作家でごはん!鍛練場
青木 航

坂東の風 第二十話~第二十七話

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(図では伊尹、師氏が省略されています)

 【第十三話 嵐の前】

 康保(こうほ)三年(九百六十六年)秋。公卿(くぎょう)達が顔を合わせている。と言っても、正式な会議では無い。下話、いわゆる根回し的な会合である。
 正式なものであれば、参議まで含めて十五人ほどが集まるのだが、今、この場に居るのは四人のみである。 

 左大臣・藤原実頼(さねより)、右大臣・源高明(たかあきら)、大納言・藤原在衡(ありひら)、同・藤原師尹(もろただ)。以上の四人である。

「修理大夫(しゅりだいぶ)・源重信(みなもとのしげのぶ)から要望が出ておる。
 天徳(てんとく)四年の内裏(だいり)焼亡以来、再建した内裏各所で度々火災が有るが、今年も修復の為の資財の在庫が不足して来ているので手当てして欲しいと言うことじゃ」

 左大臣・実頼が口を切った。

「資財が足りないと言って、焼け跡をいつまでそのままにして置いては、朝廷の威光に拘わるが、問題はその費用をどこから捻出するかと言うこと。人手も不足しておるようじゃ」

 右大臣・高明がそう補足した。

「御所(ごしょ)修復の為として、新たに各地に調銭(ちょうせん)を課すしか御座いますまい。匠丁(しょうてい)(飛騨工(ひだのたくみ))の増員も求めなければなりませぬな」

 そう提案したのは、大納言・藤原師尹(もろただ)である。

「承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱の後、『朝廷の財政も逼迫(ひっぱく)しているゆえ倹約に努めよ』とのお上(かみ)のご意向が有り、差し障りの無い所は暫くそのままなりと苦しゅう無いと仰せではあるのだが、そうも行かぬしのう」

 高明は悩ましげに眉を寄せた。

「各地に更なる負担を求めるより、自(みずか)ら進んで引き受けたいと言う者に負担させてはいかがで御座いましょう」

 そう進言したのは大納言・藤原在衡である。

「成功(じょうごう)か?」

 実頼が応じる。 
 成功(じょうごう)とは、この頃から朝廷が盛んに行なうようになった財政政策で、本来は、造営や大礼(たいれい)などの費用を献じた者を賞して任官させる制度である。
 在衡の提案は、本来結果を賞して官位を授けるべきものを、官位授与を条件に金や物を寄付させようと言うのだ。要は官位を売りに出すと言うことだ。

 この成功(じょうごう)が次第に頻繁に使われるようになり、平安末期には下位の位階が債券のように常時売買の対象となってしまう。そして、遂には位階制度が半ば崩壊してしまい、六位以下の位階が何の意味も持たないものになってしまうのである。

 だが、この時点に於いて彼等が、そんな将来の弊害を予想出来る訳も無い。逼迫(ひっぱく)した財政の下(もと)で費用を捻出する術(すべ)として、増税よりましと挙(こぞ)って賛同した。

「さすが年の効。このような場合にも成功(じょうごう)を使うとはなかなかの考え。さっそく募ることに致そう」

 実頼が満足そうに言い、他の二人も頷いた。

「費用を捻出することは急務であるが、そればかりではなく、頻発する火災をいかに防ぐかが大事と思う」

 高明がそう付け加えた。

「近衛府に寄る見廻りをもっと強化せねばならぬな。滝口武者(たきぐちのむしゃ)も加わらせよう」

 実頼が話題を終息させるつもりで述べる。

「それも大事。しかしながら、不届きな付け火は別として、集まりが夜分多く行われるようになり、明かりを灯(とも)すことが多くなったことも、火災が頻繁に起こるようになった原因のひとつと思われます。
 このように夜遅く行うのでは、もはや朝議(ちょうぎ)とは言えますまい」

 実頼、師尹(もろただ)に取っては触れたく無い話題である。

「しかしそれは、帝(みかど)の御臨席(ごりんせき)を賜る朝議の前に話を纏めて置かねばならぬゆえ、仕方無いことでは御座らぬか」

 師尹が高明の発言にそう反論した。

「前の晩に話を纏めて置くなどと言う面倒なことはせず、帝(みかど)御臨席の許(もと)、一から話せば良いこととは思われぬか。さすれば、夜、集まる必要も無い」

 実頼と師尹が、一瞬言葉に詰まったように見えた。

 高明が主張しているのは、形だけでは無く、真の帝(みかど)親政にすれば良いと言うことなのだ。
 今は、決まったことを承認する、形だけの親政になっており、これは、敢えて摂関の地位を要求しない代わりに、実質的な政(まつりごと)は実頼、師輔の合議で行うと言う、忠平亡き後の妥協をひっくり返そうと言うことなのだ。
 帝(みかど)は名を取り、摂関家は、名を捨て実(じつ)を取ることに寄り均衡を保っていたはずだった。

 師尹(もろただ)が後任の右大臣に成っていたら、こんなことは起こり得なかった。だが、今の摂関家には、高明を飛び越して師尹を右大臣にするような力は無かった。
 右大臣となり、更に力を付けた高明にして、始めて口に出来る言葉だったのだ。

「ご意見、一理有るかとは思うが、それでは長い間、御臨席を賜ることになり、帝(みかど)のご体調が案ぜられる。またもし、我等の意見が一致せず揉(も)めるようなことが有れば畏(おそ)れ多い。
 まずは、火の始末の確認と見廻りを徹底することに致そう。では、次に参ろう」

 一(いち)の守(かみ)の威厳を見せ付けようとするかのように、実頼は半ば強引にこの話題を収束させてしまった。

「次は、右大臣殿の推挙に依る、源延光(みなもとののぶみつ)を参議に列するかどうかと言う件であるが、何か申すことの有る者はおるかな?」

「特に御座いません」

 反対すべき理由が特に無いからそう言わざるを得ないのだが、高明の意向に寄り、参議以上の公卿に源氏が一人増えることなので、余り面白くは無い。師尹(もろただ)はそんな気持ちを露骨に表情に表していた。
 この年の正月の除目(じもく)で実頼の次男・頼忠(よりただ)が参議と成っており、交換条件のように出された要求であるから、実頼が拒否出来ないことが分かっているので反対しても仕方が無い。

「麿にも異存は御座いません」

 在衡は何の外連味(けれんみ)も無く、素直に賛同した。

 源延光四十歳。故・代明(よしあきら)親王の三男であり、自身が臣籍降下した醍醐(だいご)源氏である。高明から見れば、異母兄の子、即ち甥に当たる。
 侍従を皮切りに、春宮権亮(とうぐうごんのすけ)、内蔵守(たくみのかみ)、右兵衛督(うひょうえのかみ)などを歴任し、蔵人頭(くろうどのとう)の職に在(あ)る。
 これが通れば、参議以上十六人中六人が源氏となる。因みに、右大臣・高明、中納言・兼明、参議・雅信、同・重信、同・重光そして、延光の六人である。
 これに対し、藤原氏は八人だが、摂関家の者はと言えば、左大臣・実頼、大納言・師尹、中納言・師氏(もろうじ)、参議・伊尹(これただ)、同・頼忠の五人。実頼が六十七歳の高齢と言うことを考えれば、危機を感じざるを得ない状況となっていた。

「特に異論が無ければ、秋の除目(じもく)に於いて延光を参議とすることを了承し、帝(みかど)の御裁可を仰ぐことと致そう。本日はこれまでと致す」

「忝(かたじけな)く存ずる」

 高明は、最初実頼に、そして他の二人に頭を下げた。

「右大臣殿。少し宜しいかな」

 実頼が言った。

 大納言二人は、礼をして出て行く。その後ろ姿を目で追って、実頼が高明の方に視線を戻す。

「最初から帝(みかど)の御臨席(ごりんせき)を賜る件に付いては、少し時を貰えぬか。検討してみる」 

「お願い致します」

「それと、師尹(もろただ)の態度に付いては許されよ。ああ言う男なのじゃ」

「はて、何の事か? 麿が特に気にするようなことも無かったと思いますが」

「それならば良い。若い者の中にも少々跳ね上がった考えの者もおるようじゃが、麿は、今後とも貴殿と手を携(たずさ)えて政(まつりごと)を行って行こうと思っておる。宜しく頼む」

「何を仰せかと思えば。麿は未だ未熟者。ご指導ご鞭撻を、今後とも宜しくお願い致します」

 高明は丁寧(ていねい)に礼をして出て行った。
 その姿をまた目で追って、実頼は腰を下ろした。

    ~~~~~~~~~~

 相変わらす伊尹(これただ)が何のかのと言って来る。
 摂関家の栄光を取り戻す為に先頭に立って頂きたいなどと言っているが、腹の中では不甲斐(ふがい)無い氏(うじ)の長者(ちょうじゃ)と馬鹿にしているのが見えてしまう。
 要は、自分の栄達の道を付けてくれるよう迫っているだけだ。

 今は同じ参議である我が子・頼忠も、いずれは伊尹の後塵(こうじん)を拝することになることは目に見えている。
 なぜなら、東宮(皇太子)・憲平(のりひら)親王、その後を襲う(継ぐ)と見られる為平(ためひら)親王も、共に伊尹の妹・安子(あんし)を母としているからだ。実頼にはそうした手駒が無い。
 いつも次弟(じてい)・師輔(もろすけ)に負い目を感じながら生きて来た。官位も官職も追い越されたことは一度も無い。しかし、弟・師輔は『一苦しき二』(上席である兄・実頼が心苦しくなるほど優れた次席の者)とまで言われ、朝廷の実権は実頼よりも師輔にあった。
 その師輔は先に死に、自分は幸いにして長寿を得ている。だが、娘を入内(じゅだい)させ外戚(がいせき)となることを狙ったが、それも叶わなかった。左大臣と成ってからも、権力を得たと言う実感が無い。
 摂関家の復権に尽くしたとしても、その果実を得るのは、恐らく師輔の子や孫達で、我が子や我が孫では無い。そう思うと空(むな)しくなって来て思わず涙ぐみそうになることさえあるのだ。

     ~~~~~~~~~~

 伊尹(これただ)の舘、兼家の舘、更に師尹(もろただ)の舘と、満仲はこの頃忙しく動き回っている。

 その成果か、三日前には伊尹が師尹の舘を訪ね長い間話し込み、更にその足で師氏の舘を訪ねている。
 その翌日には、兼家が実頼の舘を訪ねたが、短い間居ただけで、渋い顔をして帰って行った。
 だが、満仲がこうした動きを高明に報せることは無かった。

 その年の暮れ重大な事が起こる。
 高明に取っても、実頼に取っても、伊尹に取っても、それは想定外の出来事であり、これを切掛けに歴史は大きく動き出すことになる。


 【第十四話 帝御不例】

 康保(こうほ)四年(九百六十七年)五月十日。高明は村上帝に接見していた。

「そなたが右大臣に転じたこと、朕(ちん)は誠に心強く思うておる。
 即位以来、心に強く念じて来た我が想いにも光明が差して来た。少しの辛抱であるな」 

「臣が微力なるを以て、永らく御心(みこころ)を煩(わずら)わせしこと、誠に畏(おそれ)れ多きことと存じております」

 帝(みかど)は目を閉じ、わずかに顔を横に振った。

「大儀(たいぎ)と察しておる。じゃが、いま少しのことであろう。力を尽くしてくれ」

「ははっ。畏(かしこ)まりまして御座います。なれど、これからは、一層、慎重に事を運ぶ必要が御座います。寝ている虎の尾を踏まぬよう、心して事に当たる所存に御座います。晴れ晴れとした御龍顔(ごりゅうがん)を拝する日を楽しみに一層力を尽くします」

「頼むぞ」

「ははっ」

「右大臣」

 帝(みかど)にそう呼び掛けられて、高明は頭を下げ、次の言葉を待った。
 しかし、続く言葉が聞こえて来ない。思わず帝(みかど)の顔を見ると、わずかに口を開き何かを言おうとしているように見えた。帝(みかど)の表情が、悲しげに歪んだ。高明は、慌てて目を伏せた。
 通常、帝(みかど)が臣下と接見する時は御簾(みす)が降ろされており、臣下から帝(みかど)の表情を見ることは出来ない。しかし、高明とふたりだけで接見する時に村上帝は、いつも、御簾(みす)を巻き上げさせているのだ。

「良い。またのことに致そう」

 頭を下げた高明の上を、帝(みかど)の言葉が通り過ぎて行った。

    ~~~~~~~~~~

 四日が過ぎた。五月十四日。

 左大臣・実頼と共に朝議の結果を帝(みかど)に奏上し決済を受けた後、高明は先に近衛詰所(このえつめしょ)に戻っていた。

 あの時、最後に帝(みかど)は何を言おうとされたのか。それがずっと気になっていた。考えが有ってやめたのか、或いは体調のせいで言葉に詰まったのか。気になって奏上の際、帝(みかど)の言葉に注意を払っていたが、特に変わったことは無かった。
 ひとまず安心という訳だが、何か漠然とした不安が沸き上がって来て、拭い去ることが出来ない。

 そんな時、蔵人(くろうど)の一人が顔色を変えて現れた。
 殿上で走ることは禁じられている。どんな緊急な時でもばたばたと足音を立てて走ることは無いのだ。腰を落として摺(す)り足で精一杯急ぐ。
 そんな訳で、蔵人が姿を現す迄、高明は異変に気が付かなかった。悪い予感が当たってしまった。

「右大臣様。急ぎ清涼殿へお越しを。帝(みかど)がお倒れになりました」

 蔵人が声を圧(お)し殺して高明に告げた。
 高明は無言のまま清涼殿に急ぎ、昼御座(ひのおまし)に至った。
 東廂(ひがしびさし)に御座(ぎょざ)が有り、孫廂(まごびさし)に控えた侍臣(じしん)と御簾(みす)越しに接見し、政務を聞いたりする場所だ。
 しかし、そこに既に帝(みかど)の姿は無かった。御簾(みす)が荒々しく巻き上げられた跡が有るのみで、御座(ぎよざ)はがらんとしている。

 高明は急いで夜御殿(よるのおとど)に向かう。御簾(みす)の前は取り乱した女達で溢れていた。 


「静かに致せ」

 御簾(みす)の中から、凛(りん)とした声が響いた。
 中宮・安子(あんし)は応和(おうわ)四年に既に崩じている。声の主(ぬし)は女御(にょうご)の徽子女王(きしじょうおう)である。重明(しげあきら)親王の第一王女であり、母は藤原忠平の次女・寛子(かんし)。朱雀(すざく)朝の伊勢斎宮(いせのいつきのみや)であり、その後、村上天皇の女御と成った。
 斎宮(いつきのみや)を退下(たいげ)の後に女御に召されたことから、斎宮女御(さいぐうにょうご)と称されている。

 他に荘子(そうし)女王、藤原述子(ふじわらのじゅっし)、藤原芳子(ふじわらのほうし)という女御(にょうご)達が御簾(みす)の中におり、御簾(みす)の外には多数の更衣(こうい)達が侍(はべ)っている。
 高明が現れたことに気付き、女達が脇に寄って道を開ける。実頼は御簾(みす)の直ぐ前に座っていた。

「御容体(ごようたい)は?」

 実頼は悲痛な表情で大きく首を横に振った。

「鼾(いびき)をかいておられる。御意識(みいしき)は無いようだ。僧を手配しておるゆえ、今はただご快癒(かいゆ)を祈るのみじゃ」 

 実頼の言う『僧を手配した』と言うのは、死を予期してのことでは無い。病気平癒(へいゆ)の祈祷(きとう)をする為だ。 
 脳梗塞と思われる病人を直ぐに動かし、大勢の僧が昼夜を徹して大音量で、枕元で読経(どきょう)するのである。現代の常識からすれば命を縮めるだけのことでしかない。だが、この時代とすれば、それが精一杯のことなのだ。
 必要な手配をした後、実頼と高明は、一旦、清涼殿から下がり、公卿達を緊急招集した。

