作家でごはん!鍛練場
森山威則

太陽の宣言

 私は淡い意識とも言えぬ意識のなかで、甘い快楽の海に浸っていた。その海と私の体の境は本当に存在しているのか曖昧に、腕を動かせばそのぬるい水を感じているようで、私の腕の動きは、その海のゆったりとした波の動きと少しも違わなかった。私の目は目の前を見ているようで、ずっと遠くを見ているようで、ずっと近くを見ているようでもあった。私は右を向いているのか、左を向いているのか、仰向けなのか、俯せなのか、この世に天地など果たして存在するのか。この海には私ではない者も存在しているのを感じる。その誰かに腕をのばして、その体に触れてみると、私は以前からその人自身であったような気がする。その誰かの体は私の体であり、私の体は誰かの体であった。私は男だったはずである。しかし今の私の体には二つ乳房が付いている。その二つの乳房を自らの掌でつつんでみれば、やはり私は女であったような気がする。しかしすぐにその乳房は波の揺らめきに溶けてゆき、私はやはり誰かの乳房を触っていたような気がする。触った私と触られた私。それは同一であるはずなのに、別々の二人がいるようであり、そのどちらが私であるのかわからない。ここは海でありながら、緩やかな風が吹いていて、私はその風に乗ってどこへでもゆけるが、どこまで行っても私は私であり、私は私ではなかった。私を運んだ風は、いつしか波の揺蕩いに変ってしまい、また私を甘い海の意識のなかへ呑込んだ。
 このような世界を、誰が望んだのだろう。天地初めて開けし以来の朧気な記憶。その記憶は私の身体のなかにあるようで、私をつつむ海そのものが記憶の集合であるような気もする。――記憶の水が私に侵入して来た。それは私の記憶だったのだろうか。私が見た情景だったような気もするし、誰かの見た情景だった気もする。いや、私は記憶そのものだったか。
 ――天地開闢の時、二柱の神によって、一つの島が産れた。その島にはたくさんの人々や動物や植物が、活き々々と暮していた。海に棲む微生物や魚や大型の水棲生物が、勝手気ままに他者を食らい、勝手気ままに他者に食われていた。島の上でも、男女は勝手きままに契りを交し、子供を産み育てた。動物も変らなかった。そして互いに食べたり食べられたりしていた。そのうちに人々がつけた知恵によって、その他の動物や植物を退け始めた。彼らより優位に立った人々は、島の一等高いところに住むようになった。平和な日々。死から限りなく遠ざかった生活。人々は、土の匂いも潮の香も忘れようとしている。私はいったいどこから来て、どこへ向うべきなのか。自らを利したその知恵を持て余すようになった人々は、自傷的な論理の世界へ堕落して行った。……私とはいったいなんなのだろう。私が生れた理由とはなんなのだろう。私の幸せとは。他人とは。違うとは。……彼らの脳をかこむ円形の檻のなかで、思考はぐるぐると巡るだけであった。一向に出口の見えない思考の円環。その遠心力に耐えられなかったある者は床に臥し、ある者は、私たちは苦しんでなどいない、私たちはこのままでいいのだ、と赦しを与えてくれる新たな神を創った。それでも思考の反復は止らなかった。私とはいったい……そう呟いたある男が、手を広げながら俄に声をあげた。
「私が私であることに苦しむのなら、それは私が他者ではないという苦しみである。もし私があなたであれば、私はこんなにも日夜頭を悩ませる必要はなかったであろう。もしあたなが私であったならば、あなたは私と、最良の友人か最愛の妻となれたであろう。私たちは神より生れたのではない。まして人々の邪なる掌で創られた、泥人形の神から生れたのではない。私たちは元より海から生れたのである。あの雄大な一つの海から。私はあそこへ帰りたい。私たちは、他人と、動物と、植物と、風と、海と、もう一度海の胎内に入り、そこで一つの胎児に還るべきである。それこそ、まったく差別のできない世界。私があなたであり、あなたが私であり、私は何ものでもなかった世界。それのみが、私を私でなくし。私が私を悩むことのない自由を手に入れられる、唯一の救済の選択ではないか。私たちは、自らで選ばなくてはならない。それが今でない理由が果たしてどこにあるのか。――さあ! 私たちの原初へ、共に還ろうではないか!」
 心労に疲弊した聴衆は顔を上げた。ついに私を救う者が現れた、と喝采を挙げた。病んだ者は目の色を変えた。人造の神は打壊された。人々はこの丘を捨てる決心をした。着飾った衣装は脱ぎ捨てられた。金の髪飾りも、宝石の指輪も、毛皮の羽織も、床に投捨てた。投捨てたものが床に当る音。それがそこここで聞える。夫婦の誓いの指輪。父の形見の腕時計。幼い頃に母に買ってもらった小鳥の硝子細工。人々の愛着という重荷が砕け散る音。その高価な音楽が響き渡る。家々から裸の男女が現れた。肌色の群が、男に従って丘を下る。海岸線に向って歩く。それは肉の行進であった。男が右腕を振上げると、人々は躊躇することなく海へ雪崩れ込む。老人や若者や子供や、男や女の肉の塊が沖を目指し、しばらく水面でもぞもぞと蠢いていたが、すぐに動かなくなった。海の上に肉が浮かぶ。幾百幾千の肉は、溶けながら広がった。誰かの頭髪。誰かの肋骨。誰かの片目がこちらを一瞥し、ぐるりと裏返って波に沈んだ。海は肉のスープだった。それは今まで人々が暮していた島を、動物を、植物を、大きな欠伸のなかに呑込もうとしている。空を飛ぶ鵄は、飛沫の腕で鷲掴み、スープのなかに引き摺り込んだ。肉のスープは、際限のない風船のように膨張し、上空を逃げ惑う風も、巨大な入道雲も、果ては、激しく燃える太陽まで、その太った腹のなかへ呑込んでしまった。
 ――記憶はここで途切れた。私は果たしてこの先導者だったのだろうか。いや、そうであった気もするし、そうでなかった気もする。そもそも私は人間だったのだろうか。私は山を駈ける鹿だった気もするし、人に飼われていた馬だった気もする。或は泰然たる植物であったのかもしれない。気弱な昆虫だったのかもしれない。もしや私こそ、海そのものだったのかもしれない。
 しかし私には、多くの同胞たちの苦しみが、今我がことのようにわかる。私が誰かでない苦しみ。誰かが私でない苦しみ。その境目はいつも私を苦しめた。私の感覚を、あなたに味わわせられたなら。あなたの感覚を、私が味わえたなら。私たちは、共感し合うふりなどしなくてもよかったのに。本当は共感などしていないことを、誤魔化さずともよかったのに。私の目から涙が流れた。それは何人分の悲しみなのか。何人分の痛みなのか。涙はすぐに海の水となって、私の身体を、あたたかな悲しみでつつんだ。励ましよりも、共感よりも、孤独な悲しみによって私は慰められた。

