太陽の宣言
私は淡い意識とも言えぬ意識のなかで、甘い快楽の海に浸っていた。その海と私の体の境は本当に存在しているのか曖昧に、腕を動かせばそのぬるい水を感じているようで、私の腕の動きは、その海のゆったりとした波の動きと少しも違わなかった。私の目は目の前を見ているようで、ずっと遠くを見ているようで、ずっと近くを見ているようでもあった。私は右を向いているのか、左を向いているのか、仰向けなのか、俯せなのか、この世に天地など果たして存在するのか。この海には私ではない者も存在しているのを感じる。その誰かに腕をのばして、その体に触れてみると、私は以前からその人自身であったような気がする。その誰かの体は私の体であり、私の体は誰かの体であった。私は男だったはずである。しかし今の私の体には二つ乳房が付いている。その二つの乳房を自らの掌でつつんでみれば、やはり私は女であったような気がする。しかしすぐにその乳房は波の揺らめきに溶けてゆき、私はやはり誰かの乳房を触っていたような気がする。触った私と触られた私。それは同一であるはずなのに、別々の二人がいるようであり、そのどちらが私であるのかわからない。ここは海でありながら、緩やかな風が吹いていて、私はその風に乗ってどこへでもゆけるが、どこまで行っても私は私であり、私は私ではなかった。私を運んだ風は、いつしか波の揺蕩いに変ってしまい、また私を甘い海の意識のなかへ呑込んだ。
このような世界を、誰が望んだのだろう。天地初めて開けし以来の朧気な記憶。その記憶は私の身体のなかにあるようで、私をつつむ海そのものが記憶の集合であるような気もする。――記憶の水が私に侵入して来た。それは私の記憶だったのだろうか。私が見た情景だったような気もするし、誰かの見た情景だった気もする。いや、私は記憶そのものだったか。
――天地開闢の時、二柱の神によって、一つの島が産れた。その島にはたくさんの人々や動物や植物が、活き々々と暮していた。海に棲む微生物や魚や大型の水棲生物が、勝手気ままに他者を食らい、勝手気ままに他者に食われていた。島の上でも、男女は勝手きままに契りを交し、子供を産み育てた。動物も変らなかった。そして互いに食べたり食べられたりしていた。そのうちに人々がつけた知恵によって、その他の動物や植物を退け始めた。彼らより優位に立った人々は、島の一等高いところに住むようになった。平和な日々。死から限りなく遠ざかった生活。人々は、土の匂いも潮の香も忘れようとしている。私はいったいどこから来て、どこへ向うべきなのか。自らを利したその知恵を持て余すようになった人々は、自傷的な論理の世界へ堕落して行った。……私とはいったいなんなのだろう。私が生れた理由とはなんなのだろう。私の幸せとは。他人とは。違うとは。……彼らの脳をかこむ円形の檻のなかで、思考はぐるぐると巡るだけであった。一向に出口の見えない思考の円環。その遠心力に耐えられなかったある者は床に臥し、ある者は、私たちは苦しんでなどいない、私たちはこのままでいいのだ、と赦しを与えてくれる新たな神を創った。それでも思考の反復は止らなかった。私とはいったい……そう呟いたある男が、手を広げながら俄に声をあげた。
「私が私であることに苦しむのなら、それは私が他者ではないという苦しみである。もし私があなたであれば、私はこんなにも日夜頭を悩ませる必要はなかったであろう。もしあたなが私であったならば、あなたは私と、最良の友人か最愛の妻となれたであろう。私たちは神より生れたのではない。まして人々の邪なる掌で創られた、泥人形の神から生れたのではない。私たちは元より海から生れたのである。あの雄大な一つの海から。私はあそこへ帰りたい。私たちは、他人と、動物と、植物と、風と、海と、もう一度海の胎内に入り、そこで一つの胎児に還るべきである。それこそ、まったく差別のできない世界。私があなたであり、あなたが私であり、私は何ものでもなかった世界。それのみが、私を私でなくし。私が私を悩むことのない自由を手に入れられる、唯一の救済の選択ではないか。私たちは、自らで選ばなくてはならない。それが今でない理由が果たしてどこにあるのか。――さあ! 私たちの原初へ、共に還ろうではないか!」
