初恋とローヒール
カミサマが言いました。
カミサマは白いモジャモジャ髪で白いワンピースを着られています。
君は大変苦労人のようだ。
ええ苦労人です。
私は答えました。
カミサマは向かって右手の杓子を私に向けられました。
君は今日から自由人だ。
ほうつまり。
カミサマは私の前に正座をして座り頭を垂れられました。
君には随分と世話になった。
ちょっとどういうことですかそれでは私は。
君にとって私は疫病神だったようだ出ていきますよ。
待ってよ。
私は立ち上がってカミサマを押し止めようとしました。
カミサマはいえカミサンは言いました。
今朝いつもの味噌汁を作っておきました。
そう言ってカミサンは右手の玉杓子を投げて出ていきました。
そういう訳で、ワシは一人身じゃ。
言葉遣いもすっかり気楽なジイサンになって早三ヶ月と十日じゃ。
今日も今日とてお気に入りの女給のいる喫茶店に出向くコトにしよう。
喫茶店への道は秋の気配でイチョウの枯れ葉なんぞ頭の上から降ってきてまだ黄色が勝つその葉にタメ息なんぞ出たりもする。
葉は歩道と車道の間くらいに落ちてワシはまだ明るい空の下を喫茶店へと急いだ。
ベージュの薄手のコートの襟を直してから喫茶店のガラスのドアーを開ける。
重い感触とドアーの上に付いている小さなベルが気持ちの良い音を立てた。
内側に開いたドアーの向こうには朱色のベロアを基調とした店内が見える。
向かって右手の樫の木で出来たカウンターの中には壮年のマスターが立っている。
マスターはきっと手入れの行き届いた真っ黒なオールバックヘアーが今日も決まっていてグラスを拭いているところだった。
ショートタキシードを着たマスターは私の顔を見ると軽く会釈をしてグラスを食器棚に置いた。
「こんにちは。今日もお一人で?」
ワシはコートを脱いで答えた。
「ヨッちゃんいる?」
マスターは顔色一つ変えずに「ええ」と言った。
ワシは足元の絨毯を見て小さな声で言った。
「それならいいんだけれど」
絨毯はペルシャ産の物で長い毛脚がワシの茶色の靴の形に沈んでいた。
「あら。ワシちゃんじゃない」
その時トイレから女給のヨッちゃんが出てきた。
ヨッちゃんは自分のローヒールの黒いエナメルパンプスのかかとをヒップ側に上げてそれを見ながら一人言を言った。
「本当にベンピで困っちゃうわ」
マスターが樫の木のカウンターの上に両肘を付いて身を乗り出した。
「ちょっとヨッちゃん。お客様の前で何言ってんの!」
「だってえ」
ヨッちゃん膨れっ面をして両手の親指と人差し指を遊ばせた。
「いいんだマスター。気にしてないよ。ね。ヨッちゃん!」
「それならいいのですが……」
「ねえ。ワシちゃん。奥さんは?」
ワシは突然急所を突かれて「ぐっ」となった。
「そんなにビックリした顔しなくっても」
「ヨッちゃん。席にご案内して」
マスターは少し困った顔でそう言った後冷蔵庫の方に行ってしまった。
いつもの席に座ったワシにヨッちゃん本当は吉美(よしみ)と言うのだそうだけれどがメニュー表を持ってきてくれた。
「オススメはレモンパイですけれどどうします」
「それをお願いするよ……」
吉美ちゃんが運んできてくれたレモンパイは爽やかですっぱくて初恋の味を思い出した。
そういえばカミサンと初めてこの店に訪れたのもこんな初秋の午後だったなあ。
「あら。もうお帰り……?」
吉美ちゃんが珍しく言葉をにごしてワシを見送った。
厚くて重い半透明のガラス製のドアーを再び開いたワシは来た道を急いだ。
畳敷きの部屋に座って窓から入る夕日をながめていた。
それからやっと台所の味噌汁を見に行った。
中くらいの丸い鍋にはなみなみと私の好きな田舎の味噌汁が作られていた。
その味噌汁に火を入れる。
そのとき食器乾燥棚の上に白い紙が見えた。
一枚だけらしいその白い紙を手に取りまじまじ見つめた。
『貴方がもし反省したら帰ってきます。』
ワシは妻の実家に電話を掛けた。
「ワシと一緒にあのレモンパイを食べに行こうよ!」
電話口で
「ええそうですね。太郎(たろう)さん」
と節子(せつこ)は笑い声を立てた。
了
執筆の狙い
1800字足らずの掌編です。
実験作です。
カミサンが出ていった……。