作家でごはん!鍛練場
ムツキ

告発者

 臭いやつや喋り方が不快なやつ。明らかに自己中心的で空気が読めないやつは、私だって苦手だ。苦手だから、近づかないようにする。一緒に喋っているだけで、気を少し抜いたら顔をしかめてしまうからだ。
 人を無意味に傷つけることは好きじゃないから、自分とは合わなそうな人間とはそもそも関わらないようにしてきた。だからこそ、自分の嫌いな人間にわざわざ近づいてイジメる人間の気持ちは理解できなかったし、そいつらに関わるのも嫌だった。

「イジメを見て見ぬふりをするのは、加担するのと同じことです」
 道徳の授業の時に読まされた新聞記事に、そう書いてあった。普段イジメをやっている連中は目立たないように授業を受け、イジメられている方もまた、大人しく座っていた。私は……その中間にも立たず、傍観者にもならず、誰かに肩入れするでもなく、ただただじっと「ここの空気は悪い」と思った。
 どうして私は黙っていなくてはならないのか? この状況を打破できるのは自分だけなのではないか? このように……自分の頭で考えることができる人間こそが、勇気をもって行動し、現状を変える義務を負っているのではないか?
 『みんな』で何かをするのではなく『私』が何かをすべきなのではないか。

 授業の後半、私はおもむろに立ち上がった。
「○○さん。どうしたんですか?」
「先生。私さ。正義感とか一切ないし、私の見えないところで誰がどんだけイジメられようがどうでもいいって思ってるんだけどさ。でも気持ち悪いわ。この教室。言っている意味わかります?」
 先生は瞬きをして「え?」と聞き返した。「つまり」と私の言っていることを要約しようとした。
「○○さんは、イジメがあってもいいって思ってるんですか?」
「いいとか悪いとかどうでもいい。ただ私は、この教室の空気が気持ち悪い。私が伝えようとしてること、分かりませんか?」
「分かりません。もっと分かるように言ってください」
 教室は、冷ややかな目で私を見ている。私は、笑いだす。おかしいじゃないか。お前らは、なぜそんなに冷たい人間でいられるんだ? 何も考えてないじゃないか。何も信じていないじゃないか! 自分自身すら保たず、ただ何も起こさず、起こすこともできないということだけを確信してる。
「先生は鈍感なんですかね? それとも気づいていないふりをしてるんですかね?」
「何がですか? イジメですか? 誰が誰をイジメているんですか?」
「それくらい自分で考えてくださいよ。気分悪いんで早退します」
 私はカバンを取り出して、早歩きで教室をあとにした。中学一年生の秋。私の気分は晴れやかだった。イジメが行われているかどうかなんてどうでもいい。巻き込まれたくはない。でも、その場で黙っていたくもない。私は行動していたい。私らしく行動していたい。

 その後、家に連絡があった。緊急の三者面談が設けられた。母親は「○○。何をやったの?」と尋ねてきて、私は「道徳の授業でイジメについてやってて、私がそのクラスでイジメが行われていることをほのめかした。それで、皆冷たかったから、気分が悪くて帰った」と答えた。母親は、一瞬だけめんどくさそうな表情をした後「正しいことをしたんだね」と私の頭を撫でた。
 私はその手を振り払った。たとえ家族でも、むやみやたらに触られるのは嫌いだった。
「やめてよ。そうしたかっただけなんだから」
「○○は、優しいからね」
 私は自分のことを優しいだなんて思ったことないし、それに優しさなんてクソクラエだ。優しさなんて、何の役に立つだろう? イジメられている人間を助けるためにイジメを告発したならば、イジメている連中を苦しめる羽目になる。イジメられっ子がイジメられる代わりに、大人がイジメっ子をイジメるの図に変わるだけ。時間がたてばイジメの標的が別の人に移ったり、そもそも教室全体の空気が今以上に悪くなったりもする。そう考えたら、行動できなくなるのが当然だ。『善い人』も『優しい人』も実際には行動しないのだ。
 『みんな』に優しい人間は、いつだって何もできない。私は私が優しくしたいと思った人間にしか優しくしないし、今回の件は、私が優しい人間だからそうしたんじゃなくて、ただただ不愉快だったからそうしただけなのだ。
 なぜわからない?

 机が三つ。椅子も三つ。向こう側に一。こちら側に二。だが隣に座っている母親は、こちら側でも中立でもなく、教師の側に心を置いているようだった。
「○○さん。あの時、あぁいう風に言ったのは、どういう意図があったからですか?」
 教師は私にそう尋ねてくる。
「意図? ただ不快だっただけですよ。イジメが行われているクラスで、綺麗ごとをみんなで勉強する」
「やっぱりイジメが行われているんですね?」
「本当に気づいてないんですか? 先生、向いてないんじゃないですか?」
 私がそうやって馬鹿にすると、母親が私の頭を叩いた。
「失礼でしょ!」
 私はいつものように叩き返そうとかと思ったが、愚かな母親を許すことにした。私の方が、この人よりも物事がよく見えているのだから、私の方が譲歩すべきだ。
「すいませんね。もう少し言い方を変えればよかったかもしれません。もっと子供の人間関係を見たほうがいいと思いますよ? それができないなら、転職も考えたほうがいいと思います」
 母親はもう一度私を叩こうとするが、教師の方がそれを「まぁまぁ」と諫めた。
「反抗期なんてそんなものですし、私も慣れてますから」
 大人の余裕というものを、教師はアピールした。私は滑稽で笑ってしまう。もういいじゃないか。話すことなんて何もない。何もないんだ。
「○○さん。大人には大人の事情があるんです。そんな簡単に仕事をやめることはできませんし、向いてないからといって責任を放棄しちゃいけないんです。子供ならそれが許されるかもしれませんが、大人には許されないんです」
 論点をすり替えているという自覚はなく、常に自分が正しいと思い込むのだ、大人というものは。いいじゃないか。人を言い負かすことに、どんな意味があるだろう? こんな会話に、何の意味があるだろう。とっとと本題に入るべきだ、と思った。でも本題って何だろう? 私がここでイジメの全容を語ればいいのだろうか? なんだかそれは悔しい。彼らの思わく通りじゃないか。それをして何になる?
 おかしな学級裁判が始まって、イジメっ子たちが皆の前でイジメられっ子に謝って、教室には不気味な怨恨だけが残って、また空気が悪くなる。それで一か月くらいたったらまた別の誰かがイジメられる。

 私が黙って考えていると、教師は猫なで声で語り始める。
「○○さんは、強い人です。それに、細かいことにもよく気が付く人です。皆が皆、イジメに気が付くわけじゃありません。私も、本当は○○さんみたいに、すぐに気が付ければいいんですが。でも、それが難しいこともあるんです。だからこそ、気づいた人が、気づいていない人に教えなくちゃいけない。だからね、○○さん。先生に、教えて欲しいんだ」
 私はため息をついた。一瞬だけ話してもいいか、と思ってしまった自分にうんざりしたのだ。
「死ねばいいのに」
 何が、ということは考えなかった。ただただ、そう思ったのだ。思ったことを、そのまま口に出しただけだ。
 今度は誰も何も言わなかった。

