ遺体たちである。その中には顔の造形が見てとれる遺体さえ残っていた。深淵を覗く真っ黒な眼窩は、まるで劫火の熱さを訴えるように見えて仕方がない。役所により遺体の骨は、燃え屑から掘り起こして壺に保管するよう指示されていたが、間に合わずに放置されたままの遺体が増えてきている。
 当然だ。コタン内だけで、一日十二人ものアイヌが死ぬような日が現実のものとなっていた。この野原から白い煙が絶えなくなってから、もう一月以上にもなる。
 エトウルシにできることは何もなかった。コタンの歴史の中で、自分が酋長になってから最も多くの村人が死んだ。墓標(アッシニ)も立てられず、あの世に送り届けるための正装で着飾ることもできず、伝統の土葬で埋葬することも叶わない。ご先祖様が見たらどう思うだろうかと考え、心は暗くなるばかりだった。

「エト、そんなところで何してる。早く戻るぞ」
 いつも以上に髪を短くし、大きな布で口と手を覆った声の主がエトウルシの袖を引っ張る。一緒に狩りをした頃からはや一年。アシㇼレラは十八歳になっていた。
「今日はあと何人が亡くなっていたか分かるか?」
「知るわけない。今の間にまた死んだかもしれない」
「そうだな」エトウルシは頷き、唇を真一文字に結ぶ。
 心の休まる時はなかった。こんなとき、コラㇺヌカㇻさんが生きていれば、と何度も思った。コラㇺヌカㇻは明治九年の強制移住の途中で怒りのあまり病気になり、船中でその命を失っていた。
「私と関わるとみな不幸になる」
 そう言って、虚しく笑ったアシㇼレラの表情を思い出す。奉野と離れ離れになったばかりで、続けざまの不幸に襲われた彼女の心中を思うと胸が痛んだものだ。

 エトウルシら樺太アイヌが明治九年の七月に強制的に住まわされることになったのは、石狩平野のほぼ中央に位置し、南東は江別村、南西は札幌に連なる、対雁(ついしかり)という土地であった。土壌は肥沃とされていたので、明治四年の六月には仙台藩から農民二十四戸の入植があったが、交通の不便と大雪に耐えられず、二年後には二戸を残し他へ転出してしまった。
 開拓使がこの地を移住先としたのは、未開の地に住まわすことで否が応でも開拓に専念させ、北海道の農業生産性の向上を図るためであった。明治十年には民家を買い上げて学校を開設し、補助金を出して積極的に日本の文化をアイヌの子供たちに学ばせた。短期間のうちに樺太アイヌの慣習や伝統を変えてしまおうと試みの一環で、農具や工具の支給も行った。しかしアイヌたちは不慣れな農業に対して消極的であり、無理やり雑穀や馬鈴薯を作らせてみても全く意欲を示さず、しまいに若い者は漁場に働きに出ていく始末であった。開拓使は方針を余儀なくされ、ついに石狩川筋に四か所のサケ漁場と厚田郡に三か所のニシン漁場を購入。樺太アイヌの漁場とし、シサムの漁夫を雇い入れて指導に当たらせた。
 それからというものの対雁で生活をしていた壮健な男女は、春には厚田のニシン漁場に、五月末から七月末までは来札でのマス漁、九月から秋の暮れまでは石狩川筋のサケ漁の出稼ぎに精を出した。そのうち、対雁に帰るのが億劫になり、来札に居を移して漁業に専念するほうを選ぶ者が次第に多くなった。エトウルシは十六歳で対雁の親元を離れて来札に移り、二年遅れてアシㇼレラも、計画の失敗により補助金が打ち切りとなる学校を辞め、エトウルシの仮小屋で共に暮らすことにした。
 来札に移住する者は年を追うごとに増え、明治十八年には六百人余りが石狩に寄留し、対雁に残ったアイヌはわずか百人程度であった。
 漁業は順調な時もあれば不調の年も珍しくなく不安定であったが、樺太アイヌたちは伝統の漁業ができることにある程度の満足を覚え、新たなる生活に展望を見出していた。
 すべてが狂いだしたのは忘れもしない、今から半年前の七月のことである。
 仕事で函館に出向いていた若い男の一人が、帰ってきた後急速に体調を悪くした。下痢の症状が酷く、立っているだけでも米のとぎ汁のような便が流れ出る。その常軌を逸した様子を見て、家族は石狩に在勤するシサム医師の元で診察を受けるよう促した。患者は道中でも嘔吐と下痢を繰り返し、着いた頃には自らの粘液でびしょ濡れになっていた。
 病名を告げた医師の蒼白な顔。病を知るシサムたちは一様に顔を歪め、その場から逃げるように去ったという。
 コレラ。明治十年ごろから爆発的に流行したその病は、「虎列刺」の当て字に違わぬ獰猛な伝染病であり、全国の患者数は十六万二六三七人で、死者は十万人を超えていた。北海道に限定しても、二千人近い死者を出している。
 彼がその診断を受けた頃には症状が酷く、診療所でも毎日数十リットルの下痢便を出し続けていた。まもなく重度の脱水症状に陥り、皮膚は弾力を失って痙攣を繰り返した。死ぬときは老人のように皺だらけになり、生前の面影を少しもとどめなかったという。
 最後の様子を見た妻、父母たちは、手を合わせて泣いて震えた。
 悲しかったからではない。この時には自らもまた、米のとぎ汁のような便に襲われ始めていることに気づいていたのである。
 コレラの感染経路について、詳しいことは分かっていない。患者の体液のみで感染が拡大したのか、あるいは摂取した水や食物の中にコレラ菌で汚染されたものが多く流入していたのか。どちらにせよ一つ言えるのは、コレラは樺太アイヌの一家に起きた悲劇に留まらなかったということだ。
 八月に入ると、ついに対雁や来札に定住するアイヌに感染が認められた。以後九月にかけて、死者は四十一人に及んだ。広まる理由は単純で、本来距離を置いて家を建てるアイヌがすみ場を限定されて、国の定める狭い空間に押し込められたからであった。
 コレラは水分を摂取することで症状を緩和することができるが、ほとんどの病人は水を飲む体力もない。仮に飲んでも嚥下できず、余計に水分を吐き出してしまう。貧弱な設備の中に残された、具体的な治療法は何一つない。十月に入ると患者のほとんどが死に、村中に干からびて顔の区別もつかぬ遺体たちが残された。
 そこでやっと、感染に落ち着きが見られた。
 死んだ者の中には、コラㇺヌカㇻに代わってコタンを引っ張ってくれた壮年のアイヌも交っており、再興の指導者を失っていた。そのため二十一歳のエトウルシが酋長に就任した際は、他に代わりがいないという悲壮な覚悟が付きまとった。
 地獄はこれで終わるはずであった。しかし収束の目処がついた、十月のこと。ある日一人のシサムが病に倒れ、その肌に赤い斑点があるのが確認された。まもなく来札の多数のアイヌたちは、同様の症状に襲われる。
 高い伝染力。斑点。
 全てが不治の病として知られる天然痘の特徴と一致していた。
 ようやく新たな一歩を踏み出せる。みなの思いは幻想に終わった……

「エト、ぼやっとするな。佐久間が呼んでる」
 アシㇼレラが手袋の上から袖を掴み、エトウルシの意識は引き戻された。
 木々の隙間から手を左右に振るのは、佐久間忠通である。彼はアイヌでないにも関わらず、コタンが疫病で崩壊してからは、死者の埋葬を積極的に手伝ってくれていた。それほど大きくない体つきからは考えられぬほど何をやっても粘り強く、冷静な男だった。
 佐久間は今朝方に亡くなった三十代の婦人を、連れの男と共に大八車で曳いてこちらに向かっている。
「シリトの一家が危ない。彼女の他に家族の全員に水疱が発現して、一人にはもう膿疱が現れている」
 佐久間は離れた所から早口で言った。
「またか」
 亡骸の上で真っ赤に膨れ上がった幾多の瘢痕が見えて、エトウルシは表情を曇らせる。どれだけ見ても慣れるものではない。
「一度全員隔離すべきだな」
 何食わぬ顔で呟くアシㇼレラ。彼女は愛犬のラムアンが死んだ際には泣きむせび、こちらの言うことなどちっとも聞こうとしなかったのに、自分と関係がないと思えば極めて冷静なことを言う。ありがたいことでもあるが、時々その発言の全てが無責任に思えてエトウルシは腹が立つ。
「シリトさんと会うときは絶対に布をもう一枚羽織った方がいいぞ」
 佐久間は真剣な顔を崩さず、すぐに前に向き直る。残された者たちが立ち止まっている暇などない。アシㇼレラとエトウルシも、小走りで来札のコタンへと帰った。
 来札の家屋は藁ぶきではなく、シサムにならった日本式で作られている。人っ子一人いない閑散としたコタンを目の前にすると、まるで自分が全く知らない民族の集落に来たような気持になる。それは来札での暮らしの一年目に感じた奇妙な心地と同じだった。やはり、自分たちはこの国に歓迎されていない。
 そんな静まり返った木造家屋の一つから声が聞こえた。泣きじゃくる、悲痛な声だった。
「大丈夫ですか?」
 エトウルシは声のする方に思わず歩み寄った。見知った者の家であったからだ。
「寄り道をするな。無意味だ」
 アシㇼレラが止めたがエトウルシは構わず家の中へと足を踏み入れた。
 男が一人、蹲っている。齢はエトウルシより十も上で、頼りになる男であったが、今は廃人のごとく泣き叫んでいる。
「クテキラさん、しっかりしてください!」
 エトウルシが肩を叩くと、男はむくりと上体を上げた。その顔の上にはびっしりと岩のように発疹が貼りついており、先に声を聞かなければ誰か分からぬほどであった。
「家内が死んだのと同じように俺は死ぬんだ。もうどうにもならないんだ」
「そんなことはありません。石灰石を撒いて、ニンニクを飾り、きちんとご飯を食べれば必ずパコㇿカムイ(疱瘡神)も去ります」
「黙れこの嘘つき。俺は本気で祈ったが家内は死んだ。この病気は治らないんだ」
 クテキラは苛立っていた。彼が本当にエトウルシに騙されたと感じているかといえば、恐らく否だ。しかし誰しも悪ではないと知っているからこそ、内に滞留する怒りは、触れるものをあまねく切り裂く刃となる。
「そうだ、治らない」
 どう宥めようかと思案する間に、後ろから声を上げたのはアシㇼレラだった。
「エトはすぐに寄り道をする。早く死体を運ばないと病気が広がる」
 クテキラにも聞こえたか。さすがにこれは放って置けない。エトウルシはすぐに家を出て、有無を言わせずアシㇼレラを叩いた。
「病人がいる所でなんてことを言うんだ。もっと勇気づけることができないのかよ。大体レラはどうして感じないんだ。同じコタンの仲間なら誰だって情というものを……」
 そこまで捲し立てて、視界がぐらりと揺れた。何が起きたのか一瞬当惑する。少し遅れてエトウルシは、肌の痛みと共に彼女に殴り返されたことを理解した。
「うるさい。情けを掛けるから死ぬことが辛くなる。死ぬ方も生きる方も。エトはずいぶん痩せている。自分の首を絞めてはいけない」
 アシㇼレラは行動とは裏腹に、冷静な口調だった。
「痛い」
「反応が遅い」
 元来、レラは生き物の不幸や死に敏感な人間のはずである。エトウルシはやっと、レラが敢えて何者にも感情を注がないように振舞っていることに気が付いた。やるべきことが他にある以上、冷静さを失っていたのはむしろ自分の方なのかもしれない。
「自分勝手だったよ。この通り、謝る」
「足りない」
 ふん、と顔を背けた。察するに、エトウルシを殴ったことには彼女なりの罪悪を感じているようだった。
「レラ、それでも僕はお前のおかげで生きている」
「勝手にエトを私の大事な人にするな」
「さしずめ、干支(エト)のようにいつも身近にあるということだな」
「冬よりも寒い」
 布で覆われた状態でも、エトウルシ渾身の洒落に、レラが嫌な顔をしているのが見てとれた。
「冗談を言う暇があれば、そのぶん早くシリトの家に行ける」
「レラ。僕を殴るのは構わないけど、感染の可能性があることだけは忘れないでくれよ」
 本当は何より、アシㇼレラには疫病からなるべく離れた所にいて欲しいという思いが強い。
「エトを殴って病気にかかるなら、もうとっくに罹っている」
 その通りだが、だからといって心配が和らぐわけでもない。
「僕にとってお前は最後の家族なんだから、できれば離れていて欲しいんだ」
「ほっとくと死体から感染して死ぬ。それなら私は死体を運んでから死ぬ」
 いつからレラはこんなに論理的に物事を考えるようになっただろうか。返す言葉に困っていると、彼女はさらに追い打ちをかけた。
「仮にどちらかが休むならエトの方だ。エトは私よりも力がよわい」
 気にしていることをはっきり言うなと思う。エトウルシは幼い頃から病弱であった。
 自らの頬を撫でると、ほんのわずかにはなったが、まだ異物の感触が残っている。それはエトウルシが疫病との壮絶な闘いの末に負った瘢痕。消えるまでは嫌でも思い出すであろう負の記憶。今でも毎日のようにあの悪夢に襲われる。

 毒牙に侵されたのはひと月前、天然痘が大地を支配し始めたころ。毎日のように死体を焼いたつけが周ったのであった。
 突然の高熱。以前から頭痛など体調に異変をきたしている実感はあったが、見て見ぬふりをしていた。熱は三日三晩に及び、エトウルシは直感した。すぐにアシㇼレラを追い出して家を閉ざし、一人で閉じこもった。
 天然痘により、十月には六人で抑えられていた死者が十一月には四十八人になり、十二月に入ってからは、半月もせぬうちに十一月の死者を超えていた。患者の死亡率は異常な高さで、コレラの最盛期を上回って人が斃れていく様子をエトウルシは見ている。自分だけが例外であるはずがなかった。
 悪い予感は的中するものだ。
 頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。何度も死にざまを見届けてきた、天然痘そのものである。エトウルシは死を覚悟し遺書を記そうとしたが、それすらもままならなくなった。発疹が出始めた次の日に、再度高熱に襲われたのだ。
 発疹が化膿して膿疱となった。赤く膨れ上がった無数のそれは、一つ一つに痛覚が宿り、まるで別の生き物に身体を支配されているようだった。他人から見れば、体に虫を飼っているのかと疑うほど立体感のある襞が表面を覆った。
 天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われると言われており、エトウルシはまもなく呼吸困難に陥った。自分の身体の内側にまで突起が広がっていることを想像するだけで、生きる気力が奪われた。
 さらに膿疱が破けた出血痕から別の病原体が混入し、膨れ、灼熱のように痛んだ。寝転がると膿疱が弾けて膿み、起き上がると腰痛・腹痛に苦しめられた。
 天然痘を直す手段は、種痘(天然痘の病原体を体内に入れること。類型のなかでは比較的病状が軽い牛痘が用いられていた)によって事前に免疫を付けておくのみだった。他にこれといった治療法がなく、とりわけ感染症に対する免疫のない樺太アイヌでは膿疱を発症した時点で半分は死亡、出血すれば八割は死亡すると言われていた。
 エトウルシは家庭を持たなかった。女に興味がないと言えば嘘になるが、毎日に忙殺されてついつい結婚が後回しになっていた。だがこの時ばかりはそれが救いであった。妻子供が天然痘に斃れてゆく様を見れば、間違いなく気が狂ってしまうと思った。
 唯一接触があったのはアシㇼレラで、彼女は毎日エトウルシの家にやってくると食料を置き、窓から大量の石炭酸や石灰を撒いた。石灰には消毒作用があり、病原体の除去に効果があるとされていた。
「がんばれエト」そう言って帰ってゆく。
 今更何の意味がある。石灰の粉が器官に入り目に染みるたびにエトウルシはむせ、強引に散布する彼女に腹立たしささえ感じたものだったが、結果的にこれが自らの命を救った。
 エトウルシは天然痘以外の致命的な病気を併発せずに助かった。痛みに疲弊しながらも、きわどい生死の境から脱却したのである。膿疱は少しずつ縮んで色が落ち、それに伴って体から痛みが取れていった。
 およそ二週間ぶりに家から出た。体中を隙間なく布で巻き付けたのは、残った瘢痕を隠すためではなく、健康な村人たちには移すわけにはいかないという気持ちに他ならなかった。
 アシㇼレラは泣いていた。
「死んだと思った」と彼女は言った。
「お前を置いて死ねるわけがない」とエトウルシが言うと、「格好はつけなくていい」と返される。
 久々のとりとめのない会話に、自身もまた涙が溢れかけた。
 一度天然痘に感染した者は二度とかかることはない。
 エトウルシは先頭に立って、以前にもまして病死者の死体を運んだ。原型を失うほどに突起した死者の肌を見る度に自らの闘病が思い起こされ、どれほど苦しかったことだろうと胸が締め付けられる。
 どうしてこんな目に合わなくてはいけないのか。自分たちが一体何をしたというのだろうか。

 過去に思いを馳せるうちに、シリトの家屋に辿り着く。すでに現場には大量の石灰が撒かれ、厳戒態勢が敷かれていた。
「亡くなった人はいるか?」
 エトウルシは消毒に精を出す若者に声を掛けた。振り向いた彼は石炭酸の粉で目が赤く充血している。石灰も石炭酸も、決して人の健康に良いものではなかった。
「祖母(フチ)が亡くなりましたが、ちょうどさっき佐久間さんが運んで行きました」
 その言葉にレラが肘をつく。それ見ろ、呑気にしているからだと言いたげだ。
「他に今日亡くなった者は?」
「今のところはいません」
「よかった」
 安堵の息をつく。それにしても佐久間さんは、誰よりも身を削って働いてくれている。
「レラ、僕はシリトさんたちの看病をしてくる。お前は先に家に帰っていてくれ。無駄をするなとは言わせない」
「分かった、私はオオカミの世話をする」
 レラが帰るのを見届けて、エトウルシはシリトの家屋に足を踏み入れた。中は石灰の煙で白く濁っている。
「大丈夫ですか!」
 すぐにエトウルシは、体に布を巻き付けて横になっている男を見つけた。この家の主人シリトだ。エトウルシの大叔父にあたり、小さいころはよく世話になっていた。
「エト」
 力なく首を向けたシリトは、突起が凝集する喉を振り絞る。その肌も多分に漏れず膿疱がびっしりと貼りついており、中央に臍窩と呼ばれる窪みがあることが、彼の病が天然痘であると物語っていた。
「シリトさん。この病は、気を持てば必ず……」
「もういい」
 シリトが目を細めて首を振った。
「私も自分が死ぬことくらいは分かっている。お前は優しすぎて嘘をつくのが下手くそだ。家族はみな死んだ。思い残すことはない」
「僕は嫌です」
「お前は若い。このコタンを捨てろ。未来はここじゃないところにある」
 シリトは死を受け入れるどころか、一つの民族の崩壊すらも観念していた。エトウルシには到底、そんな未来を受け入れることが出来ない。
「どうして……、どうして樺太アイヌは滅びるのですか」
 相手を気遣う立場のはずが、つい当たるような口調になってしまう。
「残念ながら答えられない。分からないまま死んでゆく。私は無様だ」
 シリトは自嘲気味に笑った。
「きっと僕のせいです」
 自分に力がないから。自分にみんなを引っ張る能力がないから。駄目だ、涙が出そうになる。
「責任を背負い過ぎるな。エトは誰よりも人の気持ちを慮る才能があるが、余りに生まれた時代が悪かった。全部をこなそうとしなくていい。まずはレラのことを守ってやってくれ」
 またレラの話だ。エトウルシには彼女が分からない。小さい頃からの馴染みで、来札に来てからは同じ卓を囲ってきたのにだ。彼女は人並み外れた考えを持ち、こちらの言うことなど全く聞いてこなかった。果たして自分にしてやれることなどあるのだろうか。
 その逡巡が伝わったか。
「一度、よく考えて見ろ」とシリトは言った。
 未来。民族。病。レラ。
 考えなくてはいけないことが多すぎて、ついすべてを放棄してしまいたくなる。救えるものは何なのか。
 石灰にまみれた藁の上で、エトウルシは溢れ出る感情の底に沈んだ。

  3
 目を開けると、そこには見慣れた我が家の天井が浮かんでいる。
 貼られた屋根の木材が薄黒くなっているのを見ると、時刻はすでに夕時になっているらしい。
「大丈夫か、エトウルシ」
 そこにいたのは、心配そうな顔をする佐久間だった。
「エト、シリトさんの家の床で気絶していたんだぞ。覚えているか?きっと睡眠時間が足りてないんだ」
 ああそうだ。自分はシリトさんと語らうつもりで……。
「僕は、また迷惑をかけたのか?」
「疲れてるんだ。仕方ないだろう、お互い様だ」
 佐久間は、自らの顔の半分を覆う包帯を差して笑う。片目しか見えていない。彼はつい先週、野辺で死者の弔いをする途中に昏倒し、炎の中に倒れこんだのだった。慌てて皆が救出し、寝床へと運んだ。エトウルシが呼びかける中、完全に放心した表情で自らの火傷をなぞる佐久間には、言い知れぬ怖さがあったことを覚えている。しかし彼は、次の日には何事もなかったようにコタンの整備に励み、みなを驚愕させていた。
「佐久間はシサムなのに、どうしてそこまで頑張れる。僕なんて足手まといになるばかりだ」
 目が潤んでくる。この弱虫が。
「誰も気にしていない。それよりアシㇼレラが心配していた。元気な顔を見せてやってくれ」
 囲炉裏で水が湧かされていた。佐久間は椀に湯を注ぎ、エトウルシの前に差し出す。底冷えのする暗い室内で、部屋の灯と椀の湯気が陽炎のように揺れていた。
 エトウルシが落ち着くのを見ると、佐久間は素早く身の回りを整え、帰る準備をする。
「今夜は雪が降っていて寒い。体調に気を付けろよ」
 どうやら彼は自分の時間を削って、エトウルシの看病をしてくれていたようだ。
 一人になり、しばらく床に寝転んでからゆっくりと起き上がる。長い長い、考え事だった。いつも自分は流されるばかりだ。過去を思い返したせいで余計、現状に陰鬱な気分になっている。あの時から自分は病気になり、佐久間は火傷を負い、村人たちは次々と死んだ。そして……
 窓の外から、猛獣の激しい唸り声が響いた。
 はっとするものがあった。エトウルシは呼応するように外に出る。響きの先へと走った。それほどの距離ではないにも関わらず、降りしきる雪と万全ではない身体に意識が朦朧とする。
 声の元には、両手を胸の前に置いたアシㇼレラが立っていた。彼女の前には檻。成獣となったオオカミが、狂ったようにきはだの檻に突進することを繰り返している。眼は血走り、何度も噛みつきを繰り返したためか、歯肉は裂けて血が滲んでいる。
 体躯が巨大化し、性的に成熟し、なにより疫病の訪れから自由に散歩に連れ出してやることができなくなったせいで、エゾオオカミの攻撃性は格段に増していた。以前に村の者が餌をあげようとして指を噛みちぎられてからというものの、呼び名はカミアシ(化け物)とされ、誰も近寄らなくなり、レラの責任にされた。この災禍の中では、村人たちも心を大らかに持つ余裕が無かった。
 それでも彼女はこの猛獣と接触を続けていた。今や世話の全てが彼女の肩に担わされている。だが唯一心を通わせた彼女でさえ、オオカミの精神が不安定な時はどうしようもなく激しく吠え立てられた。
 背中の毛を立てる猛獣を前に、アシㇼレラはいつもに増して戸惑っている。こちらの存在に気が付いた彼女は、珍しく泣きそうな顔を晒していた。
 エトウルシの中の気負いや誇り。様々なものが弾けた。
 駆け寄る。雪に足を取られてよろめいた。しかしそのまま歩いて彼女の頭を抱き寄せる。
「ごめん」
 せわしなく発した唇が、彼女の耳にぶつかった。エトウルシはあまり背が高くない。
 彼女は腕の中で、小刻みに震えていた。
「なんだ……エト。心配したぞ」
 オオカミは猛り、エトウルシの眼は涙に濁り、肩に埋まるアシㇼレラの様子は分からない。
 ごめんな。何も気づけなかったよ。僕は一番身近なものすら守れないんだよ。

 吹雪は収まることを知らず、小さな世界を単色に染め上げていた。
  
  
 明治二十年 四月。
 蝦夷にも、ようやく春の風が訪れていた。
 コレラによる死者が三十二名。天然痘による死者が二百八十七名。他の病気を合わせると八百人余りの樺太アイヌ民族で、三百六十六名が葬られた計算になる。さらに住人の少なかった対雁でも、百体以上の遺骨が見つかっているという。明治十九年からたった一年少しの間での人数だ。
 すっかり人気の無くなった寂れたコタンに、アシㇼレラはいた。からりとした晴天が、一層虚しさを強める。イオマンテが行われる見込みなど、とうに消えていた。
 アシㇼレラは身を屈めて檻の中を覗き込む。この日、オオカミの様子は安定していた。  
 眼を合わせて頷き、檻を縛り続けたぶどうづるをマキリで切り裂く。
 扉を開くと、オオカミの前に広い世界が広がった。尻尾までを含めると、その体長はアシㇼレラの背丈よりも長い。
 犬より発達した鼻先を持つ頭を撫でる。オオカミは特別彼女に愛想を振りまくことはしなかったが、嫌がることもしない。黄褐色の瞳は遠い大地を捉えている。
 アシㇼレラはその瞳と目線を合わせた。
「あなたにはもう、死ぬ定めはない。だから名前をつける。あなたの名前はイコロ(たからもの)。カミアシとは呼ばせない」
 首に手を回し、そのまま頬を寄り添わせる。柔らかい。毛並みも風も世界も、何もかもが。

 イコロは頷くように、耳を後ろに寝かせたのだった。






  
  第五章 独善囚人

 明治二十年 五月 石狩国厚田郡 望来

  1
「しっかしなあ」
 呟いたのは髭を蓄えた年嵩の男だった。山を歩く男は猟銃を抱え、お世辞にも幸せそうとは言えぬ面を下げている。
「なあ、本当に群れの長がこんなところにいるのか」
 森の中は、山小屋で留守番をしている仲間を除くとたった二人であり、その言葉は当然のごとく、前方を不安げに歩く若者に浴びせられたものだ。
「はい。エゾオオカミの中でも最も大きな個体がこの山中に生息しているという情報が入っております……」
 非難を浴びた若者は、歯切れ悪く答えた。
「もし見つけられなかったならば、あれほど集めた子オオカミを何に使えばいい?」
 年嵩の男はじろりとその背を睨む。
「きっ、きっと見つかるに違いありません。私たちも全力で探しますので。つい近日での目撃もありますし。しかしそれにしても、開拓使はけち臭いことを言うものですなあ……」
 若者は冷や汗をかきながら矢継ぎ早に発言し、なんとか男の追求から逃れようとした。
「金にならん愚痴を垂れている場合か。お前ら二人の事前の調査が足りんのだ。これだけ何日も山を歩き回って一銭も手に入らないことは許されない」
 年嵩の男は反発する。太陽は鳥の眩しく、鳴き声と木々の葉音が異様に煩い。ほんの少し前までの喜びは、完全に消えてしまっていた。

 時は明治五年に遡る。開拓使は北海道開発の一環で日高地方に新冠牧場を開設する。牧馬を飼育したのは土地開発の要となる交通運搬手段・農耕用の大型馬匹の需要に応えるためであり、大きな金の投資に応える成算があった。
 ところがすぐに想定外の事態が起こった。飼育された家畜たちが、ことごとくオオカミの餌食になったのだ。「仔馬を夏の間の食物にしているようだ」とは、当時牧場に在勤していた開拓使の役人の言葉で、オオカミたちは仔馬が少なくなれば親馬をも襲い、牧場の存続を揺さぶった。襲来が夜間のために銃殺は難しく、巡視を強化し、かがり火を焚いて空砲で脅すなどの対策は取ったものの被害は防げなかった。
 完全に害獣の扱いを受けたオオカミ。そこで明治政府のお雇い外国人エドウィン・ダンは、故国アメリカで用いられた新たな手段に出た。それは毒殺である。サンフランシスコから取り寄せた毒薬ストリキニーネを馬肉に仕込むことで、オオカミの撲滅を計るというものであった。
 初めに実施されたのは明治十一年七月。効果は絶大だった。撒き餌の周りには多くのオオカミが死体となって転がり、カラスも野犬もキツネも、その巻き添えを食って倒れていた。ストリキニーネは無臭だが強い苦みを持つため、異変に気付いて撤退したオオカミもいたと考えられるが、この猛毒は少量でも激しい強直性痙攣を起こし、強烈な喉の渇きをもたらす。山中の川の畔では、無数のオオカミが息絶えているのが発見されたのだった。
 同時期の明治十年九月に、開拓使が報奨金制度を導入したことも災いした。この制度はオオカミやヒグマを殺した証拠に切り取った四肢を添えて届け出た者に、一頭につき二円の手当を支給するというものだ。
 民間人は毒餌の使用を禁じられていたので、基本的には銃による狩猟をする免許を得た者がこれに従事することになる。札幌本庁はオオカミを駆逐する一心で、報奨金の額を翌明治十一年には七円に引き上げ、十五年七月には一部管轄区で破格ともいえる十円に変更していた。このことにより、北海道各地でオオカミ狩りが加速する。
 それでも、日高地方での盛んな狩猟や毒餌から逃れた数少ない群れたちは、石狩国にその住処を移した。彼らはウサギやネズミなどの小動物を、こまめに屠って飢えを凌ぐ。ところが後を追うようにして狩猟者も増えた。明治十四年には石狩ではわずか三例であったオオカミの駆除数は、明治十九年で二百六十三匹に達していた。

 報奨金に目を付けた二人の若者はオオカミ猟が金になると猟師をそそのかし、こうして山奥まで案内してきたのだが、如何せん遅すぎた。めぼしいパック(オオカミの群れ)はすでに他の狩猟者によって屠られ、一日中歩き回ってもその姿を目撃することはできなかった。
 尚もめげずに探し回ったところ、ついに洞穴の中に小さなオオカミが残されているのを発見した。獣の大きさはネズミよりわずかに大きな程度で、周りに成獣がいないところを見ると、ごく最近にパックが狩猟者たちに襲われたとみられる。そしてまだほとんど動くことのできぬ赤子だけが、発見されずに済んだというわけだ。
 三人は、付近を隈なく探索した。オオカミの交尾期は冬の一月二月であり、妊娠期間は六十一日から六十三日。ここにパックがあったとすれば、季節的に他の胎児が居てもおかしくはない。
 彼らの推測は的中した。木の陰の洞穴を掘り起こし続けていると、十五匹の乳児を捕獲することができたのだ。三人はひとまず、そのネズミ級のオオカミたちを山小屋の中に封じ込めた。早速体が弱っていた一匹を絞め殺して、小さな四肢を開拓使の元に送った。
 ところがだ。開拓使の返答は、「これに報奨金を授けることはできない」というものだった。小さな胎児はオオカミと認識するのが困難であることと、駆除すべき害獣には当たらないというのが不認定の理由だった。三人に残された手段は、乳児が一定の大きさに成長するまで育てるか、諦めて全てを解放するかのどちらかだった。
 できれば報奨金を得られるまで育てたいが、餌も分からない上、金もどれだけかかるか釈然としない。とはいえあまりに勿体ないので、若者の一人が山小屋に残ってオオカミの世話をし、残りの二人は新たに成獣を探して、狩猟を続行することにしたのである。