 左衛門督(さえもんのかみ)でもある中納言・師氏(もろうじ)に各門の警備の強化を、検非違使の別当(べっとう)・参議・藤原朝成(ふじわらのあさなり)に洛中警備の徹底を命じた。
 左近衛大将(さこんえのたいしょう)は高明自身である。右近衛大将(うこんえのたいしょう)である大納言・師尹(もろただ)と中納言・左兵衛督(さひょうえのかみ)・源兼明(みなもとのかねあきら)には、不測の事態に備えるよう命じた。

 公卿達は徹夜で御所に詰めることになる。
 二日目の午(うま)の刻頃になると、皆、疲労が限界に達して来ていた。

「麿がおりますゆえ、下がって少しお休み下され。何か有れば、直ぐにお報せ致します」

 駆け引きなどでは無く、高齢の実頼を気遣って、高明の本心から出た言葉だった。

「お言葉に甘えさせて貰うことにする。年には勝てぬな。何、少し休めば大丈夫じゃ」

 疲労の色がありありと見て取れる。
 御簾(みす)に向かって深々と頭を下げた後、読経の響く中、実頼は下がって行った。

 帝(みかと)御不例(ごふれい)との噂は、あっという間に都中を駆け巡った。
 噂から人心が乱れ、不測の事態が起こることを恐れ、太政官は帝(みかど)の不予(ふよ)を公表し、歌舞音玉(かぶおんぎょく)を禁じ、不要な外出を控えるよう通達した。

 東市からも人の姿が消え、洛中が閑散となり、走り回っているのは検非違使のみである。

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 五月十四日。牛車(ぎゅっしゃ)と共に高明の退庁を待っていた千晴は、変事を聞き、一の郎等にその場を任せ、一人、内裏(だいり)を離れた。 
 一旦、高明邸に寄り、家司(けいし)に報告をした後、舘の警備に当たっている自らの郎等を集め、一層注意して警戒に当たるよう訓示した。また、留守居の郎等を廻し、警備を増強する旨伝えた。

 舘に戻ると千晴は、下庁次第舘に来るよう久頼と千方の許(もと)に使いを送った。検非違使らを除いて、下級官人(つかさびと)まで足止めは掛かっていなかった。

「帝(みかど)が倒れられた。内裏(だいり)の内におられる間はいかんともし難(がた)いが、それ以外の場所での高明様をお護りすることが第一。そして、お舘の警備。気が抜けぬ日々が続くことになる。そのほうらの力も借りねばならぬことになろう。心してくれ」

 眉根(まゆね)に皺(しわ)を寄せて千晴が言った。

「高明様のお立場はいかがなりますでしょう?」

 久頼が尋ねた。

「今、そのようなこと、余り論ずべきことでは無いが、先ず、心配は有るまい」

「下野(しもつけ)の兄上にも報せて置いた方が宜しいのでは」

 言ったのは千方だ。 

「汝(なれ)に任せる。目立たぬようにな」

「畏(かしこ)まりました」

「分かっておるとは思うが、大勢の郎等を連れて洛中を歩くことの無いように」

「心得ております」

    ~~~~~~~~~~

 秋天丸は、目立たぬように単身徒歩で洛中を抜け、近江まで走った。
 そして、甲賀の郷(さと)に入り、兼家に訳を話して馬を借り、下野へと向かう。
 望月兼家は帝(みかど)御不例(ごふれい)に付いては、既に情報を得ていた。

    ~~~~~~~~~~

 満季の使いから帝(みかど)御不例(ごふれい)と報され、満仲は考えていた。
 異常事態である。異常事態には事が動く。往々にして政(まつりごと)の流れが変わる。いや、変える機会だ。今、自分に取って不都合なことが有れば、これを好機として好転させる方法を考える必要が有る。そう思った。

 満仲に取って不都合なこととは、高明が今頼りにしているのは千晴のみで、満仲自身は都合良く利用されているだけではないかと思われる事。その結果、出世競争に於て千晴に遥かに遅れを取ると言う兆(きざ)しが見えて来ていることだ。

 恐らく帝(みかど)が回復することは無いと満仲は思う。
 帝(みかど)が崩御(ほうぎょ)したらどうなる? 帝(みかど)と高明の強い結び付きを考えれば、高明の勢いが弱まる可能性は有る。だが、決定的にと言うことは考えられない。取って代わるべき者が居ないからだ。

 今上帝(きんじょうてい)が崩(ほう)じれば、次の帝(みかど)は皇太子・憲平(のりひら)親王である。真(まこと)に見目麗(みめうるわ)しい帝(みかど)の誕生となる。まだ十六歳。その上、尋常(じんじょう)なお方では無い。

 伊尹(これただ)らが喉(のど)から手が出るほど欲しがっている摂政(せっしょう)の座が、摂関家に戻って来ることになる。
 だが、摂政の座に就くのは実頼である。外戚では無い実頼が摂政と成っても大きな力を得ることは出来ないのだ。
 摂政と言う立場が大きな権力を生む訳ではない。良房(よしふさ)、基経(もとつね)、忠平らが大きな権力を持っていたのは、摂関の地位に加えて、帝(みかど)の外戚だったからである。

 実頼は元より、師尹(もろただ)も師氏(もろうじ)も外戚には成れなかった。高明も憲平(のりひら)親王の外戚では無いが、その後を継ぐと思われる為平(ためひら)親王の妃(きさき)として娘を入内(じゅだい)させている。
 皇太子・憲平親王が帝位に就いたとしても、ごく短い在位期間となるだろうことは誰の目にも明らかだった。そうであれば、高明が絶対的な権力を握るのは、やはりそう遠い日のことでは無い。
 だが、摂関家にも外戚は居る。伊尹(これただ)、兼通(かねみち)、兼家の兄弟である。  
 憲平親王から見て、伊尹、兼通は母の兄、すなわち伯父であり、兼家は母の弟であるから叔父となる。

 だが、兄弟の身分はまだ低く、摂関には程遠い存在でしか無い。伊尹は参議に列したばかりであり、兼通、兼家は参議にも成っていない。外戚とは言え到底、摂関に手が届く地位には無いのだ。伊尹の出世を待っていたら、高明の権力が確立してしまう。

    ~~~~~~~~~~

 高明が権力を掌握する日。本来、満仲はずっとその日を待ち望んでいたはずだった。
 しかし、状況は変わってしまった。今となっては、それは即ち、己の敗北の日でしか無いと思えるのだ。血反吐(ちへど)を吐く思いでやって来たことが全て無駄となってしまう。
 やり方が間違っていたのかと満仲は思う。しかし、やはりこのやり方しか無かったと思い直す。とすれば、負け犬とならない為の方策を、なんとしても考え出さなければならない。
 長い間、満仲は考え続けていた。出世競争で千晴に勝つ方法をだ。

 努力だけで出世出来る時代では無かった。人脈や政治の流れに大きく左右される。それを運と言う者は多い。だが満仲は、そう言う者達を、怠け者の上に愚か者であると軽蔑した。己の才覚で出世して見せる。そう強く思っていた。
 一寸(いっすん)先は闇。だから、高明一人に賭けるのでは無く、あらゆる方面に人脈を作って来た。作る為には多くの財を使う必要があった。そして、それは綺麗事では行かないことも分かっていた。
 何でもやった。その結果、裏目に出たのかも知れない。全て間違っていたのかと満仲は思う。そしてまた、そんなはずは無いと思い直す。
 どうすれば現状を変えられるか。無駄なことで悩むことはやめて、そのことに集中して考え抜く。 

 それしか無い。満仲は肚(はら)を決めた。

    ~~~~~~~~~~

 十日ほど前に満季が訪れた。相変わらず蓮茂と言う僧のことに付いて、あれこれ話していた。
 蓮茂が将門と拘(かか)わりの有った円恵と同一人物ではないかと疑っており、それを立証する為に、家探しをする口実は無いかと密かに探っているのだ。

 正直少しは期待していたのだが、未だに有力な手掛かりは得られていない。きっと満季の思い込み、何も出て来るまいと満仲は思い、いい加減に聞いていた。その満季も今は、帝(みかど)御不例(ごふれい)に伴う警備強化に駆り出され、そんな探索どころでは無かった。
 
    ~~~~~~~~~~

 五月二十五日。村上天皇が遂に崩御(ほうぎょ)した。倒れてより十一日目のことである。高明よりひとまわり若い、享年(きょうねん)四十二歳であった。
 即日、皇太子が践祚(せんそ)。十六歳である。 

 因(ちな)みに、践祚(せんそ)とは、天子(てんし)の位(くらい)を受け継ぐことであり、これに続いて位(くらい)に就いたことを内外に明らかにすることを即位と言う。

 容姿端麗な若き帝(みかど)・冷泉(れいぜい)天皇の誕生である。だが、この美しき帝(みかど)は、親王時代から数々の奇行の持ち主でもあった。
 例えば、足が傷つくのも全く構わず一日中蹴鞠(けまり)を続けたとか、幼い頃、父帝(村上天皇)に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送り着けたなど伝えられている。
 また、清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んでいたことも有り、病気で床(とこ)に伏していた時、大声で歌を歌っていたことも有る。

 何かが動き始めていた。


 【第十五 摂関復活】

 時は掛かったが、一歩一歩順調に目的に近付いているはずだった。
 処が、六十八歳の実頼よりも、四十二歳の村上帝が先に逝(い)ってしまった。高明から見ても十二歳年下である。その結果、皇太子・憲平(のりひら)親王が即位し、村上帝と高明が最も恐れていた摂関の復活が不可避となった。
 新帝には摂政(せっしょう)が必要なことは、誰が見ても明らかなことであるから、高明も反対は出来ない。

『先帝はどうお考えであったのか』

と高明は思う。まさか、こんなに早く逝(ゆ)くとは思っていなかったことは確かだ。ならば、どう考えていたのか。早期に退位し、太上天皇(たいじょうてんのう)として自(みずか)ら支えるつもりでいたのか。心を病んでいる憲平(のりひら)親王を廃嫡(はいちゃく)しようとはしなかった。

 憲平親王は第二皇子であった。当時は外祖父・師輔(もろすけ)の力と言われたが、異母兄の広平(ひろひら)親王を押し退(の)けて、生後間もなく立太子(りったいし)されたのだ。やはり可愛いがっていたと言うことであろう。

 結局、摂関復活を許してしまうことになるのだが、高明は、まだ悲観してはいなかった。
 摂政と成っても実頼は外戚では無いので、強大な権力を手にすると言うことは無い。そう長くは無いであろう今上帝(きんじょうてい)の在位期間だけの辛抱である。
 それ以前に、高齢や病(やまい)を理由に実頼が致仕(ちし)(引退)を願い出るか、或いは薨(こう)じる可能性も有る。そうなった時、高明を飛び越えて摂政を引き継げる者は居ないのだ。
 一方高明は、皇太弟(こうたいてい)に立てられると目(もく)されている為平親王に娘を嫁がせている。子はまだだが、男子誕生となれば、為平親王即位後は、帝(みかど)の義父、皇太子の外祖父と言うことになるのだ。

 為平親王の下には守平親王が居る。
 母が違えば祖父の身分の違いにより、弟が立太子されると言うのは良く有ることだが、二人とも母は同じ安子(あんし)である。また、弟の方が聡明と言う場合も逆転は有り得(う)る。
 しかし、兄・為平親王は聡明との評判が高い。その上、村上天皇は為平を愛しており、婚礼の時には、村上帝自身が安子と婚礼した際の例に倣(なら)って、宮中の昭陽舎(しょうようしゃ)で式を行わせるなど、将来の皇位継承候補としての待遇を与えていたのだ。これだけ揃えば、高明に為平親王の立太子を疑う余地は無かった。

 実頼の早期致仕(ちし)などを望んでいた高明だが、認めざるを得ない実頼の摂政就任である。
 考えように寄っては、扱い難(にく)い師尹(もろただ)とやって行くよりも、実頼の方がやり易い。
 高明は、為平親王の立太子を差し障(さわ)り無く運ぶ為にも、暫くは実頼の健在を願うことにした。

    ~~~~~~~~~~

 村上帝崩御(ほうぎょ)、冷泉帝(れいぜいてい)践祚(せんそ)から十日ほど経(た)った六月五日夕刻。

「大納言様がお見えで御座います」

と家司(けいし)が、寛(くつろ)いでいる実頼に告げに来た。 

「何? 師尹(もろただ)が参ったと申すか。はて、何であろうか?」

 前触れも無かったし、内裏(だいり)で顔を合わせた時も何も言っていなかった。

「伊尹(これただ)様、兼家様もご一緒で御座います」 

と家司が続けた。三人揃って顔を出すなど、かつて一度も無いことだった。父・忠平の法要の予定でも忘れていたのかな、と実頼は考えてみた。だが、当面そんな行事は無い。伊尹と聞いて、『煩(うるさ)い奴』と思った。一人なら追い返す処だが、師尹(もろただ)が一緒となると、そうも行かない。

「分かった。通せ」

と命じた。

「何事じゃ。揃いも揃って珍しきこと」

「前祝いに御座います」

 師尹が言った。

「何の?」

「新帝のご即位により、関白ご就任と成る前祝いに御座います」

 実頼は伊尹(これただ)をぎろりと睨(にら)んだ後、師尹(もろただ)の顔を見た。そして、

『さては、若造に籠絡(ろうらく)されおったか』

と思った。

「まだ、何も決まっておらぬ。先走った真似は慎め」

「新帝に摂関の必要なことは、誰の目にも明らか。決して先帝のご意思に背くものではありません。右大臣様とて反対は致しますまい」

 師尹が反論した。

「それはそうだが」 

「色々と事情の有ることゆえ、兄上に申し上げるのは差し控えて参りましたが、代々引き継がれて来た摂関の座を我等の代で手放したこと、心苦しく、また、亡き父上にも申し訳なく思うておりました。この機会にそれを取り戻し、子孫に伝えることは我等の努めとは思われませぬか?」

「子孫に伝える? 仮に麿が摂関の地位に就いたとして、その後はどうする?」

「麿、伊尹、兼家と引き継いで参ります」

「右大臣がおるではないか。右大臣が外戚と成れば、摂関の座はそのほうらには渡らん」

「そこで御座います。それには策が御座います。
 要は、為平親王様が皇太弟に成られることに依って、右大臣様が外戚と成る可能性が出て来る訳ですから、守平親王様に皇太弟と成って頂けば宜しい訳です」

「無理だ。弟君(おとうとぎみ)を立てる理由が無い」

「無ければ作れば宜しい」

 伊尹が口を挟んだ。

「先帝がお倒れになった時、お傍(そば)に居たのは、左大臣様おひとりと聞いておりますが、間違いは御座いませんか?」

「その通りじゃ」

「その時、帝(みかど)が、『憲平の次は守平を立てよ』と仰せになったとしたら?」

「そんなこと、右大臣が信用するはずが無い」

「事前に漏れれば騒がしいこととなりましょう。
 しかし、詮議(せんぎ)の席で突然披露し、多数が納得すれば、右大臣様に反論の余地は無くなりましょう。まさか、関白を嘘つき呼ばわりする訳にも参りますまい。
 万が一、右大臣様がそのようなことを言い出されたとすれば、それこそ思う壺。一挙に葬(ほうむ)るのみです」

「恐ろしいことを考えおる」

 実頼は渋い顔をした。

「全(すべ)ては摂関家の為。我等には伝統を絶えさせない責任が有ると心得ております」

と伊尹(これただ)。

「まず兄上が、そして我等が引き継ぎ、無事伊尹らに摂関の座を渡せば、九条流(くじょうりゅう)(師輔(もろすけ)の家系)だけでは無く、我等の子や孫、すなわち小野宮流(おののみやりゅう)(実頼の家系)の者達も等しく引き立てる。
 熊野牛王(くまのごうおう)の誓詞(せいし)を以て誓っても良いとまで申しておるので、麿も伊尹の話に乗ったと言う訳だ。千載一遇の機会とは思わぬか?
 今は、身内の些細な蟠(わだかま)りに拘(こだわ)っている場合ではあるまい。この機を逃し、摂関の地位から遠退(とおの)くようなことになれば、先祖に対して申し訳無いばかりでなく、子孫にも謗(そし)られることになるとは思わぬか、兄上」