心労に疲弊した聴衆は顔を上げた。ついに私を救う者が現れた、と喝采を挙げた。病んだ者は目の色を変えた。人造の神は打壊された。人々はこの丘を捨てる決心をした。着飾った衣装は脱ぎ捨てられた。金の髪飾りも、宝石の指輪も、毛皮の羽織も、床に投捨てた。投捨てたものが床に当る音。それがそこここで聞える。夫婦の誓いの指輪。父の形見の腕時計。幼い頃に母に買ってもらった小鳥の硝子細工。人々の愛着という重荷が砕け散る音。その高価な音楽が響き渡る。家々から裸の男女が現れた。肌色の群が、男に従って丘を下る。海岸線に向って歩く。それは肉の行進であった。男が右腕を振上げると、人々は躊躇することなく海へ雪崩れ込む。老人や若者や子供や、男や女の肉の塊が沖を目指し、しばらく水面でもぞもぞと蠢いていたが、すぐに動かなくなった。海の上に肉が浮かぶ。幾百幾千の肉は、溶けながら広がった。誰かの頭髪。誰かの肋骨。誰かの片目がこちらを一瞥し、ぐるりと裏返って波に沈んだ。海は肉のスープだった。それは今まで人々が暮していた島を、動物を、植物を、大きな欠伸のなかに呑込もうとしている。空を飛ぶ鵄は、飛沫の腕で鷲掴み、スープのなかに引き摺り込んだ。肉のスープは、際限のない風船のように膨張し、上空を逃げ惑う風も、巨大な入道雲も、果ては、激しく燃える太陽まで、その太った腹のなかへ呑込んでしまった。
――記憶はここで途切れた。私は果たしてこの先導者だったのだろうか。いや、そうであった気もするし、そうでなかった気もする。そもそも私は人間だったのだろうか。私は山を駈ける鹿だった気もするし、人に飼われていた馬だった気もする。或は泰然たる植物であったのかもしれない。気弱な昆虫だったのかもしれない。もしや私こそ、海そのものだったのかもしれない。
しかし私には、多くの同胞たちの苦しみが、今我がことのようにわかる。私が誰かでない苦しみ。誰かが私でない苦しみ。その境目はいつも私を苦しめた。私の感覚を、あなたに味わわせられたなら。あなたの感覚を、私が味わえたなら。私たちは、共感し合うふりなどしなくてもよかったのに。本当は共感などしていないことを、誤魔化さずともよかったのに。私の目から涙が流れた。それは何人分の悲しみなのか。何人分の痛みなのか。涙はすぐに海の水となって、私の身体を、あたたかな悲しみでつつんだ。励ましよりも、共感よりも、孤独な悲しみによって私は慰められた。
――私は随分永い間、涙を流していたようである。鼻の奥が熱い。すぐに海に溶けてしまってわからなかった――誰もわからなかったであろう――私はずっと泣いていた気がする。そもそもここに時というものがあるのだろうか。短くはなかった気がするが、私は肉体を持たないので確かめる術がない。辺りはやはりぬるい水を湛えた海であった。私は本当に泣いていたのだろうか。目に入った海の水を、涙と勘違いしていただけではないのか。私には、他者に涙できる感受性が本当にあっただろうか。私はそれを確かめなければならない。私と同じように意識のある人を探しに出た。私は飛行機のように、潜水艦のように、自在に海を進み、時には潜ったり昇ったりした。どこまで行っても同じ風景。どこまでも私で、どこまでも私ではない。かなり遠くまで泳いだはずなのに、私は未だ出発地点で藻掻いている。私の感情を理解してくれる人はどこにいるのだ。すべては淡い意識の水。それは柔く私をつつんでくれるかわりに、私を強く撲ってくれることもない。私の拳を何かにぶつけても、柔い水のなかに、拳は溶けてゆくだけである。――私はいったいなんなのだ。私はこの水の所有者だったものの意識を感じるのに、私の意識は誰も共有してくれない。あれだけ多くの悲しみ、あれだけ多くの苦しみ、葛藤のなかの苛立ち、自暴自棄になりきれない臆病、それらあらゆる人々の感情、あらゆる人々の悲哀を、私は感じることができるのに、私の感情は誰も感じてくれない。私はいったい何のために泣いたのか。あの共感、あの連帯は、私のなかにしか存在しなかった。