 そして、今日も山中を探し回ったが、エゾジカもエゾオオカミも見つからない。三人は焦っていた。このままでは全ての経費が無駄に終わってしまう。
「元はと言えば」、と髭の男が痺れを切らした口調で言った。
「お前が金になる商売だと言って提案してきたんだぞ。損失に終わればどうしてくれる」
 若い男の前で、猟銃がきらりと光る。
「ひっ……大丈夫ですから」
 彼は狩猟に関して言えば素人、猟師をおだてる一介の詭弁家に過ぎない。二人のどちらにとっても、失敗は許されないのであった。
「こんなところでなあ、何日もオオカミだらけの家で生活させられてなあ」
 人目がないのをいいことに、髭の男は少し感情を荒げすぎたようだ。
「オオカミだらけとは何の話でしょうか」
 眼の前に人影がいるとも気づかず、大声で捲し立てていた。
 二人が振り向くと、体躯の優れた大男が密林の藪に立っている。
「何者だ」
 髭の男はその場から一歩下がる。注意を払っていなかったとはいえ、猟師が動きのあるものに気づかないのは不覚だった。それにしても気配がない。
「怪しい者ではございません。ふと、この辺を通りかかったさすらいの旅人でございます」
 その体をねめるように見れば、筋肉は隆々。眼は細く、顔を不気味に開いて薄い笑みを浮かべている。身長は六尺(180㎝)を超え、風体には旅人らしからぬ気配がある。驚きで唾を飲みこむ若者には、鳥の声さえもが止む心地がした。
 若い男は数歩後ずさって、髭の男の顔をちらちらと窺う。得体のしれない人物の相手は、百戦錬磨の猟師に任せるのがよいと判断したのだ。
「オオカミ狩りをしているのか? ならば親切心で申すが、この辺りにオオカミはもういないぞ」
 髭の男は堂々と、強気を保って旅人の前に立った。
「そうなんですよ、旦那」
 旅人と名乗る男は、それを不自然な言葉遣いで茶化す。
「私も探していたところですが、見つからずに困っておりました。それが偶然、オオカミをたくさん飼っているとのお声を、小耳に挟んでしまいまして」
 しかし旅人の背には、およそ二尺の日本刀が挿されたのみである。オオカミ狩りが目的であれば、猟銃を背負わぬはずがない。
「戯言だ、放って置いてくれ。今日はもう帰るのだ」
 訝しんだ髭が、会話を切り上げようとしたところである。
 動きは余りにも滑らかで、無駄が無かった。
 果実を斬るように、髭の体に斜めに流れ落ちた刀身。髭の最後の発声はあっけなく、どこかあっけらかんとした様に見えた。だがまもなく髭の口から血が零れ落ち、服が滲んで生地の薄い部分から内臓が覗く。すぐに若い男は気持ち悪さに唸った。このような場面には慣れておらず、胃の中のものを軽く吐いた。それからようやく状況を理解する。
 行動を共にしていた髭の男は体の真ん中あたりを真っ赤にして地面に倒れ込み、力を失った手から猟銃が転がり落ちていた。それを拾う旅人の手つきはまるで道端に落ちた石を手に取るように緩慢で、この状況に対する畏れの色は毛ほども見られなかった。
 旅人は若い男には少しの視線も向けずに、猟銃をどのように背負うか考えている。若者はそれを見ながらも、荒い息をつくばかりで何も言えない。
「……おい!」
 やっとのことで発した言葉には、どこか無理に言わされたような焦りが見られる。
「なんですか」、と答える旅人は、対照的に落ち着きの姿勢を増していた。
 若い男は青白い顔で地面を指さして言う。「生きている」
 大地にへばりつく肉体は、自由意志には見えぬ不規則な痙攣を繰り返していた。
「知っています。これから緩慢な死を迎えるでしょう」
 悠長に答える旅人の顔を若者はまじまじと見る。
「気狂いか」
「今となってはこの男が気狂いでしょうねえ」
 旅人が見下げた地面の肉体は、人語では無い唸りを上げている。彼はその様子がおかしくて堪らないようだった。
「どうしてこんな状態で生きていられる?」
「内臓は無傷。ひっくり返してみたら綺麗ですよ」
 旅人の言う通り、肉体から血こそ溢れ出るものの、あとはすこぶるまともだった。見ていられずに、若者は旅人に目を移す。
「早く殺してやれ」
 一方旅人は死にかけの髭から目を離さない。
「人は内臓を斬ると簡単に死に、最後の煌めきに悦楽することができない。この方は幸福ですね」
 この瞬間も猟師の肉体は酷い有様が続き、春に咲き始めた山の野花たちが不気味な対比を演出していた。
「何が目的なんだ」
「簡単な話だ。オオカミを俺に引き渡せ」
 旅人は猟師の散りざまを、死を、明らかな喜びと共に見つめている所だった。それを何度も邪魔されたためか、目を光らせぞんざいな口調に変わった。若い男は、自分が無鉄砲になっていたことを意識せざるを得ない。現状の立ち位置は、不利極まりないものだった。
「畏まりました。案内いたします」
 若者は手を上げた。指先をすり抜ける風に震える。引きつった笑みと上擦る言葉に小物感が現れてしまった。
 反抗の意図がないことを示しつつ、後ずさりながら山小屋に案内しようとしたその時。空気が唸りを上げた。
 旅人と若い男の間に、棒のようなものが突き刺さっている。
「弓矢」
 旅人が張り詰めた気配を見せ、再び抜刀していた。赤い血のこびり付いた刀身と、それ以上に鋭い男の眼光が大地を網羅する。
「そこで何をしている」
 二人の元から七間ほど離れた崖の上から声が響いた。
 小麦色の肌。背丈はそれほど大きくない……いや、女だ。髪は短いが、遠くからでも表情が窺えるほどくっきりとした目鼻立ちが示す。そして纏うものには、見覚えのない妙な文様が刻まれていた。
「刃が真っ赤だ。お前が殺したのか」
 女が弓の柄で斃れた男を指した。弓は女の背よりわずかに小さな程度であり、かなりの膂力を思わせた。
 旅人は女の方に全ての気を向け納刀する。
「逃げたら殺す。静かにしろよ、小僧」
 見向きもせず若者に伝えてから、大きく声を張った。
「私はこの山で猟をする者。害獣であるオオカミを探していたが、この者たちが私の手にした獲物を横取りしたため、この通り処罰した」
 この男の言葉には何一つ実がない、と若者は思った。
「政府は廃刀令を出している。猟も特別な許可がないと許されない。お前は誰だ」
「看守です」
 口元を緩めて旅人は言った。
「看守?」
「ええ。最近世の中が物騒なので、この通り害獣の駆除も兼ねて保安の任務についていたのです」
「看守が人を殺すものか」
「いいえ、看守は人を殺します。それは私が一番よく知っています」
 なぜか旅人の声に力が籠るのを若者は見た。
「それよりあなたは見たところアイヌの者だ。私に干渉する必要も権利もないでしょう。放って置いていただけませんか?」
 慇懃無礼を体現したような言葉である。それは子供が大人に遊びを妨げられ苛立っている様に似ていた。
「分かった」
 女の方は素直に応じると、素早く草陰に身を引いた。
 森はいつもの森へと戻り、音が途絶える。
「小僧。待たせたな。山小屋に案内しろ」
「はい。構わないですが……」
 若者は言っていいものか口ごもる。あの女、明らかにただものではなかった。身を引いたかに見せかけて遠くから自分たちの動向を追っているということは十分考えられる。
「なんだ、お前がそんなことを気にしているのか」
 まだ何も口にする前に旅人は言った。
「この辺にアイヌの集落は存在せぬから、あの女が何の理由もなくこんなところを通ったとは考えにくい。現れたならば素性を聞き出して返り討ちにする」
「そんな……。危険なことはしないでください。オオカミは全て引き渡しますから」
 若い男はほとんど泣き出しそうな顔になる。オオカミを駆除して金を儲けるはずが、いつの間にか恐ろしい殺人現場に居合わせることになってしまった。
「今お前が一番危ないのは俺と一緒にいることだ。素直に従った方が身のためだぜ」
「……何者ですか」
 答えはどうせはぐらかされると思っていた。若者は恐れから反射的に言ったまでだった。ところが。
「早川慶次郎。監獄から逃亡した囚人だ」
 反応を期待するような、無邪気な目を向けて早川は言った。そして彼の目論み通り、もとより青ざめた若者の唇は、屍のように脱色した。

  2
 二十分も歩くと、山小屋が見えてくる。若者らがこれまで一週間の月日を過ごしてきた住処であった。
 作りを軽く調べた早川は、「案外しっかりしているな」と感想を残す。
「はい。昨年は特に多くの狩猟者が訪れましたので、その度に修繕が繰り返されまして」
 若者は早川の一挙一動に冷や冷やとさせられる。早川は彼の言葉を最後まで聞かず、ぞんざいな手つきで扉を引いた。取り付けられた窓から光が漏れるのみの、薄暗い室内が露わになる。
「おお、今日の収穫は……」
 小屋の中から男が声を掛け、絶句する。
「誰だ」
 刀と猟銃を背に掛けた大柄な男を前にして、声に怯えが混じった。彼は若者の地元の後輩で、まだ十代の男である。
「オオカミを譲り受けにきた。お仲間から了承は受けている」
 早川は不気味なほどに落ち着きが変わらない。この男は、感情の変わり目や備わる感性が根本的に人と異なっていた。子供のように喜怒哀楽を示す早川の姿も見ている若者は、彼がこうして化け物じみた強さを手に入れた理由が分からない。
 一方後輩は、いきなり容易ならぬことを言う早川に戦闘態勢を取った。
「なんだと貴様、俺の仲間を脅したのか? 残念だがここにいるオオカミは胎児ばかりで、持って行っても金にならない」
 余計なことを、と若者は歯噛みした。この男が逆上したらどうするのだ。
「お前、それは本当か」
 案の定早川は若者に鋭い眼光を向けた。その圧に耐え、彼は何とか目を合わせて頷く。
「なぜ、それを先に言わなかった」
「申し訳ございません。気が動転しておりました」
 咄嗟にお辞儀をした。早川の姿が見えず、うなじに鳥肌が立つ。相手に急所を晒す一瞬が、とてつもなく長く感じられた。しかし幸い若者の首が飛ぶことは無く済んだ。頭を上げると早川は、小屋の中の檻を覗いていた。
「犬よりも小さい」
 一瞬頭が空白になり、それからオオカミの話だと気づく。
「これでも少しは成長しました。しかし、七匹が栄養不足で死にました」
 若者たちが見つけたオオカミは十五頭。数日も経たぬうちに約半数が死んだことになる。男三人に、獣の乳児の育て方など分かるはずもなかった。
「まあいい。面白そうだ。貰い受けよう」
 思いのほか早川は気を悪くしていないようであった。心にわずかばかりの余裕ができると同時に、この男の狙いというものが一層分からなくなる。
 檻の中でわりに威勢のいい鳴き声をあげるオオカミたちに、早川は喜びの色を浮かべる。
「これは金にはならんがいい遊びにはなる」
「おい! なんの話だ」
 まだ現状を認識しない後輩は、突然現れた失礼な男に対して、無意味な威嚇を浴びせていた。
 そして後輩の体が宙に浮く。
 言葉もなく、鳩尾を蹴り上げられていた。それから部屋の隅にぶつかり派手な音を立てる。棚に常備されていた調理器具が揺れ落ちて後輩の上に降る。
「アッアッ……」
 両目を見開き口から唾が飛ぶ。腹を凹まされて呼吸ができていない。早川はその顔面にすぐさま拳を叩きつけた。
 同時に響く鈍い音は、さすがに床が発したものと思いたかった。具体的に人間がどの程度で死ぬのかは知らないが、もし頭蓋から発せられた音だとしたら、死んでいても何らおかしくない。
「脳震盪だ。気にするな」
 早川は嬉しそうに言った。
「頭蓋はいいな。いい音が響く」
 こいつは何を言っているのだろうか。頭は冷静に物事を捉えきれない。だが、体は正直だった、というより、衝動的だった。
 若者は扉に突撃して外に逃げる。夢中で「助けてくれ」と喚いた。
 しかし後ろからの気配で分かる。早川が迫っていた。なぜ自分が山小屋に案内してすぐに逃げ出さなかったのだろう、なぜ後輩に自分たちの置かれた立場をはっきり言っておかなかったのだろう。一瞬にして様々な後悔に襲われる。
 襟元がぐいと引き寄せられた。その腕力に首が折れ、或いは気絶しそうになりながら、飼い犬のように地面にへたり込む。
 風を切る轟音。それは自分の心が折れる音にも聞こえた。周りの地面に刀を突きたてて、早川が弄んでいるのかと思った。
 だが異なった。それは弓の音だった。直線の軌道が地面を貫き、来たる方角、五間先にある木の陰から女が姿を現す。彼女は、今のが最後の矢であったようで、早川を鋭く見つめながら弓を地面に置いた。
「嘘つき看守」、と唾を飛ばす。
 対して早川は鼻で笑った。
「常に真実を言わねばならぬ定めなどない」
「外道の言い草だな」
「俺からすれば正道だ」
 早川は当たり前のように若者を自らの目の前に放り投げると、その大きな手で若者の顎と頭を左右に捻じった。
「があ……」
 呻く声も絶え絶えになる若者は、頸椎を大きく負傷していた。首に対する横方向の打撃は致命傷にこそならないが、強烈な痛みと損傷を与える。それを知った早川は殺さぬうちに手を離す。奇妙な姿勢で地面に這いつくばる若者に、遠くからでも分かるほど歯を見せて笑った。
「虫のような動きだ。ちょうど虫の息であるしな」
 風が凪ぐ。早川はこの刹那、若者の様子に見惚れ、アイヌの女が武器を手放すのを目の当たりにしたことで油断が生じていた。女の足音は無に等しく、標的に迫る速さは恐るべきものだった。
 彼女が親指を曲げて、右手で手刀を作るのが早川の眼に映った。女は手刀を激しく首筋に振り下ろす。早川はそれを寸前で躱し、態勢が乱れたところで肩を掴んだ。だがその力を感じた女は軽く微笑む。体の動きを止め、勢いよく真上に突き出した。それはこれまでの動きと逆方向に当たる。女は手刀の一撃に賭けたように見せ、体には弾力を残していた。もちろん男が肩を掴もうとせず、直接打撃を与えてくれば確実に斃されていたに違いないが、女はこれまでの観察で男の特徴を見定めた。早川は相手との戦力差があるとみれば、攻撃の際必ず弄ぶような所作をとる。女はその遊びに賭け、始めに弓矢が残っていないことを見せつけてから、突撃をしたのだった。
 体が最大限に伸びきったところで、女は上体を回転させる。これで無理やり早川の手を振りほどく。同時に、向きが変わったことで体の後ろにあった左手が早川の前に突き出された。その手には澄み切った光を放つマキリが握られていた。
「やあ!」
 気合いに満ちた発声と共に、遠心力を生かした超速のマキリが振り下ろされた。二人の動きが止まる。歯軋りに闘志の現れる女の顔と、早川の距離はわずか二寸。女は左腕を捻じられて、すんでのところで態勢を保っていた。
「平衡感覚は抜群に優れているな。さすがは野生人だ」
「ふざけるな」
「上体を捻ったとき、腕を掴もうとする力が働いていなかっただろう。俺は小賢しい罠に早々と気が付き、すぐに肩を掴んだ手を離していた。あの一瞬で策略を変えなかったのは馬鹿の業だ」
 女は血滾り、その異変を捉えきれていなかった。
「それだけ優れた技能を、なぜこのようなことに使う?」
 真っすぐな闘志を残して女は訊く。
「油断していたにせよ、少しでもあんたの作戦に騙されたことには腹が立つ」
 女の問いには答えず、早川は語気を強めると、さらに腕を捻じあげた。苦痛の声と共に、女はマキリを地面に落とす。それを足で払った早川は、ようやく手を離した。地面に膝をついた女は、左手を激しく痙攣させている。
「筋繊維は幾つか切らせてもらったが、骨には達していない。俺は優しい人間なのだ」
 女の視界の隅に、首があらぬ方向に曲がり泡を吹く若者の姿が映る。よく聞けば虫のように情けない声を残している。首は突出されるはずのない部分から骨が尖っており、直接関係のない手足も小刻みに揺れていた。
「悪魔め」、と嫌悪の眼を向ける。
「ほざけ」早川は女の腹を踏みつけた。女は歯を食いしばって苦痛の声を殺す。
「お前ほどの腕なら、首の絞め方くらい知っている。なぜ、首をこのような捻じり方で傷つけた」
 声に漂う憎悪を、早川は笑顔で出迎える。
「一番綺麗なやり方だからだ」
「は?」
「思うに死ぬ間際というのは生き物の一生の中で、最も強い輝きを放つ。生き物は自らに死が迫ってくると、その闇に抵抗するために限りなく純粋な生の唱弾を奏でる。声と、眼と、体が、五感を煌めかせて生きたいと願う。殻の内に閉ざされていた欲望が、一切の介在を許さず剝き出しになる。これに感動できない人間は馬鹿だ」
「……日本語が分からない」
 滔々と語る早川に当惑して、女は無垢な表情を晒した。武闘家のように凛々しい眉目は変わらないが、顔の造形に幼さを孕んだ不思議があった。
「ほう」、と早川はにやけ顔を引っ込める。
「可愛いぞ」
「何が」
「あんたの存在がだ」
「……」
「殺したい」
 早川の眼が、黒を幾重にも塗りつめた鈍い光を濃くする。
「今からあんたを殺せると思うと勃ってきた」
「意味が分からない」
「尊い」
「何を言っている」
 早川は女の問いには答えず羽交い絞めにした。地面に押し付けられた顔に土煙が入り、女は噎せる。入念に相手を無力化させるところを見るに、男は決して狂ったわけではなかった。
「殺したいのならさっさと殺せばいい」
「あんたくらいの腕の持ち主はみなそう言う。でもな、死んでいいんだ」
 その言葉は、再び女に炎を宿した。
「勝手なことを言うな。お前が殺したくても、いけない」
「なぜ生きているものを殺してはいけない? 人間はみな生き物を食らって生きている。ならば人はその道理を通してはいけないだろう」
「生きるために殺すのと、快楽のために殺すのは違う」
「何が違う?」
「快楽は己の欲望に過ぎない」
「あんたは生きたいという気持ちは自分の欲ではないと言うのか?」
「いや……」
 女は言葉を詰まらせた。開閉する唇はいたずらに空を食み、それからすんでのところで反発を示した。
「そんなことを言えば全ての生き物は死ぬ」
「何が悪い?」
「私が悲しい」
「それはあんたの欲望に過ぎないと言っているだろう。分からん奴だ」
「ならば生き物を殺そうとするのもお前の欲望に過ぎない」
「生き物を守ろうと願うお前の独善と、殺そうとする俺の独善がぶつかったのだ。分かり合えないならば、強い奴が勝つのは道理だ」
「私の願いは、殺される側の生き物たちの願いでもある」
 瞬間、頬を張る音が木々にこだました。女は顔を腫らして片目を瞑る。
「生き物を喰らって生活する奴が、ぬけぬけと抜かすんじゃねえぞ。それになあ、多数決の理論か? 多くの生き物が望めばそれが正しいことになるのか? あんたがそう言うなら、アイヌ民族は滅ぶことが正しい道になるぜ」
 女の脳裏に、生活を共にする一人の男の顔が浮かんだ。
『どうして……、どうして樺太アイヌは滅びるのですか』
 彼は泣いていた。故郷を去り、大切な仲間を失い、大きくはない背に哀しい怒りを滲ませていた。
「……多数決はだめだ」
 やがて女は、振り切るように言った。早川は細い顎を大きく横に開いて笑う。
「その通りよ。個人の欲求というのは大きな枠組みに支配されず、あくまで自由であるべきだ。その自由が他者の自由によって侵害されたならば戦うのみであり、両者がそれを嫌うならば境界を互いが望むところに引くのみであり、そこに絶対的な善悪などの存在はない。言うなればこの世の全てが独善に当たる。理性は文明の一産物に過ぎず、強いて規定すれば人類繁栄を目論む文明そのものの欲求だ。我々は不満があるならばそれに従う必要など毛頭ない。俺が見るにあんたは賢い。実はそんなこと、とうに気づいているんじゃないか」
 女は空を見つめていた。自らが地面に縛り付けられているのも忘れたかのように、がむしゃらに何かを考え込んでいた。
「私は、死ぬより無いのか」
 感覚的な反発はせず、静かに尋ねた。
「知らん、自分で考えろ」
 早川は女を抑えていた手を離して地面を伝わす。今の女に逃げるだけの闘志が消えていることを彼は読み取っていた。
 何かを持ち、早川は再び女の前に手を置いた。
 マキリだ。先ほど女から剥ぎとった小刀を、早川はこれ見よがしに手の内で光らせた。
「命が消える」
 男が刃を喉元に滑らせる。製鉄が肌に食い込む限界の距離だ。マキリに描かれた美しいはずのアイヌ紋様が、一転して禍々しく映る。
「殺せよ」
 女は、さっきまでの動揺が嘘のように落ち着いていた。声帯が動いたことで、ひんやりとした鋭利なものが首筋に食い入る。
 早川が手首を動かす。まるで魚を捌くかのように自然な動作だった。
 女の肌が熱を帯び、次の瞬間には左頬の皮膚が限りなく薄いところで引き剝がされていた。どろり、とわずかに破れた肌から血が地面に流れ落ちる。それを見た早川は舌打ちをした。
「少し抉り過ぎたか。触るなよ、触れると皮膚が破ける」
「どうでもいい。触れない。早く殺せ」
 女の胸中に恐怖は見られなかった。
「見眼に反して相当痛いことは知っているぞ。自分の心に素直になったらどうだい、お嬢ちゃん」
「痛い。でも私はたくさんの生き物を殺してきた。だから痛くない」
「気色悪いな。自らが縋った美学に酔っている。あんたが生き物を殺して悪く思うのは、心優しい己を作ることで正当化して、正義だなんだとくだらない自己承認で満たすためのこと。死ねよ」
「お前の勝手な想像こそが正当化だ」
「試すか?」
 女の肩に衝撃が走る。今度は容赦がなかった。肩は形が分かるほど大きく抉り取られ、筋繊維の向こうにある白い骨が露わになる。
「痛いだろう」
「痛い」
 女の眼に涙が滲んだ。その塩水は薄くなった頬の肉に染みわたり、痛みに眉がぴくりと動く。
 押し寄せる快楽に存分の狂喜を味わっていた早川であったが、何かが気に食わず徐々にそのにやけ顔が閉じ始めた。女から目を逸らし、若者の首がひずんで戻らない形を戻そうとする抵抗をして、苦しそうに血を吐く様をながめている。
「おい」、と女に冷ややかな呼びかけをする。
「こいつみたいにもっと怖がれよ、マグロか」
「私は常に死にたいと願ってきた。けれど私は死にたくなかった。そのことが堪らなく苦痛だった。全てを委ねた今の方がましであるということだ。私は魚ではない」
 後半はろくに聞く耳を持たず、早川が舌打ちをした。
「俺が言いたいのは生きる意味を持たず、死を恐れ或いは希求する人間ほど殺すに無価値なものは無いということだ」
「早く殺せ!」
 叫ぶ女はある種やけになり、目を見開いて訴えていた。しかし早川からの応答は長い間返ってこない。
「……嫌だな」
 ようやく口を開いた早川は、ぼんやりと左頬の血の跡を眺めていた。マキリを握る力が弱まり、ぎらついた瞳の輝きがくすぶっている。それは急に辺りを覆い始めた雲だけが原因ではなさそうだった。
「怖がれ、生きたがれ、のたうち回れ、それが生だ。全てが気に食わない。人間ではないみたいだ」
 早川の口調に籠る投げやりさが増した。
「私はマグロではなく人間だ」
「うるさい。もうあんたはどうでもいいんだよ」
 完全に興味を無くしたように、早川は緩慢な動作でマキリに目を向ける。
 そこで木造りの鞘に、誰かの名前が掘ってあることに気づいた。はて、と書かれた名を詳しく読み取ることをする早川から驚きの声が漏れた。
「この男とはどういう繋がりがある!」
 驚いたのは女も同様だった。
「知っているのか?」
 しらを切る選択も忘れて食い気味に尋ねる。
「残念ながら毎日のように会っていた」
 彼女の瞳が強い動揺を示している。
「どこにいる!」
 女は無理に腕を捻じって起き上がろうと試みた。だが大きな損傷を受けた肩が悲鳴を上げて失敗に終わる。
「頼む、教えてくれ」
 そう言って急に、先程まで見向きもしなかった自らの腕の状態を心配そうに眺めている。
 それを目撃した早川は唖然としていた。極めて素晴らしい変化によって、みるみるうちに体に力が充満してくるのが分かる。風も鳥も、世界の全てが早川に味方しているようだった。再び強く、地面に女を打ち据えることをする。瞳はかつてなく無垢になっていた。
「あんた可愛いぞ。固い氷の下に生の溶岩が潜んでいる。最高だ。舐めまわしたい。今のあんたの刹那の細胞を余すことなく犯し尽くしたい。全てを吸い付くしても俺の中で体内受精をして半永久的に貪り続けたい」
「気持ちが悪い」
「いくらでも気持ち悪がればいい。俺は気持ちがいい」
「ハギノに会わせろ」
「よいだろう」
 了承が得られるとは考えていなかった女は、言葉を詰まらせた。早川は満面の笑みを浮かべて頷いている。
「俺はなあ、あんたの人間臭さがめちゃくちゃ気に入ったんだよ。俺とあんたにとって最高の舞台を用意したい。さすればあんたが死にかけたとき、これまで誰一人耳にしたことのない声を上げ、世に一つだけの楽器となる。俺の独善による、俺だけの独奏曲だ」
「……」
 女は何も発言しなかった。言いたいことは山ほどあったが当面の生きる目的ができた以上、早川に余計な刺激を与えないのが吉であると判断したのだ。
「しばらくしたら俺は再びあんたの前に現れるだろう。すぐにあんたを殺すほどには己の欲望に困っていない。オオカミ殺しはいい稼業なんだよ」
 オオカミ殺しという言葉に女は眉間に皺を寄せかけて、我慢した。
「あんた、どこに住んでいる?」
「来札だ」
「分かった。奉野にはそれだけ伝えておく。恐らく一年以内には会うことができるだろう」
 無言で頷く女。
「健気な娘よ。名を何と言う?」
「アシㇼレラ」
「ついでに幼名も聞かせろ。アイヌ人は魔除けの名があるだろう。名前だけでは信じてもらえない可能性があるからな」
 名前だけでは信じてもらえない仲とはどんな繋がりだろうかと考えたが、分からない。ややあって女は言った。
「オクイ」
 男は口を大きく開いて歯を見せる。
「いい名だ」
「小便だ。何もよくない」
「今日は俺にとって非常に満足する日になった。オオカミ狩りより遥かに強烈な体験をして何度も果てた。しばらくの間この山を訪れることはないだろう。安心しろ、オクイ」
「アシㇼレラだ」
 即座に訂正するアシㇼレラに笑みを溢しつつ、早川は背中に負った日本刀と猟銃を確認した。
「あばよ」
 手を振るや否や疾風のごとく駆けだし、アシㇼレラが痛みに打ち勝って上体を起こした頃には影も形もなくなっていた。森はいつもの自然な森へと姿を変える。優れた五感で周囲に早川がいないことを確信したアシㇼレラは、声を上げ、負傷していない方の手で膝を叩いた。
 木々がざわざわと音を立てる。その向こうから長い灰色の毛を持つ動物が、鋭い牙と爪に似合わぬクンクン声をアシㇼレラに向けた。それは体長二尺半(百五十㎝)にもなる巨大なオオカミであった。
「イコロ、よく我慢した。あいつと戦うのは危険すぎる。とても賢明だった」
 今は手を自由に動かせないアシㇼレラは、大げさに首を上下させて反応をとる。アシㇼレラは早川に突撃する前に、何があっても出てくるなとイコロに忠告していた。
 イコロと呼ばれたオオカミは、耳を寝かせて背中を丸める。
  
 高い知能を持つオオカミの衰退には、もう一つ別角度の要因がある。
 明治十二年の冬、たぐいまれなる豪雪が北海道を襲い、エゾシカは雪を掘り起こしても笹などの食糧にありつくことができなくなった。彼らはやせ衰え、栄養の足しになるかも分からぬ木の皮を剥いで食すことを余儀なくされた。もとより北海道開拓の資金を稼ぐ目的で乱獲にあい、さまざまな国々へ輸出されていたエゾジカである。明治五年からの五年間だけで五十七万頭が捕獲されていた。エゾオオカミの主食であるはずの彼らは、この年ついに絶滅寸前にまで追い詰められることになる。
 冬が明けると、大地は雪に埋もれていたエゾジカの死体で溢れ、容易く餌にありつけたオオカミは一時的に繁殖した。しかしそれらが腐ると、オオカミたちに残された食糧は何もなくなった。当時エゾジカは絶滅したと認知され、昭和に入るまで生き永らえた種族が人目に触れることはなかった。オオカミたちがどれだけ探しても、彼らの生命線エゾジカの姿はないのだ。
 数週間後には餌の腐敗に呼応するように、新冠牧場で斃れるオオカミの数が激増した。聡明なオオカミの中には、これまでストリキニーネの毒餌に手を出さない個体もあった。だが彼らも飢餓には耐えられず、悲壮な突撃をしたのだった。

 だからイコロには子供はおろか、一匹の仲間もいない。このオオカミにはその自覚もあった。
 そのはずが、前触れなく片耳がぴんと伸びる。イコロは宙に向かって激しい遠吠えを始めたのだった。何事かと戸惑うアシㇼレラの耳に、別の場所から弱弱しい遠吠えが響いた。 
 声の先に見えるのは山小屋。先ほど早川と若者が二人で入っていった場所だ。
 アシㇼレラはイコロを手で制すと、山小屋に駆けた。
 開け放しの扉から中へと入る。そこには崩れ落ちた男と大きな檻が置かれていた。
「大丈夫か」
 男の首筋は温かい。気絶しているだけのようだった。続いて檻の中に群がっていた動物と目が合う。山小屋に他の気配はなかった。
 そこでアシㇼレラはすぐさまオオカミたちを檻から解放した。檻のつくりは粗雑なもので、造作はない。狭い空間から外に飛び出した七匹の獣はたちまち山中に駆けた。
 イコロが頭を上に上げて、遠吠えを続ける姿が見える。彼の叫びに反応して、野獣たちは鳴き声を返し、イコロの大きな足元に寄った。
 アシㇼレラは目を見張る。八匹のオオカミは互いに体をすり寄せて、簡易的な群れのようなものを形成していた。数匹のオオカミが、イコロの脚を引っ掻いていたが、アシㇼレラはそれが遊びと呼ばれる親愛表現であると知っていた。木々の狭間で固まる彼らに、ヒバリやノビタキが、祝福の囀りを届ける。
「イコロ」
 両手を胸の前でぎゅっと組んで、アシㇼレラは笑った。
「やっと家族を手に入れたんだね」
 感極まったアシㇼレラと、大きく尻尾を振って子オオカミたちの相手をするイコロ。七匹の痩せた幼獣に注がれるイコロの眼は、まさに母親のそれであった。
  