 師尹(もろただ)に説得されると、実頼も言い張ることが大人げ無いような気に成って来た。実際、摂関の地位に就かない、或いは就けないことに負い目を感じていたことも事実なのだ。

「そのほうらの申すことは、あい分かった。関白は受ける。だが、立太子に付いては、そのほうらが申すほど簡単なことでは無い。暫し待て」

 伊尹(これただ)は、今日こそ一挙に実頼を落とす意気込みでいた。しかし、ここに来てまだ迷っている素振りに苛(いら)ついていた。

「ここまで打ち明けた以上、我等もう後には退(ひ)けません。左大臣様には、そこの処を十分お考えの上、ご決断をお願い申し上げます」

 実頼は思わず怒鳴り付けたくなった。だが、ぐっと堪(こら)えた。

「そなたらの意は十分汲んで考えてみることとする。暫し時をくれ」

    ~~~~~~~~~~

 六月十九日の詮議(せんぎ)で実頼は満場一致で関白に推され、二十二日に詔(みことのり)が発せられた。

 当初、高明は摂政と考えていた。摂政は、幼い帝(みかど)や、何らかの理由で帝(みかど)が政(まつりごと)を行えない場合、又は女帝の場合、帝(みかど)に代わって政(まつりごと)を行う者であり、いわば条件付きの役職である。
 それに比べて関白は、成人の帝(みかど)を補佐して政(まつりごと)を行う者である。補佐である関白よりは、代行である摂政の方が権限は強いように思えるが、この時代、実質的に同じである。
 冷泉(れいぜい)帝は加冠(かかん)を済ませている(成人している)こと。表向き、政(まつりごと)を行えないとするのは憚(はばか)られることなど勘案して、関白に落ち着いたのだ。 

 九月十三日には、関白の特権として、牛車(ぎゅっしゃ)に乗ったまま宮中に入る。また、諸節会(せちえ)に於いて階下に行列せず、帝(みかど)と共に、殿上(てんじょう)より見下ろす立場を認められる。
 十月十一日。高明と師尹(もろただ)の二人が、従二位(じゅにい)から正二位(しょうにい)に昇叙(しょうじよ)。十二月十三日には、実頼が太政大臣と成り、これに伴って、高明が左大臣、師尹が右大臣に転じた。
 他には、源兼明が正三位(しょうさんみ)・中納言から従二位(じゅにい)・大納言へ、従三位(じゅさんみ)・権中納言(ごんちゅうなごん)・橘好古(たちばなのよしふる)が、位階そのままで、兼明の後任として中納言に昇っている。

 だが、特筆すべきは、前年には正四位下(しょうしいのげ)・参議でしかなく、この年、権中納言に成ったばかりの伊尹(これただ)が、一挙に、従三位(じゅさんみ)・権大納言(ごんだいなごん)に躍進したことである。
 その一方、大納言・藤原在衡(ありひら)と中納言・師氏(もろうじ)は、位階、官職とも据え置かれ、出世していない。
 在衡は文章生(もんじょうしょう)上がりの七十六歳であるから、無視されることも有ろうかとは思われるが、師氏は、弟に抜かれ、甥にまで抜かれてしまったのである。高明と摂関家、更には、摂関家の中での様々な駆け引きの結果の人事だった。


 【第十六 敗北】

 話は、村上天皇崩御(ほうぎょ)直後に遡る。 

 太政官は、直ちに固関使(こげんし)を派遣することを決した。
 固関(こげん)とは、天皇・上皇・皇后の崩御(ほうぎょ)、天皇の譲位(じょうい)、摂関の薨去(こうきょ)、謀反、政変などの非常事態に際して、『三関(さんかん)』と呼ばれた伊勢国(いせのくに)の鈴鹿関(すずかのせき)、美濃国(みののくに)の不破関(ふわのせき)、近江国(おうみのくに)の逢坂関(おうさかのせき)を封鎖して通行を禁じることである。

 権力の空白に乗じて、東国の反乱軍が畿内に攻め込むことや、反対に畿内の反逆者が東国に逃れることを阻止する為の措置である。

 固関使(こげんし)には原則、五位(ごい)の官人(つかさびと)が任じられ、護衛として内舎人(うどねり)や近衛府の兵士が随行した。
 出発時には大臣直々に使者の証明となる木契(もっけい)と固関(こげん)を命じる勅符(ちょくふ)と官符(かんぷ)が授けられ、馬寮(ばりょう)から乗馬を提供されて鈴を鳴らしながら進発するのである。 
 だが、延暦(えんりゃく)八年(七百八十九年)には『三関(さんかん)』の制度自体が廃止される。ところが、以後も固関(こげん)が必要な事態が生じた場合には関の跡地を封鎖する手続が取られた。だが、封鎖すべき『三関(さんかん)』が存在しない状況下で固関(こげん)も形骸化・儀礼化が進んで名ばかりとなっていた。 
 三関のうち伊勢国・鈴鹿関の固関使として、五位(ごい)にも成っていない藤原千晴と源満仲が指名された。見ように依っては、高明の両腕の動きを封じ込めようとしているようにも見えるが、高明自身は、むしろ、名誉なことと受け止めていた。
 千晴は、今、都から離れるべきでは無いと判断し、病を理由に辞退を申し出たが、満仲が一足先に辞退を申し出ていた。 
 満仲に付いては、若い頃から、度々、病と称して休んでおり、見掛けに寄らず持病持ちと判断され辞退を認められた。一方千晴は、かつて病で休んだことが無いことを理由に、辞退は認められなかった。やむなく千晴は伊勢に向かった。

    ~~~~~~~~~~

 六月五日、師尹(もろただ)、伊尹(これただ)らが実頼の舘を訪れた日のことである。三人が帰った後、実頼は考えていた。
 伊尹は、摂関を引き継ぐ為の策として、守平親王を皇太弟に擁立すれば良いと言った。だが、それで高明が絶対的な権力を得るのを阻止することは出来ても、摂関を引き継げることにはならない。伊尹は、高明を排除することまで考えているに違いない。そう思った。
 罠に掛け、左遷するか引責辞任させようというのか。いや、命まで取ろうと考えているのかも知れないと言うことだ。

 藤原氏とは元々そんな家系だ。
 古(いにしえ)より、他氏は元より皇族まで、邪魔な相手をそうやって葬り去って来た。伊尹にもその血が流れているのだ。
 だが、その父はそうではなかった。実頼(さねより)の弟・師輔(もろすけ)は荒事を嫌い、高明とも親交を深めていた。
 実頼は思う。考えて見れば、自分の半生は常に師輔を意識し、師輔に引き摺られるような半生であったような気がする。父・忠平から学んだ有職故実(ゆうそくこじつ)こそ、小野宮流として、師輔の九条流と並び称されるようになったが、知識・教養の幅広さに於いて、弟に遅れを取っていることは認めざるを得なかった。人望も師輔の方が有った。それに嫉妬して来たことも事実だ。
 だが、弟・師輔は、やれば出来たのに、位階に於いても官職に於いても、一度も兄を越えようとはしなかった。

 やれば出来たと言うのには理由がある。外戚となることを狙って、実頼は師輔と競ったことがある。
 実頼は述子(じゅつし)を、師輔は安子(あんし)を村上天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)させ寵(ちょう)を競ったが、述子は皇子を生むことなく死去し、一方、安子は東宮・憲平(のりひら)親王を始め、為平親王、守平親王を生んだ。
 実頼は、一世源氏である高明とも縁戚を結んで置いた方が良いと思い、高明に二女を嫁がせたが、その娘は早世し、その後、高明は師輔の三女を、その娘が死去すると五女を相次いで妻(め)とした。実頼は、運に於いても師輔に勝てなかったのだ。

 実頼は当初、己の運の無さを嘆いた。しかし、師輔と言う男は生まれながらに何かを持っているのだ。どう争っても勝てないと思うに至る。
 幸い師輔は、形の上では自分を立ててくれている。これ以上争ってみっともなく敗れるより、鷹揚(おうよう)な兄を演じた方が良いと思うようになった。それからは、師輔とは協力して政(まつりごと)を進めて来た。最後に実頼は寿命で師輔に勝った。
 だが、師輔が居なくなったからといって、自分の立場が良くなったかと言えば、そうでは無い。相変わらず名だけの左大臣である。師輔が高明に代わっただけのことだ。

 摂政、関白、太政大臣。いずれも目映(まばゆ)いばかりに魅力的な響きがある。左大臣、右大臣とは格が違う。一度は就いてみたい職である。
 伊尹(これただ)、兼家は、師輔の子とは思えぬくらい権力を握ることに貪欲だ。荒事は実頼も余り好きでは無いが、小野宮流も引き立てることを伊尹が誓うなら、話に乗っても良いとさえ思えて来る。
 長年、心に蟠(わだかま)っているものが消え、見たことの無い世界を見ることが出来るかも知れない。
 だが、高明を葬ることを具体的に思い描いてみると、なぜか二の足を踏んでしまう。高明に愛着が有るのか、悪人に成りたく無いのか、いずれにしても、この心の弱さが己の今迄の人生を支配して来たのだとは思う。
 
 実頼は、関白の地位に就いてからも、立太子に付いては尚も迷っていた。
 帝(みかど)の遺勅(いちょく)を偽ることに付いて、なかなか覚悟するに至らなかったのだ。その為、皇太弟の空位は三月(みつき)ほども続いていた。関白の権威のせいか、他からせっつかれることは無かったが、伊尹(これただ)、師尹(もろただ)のふたりは早く立太子を行うよう盛んにせっついて来た。

    ~~~~~~~~~~

 漸く決心が付き、八月ももう終わろうとする頃、実頼は高明と二人だけで会談した。

「長月(ながつき)(九月)の頭に立太子に付いて話し合いを持とうと思うておる」

と実頼が切り出した。 

「左様で御座いますか」

 実は高明は、なぜ中々皇太弟を決めないのかと、少々訝(いぶか)っていたのだが、実頼を妙に刺激して、立太子に障(さわ)りが出ることを恐れて何も言わないでいたのだ。 

「いや、遅くなって済まぬとは思うておったのだが、併せて公卿らの異動を行うに当たって、色々悩んでおったのでな」

 立太子そのものでは無く、それに伴う人事に付いて考えていたと聞いて、高明は少し安心した。

「お一人で悩まずご相談頂ければ、少しはお役に立てたかと思いますが」

「いや済まぬ。右大臣殿に相談することは当然じゃが、その前に、己の考えを纏めて置かねばと思うたのよ」 

 さては、関白に成ったことで、主導権を握ろうと意気込んでいるのだな、と高明は思った。

「お考え伺いましょう」

「一番肝心な所から申そう。右大臣殿には左大臣に転じて頂き、詮議(せんぎ)を取り仕切って頂こうと思う」

「えっ? 麿が左大臣に? では、左大臣様は?」

「太政大臣に推しては頂けぬか。何、形だけのことよ。麿の本心は、全(すべ)て高明殿にお任せしたいと言う処に有る。
 承知の通り、太政大臣は名誉職。詮議(せんぎ)には加わらん。麿が左大臣のまま関白を兼ねると言うことは、己が奏上(そうじょう)し、帝(みかど)に代わって己で決することになる。それもいかがなものかと思うてのう。役割を別けるべきとは思われぬか?」

 実頼の父・忠平は双方を兼ね、権力を独占していた時期が有ったが、確かに、両者は別けるべきだと高明も思った。

「なるほど、ご尤(もっと)も。そう言うことなれば、微力ながら、左大臣受けさせて頂きます」

「右大臣には、師尹(もろただ)を転じさせる」

 師尹はやり難(にく)い相手ではあるが、仕方が無い、と高明は思った。

「師尹の後任には、源兼明(みなもとのかねあきら)を入れる」

 中納言から大納言に転じる訳だから、摂関家一人、源氏一人が昇進することになるので、これも、高明に異存は無い。

「そこで相談なのだが、麿が抜けることになるので、大納言以上に藤原の者を一人加えては貰えぬか」

 高明は、当然、中納言の師氏(もろうじ)を大納言、若しくは権大納言にということだと思った。

「伊尹(これただ)を権大納言に引き上げさせては貰えぬか」

「え? 師氏殿では無いのですか」

「そこじゃよ。麿が永らく悩んだのは。正月二十日に権中納言となったばかりの伊尹。これを権大納言にと言うのを、いかにして右大臣殿にお分かり頂けるか。それを考えて悩んでおった」

「伺いましょう」

「麿が関白、師尹(もろただ)が右大臣となれば、それ以上、我が兄弟だけで要職を占める訳には行かぬ。可愛そうだが師氏には泣いて貰い、師輔の子である伊尹を引き上げてやりたいのじゃ。
 師輔が薨(こう)じて以来、つい気が回らず出世が遅れておったのじゃ。だが、考えて見れば、師輔には随分と援けて貰った。この機会に埋め合わせたいと思っておる」

 そう言われると、高明自身も、当時実権を握っていた師輔のお陰が有って今が有るのだ。

「しかし、成ったばかりの権中納言からいきなり権大納言とは」

「もっともじゃ。それを承知で頼む、この通り」
 実頼が頭を下げた。

    ~~~~~~~~~~~

 九月一日。公卿詮議(くぎょうせんぎ)が開かれ、まず、高明から、実頼を太政大臣とする旨、帝(みかと)から仰せ出(いだ)されたことを披露。これに付いて異を唱える者無し。

 続いて、それに伴う異動に付いて審議。伊尹の権大納言への昇進に付いて、中納言・藤原師氏が説明を求める。高明より説明が有るが納得せず。意見が有った旨記録し、多数にて決す。師氏は孤立していた。
 太政大臣就任に際しての行事日程を勘案し、異動は十二月十三日を以て行われることとなった。

 これで他の案件は全て終った。残るは立太子に付いてのみ。特に異論も無く、型通りに決まるものと、高明は思っていた。
 この日、太政大臣の指名を受ける為、特に詮議に出席していた実頼が、伝えたいことが有るとして発言を求めた、

「申して置かねばならぬことが有る。重大なことゆえ口にするのは、これが、始めてである。
 先帝がお倒れになった時、お傍(そば)におったのは麿のみである。それは皆も存じておると思うが、倒れられた時、麿に言い残されたことが有る」

 皆、驚き、また、どんなことかと思い、聞き耳を立てる。高明に緊張が走った。

 帝(みかど)が何かを言い残された、と言う話は実頼から一度も聞いていない。それをなぜ今ここで? 安心していた高明に不安が走る。

「皆は、先帝がお倒れになって崩御(ほうぎょ)される迄、何も話すこと無く、御意識(みいしき)が無いまま逝(ゆ)かれたと思うているだろう。
 実は、倒れられたばかりの時は、まだ、御意識が有り、お言葉も話せた。最後に麿に命じたことは、 

『憲平の後は守平と致せ』

 そう仰せになった」

 高明は、『嘘だ!』と思った。だが、そう口にすることは出来ない。

「何故(なにゆえ)、今まで黙っておられたのか」

 そう詰め寄った。

「重大な遺勅(いちょく)ゆえ、事前に漏れることが有ってはならぬと思い、この胸に納めておった」

 高明は憎しみの籠(こも)った目で実頼を睨(にら)んだ。実頼は高明とは視線を合わすこと無く、平然と正面を見詰めている。

「先帝のご遺勅に依り、守平親王を皇太弟として立てることに付いて、諸卿のご意見を伺い、決を取ることと致そう」

 空(す)かさず、大納言・師尹(もろただ)がそう提案した。

「御遺勅(ごいちょく)とあれば、異を唱えることなど有り得ない。皇太弟は守平親王様を推戴(すいたい)するべきと存ずる」

 伊尹(これただ)が大声で応じた。参議達も、

「ご遺勅(いちょく)とあらば、守平親王様で然るべきと存ずる」

と言う答が続く。師氏が、直ぐに答えず、妙な間を置いたが、結局、守平親王に賛成した。
 源氏の者達も同じである。高明から、事前になんらかの指示が有った訳ではないので、遺勅(いちょく)と言われてしまっては、守平親王に反対し、空気に逆らって為平親王を積極的に推す程の勇気は出ない。

