浸蝕の果て
*
〈口〉の字型に並べられた会議用テーブルの前に二人ずつ、計八人が着席していた。室内には窓もなければ、時計も掛かっていない。誰も発言しないまま二分が過ぎようとしていた。
南を背にする男女二名は白衣をつけている。男は五十代、女は三十代の前半くらい。男女ともに表情は弱り切り、悩み、寠れているように見える。二人に限らず室内にいる八人はそれぞれに溜息をついたり嘆息したりしていた。室内には重い空気が漂っていたが、沈黙は唐突に破られる。
「空白の五年を堪えた先に待ってたのがこれか」
東を背にする男性の一方が唸るように声をあげた。堪えるという文言に実感が伴う。
「しかし部長、まだ望みが断たれたわけではありません」隣の部下が上司の言葉の訂正を試みる。
「望み? 希望はまだ消えてないと? 報告には上がっておりませんよ」右手の北を背にする男から声が掛かる。
北の二人は、見た目からしていかにも役人といった風情だ。声を掛けたのは上司部下から見て奥の男だ。二人共のフレームの細い眼鏡は安物には見えない。主張しがちでも存在感がないでもなく、眼鏡としての堅実なフォルムを保ち、控えめにいっても着用者の頭脳の明晰さを五割増しに見せている。在室する八人のうちもっとも強い発言力を持つのは役人二人だ。先の役人がいう、「水澤さん、貴方の見立ては如何ですか?」
白衣の男性、水澤和真(かずま)はテーブルに視線を落としたまま答えた。「厳しい状況と言わざるを得ません。〈彼女〉が喪われて長い時間が経過しております。いまから戦略レベルに到達することは難しいかと」
「どうにもできませんか」もう一人の役人が尋ねる。
「〈彼〉、あるいは〈彼女〉次第、ですかね」と水澤。
「われわれも出来る限りの治療は致します」役人に向かって部長が取りなした。
「過度の期待は致しません。ですが本来であれば組織の宝となるべき存在でした。善処を願います」役人はそう口にするや書類を鞄にまとめて席を立った。
二人が退室するのを見計らって気弱い声で部長は白衣組に尋ねた。「〈彼女〉はどうだ?」
水澤が答える。「居るのか居ないのか表からはわかりません。他の〈アーツ〉に引き合わせれば変化が起きるかもしれない。いざというときはお願いします」
*
会議室を退室した白衣の二人は、ここ数日掛かっている仕事に戻るべく長い廊下を並んで歩いていた。
「本局は『本来であれば組織の宝となるべき存在でした』と言ってましたね」
仁科茉穂(まほ)は上司の水澤を振り返らずにいった。
「こちらの諦めを見透かされている。そう受け取るしかないな。けれどもいったん根付いてしまった感覚は皮膚に色素が沈着するのと同等になまなかの方策では除去することは難しいだろう。荒療治は〈彼〉の今後の生活の土台まで壊しかねない」
水澤の顔には会議室で見せた悩み寠れた表情がまだ消えていなかった。
水澤と茉穂の二人が本事案の直接の担当者である。〈彼〉が発見され移送されて以来三日というもの、あらゆる手段を尽くしたが状況は改善されなかった。
「五年前からの懸案だ。軽はずみな行動は慎むべきだ。といって手をこまねいて〈彼〉をあの状態に置いておくのも酷だろう。何か策が必要だ」
この三日、事あるごとに口にした文言を水澤は再び声に出した。
実働班のメンタル面のメンテナンスを行う特務医局に二人は属している。〈アーツ〉のように選ばれた力は持たないが、彼らのメンテナンス作業に長く携わった経験がある。医局長と同等或いはそれ以上の発言力を持つ水澤と、水澤が補佐役として指名した仁科茉穂。彼らはこの三日間、〈彼〉の状態を観察し、独特の症例に戸惑いながらも採るべき治療法を模索していた。
医局の区画に入り、水澤がスタッフルームの扉を開けると、入社五年目の境江友紀(さかえともき)が駆け寄るように二人に近づいてきた。「弱りました水澤さん!」
学生時代にはサッカーに明け暮れたという境江は頑丈な体躯の持ち主だ。背は高く幅もあるため圧を感じた茉穂は思わず後じさる。
「どうした」と水澤。茉穂とちがい、水澤はまったく動じない。
「点滴のチューブを引きちぎったんです。その上で、もがいたというか……いえ、あれは暴れたというほうが正しいでしょうか。正気ではないようです。口からはときおり冷静な文言が洩れますが、それが〈彼〉の心の平静を示すものかは確証が持てません。どうでしたか、会議は。何か決まりましたか?」
水澤は首を振る、「とりたてて新しいことはなかった。これまで通り、私たちに任されるらしい。とにかく〈彼〉の様子を看よう。いや――この言い方は彼に悪いか」
「そうですね」境江が首肯する。「千賀世尚樹(ちがせなおき)という名がありますからね。尚樹くんにとっては貰い事故でしたか」
「わからんな。どうして千賀世尚樹が選ばれたのか。選んでおいて棄てられた。しかしこのような状況は〈彼女〉も想定しなかっただろう。入っていいかな」病室に向かうドアを見ながら水澤は尋ねた。
「どうぞ。それと、尚樹くんは眠ってます。興奮状態でしたので鎮静剤を打ちました。二時間ほどは目を覚まさないでしょう」
「厄介なものを抱え込んだと思ってるか」水澤の意志の籠ったまなざしが境江の顔に向けられる。
「どうでしょう」と境江。「わかりません。ことがどう転ぶか」
病床に向かう水澤の後を茉穂も追った。どうするのが正解かまったく見えていなかった。
*
全体に薄い光が射している。見透かそうと視線を凝らすが何も見えない。右も左も上も下も判らぬまま揺蕩い続ける感覚のみがある。本当に光は射しているのか、あるいはそれは薄闇かも知れず僕は曖昧さの裡に正体を失っている。今日はお昼前に早引けして帰ってきたはずだ。校門を出て電車に乗って歩いて家に着いて着替えて喉が渇いて冷蔵庫の中のお茶をコップに汲んだ。でも飲んだ覚えがない。僕はいま何処にいて何をしてるのか。右を見る。左を見る。距離を図るべき物体が視認できない。両手を胸の高さに持ち上げる。感覚はある。けれども視界に映らない。痺れている。身体が痺れるのか感覚が痺れるのかどっちだろう。息がしにくくて苦しい。何も見えなさすぎて感じられなさすぎて自分を見失いそうだ。何かに自分を写さないと気が狂いそうだ。熱があるみたいに頭がぼうっとする。頭? 僕の頭ってどこにあるんだっけ? 何も見えない。何も感じられない。生きてるのか死んでるのか。生きてるなら生きてることを証明させてくれ。
――生きててくれないと困るんだけどね。
*
「意識が戻りました」
仁科茉穂は計器の数値を確認したうえで、医療ベッドに拘束されている千賀世尚樹の様子を視認する。右腕の包帯の白さが目にしみる。
「尚樹くん、わかりますか」
相手の反応を待つ。
『暴れるようであれば再び注射に頼るしかない』という水澤の命令によって、茉穂の後ろではすでに三人が待機している。手足に加えて胴体にも拘束バンドを嵌めてあるから、そう簡単に暴れたりできないはずだ。しかし興奮状態になれば、心拍数・脈拍数ともに危険レベルに達することもあるし、舌を噛む可能性だって考えられる。身体の急変に伴い、精神的な損傷を蒙る可能性も無きにしも非ずだ。
「どう、尚樹くん? わたしの声、聞こえるかな」
茉穂はできるだけ優しく呼びかけようと試みる。
うっ、と声をあげて、千賀世は目を開けた。
焦点を得られずぼんやり濁っていた瞳に光が浮かび、瞳孔が弓のようにきゅっと絞られる。失くした色が戻るように〈彼〉の瞳が彼女の表情を捉えるのがわかった。
「あ、あ……あっ」声を発したまま彼の顎はがくがくと震えだした。
茉穂の顔にあった千賀世の視線はそのまま遠くに焦点が引かれ、ここではない何処かを見るものに変わった。
「わかりますか。混乱するのはわかるけど、まずは落ち着いて」
「ぼ……僕は……生きてますか、死んでませんか」
言葉の意味がうまく読み取れない。しかし彼の困惑だけは感じとれた。
「生きてますよ。もちろん」と茉穂。
千賀世はすぐには反応しなかった。しかし――。
「誰ですかあなた! ちがう、あなたに言いたいんじゃない。あの人は? あの人を呼んで! あの人に会わないと。僕をからかってんでしょ。わかってるんだ。あんたに用はない。あっち行けよ。ほら。って何だよこれ……。動かない! 手も! 足も! 何してんだ? あんたら誰だよ? なんでこんなこと……え……えっ? あ、あ、ああーーーー。がああーーーっ! ふざっけんなっ! なにしてくれてんだよ! ぐあああああーーっ!」
千賀世は拘束されている手をほどこうと乱暴に動かし始めた。叫び声とも唸り声ともつかない大声が狭い病室の壁に反響して、獣の吠え声にも似てくる。茉穂の背後に控えた男性看護師二人が暴れる彼を抑えに掛かる。
注射器を手にしたもう一人が、茉穂を見て裁可を仰ぐ。
このレベルの興奮では手の打ちようがない。茉穂は女性看護師斎木美束(さいきみつか)に頷いた。斎木は千賀世の右の二の腕に鎮静剤を打った。千賀世はしばらく暴れていたがやがて大人しくなる。それまでが嘘のように静かな寝息を立て始めた。
*
「打つ手なし、といったところですか」
スタッフルームに引き返してきた茉穂に境江が言わずもがなのことを伝えてくる。その横で水澤が渋い顔をして黙っていた。状況はまったく改善されていない。千賀世が発見されここに移送されてきた三日前から同じことの繰り返しだった。今後状況が好転しない場合、千賀世の身柄はどうなるのか、茉穂にはそれが気がかりだった。
