作家でごはん!鍛練場
シンジ みらい

片割れの誘惑

●第一章:夢の世界Ⅰ
 目の前には扉があった。よくできたその扉が少しだけ開いているのが分かる。僕は今夢を見ている。夢を見ているということを理解しているのだ。僕は迷わずその扉の向こうへと突き進む。
 扉の向こうは、見覚えのある中学校の教室。夕暮れ時。夢の中だが、教室の空気や匂いがよりリアルに感じられる。教室には一人の女性が立っていた。背中を向けているが、何度も見たその後ろ姿は僕の記憶に鮮明に残っている。彼女はこちらを振り返り声をかける。
「やあ、シンジくん。久しぶりね。カレンよ。高山カレン。覚えているかな」
 姿を現した彼女は、制服を着ており、容姿はあの頃と何も変わらない。
「もちろん覚えているよ。久しぶりだね」
 彼女の名前は、高山カレン。僕とは中学の同級生だ。そして僕は中学の頃カレンに恋をしていた。およそ5年ぶりに見るカレンは夢の中であったとしてもやはり美しかった。カレンは話しかける。
「ふふっ、5年経っても変わらないわね。分かってる?今私たちは夢の中で出会っているのよ」
 夢の中の僕に姿というのがあるのか分からないが、カレンは僕の容姿について言及する。
「ああ、知っているよ。なぜ突然君が夢に出てきたんだろう。」
 僕は素朴にそう言った。
「そんなこと私に聞かないでくれるかな。だってこれは君の夢の中でしょう」
 言われてみればそうだった。これは僕の夢で、カレンは僕の認識の中にいるのに過ぎないのだ。でも僕には不思議だった。僕の夢に出てくるカレンは、どうしても実態を持った独立体のように思えるのだ。
「君は5年経っても私の事を思ってくれているのね。君が告白してきてくれた時はすごくうれしかったんだよ」
 カレンはそういった。僕は軽くうなづき、少し照れる。
 僕は中学二年の頃、カレンに告白した。僕と彼女が出会ったのは中学二年のクラス。美しい顔立ち、少し茶色がかった髪、ゆっくりとした声と滑らかな声質。
初めて見たときから僕はカレンに夢中だった。しかし彼女はクラスのマドンナだった。一方、僕はクラスで特にモテるという部類の人間ではなかった。当然折り合うはずもなかった。そんな僕らは学校でも特に仲がいいというわけでもなく、どちらかといえばあまりしゃべった記憶はない。たぶんそれは、僕が緊張してしゃべれなかったのでもあるのだろう。
 しかし、ひょんなことからLINEだけは毎日していた。不思議なことだ。学校ではほとんどしゃべらないのに、メッセージ上では、僕らは無限の会話を繰り広げていた。
毎日カレンと会話できていることが、本当にうれしかった。僕は、実際に話しているのと同じくらい、もしくはそれ以上にメッセージでのやり取りに喜びを感じていた。メッセージ上での会話は、僕ら二人だけの空間なのだ。誰も、僕とカレンが実は仲がいいということに気づいていないだろうと思った。2人だけの密室の中にいるような優越感に浸っていた。ちょうど、この夢の中の夕暮れの教室の様に。
「ずっと好きでした。付き合ってください」
 僕は突然LINEで告白した。
「ごめん、好きな人がいるの。本当にごめんね」
 返ってきた返信は、当然期待していたものではなかった。それ以降、カレンと直接しゃべるのは今までに以上に気まずいものとなってしまった。しかし、それでもカレンはふいに目が合ったときは、やさしい笑顔を僕に向けた。そのアイコンタクトはやはり僕ら二人だけのものだった。少なくとも僕はそう思った。
 それから、約5年が経って現在に至る。僕のカレンロスはしばらく続いたが、別々の高校に進み、それまでのように強くカレンを思うことはなかった。ましてや、夢の中にカレンが出てきたことはなかった。だから僕は余計にカレンが夢に出てきたことが不思議だった。どこかカレンの方から僕に会いに来た気がして仕方なかった。夢の中での僕とカレンの会話は続く。
「たとえ夢の中でも、カレンに会えてよかった。実際、君とこうして面と向かって話した記憶はあまりない」
「そうね。君は緊張してまともに会話にならなかったものね」
「気づいていたのかい。恥ずかしいな」
「バレバレだよ。目を見て会話してなかったもん」
 僕はまた少し照れて、顔が赤くなったように感じる。話題を変えるように、僕は言った。
「君はどこからここに来たのかな。夢の中にいる君がどうしても僕の認識から生まれたもののように思えないんだ」
 実際、それは一つの違和感だった。夢の中のカレンはあまりにもはっきりと存在しすぎていた。カレンは答える。
「さあ、どこだろうね。今、確かなことは、ここが君の夢の中であるという事。そしてその場所で私たちが会話しているという事」
 教室の静けさは増し、僕らの会話以外何の音も聞こえない。カレンは続ける。
「私たちは、他の誰にもいないこの場所で二人きりの会話をしているのよ。まるであの頃のLINEの会話みたいにね。この世界で、本当に誰もいない空間ってそうないと思わない? どこにいっても大抵誰かはいるし、何かは存在し、音を放っているのよ。でもここは違う、私たち以外に何も存在していない。何の雑音もない。この教室も私たちを照らす背景でしかない」
 僕はカレンの言うことを、その通りだと思って聞いていた。
「君とまたここで会えるのかな? この僕の夢の中で」
 僕は思い切って、聞いてみた。
「それは君次第だね」
 カレンは続ける。
「私はいつでもここにいる。全ては君がどうするかだよ。だってこれは君の夢の世界でしょ」
「僕はまた君に会いたい。たとえ夢の世界だったとしても」
「あら、それはうれしい。でも現実の世界で私に会えなくてもいいの?」
「現実の君にも会いたいけれど、現実で君と会ったら、うまく会話ができるかわからないし。それに僕は、夢で会う君にある種の現実味を感じているんだ。変だと思うけど」
「うん、変なの。まあいいや。そろそろお別れね。じゃあまたね」
 彼女は最後にそう言って、やさしく微笑み、滑らかなで、つやのある髪を美しくなびかせながら後ろへと振り返る。
 その後、僕の夢は突然おぼつかなくなり、渦を巻いたようにすべてが混沌の中に飲み込まれた。気が付くと僕は目を覚まし、現実の世界に舞い戻った。