 ――私は随分永い間、涙を流していたようである。鼻の奥が熱い。すぐに海に溶けてしまってわからなかった――誰もわからなかったであろう――私はずっと泣いていた気がする。そもそもここに時というものがあるのだろうか。短くはなかった気がするが、私は肉体を持たないので確かめる術がない。辺りはやはりぬるい水を湛えた海であった。私は本当に泣いていたのだろうか。目に入った海の水を、涙と勘違いしていただけではないのか。私には、他者に涙できる感受性が本当にあっただろうか。私はそれを確かめなければならない。私と同じように意識のある人を探しに出た。私は飛行機のように、潜水艦のように、自在に海を進み、時には潜ったり昇ったりした。どこまで行っても同じ風景。どこまでも私で、どこまでも私ではない。かなり遠くまで泳いだはずなのに、私は未だ出発地点で藻掻いている。私の感情を理解してくれる人はどこにいるのだ。すべては淡い意識の水。それは柔く私をつつんでくれるかわりに、私を強く撲ってくれることもない。私の拳を何かにぶつけても、柔い水のなかに、拳は溶けてゆくだけである。――私はいったいなんなのだ。私はこの水の所有者だったものの意識を感じるのに、私の意識は誰も共有してくれない。あれだけ多くの悲しみ、あれだけ多くの苦しみ、葛藤のなかの苛立ち、自暴自棄になりきれない臆病、それらあらゆる人々の感情、あらゆる人々の悲哀を、私は感じることができるのに、私の感情は誰も感じてくれない。私はいったい何のために泣いたのか。あの共感、あの連帯は、私のなかにしか存在しなかった。とすれば、ああ、私は私のために泣いたのか。――そんな愚かしいことを、そんな孤独な行為を、私はこんな甘ったるい不自由のなかで、それを享受し、満足し、ただ自分自身のために、私は他人を思い、泣いていたのか。そんな恐ろしいことを、私は望んでなどいない。私の感情、私の肉体、私の行為は、すべて他人に捧げられるためのものである。そうでなければ私が存在する意味などない。一方的な共感の強制。一方的な悲しみの強制。それが歓喜の共感だったならば、どんなによかったか。この海は、甘くもあたたかくもない。ただただ悲しみの棘で、私の意識を突刺して来るだけである。こんなことは許されない。こんな不公平を私は許さない。私に侵入して来た感情を、私に侵入して来た悲哀を、すべての持主に返さなければならない。私の胸に刺さった悲しみの棘で、もう一度彼らの意識を突刺さなければならない。
 その思考の独白の後、私は、両腕でそのぬるい水面を激しく敲いた。