「もしかして、○○さんがイジメられているんですか?」
 私は思わず吹き出してしまう。んなわけあるか! あはは! 私は愉快で、大笑いした。どれくらいだろうか? 多分一分弱だろうか? 笑いが止まらなくて、おかしくなってしまったんじゃないかと自分を心配するくらいだった。
 笑いの発作が終わるころには、なんだか気分は晴れやかで、どうでもよくなっていた。こんなの、コントみたいじゃないか。どうしてこんな状況で、真剣に、自分の役を演じていたのだろう? 
 こんな面白い状況で。あぁ。何てバカバカしいんだろう。バカバカしい。

 すっと心が冷めていくのが分かった。心配そうに私の顔色をうかがう二人の女を見て、一瞬だけまた笑った。
「私がイジメられるわけないじゃないですか。もしイジメてくる人がいたら、骨とか歯とか何十本も折れるまでボコボコにしますよ、私は。もう、二人とも、馬鹿なんだから」
 今度は、母親は叩いてこなかった。素振りすら見せなかった。むしろ私の言葉に圧倒されたようで、目が濁っていた。力を失っていた。
「○○君ですよ。イジメられてるの。イジメてる側は、○○、○○、○○、○○、○○。それで、この教室の半分以上の人間は、それに気が付いているけど、興味がないか、時々加担したり、諫めたりする。やり過ぎだと思ったら、みんな止めようとするんですよ? それで、『イジメじゃなくて、じゃれ合ってるだけ』って自分たちに言い聞かせてるんです。本当はただ自分たちの不満のはけ口にしたいだけなのに。ははは! この母親が、私を叩くみたいに。私、普段倍の力で叩き返すんですけどね」
 急に饒舌になった私に、二人ともついてこれていないようだった。
「ごめんなさい○○さん。もう一回言ってもらえます。メモ取ります」
 笑いが止まらない。あまりの頭の悪さに。もうどうしようもないなと思った。
「○○がイジメられてて、イジメてるのは、○○、○○、○○、○○、○○。忘れないで欲しいのは、彼らは節度を弁えてイジメてる。やり過ぎだと思ったら止めるし、他のみんなも、それをイジメだと思わないようにしてる」
「具体的には、○○君、どんなことされてるんですか?」
「まず陰口。○○は顔がよくないんで『ブサイク』『ドブネズミ』『ヒキガエル』等と数人で囲んで囁いていました。○○は頭を抱えて『やめてくれ』と小声で言いますが、もちろんやめません。他には、○○の服の中に汚れたぞうきんを無理やり押し込んで『病原体』などとからかったりもしてましたね。筆箱をごみばこの中に投げ入れてるのも見ました。あと、菌移し。中学生にもなって、○○菌とか言って、存在しない何かをなすり付け合うんですよ? 『えんがちょ』とか言って。あぁ。口に出すだけで汚らわしい。あっはっは!」
 私は、口を閉じて、じっと教師の目を見た。指をさすような目で「それに気づかなかったんですよ、あなたは」と言った。そして私は立ちあがった。
「もういいですよね」
「いや、まだ聞きたいことがあります」
 と教師は私に座るよう促した。
「私にはもう言うことありませんけどね」
「○○。座りなさい」
 母親が思い出したように私に命令した。私は、もう我慢できなかった。
「大体、失礼なんですよ。あなたは答えてもらう側、私は答えてあげる側。なのに、なんでそんな自分の意見ばかり主張できるんですか? なぜ感謝の言葉も気持ちも何もなく、奴隷と主人のように、自分たちが命令して当然みたいな顔するんですか? 先生。もういいでしょう? あとはあなたの仕事ですよ。甘えないでください」
 私は教室を歩いて出ていった。母親が謝る声が聞こえた。私は、私が出ていったあと、彼らがどんな会話をするのか想像してしまう。
『ごめんなさい先生。○○、ほんと生意気で』
『いえいえ。でも、よく勇気をもって教えてくれました。教室であんなことが行われてたなんて』
『やっぱりイジメっ子とかって、先生にバレないようにしますもんね。子供から見たら気づいて当然なのかもしれませんけど』
『相手の立場に立って考えるというのは、まだ難しいみたいですね。でも○○さんは、賢い子ですから、いつか分かってくれると思います』
『そうなればいいんですが』
 どんな冗談だろう。もし本当にそんな会話がなされていたならば、それを真剣に想像している私は相手の立場に立って考えているし、逆に彼らは私がそういう想像をしていることを想像できやしない。
 あぁ。何が正しいのかといえば、私が正しいのだ。もう、いいじゃないか。


 もう、いいじゃないか。

告発者

執筆の狙い

作者 ムツキ
121-80-209-210f1.shg1.eonet.ne.jp

イジメを告発した人の話。
完全フィクションです。

最近やっと気づいたことなのですが、私がものを書くのは、人を喜ばせたり、評価されたいからではなくて、自分の中の悩みや苦しみ、疑問を人に投げかけて、答えてもらいたいからなんだと思います。

欲しいのはきっと、解決でも共感でもなくて、意外性、つまり驚きなのかもしれません。でも違うかもしれません。

何も分からないのですが、ただ思ったことや感じたことを教えていただけると喜びます。
よろしくお願いします。

コメント

大丘 忍
ntoska314132.oska.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp

中学や高校でのいじめとはそんなものなんでしょうね。想像するだけですが。

ムツキ
121-80-209-210f1.shg1.eonet.ne.jp

そんなもんです。多分。
私はいつだって無責任な傍観者ですが、当事者はそれぞれ必死みたいですね。
昔は同情したり一緒に傷ついてみたり色々してみましたが、今はただ笑うだけです。

感想者
249.198.214.202.rev.vmobile.jp

>授業の後半、私は【おもむろに】立ち上がった。

 この様子を描写するとしたら、どんな擬音語を使いますか?

>【優しさなんて、何の役に立つだろう? イジメられている人間を助けるためにイジメを告発したならば、イジメている連中を苦しめる羽目になる。イジメられっ子がイジメられる代わりに、大人がイジメっ子をイジメるの図に変わるだけ。】時間がたてばイジメの標的が別の人に移ったり、そもそも教室全体の空気が今以上に悪くなったりもする。

 教員がいじめ加害者を注意する事は教育的指導であり、イジメではありません。イジメ加害者が教員から注意を受ける事は苦しみではありません。注意を受けるのが苦痛なのであれば、最初からイジメなどしなければ良いのです。つまり自業自得です。だから、イジメられている人間を助けるためにイジメを告発する事は、イジメている連中を苦しめる事にはなりません。苦痛を感じたとしても、告発者にはなんの責任もありません。ですからこの【 】内の主張は誤りです。優しさは役に立つのです。

>論点をすり替えているという自覚はなく、常に自分が正しいと思い込むのだ、【大人というものは。】
 大人に限った事ではありません。独善的な子供もこうです。ですから【 】内の主張は誤りです。

>「もしかして、○○さんがイジメられているんですか?」
 私は思わず吹き出してしまう。んなわけあるか! あはは! 私は【愉快】で、大笑いした。

「愉快」という言葉の意味を調べてみてください。不適切である事がわかります。

>「大体、失礼なんですよ。あなたは答えてもらう側、私は答えてあげる側。なのに、なんでそんな【自分の意見ばかり主張できるんですか?】 なぜ感謝の言葉も気持ちも何もなく、奴隷と主人のように、自分たちが命令して当然みたいな顔するんですか? 先生。もういいでしょう? あとはあなたの仕事ですよ。甘えないでください」

 教員は特に自分の意見ばかり主張していません。ですからここは、【自分の意見ばかり主張できるんですか?】ではなく、「要求ばかり一方的に突き付けるんですか?」など適切な文に訂正しましょう。

ムツキ
121-80-209-210f1.shg1.eonet.ne.jp

>授業の後半、私は【おもむろに】立ち上がった。

 この様子を描写するとしたら、どんな擬音語を使いますか?

