あの頃の面影
加奈の横顔を初めて見たのは僕が高校生の頃だ。たまたま廊下ですれ違ったときに彼女の存在を知った。その時は彼女のことを見ても気にも留めなかった。僕はテストの結果や部活動のことで頭がいっぱいだった。
高校三年生の時、僕らは同じクラスになり、僕の隣の席に加奈が座っていた。僕らは自然と話をするようになった。僕には当時、好きな女性がいたし、加奈のことを特別魅力にも感じていなかった。でも僕らは親しくなった。
電車に揺られながら窓の外の景色をじっと眺めていた。窓の外には住宅や公園、高校の建物などが見えた。僕は電車の中で加奈と出会った頃のことを思い出していた。彼女は明るくて優しくて、誰もが彼女に好感を持ったに違いない。僕は当時から彼女の人生はとてもうまくいくと思っていた。
大学生の頃も取り立てて変化はなかった。彼女は地元の大学に通い、僕は東京の私立大学に通っていた。夏休みや春休みには二人で、喫茶店で話をしたりした。彼女は大学を卒業すると、小学校の教師となった。しかしすぐに彼女は仕事を辞めてしまう。僕らは休日に電話をしたり、会ったりしたが、その頃から彼女の印象が変わってしまった。高校生の頃の彼女の魅力はすっぽりと抜け落ちてしまったように感じた。僕の目の前にいる加奈の表情はどこか柔らかさを失い、緊張感があるように感じた。
そして加奈は鬱病となり、今は療養所で暮らしている。僕は加奈がそんな状況に置かれて少し困惑していた。二人で思い描いていた未来が急に崩れてしまった気がするのだ。でも今の僕にできることは病気で苦しむ彼女を励まし、できるだけ側にいることだった。
しばらくの間、僕は電車に揺られていた。辺りは閑散としてきて、車内には数人の乗客しかいない。窓の外には太陽と遠くに広がる山が見えた。
電車を降りて、駅の外に出ると、バス停やまばらに店があった。ちょうどバスが来ていたので僕はそのバスに乗った。十五分ほどバスに乗っていると、療養所に着いた。辺りは林に囲まれ、大きな門がある。僕はそこを通り抜けて、奥にある茶色の壁の建物に向かう。建物の中に入ると、受付が玄関にあり、僕はそこで名前と電話番号を書いた。療養所の中はとても静かですぐ近くのテーブルに患者が座っていて、小さな声で話をしていた。僕はエレベータに乗って加奈のいる病室まで行った。
ドアをノックすると加奈の声がした。僕はドアを開けた。彼女はスウェットにパーカーを羽織っていて白い布団のベッドに腰かけていた。
「来てくれたんだ。遠かったでしょ?」
彼女はとてもぎこちなく笑った。僕は昔とはすっかり変わってしまった彼女に少し戸惑っていた。
「これ、東京のお土産。チョコレートクッキー」
僕は手に持っていた紙袋を彼女に渡した。
「お土産なんて買ってこなくてもよかったのに」
彼女はそう言って箱を取り出した。やっぱり昔の彼女の明るさは消えてしまったようだった。でも僕はこうして彼女と過ごしているが、どこか解放感を感じていた。いったいこの解放感はなんだろう。
加奈の部屋はベッドとテーブルと小さな椅子があり、壁際には棚とテレビが置いてある。一人暮らしのワンルームのアパートくらいの広さだった。
「最近は何かしてるの? 前に来た時は絵を描いてるって言ってたけど」
「ここにいてもすることなんてあまりないわね。この前まで絵を描いていたんだけどそれにも飽きちゃってね。今は本を読んでるの」
加奈はそう言って棚を眺めた。棚には何冊かの文庫本が入っている。
「本を買ってくればよかった」
僕は東京駅で本を買おうか迷ったのだったけど、結局加奈の好みがわからなかったので買わなかった。
「最近は推理小説を読んでいるの」