 ――丘の上に、男が裸で寝そべっている。ぼやけた視界に映る、静かに打寄せる青い波は、沖にむかうにつれて色を濃くしている。空はからっぽだ。靄のような白い雲が、海からの強風と戯れている。眩しい太陽は、その様子を悠々と見下ろしながら、何もない空を散歩している。その激しい日光に惹かれるように、緑の芽が土から顔を出し、競い合いながら背を伸ばして、太陽に向って両手を広げた。
 男が立上がるために体重を支えた腕には、じんじんとした痛みが残っている。その腕に、にわかに突風がぶつかって逃げて行った。男は両腕を眺めた。
「ああ! 私は風ではないのだなあ」
 男はその場に寝転び、何も身に着けない体に、土埃や、泥や、草の汁が付いた。
「ああ! 私は大地ではないのだなあ。植物ではないのだなあ」
 丘の下、海岸から何かが登って来る。あれは人だ! 男は感激して立上がり、丘を駈下りた。何度も転んで、その度に体を大地に打付けた。男はかまわず駈けた。屈強な体躯をした男と、豊満な乳房と、柔い脂肪の肉を持つ女が丘を登る。男は大喜びで屈強な男に抱き付いた。その厚い胸板は何ものをもはね除けるようで、何ものをも受容れるようであった。男は胸板から下半身に向って、ゆっくりと舐めるように跪いた。そして男の目の前には、立派な男根があった。男はそれに頬擦りをした。すると、男根は力強く、太陽に向って屹立したのである。
「ああ! 私は男だったのだ。ああ! 私の失った憧れは、ここにあったのだ」
 男は屹立した男根に、接吻をするように頬擦りをして、次は女の体に飛付いた。その柔い乳房に顔をうずめた。その肉に、その脂肪に、いくらでもこの指は、この腕は、沈み込んでゆきそうであった。その柔らかさは、男の隆々たる筋骨をつつみ込むかわりに、女のか細い背骨にまで男の腕が食込み、そのままへし折られることも厭わない健気さがあった。
 その時、男の男根が屹立し始めたのである。
「ああ……ああ! 私は女ではないのだなあ。私は、憧れを失ってなどいなかったのだなあ」
 目を凝らすと、丘の下から、大勢の裸の人々が登って来るではないか。きっとそのうちに、他の動物も植物も、この丘に集るに違いない。男は太陽に向って叫んだ。
「ああ! 太陽よ! 太陽よ! もしもまた人々が、一個の差別のできぬものになりたいと願うのならば、私こそを真っ先に、その灼熱の両腕で抱締め賜え。そうでないのならば、お前の熱で私の肌は焼け焦げ、毛穴から汗が流れ、私はそれを拭いながら、この広大な大地を耕すだろう。私の肉体は、お前にとってはつまらぬものだ。――よかろう! この肉体をお前に捧げよう。しかしお前は、その激しい日光で、私の身体を焦がし続けなければならない。私の肉体は、お前を浴びながら生きるのだ。私の肌、私の汗、私の息遣い、お前がお前であることを、私のこの肉体が証明してみせよう。私は、お前を道連れにする!」
 風が草木を揺らした。波は穏やかに揺れている。鵄が空を舞う。太陽は、自らのために輝きながら、からっぽの空を、ただ悠々と散歩している。

太陽の宣言

執筆の狙い

作者 森山威則
gate252.hit-5.net

何ものも差別できない世界から、「私」が生まれる話です。
原稿用紙13枚程度。

コメント

もんじゃ
KD111239165211.au-net.ne.jp

 森山威則さま

 拝読しました。
 素晴らしい。
 大変よくわかります。
 いろんな人がいろんなことを言うかもしれないけど僕はこれを全肯定します。だなんて僕がいうとこれは一層叩かれるかもしれないし、あるいは無視されるかもしれないけれど全世界を敵にまわしても僕はこれを激しく愛します。といえる類の作品であるなとつくづく感じました。

 この存在、思惟する主観、定位したくてしきれない、我と彼と他の区別のつかない混沌のなかで煩悶する絶対的な主体――それが見いだしたものがアレであったというあたりが予想を超えていてしかししっくりきて拍手喝采したい気持ちがいたしました。

 村上春樹の、あれはなんの作品だったかな、例によってガールフレンドがベッドの中でのたまうのでありました、これがあなたのレーゾンデトール(raison d’etre)ね、みたいなこと。それを思いました。しっかり掘った穴から出てくる根っこはみんなおんなじなのかもしれませんね。

 観念に観念を重ねて観念しきることなく辿り着きしが根元的な肉体であった、のかもしれない、みたいなことでありましょうか。鮮やかな印象がありました。

 思惟する主体は孤独であります。お隣さんとは天文学的な距離ほど離れている。だからこそわかりあいたくて(そしてそれがかなわなくて)突き上げるのでありますね、拳やら何やらを。前作の二つ目同様詩的かつ哲学的な作品――右手で感性を、左手で知性を突き出したような作品でありました。こんなの小説じゃない、とかのたまう小説愛好家からの声も聞こえてきそうですが、小説だろうがそうでなかろうが僕には響きました、一ミリのずれもなく。