会議室を覆っていた雰囲気は今後の見通しの悪さも手伝ってのことだった。〈彼女〉の片鱗が千賀世のなかに見られないことには何も始まらない。千賀世が〈彼女〉を拒んだことは明らかだった。拒まれた〈彼女〉の分霊はいまも千賀世のうちに留まっているのかどうなのか。それが判然としないことには対処の仕様がない。まずは千賀世との間に通常の対話のラインを構築しなければならない。
「ほかの〈アーツ〉のように五年前に見つけていればこうはならなかったろうに」境江は振り絞るようにいった。
境江だって辛いんだろう、本来苦しまなくていいことで苦しむ千賀世に同情しているのだろう、と茉穂は想像する。
「そうだ。〈アーツ〉の手配はどうなりました?」と境江。「彼らが力を貸してくれればあるいは光が見えるかもしれない。彼らは分身同士なのだから」
「五人とも各地を忙しく駆け回ってるからね」茉穂は答える。「力を借りたいけれど、貴重な戦力を省いて回してもらうにも手続きが面倒でね。いまのところ見通しは立ってないの。一縷の望みとして打診だけは続けるつもりだけど」
「苦しむ彼の姿を見ているといたたまれなくなる」モニターに映る千賀世の寝姿を見ながら水澤は嘆くように声を洩らした。
「彼は何処でどのようにして発見されたのですか。いえ。概要は知ってますが、知ってるのはあくまで概要だけですので、詳しく知りたくて」
直接の責任者ではない医局のスタッフには千賀世の詳しい事情についての説明は行われていなかった。本来であれば五年前に見出され、六人目の〈アーツ〉として任務に就いていたはずの人材であることを全体のミーティングの中で聞きかじっただけだった。ほかのスタッフも同じ関心を持っているらしく、仕事の手を停めて質問者の境江と同様の関心を示す眼差しを水澤と茉穂に向けているのもわかった。
水澤は茉穂を見た。彼は話したものか迷う様子だった。
茉穂はゆっくり頷く。
彼女の合図に踏ん切りがついたらしく、水澤は話し出した。「場所は代々木の首都高の高架下だった。夜中に刃物を手にもって宙空を何度も切りつけてるところを通行人に目撃されたんだ。すぐに気がふれてるとわかったらしい。通行人は三十代の女性だったがすぐにその場を立ち去り、速やかに通報したそうだ。現場に警察が駆けつけたときには刃物男つまりは千賀世だが、彼の姿はどこにもなかった。いたずらの線も考えられるとして警察では大きくは扱わなかった。よくある事案のひとつくらいの位置づけだったんだろう。しかしうちの情報課がすでに網を張っていてね。〈アーツ〉のお蔭だ。刃物男である千賀世は警察に先んじてわれわれが回収したんだ。気がふれる直前には彼が何処で発見されうるか判明していたんだろう。だから万事遺漏なく回収作業を済ませることができた。保護された彼の心身のチェックのあとそのままここに入院というわけだ。入院とはいえ医局では手をこまねいてなにも出来てない状況であるわけだが」
「〈アーツ〉には判ってたということですか」と境江。「それはどういったメカニズムで」
「説明しろと。果たしてそんなことができるのかな。〈アーツ〉たちが現れて五年。この五年間を通じて私たちに〈アーツ〉のことを理解できた試しがたった一度でもあったかね。思い出してみるんだ」水澤は不機嫌を表していう。「私たちにとって彼らは永遠の謎だ。霊魂の存在がが否定されつつある現代において彼らは社会から完全に独立した異分子といえるだろう。だいたい力を持っていた(とされる)巫女が亡くなるときに自身の霊魂を幾つにも分けていまこのときに受精しようとする卵子の中にもぐりこんだなんてことをどうすればスムーズに納得することができるというんだ。〈アーツ〉は同年同月同日同時同分同秒に受精した受精卵から成った存在だという。生まれた日はまちまちでも〈アーツ〉たちは同じ瞬間にこの世に存在しはじめたといえる。千賀世の存在もその瞬間に発生したんだろう。ほかの〈アーツ〉はあるべき姿として組織のために動いている。千賀世のみがそうならなかった。ほかの〈アーツ〉五人と千賀世の間に未だ絆が存在するかどうかは私にもわからんよ。それでも我らがいまになって千賀世の存在を認識した所にこそ問題の意味も答えもあるのかもしれん。我らに出来ることは細い糸をたどって彼のなかの絡まりをほどいてやることだけだ。どれくらい掛かるかはわからん。タイムリミットもあるだろう。裁定が下るまでに可能な限り力を尽くしてやりたい。巫女に肩入れしてるわけじゃない。六人でひとつの存在として受け止める枠組みを用意する。一人が欠けてもいけないし、見出された以上は物事を載るべき場所に載せたいと思うのはただただ俺が職業人だからということなのか。よくわからんがな」
水澤が長い説明をした直後にスタッフルームに内線が入った。電話を受けた経理係は相手方の要件を聞き、水澤に事務棟に出向くように指示のあったことを告げた。千賀世のことを茉穂に頼み、水澤はすぐに部屋を出て行った。
茉穂は椅子を引き、自分のデスクの前に座った。もう一度千賀世の情報を記したファイルを開いて確認する。背後では境江の周りに他のスタッフが集まって私語を始めている。声は大抵抑え目であるが、ときに大浪のようにわあっとうるさくなることがある。
「話したい気持ちもわかるけどね」茉穂は後ろを振り返っていった。「いまは仕事中だから。まずは手を止めないで各自しなければならないことを優先してね」あくまで声は控えめに。しかし言うべきは言って締めなければならない。規律の歪みは全体のダラケに直結する。監視の目がないからといってすぐに緩み切ってしまう集団には属していたくない。個人的な好悪の感情に近いものだが、茉穂の中にある仕事に対する姿勢ひいては信条とはこういったものであった。
*
またあの夢だ。夢だとわかってる夢を視る自分は、夢の中でしか生きられない存在だと考えて、水ともぬるま湯とも乳とも粥ともわからない流動的な液体の中につかってじっとしているいまだけを揺蕩っている。時間が流れているのか停まっているのかそれすらもわからない。
蝉が鳴いている。背にびっしょり汗を搔いてしまってそこにシャツがぴたっと貼りついている。自転車を漕いでいると肩や背や腰に一定の運動が継続される。錆止めを塗るのを怠ってるチェーンからは金属同士の擦れる耳障りな音がしていて、不快なその音と背中の貼りつきと若干上がり始めた息の荒さに、どうして毎日毎日自転車を漕いで学校に通わなければならないのかわからなくなる。引き返したくなる。嫌になる。蝉の声が追いかけてくる。逃げだしたい。焦って気が急いてくる。
数学の授業の終わりがけになると、もう一度初めから授業が始まらないかと考えだしている。嫌だったはずの学校が、お気に入りの授業の時間になればこの時間がもっと続いてほしいと思っている。xとかyとか使って数字と記号を連ねていくと錬金術のようにパッと答えが現れる。魔術のようだった。紙の上にシャープペンシルを走らせるだけで答えが浮き上がってくる。数字は使い魔でアルファベットの代入記号は便利な触媒だった。この魔術をもっと扱っていたいと思い始めると、一回たった四十五分がほんの一瞬に思えてくる。
そう――。楽しかったこと辛かったことはいくらでもあって、それは外気が暖かくなったり寒くなったりするのと同じく自分の意志の及ぶことではなくて、余所から力を加えられて変化せざるを得なかった自身の軌跡に過ぎなかった。明日なにが起きるかわからない。怒ってるかもしれない。萎れてるかもしれない。嘆きたがってるかもしれない。嬉しすぎて飛び跳ねたくなってるかもしれない。内心はどうあれ表向きは表情をあまり変えずに飄々としていなければならない。
友達の雄介くんは弁護士になりたいといって中二の夏から部活よりも勉強に力を入れ始めた。東大合格者を毎年何人も出している私立の難関校に入りたくてやる気になっている。彼のやる気を脇でみながら、僕は、それほど熱くなれない自分の温(ぬる)さを痛感している。
胸の高さに両の手を持ち上げる。手は灼けてもなかったし、荒れてもいなかった。ナイフを触っていて誤ってこそげ落としてしまった左の親指の先端も、あるはずの傷がない。自分のことを把握しているはずの自分の感覚に信用がおけない。鏡で顔を見たい。自分がどんな顔付をしているのかわからなくて不安だった。最後に鏡を見たのはいつだったろう。風呂に入った日もわからないし、歯を磨いた時間もわからなかった。ずっとぬるま湯のなかに揺蕩っていて、時も場所も失念して久しいように受け取られる。このままここに居ればいいんだろうか。何をしなければならなかったんだろう。そう。雄介くんと週末に買い物に行く約束をしていたんだった。だけど雄介くんとはもう会えないような気がする。すでに彼は失われてしまったのではないか。居てもたっても居られなくなるが、僕は何処へ行けばいいんだろうか。どうすればここから出られる? むしろここから出る必要があるんだろうか。わからない。何をしてるんだ、僕は……。
*