「すたっと立ち上がった」でしょうか。でもわざわざこの場面で擬音語を使う理由はないと思いますが。


他の部分は子供らしさの表現として「あえて」配置したものです。ご指摘はむしろ、その表現がうまくいっていることの証左にもなるので、嬉しく思いました。

ありがとうございました。

ムツキ
121-80-209-210f1.shg1.eonet.ne.jp

追記します。
「おもむろに」の意味を確認のため調べたところ「動作が静かでゆっくりしている様子」とありました。
私の中で「おもむろに」は、「静かに堂々と、かつ突然」というような意味合いで用いました。「突然」は誤用なんですね。勉強になりました。

感想者
249.198.214.202.rev.vmobile.jp

 執筆の狙いに「自分の中の悩みや苦しみ、疑問を人に投げかけて、答えてもらいたい」とありますが、自分が馬鹿だという自覚もない独善的な女子中学生が、正義の味方気取りで大人を見下し舐めた口を聞いて非難し、勝ったと勘違いして勝ち誇るという胸糞悪い話をなぜ書いてしまったのでしょうか?
 ヒロインの数々の勘違いや思い上がりを「子供らしさの表現として「あえて」配置した」という回答ですが、子供らしさではなく愚かさです。
 こんな愚かさを「子供らしさ」と言ってしまうのは、あなたが「子供とは、こんなに馬鹿でこんなに生意気なものだ」と思っていると言う事です。それは間違った思い込みです。子供に失礼ですよ? 
 あなたが描いたのは、子供らしさではなく愚かさです。愚かな子供も存在しますが、愚かな大人も存在します。だから愚かさ=子供らしさではありません。混同しないようにしてください。
 こんな筋書きでは、せっかくイジメ問題が解決しそうな明るい兆しが感じられても、読者は感動できませんし、カタルシスも得られません。

 本当は、道理や分別をわきまえた洞察力のある女子中学生が、真実を見抜く事のできない独善的で愚かな大人たちを諭して完全論破し、イジメ加害者を救う物語にしたかったのではないのですか?「私がイジメを告発したのは、別に優しいからじゃなくて、不快・不愉快だったからよ」とクールでカッコいいヒロイン像で。

「おもむろに」の意味を勘違いしているのではないかと思ったので、擬音語を質問しました。やっぱり勘違いでしたね。徐行の「徐」なので、突然・いきなり・急にではなくゆっくりです。正解を教えるよりも自分で調べるほうが身に付くので、すぐには教えずに考えてもらうために質問してみました。これで多分、一生間違えずに済むでしょう。

 良かったら、下の方にある「エルミタージュ」を書いた人に「女の子」と「少女」のどちらの語句がふさわしいのかとその理由を教えてあげてください。あなたなら簡単にわかると思います。御作でヒロインが教員に言ったセリフがぴったりあてはまる人なんですよ。興味湧くでしょ?

塩ゲッティ
114-134-221-72.fnnr.j-cnet.jp

拝読しました。

語り手には語り手の主観があり、偏見があり、限界があります。
この語り手は中学1年生なので、中学1年生なりに世界を見ているし、中学1年生なりの思い込みで世の中をわかった気になっています。
こういった語り手を使った小説は世の中にいくらでもあるのですが、大人向けの小説ではちょっと扱いが難しいので注意が必要です。

本作では、「いじめっ子でもいじめられっ子でもなく、見て見ぬふりすることもできない」という立ち位置にいる彼女が、その立ち位置にいるがゆえに教室を飛び出し教師に悪態をつくことになるため、役割としては語り手=当事者となっています。が、この語り手の置き方が小説を狭くしているように感じました。

当事者が未熟なときは本人を語り手にしないほうが書きやすいし、未熟な人に語らせるのであれば当事者は本人じゃないほうがいいと思います。そうすることで読者は客観的に読みやすくなります。


もちろん、小説は自由なので、あえて本人に語らせるという選択肢もあるし、ムツキさんはそれを狙われたのかもしれませんが、、、そういう視点で一度検討されると何か発見があるかもしれません。


では。

ムツキ
121-80-209-210f1.shg1.eonet.ne.jp

感想者さん。

私、勘違いしていたみたいです。
ずっと私に意地悪したくて、「一方的なものの見方の演技」をされているのかと思ってましたが、そうではなかったんですね。なら、あしらうようなことをして申し訳なく思います。

『本当は、道理や分別をわきまえた洞察力のある女子中学生が、真実を見抜く事のできない独善的で愚かな大人たちを諭して完全論破し、イジメ加害者を救う物語にしたかったのではないのですか?「私がイジメを告発したのは、別に優しいからじゃなくて、不快・不愉快だったからよ」とクールでカッコいいヒロイン像で」』

『『みんな』に優しい人間は、いつだって何もできない。私は私が優しくしたいと思った人間にしか優しくしないし、今回の件は、私が優しい人間だからそうしたんじゃなくて、ただただ不愉快だったからそうしただけなのだ。
 なぜわからない?』

とってつけたような「クールでかっこいいヒロイン」よりも、「現実に押しつぶされそうな幼い少女」の方が、私は美しく感じているんです。この子は誰が見ても「クールでカッコいいヒロイン」ではありませんし、私はそのつもりでは書きませんでした。むしろ「自分自身を理解してもらえないことに傷つき、苦しみ、それでも自分らしさを保とうと藻掻いている発展途上の女の子」といった感じでしょうか。
最初からそのつもりでしたし、現実において、「クールでかっこいいヒロイン」など何の役にも立たず、実際にイジメを止めたりするのは、誰かを傷つけてでも、己の在り方と意地を通す人間です。
それは現実において、彼女と反対に大人しく、誰も傷つけないように傍観者を通した私自身に対する皮肉でもあります。イジメられっ子に同情して「大丈夫?」と声をかけたところで、何が変わるでしょうか? 何も変わりませんでしたよ。ただ攻撃的に、大人を責めるぐらいの勢いがないと、大人の方にも火がつかない。それが現実ですし、道理です。
たとえ自分勝手で間違っていたとしても「自分勝手にならないようにしよう」「間違わないようにしよう」と臆病風に吹かれて何もしない人間より、ずっと周囲の助けになります。彼女の言動がどれだけ周囲を不快にさせようと、その言動がなければ何も変わらなかったのですから、それは肯定されるべきものです。


『○○さん。大人には大人の事情があるんです。そんな簡単に仕事をやめることはできませんし、向いてないからといって責任を放棄しちゃいけないんです。子供ならそれが許されるかもしれませんが、大人には許されないんです』
ところでこの物語の「教師像」は、比較的教師にしてはまともですし、それこそほとんど悪意がないのですから、客観的に見ればそれこそ主人公と対立する理由がありません。そういうのを書きたかったんです。実際、書けていたように思います。

愚かさという観点でみれば。
「イジメに気づかなかった」という点では彼女のいうように愚かでしょう。しかし、その兆候があってすぐに動き、多少告発者である少女に無理強いしたとしても、それでも彼女のやったことは「教師として」賢明といえるでしょう。
似たようなことが、主人公にもいえます。言動が愚かだったとしても、行動は賢明だったといえます。