「最後に、新たなる左大臣様には、何かご意見が御座るかな」

 とどめを刺すように師尹(もろただ)が尋ねた。何か言ってみても、もう、仕方が無い。
 負けた。嵌(は)められたのだ。人の良さそうな素振りで、実頼は高明を嵌める準備を進めていたのだ。
 満場一致で守平親王が東宮と決まったと言うことは、高明が外戚と成る道が絶たれたと言うことに他ならない。例え左大臣の職に留まれたとしても、死に体となり、その影響力は失われる。

 変わって外戚である伊尹(これただ)が浮上して来る可能性が出て来るのだ。まだ摂関に届く地位では無いが、摂関家の者達が結束して推せば、急速な出世は可能となる。そして、伊尹に取って高明は、既に乗り越えられない壁では無くなってしまっている。
 実頼の健康状態次第では、或いは師尹が短期間繋ぐことになるかも知れない。ばらばらだったはずの摂関家が、いつの間にか結束してしまっていた。


 【第十七 明暗】

 まさか実頼(さねより)に嵌(は)められるとは、高明は思っていなかった。そんなことが出来る人間とは思ってもみなかったのだ。
 実際、その見方は大きく間違ってはいなかったのだろう。自ら謀(はかりごと)を巡らすような男ではない。伊尹(これただ)が扇動したに違いない。そう思った。

 摂関家はばらばらだと言う満仲の報告を鵜呑みにし、その後の動向を注意深く追うようなことはしていない。何か有れば、また満仲が報せて来るだろうくらいにしか思っていなかったのだ。

 高明に付いては、切れ者と言う評判が有る。高明自身もそう自負していた。しかし、果たしてそうだったのだろうか。確かに、知識の幅も広く、教養も深い。特に、朝儀(ちょうぎ)・有職故実(ゆうそくこじつ)に練達しており、前例を聞かれて担当の公卿が、

『それについては、調べた上でお答えしたい』

などと言い澱(よど)んだ時、

『それに付いては、いついつこう言う事例が有る』

と即座に答えることも度々有った。小野宮流を名乗る実頼さえも及ばない程の知識を持っているのだ。
 だが、政(まつりごと)とは、そんなことばかりで成り立っている訳では無い。政の要諦(ようてい)が肚(はら)の探り合いであるとするなら、高明は、所詮、元皇族でしかなかった。甘いのだ。

 そんな高明が、躓(つまず)くことも無く、誰にも足許を掬(すく)われることも無く順調に出世を重ねて来たのは、後ろに村上帝がおり、また、師輔が摂関家を押さえて来たからである。
 太皇太后・穏子(おんし)や中宮・安子(あんし)が高明の後ろ楯(だて)と成っていたのも、村上帝が高明を信頼しており、且つ、縁戚である師輔が高明と親しかったからである。

 穏子、安子、師輔、そして最強の後ろ楯(だて)である村上帝までもが、相次いでこの世を去ってしまった今、高明を護る者は誰も居なくなっていた。それに気付かず、己の力を過信していた高明の隙を摂関家、特に伊尹に突かれてしまったと言うことなのだ。

 東宮には守平親王をなどと、村上帝が言い残すはずは無い。しかし、唯一その場に立ち会っていた関白・実頼を嘘つき呼ばわりすることは出来ない。また、そう言い張れる証拠も無い。完敗である。
 考えてみれば、伊尹の権大納言への昇進は亡き師輔への配慮などでは無い。策を献じたことに対する論功行賞だったのだ。せめて、あの時点で気付いていたらと思ってみても仕方が無い。

 仮に、村上帝がいかに為平親王を慈(いつく)しみ、生前、将来の皇位継承候補として遇していたかを言い立ててみても、

『理由は分からぬが、確かにそう仰せになった。確かにこの耳でそう聞いた。お考えが変わることも有ろう』

と言われてしまえばどうしようも無い。
 源氏の公卿達も、関白に逆らってまで高明の味方をすることは無かった。

 もし高明が強(したた)かな政治家であったなら、満仲の言葉を鵜呑みにすること無く、別の筋からも情報を集め、用心すべき存在と認識していた伊尹の動向を追っていたことだろう。そうしていれば、伊尹(これただ)が、師尹(もろただ)と実頼に接近することに成功したことを掴めていたかも知れない。
 そして、源氏だけでは無く中間派の公卿にも根回しをして、何らかの対策を講じる道が開けていたかも知れない。だが、高明は根回しなどと言う事をしたことが無い。それで済んで来たのだ。

 高明はまた、打たれ強くも無かった。摂関家の真の恐ろしさを見せ付けられ敗北を悟った瞬間から、摂関家と闘おうと言う気が失せてしまったのだ。
 己の保身を考えた。この上は、実権の無い左大臣でも良いから、ひっそりと、少しでも長く務めたいと思ってしまった。典型的な事無かれ主義の公卿に成り下がってしまったと言って良い。

    ~~~~~~~~~~

 話はまた遡る。

 村上帝崩御(ほうぎょ)の二日前、秋天丸が千方の舘に戻って来た。犬丸を伴っている。

「統領と鷹丸、鳶丸も追っ付け別々に入京致します」 

 千常に帝(みかど)御不例(ごふれい)を伝えると共に、祖真紀らを上洛させるよう命じていたのだ。
 何が起きるか分からない、幸い自分の舘を構えたので、隠れ家(が)を用意する必要も無い。目立たぬよう別れて入京することも指示してあった。

 村上帝崩御(ほうぎょ)後、千晴に呼ばれた。固関使(こげんし)に満仲と千晴が選ばれ、ふたりとも病(やまい)を理由に辞退したが、満仲のみ認められ、千晴は伊勢に赴(おもむ)かなければならなくなったことを聞かされた。
 そして、高明邸の警備の管理を託された。千方は、満仲、満季の動向にも注意を払う必要が有ると感じ、祖真紀達を呼び寄せて置いて良かったと思った。
 
    ~~~~~~~~~~

 その満仲である。私君(しくん)であるはずの高明が摂関家に嵌(は)められたと言うのに機嫌が良い。
 固関使(こげんし)を命じられたが、病を理由に辞退し、首尾良く認められたので、外出する訳にも行かず舘に籠っているが、手の者を使って師尹(もろただ)、伊尹(これただ)とは頻繁に連絡を取っている。 

 摂関家の者達を結束させる為走り回ったのは、満仲である。
 切掛けは、高明邸で兼通(かねみち)に侮辱されたことである。師輔に嫌われていた為、その生前には摂関家に近付くことが出来なかった。死後、誰に近付こうかと考えていた処、高明邸の庭で兼通に侮辱された。兼通が弟の兼家と犬猿の仲だと言う噂は聞いていたので、兼家に近付こうとしたのだ。 

 貢(みつぎ)物を持って何度か通っているうちに、兼家の心を掴むことに成功した。
 或る時、兼家から兄・伊尹(これただ)の舘に行ってみろと言われ、行った。そして伊尹から、摂関家を纏める為、日頃疎遠になっている実頼(さねより)、師尹(もろただ)と話し合う切掛けを作れるかと問われた。恩を売って置けば後日何かの役に立つ。そう思ってふたつ返事で引き受けたのだ。

 師尹、実頼にも、兼家の時と同じように接近を図った。師尹に接近することには成功したが、実頼の懐(ふところ)に飛び込むことは難しかった。伊尹は実頼を訪ね訴えた。しかし、結局追い返されてしまった。

 この辺りまでの状況の大まかなことを満仲は、『摂関家は纏まっていない』と言う形で高明に報告していた。もちろん自分が関わっていることは伏せた上でのことだ。どちらに転んでも生き延びる道を付けて置く為だ。
 高明が、満仲が摂関家に近付くことを許していたのは、いわば二重スパイとして使っているつもりでいたからである。満仲自身は、単に自分の都合だけで動いていたのだが、高明を納得させる範囲での報告は欠かさなかった。

 摂関家をひとつにする為、伊尹(これただ)が会いたがっていることを師尹(もろただ)に伝えると、師尹は承知してくれ、伊尹と会った。師尹は、実頼、次いで師氏(もろうじ)と会った。
 実頼は相変わらず煮え切らない。師氏は、直ぐ下の弟である師尹に追い越されたことを根に持っており、師尹の話に耳を貸さない。師尹は粘って、今、摂関家が結束することの重要さを説いたが,結局決裂した。
 師尹は、師氏は危険と思い、詳しい話はしていない。単に摂関家が結束する必要が有ることを繰返し訴えただけだった。 

 最後に、師尹を伴って実頼を訪れ、伊尹は遂に実頼を口説き落とすことに成功した。そして、実頼、師尹、伊尹、兼家の間で、反・高明同盟とでも言えるものが成立し、高明を嵌(は)めたのである。 

 兼通(かねみち)は、高明に近いと言う理由で、始めから外した。師氏に付いては、頑(かたく)なに師尹を嫌っている為、外した。満仲に付いては、伊尹初め摂関家の者達は、走り使いくらいにしか思っていない。だから、摂関家の結束の為とだけしか話していない。だが、満仲は海千山千の強(したた)か者。反・高明同盟であることは見抜いていた。 

 事が上手く行き始めてからは、満仲は高明に新たな情報を提供していない。と言うのも、丁度この頃、満仲の中で千晴に対する嫉妬と高明に対する不信感が芽生え始めていたからである。

 守平親王が東宮と成ってから数ヵ月が経(た)った。満仲は、もう高明邸に近寄りもしなくなっていた。もはや負け犬となった高明に近付くことは何の益にもならないばかりで無く、摂関家に睨(にら)まれることになるからである。摂関家派であることを鮮明にし、兼家に更に近付いていた。何とも現金な男である。千晴の将来が閉ざされたことにも、一応は満足していた。

 数ヵ月後、満季が満仲を訪ねて来た。
 まだ、蓮茂の件を諦めてはいないようだ。執拗(しつこ)い男だ。だが、まだ殆ど何も掴めていないらしい。 

「いや、蓮光寺に出入りしている者達は分かって来ている。中務少輔(なかつかさしょうゆう)・橘繁延(たちばなのしげのぶ)、左兵衛大尉(さひょうえのだいじょう)・源連(みなもとのつらなる)、平貞節(たいらのさだよ)と言った連中だ」

 満季が満仲に成果を誇る。 

「目的は?」

「まあ、私的な和歌の集いと言ったところかな。以前は千晴も時々顔を見せていたようだが、守平親王立太子以後は、さすがに顔を出してはいないようだ」   

 もう満仲は、  

『千晴殿と言え』 

などと満季を嗜(たしな)めたりはしない。

「何? 千晴も加わっているのか。何を話しているか知りたいものじゃな」  

「さすがにそこ迄は分からん」

「汝(なれ)は検非違使であろうが、そんなことも出来ぬのか」

「お役目では無い。麿が勝手に調べていることだ。限界が有る」 

「組織を使えぬと言うことか。ならば、お役目とすれば良い」 

「いや、蓮茂と円恵が同一だと言う根拠が、まだ薄くてな」 

「いつ迄そんなことに拘(こだわ)っておる。戯(たわ)けが、千晴が加わっているのであろう。良からぬ相談をしている疑いが有るとでも言え。頭を使え」 

「わ、分かった。やってみる」
 
    ~~~~~~~~~~ 
 
 それから間も無くして、蓮茂に叱責された後、一人の寺男(てらおとこ)が姿を消した。腹を立てて逃げたのだろうと蓮茂は思ったが人手が足りない。困って檀家(だんか)である・と或る官人(つかさびと)にそれを話すと、その官人が代わりの男を直ぐに紹介してくれた。実はその男、検非違使の密偵だった。

 守平親王の立太子以来、千晴は苦しい毎日を送っていた。高明一筋で来た千晴に取って、高明の敗北は、すなわち千晴自身の敗北でもあった。

 久頼と千方の早い出世も、平義盛との争いが直ぐに千晴有利に決着したのも、全て高明の力有ってのことであった。
 千方は修理亮(しゅりのすけ)になったばかり、千晴自身も五位に上ることがほぼ確実となり、満を持して表舞台に撃って出る、正にその寸前の出来事だったのだ。

 千晴の前途は無くなったも同然である。都に於いて下野(しもつけ)藤原家の基板を作るという目的も頓挫してしまった。かと言って、今更下野に引き上げることは出来ない。坂東のことは全て千常に任すと言う約束で援助も受けて来た。どの面(つら)下げて戻ることが出来よう。どうすれば良いか分からなかった。

 高明も変わってしまった。恐らく、大事なことは、実頼、師尹(もろただ)、そして、権大納言と成った伊尹(これただ)の間で決められてしまい、高明は会議すら主導出来ないのではないか。そんな状況からか、戻って来ても終始機嫌が悪い。以前とはうって変わって、投げ遣(や)りで扱い難(にく)い主(あるじ)に変わってしまっていた。


 【第十八 更なる危機】

 千晴は己の考えが間違っていたのかと考えていた。上洛する前に父・秀郷に言われた言葉を思い出した。

「高明様に臣従するのは良いが、他の公卿達とも道を着けて置くように致せ。世の中何が起きるか分からぬからな」

 秀郷はそう言った。

 千晴は、それに対し反論はしなかったが、深刻なことと受け止めてはいなかった。 
 実際には、上洛以来、高明一筋で来た。それは、満仲を反面教師と考えたからかも知れない。 

『あんなやり方でひとの信頼が得られるものか』

と思った。当初、それにも関わらず、高明が満仲を信頼していることが不思議でもあり、多少苛立ちもした。
 源氏の血。そんなものなのかと思った。より露骨ではあるが、図らずも満仲の方が千晴よりも秀郷の考えに近い生き方をしていた。
 逆境の中から己の力ひとつで立ち上がらなければならないと言う立場が、そんな考え方を生む共通項であったのかも知れない。千晴は、既に或る程度の力を持っていた父・秀郷の許で育っていた。

 最近になると、高明が千晴を強く信頼しており満仲を軽視している事は、千晴にも感じられた。
 その限りに於いては、千晴は、自分は間違っていなかったと思っていたし、長年の忠勤が認められたことに喜びを感じていた。高明が躓(つまず)きさえしなければ、その通りに成るはずだった。しかし、歴史にも人生にも『~たら、~れば』は無い。

 都に於ける下野藤原家の拠点を築くと言う目的が頓挫してしまった以上、いつまでも千常の援助を受け続ける訳には行かない。坂東にも帰れない。この上は、己の所領からの上がりだけでやって行かなければならないと千晴は思った。

 まず、郎等達を集め、暇(いとま)を取りたい者を募った。千晴に見切りを付け離れたい者も居るのではないかと思い、言い出し易い雰囲気を作ってやろうと思ったのだ。
 多くは、長年従ってくれている郎等達だ。自分から暇を言い渡すことは気が退(ひ)けた。申し出た者は、それ程多くは無かった。千晴に見切りを付けた者ばかりではなく、事情を察して自ら身を退いた者も居た。 
 まだ多くの郎等が残っていたので、十人程を残し、後は、最後の頼みとして、千常に引き取って貰うこととした。自分の舘を持ち別居していた久頼も、舘を処分し、同居させることにした。