  断章 過去

 父が死んだのは忘れもしない、奉野が十一歳の時分だった。きっかけとなったのは、明治九年六月十三日。忘れもしない、樺太アイヌ民族移住の日である。
 懇意だったコラㇺヌカㇻら樺太アイヌコタンの友人を宗谷から奪われてというものの、父久蔵は明らかに活力を失っていた。漁に出ても以前のように漲(みなぎ)る声で気合を入れたり奉野を連れて行こうとすることもなくなり、常々自分の力不足を自責する言葉を口にするようになった。
 しかしある日父の気力が滾っているときがあった。「どうしたのですか?」と尋ねると、父は「石狩国に行って役人らに今回の事を訴えてやる。俺の先祖は武士だ、舐めてもらっちゃ困る」と息巻いた。
 奉野はそのとき、理屈では言い表せないまずい予感がしたことを覚えている。
 明治九年の春、父は宗谷の家に奉野と母を残して旅立ち、それは数週間にも及んだ。宗谷に帰ってきた父は、これまでにも増してやせ衰えていた。父の口から詳細を訊くはできなかったが、盟友であるコラㇺヌカㇻが船中で命を落としていた事実に大きな衝撃を受けたようだった。強制移住の詳細を知らぬ樺太アイヌの者には冷たい目を向けられたらしい。父もこのような事態を、間際になるまで知らせてもらえなかったというのが真実なのだが、樺太アイヌが、信頼していた父に「騙された」と感じるのも、仕方のないことだった。日本政府からの眼も冷ややかで、当時アシㇼレラやエトウルシが働いていた養蚕所に出向いても、様子を見せてもらうことさえできなかったという。
 すっかり気を病んだ父の状態を、一番気にしていたのは母だった。宗谷で出会い、宗谷で結婚をしたアイヌ人の母は、今は存在しない樺太アイヌのコタンに、父の気持ちが引き摺られていること心配していた。
「久蔵は悪くないよ。宗谷の人たちは誰も久蔵のことを嫌っちゃいないし、いつか樺太の古い友人とだって分かり合える日が来る」、そんなふうに父を慰めた。このときばかりは、小柄な母の背が、父親よりも大きく感じたものだった。
 しかし父は死んだのだ。猛吹雪で漁に出ることができずに、家に籠りきりになった年末のことだった。奉野はその日、大きな物音で目が覚めた。激しい音にうすら寒い感覚を覚え、すぐに起き上がって父の部屋へと入った。
 父は机の上に銃を残し、頭から血を流した状態で死んでいた。血飛沫が本棚と壁にこびりついている。自殺だった。
 その日アイヌ人たちの手で、父は宗谷に埋葬された。誰もが幼い奉野に気遣いを見せてくれたが、心が晴れることは無かった。奉野は残された遺書を拒絶感から一度も最後まで読み通せたことがない。
 遺書の冒頭で語られていることを要約すると、「一人の男として、私がしてきた行為は道理に紛うものだった。腐っても私は日本人、れっきとした武士の末裔である。されば死をもってして、自らの罪を償う」ということだった。
 奉野は訳が分からず悲しみ、母は戸惑いの中に怒りを滲ませていた。
「日本人が勇敢さや潔さとするものが、私には分からないよ。死んでしまっては元も子もない。私や萩之進のことはどう思っていたんだよ。私はあなたと一緒に居たかっただけなんだ」
 ひしひしと語り、決まって最後には泣くのだ。母の心の中にある葛藤・矛盾・思慕という形のない想いは、奉野にも痛いほど伝わってきた。
 幸い、父は多くの蓄えを残していたので、生活には困らなかった。奉野もまもなく十二歳になり、親を失った傷は恐るべきものであったけれど、表向きには動転することは無くなった。
 宗谷アイヌでも多くの友人に恵まれた。しかし、心の底から親友と言える存在に出会えたかと訊かれると、分からない。大人と話していると、気遣いや壁のようなものを感じてしまう。というより、無駄に意識してしまう。同年代と話していると、どうしてもかつての思い出が脳裏をかすめる。
 アシㇼレラがこちらを見て頬を赤くした。狩りになると目を輝かせて奉野を押しのけた。エトウルシがマキリの掘り方を教えてくれた。マキリはレラに直接手渡すことができなかった。そしてアシㇼレラは役人に連れていかれて……。
 自分はこんなにも情緒的で不安定な人間であっただろうかと思う。意識の内では克服を果たしているはずだった。それでも過去のことを考えるといたずらに、泣きそうになる。
 悔しかった。これでは父のように自分も死んでしまうと思った。奉野は何物にも屈することのない強い人間になりたかった。
 それから奉野は、感情が昂ると木々に向かって棒術の稽古に打ち込むようになった。汗が流れ、視界が不鮮明になり、掌(てのひら)の血豆に持ち手のささくれが立っても稽古を続けた。
 棒術とは殴るだけではない。斬る、躱す、そして突くこと。木を屠るべき敵に見立てて鋭い打撃を与えるのだ。毎夜一心になって打ち込んだ。おかげでもともと体躯に優れていた奉野の肉体は逞しさを増した。服の上からでも目視できるだけの筋肉がつき、棒術の腕前も相当なものに上がっていた。十五の時分には、宗谷アイヌの者が交易などで各地に出向く際の、用心棒として重宝された。奉野が用心棒をしてからは、道中で襲われて強制労働に駆り出される、或いは妻を無理やり奪われるなどの、頻発していたアイヌ人の傷害事件はめっきり少なくなった。
 そんな奉野に目をつけたのは、宗谷郡出張所に在勤する役人の男である。彼は亡き父久蔵との繋がりも深く、奉野も幼い頃に可愛がられた記憶があった。この役人は奉野が用心棒になってから、旅先での体験を聞きたがり、たびたび奉野の家を訪れていた。アイヌに対する差別意識が薄く、密かに奉野が信頼を置いていた大人の一人だった。
「看守にならないか」、と役人の男は言った。場所は奉野の家。十七歳になった彼の旅行記を聞き終わったところである。
 用心棒になってからも強さを追い求めるばかりで、これといった生きる意味を持たない奉野の身を、役人の男は案じたのだった。
「看守ですか?」と、考えもしなかった仕事に奉野は驚く。
「そうなんだ。このところ北海道で集治監が盛んに建設されている。昨年に樺戸集治監が建てられたばかりにも関わらず、今年に入って空知にも集治監が建てられた。最近世の中が物騒で、犯罪が多いのだそうだ。国は釧路にも集治監を建てる予定で、看守が圧倒的に足りていない。俺には看守長をやっている旧友がいるのだが、よい人材がいれば紹介して欲しいと常々言われている。それでどうかと思ってな」
 そう一息に言って、役人の男は奉野を見てきた。
 看守……。
 正直にものを言えば、奉野は日本政府のことが好きではなかった。日本人が嫌いなわけではない。父親のことを恨んだ日もあるが、それはあくまで自害したことについて。根本のところでは父が好きであり、この役人や父の猟師仲間など心を許せる日本人は、他にも多数存在した。だがそういっても政府の下で仕事をする看守となると、ことは大きく違ってくる。仮にも自分と仲間たちの仲を引き裂き、父親の命を奪った日本政府だ。いくら信頼に当たる人物から紹介にあずかったとはいえ、素直に頷けるようなものではなかった。
 その旨を奉野が正直に伝えると、役人は相槌を打ち「まあ今後のことは、母さんと相談してじっくり決めるのがよかろう」、と同意した。
 奉野は母も、この地で暮らして用心棒か漁師になる道を望んでいると想像していた。母の子供は自分一人で、旅立てば寂しがるだろうし、何より父を殺した日本政府を最も恨んでいるのは間違いなく母であるからだ。しかし尋ねてみたところ、帰ってきた答えは意外なものだった。
「萩之進がもし嫌でないのなら、私は看守になってもいいと思う。こういうことは考えたくないのだけど、シサムはどんどん私たちの居場所を狭くしている。もし萩之進がアイヌとして生きて、あの日のように役人に脅されるようなことがあれば、私は耐えられない。私は萩之進には自由に生きて欲しいの。やるせないけど、この国で自由に生きるということは、シサムとして生きて、日本政府に従って生きることだと思うの」
 頭一つ大きな奉野の肩に触れる母の指先は、震えていたように思う。思えば母は父の死は嘆いても、その後シサムに対して失礼な態度を取ったり、暴言を吐くようなことをしなかった。彼女は自身の気持ち、好き嫌いとは全く別のところで奉野に言葉を掛けていた。その矛盾と葛藤に打ち勝つ意志が、母の指を通じて伝わってきた気がしたのだ。
「俺は……」、と母に何かを伝えようとして気づく。
 そうだ、俺はどうしたいのだ。まだ看守という仕事も、母が考え続けてくれた自分の未来も、奉野は何一つ本気で想像していなかった。母の姿に、そんな自分を恥じる。
 それから真剣に、将来を考えてみた。
 一週間後、奉野がいるのは役人の目の前である。
「看守の仕事を、俺に紹介してください」
 夜な夜な棒術の稽古をしながら必死に頭を使った。今自分が本当にやりたいことは何だろうか。何のために生きるのだろうか。奉野の前に、遠ざかってゆくアシㇼレラの姿が見えた。彼女が奉野に訴える。もっと強ければ、この国の弱者でなければ。
 結果奉野は、己の腕を磨くことが最も自分の求めることだと気づいた。危険を伴う用心棒の仕事も続けていられたのもそのためだった。ならばこの地を出て、新たな自分に挑戦するのもいいのではないだろうか。
 そんな強い意気込みと人生を掛けて、奉野は樺戸集治監にやってきたのである。
 だがすぐに、自分が世間知らずな淡い幻想を抱いていたにすぎないことを知る。

 明治十六年の六月。初めて樺戸の囚人を見た時、思わず体が震えた。野外作業から帰ってきた彼らは、襤褸きれのような獄衣を纏い、痩せた顔中を黒ずみが染めていた。それは何をすれば人間がこのようになるのか、という純粋な疑問を奉野に抱かせた。
 奉野は看守として、道路開削、イナゴ駆除、開墾作業の監督に従事する日々となる。重労働の粗末すぎる環境を目の当たりにして、この国の異常性に気づかされる。
 看守には、元来加虐性の高い者もいるにはいたが、大抵は普通の感性を持った人間であった。そんな彼らは囚人を怒鳴りつけ、いたぶり、時には殺すことをした。
 加虐的に変わっていくというよりは、通常の感覚が麻痺していくというのに近い。与えられた任務をこなさなければ、減給という大きな罰が待っていた。看守の給与は決して高いものではなく、彼らはみな規則に怯えながら生きていた。その中で、囚人が痛めつけられるというのは大した意味を持たなかった。
 鉄丸、と呼ばれる罰がある。囚人が逃亡などの重い規則違反を犯した際の罰で、一年間片足に鉄の球を取り付けられるというものだ。その重さは罪に比例して六百匁、八百匁、一貫の三種類がある。当たり前のことだが鉄丸の鎖と足首を結ぶ拘束部分には緩衝材のようなものはなく、剥き出しの鉄である。ただでさえ厳しい労働の下で、常に鉄丸に引き摺られるのだ。どんなに体の丈夫なものでも、すぐに悲鳴を上げた。皮膚が擦れて血が滲み、冬場になるとそこから細胞が壊死して血が凍った。
 奉野は夜になると、鉄丸の囚人から毎日のように訴えられた。
「傷口が痛んで眠れない。外してくれ」というものだ。総じてそこには魂が叫ぶ悲痛な響きがあり、奉野の心を動揺させるには充分だった。けれど、決して外すわけにはいかない。
 だが別の心は言う。『心を消し去る必要があるのか?』奉野は答える。『馬鹿野郎、こいつらは重罪人だ』『重罪人には何をしてもいいのか?』『そうだ、国が言うならそうなのだ』『お前は国の奴隷なのか? お前は何のために生まれてきたんだ?』
 頭がおかしくなりそうだった。それとももうとっくにおかしくなっているのかもしれなかった。その気持ちをかき消すように、奉野は剣術に打ち込んだ。
 樺戸集治監には、看守たちに剣術を錬磨させるための修武館という施設がある。この修武館の剣術師範は、杉村義衛という男。奉野が出会った明治十六年、杉村は四十四歳であった。
「師範どの、手合わせ願います」
 修武館を初めて訪れた奉野は大胆にもそう言ってのける。腕には自信があった。そして相手がいかに看守たちの師範とはいえ、自分の二倍以上年のいった相手だ。剣道の型の綺麗さ、知識では負けようと実践では引けをとらぬと思っていた。
 奉野の血滾る願いを聞き入れた杉村は、お辞儀をして、竹刀を構えた。
 辺りは先輩の看守たちが固唾をのんで見守り、しんとしている。張り詰める室内の、その真ん中で中段に構える奉野。対して、杉村の構えは——上段。少なくとも主流の構えではなく、さらに出で立ちは素人かと思うほど緩い。他の看守に比べても隙だらけに見える。こんな男が自分たちの師範であるとは一体何事だろう。
 奉野は強く一歩を踏み込んだ。踵に力が籠る。上段の構えに対して最も有効なのは胴への打撃であるが、これならば頭から突破できると思った。
 だが今にも振りかぶろうとしたとき、気づく。こちらが肩に力を込めた際、杉村の構えが微妙に変化した、ように見えた。ただ眼に見える動きは何もない。それならば。奉野はじりじりと左足を前に出す。大丈夫、きっと自分の心に怯えがあるだけだ。
 目を見開き、発声と共に跳躍して竹刀を振り下ろす。間近に迫った。すぐ前方の杉村の上背が伸びたかと思うと、消えた。体の左側に杉村が立ち、その剣先は首筋からたった二寸のところに当てられている。
 左半身に鳥肌が立っていた。不可解極まりないが、まず最も不思議であったのは剣を振るった感触が無かったことだ。確かに杉村は、今刀身を斜めにして奉野の攻撃を受けた。しかしその力は掌から受け流され、杉村の体はいつのまにか、隙だらけの横側についている。奉野は再び距離をとって向かい合うことをしたが、闘志は大きく削がれていた。今のは完全に首を取られている。
 杉村は再び上段の構えをとった。刀身を含め、体は微動だに揺れていない。しかし奉野は徐々に、竹刀が自在に動き回るような錯覚を覚えた。おかしい、上段は一閃の力強さに優れているとはいえ柔軟な構えではない。どこからでも打ち込むことが可能で、対して相手の構えからでは直線上に振り下ろすことしかできないはずだ。
 胴を払う、その事だけを意識した。相手の懐に入り込み、そのまま後方に抜けることができればよい。右足に踏ん張りを入れてにじり寄る。相手に惑わされず、自分の間合いで決まればいい。
 奉野はこれしかないという瞬間に動いた。竹刀を斜めに持つと滑らかに懐に入れ込み、最速で横方向に薙ぎ払った。後は抜けることだけを考えれば……。
「うっ」手首に激痛が走る。打ち込まれたのだ。馬鹿な。奉野には杉村の竹刀は止まって見えていた。強烈な振りであるのに風を切る圧のない、完璧な真空がそこにあった。恐らくは所作が驚くほど速く揺れが無く、刀身が少しの歪みがなく打ち込まれたためだ。
 骨がじんじんと痛む。籠手は着けている上に、たかが練習用の竹刀でこの熱さはおかしい。実践であれば絶対に骨を断たれて手が落とされていた。
 杉村が息を吐く。固まっていた空気の流れがもとに戻る。勝負はすでについており、奉野も悟っていた。完敗したのだ。
 佇む奉野の脳裏に浮かんだのはアシㇼレラの姿だ。彼女は役人と共に、奉野のもとから離れていく。『絶対にお前のことだけは守る』だなんて青い言葉を吐いた自分。こんなのじゃ守れないと悔いたあの日。だがこうして無力なままに朽ちていく自分。
 溢れる傷はとめどなく身を揺らし、それは奉野に良くない暴走を起こさせた。
「まだ、」見えたのは棒術で培った業だ。杉村の胴が、毎日血豆を潰して稽古を続けた木々に一致した。
 すでに竹刀から片手を離していた杉村に放たれる強烈な突き。何度も打ちつけ鍛え抜き、鋭さを増した奉野の閃きが一点に昂る。
 だん。
 激しい音に、それ以上の激しい衝撃に伴い、奉野は崩れ落ちた。竹刀が床に転がっている。手には痺れるような痛みが残っていた。
「振りは全くなっていないが、突きには存外良いものがあった」
 奉野の無礼を咎めるでもなく、淡々と剣のことを言った。緩む空気の中で杉村が見降ろす眼つきは鋭く、それでいて煌めきに満ちている。奉野は、この人は本当に剣術を愛しているのだと思った。自分の感情を発散させるような剣とは情熱が違う。どこまでも静かで、落ち着いて、それでいて苛烈だった。手の痺れは自分の技の傲慢に思えた。
 明治十九年に引退されるまで、奉野はこの師範に剣術を習うことになる。最後まで師範に叶うことなかったが、奉野の腕は周りが見違えるほどに上達した。杉村義衛と名乗るこの男は、かつての新選組の副長助勤であり、神道無念流の達人として名を馳せた、永倉新八その人であった。

 奉野が凄まじい葛藤を剣術に落とし込んだ傍ら、その看守としての仕事ぶりはすこぶる評価されていた。鍛錬を重ねた剣術の腕前は他の看守に一目置かれ、一年が過ぎた頃には新人看守に教えを乞われるようになった。その際に奉野は、気づかぬうちに自らの腕が相当上がっていることを知った。どんなに屈強な者が相手でも、太刀筋が見える。躱す動作が最小限になるよう意識する余力さえある。攻撃はただ好きなだけさせ、少しでも隙が生まれれば一撃で仕留める技術が身についていた。そのうち纏う空気のようなものが変わったのだろうか。気性の荒い囚人でも、奉野に楯突くことはめっきり少なくなった。加えて奉野がかける密かな情け——寒さに震える囚人に死者の足袋を与えたり、外役で怪我を負った囚人に少しの休息を与えたり、というものにより、冷酷の中に情を持ち合わせた看守として畏怖の念を持たれ始める。全ては順風満帆に見えた。
 しかし、その内実を見透かしていた囚人がいる。明治二十年に樺戸集治監から破獄し、一年後にようやく捕縛される早川慶次郎に、奉野は自らの抱える過去も愛も葛藤も、全てを看破されていた。

 闇室前での蒙昧のやり取り。正しい行いは理解しているつもりだった。だが奉野は湧き上がる衝動の熱さに身を灼かれ、ついにはこの男を檻の外に解き放った。





  
  第六章 故郷

  1
 早川が脱獄してから約二か月。明治二十一年五月のよく晴れた日に、奉野は休みを取り樺戸から遠出をしていた。看守になってから五年近くが経つが、実家に帰ったのは一度きりで、関係のないよその地に出向くのはこれが初めてだった。活気づいた町や寂れた村を通るたび、知らず知らずのうちに自分が視野の狭い人間になっていたような気にさせられる。
 奉野の向かう先は、来札という地域だ。漁業が盛んで、周囲を山々が覆う。人離れが進んで、お世辞にも発展しているとは言い難いこの場所に向かったのはもちろん気まぐれではない。この地でアシㇼレラが生きていると、早川が話していたからである。最後の人里を抜け、三時間ほど山道を進んだところで海の匂いが漂ってきた。つまりは来札がもう近いということだ。
 崩れかけの木造の小屋が数軒眼に入った。元は人が住んでいたのだろうが、今は目も当てられぬほど朽ちている。噂には聞いていた石狩国での伝染病被害は、想像を超えておぞましいものだったようだ。
 その廃村を抜けて少し進んだ先に樹皮葺きのチセが見えて、奉野は思わず感極まる。それは宗谷にあるチセと同じ造りであったからだ。
 しばし奉野が感動してそこに佇んでいると、山の方から見覚えのある顔が下りてきた。足場が良くないのか、何とも頼りない足取りで籠を背負ってチセへと向かうその男は。
「エトウルシ!」、と奉野は叫んだ。
 奉野の方を見て、エトウルシはまるで魚のようにあんぐりと口を開ける。
「ハギノ!」
 一瞬遅れて笑顔になった。過去に戻ったような気持ちで奉野はエトウルシの元へ駆ける。しかし奉野は、エトウルシの背が自分の眉くらいまでないことに気づいた。
「あれ、エトってこんなに背が低かったっけ?」
「違うよ。ハギノがおかしいんだよ。逞しくなったなあ……」
 なんてことをぼやいて奉野を見上げる目は。
「おい、笑いながら泣かないでくれよ」
 奉野はエトウルシの肩を揺らして言った。
「あはは……ごめんよ」エトウルシは目元を拭って笑みを浮かべた。
「懐かしすぎたんだ」
「俺もだよ。だけどさ」奉野は辺りを見渡して尋ねる。
「ここは、他にもう人は住んでいないのか」
 一面に見えるのは閑散とした土地だけで、民家や漁船のようなものは近くには見当たらない。
「そうだね」
 エトウルシは水平線に手を伸ばして、哀しそうに息を吐く。
「僕ら以外はみんな死んじゃったよ。生き延びた人たちもみんな故郷に帰ろうとして、この辺には僕ら以外に住むアイヌはいない」
 自然と拳を握った奉野に、柔らかな海風がそよぐ。そこには確かな心地よさがある。この地に活気が溢れていた過去が分かる。
「哀しいものだな」
「ああ、全くだ」
「でもそれじゃあ、僕らって言うと……」
「レラもここに居るんだ」
 エトウルシの言葉に、奉野は体から力が抜けていくのを感じる。感じていた妙な緊張が消え、体の隅々まで血が行き渡ってゆく。本当に良かった。
「本当に良かった」
 思わず心中がそのまま口に出た。彼女は今年で二十歳を迎えたはずだ。一体どんな風に成長しただろうかと、奉野はあれこれ想像する。エトウルシも、奉野を見て楽しげにしている。
「レラも驚くよ。というかあいつ憎たらしいから盛大に驚かしてよ」
「その言い方だとレラも変わってないんだな」
「変わってないどころか悪化の一途を辿っているよ」
 憤懣やるかたなしというエトウルシ。それを見て奉野は笑った。
「エトが振り回されているのが眼に浮かぶ」
「うるさい、僕にそんなことがある訳あるだろ」
「やっぱりあるんじゃないか」
 これまで奉野は宗谷アイヌから、父親を失った悲劇のシサムという目で見られていた。集治監では真っ当な看守としてあるべきだという観念が奉野を固くさせた。こんなに他愛のない軽口を飛ばせるのは久しぶりだった。笑いが止まらない。
「ところでお前らは結婚しているのか?」
 冗談もひとしきりついた頃、何気ない口ぶりで聞いた質問は、実は結構気になっていたことだ。
「ううん、家族がみんな死んじゃったからさ。一緒に暮らしてるだけだ」
 エトウルシは首を横に振って静かに言った。
「そうなのか」
 そんなに悲しいことがあるだろうか。奉野は自分などむしろ恵まれていたのだと実感する。
「大変だったな。家に、お邪魔してもいいのか?」
「邪魔なもんか、腹が減っているだろう。僕がおいしいもの食べさせてやるよ」
 エトウルシが先導するように前に立った。
「助かる、このところろくなものを食べちゃいなかった。女神だ」
「ハギノ、僕の背の低さをからかってないか?」
 じろりと振り返る。
「気のせい気のせい」
 突っ込みが冗談の解説をすると味消しになることをエトウルシに教えなくてはならないなどと考えながらエトウルシの背中を押す。奉野は懐かしさのあるチセの中へと足を踏み入れた。
「おお」
 内部を見回した奉野は、エトウルシらしい凝った造りに感動さえ覚える。
 こじんまりとした長方形の一間のほぼ中央に炉が切られ、その上に吊り下げられた炉棚には肉が干されて燻製にされていた。北東の方角は巧緻なつくりのイナウが捧げられ、上段には食器と弓矢が綺麗に並べられている。広さや高貴さといったものは無いが、綺麗で生活感のある居心地の良いチセであった。
「さ、座れよ」
 エトウルシの言葉で、奉野はイグサで編まれた茣蓙に座る。丁寧な編み方をされた床に指を添わせた奉野は尋ねた。
「これだけのチセを、どうやって立てたんだ?」
「ああ、これは樺太の故郷に帰った仲間たちが、船を待つ間に手伝ってくれたんだ」
「エト達はどうして一緒に帰らなかったんだ」
「僕はここを、自分たちの故郷にするって、レラに約束したから。未だに何もない土地に居座っているよ」
 エトウルシは鼻で笑う。簡単に自己犠牲をする自分に辟易し、またそれを楽しんでいるようでもあった。
「まあエトならどこでも強く生きられるだろうな」
「そんなことないよ。レラにだってしょっちゅう馬鹿にされる」
「ところでレラは?」
「今は山の方にいる。そろそろ帰ってくると思うけど……」
 なぜか歯切れ悪くエトウルシは言った。
「そうか、なら別にいい。ところでエト、その顔の傷のようなものはどうしたんだ?」
 エトウルシの頬には、ぽつんと小さな色味のないイボがあった。
「ああ、これか」、とエトウルシは煩わしそうに触れる。
「僕もさ、天然痘に罹ってしまって、色々大変だったんだ。もうずいぶんよくなったけど」
「そうだったのか」
 その頃、奉野は馬鹿の一つ覚えのように剣技を極めていた。なんだか申し訳ない気分になる。
「大変だったんだな。早く来てやれなくてすまない」
 エトウルシは首を振る。
「ううん、むしろあの時に来なくて本当に良かった」
 過去の辛い話が出て、少し気分が落ち込みかけたその時だった。
「帰ったぞ!」
 威勢のいい声と共に入り口の簾(すだれ)が開かれる。心中待ちかねていた奉野は、声の主よりも数秒早く彼女の姿に目を止めた。
 大人の女性になっていた。小麦色の肌は変わらなくとも鼻筋は真っすぐに通り、胸は衣服の上からでも盛り上がっているのが確認できる。肩から背中にかけては美しい流線形にくびれ、それでも狩人らしく、腕と太腿には厚く筋肉が張っている。顔の印象の違いは頬の輪郭が伸びたところで、何よりも姿勢がいい。目元が涼しくなっている。
 彼女は自身に浴びせられる集中的な視線にすぐに気づいたようだった。その場でさっと、警戒した顔で振り向く。視線が合い、彼女はあらぬ方向を向き、二度見をするように再び視線が交錯した。
「ハギノ!」
 やはり声は変わらない。奉野は懐かしさに胸が込み上げた。
「レラ……」
『久しぶりだな、元気にしていたかい?』『少しはやんちゃが収まったんじゃないか』『レラはずっと変わらないな』
 ここに来るまで、様々な声のかけ方を想定してきた。だが蓋を開けてみると思うように言葉は出ず、間抜けにも名前の呼び合いのようなことをしている。いい大人というのに、なんという醜態だ。去来する思い出が、奉野の心までもを幼くさせるようだった。
「長かった」
 結果、奉野の言葉はいたずらに心中を吐露したものになった。
「本当に来てくれるとは思わなかった」
 レラはまだ信じられないというように呟く。奉野はその言葉に頷こうとして気づく。
「本当にってどういうことだ?」
 疑問を口にすると、レラはきゅっと表情を固くした。
「奉野の知り合いで背の高い、頭のおかしなやつはいないか」
 早速一番恐ろしい相手の話を切り出されて、奉野は嫌な感触を覚えた。やはり早川はアシㇼレラと接触をしているのだ、それも鎖のない自由な状態で。
「早川慶次郎、脱獄囚。身長は六尺を超え、芝居気のある妙な物言いをする。人を馬鹿にしたような気味の悪い笑い方が鼻につく」
「間違いない。看守がどうこう言っていた。そいつだ」、とアシㇼレラは即答する。早川の影に怯えるのは自分一人ではなかったようだ。
「レラはあいつに何か酷いことをされていないか?」
「私があんなのにやられるはずがない」
 レラの目が泳いだ。
「びっくりするほど無茶苦茶にされてて大変だったよ」、とエトウルシが口を挟んでくる。
「な……」
「エトは余計なことを言わなくていい」
「余計なもんか。ハギノ、こいつその早川とかいう奴に肩を斬られて、頬の肉を削がれてたんだ」
「そ、それはいつのことだ!」奉野の体は汗ばんでいた。
「見ての通り傷はもう治っている。一年近く前のことだ」
 とりあえず最近ではないと知り、レラにはこれといった傷跡も見えなくて安心する。もしも奉野が早川を監獄から解き放った後にそんなことが起きたのだとしたら、いくらなんでもいたたまれなかった。
「今はもう大丈夫なのか?」
「私が大丈夫でないはずがない。あいつの話はまたにしよう!」
 アシㇼレラが腕を伸ばして上下に振り、口を尖らせた。妙に早口で、早川に関わる話題を避けようとしているようにみえる。
「そうだな。俺も三人で最初にするのが早川の話というのは嫌だ」
「さ、じゃあご飯にするか」
 場を和ますような笑みを混ぜつつエトウルシは言った。
「何を作るんだ?」尋ねた奉野と別の所から声がした。
「オハウを作る!」
「うん、僕がね」、とエトウルシがレラの言葉を訂正する。
「獲物を狩ってきたのは私だ」「うん、でもつくるのは僕だ」
 なんとも、どうでもいい言い争いをしている。
「いつもこんな感じなのか」
「まさか、久々の来客に僕らも気持ちが上がっているんだ」
「エトウルシは体裁ばかり良くしようとする」
「うるさい。料理を任せっぱなしのやつが言うな」
「私が作るより、エトが作った方が旨い。だからエトが作る」
「うん、まあね」、と丸められたエトウルシはようやく食事の準備を始めた。
 まずはアシㇼレラが外に干してあった野草をとって来る。芽が主体のものは恐らくギョウジャニンニクで、溢れんばかりの山菜は、ニリンソウやフキノトウ、ウドといった葉茎だろう。加えて芋や大根といった、お馴染みの野菜も見られる。一方エトウルシは、炉棚に吊るされた燻製肉を取り外していた。
「それは何の肉なんだ?」
「これはガンの肉だよ。ほら、春と秋にやってくる渡り鳥の」
「へえ。鳥鍋はあまり食べてこなかったよ」
「昔よく食べたのは鹿肉で作ったユㇰオハウだもんね。でも今じゃエゾジカはほとんど見かけないから」
 話ながらもエトウルシは手際よく鍋の水にガンの肉を入れた。それから塩と、獣から絞った油を加えて沸騰させる。
 ある程度、肉が煮込まれたところで山菜を加えようとして。
「レラ! ニリンソウの中にトリカブトが混じってるぞ。気を付けろと言っているだろ」
 猛毒のトリカブトとニリンソウは葉っぱの形が似ているので注意が必要だ。エトウルシは丁寧に山菜の種類を見極めて、それから鍋に加えてかき混ぜた。まずは根菜類、それから葉っぱの厚いもの、薄いものといった順番だ。途中でアクが出てくるが、これらは旨味にもなるので取り除かない。しばらくそちらを放置したエトウルシは、もう一つの小さな鍋に山菜と、でんぷんを含むオオユバユリを加えた。よく見るとそちらの鍋には、ヒエとアワがたっぷりと水に浸してある。
「オハウは結構味が濃いから、後で口直しにサヨを食べよう」
 エトウルシの言うサヨとは、水分が多めの食べ応えがあるおかゆのようなもので、濃いめの鍋料理とよく合うのだ。
 サヨの準備をするうちに野菜が煮えてきた。アシㇼレラが味見をして、「薄い」と文句を言う。それを受けてエトウルシは油と塩を追加した。彼女の許可が下りたところで、最後に風味付けとしてすりおろした昆布と、ギョウジャニンニクを加えれば完成だ。
 煮えてくたくたになる具材の湯気から、いい匂いが立ち込める。座って待つ間に、奉野は何度も唾を呑んでいた。腹ぺこである。
「完成だ!」、というエトウルシにすかさずアシㇼレラが食器を渡す。陶器でできたこの食器は、シサムとの交易で得ている。
「いただきます」、と手を合わせて野菜と肉を口に運んだ奉野。
「うっ、うまい」
 熱さと相まって、落涙しそうになった。思えば看守の飯など囚人のものに毛が生えた程度のろくなものではない。凍える日に、カチコチの冷や飯を食わせられることも珍しくなかった。
「味が濃すぎるわけじゃない、濃厚なんだ。熱い」
 ちらちらと見てくる二人に対して、ろくな感想が言えない。奉野の胃袋が、我先にと流れ込んできた味のある食物を吸収しようとしている。
「ふふ。それならよかった」
 必死で食す奉野に釣られたように二人もせわしなく鍋をかきこみ、あっという間に空になった。ひとときの間横になり、天井を見上げて満腹の幸福を噛みしめる。
「本当に美味しかった。生き返ったよ」「ご飯を食べたらまた生きたいと思えるよね」「私が死ぬのはよくないからな」
 無茶苦茶な会話も、今は全く気にならない。そのうち起き上がったエトウルシは、食べ終わった鍋を回収して、サヨを温める作業に移ろうとしている。
「ハギノ」、とそこでアシㇼレラが呼びかけた。
「今ハギノは何の仕事をしている」
「……看守をやっている」
 一瞬言い淀んだのはどうしてだろうか。自分は真っ当な職業につき、真っ当に働いているはずなのだ。
「だから早川を知っていた」
「そうだ。明治二十年の三月に俺の勤める樺戸集治監から脱獄した。そして今も逃走を続けている」
 嘘をついた。まさかお前の生死が心配で殺人鬼の破獄に協力した、などといえる訳がない。
「あいつはろくでもない。ハギノ、早く捕まえた方がいい」
 曖昧に頷く奉野。もう一つ気になることがあった。
「早川自身からの直接の被害を除いて、最近レラの身に危険なことは無かったか?」
 早川はかつて、『レラの身が危ない。俺の仲間が殺すことは極めて容易だ』という趣旨のことを言った。奉野はどうにも、早川の言ったことがハッタリとは思えないのだった。
「何の話だ。私は知らない」
「もう潔く説明するべきだぞ」、と鍋を移したエトウルシが加勢する。
「……」彼女はエトを見て、渋い顔をしている。彼女は何かを言うのをためらうように、下を向いてわけもなくイグサを触っていた。
 一生黙っているかに見えたアシㇼレラだが、しばらくすると決意したように手を叩いた。
「分かったハギノ。ちょっと私に付いてきてくれ」