●第二章:現実の世界Ⅰ
 目を覚ますともうそこにカレンはいない。なつかしの中学の教室でもなく、見覚えのあるいつもの部屋が視界に広がる。僕は、目を覚ましてからしばらくしてもあの夢が本当に夢だったのかいまいち分からないでいた。夢の内容もはっきり覚えていた。夢の続きを見たいと、もう一度布団に入り、目を閉じるが、カーテンの隙間から差し込む光がそれを妨げた。僕はあきらめて、体を起こし、ぼんやりとした意識でいつもの朝のルーティンをこなした。その何百回とこなした同じ作業をするにつれて、僕は意識が正常に戻っていき、現実世界の頭へと脳を転換させる。
 少し僕の説明を加えておきたい。今更ながら、僕の名前は加藤シンジという名前で、大阪の大学へと通う、まあ世間一般的に言う普通の19歳の大学生だ。高校までは、兄の影響で始めたサッカーをしていたが、大学進学に伴ってサッカーは引退し、大学では特に何の組織にも所属していない。僕は昔から何かに対して功績をあげることができない人間だった。幼稚園から始めたサッカーはそれなりに本気で取り組み、技術もそこそこあったが、自慢できるような成績は何も残していない。今まで自分のほぼすべてであったサッカーは、もはや自分にとって何でもないものへと様変わりしてしまった。勉強はそこそこできたので、近くの国公立大学へと進学した。自分が何かで成果を上げた唯一の例外は、勉学に関するものだと言ってもいいかもしれない。それでもずばぬけて優秀ということはなく、常にクラスの中上位といったところだった。
 奇妙な夢から目覚めて、朝食のバタートーストの一口目を食べようとしたその時、ケータイに着信が入った。電話の相手は、友人の中川ユウトだった。ユウトは、小学校からずっと仲が良く、高校まで同じで、大学では離れてしまったが、今でもこのようにして唐突に(それに朝8時に)電話がかかり、よく遊びに行く。だからこの電話の意図も、出る前から大体推測はできた。
「よう、シンジ! 今日、空いてるか?」
「空いてるよ」
「ほんなら、うち来いよ。どうせ暇してるんだろう」
「うるさい。毎日暇ではない」
 実際、僕は暇ということをあまり感じなかった。つまり、「暇すぎて時間が経つのが遅い」といった事態に陥ることがほとんどなかった。何なら、毎日時間が足りないくらいだった。いくら時間があってもなにかすることはあった。僕は一つの作業に時間のかかる人間だと思う。ユウトは大学から大阪で一人暮らしを始め、僕もよく遊びに行った。彼の家は大阪の郊外にあり、そこまで距離的に遠いわけではなく、アクセスもしやすい立地にあるのでよく行くのだ。
「わかった。昼を済ましたら向かうよ」
 そう言って、僕は電話を切った。残っていたトーストを食べ、淹れたてのコーヒーと本を片手にソファーで読書をする体勢に入る。しばらく読書をしてから昼ご飯を食べ、大阪行きの電車でユウトの家へと向かった。
 家に到着すると、ユウトは軽いお菓子やジュースを用意していた。こういったもてなしは彼の得意分野であった。実に気が利く男なのだ。僕たちはお菓子とジュースをつまみながら、お互い好きな漫画のまがいなりの考察を語り明かしたり、家ではほとんどしないテレビゲームを時間を忘れるほどやったりして、たわいもない時間を過ごした。僕は一人でいる時間は好きであったが、だからといってこのように友達といる時間を苦痛に感じるわけではなかった。どちらの時間も好きであり、必要なものであった。それらは同じ尺度で図ることのできない事象の一つだと思う。
 段々と夜も更け、やりすぎたゲームをやめ、僕とユウトは熱い語り合いを始める。僕たちはよくこの手の対話を好んで行っていた。大抵は夜の時間帯。一般的な大学生が恋バナを無性にしたくなるように、僕たちは本質的な対話を望んだ。お互い色恋沙汰のネタが尽ききっていたからかもしれない。
「最近はどうだ。シンジは大学で何の組織にも所属してないが、家で一体何をしているんだ」
「家では、ほとんど本を読んでるな。暇と感じることはないし、何なら時間が足りないくらいだ」
「本は良いな。俺も大学で一人暮らしを初めて、あまりにも時間があるもんだからちょくちょく読むようになった。大学生はほとんど本を読まない。彼らがやることといったら、写真をとってSNSに挙げることくらいじゃないか。ほとんど頭の中はその類のことでいっぱいだ。自分でものを考えるということをしたがらないように俺には見える。常に目に見えない大多数の価値基準を採用しているんだ。それが悪いとは言わないが、それじゃあやっぱり使われる人間だよな。これからは情報を自分で掴み取る時代だろ。大学生だって今や大抵のことはできるじゃないか」
「何かやりたいことはあるの?」
「俺はオンライン塾を開きたいと思ってる。来年頃には始動させたい。大学生講師を募ってオンラインで塾を開くんだ。施設費もかからないし、受験をする生徒にとっては、オンライン授業の方が何かと都合がいいだろう。インターネットで気軽に授業が受けられる時代で、既存の地域密着型の塾っていうのはもはや時代に合わないような気がするんだよ」
 教師志望であるユウトは、大学在学中に成したい野望があるみたいだ。僕は、ユウトの話を聞き、純粋に感心したが、決して自分がやろうとは思わなかった。僕はそういう事ができる人間ではないとこれまでの経験から分かっている。
「すごいな。いろんなことを考えてるんだね」
「ぼーっとしてたらどんどん競争に負けちまうだろ」
 ユウトの言っていることは最もだと思ったが、僕はどこか賛同できない微妙な違和感を受け取った。実はこの違和感は、ユウトとの対話でいつも感じるのだった。ユウトだけじゃない。他のあらゆる人と対話をしたとしても、どこか心の底では、全くを興味を示していない、賛同していない自分がいるような気がしているのだ。
「競争か。あと三年で就職するなんて考えられないな。社畜になるのだけはごめんだ。そんなことになるくらいなら働かずに公園で暮らしている方が幾分かましさ。僕はそう思うんだ。そんなに無理して働く必要があると思う?」
 僕は、そろそろ僕たちが考えなければならない「働く」ということについて話題を転換させる
「ふっ、ニートになるってことか。おいおいシンジ、ちゃんと就職のことは考えとけよ」
「考えてるさ。考えすぎて逆にどうしたいか分からないくらいだ。だけど考えれば考えるほど、お金のために身を粉にして働くのはどうも割に合ってないような気がするんだ。それも自分がやりたいと思う事ならいいけど、我慢してやり続けるなんてとてもじゃないけど耐えきれないと僕は思う」
「そりゃそうだけど、誰もが好きなことして働いていけるわけじゃないからな。俺は、お前が無一文で公園のハトにえさをあげていないか心配だ」
「僕は食べ物さえあればどこででも生きていける自信がある」
 微妙な違和感を終始感じながらも、やはり人と本音を話すのは楽しい。夜もかなり更けていたので僕たちは就寝することにした。ここはいつもの見慣れた僕の部屋ではないが、僕はまたしても今日と明日の狭間の世界に没入することとなる。