二時間前に特別防衛研究所を退勤した仁科茉穂は徒歩で地下鉄一駅分をこなすことにした。千賀世への対応に難渋している現状。熱を帯び始めた脳を冷やすためにも茉穂は初冬の外気に触れる必要を感じていた。途中スーパーで夕食の材料を調達する。ラムレーズン入りのチョコレートバーを短絡的に買い物かごに入れたのは、それほどまでに自分が追い込まれていることを示しているのだと彼女は自己診断する。甘いもので自身を幻惑しないといけなくなってるんだ、追い詰められてるんだ、と彼女は思う。明日の彼はどんな様子だろうか。この三日というもの、外観に変化はなかった。会議のあと、茉穂が千賀世の様子を看ていたとき、彼は目覚めた。目覚めた彼は、茉穂を他の誰かと勘違いしていた。自分が彼の知る誰かと似ていたのか、と茉穂は考える。資料に拠ればここ五、六年は誰とも交流を持たなかったという。私立高校を二年の夏に中退してからは自宅に引きこもっていたらしい。千賀世の家族からも裏を取っている。洩れはあっても誤りは少ないだろう。
誰と勘違いしたというのか、茉穂は解けるはずのないパズルに挑んでいるような気持ちになった。はじめからムリだと解っている相手に取りつく感覚に近い。諦めに似ている。彼との間に対話が成立しさえすれば希望も見えるだろうけれども。
茉穂はシャワーのあと、部屋着に着替えた。ゆったりした大きめのものを選んでいる。そのままキッチンに行き、戸棚からタンブラーを取り出し、冷蔵庫から缶入りの低アルコール飲料を取り出す。プルトップを開けてタンブラーにそそぎ一口飲んだ。0.2パーセントだけリンゴ果汁が入っていて、残りは香料で風味が上乗せされている。時間をおいて、もう一口、あと一口、とタンブラーの半分も飲めば頬や首のあたりが熱を帯びてくる。そうしてようやく料理にとりかかる。一人暮らしの気軽さで食べたいものを食べるにしても、今日は凝ったものを作る気になれない。
キッチン台の上に買ったものを出していく。白菜、白ネギ、菊菜、椎茸、鶏の腿肉。エコバッグをくるくると巻いてバンドで括り、仕事用のハンドバッグに戻し入れる。冷蔵庫から人参を取り出す、野菜は必要分だけ切り分けて水洗いし、下処理する。土鍋に水を張ってパウチの鍋の素を入れて火にかける。野菜を食べやすい大きさに切ってから、腿肉の皮を剥いで一口大に切り、温まってきた鍋の底に沈めていく。ほかの野菜を入れて、椎茸を入れる。蓋をして待つ間に取り皿の準備をする。作業に当たっている間は懸念事項を忘れることができた。とにかくそれは後の話でと脇に置いておける。土鍋を食卓に運び、着座して食べ始める。お腹は空いているのに、どうしても咀嚼の動きが止まりがちになる。茉穂は箸を起き、バッグからスマートフォンを取り出すとロックを解除していくつかの項目で検索を始めた。届いている複数のメールを開いて読み、必要な相手には短文で返信する。スマートフォンでの作業を終えると彼女はすでに食欲を失っていた。一人分として作った夕食はほとんど手をつけられないままにIHヒーターの上に戻された。代わりに買ってきたチョコレートバーを齧る。
彼女は思い出していた。学生時代、食べたいものがないときはこんな風に食事の代わりにクッキーとかビスケットとかチョコレートとかアイスクリームで代用していたなと。むしろそちらが主食といってもよかった。食べる量はすこしで済むし、甘いものが身体ではなく心に栄養を与えてくれるし、なにより安上がりだった。材料を揃えて手間を掛けて一品ずつ作るより、パッケージを一個か二個買ってきて封を開けさえすればすぐにありつくことができる。こんな便利なものもない。悩みのうちにあるときに手順を踏んで一から物事を遂行するのは敷居が高かった。たしかにいまは上司である水澤からの信頼を受けて責任ある仕事を任されている。しかし元来茉穂は頑健な性格ではなかった。弱い部分も孕んでいるし、それはひとつやふたつではない。いまいる立場に自分がふさわしいとは考えられなかった。今回のこともそうだ。千賀世が運ばれてきてから、何等有効な手段を執り得ないことに絶望感にも似た感情を噛みしめているのだ。精神の失調によって人生を狂わせた人は世間には多い。しかし自分たちの組織が過去に行った実験によって本来責任のない対象に災難が降りかかり、いまこうして目の前で苦しんでいる現状を見せられることに茉穂は忸怩たる思いを味わっていた。
茉穂は通信アプリで水澤のアカウントを選択してメッセージを送信した。
【仁科茉穂 : 今回の任務、わたしには荷が重いようです。弱音を吐くなど社会人としてあるまじきことでしょうか。何もできない自分に情けなさを覚えると同時に、千賀世くんに対しても申し訳ない気持ちが立っています。水澤さんは何か良い案をお持ちですか? ムリを通す積りで、明日朝一番に〈アーツ〉の力を借りられないか上に掛け合おうと思います。わたしにできることはこれくらいしかなさそうです。自分にできることはほんの小さなことだけなんだと今回のことで痛感しました。すみません。いまお酒も飲んでますから、ちょっと愚痴っぽくなってしまいました。それではまた明日。】
ディスプレイに表示された送信ボタンを押す。その後で茉穂は送信した文面を読み返した。送らない方が良かったろうかと後悔の気持ちが心に萌す。しかし自分だけで抱えていると心が不活性化してとめどなく沈んで行きそうだった。缶に残るアルコールをタンブラーに注いで、時間をかけてゆっくり飲み干していく。その後洗面所へ行き、歯磨きだけは済ませてしまう。
何時、寝始めたのかもわからなかった。寝苦しくて覚めてみればスピーカーからはストリーミングの自動再生の音楽が流れ続けていて、それは知らないけれどよく聴くタイプの懐かしい雰囲気を持った男声の洋楽ポップスだった。パソコンの画面を操作して音楽を停止する。時間を確認すると、「02:31」と表示されている。スマホアプリに受信メッセージが入っていた。開いてみれば予想通り、水澤からの返信だった。
【水澤和真 : 悩みは君だけのものではない。私も少なからず心を痛めている。君が難を冒すのを見てるわけにはいかない。上層部には私から連絡しておいた。一人であれば明日二時間だけなら手配できるとのことだった。出来るだけのことはしてみるとのことだから期待しよう。もう一度言う。悩みは君だけのものではない。悩んでるのは私も同じだ。目的を一にする者同士、力を併せて難敵に立ち向かおう。】
送信時間は「22:15」と出ていた。酔いが覚めてみれば先のメッセージの勇みぶりが恥ずかしさとなって襲い掛かってきた。直接の上司を飛び越えてさらに上層部に掛け合うつもりだと宣言したことで水澤に余計な気を遣わせてしまったことがわかったからだ。いまの仕事について十年が経った。それなのにいまだに社会のルールを弁えない自分がいる。まだまだだ、と感じて、茉穂は両の掌で頬を二度、三度とぴしぴし叩いて気を立て直す。このまま寝直せばあと三時間は眠れるだろう。キッチンに立って洗ったなりのタンブラーに水道から水を汲み、二口で飲み干す。身体が蘇ったように感じられる。出勤時間は朝の八時半が定刻だったが、六時には到着できるように早めに準備をすることにした。といっても本格的な準備に執りかかるまでには一時間は余裕ができる。一旦は停めたパソコンの画面を操作し、個人的にお気に入りの音楽を集めたプレイリストを呼び出して音楽を部屋のステレオシステムに出力する。時間を考えて大きな音では流さない。しかし一音一音丁寧に聴き分けられるだけの音量は確保した。
プリンターからコピー用紙を一枚抜き取り、ペンを手にして昨日までの三日間にわかったことをリストアップする。細かに気付いたことも洩らさないように慎重に記してみれば、この三日間、状況は何等の変化も遂げていないことがわかった。千賀世が目覚めたタイミングに茉穂が立ち会った回数は三回。彼が口にする内容は微妙な差異はあるものの、彼との間に意志の疎通めいたことが可能になった実感はなかった。惨憺たる状況下にあって〈アーツ〉に頼ろうとしたのは、完全に自身の無力、ひいてはチームの無力を露呈したも同然だった。今日来るであろう〈アーツ〉のひとりに賭けるしかない。六人目を逃したのは組織としては痛いけれども、利用できなかったからと言って犠牲者を見殺しにすることは人間として許せない。茉穂にとってそれは義侠心といってもいいものであった。
音楽はセイント・エティエンヌから始まり、サラ・マクラクラン、エンヤと繋がる。外が暗い時間よりも明るい時間に聴くほうが向いているような音楽も含まれる。しかし部屋の照明をフルにすれば空間はすでに朝なのか夜なのかもわからなくなる。千賀世のことを考えると、五年前を振り返ることになる。あのときの自分たち、研究所内のスタッフは一人残らず、巫女の再来である五人を発見できたことを喜んでいた。五人ですべてだと誤解していたのだ。本当は六人目、能力者になるべき人材でありながら、能力を押し殺して燻ってしまった千賀世という存在を自分たちは愚かにも見逃してしまったのだ。それを思うと償いきれない罪を身に帯びている気持ちになる。部屋に流れる音楽は懐かしくて温かい。しかしすでに失われた世界を思わせる。ガラス細工でできた結晶が些細なことで壊れて粉々に飛び散ってしまった。いまはその残骸を手にしながら、在りし日の世界にあった全体を夢想しながら自身を慰めて音楽に陶酔している。郷愁に誘う音楽は堕落へと落ち込んでいく下り坂なのか?