とすれば、ああ、私は私のために泣いたのか。――そんな愚かしいことを、そんな孤独な行為を、私はこんな甘ったるい不自由のなかで、それを享受し、満足し、ただ自分自身のために、私は他人を思い、泣いていたのか。そんな恐ろしいことを、私は望んでなどいない。私の感情、私の肉体、私の行為は、すべて他人に捧げられるためのものである。そうでなければ私が存在する意味などない。一方的な共感の強制。一方的な悲しみの強制。それが歓喜の共感だったならば、どんなによかったか。この海は、甘くもあたたかくもない。ただただ悲しみの棘で、私の意識を突刺して来るだけである。こんなことは許されない。こんな不公平を私は許さない。私に侵入して来た感情を、私に侵入して来た悲哀を、すべての持主に返さなければならない。私の胸に刺さった悲しみの棘で、もう一度彼らの意識を突刺さなければならない。
その思考の独白の後、私は、両腕でそのぬるい水面を激しく敲いた。
――丘の上に、男が裸で寝そべっている。ぼやけた視界に映る、静かに打寄せる青い波は、沖にむかうにつれて色を濃くしている。空はからっぽだ。靄のような白い雲が、海からの強風と戯れている。眩しい太陽は、その様子を悠々と見下ろしながら、何もない空を散歩している。その激しい日光に惹かれるように、緑の芽が土から顔を出し、競い合いながら背を伸ばして、太陽に向って両手を広げた。
男が立上がるために体重を支えた腕には、じんじんとした痛みが残っている。その腕に、にわかに突風がぶつかって逃げて行った。男は両腕を眺めた。
「ああ! 私は風ではないのだなあ」
男はその場に寝転び、何も身に着けない体に、土埃や、泥や、草の汁が付いた。
「ああ! 私は大地ではないのだなあ。植物ではないのだなあ」
丘の下、海岸から何かが登って来る。あれは人だ! 男は感激して立上がり、丘を駈下りた。何度も転んで、その度に体を大地に打付けた。男はかまわず駈けた。屈強な体躯をした男と、豊満な乳房と、柔い脂肪の肉を持つ女が丘を登る。男は大喜びで屈強な男に抱き付いた。その厚い胸板は何ものをもはね除けるようで、何ものをも受容れるようであった。男は胸板から下半身に向って、ゆっくりと舐めるように跪いた。そして男の目の前には、立派な男根があった。男はそれに頬擦りをした。すると、男根は力強く、太陽に向って屹立したのである。
「ああ! 私は男だったのだ。ああ! 私の失った憧れは、ここにあったのだ」
男は屹立した男根に、接吻をするように頬擦りをして、次は女の体に飛付いた。その柔い乳房に顔をうずめた。その肉に、その脂肪に、いくらでもこの指は、この腕は、沈み込んでゆきそうであった。その柔らかさは、男の隆々たる筋骨をつつみ込むかわりに、女のか細い背骨にまで男の腕が食込み、そのままへし折られることも厭わない健気さがあった。
その時、男の男根が屹立し始めたのである。
「ああ……ああ! 私は女ではないのだなあ。私は、憧れを失ってなどいなかったのだなあ」
目を凝らすと、丘の下から、大勢の裸の人々が登って来るではないか。きっとそのうちに、他の動物も植物も、この丘に集るに違いない。男は太陽に向って叫んだ。
「ああ! 太陽よ! 太陽よ! もしもまた人々が、一個の差別のできぬものになりたいと願うのならば、私こそを真っ先に、その灼熱の両腕で抱締め賜え。そうでないのならば、お前の熱で私の肌は焼け焦げ、毛穴から汗が流れ、私はそれを拭いながら、この広大な大地を耕すだろう。私の肉体は、お前にとってはつまらぬものだ。――よかろう! この肉体をお前に捧げよう。しかしお前は、その激しい日光で、私の身体を焦がし続けなければならない。私の肉体は、お前を浴びながら生きるのだ。私の肌、私の汗、私の息遣い、お前がお前であることを、私のこの肉体が証明してみせよう。私は、お前を道連れにする!」
風が草木を揺らした。波は穏やかに揺れている。鵄が空を舞う。太陽は、自らのために輝きながら、からっぽの空を、ただ悠々と散歩している。
執筆の狙い
何ものも差別できない世界から、「私」が生まれる話です。
原稿用紙13枚程度。