●第三章:夢の世界Ⅱ
 「ねぇねぇ、こっちに来て!」
 僕は意識がぼんやりとしたまま腕を引っ張られ、連れられている。この声は間違いなくカレンの声だ。僕はまたあの夢の世界にいるのだ。カレンが立ち止まり、僕も顔を見上げるとなじみのある公園が目の前に広がっていた。その景色は、かつてのまま何も変わっていない。この公園は、中学校のすぐとなりにある公園で、僕はよくサッカー部の仲間と夜までボールを蹴っていた。ここでカレンと会ったことはなかったが、同じ中学の子ならだれにとっても懐かしみのある場所なので、カレンと二人きりで誰もいない公園に今いるこの状況に、どことなく懐かしみを感じる。時間はまたしても夕暮れ時だ。
「誰もいないな」
 僕はふいに小さな声でつぶやいた。カレンはその声を逃さず、
「だからここは私とあなただけよ。どんな音も聞こえないでしょ」
と言う。まるで高音質イヤホンのノイズキャンセリング機能を使って歌を聞いているようにカレンの声が、一言一句滑らかに伝わってくる。
「いいところにボールがあるじゃない」
 カレンは誰かがセッティングしたかのように置かれていた空気のほとんど入っていないサッカーボールを見つけ手にする。
「昔からちょっとサッカーやってみたかったんだよね」
 そういって、カレンはぎこちない足どりでリフティングをし始めた。しばらく続けていたが5回続けばいい方だった。僕はただぼんやりと、でも少し微笑みながらその光景を見ている。僕ら以外に音のないはずが、カレンの足に当たるボールの音が鮮明に聞こえる。僕は、そのあまりの臨場感に、夢であることを忘れかけるが、カレンの長い丈のスカートが全く汚れていない姿を見て、この光景すべてが夢であることを再認識する。そして少し残念な気持ちになる。
「ちょっとやってみせてよ」
 カレンはそう言って、僕にボールを渡し、リフティングの手本をさせようとする。この世界でリフティングができるのか疑わしかったが、始めてみるとボールが皮膚に触れる感覚や触れる音がなぜかいつも以上にリアルに感じられる。10回ほどやって見せた。
「こんな感じかな」
「すごい! どうやってやってるの」
「カレンは少し足をあげるタイミングが早いんだよ。もうちょっとボールを呼び込まないと」
「呼び込むっていうのがよくわからないな。焦っちゃうのよ」
「焦らないで、足の面に垂直にボールを当てるんだ」
「ちょっとやってみるね」
 そういってカレンは再びボールを手にして、リフティングの練習を再開する。すぐにはできなかったけれど、カレンは飽きることなく練習し続ける。この世界に時間なんてものは関係ないと思うが、僕の感覚だとかなり長くやっていたと思う。
 一体、僕は夢で何をやっているのだろうか。夢は、人間の無意識を表出するとフロイトが言っていたが、僕は見えない無意識の中で、こんな理想を思い描いていたのか。夢の中で、夢について俯瞰的に考えるという奇妙な思慮にふけっていたが、頭はうまく回らない。また突然にしてこの夢が終わってしまうのだろうか、と僕は夢の時間の終わりに怯えていた。
 ふと、カレンの方を見やると、かなりリフティングが上達していた。何とか10回近くまでできるようになっていた。
「いつのまにか、すごく上達してるね」
「ちょっと! 見てなかったの!」
「ごめんごめん」
 カレンは昔から、運動神経がすごくよかった。かわいいだけじゃなく、スポーツになると負けず嫌いで、何に対しても真剣に取り組む姿は僕を魅了し、また僕だけじゃなくクラス中の男子全員を魅了していた。
「ちょっと、休憩しようよ! 疲れちゃったわ」
 カレンはそう言って、ベンチの方へとまた僕を連れて行った。僕らは夕日の方向に体を向け、どこにでもあるようなベンチに座った。ずいぶん時間は経っている気がしたが、夕日は一向に沈もうとしなかった。
「もうすぐ暗くならないかな」
僕はカレンにそう言った。
「暗くなるなんてことはないわよ。あの夕日も私たちの背景なんだから。夕日はずっとあのまま」
「全く不思議だよ。二日連続で同じような君の夢を見るなんて」
「君、私の事好きすぎでしょ」
「あるいは、そうなのかもしれない。僕は潜在意識の中でずっと君の事を求めていたんだろうか」
「まあ想像することはあなたに与えられた権利だから、私が文句を言えることではないわね」
「え、もしかして僕の夢に登場するのは不服だったりするのかな」
「全然不服じゃないよ! むしろこうしてまた会えてうれしい。君は現実でなかなかしゃべってくれなかったし。かと思ったら突然告白されるし。変人さでは群を抜いてたんだから。つかみどころのない、奥深さがあるというか、君には君自身もあんまり認識していないような秘密のようなものがあるような気がすると昔から思っていたの。普通に見たらあんまり特徴のないような人だったんだけど、影に潜むただ者じゃない感があったのよ。たぶん」
「夢の中の君は、すごくグサグサくるね。でも僕は僕自身をただ者としか思えないんだけどな」
「自分の夢に、妄想で私を作り出すくらいだよ。絶対ただ者じゃないって」
 カレンはやさしい笑い、でも中学で僕が見たことのない親近感のある笑いをもって僕をいじった。でもやっぱりこの夢は本当に妄想なんだろうか。いまだに信じられない、信じたくない自分がいた。この夢がすべて僕の中から生まれたものだとしたら、僕は自分の想像力と表現力の高さに驚いてしまう。
「何度も言うけど、本当に現実で君としゃべっているみたいだ。これが夢であると確認するたびに悲しくなってしまう。これは幻想にすぎないんだって思ってしまうんだ」
「これは確かに夢だけれど、実際に君に起こっていることで、幻想じゃなくて存在しているものなんじゃないかなと私は思うの。夢という形を取っているだけであって、これは紛れもない事実なんじゃないかしら。つまり、えーっと、私とあなたが誰もいない公園でサッカーしているの」
「よく分からないけれど、そう思っていたいよ。けれど、やはりこの夢もいつか終わってしまう。それが何よりも悲しんだ」
「確かに今日は終わりに近づいているわね。でも物事に終わりはつきものよ。そして大抵のものは自分が予期していなかったタイミングで、突然にその終わりが来てしまうの。例えば家族のように愛していた愛犬が死んでしまったように。それは人間が耐えなければいけない試練で、とってもつらい悲しみだと思う。でも場合によっちゃ私は、物事が終わらずにそのまま存在し続けることができる気がするの。この夕日を沈ませずその場にとどまらせ、愛犬も存在し続けるの。そういう事ができる気がするの。この世界の上では……。つまりそう、想像するのは人の勝手ってことね」
 僕は彼女の言っていることがほとんど理解できなかったように思えるけれど、一方でしっくりくるようにも思える。ただその言葉が僕の悲しみを溶かす、希望の言葉であると僕は確信していた。
「何だかまたカレンと会える気がする」
「おそらくそうなるでしょうね。君の無意識はもはや犯罪級だよ」
「君が言ったように、終わりをなくすことができるのならば、君との別れもなくすことができるのだろうか」
「やっぱりそれは君次第ね」
「僕次第か……」
 カレンはこの世界の真実をすべて知っているのだろうか。あるいは知らないのだろうか。彼女は、大事なこと、核心的なことは最後まで言わなかった。夕日で照らされた世界は、突然にして闇に包まれた。次第に僕の認識もあいまいなものとなっていく。終わりは突然にしてやってくるものなのだ。