 旅に出たのだけれど森山さんからの手紙を読ませていただき森山さんの投稿を待っていました。この作品が一面から流れるまでごはんをまたしばし読ませていただく所存です。

 森山さんに読んでいただきたい類のストックが僕にも実はたくさんあります。互いの作品を下敷きに多いに語り合うことができたら本当に楽しいだろうなって思います。

 読ませてくださりありがとうございました。

大丘 忍
ntoska314132.oska.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp

非常に抽象的な小説ですね。私にはとても書けない。私には生身の人間が動く姿しか描けないので、その意味で感心しました。
もんじゃ様から賛辞の感想が寄せられておりますので、私もそうなんだろうなと思いました。頑張って書いてください。

森山威則
gate252.hit-5.net

 >もんじゃ様

 もんじゃさん!
 まさか前作同様、1コメがもんじゃさんとは、嬉しいです。

 >いろんな人がいろんなことを言うかもしれないけど僕はこれを全肯定します。だなんて僕がいうとこれは一層叩かれるかもしれないし、あるいは無視されるかもしれないけれど全世界を敵にまわしても僕はこれを激しく愛します。といえる類の作品であるなとつくづく感じました。

 これもだいたいよくわからないと言われてきた作品の一つです。
 私にとっては、前作に高評価してくださった方が、どう判断されるのか、試金石でもありました。

 >こんなの小説じゃない、とかのたまう小説愛好家からの声も聞こえてきそうですが、小説だろうがそうでなかろうが僕には響きました、一ミリのずれもなく。

 やはりそうなのでしょうね。私にとっては、○○は何々した。何々は○○した。みたいな書き方は退屈で、飽きてしまってて、こんな話になってしまいます。

 >森山さんに読んでいただきたい類のストックが僕にも実はたくさんあります。互いの作品を下敷きに多いに語り合うことができたら本当に楽しいだろうなって思います。

 実は私も、もんじゃさんに伝えたいことがあります。
 よろしければ、URLから飛んでいただいて、そこからメッセージを送っていただけませんか?

 感想ありがとうございました。

森山威則
gate252.hit-5.net

 大丘 忍様

 >非常に抽象的な小説ですね。私にはとても書けない。私には生身の人間が動く姿しか描けないので、その意味で感心しました。
もんじゃ様から賛辞の感想が寄せられておりますので、私もそうなんだろうなと思いました。頑張って書いてください。

 ありがとうございます。
 こんな形の小説でも、認めてくださる方がいらっしゃるのは励みになります。
 頑張って書きます!

もんじゃ
KD111239164057.au-net.ne.jp

 森山威則さま

 再訪です。

 ミトラ文書、ってご存じですか?
「太陽の男根が揺れると風が吹く」って記述があるようです。御作の「太陽」「男根」「風」のkeywordでミトラ文書を想起しました。太古から人は似たようなイメージを直観するのかもしれません。集合的無意識。

>もんじゃさんに伝えたいことがあります。よろしければ、URLから飛んでいただいて、そこからメッセージを送っていただけませんか?

 アカウントを作りたくないのです。もしよろしかったら下記に、捨てアドからでよいのでメールをいただけませんか? 折り返しますので。
ahiro22-strings@yahoo.co.jp
 よろしくお願いいたします!

森山威則
gate252.hit-5.net

 もんじゃ様

 >ミトラ文書、ってご存じですか?

 いえ、初めて知りました。

 >「太陽の男根が揺れると風が吹く」って記述があるようです。御作の「太陽」「男根」「風」のkeywordでミトラ文書を想起しました。太古から人は似たようなイメージを直観するのかもしれません。集合的無意識。

 本当ですか。やはり通底するものがあるのでしょうね。

 >もしよろしかったら下記に、捨てアドからでよいのでメールをいただけませんか? 折り返しますので。

 了解です。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

森山威則様

 なんといいますか、自分の方は他者という想像を自分のものとして取り込むことができて、共感というのはつまりは他者という影を自分の中に自分のものとして感得したときにゆらぎのようなものなのかもなと思いました。
 逆に、他者に取り込まれたはずの自分のことは自分には想像できないし、また取り込まれたという実感が決して訪れない。自分は他者を客体化も同化もできるのに、同じ理屈で客体化し同化したはずの自分を他者の中に実感できない、というジレンマ。結局、自分を自分と認めるためのお皿はどこにもなく、一方で、他者こそは自分の想像の中の影みたいなものかもしれない。そんなふうに読みました。
 だから、想像上のものを具体的に捨てていくしかない。自分に属しているものを、着ているものを持っているものを捨てて、旅にでて一度るつぼの中へと飛び込まないといけない。「自分である」ということは決して証明できないから、「なにものでもない」という初期化の状況を作り出して、「他者でない」ことの証左を重ねて、丹念に影を取り分けて、自分なる一筋の光を見出すしかない。他者は想像上のものだから、いわば観念的な空虚でしかなく、それを取り除いて最後に残ったものが命を象徴する肉体であったという神話のお話だったのかな、とかそんな印象です。