 奉野を連れてアシㇼレラが向かったのは、チセの奥の食糧貯蔵庫、深い森の手前であった。彼女はなぜか最初に貯蔵庫から生肉を取り出し、マキリで切り分けようとした。それ眺めて、奉野はあることに気づく。
「俺が作った鞘、使ってくれていたんだな」
「悪いか?」、とつっけんどんにレラは答える。
「悪いことがあるか。手元に届いていて良かった。嬉しい」
 素直な気持ちだが、欲を言えばやはり自分の手で渡したかったという思いはある。
「そうか、嬉しくてよかったな」
 全く素直でないレラは、最後まで礼を言わずに肉を切り終わった。それから貯蔵庫を離れて森の中に分け入ろうとする。もう地面は夕闇が覆い始める時間に差し掛かっていた。
 すぐ近くで動物の鳴き声がして、白い小さな生き物が飛び出してくる。奉野はラムアンかと思ったが、すぐに造形が違っていることに気づく。その動物はレラに吠えたてることもなく、かつてのラムアンと同じようにクンクン声を上げていた。
「これは一体……」
「この子はエゾオオカミの雌で、名をウパㇱという。まだ小さいが、雌の群れでは最も大きく中心的な個体だ」
「なんだと……まず石狩に住んでいるオオカミはほとんど絶滅してしまったはずだ」
 アシㇼレラがウパㇱの前にネズミの肉を投げる。慣れたもので、そこには一切の緊張感というものが見られなかった。
「私はオオカミの群れを育てている」彼女ははっきりとそう言った。
「オオカミの群れを育てる? そんなことが可能なのか」
 エトウルシの反応から、どうせろくでもないことを企んでいるのだろうとは思っていたが、それにしても予想の上を行く。
「基本は自然の中で生活をしている。でもこの辺りにはもう餌は少ない。だから私がこうして餌をやり、銃声がしたら人がいない馬小屋に集めて匿う」
「レラの言うことを聞くのか?」
「ここには六頭のオオカミがいて、その頭目であるイコロが私の言うことを聞く。オオカミは序列に従順だ。イコロが従えばみなも従う」
「ちょっと待ってくれ、話が早すぎる。イコロも早川もどう関連していくのか分からない。最初から系統立てて説明してくれ」
 奉野が話をせき止めると、アシㇼレラは面倒そうな顔をした。
「説明が大変なんだ。とにかく私はオオカミを守ろうとし、狩猟者に狙われることもあった。けれど……」
「けれど?」
「ここ最近になって、急に現れなくなった。山中で幾人もの猟師が斬殺されたことがあったという。早川の仕業に間違いない」
 奉野が推測するより、はるかに大変な出来事が起こっているようだった。
「なぜそう思う? レラは早川に命を狙われたのではなかったのか?」
「あいつは常識の考えでは動いていない。だから私も分からない。けれどあいつは、私の身を守るということも言った」
「身を守るのに殺すのか?」
 奉野が一層疑問を深めたとき、ウパㇱがネズミを食べ終わりレラの足元に寄った。彼女が屈んでその頭をなでようとすると、オオカミは姿勢を低くして尾を振った。その様はまるで飼い犬のようである。
「早川と私はよく似ている。私は自分のことを論理的な人間だと思っていた。しかし実際やりたいことをやりたいようにやっているだけなのだ。そこに正しい論理など一つもなかった」
 アシㇼレラは奉野の方を伺わず、ウパㇱとじゃれ合いをしながら呟いている。
「私はこの子が好きだからこの子を守る。他人の損得や文明の発展なんて露ほども考えず、自分の論理で行為に正当性を持たせようとする」
 奉野は驚いた。知っている限りアシㇼレラは、簡単に自分の意思を曲げたり反省するようなことはしない。まして文明など、彼女が最も忌み嫌っていた種類のものである。
「レラがそんな風に考えているとは意外だな。しかし」
 彼女はウパㇱの頬を撫でながら、奉野の声に耳を傾けている。
「それなら話は簡単だ。国に命を狙われるような危険なことを避ければいい。オオカミを野生に返し、日本国の臣民として生きる」
 何気なくそう言って、奉野はレラの気配が少し異なったことに気づいた。なんと言うのだろうか。刺々しいのだ。
「……何か、悪いことを言ったか?」恐る恐るそう尋ねた。
「いや。私もハギノがそう言うとは思わなかった」
 彼女は俯いたまま、オオカミの鼻をつつくことを繰り返している。
「レラの身を守るためには一番良い方法だと思うがな」
「ハギノは変わった」
「どういう意味だ?」
「分からない。ただ大人になったのだと思う」
「俺も色んな経験をしてきた。腕っぷしも強くなった。変わったと言われても、仕方がないとは思っている」
「ハギノ、看守は楽しいか?」
 アシㇼレラがそこでやっと、奉野を振り向いた。その眼つきは彼女らしくなく、寂しそうだった。何か特定の物事に対する気持ちと言うより、眼つきそのものが寂しく見えたのだ。一方奉野の頭には、突風のように監獄での記憶が吹き荒れる。それは殺伐として限りなく死に近いものだった。奉野は強大なざわめきの中で、棒を振り続けることで視界を穿つ。
「さあな……。楽しいって一体何なんだろうか」
 ずっと、生きることを目的にしていた。
「私は、ハギノと居られて楽しかった。エトウルシは面白い。オオカミには幸せに生きて欲しい」
 アシㇼレラは立ち上がり、膝に着いた土を払いながら呟いた。
「だから私は死んでもいいんだ」
 にっこりと笑う。森が夕暮れに影を作り始める中でも、彼女の表情はからりとして見えた。
 自分とは完全に異なる考え方をしている。何かを言わなくてはいけない気もしたが、さっき見せた寂しい眼が脳裏をちらつき、奉野は無言で頷くことにした。
「きっとエトが待ちくたびれている。行こう」
 長くなった髪が、風に揺れた。

  2
 旨いサヨを頂いた奉野は、その日は二人のチセに泊めてもらうことになった。しかし夜に一人、冷静になって考えても、アシㇼレラの異様な熱意には分からない。頭では理解したつもりだが、感性が違い過ぎた。彼女は死ぬ覚悟を持って行動しているのだ。とはいえ死んでからでは何もかもが遅いというのも間違いのないことだ。揺れる心で考える奉野は、いつの間にか眠りについていた。
 翌朝には身支度を整えて、奉野は来札から月形村に戻る。長居したい気持ちはあったが、仕事には逆らえない。しかし看守に戻っても以前と同じようにはいられない自分がいた。人の心に接したからだろうか、集治監の仕事に乾燥を感じずにはいられないのだ。看守になって剣の腕は磨かれたが、鍛えた腕で守りたいものなど、どこにもないように思われる。
 奉野は早い時は三月に一度、来札を訪れるようになった。それだけ人の温もりが枯渇していたのだ。もちろんただでとは言わず、銭や製鉄などをお礼に持って行った。
 しかし昼間は、チセを訪れてもアシㇼレラが居ないことも多かった。
「あいつ、いつも何をしてるんだ?」
「大体は狩猟だね」、と答えるエトウルシはその時、ヒグマの皮を解体して冬用の獣皮服を作ろうとしていていた。
「エトは狩猟をしないのか?」
「私がやった方が効率がいい、だってさ」エトウルシは苦笑いする。
「でもエトウルシはさ、アマッポとかで狩れるんじゃないか」
 奉野が言ったアマッポとは、支点となる木と弓を結ぶ糸を張り、動物がそれに触れると自動的に矢が放たれるという便利な狩猟道具で、日本語に訳すと仕掛け弓という。草木が生い茂る春先や初秋では非常に効果的なものだ。
「駄目だよ。アマッポは政府が野蛮だからって禁止したからさ」
「そうか。でもレラはそんなこと気にしないんじゃない?」
「レラはアマッポも作ってるよ。だけど自分が作った方が上手いと思ってるから僕には頼んでこないよ」
 前々から思っていたが、力関係でエトウルシが完敗している。

 エトウルシとは彼女の話が多い一方、アシㇼレラと話すときは動物のことや、他愛もない軽口が多かった。
 それでも彼女は、時に過去を語った。言葉少なだが肝心なことを淡々と言う。コラㇺヌカㇻの死、ラムアンの死、イコロとの出会い、天然痘に罹ったエトウルシ、死んだ村人、過疎の地で暴走したイコロ。彼女の語り口は、まるで未消化の物体を未消化のまま通しているようだった。瞳孔はひどく揺れ、両手を胸に押し当てるような仕草を繰り返した。しかし内容は正確で、エトウルシが訂正したり口を挟んだりということはほとんどない。
 彼女は何かに歪められながらも、自分だけのやり方でそこに立っているようだった。

 奉野に来札に訪問をする習慣がついて一年が過ぎた頃、レラが抱えるオオカミたちに変化が起きた。メスのウパㇱがついに妊娠を果たし、繁殖期が始まったのだ。そしてレラが彼らに賭ける情熱は、一層強くなった。この時の約半年前にはオオカミの群れは一匹が銃殺されて五匹となっており、パックの存続が危ぶまれていたところであった。
「ウパㇱは今、お腹が大きいから巣に籠っている。とても楽しみだ」
 口調こそ変わらないが、声は明るくにこにこして機嫌がいい。
 彼女はこの日、改めて奉野にオオカミの紹介をした。餌をやる様子は時々目にしていたが、一度に全員を見たのはこの時が初めて出会った。森の中で声を出して生肉をちらつかせるアシㇼレラの前に、まずは大型犬より一回り大きいかという個体が現れた。
「この子はランプイという。オスの中では二番手で、体格は劣るが身軽で聡明だ。いい狩人になれる」
 その大きさはウパㇱより少し小さいというところか。比較的黒い体毛を持ち、レラが手に持つ餌を待つ様子は大人しく、彼女が言うように利口な印象を受けた。
 二人が肉を食いちぎるランプイを眺めているうちに、草木の中から足音も立てず、もう一匹のオオカミが目を光らせた。思わず一歩下がる。こちらはもはや犬とは見紛うはずのない体躯で、野生動物として純粋な脅威を感じたのだ。
「この子はアンノカㇻ。オスの中での最強個体だ。彼が遊びの中心になり、新しく産まれる子供たちを引っ張ってくれる」
 アンノカㇻが奉野を凝視した。口を横向きに引き耳は大きく後方に寝かせており、さらに毛は逆立っている。
「ちょっと、これ危なくないか」
 奉野は引きつった笑みを浮かべてレラに助けを乞う。
「違うぞハギノ。アンノカㇻは怖がっている。オオカミは攻撃性を示すときの表情は冷静で、恐怖を示すときに威嚇をする。妊娠中のウパㇱの夫なので粗相のないように」
 アシㇼレラの言葉通り、アンノカㇻは怖い顔をしているものの、奉野にとびかかってくることは無かった。
「アンノカㇻ落ち着くんだ。ハギノは無駄にでかいが敵ではない」
 勝手に無駄にされた奉野は所在なく佇む。一方アンノカㇻはレラの動じない様子を見てか、徐々に平静を保ちつつあった。
「アンノカㇻは大きいので、ウサギを二匹やる」
 レラは背負った籠から、乾燥させて保存してあったウサギの肉を投げた。いつも彼女が食糧を持っていることは丸わかりで、アンノカㇻたちが本気でかかればレラは倒せない相手ではない感じがするのに、よく襲われないものだ。
 奉野が不安げにちらちらと見ているものだから、考えていることが伝わったか。アンノカㇻが必死で肉を貪る中、アシㇼレラは呟いた。
「私も心を通わせられるように努力しているが、ずっと襲われることがないとは思わない。種族が違い過ぎるし、オオカミは仲間内で序列を争って死闘を繰り返すような生き物だ。諦めている部分はある」
 なるほど、やはり危険なのだと実感する。
「ちょうど近くに来た。ハギノはここで待て」
 突然アシㇼレラが気を逸らしたかと思うと、これまで一番の忍び足で、草むらに分け入っていった。彼女が慎重になっているのは珍しいと思いつつ目を凝らすと、ちらりと見えたのは顔から血を流したオオカミだった。猟師にやられたのか。蹲っているが、決して体長が小さいわけではない。いや、むしろアンノカㇻの次くらいの大きさはあるのではないかと見受けられた。レラはそのオオカミの傷の様子を眺めると、鼻先に肉を置いて戻ってきた。
「今のオオカミは何なんだ?」
「あの子は序列争いで負けたオオカミだ。メスにしてはかなり大型だが、たまたま脚に怪我をしたときにウパㇱと闘い、負けて傷を負って群れから追い出された」
「本当に仲間内でも争うんだな」
 仕方ないとはいえ、野生の争いとは凄まじいものだ。オオカミのヤイは勢力争いに負けて群れを去り、勝利したウパㇱは群れの中で一番強いオスと結ばれる。実に単純明快で残酷な論理だ。
「私とイコロがいて、その下ウパㇱとアンノカㇻとランプイ。そしてはぐれオオカミのヤイが、石狩に生息する狼の全てだ」
「名前はヤイか……」、と奉野は押し黙る。ヤイは日本語で自分自身という意味。そうか、レラも宗谷の子供に邪険にされていたからか。はぐれものを見捨てるような彼女ではない。
 だがもしウパㇱとアンノカㇻの子供が無事に産まれて成獣になり、そのまた子供たちが大きくなって子供を産めば、一体この森はどうなってしまうのだろう。そう考えると言い知れぬ恐怖を感じると共に、ふとあることに気づいた。
「レラはどうしてウパㇱの交尾相手がアンノカㇻだと分かったんだ?」
「見に行った」
「は?」
「気になり過ぎたから、陰で眺めていた」
「なっ」
 奉野はオオカミの交尾というものを無意識に想像してしまった。
「おい、余計なことを考えるな」
 そう言うアシㇼレラも、しまったと思ったのか頬を赤らめている。
「男女のまぐわいを勝手に覗くなよ」
「まぐわいとか言うな!」
 わざと卑猥に言ってみた奉野は瞬時に突き飛ばされた。後ろの木にぶつかり葉っぱが揺れる。相変わらず凄い馬鹿力だ。剣術を学んだからこそ分かるが、彼女は運動神経やふとした力の入れ方一つに、天才的な感覚を持っている。
「私が変態みたいになる」、と嫌そうにしているので、「レラは変態だよ」と笑ってみせる。
「ハイタクㇽ!」吐き捨てたレラはそっぽを向いた。
 その古きあだ名に奉野は懐かしさと嬉しさが込み上げてきたが、落ち着いて考えればただの悪口だ。今一瞬でもいいと思いかけた自分の方が変態なのかもしれない。
「うん、まあ、無事に産まれると良いな」
 何とも貧弱な感想を残す。本当にレラが手も足も出ない相手ならば、今の自分が早川に勝つことは不可能だろう、などと木から体を起こして考えていると。
「あ、イコロ!」
 奉野の頭上を超えて掛ける声には気合が籠っていた。彼女は急に何を言い出したのか。不審な気持ちで後ろを振り返って……驚いた。オオカミの濡れた鼻先が背中のすぐ後ろ、今にも当たりそうな距離に見えるではないか。まるで気配を感じなかった。灰色混じりの白い毛は、他の四頭とは色合いが違う風にも見えた。一番の違いは何にせよ規格外に大きいことだ。尻尾を含めなくてもレラより大きいのではないだろうか。体つきも立派で、強者の余裕か目が優しい。おかげでこうして大きな顔を目の当たりにしても、奉野の気持ちは穏やかだった。
「凄いな、これは……」
「私の愛するイコロだ。他の子と違い人の中で育てられたので、決して人を襲わない。若いウパㇱとアンノカㇻとランプイの間には諍いが起こることもあるが、みんなイコロには歯向かわない。ヤイにも傷つけるようなことはせず、時々餌を分けてあげる。異国ではアルファウルフと呼ばれる、オスメスに関係のない群れの頂点だ」
 イコロは平然と奉野の脇を横切って、アシㇼレラの前に立った。レラは彼の首周りを抱きしめて、背中の毛に顔を埋める。毛並みは穏やかで、太いが柔らかそうに見えた。
 互いに心を許して抱き合っている。害獣として駆逐されたオオカミと、蛮族として虐げられたアイヌがだ。それは実に不思議な光景だった。日本国の官吏たる自分はこれを見て、一体何を思えばいいのだろうか。

  3
 さらに半年が過ぎた夏。アシㇼレラが狩りをする傍ら、奉野はエトウルシと二人で海にいた。来札への訪問もこれで五度目になり、寂れたこの地に愛着さえ湧き始めていた。  
 二人は特に漁業をするわけでもなく、浜辺で鳥の声を聞きながらゆるゆると座っていた。
「なあ、レラに見つかったら俺らなんて言われるだろう」
「とにかく文句は言われるだろうね」
「でもさ、手伝うって言っても私がやるって言い張るよな」
「どうせ僕らは何やったって怒られるんだ」
 奉野はエトウルシの拗ねたような物言いに、思わず笑ってしまう。
「俺はエトほど怒られてないぞ」
 きっと何か言い返してくるだろうと思ったが、エトは珍しく深刻そうな顔で沈黙していた。そして息を吐く。
「なあハギノ、いずれレラを嫁( コㇱマッ)に貰ってくれないか?」
「なっ」奉野は一瞬で上体を起き上がらせた。
「本気で言っているのか?」
「うん。レラはずっと決まった家がないし、まだ入れ墨も入れることもしていない。だから今更アイヌと結婚することもないと思うんだ」
 アイヌ人女性は一人前と判断されると、口の周りと手の甲から肘にかけて入れ墨を入れることが一般的だった。あらかじめ肌に細かく刃物で傷をつけ、白樺の皮を燃やしてとった炭を刷り込むのだ。当然この作業はかなり痛い。しきたりに疎く、シサムと共にいる機会も多かったレラが嫌がるのも無理はなかった。
「どうだ、ハギノ」
「……そうだな。もう少し様子を見させて欲しい」
 奉野が難しい顔をすると、不安げな表情を見せるエトウルシ。そんな目で見ないでくれと思う。正直にものを言えば、奉野はアシㇼレラのことは好きだ。しかしそれ以上に彼女について解決しなくてはいけないことが多かった。エトもそれは分かっているはずだ。
「俺はエトほどお人好しではないぞ」
「もちろん。僕だってレラのことが心配なんだから」
 二人は頷く。ともかく、彼女には慎重に接しなくてはいけない。

 明治二十三年三月。六度目の来札になり、初めての訪問から一年と十カ月が過ぎたこの日、奉野はあることを決めていた。奉野は夕食をご馳走になった後、レラに呼びかけて外に出た。
 三月というのは何かと奉野と縁が深い。レラと共に宗谷でイオマンテをしたのも三月。独房で早川と交渉したのも三月だ。凍死するほどの寒波は過ぎ去ったが、まだ十分な冷ややかさを残したこの時期に、運命が揺さぶられることが多いのはなぜだろうか。レラは用向きを察しているのかいないのか、奉野の後ろで静かにさざ波に耳を傾けている。
「なあ」後ろを振り返った奉野は、意を決して言った。
「レラはもうこれ以上、オオカミに関わらない方がいい」
「なぜだ」
「ウパㇱらの子供が育って、そのうちまた次世代の繁殖が始まる。そうなれば人の手に負えるはずがなく、またオオカミはこの国の駆除対象だ。悲劇が起こるまでそう遠くはない」
「その時はその時だ。今考えなくていい」
 レラは疎ましそうにしている。彼女はオオカミの話になるといつだってそうだった。
「アシㇼレラ。お前だってもうすぐ二十二歳だ。いい加減大人になれよ」
 なんとなく、自分がちゃんとした大人であるという前提の物言いになっていた。
「大人になれというのは、自分のやりたいことをするなという意味か?」
 レラの反駁は素早く、鋭い。
「やりたいことというのが幼いんだよ。餌が無くなれば、レラだって喰われるかもしれないんだぞ」
「その時は致し方ない」
 能面のレラを見た奉野は、このやり方ではいけないと気づいた。
「俺はレラが死ぬなんて絶対に嫌だ」
「それは……ハギノの意見だろ?」
 効いたようだ。アシㇼレラの舌鋒が柔らかく、高くなってそっぽを向く。滑らかな顔の輪郭が映り、横目でこちらの言葉を待っている。
「そうだ、俺の意見だ。俺はレラのことが好きだから。昔からずっと、好きなんだ」
 アシㇼレラは何も言わずに俯いた。顔を上気させ、髪の隙間から顔を覗かせた小さな耳までが朱に染まっている。いかん、これは可愛い。
「レラ……」
 夕闇の中、奉野は衝動的に彼女の肩に手をやり、そのまま抱き寄せようとした。小作りなレラの顔が目の前に近づく。
「嫌!」
 その瞬間レラは肩を大きく捻り、すばやく奉野から離れた。行き場を失った奉野の指先が、乾いた寒気を掴む。自分の表情を見ることはできなくとも、奉野は著しく暗い顔をしていたことだろう。
「いや、そうじゃない。ごめん」
 それに狼狽えたアシㇼレラの眉が上下し、しばし考え込むように指先を動かした。それから言葉を紡ぐ。
「私は……やっぱり身の保身のために何かを犠牲にすることは嫌なのだ。たとえそれがハギノのためであっても」
 レラの目は寂しそうだった。どうして彼女は、時々こんな目をするのだろう。
「俺とオオカミどっちが大切なんだよ」
 それは場を和ますため、無理に引き出した冗談のつもりだった。レラはさすがに比較することはないだろうと思っていた。が。
「オオカミだ」彼女は、奉野をまっすぐに見上げて言ってのけた。
 奉野は純粋に傷つく。自分の中で収まりがつかなくなり、苛立ちに変化した。自分は昔からレラのことを考えているというのに、彼女は生活にとって何の役にも立たないオオカミばかりに情熱を捧げている。親が死んで、人に裏切られるようなことを繰り返されたのは分かる。だがもういいではないか。いい加減自分勝手は止め、他人のことを考えることができないものか。皆、何かと折り合いをつけて生きている世界なのだ。一度そんなことを考え始めると、彼女のエトへの雑な扱いなど、すべてのことに腹が立ってくる。
「ならば勝手に生きろ。しかし誰もお前の味方にはならないぞ」
 先ほどまでの、ほんのりと甘い雰囲気が嘘のようだった。殺伐の中で眼を光らせたレラは、こう言い切ったのだった。
「いいとも、私は勝手に生きさせてもらう」
 素早く奉野に背を向ける。それから彼女が歩き出したのは灯りのあるチセではなく、暗い森の方角だった。

 この日を最後に、奉野が来札を訪れることは無くなった。物理的な要因としては奉野が樺戸集治監から移動を命じられたからである。明治二十三年、中央道路の開削工事を行うために釧路集治監から網走に囚徒を大移動させることになり、新たに看守が必要だったのだ。収容施設としてつくられた「外役所」は、その実、囚人千五百人を収容できる一大監獄であり、翌年には名を網走分監と改め正式な監獄として独立した。
 奉野は来札の友人たちとのあまりにあっけない最後に後ろ髪を引かれつつも、想いを断つように新たな環境での任務に打ち込むことをした。

 しかし、そこはこの世の終わりだった。奉野は生まれて初めて、本当の意味での地獄を目の当たりにする。
  





  第七章 硫黄山の号哭

 明治二十一年 二月 アトサヌプリ硫黄山採掘場

  1
 狭く薄暗く視界は悪かった。牧田敬重はそんな坑道で糞をしている。もっとも意識下で尻穴を制御するすべはなく、獄衣伝いに地面を茶色にするだけだ。その獄衣は元々朱色だったことを忘れたように、黄身がかった白に変わっている。
 季節を感じさせるものはただならぬ冷気だけで、凄まじい北海道の豪雪さえ、硫黄山に立ち入ることは許されない。何もない。虫の一匹も、草の一本も生えていない。生命が存続することは許されない領域だ。なぜ人間が、こんなところにたむろしているのだろう。牧田は笑いが止まらなかった。囚人にも看守にも死んで欲しいのだろうか。とりわけ囚人の肌は腐って萎み、今では髪の毛が生えている者の方が稀である。人間など尊厳を奪われてしまえばみな同一だ。牧田は自らの友人を判別することもできない。
 牧田は先ほど、昼飯を盗まれた。相手は腹部だけが異様に膨れた骸骨のような囚人である。牧田の飯を持つ一対の眼は黄色く濁っており、だらしなく開けた口元から、今にもそれを喰らおうとしていることが確認できた。
 牧田が殴り倒すと、拳には肉のない頬骨の感触が響いた。栄養失調の慣れの果て。もちろん規則違反の囚人は看守たちに引き倒されて連れていかれたが、牧田の飯は硫黄の上に飛び散った。硫黄は毒だ。白米四合に沢庵三切れという塵芥のような食事がなければ生きてはいけないというのに、それさえ消えるなど頭にくることこの上ない。仕方なく空腹で作業をしたが、うまい具合に麻痺していた感覚が戻ってきて気が狂う。
「亞亞」掛け声のように自分が発声しているものは言語なのか。
 目が痛い。体が痛い。硫黄の詰め込まれたモッコが異様に重たい。臭い。
 まだ樺戸にいた頃が懐かしいと牧田は思った。厚田の風に歓喜した幻想が遠い過去のようだ。あれから一人は射殺され、四人は罰として鉄丸を付けられて樺戸集治監に戻された。夜は傷口が冷え、鉄丸を外してくれと懇願しても、看守は見て見ぬふりをして通り過ぎた。一年続く痛みに耐えかねて、その年中に三人とも死んだ。残っただけ牧田だけが刑を全うして、生き永らえたのだ。
 死への羨望を抱いた際、いつも頭によぎるのは堀井善吉のことである。鉄丸の痛み、凍傷の痛みに狂いそうになる度に、監獄から消えた堀井について考えた。堀井は看守たちの手から逃れることができたのだろうか。それともとうに捕まって殺されたのか。
 牧田はかなりの確信をもって、前者だと推測していた。逃亡者全員を捕縛したと嘯(うそぶ)く看守たちが、堀井を処罰した証拠を提示しようとしなかったからである。彼らのやり口からすれば、見せしめと称して必ず遺体を晒してくる。何と言っても堀井は集団脱獄の首謀者であるのだ。安らかな眠りなど与えられるはずがない。
 そうなると、答えは一つだった。堀井は生きている。そして逃亡を続けている。ならば自分にも勝機はあるはずと信じてここまでやって来たが、今となっては全てが悔やまれる。希望など捨てるべきだった。こんなところに来る前に死ねばよかったのだ。
 ようやく坑道の外に辿り着いた頃には、腰が限界を迎えていた。
 自由に空気を吸いたかった。外も臭いは変わらない。牧田は薄黄色の噴煙を見上げて、永遠に終わらぬ空を掴んだ。

  2
 教誨師(きょうかいし)、島(しま)栄作(えいさく)が江戸に産まれ落ちたのは嘉永六年、黒船を率いたペリーが来航した年であった。島は十四歳にして父親の家職を引き継ぎ、御家人の中では俸給の良かった、警察署長的立ち位置である南町奉行所与力になる。江戸時代の最後の仕事は、維新後に石川島監獄署となった石川島人足寄場の見廻り役であった。
 明治維新後も東京市政裁判所で職にありつき東京府書記として月俸二十五両の厚遇を得るが、明治二年に東京府員減員の施策を受けて職を失い、その後は横浜の高島学校に学んだ。そこで欧米文化がキリスト教と緊密な関係にあると知ったことが、人生の大きな転換点になった。明治七年には築地の英学校の門を叩いて、二十一歳でキリスト教徒の洗礼を受けた。銀座三丁目に英書や聖書の専門書店十字屋を開き、加えて明治十五年には神田須田町に錦絵問屋を開くと、商才を発揮して繁盛に成功した。
 しかし明治十六年、原が三十歳を迎えたときに悲劇が起こる。きっかけはこの前年の秋、自由民権運動の一つである喜多方事件が発生したことだ。藩閥政府直系の福島県令が、農民に県道工事の強制労働を課したことで、農民と自由党員が激怒した。数千人の民衆が喜多方警察署に押しかける事態となる。この際およそ二千人が逮捕されたほか、自由党の県会議長は内乱陰謀罪で起訴され、軽禁獄七年の刑を言い渡される。政府は元々自由党を疎ましく思っていたこともあり、計五十八人が逮捕拘束される弾圧へと発展した。
 島は、人は皆平等というキリスト教精神の下、自由民権運動にも肩入れをしていた。彼は義憤を抱き、喜多方事件に関連した六人を錦絵に仕立てて関係者支援を試みた。しかしこれが官憲の目に留まり、島は部外者にも関わらず軽禁錮三か月・罰金三十円の刑を課せられる。しかも入獄先は、自身が与力として勤めた石川島監獄署という屈辱だった。
 三か月の牢獄生活の間、牢獄ではチフスが流行し、島自身も感染して生死を彷徨った。実際に死者が発生するほど、獄舎の環境は卑劣極まりなかった。現場に蔓延する不条理、不義、人間性の剥奪の姿勢によって、島の運命の歯車は再び動く。
 出獄後、島は自身の体験を生かして、監獄改良や免囚保護の意見書を発表した。それが行刑当局の目に留まり、明治十七年七月には兵庫仮留監に教誨師として赴くことになった。仮留監とはその名の通り集治監に送られる重罪囚が一時拘禁される施設であり、北海道の集治監に移送される囚人が多数集められていた。
 明治二十一年、全国の囚人が北海道に送還される日が来ると、仮留監には不穏な空気が流れ始めた。送還に対する反抗の兆しだ。これでもし集団脱獄など起ころうものなら大変な事態となる。そこで島は、囚人と共に北海道に同行することを求められたのだった。教誨師の島が同行すると知ると、これまで反抗的な態度を見せていた囚人たちが、素直に移送に応じたという。
 かくして島は、道中何事もなく明治二十一年一月二十八日、真冬の釧路集治監に囚人を送り届ける任務を全うした。

  3
 その四日後のことである。島は一人で硫黄山外役所からほど近いアイヌの集落を訪れていた。集治監から硫黄山までの道のりは十里ほどもあり、吹き荒れる猛吹雪をかいくぐってこんな所を訪れたのは、もちろん気まぐれではない。島は村に辿り着くと早速目的のため、外で火を焚いていた男に話しかけた。
「すみません、私は硫黄山の採掘場に向かいたいのですが、誰か案内できる者はいませんか?」
 紋様のある服を着た肌つやの良い男は日本語が分からぬようだったが、一つ頷くと駆け出した。少し離れた民家に向かい、「サクマ」と呼びかける。
 家から姿を見せた男は、顔の半分を布で覆い、その上から片目を隠すような帽子を被っていた。彼は島の前まで歩み寄ると、お辞儀をして日本語で話す。
「はじめまして。私はこの近辺のアイヌと共に暮らすシサムで、佐久間忠通と申します。どちら様でしょうか」
 男を至近距離で見ると、布で覆った部分は何かの傷の名残りのようで不気味さがある。老人のような落ち着きがあるが肌はまだ若いようにも見えて、風体を一層分からなくさせた。しかし物腰は柔らかで嫌な印象は受けない。
「私はキリスト教徒で、囚人たちの教誨師をする島と申します。硫黄山の採掘場へ案内して頂けるでしょうか」
 背丈はわずかに島より高かった。
「教誨師と申しますと?」
 そんな佐久間は訝し気に首を傾げている。島はこれを、キリスト教を広める良い機会だと考えた。
「日本の囚人環境は世界で見ても大きく遅れていまして、明治に入っても尚、囚人の人権を迫害するような厳罰がなされています。されど元来人は神の下に平等であり、国益のために残酷非道な労役が課されるというのは、到底許されるべきことではありません」
 一口に言って後悔する。集治監の酷い扱いを見てきたせいで、教誨師のことから外れた感情的な説明になってしまった。変人と思われただろうか、と恐る恐る表情を覗いた島であったが。
「囚人に残酷な処罰がなされるのは、当然ではないのですか?」
 片目が揺れていた。それから能面で言葉を唱える。
「彼等ハ、固ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其苦役ニ堪へズ、斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ、妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨状ト異ナリ」
 島は驚いていた。彼の言葉は大書記官金子堅太郎による『北海道三縣巡視復命書』の一節。簡単に言えば、極悪人である囚人が過労死したとしても獄費の節約となるので却って都合がいい、という内容だ。後の集治監における、囚人の非人道的な扱いが決定づけられる引き金となった文書である。島が驚愕したのは、これほど小さな村の人間にまで、国が掲げる厳罰・懲戒主義が浸透していたという事だ。
「何を言っているのです。監獄の目的が囚人の更生にあるというのは、今や世界の常識です。無益な殺生や人の尊厳を損なう労役などもってのほか、私は断じて許しません」
 語気を荒げた島。それに対して、佐久間の瞳孔は震え続けている。しかし表面上の動揺は示さずに、軽くお辞儀をして息を吐く。
「畏まりました。私がアトサヌプリに案内したします」
 息は白く濁った。