*
「出来るだけやってみますんで、今日はよろしくお願いします」
道院幸人(どういんゆきと)は小柄な人物だった。リスのようなつぶらな瞳をしている幼い外見だが、茉穂は緊張を禁じ得なかった。〈アーツ〉の中には読心術者――つまりテレパスもいて、道院もそのリストに含まれているからだ。この怯えもすでに彼の知る処と思えば、茉穂は余計に緊張の度が増すのを感じた。
「心配ないですよ、慣れてますから」と道院は微笑する。
情報戦の矢面に立つ戦士――彼ら〈アーツ〉は自分たち一般人をどう受け止めているのだろう、と茉穂は考える。彼女に〈アーツ〉がわからないように、〈アーツ〉もまた、一般人の戸惑いについてわからない部分があるのだろうか。それとも〈アーツ〉は一般人の能力をすべて含みこんだうえに、さらに広い範囲を深い思慮の内に入れているのだろうか。
「千賀世は向こうの病室に眠ってます」
茉穂は、辛うじてそれだけ言う。
道院を先頭にして、茉穂と境江友紀、斎木美束の三人が後について病室に入る。水澤はモニターの前で千賀世の状況を監視している。道院は千賀世を一瞥したのち、躊躇うことなくその病床に近づいた。立ち止まった彼の左に茉穂が足を停め、他の二人は背後に控えた。
千賀世の身体から延びる無数の管は二つの計器に繋がっていた。脈拍数や心拍数、血圧に呼吸の回数などを計測する機器と、もうひとつは脳波を測定する機器だった。モニターされた測定値は時間を置かずにコンピュータに記録される。データは即座に解析されて異常があればアラームで知らされる。
茉穂は計器に映し出される数値の細かな上下に気を配った。道院が脇で何か思案しているのが感じられる。茉穂は道院の反応に次第に引き寄せられた。何も言わない彼が気になり、失礼なほどに茉穂は彼の顔に視線を注いだ。道院は千賀世の胸に熱心な目を向けている。まるで何か映像が映し出されているかのように一点に着目している。何が見えるのか。何か見えているのか。茉穂は〈アーツ〉に対峙する時にいつも感じている、なんだかよくわからないけれどもそこに何かがあるんだという確信めいたものを察知していた。〈アーツ〉は人に見えないものを見て、感じられないものを感じて、嗅ぎ分けられないものを嗅ぎ分ける。茉穂には判らないものを道院はすでに嗅ぎつけていて、計器にも分析しきれないような精緻な探査によって問題の本質を探り当てるにちがいない。敵わない、という気持ちになる。
「いるね」
道院が呟く。
いる? と茉穂の脳裏に疑問が兆す。
「僕たちと同じ匂いがする。でも……」
巫女のことだと茉穂は察知する。やはり千賀世のなかにも巫女の力の片鱗があったのだ。六人目の彼――と頭の中に文字情報として認識する。
「それは早計に過ぎます」
道院の声は厳しかった。
誰に向けられた言葉なのか、茉穂には判らなかった。
「貴女に言ってます、仁科さん」と道院。「正確には十秒後の貴女の反応に対して先手を打ちました」
言ってる意味が分からない。しかし先の言葉はとにかく自分に向けられた言葉だったんだとわかる。
「話を進めます。これから寝ている彼の意識に干渉します。初めてのケースですので、僕にも何が起こるかわからない。僕が言うまで、手出しはしないでください。お願いします」
その場の主導権を握っているのは道院だった。彼が手を出すなというのであれば、こちらができることは傍観のみだ、と茉穂は考える。本より、自分たちはこの三日というもの何もできなくてただ手を拱(こまね)いていただけなのだ。いまはもうこの小さな体の彼に頼るしかない。なんといっても彼は〈アーツ〉なのだから。人に出来ないことを可能にする力を持っている。
「わかりました。こちらこそお願いします」
茉穂は懇願するようにいった。
ちらっと後ろを見ると、境江と斎木も緊張の面持ちで二人の遣り取りを見まもっていた。
「始めます」
すぐに道院が集中状態に入るのがわかった。
彼が何をするのかはわからない。しかし彼女にも、場の空気がぎゅうっと押し込められるように密度を濃くしていくのが感じられた。鼓膜が張りつめる。外因性のものか、内因性のものかはわからない。しかし何等かの変化の兆しではあった。
*
勤め人のスーツにもいろんな種類があるんだな。窓から通りを見下ろしながら思う。喧しい小鳥の鳴き声が遠くから聞こえる。中学生や高校生が前の通りを自転車で行きすぎる。早朝の空気はどことなくせかせかしていて、行きかう人は何かに憑かれたようにそれぞれの目的地へと導かれるようだ。カーテンの隅を指でつまんでじっと見下ろしている自分は、ただ其処に存在するのみで何処にも行きつかない。居るだけ息をするだけで毎朝定点観測する機械でしかない。明日も明後日も同じ時刻に窓を見下ろすのだ。
と、鼓膜がぴんと張りつめる感覚を覚える。まただ。これはサインだ。いつものようにきっと……。
――わかってるのにどうして何もしないの。
聴きなれた声。もういいよ、と心に呟く。あんたのお陰でこうなってる。僕は何もできない役立たずだ。そうでも言わないと許してくれないだろう。言った処で許されるものでもないけど。
――私を認めないのは自身を殺すも同然なのに、何故それが判らないの?
尤もらしいことをいう。いつもそうだ。楽になれるから受け入れなさい。そういった甘言は人を騙くらかす詐欺師の口上だなんて世間の常識だろ。受け入れては身の破滅だ。信用しちゃいけない。自分の感覚すら信用しすぎてはいけない。誰も信じてはならない。これまでだってそうやって生きてきたんだから。冷たく深い水底(みなそこ)の泥に意識をぐっと押し沈める。もう浮上するな。息を止めろ。息することを忘れて存在を失ってしまえ。呪いの言葉は心の内にコールタールをべったり塗りつけるように向こうも見通せないようなどす黒さを付与して行く。見えない方が幸せかもね。感覚よ鈍ってしまえ。繊細さも明敏さもうまく生き残るには不要の才だ。もっと鈍感に、もっとおおざっぱに、細部に捉われることなく、楽になったほうが自分らしくあれるだろう。
相手の落胆が伝わる。いまとても残念なことを言ったんだという意識が気持ちを押し塞ぐ。もともと誰かもわからない。もう何年も、ときに何十年も、その声に付き合ってきたようだ。誰なんだよあんた。僕はあんたなんか知らないよ。
そんな声なんて初めからなかった。そう信じたくなるほどに無音状態が続いた。はじめからそんな声は幻聴だったんだ。声なき声を在ると認識する自分の感覚をまず疑え! お前は出来損ないだ! 意識は反転して自分を責める。いい気のときは他人を責め、落ち込んだときは自身を責めて鬱屈する。言葉で責めたて意識で圧し塞ぎ体調を崩すまで猛進し、果ては鬱々と寝込む。いつ寝付いたかもわからないときを過ごして、いつ起きたかわからないうちに気分は上りだし、一本調子でまた声だけの存在を拒否して、嗜虐性の悦楽に恍惚とする。駒のようにぐるぐる回りながら、自分が目を回すのか、世界を回しているのか、何が回ってるのかもわからなくなる。頭のねじがきりきりと撚れていくようだ。焦げ臭くなって頭のてっぺんから煙があがってるかと思われ、旋毛(つむじ)に手のひらを押し当てることもあった。何もないとわかって残念に思う。自分がわからない。
声がする。聞きたくもない。
《うるさい! うんざりだ!》
声がつづく。何を言ってるかわからない。
ほんとに、聞きたくない。意識下で耳を鎖す。
放っておいてくれ。永い眠りにあればこそ、無限の落ち着きを得た気持ちになる。誰からも干渉されたくないし、行動を執ることから逃れたい気持ちで一杯になる。《あんたなんかに負けるか。》裏でノイズ混じりの声音が聞こえていた。無いことにしたい。初めから無かったんだ。ムリから納得を呉れてやろうと意識して存在に蓋をする。
子供の頃、母方の祖父の法事が日曜に振り分けられたときなど、ふだんほとんど見ない向こうの親戚や近所の大人が集まって、耳慣れないけれど懐かしいお経を近くのご縁さんが上げてくれるのを聴いていたことがあった。意味は分からないけど懐かしさを伴う声の音波。あの波には不確定の調和があったけれど、いま耳の奥に鳴っているあいつの声は、寝苦しい夏の夜に寝床に忍び寄る藪蚊の翅音に似た煩わしさを喚起するようだ。心の底に着実に不快の層が折り重なる。僕は爆発するしかない。部屋の棚を引き倒し、中身をぐちゃぐちゃに投げ散らかし、窓ガラスを割って、本やノートを破いて。またあれをやるのか。やりたくないのにやらなくてはならない処に追い込まれる自分を感ずる。おそらく逃げられない。袋小路に捕らわれた自分の愚かさに直面させられ、立ち尽くし、残った手段は精一杯あがくことだけだ。あがくことが何かの救いになればまだいい。しかし救いが何処にもないことを知悉しながら、それでも手当たり次第に無茶苦茶に振舞わなければ救われないと思いこんでしまう不幸は、その原因が那辺にあるや遂に判らずじまいだ。追い込まれている。依然として声は続く。憐れなのは自分か、あいつか、どっちなんだ。
――甘ったれ!