 官職に就くことも考えた。叙爵(じょしゃく)(五位に上る事)などは、今となっては思うべくも無いが、六位相当の官職に就くことを考えた。力を失ったとは言え、その程度の官職に就けさせることくらいは、高明には出来るはずだ。
 だが、問題が有る。高明に、千晴までもが見限ったのかと思われることだ。右大臣から左大臣に転じたことで、規定に依り官から付けられる高明の家人(けにん)は増えた。しかし、多くを占めていた従者(ずさ)達が、櫛の歯が欠けるように減り続けている。
 彼等は、猟官運動の為、無報酬で高明に仕え、その上、貢物(みつぎもの)まで贈り続けている地方土豪の子弟達だ。高明が力を失えば、見限るのは当然のことなのだ。

『小藤太までもが』

と高明が思うのは間違い無い。例えば、文章生(もんじょうしょう)からの叩き上げで公卿に成った在衡(ありひら)であったなら、千晴の懐具合(ふところぐあい)を推し量ることが出来るだろう。
 だが、皇族や名家出身の多くの公卿に取って、そんなことは思い及ばないことなのだ。何しろ、生まれてから家計の心配などしたことが無いのだから。それは、高明とて例外では無い。見限られたと思うだけだ。
 
 藤原氏が権力を独占するには条件が有る。
 帝(みかど)の外戚であること、帝(みかど)が幼いか自ら政(まつりごと)を行うことが難しい状況に在(あ)るか、それが行える場合であっても即位した時には既に藤原氏の権力が確立してしまっており、その力を借りて即位したような場合である。
 村上帝は成人で即位し、しかも、確固たる意志を持っていた。しかし、朱雀帝の時代に忠平の権力が確立してしまっていた為、忠平の存命中は思うことが出来なかった。
 忠平の死後、実頼、師輔兄弟とは妥協しながら、後に天暦(てんりゃく)の治(じ)と讃(たた)えられる親政を行ったが、実際には形の上だけの親政であり、妥協の産物であった。

 村上帝の死に依って、全ての状況が変わった。 
 即位したのは精神に病(やまい)を抱えた帝(みかど)である。
 村上帝と妥協し、名を捨て実(じつ)を取った師輔も今は亡い。そして、摂関家は、政敵・高明を死に体(たい)とすることに成功した。 
 まだ有る。皇太弟・守平親王は摂関家のお陰で皇太弟と成ることが出来たのである。亡き母・安子(あんし)は、伊尹(これただ)、兼通の妹であり兼家の姉である。そして何よりも、師輔の死後、外戚である摂関家の者が居なくなっていたのだが、伊尹(これただ)が権大納言に転じたことで、近い将来、外戚として摂関と成り得る者が現れたと言うことになる。おまけに、伊尹は、父・師輔や伯父・実頼よりも権力欲が強い。

 摂関家は慌ただしく動き出した。
 康保(こうほ)四年(九百六十七年)六月二十二日、実頼が関白に就任。九月一日、師尹(もろただ)が皇太弟傅(こうたいていふ)(教育係)と成る。同日、兼家が次兄・兼通(かねみち)に代わって蔵人頭(くろうどのとう)と成り、左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)を兼ねた。
 また同日、師氏が東宮大夫(とうぐうだいぶ)兼任となる。
 十月十一日には、師氏が正二位(しょうにい)に上(のぼ)る。そして、十二月十三日には、実頼が太政大臣となり、師尹は右大臣、伊尹が権大納言に転じた。

 翌康保(こうほ)五年(九百六十八年)八月十三日。改元され、安和(あんな)元年となる。この年の十一月二十三日、伊尹は正三位(しょうさんみ)に進んだ。
 明けて安和(あんな)二年(九百六十九年)正月二十三日、兼通が参議となり、二月七日に兼家が中納言、二月二十七日には師氏が権大納言に転じた。
 安和(あんな)二年(九百六十九年)二月末時点での太政官主要公卿は、

関白太政大臣・従一位:藤原実頼
左大臣   ・正二位:源高明
右大臣   ・正二位:藤原師尹
大納言   ・従二位:藤原在衡
大納言   ・従二位:源兼明
権大納言  ・正三位:藤原伊尹
中納言   ・正三位:藤原師氏
中納言   ・従三位:橘好古
中納言   ・従三位:藤原頼忠
中納言   ・従三位:藤原兼家

である。

 中納言・藤原頼忠は、実頼の次男である。長男・敦敏(あつとし)は天暦(てんりゃく)元年(九百四十七年年)に流行した疫病(とうびょう)に罹(かか)って死んでいる。  

    ~~~~~~~~~~

 三月になったが、寒さの緩(ゆる)まぬ年であった。吹き荒(すさ)ぶ寒風に丸くなりながらも、上気した頬に風が心地良い。満季が満仲の館に飛び込んで行く。

「兄者、やったぞ!」

 居室に通るなり、大声で言った。

「騒々しい。何事じゃ」

 満仲は眉を潜(ひそ)めた。

「千晴の尻尾を掴んだぞ。夕べ千晴が蓮光寺に現れたのだ。それでな……」

「まあ、少し落ち着け。話を聞くから、腰くらい降ろせ」

 満季は興奮の余り、立ったまま話し続けようとしていたのだ。

    ~~~~~~~~~~

 前日のことである。千晴は、久し振りに蓮光寺で開かれる歌会に顔を出すことになった。
 叙爵(じょしゃく)の望みも無くなった今、和歌など学んでみても仕方無いし、そんな気も無くなっていた。しかし、橘繁延(たちばなのしげのぶ)や源連(みなもとのつらなる)が、たまには顔を出すようにと何度も使いを寄越していた。さぞかし気落ちしているであろう千晴を励まそうとしてのことだ。
 当初、誘いに乗る気にもなれなかった千晴だったが、いつまでくさくさしていても仕方が無い。たまには気晴らしも必要と思って、誘いに乗ることにしたのだ。

「これは千晴殿。皆様、既にお見えで、千晴殿はまだかとお待ち兼ねで御座いますぞ」

 蓮茂が満面の笑みで千晴を出迎えてくれた。
 蓮茂の案内(あない)で庫裏(くり)に通ると、皆拍手で迎えてくれた。

「やあ、千晴殿、ようこそ見えられた。皆、お待ちしておりましたぞ。さ、さ、こちらに座られよ」

 橘繁延(たちばなのしげのぶ)が隣の席を勧めてくれた。

「皆様、ご無沙汰致して申し訳も御座いません」

 千晴が皆に挨拶をしながら席に着く。

「何の。色々と大変で御座ったな。お察し致す」

 源連(みなもとのつらなる)が言い、更に続けた。

「左大臣様は、我等・源氏の希望の星であった。処が見よ。あっと言う間に、周り中摂関家だらけになってしもうた」

「これ、滅多なことを申すでない」

 繁延が嗜(たしな)めた。

「少輔(しょうゆう)様とて名門・橘(たちばな)氏。先帝が心血を注いで親政を目指されたのに、気が着けば全てが崩れ去って、又も摂関家がのさばる世になってしまっている。千晴殿で無くとも口惜(くちお)しいわい」

「源大尉(げんだいじよう)殿。お気を付けられよ」

 蓮茂が心配そうに言った。

「分かった。蓮茂殿、控えておる我等の供の者達を全て使って、寺の周りを警戒させてくれ。その上で、本日は和歌をやめて狂歌の会とでも致そう。
 何、形に拘(こだわ)ることは無い。千晴殿も色々と心に積もっているものも有ろう。ここだけのこと。要は、それぞれ言いたいことを言おうではないか」

 繁延がそう提案した。

「面白う御座いますな」

 平貞節(たいらのさだよ)がそう応じた。

「分かりました。お供の方々にそのように伝えましょう」

 そう言って蓮茂が一旦出て行く。 

「今日は皆、心行くまで憂さを晴らすことと致そう」

「先帝が崩(ほう)じられなければ、麿などあっと言う間に千晴殿に追い抜かれていたはずじゃ。千晴殿、決して嫌味で申しておるのではないぞ。千晴殿が、出世も蹴って、ひたすら、左大臣様に尽くされていたことは、皆、良く存じておる」

「いえ、麿などとても」

 気晴らしと思って参加したが、千晴は、『やはり来るべきでは無かったのでは』と思った。気を使ってくれているのは分かるのだが、居心地が悪いのだ。

「起こってしまったことは、申してもせんの無いこと。六位の官人(つかさびと)に成ろうかと考えております」

「ま、それも良いであろう。闇夜ばかりは続かぬ。いずれ、光明(こうみょう)が射(さ)すことも有ろう」

「そもそも、あの立太子が、何とも胡散臭(うさんくさ)いでは御座らぬか」

 貞節(さだよ)が、そう言い出した。

「貞節殿。それを申してはならぬ」

 千晴は貞節を止めようとした。

「皆そう思うておるわ。千晴殿、心配召さるな。周りは警戒しておるし、ここにおる者達は、源氏、平氏、橘氏、皆、摂関家を良く思ってはおらん。千晴殿とて、先祖の左大臣・魚名(うおな)候が藤原北家に嵌(は)められておるではないか」

「いっそのこと、為平親王を奉じて東国に逃れ、壬申(じんしん)の乱の再現でもやらかしますか。ははははは」 

 そんなことを言い出したのは、貞節だった。

「冗談にも度が過ぎておりますぞ」

 千晴が慌てて止めようとする。

「構わぬ、言うだけじゃ。千晴殿は坂東に基板を持っておる。やってみたら、ひょっとしてひょっとするかも知れぬぞ」

 繁延までもが悪乗りを始めてしまった。 

 結局、和歌も狂歌も一首も作らず、馬鹿話をしたのみで散会した。皆、千晴を励まそうと思って話し始めたのだが、話しているうちに、己の持つ不満をも込め始め、妙に盛り上がってしまったのだ。 
 参加者達がそれぞれ引き揚げ、すっかり静かになった庫裏(くり)の床下から這い出して来る男の姿が有った。あの検非違使の密偵である。

    ~~~~~~~~~~

 話を聞き終わって、満仲は腕組みをした。

「どうだ、兄者。お上(かみ)を愚弄(ぐろう)しただけでも大罪であろう」

 埒(らち)も無い憂さ晴らしであるとは思った。
 満季の言う通り、お上(かみ)を誹謗中傷した罪には問える。だが、そんなことでは面白く無い。どうせなら、これを利用して千晴も千方も一挙に葬り去ってしまえないかと思った。
 千晴は満仲に取って、もはや真面(まとも)に相手にするような存在では無い。しかし、一寸先は闇。いつどんなどんでん返しが有るか分からない。叩く時には徹底的に叩かなければならない。

「二、三日、この事は伏せて置け、勝手に動くな。考えが有る」

「分かった」

 帰って行く満季を見送りながら、

「実態など何も無い、取るに足らぬ話をどう謀叛の謀議として作り上げるかだな」

 満仲はそう呟いた。


 【第十九 安和の変】

 前途揚々と見えた高明、そして千晴の人生はあっと言う間に暗雲に包まれてしまった。藤原摂関家の存在を甘く見ていた結果に他ならない。

 古来、藤原氏は、他氏を陥れ蹴落とすことに寄って生き残り、権力を維持して来た一族である。歴史にも詳しい高明が知らぬ訳は無い。

 菅原道真(すがわらのみちざね)が右大臣にまで登り詰めた途端、藤原氏の策謀に因って失脚し大宰府(だざいふ)に流されてからまだ七十年も経(た)っていないのだ。
 文章生(もんじょうしょう)上がりの道真と元皇族の自分とでは訳が違う。摂関家とて簡単には手が出せないはずと高(たか)を括(くく)っていた節(ふし)が有る。
 それだけでは無く、今の摂関家には忠平や基経(もとつね)のように一族に大きな影響力を持ち統率出来る者など居ないと思っていたことも油断のひとつの理由だ。

 しかし藤原氏とは、長屋王を初めとして皇族さえ、一族の利益の為には遠慮無く陥れて来た一族なのだ。高明は、そのことを強く肝(きも)に命じて置くべきだった。
 知識有る者が、必ずしもそれを世渡りに生かせるとは限らない。人生体験から来る想いから導かれる強い意識に因って、知識は強力な武器に成り得る。しかし、それが無ければ、身を飾る単なる装飾としての存在でしか無いことも多いのだ。

 高明は大した苦労も無く、余りに順調に出世して来ていた。本人にすれば、それなりの苦労はして来たつもりだろうが、世間的に見れば苦労と言うほどのものでは無かった。ひと言で言うならば、それが高明の甘さだった。
 高明の甘さは、当然、千晴の身の上にも影を落とすこととなった。

    ~~~~~~~~~~

 安和(あんな)二年(九百六十九年)三月中旬の或る日、祖真紀が千方に気になることを告げた。

「検非違使に気になる動きが有ります。数日前、別当・藤原(ふじわらの)朝成(あさなり)が中納言・兼家を訪ねており、翌日には、佐(すけ)が別当の舘を訪ねております。
 それぞれ呼び付けられたのだと思いますが、私邸で話さなければならない何かが有るのではないでしょうか。そして、以前からではありますが、満仲が、伊尹(これただ)邸、兼家邸に頻繁に出入りしております。それらを併せて考えて見ると、何か嫌な予感が致します」

「検非違使には、満季がおる。確かに気になるな。検非違使庁と満仲の動きに、引き続き気を配ってくれ」

「畏(かしこ)まりました」

 嫌な予感がした。満仲、満季兄弟の千方への攻撃は暫く無いが、そう簡単に諦めてしまうような連中ではない。
 高明が摂関家の仕掛けた罠に嵌(は)まり、影響力を失ってしまった今、千方を狙う絶好の機会が来たと言える。まして、朝堂(ちようどう)は摂関家に支配されており、満仲は、高明を見限って、摂関家に急接近している。多少手荒なことをやっても、済まされる条件は整っているのだ。

 いざと言う時に備えて置かなければならない。    
 朝鳥のことが気になった。豪気な男ではあるが何しろ年だ。自分では変わらないと思っているのだろうが、昔のようには体が動くまい。もし、満仲なり検非違使なりに踏み込まれた時には、命を失うか囚われてしまう可能性が大きい。朝鳥を、そんな危険な目に会わせたくは無かった。
 千方は、兄・千常宛の書状を認(したた)めた。朝鳥を坂東に帰すので、暫(しばら)くそちらに置いて頂きたいと言う内容である。

 朝鳥を呼んだ。

「何かご用で御座いますか」

「都住まいはどうじゃ。もう何年も坂東に帰っておらんから、坂東が懐かしいのではないか?」

「何を仰りたいのですかな」

 朝鳥が、千方をじっと見て、そう言った。

「下野の兄上に文(ふみ)を届けて欲しい。
 若い者に言い付けようかと思ったのだが、朝鳥が坂東を懐かしんでいるのではないかと、ふと思ってのう。何、急ぐ使いでは無い。のんびり旅をして、暫く坂東の風にでも当たって参るが良い」

「今、お傍(そば)を離れる訳には参りません。何かと騒がしい時期で御座いますからな」

「祖真紀がおる。心配致すな。久し振りに五郎兄上にも会いたいであろう」

「どうしても行かせたいようで御座いますな。分かりました。参りましょう、正直、都も退屈になってきておりましたので」

「済まぬ。行ってくれるか」

     ~~~~~~~~~~~~~~~

 朝鳥が坂東に向けて旅立ち三日ほど経った朝のことである。千方が登庁前の身支度をしていると、祖真紀が珍しく慌てた様子で飛び込んで来た。

「お逃げ下さい。検非違使庁の動きが慌ただしく、舘の近くに見張りがおります。猶予は有りません。裏から一刻も早く」 

「分かった、ひとまず甲賀まで落ちることにする」

 千方は手早く身支度を終える。

「鷹丸、先導せよ。鳶丸は後方を護れ。夜叉丸、秋天丸、犬丸は六郎様から離れるな」

 祖真紀が指示を出し、

「吾は潜んで引き続き様子を探り、後を追います」

と千方に告げた。

「では、先に参ります」

と言い残し、鷹丸は裏から出て行った。

「参るぞ」 

 千方らが続く。
 烏丸小路(からすまこうじ)を下り、姉小路(あねこうじ)を東に入る。更に、富小路を下って三条大路(さんじょうおおじ)に出て素早く三条大橋を渡った。
 辻々では、先行する鷹丸が四方の安全を確認し合図を送る。幸い、まだ封鎖はされていなかった。