●第四章:現実の世界Ⅱ
 「あぁ…」
 とんでもなく長く感じた夢から覚めると、ここがユウトの家であることを思い出すのに数秒かかる。起き上がって隣を見るとユウトの姿はなく、台所で朝食を作っている音が聞こえてくる。ユウトが扉から顔を出し声をかける。
「朝食もうすぐできるから待っとけよ」
 ユウトは先に起きて朝食を作ってくれていたのだ。やはり気が利く男だと僕は改めて感心する。時刻は朝の9時半。夜更かしをしていたにしても僕としては遅い目覚めだった。ユウトは、二人分のベーコン、スクランブルエッグ、トーストが乗ったプレートを持ってきて、続いてオレンジジュースとインスタントの味噌汁を運んできた。大学生の摂る朝食にしてはかなり豪華な朝食だった。
「わざわざこんな豪華な朝食をありがとう」
「おう! 気にすんな。客人はこれまでかと言わんばかりにもてなすのが俺のやり方だ。それにしてもお前やけにうなされてたぞ。ホームシックにでもなってたか?」
「ほんとに? 何か寝言言ってたか」
「寝言は言ってねーけど、苦しそうにうなってたぞ。変な夢でも見たか」
「実は……」
 僕はユウトにカレンの夢の事を話すか、ためらった。あの夢は僕とカレンだけの秘密のような気がして仕方なかったからだ。ただ同時に、ユウトには話してもいいかもしれないとも思った。そして長く間を置いて、おかしな夢の話を語り始めた。
「実は、これはうまく説明できないかもしれないんだけど、最近、夢にカレンが出てくるんだ。中学の同級生だった高山カレンが」
「あーあの、お前が中2んときに告白した高山か。なんで今更高山が? まさかお前まだ未練残ってたのか?」
 ユウトは少しにやにやしながら僕の話に聞き入っている。
「よく分からない。僕としては、カレンの事は忘れたつもりでいたし、実際、これまでの五年間、カレンばかり思っていたわけじゃない。何なら高校で好きな人もできたわけだ。ただ、ふいに夢に現れた。何の前触れもなく。それは僕の潜在意識がカレンを求めていたからかもしれない。そうなると、僕がカレンに未練を持っていたという事も否定はできない。しかもその夢の奇妙なことは、二日連続で見た夢の内容がつながっていたんだ。僕は最初の夢でのカレンとの会話を覚えていたし、カレンもまた覚えていた。しかも僕らはそれが夢だってことをちゃんと理解していたんだ」
「おかしなもんだな。それでお前らは何を話ししていたんだ」
「本当に他愛もない話。今朝見た夢の場所は、あの中学の横にあった広い公園だった。僕らは夢の中でサッカーもしていた」
「ずいぶん幸せそうじゃないか。カレンっていったら学校で一番かわいいとまで言われてたもんな。そりゃ幸せの妄想にふけっちまうのもありえなくはないかもな。それにしても五年経ってもとは。シンジ、お前はむっつりスケベかよ」
「ああ。恥ずかしいよ。悪いことしているみたいだ」
「まあ、夢はしゃあねんじゃね? 現実で何かしているわけでもねえしな」
「そうなのかな。でも本当に僕は現実のカレンに会っている感覚だったんだ。今まで見たどんな夢よりもリアルな夢だった。肌に触れる感覚や鼓膜に届く声の響きが。気持ち悪いかもしれないけど、本当に幸せな時間だった」
「ああ気持ち悪いな。お前昔からちょっと妄想しがちなところあるよな。自分ではあんまり気づいてないかもしれねーけど」
「うん。それは認めざるを得ないよ。気づかぬうちに妄想にふけってしまうことがあるんだ。でもそれが完全に悪いことだとも思ってないし、何なら自分の長所でもあると思っているんだ」
「長所ね。妄想癖が長所とは俺にはよく分からねえな」
「想像力があるとかかな。僕もあんまり分かっていないけど」
「つくづく曖昧だな」
 ユウトが作ってくれた朝食を摂りながら僕らは話をしていた。ユウトにとっては、やはり単なる僕の妄想話で、あんまり本気には捉えていなかったかもしれないが、僕にとっては、それは大きな問題だった。その夢に比べれば、その他のいかなる問題も副次的なことでしかないと思うほどだった。それから僕らはいつものように現実的な話題についてあれこれ話していたが、僕は夢の事が気になりすぎてあまり会話の内容が入って来なかった。今日見た夢を絶対に忘れまいと、頭の中で何度もあの公園の風景とカレンの面影を思い浮かべていた。
「そろそろ帰る時間だ」
 僕は、微妙な心地の悪い感覚を解決しないまま、腰を上げ、帰宅の準備をする。
「おう、わりぃなこれからバイトがあるから駅まで送ってやれねえ」
「いいよいいよ、またどうせすぐに来るだろうし」
「それもそうだ。また来い。今度は、この辺で一番高い焼き肉屋に行こうぜ。俺らはもうすぐ20歳だからな。少しぐらいは贅沢しとくくらいがちょうどいいだろう」
「楽しみにしているよ」
 僕はドア越しでユウトと別れ、最寄りの駅まで歩いて行った。その間、頭に思い浮かべるのはもちろん今朝の夢の光景だった。ユウトと話している際は、真剣にその夢について振り返れなかったが、一人でいることでようやくあの夢について正面から向き合うことができた。

(やはりあれは、夢に過ぎなかったのか。ということは全ては僕の認識から生まれたものであり、いわば僕の作り出した世界という事になる。しかし、どうだ。僕はあの夢についてどれだけのことを知っているというのだ。何も知らないではないか。僕が作り出した世界のくせになぜその世界についてほとんど知らないということが起こるのだ。カレンは何か秘密を知っているようだった。カレンはあの世界の住民なのではないか。
それに重要なことはあの世界が何であるかというよりも、むしろ今現実の僕が夢の世界の事に頭がいっぱいになっているという事だ。ただの妄想にしゃかりきになるのはやっぱりバカなことだろうか。そう簡単に割り切れることだろうか。なにより僕はあの夢に魅せられている。唯一の登場人物のカレンと音もなく、終わりもないあの世界を心の底から求めている。ひょっとしたら、これは革命的なことではないか。革命は常に危険を孕んでいる。そのような危険の渦中に僕は巻き込まれているのではないか。いや巻き込まれているのではない。僕が危険を冒してまでその先に、その扉の先に進もうとしているのだ。
 僕は歩いている。ただ駅に向かって歩いているだけである。事実としてはただそれだけのことである。しかし、紛れもなく今、僕は革命の最中にいて、何かが変わろうとしている。それはひょっとするとこの世で最も大切なことであるかもしれない。僕にとっては。大事なことは、自身のアイデンティティを揺るがすほどの変革は、どうでもない、記録にも残らない時間に起こる。大いなる変化は認識の中でのみ起こり、外的な変化は単なる幻想にしかすぎない。本質的なことはいつも見えないところにある)