本当にこの子が勝ち誇っているのかどうか、見ていただきたい。嬉しいそうですかね。それとも悲しそうですかね。
「正義の味方気取りで大人を見下し舐めた口を聞いて非難し、勝ったと勘違いして勝ち誇る」
という勘違いすら、ひとつの現実の比喩として機能します。私はそれを喜んでいます。

『あぁ。何が正しいのかといえば、私が正しいのだ。もう、いいじゃないか』

ひとつの美しい諦めなんです、これは。人に正しさを主張することへの諦めです。相手に誤解されたって、自分のやっていることは正しいことなのだという、何の嬉しさも感じない鎮痛剤のようなひとつの諦めです。

別に私は、これで何かをしようというわけではないんです。「読者」なるものを喜ばせるつもりはありませんし、伝えたい「誰か」もいません。ものを書いて対価として金銭を得ようなどということは考えていませんし、よくよく考えてみたら私は「褒められたい」「評価されたい」ともあまり思ってません。

あるのはただ、自分自身と人間に対する探求心です。人間はどのように間違うのか。人間はなぜ醜いのか、人間はそれでもなぜ美しいのか。

正しさに興味なんてありません。一方的な正しさが人を救うことより、優しい嘘や多様な解釈が人を救うことが多いのがこの現実です。歴史もそれを証明しています。
複合的な真理という観点で見れば、それを知ることは確かに救いとなりえますが(悟り、と呼ばれることもあるでしょう)そうやって得た複合的な真理は共有不可能です。自分自身の救いにしかならず、世界自体は自分とは無関係に悲惨と悲しみに満ちたまま回っていきます。


『良かったら、下の方にある「エルミタージュ」を書いた人に「女の子」と「少女」のどちらの語句がふさわしいのかとその理由を教えてあげてください。あなたなら簡単にわかると思います。御作でヒロインが教員に言ったセリフがぴったりあてはまる人なんですよ。興味湧くでしょ?』

興味はありませんが、読みます。自分に感想が書けるようだったら、書いてみようと思います。

感想者さんの、文章の誤りについての指摘は非常にためになりましたし、それ以外の表現の部分も「このように捉える人もいるのか」と感心させていただいたので、感謝しております。
何より、こうやって自分の考えをまとめるきっかけをいただけたことは、とても嬉しく思います。
正直に申しますと「どうしてこう、分からないかな」と苛立ったり腹立たしく感じる部分はありました。しかし、冷静になって、いただいた感想から受け取ったものを見てみると、そんな自分がなんだか馬鹿馬鹿しいもののように思えてきます。なぜ贈り物を受け取って腹を立てる必要があるのか。

愚かさは、愉快さでもあります。コメディとはそういうものですし、現実的な悲しみや怒りもまた、ひっくり返してみれば中身が笑いであることが分かります。
『「愉快」という言葉の意味を調べてみてください。不適切である事がわかります。』
私はこの文章をもう一度読んで、『愉快』な気分になりました。伝わらないということも、時に面白い。

ご感想ありがとうございました。

ムツキ
121-80-209-210f1.shg1.eonet.ne.jp

塩ゲッティさん、感想ありがとうございます。


この物語は語り手の主観ありきであり、物語の筋よりむしろ、その語り手の感情、考え方を映し出すことが主軸となっております。

つまり変更する余地があるとすると「視点を変える」というよりも「出来事を変える」というのが正しくなってきます。

『この語り手の置き方が小説を狭くしているように感じました』
おっしゃる通りだと思います。
短い話は、狭く小さく、胸に突き刺すように書くべしと私は自分に言い聞かせております。

『読者は客観的に読みやすくなります』
このご意見も正しいと思います。
私は読みやすい話よりも(ここでは、何のひっかかりもなく読めてしまうという意味で用います)、むしろ目を背けたくなるような話の方が、好みです。
日本の文学は基本的に(最近のものは除きます)『客観的な読みやすさ』をほとんど排除しています。少なくとも現代に残っている名作のほとんどは、読者に寄り添っていません。文章自体は読みやすいですが、語りや物語の筋は簡単でないことが多いようです。
最近読書感想のサイトを見るようになったのですが、現代の作品に対して「よくわからなかった」という感想は少なく、古い名作ほど「よくわからなかった」という感想が多いように見受けられます。
もちろん「理解されないことが名作かどうかの基準となっている」なんて極論は言いませんが、逆に「皆に理解されることが、名作にならないことの条件になっている」というのはどうやら正しいようです。
普段本を読まない人間や、時代の集大成ともいえる名作にほとんど触れたことのない人間に完全に理解されてしまう程度の話では、名作たりえない、というわけです。

話を変えます。おそらく語り手を別の人物、たとえば「イジメられている男の子」や「教師」「母親」「傍観者1」等に変えたとしても、『狭い感じ』はぬぐえないと思います。いずれにしろそこには客観性がないからです。
逆に客観性を演出するためには、三人称視点を用いるのが常套手段ですが、この物語を三人称視点にしたとき問題になるのは、「そもそもイジメを悪いものとして捉えることが客観的か」という問題です。
イジメというのは非常にそれに対する意見が多様な、複雑な物事です。
「イジメは、イジメている方が百パーセント悪い」ということが学校で教えられていますし、世間一般では主流となる意見ではありますが、実際のところそれが本当に正しいという確証も客観的事実もないので、それを前提の思想として三人称視点にするのは、かえって読み手に窮屈さを与えることになりかねません。
実際に「イジメに仕方なく加担したことのある人」「イジメに気づいていなかったことに、あとで気づいた人」「かつてイジメられていたが、ある時立場が逆転した人」等はこの時代に珍しくありません。彼らの視点を考慮するならば、「客観性」の土台が崩れます。
「イジメは、イジメている方が百パーセント悪い」以外の考えを「客観的」とした場合、間違いなく「イジメは悪いものと教えられてきた人」「イジメられてきた人」は、それを客観的だなどとは納得できないでしょう。
いずれにしろ、客観性とは万人にとっての客観性ではなく、特定の思想に与している大多数に迎合する客観性でしかありません。
そしてこのような客観性は時代と共に変化します。当然、その時代特有の客観性に迎合した作品は、他の時代の客観性に迎合できません。これが「皆に理解されることが、名作にならないことの条件になっている」ということの説明です。

私は安易な客観性より、重く深い主観を重視します。その方が私の好みに合致しているからです。

客観性というものを再認識するいい機会になりました。
ありがとうございました。

塩ゲッティ
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ムツキさん、ごめんなさい、「客観的に読みやすい」っていうぼくの言い方がよくなかったかもしれません。
そんな大がかりな話ではなく、読者が「この中学生、痛いやつやなあ」と冷ややかに読めばいいのか「この中学生、悩んでるなあ」と共感して(もしくはおれは共感できないけどねと感じながら)読めばいいのか、作品に対してどういうスタンスで臨めばいいのかがわかりにくい、という主旨で書きました。
語り手の語っている内容は、ムツキさんが文章にしたことではじめて読者の目の前に提示されています。そのムツキさんの意図を理解することで、読者は語り手に対して客観的に読めるのだと思います。
まあ、本作の場合は執筆の狙いがちゃんと書いてあったので、実際に迷うことはありませんでしたが。申し上げたかったのは、本文の中にそういう意図を示す仕組みを入れようとすると未熟な主人公の話を未熟な語り手が語るという構造は取り扱いが難しい、ということです(だからダメというよりは、そのことを意識しながら書くといいのではないかと)。