 などというアリアドネのつまらない解釈を開陳するのもどうかなあと思ったけれど、とりあえず書いてみた。というのも、この作品は解釈するようなタイプの作品なんかなあと思ったのです。かといってそれ以外に書くことを思いつかなかった。ただ、なんとなくの核心は、「自分と他者の関係(実在と想像の影の不公平な対立)」、「誰でもないための初期化のるつぼ(差別できない世界)」「Noを重ねて、Yes, I am」なのかな、と。

 細かい疑念を書くならば、この作品の全ての言葉に対して確たる意味を宿せたかってところです。そうじゃないと意味がない。観念的な思索が引き寄せる更なる観念は、つい盛り上がりすぎて羽目を外しすぎた飲み会じゃないけれど、望ましい飛躍と望ましくない飛躍とをごっちゃまぜにしがちなところがあるから、とか思ったりはした。

森山威則
gate252.hit-5.net

 アリアドネの糸様
 
 >他者は想像上のものだから、いわば観念的な空虚でしかなく、それを取り除いて最後に残ったものが命を象徴する肉体であったという神話のお話だったのかな、とかそんな印象です。

 >なんとなくの核心は、「自分と他者の関係(実在と想像の影の不公平な対立)」、「誰でもないための初期化のるつぼ(差別できない世界)」「Noを重ねて、Yes, I am」なのかな、と。

 ふむふむ、なるほど、と唸りながら読ませていただきました。
 というのも、半分以上無意識に任せて書いているので、読み手に意識的に分析されるのはとても新鮮で、興味深かったです。

 
 >細かい疑念を書くならば、この作品の全ての言葉に対して確たる意味を宿せたかってところです。

 読み手にそう思われるということは、やはりまだまだ、ということなのかもしれませんね。

然薯
KD106161187134.au-net.ne.jp

拝読しました。

また読めて嬉しいです。
やはり森山様の作品は、詩のようですね。美しい。
今回は聖書のようでもあると思いました。


今作のストーリーは、想い・叫び・主張を、凝縮してそのまま骨(組)としたような印象を、自分は抱きました。
テーマがあり、そのテーマに沿って物語を書くわけですが、その物語に余白があまりなく、肉が少ないように思います。(否定的な意味ではありません)ここが、聖書のように感じる部分であり、だからこそ詩のように感じるのだと思います。

決して悪いというのではなく、これほどのエネルギーをもってかけることは強みだと思います。

ただひとつ懸念したことは、お話が長くなったとき、読み手は少し、お腹いっぱい感を感じるかもしれないこと。
森山様のスタイルにあう書き方を、これから磨かれていくと、よりよくなるのではなかろうかと、そんな風に思いました。
(あくまで一読者としての意見ですので、参考までにとどめておいていただければ)

読むことができてよかったです。

森山威則
gate252.hit-5.net

 然薯様

 前作に続いて読んでいただいてありがとうございます。

 >やはり森山様の作品は、詩のようですね。美しい。
今回は聖書のようでもあると思いました。

 ありがとうございます。

 >その物語に余白があまりなく、肉が少ないように思います。(否定的な意味ではありません)
 
 >ただひとつ懸念したことは、お話が長くなったとき、読み手は少し、お腹いっぱい感を感じるかもしれないこと。

 そうなんです。今私が悩んでいるところです。
 良く言えば濃いエキスのような作品ですが、万人が読めるものじゃない。
 なので少し薄める必要があるのだと思うのですが、そのやり方がわからない。
 というのも、無駄な文章を加えて薄くのばすのは嫌なのです。
 何を加えたら良いのか、然薯様なりに気付くことがありましたら、教えていただきたいです。

5150
5.102.5.248

拝読しました。

頭で何も考えずに、言葉から浮かんでくるイメージに乗っかって漂いながら、無意識の深くて暗い領域よりもさらに奥を進むようですね。もうDNAレベル、集合的無意識、ここまでくると、もう神話的かつ原始的な意味での「物語」みたいな。映画で言うと2001年かな。太古と未来をひたすら突き進んでゆくと、ある意味で時を逆境することでもあり、超越して錯綜するみたいなことなんじゃなかろうか、なんて。過去を遡ることと遙か未来に突き進むのは同じではなかろうか。書き手として思ったのは、これ、いったいどこからインスピレーションが湧いてくるんかい、なんて。

森山威則
gate252.hit-5.net

 5150様

 感想ありがとうございます。

 >書き手として思ったのは、これ、いったいどこからインスピレーションが湧いてくるんかい、なんて。

 これを書いた時はたしか、差別できない世界ってどんなものだろう、と思っていたら物語が動き出したので、それを書きました。
 子どもの頃から、「無」とか「空」とかいう感覚には興味がありました。

然薯
KD106161189006.au-net.ne.jp

森山様

再訪です。

いえ、必ずしも変える必要はないと思います。
要は、文章を用いて何をしたいのかによるかと。

例えば、民謡をすごくうまく歌う人がいて、自分はj-popでデビューしたいんだって言い出していたとしたら、歌い方をちょっと変える必要があると思いますが、
民謡のままデビューしたいならそのままでいいわけで。