 僕はそんなことを頭で自問自答しながら歩いていた。駅までの時間が永遠のように長く感じられたし、歩いている感覚がほとんどないように思える。周りが見えているようで見えていない。視界に写っているその光景は、ただ視界に写っているのみであり、何の情報も与えてはいなかった。ただ茫然と歩いていた。ふと僕は我に帰る。視覚の情報がようやく意味を持ち始め、僕はそんな妄想にふけるのはやっぱりやめておこうと、無理に現実的な話題を考えるように試す。
 駅の近くのちょっとした駐車場にいた一匹の猫が視界に入った。僕は妄想をかき消そうと、猫に逃げられないように近づき、満面の笑みを浮かべて意味のない言葉を猫に投げかける。僕は、動物が大好きなのだ。この手の事はよくやっていて、猫を見たらつい話しかけたくなるのだった。茶色のまだら模様をしたその猫は、僕が話しかけていることに気づくと、逃げることなく近づいてきた。どうやら、えらく人なれしているようだった。
「よう、元気か。かわいいなお前は」
 僕は一人で猫に話しかける。逃げることもなくこちらを見つめている。僕はその猫にさよならを告げ、少し満足になって後ろを振り返り、駅へと歩もうとした。
「待て。ちょっと待て」
 後ろから何かが僕を呼び止めた。そこまではっきりと言葉が聞き取れたわけではなかったが確実に僕を呼び止めている。呼ばれた方向を振り返ると、やはり先ほどの猫が逃げることなくこちらを見ている。周りを見渡すが、人がいる様子はない。
「わしじゃ。わしがお前に話しているんじゃ」
 僕は茫然とした。その声は確実に猫の方から発せられていた。
「ここであったのも何かの縁だ。ちょっと話そうじゃないか」
 猫はそういって僕を見つめ続けている。
「え?」
 僕は思わず声が漏れた。それ以上に言葉も出ず、僕もただ猫をみつめていた。
「いきなり話しかけたくらいでそんなに驚くな。そもそも勝手にしゃべり始めたのはお前の方じゃろうが。まあまあ、気を楽にせい。わしはそこらの気性の荒い猫とは違って、道理をわきまえているからな。だてに14年は生きとらんよ」
「なんで猫が喋っているんだ」
「そんなことは気にするでない。これまで、たまたまお前が喋る猫と出会わず、今日始めてその喋る猫と出会ったというだけの事じゃ」
「なんてこった」
 僕はあまりにもおかしな現実を否定する暇もなく、とりあえずこの世界には喋る猫がいるのだと割り切り、話を続けた。
「まあといってもわしも全ての人間と会話できるわけじゃないがな。いっつもわしにわけわからん言葉で話しかけてくる人間に喋りかけておるが、返事を返す人間はほぼいないよ。だからわしも人間と話すのは久しぶりでわくわくしとんじゃ。どうせこれから暇じゃろうお前のような人間は、まあ時間を潰していけ。何か質問したいことはないのか。答えてやろう。」
「猫はみなおじさん言葉で喋るのですか?」
 僕はなぜか敬語で猫に話しかけていた。
「それが人生で初めて喋る猫に会った人間が最初に聞きたいことなのか。変わったやつだな。猫にもいろんな喋り方や方言があるんじゃ」
「なるほど。では、あなたには名前があるのでしょうか。名前があるほうが呼びやすいのですが」
「名前というのはないが、ここらの猫の長をやっとるからな。呼びたければ長老とでも呼べ」
「長老」
 僕は質問を続ける。
「長老、なぜ僕は猫と会話ができるのでしょうか? さっき猫と喋れる人間はほとんどいないと言っていましたが、喋れる人間とそうでない人間の違いはなんでしょう?」
「それはじゃな、ある扉が開かれた人間には猫の声が聴くことができるんじゃ」
「ある扉……?」
「そうじゃ。扉じゃ。でもどこにでもある扉じゃないぞ。ほとんどの人間はその扉が存在していることにも気づいとらんよ。お前さんの扉はすでに開いているということじゃな」
「その扉が猫と喋ることができるきっかけになると」
「猫と会話できるというのは、一現象にすぎん。おまけみたいなもんじゃ。問題はそこじゃない。本質は別のところにある。そしてこれからお前の周りには奇妙なことが次々に起こるじゃろう」
「不吉な予言ですね。猫と会話できるような不思議なことがこれからも起こると。それは僕にとって良いことなのでしょうか」
「そんなことは誰にも分からん。場合によっちゃ、危険な選択かもしれんの。ただその扉を開け、先に進んだのは紛れもなくお前さん自身じゃ」
「僕自身が扉を開けた……」
 僕はカレンとの最初の夢を思い出す。僕は扉を開けてカレンと出会った。長老の話とカレンの夢の事と何か関係があるのだろうか。だんだん僕の中の何かがずれ始めるのを確かに感じる。長老と話をしていると周りの音がなくなったような感じがする。僕はこれが現実かどうか時々判断がつかなくなる。
「まあたまには猫と会話するというのもよいじゃろう。人生何事も経験じゃ。どんなことも経験しておいて損はないじゃろう」
「それもそうですね。こんな経験は滅多にできません」
「それよりお前さんは、猫と会話できることをえらくすんなり受け入れているようじゃな。普通は、パニックに陥るなり、逃げ出すなりするもんじゃろ」
「最初は、当然びっくりして、今も信じがたい事実ですけど、結局は受け入れることにしました。『ああ、この世界には人間と会話のできる猫と、猫と会話のできる人間がいるんだ』と。誰もそんな猫や人間がいないと証明できているわけじゃありませんし、いたって不思議ではないでしょう。そもそも私たちは分からないことだらけの世界に生きているんだから。絶対にそんな猫や人間はいないと主張する人がいるなら、それは単なる思い込みだと思うんですよ」
「なるほどな。お前さんがなぜ猫と会話できるのか少し理解できそうじゃ」
「長老は、人間についてもよくご存じなんですか?」
「当り前じゃろ。わしは長老じゃぞ。知らぬことなどないわ」
 長老は、長老と呼ばれることに満足しているようだった。駐車場の奥の車の陰から一匹の猫がこちらを見ている。どうやら長老に用があるようだ。
「おっと、すまんの。客が来とるようじゃ。今日は、このあたりでお開きじゃ。お前さん、くれぐれも自分に絶望するんじゃないぞ。じゃあな」
 長老はそう言うと、奥の猫の方へと向かっていき、車の陰に消えていった。
 僕はもう一度駅の方へと振り返り、帰路に向かう。僕以外にその通りを歩いている者は一人もいなかった。時計を見やるがそれほど時間は経っていないようだ。一体、僕の身に何があったのだろうか。自分でもうまく整理できていない。整理できるはずがない。ただ一つだけ確かなことがあった。僕は今夜再び夢の中でカレンと出会う。