あいつではない。意志を持った強い声がした。耳の傍で叱りつけられたみたいだった。
――いつまで燻ってんだよ。もう十分だ。こっちへ来いよ。
声は明るかった。僕はつぶやく、《誰だよ?》
――仲間さ。袋小路の中身を知ってる人間だ。付いてきな。案内するから。
付いてこいといわれて、どこに行けばいいかもわからない。此処もなければ彼処もない場所にいるんだから。今が認められないから過去があったかも未来があるのかも見通せない。
僕はただつぶやく、《どうしろって》
――いいから、と声は言う。千賀世。君は、何故此処にいるんだ。動かなければ沈むだけだ。君はある時から動かなくなった。動くことを拒んだ。留保が常態化して、場所が失われ、時が失われた。決意を引き出せ。心の内奥に捕らわれた自分を開放しろ。君の難渋は僕たちのリスクなんだ。
意味が分からない、素直に思った。僕には出来ない。いまのままでいいし、いまのままがいい。いまある処に僕はどっしりと根を下ろしていて、今更動くことに何の意味があるのかわからない。第一、僕が動かないことが何故君の迷惑になる? 迷惑なんてかけてないだろう。独り決めして、他者の干渉から自由になろうと試みる。
――わからない人だ。誰にも迷惑をかけてないと思ってる奴ほど、ほんとは周りに大きな迷惑を掛けてるってのに。巫女を拒まなければいまごろ僕たちは戦友だったんだ。哀しいな、まったく。これから行う荒療治にちゃんと目覚めておけよ。人生ハードモードだってわかるから、歯ア、食いしばれよ。わかったな?
声の遠退(とおの)いたのが分かった。意識の波が搔き消えるのが分かった。
胸に熱い一脈を感じる。心臓を直に摑まれて心臓マッサージをされる感覚。酸素が送られる。身体が活きかえる。脳が目覚める。そして全身を意識の奔騰が駆け巡った。
*
茉穂は道院の一挙手一頭足に着目していた。長いあいだ目をつむって意識を集中させる中で、ベッドに眠る千賀世尚樹の目蓋がひくひくと反応するのがわかった。道院に拠るものかはわからない。くれぐれも邪魔しないようにと言われていた。
二十分ほどの集中のあと、道院は目を開き、頭をあげて、「彼を起します」とだけいった。千賀世の左の胸に手をかざし、力を籠める。はじめは反応のなかった千賀世の肉体に変化が起きる。全身の力が抜けていくと見るや、溺れた人間が息を吹き返すように、千賀世は喉の奥から溜まった空気を吐きだした。目がぱっと見開かれた。
〈彼〉はベッドに張りつけられたまま脇の道院を睨んだ。「あんたか。僕を起したのは」
「君は強情だよ。いつまで寝てるんだ」
道院のすかした言い方が茉穂には気になった。
「あの声じゃない。あの人はどこだ?」
またあの人だ、と茉穂は思う。あんたじゃない、と昨日も言っていた、あんたというのは誰なのか。訊かずとも、たぶんわかる。
「あんたが受け入れさえすれば声は自分のものになる。拒むから、わからなくなるんだ」
「いやだ。手放したくない。自分の手綱は自分だけのものだ。手放したら永遠に戻ってこない。あんたが何処の誰かは知らない。でも手放した側の人間だってことは判るよ。簡単に支配されやがって。何故抗わなかった。何故立ち向かわなかった。そんなに弱いのか。あんたら人間は」
千賀世がここまで長く他者と意志の疎通を可能にしている処に初めて立ち会った。茉穂は自分の力不足を痛感する。到底千賀世の相手ではなかったのだ。道院がどのように話を進めるのかは見えない。任せるしかない。うまくやってくれる。なんといっても〈アーツ〉なのだから。
「外野の信頼が逞(たくま)しいな。他と違うのはわかる。でも僕も同じとは限らない。君と僕とは種類がちがう。唯々諾々と受け容れた者と、真っ向から抗った者との差だ。あんたの失ったものを見せてやる。すこしは後悔しろよ、先輩」
茉穂には〈彼〉の言葉も顔付も歪んだものに見えた。
何が起こったのかよくわからなかった。千賀世が居丈高に振舞ったと見るや、目をかっと見開いて、声こそ上げねど肺の中の空気を一時(いちどき)に押し出して気合を発するのがわかった。途端に脇にゆったり立っていた道院が卒倒する。受け身を取ることもできず、まず肩から床に崩れ落ちて右側頭部を硬い床にしこたまぶつけた。ボーリングの玉がぶつかり合うときのような鈍い音がした。その音だけでも、道院が深刻なダメージを負ったことがわかるほどだ。千賀世は手も足も自由に動かせない。物理的に力を行使できないはずなのに、立っていた道院を卒倒させるだけの力を揮った。道院はピクリともしない。
「ぼうっとしないで。早く」茉穂は後ろに控える二人に指示を出す。初めに動いたのは境江だった。道院が倒れた瞬間こそ驚いたものの、茉穂の声が飛ぶや病床に詰め寄って千賀世の身体を抑えようと試みる。もとから手も足も胴体も拘束されている千賀世を抑える意味はなかったけれど、そのときの千賀世の雰囲気は誰かが抑えに入らなければ止めようがない雰囲気を醸していた。
「わからないかな」千賀世――というよりむしろ〈彼〉が憎さげにつぶやく。境江に厳しい視線を向ける。境江が視線を合わせると、千賀世の腕を抑えていた手の力が緩んだ。
境江は次の瞬間、手で頭を抑えながら呻きだす。
「あ……あが……あががっ…………ぐぐう…………ぐがが…………」
注射器を手にした斎木も駆け寄ろうとするが、同僚の苦しむ姿を見て足が停まる。彼女は茉穂の方を見て、それ以上動けないようだった。
茉穂は二人の様子を見て、躊躇しなかった。斎木の持つ注射器を奪い取るように手に摑み、ベッドの上の千賀世に詰め寄った。
彼の腕に手を添えて、注射器の針をその皮膚に突き刺す。痛いかどうか気遣う余裕も持っていられない。事は一刻を争う。中に入っている薬液を彼の体中に注入しさえすれば片がつく。あとはまた何時間か猶予期間があって、その間に対策を練ることができる。しかし茉穂の指は動かなかった。
《やめろ!》声がする。千賀世が目で訴えかけている。悪霊に憑かれたような、遥か昔であれば祟りでも引き起こしそうな恨みがましい表情で茉穂を睨みつけている。指を押し込むだけで事が済むのに言うことをきかない。指が痺れるのか、腕が痺れるのか、感覚が痺れるのか、眠気が最大になったときのように頭でわかっていても身体が言うことをきかない状態に落ち込んだのがわかる。千賀世だ。彼の目を見てはならない。催眠による暗示だ。手遅れだ。蜘蛛の巣からは抜け出せない。意識に何重もの薄被(ヴェール)が掛けられていく。掛けられるたびに意識は怠惰へと引き寄せられる。ダメだとわかっても落ち込んでいく。深い底へ。まどろみの中へ。
*
五時間後に茉穂が目覚めた。未だ薄弱なる意識を立て直すため、手渡されたコップの冷水を飲んだ。意識を失っていた間の一連の出来事が水澤から説明される。千賀世はあれから目覚めていて、悪罵をついたり嘲笑したり、悪魔さながらの演技過剰な振る舞いに及んだ。するうち、卒倒していた道院が意識を取り戻し、よろめきながらも時間を掛けて立ち上がると、あろうことか千賀世の拘束具をつぎつぎに解いていったらしい。彼らは同じ枝でありながら別の存在だと互いに言い合っていたのに、モニターで水澤が見るかぎり、千賀世の側に道院が引き込まれた形で両者の関係に変化が齎されたらしい。
それから二人は小声でいくつかの言葉を交わした。内容は把握できない。二人は病室を抜け、廊下を通り、スタッフルームに入ってきた。鍵は掛かっていたが、どちらかの有する念導力によって鍵は有って無きが如きものとなった。こうなっては大の大人が幾ら集まろうと形無しだ。相手のされるがままというもので、何も言えず何も出来ない無数の目が二人に向けられても彼らは全く物怖じしない。
道院が先に口を開いたらしい。
「僕たちはあんたらにしてやられたよ。千賀世が教えてくれた。巫女絡みでここの組織が昔、何をしたかってことをね。千賀世ではないな。正確にいうなら、千賀世のなかのアンチ巫女なる存在にね――そう、あんたらが〈彼〉と呼ぶ存在だよ。僕たちには無くて、千賀世だけが有することになった〈彼〉はね、〈アーツ〉が本来知るべき真実を教えてくれる貴重な存在だよ。僕はもう戻らない。あんたたちのためには働かないし、かといって千賀世みたいに引きこもる生活も無理みたいだ。僕はこいつと行くよ。本来居るべき場所は望めなくとも、これまでとは違う時と場所に身を置く。その手にあるのは何だい? 僕たちを撃ちたいの。撃ってみる? でも目覚めた千賀世が黙ってないよ。撃った弾丸は進路を返して撃った方へ向かうだろうからね。まあ医局のあんたらにそんな度胸はないよね。じゃあ行くよ」