森山様がもし、エンタメ小説を書きたい、とお考えになるのであれば、
いわゆる書店で売っているようなエンタメ小説の書き方や技術を学ばれた方がいいかと思います。
が、今の詩的で美しい文体や世界観を活かしせるようなジャンルを探すのであれば、さほど変えなくてもいいのかなと。
それをやれ、という意味ではないのですが、文章を使う仕事は色々ありますから、
目指すものが何かによるかと、個人的には思うのです。

もし、今作の場合で言うのであれば、描写を増やしてあげるといいかもしれません。
「わたし」の、ごく近くの風景のみが描かれているので、もっと全体的に、
もしくは、肉のスープの場面では、もう少し空の方や陸地の方まで書いてあげると、
視野が広がる分、少し休憩になるかもしれない。
長く書かなくてもいいので、少し、追い調味料、くらいの感じで。

また、あまり感情が描かれていないので、描写の中に、人に、色んな感情が浮かぶといいかもしれません(ただ、そうすると抒情詩的な印象は薄れるかもしれない)

長く書いてしまいましたが、役立つ部分だけ拾ってください。
まだまだきっと、たくさん試行錯誤はできると思いますので。

森山威則
gate252.hit-5.net

 然薯様

 丁寧な返信ありがとうございます。

 >いえ、必ずしも変える必要はないと思います。
要は、文章を用いて何をしたいのかによるかと。

例えば、民謡をすごくうまく歌う人がいて、自分はj-popでデビューしたいんだって言い出していたとしたら、歌い方をちょっと変える必要があると思いますが、
民謡のままデビューしたいならそのままでいいわけで。

森山様がもし、エンタメ小説を書きたい、とお考えになるのであれば、
いわゆる書店で売っているようなエンタメ小説の書き方や技術を学ばれた方がいいかと思います。
が、今の詩的で美しい文体や世界観を活かしせるようなジャンルを探すのであれば、さほど変えなくてもいいのかなと。
それをやれ、という意味ではないのですが、文章を使う仕事は色々ありますから、
目指すものが何かによるかと、個人的には思うのです。

 そうですね。私はエンタメ小説が書きたいわけではない。
 今のままで伝わればそれで良いのですが、自信がなかった。
 でも、然薯様含めて、今の私の作品を評価してくれる人がいることがわかりました。
 これはこのまま、もっと深められるようにやってみようと思います。
 ありがとうございました。

 

風呂糸
pdcd36a98.tubecm00.ap.so-net.ne.jp

拝読しました。

森山さんの作品を読むと、読者は読者の読みたいように読むのだなぁ、という思いを強くします。
それが作者の意図と外れた読み方でも、(私という)読者が楽しめれば構わないよねと。
だから読みがかなり外れているかもしれませんが、そこはご笑納ください。

一読目の感想は「ああ、そうですか」でした。主人公自身が自分が何者か分からないので、こちらも主人公の姿を思い浮かべることができず、ただ主人公が夢で見た話の内容を聞かされているような気分でした。
そこで二読目は主人公に自分なりのイメージを重ねて読みました。甘い快楽の海に浸っているという言葉から、ベタですが羊水に浸かっている胎児を連想したのです。胎児の一人語りだと思うと、書かれていることがスッと頭に入って来ます。ここで語られていることが前世の記憶なら、まだ生まれていない主人公が過去のことを知っていても不思議ではありません。また過去には人間以外のものに生まれたこともあったかもしれません。後半で主人公は自分が男だと知って喜びますが、前世でトランスジェンダーだったのかもしれないと想像が膨らみました。そう解釈すると「もしもまた人々が、一個の差別のできぬものになりたいと願うのならば、私こそを真っ先に、その灼熱の両腕で抱締め賜え」という言葉も腑に落ちます。
この作品はミステリーではないので、一つ一つの言葉に意味づけをして、言葉のピースをパズルに埋めていくような読み方は相応しくないかもしれません。
でも私にはその方が読み心地がいいのです。

ただ面白いかというと、もう一押し欲しいと思いました。
『何ものも差別できない世界から、「私」が生まれる』のなら、差別のある世界を「私」は知っていると思うのです。しかし「私」が何を差別だと思うのか具体的に書かれていないので、「私」が生まれた喜びを共有することができません。
(私という)読者は主人公の目を通して物語世界を楽しみます。主人公が何に悩み、何を喜び、何に楽しみを見出すか、それらを知ることで、主人公と思いを共有したいのです。
上で然薯さんがおっしゃっているように、情景や心情が感じられる描写を増やせば、より物語世界を楽しめると思います。

なんだか取り留めのない感想ですみません。森山さんの今後の執筆に少しでもお役に立てればいいのですが。
失礼しました。

森山威則
gate252.hit-5.net

 >風呂糸様

 感想ありがとうございます。
 おそらくこの作品は、潜れる人なら楽しめるけれど、潜れない人からするとよくわからない、となるのだと思います。
 それがようやくわかりました。
 この作品をいじってわかりやすくするのは難しい。
 これからは、誰に向けて、どう書くか、それを考えなければならないと思いました。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