 二人は、極寒の釧路の森を歩行した。村を離れると辺りは何も見えなくなり、たちまちのうちに方向感覚が狂う。やはり、案内を探してよかったと島は実感する。
「佐久間さん、北海道はいつもこんな天気なのですか」
 帽子を目いっぱい覆うよりない島は、顔に布を巻いた佐久間のことを少しばかり羨ましく見つめて聞いた。
「そうですね、ほとんどが雪。集落もなく、人が住める場所ではありません」
「しかし札幌や小樽など、少しばかりましな所はありそうなものを。どうして佐久間さんはこれほど辺鄙なところに住んでいるのです?」
 彼はどう見ても普通の日本人。島にはこんな場所でアイヌと暮らす利点が考えられなかった。
「私はアイヌが好きなのですよ」、と佐久間は口元で笑った。
「色んな方が居ました。言葉さえ学べば共に漁業をしたり語り合ったり、面白いものですよ」
「漁業ですか? この辺は海からは遠いような気がしますが」
「失礼。今は無くなってしまった村の話でした」
 佐久間は手を振って詫びた。彼はずっとここに住んでいるというわけではないらしい。
「私の話より」、と佐久間が話を変えてくる。
「キリスト教にも教誨師があるのですね。どのようなことをしていらっしゃるのでしょう?」
「日々の個人教誨と、週に一度の集団教誨があります。どちらも囚人たちに自らの罪を懺悔させ、正しく生きる道を指し示すことに目的があります。そこに過酷な外役労働というものは必要ないのです」
「なんと……今はそのように時代が変わっているのですか」
 佐久間は心底驚いたようであったが、そこで島は否定した。
「いえ、あくまで私たちが目指すところです。現状の日本は、理念とはほど遠い所にあると言わざるを得ません。こうして私が硫黄山外役所を一目見ようとしているのも、この地の囚人使役が極めて悪名高いからなのです。佐久間さんはご存知でしょうか?」
 憎しみを込めた島の言葉に、佐久間は戸惑っていた。
「いえ、硫黄山の周辺は臭いもきついですし、近くに寄ったことはありません」
 島は頷く。まだ随分と距離があるのに、もう卵の腐ったような臭いが漂っていた。普通の人間は近寄ろうとさえ思わないはずだ。その後、佐久間は言い訳をするように付け加えた。
「この地のことをアイヌの者はアトサヌプリと呼びますが、それは日本語に直すと裸の山という意味です。硫黄山は、人間はおろか、自然さえも立ち入ることが許されぬ魔の山です。恐らく囚人も、少し離れた所で労働をしているのでしょう」
 佐久間の説明で、島の体には大量の汗が流れていた。
「……いや、確かに硫黄山の真っ只中で、労働をしているそうだ」
「そうですか」、と首を捻って答える佐久間にも島にも、実際の図は想像の外にあった。もしかすると自分の予想を超えてくるのかもしれない、と覚悟する。
「しかしどちらにせよ、悪事を働いたものには仕方のない報いかと思いますがね、私は」
 佐久間も畏れているものかと思っていたが、冷たく言い放って歩みを進める彼に島は違和感を覚える。どうも初見の印象からすると言葉に棘がある。自分は何か悪いことを言っただろうか。
 もう一つ気になったのは、『キリスト教にも教誨師があるのですね』という言葉だ。確かに少し前までは仏教による教誨が大多数を占めていたという事実はある。しかしそんなことを普通の人間が知っているものか。
「島さんは北海道の方ではないようですね。どうして北の果てまできたのでしょうか?」
「神戸から釧路集治監に護送する際に囚人たちが反逆の気配を見せたので、私が同行するよう求められたのです」
「あなたが行けば、囚人は反抗しないのですか」
 佐久間は信じられないという目で島を見ていた。彼は囚人を余程の悪党だと思っているのか、それとも何か恨みでもあるのだろうか。
「少なくとも私は、それだけの信頼は得られている自信はあります」
「教誨師が、そんな力を……」
 佐久間は独り言のように呟くと、それからは言葉を口にせずに歩く速度を上げた。話に気をとられなくなると、硫黄の臭いがどんどん強くなっていくのが分かる。
 そして、辿り着いた。
 初めに見えたのは、青黄色の人間であった。
「なんなんだこれは」
 話には聞いていたつもりだった。絶え間なく地面から噴出する亜硫酸ガス。猛烈な硫黄臭。死者はこれまでに七十名。栄養失調、肺疾患、水腫病、パラチフス。
 ただ実際に目にすると、自分の想像力というのはどれほど低いものかを知って愕然とした。囚人たちは硫黄に付着する土の塊を、梃子(てこ)を用いて剥がしていた。粉塵が舞い、有毒な硫黄が肺に吸い込まれる。周りは手足が痙攣している者、意識が朦朧としているものばかり。人間が通常発達しない体の部分が膨れ、あるべきはずの部分にげっそりと肉が削げている。同じ星の生き物とは思えない。人間に似た生物が、植物ひとつない黄色の大地に身を捧げている。指揮する看守も目を真っ赤に充血させて、失明のためか眼帯を付けた者が多くみられる。服はみな黄色一色に染まり、罵声が飛び交う。なにより感覚を奪い取るような異常な硫黄臭が、集合としての狂気を高めている。
 島と佐久間は鼻を抑えつつ、さらに様子を伺うために前に進んでいく。視界があっという間に悪くなった。亜硫酸ガスと浮遊する硫黄粉末。目が痛い。網膜から流血している気分だ。
「目を擦ると失明の恐れがあります。気を付けて!」
 少し前方を行く佐久間が怒鳴った。声が大きいのは火山活動と看守たちの声で周りの声が聞こえないからなのだろうが、硫黄に痛んだ脳に響くと必要以上に煩く感じた。
 それからも痛痒い目を半分瞑り、視界を狭めて前に進んでいると、途中で何かにぶつかった。前を見ればそれは佐久間の背中である。
「どうしたんだ?」
 尋ねて見ても、佐久間は反応せずに立ち尽くしている。佐久間は片目を凝らして、ある一点を見つめていた。
 なんだ、と島もそちらを凝視する。
 頭髪の抜け落ちた一人の囚人が、モッコを抱えて歩いていた。糞尿を漏らした跡があり、足取りも覚束ない。全体的な体つきは相当に衰えていて、素人目にも死が近いことが見てとれた。しかしこれまで通り過ぎた中にも、そんな囚人は何人だっていた。
「どうしたんです!」
 もう一度聞いても佐久間は動きを見せない。亜硫酸に毒されようと、同じ囚人から一向に目を離さない。
 その間にも囚人は、朦朧としながら労役を続けていた。が、ついに自らの動きを制御できなくなったようで、勢いよく隣の看守に倒れ掛かった。大きな声を出して、看守の頭と体が大きくよろめく。
「貴様、何処を見て仕事をしているのだ! 俺に逆らう気か!」
 看守の目は血走っていた。痩せた体からは血管が浮き出て、金切り声に近い怒声も、正常のものとは思えない。だが誰一人、その声に興味を示さないのが異様だった。
 看守は勢いのままにサーベルを腰から引き抜いた。
「見せしめだ」
 次の瞬間には、囚人は胸を貫かれていた。断末魔の悲鳴を上げ、串刺しの状態で四肢を揺らす。力の衰えていた看守はサーベルを落とし、囚人は地面に倒れて虫のように動いた。すぐに声が弱弱しくなり、奇妙な青黄色の地面にもう一つ鮮やかな色が広がる。
 誰も気にしない。本当に一匹の虫けらが倒れただけのような平穏だった。囚人は余程弱っていたのだろう。最後の力を振り絞るようなこともなく、そのまま一人の命が尽きたのだった。
 島は怒りに震えた。こんなことがあってよいものか。実は釧路集治監で事故処理簿を見た時から疑問を感じていた。「抵抗者斬殺」と「転落事故死」の扱いになっている死者の数が異様に多いのだ。しかしまさかこれほどまでに惨たらしい内実があるとは思いもしなかった。今の囚人もきっと、反逆者としてみなされるのだろう。自らの見返りなど一つもないのに、体を壊して、意識が崩れるまで働いたのに。
「なあ、君はこれを見てどう思う!」
 怒りをそのまま口に乗せ、島は佐久間を振り返った。しかし彼は憤怒する島と対照的に、彫刻のように固まって動きを見せなかった。
「なあ佐久間さん、どうです? これは到底許されるべき行為ではない」
 唾を飛ばすと、佐久間の口元がわずかばかり動く。
「牧田……」
「何?」何を言っているのだ。
「……すまぬ牧田、すまぬ牧田、すまぬ牧田」
 佐久間は呪詛のように同じ言葉を繰り返していた。目を剥き、大粒の涙だけをその瞳孔に宿している。島は訳が分からない。
「牧田というのは今の囚人のことなのか? あなたは彼を知っているのか」
 島の尋ねに、佐久間は答えることなく俯いた。目を閉じ、涙を振るい落とす。不自然に上がっているようにも、下がっているようにも見える佐久間の口角は、強烈になにかと葛藤しているように見えた。
「私は何者でもありません。私はあの日、翼を失って死んだのです」
 不可解なことを言った。それは島に答えているようで、自身に向けた言葉にも聞こえた。何も分からぬ島は、亜硫酸の嵐の中で穏やかに待った。悩める者に、不用意な意見を押し付けてはならない。
 真一文字に結ばれた唇。何かを訴える赤い瞳。
「島さん、私を教誨師にさせてください」
 真っすぐに島を見据えた佐久間の言葉は、叫びにも似ていて、硫黄山の号哭にも聞こえた。





  
  第八章 栄光の犠牲者(第一章後半)

 明治二十四年 十二月五日夕刻 大雪山白滝

  1
 囚人は戻ってきた看守たちによって、仮小屋へと連れ帰されていった。何もできず、奉野は寒さを忘れて怯えていた。急襲にきたはずの血塗りのオオカミは放置され、未だに神経が痛むような苦しい呻きを繰り返している。奉野が立つのはそんな彼らの真ん中だ。そこからおよそ三間先にいるのは、生命の滴る日本刀を手に持つ早川慶次郎である。彼は周囲から人影が消えると、再び奉野の前に姿を現して、不気味な笑みを浮かべていた。
「なぜ、お前がこんな所にいる」
 奉野は視線を絡めて大声を張った。この男の前で少しでも卑屈な態度を取ろうものなら、瞬時に殺されてしまう予感がしていた。
「看守さんこそ。樺戸で剣を振るっているものかと思っていましたぜ」
 早川はつい十分前にこれだけの殺戮をしたというのに、息一つ切らさずに言う。彼の笑みを前に、奉野は唇を噛んだ。馬鹿にされている。
「貴様が私たちの仕事をどう思っているかは知らん。しかし網走分監の道路開削は、もう一息で終わりを迎える。邪魔はしないで貰いたい」
「邪魔とはいい冗談だな。俺が来なければ死んでましたぜ、看守さん。オオカミの力を舐めない方がいいぜ」 
 生肉の臭気が奉野の鼻に漂ってきた。その中で早川は、看守としてものを言う奉野を小馬鹿にするような、耳障りな笑い方をする。早川はこんな喋り方の男であったろうか。会うたびに印象の分からなくなる男だった。
「人間を襲うオオカミを殺して、裁神と呼ばれるのは貴様か?」
 すると早川は笑い顔を引っ込めて目を細くした。奉野は危機感を覚える。オオカミの敏捷性と攻撃性は、他の肉食獣と比較しても群を抜いて高い。つまり一つ明らかなのは、徒党を組んだオオカミを瞬殺するこの男は、尋常ではない強さを持っているということだ。
「つい最近まで日本人はオオカミを神として扱っていたというのに、牧場や人間を襲い始めるようになって、手の平を返すように害獣や悪魔などと呼ぶ。そして代わりに非道悪徒の俺が動物を裁く神様だってさ。反吐が出るぜ」
 早川が長台詞を言う間にも、オオカミの弱弱しい声がまるで助けを乞うように奉野の耳に入ってくる。
「つまらぬ愚痴はよいから、早くこいつらを殺してやれ!」
 奉野はひと際苦しそうな声をあげるオオカミを指さし、話が途切れたところで早川に叫ぶ。剥き出しの内臓、細胞の一つ一つが、生きるためにせわしなく上下しており、見るに堪えられない。早川は、心底うんざりした表情を浮かべた。
「看守さんも分からん人だな。死に際が一番美しいんだよ」
 奉野はサーベルを握りしめた。
「ならば、俺がお前を殺す」
「やってみろ」
 早川が笑い、吹き荒れる猛吹雪がその表情を隠す。奉野には勝てる自信がない。だが今倒しておかねば、いずれもっと大きな事態に陥る予感があった。
 サーベルを中段に構えた。対する早川は日本刀をだらしなく地面に垂らしている。行動の意味が分からず奉野は不気味さを抱くが、勝負など勝てればいいと思い直す。見たところ早川の刀身は奉野のものより若干長く、斬り合いが続くほど不利であった。
「死ね」
 賽は投げられた。自分を鼓舞する喝を入れ、奉野は早川に斬りかかる。距離はおよそ一間。早川の胴を突こうとしたが動きが見えない。躱された。血塗りの体が軽やかに左に移動したのを捉え、すぐさま間合いを詰める。袈裟斬り。一太刀で決める意志が先行して、大振りになるのが分かった。冷や汗が出たが、早川が打ち込んでくることは無かった。奉野は全身の筋肉を解放して、鋭く肩に切り込む。早川は手首にほど近い、棟(むね)区(まち)で奉野の斬撃を受けた。
 崩せる。奉野がそう思った瞬間、早川の太刀が消えた。雪に突っ込む勢いから体を持ちこたえていると、左脇に気配。咄嗟に刀を両手で握り、速さを重視して左一文字に斬る。またしても白刃の気配だけがあり、衝撃や手ごたえが掌に伴わない。続けざまの誤差に、奉野の腰が微妙に泳ぐ。自棄になっていた。右手に持ち替え、真っ向から斬りかかる。早川は避けることもしなかった。太刀を握る手はしなる弦のように柔らかく、それでいて折れない。交わったと思う瞬間に太刀は消え、切っ先の一寸先に早川が立っている。見切られたのだ。それも余裕で。
 逆袈裟斬り。早川は上から応える。鉄の焦げる枢軸から、早川の柄、手首、背中が、流線形を描いて一本に繋がるような錯覚を覚える。決まらない予感がした。すぐに左足を引いて、鍔迫り合いから逃れるように態勢を整える。早川の太刀が浮いたのを見て、無理やり腸に突きを入れようとした。その瞬間、奉野の左腋に激痛が走った。
「馬鹿野郎。いくらなんでもそれは無理がある」
 崩された奉野の突きは狙いが逸れ、軽やかに躱される。左腋から血が垂れていた。辛うじて理解できたのは、早川に狙い過ぎを咎められ、最速で薙ぎ払われたということだ。
 早川が追撃を入れなかったことに救われ、奉野は間合いを戻す。
「傷が浅すぎたようだな。全く、俺にも悪い癖がついたもんだ」
「舐めるなよ。必ずここで貴様を殺す」
 屈辱が過ぎた。しかし目を剥いてサーベルを構えなおした奉野に吹雪が直撃して、その冷たさがようやく熱を冷ます。ここまま闘っても勝てないことは明らかだった。
「……その前にいくつか聞いておきたいことがある」
 サーベルを中段に構えたまま呼吸を整え、悠然と呼びかけた。常にこちらを観察している早川に、怖気を見せるわけにはいかない。
「このオオカミが何処から来たか、知っているか?」
「これから俺を殺そうとする相手の質問に、どんな理屈で答えなければならない。看守さんが自分で考えたらどうだい」
 剣戟はおろか、舌戟でも押し切られそうである。奉野は必死で頭を回した。
「お前は生き物の命を奪ったんだ。その生き物のために、答えろ」
 早川はやれやれとため息をつく。
「屁理屈の上手い看守だ。その屁理屈でさぞ、囚人をこき使ってきたんだろうな」
「質問に答えろ」
 如何ともしがたく声が震える。囚人の扱いについて言われると、奉野の心はどうしようもなくかき乱されるのだった。
「エトウルシを殺した」早川ははっきりとそう言った。
「……」吹雪にかき消されたわけではない。予想もしなかった名前に、頭が真っ白になった。早川はエトウルシのことに苛立ちを見せ、打って変わって感情的な言葉で語り始めた。
「あの糞野郎。人畜無害の雑魚だと思っていたら、周到に何十本もの仕掛け弓を埋めていやがった。肩と足を射抜かれた時はこの俺でもさすがに死ぬかと思った。あの道化師め、地獄で会ったら絶対にもう一度殺してやる」
 頭が意味を咀嚼したがらない。奉野にとってあまりにも実感がない語りであった。
「何を言っている!」
 無為に語気を強めたのは、早川の質の悪い冗談を期待したからである。早川は怒りの滲む表情を浮かべ、隙間ない早口で言った。
「だからオオカミを殺してあの女を虐めてやろうと思ったら、エトウルシとかいう糞に邪魔されて危うく死にかけたんだ。俺は虐めを楽しむ暇もなくあいつを殺すことを余儀なくされ、見せしめに死体をちぎって八つ裂きにしてアシㇼレラの家の中に投げ込んでおいた。だがそのような下劣な芸当は俺の趣味ではない。命の煌めきに浸る暇もなかった」
 騒然とする内容を突風のように喋る。奉野は気が遠くなる体を抑え、辛うじて正気を保った。
「それで、アシㇼレラはどうなった?」
「人を殺してでもこの俺を捕まえることを厭わなくなり、オオカミは各所で人肉を貪りながら俺に向かってきている。気が違ったとしか思えん。こいつらのように成獣になりきらない痩せた個体なら造作もないが、三匹ほど馬鹿でかい個体が混じっている。そいつらを殺さない限り、この俺とておちおちと眠れない」
 雰囲気に呑まれて気づかなかったが、改めて早川を観察すると、目が窪んで隈が貼っている。十分に眠れていないのかもしれない。三匹のオオカミというのは恐らく、ウパㇱとアンノカㇻとランプイのことだろう。彼らが本気で人間に襲い掛かるとすれば、早川とて無傷では済まないということだろう。ならば。
 そこで奉野は暫し考え込み、ある提案をした。
「どうだ、もう一度監獄に戻る気はないか? もう手荒な真似はしないと約束する。オオカミも檻の中まではやって来れないだろう。その間に俺はアシㇼレラに、無意味な殺生をやめるよう説得する」
 自信を持っていう奉野に、早川は低く笑った。
「お前、それを本気で言ってるのか? 俺は本気で命を削る戦いを愉しんでいるんだ。今お前を殺したっていい。一度でも俺が、お前らのような無能な輩に捕縛されたことを偶然と思うなよ」
 気味の悪い余韻を残す早川に、はっとさせられた。早川は一年間逃亡して捕まった際、なぜか誰も殺さず、抵抗もしなかった。それに捕縛場所は樺戸の看守が常駐している当別村であり、奉野はかねてから、なぜ早川のような男がおめおめとそんな場所に来たのだろうかと疑問を持っていた。考えたくはないことだが、はなから自分は遊ばれていたのか。
「ともかく」、と早川は言葉を切る。奉野はサーベルを握りしめて次の言葉を待つほかない。
「今はお前を殺さない。俺はすでに果てている。愉しみは取っておきたい。それに今日お前を助けたのは、以前の借りがあるからということもあるからな。しかしこれでもう貸し借りなしだ」
 変なところで義理堅い男という印象は間違っていなかったようだ。果てるという言葉で早川の下半身を見ると、濡れていた。奉野は何か禍々しいものを感じて一歩下がる。すでに戦意は削がれていた。
「いいことを教えてやる」
 奉野は黙って頷く。
「一月終わりに裁神が大雪山旭岳山麓に現れるということを付近の村に吹聴している。小型のオオカミはほとんど俺が狩った。恐らく今度こそ、アシㇼレラは生き残ったすべてのオオカミを引き連れて旭岳にやってくるはずだ。俺はしばらく永山村にいるから詳細は聞きに来い。彼女との最後の上演にお前が来れば、俺としても喜ばしい」
 言いたいことを言いきるや否や瞬時に身を翻す。大雪の吹雪と密林に紛れて、早川の姿はたちまちのうちに消えた。残された奉野に、やっと血が巡り始める。あれほどもがき叫んでいたオオカミたちは、いつの間にか息絶えていた。

 凄惨を極めた道路開削工事に幕が下りたのは、十二月二十七日のことだ。網走分監の囚人の手で拓かれた道路は、全長五十四里三十四町(百六十三キロ)、道幅三間、最高勾配二十分の一にもなる。過去に比類のない大工事で、たった一年で札幌から旭川、北見を経て網走までの道路が開通したのであった。その代償は凄まじく、病気にかかった囚人は延千九百十六名、栄養失調による死亡者は百五十六名に数えられた。網走分監による中央道路開削工事は、日本の数ある囚人労働の中でも、最も過酷な労役として歴史に名を残している。

  2
 一月三日、奉野は熱いお湯の中に手足を浸していた。あと数日でも工事が続けば、凍傷は悪化し、自らも指先を切断することになっていたと思う。我ながらよく助かったものだが、ひどく時間を無駄にしたように感じられてならない。国が予想していたよりもずっと多くの病人が発生し、網走分監も今後、大変な時期に入るだろうと思う。  
 今奉野が他人事のように言っていられるのは、網走ではなく北海道市来知村にいるからであった。この地には明治十五年に開監された空知集治監があり、奉野は大作業後の人事異動によって、ここに新たに配属された。
 あと少し経てば、本格的に空知集治監で働き始めることになる。ここでは明治二十三年七月から、新たに集治監を治める典獄として大井上輝前が就任していた。この人物はかつて釧路集治監の典獄を開庁当時から任され、当初「鬼典獄」と恐れられる厳しい性格で知られていたが、硫黄山の労役を目の当たりにしたことから人道精神に目覚める。その後は同じく囚人の権利を主張するキリスト教の教誨師らとの親交を深くし、明治二十一年の七月にはとうとう硫黄山への囚人の出役を終わらせたという実績がある。
 そんな大井上の統治下では、樺戸集治監とさほど変わらない造りの空知集治監においても、囚人の保護活動をする教誨師たちに囲まれて雰囲気が良い。奉野はそのことに喜びを感じつつも、一つだけ腑に落ちないことがあった。彼らは樺戸の囚人よりも、明らかに顔色が悪いのだ。そこには網走の囚人たちに近い消耗感があった。原因を探った奉野は、囚人たちの大半が市来知の監獄を離れていた経験があることを知った。彼らは空知集治監の外役所にあたる幌内の地底で、炭鉱労働に就いていたのだ。
 幌内に炭鉱が発見されたのは明治期に入ってからで、明治十三年に初めての採炭が行われた。当初は良民工夫の手によって採掘が行われ、明治十五年の採炭量は最高でも三千六百七十七トンに過ぎなかったが、囚人の就役した年にはわずか半年足らずで、前年の五倍近い一万七千三百一トンの採炭量に達した。また時を同じくして対ソ連の危機感が強まったことがあり、石炭価格は一気に高騰した。利潤を追求した幌内炭山会社により、七対三程度であった良民工夫と囚人の割合は、次第に格安の賃金で賄える囚人の利用に集中され、株主総会では異例の高率を叩きだしていた。つまり囚人の作業は、過酷の一途を辿った。
 国家権力と民間企業の欲望が渦巻き、空知の四割以上の囚人が駆り出されている幌内炭鉱。恐ろしいことに人権派の猛反発によって中止に終わったものの、樺太アイヌ民族が日本に移住した時には、炭鉱労働に就かせるという話も上層部で持ち上がっていたようだ。  
 諸々の状況に興味を抱いていた奉野は、勤務が始まる前に視察を行うことにした。

 網走でこれ以上がないというほどの地獄を見ていたため、多少なりとも油断していた。教誨師もいるこの地で、それほど恐ろしいことが行われているはずが無いだろうと。奉野は知らず知らず、幌内炭鉱付近の獄舎に生半可な気持ちで訪れていた。そこで固まる。自分はまだ網走にいるのだろうか。           
 手、足が欠けた者。或いは目を白濁させた盲人。不具の者が二百名以上に連なって、綿の塵を取り除く作業を行っていている。黙々と。
 国から終わらない悪夢を見せつけられる心地がした。奉野は暗澹たる気を持ちながら、直ちに労役の主体となる作業場に向かった。
 幌内外役所では、常に看守の怒声が飛び交っていた。一目で、大井上が掲げる人道主義がこの地には一切及んでいないことがわかる。煤だらけの現場には原始的な洞穴が掘られ、真っ黒になった囚人が出入りを繰り返している。幌内の大坑道は全長六千二百尺(一八八〇m)にもなり、網の目のようにうがたれた炭層には、囚人の手によってさらなる沿層坑道が掘進されていた。だが奥に進むにつれて可燃ガス爆発の危険も大きくなる。今奉野の目の前で掘り下げられている堅坑にも、悪性ガスが湧いていないとは限らない。採炭作業が困難な事業と呼ばれる要因の一つである。どうするつもりなのかと奉野が訝しがっていると、現場を指示する看守の野太い声が聞こえてきた。
「二百八十三番!」
 彼が手招きしたのは長い腰縄がまかれた虚ろな囚人。他の囚人たちは、彼が呼ばれた通りに歩く様子を静かに見守っていた。看守は今掘り下げられた穴を指さす。囚人はためらいを示したが、看守は気にせず彼を穴の中へと落とした。宙づりである。一度は吸い込まれる縄が止まり、囚人は地面に着いたことが分かった。しかしその後も縄が少しづつ穴に落ちていくのを見ると、奈落の囚人が、より坑道の奥へ歩みを進めているようだ。
 奉野は察した。これは実験台だ。この囚人が奥で悪性ガスにより意識を失えば、すなわちその坑道は使えないと早い段階で判断できる。そうすれば作業効率はずっと良くなる。
 無意識に眉間に皺が寄っていた。まだ道路開削には終わりがあった。十カ月という途方もない長さだが、無事に終われば帰ることができる。しかしこの地の囚人たちは、この国と人間の欲望が続く限り永遠に働かされることになる。罪もないアイヌまで連れてこられることになっていたとは反吐がでる話だ。自分はまたいつものように彼らを見捨てて、自らの保身に走ることになるのか。
 目に入る煤が異常を煽ってくる。体が葛藤に揺れ、ついには奉野を動かした。奉野は看守に抗議をしようと、せわしなく歩みを進めていた。今日こそ、ずっと言えなかった不満を……。
「奉野看守」その時突然名前を呼ばれて、肩を掴まれる。奉野が振り返ると、そこにいたのは空知集治監の教誨師の一人だった。いつも顔の半分を布で覆っているという特徴があり、すぐに覚えられた。
「あの看守に抗議しようとしましたね。いけません」
 彼は奉野のことを観察していたようだった。仕事もせずにたむろしていたので目立ったのか。
「なぜだ。あのままでは囚人が死ぬ。たとえ死んでも逃亡罪や病死として適当に処理するつもりだろう。俺にもそのくらいは見当がつく」
「空知集治監は、契約で決まった採炭量を日々出荷しなくてはいけません。それができなければ、囚人にも看守にも罰が下ることになります。結ばれた契約は絶対なのです。それに大量の石炭が採掘されることは、結果的に多くの人を救います。国家というのは多数決で動き、物事に正解があるとすれば国家の決まりです。私たちはその枠組みに従う中で、できる限りのことをするよりないのです」
 教誨師は後半、自分に言い聞かせるような長台詞を吐いた。
「このような惨状を放っておく国家が正しいと?」
「個人の欲求よりは大いに正しいことだと思われます」
 教誨師は布にこびり付いた煤を払おうともせずに言った。元々片目しか見えていないだろうに、その眼にも煤が入り込んでいる。
「本当にあなたはキリスト教徒なのか?」
 奉野は信じられない気持ちでいた。宗教には詳しくないが、キリストの教えでは神の下に人は皆平等であるはず。彼は教誨師にも関わらずその信念を持っていないのか。
「本当の意味では、私はキリスト教徒ではありません。私は道路開削、硫黄採掘、そして石炭採掘、酷いものをたくさん見てきた。人を救いたい気持ちは同じです。しかし私は、個人の願望によって歪まぬ些細な正義を、日々行使しているに過ぎないのです」
 何を言っている。教誨師の思想に奉野は妙な怖さを感じた。同時に滔々と語る彼の顔を見ていると既視感が浮かぶ。しかし奉野には顔に傷を負った友人のいた記憶はない。
「うっ……」
 つい長い間目を開いてしまい、大きな石炭の粉が顔に直撃した。充血した目を抑える奉野に、教誨師は再びあらぬことを言った。
「奉野看守。厚田村にオオカミが襲来したことをご存じでしょうか?」
 オオカミ。奉野は束の間目の痛みも忘れた。どういう訳だ。なぜ一度も会ったことのないはずの男が、奉野が気にする話題をいくつも振ってくる。
「オオカミが迷い込んだのか?」
「いえ、餓狼が群れをなして厚田村の人家を襲いました。たくさんの人間が死にました。人類の繁栄を阻む悪といえるでしょう」
 強い言葉に対して、曖昧に頷く。この男の言う通りだが、どこかで奉野は、従来人を襲わぬオオカミがそれほどまでに飢えていたのかと憐憫も感じ始めていた。レラのせいで価値観が狂い始めている。何が正しくて、何が間違っているのだろうか。頭がおかしくなりそうだ。
「私は、絶対に許しません」
 教誨師が言うと同時に、堅坑の方で声が上がった。看守と囚人たちによって腰縄が手繰り寄せられ、奥に達した囚人が引き上げられたのだ。
 囚人は、じっと動かず、首を垂れている。看守が頬を叩いたが反応を示さない。
「ここは駄目だな、別の所を掘るぞ」
 看守がそう叫ぶと、囚人たちは体を揺らして次の作業に移る。だらしなく四肢を伸ばした縄の囚人は、痩せこけた囚人三人がかりで安置所に運ばれた。奉野はその様子を怒りに満ちた目で見送る。
「教誨師さん、あなたの考えていることはよく分からない。確かに俺は間違っているのかもしれないが、絶対に許せない物事は存在する」
「そうですか」
 教誨師は表情の読み取れぬ能面を浮かべ、目を瞑る。何も語らない。さっと奉野の前から立ち去った。その時にはもう、抗議をしようとした看守はいなくなっている。    
 黒い空気が充満して、空知集治監の内実を物語っていた。問題は根が深いようだ。しかしひとまず勤めが始まるまでは、独力で早川を探すことに専念しよう。
 それにしても、どうしてあの教誨師は自分の名前を知っていたのだろうか。最後にふと、そんな疑問が頭に浮かんだ。 





  
  第九章 餓狼

  1
 翌日奉野が向かったのは、旭川の東側に位置する上川郡永山村。明治二十四年の六月に屯田兵が入植したばかりの新しい村である。奉野はこの地で、時間の許す限り早川の動向を探るつもりであった。
 永山村はまだ小さいながらに村役場と二つの小学校が設置されており、新しい時代の花開きという感じがした。村の雰囲気も来札と比べれば、余程活気づいている。住人たちは凍てつく気候の中、官服を着てやってきた奉野のことを訝しんだようであったが、裁神の名を出すと前のめりになって答えてくれた。
「つい最近まで害獣処理組と名乗る不気味な奴が来ておった。時々村の者に銭を払って取引をして、家を借りて寝泊まりしていた」
 直ちに取引をしていた男に話を聞きに行った。
「早川さんのことか。噂によると獣を殺す役所の凄い人なんだってな。結構銭もくれて、気前のいいお方だったぜ」
 内地から来たばかりに見える呑気な男に、奉野は内心歯がゆさを感じる。早川の銭は民家を襲ったか、良くてオオカミ殺しの報奨金で得たものだろう。凍傷寸前の思いをして月給七円のわが身を、奉野は情けなく思うばかりだ。
「それで、早川さんは今どちらにおられますか?」
 すぐに本題に入る。アシㇼレラと連絡を取ることができないので、独力で早川を捕縛してしまうよりない。全て身から出たさびなのだ。
 心中思いを固める奉野に対し、男はとんでもないことを言った。
「今朝がた、オオカミが現れたって言って出て行ったよ。しばらく帰ってこないとさ。残念だったなあ」
「本当か! どこへ行った」
「この旭岳方面、五里先の密林だってよ」
 男は奉野の気迫に慄いていた。奉野は歯ぎしりをする。そう簡単に捕まってくれる相手ではないとは分かっていたが、早川は道路工事が終わったという情報を知って、悠々と離れていったのだろう。奉野という看守が、結局アシㇼレラに執着していることを見切り、しかしすぐに国に反発し任務を放棄するような潔さはないと知って。
 顔から火が出るような恥ずかしさを覚えると同時に、今この瞬間にも巻き起こっているのかもしれない未知数の戦闘を思って震えた。こうしてはいられない。
 足先を揉んでみると、大分復活してきている。屈伸。背伸び。やるべきことは明白だった。オオカミも野生化が進んでいるに違いないし、今度こそレラを人里に戻さなければならない。早川はこの手で捕まえて、二度と集治監の外に逃げ出せぬよう入念に管理する。
 雪道は歩きなれている。三時間もあれば踏破可能できるだろう。持ち物は捕縛用の縄と最低限の食糧、寝袋、提灯、防寒具。加えて手になじむサーベルが一本。場合によっては何かを殺すことになるかもしれない。奉野、早川、オオカミ、アシㇼレラ。まったく予想のつかない空間に、本能のままに駆ける。