道院はスタッフルームを出て行く。後を追う千賀世はドアノブに手を掛けて締める前に、もう一度中を覗き込んで水澤に声を掛けた。
「先輩と引き合わせてくれてありがとう。何がしたいのか、何を為すべきかが見えてきましたよ。僕はこのために生きていた。なにもかもすっきりしてきた。もう二度とドジは踏みませんよ。貴方たちの道具にはならない。むしろ誰の道具になる積りもない。僕たちは僕たちの生き方で生き通します。邪魔立てするなら、ただでは済ませませんよ」
それだけ言って千賀世はドアを締める。後に残されたスタッフはその場に呆然とするしかなかった。真っ先に我に返った水澤は、病室に倒れている三人を保護するよう若手に指示を出し、彼は彼で上に連絡を入れることにする。守衛に掛けて二人を建物から出さぬよう伝えるかと思ったが、もともと〈アーツ〉である彼らに敵う一般人はいない。無駄に怪我人を増やすだけだ。ここは一旦抑えて、上層部への報告だけで我慢するしかない。
*
「それで今後の対処はどのように」茉穂は上司に尋ねる。
水澤は弱った表情を見せる。
千賀世はもとより道院までが離れてしまったのだ。これ以上、人的損失を蒙るわけにはいかない。かといって、〈アーツ〉二人に対して執りうる有効な手段がそう簡単に出るはずもない。「上と話したが、かなり困った状況だ。不快感を示されたよ。巫女が我らに託してくれた五人――いや、本来なら六人は皆、我らの助けとなるはずだった。陰謀に巻き込まれて毒殺されたとき、巫女は最後の力を振り絞って我らに希望を残してくれた。燦たる希望をみすみす曇らせてなるものか。上が機嫌を損ねようが、そんなことはどうでもいい。むしろ身を犠牲にしてくれた国士の魂を、我らの不作為によって腐らせてしまうなどあってはならぬことだ。道院と千賀世。どうにかして二人に連絡をつけよう。説得を試みる。千賀世の持つ世界観が正しいわけがない。本来の姿を歪められてはじめて存在しうる〈彼〉と〈彼女〉だ。千賀世の人格も両者に影響を受けている。〈アーツ〉は天才かも知らん。行き過ぎた天才だな。一部の力を極端に強めた不具とも思えない。道院は簡単に千賀世に説得されたように見える。〈アーツ〉の特性か? 泣き言は言っておれんよ。対策を練ろう」
水澤の想いが判らない茉穂ではない。主戦力である〈アーツ〉の、千賀世に対する精神的脆弱性。この状況を蔑ろにしては、組織の安定が瓦解する可能性も有り得る。彼が機器を放棄していないことを願って、茉穂は彼の通信機器へ通話コールを試みる。
意外にも相手にさくっと繋がる。
《ハロー、こちら道院。状況はどうですかあ?》ふざけている。
黙っていると相手が続けた。
《ごめんよ。腹を立てたのかな。それはどうも。さて、ところで、もうこちらからちょっかいを掛けることはないよ、安心していい。あんたたちの心配はあれだろ。他の四人も僕たちと同じ道に引き込もうとするのじゃないか? 御名答。それこそいま最大の懸案事項だ。〈アーツ〉の力は僕たち自身のために使うべきだ。好き勝手にあんたたちに使わせるのは間違ってる。近いうちに接触を試みるから宜しく伝えておいてくれ。どうせ何も出来ないさ。僕たちの意向を汲むほうが今後の為には有益だろうよ。考えておいてね》
そのまま通話を終わりそうな口吻だった。
「待って!」茉穂は勢い込んで叫ぶ。
沈黙のあと、ややあって《何?》と尋ねる声。
「貴方は考え違いをしてる。私たちは貴方たちを唆したわけでも騙したわけでもない。巫女の業績は知ってるでしょ。彼女が如何にして散ったか、如何にして分霊を行ったか。すでに聞いてるはずよ。使命は違えど、同じ組織で正義のために動いてきた仲間と思って、貴方たちに話しかけたい。私の話を聞いて。頼めないかな」
相手の考える間があった。
《素直な声だ。貴女の声に免じて静聴するとしよう。はじめて》
道院の声はスタッフルームのメンバーには聞こえない。水澤だけが同期しているコンピュータからヘッドフォンで通信を傍受している。水澤は会話を続けるよう茉穂に促した。
茉穂は頷く。「巫女の遺したもの――それが貴方たちという考えは正しいはず。他国が我が国を陥れようとあの手この手の画策に乗り出したとき、手を尽くし、策を凝らし、蒙るダメージを可能な限り軽微なものに抑えようと陰で尽力していたのが先代の巫女だった。表には決して出ない人だけど、関係者には絶大な信頼を得ていた人だった。ごめんね。知ってることを繰り返されるのが面倒なのはわかる。でも大事なことだから我慢して聞いて。それでね。以前に比べれば格段に力をつけた隣国と利益が内攻したときに、彼女は毒殺という憂き目を見た。苦しみの中に標したダイイングメッセージによって、貴方たちの存在を明らかにしてくれた。彼女の魂をわけた〈アーツ〉という宝。貴方たちは国の宝として十二分の力を揮って数々の任務を成功に導いた。それも他の誰にもできない大変な事業ばかりを。国相手の折衝のために多くの布石を打ってくれたし、要人の信頼を勝ち得てくれた。命の危険に曝されることも厭わず危地に飛び込んでくれる。他でもない、貴方たちだからこそ達成された困難な課題も無数にあった。頼りにしたのよ。貴方たちがいるからこそ裏方も仕事に張り合いが出た。要(かなめ)を失うわけにはいかない。この仕事に不満があった? 誰かのために動く、その誰かこそ、貴方たちの場合、最大公約数といってもいい、ううん、むしろこの国に生きるすべての人たちの安全な暮らしを支える要石として欠かすわけにはいかない存在だった。私たちには無いものを持つ貴方たち。その力をこれからどう使おうというの?」
茉穂は水澤を見なかった。デバイスの向こうの道院に気持ちを注いでいる。
返答の声は聞かれなかった。声はなくとも、息を呑む気配は感じられる。
「特防研には手を貸せないというのなら受け止めましょう。でも貴方の考えを聞かせて。それくらい、いいでしょう」
水澤の眉間に縦皺の入るのがわかった。自分が何を言ってるのか、茉穂にも判らないではなかった。社会人として未熟であることを彼女は噛みしめている。しかし未熟であることを逆手にとって、普通は自負心から尋ねることの困難な問いかけでも率先して試みられる利点を活かすつもりで彼女は行動を執った。「力を貸してきた国家を逆恨みして、意志を反転させて転覆を図るとかそんなことではないでしょう。なにか大義となるものを見つけた、そうではないの?」
水澤を含め、医局のスタッフに動揺の走るのが見てとれる。茉穂には直観があった。もとより巫女の分霊から兆した〈アーツ〉と千賀世。傾向は違えど、わが身を犠牲にしてでも他者を護ろうとした巫女の魂を受け継ぐ者たちが、一時の狂騒に駆られて社会に対して反旗を翻すなど考えられなかった。なにか邪魔立てされたくない本人にとって大切なことが含まれているのだろう。茉穂にはそういった確信があった。
《貴女はある程度のところまで見えてるね》声が弾むように聞こえる。《巫女はこの国のため、一国のためにこそ尽力しようとしたね。でもそれで果たして良いのかという問いかけが自分の中に起こってる。国によって利害得失が変化する。一国の姿勢に寄せれば他国の姿勢を受け止められず無理は内訌となって精神の荒廃へと転落する。一時の優勝は後世の劣敗に繋がる。取って取られての繰り返しに、足の下の大地も痩せ細る。痩せ細った大地は新たな実を結ばなくなる。危急のときもそう遠くない。だから僕たちは貴方たちとは違った遣り方で動くよ。時にはあんたらの不利益に繋がることもある。もともと力を持て余してたんだ。それに失った本来の僕にも関心がある。もし〈アーツ〉でなかったらいまの自分はどうだったか。千賀世を見てると、本来の自分について考えたくなる。千賀世の存在は、僕たちにとって永遠の謎だよ。もう連絡を取る気はない。デバイスは処分するから。お元気で》
「待って!」と声を掛けるが、デバイスは通信を終了した。茉穂はいまは一定の電子音の響くデバイスを耳から放して通話の終了ボタンを押した。
茉穂の周りには、懸念を示す表情の医局スタッフの姿があった。質問したいのを堪える表情だ。責任者である水澤の口の開くのを待っている。