●第五章:片割れの誘惑
 見渡す限り無限に広がる草原。僕の皮膚と緩やかに接触する春の風。暖かくも、寒くもない気候。いかなる場所も平等に照らす優しい陽の光。どことなく感じる心地よさと懐かしさ。僕は、ここが現実の世界でないことをはっきりと理解する。僕はまた夢の世界の中にいる。そしてぼんやりとしていた意識や記憶を順々に整理していく。昨日、僕はユウトの家から帰る途中に喋る猫と出会い、猫と別れてから、自宅へと帰って、自宅で時間を過ごし、何事もなく寝床についた。
「これからお前の周りには奇妙なことが次々に起こるじゃろう」
 昨日、長老に言われた不吉な予言が僕の心を漂い続け、僕も何が起こるのだろうかと一日中どきまぎしていた。結局、昨日は何も起こらずに、僕はカレンとまた夢の中で会う事を確信して、眠りについたのだった。いつか見た天国像のような圧倒的な風景に魅了されていると、ふと後ろから声を掛けられる。
「やあ、また会ったねシンジ君」
 声の主はもちろんカレンだ。後ろを振り返るとカレンは僕のすぐ後ろにいた。こんなに近くまで来ているのに、全く気配に気づくことができなかった。
「また君に会うだろうと思っていたわ」
「僕も。でもここは一体どこだろう。こんな素晴らしい場所には今まで来たことがない」
「私もよ。こんなに素晴らしい場所には来たことがない。きっと私たちにとってここが最も良い場所だったんでしょう。私たちのためにセッティングされた場所よ」
「僕たちのためにセッティングされた場所か。この世界の場所は何によって決まっているんだろう」
「ずばり、君が何を求めているかによるのよ」
「僕によって決まっている? それは僕の潜在意識がこの草原を求めているという事かい?」
「おそらくね。だってこれは君の夢の世界でしょ」
 この夢の世界は、全て僕の潜在的に求める場所を表象しているのだろうか。心地よい自然の音が僕の鼓膜に伝わる。これまでと違い、自然が確かな音を放っている。しかし、総じてそれは全くもって騒音ではない。僕とカレンの会話を邪魔しないように気を遣っていると思うほどだ。相変わらずカレンの声は透き通るように伝わってくる。
「私ね、こうして君と毎日出会って、会話することができて本当にうれしいのよ。日を追うごとに君との距離が近づいている気がするの」
「僕も同じことを思ってるよ。君と会うこの時間がうれしくてたまらない。現実でも君のことで頭がいっぱいだ。まさしくこれは僕の理想郷なのかもしれない」
 僕は少し感情的になってカレンに話しかける。ふと、僕はカレンに聞きたいと思っていたことを思い出す。
「カレン、僕は昨日喋る猫に会ったんだ。あまりに信じられない話なんだけど本当に会ったんだ」
「君が言うなら本当に会ったんでしょうね。どんな猫だったの?」
「仮名は長老といって、茶色のまだら模様をした猫。年は14歳で、猫にしてはお年寄りなんだけど、おじさん言葉で喋ってたんだ。『これこれじゃ』って」
「猫がおじさん言葉で喋るの? 笑える。ずいぶん癖の強い猫と出会ったんだね」
「本当にそう。どうして猫と喋れるのかを聞いたら、『猫と会話ができることなどは予兆に過ぎない、本質は別のところにある』って。そして何となくこのことがカレンと関係しているんじゃないのかなと思ったんだ」
「私は喋る猫とは出会ったことないけれど、おそらく関係しているんだと思う」
「どことなく僕の中の何かが変わり始めている気がするんだ。そしてその変化の中心には君がいると思うんだよ」
「それが君の見立てってわけね。私には何も断言できないけれど、あなたは選択しなければならない。決断すべき時が来ているのだと思う」
「選択? 一体何を選択しなければならないのだろう」
 カレンは少し微笑むだけで、何も答えなかった。
「猫は、扉を開けた人間のみが猫と会話ができると言っていた。扉って、一体何のことだと思う? 実は、僕は夢の世界で君と出会ったとき、ある扉を開いて君と出会ったんだ。その扉と同じことを猫は言ってるんだろうか」
「扉はメタファーよ」
「メタファー?」
 カレンの言うことは、やはり何か匂わせ的な雰囲気を醸しつつも、真意を伝えてはいなかった。しかし僕はだんだんと話が核心に迫っていると感じた。夢の中の少女、喋る猫、扉のメタファー、決断の時。どれもこれも現実味を帯びない抽象的なもののようだ。しかしそれらは確実に僕の中に存在しているものであって、意思決定を促すリソースとなりうる。カレンを前にし、僕は収まらない高揚感と充実感に満たされつつも、どことない恐怖感と緊張感があることを感じざるを得ない。僕は、このまま進み続けて大丈夫なのだろうか?
「ねえ、僕は大丈夫だろうか」
 僕は、つぶやように、心の中の不安をカレンに打ち明けた。
「何が?」
「分からないけど、何となく。君とこうして隣に居続けれることはうれしいのだけれど、もう後戻りできないそんな感じがするんだ」
「それは間違いのない恐怖だと思う。何かを得れば、何かを失うのは仕方のないことかもしれない。でもまだ君は後戻りすることはができるのよ。君が選択しなきゃいけないことはつまりそういう事だと思う」
「扉は開いている?」
「そう。扉はまだ開いている」
 僕は長老やカレンの言う扉や選択の意味がようやく分かってきた。僕は今、狭間にいるんだ。いつまでもここに居続けることはできないんだ。
「人って何によって成長すると思う?」
 カレンが突然、哲学的な問いかけを僕に投げかける。
「それはつまりどういうこと?」
「いやね、私は『成長』っていう抽象的な言葉がいまいち理解できないの。何か成績を残したり、目に見える結果が生じたときに人は成長したというのだろうか、それとも自分は成長したって自分で認めたときに初めて成長したと言えるのだろうか。もっといえば、それはどっちが重要なのかな。例えば、リフティングが全くできなかった私が、練習して10回できるようになった。これはリフティングが10回できたという事実をもって成長というのだろうか、もしくは私が成長したなって実感することによるのだろうか。ねえ君はどう思う?」
「そいつは意外と難しい問いだね。僕はどっちもだと思う。事実がなければ成長したと思うことは難しい、成長したという認識がなければ成長という概念すら生まれないと思う」
「じゃあ君はどっちが重要だと思う?」
「それは認識の方じゃないかな。最終的な成長を完成させるためには、自らの承諾が下りないことにはどうしようもないと思う。けれど、たとえ事実が目に見える形で残っていなかったとしても、自分が成長したと思えば、それは成長したということになるんじゃないかな、よく分かんないけど」
 僕はところどころ言葉に詰まりながら、自信なさげに語る。
「私もそう思う。結局は、自分がどう思うかが大事じゃないかな」
 カレンは納得のいった様子で、微笑んでいる。
「君はどうしてこの質問をしたの?」
「ただ気になっただけよ。選択を前にしたあなたを見ているとふと頭に沸いたの。君は今、何をもって変わろうとしているんだろうって。事実? それとも認識?」
「認識だ」
 カレンがなぜこの質問をしたのかは完全には分からなかった。けれど、カレンの投げかけた命題は、僕にとっても解くべき大切な命題だと思った。要するに、見えるものか見えないものか、僕は何を信念に持って、何によって変化してきたのか。それを振り返ってみると、事実ではなく、認識によって僕は生きていると確信する。信念はどうでもよいところ、伝記に残るはずのない無意味な時間に形成される。最寄りの駅までの電車内での時間、近所を当てもなく散歩している時間、おしっこしている時間……。もっと言えば寝ている間に形成されている。睡眠の時間という生物的にしか意味をなさない、精神活動にとって無意味とも思えるこの時間にこそ、僕の確固たる信念が形成されるのだ。まさしく、無意味な時間が意味のある信念を作り出すんだ。そのことに僕は今まで気づくことができなかった。事実がもたらした象徴的な表のストーリーしか僕たちは知らなかった。大切なのは、認識が作り出した曖昧な裏のストーリーなのだ。現に、僕は夢の中の少女に恋をしているではないか。このことは、僕の現実世界の信念に多大な影響を与えているではないか。
 このように僕にとって大きくなりすぎたこの命題について思考をめぐらせていた。しばらく黙っている僕を、カレンは優しい眼差しで、何も言わずに見守った。風になびく草たちの耳心地のよい音だけが聞こえてくる。
「ああ、なんて気持ちいい風なんだろう」
 僕は、息を漏らすようにつぶやいた。少し笑みを浮かべ、頬はにわかに赤らんでいる。
「カレン、僕はやっぱり君が好きだ。この気持ちは確かなものだよ。それが全てなんだ。始まりであって、終わりなんだ。君とずっと一緒にいたい。この意味が分かるかい? ここで君に二度目の告白をするよ」
 僕は、ある覚悟をもってカレンに真実の告白をする。
「ありがとう。君の言いたいことは全て分かってる。もう何も言わなくて大丈夫。私たちは今ようやく一つになれたもの」
 僕らは泣きながら互いに強く抱きしめ合った。カレンの体の温もりが現実よりもリアルに感じられる。僕らを隔てる境界線は次第に解け始め、一つになっていくように感じられる。どこからか開いたままの扉が勢いよく閉じられる音が聞こえてくる。