  2
 五里の道のりを駆け切ったころには、昼の盛りを大きく過ぎていた。早くしなければ夕闇が訪れる。雪こそ止んではいたが、この寒い中奉野はびっしょりと汗をかいていた。今日の内は何も起こっていないことを望むばかりだ。さすれば適当な場所に雪洞を作って朝を待てばいい。今月は最寒月で野宿には最悪だが、仕事上手持ちの防寒具は揃っており、何より網走の道路開削に較べれば大したことではない。早川やオオカミの夜襲を受ける確率はもちろんあるが、その程度の危険はどのみち避けられないことだ。
 方略を練っているうちに、すっかり今日は何も起こらぬ気分になっていた。ちょうど寒さにも辟易していた。しかしそんな油断はろくな事態を招かぬようで、まもなく奉野の前に、不気味なものが現れた。心は直感していたが、見間違いであることを祈ってそれの前に接近する。
「……」間違いない。それは惨殺されたオオカミの亡骸であった。腐敗は全く進行しておらず、新鮮なものに見える。内臓は綺麗な桃色で、破れている箇所は見受けられない。心臓も顔もそのまま。ただ片目が抉られて、腸のみがところどころで千切れている。こんな殺し方をする者が早川以外にいようはずがない。しかし奉野が冷静でいられたのは、そのオオカミが死んでいたからだ。周りにはもがき苦しんだことを示す雪の跡があり、察するに早川が生殺しにしてからそれなりの時間は経過しているのだろう。午前中の出来事であるからか、足跡はほとんど見られない。雪が止み約三十分になることを考えると、もう少し先を行けば早川の足取りが見えてくることになる。いくら早川がこちらを警戒していたとしても、道路工事が終わってからろくに休みも取らずに永山へ向かい、奉野が三時間足らずでここまで辿り着いたとは思わないのではないだろうか。オオカミと闘うことに早川が夢中になっているとすれば尚都合がいい。奉野は自らを奮い立たせると、先を急いだ。

「……」固まるより無い。十五分駆けた先でのことだ。開けた谷地に現れたのは、十匹近くのオオカミであった。大きな肉食獣たちが、雪の中に倒れ込んでいる。
 臭いや鳴き声は聞こえなかったが、奉野はたちまち気分が悪くなった。道路開削中の思い出がそうさせるのか、はたまた無機物と化した生物の集合というのは見るだけで生理的な嫌悪を煽るものなのか。
 奉野は溢れる吐き気を抑えつつ、警戒心を強めて谷に降りた。動きを見せるオオカミはいない。死んでいるのか。
 おそるおそる横たわる一匹に近づき、腹部に触れる。そして驚いた。
 生きている。オオカミの体は温かくわずかに上下に運動していたのだ。血は固まり、予期していたような惨たらしさはないが、臓器は完全に斬られている。奉野が思うに、徒党を組んでオオカミに襲われた早川はいたぶる余裕が無かったのだろう。そのため痛めつけることをせず普通に斬り殺したのだろうが、危うく彼らが生きているのは、斬撃を浅くしてしまういつもの癖か、殺しきる体力が残っていなかったのか。
 真相はどちらでもいい。確信を持って言えるのは、オオカミと戦闘してからそれほど時間が経っていないということだ。はやく捉えなければならない。奉野はオオカミの傷を治療できないことを申し訳なく思いつつも、その場から立ち上がる。その時、目の端にひと際大きな個体が目についた。密林の側に近寄ってみる。黒と灰色混じりのその個体に、奉野は見覚えがあった。
 ランプイ。奉野はオオカミについて詳しくはないが、レラと一緒にずいぶんと姿は見てきた。間違いはないはずだ。ランプイもよく見るとまだ息をしており、瞳は弱弱しい光を発していた。
 奉野は再び強烈な気持ちの悪さを覚える。先ほどのオオカミと違って多少なりとも親しみがあると、一段と辛い気持ちになる。
「すまない。全部俺が悪いんだ。あの早川慶次郎などという悪魔を、檻の外に解き放ったのは俺なんだ」
 ランプイに語りかけながらも、一方の自分が、それで贖罪のつもりかと冷ややかな目で見つめてくる。我ながら嫌気がさす。今更身の保身を考えるのはおろかであった。
「ランプイ」
 自分が送るべき言葉は、レラが付けてあげた名前だけである。奉野は口元を引き締めると、谷の淵で早川の足跡を探した。
 ある。よく見るとうっすらと窪んだ雪地が連なっているのが分かる。オオカミの足跡が見えないことから察すると一時間と経っていない。この先に間違いなく早川の姿が現れるということだ。
 さらに先を急ぐこと二十分。密林の中をかき分けて進んだところに、ついに奉野の前に待ち焦がれていた人物が現れた。周囲は木々の少なくなったすり鉢状の地形の、ほぼ中央に早川は立っていた。彼の足元には弱弱しい唸りを残す一匹の小柄なオオカミが横たわっており、早川はそれを横目にして日本刀を構えている。まだ奉野との距離は五間ほど。全身が見下ろせるくらいには、こちらの方が位置は高い。向こうの挙動からするに、まだ自分の姿が見つかったわけではなさそうだった。では剣を抜いて何をしている。或いは今ここでアシㇼレラを……。
 ぞわぞわと悪い予感が駆け巡る中、奉野は木々を潜る。慎重にすり鉢の淵を移動し、捕縛する機会を伺がうつもりだった。今近づけば、確実に見つかって斬り合いになる。それも覚悟はしていたが、できることなら避けたい筋書きだ。
 一分、二分と時が経過する。何も起こらない。早川は日本刀を握りしめたまま、気を緩めることなく雪上で構えている。しかし時折刀身を傾けては、目を左右にやっている。一体何をしているのだ。早く刀をしまって休息を取ってくれないものか。奉野は焦りを抱きつつ、早川の視線の先を素早く追ってみる。そこで気づいた。
 林の中に見えるのは一匹の巨大な個体、毛並みからするとアンノカㇻであった。しかし以前に目にした時よりもさらに大きくなっており、四肢を伸ばせば奉野の身長を軽く超えてくるだろう。そして早川を挟んでちょうど直線になる位置に、かつて子を孕んでいたメスの頭領、ウパㇱがいた。二つの個体はそれぞれ細微な動きを繰り返しながら早川との距離を詰めている。オオカミは勇猛果敢な生き物であるが、早川に染み付いた仲間の血が、彼らのような巨大な個体さえも怯えさせるのだろう。奉野はいままで気が付かなかったが、早川を含めた三つ命はここで身を削る戦闘をしていたのだった。
 瞬間、アンノカㇻが吠えた。草むらから飛び出すと、不規則な足運びで早川へと狙いをつける。動きを捉えるのは非常に困難だ。同時にウパㇱも姿を現して突進する。目の前に迫った二頭が跳躍し、早川は横に身を逸らして剣を振るった。誰のものかも分からない呻き。接近戦にもつれたように見えたが二頭は闘わずに交差する形となり、再び三つの影は向かい合った。早川は無傷である。
 オオカミの方も戸惑っているのだ。肉食動物は通常獲物に向かって跳躍する際、相手の逃げる距離を無意識のうちに計算する。だが早川は逃げるどころか突っ込んでくる。そして仲間の血の匂いが漂い続けているのだから、慎重に闘わざるを得ない。
 さらに奉野は思わぬことに気づいた。ウパㇱの胴体から血が零れていた。目に負えなかったが、交差する折に斬撃を食らっていたようだ。彼女の機敏な動きから見るに浅い傷で済んだようだが、今の一瞬で噛みつくどころか命が奪われるところだったのだ。当然ウパㇱは、そしてアンノカㇻまでもが怯えを見せている。
 一歩、また一歩と二匹のオオカミが後退する。奉野は自身への歯がゆさで一杯だった。今手元に銃でも弓でも遠距離の武器があれば、早川の動きを制御することができるものを。手ごろな石を見つけて投げつけて見るか。潔く前に出て、早川と一戦交えるか。思考は空を切るばかりで体は少しも動かない。
 二匹のオオカミはもう退却してもよさそうなものなのに、口を開いて唸り続けている。オオカミは執着心が強い生き物だとは教わったが、自分より強いと分かった一匹の獲物に対して、自らの生をかけて挑む必要性があるだろうか。そこまで考えた奉野に、早川の足元に横たわった小さな個体が映った。嫌な確信が脳を駆ける。そうか、彼らは自分たちの子供を助けようとしているのだ。
 奉野は抜刀していた。畜生の所業を許せなかった。オオカミとの共闘など話に聞いたこともないが、向こうは多少なりともこちらのことを覚えている可能性はある。レラにオオカミとのかかわり方は教わっている。余計な刺激を与えなければ味方とまで思わなくても、すぐに襲ってくることはないだろう。何にせよ彼らは手負いなのだ。だが問題は早川に勝てるかどうかだ。全く分からない、考えるべきではない。
 迷いを捨て、奉野は飛び出そうとしていた。その時である。
 大きな遠吠え。森の、もっと奥からだ。その声は紛れもなくオオカミで、何かを求めるように、何度も遠吠えを繰り返す。その太い声の主には特徴があった。イコロを除いて心当たりがない。
 早川は一瞬気を取られたようだったが、すぐに目の前の敵に向き直る。ウパㇱとアンノカㇻは遠吠えに耳も傾けず、目を怒らせている。それどころではないのだ。
 奉野は前のめりになっていた思考を変えた。この力強い声がイコロのものだと仮定すれば、彼は充分な体力を残していることになる。すなわち、まだ早川の毒牙を受けていない。そんな彼がこんなところで遠吠えをするのはなぜか。決まっている。
 奉野は身を翻して声のする方に駆けた。三十秒ほどで声は途切れたが、道中でオオカミのものと見られる足跡が見つかった。それをひたすらに追う。
 三分ほど駆けた先、恐れていた光景が目の前に現れた。
「アシㇼレラ!」
 残雪の中に身を埋める人影を、奉野は揺さぶった。服はアットゥシ一枚を重ねただけでひどく寒そうだ。慌てて手袋を外して体を触ってみる。幸いなことに最悪の事態には至っておらず、彼女の体はまだ温かいことが分かった。
 外傷として見えるのは、服に残った歯痕一つである。まさかオオカミにやられたのかと思い、一度服を脱がすが血は流れていなかった。気絶しているだけということになる。周りを見渡しても、オオカミの姿は見えない。近くには跳躍をした後があり、木の根などを使い意図的に跡が残らぬように逃げ去ったのかもしれない。状況は分からないところも多いが、ともかくこのまま彼女を放置すれば低体温症で死ぬことは違いない。早川を捕まえることよりレラを助ける方が優先度は高い。ならば一旦レラを起こし、この場から逃げ去るというのが安全だ。しかし問題は彼女の気絶の理由が釈然としないことだ。もし体が圧迫され、外傷を受けることなく内臓が破裂したのだとすれば、無理やり意識を戻そうとすることは死に繋がりかねない。
 思考の末に、奉野はここまで持ち込んできた荷物とサーベルを雪の中に埋めた。手ぶらだが致し方ない。奉野は自らを鼓舞すると、レラの腕を取り、力を込めて背負ってみる。
 ……重い。これは無理だと一瞬で悟る。数分で腕が駄目になるだろう。同じ人間でも、意識があるのと無いのではかかる負荷がまるで違う。地盤は極めて悪く、さらに奉野はここに来る以前に大きく体力を消耗していた。自分は生きて帰られるのだろうか。強烈な不安に襲われつつ、奉野はそれでも無理やり森を出る方角へと足を進めてみる。
 だがやはり、こんな場所で人間を運ぶなど正気の沙汰ではなかった。三分で心臓が跳ねた。吸い込む息の量だけがいたずらに増え、肺が凍り付きそうになる。氷点下にある空気を吸い過ぎると、喉は乾燥して呼吸器は機能を失いかねない。危ない状態にあることは自分が一番知っていた。苦しくても息の量は抑え、全ての運動量を歩くことに費やさなくてはならない。彼女を抱える手は既に麻痺し、膝は震えて限界を迎えていた。なにせ一歩歩くごとに、重みで膝近くまでが地面に埋もれてしまう。止まれば二度と動けなくなることは明らかだった。
 それから更に二十分が経過する。
「うっ……」耳元で聞こえる声。
「レラ?」乾燥した唇で問う。
「苦しい、降ろしてくれ」
 その言葉に、奉野は崩れ落ちるようにして彼女を下に下ろした、
「大丈夫…なの…か?」
 喘息のように言葉が途切れ、巧く言葉を交わせない。ここまで無事にすんだ自分に驚愕する。逆に人間にこのような生命力があるのなら、早いうちから痛みを伴うことはどうにかならないものなのか。
「片足の骨を折られてから、鳩尾を殴られて気絶しただけだ。命に支障はない」
 アシㇼレラは自身の状態を確かめながら言った。
「何が…あった」
「早川に殺されかけて、いつの間にかハギノに運ばれていた。全く訳が分からない」
「俺も…だ。一度…落ち…着きたい」
 アシㇼレラは頷くと、木々に当たりをつけ、死角となる場所を探し始めた。
「あっちに行こう」そう言って指をさすと、足を引き摺りながら木の根元に向かった。足取りを見る限り本当に骨が折れているようだ。奉野も再び立ち上がる。激しい眩暈がしたが、二人は陰で腰かけて束の間の休息を取る。
「ウパㇱたちを見たか?」
 奉野の呼吸が落ち着くと、レラは祈るような眼で聞いてきた。聞かれることは分かっていたが、奉野は何と答えてよいものか悩む。
「ああ……。早川と闘っていた」
「どうなった」
「分からない……。俺はその時イコロの声に導かれて、レラの所にやって来た」
 レラは息を呑んで信じられないという顔をした。
「イコロが? あり得ない。あの子は石狩に置いてきている。姿を見たのか?」
「認識は出来なかったが、俺も聞いたことはあるから、あの遠吠えは確かにイコロと思ったのだが」
「あり得ない」、と言って考え込むレラは、あることに気づいたようだ。
「服……。私の服が破けている。歯型? ……そんなことがあるのか?」
「どうしたんだ?」
「オオカミは獲物を殺さずに運ぶとき、体全体を満遍なく噛むようにする。私の服の破け方は、運ばれた草食動物の体に酷似している。つまり」
「つまり?」
「私は運ばれたんだ。しかし私の体は小動物と比べればずっと重たい。そんなことができるのはイコロしかいない」
 イコロ、ともう一度呟き、レラは拳を握る。彼女は大切な仲間たちの身を案じていた。
「こうしてはいられない。まずはウパㇱとアンノカㇻの無事を確認して、それからイコロを探す。特に人の手で育てられたイコロは、早川と会っても何の抵抗もできない」
 言葉と共に勢いよく立ち上がろうとした彼女だが、すぐに顔を歪めて雪の中に落ちた。そのまま弱弱しい声で唸っている。
「馬鹿、お前は骨折しているんだ。第一、まだ早川がいるかもしれないのに危険すぎる」
「私の……私の脚さえ無事ならば」
 悔しがるレラを見ていると、本当に脚さえ無事なら突撃しかねない。奉野はそんな彼女に恐怖すら覚える。
「今すべきことはこの森を出ること。俺たちは消耗している。余計なことを考えるな」
 奉野がしゃがれ気味になった声で訴えると、レラは少し冷静に戻ったようだ。
「ごめんなさい。助けに来てくれて本当にありがとう」
 奉野は頷くと、レラに肩を貸して立ち上がった。早川一人のために、どれだけ翻弄させられなくてはならないのだろうか。
「私はあいつを許さない。必ずこの手で報いを……」
「無駄に喋るな、あまりもたれるな、しっかり歩け」
 奉野は叱った。見つかれば確実にいたぶり殺されるのだ。ウパㇱとアンノカㇻが早川を殺してくれていれば一番良いが、可能性は低いと言わざるを得ない。
 そのまま三十分ほど歩いた。歩行は遅遅としていたが、確実に前進はしている。彼女に貸す肩を、右と左で交互にすることで、辛うじて限界を保っていた。アシㇼレラも無駄口を抑え、片足を引き摺ったままよく歩いている。さすがの胆力だ。ひょっとしたら無事に帰れるかもしれない、奉野の中にそんな希望も芽生え始めた。日は暮れはじめて方角を間違えると危険であったが、幸いレラは方向感覚に優れていた。来た道と同じ場所を通っていなくともおおよその進行方向は見失わないはずである。
「ハギノ、ちょっと待ってくれ」
 レラは急に声を上げた。
「どうした、方向が違うのか?」
「いや、この場所に見覚えがある」
 見渡してしても、そこは何の変哲もない殺風景な雪景色である。
「少しだけだ、待っていてくれ」
 レラは奉野の肩から手を離すと、勝手に歩みを進めた。奉野は追いかける力もなく、その場で腰を下ろす。
「あった!」
 振り向いたレラが掲げたのは、彼女の弓であった。
「なぜそんなところにある?」
「行く道で置いてきた。ずっと背負っていると重くて早川に追いつけなかったから」
「それなら今持っていくことも不可能だろう」
「私はこれを抱えてなんとか一人で帰る。早川がやって来たとしても、弓があれば大丈夫だ。ハギノは先に帰って助けを呼んでくれ」
 恐る恐るといった風に、上目遣いで見つめてくる。彼女は奉野の体がかなり危ないと分かったのだろう。心拍数が明らかに異常なので、気が付かれるのも無理はない。レラはこちらの負担を減らそうとしているのだ。
 その労わりを感じる目線から、奉野は目を逸らす。こんなところで許されてよい行いではない。
「言葉に甘えて休息は取らせてもらう。体が復活すればまた一緒に帰るぞ」
 有無を言わさずに言い切った。レラはこちらの言葉に驚き、迷いを見せ、最後まで複雑な顔をしながら言った。
「ありがとう」
 奉野は糸が切れたようにその場に倒れ、しばし青空を眺めることにした。
 鳥になれたらどんなにいい気分だろうか。とても気持ちが良かった。レラが四方の観察をしてくれているおかげで、奉野は束の間、張りつめてた神経を弛緩することができた。   
 早川もこれだけ広い森の中では、簡単に出くわすことはないだろう。たとえ生きていても、あの二匹と同時に闘えば手負いは免れない。疲れと相まって、奉野は宙に浮いた気分になっていた。
 しかし、唐突にかき消される。心底怯えたレラの声だった。
「早川がいる」
「どこだ」
 まだ癒え切らずに悲鳴を上げる上半身を引き起こして聞いた。
「大丈夫、まだ随分と先だ。静かにしていれば通り過ぎる」
 休もうとする体が、一方では極度に緊張して抗えない葛藤を起こす。何だってそこまでついていないのだ。わざわざこんなに広い森の中で会わなくてもいいものを。
 レラは藪の中で固まったまま観測を続けている。今はとにかく、今日中に帰り着くことはできなくてもいい。向こうから気づかれないうちに夜の帳が下りて欲しい。祈る奉野に、アシㇼレラは笑って振り向いた。
「やつが通り過ぎた。しかも私たちとは逆方向だ」
 力が抜ける。状況は悪くない。
「それならば」頑張って今日中に帰ろうか、と言いかけたときだった。
 気配を潜める二人の耳に、オオカミの威嚇が響いた。長めの、がなりの混じる音は、かなりの危機感を感じさせた。
「イコロ?」
「いや、イコロではない。アンノカㇻでもランプイでもない……」
 レラはそうつぶやきつつ、自分たちが目指す先と真逆の方角に行こうとしたので、奉野は慌てて止める。
「馬鹿、こちらのことが見つかったらどうする気だ?」
「今の鳴き声は間違いなくヤイだ。早川と闘っている」
「今は放って置くしかない、なあ」
 奉野はレラの袖を掴んで懇願する。どうにか冷静になって欲しかった。
 レラは長い間歯を食いしばっていたが、やがて力を抜いて言う。
「先を急ぐぞ、ハギノ」そう言って立ち上がる。
「ありがとう」奉野も負けじと立ち上がる。あと二時間、思考を殺して全力で向かえば民家に辿り着ける。そうすればこの先も生きることができる。
「肩に掴まれ」レラに言った時だった。
 悲鳴と共に、赤い動物が駆け抜ける。鮮やかな色彩に目を奪われかけるが、それはヤイの抉られた肉の色であった。彼女は全身が傷だらけで片目が潰れていた。毛を逆立て、上顎と下顎の歯を鈍い音でかみ合わせ、必死に何かを威嚇をしている。
 相手はすぐに現れた。何度、この男に脅かされるのだろうか。早川慶次郎は真っ赤に滴る日本刀を持って、いつも以上に気味の悪い顔で立っていた。これまでで一番、奉野らとの距離が近い。
 気配を最小限に殺しつつ、自然と奉野はヤイを応援する気持ちになっていた。見れば早川も連戦の疲れか、肩を上下させて、服は血と思われる液体に濡れて黒ずんでいる。オオカミ側にとっては、一世一代の機会といえるのではないだろうか。
 ヤイが吠える。彼女は元から体つきが良い個体だったが、戦闘態勢に入ると早川と比較しても遜色のない迫力だ。胴の長い傷は致命傷にはなっていないようで、早川もにやけ顔を引っ込めて、本気の構えを見せている。
 ヤイの側が跳ねた。雪原を踏み鳴らして近寄る。早川はそれに合わせて剣を横凪ぎに振るい……。
 避けた。ヤイは柔軟に体を交わしてすんでのところで切っ先から逃れると、早川が振り切った腕に飛び掛かる。早川は咄嗟に一歩引いて逃れようとしたが、ヤイの跳躍は早川が引き下がる場面まで見切っていた。
「うっ……」それは初めて聞く早川の側の悲鳴。ヤイの顎は、早川の右腕を完璧に捉えていた。当然皮膚は深くまで破け、早川が体を制御することは困難であるはずだ。だが彼は噛みつかれた右手の刀を、離さず左に持ち換える。余力のある左腕で、横から剣を振るった。鋼鉄の刃はヤイの臀部に突き刺ささり、次に聞こえた叫びはヤイのものになった。
 オオカミが絨毯のように体を反り返す痛ましい光景がそこに広がる。奉野は心の底から嫌悪を感じた。なぜ早川には、生物が持ち合わすはずの恐怖心がない。
 その時隣からとんでもない殺気を感じた。振り返り、初めてアシㇼレラの態勢に気づく。彼女はいつの間にか置いていくと言った矢を装備しており、二頭が死闘を繰り広げる渦中を睨んでいた。レラが使っている弓は短弓といえど、投射には相応の膂力を必要とする。早川との距離も、まだそれほど近いわけではない。何よりレラの体力は普段と完全に違っていた。弓を構えて全身に力を込めているが腕は大きく震え、弱った虫の飛行ように、鏃(やじり)が動いて安定しない。
「馬鹿、やめろ」すぐさま奉野は諭す。耳も傾けないレラは、すでに射ることを決めているようだ。無理に止めれば矢を誤射する可能性があり、奉野も容易には近づけない。とはいえ彼女の表情はずいぶんと苦しそうだ。腕も掌も、筋肉が相当痛むのだろう。やはり危険が大きすぎる。
「今じゃない、無理をするな」
 もう一度奉野が口を挟んだのと同時だった。投射。矢は目に負えぬ速度で早川の元に迫る。神のごとき技量に、奉野が目を見張ったその瞬間だった。早川はついに腕をオオカミの顎から引きはがすことに成功し、二人の位置が微妙に代わった。
 息を呑む。突き進んだレラの弓矢。真っすぐにヤイの胴体を貫通していた。
 絶叫が響き渡り、奉野は耳を塞いだ。それは死にゆくものの叫びであった。
「あ…あ」
 アシㇼレラが大きな粒を呑み込むような荒い息を上げたのと、早川が矢道を追ってこちらに視線を送ったのは同時だった。
「逃げろ!」
 奉野は弓矢を奪ってアシㇼレラを後方に押し倒す。畜生。声が枯れてほとんど出ない。
「ヤイ……ヤイ……ヤイ……」
 アシㇼレラは、尚も完全な錯乱状態に陥っていた。逃げられる状態でないならば、四の五と言っていられない。奉野は足幅を大きく取り、あえて早川に見せつけるようにして矢をつがえた。早川がこちらの姿を認める。
 奉野は弓に関して言えば素人、さらには疲労困憊。だからこそ堂々とした姿勢を心掛けた。早川からすれば、オオカミに思いのほか激しい抵抗をくらって体力を削られたところに、無傷の奉野が現れた、というように見せなくてはいけない。実際、全力で向かってこられた際に矢を当てられる自信などまるでないが、ハッタリが通じることを祈るより無なかった。
 早川の姿が陽炎のように揺れ、奉野の腋汗が服の内側を伝う。瞬間こちらに向かってくることを覚悟した。しかし異なった。早川は勢いよく横に飛ぶと、刻み足で、こちらの目の届かぬ茂みの中へと消えていった。
 射殺されぬよう反射的に逃走したのだ。早川は奉野の様子をしっかりと観察しなかった。早川の本能的な勘の良さ、或いはそれだけ彼も追い詰められていたことが幸いしたのかもしれない。それでもまだ、奉野が落ち着くことはできない。
「死にたいのか! 早く歩け!」
 奉野は魂の抜けたレラの脇を抱えて揺り動かした。彼女は立ちあがろうとするが、足の骨が折れていることが余りにも負担過ぎる。ヤイの衝撃に加えここまで歩いてきた左足にうまく力が入らないようで、再び気を失いかけている。奉野も自分一人でも帰ることができるか怪しいところだ。宵越しの装備は置いてきたので、ここで眠りにつけば二人とも永遠に目覚めないだろう。いや、その前に早川がこちらに戻ってきて殺されるかもしれない。雪の上での緩慢な殺戮に苦しみ、この世に誕生したことを後悔するのだ。
 奉野は舌打ちをした。どうしようもないことになった時の癖だ。空模様は怪しく、またいつ雪が降り始めてもおかしくない。どうせ死ぬのなら、やってみるよりないだろう。
 奉野はアシㇼレラの上着を脱がし、靴も捨てた。腰に付いたキムンカムイのマキリも、置いていく。自らも邪魔な服は脱ぎ、あらゆる物を捨てた。こんなもの命さえあればあとはどうにでもなる。今は少しでも体が軽い方が良い。
 喉奥で雄叫びをあげると、下半身に力を込めてアシㇼレラを担いだ。大切なことは何も考えないことだ。心を無にして、深い雪原を歩み続けることであった。

  3
 イコロ。蒙昧の最中、なぜか大きな獣の姿が目に浮かんだ。イコロは神々しく、優しい眼をしていた。奉野の体が軽くなる。レラがイコロに運ばれている。純粋な有難さを抱きつつ、奉野はイコロの後ろを歩いた。イコロが突然レラを離して歩みを止め、森の中へと駆け出す。奉野の目に狩猟途中のアイヌが見える。手を振る。こちらに気が付いた彼らの肩を借りて歩き、アイヌのチセに辿り着く。
 そんな記憶が何となく蘇ってきた。頭上には藁が見える。筋肉が強張っており、特に脚と指先は未だに感覚が無くて危ない。それでも、二十分ほど動かす試みをするうちに、離れ離れになっていた自分の四肢が一つの場所に帰って来るような、じんわりとした温かみが広がってきた。
 生きている。そのことが堪らなく嬉しい。これが生の実感であるというならば、早川の詭弁も少しは理解できるというものだ。
 レラは。状況を思い出して態勢を変えたとき、奉野は部屋の中に一人のアイヌがいることに気が付いた。
「おお、起きていたのか。大丈夫か?」
 年は三十代半ばくらいか。筋肉は引き締まり、まさに狩人といった風情の男だ。
「あなたが助けてくれたんですね。ありがとうございます」
 ぼんやりとした記憶だが、確かこの人たちに自分は救援されて。
「もう一人の彼女はまだ昏睡しているよ。よほど体がやられていたみたいだ」
「命は?」
「大丈夫だ。ただ高熱が続いている。女子たちに看病させているから安心していい」
 男は思慮深い眼差しで笑った。チセの中は大きな囲炉裏が火を焚いて温かい。穏やかな瞳に吸い込まれるように奉野は再度、眠りに落ちていた。