   ~~~~~~~~~~~~~~~

 瀬田に差し掛かった頃、祖真紀が追い着いて合流した。

「ご苦労であった。様子はどうであった」

 千方が尋ねる。

「やはり、お舘が、検非違使に襲われました。
 裳(も)抜けの空(から)と知って、悔しがりながら引き揚げて行きましたが、満仲、満季の姿は有りませんでした。何やら、六郎様のみを襲ったのでは無いようです。
 念の為、千晴様のご様子を見て来ようと思ったのですが、洛中の警備が見る見る増強されて行き、蟻(あり)の這い出る隙間も無くなりそうだったので、右京までは行けず、已(や)む無く脱出しました」

「遅れていれば、危ないところであったな。兄上には、昨日、注意されるようそれと無くお伝えして置いたのだが、心配ではあるな」

 千方の心配は当たっていた。
 この日、安和(あんな)二年(九百六十九年)三月二十五日早朝、満季率いる検非違使の一団が千晴の舘に突入していたのだ。

 変わらず高明邸に通っていた千晴が、出掛ける支度を終え白湯(さゆ)を飲んでいると、郎等の一人が転げるように入って来た。

「大変です! け、検非違使に囲まれています」

「何? どう言うことじゃ!」

「分かりません」

 千晴は太刀を手にし、玄関まで走った。 

 門から玄関に掛けて、郎等達が太刀の柄(つか)に手を掛けて、皆緊張した表情で身構えている。
 そんな中、満季が手下を従えて入って来る。

「皆の者、手出しはならんぞ。落ち着け!」

 千晴がそう声を上げた。

「藤原千晴。謀叛の疑い有り。吟味致すゆえ手向かいせず、同道致せ!」

 満季がそう声を張り上げた。 

「謀叛?」

 千晴はそう言ったが、連光寺での一件を想起し、はっと成った。

『まさかとは思うが、あの中に裏切り者がおり、嵌(は)められたのではないか』

と思った。密偵に聞かれていたなど想像もしなかった。

「誤解だ。分かった。釈明の為、同道致そう」

 そう言って膝を突き、太刀を目の前に置いた。
 その姿を見て、郎等達も柄(つか)から手を離し、膝を突く。

「捕らえよ」

 満季が声を上げると、下役達がぱっと散り、千晴と郎等達を荒々しく縛り上げ、後の者達が土足のまま舘に侵入して行く。
 やがて、久頼も後ろ手に縛り上げられて、引っ立てられて来た。

    ~~~~~~~~~~

 その日、参内(さんだい)前の高明。

「千晴がまだ来ておりません」

 家司(けいし)がそう報告したが、

「そうか、ならば他の者に代えよ」

 高明は無関心にそう答えただけだった。もしこれが、立太子以前であったなら、

『何? いかがしたのであろう。他の者を待機させ、千晴の館まで誰(たれ)ぞ走らせよ。遅れるような者ではない。何ぞ有ったに違いない』 

 多分、そんな風に命じたに違いない。 

 だが、あの日以来、高明はまるで別人に成ってしまっている。
 長年待ち望んでいた帝親政(みかどしんせい)の許(もと)、高明が力を振るう日は目前に迫っていたはずだった。高明は、充実感と高揚感に満たされた毎日を送っていた。
 帝(みかど)の急な崩御(ほうぎょ)は、大きな衝撃ではあったが、高明の気力を失せさせるようなことは無かった。それどころか、自分が頑張り、何としても、亡き村上帝の悲願であった帝親政を実現させると、強く心に誓いもしたのだ。
 今上(きんじょう)帝に親政は望むべくも無いが、摂関家と折り合いを付け、何とか為平親王に繋ぐ。そして、為平親王が即位するその日こそが大願成就の日であることを疑わなかった。
 その頃には、さすがの実頼も台閣(だいかく)から姿を消していることだろう。それ迄、必死に、そして慎重にやらなければならない。そう覚悟した。

 為平親王の立太子に付いては、夢にも疑っていなかった。それが、覆(くつがえ)されたのだ。それも、摂関家の中では比較的御(ぎょ)し易(やす)いと思っていた実頼に欺(あざむ)かれてのことだ。
 村上帝が倒れた際、『憲平の後は守平を』と言い残したと実頼が披露した時、『そんなはずは無い』と叫びそうになった。だが同時に、叫んでみても覆(くつがえ)せないことだと悟った。
 実頼に欺(あざむ)かれたことが信じられなかった。なぜ、摂関家が纏まってしまったのか分からなかった。何も出来ない立場に追い込まれてしまった己の無力を感じ、言葉ひとつ出なかった。

 突然池の底に大きな穴が開(あ)き、全ての水があっと言う間に吸い込まれて行くように、高明の気力は失せて行った。それからの高明は、名ばかりの、存在感の無い左大臣に成り果ててしまった。
 摂関家主導で、望まぬ方向に議論が進んで行っても、阻止しようとする気力さえ湧いて来ない。根回しをしようと言う気も無い。ただ、流れのままに採決し、帝(みかど)の補佐と言うより代理である関白・太政大臣・実頼に奏上するだけである。

 千晴の身に起きた異変を知らぬまま参内(さんだい)した高明は、実頼に呼ばれた。

「今朝(こんちょう)、藤原千晴を謀叛を企んだ者達の一味として捕縛し、取り調べ中じゃ。左大臣殿には関わり無きことと思うが、従者(ずさ)ゆえ一応お報せして置く」

 実頼は無表情にそう言った。高明は身体中の血が足許(あしもと)目掛けて落下して行くのを感じた。 

『まだ終わっていなかったのか。これ以上何を仕掛けて来るつもりか』

 そう考えながら、倒れそうになるのを必死で堪(こら)えた。

    ~~~~~~~~~~

 甲賀に辿り着き、望月兼家から最初に伝えられたのは、千晴が満季に捕縛されたと言うことであった。

「麿のせいだ。奴等が狙っていたのは麿なのです。己だけ逃げ出した為に、兄上に災いが及んだのです」

「違います。千方殿。千晴殿が捕らえられたのは謀叛の疑いで御座る。他に、中務少輔(なかつかさしょうゆう)・橘繁延(たちばなのしげのぶ)と蓮光寺の住職・蓮茂と言う者も捕らえられております」

「兄上が謀叛に加担するなど考えられません」

「訴え出たのは、満仲と前武蔵介(さきのむさしのすけ)・藤原善時(ふじわらのよしとき)。根拠は分かりません」

「満仲が絡んでいるとすれば、やはり麿が狙いだ。祖真紀、都に戻り、兄上を救出するぞ」

「お気持ちは察するが、それは無理と言うものです」 

 望月兼家が、千方をそう制した。

「麿ひとり、おめおめと坂東には戻れません」

「助けられぬのに、行ってどうなる。馬鹿な真似はおやめなされ」

「六郎様、望月様の仰る通り。一旦坂東に戻って考えましょう」

 祖真紀もそう嗜(たしな)めた。

『饅頭(まんじゅう)め。このままでは済まさぬ』

 千方は、血の滲(にじ)むほど唇を噛み締めていた。

   ~~~~~~~~~~~~~~~

 話は、満季が満仲を尋ね蓮光寺での千晴らの動向を伝えた日の翌日に戻る。

 満仲は兼家の許を訪ねている。

「面白い話を持って参りました」

 階(きざはし)の上に立っている兼家に、地に膝を突いた満仲が話し掛ける。

「何事か?」

「余り大きな声では申せぬ話で御座います」

「ふん」

 兼家は扇で首をひとつ叩き、左右を見回してから、階(きざはし)を何段か降りた。そして、扇を半開きにして耳に当て、満仲の方に少し体を傾ける。満仲が立ち上がり、中腰に成って扇に口を寄せる。

「恐れ入ります。実は、不穏(ふおん)な話を耳に致しまして」 

「先を申せ」

「はい、葛野(かどの)に有る蓮光寺と言う小さな寺で、謀叛の談合が行われました」

「何! 真(まこと)か」

「はい。そう言う話をしたことは確かで御座います。但し、話していたと言う以外何の裏付けも御座いません。ただの不埒(ふらち)な所業としてしまえば、それ迄のことで御座います」 

 兼家は、扇を外し、体を起こした。

「下らん。わざわざ麿に告げに来ることか。検非違使にでも訴え出よ」

「為平親王様を擁して東国に逃れ、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)すと言う内容で御座いますが」

「怪(け)しからん奴輩(やつばら)。戯言(たわごと)で済ます訳には行かぬな。厳しく取り調べるよう麿からも検非違使庁に申し入れておこう」

「それだけでは、面白くも御座いませんでしょう」

「何? 麿を愚弄(ぐろう)しておるのか。許さぬぞ」

「飛んでも無い。摂関家のお役に立てるのではないかと思うてのことで御座います」

「何を企んでおる。首謀者は誰だ」

「中務少輔(なかつかさしょうゆう)・橘繁延(たちばなのしげのぶ)と言う者に御座います」

「不埒(ふらち)な言動に依り、投獄の後官位剥奪、官職追放と言った処か。従五位上(じゅごいのじょう)辺りでは、為平親王に近付くことは出来まい」

「後ろにそれなりのお方(かた)が居れば話は別で御座いましょう」

 満仲がニヤリと笑った。

「おるのか?」

「その場に、面白い男が同席しておりました」

「誰(たれ)か?」

 兼家が満仲を見据えた。

「藤原千晴」

「そのほうの口から聞いたことの有る男。確か、あのお方(かた)の」

「はい。あのお方の従者(ずさ)に御座います。しかも、一番のお気に入り。面白くは御座いませんか」

「面白い。何か証(あか)しが欲しいのう」

「調べても、何も出て参りますまい。元々その程度の話なのですから。しかし、そんなものは必要無いのでは御座いませんか。野の草でも上手く調理すれば美味となることも御座いましょう」

「なるほど。分かった。兄上にお話ししてみよう」

「きっと、面白い絵図を描いて頂けるものと思います」


 翌日、満仲は伊尹(これただ)に呼ばれた。

「兼家から聞いた。麿に絵図を描けとは不敵な奴。だが、面白い」 

「恐れ入ります」

「麿から検非違使に指示するより、やはり、そのほうから訴え出よ。訴えの子細(しさい)に付いては、追って指示致す。もうひとり誰(たれ)ぞ居た方が良いな。信用出来る者は居るか?」

「はい。それなれば、心当たりが御座います。恐れながら、手前からもお願いが御座います」

「何か?」

「手前の弟・満季なる者が検非違使におります。千晴を捕らえる際には、是非とも満季にご命じ下さるようお願い申し上げます」

「弟とあらば、何かと都合も良い。その件、あい分かった」

「有難う御座います」

「読めたぞ。そのほうの狙いは千晴であろう。その為にお上(かみ)を利用しようとは怪(け)しからん奴」

「同時に、摂関家のお役にも立てることと思ってのことで御座います」

「言いおるのう。どこまでも不敵な奴。だが、役には立つ。今後とも働け」

「ははっ」

    ~~~~~~~~~~

 満仲は善時(よしとき)を自分の舘に呼んだ。

「善時殿には、武蔵権守時代には、えらくお世話になり申した」

「飛んでも無い。こちらこそ大変お世話になりました。その上、今もお世話になっております」

「その後、再び官職に就ける目処(めど)は立っておるか?」

「いや、それがなかなか」

「良い話が有る。上手く行けば出世に繋がる。だが、滅多な者には明かせぬこと。麿を信じ、一口乗らぬか。何も聞かず引き受けてもらわねば、内容は明かせぬ」

「分かり申した。満仲殿を信じる。命を預けても良い」

「忝(かたじけな)い。実は、謀叛の訴えに連署して欲しいのじゃ。子細(しさい)は後ほど、上の方から降りて来る。それを頭に叩き込み、いかなるご下問(かもん)にも答えられるようにして置けば良い」

「謀叛の?」

「我等が叩き落とす蝿は藤原千晴」

「あの千方の兄で御座るな」

「もちろん、千方も一緒に葬る。だがな、真の狙いは遥か大物じゃ。それが有るから、摂関家がこの話に乗った」 

「摂関家が後ろに着いている。それなら、恐いものは有りませんな」

「その通り」

「大物とは千晴に繋がるあのお方(かた)で御座るな。摂関家、正(まさ)に恐ろしやで御座いますな。強(したた)か叩いたのに、あの程度ではまだ飽(あ)き足(た)らぬと言うことですか」

「やる時には徹底的にやらねば、悔いを残す。麿も同じ考えだ」

「満仲殿を敵に回さずに良う御座いました」

「その代わり、麿は味方には情が厚いぞ」

「仰せの通り」


 数日後、満仲が善時と満季を伴って、伊尹(これただ)邸を訪れていた。

「これなるは、前(さきの)武蔵介・藤原善時と手前が弟・満季に御座います。お見知り置き下さいませ。善時は手前、最も信頼する者に御座います」

 伊尹は白紙で封じた手紙様(よう)のものを投げる。地に落ちたそれを満仲が拾う。

「それに書き示してある通りに訴状を認(したた)めよ。内容をしっかりと覚え、その後に焼き捨てよ。
 全(すべ)て辻褄(つじつま)が合うように証(あか)しも証人も用意して有る。後は、痛め吟味でそのように吐かせるだけじゃ。満季とやら、良いな」

「ははっ。必ずそのように」

 満季が地に額(ひたい)を着ける。 

「大儀(たいぎ)」

 そう言い残し、伊尹は背を向けて奥に消えて行く。

    ~~~~~~~~~~

 始め拘(こだわ)りを見せていた師氏(もろうじ)も、立太子以来、形勢が摂関家に傾いたのを見て師尹(もろただ)に歩み寄りを見せている。
 兼家とは犬猿の仲の兼通(かねみち)は、高明に近いことで身の危険を感じ、兄の伊尹に従う形で兼家とは小康(しょうこう)を保とうとしている。
 だが、一方で、師尹と兼家の家人(けにん)同士が乱闘すると言う事件も起こっていた。

 曲(ま)がり形(なり)にも、摂関家を纏めている要(かなめ)は師尹である。
 師尹に口説(くど)かれ、関白になりたさもあって妥協した実頼も肚(はら)の底では、伊尹の跳ね上がり振りを快く思っていない。だが、摂関家を動かしている原動力はと言えば、やはり伊尹なのだ。
 師尹は、実頼と伊尹を繋ぐ役割を担っている。他人に厳しく偏屈な師尹にしては珍しいことだが、自分こそが摂関家を纏めていると言う自負がそうさせているのかも知れない。

 その師尹(もろただ)の許を伊尹(これただ)が訪ねている。

「手筈(てはず)は整いまして御座います。後は関白様のご決断が有ればいつなりと」

「そうか。関白様には麿から申し上げて置く。今更、否(いな)とは仰せになるまい。と言うよりも、言えぬであろう。麿が責めを負う。構わぬ、やれ」

「畏(かしこ)まりました。では、三月二十五日と致します。良しなに」

「分かった。抜かるなよ」

「抜かりは有りません。いよいよ叔父上も左大臣と言うことですな」

 師尹は、少し不快そうなな顔をした。

「己の栄達の為にすることでは無い」 

「それは、良く分かっております」

 そう言いながら伊尹(これただ)は、『何を気取ったことを言っているのだ』と思っていた。

 師尹(もろただ)はもちろんのこと、実頼も己の欲の為に動いている。それを、摂関家の為と言い換えることに依って己自身を欺(あざむ)き、自分はそんな人間では無いと思い込もうとしているのだ。 
 大義(たいぎ)とは、欲深い己を隠す簑(みの)のようなものだと伊尹は思う。そう考えるのは、自分自身を含めてのことだ。立場こそ違うが、高明とて例外では無い。そう思う。 