語り手の感情や考え方をダイレクトに描くときほど、そういう観点が重要になると思い、再訪させていただきました。

あと、読みやすさについても書かれていますが、たぶん大事なことは読みやすさ/読みにくさをコントロールすることであって、読みやすいからいいだなんて理屈はないでしょう(とかいらんことを言ってみる。あくまでぼく個人の意見です)

では。

偏差値45
softbank219182080182.bbtec.net

全体的に伝聞で抽象的な内容ですね。
臨場感であったり、心の葛藤であったり、
そういうものが乏しい。
小利口な学生が先生に告げ口をしている。ただそれだけの内容かな。
それで最終的にいじめはどうなったのか?
結論なしで終わっているので、面白味に欠けますね。

ロキソプロフェン
121-83-38-24f1.hyg1.eonet.ne.jp

素直で、正義感強い子だなと思いました。
いじめがなくればいいなと個人的には思います。
出来れば主人公にもっと活躍してほしいですね。
そしたら、面白くなると感じます。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

拝読しました。

 主人公はきっと馴染めない。空気を作って、空気を読んで、というのは社会を動かすメカニズムなんだけれども、空気ってもともと透明なものだから、その空気がどういうものかについては、ほとんどの人が意識できていないのだけれども、主人公はきっとそれを確かな感触としてもっている。そういう意識のズレを抱えた「私」は、精神的には年相応に幼いシニカルな傲慢さと、大人よりも鋭く自覚するだけの聡さでできているようで、なんだかアンバランスで危うい。そういう危うさを書くから、こういう一人称になるというのは、アリアドネ的としては、たいへん納得のいくところです。

 確かにこの主人公一人称の眺めている世界は狭いと思うけれど、この一人称だからそうならざるを得ないという気がしています。当事者であってもプレイヤーになれない、という言葉のような、虚しい狭間の感覚、つまり、達観でも諦観でもなくその間、生きている実感のなさを強く実感しているみたいな、ねじれた意識が現われるではとかなんとか。
 
 狭くても丹念に深いところへよ潜っていけばいいのだと思います。そのうち、ぽっかりと大きな穴が開くはずだと信じています。子供の頃に感動した小説というのは、どれもそういうふうにできていたように思います。そういう意味では、御作はある一人称フィルターがどういうフィルターであるかの自己紹介で終わっているということなのだと思いマス。

ラピス
sp49-104-36-250.msf.spmode.ne.jp

反抗期の少女がリアルに描けていると思いました。間違った考えだとか、そうじゃないとかじゃなくて、中一の頃って、こんなんだった。
そのうち発言をオブラートに包んだり、本音を隠したりしちゃうんですよね。でも、それは保身の為だけじゃなくて、相手を傷つけない為でもあります。
正しい、を貫くと至るところに問題が起こります。主人公のした行為も、教師イジメですしね。
話が逸れましたが、最初に述べたようにリアルなので、筆者の目的がそこなら、いい線いってます。
ただもう少し、抜き差しならない状況で深みにはまって欲しかった。
昔「はみだしっ子」て漫画がありました。少年たちが主役のシビアな話です。これは必ずしも反抗期だからとは言えず、年嵩の者が見ても共感できます。
ご存知ないなら一読をお勧めします。

ムツキ
121-80-209-210f1.shg1.eonet.ne.jp

塩ゲッティさん、返信ありがとうございます。


私かなり酷い勘違いしてたみたいですね。お恥ずかしい限りです。
誤解の原因はおそらく「私(ムツキ)の考え方が世間一般からかなりズレていること」にありそうですね。申し訳ないと思う反面、それを名誉に思う気持ちもあります。
自覚したところで治るものでもありませんし、治すつもりもありませんので、開き直ります。笑ってください。わっはっは。

私自身の書く時のスタンスとして「立場は読み手の方で勝手に決めてくれ」と考えておりましたが(私自身が文章を読むとき、基本的に自由なスタンスで読みますし、もっといえば読み手というものを観察していると、基本的に作者の想定通りに読む人はむしろ少数派なんだと思うことも多いので、開き直っておりました)確かにそれについてもう少し考えを深めたほうが、物語の完成度がより高くなることは正しそうですね。

読みやすさのコントロールというのは表現の幅の一要素と捉えるならば、また別の見方が得られるような気もします。
「読者の価値観」なるものは時代と共に変化していて、時代が変わったら読まれる本も変わるというのは本当ですが、そういう「価値観による変化する読みやすさ」とは別の「読みやすさなるもの」も研究してみたいですね。


親切にご説明ありがとうございました。ためになりました。

ムツキ
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偏差値45さん、ご感想ありがとうございます。


伝聞で抽象的な内容……というのはちょっとよくわかんないですね。
つまりどこか他人事っぽい雰囲気がある、ということでしょうか? うーん。

小利口な学生が先生に告げ口しているというだけの内容に捉えられたのはおそらく私の表現力の問題ではなさそうな気がします。
結論という点では、私が持っていない結論をその場ででっち上げて人に押し付けるのは私の趣味に反しているので、私はそれについて作品の欠点とは思いません。
あえて結論があるとすると、「人間の精神は複雑である」ということですかね?

何というか私が思っているより人って「面白味」を求める生き物なのかもしれませんね。
そもそも面白さだけなら、文章だけという時点でかなり読み手の想像力に頼ることになると思いますし、そういう意味で「多くの人に面白い」と思ってもらうだけなら、別媒体の方がよっぽど効果的だと思います。

私、実は面白いものより好きなものたっくさんあります。

ありがとうございました。

ムツキ
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ロキソプロフェンさん、ご感想ありがとうございました。


「ひねくれてる」と思う人もいれば「素直」だと思う人もいる。一人の人間に対する評価って、様々ですよね。その原因は「人のものの見方はそれぞれ違う」ということなんでしょうけど、なんだかもっと楽しい答えを用意しておきたいですねぇ。模索中でございます。

「いじめ」ということに関して私は正直ただただ関わりたくないと思って生きてきた人間です。なんであんな意味のないことするのかなぁってずっと思ってぼんやりしてた人間です。
でもどうやら、そこにはもっと人間にとって重要な何かが隠されてそうなんですよね。愛とか、憎しみとか。

主人公に活躍させたいですよねー。どびゅーんってなってばぎょーんってなってヤッターってなれば、どれだけいいか。

試しに今度、笑えてくるくらいに主人公が何かを達成しまくるものを書いてみようかなって思いました。きっと楽しいぞー!