 次に目が覚めた時、辺りは薄暗くなっていた。一度意識を取り戻したことを除けば、ほぼ丸一日寝込んでいた計算になる。いくら何でもここまでお世話になるのは良くないと思いつつ、奉野は寝床から起き上がって外に出た。
 外の寒さは予想通りであったが、体はもう血の巡りを取り戻している。目の前に広がるのはチセが離れた間隔で並ぶ、昔ながらのアイヌコタンであった。
 レラはどこにいるのだろうと、四方に目を泳がせていると、狩人の男がこちらに向かってくるのが見えた。彼は奉野の姿に気づくと駆け足で向かってきた。
「立てるようになったか、丁度良かった。今しがた彼女が意識を取り戻したところだよ。行ってくるといい」
 礼を言い、男が指さしたチセへと奉野は向かう。中には数人の女子たちがいたが、彼女らは奉野の姿を見ると外に出て行った。小造りな室内で、レラは壁にもたれて火の粉を見つめていた。
「久しぶりだな」
 奉野は彼女から、体一つ分離れた所で腰を据える。
「みんな殺されてしまった」
 確かめるような口ぶりでレラは言った。
「私はついに何も守ることができなかった」
 しばらく二人は言葉を交わさず、木材の焦げる音だけが奉野の右耳を伝っていた。
「……或いは本当にそうなのかもしれない」
 奉野はおもむろに口を開いた。どれだけ頭を回しても物事がはっきりとせず、今自分が何を話すべきかもよくわかっていない。
「努力したところで、どうにもならないことはきっとある」
「それはいい、仕方のないことだ」
「ならば何に悩む?」
「私と関わると、みな不幸になる」
 ため息をついた。彼女自身も、自分の気持ちのやり場が分からないようだった。
「そんなことはない。俺は不幸ではないし、それに……」エトウルシだって、と言いかけて無残に早川に殺されたことを思い出す。
「エトウルシは死んだ」
 奉野が言い淀むうちにレラに突き返された。
「朝起きると、やけにひどい臭いがした。外からだった。私が目を擦って外に出ると、そこにはエトウルシがいた。彼は寝転がっていて、目の向きがおかしかった。それはまるで一度くり抜かれてからもう一度嵌められたように見えた。全身の皮膚が無く真っ赤で、繊維が青黒くなって見えた。腹は背中まで深く刺されて、地面が透けて見えた」
「やめろ」
 レラの言葉を制御する。早川の言い方から殺したことは真実なのだろうと思っていだが、あまりにも惨い。とても人間のすることではない。
「それより今はその後のことを教えてくれ」
 エトウルシの死に様は聞きたくないし、何よりこれ以上彼女に話させたくなかった。レラは零れ落ちるような言葉を止めると、軽く唇を舐めた。
「私は来札に住む意味を失った。夏は、オオカミたちに交じって山中で生活をした。彼らの生活が私の想像していた以上に過酷だと知った。所詮私はオオカミと共存していた気分に浸っていただけだった。餌が無い。人間に奪われた。私も様々なものを人間に奪われた。たとえすべてが間違っていようと、私は私のために生きる」
 後半になるにつれ、自身が考えていることを整理する言葉に変わった。窓の外は既に暗い。奉野はこのチセに住んでいる人は困っていないかなどと考える。
「レラ。オオカミが厚田村の人間を殺したというのは本当か?」
 無言で頷くレラはどこか痛々しく見える。自分の論理を固めているようで強烈な罪悪感に揺れ、葛藤を繰り返す人だ。彼女を羨ましいと思っていたが、何かを妄信するよりよほど苦しいことなのだろうと今は分かる。奉野もかつて秘めていた国家に対する妄信は、音を立てて崩れ始めていた。
「私はイコロたちがどうなったのか一刻も早く確認しなくてはいけない。もし死んでしまったり傷を負ったりしていれば、猟師や早川に奪われてしまう。できれば明日」
 危険すぎると言おうとして、すんでのところで思いとどまった。いつも自分は否定するばかりで代替案を生み出さない。
「分かった、俺も行こう。官服も看守刀も、全て置いてきてしまった。このまま帰ることはできない」
「いいのか、死ぬぞ」
「ここ一年ほどずっと死んでいたようなものだ。今更俺に捨てるものはない。何より俺はお前が好きだ」
「私も……」
 レラが小さく口にする。はっきりそう言ってくれたのは初めてだった。目を合わせた奉野は、嬉しくなって彼女との距離を詰めた。奉野は改めて、自分は彼女のことが好きなのだと実感する。
 しかし異変に気づかれた。今まで膝を崩して地面に座り込んでいたレラは、勢いよく地面を蹴って後ろに跳ねる。背中がチセの壁にぶつかり、鈍い音を立てる。
「いや、申し訳ない」
 奉野はすぐに謝った。しまった。来札にいたときにも、一度はっきりと拒絶されていた。その時は彼女の性格も考え、十数年ぶりに再会した男のことなど信用できなくても仕方がないと自分を納得させたが、この様子では本気で嫌われている。エトウルシ、お前の頼み事だが、やはり俺ではいけないみたいだ、ごめんな。
 奉野は首を垂れてゆっくりと退く。レラはその間も手を胸の前で交差させる防御姿勢になり、虚ろな眼を浮かべていた。
「そんなつもりはなかった。相手の心も見抜けんとは、俺もまだまだ幼かったようだ」
 辛うじて平静は保った。レラ口を開けたが声は出さず、何かを迷う素振りをみせた。奉野の顔を、覗いては逸らしてを繰り返す彼女にさりげなく尋ねた。
「どうかしたのか?」
「いや」、と短く切る。レラは逡巡している。
「いい。俺は気持ちを偽ってまで好きになってもらおうとは思わない。そんなことのためにお前を助けたのではない」
 言葉に悲しみが混じり、ほんのりと投げやりな言い方になった。仕方がない。二度も失恋をしているのだ。
「ハギノ。私がなぜ、母の最期を知っているのか考えたことがあるか?」
 突然レラは、俯き加減で話を飛ばした。奉野は当惑する。
「レラの母って、その」
 覚えている。ロシアの囚人に輪姦されて死んだのだ。レラは幼いながらに、父と母が死ぬ様子を間近で目撃して、目撃して?
 奉野はおかしなことに気づいた。一体どこで目撃したのだ。
「レラ?」
 心配を含めながら、奉野は不安な気持ちで尋ねた。先ほどから目を向けてくれない。レラは村人に頂いた下着を、傷むほど強く掴んでいた。
「……私は母がやられている間、ずっと一人の囚人に押さえつけられていた。私は泣き叫んだ。母も泣き叫んだ。でも何も変わらなかった。最後に残った私の膣に、順番で挿入された。裂けた。動けなかった。コラㇺヌカㇻが武器を背負って助けに来た。血が流れて空は赤かった。意識を失った。幸い腸まで達していなかった。夜に血が止まった。誰にも伝えないでおくとコラㇺヌカㇻは言った。私は頷いた。時々どうしようもないくらいに震えた。意味が分からなかった。ただ下半身を切り落としたかった。でもできなかった。私は十七で生理を迎えた。一人だった。大量の血が出た。見ると体が嫌悪にうねった。その頃エトウルシに求められたことがある。私は強く拒絶した。自分の汚さが怖かった。エトはとても悲しそうな顔をした」
 エト、と口にした時、レラの表情がひどく歪むのが分かった。
「私は今でも、自分が子供を産むことができるか分からない。だから、許して欲しい」
 外では風が鳴っている。わずかに室内に入り込み、囲炉裏の吹く煙を揺らす。奉野は何も言うことができなかった。
「……よく話してくれた。ありがとう」
 どうにか礼を述べて唇を噛む。だからエトウルシは自分に結婚を求めたのだと奉野は合点した。エトもレラの状態を知らなかったのだ。今の自分と同様、レラに拒絶されたと思い込んだ。エトの寂しそうな笑顔が浮かび、奉野はいたたまれない気持ちになった。
「ずっと怖かった」
「誰にも言っていなかったのか?」
「近しい者ほど、余計に言えなかった」
 コラㇺヌカㇻが生きていれば、いずれ婚約者や近縁に説明するつもりだったのだろう。唯一の外界を、レラは失っていたのだ。
「ハギノ、私はあの時死ねばよかったのだ。私は穢れている。私が関わるとみなが不幸になる。私は嫌われたかった」
「たとえレラが自分を穢れていると思っていても、俺の気持ちは変わらない」
「やめてくれ。私が辛くなる」
 レラはこれだけ吐露する間も、一向に奉野の方を見ようとはしなかった。下着を握る拳が痛々しい。いつも明るいレラはどんな気持ちでいたのか。奉野に込み上げてきたのは強い自責の念だ。
「何も知らなくて、ごめんな」
 レラは変わらず、床の影を反射するような黒い目をした。それを見た奉野は、これは彼女が求めていた答えではないと思い直す。
「分かった。今日はもう寝て、明日は早朝から、一緒に捜索しよう」
 小さく頷くレラを尻目に、名残惜しく立ち上がる。わずかな火に導かれ、奉野が今にも背を向けようとしたとき、レラが顔を上げた。
「ハギノ、今日は隣にいてくれないか?」
 目が合った彼女の声は掠れている。口元を覆う手も、せわしなく動かしている。
 奉野は思う。自分は動揺していた。違ったんだ。強張った何かが柔らかくなる。
「ハイタクㇽ」
 奉野は意地悪く笑った。そしてにやり顔のまま床に座り直し、首を縦にした。アシㇼレラはパッと明るい顔を浮かべたが、すぐに悪口に抗議する。
「それは私のことではなくハギノの……」
 レラは目を見張る。奉野は唇を奪っていた。彼女の唇は少しひんやりとして柔らかい。しかしすぐに顔が上気して、奉野の触れた部分に熱が移った。もう抵抗はしない。十秒もそうしていると彼女はとろんだ目になり、目尻は垂れて子猫のようになった。元々凛とした彼女であるが奉野が好きなのは、端正な顔の奥に、守りたくなる繊細な愛くるしさがあるからだ。レラの唇がしどけなく広がり、揃った白い歯が誘うように舌先に当たる。あまりの甘美に身も溶けて、つい口腔に舌を入れようとした。
「ハイタクㇽ」
 レラが紅潮した顔を背け、二人に距離ができた。奉野はここが駄目な領域かと察し、慌てて謝ろうとしたが、それを遮って彼女は言う。
「今は、口が切れているから。血が移るのは良くない」
 どうやら過去に囚われたわけではないようだ。目はまだとろんでいて、しっかりと話そうとする様がむしろ扇情的である。奉野はその場で寝転がって腹に蓆をかけた。
「隣、来いよ」
 レラは借りてきた猫のように頷くと、奉野の腕に擦り寄って瞳を閉じた。その髪の毛に触れ、熱気で白くなった天井を眺めていると、奉野もいつの間にか眠りに落ちた。






  
 終章 血迷う青

  1
 光の束が、窓から中に入ってくる。レラはまだ眠っていた。小動物のような寝息は、とても気持ちがよさそうだ。背中は引き締まっているが、線は柔らかい。床に伸びる長い髪は見慣れないけれど、髪無垢な表情は昔の彼女を想起させる。レラはこれまで、どんな気持ちで生きてきたのか。
 彼女の頬を触りたい衝動に駆られたが、きっと驚くだろうと思い、踏みとどまる。案の定奉野が立ち上がっただけで、彼女は肩を揺らして目を開けた。
「どこに行くのか?」
「どこにも行かない。目が覚めただけだ」
 奉野は笑って、縒れた服の袖を直す。これから何が起ころうと、今は穏やかな気持ちでいたかった。
「眠ると気持ちがいいな」
「当たり前だ」反射的に答えた奉野は、彼女にとっては当たり前ではなかったのかもしれないとも思う。
「私は何がしたいのだ?」
 呟くレラを背に、奉野は官服のズボンから何かを取り出した。彼女は驚いた様子で、目で追う。
「まだ持っていたなんて」
 それは十五年前に、アシㇼレラが手渡した手甲であった。
「腕が太くなりすぎて、ずっと使えなかったんだ」
 苦笑いした奉野は、それをチセの隅に置く。
「早川には渡したくないからな。置いていくことにする」
「私は、必ずマキリを取り戻す」
 唇を固く結んで言うレラ。同じく十五年前に奉野が作ったマキリの鞘は、旭岳の雪の中に埋もれている。

 奉野らは用意を整え、チセの中を片付けると外に出た。例のごとく雪は降っているが、幸いなことに風がない。少しだけ機嫌のよい雲に覆われた空の下、二人は村人たちに頭を下げて回り、欲しいものを借り受けた。奉野は日本刀、レラは短弓と体を支える二本の棒。日本刀は無理をいって、早川より長いものを借り受けた。これで俄然、闘いが優位になる。レラが貰った棒は、地面について移動するためのものだ。彼女は体調こそ回復していたが、骨折はどうにもならない。
「ありがとうございます。この御恩は忘れません」
「極悪人なのだろう。気を付けておくれよ」
 村長はゆっくりと、二人への心配を込めた言った。
「ご迷惑をおかけしました。私は必ず戻ります」
 裁神だか殺人鬼だかは知らないが、いつまでも恐れてばかりではいられない。

 その、一時間後には森に入った。三日前は景色を眺める余裕もなかったが、改めて眺めると、全体的に小さな木が多い。標高が高く、その分酸素が薄いのだ。
「レラ、俺たちは万全の状態ではない。早川を殺すのはあくまでどうしようもない時で、まずは落とし物を早く見つけることに専念しよう」
「分かった」
「まずはレラの弓とマキリ、俺の上着を遺した地点に向かう。ここから急げば三十分と掛からないはずだ」
 奉野らは雪道を進む。深い雪はいつも通り歩きにくいものであったが、二人はアイヌの人々からテㇱマと呼ばれる冬山歩き用のかんじきを頂いていた。これはクワの木を切り取って楕円型にしたもので、縦の長さは五十センチ近くにもなる。表面積が大きいため、深雪の中でも足が地面に潜ることを防ぐ。レラも器用に二本の棒を操り、荷物運びを奉野が担当したことで、悪路も良い調子で進むことが叶った。
「このテㇱマは私が作ったものより便利だ。けれどエトウルシほどではない」
 哀しくなるようなことを言うアシㇼレラには応えず、先を進んでいく。
 予定通り三十分で目的の地についた。上着は雪に埋もれていたが、弓の先っぽが顔を出している。そこで横目でレラに話した。
「どうだろう、レラはこれを持って先に帰ってないか? 早川が待ち伏せしているとして、ここでないならもう一つの荷物を遺した場所だ。危険すぎる」
「私は行くと決めた。ここの荷物が邪魔になるなら一度奥に入り、後で取りに戻ろう」
 レラは表情を緩めない。奉野の提案を聞く気は無さそうだ。とはいえここまで連れてきてしまったなら、行くも戻るも大差ないことかもしれない。奉野は軽く肩を揺らすと頷いた。
「先を急ごう」
 しかしそこでレラの表情が固まった。見つめる方向にはこんもりと山になった雪があり、灰色混じりの毛がその端から目立って飛び出していた。
「ヤイ……」
 奉野は両手で彼女の頬を持ち、首の方向を変えた。
「オオカミのことも後だ」
 視線が絡み、レラは小さくごめんと言った。
 それからひたすらに駆ける。荷物を置いた場所へも、ここから約三十分。死に瀕していた三日前と比べて木々の間隔が短く感じるのは良い傾向だ。
 さすがのレラも少しばかり息を切らしていたが、ほぼ休むことなく、サーベルと野営用の道具を置いた場所に行きつくことに成功した。
「……」
 二人が無言になった。喜びは何もない。無いはずの風が皮膚を刺す。
 早川は、二人を待ちかねたようにそこに立っていた。まだ四間の距離があるが、すでにこちらに気が付いている。想定内での最悪の事態だ。苦い顔を浮かべる奉野の前で、彼は腰に付けた鞘から日本刀を引き抜く。意を決した奉野も、真っ新な刀を胴前に向ける。そして早川に注視しつつレラに言った。
「いいか、邪魔だから絶対に剣戟には加わるな。万が一に備えて弓だけを構えておけ」
「弓?」
 レラは急に不安そうにした。三日前にヤイを撃ちぬいた悪夢がまだ癒えていないことは明らかだ。彼女に頼らず、自分一人で闘う覚悟で臨むべきだろう。形だけ弓を構えるレラを尻目に、奉野は早川の立つ場所に歩みを進める。早川も抜かりなく、レラの位置から奉野と一直線になる場所へと体を滑らせた。そして低い声を轟かす。
「あんただけは本当に殺す」
 全身に巻く包帯の数が増えたようだ。早川の目は怒っている。笑っていない。底の知れなかったこの男が本気になっているのが分かった。
「それは俺が思い続けていたことだ」
 一方奉野にも、恐れはなかった。迸る殺意が、両者の間に激しい不均衡を生み出す。二人きりの戦場がそこにある。
 早川は日本刀を上段に構えた。刃渡りはおよそ二尺六寸。やはり、奉野が譲り受けた刀の方が二寸ほど長い。目の前の男の構えが、かつての師匠と重なる。早川の知らないことだが、奉野は上段相手の闘いに最も慣れているという分があった。中段に構え、率先して間合いを詰めていく。殺す。必ず殺す。
 鈍い光を放つ早川の刀身は微動だにしない。だが体のみごくわずかに左右に揺らしている。重心の置き方が並外れて優れているのだ。構えは不安定なようでいて、いつでもこちらに踏み込んでこられるのだろう。刃の先端はかなり遠くまで達するため、当たれば奉野は真っ二つだ。だから切っ先を揺らして陽動する。とにかく、一太刀目を避ければ勝機が見える。
 静かな大気の中で、刀身が生み出す光度だけが、微妙に変わるのが分かった。来る。
 蜃気楼のように音もなく、早川の剣が間近に迫った。だが動きは直線的に見える。無数の傷が早川を蝕んでいるのだろうか。見切った奉野は左に三寸の所で躱す。同時に右足を踏み込み、腕を伸ばして早川の顔に一太刀を……。
 違う。強烈な殺気が足元から沸き立った。伸ばした剣を咄嗟に戻して横にする。衝撃。腕ごと弾き飛ばすかのごとく、疾風の斬撃が地面から襲い掛かってきた。軌道は上段から振り下ろした際と真逆。初撃は形だけの振りだったのだ。強烈な切り口に腕が痺れる。刀を持つ手が危ない。十字の状態から辛うじて堪えたが、上体が大きくのけぞった。そこに早川の獲物が間断なく迫る。構えは間に合わずに鍔元で応急的に物打ちを受けると、目の前で時空が歪んだ。眉間に迫る切っ先。硬い鉄の臭いが鼻腔をつんざいている。文字通り鎬を削ったが、何とか間合いを取ることに成功した。
 早川は中段に構え直した。落ち窪んだ黒赤色の瞳は激情に狂い、眼光は奉野を地獄の果てに引き摺り込むようだった。
 奉野は息を荒く吐く。今の一撃は中条流の秘剣、虎切刀。二段階の振りは初見殺しに近く、技の存在を知らなければ奉野とて避けられなかった。今の斬り合いを空振りに終わらせたことには大きな価値がある。奉野は体から無駄な緊張がほぐれ、静かな殺意が満ち満ちてくるのを感じる。
 威嚇を続ける早川に、今度は奉野から踏み込んだ。まずは肩。難なく合わせられる。胴を突いた。早川は半身を横にして無駄なく躱す。間を置かずに薙ぎ払ったが、刃先でがっぷり四つに組まれる。両者の硬い製鉄が、火花を散らして刃毀れを起こした。それから早川の筋肉が盛り上がり、奉野を押し返そうとする。何という馬鹿力だ。奉野はなんとか手首を返して受け流した。間を置かず、早川は蛇のような怪しい動きの突きを見せる。奉野は恐れず横一寸のところで躱した。それから鎬筋と上体を平行にして急接近する。刃筋の側ではないといえ、すぐ横に刀身があるのだから危険極まりない。早川が斬りかかるより寸毫早く、眉間に剣を伸ばした。同時に身を屈める。耳元で大気が斬られ、風を浴びた皮膚に粟が吹く。そしてまた瞬時に間合いを取った。
 早川は眉間から血を垂らして、悔しそうな顔を浮かべている。命を賭して、一本取ることに成功した。技量は超人的で神の領域と言っても過言ではなく、奉野でさえとても敵わない。しかし、自らに勝る相手が存在しないからだろうが、滑らかな流線形の動きの中に無駄な遊びが混じっているのを奉野は見た。剣に余裕を持たせる悪い癖のようだ。そのため奉野の直線的で鋭い剣が、技量を超えて噛みあう。動きが五分ならば、刃渡りの長い方が有利である。
 しかしこの天才は、早くもそのことに気づいたようだった。
「絶対に許さん、看守」
 怨念を込めて斜めから踏み込まれる。袈裟斬りだ。刀線は一寸の狂いもなく真っすぐに入り、今度は軌道こそ判り易いが遊びがない。躱す動きが間に合わず、日本刀を盾にして防ぐ。二太刀目、押し留める。速い。速すぎて反撃が間に合わない。切っ先は尋常でない伸びを見せる。頬を掠めた。次は腕、脚。辛うじてかすり傷で凌ぐ。恐怖した途端に首が飛ぶだろう。対して奉野の剣は直前で躱され、届かない。首筋に視えない刃が光る。まるでこちらが一太刀を振るう間に、二回斬撃を入れられているようだった。
「アシㇼレラ、撃て」
 奉野が叫ぶと共に鋭い突きが入ってくる。危ういところで指先近くの鍔で防ぐ。手も鍔も既にボロボロだ。仕留めにくる刃の先端は、風に揺れる柳のように自在に動き、奉野の防御を外そうとする。手首に返す力はなく、危険を承知で体ごと避ける。背中に熱いものが奔った。
「早く!」
「無理だ。怖い」
「俺を撃て!」
 叫びながら左足を一歩退き、捨て身で突きを見せる。鍛錬を重ねた奉野の突きは、切っ先が消失したと錯覚するほどに伸びる。早川の上着を破った。だが貫くには至らない。顔を歪めた早川は、息つく間もなく肩に切り込んできた。合わせた刃先が焦げ付いて毀れる。また大気が歪んだ。駄目だ、強すぎる。渾身の突きが敗れた今、返すことができずに力任せに振り切られ、奉野の態勢は大きく乱れた。首を狙った斬撃が完璧に奉野を捉えて……。
 空を裂く音が脳に響いたのはその時だ。早川は刃を戻していた。
「死ぬかと思ったぜ」
 早川の背後の木には、深々と矢が突き刺さっている。早川の視線の先に見えるのは膝をついたアシㇼレラ。奉野は間一髪で救われたが、彼女は矢を外したのだ。彼女を横目で見ると、まだ二矢が間に合っていない。
 腕が震えている奉野に、早川が笑った。今度こそ終わりだった。掌が感覚を無くすほどに痺れ、奉野は剣を落とす。首を垂れてそのまま目を瞑む。どうせなら苦しまずに死にたかった。早川が改めて剣を構えるのが、細目の端に映った。
「お願い早川、やめろ」アシㇼレラが叫んだのと同時だった。
 突然の地鳴りが大地を震撼する。奉野は目を見開いた。早川も茂みを睨んで動きを止めている。
 木々の隙間から火車のごとく現れたのは、獰猛な唸りに似合わぬ真っ白な獣。映る表情は理屈を超えた怒りだった。
「イコロ!」
 人間に名を付けられたオオカミは、勢いのまま早川に迫った。可視化できる速さではない。しかし所作が余りに華麗で、静止画を見ているようにさえ錯覚した。
 早川が下す斬撃が、赤子の拳に見える。イコロは躱したのか、当たる前に突っ込んだのか、それさえもよく分からない。
 人は理解しがたい存在を神と呼ぶが、奉野にはホロケウカムイこそが神様に見えた。太い尾を逆立てたたイコロはほんの一瞬で、早川の胴体を顎の奥から掴んでいる。
 雪の上で早川の四肢が暴れる。そのたびに食い込む巨大な牙に血が溢れる。悲鳴を上げる日本刀が柔らかな雪を斬った。一瞬で早川を引きずり回したイコロは上体を屈め、大きく首を振ると早川の体をぶん投げた。
 巨躯が、虫けらのように宙を舞った。血の滲む体は制御が利かないようで頭部は木の幹に直撃し、そのまま深雪に倒れ込んだ。動かない。あまりにあっけない闘いの終幕。最後に早川は薄っすらと瞼を開いて、なぜか寂しそうな目をした。痛がるようでも悔しがるようでもなく、ひどく寂しそうな目をした。それは、アシㇼレラの目に、非常によく似ていた。奉野は戸惑いを覚えるが、早川は瞼を持ち上げる力も果てたようで、ついに完全に動かなくなった。
 辺りは突然の静けさに包まれる。イコロは返り血を浴びた腹部を静かに上下させている。穏やかな毛並みは、あの強烈な噛みつきを見せた生き物とは思えない程、いつものイコロであった。レラはぺたりと両足を揃えて、二間離れたところでしゃがみ込んでいる。
「イコロ、ごめん。私が殺せなかったからだ」
 違う、と奉野は言った。
「イコロが殺したかったんだ」
 真っ赤に染まった猛獣は、優しい目でレラを、そして奉野を見た。なんとなくだが、ついに自分はこの子に認められたのだと思った。もうイコロは人里に戻ることはできない。
 次にイコロは、レラに向かって大きな体に似合わぬクンクン声を出した。高くて、どこか不安な甘えた声だ。
 レラは立ち上がり、血を浴びたオオカミの元に歩み寄ろうとした。だがその瞬間、イコロは後ろを向いて、素早く森の中へ姿を消した。元からそこに居なかったかのように、気配一つ残さなかったのだ。
 アシㇼレラはイコロの足跡に歩み寄り、何もない空間を抱きしめる。
「ハギノ。私はいつでも、守られてばかりのようだ」

  2
 それから二人は、サーベルと捨てた荷物を取り、帰路に着き始めた。早川の遺体は迷った末、そのまま放置することにした。彼は狩りの際猛獣に殺された狩猟者として処理されることだ。奉野は各所に切り傷を負っていたが、幸い致命傷になるものは無かった。全ての荷物を担いでコタンへと急ぐ。
 緊張が消えたせいか復路はより早く感じて、瞬く間にレラの弓が見えた。ここを掘り起こして官服とマキリが見つかれば、一つ大きな区切りがつく。目指すべき明日が見える。
「ハギノはこれからどうする」
 短弓を引き抜こうとするアシㇼレラが言った。
「さあな、俺は何がしたいのだろうか」
 とりあえずサーベルは手元に戻り、あとは官服さえ見つかればお咎めなく集治監に戻ることができる。奉野の出勤は明後日からで、支障なくこれまでの生活に戻れた。しかし幌内炭鉱の労働を目の当たりにしてからというものの、今の仕事の価値というのが一層分からなくなっていた。
「囚人を救いたいのではないのか」
「今の俺の一存で、それができるならば苦労はない」
 そう言い返してみるが、だから何ができるというわけでもないのだ。
「逆にレラはどうするのだ?」
「まずはウパㇱとアンノカㇻとランプイを探す。分かってる、死んでいるかもしれない。その時はヤイと一緒にどこかに埋めてあげる」
 レラは奉野に死を断言されることを嫌がるように早口でまとめる。分かる。彼女が一番哀しいのだ。早川が死ねば心の傷が癒えるわけではない。奪われすぎだ。
 様々な感情が渦巻く中、二人はせっせと雪を掻き、ついに目当てのものを発見した。黒い官服、レラの獣皮靴、そしてキムンカムイが掘られた鞘に収まったマキリだ。
「やった!」
 レラが腕を上げて歓喜の声を上げ、奉野がそれらを抱えて立ち上がった。朝から持ち続けた緊張の糸がようやくほどけようとしていたのである。
 運命は余りに唐突だ。アシㇼレラの胸に血の花が咲いた。銃声が遅れて響く。奉野の袖が、掠めた弾丸に裂かれて宙に飛んだ。驚きに目を剥いた彼女は、苦しげな唸りを上げてゆっくりと雪の大地に体を崩す。

 それでも焦げた薬莢の臭いが、唖然とする奉野の意識を引き戻した。素早く周囲に目をやる。遠くの茂みの中から、奉野に向けられた銃口が見えた。それは騎乗する看守にのみ支給される軍事用十三年式村田銃。奉野は手に抱えたものを全て地面に落とし、身を捩った。銃声。間一髪で銃弾から逃れた。狙撃手は反動で上体が傾き、まだ次の一発を装填できていない。
 奉野は身を屈めて駆ける。まだ準備は終わっていない。茂みから二間のところまで距離を詰め、サーベルを抜いた。再びこちらに向けられた銃口に剣の切っ先を伸ばす。っそこで引き金が引かれ、凄まじい弾音が響いた。ほぼ同時に、サーベルの峰が銃口を下に叩いていた。焦げた匂いと煙、そして大量の雪飛沫目の前に広がる。奉野は迷わず踏み込んで体当たりをお見舞いした。相手は態勢を崩したが、村田銃を振り回して抵抗する。奉野はサーベルで受けたが、腕が痺れて弾くに至らない。二撃。三撃。何とか持ちこたえた際に隙ができた。使い物にならない両手を引っ込め、わずかな間に奉野は懐に潜り込んだ。体ごとぶつかって馬乗りになり、雪の地面に押し倒す。大きな音を立て、半身が埋まった。
「自分が何をしたか分かっているのか!」
 現れたのは顔に火傷痕が残る、例の教誨師だった。しかし今日は、顔の半分を覆う布を被っていない。
「私は自分のすべきことをしたまでです」
 サーベルを手にした奉野に抑え込まれながらも、毅然とした態度で言った。
「レラに何の恨みがあるのだ!」
 どうしようもないほど頭に血が上っていた。雪原に身を横たえるレラ。こいつは何を考えているのだ。
「彼女がオオカミを用いて善良な人々を襲った罪は重い。奉野看守、まだ私が誰か分からないのか?」
 落ち着いた様相の教誨師の顔に、しんしんと雪が舞い降りる。そこで気が付いたが、この男は想像していたほど火傷が酷くない。むしろ布の隙間から見えていた傷だけが火傷の名残と言えそうだ。ではどうしてこのような真似を。考える奉野に、前以上の強烈な既視感が襲い掛かった。俺はこの男を知っている。
 固まる奉野を見て、教誨師は薄い笑みを浮かべた。
「樺戸集治監の脱獄囚、堀井善吉だ」
 時が巻き戻るような錯覚を覚える。そうだ、奉野が二十に満たぬ新米の頃から監獄にいた精悍な若者。落ちついた物腰で優良な囚人と呼ばれながら、史上初の集団脱獄を果たした狸のような男。あの日、経験豊富な看守たちが一様に狼狽を見せたことは、奉野にとって強い衝撃だった。
「分からぬ。なぜ堀井善吉がここに?」
 どうして集治監に戻り、どうしてアシㇼレラを撃ったのか。全てが理解できない。
「俺を殺す前に、俺の話を聞いてもらっていいか?」
 口調こそ変えたが、変わらず冷静な面持ちで堀井は言った。心を落ちつかせるべく唾を呑み、奉野は頷く。サーベルだけは抜かりなく喉元に突き付けるも、堀井は気にする素振りもなく大気を食んでいた。
「奉野看守も後で現場を知っただろう。善吉の逃げ出した厚田村で、妹は仲間に輪姦されて殺された。善吉を襲ったのは凄まじい哀しみだった。その時に感じた、俺らは所詮囚人に過ぎなかったということだ。間違っているはずの国のしたことは、何も間違っていなかったのだ。そのことに気づいても、臆病な善吉は集治監には戻らず一人で逃げた。今度こそ自分が真っ当に生きることが最大の贖罪になると信じた。善吉は来札のアイヌの村に逃げ込んだ。正しく生きる道を歩む佐久間忠通となり、村人たちに慕われる存在となった。そして村が恐ろしい病気に侵された時も、佐久間忠通は必死で助けた。だが彼らは全滅した。そうなるべき定めであったのだ。悔しかったよ、もちろん。俺のすることは何一つとしてうまくいかないのだから。しかし、俺は絶対に何かに楯突くことをしなかった。自分の身勝手な独善が、結果的に傷つくべきではない何かを傷つけることを俺は知っていたからだ。俺は顔を焼き、次に生きる場所を探した。そんな時分に、お前が来札に来た。ひどく動揺した。何度もうなされた樺戸の看守が来たのだから。後にお前が、エトウルシとアシㇼレラの古い友人であることを知った。俺はまた逃げた。誰にも迷惑が掛からぬ山奥で、仙人のような暮らしがしたかった。でも俺はまた見てしまった。善吉が最も信頼した、牧田敬重が硫黄山で泣いていたんだ。俺がおめおめと普通の暮らしを送っている間も、ずっと牧田は泣いていたんだ。善吉の心は号哭に引き裂かれた。だが忠通にできることは何もないのだ。俺は醜い。自分が捕縛されることだけは嫌がっても、他に何の力も持たないのだ。だから忠通は教誨師になった。教誨師は国に認められてた仕事だ。俺は、誰一人として傷つけずに誰かを救う数少ない手段を手に入れた。それでも毎日が辛かった。硫黄山でも幌内炭鉱でも数えられぬ人間が死んでいき、樺戸での記憶が俺の心を震わせる。感情は善悪と分別した。俺は耐えていたんだ。心底腹が立ったよ。ある日突然やってきて、しょうもない自分の感情で文句を付けようとするお前の姿が」
 そう吐露した堀井の姿は、奉野に向けて苦しい自己を解き放とうとするさまに映った。
「堀井善吉、なぜ俺にそんな話をしたのだ」
 しかし一見気丈に尋ねる奉野の首元にも、確かに刃が突き付けられていた。
「それは看守さんが一番よく知っているんじゃないのか」
 堀井は笑った。見透かされているようである。国に逆らった父親は死んだ。強気だったコラㇺヌカㇻも死んだ。だから囚人には厳しく接した。道を踏み外すアシㇼレラを本気で止めようとした。しかし時には囚人を助けた。早川の破獄を許した。挙句、こうしてアシㇼレラに協力している。だから奉野は笑えない。
「人に言われてやっと分かったのか」
 堀井は口角を曲げ、意地の悪い笑みを強くした。目に見えぬ力関係では、いつの間にか圧倒されていた。腋汗が流れ、反駁すべき言葉が浮かばない。
「うっ……」その時苦しげな声と共に、レラの体が雪の中から起き上がった。
 堀井は急所を外してしまっていたのだ。刃を向け合う堀井と奉野はそれぞれの感情を抱く。特に堀井は、先程と打って変わって強い焦りを見せていた。
「馬鹿野郎、血迷うな!」
 叫ぶ堀井。奉野は今すぐにでも彼女を助けに往きたい衝動に駆られている。しかしそれでも、堀井の思想が枷となって離れない。
「奉野看守。お前は紛れもなく国を奉る看守だ。だがお前は今でも自分の愛や欲望に血迷っている。だから行動に一貫性がない。もう自分の邪念に気づいただろう。殺すべき存在は俺では無いはずだ」
 苦しい言葉が胸に響く。今の自分は欲望に突き動かされているだけだ。雪が奉野をなじるように首筋を冷やす。俺に、堀井を殺す大義があるのだろうか。
「分かった、堀井。最後に聞かせてくれ……なぜお前は、それほどまでに独善に怯える? 俺にはお前を縛る、強固な存在が分からない」
 奉野はついに、自分が独善的な人間でないと否定することができずに俯く。しかし堀井は、問い対して子供のように無垢な姿を晒した。何かを思い出している。
「千代はなあ、牧田たちに殺される前に突然暴れたんやって。辛かったやろうなあ。でも聡明な千代が突然暴れだすなんて考えられへんのや。きっと大人しくやり過ごすやろうって。やけど俺は気づいてしまったんや。牧田は絶対に、堀井善吉も連れてこいと、そこで言ったんや。千代にも聞こえたやろ。なあ、輪姦された最後に、その犯人が自分のお兄ちゃんや、って知った女の気持ちはどんなものやろうか」
 見えたのは狸のようなこの男の、裏の裏の顔だった。飛ばし飛ばしに進む堀井の話が全て理解できたわけではない。ただ奉野は少なくとも、今の堀井がレラの告白を聞いたときの自分に似ていると感じた。こんな男が、人を殺せるものなのだろうか。
「もう一度だけ聞かせてくれ。レラを殺そうとしたのは、どうしてだ?」
 純粋に浮かび上がった疑問を、そのまま尋ねてみる。すると堀井の顔が、さらに幼く退行するように感じた。
「母ちゃんはな、千代がおらんようになって、ずっと一人で暮らしとってん。俺は顔も合わせられへんくて、人伝いにお金を届けるのがやっとやった。せやけどどうしても寂しくなって、俺はとうとう母ちゃんの顔を拝みに行ったんや。でもな、母ちゃんはオオカミに喰われて死んどった。最後まで、俺はなんにもできへんかった」
 餓狼を育てたアシㇼレラ。堀井はぶつけ損ねた感情に泣いていた。
「そうか。お前もずっと辛かったのだな」
 分かる。痛いほどにその気持ちが知覚できた。堀井は上体を起こし、サーベルの切っ先を自らの首筋に当て始める。奉野が握る掌に肌の感触が伝わった。
「俺も一つだけ思い出したことがある。俺の母は、自らの誇りを守って自害した父の身勝手を嫌っていた。だけど俺が家を出る前、とても強い表情でこんなことを言ったんだ。どうしても守りたいものができたら、父さんのようにそれを守りなさいって。独善を嫌う母親がだ。その時は全く意味が分からなかったよ。でも気が付いた。伝統的なアイヌ民族でありながら日本人と結婚する、母さんはそんな女だった。そして父が死んでも、そのことは一度たりとも後悔していなかった」
 奉野は言葉を切る。看守でも囚人でもない二つの命は、そのまま降りしきる雪に身を任せ、合わせ鏡のように向かい合っていた。

