朝、部屋で
もう何回目かもわからないタイマーを止め、ようやく今日が雨であることを知った。この生活に慣れてからは1、2カ月前までの入学による高揚感はうそのように消えてしまった。
硬い床に手をつき、体を起こし、部屋の電気をつける。いつもと同じようにテレビを見ながら朝食をすませた。音は聞こえてくるものの、一人暮らしの部屋はやけに静かに思える。身だしなみを整えることさえ、なんのためにしているのかと、自問自答してしまうような空気を肌で感じていた。
部屋を出ると余計に空気は重くなった。小雨がやけに鬱陶しく感じ、雑多な音と、この空気からなんとかして逃れようとイヤホンをする。すれ違う隣人の顔などは全く覚えていない。そもそも足音などは全く聞こえないから、他人の存在などは気にならない。もし人の気配に気付いたら、頭を下げるくらいはするかもしれないけれど。
大学に向かう途中、静かな電車の中で突然聞こえてくる声にふと意識を奪われた。意味のないノリで騒いでいるだけの中学生たちに苛立ちを感じるより前に、なにか懐かしいものを感じていた。その声から意識を切り替えることはできなかった。
高校の時、どちらかと言えば自分もああやって騒いでいる側だった。しかし、県外の大学に行ってからは、あまり人と話している感覚はなくなってしまったように思える。なんとなくで1日を過ごし、サークルでも愛想笑い以外の記憶はない。どうやってこれまで友達を作ってきたのかさえ忘れてしまった気がする。高校の時と何かを変えたというわけでもない。何か自分の変なうわさが流れたというわけでもない。
気づけば意味のない自問自答を繰り返していた。
適当に授業を受け、1人でご飯を食べていると、急に肩をたたかれた。声こそあげなかったものの、飛び上がるほど驚いてしまった。
「よお」
話しかけてきたのは、同じ高校だったやつで、挨拶くらいはする仲だ。イヤホンを外しながら返事をしたが、そこからは沈黙が続いてしまった。
「どうしたんだよ、元気ないな」
「いやぁ......、まあね」
いつのまにか話し方すら忘れてしまったように言葉が出てこない。
「頑張れよー」
「ああ」
「またなー」
意味の無いような会話が終わり、ひとりになった瞬間肩の力が抜けた気がした。
どうしてなのかはわからない。けれど、ただ得体の知れないものが、心の中にたまっていた。一人暮らしの影響なのかも知れないが、絶対にそうでは無いと心の中では否定していた。
適当に参加したサークルも、どう振る舞えばいいのかもわからない。そんな中誘われた飲み会では、愛想笑い以外の記憶はほとんどないものになるはずだった。
そこで、僕は、初めて一目ぼれをした。 中、高と男子校だった僕は、いままでそんな経験をしたことはない。だけれど、すぐに僕はこれが恋であることに気づいた。
彼女は僕の斜め前に座っていて、その飲み会では終始笑っていたような気がする。
「今までは何か部活やってた?」
この話題で何人かと話しただけだったが、それだけで雰囲気や話し方など全てを好きになってしまったのを感じた。
その後何度か話しかけてみたが、いつも優しく対応してくれることにどんどん僕のテンションは上がっていった。
その後、帰り際に連絡先を交換してもらった。ただ連絡先を交換するというだけなのに、今まで生きてきた中で一番緊張したような気がした。
「じゃあね」
こう言ってすぐ、何か自分の中で今まで感じていたモヤモヤした感情が解けていくように感じた。恋愛からくる高揚感ではない。それを感じなかったわけではないが、今感じたのは、ここ最近の起伏のなかった日常を塗り替えてくれそうななにかを。
「うん、またねー」
しかし、彼女の返事のせいで何かつかめかけていたものはどこか消えてしまい、代わりに満足感が心の中をいっぱいにしていた。
次の日の朝、いつもと同じようにパッとしない朝を迎えた。昨日、連絡先を交換した彼女のことを思い出し、気分が良くなったような気はした。しかし、何か一つ色が足りないような日常に少し苛立ちを感じてきている気もした。
胸の中に何かを抱えながら学校に行き、またいつものように適当に1日を過ごし、サークルに向かう。
「こんにちは!」
「ああ、よう」
彼女から話しかけられ、うれしくなるはずだったが、何故かモヤモヤした気分が強くなった。その後もたわいもない話をしながら、モヤモヤについてずっと考えていた。
心はもう限界ギリギリのところまで来ていた。いつにも増して自分だけでなく、他人に対しても苛立ちを感じ始めていた。
その日の帰り道、別れ際に
「じゃあ、また明日!」
「うん」
と返した直後、自分の苛立ちがあふれ出てきていることに気づいた。すぐにそんな自分を抑えて
「じゃあね」
と言い直した。直後、ここ最近の心の不調について、なぜだったのかが分かった気がした。
彼女の後ろ姿を見ながら、自分の行動を見つめ直していた。
自分に足りなかったものは挨拶だったのだ。
今まで、毎朝挨拶をしていた家族と離れるようになってからは、挨拶自体から遠ざかっていた。一日を適当に始め、適当に終わらせる。そんなんじゃダメなことに自分が一番気づいていた。日常に対する色彩が人として必要だったのだろう。
次の日、いつもよりさっぱりとした朝を迎えた。心の持ち方一つでこの世界が色鮮やかになったように感じた。カーテンを開け、幾分かまぶしくなった部屋で誰に向けてでもなく、自然と言葉は口から出てきた。
そう、一日に彩りを与える言葉が。
執筆の狙い
初めて描いた小説であり、できるだけ読みやすい短編を目指しました。
挨拶の大切さや素晴らしさを表現しようと思い、これを書きました。