 人は皆、己の欲を隠し、体裁(ていさい)を繕(つくろ)って生きている。下(しもじも)々の者は少しでも良い暮らしをしたいが為に、上の者は権勢欲や名誉欲を満たそうとして。己自身をも偽って生きているのだ。伊尹はそう思っている。

 唯一、我欲を隠そうともしないのは満仲くらいか。そう思った。だからこそ、満仲を信用した。
 摂関家側に着いている方が得だと思っている限りは、満仲は裏切らない。そう見抜いて大事を手伝わせている。分かり易い男なのだ。
 それに比べて、摂関家の者達は、姑息(こそく)なことをやりながら、なお、己を飾り立てようとする。己(おの)が一族ながら、度(ど)し難(がた)い連中だと思った。

「何か不都合が起こった際には、叔父上方は何も知らなかったことことになさいませ」

 公卿達の得意技であり、最も喜ぶ言葉だと分かっていて、伊尹はそう言った。不都合など起こり得ないと思っている。 

「分かった。後は、そのほうが差配致せ」

「畏(かしこ)まりました」

 三月二十五日早朝。満仲と善時の二人が訴状を持って、中務少輔(なかつかさしょうゆう)・橘繁延(たちばなのしげのぶ)と左兵衛大尉(さひょうえのだいじょう)・源連(みなもとのつらなる)らが謀反の謀議をしていると訴え出た。

    ~~~~~~~~~~~~~~~

 まだ明けきらぬ時刻、検非違使庁の中は出動準備でごった返している。

「孝継(たかつぐ)殿、千方の方は宜しくお願い申す」

 満季が、同僚の佐伯孝継(さえきのたかつぐ)に話し掛けている。満季自身は千晴の捕縛に向かい、千方捕縛には孝継が向かうことになっている。 
 千方は、蓮光時での歌会には参加していない。千晴から何か聞いている可能性が有ると満季が提案して捕縛対象に加えられていた。

「既に見張りを着けてある」

 孝継が答える。

「そうか、分かった」

 満季は、千方を捕らえても、大した罪には出来ないことを知っているが、位階剥奪、官職追放まで強引にでも持って行きたいと思っている。
 官人(つかさびと)を殺せば探索が厳しくなる。だが、無位無冠の者が殺されたとしても大したことにはならない。証拠さえ残さなければ良いのだ。満季はそれほど迄に千方を殺したいと思っている。
 満仲、善時の提訴を受けて、右大臣・師尹(もろただ)以下の公卿達は直ちに参内(さんだい)して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白・実頼に送ると共に、検非違使に橘繁延と僧・蓮茂らの捕縛を命じた。
 告発から、公卿らの召集。検非違使への命令まで、まるで、予(あらかじ)め決められた手順に従って進められたかのようにごく短時間で完了した。

千晴は、

『確かにそのような戯(ざ)れ言(ごと)は耳にしたが、自分は一切言っていない。又、言った者も本気で言ったのでは無いことは明らかである』 

と答え続け、痛め吟味にも屈しなかった。

 繁延も、戯(ざ)れ言(ごと)と言い張った。しかし、発言の当事者である為、千晴以上に痛めつけられ、同席した源連(みなもとのつらなる)と平貞節(たいらのさだみ)の名を口にした。 
 満季はそのふたりの同席を知っていたが、敢(あ)えて、繁延の自白を待って手配をした。二人は逃亡した後だった。また満季は蓮光寺を徹底的に捜索したが、竹菅を見付け出すことは出来なかった。 
 庁に戻ると、孝継が済まなそうに近寄って来て頭を下げた。

「逃げられたか」

 満季が、憮然(ぶぜん)として呟いた。

    ~~~~~~~~~~

 師尹(もろただ)と伊尹(これただ)はじりじりしながら待っていた。
 次にやることは決まっている。三人のうちの誰の口からでも良いのだが、高明(たかあきら)の名が出たと言う報告が、検非違使庁を通じて上がって来るのを待っているのだ。だが、夕刻になってもその報告は無かった。

 満季は頭を抱えていた。 
 脅したりすかしたりしながら、どんなに痛め付けてみても、高明の関与が有ったと言う供述を得ることが出来ない。もちろん事実では無いので、痛め付けて苦し紛(まぎ)れに認めさせるだけのことなのだが、誰一人認めない。
 伊尹の前で大見得(おおみえ)を切った手前、何としても吐かせなければならない。だが、これ以上責め続ければ、責め殺してしまうことにもなりかねないのだ。

 夕刻、満季は密かに伊尹(これただ)から私邸に呼び出された。

「必ず吐かせますので、今、暫しお待ちを」

 満季は懇願した。

「もう良い。吐かねば、吐いたことにするだけ。殺してはならぬ。良いな」

「申し訳御座いません」

「明日の朝、決行する。今夜中に別当から命(めい)が下ろう」

「畏(かしこ)まりました。」

    ~~~~~~~~~~

 翌二十六日。やはり早朝。

 佐(すけ)・藤原(ふじわらの)允世(ただよ)が直接指揮し、検非違使の一団が高明邸を囲んだ。

 高明は、昨夜は眠れなかった。前日、実頼から千晴の捕縛を告げられた瞬間、真の狙いは自分であると確信した。
 満仲の裏切りに続いて千晴の捕縛。高明は両の腕をもがれたも同然で、土壇場(どたんば)で武力を使うことも出来無くなってしまった。
 高明の影響力を奪ったくらいで満足する摂関家では無かった。この二年間、常にこの機会を狙っていたのだ。大人しくしていれば、何とか生き延びられると思っていたことさえ甘かった。
 高明は一晩中考えた。そして、左大臣を辞し、朝堂(ちょうどう)からも身を退(ひ)き、仏門に入ることとした。そこ迄やらねば摂関家は許さないだろうし、又、そこまでやれば、さすがの摂関家も見逃してくれるはずと考えた。
 仏門に入ると言うことは、今後、永久に摂関家の政敵にはならないと言うことである。

 参内(さんだい)したら直ぐに実頼に会い、その旨申し出るつもりであった。

 検非違使に取り囲まれていることを家司が告げに来た。高明は瞑目(めいもく)し、やがて深い吐息(といき)を吐いた後、黙って頷いた。
 間も無く、佐・藤原允世を先頭に検非違使達が土足のまま踏み込んで来た。
 検非違使別当(けびいしのべっとう)は検非違使を統轄する最高責任者ではあるが、自身は検非違使では無い。(今で言えば、国務大臣・国家公安委員長と言ったところか)
 実質、二人の佐(すけ)が検非違使を動かしている。允世は右衛門権佐(うえもんのごんのすけ)を兼ねている。従五位上(じゅごいのじょう)に過ぎない允世に、正二位(しょうにい)・左大臣である高明が頭を下げる。

「勅(ちょく)である。源高明を左大臣から太宰権帥(たざいのごんのそち)に転じるとの太政官(だじょうかん)の決定が出た。今この場より直ちに大宰府に向かわれよ」

 大宰府は朝廷の鎮西(ちんぜい)総司令部であり、九州地域の兵権を掌握している組織である。
 長官は太宰帥(だざいのそち)であるが、皇族が任じられ当然遙任(ようにん)であるから、実質的な責任者は権帥(ごんのそち)と言うことになる。
 他方で大宰権帥は中央で失脚した大臣経験者の左遷ポストとなることも多かった。
 通常の官職として任じられることも有り、同時に左遷ポストともなると言うややこしい官職なのだ。
 高明の場合は当然左遷であるから、そう言う場合は、弐(すけ)が実質的責任者となり、権帥(ごんのそち)は名目だけで、一切、行政には関われない。 
 全ての官職を辞し、仏門に入るので大宰府行きは免じて欲しいと高明は懇願した。

「申し出に付いては上に報告します」

とだけ、允世は答えた。

    ~~~~~~~~~~

 六十八年前の昌泰(しょうたい)四年(九百一年)一月。左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん)により醍醐(だいご)天皇が右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を大宰員外帥(だざいのいんげのそち)として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将(うこんえのちゅうじょう)・源善らを左遷または流罪にした。
 時代に依って呼び名が変わっただけで、権帥(ごんのそち)も員外帥(いんげのそち)も同じ職である。車馬は元より、食料も与えられない状態で、道真親子は、大宰府に向けて追われた。昨日までの右大臣がである。
 飢えと寒さ、足の痛みに耐えながら、道真は大宰府に辿り着き、左遷後は大宰府・浄妙院(じょうみょういん)で謹慎していたが、わずか二年後の延喜(えんぎ)三年(九百三年)二月二十五日に逝去(せいきょ)し、安楽寺(あんらくじ)に葬られた。享年(きょうねん)五十九歳。

 歴史にも詳しい高明は、道真が味わった悲惨さを良く知っている。それが、余りにも悲惨であったがゆえ、その死後藤原氏が怨霊に脅え、遂には道真を神として祀(まつ)ってしまうまでに至ったのだ。

 高明は恐ろしかった、左遷とは名ばかり、実質的な島流しである。どれほどの苦難が待ち受けているのか。想像したくも無かった。
 道真は文章生(もんじょうしょう)から右大臣まで上り詰めた男だ。下(しもじも)々の暮らしも経験している。その道真が苦しんだ状況に、元は親王であった自分が耐えられるのだろうかと思った。

    ~~~~~~~~~~

『上に報告する』と言う答だけでは心もとない。

「必ず、関白・太政大臣様まで伝わるようお願い致す」

 高明は允世に重ねてそう頼んだ。

「麿に出来るのは、別当に申し上げるところまで、その後は預かり知らぬこと」

「……。ならば、そこまで宜しくお願い致す」

 一縷(いちる)の望みは、実頼が、致仕(ちし)(引退)を認めてくれることである。建前が左遷であるなら、辞めた者を大宰府に左遷することは出来なくなる筈だ。
 高明の願いは届かなかった。その日のうちに長男の忠賢(ただかた)と共に九州へ向けて追い立てられることになった。
 一方、橘繁延(たちばなのしげのぶ)は土佐国、蓮茂は佐渡国。藤原千晴は隠岐国(おきのくに)にそれぞれ流され、更に源連(みなもとのつらなる)と平貞節(たいらのさだみ)の追討が諸国へ命じられた。しかし、千方への追討令は出されなかった。

 密告の功績により、源満仲は昇叙(しょうじょ)どころか、いきなり正五位下(しょうごいのげ)に叙(じょ)された。藤原善時(ふじわらのよしとき)は位(くらい)を進められ、官職も得た。
 また左大臣には師尹(もろただ)が転じ、右大臣には大納言・藤原在衡(ふじわらのありひら)が昇任した。

坂東の風 第二十話~第二十七話

執筆の狙い

作者 青木 航
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☆今回は、中半の山場『安和(あんな)の変』に至る迄の経緯です。
 一般の認知度は低いが、平安中期最大の政変です。摂関家の人々の複雑な動きを描いたつもりです。この経緯を正面から描いた小説は無いと思いますし、摂関家の誰が中心になって動いたのかも、実は良く分かっていないので、結果は史実ですが経緯は私なりの見方による創作となります。
 誰がどう動いたか? 歴史に興味が有れば面白い展開であるとは思うのです。
 私に取っては、その時代、その時に何が起きたのか、何故そうなったのか、その結果がその後の歴史にどう影響したのかと言う領域に踏み込むことは、ディズニーランド以上のワクワク・ファンタジアであり、言い換えれば、何故今が有るか、何故自分が居るかなんですが……ね。

【第十三話 嵐の前】【第十四話 帝御不例【第十五 摂関復活】【第十六 敗北】【第十七 明暗】【第十八 更なる危機】【第十九 安和の変】

コメント

あらすじ
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 藤原秀郷の落とし種、六郎・千方は、相模の山中で自家の荷駄の列を襲おうと待ち構えていた十五人の男達を逆に急襲し、皆殺しにしてしまう。
 男達の正体は、武蔵権守・源満仲の弟・満季の郎党と手の者達だった。
 源満仲は、都では、千方の長兄・千晴と勢力を二分し、共に源高明を私君と仰ぐ兵(つわもの)である。
 京に上った千方は、兄・千晴と主・高明のお陰で修理職(しゅりしき)に奉職し、順調に出世を重ねる。
 だが、『安和(あんな)の変』で主・高明は失脚し、兄・千晴は遠島となってしまう。
 謀反をも覚悟して起こした、世に言う『千常の乱』。
 参議・藤原兼通の大幅譲歩による密約を以て乱は終息する。
 その後、修理職に復帰を果たした千方。
 まだ遠いが、微かに修理大夫の座も視界に入って来た或る日、修理大夫であり参議でもある源惟正から、鎮守府将軍に転出するよう打診を受ける。
 だが、鎮守府将軍の任が明けた後は…… 
  一方、摂政・藤原兼家の命により、花山天皇を騙して退位させることに手を貸した満仲は、凡そ一年後、突然、出家してしまう。
 満仲・満李兄弟との因縁の確執。更に、藤原摂関家との駆け引きを軸に物語は進み、歴代の帝、摂関家の人々。更には、ほんの少しだか、安倍晴明も描かれる。
 満李の謀により、平忠常から圧迫を受け、甲賀三郎の招きに応じ甲賀に逃れた千方は伊賀に新しき土地を得る。
 伊賀の青山に伝わる、四鬼を操る伝説の悪の将軍『藤原千方』と、この物語の主人公との関係は?

青木 航
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 すいません。早速大チョンボやらかしてしまいました。
タイトル
【坂東の風 第十三話~第十九話】
の間違いです。申し訳有りませんでした。

青井水脈
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読ませていただきました。歴史上の出来事で、なぜそうなったのか、それがその後の歴史にどう影響したのか。私はそこまでの領域に及ぶことは出来そうにないですが、青木さんがよほど歴史に興味あるのがわかりました。
千晴が隠岐に流され、秀郷の系統は中央政治から姿を消すことになり。安和の変と聞いてはじめはピンときませんでしたが、結構大きなターニングポイントですね。師輔が生きていたら、もっと流れは変わったでしょうし。

>大義(たいぎ)とは、欲深い己を隠す簑(みの)のようなものだと伊尹は思う。そう考えるのは、自分自身を含めてのことだ。立場こそ違うが、高明とて例外では無い。そう思う。 中略

 唯一、我欲を隠そうともしないのは満仲くらいか。そう思った。だからこそ、満仲を信用した。

今回で印象に残った箇所です。現代では考えられないくらい、複雑に絡み合った思惑があったでしょうね。

朝廷の財政について、前から疑問に思っていたことがあります。

>兄から貰った銭で、千方は雛に笄(こうがい)を買ってやった。まだ、米や布を介しての物々交換が主流であったが、一部、市などでは銭が使われていた。

こちらは前回の分ですが。この時代の財政ですよね。万が一破綻したらどうなるのか考えつきません。近年だとアルゼンチンみたいな国がデフォルトして、IMFに支援されて、みたいな流れになるのがわかりますが。

青木 航
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 青井水脈様、くそ長いものをお読み頂き本当に有難う御座いました。

>この時代の財政ですよね。万が一破綻したらどうなるのか考えつきません。

 まともに説明したらえらいことになってしまいそうですし、私もそこまでの知識は有りません。だから、ごく単純化して説明させて頂きます。

>近年だとアルゼンチンみたいな国がデフォルトして、IMFに支援されて、みたいな流れになるのがわかりますが。

 デフォルトとは債務不履行の事ですね。
 現代では政府がやらなければならない公共事業や社会福祉など色々有って、税収が足らないからやらないと言う訳に行かないので、切り詰めたとしても一定額の予算が必要となります。
 税収が足りなければ、増税するか国債を発行して買って貰い、預金として眠っているお金を使わせて貰う事になります。
 国債は借金ですからいずれ返さなければならないし利息も払わなければなりません。
 税収不足が何年も続けば、増税も出来ず国債発行も出来なくなります。
 国債は国民が買うだけでなく、外国人投資家、投資機関も買います。信用査定会社の評価が下がる事になり貿易の際の保険料も高くなり民間企業の収支も悪くなります。
 基幹通貨であるドルが不足して外国に対する支払いが出来なくなる状況がデフォルトですね。
 乱暴に縮めましたが、要は外国に対する支払いが出来なくなる事ですから、平安時代には起こり得ません。