  終
「アシㇼレラ?」
 奉野の呼びかけで、彼女はかすかに目を開いた。しかしすぐに、「うっ」っと声を上げ表情を歪ませる。
「無理に動かなくていい。体内の銃弾がずれると大変なことになる」
 代り映えのしない雪原。それでも頭上には青空が広がり始めていた。
「私は……生きているのか?」
「大丈夫。急所からは外れていたみたいだ」
 奉野は緩やかな笑みを浮かべる。
「私を撃った男は?」
 レラは周囲を見渡し、血を吐いてこと切れた男が雪の上に横たわっていることに気がついた。
「男が望んだのだ。彼もまた、独善に支配された人間の一人だった」
 奉野は静かで、それでいて明瞭な口ぶりであった。
「これ、レラの落とし物だ」
 奉野は鞘に入ったマキリを、レラの前に差し出す。彼女はそれをしっかりと手に取った。マキリを通じて二人の指先が触れ合う。しばらくしてやっと、奉野は腕を離した。
「ありがとう」
 レラは十五年前に掘られた模様を、嬉しそうに眺める。奉野は清々しい様子で空を見上げていた。
「俺は一度集治監に戻る。典獄殿に直接、囚人の扱いについて抗議をするつもりだ」
「ハギノ、返り血で真っ赤だ。目が見えるのか?」
 レラは不思議そうに首を傾けた。疲れて無垢になっている。そんなレラに向き合い目尻に皺を寄せた奉野は、こんなことを言った。
「或いは何も映っていないのかもしれない。しかし俺の目には、青く見える」




                独善看守 了
                                              

独善看守

執筆の狙い

作者 日程
122x213x233x16.ap122.ftth.ucom.ne.jp

 明治期の北海道を舞台にした歴史フィクション小説。こちらのサイトに何度か掲載したものの完全版で、全部で148000字になります。自分にできる全力を尽くして書きました。評価、感想等いただけると嬉しいです。
 地の文で書いた事柄はすべて史実になりますが、登場人物及び物語の展開は創作のものとなります。予めご了承ください。尚、今作はとある文学賞に応募予定の長編ですが、非営利目的のサイトへの掲載可とのことで、こちらに上げさせていただきました。よろしくお願いします。

コメント

ぺこ
softbank126094221251.bbtec.net

力作。自分も明治期の司法制度を調べてますが、伝馬町→市ヶ谷監獄→死罪または無期で止まってます
何かいい資料があったら教えて頂きたいのですが

夜の雨
ai214121.d.west.v6connect.net

日程さん、ちょっとわかりにくい書き入方をしていますね。

御作は「明治期の北海道を舞台にした歴史フィクション小説」ということなのですが、舞台になっている年代が次から次へと飛んでいます。
また導入部の主人公である「奉野(たての)」の年齢ですが、物語が始まった時点でわからない。
「第二章 獣を愛する少女」になってからようやく年齢が書かれていて、奉野の当時の年齢やアシㇼレラが三歳年下ということなどがわかります。

 第一章 網走の闇勇者
●明治二十四年 十二月五日夕刻 大雪山白滝  ← 26歳。
●アシㇼレラ  ←  23歳。
●初めてアシㇼレラと出会ったのは明治六年の夏、奉野がまだ八歳の頃だった。  ←これでやっと奉野が明治二十四年で26歳だということがわかる。

「早川慶次郎」の年齢は書いてありましたか?
――――――――――――――――――――――――――――
御作の場合は「明治期の北海道を舞台にした歴史フィクション小説」なので「歴史」と「舞台になっている現場である当時の北海道」を読み手に伝わるように、書く必要があると思います。
その両方がわかりにくいです。
それでは何が伝わっているのかというと導入部で舞台になっている「網走刑務所」とか過酷な労働とかは伝わってきます。
これはエピソードで書いているので、伝わっていると思います。

とりあえず、以上です。

日程
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ぺこ様
はじめまして。ぺこ様がお調べになっているのは明治時代後期の制度ですかね。私は主に北方資料を当たっていたので、内地の司法史にはあまり詳しくないですがご参考までに。
 明治初期には武士の反乱や自由民権運動の影響で、罪人の数が増大しました。東京集治監だけでは収容しきれなくなり、開拓を兼ねて北海道の集治監に囚人たちは移監されました。しかし明治後期では重罪人は減少し、北海道の集治監に送られる人数も減っています。そのため恐らく島流しになることなく、東京監獄に収監されていたのではないでしょうか。

日程
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夜の雨様

ありがとうございます。
元々はこまめに記していたのですが、読者はそれほど年齢を気にせずに読むのではないかと考え、消していました。やはり序章には書いておくべきかもしれませんね。同様の理由で年齢を書かなかった早川は、脱獄時で31歳になります。

>御作の場合は「明治期の北海道を舞台にした歴史フィクション小説」なので「歴史」と「舞台になっている現場である当時の北海道」を読み手に伝わるように、書く必要があると思います。

もしかすれば、歴史フィクション小説という書き方が不味かったかもしれません。北海道の開拓史は物語を書く上で下調べをしていますが、特にそこを伝えたかったわけではないのです。舞台に関しても、監獄内の状況とアイヌ民族の風俗に絞っています。歴史の土台は用いつつもあくまで資料として書くのではなく、当時を生きる登場人物たちの心の移り変わりを示したかったです。

ただ監獄の様子など伝えたいところは伝わっていたようでホッとしています。ありがとうございました。

栗本
f251-94.ip.avis.ne.jp

賞レースに応募されるということですので、急いで読みました。
〆切りと改稿時間とのバランスもありますが、お役に立てるところがあったら検討してみてください。

1,時系列の混乱
・序章:明治20年・1章:明治24年・2章:明治9年・3章:明治17年・4章:明治19〜20年・5章:明治20年・6章:明治21〜23年・7章:明治21年・8章、9章、終章:明治24年
読みにくさを感じたのでざっと拾ってみましたが、御作はプロローグと4章の間に過去の出来事を挟み込み、その後は場面を変えながら終章へ運んで行く構造になっています。
冒頭に早川と奉野の確執を置くことで引き込みにするもくろみだったと思うのですが、よい効果を生んでいるようには思いませんでした。
序章で奉野は、早川がレラについて言及したことに動揺しますが(ひきこみとして書かれたかと思う)このとき読者のなかにはレラと奉野の関係が何もないので、あまり効果を生みません。この部分が終章へつながっていくわけですが、間に挟まれる膨大な物語を一気に読むかは読者次第(選者は読者の立場で読む)になるので、ともすれば序章の仕掛けに気付かないこともあり得ます。
作中に明治何年と記していても、読者は脳内で時系列に置くことをせずに読み進めるので、過去に戻ったり現代に来たり、場面が変わったりすると読みにくいです。メリットとデメリットを考えるなら時系列に沿って章をおいた方が感情移入しやすいと思います。
(プロ作家がこのような手法を使うときには上手にフォローしてあるか、どうしてもそうするべき理由がある)
引き込みを持たせながら違和感を与えないためには、奉野と早川のシーンに絞ってしまい、『看守が殺人鬼(早川の恐ろしさを強化する必要あり)を野放しにした、ここから何かとんでもないことが始まるのだな』と、読者に思わせるところで止めておく手もあるかと。

もうひとつ。時系列に並べることで事象を説明する(重複している)部分を減らせます。減らせると何がいいかというと、作品のもたつき感を解消し、読者の負担を軽減できて、脳内世界を生き生きと構築することができます。

2.序章の文章について
長編を書くときにありがちなのですが、文体が後半へいくほどこなれて読みやすくなり、冒頭シーンの書き方がぎこちなかったりします。御作の序章もこれを感じました。シーンではなく説明で見せているので拙さがある。徐々に文章がよくなっていくのでこのまま投稿するのは勿体ない。全編を書き終えた今の筆力で冒頭(どんなシーンを見せて読者を引き込むのか)を書き換えたほうがいいかもしれない。

3.全体の感想
人として生き物として役割として親として子として、生きることに何を見出し、何を価値とするべきか、生きることそのものが尊いのか、そうではないのか。殺し合い、奪い合い、尊び合い、進もうとする開拓時代の人々の生き様や葛藤に、よいと思うシーンがたくさんありました。千代の死を知って『自分一人が死ねばいい』と考える善吉の心情や、矜持と常に向き合おうとする奉野の気持ち、生きる場所を捜し続けていたレラの気持ち、生きるために生きた早川のキャラなど、すべてをかけて書き上げたということが伝わってきました。史実をふまえてはいますがエンタメでもある。いっそもっとエンタメに寄ってもいいかとも思う。表現もテンポも戦闘シーンのキャラの動かし方も、読んでいて勉強になりました。
公募を乗り越えていくコツはこれ以上ないと思える作品を送り続けること。素人だからという甘えはなく、書店に自分の本が並んだとき、それを買う人に恥じない仕事を続けることだと考えます。初稿お疲れ様でした。もっと磨いてその先へ進んでいかれますように。

日程
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栗本様

これほどの分量を最後まで見ていただき、本当にありがとうございました。私は感激しています。

>千代の死を知って『自分一人が死ねばいい』と考える善吉の心情や、矜持と常に向き合おうとする奉野の気持ち、生きる場所を捜し続けていたレラの気持ち、生きるために生きた早川のャラなど、すべてをかけて書き上げたということが伝わってきました。

キャラクターアークについては伝えたいところが伝えられたようで嬉しいです。

>史実をふまえてはいますがエンタメでもある。いっそもっとエンタメに寄ってもいいかとも思う。
>長編を書くときにありがちなのですが、文体が後半へいくほどこなれて読みやすくなり、冒頭シーンの書き方がぎこちなかったりします。御作の序章もこれを感じました。シーンではなく説明で見せているので拙さがある。

そうなんですよね…。入りが固くて読者をふるいにかけてしまっている気が私もしていました。次の問題と合わせて要検討したいです。

>作中に明治何年と記していても、読者は脳内で時系列に置くことをせずに読み進めるので、過去に戻ったり現代に来たり、場面が変わったりすると読みにくいです。

自覚しておりました。今でもこれが最大の問題だと思っています。序章一章の時点で早川の脱獄(一回目、レラと遭遇)(二回目、24年まで雲隠れ)と網走監獄での出来事という3つの時間軸が発生していることが、あまりにも不親切というか分かりづらいですよね。エンタメ問題と合わせてここを解決していきたいのですが、非常に難しく、困っています。最初に思いつくのは序章の内容のウェイトを断章の方にシフトするやり方ですかね。そこで脱獄に協力したことだけを見せて、少なくなった内容を第一章に回想としてぶちこんでみるとか。しかし回想も決して読みやすい体裁ではないので悩みます。いっそのこと第二章から始まる完全時系列の方が良いのかもしれません。それか第五章から始めるということもできるのかな…。
混乱してきました(笑)

締め切りは4月末でまだ改稿の余地があり、私としてもできる限り長く選考に残っていきたいので、気を抜かず本気で作品を良くしたいです。栗本様にも上記の問題で(それ以外でも)ご意見ありましたら仰っていただけると助かります。

栗本
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日程様
一カ月あるのなら、こうしてみたらどうでしょう?
まず、全編をプリントアウトして章ごとに分ける。クリップで留めて時系列に置き換えて自分で読んでみる。
このときは多少の祖語は気にせず、流れを見ます。時系列を揃えたことで重複カ所が見えるはずなので、そこは推敲時に削るつもりでマーカーでチェックしておく。(本来はプロットの段階で行う箱書きを原稿でやるわけです)
これだと原本をいじらなくても流れを追うことができます。作品がよくなるかどうかもわかります。
確定した段階で元データを残してコピーデータを作成し、そちらを組み替え、全編通して齟齬を調整する。

>いっそのこと第二章から始まる完全時系列の方が良いのかもしれません。それか第五章から始めるということもできるのかな…。
混乱してきました(笑)

もう混乱している時間はないので、間に合わなければ今のものを投稿すると決めればいいです。
焦っても仕方がないし、一作に何年もかけている場合でもない。結果を待つ間に本作以上のものを書く覚悟でいかないと。
私自身隙間をやりくりして読みました。今はこれが精一杯で、次に時間が取れるとき日程さんは投稿を終えているはずです。
なぜそうまでして読んだかというと、あなたの本気を見ていたからです。
悔いのないようがんばって、公募作を覚えてくれる編集さんをつかまえて下さい。公募結果は最終に残る以上にいかないと目には見えにくいものですが、よいものを投稿し続けていれば決して無駄にならない。持てる力以上の作品にしてください。

日程
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栗本様

熱いお言葉ありがとうございます。俯瞰的な読者の立場から読みやすいものを突き詰め、要らないところは容赦なく消す覚悟で改稿作業に取り組みます。導入を入りやすくすることは、今の技量でも真剣にやればできることだと思うので。
お忙しい中拙作のためにお時間をいただき、本当にありがとうございました。最後まで気を緩めずに頑張ります。

5150
5.102.6.54

拝読しました。

史実の部分と文章についてはよく書けていると思いました。難があるとするなら、やはり構成部分でしょうか。

掲載当初は、奉野と早川とアシㇼレラの物語かなと思っていたのですが、通しで読んでみると前半はわりと群像劇のような書き方でしたね。なので、序章はすごくよかったのですが、以後の展開からはこれが単純にどういう話なのか、筋がいまいち見えてこなかった点でしょうか。序章のインパクトで読ませるやり方で、過去部分の導入にしても、ちと飛びすぎかな、と。すごく惜しいですね、ここが。一直線な後半と違って、前半はやや散漫な感じがしました。

題材と硬派な文はぴっちりと相性よかったように思えます。北海道の舞台と雰囲気がものすごく好きでした。しっかりした歴史部分での丁寧に書かれた土台があるので、余計に、脱獄にいたるまで、脱獄後、対決する場面などはもっとエンタメ寄りで描いた方が、メリハリという意味で効果的になるような気がしました。

>生き物を守ろうと願うお前の独善と、殺そうとする俺の独善がぶつかったのだ。分かり合えないならば、強い奴が勝つのは道理だ
>私の願いは、殺される側の生き物たちの願いでもある
>奉野は日本政府のことが好きではなかった。日本人が嫌いなわけではない。

歴史物の面白さは、政変や事件などで個人の価値観が揺さぶられ、逆転が起こる点にあるのではないかと思っています。個人と組織と国。奉野が混血児である点。犯罪者と看守、善悪の価値観、人間たちとそれらに相対する自然としてのオオカミ、これらが御作におけるコア部分と読みました。

公募に対しての具体的なよい指摘ができず、ただ通しで読んでみての感想になってしまいました。大変な力作だと思います。残りの時間を悔いのないようにすること、ともかく、選考でよい結果が出ることを心底望んでおります。頑張って下さい。

日程
122x213x233x16.ap122.ftth.ucom.ne.jp

5150様

これだけの分量を読んで頂き本当にありがとうございます。

>通しで読んでみると前半はわりと群像劇のような書き方でしたね。なので、序章はすごくよかったのですが、以後の展開からはこれが単純にどういう話なのか、筋がいまいち見えてこなかった点でしょうか。序章のインパクトで読ませるやり方で、過去部分の導入にしても、ちと飛びすぎかな

考えてみると、群像劇かつ時系列バラバラのコンボは、実力に見合わぬかなり難しい編成になっていました。
それに地の文が多くて硬かったですかね。後半になるにつれて創作部分が増えていくので、エンタメ要素は最初からもっと増やしておくべきだったと思います。
今後の目標としては序章第一章断章をゴリッと改稿して分かりやすくして、天然痘編など説明が多い部分をキャラクターの掛け合いに回そうかなと考えています。第7章の島、第三章の監獄シーンも長いと不評なので削ります。一方一章や六章はもっと尺がほしいとも言われました。読者のニーズを意識できていなかったみたいで、書き上がりはしたもののまだまだ気がぬけません。ターゲット層を広げることも意識しつつ、自分にできる限り洗練させていきます。
貴著なご意見助かりました。

もんじゃ
KD111239164018.au-net.ne.jp

 日程さま

 堪能しました。読み応えがありました。

 公募のことはよくわからないけど、一読者として感じたこと、気がついたことを書かせてください。

 文章。いくらか気になる箇所がありました。例えば……、

>当別村は逃走囚が中継地として物品を奪うという被害が一時期多発したため、武術の心得のある看守が常駐している。

 間違いではないのかもしれないけれど、全編にわたり文章が端正であるからこそ、こんなわずかなノイズも目が拾ってしまうのでありました。

「当別村は~常駐している」という作りに美しくないものを感じてしまいます。

・当別村には、逃走囚が中継地として物品を奪うという被害が一時期多発したため、武術の心得のある看守が常駐している。

 とか、したくなってしまうのであります。他にもっとよい切り分け方もあるとは思いますが……。全体が美しく研磨された工芸品だからこそ撫でるのですが、撫でるからこそ、ちくりときた違和があとをひくという感じです。

 また、縦書きにして読んだので余計にですが、

>1.5㎜

 の表記に躓きました。
 別の箇所で、

>九メートル

 という表記があったりもしたので。

>二人が息を殺していると、気配が徐々にこちらに近づいてくるように感じた。

 ここも、感じられた、なら妥当かと思うのですが……。

>来礼で始めて見た

 これはケアレスミスですね。同じ誤字が他にもう一ヶ所ありました。

 これだけ長いと推敲も大変であろうとお察ししますが、文章的な粗が多いと、先を読まない読み手もいなくなはないかと思われます。

 次に視点。客観視点になったり、劇中人物Aの視点になったり、劇中人物Bの視点になったり……、三人称視点であるとはいえ、その移り変わりが頻繁で、ところにより錯綜していて、ゆえに読みづらい印象を、特に第四章の、レラとエトのやりとりあたりに強く、この読み手は感じました。そのため、話に入れない……、大事なところで「書き手の視点」から離れられず、劇中人物に憑依できないように感じられました。視点が誰かに取り憑いたら、もう少し長くそれを固定して、読み手をして、登場人物に入らせてほしい。話が常に、ブラウザの向こうで展開している印象を拭えませんでした。レラが、例えばオオカミの習性を語るような台詞も、作者による説明――資料本の孫引き、のように感じられてしまいました。

 蘊蓄、ですが、はっきり書きますと、少々うるさい、と、この読み手には感じられてしまいました。アイヌの言葉や、固有名詞が頻出しますが……、また史実や、例えばオオカミの習性などの蘊蓄も盛り沢山だけれど……、それらがストーリー展開に自然に溶け込んでおらず、一生懸命に調べました感ばかりを強調されている気が……、この読み手の感覚が変なのかもしれないけど、しきりにして、硬めの文章(ときに突然口語調に砕けたり、ユーモラスに脱力したりもする――この破調も、この読み手にはよろしくなく感じられたのでありますが……)ともあいまって、読みにくい効果を生んでしまっているように感じられました。斥力。でも、例えば、コレラ、天然痘のくだりは、これ、少なくはない説明が、事態やキャラクターによく溶け込んでいて――レラが泣いたのがよかった――、蘊蓄が奏功していたように感じられましたから、削る箇所と残す箇所、濃淡をつけられるのがよろしいかと愚考いたしました。
 とはいえ、やはり、ファクトを半減させ、登場人物の感情を(例えば、早川がらみの、迫力の戦闘場面などは絶賛したいのですが、そこにもう少し、佐藤賢一なみに、とは言わないまでも、人物の感情が――早川もレラも通常人ではないわけですが、通常人でない感情をやはり猛らしてほしかった――絡んでいたら最高だったようにも感じます)倍増させることでこの物語は俄然生きてくるかとこの読み手には感じられました。
 そして、人物が、もっと自然に、自分の意思で動いて話を切りひらいていってほしい……、書き手の指から伸びてるあやつりの糸が絶えずきらきらしちゃってる感じがしました。
 個々の人物に、都度、もっと付き合ってさしあげてほしい。概観する視点は高く評価しうるのだけれど……、森を眺めながらも、場面々々では、木々に、もっと丁寧に寄ってほしいと感じました。大河ものは、ともすると、概観、構成を重視し過ぎて、個々の人間の感情をおろそかにしがち、のようにも思われますが、きっとそういうのはあまりよろしくなくて、大河ものにおいてこそ、大きな流れの中に配置されている個々の石ころのその内実を、要所々々にて、ルーペで覗き込むくらいの姿勢をもたなくては……だなんて個人的には思うのでありました。また、人物の内面を描くときには、筆のスピードをもっとゆっくりにしていただくのが望ましいかと感じました。長い尺でありますから、そこは急がないでいただきたいかと。緩急。
 読み手は描き手が思うほどには賢くない、だから全力で表しちゃ駄目だ、みたいなことを、王さまと形容される漫画家に伝えたのは、神さまと形容される漫画家だったように記憶していますが、引き算の妙がわかる読み手は、その作品の描き手という読み手を除くと実にわずかな数なのかもしれませんね、自戒もこめて語らせていただきました。

 つづきます。

もんじゃ
KD111239164018.au-net.ne.jp

 つづきました。

 構成について。時系列に並んでいないこと……、これ自体は、この読み手には必ずしもマイナスに感じられませんでした。もしも、この話が時系列に沿って、縦パス一本な印象のものであったら……、さらにとっかかりのないものに、画面の向こうで起こっていることを受動的に追わされるだけの話になってしまうのではないか……、とも危惧いたします。章だてが錯綜しているからこそ、パズルを読み解くように、この読み手は、自分の頭を能動的に使い、あ、ここはあそこに繋がるのか、彼のあれは彼のここに繋がるのだな、と、発見を重ねることができて、それこそは、この長い物語を読んでいて一番の快楽でありました。五章のあとに配置された過去、よかったな、と感じました。そして、第六章、霧が晴れたみたいで気持ちがよかったです。逆に七章は、面白かったけど、配置が勢いを止めていたようにも感じられましたが……。八章の前に一拍置きたかった、という意図でありましょうか。当然だけれど、第九章は面白かったです……、そこに行き着く前のいくつもの配置があったればこそ……、と読みました。オオカミたちの描かれ方も圧巻、素晴らしかった、ここまでが長かったので余計に。象徴的であるオオカミの活躍がここまで温存されていて……、ついに解き放たれた! って感じで食い入るように読みました。レラの、あの、罪悪を抱いていなかった、って台詞にまつわる、性的な秘密、これも鮮烈でした……。構成、明らかに効いているかと……。終章、早川との決着、丹念な戦闘シーン、しかしどこかシーンとしていて、この感じとてもよかったです、イコロが殺した、ってあたりは予想の範囲だったけれど……、そうですね、最後、早川の裁神さ加減が、もっと神々しく描かれてもよかったようにも思うのだけれど、不足、と感じるほどでもなく、やはりシンプルによかった、と感想するのが相応しい決着であったかと。そして、レラを堀井善吉が……! 独善ってことだよな……、結局は。すべては九章と終章のために配された欠片たちだったわけですね、そういう構成だった、それがこの物語の味噌だったのかと……。全編に配置されたグロともとれる描写もボディブローみたいに効いていて、読み終えたとき、生きる、ということについての感慨がしみじみとわき起こってきて、それは長い物語を読了した達成感とも絡み合い、この読み手を満たしました。よい構成であったかもしれない……。読みにくいのは、構成、のためではなく、先に書かせていただいたように、筆が人物に、特に前半、中盤において、十分に寄り添えていないからこそではないかと、この読み手には感じられました。もののけ姫も、確かに、人物の感情を普通の意味ではあまり描いておらず、配置により、概観的にテーマを表しているようで、そのあたりを考えると御作のキャラクター扱いも、もしかしたらこれで適切なのかもしれず、すべてを読み終えたのちになってキャラクターの配置が……、レラの女性性と奉野の男性性という対立角や、実は似ていなくもない、レラの男性性と早川の対立角など、また、奉野と早川の葛藤角、レラ絡みの対立を上手く調停しているエトの存在……、絶妙な配置であるかとも思われました、九章まで読んでから振り返るとそうでした、でも序盤から中盤でくじける読み手を出さないためにも、対人的な配置のみならず、個々のキャラクターの特質の具体的な掘り下げをエピソードで読ませていただきたかったように、やはり、この読み手には感じられるのでありました。角度により点を定位している物語だと読めましたが、とにかく長いので、序盤において、点そのものの掘り下げを、定位は後回しでもいいからしておくのが吉かと思われました、最後まで読んでいただけないことには話にならないので。逆に掌編ないしは短編ならば、角度だけで模様を一筆書きしてみせる見せ方もありかと、私なんかは思うのですが、五百枚を超えるような尺の話は、人物という個点を、じっくり、印象的に色付けしながら話を進めていかないと、干からびたパンをかじってるような気分に、あるいは読者をさせてしまいかねないように、自分の筆は省みずに申し上げますが、そのように感じました。

 つづきます。

もんじゃ
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 つづきました。

 公募、よい結果が出るといいですね。
 公募なるものが、作品を選ぶのではなく、書き手を選ぶものであるなら、おおいにチャンスがあるかと思われました。作者の本気度がびんびんに伝わってくる作品でありましたので。
 あと、これは……、懸命に修正を重ねておられる途上の筆には脱力的に響いてしまうかとも思われるのですが、私を含めた他者の感想やアドバイスを参考に、直前で大きな修正を加えるくらいなら……、他者に見せる前の己の完成版を、そのまま公募に出したほうがよろしいのではないか……と私には感じられます。
 感じ方は読者それぞれでありますし、客観的な指摘やアドバイスは、次作や、さらに将来の筆にこそは活かすべきものであろうけれども、応募前の作品に取り込むべきものではないように思われるのです。……文章のねじれや誤字脱字については修正されたらよろしいかと思われますが。
 選考者は、書き手の筆力をはかりたいのであって、合議的に完成された作品を愛でたいわけではなく、個性を買いたいのであって、妥当性を買いたいわけではないだろうから。
 一般の読者も、自分の趣味に呼応した種類の特化にこそファナティックな価値を覚えるのであって、評論家みたいな視点で商品を見つめる読者なんていくらもいないでしょうから、書き手は書き手らしさを好む読者に向けて書き手らしく筆を尖らせたらよろしいのではないかと、活躍されているさまざまな種類の作家を思うにつけ、そのように感じるのであります、一定のレベルに達した筆でさえあるなら。
 売文屋になってでも稼ぎたいのであれば別かもしれませんが、作家たりたいのであるなら、自分の個性――ひととの違い――を削るのではなく、研ぎ澄ます方向で進化してゆくべきではないかと……、でなければ単なる器用貧乏な筆耕マシーンに堕するのではないかと――使い勝手のよいマシーンが安く買い叩かれることは現実にあるようですが――、そんなふうに、この私は、思うのであります、いろんな価値観があるかと思われますが……。
 出版社や……、流行りものに群がる読者さんたちに「使い捨てられ」「消費される」筆、これにも無論価値はあるし、どころか、プロフェッショナルの定義はこれだ、と断言する編集もいるし、そのように自認する作家――名刺に刷り込む、漫画家、という肩書きを、漫画屋、に書き換えて、もって家族を守る決意を示す描き手をたくさん知っています――も少なくはなくいるけれど(こういう描き手がいないと商人としては困ったことになってしまう……)、巨匠と呼ばれる書き手はそうじゃないし、ドラスティックな売れ方をする筆もそうじゃないし、商人で「も」ある編集や販売の人間だって、本当は、前代未聞の才能を育てたいと秘かに思っているし、売ってみたいと思っているのです。出版不況ですからね、本音と真逆のお題目をとなえざるを得ない編集が増えているようでロマンの失われしことこの上なく、出版社は、メディアミックスにこれまで以上に熱心になり……、委員会が幅をきかせ、合議制が定着し……。ただ、それにしたって、新社屋を建てられ得るのは新たなる才能だけであります。
 文芸に関しては十分に詳しくないけど、でも、大手の漫画賞の選考についてはしっかり書けるけど、新人賞は、完成された作品を選んだりはしていない、何かあるよね、って言い合える才能を選ぼうとしている、無論、それとはまた別の、大人の風がびうびう吹いていて、そちらの力が一番強いのだけれど、でも、現場の個々の編集や、また、審査をお願いする先生方も、才能を選びたいと思っていて、才能とは個性であり、バランスではなく、ましてや熟れ具合ではない……、のだけれども、そうですね、文学賞なんかについては、傾向と対策、みたいなことが、これまでにも増して必要になってきているのかもしれませんね、よくは知りませんが、受賞作に共通しているものなんかを眺めるとそうも思います。雑誌にはキャッチコピーがあるし、スローガンがあるし、売り目がある。だから、その雑誌、その賞が求めていないものを投稿しても受賞は確かに難しい。例えば、ガッツな笑いとド迫力、を標榜する漫画雑誌に、おしゃれで哲学的なフレーバーが漂う傑作を送りつけても、それが受賞することはありえません、けれども、ですよ、編集者は才能をスルーしない、横に紹介するし、横は描き手に電話を入れる。ちゃんと繋がるし、才能は掬い上げられるし、それは横でしっかりと花開く。テクニカルに書いたり、テクニカルに直したりするのも才能だし、それはそれで大事なことだとは思うけど、個性こそは作家の角だから、殺されたくなかったら、角を矯められないよう、角を尖らせないと、長くは生きられないし、死後に何も残らないことになる。だなんて、熱くるしく語っちゃいましたが、日程さんは上手いし、いろんなものを書かれるし、どれにも読み応えを感じるけれど、日程さんらしさがなんなのか、この読み手にはいまひとつわからず、水銀魔法をいいなあ(何かがあるなあ)、と思ったのだけれど、独善看守を通読して、あれ? とか感じたり……、いろいろ迷っておられるのかな、だなんて勝手に想像しちゃって……、だから、そんなときには初心に戻って、自分の書きたいものを書きたいように書かれたらよろしいんじゃないかと思って……、ちっとも実践的ではない、精神論めいたものをぶってしまい失礼いたしました。応募直前の耳にはノイズにしかならなかったかもしれません。このような、私の感想にも引きずられることなく、書き手が正しいと確信する模様を描くべきかと思われます。

 公募での健闘を祈ります。読み応えがあったのは間違いないし、書き手のやる気は届くであろうから、ほんと……、上手くいくといいですね!
 もしも今回は残念なことになったとしても……、この尺を本気で書き上げたこと自体が次への糧となっていることと思われますが……。
 勝手なことを書かせていただきすみませんでした。読ませてくださりありがとうございました。

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