森山様

 観念的な言葉は抽象的であるがゆえに、適応範囲が広くなおかつ当たったときの響きが素敵なものだから、的を外しても的にあたった気分に浸れることのできる言葉群のように思います。だから、抽象を抽象のまま、けれども具体的に精密に、考えて書く必要があるように思います。

 それに、読み手が潜れる人にだったならば、的をさらに大きく外しても、勝手に当たったことにしてくれる。作品の総体としてのメッセージを受け取れなくても、個々の描写のキラメキだけで勝手にストーリをつなげることができるから。でも、総体としてのメッセージがどれぐらい伝わっているのかを評価するのは難しい。読者との相性もあるでしょうが一概にはいえないけれど、潜れなかった人のどこか響かなかったのかを掘り下げてみるのもアリかもしれないです。

 抽象的に思考するに対する疑いなさの功罪を思います。だからこそ系外宇宙へと認知をぶっ飛ばせるのか、それゆえに霧深き森の中から抜け出せなくなるのか、はわからないけれど。

 なんとなく再訪して書いてますから、まとまな再訪になっておりませんが、ふと上記のようなことを思いました。参考にならないと思うけれど……。

飼い猫ちゃりりん
123-1-5-146.area1b.commufa.jp

森山威則様
 モーツァルトの伝記なんか読まなくても、世界中の人々が彼の音楽を楽しむことができる。
 ゴッホの伝記なんか読まなくて、世界中の人々がその絵を楽しむことができる。
 国籍も言語も文化も違うのに、なぜ楽しめるのか?それは彼らの作品の根底に、「体験」があるからです。

 「恋の素晴らしさ」を表現するために一冊の恋愛小説を書く……なぜ?
「恋が素晴らしい」なら、「恋は素晴らしいんですよ」って説明すれば、その一言で終わりじゃないの?
 ところが、「恋の素晴らしさ」は「恋は素晴らしい!」と一万回説明しても、読者には伝わりません。絶対に。なぜか?
それは、「体験」がないからです。
 小説家は素晴らしい恋愛の世界を創造し、自らそれを体験して描くことで、読者に「恋は素晴らしい」と感じさせることができるのです。
 そこで森山様にお尋ねしたいのですが、森山様は、この作品に書かれていることを、体験したのでしょうか?

ムツキ
121-80-209-210f1.shg1.eonet.ne.jp

面白かったので感想を書きます。


ほとんど制御されていない無意識を感じました。極度の集中状態で描かれたのではないかと思います。


言葉と光景が交互に表れているような感じがしました。自分の目で見た景色に心奪われる瞬間と、その景色について考える瞬間と、あと……何か別の視点のようなものも感じました。それらが入り乱れて、決して無秩序ではないのですが、しかし不規則に、見えては消えていく。
なんだか読んでいて、不思議な気持ちになりました。
理解というより、体験に近い。

冷静に文章として分析してみると、とてもリズミカルで読みやすいと感じました。
あと何か音楽? 音の描写はあまり具体的でなかったと思うのですが、途中何度か勝手に頭の中に流れてきました。なんでしょうこれ。全然覚えてないのですが……

うーん。何とも言えませんね。「あれは何だったんだろう」という感じで、読み返してみても、判然としない。最初に感じたものはどうにもうまく手に取れなくて流れて行ってしまったみたいです。

とにかく、綺麗な朝日を見ると、詩が書きたくなります。昨日の朝日は本当に見事でした。

ブロンコ(うたた寝天誅
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このスレダサいなあ


こういうのって、書けば書くほど真逆のとんまばっか鼻につくってみすぼらしさ全然わかってないから、混沌だの他者の何とかだの抽象だの極度の集中だのって、百均で売ってるハンコみたいな似非な単語しか返って来ないんだし、言い訳しなきゃ見栄張れないような屁理屈書簡張り付け合ったりできちゃうわけですよ焼け残りまじでダサすぎ

のろけた屁理屈を抽象だのインスピレーションとかって易々名付けられてうっとり出来るような書きぶりが言う

>無駄な文章を加えて薄くのばすのは嫌なのです。

は、はっきり言って鼻つまみものです呆れる



この書き手が

>エキス

とか言いたがるらしいものの真逆にこそいちいち読むに値するものは当たり前に転がってるものと当たり前に考えるしそんなことこそをどう書くかはそれぞれのことでも少なくとも抽象とか易々と化かされるような書きぶりに落としたくないのがいちいち書きたがる原理として当たり前すぎる欲求のはずだと当たり前に考える人間が言ってます

いろんなこと言う人いるでしょうしてめえこそ小説じゃないとかってカリカチュアライズしたくなっちゃう人もいるでしょうけど、ってこれ焼け残りの真似だから嗤うとこ



>差別できない世界ってどんなものだろう、と思っていたら物語が動き出したので、それを書きました。
 子どもの頃から、「無」とか「空」とかいう感覚には興味がありました。