ありがとうございました。

ムツキ
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アリアドネの糸さん、ご感想ありがとうございます。


空気というものに関して「人よりよく見えている」ということがどういうことなのか書きたくて、それがちゃんと伝わっていることにまず私は喜びました。
多分、そういう風に「大人より空気を読める子供」っていうのはかなりの割合がいるんですが「空気を読んだうえで、空気を無視して動ける子供」っていうのは本当に珍しいんですよね。ちなみに私は動けないタイプの子供でした。委縮して「さっさと終わってくれよ~~」と嘆くタイプの、大多数でした。だからこそ、こういうタイプへの憧れっていうのがあって、書いているだけで楽しいというか、そういう部分があったのは否めません。

「価値観の狭さ」というのをよく指摘されるんですが、私はこれがちょっとよく分からない部分があるんですよね。
「人間は多様な考え方を持っている」「人間の生活は多様なものである」「それぞれの人間が、己の正しさに従って動いている」等のことは理解しておりますし、私の目が曇っていないのならば、大半の人間は「狭い価値観の中で生きている」のであって、彼らの狭い価値観は、尊重しなくていいものではありません。
そして「広い価値観」とは、「寛容な価値観」のことではなく、その「狭い価値観をたくさん持つこと」だと思うのですが、どうやら世間的には「寛容な価値観」のことを「広い価値観」とされているようで、要は「他に関心のない価値観」が器の広さだと誤解されているような気がするのです。

この主人公はずいぶん狭量で不寛容ですが、多くのものの見方を考慮することのできるタイプです。おそらくいつか、他者を許し、かなり立派に生きていく大人になるだろうと、私には想像されます。そしてそれは、本人もまた自覚していることを、私は示唆しました。
『相手の立場に立って考えるというのは、まだ難しいみたいですね。でも○○さんは、賢い子ですから、いつか分かってくれると思います』
というセリフは、あくまで主人公が、あの教師ならこう言うだろうなという想像から導き出されたセリフなのですから。

ん?
この主人公が色々な出来事を乗り越えて寛容さを身につけていくような物語にすれば、色々と文句のない仕上がりになるような気がしました。
今、です。なぜ今まで気づかなかったんだろう? と私は現在笑っております。

物語の本質は登場人物の成長にある、と誰かが言っていましたが、そのためには誰もが気が付くような主人公の本質的な未熟さや欠点がなくてはなりません。そう考えると、この主人公は非常に主人公らしい主人公なのでしょうか。
えー! いがーい!


ありがとうございました。色々と、見つかったような気がします。

ムツキ
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ラピスさん、感想ありがとうございました。


リアリティという点ではやはり悪くないですよね。
しかしやはり、何というか、色々と中途半端であるのは、ご指摘の通りだと思います。

言い訳みたいになりますが「この主人公がどうなるべきか。どうあるべきか。そもそも読み手はどう感じるか」というのが分からなくて、それを実験的に確かめたかったので「この先どうなるか」が分からないように、言い換えれば「この先どうにでもなるような」終わり方を意識していました。

そのひとつの回答として「抜き差しならない状況で深みにはまって欲しかった」というご意見を参考にさせていただきます。
確かにこの主人公なら、もっと強く大きなストレスに耐えられますし、乗り越えられそうな気もします。
なんだか、そう考えるとこの話自体が生ぬるい印象になりますね。うーん。確かに。
もしイジメていたのが主人公の親友なら? もし主人公の告発が黙殺されたら? そんな中、主人公の家庭環境に亀裂が入ったら?
うーん中々面白い。なんだか私、ヤバイ奴みたいですね。

「はみだしっ子」は、聞いたことがありませんでした。調べてみたところ、かなり古い作品みたいですね。読んでみたいと思います。ちょうどいい天気ですし、TSUTAYAにでも行こうかしらオホホホホ。
テンションおかしくてすみません。


ありがとうございました。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

再訪しました。

丁寧な返答ありがとうございました。
少しだけ作者様と、この作品の印象のズレがありましたので、そこだけ少し書いておこうかなと思います。反駁したいわけじゃなくて、あくまで印象の確認です。


>他者を許し、かなり立派に生きていく大人になる
 アリアドネは、この子(主人公)はむしろ、馴染めないまま大人になるんじゃないかと心配になりました。そういう意識のギャップはなかなか埋めることはできないだろうし、なにより、最後の想像の中の会話シーンですけど、相手の立場でものを考えることはできても、相手の立場しか想像していない(このことは当たり前かつ自然ぜ全然悪くないことですが)ので、そのギャップは深まるばかりのような気がするんですよ。なんつーか、自分がカミサマの世界での俯瞰でしかないから、多角的でも自己完結というか、そんな感じだから、この子が他者を許すような未来は見えづらい。
 主人公は多くの見方で考えられるから、やがて他者を許したふりをすることはできるようになるかもしれない、やり過ごすことはできるようにはなるかもしれない、そんな聡い傍観者の道を歩むことになるのかもしれない。
 主人公は多くの見方で考えられるから、自分の以外の人たちのことを知って、許せるようになるのかもしれない、という未来もないわけじゃない。あくまで御作は、成長の途上にある一シーンでしかないですから結論づけられませんが、いまのところの印象としては、馴染めなさ感の方が勝っているので、前者の未来の方が強く見えました。
 もしかしたら、狭い価値観のまま世界の方を少し広げてあげるといいのかもしれない。小さな持ち前の潜望鏡で広い海を見ることで、主人公の気持ちが少し変わって、主人公の思う相手の立場の意味が少しは変わるかもしれない、と思いました。塩ゲッティ様の提案はその方法の極端な例かと。アリアドネ個人的には、御作の一人称フィルターは捨てがたいので、ちょっとした風穴をあけるようなエピソードなりがあるのといいのではと。


>広い価値観
 広い価値観ていうのはどういう意味で使われる言葉なんでしょうね。価値を認めるというのはそれが好きだってことだ。であるなら、広い価値観ってのは、多くのことを許せるような好みのあり方なのか、はたまた、あくまで狭い嗜好をもちながら数多ある嗜好の違いを認めることができる寛容の方なのか、どちらなんでしょうね?
このあたり結構ミックスして使っているような気がします。


>「狭い価値観をたくさん持つこと」
はなるほどなと思いました。ドライバーセットみたいなもんですね。全部を平均したようなドライバーでは螺子が回せなくなる。ミタイナ。

ムツキ
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アリアドネさん、楽しいご意見、どうもありがとうございます!


後ろから順番に行きますね。

ドライバーセットのたとえはすごくいいですね。比喩コレクションに追加しときます!
心のドアの鍵、みたいな喩えとセットで使ってみても面白いなぁ。ドライバーじゃ鍵空きませんけど(笑)

広い価値観というのは難しいものですよね。ただひとつ確かなのは「寛容」はあらゆる意味で優れていることだと思うんです。怒りっぽい事や、憎んで忘れないことは、どこか未成熟な感じがします。
でも「臆病」がいい働きをすることって滅多にないんで、「勇気のある寛容」、ですかねぇ。でもそうなってくると、重要なのは価値観ではなくて、態度なのかもしれませんね。
価値観が態度を作るのかもしれませんが。


「馴染めないまま大人になる」という観点は、あまりありませんでした。というか多分……彼女のような性格の人って、意外と愛されると思うんですよね。やっぱり「自分」というものを強く保っていて、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきり言う子は、モテます。すごく。
社会に出て失敗する未来は容易に想像できますが、多分彼女にとって社会での失敗は人生での失敗を意味しないんじゃないかなぁ、と。なんか、実業家とかの妻になっても面白いですし、そもそも外国語を学んで海外に出れば、普通に受け入れられるんじゃないかなぁ、と。

『相手の立場でものを考えることはできても、相手の立場しか想像していない』
というのは正に「想像力はあっても共感性は低い」ということの表れだと思います。確かに、この子は他者にほとんど共感していないし、むしろ自らの共感性を殺そうとしている意志さえ見られます。
確かに……なんかさっき、「この子はきっと何とかなる」と主張しましたが、撤回したくなってまいりました。
共感性、かぁ。共感性って多分、自分に近い存在と触れて、優しくしてもらうことによってしか育まれないんじゃないかと思うんです。そうじゃない限り「無根拠な想像」あるいは「優しさのない予測」になってしまう。共感は、実際に存在する他者への投影に近いものがありますから。
ふぅむ。なんか理解し合える親友みたいなのがいれば、他者に優しくなれるのかなぁ。でもこの子が優しくなったら優しくなったで私はちょっと、複雑な気持ちなんですよねぇ。