「私たちに出来ることはそう多くないでしょう」口火を切ったのは茉穂だった。「先方の決意は固いと見ます。彼らを信頼することはできますか」
渋い顔をしたまま水澤は黙っている。
境江が代わりに応えた。「口先だけとは考えませんか。その場しのぎのことを口にした。いや。会話のすべてを聞いたわけじゃない。でも通話する仁科さんの声を聞きながら思ったんです。どことなく説得されてる風だなって。自宅訪問式のセールスマンのトークみたいな。あれに丸め込まれる人みたいな雰囲気がニュアンスとして声の調子に出てるように感じました。俺の勘違いならいいんですけど」
境江にしては鋭い指摘だと茉穂は思う。物事を深くは取らない相手だと思ってきたが、それは誤りだったか――茉穂は既知の情報に修正の必要を感じた。
斎木が異なる観点から指摘する。「私は境江さんのようには考えない。だけど、私たち三人は実際、千賀世くんに手痛い仕返しをされたんですよ。卒倒させられたのは境江さんだけど、仁科さんも私も意識を失う羽目に陥りました。そんな行為を厭わない人たちを信頼するなんて出来ないですよ。言葉巧みに説明されたからって、バカみたいに素直に受け入れるなんて、子供でもしませんよ。私は彼らを許せません」
声に恨みの混じるのがわかった。
水澤が割って入る。「いまの会話を皆が聞けるように取り計らう。すこし待ってほしい」
スタッフの一人に指示を出して、水澤は通話の録音データの再生を行わせる。程なくして部屋のスピーカーから先程の道院と茉穂の会話が聞こえてきた。茉穂は自分の声の調子に照れくささを覚えながらも、復習のために落ち着いて内容を聞きなおす。
二人のスタッフが小声で何か囁き合っている。各々思うことがあるらしい。
茉穂は意見のある者は発言するようにと促した。こそこそ仲間内で囁くより、全体に聞こえるように声に出してくれた方が有難い。
出た意見はたとえばこうだ。恩義を忘れて牙をむいた相手に譲歩してやる道義的責任はない。けして受け入れてはならない要求だ。みすみす彼らを逃してはならない。強気の発言だった。またこういった意見も出た。際限のない駆け引きのなかで大地が疲弊するという言い方は、比喩としては上等の部類に入るかは分からない。だけど、自分の生命力をすり減らす日常のストレスを思えば、彼の言いたいことの幾分かが見える気もするんだよね。とても大切なことを言ってるように思う。この発言をした彼は、大学では弁論部に所属していたという。きっと先の発言者の言葉とはちがった角度から、皆に考えさせるための代替案としてこの発言に及んだのだろう。また同情的な意見もあった。これは二十代の女性スタッフからだった。私は看護師として意見したいのですが、千賀世くんの状態はなんら明らかにされないままでした。正直〈アーツ〉のことも、巫女のこともちゃんと把握はできてませんよ。だけど、彼らが異常だとか、彼らは特別だとかいった意識は措いておいて、まずはケアが必要な状態かそうでないかを見極めなければなりません。私たちは医療従事者です。困難な状況に陥っている相手に対して適切な処置を行い良好な状態にしてあげる。そこを忘れてはならない。千賀世くんは四日も寝込んでました。鎮静剤の影響もありますが、それがなければ自傷他傷の恐れも考えられます。やはり依然としてサポートが必要な状態ではないですか。そのように彼女は言葉を締めくくった。
ほかにもひとりひとりに言い分があるようで、私も、自分も、と意見を言い合う空気がスタッフルームには生じていた。一通り皆が意見を言い終えた後で、水澤が自分の意見を述べた。
「猛獣遣いは猛獣を御す手段を持っているものだ。けれども、我らと〈アーツ〉の間には飴も鞭も通用しない。むしろ飴も鞭も〈アーツ〉の側が握っているといえよう。きょとんとしているな。いや。譬えが悪かったな。我々と猛獣遣いとを一緒にしたのが間違いのもとだ。でも、私の言わんとすることはわかってもらえるだろう。交渉のカードは一方的に道院と千賀世の方に握られているということだ。しかも二度と連絡が付かないかもしれないわけだ」
誰もが感じていることを整理するように水澤は吐きだした。問題はそこから先だ、と茉穂は耳を澄ませた。
「上層部にはすでに伝えてある。他の四人も遅かれ早かれ、千賀世の側に趨るだろう。道院の転回を思えば火を見るよりも明かだ。巫女の存在が我らの組織の礎を作ったわけだ。彼女の予知の能力によって、かつてどれだけの危機が回避されたことか。ここに居る者たちは当時を知らない者が大半だ。けれども、いまの〈アーツ〉五人分とまではいかないまでも、三人くらいの仕事は巫女一人でこなしていただろう。それほどに強大な力を持った存在だった。彼女に対して申し訳ないよ。組織の為か、世界の為か、か。私は判断を決めかねている。今一度、皆の意見を訊きたい」
意思決定がなされると思った処が、さらに質問の形式を取ったことで、この上司の中でもまだ葛藤が続いていることが茉穂には感じられた。自分もそうだからこそ判る。業務上の倫理を優先するか、それとも社会全体の利益を優先するか。自分の手の届かない場所で繰り広げられる攻防に対して人は無力を味わうものだろう。〈アーツ〉絡みの仕事について茉穂は常にそのような心と隣り合わせで仕事をこなしてきた。それでも同じ組織に属する相手ということで、親近感に近いものを覚えていたからこそ、未知の相手に対する恐怖心は抑えられていた。しかし千賀世と道院が特別防衛研究所――特防研から離れたいまとなっては、彼らが何をするにせよ、やはり不安もあれば恐れも感じてしまう。彼らのアイデンティティーの変容も気になる。その気になればこの世界を破滅に陥れることも可能な力を有するのだから憂慮してしすぎるということはない。両者の葛藤が、水澤の発言にも存在するのが感じられたからこそ、茉穂は自分の想いを口にすることに決めた。
「私の意見を述べても良いですか」茉穂が口を開く。
「どんなことでもいい。思うことを言ってくれ」と水澤。
「私は道院幸人ひとりの方針の転回であれば、まだ納得がいったと思います。しかしきっかけを作ったのは、千賀世という存在です。千賀世が触媒となって道院を変性せしめた、と考えれば、このまま事態を容認しておくことは危険ではないかと考えます。もとより千賀世は巫女の力を押し殺してました。それが何を契機にしてか、代々木の高架下で刃物を振り回すような錯乱状態に陥った。彼の中で何らかの葛藤があったと思われます。しかし私たちは彼の葛藤の何物をも確かめえてはいません。そこには何か常軌を逸したものが含まれると考えるのは当然の理ではありませんか?」
茉穂の懸念はいま述べたとおりだった。しかし言わずに置くこともあった。
病室で自身が意識を失う直前に見た千賀世の微妙な表情から読み取れたこと。それには確信が持てなかった。ゆえに話さなかった。戸惑いや怒りや苛立ちを表にあらわす彼の表情の内側に、寂しさや虚しさの片鱗がちらっと見えたのが、茉穂には印象的だったのだ。
浮かない表情をしている茉穂を見て、水澤が問うた、「どうした仁科。ほかに言うことがあるなら聞くが」
「いえ、私からは以上です。他のスタッフの言葉も聞きたいと思います」
境江からは一般的といってもいい質問が投げかけられた。
「どうにもわからんのです。ここの組織を出て、世界のために動くってなんですか。話が突拍子もなくて理解が追いつかないんですよね。中東の地域紛争とか、貧困や移民の問題、貧富の格差とか、民主主義の行き詰りとか、そういうことになんらかの対処をしてくれるんですか。香港が呑みこまれた。台湾がどうなるかわからない。日本だって尖閣を皮きりに、これからどうなるかも知れない暗中模索の二十一世紀が依然として進行中ですよ。ここは政治のことを語る場じゃないけど、俺、思うんですけど、外交カードに乏しい我が国にあって、他国に抽んでている要素といっては、これまでの〈アーツ〉の面々の個々の能力でしたでしょう。それをそっくり失って、我々はこれまでのように国のために動けるのですかね。これは切羽詰まった問題ではないですか。組織存続の危機といってもいいでしょう。元〈アーツ〉が世界のために動くって、それは言葉は良いけど、信用してしまっていいのですかね。俺にはそこのところがうまく理解できないんですけど」
境江の発言のあとに続く者は出なかった。通夜の場のようにしんみりしてしまう。