加奈はクッキーの箱を開け、チョコレートクッキーを食べていた。
「ねえ、こんなことをいきなり聞くのはあれかもしれないけど、体調はどうなの?」
「それがね、結構よくなっている気がするの。なんだか不思議だけど」
「前の生活に戻れそう?」
「たぶん、後一年くらい経てば大丈夫だと思う」
「もしそうだったら、僕と一緒に暮らそうよ。今マンションに住んでいてさ、部屋が一つ空いているんだ。二人で暮らせるくらいの広さはあるしさ」
僕の心の中で昔彼女と夢見た暮らしを思い出していた。あの頃はもっと順調に物事が進んでいくと考えていた。僕は高校生の頃から彼女に惹かれていたし、きっと彼女も僕のことを好きになってくれていると思っていた。
「そうね……」
彼女はどこか浮かない顔だった。何か心配事があるんだろうか。
「そういうわけにはいかないの?」
僕はその理由を聞こうと思った。
「病気になってね、いろいろと考えるようになったよ。それは今まで考えもしないことだった。私自身病気になってからずいぶんと変わってしまった気がするの。それでね、昔みたいに生きることに喜びを見いだせなくなってしまった気がする」
「それはつまり?」
僕の心臓は激しく鼓動していた。
「いや、別に一緒に暮らすのが嫌って言っているわけではないの。でもね、私は昔の私じゃないのよ」
夕方に僕らは療養所の食堂で夕食を食べた。加奈は僕の目の前に座り、味噌汁をすすり、ごはんを口に運んでいた。
確かに僕の目から見ても加奈は変わってしまったような気がした。まさかそのことに加奈が気づいているとは思わなかった。鮭のソテーを口に運ぶと優しい味がした。静かで落ち着いていて、確かにここにいれば精神は癒されるかもしれない。
でも、もし一生自分がここにいたら、どうなんだろうと思う。それは幸せなのだろうか。
「時々考えるんだけどね」
彼女は僕の目をじっと見つめて話始めた。
「私が高校生の頃、あなたと過ごしていて、このまま生きていくことにどこか不安があったの。私には当時その理由がわからなかった。でも私が病気になってここに来た時ようやくその不安の理由がわかったの。小さい頃から夢だった小学校の先生になったのに、それも駄目になって、先行きは暗く思えた。でも今の私はこうなってよかったと思うの」
「こうなってよかったの? 病気で苦しんでいたのに?」
「もちろん辛い時期はそうは考えられなかった。でも回復しつつあるときに、今見ている世界も悪くないと思うようになったの。昔みたいな安心感に包まれた世界ではないけれど」
僕らは静かな食堂で夕食を食べ終え、加奈と一緒に療養所の外に散歩に出かけた。外は冷たい風が吹いていて、大気は澄み切っていた。東京の空気とは全然違う。この場所は僕の地元でもあったので、やっぱり僕はなんだかんだ言っても地元が好きなんだなと思った。加奈は僕の隣で寒そうに体を震わせていた。こうして夜に二人で外を歩いていると、僕らは高校生の時のようだなと思った。加奈の吐く息は白く、僕の吐く息も白く、大気に溶けていった。療養所の外は芝生があって、花壇や畑もあり、その周りを林が囲っていた。
「なんだかここ最近で今が一番幸せな気がする。隣にはあなたがいるし、風は気持ちがいいし」
加奈はそう言って空を見上げた。僕も空を見上げる。空には月が浮かんでいて、星が空一面に輝いていた。銀色のダイヤモンドのような星だった。月の光ときらきら輝く星が辺りを照らしているようだった。こうして見ると地球はとても大きいんだなと実感する。いったいこの宇宙はどれほど大きいのだろうか。そしてなぜ僕らはこんなにも奇妙な人生を生きているのだろう。
執筆の狙い
とある小説に影響されて、短いですが書いてみました。