風穴を開けるエピソード、考えてみますね。


丁寧な返信、こちらこそありがとうございました。色々な発見があって、投稿してよかったなぁと感じ入っております。

hir
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 ご迷惑をおかけしました。飛び火していようとは。
 内容は、自作のコメントのやり取りと似ている気がしました。正解だけを知っても納得できない。みたいな。
 
 人付き合いは食事みたいなもので。、
 ピーマン嫌い、ニンジン嫌いも、食中毒などのトラウマでもない限りは食べれるようになる。
 大人になるってそういうこと、なのかな。世の中、少しくらいのズルをしたほうが得。
 主人公はまだ幼いのか、変なものを食べた経験があるのか、その辺りを結末で明かしたら意外性になりそうです。
「○○さんの事情はどうでも良いの。先生はね、この学校で静かに過ごしていたい。だから問題は困る。言っている意味、わかりますか」

ムツキ
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hirさん、ご感想ありがとうございます。


飛び火というかまぁ、色々と考える機会になったんでむしろ感謝している次第です。

人付き合いを食事にたとえるのも、面白いですね。
まぁーこの現代、平気でトリカブトとかヒ素とかテングタケとかお皿に乗って出てきますからねぇ。
「私は一人前の食材だ! おいしいんだぞ!」って顔して。
そういうのでお腹下さないためには、見た目とか一口目とかで判断できるだけの知識が必要かもしれません。
文学とかって、そういうのを判断する助けになるのかな。
毒食って耐性つけろ論者が主流の世の中じゃ、厳しい部分はありますが。

人付き合いの毒と言う点では、この主人公は、まっすぐ育っていたのかもしれません。「本当の悪意」「誇りなき利己主義」「都合のいい誤解」を知らないような感じがします。
毒の側から言うと「甘やかされて育った」わけですね。言い換えれば「ズルしなくても生きていけるくらい、恵まれた環境で育った」ということでもあります。

「○○さんの事情はどうでも良いの。先生はね、この学校で静かに過ごしていたい。だから問題は困る。言っている意味、わかりますか」

これに関しては……私、この作品ではあえて、この教師がどのようなことを裏で考えているか、判別できないようにしました。
多忙で大きなストレスを抱えた教師は、どうしても「めんどくさい」と感じずにいられないのが現実で、「お前のことはどうでもいいんだ」とチラっと考えてしまうことは、誰にでもあることだと思います。
それと同時に「教師として、恥ずかしくない行いをしよう」という、誇りのようなものも、持っていない人は滅多にいないと思います。人間というのは複数の相反する感情や思考の間で揺れながら行動を決定する生き物ですから「こいつはこういうやつだ」と簡単に決められるものではないと考えます。まぁとんでもない人もいるんでしょうけど、私はその人のことは知りません。ぺっ!


どれだけ精神が複雑でも、表層に浮かび上がってくる行動はいつだって単純なものです。ゆえに、人は勘違いせずにいられません。
どれだけ試験の勉強をしても、百点満点のテストなら、ゼロから百までの点数のどれかが与えられるだけ。その試験期間中にどれだけの事件と運命があっても、ある一定の順位が与えられるだけ。

物事は単純化したほうが処理が楽で、処理に追われてる人間にとって現実を単純化してとらえるのはもはや習慣です。(タブロイド思考とか言われてるやつですね)
もしこの物語に出てくる二人の大人に対して確実にいえる部分があるとすると、その「なんでもかんでも単純化しようとする」という習性でしょうか。

そういう習性を持つ人は敵ではありませんが、自分自身の内側から育ちそうなそういう習性は、私にとって敵です。
複雑な方が美しい。ディテイルを気にしない絵は、構図がどれだけ優れていても駄作です。


めちゃくちゃ話が逸れました。自分でも何が言いたいのかよくわかってません。わっはっは!

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

ムツキ様

 再訪しました。あまり再訪を繰り返すのも迷惑だと思ったのですが、ぴたりと響く言葉があったのでおめおめと舞い戻ってきました。

>「自分」というものを強く保っていて、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと
>はっきり言う子は、モテます。すごく。
 わかりみがすごい。実際は棘があるぐらいが丁度いいというか、棘がある人が関心と興味となによりその自我を示してくれるからこそ、かっこよく映り、カリスマってほどじゃなくても一目置かれるところはあるのでしょうね。それに、たぶん、「自分」を強くもっている人は、わりあい他人との比較に頓着していない(他人よりも自分に関心が強いからなのかもしれんけど)ところも、魅力的に映るのかもしれない。孤高って感じ。


>馴染めない
 「馴染めないまま大人になる」というのはですね。この子が人間関係に失敗しないだけの要領を観につけたとしてもどこかで本質的なギャップを感じ続けるという、ちょっとばかりさみしい未来を想像したんです。


>共感性って多分、自分に近い存在と触れて、優しくしてもらうことによってしか育まれ
>ない
 本題です。ぴたりときた言葉はですね、「共感性」という言葉です。その言葉は思いつけないでいたので、そうそう、言いたかったのはそれです、とひざを打ちました。
 仰るようにリアルにおいては、どこかしら――たとえそれがほの暗い傷のなめあいに通じる類のものであっても――親近感を抱けないと共感できないし、似ているからこそ共鳴して、共鳴するからこそ想像の響かせ方がわかってくるところはあるかもしんない。
 で、ですね、小説のようなリアルじゃない虚構の場合はどうなのだろうって、派生させて思ったのです。「共感」するにしても、これまた響き方をするんじゃないかって思うのです。我田引水のようで申し訳ないのですが、三面に投稿した拙作の「宇宙の果ての、そのまた向こう」って作品を書いているときに、この「共感」というものについて、無意識下で考えていたような気がします。というのもあまり正しくなくて、実際は、共感しえないところにある共振・共鳴のことを考えていたように思います(自分でもようわからんけど)。意思疎通は決定的な断絶を孕んだものではないだろうか? のようなモチーフめいたことやら、共感とは位相のずれたところで共振するように言葉を響かせなきゃいけないのではという、意思疎通の根っこ、それから、小説を書く上での言葉の重ね方みたいなことやら、もっと小説的な響きにのせて書くならば、それこそがカミサマの周波数で、その波はきっと水面ではなく水底でそよいでいる、平たくいうと、わたしたちは無意識の底で揺さぶされていて、だから、わたしたちはどうしたってさびしいし、そんなふうにして傷をたくさんつくるから、小説というものに感動できるのかもしれない。なんてことをアリアドネは割と確かな感触をもって感じているのですけど、そんなことを思ったのです。すみません、思わず響く返信をいただいて、へんなスイッチが入ってまったく関係のないことをしゃべくり、なおかつ、脱線しまくりなのですが、なんてことを書いていると、ムツキ様がアリアドネの拙作をどのように感じられるのかがたいへん気になってきました。もしよろしければでいいので、一言いただけるとうれしいです。(催促しちゃってごめんね)


>この子が優しくなったら優しくなったで私はちょっと、複雑な気持ちなんですよねぇ。
 わかりみがすごい、その二です。アリアドネの印象はですね、たつのおとしごみたいな感じなんですよ。この子って。なんだかとげとげしくツンとした顔のまま自立して立っている印象。トゲトゲしているけどピュアピュアもしていて、見かけの性根の悪さ(見かけ上の性根の悪さってのも日本語的におかしいけれど)のわりには内面は真っ直ぐというか、そういう不思議なところがある。そんな子が水の流れを作る魚群に混じる姿を想像できないし、混じったとしても一匹だけ色の違う魚なんだろうからその子の固有性は失われないからOKOK。なんてことにはならないタイプの固有。そうですね、端的には失わないでほしいままの意固地さっていうのかな、そういうのを思います。


 あまりしつこいとよろしくないので、再訪はこれで最後にします。ありがとうございました! わっはっは! (←わっはっは、は小説内でたまに使います。とりあえず、その瞬間だけは世界が平和になる気がするのがよい)

ムツキ
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嬉しくて返信より先に、感想の方書きに行っちゃいました! 