 足りなければ、やらないか増税してでもやるか、誰かに出させるかです。
 それでも足らなくなってしまったので、桓武天皇は辺境を除いて軍団制を廃止し、征夷つまり蝦夷征伐を終息させ、まだ半ばだった平安京の建設事業も中止しました。
 また、増えすぎた皇族を養う為の経費が膨大となってしまったので、嵯峨天皇の時代から臣籍降下が行われて皇室経費の大幅削減が行われた訳です。

 それでも律令制は崩壊して行く訳で、その辺の事情を前作『竜の軌跡』と本作とで書いているつもりです。

 ただ、拙作は多分このサイトの趣旨に反していると思われているし、作風も殆どの方の関心の外、やたら長いなど、凡そ読みたく無くなるような要素満載の作品なので、今回こそはコメントゼロを覚悟しました。
 例えそうだったとしても最終話まで掲載するつもりではいるのですが、『ざまあ見ろ』と思っている方、『言っても分からないんだから仕方ないな』と思っている方、色々居るだろう中で、お読み頂けてコメントまで頂けたことに深く感謝します。有難うございました。
 変人は変人なりに色々と考えています。

青木 航
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 そのサイトを開く。何も起こりはしないと分かっていて何故開くのか? 男に捨てられたことを信じたく無くて、着信やメールを何度も確認し続ける女のように。
 冷静に考えろ。このサイトに、お前と同じものに関心を持つ人間なんて殆ど居やしないんだ。 

 例えば、朝起きて窓の外を眺める。朝日、雲、眼下に見える町並み、壁紙の染み、それに纏わる記憶、アクセサリーにはコーヒーが似合う。
 女。そうだ、女は必須だ。いい女、そう、いい女でなければならない。必ずしも美人である必要は無い。自分に取っていい女であれば良いのだ。じゃあ、駄目な女、悪い女は? それも、その女に対する感情をうだうだ書く為には、いい女と言える。セックスなんて、すれば良いものであって、他人に語って面白いものでも何でも無い。その描写に共感してコメントなんか貰ったら気持ち悪いだけだろう。

 窓から見える景色を如何に情感を持って描写するか。視覚と心象をどう合体して世界を作るか。如何に自分が情感豊かな人間であるかを表現する為に言葉を紡いで行くのか、ひたすら美しい表現を求めて。他人との関わりに付いても全てそうだ。
 情感こそが、表現こそが、描写こそが小説だと思っている人達。勿論、ストーリーも重視していると言うだろう。そう、歴史に残ることは無い個人的なストーリー。起承転結が大事だと口を揃える。小説ってそう言うものなのか? いや、それだけが小説なのか? 小説とは、遥かに幅の広いものだと、俺は思う。

 お互いに切磋琢磨してごはんの食べられる作家を目指そうと言うのが趣旨であるから、或意味、純文嗜好の強い人達が多いのは当然のこと。そこに俺が居るのがおかしいのだ。

 俺は純文にもラノベにも興味が無い。ただ歴史が好きだ。
 この国に何が有ってどう今の世の中が作られて来たのかに興味が有る。世界に付いても同じだ。宇宙の成り立ちにも興味が有る。
 年号や人の名前、政策の名称を覚えるだけだった学生時代の世界史や日本史。何と無駄な時間を暗記の為に使っていたのかと思う。

 歴史に興味が有る人達のサークルであれば、話は広がって行くだろうか。
 だが、その場での約束事はエビデンスである。文献とその解釈に終始することになる。文献の裏付けの無い勝手な想像は相手にされない。矢張、俺の居場所では無いのだ。

 賢人は言うだろう。
 このサイトに投稿するなら、まず、この長さは非常識であり論外だ。君の面白くも無い駄文を四万字も読めと言うのか? 誰がするか! 傲慢この上無い。
 原稿用紙せいぜい30枚くらい、読み易い分量で提示して皆さんの意見を聞く。それが筋だろう。
 そこで、表現や構成、話のリアリティーの有無に付いて皆さんの意見を聞くべきだ。
 それは、素直に受け入れられる意見もあれば、受け入れられないものも有るだろう。中には、口汚く罵るだけのコメントも有るかも知れない。
 それらを取捨選択して反省し自己研鑽して行ける人がプロに成れる人だと私は思う。

 なーんてね。本当かよ。傍観者としてコメントの応酬見てるとそうも思えないけどね。

夜の雨
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青木さん、ちょっと雑談していいですかね。
歴史小説ということで、御作を投稿していますよね。
以前からその投稿スタイルを見ていまして、あまり感想が入らないのに、何度もチャレンジしてまじめな方だなと思っています。

私は歴史小説というか、歴史にあまり興味がなくて、小説はおろか、テレビドラマ(番組)でも視聴しません。
だから先日までNHKでやっていた「麒麟がくる」も観ていませんでした。

そういう私が御作を読んでもいないのに、歴史小説をまじめに書いておられる青木さんに対して「青木さん、ちょっと雑談していいですかね」といいながら、感想欄にお邪魔するのは、失礼にあたるかなと思いましたが、「ずっと、青木さんのことが、気になっていました」。
「小説を投稿していて、ほとんど感想が入らないのに、何度もチャレンジしている」からです。
精神的に、疲れるのではないかと思います。
感想が入ると、やる気も出るだろうとは思うのですが。


どうして、感想が入らないのだろうかと思いましたが、私自身が「歴史小説」に興味がないので、読む気がしない。
それでですね、先日図書館に行ったときに、気になったものですから歴史小説を何冊か手に取り、導入部を見ました。
小難しいことを書いているのかと、ところがですね、私が手に取った歴史小説の導入部はすべて、「エピソードから入っています、そして読みやすい」
これは、青木さんが投稿している作品とは導入部の書き方が違うなぁと思った次第です。

さきほど鍛練場を覗くと、青木さんがご自身の感想欄に何やら書いているので、見ると「そのサイトを開く。何も起こりはしないと分かっていて何故開くのか?」と、ありましたので、「上に書いた図書館での歴史小説を何冊か手に取ったことを思い出しまして、こんどは、ネットで歴史小説の人気どころを調べてみました。
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●>徳川家康 山岡荘八 講談社

>竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫) 司馬遼太郎

●>井上ひさし文庫本「四千万歩の男」全5巻●講談社

>【書籍】戯曲 舞台『刀剣乱舞』ジョ伝 三つら星刀語り 草薙の剣 /新潮社/橋本治 (単行本)

●>鬼神 / 矢野 隆 / 中央公論新社 [単行本]

>寂滅の剣 / 北方 謙三 / 新潮社 [単行本]

●>明智光秀の密書 ノン・ポシェット/井沢元彦

●>黥布 項羽と劉邦が最も恐れた顔面刺青の猛将 PHP文庫/加野厚志

>キリストの誕生 新潮文庫/遠藤周作【著】

>村上海賊の娘(上巻) /和田竜(著者)  漫画。

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上のような感じで「●」をつけた小説は導入部が「サンプル」で、読めます。
10冊のうち、5冊の導入部が読めました。
その導入部ですが、やはり読みやすく書いてあります。
エピソードから入っています。

御作の導入部は堅いので入りにくい。
ネットで「歴史小説」を検索して、有名どころの作品がどういった入り方をしているのかを調べてみたらいかがですかね。

これは歴史小説だけではなくて、ほかの分野の小説でも同じだと思いますが、やはり読まれないということは、何か問題があるのだと思います。

ベストセラー本の一覧(ウィキペディアより。)

単一書籍でのベストセラー
人間失格 1948 太宰治 日本語 1200万
ノルウェイの森 1987 村上春樹 日本語 1200万

シリーズ作品
宮本武蔵 1935-1939 吉川英治 日本語 1億2000万
アンパンマン 1970 やなせたかし 日本語 5000万
徳川家康 1950 山岡荘八 日本語 3000万
グイン・サーガ 1979 栗本薫 日本語 3000万
三毛猫ホームズシリーズ 1978 赤川次郎 日本語 2600万
かいけつゾロリ 1987 原ゆたか 日本語 2300万
鬼平犯科帳 1968 池波正太郎 日本語 2290万
竜馬がゆく 1963 司馬遼太郎 日本語 2125万
青春の門 1970 五木寛之 日本語 2000万
幻魔大戦シリーズ 1978 平井和正 日本語 2000万

漫画
ONE PIECE 1997 尾田栄一郎 日本語 4億8000万(全世界)



結構、歴史小説や時代小説は読まれているのですよね。
漫画には勝てませんが(笑)。

雑談、以上です。

青木 航
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 夜の雨様、有難う御座います。

>やはり読まれないということは、何か問題があるのだと思います。

☆仰る通りだと思います。
 読書に付いて、読んでいないと思われてるのかどうか分かりませんが、私も歴史小説は読んでいますよ。(笑) 例えば、前にも書きましたが、

 黒岩重吾:『天の川の太陽』『天風の彩王』
 平岩弓枝:『聖徳太子の密使』
 海音寺潮五郎:『平将門』『海と風と虹と』
 井沢元彦:『逆説の日本史』
 永井路子:『この世をば』『望みしは何ぞ』
 北方謙三:『破軍の星』『武王の門』『悪党の裔』『道誉なり』『楠木正成』
 陳 舜臣:『阿片戦争』『旋風に告げよ 』『小説十八史略』『曼陀羅の人 空海求法伝』
 高橋克彦:『炎立つ』『火炎 北の耀星アテルイ』『風の陣』

 その他、遠藤周作など大物も色々。

☆尤も、読んでいて違いが分からないのは、尚更救いようが無いと言う事になりますかね。

>私が手に取った歴史小説の導入部はすべて、「エピソードから入っています、そして読みやすい」

☆読み易いかどうかは別として、否定されるとは思いますが、私もエピソードから入っているつもりではいるんです。

 第一話は襲撃の描写からですし、今回も、高官四人の話し合いの場面です。確かに、其々の位置や服装、表情などの描写はしていません。なぜなら、これから起こる事の伏線は会話の中に有るからです。

 何故話さなければならないのか。彼らは起きている問題に其々どんな考えを持っているのか。どんな方針が打ち出されたかが最も意味を持っており、それは全て会話と説明の中で示されています。ここで表情や内心の描写はさほど必要無いと思いました。
 場面によって、第一話襲撃や帝が倒れた時の騒動、安和の変の進行などは動きとして描写しているつもりです。

 ただ、勧善懲悪や非現実的な設定にはしないと言う信念が有るので、その辺が理屈っぽく面白く無い原因のひとつになっているのかも知れません。全て、原因が有って結果が有ると言う流れです。

 人間、神話の昔から、マンガ、アニメ、ラノベまで、非現実が大好きです。今ヒットする映画も、大体その辺を原作としているものばかり。まあ、クオリティーが高くなっていると言えばそうなんですがね。

 まあ、読み手をかなり限定する事になってしまうんでしょうね。
『つまらないから読まれない』
 例え一、二話でも読んだ上でそう言われるなら甘んじて受けるしかないですね。

青井水脈
om126161084214.8.openmobile.ne.jp

青木さん、私も夜の雨さんに倣って、ちょっと雑談していいですか?というか、失礼してコメント欄使わせていただきます。

>敵討ちをテーマにした物語には、古来、多くの優れた作品がある。「忠臣蔵」をはじめ、歌舞伎、浄瑠璃、講談などで人々に流布され、理屈抜きで受け入れられた。
「ハムレット」をはじめ、諸外国にもその例は多い。してみれば、敵討ちは人類が共感を得る共通したテーマかもしれない。

唐突ですがこれは、池波正太郎さんの「まんぞく まんぞく」という時代小説の文庫版の解説の冒頭です。解説を書かれたのは影山勲さんという方で、産経新聞におられたそうです。平成二年の分ですが、敵討ちが不変的なテーマなのは今でもそうだろうと思って。
「忠臣蔵」は年末時代劇でドラマ化されたり、浄瑠璃で「仮名手本忠臣蔵」があったり。理屈抜きで受け入れたのがわかります。
これはあくまで参考までに。

>勧善懲悪や非現実的な設定にはしないと言う信念が有る

こう書かれているのに難ですよね。伊賀に四鬼が実在した、なんて流れになっても面白そうだと思いましたが。

それで話は変わりますが歴史というと、クレオパトラの鼻がもっと低かったら歴史は変わっていた、と聞いたことがあります。それより、若き日のアドルフ・ヒトラーが美術学校に受かっていた方が世界大戦の流れは大きく変わっていたんじゃないかと、個人的に思ったことがあります。
とにかくここまで来たのですし、最後まで掲載頑張ってください。

青木 航
sp1-66-99-214.msc.spmode.ne.jp

 青井水脈様、再訪有難う御座います。
 青井様は、今や私に取って唯一無二の貴重な読者となってしまったので、大事にしなければなりませんね。

>こう書かれているのに難ですよね。伊賀に四鬼が実在した、なんて流れになっても面白そうだと思いましたが。

多分、そう言う設定であれば、私より遥かに面白く書く方はいくらでも居ると思います。そこで競ってみても所詮 One of them でしか無いと思うんですね。

 この先、敵討ちを果たしてめでたしめでたしと言うストーリーにもなりません。何故なら歴史ではそうならなかったからです。
 この先の展開ですが、平安通史に『千常の乱』と言うのが有ります。ググって出て来るレベルのものでは無く、少し詳し目の通史でないと出ていないと思います。
 何故この時期に千常が信濃に居たか分からないと言う解説が有ります。
 また、この千常の乱の決着と思われる記載が『秀郷の子らに教諭を与えた』の一言だけなのです。
 つまり、『もう、いい加減止めなさい』と朝廷に諭され『分かりました。じゃあ、止めます』と乱を終息させたと言うんですね。思いっきり変でしょう。裏で、朝廷に取って不都合な取引が有ったと思わせるには、これだけでも十分です。

 しかし、怪しいことはまだまだ有ります。この『千常の乱』が起きた時期が問題です。
 摂関家の謀により皇太弟が守平親王に決まり、源高明は、政治的影響力は失ったが安和の変で失脚する以前なのです。

 下野藤原としては一番行動に気を付けなければならなかった時期の筈です。もし、この時期に千常が乱など起こしていれば、態々安和の変を待つまでもなく、千晴を逮捕する理由付けは出来たはずですが、千晴はこの時には調べられても居ません。

 『千常の乱』が有ったのは、実は『安和の変』の後であり、朝廷はその事実を隠したかったが、最低限、信濃と上野の国府の記録には残さざるを得なかった為、断片的で曖昧な記録とし、日付もずらした。そう考えた訳です。

『秀郷の子らに教諭を与えた』と子が複数形になっているので、千方が居てもいい訳です。
 まだまだ有ります。源満仲にも信濃守・平維茂にも、ぴったりこの時期に鬼退治の伝説が有るんですね。
 満仲がこの時期に信濃に居たと言う傍証と思えるし、乱が不本意な形で終息した憂さ晴らしから鬼退治伝説を流布させたのではないかとさえ思えるのです。源氏は鬼退治が好きですからね。

 思い付きの有り得ない話よりも、こんな風に考えて出て来る、推測出来るあり得たかも知れない話の方が百倍も面白いと、私には思えるのです。
 先の話ですが、『藤原千方と四鬼』伝説との関わりに付いてもそんな発想から記しています。

 余談ですが、今TVがついていて、レディーガガの2匹の犬が帰って来て、賞金はどうなるのかとか大騒ぎしているが、散歩をさせていたアルバイトの男性に付いては、『銃弾四発を受けたが、命に別状は無いとのことです』と一言触れるだけ。
『マスコミ! レディーガガを犬将軍・綱吉にしたいのか』
 こんな偏屈男です。

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