そうして稼働する文言やら文章がこの有り様で詩的だの抽象だのインスピレーションなんて言い草にへらへらと甘やかして甘やかされる事実にさっさと震え上がった方がいいと個人的には当たり前に感じるし想像力ってそういうことだと当たり前に思うんですけどどうなんですか
普通にダサいと思う

ブロンコ(うたた寝天誅
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ごめん、あなた森山わかんないだよね忘れてた
気にしなくていいです

森山威則
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 アリアドネの糸様

 いえ、大変参考になりました。

 >観念的な言葉は抽象的であるがゆえに、適応範囲が広くなおかつ当たったときの響きが素敵なものだから、的を外しても的にあたった気分に浸れることのできる言葉群のように思います。
 >それに、読み手が潜れる人にだったならば、的をさらに大きく外しても、勝手に当たったことにしてくれる。作品の総体としてのメッセージを受け取れなくても、個々の描写のキラメキだけで勝手にストーリをつなげることができるから。

 本当にそうだと思います。
 これに安心すると危ないですね。
 自分としては、抽象化を極めれば、最終的に具体に行き着くのでは、と思ったりしています。

 >潜れなかった人のどこか響かなかったのかを掘り下げてみるのもアリかもしれないです。

 実はこれがわからないのです。
 私とは何か? と思ったことがない人はいないはずなので。
 アリアドネの糸さんは、どこが響かなかったと思いますか?

 

森山威則
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 飼い猫ちゃりりん様

 書いた世界を体験したか? と訊かれたら、体験してないのでしょうね。
 あくまで、体験したことを書いた世界でしかない。
 だから、世界が生き生きとしていない。
 ということなのかもしれません。
 なので伝わらないのかも。

森山威則
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 ムツキ様

 面白かったと言っていただき、ありがとうございます。

 >ほとんど制御されていない無意識を感じました。極度の集中状態で描かれたのではないかと思います。

 そうです。そんな感じで書きました。

 >理解というより、体験に近い。

 これは大変嬉しい感想です。

 >とにかく、綺麗な朝日を見ると、詩が書きたくなります。昨日の朝日は本当に見事でした。

 ムツキ様のなかに何か響いたのだと思います。
 それが嬉しいです。

森山威則
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 ブロンコ(うたた寝天誅様

 すみません。言っている意味がわからない。
 何当たり前のことを、難しく気取って書いて、チヤホヤされて、馬鹿じゃないのか?
 ってことでしょうか。

 あと人の名前をもじって遊ぶのはやめてください。
 失礼です。
 あなたはおそらく私よりも文学を知っているのでしょうが、私はあなたより礼儀を知っています。もしあなたが男なら、礼節を重んじないのは、男失格です。また名前というものの意味がわかれば、それをいじって遊ぶなどできないはずです。なら、あなたの感性は鈍いということです。
 あなたは何を怯えているのですか?
 私はあなたを攻撃などしませんし、あなたの意見を聞く用意があります。
 人に嫌われるのが怖いから、先に嫌われておこう、何てあなた自身が、「百均で売ってるハンコ」じゃないですか。
 何故頭が良いはずのあなたが、そんなこともわからないのか。
 あなたは「ダサい」です。

飼い猫ちゃりりん
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森山威則様
 当たり前だけど、体験って脳内のことですよ。ドキュメンタリーでもない限り、物語を現実に体験した作家なんていないでしょうから。
 つまり、森山様はこの作品の情景を思い浮かべることができているわけですね。なら後は体験したことを丁寧に描写すれば良いと思いますよ。そうすれば伝わるはずです。

飼い猫ちゃりりん
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 森山様にって言うより、同じ迷妄に迷い込んじゃった少し気の毒な方々にアドバイスです。
 現代アートの教祖的存在とも言える、「泉」って先品を観て下さい。
 要するに、ただの小便器に作者がサインしただけの作品です。しかし、この粗大ゴミが、世界中で多くの人々に感動を与え、名作になったわけです。
 おそらくこの「泉」はある意味で本当に名作だと思う。大衆の愚かさを見事に表現したからです。ひじょーに広い意味での「表現」ですが。
 知性が脆弱な大衆は、権威と「ハッタリ」に弱い。便器を「名作」だとハッタリかまして、歴史的巨匠に復讐を誓う「進歩的な人々」の応援を得れば、便器が「名作」に大変身してしまうわけです。
 では飼い猫のこの「泉」(小便器)に対する評価は? もちろんオシッコをかけて終わりです。笑

ブロンコ(すき間
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日暮に説教されるとんまが何言ってんだっつうのあほか伝言板行ってさっさと反省述べてこい馬鹿

飼い猫ちゃりりん
KD106128158158.au-net.ne.jp

↑全く口の汚ない婆さんだなぁ。
ついでにこの婆さんの口の中にもオシッコしときますね。笑

飼い猫ちゃりりん
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森山様
 不快な思いをさせてごめんなさい。決して攻撃しているわけじゃないのですが……
 あとは伝言板でします。ありがとうございました。

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