これまた最近気づいたことなのですが、一人でぐるぐる考えていないと思いつかないようなこともあるのですが、それと同じくらい、テキストファイルを開いて誰かに伝えようと試行錯誤するのにも、新しい発見があるものですね!

なかなかこの時代長文で言葉を交わすことができないので、初めての機会だったのですが、何というか、すごく楽しい! 
なんか、文通に手を出してみようかなぁと思いました。色んな人の考え方に触れられる上に、自分自身の内側からの発見もある。
ただ手書きよりタイプの方が早い人間なので、そういう感じの、ないかなぁ。出会いは求めてないけど、知的遊戯として言葉を交わすだけ、みたいな。

返信していきます。

>共感しえないところにある共振・共鳴のこと

私の考えていることや感じたことは感想の方に書かせていただきましたが、それとはまた別の方向で言葉を重ねてみたいと思います。
向こうの方ではあくまで「作品に対する考察」をしていたので、こちらでは「作品という概念自体の考察」をしてみます。
なぜ、小説を読んで感動できるのか。なぜ、自分が体験してきたこととは違う体験をしている人を見て、心を震わすことができるのか。
不思議なことに、それは「想像」という言葉ではないような感じがします。というのも、私が作品を書いたり、何か妄想に近い空想をするときと、物語を読んでそれに涙するときとでは、感情も、脳の働きも、全然違う気がするからです。
共鳴、共振という言葉が非常にぴったりと当てはまります。理屈ではなく、自然と、何かが流れていくような感じがする。自分の押し込められていた何か……というより、誰かの押し込められた何かが、自分の中に入り込んで、薄まっていく? 
物語を読んだ時の感動は、罪を許してもらった時の感動というより、罪を許すことができた時の感動に近い気がします。
私は悲しい話を書くとき、苦しくて吐きそうになりながら書くことがありますし、途中で手を離して泣き出すこともあります。そこには、何というか、冷たい海に潜ったり、空気の薄い山を登ったりするような、そんな息苦しさと気持ちよさがついてきます。
しかし自分がかつてそうやって書いた話を読むと、その時の息苦しさや気持ちよさではなく、その物語自体の中に入り込んで、また別の角度から見ている自分がいるのに気づきます。そしてそこで得る感動は、潜水したり登山したりしているときの感動というよりも、誰かの背中をさすってあげたり、激励の言葉をかけたときの感動に近い気がするんです。
「私は頑張っている。素晴らしいことを成し遂げようとしている」という感動と「これは素晴らしいものだ。これが存在するならば、世界にはそれだけで価値がある!」という感動。
こちら側から見る景色と、向こう側から見る景色の違いといえるかもしれません。でも不思議なことに、自分の作品を読んだ時も同じ現象が起こるんですね。書き手の自分と読み手の自分の間に、確かな溝を感じるんです。そしてそこに溝があることを、なんだか素敵なことのように思うんです。過去の自分と今の自分の関係が、そっくりそのまま自分と他者の関係に変わるなら、私はきっとたくさんの人を愛することができる。
んにゃー! 乙女モード入ってましたね今。そういうキャラじゃないんだけどなぁ。
無意識の部分を掘り起こそうとすると、どうしても本性的な部分がにょきっと顔を出してしまうのかもしれませんね。あぁ恥ずかしい。


>タツノオトシゴ

 わかります。ハリネズミって感じもします。(でもハリネズミってかなり臆病みたいなんで、それは違うかな?)

>混じったとしても一匹だけ色の違う魚なんだろうからその子の固有性は失われないからOKOK

なんかそういう絵本ありましたよね。昔読み聞かせしてもらった覚えあります。黒い色の子が、大きな魚群の目になる、みたいな。
当時私はそういうのいいなぁと思ってましたし、今も嫌いではないです。でも、全ての個性がそういう風に集団の利益になるわけではないのが現実ですよね。なるべきでもありませんし。
歴史を勉強していると、そういう子たちの中で一番よくできた人間が、偉人として名と成果を残していくのかもしれないと思います。そうなれなかった子たちは、「いい目が出なかったなぁ」と思いながら静かに退場していくのかもしれません。それも、悪い事ではないのかも。


>とりあえず、その瞬間だけは世界が平和になる気がするのがよい

間違いありません。辛いことも恥ずかしいことも全部笑い飛ばせればオールオッケーです。きっと未来の人たちからすれば、この時代のどんな悲劇もちょっとしたジョークのネタくらいになってしまうのでしょうから。

ありがとうございました!

飼い猫ちゃりりん
123-1-5-146.area1b.commufa.jp

ムツキ様
 やっぱイジメはいかんと思います。単純脳でごめんなさい。何がいかんって、見てて楽しいもんじゃない。(当たり前)
 なんか目の前でウ●コされている様な気分。誰だってウ●コするんですよ。でもトイレでやって欲しい。見えなければ無いと同じですからね。無責任ですね。
 イジメから戦争まで、絶対に無くなりません。善悪全て含めて人間ですから。
 もう核戦争でもなんでもやってくれよ、めんどくせーから、って投げやりにな気持ちも無いでは無いが、やっぱ猫に迷惑が掛かってもいかんしね。
 やっぱ平和は大切だと思う。単純脳万歳!笑
 あ、ついでに偽善にも万歳!笑笑
感想になってますか?

ムツキ
121-80-209-210f1.shg1.eonet.ne.jp

飼い猫ちゃりりんさん、こんばんは。
感想ありがとうございます。

イジメ、見てて気持ち悪いですよねぇ。
正直私は想像力の強い性格なので、自分に見えてなくても、そこ『在るのだ』というだけで、何か嫌なものを感じてしまうんです。まったく、厄介このうえない。なぜ世界の裏側の悲劇にまで共感しなくちゃいけないのか。
お腹減ったり用を足したりするのと同じなんでしょうね。それが生活。

なんかでも、最近戦争が減ってきてるのって、戦争したい人がみんなゲームとかネットとかで想像の戦争を楽しんでるから、そういうので少し戦争欲が解消されてるのかなぁって思います。
元々オリンピックとかって、そういう由来がありますし。争うなら、命や生活が関わらないやり方で、っていう。
イジメとかも、一応歴史的な見方をすれば減ってきてるんじゃないかなぁって、そう思うんです。
個人的な意見としては、なんかまぁ、未来はきっと今より明るいだろうなぁと楽観的になっております。
しかし、スマートフォンは滅びるべきでしょう。私は彼の性格も顔も大嫌いなので。(謎ジョーク)

失礼しましたー

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