●第六章:現実との決別
 あのとてつもなく長い夢を見てから数週間が経った。それから僕は毎日夢の中でカレンと出会った。その夢をもはや疑いようのない真実として僕は受け止めている。しかし、それからの現実の世界は、あの夢を見るまでの世界とは全く異質なものと化してしまった。まるで久しぶりに帰ってきた故郷が、記憶の中の思い出の故郷とは全く違って見えるようだ。眼前に映る光景は、さほど変わっていないが、その故郷に対する捉え方が変化してしまったのだ。
そして長老の予言通り、世界は段々と奇妙な様相を呈し始めた。初めの方は些細な変化に過ぎなかった。なんとなく空を見上げると、クジラの形をした雲を見つけたり、道を歩いていると突然後ろから自分の名前を呼ばれたような気がして振り返ると、そこには誰もいなかったり。ただの勘違いと言っても違和感のないような違いしか起こらなかった。
 しかし一週間が経過した頃になると、もはやその奇妙さは露骨に現れ始めた。まずは僕は動物と会話ができるようになった。それまで長老と話した以来、猫の声は聴くことができなかった。実際に、猫と会話できるかどうか何度か試したこともあったが、聞き取ることはできなかった。しかし、ある日突然とその声が聞こえるようになってしまった。猫はおろか、あらゆる動物の声を聞くことができた。最初に動物の声を聞いたのは、愛犬だった。僕は、立ち上がれば人間と同じ背丈になるくらい大きな犬を一匹実家で飼っている。名前はペトラと言う。いつものように朝起きて一番に抱きついておはようと言った。するとペトラは明らかに嫌そうな顔をして、
「まだ眠いからあんま近づいて来んといて」
と言った。おそらく僕は数秒止まって、勘違いだろうと思おうとしたのだが、それはやっぱり無理だった。
「ペトラ、お前が今言ったのか?」
「そうよ」
「ペトラ!」
 僕はうれしさのあまり舞い上がってしまった。初めは驚きこそしたが、愛犬と喋ることができたらという一つのあり得ない夢が叶ってしまったのだ。
 それから、外に出ればあらゆる音が混ざり合い、とてもうるさく感じられた。絶対音感の人が、音が聞こえすぎて気分を損ねてしまうということを聞いたことがあるが、こんな感覚なのかと思った。あらゆる音が鮮明に聞こえすぎてしまい、実際に僕も何度か気分を害した。道端にいる猫に何度か、話しかけてもみた。全部の猫と会話ができるわけではないのだけれど、半分くらいの猫とは会話ができた。世の中には、実にいろんな猫がいるんだと改めて思った。気性の荒い猫、反対におとなしく内気な猫(野良猫には少ないのだが)、また喋り方もいろんな種類があった。僕は猫と会話することを一つの楽しみとしていた。
 それから僕は、幽霊を見ることもできた。それを幽霊と呼ぶのがふさわしいのか分からないが、この世のものではない何かだ。人間の姿をしている(私たちが一般的に幽霊と聞いてイメージするような)ものや、反対に不気味な塊のような何かも町中でよく見かける。真夜中だけじゃなくて、昼間からそれらはずっと存在している。そして当然のことながらその姿は僕にしか見えていない。
 そんな奇妙な世界の中で生きていくうちに、僕はおそろしく人と関わることが少なくなっていた。元々、友達が多いわけではなかったが、今となってはほとんど友達と遊ぶことがなくなってしまったし、大学には必要最低限行くのみであり、ほとんどは家で過ごした。関わるのは、家族くらいだ。ユウトとは、連絡は定期的にとっていた。僕は彼に全てを打ち明ける勇気はなかった。これまでの事を、順序正しく適切に説明できる自信がなかった。そもそも全てを打ち明けて、唯一の友であるユウトを失うのが怖かった。
 ある時、ユウトから家に来ないかという誘いを受けた。断る義理もなかったので、僕はその誘いを受け、約一か月ぶりにユウトと会う事になった。ユウトの家に着くなり、ユウトは僕の顔を見て驚いたように言った。
「お前どうした? なんか顔色悪いぞ」
 自覚はなかったのだが、その時の僕はかなりひどい顔をしていた。
「いやいや何でもないよ」
 とりあえず家に上がり、僕らは向かい合って座った。テーブルには前もって準備されたお菓子とジュースが置いてあった。
「とにかく、お前がちゃんと来てくれてよかった」
「何か話があるのかい?」
 ユウトはどうやら何か話があって僕を呼び出したようだった。
「ああ。お前今何してるんだ。何か危ないことにでもなってるんじゃないか。お前とLINEで連絡は取っていたが、お前が最近何してるのか全く見当がつかんくてな。ちょっと心配していたんだ。SNSには全く投稿しないしな。それでちゃんと生存確認したかったんだよ」
 僕はSNSのアカウントを持っており、旅行などに行った際に、たまに投稿していた(投稿頻度は多くない)のだが、最近はそのSNSも消してしまい、全く見ていなかった。
「危険なことってたとえばどんな?」
「怪しい宗教にはまってたりしてねえか? お前の事だからな、十分にありえる話だ」
「そんなことはしていないよ」
「本当か。じゃあ一体何してるんだ。大学もそんなに忙しいわけじゃないだろう。俺には話してくれないか」
 正直、ユウトがここまで僕の事を心配してくれているとは思わなかった。ユウトの思いやりに感銘を受け、僕の話は当然受け入れられないだろうと思いつつも、ユウトには話さないといけないという気がしてきた。
「実は、僕は夢の中の人に恋をしているんだ」
「は? まさかこないだ言っていた高山カレンか?」
「うん。僕はあれから毎日彼女の夢を見るんだ」
 僕は簡素に事実だけを述べた。ユウトの顔がみるみる険しくなっていく。
「毎日同じ人の夢を見るなんてことがあるのか。しかも夢の中の人に恋するなんて」
「それだけじゃない。僕は猫や犬やあらゆる動物とも会話できるようになってしまったし、幽霊も見るし、他にもいろんな奇妙なことが起こっている」
「待て待て、何を言っているんだお前は。落ち着け、お前はどうかしちまっている」
 当然の反応だろう。僕の言っていることは、頭のおかしくなってしまった人のそれだ。しかし、これは紛れもない事実なんだ。いや、頭がおかしくなったというのは的を得ているのかもしれない。
「こないだここに来た日以来、僕は完全に変わってしまったんだ。これが今の本当の僕なんだ。僕はもう覚悟しているんだ」
 僕はほとんど泣きそうに、唇を噛みしめながら叫んだ。
「一体、何を覚悟したっていうんだ!」
 ユウトも負けじと強い口調ではっきりと言い放った。
「この現実と別れを告げることさ! 僕はこれから夢の中で生きていくんだ。カレンと一生一緒に生きていくと決めたんだ。決断したんだよ。もう後戻りはできないんだ」
「お前が言ってることが本当に分からんぞ。やっぱり頭がどうかしちまったんじゃないか。一人でいすぎたんだ。妄想が膨らみすぎて、現実が見えなくなってるんだ」
「あるいはそうなのかもしれないよ。けれどそれでもいいんだ。僕はユウトの言うようないわゆる現実はたぶん見えていない。けれど決して不幸なんかじゃない。みんなには見えていないものが見えているんだよ。僕は理想郷を見つけたんだ!」
 僕はほとんど泣いていた。ところどころ言葉に詰まりながらも、心の中に浮かんだ言葉をつなぎ合わせて、何とかユウトに伝えるべきことを探した。何とか彼に僕の全てを分かってもらいたいと願った。けれどそれは不可能だった。僕の全てを知り尽くしているのは、カレンだけだった。
それから僕らは分かり合えることができなかった。僕は子供のように泣き崩れてしまった。それを見たユウトは何とか僕を落ち着かせようと声をかけ、完全に頭がおかしくなったと思い、何とか現実に引き戻そうと尽力した。しかしその手はもはや届くことはない。