「境江君、君の懸念はよくわかった」水澤が言葉を引き継ぐ、「私なりに思うことはあるが、それは後にしよう。その前に、他に言いたいことのある者の声を募りたい。これに臆せず、続いてくれないか――」
スタッフは近くにいる者の顔を見たり、やや俯き加減に床を見たり、思案気な表情をして構えていた。誰かが動くのを待っていた。
時間だけが過ぎる。
「もう一度いいですか」と声があがる。
水澤の目は挙手している茉穂の姿を捉えた。「意見は何でも欲しいところだ、言ってくれ」
「私ばかり発言してごめんなさい。でも言わせてもらいたい。境江君の意見、内容、その懸念……私にもないわけじゃない。けれど、たぶん私たちには何もできない。力が違いすぎる。私の声は彼らには届かない。さっきの連絡でそれを痛感したの。かといって看過するわけにもいかない。でも私は水澤さんとも境江君とも異なる意見を持ってるの。彼らが何をしようとしてるのかそれはわからない。けれどもともと巫女の意志を尊重して作られたこの研究所であるなら、そこに所属する私たちには、彼らの行動を見まもる義務が発生すると思う。行動の母体は異なろうとも、源流を同じくする者同士、協力できないことはないと思う。向こうが協力を希望していなくても、こちらが彼らに寄り添う形で応援することくらいできるのじゃないかな」
茉穂の言葉が終わるか終わらないかに、若手の男性スタッフが言葉を投げた、「寄り添うなんていう消極的なことで、何ができますか」
「それは組織の死ではないんですか。能動的に動いてこそ組織は活きて行く。精神の衰亡という気がします。そんなことではダメでしょう」斎木の同僚である下田という看護師もきつい文言を口にした。
「私はそうは思わない。茉穂先輩の言葉にも採るべきものはありますよ」
「貴女はそうかもね。でもあたしには無理。千賀世の行動を見てたでしょ。あのどこに理性があるっていうの?」と下田。
女性スタッフ二人はしばらく言い合っていた。熱を帯びすぎる気配があると見たのか、水澤が口を挟んだ。
「二人の意見はわかった。双方の意見とも聞いておこう。そのうえで他に言いたいことのある者は?」
「もう一言、言わせてください」境江が挙手する。
「頼む」と水澤。
「確かにがっちり組み合ったパワーバランスが崩れることに俺たちは怯えてるだけ、恐れてるだけではないかと思う気持ちがあるんです。自分たちには今後立ち現れる難局を乗り越えるだけの力が不足しているのじゃないかという気持ちが、変化そのものを嫌悪する感情へと発展してるのじゃないかと。組織からその主力である〈アーツ〉が根こそぎ居なくなることは考えれば恐ろしいことかもしれない。でも、元から彼らはイレギュラーな力を持った面々だった。彼らが居なくても通用するように組織を組み直すことが必要なんだと、俺、思うんです。譬えが判りにくいかと思うんですが、サッカーの試合でメンバーが退場させられたとき、一人少ない状況でこれまでと同じ作戦を取り続けていては劣勢に立たされることは必然だと思うんです。備えも必要だし、不利な状況に置かれても戦えるだけの準備をしておかなければならない。これまでそれを怠ってきたと思うんです。いまからでも遅くはない。〈アーツ〉が居なくなった場合を想定して、準備を整えることが肝要ではないでしょうか。あ。いえ。立場も弁えず、出過ぎた発言だとは思うんですが、思ったので一応伝えておきたくて――」
「いいんだ。何でも言ってほしいと意見を求めたのは私なのだから」
水澤はうまく取りなした。
いまの境江の発言は上層部が考えてこそ意味のある内容だった。茉穂にも、彼の断りにもあったように出過ぎた発言と感じられたが、それでも状況に対する彼の不安そのものが伝わってきた。スタッフの気持ちは様々だろう。組織解体の可能性まで考えている者はいるだろうか。これまでの仕事が続けられなくなることも考えられる。なにより、仕事に誇りを持っていた面々にとっては歯がゆい展開に違いない。先の下田の苛立ちにも、彼女なりの義憤が籠っているのだろう。行き過ぎた発言も不用意な言葉も裏を返せば彼ら彼女らの仕事にかける意気込み、日頃の姿勢の真摯さを示すものと茉穂には感じられた。
茉穂が思案するうちにも、それぞれが自分の意見を述べあった。ある事柄は茉穂の耳にも聞こえたし、ある時は考えに気を取られて話半分にしか聞き取れなかった。
*
「まったく話を聞かなくなりましたね」と斎木が言う。
昼休み、茉穂と斎木美束は社員食堂のテーブルで向かい合わせに座って話していた。目の前には空になった定食の皿が置かれている。
言葉を重ねても頷くだけの茉穂をおいて、一方的に斎木が話していた。
「どこで何をしているのか。だけど当初の想定通り、他の〈アーツ〉は特防研を抜けましたね。これまで関わってきた北東アジアの政治情勢にどのように食い込んでいるのか、あるいはもう食い込むことをやめたのか、まったく解らなくなりました。無い物ねだりは、こちらのエゴでしかないのは判ってます。だけどあれだけの力を持ってるのに、情勢に積極的に関わることを拒むのは、わたし納得がいきません」
茉穂は汗を搔いている水グラスのつややかな表面を見つめている。話を聞くのか、聞かないのか、それすらも不安を覚えるほどの目の据えようで、話をしている斎木の方が不安になるレベルだった。
「わたしね、思うんだけど――」茉穂が口を開いた。
斎木は茉穂の目を見る。
茉穂も斎木の方をじっと見ていた。
「人は何物も作用してないと思うときほど実は何らかの支えを得ているもので、私たちが何も助力を得られてないと思っていることそれ自体が、彼らが裏で支えてくれてる証拠と見てもいいのじゃないか。ほら。お酒の銘柄にもあるけど、あの言葉――〈上善は水のごとし〉っていうの。殊更違和を感じさせないのが物事の最良ってことでしょう。〈アーツ〉だもの。状況に自然と融け込んで、周囲ににそれと気取られることもなく、状況を巧くコントロールしてるんじゃないかな。確かに寂しいと思うこともある。私たちには決して手の届かない処で戦ってるわけでしょう。私たちはまったくお呼びが掛からないわけだしさ。でもよかったんじゃないかな。上層部に若干の人事異動はあったけれど、大過なく組織存続も道筋はついたんだから」
「そういうことを言いたいわけじゃないけど、でもそうですね、〈アーツ〉が離脱すると聞いた時には世の中がもっと恐ろしいことに巻き込まれると思ってたけど、想像したようなことは何も起こらなかった。あるべき事があるべき通りに進行して、つつがなく毎日が経過してる。変化を厭う気持ちはあるけれど、私たちが知らない間に知らない場所で物事はひっそりと前に進み続けてる。変化に気付くのはもっと先だし、もしかすると一生その変化に気付かないかもしれない。だけど、私たちの仕事。……なんて言ったらいいか……えっと……私たちはこの組織の中で何を担って何に働きかけてるんでしょうか?」
茉穂の視線が下がり、目はA定食が載っていたメインの皿に向けられた。縁にかすかに残るタルタルソースの白身の塊が目立っている。
「氷山の一角っていうけど、表に見えてる部分があってこそよね」茉穂はこぼした。「何も見えない夜の海で、あるとき船底にごつんと来たら、時すでに遅しっていうやつだしね。欲張りなことをいえば、やっぱり目に見えるところに存在はあってほしい。見えないにしても、彼らは私たちと目的を一にしてるって信じられてこそと思うわけ。現状何も見えない何も判らないままに納得することを求められるって、そんなのは心理的に無理がある。モチベーションにも関わってくるのがほんとのところかな…………ううん、ごめんなさい。こんなこと話すつもりはなかったんだ。聞かなかったことにしてほしい」
話を聞く間、緊張した面持ちを見せていた斎木は、茉穂の焦りを目のあたりにするや頬を綻ばせた。
「私も不安ばかりです。先輩にも気弱になる側面があるってわかって、そういうの悪くないなって思います」
「そっか」茉穂はくすっと笑った。
執筆の狙い
書いてる途中のものなんですが、とりあえずいったん公開いたします。
これはラストまで書きたいのですが、書いたあとで構成を再考するようにしたいと思ってます。
中途の作品で申し訳ないです。
いちおう、三人称神視点の書き方を次作で試したいと思っていて、その移行期として、三人称一元視点的な書き方になっております。気が付いた点等、お教えいただけるとありがたいです。