片割れの誘惑

執筆の狙い

作者 シンジ みらい
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前々から物語を書きたいと思っていて、初めて真剣に書いてみた作品です。
テーマは「認識世界」で、結局、物事は、起こった事実ではなく、その事実に対してどう思ったのか、どう意味づけするのかが大切ではないかということを伝えたかったです。主人公が、夢の中の少女をきっかけに現実の世界から認識の世界へと移っていく様を書いたつもりです。
表現や構成、細部のデティールなど稚拙なところだらけだと思いますが、何かコメント頂ければ嬉しく思います。

コメント

椎名
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読みましたが、普通に楽しめました。ただ鍛錬場ということでプロの作品と比較すると、物語がもう少し現実的でもいいのかなと思います。また夢と現実が交互に出てきますが、もう少しリアリティを出すといいかなと思いました。

シンジ みらい
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椎名様

コメント頂きありがとうございます。最後まで読んでいただき、楽しめたと言っていただきうれしく思います。
ご指摘の通り、書きながら、リアリティを持たせるというのがすごく難しく感じました。フィクションとは言えども、いかにして違和感なく作品の世界に持っていくか、作り物感を出させないかをもっと鍛錬していきたいと思います。

つんつん
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こんばんは。真剣に書いたことは伝わりました。興味深いテーマでもありました。僕の理想郷とは何だったのでしょう。現実逃避のようにも感じてしまいました。それもありかも知れませんがそれなら逃避に偏って行く思考を描かなければならないと思われます。テーマを活かす技術を獲得すべくどんどん書いていってほしい方だと思いました。生意気を言いました。ごめんんさい。

シンジ みらい
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つんつん様


コメントありがとうございます。いえいえ、ご指摘の通りだと思います。
理想郷は、永遠で幸福感に満たされた世界。やはりこれは逃避なのかもしれません。
主人公の曖昧な心情の変化を取り扱っているのに、短すぎるし、思考の移り変わりの描写が少なすぎます。
自分としてもテーマは一貫して持てたのですが、それを補強する表現、構成、演出などの技術が全てにおいて足りないことを痛感しました。できる限りたくさん書いていって、自分の作品をもっと活かせられるよう頑張っていきたいと思います。

大丘 忍
ntoska210132.oska.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp

 人は睡眠中に夢を見ております。その夢は目覚める前の数秒間に見た夢を覚えているのです。
 従って、その夢は断片的であり、この小説の様に理路整然としたものではありません。
 ではなぜ夢の事として描くのか。夢の事にすればなんでもありで書きやすい。ただそれだけの理由ですね。だから、夢を持ち出せば、「夢オチ」として評価されないのです。
 安易に、夢に頼ることなく、現実の事として表現することを心掛けたらいかがかと思います。

シンジ みらい
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大丘 忍様


コメントありがとうございます。
夢という設定が安易に思われてしまうのは、その通りだと思います。
現実の表現を心がけていくこともそうですし、非現実的な内容もリアリティをもって、違和感なく伝えていけたらと思います。

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